1.常に私たちと共にいることができるブッダ



1971年1月9日

   ダンマにご関心がある善人のみなさん。今日の講義は生老病死の友として、仏教教団員の手本で滅苦する道の利益になることだけを目指してお話します。

 最初に、なぜここでこのような状態で、このような講義を企画したかという話をしたいと思います。今日講義するのは特別な目的があります。つまりお寺の仏教教団員の伝統習慣でしなければならないだけでなく、誰かの誘いや要請でするのでもなく、あるいは「食べては寝ている」と悪口を言われるのを恐れる理由だけでもなく、何かそのような理由はありません。

 しかし「私たち全員がダンマの実践をして段階的に進歩しなければならない義務がある」という私自身の理由があります。次にダンマの行動をするのは簡単でなく、かなり難しい、あるいは難しいので、常に努力しなければなりません。この努力は、初めに学習の努力をし、それから実践の努力をしなければなりません。そうすれば結果のある実践になります。

 この講義は、直接仏教の教えで滅苦をする話、あるいは段階だけを目指していると、みなさん観察して見ていると思います。だから誰かの繰り返しでなく、あるいは誰かと同じでなく、そして眠くなりそうな話ばかり話し、眠たくなる話ばかりすると非難されるのは、それは重要な話、仏教の本物だからと理解していただかなければなりません。この話に関心がなければ、それは仏教ではなく、外皮だけです。

 例えでハッキリ言えば、私たち人の人生は二頭の水牛、あるいは牛を繋ぐことができると言えるまで、学習と実践の努力をしなければなりません。二頭の水牛、あるいは牛を繋いだのと同じと例えるのは、憶えやすく忘れにくく、そして簡単に理解するためです。現代人は自分の人生に牛、あるいは水牛を一頭しか繋ぎません。だから大変です。

 二頭の水牛、あるいは牛というのは、一頭目の牛、あるいは水牛は稼ぐ話で、二頭目の牛、あるいは水牛は稼いでも心が苦を知らないようにする心の面の話です。だから二頭の牛を繋いで正しく安全確実に歩かせると言います。

 今世界中が混乱し、複雑困難に遭遇して困難なのは、世界も、所属集団も一頭の水牛しか繋がない普通以上のバカと言います。彼らはまとめて「テクノロジー面の発展」と呼びます。つまり学習研究をしていろんな物を発明して物質的発展ができ、著しい利己主義が生じるほど良い生活になり、そして良い暮らしを貪ってどんどん身勝手になり、争わなければならなくなり、それしかありません。

 こういうのを「世界は今一頭の水牛しか繋がない」と言います。二頭目の水牛、つまり宗教、あるいはダンマの話は、どんどん見落としています。

 更に西洋人は「神様は死んだ」と言います。西洋人は「神様は死んだので、関心を持つ必要はない。物質と肉体だけに関心がある」と言います。これはテクノロジーだけで、心や精神の面は信仰があるだけです。昔は思ったこと、考えたことがあるので名前が残っていて、精神面の輝きと呼び、宗教共通の言葉で Spiritual enlightenment、つまり精神面の輝きと言い、すべての宗教がしなければならない義務です。

 昔の人は腹の話・口の話より精神面の輝きに関心がありました。現代の世界は腹と口の話ばかり、あるいは精神の輝き以上の関心で、世界中どんどんこのようになっています。だから現代の世界は腹と口の話にしか関心がない世界です。

 苦しめ合うことしかないのは、腹と口のことばかり考えることに原因があります。殺し合いも、一人一人が奪い合って貯めておくこと、あるいは自分が欲しい物質的な物を何としても手に入れたいことに原因があります。宗教の話、ダンマの話、神様の話に関心がないので、貪りが増え、怒りが増え、迷いが増えるので、たくさん手に入れても理解する道はありません。これを、世界は今このよう、つまり水牛を一頭だけ繋いでいると言います。

 次に個人の部分、私たちタイ人、仏教教団員もこのようになりつつあります。大勢の人が西洋の尻を追って物質だけに迷い、心の面の関心は少ししか残っていません。だから我が国にヤクザが増えました。これからの子供たちが心配です。物質の話しか知らず、西洋の尻を追い、宗教文化と先祖の心の話である物を全部捨ててしまったからです。

 これが社会に複雑困難を生じさせる失敗です。仏教教団員も、ほとんどの人が習性が堕落してしまえば、つまり全員が物質の奴隷になって久しくなれば、どんなに助け合うようお願いしても、やっていけません。二三日に二三言話して気づかせて善人にさせる、こういうのはできません。ね、恐ろしい病気がこのように深く埋もれていると言います。

