輪廻転生とは何か

 

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 タンマにご関心のある、善人のみなさん。ヴィサーカ季の土曜法話の第十一回である今日は、「何が何か」について、いつものように仏教教団員の視点でお話します。しかし、特に今日の題目は「輪廻転生とは何か」です。

 みなさん誰でも、たぶん輪廻転生(生死の繰り返し)という言葉を聞いたことがあると思います。しかしまだ、それが何なのか、正確で正しい知識がないので、風俗習慣で言い伝えているように聞いています。まだ輪廻転生に関わる様々な問題を排除することができないので、今日はこのことについてお話します。

 「生死の繰り返し」と言えばタイ語で、パーリ語では「サンサーラヴァッダ=輪廻」と言います。この言葉は、繰り返す輪という意味で、「繰り返す輪」とは、生死の繰り返しです。私たちはよく、輪廻の中を泳ぎ回ると言い、泳ぎ回るのは輪廻の中です。つまり泳ぎ回る輪の中を回ります。そしてその泳ぎ回ることが輪の状態になっているので、輪廻と言います。「輪廻」は短くて便利です。

 まだ理解していない人がいるので、「輪廻と言うものは涅槃と言うものと反対」と知っていただきたいと思います。涅槃でなければ輪廻を繰り返さなければならず、輪廻を繰り返さなければ涅槃です。だから涅槃は、輪廻を繰り返すことの反対と言います。みなさん、仏教教団員として、輪廻と言うものについて何を知るか、あるいは何をするか、そして輪廻と呼ばれるものに関するどんな義務があるか、どうぞ関心をもってください。

 輪廻とは苦の呼び名で、涅槃は滅苦の呼び名です。輪廻を繰り返すとは、苦の海の中を泳ぎ回ることで、それを凡人の当たり前の状態と見なします。輪廻、あるいは輪廻転生と呼ばれるものは、ヒト語のものもあり、タンマ語のものもあります。二つの言語、つまりヒト語とタンマ語は必ず一緒でなければならず、別々にする余地はないと憶えておいてください。それぞれを、ヒト語とタンマ語の両方で知らなければなりません。そうすればそれを知り尽くすことができます。輪廻と呼ばれるものにも、ヒト語とタンマ語があります。

 

 どのように勉強すればより多くの、あるいはより必要な利益が得られるでしょうか。ヒト語で言うと、輪廻を「死んでは生まれ、死んでは生まれ、涅槃に到達するまで際限なく死んでは生まれる人がいる」と説明します。これを「言い伝えられているヒト語の知識で話す」と言います。タンマ語で言えば、執着である考え、つまり「自分、自分のもの」という考えが、人の心の中に繰り返し生まれることを意味します。何回も生まれ、生まれては消え、生まれては消え、いつまでもこのようになっていることを、「自分、自分のもの」が、人の心の中で、生滅の流れの中で泳ぎ回っている、と言います。これをタンマ語の輪廻と言います。

 次にみなさん、どちらの意味の輪廻が急いで勉強する必要があるか、あるいはどの意味の輪廻が、私たちの滅苦の実践にとってすぐに利益があるか、熟慮して見てください。私はいずれにしても、どちらの意味の輪廻にも利益があると主張します。しかし別にしなければなりません。

 生死を繰り返す人がいるヒト語の輪廻の意味も、タンマを深く知らない人にとっては必要で、一般庶民にとって道徳面の利益があります。その人には罪を恐れる気持ちが生まれ、そして徳を積むことに勇敢になり、良い輪廻をするために更に徳を積もうと決意します。

 「良い輪廻ができるように」というのは、奇妙に聞こえます。つまりその人が望む幸福があることです。彼らは幸福の海へ輪廻して行きたいと望みます。それはあり得るでしょうか。滑稽でしょうか。苦の中を泳ぎまわるのは簡単に見えますが、幸福の中を泳ぎ回るのは、あるでしょうか。これからもう一度熟慮して見ます。

 みなさんは、一般に知られている、生死の繰り返しを止める方法がない普通の人のためのものであるヒト語の輪廻の教えがなければならないと同時に、タンマ語の生死の繰り返しの話、つまり執着である考えが生まれることも知らなければなりません。この知識は、どんどん真実になるタンマの知識があり、そして輪廻を止めることができる人のためのものです。つまり生きているうちに輪廻を止める方法があります。

