死を正しく知る

 

19698月29

 今日は八月二十九日、一九六九年のカオパンサー(雨安居)の三十二日目で、出家したばかりの人も古い人も、時間について、三分の一以上が過ぎたことを考えなければなりません。時間に間に合うように何かをしなければなりません。あるいは時間に見合うように急いで何かをしなければなりません。今日は、もう一度「死を正しく知る」という題目でお話します。

 昨日話したことを復習して、死には「正反対」と言える二つの意味があると結論してください。私がヒト語、タンマ語と規定するような、私たちが使う言葉の曖昧さです。

  曖昧にしないためには、ヒト語での意味、タンマ語での意味を確実に知らなければなりません。そうすれば、ヒト語の問題はタンマ語の意味で解決できると分かります。ヒト語の知識は十分ではなく、それに苦になり、タンマ語の方の知識は深く、あるいは真実であり、ヒト語の無知の問題を解決できるくらい高くなるので、タンマ語の意味はヒト語の問題を解決する助けになると見なします。

 

 「刺さった刺を刺で抜く」というのに似ていますが、同じ刺ではなく、別の刺です。同じ木の同じ種類の刺でも、別の種類の刺で、つまり一つの刺は刺す働きがあり、もう一つの刺は抜く働きがあります。形と名前は同じですが、意味はまったく違い、一つは刺ではなく刺を抜くものです。ヒト語の死は刺と同じで、タンマ語の死は、「今から死を済ませてしないなさい」と私が言うように、刺を抜く道具です。この種のタンマ語の死は刺を抜きます。つまりヒト語の死を駆除します。

 私たちが本当に初めから死んでしまうことができれば、他のすべての死、ヒト語の死、つまり肉体的に死んで棺に入る死はありません。そういう動きがないのではなく、意味がなくなります。人を怖がらせる死の意味がありません。それは無意味で無価値な外皮が壊れるだけです。

 タンマが見える智慧があれば、死があると見ないで、原因と縁の変化でしかないと見ます。そのような生でも死でもありません。タンマ語で死と言えば、愚かさの死、「俺、俺のもの」という執着の死で、愚かさを死なせ、執着を死なせてしまえば、それから死ななければならないものは何もありませんが、仮定で「死」と呼びます。愚かな人は「阿羅漢が死ぬ」とか何とか話すので、これは滑稽な言葉です。「阿羅漢が死ぬ。ブッダが死ぬ」というのは、最高にバカらしい言葉です。

 誰かが死ぬということ、あるいは死とは何かを理解するために、もう一度見ます。それは、この話を知らない人、この話を十分に知らない人にとって重い問題だからです。人間のすべての問題はこれに集約されます。

 よく観察してください。ジークムント・フロイトは、人間のすべての問題は、情欲に集約されると言っています。それも正しいです。一面を見れば、一面では正しいですが、私たち仏教教団員は、すべての問題は苦に集約され、そして最高に重要な意味は、死あるいは死の恐怖にあると言います。

 すべての問題は、死の恐怖が根源の苦に集約できま、更に言えば、死の恐怖は欲情に根源があります。つまり欲情を失いたくありません。こういうのもあります。しかし最も身近な問題で一番妨害になるのは、死の恐怖です。命のある動物の本能を考えれば、先頭にある本能は「生きていたい」「死にたくない」です。

 

 自分で勉強して、自分で観察し、自然の話に興味があれば、こういうことを理解できます。愚かに迷い、どんな自然にも興味がなければ、身近なことに興味がなければ、これらのものを、命や心や気持ちのあるものはすべて死を恐れると、動物も死を恐れ、人も死を恐れると、見るべき形で見ることができません。それはハッキリ現れず、他の恐怖の形で現れる微妙な問題なので、いろんな事が複雑に交錯していて、そして何らかの症状が現れて問題になります。

 ヴィパッサナーをする、滅苦をしたい、涅槃に行きたい、何かの念処をするのは、よく見れば先頭に死の恐怖があります。しかし自分を騙して、隠して、「何が欲しい。何を脱したい。こうなりたい」と言うので複雑です。しかし本当は存在しなくなるのが怖いのです。これは意図しなくても自然に感じる無意識の種類の感覚なので、「ああこれだ。無意識に感じたので、他のものに見えてしまった」と見ることができません。