 要するに人は腹と口の話、物質面だけに興味があり、ダンマの話、宗教の話には関心がありません。今私たちはこの命に二頭の水牛を繋ぐよう改善していただきたいです。一頭は物質の話ですが、二頭目はなければならない心の話で、物質を管理する相棒です。心の面、あるいはダンマの面、あるいは宗教面の知識がなければ、物質の探求も苦になり、物質を維持することも苦になり、物質を食べること、消費することも苦になります。

 これを良く考えて見てください。心に煩悩があれば、あるいは常に渇いていれば、何があっても、何を食べても、何をしても全部苦になります。だから私たちはしなければならないすべてのことが苦にならないようにする部分がなければなりません。これが宗教の面の正しい知識、理解、あるいは精神面の輝きと呼ぶ物です。  これを「私たちが援け合って学習し、互いに理解し合ってこの人生を正しく進行させなければならないと思わなければならない最初の項目」と言います。つまり一頭は労力で、一頭は宗教、あるいは心の面の知性の力である、二頭の牛、あるいは水牛を繋ぐことで、体も面も正しくなければならず、心の面も正しくなければなりません。そうすれば体も心も苦にならないと言います。次にそれは、仏教教団の在り方を正しく解決する結果があります。

 今仏教教団員の状況は「列をなして物質主義者、特に私がまとめて西洋人と呼ぶ物を追う」というように不安定になり始めました。次に私たちは思いを新たにし、変化して、その結果正しくない仏教教団員の状況、正しい状況であっても十分でなく、完璧でなく、ちょっとだけ正しい物でも何でも、解決しなければなりません。

 今私たちは正しさも欲しく、十分な完璧さも欲しいので、朝何かを聞いて、その後「それはそのようかどうか」批評して見るように、会って聞いて考えて、質問して相談しなければなりません。このようにすることは正しくない仏教教団員である状態を正しく、完璧にする援けになります。

 次にその後の結果はどんどん悪化していく世界の状況を迎える、あるいはそれと闘う準備をするのと同じです。こう話すのは、悪意がある人の観点、あるいは悲観的観点でなく、最高に良い面を隈なく見る努力をしても、この世界はどんどん悪い成り行きになると見えます。それはその方向に放り投げている区間で、端まで行けば投げ返します。だから今世界中どんどん悪い状況になると言います。

 つまりこの世界の人はどんどん話が通じなくなり、そして地下でも地上でも、何でも殺戮し合ういろんな方法、方便を使うことだけが得意です。現代のこの世界で、このような状況下で暮らさなければならないなら、この劣悪な世界で暮らせる、あるいは闘える何か良い物がなくてはなりません。そしてそれはプラタムの教え、あるいはプラタム、あるいは本物の宗教以外に何もありません。だから相談し合いましょう。

 要するに私たちは、世界の中で苦にならずに闘うことができます。すべてが正しいからです。そして世界を自分が望むようにすることができなくても、心をブッダが教えられたようにすれば、世界が思いっきり凶悪になっても、私たちは苦になりません。火の中、炭の中にいても微笑んでいられ、最後の心が消滅する時まで微笑んでいることができます。だからこのようにどんどん悪くなる世界で暮らすために、ここまで準備しておかなければなりません。

 次に私は広い範囲の利益を掴みます。つまり最後の瞬間までずっと穏やかな幸福で暮らし、世界がどうなっても、家の中、家族の中の環境がどうでも、病老死がどのように訪れても、私たちに苦はありません。これを「仏教教団員が仏教の教えのとおりに望んだ結果」と言います。

 だから私たちはそのようにする能力を持つために探求するので、このように日を決めて集まって、このような講義を企画しました。時々説法を聞きなさいと言う、あるいは誰かに頼まれてする仏教教団員の伝統だけではありません。なぜこのような講義を企画したか、最初にこのように理解してください。

 次は「なぜこの話を初めに話すか」という項目でお話します。なぜ「常に私たちと共にいるブッダ」という話を最初にするのでしょうか。なぜこの話を最初にするのか、答えはたくさんあります。そして考えるのが嫌いで考えたことがなく、そして何でも見落とす習性がある人以外は、みなさんも何とか理解できます。なぜ私は、常に私たちと共にいるブッダという話をしなければならないのでしょうか。