 

 比較して見るために、これからもう少しヒト語の輪廻についてお話します。ヒト語で話す輪廻には、「自分」「俺がいる」と感じる人がいなければなりません。ヒト語で話す時は必ず人がいなければならないので、それが輪廻をする人です。しかしタンマ語で話せば人はいません。あるのはタンマだけなので、名(抽象)のもの、つまり考えになります。

 ヒト語風に言えば、一人の人がいて、自分と呼ぶ一人一人が輪廻の中を泳ぎ回り、そして涅槃に到達したら止まると信じられています。しかしこのような輪廻は、ブッダ以前から教えられていた、あるいはブッダの時代、あるいはブッダの時代以降の、私たちがヒンドゥー側と呼ぶ教義と理解してください。ヒンドゥーは自分が生死を繰り返す教えがあるので繰り返し、繰り返すと賢くなり、更に賢くなり、最高に賢くなれば、パラマートマン、あるいはフラフマアッターと呼ぶ大きな自分と一体になるので、輪廻を止めることができます。

ヒンドゥーの輪廻は、自我が輪廻し、輪廻が善と賢さと知性を増やし、マハーアッター(偉大な自我)、マハートマー、つまり偉大な徳のある自分になります。そしてこのマハーアッター、あるいはマハートマーは、まもなくパラマートマン、あるいはパラマートマー、つまりブラフマアッターと一体になり、そして終わります。永遠に存在するのでそれ以後は変化せず、生死を繰り返しません。彼らにはこういう教義があります。そしてありました。

仏教が生まれると、原因と縁で生死を繰り返す話を受け入れました。普通の人に聞かせるヒト語で言えば、「知識が生じるまでは輪廻を繰り返す」と言い、涅槃を明らかにするには、生まれ変わる人である「自分」を消滅させてしまいます。

それがどんなに違った方向になるか、考えて見てください。「輪廻するものはない」「自分はない」と知るまで勉強することで、輪廻を止めることができます。「生まれ変わる自我はどこにも何もない。それは、自分と感じ、考え、そして輪廻する、名形である自然にすぎず、輪廻はない」と知れば、輪廻する自分がないので、輪廻は自然に止まります。輪廻する自分を消滅させてしまえば、輪廻も終わるということです。苦を終わらせる輪廻の最後は、ヒンドゥー教のような永遠のものではありません。

このように違います。つまりヒンドゥー教は、大きな自分と一体になるまでずっと自分があり、そして永遠に存在し、私たちの側は、誤解によって自分があり、「そうだ、自分はない。あるのは自然だけで、原因と縁で経過していく」と気づくまで、とりあえず「自分」と呼んで、愚かさや無明で輪廻すると説き、自分を止めれば、輪廻する自分がないので輪廻は止まります。涅槃の状態は自分の消滅なので、永遠に残るものは必要ありません。

 「涅槃は永遠であり、不死であり、涅槃を作る原因と縁はない」と言うのは、それを作る原因と縁はない状況という意味で、到達できた時に永遠の状態、つまり無為に到達したと言います。それは、作り出す原因と縁を必要とせず、何にも依存しないで永遠に存在できます。自分や自我が永遠なのではありません。しかしこう話すのを、あまり好む人はいません。

 この自分が無為、あるいは永遠である涅槃に到達すると話してやることもできますが、それは、むしろ信じさせるために宣伝する言い方です。涅槃は最高の幸福と言うのと同じで、宣伝して信じさせ、涅槃に興味を持たせるためで、本当は、涅槃は幸福よりはるか上にあります。幸福に関わらないほど幸福より上です。それが涅槃です。しかしこう話したのでは何も楽しくなく、誰も好みません。「涅槃は最高の幸福」と言うのとは比較になりません。

 これも同じで、生死の繰り返しと言えば、涅槃つまり自分が消滅します。その後輪廻する自分が崩壊して終わるので、残っているのは輪廻しない状態、つまり涅槃だけです。仏教の涅槃と、ヒンドゥー教など他の宗教の涅槃の、違いが見えるように区別することを知ってください。

