死を正しく知る

 

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 一九六九年八月三十日の今日は、仏歴二五一二年の雨安居の三十三日目です。今日も引き続き「死を正しく知る」という題でお話します。前回は、複雑で隠されたものがある死についてお話しました。

 どうか、死の恐怖はすべての問題の根源であり、特に他のすべての問題と関係があるという立場で観察してください。発展していると言われる現代社会の知識は、「ジークムント・フロイトは別の方向を見ている。欲情がすべての問題の原因と見ている」と話した心理学でも、死の話やそういう問題を取り上げて話題にし、考察しません。

 仏教教団員は独自の見方をするので、反対に死の問題がすべての問題の原因と見ます。欲情のない人、あるいは欲情に関わらない類の人の問題もあるからです。こういうのを、西洋人は知りません。「梵天」の意味など、西洋人にとって理解できるものではありません。梵天はまったく欲情に関わりませんが、それでも結局、死や、死の恐怖の支配から逃れることはできません。

 私たち仏教教団は、特に死の恐怖を見、そして死の恐怖を段階的に分類することを知っています。普通の人、あるいは愚かな凡人の死の恐怖が一つ、智者の死の恐怖が一つで、もう一つ死の恐怖を知らないのもあり、「阿羅漢の死」も、仮定で言う人がいます。

 もう一つ観察していただきたいのは、タイ語は、何かすごいことがあると無意識に死の恐怖の気持ちを口にし、「ターイチン! ターイチン!」と誰でも叫びます。〔註 :あらまあ、びっくりした、エライ事になった、大変だ、などという時、死(ターイ)という言葉を使う〕 他の言語で叫ぶ時、中国語でも意味は「死ぬ!死ぬ」です。中国人は「アイヤー」と叫び、白人は「神様助けて」でも何でも、意味は死の恐怖です。

 タイ人が「ターイチン、ターイチン」と叫ぶ時は「死なない」と知っています。何かを失った話、あるいは事故の話、あるいは恐ろしいことと見ますが、その人は死ぬ必要ありません。もっと小さなこと、つまらない話、更にふざけた話もあり、何でも悪い方に向かうと、「ターイチン」と叫びます。ターイチンと言って驚くのはどういう意味か、何から来たか、どれだけ自覚のある感覚なのか考えて見てください。これは、生きたい、死にたくない本能の反応です。

 「ターイチン」と言う、自然に生じる驚嘆詞は、言葉や文字は違っても、意味は死の恐怖です。あるいは「神様、助けて」「ブッダ様、助けて」とか何とか叫ぶ人も、意味は死の恐怖です。だから苦は、重要部分は死の恐怖からきています。ですからちょっと時間をかけて、心理学の面から理解する努力をしてください。そして心理学を越えた宗教の話である滅苦の面、特に今話している宗教の話も勉強したいと望みます。

 心理学や哲学は一つの形で、ただ知りたいことを知るだけで、哲学は深くなるだけで、知りたいことを知ればそれで終わり、必ず解決する実践は、道徳であり宗教です。一日に何度も「ターイチン! ターイチン!」と口から漏れるほど死の恐怖が内部に潜んでいるのは、一体何なのか分かるよう、努力していろんな問題を解決し、これを理解してください。

 資本家や労働者も死を恐れていて、世界には二つの立場があります。資本家たちは死を恐れ、攻撃されて世界から資本主義が無くなること、つまり資本主義の死を恐れます。彼らはそれを彼らの死と見なすので、資本家は、資本家が死なないで済むようないろんな防衛策を講じます。労働者も死を恐れます。必死で資本家と闘うのは死の恐怖の話なので、問題は同じということです。つまりどちらも死を恐れるので、自分が生き延びるために闘わなければなりません。

 資本家と労働者の闘いは必ず、尽きることなくあります。世界には、深い部分にこういう問題があります。深い部分に基礎としてあり、これ以外は、「正義のため」「他人の闘いを応援するため」と言うための添えものです。こういうのはむしろ上辺のこと、あるいは言い訳で、本当は自分が生き延びるため、自分が消滅するのが怖いからです。それが死の恐怖で、肉体面の死の恐怖に根源があります。

