サンダッセータッバダンマの解説



1971年1月9日

 本書は、核の時代、あるいはピンポンの時代、つまり世界が急回転と呼ぶほど、どんどん回転が速くなる時代に、仏教のダンマを十分に有益に、そして出来事に間に合うように使えるよう、人間に生まれて仏教に出合い、仏教教団員と呼ばれている機会を無駄にしないために、仏教教団員に道を教えるために話したシリーズである講義の大きな一部です。

 このシリーズの講義の目的は、いろんな角度で、つまり正しいか誤りか、時代にふさわしいか、仏教教団員には技巧的、段階的な違いがあり、勇敢に考え解釈すること、あるいは言葉の意味だけ、あるいは伝承してきた伝統だけを掴むことまで、その度に問題になっている教えと実践を比較して調査する手引書を生じさせるためです。

 このすべてを仏教の危機と言います。講演者は何十年もの間常に観察して見ていますが、毎年強烈さを増し、述べたようなピンポン時代の一般の人の利益のために、一度評論するべきと感じるほどです。

 私たちは、二千年あまり前に涅槃したと信じているブッダしか知らず、自分と一緒にいて、常に自らの拠り所であるブッダには関心がありません。私たちは、ブッダは般涅槃され、残っているのは仏舎利、あるいは外皮であるブッダに代わるその他の物質だけと知っているので、その度に遠い外皮になります。だから講義の目的は引き戻して「ダンマが見える人は私が見える。私が見える人はダンマが見える」と言われた言葉と一致させることです。

 本当のブッダの時代のダンマが見えない人は、毎日ブッダとすれ違っていても、ブッダが見えない、あるいは知らない人もいました。今私は、自分と常に一緒にいる種類のブッダについて話しています。多くの人が混乱し、多くの人が嘲笑し、多くの人が冗談だと言います。常に自分と一緒にいることができるブッダが欲しい人は何人いるでしょうか。

 欲しい人もどうするか知らず、ほとんどはブッダのお守りを常に首に下げることだけ考え、そして安全のために、あるいは本当の仏教教団員として十分と考えます。私は、まだこのような状態に陥っていれば、仏教教団員の集団の中にあるのは神経の病気だけで、他の集団より多いこともあり、最高に良くて同程度と見ます。他の宗教の人も、状況や形は違っても、似たようと言える状況に陥っていると見えるからです。

 しかし「知る人・目覚めた人・明るい人」という意味の「ブッダ」という言葉について思う時、私たちは智者・覚者・明るい人を目指さない人たちより嗤われない立場にあるべきです。だからどれだけでも、どのようにでも自分と一緒にいる本当のブッダを持つことができる人は、この本の講義の第一話の言葉を理解する努力をして見てください。


 本書、あるいは本書と同種の本を読むには、読者は自分の古い考えと、物質主義に傾きすぎる新しい考えから自分を解放して、自由にする決意をしなければなりません。つまり本当の仏教教団員式に自分を見る準備を整えます。身体面の美味しさに迷わず、そして何の味も受け入れないほど愚かでなく、愛欲耽溺でも苦行耽溺でもない教えと一致させます。心が自由か中立になれば、当然これらの内容を簡単に、最高に深く理解できます。

 ブッダは人語にもダンマ語にもあります。ブッダが「私が説き、規定したダンマヴィナヤは、私が去った後、みなさんの教祖としてあります」と言われたように、ブッダには二種類あります。つまり世を去った種類と、ダンマヴィナヤを実践する人がいる間は、まだ消え去っていない種類です。そして現代の仏教教団員も聞き慣れているように、「私が見えればダンマが見える。ダンマが見えれば私が見える」と言われている類の実践でダンマを見ることができます。

 「私が見える」と対である「ダンマが見える」はダンマ語のブッダで、私たちが実践している間中、あるいは私たちの心に本当にあると見えているダンマがある間中、私たちと一緒にいることができるブッダです。もう一方の「私が見えない」と対の「ダンマが見えない」は、人語のブッダしか見えません。

 つまり身体、あるいは身体の代わりの物から絵などまで、それはダンマを見ること、あるいは本当のブッダが見えることに導く導火線にすぎません。すべて、今仏教教団員の中で、現代でも、多少でも問題になっています。いずれにしてもすっかり片付けてしまわなければ、その分だけマヒした仏教教団員になると、みなさんにも見えると信じます。

 常に心に清潔と明るさと静かさである最高の徳行がある人をブッダと呼ぶべきですが、自分で大悟したのではないので、サンマーサンブッダではなく、ただサンマーサンブッダのダンマを聞いて実践したから悟っただけです。それでも、サンマーサンブッダに至らなくても同じようにブッダと言うことができ、そして常に私たちと一緒にいるには十分と見なします。

 それは安全、あるいは苦を知らないことが最高に至ったからです。更に言うなら「私」、あるいは「俺、俺の物」という執着を全部出してしまい、その後心に残っていなければ、心に残っている物は何か、当然残っているのは「ブッダであることだけ」と答えることができます。それが、自分がブッダになってしまうことです。