 食べ物や治療薬を求めること、あるいは暮らしや衣服や何かを使うために掻き集めることも、望まないある状態、つまり死を防ぐためです。死を恐れ、存在しなくなるのを恐れ、病気にならなくても死の動きを恐れます。そしてもっと深い、存在しなくなることを恐れ、つまり死の恐怖で、死の兆しが現れると、反射的に驚愕します。

たとえば目が死の兆しである形を見るとびっくりし、耳が死の兆しを聞くとびっくりし、あるいは他の兆しを聞いても反射的にびっくりし、何か大騒ぎすることがあると驚愕します。意図しないのに反射的に驚愕します。基底に資本として死の恐怖が用意されているからで、これが大きな本能です。それが欲情やら何やらの助けを借りて、本当の発端は何と言ったら良いか分らないほど関わり合います。

 動物の本能で生きていたいのは、本当には直接欲情のためではありません。心が欲情より上にある生き物、梵天なども非常に死を恐れます。サッカーヤディティ(有身見)、つまり「俺、俺のもの」を捨てることについて話すと、梵天たちは非常に死を怖がると、人間よりも、動物よりも非常に死を怖がるとパーリ経典ではっきり述べられています。梵天であることは極めて幸福で、快適に生きているので、欲情に関わらなくても、幸福で満足する暮らしをすればするほど、死の恐怖があります。

 「梵天たち」の意味が、どの梵天界か分からなくてもいいです。どれも意味は同じで、心が欲情より上にある、という点に意味があります。ある種の「俺、俺のもの」があり、世俗の意味では、清潔で冷静な幸福があると言います。しかし私は、簡単に見える梵天の意味を、「心が欲情から脱して快適なこと」とします。

みなさん、欲情にまったく妨害されていない時を思い浮かべなければなりません。つまり何か、サマーディの禅定、サマーディから生じる幸福、定から生じる幸福に陶酔しています。これを梵天と言います。私たちも時には梵天になり、時には欲界の生き物に、つまり愛欲の威力下に落ち、時には愛欲の妨害の上にいるので爽快で、そして非常に死を恐れます。快適なら快適なほど死を恐れます。

 生き物のいろんな問題は、「死にたくない」という点に、そして「死が怖い」という点にあると結論したいと思います。死にたくないから死を恐れるので、死の恐怖は三つの欲望、あるいは三種類の欲望に関わりがあります。「愛欲」,欲しがれば、情欲が死を恐れさせるので死を恐れます。愛欲に狂っている人は、愛欲が無くなるのを恐れるので死を恐れます。

あれになりたい、これになりたい人も、あれになりたい、これになりたいので死を恐れさせ、これを「有渇愛」△噺世い泙后ああなりたくない、こうなりたくない「無渇愛」も、死を恐れさせま、死なないようにしたがります。時には一時的に「死んだ方がいい」という錯綜した考えが生まれることもあり、死にたいのもあります。これも同じ無渇愛です。「死にたい。いなくなりたい」と考えるほど錯綜します。これも無有渇愛です。

 欲は三種類とも、愚かさで欲しがるので、死を恐怖させます。欲望は必ず無明から生まれ、無明から生まれる望みを「欲望」と言います。正しい知性から生まれる望みは、欲望とは言いません。

 よく理解してください。他の人たちは別の教え方をしますが、私はこう言います。よく観察するように言います。アビダンマ(論蔵)を教える先生たちは、望みや願望は、全部欲望だと教え、例外は何もありません。本当か本当でないか、正しいか間違いか、反論する必要はありません。しかしどちらに利益があるか、実践できるかで、考えや知識、あるいは教えでも、どちらかに利益があれば、利益がある方にしましょう。正しいか間違いか、本当か本当でないかは、際限のない論争になります。

 

 考えの威力で感じる死の恐怖もあり、考えないのも、あるいは感じないので考えられないのもあり、感覚の深い部分にあるので、感じても感じなくても死を恐れます。感じない人は自分を騙して、お寺に行くのは徳を積むため、布施をするため、あれのため、これのため、極楽の宮殿のためと、あれこれ理解します。

本当は深い部分の死の恐怖です。自分がいなくなるのを恐れ、「俺、俺のもの」は、俺がいなくなることを恐れるので、居続けられるようにするために、一所懸命あれをし、これをします。「俺」が、死なないために何でも大々的に、物質的、学問的、医学的に探究させる根源です。限界をこえるほど、するべきでないことをするほど死にたくないので、別の苦が生じます。