 「ターイチン!」「ターイチン!」と言うのは、肉体的な死の恐怖に原因があります。今はまだ肉体的に死ぬ必要はなくても、死と同じくらい価値があります。自分の拠り所である教義や主義が消滅させられれば死と同じで、これが肉体面の死の恐怖です。これが一つです。

 もう一つは教義や主義、考えや感覚面の死ですが、本当は、これも同じもの、つまり体の死の恐怖からきています。個人が死を怖がると何をするか。これは見えません。愚かな人、つまりタンマのない人の死の恐怖が道徳に反した行動をさせる原因だとお話したように、自分が危機を脱すために他人を破壊することまで考えます。強盗や泥棒のような不正な行動をするヤクザな人たちは、自分が生き延びるために考えます。死の恐怖が根源にある生き延びるための身勝手が抑圧になります。智慧のある善人の死の恐怖なら、その死の恐怖は道徳をもたせ、道徳を行なわせる原因です。

次に別の形の、つまり愚かな死の恐怖で、肉体の死でも、道徳面の死でもある要旨を掴むことができ、智者には肉体的な死はあっても、つまり普通に死んでも、道徳的には死にません。

 人が言うような阿羅漢の死は、本当は、阿羅漢は死にません。阿羅漢の死はありません。あるのは言葉だけで、煩悩の死以外に、誰の死もありません。普通の人の言葉で「阿羅漢も死ぬ」と言うのは、ありません。阿羅漢が死ぬことはなく、煩悩の死、「俺、俺のもの」の死があるだけです。これはみなさんが後で時間を掛けて考えるほどの話ではないので、熟慮して「全然違う」と見てください。幼稚な死が一つ、智者の死が一つ、阿羅漢の死がもう一つで、本当は阿羅漢の死はありません。あるのは煩悩の死だけです。

 幼稚な人の死は、もう一度繰り返させていただくと、体の死も道徳の死もあります。つまり幼稚でロクでもない人は身勝手で、道徳に反した行動をし、道徳を消滅させるので、善や美も一緒に死にます。智者には、幼稚な人のような体の死はありません。普通の智者という意味で、阿羅漢ではないので普通の死はあります。死を恐れるので普通の肉体の死はありますが、道徳の死はありません。身勝手や死の恐怖で道徳を消滅させる人ではないので、あるはずがありません。智者の死は、ロクデナシの死とここが違うと言います。

 阿羅漢の死、あるいは至高の人物の死は無いと言わなければなりません。阿羅漢は「俺、俺のもの」があるという感覚がないので、「俺、俺のもの」であるものがあると感じません。幼稚な人と智者には、「俺、俺のもの」という感覚があるので、死があり、阿羅漢は「俺、俺のもの」があるという感覚がなくなったので、死はありません。

だから体が崩壊するなら、それは外皮(体)が崩壊するだけです。外皮の崩壊があります。だから私は「阿羅漢が死ぬ」、あるいは「阿羅漢の死はある」と言いません。タンマ語の観点で言えば、道徳面から言えば、煩悩の死があり、阿羅漢が生まれた時からずっとあり、残っているのは何かと言えば、最期にこのタイプの外皮が崩壊する時まで、純粋な外皮だけが残っています。

 こう話すのは、珍奇なことを言って楽しく聞かせる、あるいは不思議に思わせる気の効いた言い回しではありません。すべての人を支配し、死の問題になるほどすべての人に関係がある死という言葉を理解し、死の秘密を理解するために、勉強しなければならない真実の意味です。

 私が話したいのは、「初めから死が終わっている」「生きているうちの死は、初めから済んでいる」という話です。つまり最初にできることは、「俺、俺のもの」を死なせることで、この種の死が生じれば、初めから死が済んでいます。これは「俺の死」が生じたことなので、死を恐れません。これは死を治す薬であり、死を治し、死があると感じさせない一種の神聖なものなので、死を恐れません。

 こうできれば、つまり「俺、俺のもの」という感覚が生じていなければ、最高に快適な時間であり、最高に幸福です。死ぬ自分がいると感じないことも、あるいは仏教式の正しい考えと正しいサティがあることで死の意味がなくなるにしても、あるいは阿羅漢になるくらい本当に死ぬことができ、本当に「初めから死が済んで」阿羅漢になったから死が無く、死を恐れないのでも、これらは最高に快適で、最高に静寂で幸福です。