 涅槃という言葉は古く、一つの宗教だけのものでなく、どの宗教でも涅槃という言葉を使っています。それには苦がなく、苦が穏やかに静まり、誰もが好むという意味があります。しかし、涅槃に到達させる教えには、いろんな方法があり、人は、自分の知性のレベルにふさわしいいろんな教義を受け入れて信じます。教え方が真実すぎても愚かな人には受け入れられないので、首を横に振って拒否します。だから愚かな人が受け入れることができ、そして満足して喜ぶレベルで教えなければなりません。

 たとえば、涅槃とは欲情が最高に豊かであることと教える教義は、こういうのは、愚かな人たちがみな飛びつくと思います。しかしそこまで愚かでない人は信じないので、四禅を涅槃と教える人がいます。こういうのもブッダが生まれて、「自分が終わること、煩悩欲望執着が終わることが涅槃」と教えるまでは、信じて受け入れる人がいました。これも信じる人がいました。それもありましたが、知性のある人の中だけです。知性のある仏教教団員は、「涅槃は煩悩の終わり」という、この教義をずっと受け入れてきました。

ヒト語で言えば、生死の繰り返しが止まることが涅槃で、タンマ語で言えば、煩悩が止まること、煩悩の味付けが終わることを涅槃と言います。

普通の人、ここで聞いているみなさんたちもきっと生死の繰り返しという言葉を聞いて、生死の繰り返しは苦と見えるよう理解するよう教えられ、涅槃だけを望むよう教えられ、生死の繰り返しを恐れ、生死の繰り返しの苦に驚愕するよう教えられていると思います。

しかしそれは、本当ではなく、心の中ではどう感じているか、恐れているのは口だけで、本当には恐れていないように見えます。口では「輪廻は怖い」と言っても、心の中では本当は恐れていません。理解していないので、本当にそれを知らないので、輪廻を止めたくありません。つまり次々に生まれ続けたいと思います。

普通のレベルを基準にした人の気持ちでは、まだ生まれたいと思っています。まだ繰り返すことに満足せず、まだ新たに試したい、新しい幕を開け続けたいと思っているので、生まれるのを止めたくないうちは、生まれることは怖くありません。怖いと言うのは口だけです。だから輪廻は止まらず、これからも繰り返します。一般の人はこうです。

生きたいのは、愛するもの、執着している満足するものがあるからです。死にたくなく、死んだらもう一度これらのものに出合いたいと望みます。つまりすべての五欲がこの世界にあり、その人はまだ愛して満足していて、死ななければならなくても、それらに巡り合うためにもう一度戻って来ることを望みます。こんな状態で生死の繰り返しを止めることなど、どうしてできるでしょうか。

私たちは輪廻転生の話で自分を騙していると、良く考えて見てください。本当には知らず、本当には恐れていないのに、夢中で自分を騙して、何度も生死を繰り返す原因と縁を作ることに、熱中するばかりです。これを輪廻転生に関わる問題と言います。

ヒト語で言えば、人がいて、執着の基盤になるものへの執着の威力で輪廻し、消滅したくなく、止まりたくなく、輪廻を終わらせたくありません。

タンマ語の輪廻について言えば、タンマ語の輪廻転生は、心の中で死んでは生まれ、死んでは生まれる「生」です。肉体には関係なく、棺に入って生まれ変わることに関わる必要はなく、関わるのは、心の中で「俺、俺のもの」と執着で考える考えの、尽きることのない発生と消滅です。

次に、輪廻転生と呼ぶものはいったい何かを、基礎から見ていただきたいと思います。つまり輪廻の意味の観察点を示したいと思います。本来は回転と言うべきで、回ると出発点に戻らなければならないので「輪」と言い、ヴァッダという言葉に相当します。ヴァッダとは輪、あるいは丸く回るという意味です。

丸いこと、あるいは回転することは、自然の基本部分です。たとえば地球が丸いことは知っていて、そして地球は太陽の周りを丸く回り、月は地球の周りを回転しています。あるいは移動している他の星も、輪にするために丸く回っています。楕円でも正確な円でも、あるいは歪んだ円も円であり、回転と呼び、自然に円を描いて回転する状態があります。だから何でも簡単に回転し、考えや行動や望みも、丸く回転しやすいです。つまり元の地点に戻って繰り返します。