 最初に、それは簡単すぎる問題と捉えてください。仏教教団員であるみなさんは誰でも、帰依や戒を何百回、何千回も授かっています。「ブッダン サラナン ガッチャーミ、ダンマン サラナン ガッチャーミ」と何百回、何千回もこのように述べている人がいますが、それは何の利益もなく、口で言うだけの、あるいは愚かに唱えて利益になると思い込んでいるオウムや九官鳥にならないか心配です。

 「ブッダン サラナン ガッチャーミ」という言葉を本当にしたい人は誰でも、その人は自分と常に一緒にいる種類のブッダに関心を持たなければなりません。つまり本当にブッダを私たちと一緒にいさせることができ、「ブッダン サラナン ガッチャーミ」という言葉が本当になります。あるいはこの種のブッダを望まなくても帰依が生じ、口だけでこの種のブッダがいると言う人は狂っています(下品な言葉を使うことをお許しください)。この種のブッダを望まずにブッダン サラナン ガッチャーミを授かると言う人は狂人です。

 次に、授かって本当にそのようにする努力をしないと言えば、その人は嘘つきです。次にその嘘つきで狂った人が、仏教教団員の中に大勢いるのではないか心配です。口だけで帰依を授かり、帰依を授かって本当にそのようにする努力をしません。もし本当にして、そして口だけでなければ、常にブッが一緒にいるようにすると見なし、この人は狂ってない、嘘つきでない本当の仏教教団員です。

 これが最初の項目で、このように簡単すぎるくらい簡単です。だから本当のブッダがどのように常に私たちと一緒にいられるのかについて話し、理解している物にしなければなりません。

 次に「ブッダン サラナン ガッチャーミ」という文句の「ガッチャーミ」は「至る」という意味でも、「持つ」という意味でも良いです。もし私たちが「ブッダに至った」、あるいは「ブッダを持った」と宣言するなら、口だけでなくずっと至っていること、つまり心がいつでもブッダに到達していなければなりません。

 こういうのを「拠り所であるブッダに至る」と言います。授かっただけで終わりにすれば至らず、至るのは口で言うだけです。「ガッチャーミ」という言葉は持つと訳すこともできます。「私はブッダを拠り所として持ちます」と言うようなのは、いつでも持っていなければなりません。

 「持つ」という言葉は「至る」よりハッキリしています。持つという言葉はいつでも持っているという意味で、それもいつでも一緒です。「至る」と「持つ」を合わせれば、更にいつでもブッダと一緒にいることです。ガッチャーミは、このように至るという意味、持つという意味の両方なら、常になければならないので、至る、あるいは持つと言います。

 だからいつでも私たちと一緒にいる種類のブッダを知る努力をしてください。そうすれば拠り所であるブッダに至った、あるいは持っていると言います。

 次に思わなければならない項目は、この種のブッダがなければ、いつでも全部必ず苦になるという項目です。話している種類のブッダがいなければ、私たちは始終必ず苦があります。私たちが何かをすると、それで苦にならなければならないのは、私たちが愚かで煩悩があり、何でも煩悩の威力でするので、仕事が原因で必ず苦があるという意味です。

 しかしブッダが一緒にいれば、その仕事は苦がなく、心は苦ではありません。もしブッダが一緒にいなければ、何かを手に入れ、物を手に入れ、名誉を手に入れ、人が欲しがる物を手に入れると、必ずその手に入れた物が原因の苦があります。ブッダと一緒にいる心があれば、何を手に入れても苦になりません。

 何を所有しても、銀行、あるいはどこにお金を預けておいても、自分の心にブッダがいなければ自分が夜通し財産を守る番犬になるので、銀行にあっても、お金があることで眠れません。これを「何を所有しても所有の仕方を知らないので、ブッダが一緒にいないので苦になる」と言います。その後何を探求しても、それが原因で苦があります。何かを食べるのも煩悩で食べ、そして食べることで苦があります。

 これを「絶えずブッダが一緒にいなければ、何を食べても、その食べることによって苦がある」と言います。ご飯を食べても、魚を食べても、日常何を食べても、心が正常でないので苦があり得ます。ダンマがあれば心は正常で何を食べるにも正しく食べるので、物質面も心の面も知性の面も、苦はありません。

 次に、一緒にいるブッダがなければ、休息しても休息することで苦があると言いたいと思います。人は休息を求めて遊びに出掛け、楽しさに陶酔することがあります。善悪正誤を弁える感覚がある場合以外は、その種の休息から穏やかな幸福が生じることはありません。心にダンマがあって海岸に座って休めば幸福になり、家の部屋で横になっても幸福になります。