 一般人について言えば、生活に困らず、運や福分があり、名誉名声があってもまだ、「凶悪な悪霊」つまり「死の恐怖」に支配されているので、何をしても幸福でなく、問題があり、幸福がありません。何か心配事があるので、幸福になれません。この世界の皇帝、天人や悪魔の世界の皇帝に就かせてくれる人がいても、この問題があるので、苦があります。

 俺がある人たち、政治家たち、何らかの闘いをする人たちにも、死に関わる憂鬱な問題があります。そして彼らは他のことに目をやり、この重要点を解消する努力をしません。つまり、まず解決して快適にし、気持ちをすっきりさせて、それからすれば何でも良くでき、何でも正しくなります。こういうのはいつでも苦がなく、失敗もなく、苦しみに耐え続けません。

 

 私たちの人生の他のことは重要ではありません。最高に重要なのは、絶対に苦がないこと、これが最初の項目です。「どうしたら俺の苦が無くなるだろう」「俺は苦しむために生まれて来たんじゃない」。野卑な言葉で彼らはこう言います。事故が起き、赤字やら何やらが生じる前に、どうすれば苦しまなくて良いように、苦しまないように考えられるのでしょうか。

 せっかく良くしても、それでも赤字になり、あるいは事故や災害に遭遇するのは、「私は苦のために生まれて来たんじゃない」と切り捨て、苦がないようにしなければなりません。こうするには、死の恐怖、存在しなくなる恐怖、述べたような深いレベルの感覚を理解しなければならず、そうすれば苦になりません。みなさんがまだ生きて、これから何かをしなければならないなら、正常で賢い心でしなければなりません。憂鬱であってはならず、一日も憂鬱にならず、本当に苦がなければ、愚かな方法ではありません。

 「ロクでもないタイプは使い物にならない」と、たびたび言う機会をいただきたいと思います。つまり激怒するロクデナシは死を恐れず、憂鬱でも苦でもありませんが、ロクデナシ式で、憂鬱になりたくないので酒を飲まなければならず、そのようなことをいろいろしなければなりません。彼らは、自分は憂鬱ではないと見なして、続けて何かをしますが、ロクでもないことです。私たちは酒を飲む必要はありません。そういうことをしなくても、憂鬱でなく、その後、これから何かを正しくしようと考える明るさが無ければなりません。

 私が長々とお話してきたのは、この「結果」のため、つまり私たちが「死」「死の恐怖」「居なくなる恐怖」「存在しない恐怖」というものを知らなければならないことです。心の奥深くに隠れているので、この世界の人は研究しません。彼らは別の方向、別の種類、別の分野を、膨れ上がるまで、どうしようもなく膨れ上がるまで研究しますが、本当に問題を解決できる話、特に仏教の教えではまだ何も知らず、まだ夢を見ないので、大事な話としてお話しています。

 

 死を恐れなければ憂鬱でなく、明るく澄み切って爽快になり、死を恐れなくなり、何をしても正しくでき、正しい決意ができ、何でも最高に正しくなります。つまり道徳的な間違いをする余地がなく、道徳を冒涜することがなく、道徳を消滅させません。ローグッタラタンマ(涅槃になる教え。脱世間法)になるので、このような考えや気持ちは、世俗より上にいる、すべての問題より上の系統で歩きます。

 「ローグッタラ」の文字どおりの意味は、世俗より上という意味で、世界より上にある感覚・考え・心があります。世界とは苦、つまり苦の問題です。しかしこれは惨めで、哀れで、本物の仏教教団でも、今非常に悲しいことをしていて、ローグッタラに興味をもたせないよう教えています。高すぎる話だと言って、ローグッタラに興味を持たせません。これは愚かな純粋な心でしています。みなさん「愚かな純粋」という言葉を憶えておいてください。賢い純粋ではないので、興味からローグッタラを切り取ってしまって、「純粋な心でする」と言います。