心の中を見ると、命の基本である潜在意識と呼ぶ心が、発生して存在して消滅し、キリもなく発生して存在して消滅するのが分かります。これも輪で、すべての意識の基礎である潜在意識の中にある、輪廻と呼ばれる輪の状態です。だから心が生じている一瞬にも輪があります。

次に一日も輪になっていると見ると、朝が来て、昼、午後、夕方、夜更け、夜明けで、ほら、輪になっています。すぐ、毎日毎日輪になります。これは毎日ある輪です。次に一年も輪であることを見れば、太陽と月を基準にして輪である一年があり、乾季から始めれば、それから雨季、寒季、それから乾季に戻って終わり、雨季、寒季で、一年の輪です。一年が輪になっています。これも輪になっている繰り返しがあります。

あるいは生全体を見ると、個々の生も輪で、誕生から始まって、それから変化して若者、中年、老人になり、そして新たに生まれるまで死んでいるので、一つ一つの生は、このように一つの輪になっています。これを「一瞬も輪であり、一日も輪であり、一年も輪であり、一生も輪である」と言います。何もかも、極めて輪に関わっています。だから、非常に輪の状態の中を回遊するのも簡単です。

次に心の面としてもっと見ると、更に微妙で深遠な輪が見えます。つまり因果律、あるいは私たちの暮らしの中の縁起の流れで調整される輪、たとえば目が形を見て視覚が生じ、目と形と視覚が一つに合わさることを「触」と言い、触が生じると受が生じ、受が生じると受にふさわしい欲望が生じ、「自分、自分のもの」と執着する感覚が生じ、そして界というものになります。取があるので界があり、界があると生があり、生があれば生老病死に関わる問題があり、何らかの苦があります。あるいは自分が思ったようにならないと、苦になると断言できます。これで目の話は終わりです。

同じ状態で、すぐに縁起の一巡である耳の話が生じます。耳が音を聞くと耳識が生じ、耳と音と耳識が一つになると触と言い、触が生じると受が生じ、欲望が生じ、執着が生じ、界が生じ、同じように生が生じます。臭いを嗅ぐ鼻の話も同じで、舌で味わう舌の話も同じで、体の接触の話、体に触れて来るものも同じで、心の中の話もみな、過去の想が心に触れると受が生じ、欲、取、界、生、俺、俺のものが、同じように生じます。

今目の輪が生じて形を見、今耳の輪が生じて音を聞き、今鼻の輪が生じて匂いを嗅ぎ、今舌の輪が生じて味わい、今体の輪が生じ体の触があり、今心の輪が生じて過去の想から掴んだ感情に触れます。

目が形を見るのは、一つだけでも一回だけでもありません。今その形を見、今この形を見、一日には幾つもの形を見るので、目の幾つもの輪です。耳も同じです。今その音をきき、今この音を聞き、この話を聞くのは、耳の話の幾つもの輪です。鼻も同じです。鼻の話の幾つもの輪があり、舌も舌の話の幾つもの輪があります。

体の接触も、体の触の形の幾つもの輪があります。心のことはもっと素早く、もっと多いです。非常に敏捷なのでたくさん作り、極めて早いので、心の話のたくさんの輪があり、合計すると一日に何百、何千、何万かも知れません。情緒不安定になりやすい人なら、更に多くの輪があります。

これが縁起の一つ一つの輪廻です。心の中にあるこの一つ一つの輪は、どんな輪廻より真実の輪廻として存在します。つまり涅槃に到達するまで、キリもなく輪の中を回転し続けます。智慧とサティがあって、縁起の手法で加工するのを止められれば、輪廻も止まり、涅槃になります。どうぞ心の中にたくさんある輪を、恐ろしい、飽き飽きする輪を、このように「心の面の加工」と見てください。