 しかし私たちと一緒にいる種類のブッダがなければ、寝転んで休息しても苦です。身勝手で、取り越し苦労で、何であれ際限ない話を寝て考えるので、眠っても悪夢にうなされます。だから休息しても休息による苦があると言います。

 これが、自分と共にいさせるブッダを知らない害です。だから何をしても、何を手に入れても、何を所有しても、何を探求しても、何を食べても、休息さえ苦になります。本当か本当でないか、持ち帰って考えて見てください。これは観察した限り真実で、そしてブッダが言われている真実であると、私は敢えて挑みます。

 私だけがそう見る、あるいはそう理解する訳でなく、ブッダもそのように教えられていると言います。そして観察し、学んで試して見る努力をなさって、それはこのようなので、このような理由で、生老病死を共にする友が絶えずブッダと一緒にいることに関心を持ってくださいと教えられました。

 次に話す項目は、私たちと常に一緒にいられるのはどの種類のブッダかという問題です。この点を多少判断、あるいは批評しなければなりません。眠くなったらご自由に。ブッダとは何か、あるいは誰かを問題にします。よく聞いてください。私は今、ブッダとは何か、そして誰かを問題にしています。

 「誰か」というはどの種類の人物かという意味で、「何か」の方は人物でなく物質、あるいは何でもあり、ブッダは人、あるいは天人、あるいは霊、霊魂、あるいはこれらの物質、今ある、あるいは信じているすべてに質問を説明します。ある人は人である種類のブッダを信仰し、ある人は霊である種類のブッダを信仰し、精霊を祀るように祭って祈願し、ある人は首に掛ける物質であるブッダだけを信仰するので、私たちは「ブッダとは何か」詳しく見なければなりません。

 出家たちの教育のためのダンマの教えで言えば種類別に分類できます。人物本位に言えば、ブッダは世界の歴史の中の重要な人物の一人、あるいは仏教教団の歴史の中の一人の人物です。この角度のブッダは誰でも知っていますが、西洋人は私たちより良く知っています。歴史上のブッダについて話せば、彼らはインドに関して、インドのブッダについて何でもたくさん研究しています。だから西洋人が書いた本を読めば、世界史の中の人物であるブッダが分かります。

 ブッダが仏教史の中の人物の一人と言うなら、ブッダの伝記を読んでください。この講義で取り上げて話すことはできません。時間の無駄なので必要もありません。

 人物としてまとめると、ブッダは世界に生まれた人物の一人で、伝記に書かれているような様々な出来事があり、そして、ブッダの伝記と呼ぶ仏教教団の歴史に記録されている、教祖になった人物の一人です。私たちも勉強しますが、死ぬまで学んでもブッダを知りません。このように言わせていただきます。知るのは伝記の中の人物だけで、ブッダに到達できません。人物本位で言えば、これだけのブッダがいます。

 次は人物本位でなく出来事本位に、人物についてでなく個性について、あるいは人物の性質、特徴について話します。出来事本位で話さなければならないのは、更に正しく知るためです。人物や体を基準にすればブッダも私たちと違わないからです。ブッダは皮、肉、身体、骨があり、土・水・風・火があり、一般人と同じ何でもあり、人がブッダと分からないほど一般人と同じ姿形があります。

 ブッダ在世時のインドには、ブッダを非難する人やブッダを知らない人がたくさんいました。一般の人と同じ姿をしていたからです。そして大きな群れで座って、ブッダが真ん中におられても、ある王が「どの方がブッダか分からなかった」という話があります。ブッダが普通の人と同じだったからです。だから人物、姿、身体をブッダとすることはできないので、もっと深い部分でなければなりません。この部分を彼らはダンマディッターナ、つまり個性、あるいは性質、あるいは能力と呼びます。

 最初に、本当のブッダは体になく、心にあるという原則を捉えて、心、知性、あるいは心の能力を見ます。心、知性、能力を基準にすれば、ブッダという言葉は何段階にも分類できなければなりません。多くの人は何段階にも分類できると聞いたことがあります。サンマーサンブッダとは自分自身で悟ったブッダで、正しさが全部揃って、最高の能力があり、他人を起こして目覚めさせることができる。これをサンマーサンブッダと言います。

 心、あるいは知性、あるいはこれほどの能力を「サンマーサンブッダ」と言い、これほどでなく、目覚めたのは自分だけで他人を起こすことができない、こういうのを「独覚ブッダ」と言い、煩悩が終わるのは自分だけで、狭い範囲でも他人を目覚めさせることができません。