 まだ「私」ならまだ無明があり、私がなくなれば無明が無くなり、あるのはブッダ本体、あるいは人をブッダにするダンマである清潔と明るさと静かさだけです。だから私たちはダンマ語の本当のブッダ、私たちと最高に長く、あるいは常に一緒にいることができるブッダを持てる、あるいはブッダになってしまうことで自分が無くなると見るべきです。

 今「現代の世界は、自分と強く執着させる物ばかりがどんどん増え、その結果貪り・怒り・迷いを生じさせる物、要するに自分、あるいは自分の仲間のことしか考えないことを生じさせる物でも、執着を捨てる必要はない」という新しい文化になる問題があります。心にブッダであるものはありません。そしてすべての動物の中にあるブッダであることを信じることも干乾びて消失し、ブッダとして開花するまで養育を受ける機会がありません。

 世界の人が強情で抵抗すれば、最終的に世界は心が盲の人だけになります。まだ目が良い人もいますが、苦である物を求めて自分の物にするためだけです。この手の人たちだけは「私たちは常に私たちと一緒にいるブッダを持つことができる」と言うと、いつでも嘲笑う用意があります。

 これは私がブッダと呼ぶもの、あるいは呼ぶ人に関して間違っている重要な例です。みなさん、サンダッセータッバダンマの初めの話として、特に関心を持って熟慮してください。

 次に涅槃と呼ぶ物についての話になりました。

 仏教教団員でも仏教教団員でなくても、誰でも当然、涅槃の話を取り出してしまえば、仏教は仏教ではなくなると認めます。しかしまだ、その涅槃に心がいつ到達するのかという問題が残っています。特に現代のタイの仏教教団員でも、死んで棺に入って、何万世も何十万世も先になると納得し合うことが生じています。

 しかし三蔵のパーリ(ブッダの言葉である経)を見ると、誰かがそのように何万世も何十万世も先の涅槃をブッダに質問した話、あるいは解説をお願いした話はまったくありません。頼まれないで自ら説かれた話は、次々と先送りしない、あるいは時間を引き延ばせない死の時でなく、火急の話である状態で話されました。

 涅槃は何万世も何十万世も先送りして受け取るものという考えは、「生」という言葉の説明が事実と違う人の考えです。それは理由がある長く複雑な問題なので、別の話と言わなければなりません。アヌパーディセサニッバーナダートゥ(無余依涅槃界)は死んだ後に手に入れるものという説明も、この言葉と周囲の他の言葉の解釈が真実と違うので、私は間違った説明と見ます。

 そしてこのように教えることは涅槃を消滅させることであり、仏教の信頼を消失させ、コミュニストなどにバカバカしい話と言わせ、宗教と呼ぶ物を侮辱させてしまいます。私は、涅槃の話の説明を正しくすれば、コミュニストなども含めた世界中の正常な知性のある人は、一斉に涅槃と呼ぶものを好むと信じます。

 涅槃とは熱い物が消滅した状態で、結果に注目すれば涼しさです。それは物質、あるいは熱がある物質の涅槃です。それは人語あるいは物質語の涅槃です。宗教の涅槃は自分が人間であることにふさわしい知性で発展した人間の心の話で、ダンマ語、あるいは精神の言葉の涅槃を意味します。ここでの熱さは心の中に生じる煩悩の熱さを意味し、消滅すればいつでも、一旦涼しくなります。

 本当の消滅でも一時的でも、つまり一時、短い時間、あるいは永遠の本物でも、どちらも涅槃と呼ぶことができます。一時的な涅槃でも、消滅を知らず、涼しさを知らないよりマシです。私たちが狂って死なないのは、心に一時的な涅槃があって、日常的に生じる苦をバランスよく引き留めておくからです。そうでなければ心の病気になり、神経の病気から精神病などになり、そして死にます。

 高血圧、脳内出血から心臓麻痺までどんどん増えているのは、どれも駆けつけて大切に守ってくれる「一時的な」涅槃がないからです。ブッダの時代は現代より神経を病む人が少なかったと言っても、誰も反論しないと思います。そして聖人の世界に神経の病気があるべきでないのは、涅槃と呼ぶ物は予防するワクチンと同じだからです。

 現代人が一時的なワクチンを使うことを知れば、物質的発展も毒や危険にならず、そして世界の人は必要以上に物を生産して、現代のように世界を混乱させません。それは本当の平和にとって必要な物と言うより、穏やかな幸福にとって毒である麻薬を生産するような状態があります。物質面の発展は、当然自覚がない狂人にならないよう引き留める心の涅槃を必要とします。

 だから私たちは現生での涅槃を欲しがります。死んだ後何万生も経ってからの涅槃は、まだ話す必要はありません。世界は、今ここで狂って破滅しているからです。この中の一人になりたくない人は、急いで自分だけの涅槃、あるいはディッタダンマミカニッバーナ(現生での涅槃)に関心を持ってください。サマージカニッバーナ(時涅槃)でも十分なら、自由にできる物なので、競争で世界を無用に混乱させる自由、気づかないで巨大な罪を作る自由より善いです。