 次に、輪廻は憐れむべきであり、更に厭わしく、憎たらしく恐ろしくなるよう見えるように見ます。私たちはこの輪を、三道と呼ぶ部分に分けると、煩悩,良分が一つあり、たとえば縁起の欲望、取などです。煩悩が生じると、それが意業のカンマを作る原因になり、口業になり、身業になる原因になります。それも煩悩の威力で行動するカンマ△任后H冉困カンマを作る原因です。このように避けられません。

 カンマの行動をすれば、カンマの結果が生じ、望みどおりの幸福である結果を受け取ることもあれば、望まない苦の事もあります。カンマの結果を受け取って苦になり、幸福になり、煩悩は止まりません。煩悩は、受け取ったカンマの結果である感覚の威力で、お節介にも新しいものを探し、満足すれば一つの形の煩悩が生まれ、満足しなければ別の形の煩悩が生まれ、新たな煩悩になり、カンマである行動を生じさせ、新たなカンマの結果が生じ、そしてまた煩悩に戻ります。

 心の中はこのようになっています。そして縁起の一つ一つの輪の中はこのようです。つまり欲望・取は煩悩であり、カンマつまり界を生じさせる原因であり、界はカンマなので、報い、つまり生・老・死などを生じさせます。

 一巡の縁起の中に、「煩悩(煩悩道)とカンマ(業道)とカンマの結果(苦道)」の部分があり、報いは尽きることがなく、いつまでも煩悩を作り続けるので、どこが発端か分からない輪になります。だから全体が輪に見え、どこが切るべき発端か分からないので、人は断ち切ることができません。

 本当は煩悩を断ってもいいし、カンマを断ってもいいし、結果の意味を無くして無意味にしても構いません。どこから始めてもいいです。六処を通じて一回の触があるとき、一つの感覚の中に輪廻がないようにするために、この三つの部分の威力を無力にできる、十分な知性を身に付けていただくようお願いするだけです。

 ここまでお話すれば、緻密で深遠で不可思議な輪廻はここにあると見えると思います。つまり心が煩悩の形に加工され、それからカンマを作り(行動し)、それからカンマの結果(報い)を受け取り、またカンマを作る煩悩になって、心の中でカンマの結果を受け取る点にあります。緻密な苦の形の、眼・耳・鼻・舌・体・心を通じて関わって来るもの、一つ一つの中にあります。

 これが、死んで棺に入って、もう一度生まれるよりも恐ろしい輪廻です。死んで棺に入ってまた生まれて、そしてまた棺に入るのは雑な話で、緻密な話でなく、知性のある話でないので、誰でも大雑把に括れます。

 生まれてきた子供に、「死んで棺に入り、それからカンマや徳でまた生まれ、そして死んでまた生まれる」と教えて信じさせても良いです。それは雑で、簡単で、深遠なタンマを知らないヒト語の話で、そういう状態の生死の繰り返しもあります。

 しかしタンマを知っている知性のある人の話になると、彼らはタンマ語で、「心の中に輪廻があり、棺に入る必要はない。棺に入る前に、生きているうちに、一日に何百回、何十回もの生まれ変わりがある」と話します。

 このように緻密な輪廻を知っていれば、本当の輪廻を知っていると言います。そして輪廻の流れを止められる利益があり、棺に入って棺から出る輪廻も止めることができます。何としても、心の中の本当の輪廻を止めてしまいましょう。だから緻密な輪廻を、このように勉強するべきです。

 

 憶えやすい譬えで、みなさん全員をお百姓と見なしてお話すると、米作りをしたいと思い、稲を育てて籾を収穫します。籾を収穫するとまた米を作りたくなり、稲を育て、そして籾を収穫します。そしてまた米を作りたくなります。これが煩悩とカンマと結果(報い)の輪です。

 米を作りたいと望むのは、煩悩と同じで、愚かさで望めばますます煩悩になり、米作りをすればカンマ、つまり行動になり、そしてカンマの結果、つまり籾を収穫します。稲作の輪廻を繰り返すと言います。それでいつ終わりになるでしょうか。自分があれば、自分に「自分」と執着すれば、終わりはありません。ご飯を食べなければならないので、このように米作りをしなければなりません。