 すべての種類の恐怖は、いなくなるのを恐れること、つまり死の恐怖に根源がある、と言いたいと思います。人間が恐れているものには何があるか、試しに自分で考えて見てください。しゃれた言い方をする人は、「病気は怖いけど死は怖くない」と言います。死が怖いと言うのを恥と思います。本当に病気を怖がり、誰でも病気になりたくありません。しかしその下に死の恐怖が隠れています。人は恥を隠すために病気の恐怖を前面に出しますが、深層では死を恐れています。

苦痛はむしろ病気の方に多くあるので、苦痛を逃れたくて「病気が怖い」と言いますが、いなくなる恐怖に根源があります。病気は死の前兆で、病気を恐れるのは死の恐怖、居なくなる恐怖から表出した結果です。次に痛みがあるようにするものですが、これも非常に恐れます。たとえば痛みがあるようにする武器を恐れるのも、お化けや幽霊など、本当にはない考えだけのものを怖がるのも、何を怖がるのもすべて死の恐怖が根源です。

 幽霊が怖いのは、自分も死ななければならない恐怖からで、虎、あるいはそのようなもの、何か知らないけれど恐ろしいものを怖がるのは、死の恐怖で、だからそれを怖がります。それが死なすものでないこともありますが、恐ろしく見えれば怖がります。心の中を見ると、貧困を恐れ、食べるものがない困窮を恐れますが、深い部分は死の恐怖です。貧困が困窮をもたらし、死に至らせるからで、いつでも幕の裏に死が隠れています。

 名誉や名声に傷がつく恐怖は、「名を汚すくらいなら死も辞さず、名誉のために命を犠牲にすることも甘んじて受け入れ、名誉は傷つけない」という言葉があり、本当は深く隠れている死の恐怖です。生きているからこそ名誉があり、自分が存在しなければ、名誉はどこにもないので、幾重にも隠れている死の恐怖です。国が無くなるのを恐れて、国を護るために闘わなければならないのも死の恐怖で、自分の死の恐怖を、国のためと言います。

 普通の人はこうなります。根源に自分の死の恐怖がなければ、本当にタンマに到達しているので、何もかも本当にタンマのためにするので、死を恐れません。あるいは自分のためではなく、タンマのためです。しかし普通の人にはいません。本能の経過ではいません。非常にたくさん勉強して訓練すれば、俺の代わりにタンマがあり、何をするにもタンマのため、敵と闘って敵を殺すにも、タンマがあることのためです。

 死の恐怖は何重にも隠れていると、よく考えて見てください。愛しているものを失う恐怖は、愛しているものに現れ、愛しているものを失うことを恐れます。しかしその愛しているものは、そう見えませんが、本当は「自分、自分のもの」のためです。子供や孫や妻や夫は、自分が存在するため、自分の幸福、快適のため、自分の幸福な気持ちのためですが、「自分が愛しているもののため」と言います。

 死の恐怖の問題、死の恐怖から生じる問題は、問題のすべてであり、複雑な問題であり、そして不死を探求させる良い原因、涅槃を探求させる原因です。しかし普通一般の人が涅槃を発見するのは非常に稀で、ただ死を恐れるばかりで、死の恐怖から脱す方法を探しません。死の問題を解決したくても、解決できない問題解決をします。つまり別の愚かさで隠ぺいして別のものにします。ヒト語の死、肉体的な死しか知らないので、いつでも肉体面の解決、あるいは物質的、物理的な解決を追い求めるからです。

タンマの知識で解決して死の感覚を無くすことなど、この世界は考えたこともありません。だから終わりのない解決であり、方向転換してタンマを求め、精神的な解決をし、「それは死ではない」あるいは「恐ろしいものではない」と正しく知るまで、終わりを知りません。正しく知れば、人間を苦しめている死に関わる問題は無くなります。

 

 無明を殺してしまえるほど明が生じれば、タンマ語の死があると言います。この種の死が生じれば、ヒト語の死は意味を失い、その後死はありません。しかし良く注意してください。ろくでもない心のろくでもない死を恐れないことと混同しないでください。ロクデナシは死を恐れません。つまり著しいアッサミマーナ(自尊心)があり、「俺、俺のもの」があり、彼らの死の恐怖は、別の形で非常に煮えたぎっているので、死を恐れませんが、本当は、狂気と著しい自尊心で戦うために死を恐れます。