 二段階目はブッダに附随して知る、あるいはブッダを追って目覚めた人、つまり多くの弟子である阿羅漢、あるいはその下の聖人。こういうのを「小聖人」と言い、ブッダによって知ったという意味で、他人を目覚めさせることができる人も、他人を目覚めさせることができない人もいます。これがすべての小聖人たちです。

 最後は「スタブッダ」と言い、学習教育でバフースッタ、あるいはスッタブッダになったという意味で、ブッダの仲間、あるいはブッダに分類されますが非常に低く、聖人ではありません。このスタブッダは目覚めたのは文字だけで、他人を目覚めさせられても文字だけ、あるいは話す言葉だけで、煩悩をなくして他人に煩悩をなくさせるレベルには至りません。

 このような時の重要な意味は「目覚める」点、眠りから覚め、そして他人を目覚めさせられるかどうかという点にあります。だから自力で目覚め、すべてを知り、明るく、そして他人を起こすことができると言われるのと、自分だけ目覚め、他人を起こすことはできないのと、それから自分で目覚められず、起こされて目覚め、目覚めたら他人を起こせる人も、起こせない人もいるグループになり、それから最後の一番低いのは、目覚めたのは文字だけ、他人を目覚めさせるのも文字だけと述べたように、様々なブッダがいます。

 現代の私たちはほとんどこのようで、本で勉強しただけ、教えるのも文字だけで、煩悩をなくす実践まで教えることはできません。これがブッダで、心、知性、能力を基準にすればこのように何種類もあります。

 もし徳行、あるいは心がダンマをどれくらい会得しているかを基準にして言えば、もっとハッキリします。私たちはその人の徳行、器量、ダンマの到達度、あるいはそのような物を思わなければなりません。徳行と呼ぶ物は、バリスッディグナ、パンニャーグナ、サンティグナ、何かこのような物で、パーリ語は憶え難く、タイ語に訳せは清潔・明るさ・静かさです。この三つの語句、つまり清潔・明るさ・静かさに託します。それがブッダの徳行です。

 清潔は不潔でなく、秘密がなく、悪がなく、明るさは明らかに知り、無明による暗さがなく、静かさは苦がなく熱さがなく涅槃である涼しさです。清潔・明るさ・静かさ、この三つはブッダを計る物と良く規定してください。しかしこの種の同じ徳行は誰にでも多少はあるので、まだ良いです。

 多少はと、よく聞いてください。ここに座っているみなさんにも、時には清潔・明るさ・静かさが多少あります。どうぞこの項目をよく銘記してください。またちょっとしたら詳しく話します。本当のブッダはここにあるからです。

 サンマーサンブッダは他の阿羅漢と同じように最高に厳格な清潔、明るさ、静かさがあり、次に阿羅漢でない聖人は一定レベルの清潔、明るさ、静かさがあり、それも多いです。普通の人、凡人は、多少、そして時々、清潔、明るさ、静かさがあります。しかしそれも同じ清潔、明るさ、静かさです。美徳、あるいはダンマの到達度を基準にすれば誰にでもこの三つはあり得ます。どうぞ本当のブッダの条件として、この三つの物に関心を持ってください。後で詳しく話します。

、  次にブッダが言及された点、つまりブッダにするダンマ、あるいはプラタムを説明したいと思います。ブッダは「ダンマが見える人は私が見える。私が見える人はダンマが見える」と言われています。ヨー ダンマン パッサティ、ソー マン パッサティ、このように、ダンマが見える人は誰でも、その人は私が見え、ダンマが見えない人は誰でも、その人が私の衣を掴んで放そうとしなくても、その人に私が見える希望はない」。

 考えて見てください。腕や脚に触ることができ、ブッダの衣に掴まって放そうとしなくても、ブッダは「その人には私は見えない」と言われています。その人はダンマが見えないからです。「ダンマが見える人は誰でも、その人は私が見え、私が見える人は誰でも、その人はダンマが見えます」。

 だから私たちがブッダを持つ、あるいはブッダに至る、あるいはブッダを尊敬すると言うには本当のブッダでなければならず、そして私たちが本当に至ることができるのは、この種のブッダ、つまり「ダンマが見える人は私が見える」と言われたブッダでなければなりません。

 次に重要なのは、そのダンマが見える人は、自分の心の中にダンマがなければならず、それ以外に道はないことです。このダンマは他で見ることはできません。文字で見る、何かで見ることはできないので、心の中の眼で、自分の心の中にあるダンマで明らかに見ます。