 ある人たちはずる賢さでし、汚れた世界で人を操りたがり、示し合わせてローグッタラの話に興味を持たせず、この話に興味を持つことを禁止します。一部には、低劣な心で意図的にする人もいます。これは精神面の愚かさで、純粋な心も、汚い心もそうなります。純粋な心も愚かになります。無知を意味し、無知な純粋な心であり、それで涅槃を恐れ、ローグッタラの話を恐れ、死ぬ前に死ぬ話を恐れます。これは純粋な心による、無意識にある愚かさです。

 もう一部の人たちは肉体の幸福に満足し、のべつ幕なし渇望しているので、誰もローグッタラの話に興味を持たないようにさせる努力をし、村中町中国中をローギヤ(世俗)の話に誘い、俗人でいたいと望みます。こういうのはブッダの教えにはありません。仏教には、人を俗世に浸らせる教えはありません。

 正しくは、ローギヤ(俗)から出発し、十分そこにいて、それからローグッタラ(聖。世俗を脱すこと)を目指して前進します。すべての人は、多少はローグッタラに向かって歩いているので、子供にも子供の身勝手がないように教えなければなりません。身勝手な子にしたくなければ、したくないだけ教えます。これもローグッタラへ向かって歩くと言います。

 どちらのタイプの愚かな人も死を恐れ、知っているのに意図的に肉体に溺れている人たちは、最高に死を恐れます。この欲情に溺れる人たちが最高に死を恐れます。死の恐怖は普通でも百パーセントあり、そこに欲情への強い未練が加わると、更にこの部分の死の恐怖が増えるので、意識してもしなくても、「言葉にできない」と言うほど死を恐れます。何重にも死を恐れるこの人たちの泥沼に落ちないために、理解しておかなければなりません。

 仏教にはこの問題、つまり死の恐怖を抑える方法があるので、死を恐れずに爽やかに暮らし、死に関わる憂鬱な問題はありません。本当の仏教教団員なら、こうでなければなりません。本当にそうなれなければ、今までと同じで、「既にいっぱいあるのに、なぜまだ増やすの?」と言います。苦、つまり死の恐怖はもう十分あります。 こういう学問は、現代の学問のように知識や技術を求めなくても研究できます。求めるのは常識だけです。

 滅苦の知識は、生き物共通の感覚の常識で、本能を資本にしてよじ登るという、一つの考えるべきことです。私は、こういうのが本当の技術、つまり技術と呼ぶべき自然のものだと思います。現代の哲学やら何やらの技術や研究方法は行き過ぎで、別種類の技術で、仏教の手法で人間の苦を滅す技術ではありません。

 私たち仏教教団の手法の技術は、誰でもできるという意味で、技術者だけでなく、誰でもできますが、手法は技術です。適度に教育と訓練を受け、防ぐことを知って駆除し、苦を妨害し続けます。これが技術か技術でないか、みなさん自分で考えてください。私は、現代の手法や技術はあまり知りません。誰でもできるようにしていただきたいだけです。人間に生まれて仏教に出合ったことを無駄にしないでください。 

 もう一つ例をあげて、仏教の最高の要点は、本当の仏教教団員の家庭で、そして死に関して、普通の人の文化の形になっているとお話したいと思います。だから「仏教教団員の死の文化」と呼びたいと思います。仏教教団員には「どう死ぬか」という文化があり、習慣があり、伝統があるので、時々お話したいと思います。これは驚くほど失われてしまったので、記念するためです。

 私が子供の頃、母が祖父、つまり母の父の死について話して聞かせてくれました。聞いた話では、文化がまだあったと言うことができます。つまり祖父は仏教教団員の文化で、仏教教団員の伝統で死ぬよう努めました。つまりスイッチを切るように、電灯のスイッチを切るように死にました。

 祖父は高齢でしたが、老いぼれていませんでした。死ぬ時が近づくと、「もうご飯は食べない」と言い、「もうご飯は止めたと」と言って三、四日か四、五日ご飯を食べないで、水を少しと果物などを食べました。これはご飯とは言いません。

薬だけは飲み、その後、薬もいらないと言い、まだ水は飲んでいました。死ぬ日には、祖父は座って子や孫たちに、その中に私の母もいましたが、死について話し、そして泣いている人を追い払い、一人だけ自制できるので泣かない人に、話せるだけのことを話しました。何分もです。それから「静かにさせてもらいます」。そして「死なせてもらいます」。捕まって寝かせられる人のように死にました。