このように血に狂った人は死を恐れませんが、それは、複雑に積み上げられた極度の死の恐怖で、そしてそれが煮えたぎって、頭に血が上って死を恐れずに戦います。ヤクザな盗賊は死を恐れず、極めて自尊心のある動物も、死を恐れず戦います。このような死を恐れないことは、ロクデナシ式で、欲望・取がない阿羅漢式ではありません。

 阿羅漢が死を恐れないのは、欲望・取が滅亡したからで、一方のロクデナシが死を恐れないのは、欲望・取が煮えたぎっているからです。別ものなので混同しないでください。死の恐怖は問題のすべてであり、すべての問題の根源です。問題は、死を知らない愚かさが原因なので、死を恐れます。出家したみなさんたちにも、背後に幾重にも隠れている死の恐怖があると言えるほどです。

 出家の話をすると、いろんなことが、何十何百もあるので眩暈がします。七日か十五日出家して、願掛けのお礼のために出家するのは、死の恐怖です。ほとんどは自分の死の恐怖で、他人のために出家して恩返しをするのも、死の恐怖に関係あります。火葬の前に出家するのは、複雑な死の恐怖で、恩返しの話にするのも死の恐怖が原因で、死ななくてもよいようにするものが得られないことを恐れます。他の幸運や供え物のために出家する話も、死の恐怖に根源があります。一般の人が涅槃のために出家するのは、まだ涅槃を知らないので、死の恐怖です。人が「涅槃になれば死なない」と言うから出家するのは、死の恐怖で出家します。

 大きな問題はここにあると、よく考えて見なければなりません。私たちはこの問題を解決しなければなりません。そうすれば幸福に、本当の平安に出合います。まず死の恐怖を、二つの角度、二つの面から見ると、世俗的な死の恐怖、世界の人が話す、世間の言葉、ヒト語の死の恐怖は、道徳の衰退をもたらすタイプの死の恐怖で、知性の正しい死の恐怖、タンマ語の死の恐怖は、道徳をもたせ、道徳の頂点、つまりローグッタラ(俗を脱すこと。脱世間)まで導きます。

 愚かな凡人の言葉の死を怖がる人は、何も正しくできないほど死を恐れます。これは身勝手を資本にし、身勝手で何でもし、身勝手が増長して、その結果道徳が衰退します。貧困を恐れると泥棒をし、あるいはあれこれ恐れて、短絡的な手段を探します。現代の言葉で「促成で学ぶ」と言います。促成で学ばせるのは不正で、現代人の速成法は何らかの不正、いずれかの面の不正に依存して問題解決をします。「とりあえず自分。他人は関係ない」と言うほど、非常にロクデナシで、死の恐怖が道徳を衰退させます。

 

 「正義のための戦争」は嘘で、口だけです。今世界で戦争をして、タンマのため、正義のためと言うのは、嘘と見ることができます。本当は自分が生き延びるために戦争をします。どの面の敵であろうと、自分が生き延びるために戦争をします。自分が助かりたいのは、死の恐怖なので、限度を越えた闘いになります。

 これを観察して見てください。戦争は限界を越えるほどしています。適度で適正の範囲を越え、正義である防衛の範囲を越えています。大戦、あるいは幾つもの大戦も、自分の死の恐怖です。「自分」という言葉は、所属団体を意味することもあり、自分の国の死の恐怖、自分たちの死の恐怖です。その政治主義が来れば、自分は死ななければならず、あるいは出て行かなければならないので、生き延びるために闘わなければなりません。今世界に戦争が拡大しているのも、死の恐怖が原因なので、道徳を考慮することなく戦うことができます。血に狂っているので、戦場に道徳はありません。

 これを「死の恐怖が道徳をなくす」、あるいは「道徳の衰退」と言います。凡人の言葉の死の恐怖を、一般人は動物のように本能のままに放置しています。このような世俗の言葉の死の恐怖は、道徳の衰退、道徳の消滅を招き、最後には破滅します。「俺は死にたくない」とだけ見れば、それは道徳のないこと何でもできます。

 反対は「タンマ語の死の恐怖」と言います。正しい知性による死の恐怖は愚かでなく、この種の死の恐怖は死ななくても良い方法を探求させます。あるいは善く死ぬこともでき、死なないで済むために、あれこれ道徳の実践が生まれ、死なないように命を維持するために、徳を積み布施をすると言う人もいます。寿命を延ばすために布施をし、病気にならないため、死なないために布施をし、最後は涅槃のため、つまり死なないためです。これもタンマの正しい知性のある、死の恐怖が原因にあります。