 だから心に清潔・明るさ・静かさがあり、心でそれが明らかに見える時はいつでも、その時ダンマが見えます。その種のダンマを見ることが「ダンマが見える人は私が見え、私が見える人はダンマが見える」と言われたような如行(ブッダの一人称。漢訳では如来)を見ることです。

 どのように、いつ、どれだけダンマが見えても、その時はいつでも、その人の心の中に、その時そのように、それだけダンマがあります。そしてそれがブッダに至ること、ブッダを持つことで、プラタム、僧でも何でも含まれます。そのような時の重要な意味は、ダンマ、あるいはタイ語のプラタム、あるいは元のパーリ語のダンマ、ただのダンマという一語に集約されます。

 この「ダンマ」と呼ぶものの意味は非常に広く、すべての物を意味します。だから全部詳しく話すことはできません。話せるのは自然であるダンマだけで、すべての物をダンマと呼びます。そして自然の法則であるダンマ、その法則であるダンマ、人間が自然の法則に従って正しく実践しなければならない義務もダンマと言います。

 その実践から結果が生じれば、その結果もダンマと呼びます。ダンマという言葉はこのように広く、例外がないという意味なので、良いダンマ、悪いダンマ、低いダンマ、高いダンマ、形があるダンマ、形がないダンマ、何と言うこともできないダンマもダンマと呼ぶと言わなければなりません。  神様を持つようにダンマをもてば、ダンマが神様です。神様の話は、神様のように支配する身近な人物を欲しがる人たちの物で、彼らは「神様」と呼びます。そして創造者である神様、支配者である神様、そして破壊者である神様以上ではありません。どの宗教の神様もそのような状態があり、何かを創り、世界を創り、人を創り、何もかも創れば一人の神様、つまり創造神と呼び、あるいは神様の一部と呼ぶこともあります。

 二番目は世界を支配している神様で、世界はこのようでなければならず、私たちが見ているように土・水・風・火があり、太陽と月と宇宙の循環があり、善行・悪行があり、善行悪行で経過するようなのを「神様の支配」と呼びます。あるいは過ちを犯した人を罰し、規則に正しい人に褒美を与えるのも神様と呼ぶこともでき、自然と呼ぶこともできます。

 そして世界を破壊する神様は、時代が終わればこの地球を神様の手で破壊、あるいは潰さなければならないという意味です。神様と呼んでも自然と呼んでも自然の法則と呼んでも良いですが、正しい意味を理解しなければなりません。

 私たち仏教教団員には神様であるダンマがあります。このダンマはいろんな物を生じさせ、いろんな物を支配しています。カンマの法則は善悪を支配し、そして発生、維持、消滅を生じさせるサンカーラの法則、これもダンマです。すべての意味でタンマは神様の立場ですが、私たちは神様と呼ばずダンマと呼びます。ダンマという言葉は自然という意味です。理解しておいてください。

 「ダンマという言葉は普通は自然を意味し、自然全部で、自然と言う」と、今理解しても良いです。その自然の中にある自然の法則も自然と呼び、自然の法則で実践しなければならない義務も自然と呼び、生じた結果も自然と呼びます。仏教教団に神様という言葉はありませんが、自然、あるいはダンマという言葉があります。他の人たちが神様を信じるように、私たちはダンマを信じれば、正しく実践しなければならないので、話は同じです。

 私たちはこの種のダンマを見なければなりません。そうすればブッダが「ダンマが見える人は如行が見える。如行が見える人はダンマが見える」と言われたように神様が見えると言います。私たちはこの種のダンマを見なければなりません。そうすればそれ自体に正しい義務であるダンマがあるので、それ自体に神様がいて、それ自体にブッダがいるのが見えると言います。

 この三つを事柄本位のブッダと言います。心と知性と能力をブッダの一種にし、徳行、あるいはダンマの成熟度、ダンマの面の性質をブッダの一つにし、そして神様であるダンマを一つにし、すべては事柄であり、人物を見ないで人物の中にある抽象的な物を見ます。これを事柄本位の神様と言います。

 最後の三番目のブッダは話す言葉、あるいは物質にすぎないブッダについて述べます。人が話す言葉にすぎないブッダ、たくさんの人間の言葉の一つにすぎません。二十八のブッダがいる、ブッダだけで百いる、ブッダだけで千も、一万もいると言うようなのは、過去の世界にも、現在の世界にも、未来の世界にも、万の世界(ローカダートゥ)にブッダが溢れています。