 しかし要旨はここにはありません。要旨は、苦があるか苦がないかという点で、苦があれば損失と見なし、急いで苦がないように解決してしまいます。

稲作をするなら、煩悩でしないでください。稲作をする原因である煩悩をなくして、すべての真実を知る知性が稲作を先導します。するなら知性でし、煩悩でしなければ、収穫した籾に執着しません。煩悩の威力で迷わなければ、手に入れないのと同じです。結果としは稲作をしないのと同じで、稲作をさせる原因である煩悩の奴隷ではなく、稲作をしていないのと変わらないように暮らします。こうすれば苦はありません。

 煩悩や無明がたくさんあって煩悩ですれば、したいと思った時苦になり、している時も苦であり、籾を収穫する時も苦になってしまいます。思いきり掌握するので、心がものすごく重くなります。貧乏人は貧乏人の苦があり、お金持ちはお金持ちの苦があるのは、煩悩の力で執着するからです。

 だから、「輪廻は、本当は必ず煩悩の話だ」と、熟慮して良く見なければなりません。煩悩の話でなければ生死を繰り返さないので、輪廻とは言いません。それはヒト語の輪廻で、死んで棺に入り、そしてまた生まれ、そして棺に入り、そしてまた生まれます。「自分だ」「ヒトだ」と溺れる煩悩がなければ、輪廻はありません。

 動物を見ると、動物は輪廻を信じて迷わず、自然に死んで自然に生まれて行きます。「俺が死んだ。俺が生まれた。俺が死んでは生まれ、死んでは生まれる」。このような「同じ自分」という理解はありません。

 

 これが、仏教の手法で「俺」を消滅させ、輪廻を止めることで、この俺を善い自分、偉大な自分にして、ヒンドゥーの教義のパラマアッターと一体になることを目指しません。

 生きているうちに何としても「自分、自分の」と迷う愚かさを止めてしまいます。生死を繰り返す主体である自分がなければ、生死の繰り返しは止まります。何でもいいです。米を作るお百姓なら、「俺が米を作っている。そして俺が米を収穫する。俺はもっと金持ちになりたい。俺はまた米を作る」という執着の基盤である自分をもたないでください。心の中にこういう自分があれば、執着の考えであり、米作りの中に輪廻があると言います。

 本当のブッダの弟子なら、不死の田を作ってしまい、「そのような自分であるものはない。あるのは名形(名色)、つまり考えることができる心と体だけ」と、勉強して知ります。間違って考えれば、自分を作り出すのでものすごく重く、正しく考えれば、自分と考えないので軽快です。このような自分をなくしてください。そうすれば繰り返すものはありません。米作りをしなければならなくても、稲を刈って米を収穫し、そしてまた米を作るのは、してください。それは米作りの輪廻ではありません。

 今述べたようにできる人は、お寺にいて「俺、俺のもの」という執着を無くせない僧や沙弥より、本当のブッダの弟子です。だから私は、輪廻しない話は、すべての人の問題と見なします。家にいて農作業をし、商売をし、どんな仕事をするにも、自分という執着でしないでください。執着ですれば行動と行動の結果を繰り返し、勉強して知って、何をするにも清潔で明るく、静かに、そして「自分、自分の」という愚かさのない心ですれば、それは執着の行動にならず、カンマにも、カンマの結果にも、煩悩にもなりません。こういうのはしても大丈夫です。

 私の教育に本当に結果があるなら、私の講義が不毛でなければ、つまりみなさんが理解して本当に実践できれば、できた分だけ、本当に生死の繰り返しを止められます。自分の知性に応じて、行動に応じて「俺、俺のもの」の輪廻を止めてしまうことができます。それを「涅槃を教え、輪廻の繰り返しを止めるよう、永遠に涅槃の涼しさで生きるよう教える仏教を信じる、仏教教団員としての結果を受け取る」と言います。

 

 興味がない人は理解する努力をしないで、「何の話か分からない。私たちの話ではない。私は自分があるのを望み、自分のものを作りたい。自分の感覚に美味さを生じさせるために、何かを自分のものにしたい。自分のものをもちたい」と拒否し、このように望んでいます。こう望んでいれば、いつでも煩悩の威力で輪廻し、そしてカンマを作ってカンマの結果を受け取り、そしてカンマを作るために煩悩があり、カンマの結果を受け取り、終わりがありません。