 涼しさを知るには、先ず熱さを知らなければなりません。熱い物が消滅すれば涼しさが現れるので、「涅槃は輪廻の中にも探すことができる」。あるいは「熱い物の中に涼しさを探すことができる」という教えを掴むべきです。他の場所、他の時に探せば、世界一バカな人と見なさなければなりません。つまり見つかりません。防止する場合は熱さの原因である所で、それが生じている時に防止しなければなりません。

 ブッダは熱さの原因をヴェーダナー(受)と言われています。気に入った美味しいヴェーダナーが一つ、不味くて気に入らないもの、あるいは疑念ももう一つの熱さになります。しかし現代の世界の人は熱さを消滅させることに関心がなく、熱さを熱さと見ないで美味しい物と見てしまい、心が熱い物を美味しいと感じる低劣な状態にし、隠ぺいすることで解決して望みどおりにします。

 これはタンマ、あるいは人間の心をタンマの軌道、神様の軌道上にいさせるよう管理する助けをするダンマ、あるいは涅槃の機会をなくします。だから愚かにも「神様は死んだ」、あるいは「現代に意味はない」と難癖をつけます。だから涼しさを欲しがる十分な熱さを知らない、胴鍋で茹でられている妖怪になります。

 だから涼しくするには常自覚があること、あるいはヴェーダナー(受)と呼ぶ物に関わる正しい十分な知識があること以上の何でもありません。美味しさの基盤である感情の美味しさに迷わず、憤怒の基盤である感情に薪や炭のように悶々としないで、善悪正誤を弁える常自覚があり、必要なだけ、そして述べたように正しくふさわしい方法でその感情に近づきます。

 このようにできれば、現生の涅槃は本当の話になります。そして人間らしさがある人は誰も、「不可能」、あるいは「時代遅れ」と叫んで反論しないで、行動できる範囲にあります。

 これはサンダッセータッバダンマシリーズの第二回目の講義の言葉を有益に使う方法の一例です。

 後の講義の十話は、二つの話の例で述べた例を使って同様の方法で熟慮すれば、疑うまでもなくあなたの利益にすることができます。サンダッセータッバダンマも、対であるオーサーレッタッバダンマも、当然同じ目的と方法があります。

 「なぜ問題、あるいは自分の苦を駆除することができないのか」と、ダンマや宗教の功徳に疑念が生じた時はいつでも、「私の理解が正しくない」、あるいは「ダンマあるいは宗教と呼ぶ物の実践が正しくないのではないか」と心配せずに、「熱さを冷ますことができなければダンマではない」あるいは「宗教と呼ぶ物ではない」と信じておいてください。

 彼らは熱さを冷ますことができる物だけをダンマ、あるいは宗教と見なすので、なぜダンマは熱さを消滅できないのかという疑念はあるべきでありません。もしあるなら、これも自分の愚かさと見なしてください。この疑念を無くすには、事例にふさわしく講義してあるいろんな内容のサンダッセータッバダンマとオーサーレッタッバダンマに依存しなければなりません。

 だから映して見る道具であるダンマ、サンダッセータッバダンマも、要旨を洞察する道具であるダンマ、オーサーレッタッバダンマも当然利益があり、核の時代、あるいはピンポンの時代の仏教教団員にとって確実に多少は必要な物です。

 学習の便宜のために話の索引を簡単に、そして詳細に読んで、初めから終わりまで話の流れを理解するべきです。時には話の進行、話の流れを半分理解します。これらの索引は、講演者自身は作らず、作ってくれた人がいます。時にはチェックする機会が無いことがあっても、時々、ざっと話を調べるには使えます。

 録音テープの文字起こしの間違いは起こり得ることですが、これらのいろんな話の重要な教えを掴めるほど関心があれば、何が文字起こしの段階の間違いか、みなさん自身で知ることができます。講演者はそのダンマの教えを、取り上げたすべての話を調和する状態で説く努力をしたので、理解すれば、どの話、あるいは仏教のいろんな教えの中のどの教えとも矛盾しないと見ます。

 もし矛盾が生じるなら、間違った教育があったからに違いありません。あるいは羊を山羊と戦わせるような、つまり正しく解釈した話を間違った解釈の話にするようなものです。サンダッセータッバダンマとオーサーレッタッバダンマと呼ぶ集めた話の学習が、この問題を全部、あるいは誤解しているという物と比較した時、少なくとも非常に多く解決の援けになるよう望みます。

 ここでこの話の学習の見本、あるいは本書をどのように有益に使うかという例を、二つだけ挙げ、その他は学習方法、あるいは熟慮する時に同じように理由を使うことだけと、もう一度繰り返させていただきます。

1973年1月7日
チャイヤー・モーカパラーラーム
プッタタート インタパンヨー



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