 このようなブッダは、人間が普通に話す言葉の一つにすぎず、話、あるいは言葉を記録する以外に何の意味もありません。ブッダ、あるいは人物であるブッダは数えきれないほどたくさんいて、過去、現在、未来、そしてすべての宇宙の万の世界なら、こういうのを人間の言語の一つの言葉であるブッダと言います。

 次に神聖な物質であるブッダがいます。これは誰も皮肉って当てこするつもりはありません。本当の教育のために話します。神聖な物質であるブッダの最初の例は仏像です。多くの人、ほとんどの愚かな人や子供は菩薩堂の仏像がブッダで、魂がその中に入っているという初等の理解をします。彼らはその中に魂が入っていると言い、だから彼らはその状態のブッダである仏像に懇願し、あるいは供物をして祈願します。

 プムリエン(街の名)にある古いスアンモークの仏像は、子が授かるよう祈願し、懇願し、お願いする人がたくさんいました。年がいって子がない人が子が授かるようお願いし、懇願し、お供え物をして祈願したら、本当に子を授かった人が何人もいたことが分かっています。だからそのブッダは霊が入っていると信じられました。そしてその仏像がブッダになりました。

 大きな仏像の次は首に掛けている小さな仏像も、その中に神聖さがあり、ブッダである物があり、あれこれ護ってくれ、いろんな幸運をくれると信じている人がいます。そのお守りがブッダで、そして神聖な魂か何かが入っています。もし(魂が)なければ入魂する儀式をして、首に掛ける仏像をブッダにします。

 次は仏舎利です。仏舎利と呼ぶ物は、文字では火葬にしたブッダの骨という意味です。インドで発掘された物のほとんどは、本当の骨の灰です。タイでは、それは不思議な美しい真珠の小粒で、骨には見えません。しかし全部含めて骨と呼び、しかし奇跡がある骨でなければなりません。小粒の真珠のように細かい仏舎利はいろんな奇跡があり、語り尽くせません。私は人が話すのを聞いたことがあります。

 真人で嘘を言わないと信じられる人が話したことがあるので、信じるか信じないか、困惑しました。要するに奇跡があるブッダ、奇跡が起こせるブッダでなければならず、そうすればブッダである物があります。だからその中にブッダが潜んでいると信じるので、仏舎利がブッダになります。菩薩堂の大きな仏像も、首に掛ける仏像も、壺の中の仏舎利もブッダと呼びます。こういうのを私は「神聖な物はブッダ」と言います。

 魂、あるいは霊である状態のブッダは物質に注目しないで、物質の中に入り込んでいる魂に注目します。ある人たちは信じ、あるいは実践を遵守して、つまりあの日この日と約束した日に集会してブッダの霊をお招きしますが、どこからブッダをお招きするのか知っていません。これです、質問しても、きっとどこから招くか答えられないでしょう。

 トオリ天から招いたと答えれば思い切り笑えます。涅槃の国から招けば意味が分かりません。さてと、彼らはあの日この日にあちこちでブッダを招いて見せることができるということです。

 このようなブッダは魂であり、あるいは仏像など神聖な物の中に魂であるブッダがいて、お供え物を選ぶ一種の霊でもあります。ある仏像は茹で卵と魚の麹漬けだけを好み、他の物は受け付けません。このようなブッダもいるので、一種の霊、あるいは精霊以上の何物でもありません。

 子供を欲しがる人の支援を引き受け、子のない人に子を授けるブッダも、何か神聖な魂、あるいは霊であるブッダと見なさなければなりません。次に私たちはどのブッダを、いつでも私たちと一緒にいるブッダにしたら良いでしょうか。

 どうぞみなさん「私はどの種のブッダを、私たちと常に一緒にいられるブッダにするか」と、自問して見てください。人物本位で言えば、二千年以上前にインドを歩いていた人物で、これは歴史上の、あるいは伝記の中の人物で、これを私たちと常に一緒にいるブッダにはできません。

 事柄本位で述べれば、心、あるいは知性、能力、あるいはダンマの成熟度、あるいは「ダンマ」と呼ぶ物がブッダです。いろいろあるので選ぶことができ、そしてこの中に、私たちと常に一緒にいられる種類があります。名前だけ、あるいは神聖な物質、あるいは神聖な霊だけのブッダはできません。

 私は「関心を持つ必要はない。そして私たちと常に一緒にいることはできない」と言わせていただきます。卵と魚の麹漬けしか食べないなら、もっとできません。どの種のブッダが私たちと常に一緒にいるか、そのように捉えてください。