 私は、この種の人は「自分は幸福の海の中を輪廻できる」と勘違いしていて、本当は苦の海の中で輪廻していると思います。彼らの考えがどこから来ていても、彼らの自由です。彼らは幸福の海を輪廻します。だから自分の考えで、大胆にも極楽の宮殿の中を輪廻するとまで考えるほど、幸福の中を輪廻したがります。彼らは幸福の海を輪廻していると言います。

 これは迷いであり、無明の愚かさで、そうなれると考えますが、本当に幸福の海へ行くと、それに執着し、幸福の海が頭上に載っているので、山を頭上に載せているように重く苦しいです。

 考えて見てください。幸福の海を輪廻してそれに執着すれば、それは重くその人の頭上に載っています。それがどうして幸福でしょうか。苦の海を輪廻するのは、執着するからで、幸福の海を輪廻すれば、もう一度幸福に執着するので重く、執着による苦なので、重さは同じです。幸福は欺瞞の一種なので、執着した途端に苦に変わります。それで人は幸福の受を望み、受が幸福になると執着するので、苦が生じ、そして殺人ができるほど非常に大きくなります。幸福の受に執着するからです。

 本人もその間中重く、そして嫉妬や護身や疑念や、幸福の受に執着する人のいろんな考えで、ライバルを殺そうと考えます。特に欲情に傾く心のある、欲界にいるすべての生き物の情欲はそうです。

 すべての生き物はこのようです。情欲の威力で傾く心があるので、執着するために、心に覆い被さる重いものであり、苦である幸福を手に入れると言います。自分が愛し満足するもの、あるいは幸福と呼ぶものに執着するからです。

 だから、「幸福の海を輪廻することはあり得ない」と言うことができます。執着や無明の威力で輪廻するので、欲望があり執着があるからです。だから幸福の海を輪廻しようと望まないでください。輪廻をするのは苦の海で、苦でなければ輪廻は止まり、涅槃です。

 

 どうぞ「涅槃は輪廻と反対。生死の繰り返しと反対のもの」と理解してください。何をするにも、輪廻になるようにしないでください。何でも執着になるようにしないでください。そうすれば執着の威力で、作り出す威力で流されます。

 執着しなければ作り出さないので、止まり、そうすれば涅槃の涼しさです。体が体のことをするのは、していきます。ご飯を食べるにも、排泄するにも、水浴をするにも、田の仕事をするにも、どんな仕事をするにも、「俺、俺のもの」という執着なしでします。

 「俺、俺の」という気持ちがなければ、生死の繰り返しはありません。輪があるのは、輪廻の中の生死の繰り返しと呼ばれる輪に飛び込む、「俺、俺のもの」があるからです。ではどうしたら輪廻を止めてしまえるでしょうか。ブッダは非常に膨大な教えを説いているのに、私たちはまだ十分知らず、何の役にも立たないくらい少ししか知りません。

 

 明らかな知識がなければ、無明のある心なので愚かで、無明の威力によって迷うと知らなければなりません。だから心は、無明の子分である煩悩欲望の餌に満足します。欲望煩悩、どんな煩悩も無明から生まれ、そして煩悩の餌であるものに満足します。煩悩の親分である無明が、煩悩の餌に溺れさせます。

 だから輪廻の中で遭遇するいろんなものは、煩悩にとって美味しいものです。つまりすべての形・声・臭・味が、その種の心を捕えるので、輪廻の中で遭遇したものに、「俺のお金、俺の金塊、俺の妻、夫」と執着します。ジャータカ(本生経)の「耳を洗う猿」の話のようです。後ろの建物に描いてあるので、もう一度見てください。

 それには心を魅了して人の心を掴み、魅力的なものに満足させて輪廻の中に居させるものがあるので、私たちは生死の繰り返しに陶酔し満足します。生死の繰り返しを止めたくありません。輪廻の流れの中には、このように魅力的で、心を惹くものがあるからです。

 ここで聖人の言葉を聞けば、この心を魅了するものはいったい何かと、もう一度熟慮し、知性で熟慮すれば、火のように心を焼き炙るものであり、それが四方八方にあらゆる苦を生じさせると見えます。これが魅力と呼ばれるものの低劣さです。あるいは心を煽るものはこのようです。