 これが善いしつけを受けた善い仏教教団員の、昔の習慣で「スイッチを消す」ように死ぬ死に方です。いずれかの呼吸を最期の呼吸死にして死ぬことができます。こういうのは、十分な教育を受けた賢い人でなければできません。そして「死がどんどん近付いている。それはどんなか、あと幾日で死ぬのか、あと何時間で死ぬか、あとどれだけで死ぬか、どの呼吸で死ぬか、」を絶えず観察し、彼らはこのように準備できました。彼らは、その呼吸で(と決めて)死ぬことができました。これが技術か技術でないか、自分自身で考えて見てください。

 このような死に方は、アーナーパーナサティの説明の中に完璧な説明があるので、どの呼吸で死ぬか決めることができます。立って死んだ阿羅漢もいます。阿羅漢かそうでないか知りませんが、アッタカターのアーナーパーナサティで語られ、後の人の良い手本にするために説明しています。そういう言葉を使っています。つまりどの呼吸で死ぬか、そこで明らかにしています。一人の長老が経行する場所で経行をしていて、偶然歩いている途中で死を意識して、それで立って死にました。これが最高のアーナーパーナサティが身についている結果で、スイッチを切るように死ぬことができます。つまりその時の息で死にます。

 これは昔からの仏教教団員の良い伝統習慣です。高い境地があると言われる仏教を理解している仏教教団員は、誰でもこのように死ぬよう努力しました。もしかしたらインドの古い文化で、仏教教団でない人たちも、このように死ぬよう努めたのかもしれません。仏教のライバルである他の宗教でも、高いタンマの境地のある人たちです。

彼らがどのように死を管理していたか、どのように死の問題を排除していたかを見てください。今の人たちはこうではありません。こういうことについて何も知りません。いつまでも死なないでいるために間違った闘いをするので、電気のスイッチを消すように死ぬ機会がなく、薬や物理的な管理による朦朧とした死です。このように別の道になります。

 こういう方法が満足か満足でないかはみなさん次第です。しかし知っておいて、そして非業の死にならないように選んでください。みなさんが非業の死をしないために、縁起でもない言葉を使うことをお許しください。私の意味は、死ぬ意志がないのに死ぬことを非業の死と言います。水牛の角に突かれて死ぬことや、車に轢かれるなどして死ぬ必要はありませんが、死にたくない人の命が断たれる死を「非業の死」と言います。精神の言葉、タンマの言葉の非業の死です。

 私たちはタンマの方法で、タンマを知ることで非業の死を追い払うことができ、最高の知性でスイッチを切るように、物を片付けるように死を処理します。これは非業の死ではなく、私が理解している死です。だからみなさんが人間に生まれて、人間が得るべき最高のものを手にする機会があるように、理解するようお願いします。

 要するに死に関わるいろんなことは、このようになっています。ヒト語、普通の言葉では、最高に善く死ぬと言います。死なないと知っている人のタンマ語では、死にません。死ぬ「俺、俺のもの」がないことは、死なないことで、あるのは変化だけ、サンカーラ、土・水・風・火、何でも自然だけで、死はありません。非業の死になりません。「俺、俺のもの」があって死にたくなければ、転げ回って、全力で様々な闘いをして、最後の一瞬に死ぬのでサティがない死です。サティがない死に方をするので非業の死と言います。

 みなさん、理解する努力をして、そしてこの問題の最も善い解決をしてください。死を知らない人のように、世界に厄介な問題が生じるほど死に支配され、際限なく闘い、踏みつぶされないでください。これも、臆病なほど死を恐れ、自分が死ぬ教義を恐れる、何も知らない死の恐怖から来ています。こういうのは世界中に厄介な問題があります。先に個人の問題を解決すれば、世界のすべての問題は解決でき、この世界は、永遠に平穏で平静で本当の平和になります。

 仏教教団員全員が、世界をこのようにすることに関わってください。死に関する問題はこのように広いです。 一時間になりましたので、終わりにします。


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