 死がこのように二種類あるなら、正しくするために、良く管理することを知らなければなりません。そうすれば惨めではなく、哀れではありません。みなさんの生活は、毎日毎日、ここにいる全員が、このことに関して惨めで哀れな間違いをしょっちゅうしています。死を恐れるあまり何も正しくできず、あるいはいろんなものを恐れます。根源に死の恐怖があるので、何をしても見苦しくします。

「生きていたい」、愚かな「生きていたい」は、よく注意してください。比丘や沙弥、清信士、清信女にとって、それは最高に恥です。他人のことは考えず、自分だけ生き延びたいので、他人に危害を加える人もいます。あるいは他人を軽蔑し、他人を脅しさえします。これも自分が良くなるためです。それはタンマに背く原因であり、愚かな死の恐怖で、すべての規律に反します。「愚かな死の恐怖」と、制限する言葉を入れてハッキリさせなければなりません。

 賢い死の恐怖は、知性の形になるので、沙弥たちに死の危険を思慮するよう、そして急いで死の前に何かするよう、たとえばモラナサティ(死隋念)をするよう教えます。恐ろしい問題として死を見るよう教え、解決を試みさせます。みなさんは油断をしないために、急いでしなければならない義務を行なうために、モラナサティをします。モラナサティをして死が怖くなり、そしていろんなものを掻き集めて死の恐怖を解決する訳ではありません。出家者になってもまだこのように二つの面、二つの角度の死の恐怖に妨害され、うっかりすれば、愚かになれば、ご飯を貪り食べることも道徳を衰退させる死の恐怖です。食事に貪欲なことを何と考えますか。私は、死の恐怖から表出する反作用と考えます。

 愚かな人は、ご飯は死なないようにすると言って、死の恐怖でご飯を食べます。飢えや貧困は死の兆しで、それを排除するためにご飯を食べ、貪欲なほど食べます。ご飯にそういう利益があればたくさん食べたくなり、貪欲なほど食べます。だから貪欲に食べるのも死の恐怖から来ています。何でもすべて、するべきでないことをするのは、この種の恐怖が根源にあります。この死の恐怖が、秩序のある経過になるよう管理しなければなりません。この問題を、本当に解決できる方法で解決します。刺で刺を抜き、この種の死の恐怖が生じたら、別の種類の死の恐怖で破壊します。愚かな死の恐怖が生じたら、知性の死の恐怖で洗い落して解決します。

 モラナサティは死の恐怖ですが、知性のある人の死の恐怖なので、正しく完璧な状態で死を見て、この問題を生じさせないために何かをします。毎日する必要があるモラナサティは、死について思慮して油断を生じさせず、そしてするべきことをします。これはどんどん善い道徳になり、最高になり、つまり死ぬ必要がなくなり、死の問題が無くなります。

 まとめると、今別の角度から見ると、いろんな問題は死にあり、死に原因があるので、それが死を恐れさせるということが分かります。間違った方法で死を恐れれば道徳の衰退をもたらし、正しい方法で死を恐れれば道徳をもたせます。世界を地獄にして住み難くしている、庶民の言葉の死について言えば、恐怖の仕方が正しくないからで、正しい方法で死を恐れれば、世界はこのようではありません。今のようではありません。

 私たち一人一人も同じで、正しい知性で、正しい方法で死を恐怖するよう注意してください。まだ煩悩があるうちは、死を恐れるのは仕方ありません。これはどうしようもありません。まだ煩悩があれば、必ず死を恐れるので、正しい手法で恐れるようお願いするだけです。手法を間違うほど、自然の法則に背くほど、怖がってはいけません。

 生活の一秒一刹那も、理性を失わないように注意をしてください。思慮に欠けた subconscious  死の恐怖で何かをしないでください。そうすれば後悔しません。後悔するほど失敗しません。死の恐怖は熾烈なので、無意識に強制、あるいは後押しをし、善くしようと決意しても、更に間違って、つまり使い物にならなくなることもあります。

更に良く理解するために、もう一度死を見て、つまらないことと考えないでください。大雑把に見ると誤解をし、油断のある人になります。時間になりましたので、これで終わらせていただきます。


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