 普通の人のように、「愛するもの、満足するもの、心を魅了するものがある人は、溺れて全身全霊で執着し、愛らしい、満足すべきだ」と見て、命の伴侶にし、もう一人は、「ああこれが日も夜も絶えず暑くしているものだ。自分のものと執着する価値のある物には見えない」と見ると言うこともできます。一人は愛すべきもの、満足すべきものと見、もう一人は心を突き刺し焼き炙るものと見、このように違います。

 「愛や満足の基盤であるものは心に害のある危険なもの」と見えれば、考えは執着するものや溺れるものが何もない方向へ変わります。惚れこんで愛してしまうものは何もなくなるくらい、考えの傾向が変わります。これを、「輪廻に縛りつけるものから逃れるタンマを知り始めた」と言います。つまり家主(体の所有者という意味)である愚かさ、惑溺、煩悩、欲望、無明が輪廻に縛り付け、満足させます。

 それらの煩悩がなくなると、人は輪廻に満足しなくなります。知性が最高に増えれば、「自分」「自分の」「私の自分」という感覚が止まってしまうので、輪廻も止まります。輪廻が瓦解するのは、今まで「輪廻する人」だった人が瓦解するからです。真実はその人はマヤカシであり、影にすぎず、誤解にすぎないのに、心に誤解が生じると、このように「自分」と理解する心になります。

 無我の話、自分ではなく、名と形(心と体)、あるいは名と形に関わるものと教えることは、このように役立ちます。

 前回も無我についてお話しました。その無我の知識で、自分があると理解させて執着させ、生と死の流れの中を輪廻すると理解させる心を熟慮します。つまり、輪廻転生、あるいは生死の繰り返しとは何かという要旨をまとめることができると言うことです。

 

 暴言をお許しいただけるなら、生死の繰り返しは最高にバカな話、最高に愚かな人の話で、最高に愚かな行動なので、俺である自分がいると迷って、「俺は何が欲しい」と望み、それを手に入れるために行動し、今まで以上に陶酔するために手に入れ、今まで以上に苦になります。欲しがることがあり、行動があり、行動の結果があり、そして欲しがり、行動があり、行動の結果があり、繰り返してますます欲しくなります。もっと、もっと、もっと。いつまでもこのようになっています。これを、最高に愚かな行動である輪廻と言います。絶えず苦の海にいるからです。

 愚かさを捏ね固めて自分を作って「俺」と呼び、そして執着し、心はそのような考えや感覚を作り出します。つまり欲しがる自分、欲しくて行動する人、望みどおりに得る人、そしてまた欲しくなり、輪になっています。今心の中にある輪廻であり、生死の繰り返しであり、毎日、一日で幾つの輪廻があるか分かりません。

 これが、輪廻とは何か、生死の繰り返しとは何か、輪廻の中を泳ぎ回るとは何か、という問いの答です。みなさんに、今は非常に落ちてしまった仏教教団の名誉を回復できる、十分な知識があることを望みます。少し高めて、教祖の弟子である仏教教団員として、最高の智慧があり、煩悩がなく、そして苦のない人にふさわしいくらい高くしてください。

 みなさんが輪廻の流れに熱中していて、まだそれを喜んでいるなら、仏教教団員の価値はまったくありません。こう言うとすぐに落胆して、怒られることもありますが、私は他に言い様がないので、真実を言うしかありません。まだ心が輪廻の流れに溺れていれば、つまり煩悩-行動-そしてカンマの結果(報い)、そして煩悩-行動-そしてカンマの結果と、毎日こうなっているなら、ブッダの弟子の意味は少しもありません。煩悩に沈み、苦の海に沈んでいる、魔王の弟子です。

 この話を学んで、沈んでいるものを浮かび上がらせ、本当の仏教教団員と呼ぶにふさわしいくらい仏教教団員の意味を増やすことができる、十分な理解をもってください。そうすれば人間に生まれて、その後は輪廻する必要がない仏教に出会ったことが無駄になりません。

 ちょうど良い時間になりましたので、今日のお話はこれで終わらせていただきます。


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