 次に世話をするような気持ちで思って見ると、菩薩堂の仏像、首に掛けるお守り、壺の中の仏舎利など、これらの物質であるブッダは私たちにどんな利益があるか、そして最高はどれくらいか思って見ます。仏像、あるいはお守り、あるいは何でも、これは物質であることは事実ですが、私たちに良い思いや考えを生じさせ、プラタムに対して本気になる強い力を生じさせる助けになります。

 このように捉えれば利益があります。首に掛けるお守りも、利益と見なすことを知っていれば利益があります。考えや思いが低い方、悪い方へ曲がらないように、安定したサマーディがあるように管理して、その善い心から利益を掴む、あるいはその後の利益にすれば損はありません。

 しかし神聖な物、神聖な霊と見なして神聖な物のように扱えば、こういうのは憐れな話で、仏教教団員ではありません。要するに物質であるブッダ、本当の物質でも、有益に使うことを知っていれば利益があります。

 しかしダンマである種類のブッダは本当のブッダで、そして最高に利益があり、最高に善いです。つまり私たちと常に一緒にいることができ、そして私たちの心の中にいます。菩薩堂にある、お寺にある大きな仏像は私たちの心の中にはいませんが、ダンマであるブッダなら私たちの心の中にいます。このように違いを観察して見てください。これが、私たちと常に一緒にいるブッダとは誰か、あるいは何か、どのような種類でなければならないかを教えて知らせる項目です。

 次は、いつ「ブッダが自分といる」と言うことができるか、「いつブッダが時々私たちといて、いつブッダは常に私たちと一緒にいるか」という話をしたいと思います。

 時々一緒にいる、あるいは常に一緒にいるようにするのは、人の能力次第です。ブッダが時々私たちと一緒にいると言うのは、私たちの心が清潔で明るく静かな時、その時ブッダが私たちと一緒にいます。しかも「ダンマが見える人は如行が見える」と言われたような本当のブッダです。次に、時々私たちは不潔で曇って、イライラしている心があり、その時ブッダは私たちの心にいません。

 ある日ある晩、「自分にはどんな心があるか、清潔で明るく静かなのは何時間で、不潔で曇って焦燥しているのは何時間か」自分でチェックして見て、自分で考えれば、いつ「ブッダが時々私たちといる」と言うか、知ることができます。私たちに「俺、俺の物」があり、自慢し、貪りがあり、怒りがあり、迷いがある時はいつでも、ブッダは私たちの中に残ってなく、清潔で明るく静かな心があり、「俺、俺の物」がない時はいつでもブッダがいます。

 これは常に対向車を待避するように、あるいは見えない場所に隠れるように「俺、俺の物」がある時はいつでもブッダはなく、ブッダがいる時はいつでも「俺、俺の物」はありません。これが「いつブッダが私たちといるか」という項目です。

 いつブッダが絶えず私たちといるかは、煩悩がない人だけであり、永遠に清潔で明るく静かな心がある阿羅漢は、いつでもブッダが一緒にいると言います。そこが違うだけです。いつでも一緒にいるブッダが欲しければ、昼も夜も心に煩悩欲望がないよう、それが現れないよう、清潔さと明るさと静かさだけが現れているように維持なさい。そうすればあるレベルのブッダがいることができます。

 完璧でなくても、常に私たちと一緒にいる本当のブッダには違いなく、私たちの清潔、明るさ、静かさのレベル次第で小さなブッダ、あるいは一定レベルのブッダです。だから罪な心、不善な心を持たないで、煩悩がなく身勝手がなく、徳であり善である心だけを感じていれば、私たちには小さなブッダがいます。そして段々大きなブッダになり、絶えずいるようになります。自分が阿羅漢になるまで、私たちは本当の、そして完璧なブッダが常に私たちと一緒にいます。

 ここまで話したので、時々、あるいは絶えずでもブッダがいる時、私たちはどのように感じるか、それはどんな利益があるか、という話をしてしまいたいと思います。私たちに、一緒にいるブッダがいる時は、ブッダが生きているように感じます。つまり清潔と明るさと静かさがあり、それ以上の何でもありません。

 そしてそれ以上に期待しないよう忠告したいと思います。自分の心が清潔で明るく静かなら、その時ブッダが一緒にいて、そして私たちはブッダの状態の、ブッダの美徳の本当の清潔と明るさと静かさを感じます。その時清潔で不潔でなく、秘密がなく、悪がないので、清潔を感じます。秘密があり、悪があれば、罪の告白という行動をしなければなりません。つまり二度としないという確たる心、あるいは正直な心でその悪を公表して終わらせます。

 これを罪の告白をすると言い、一所懸命新たに清潔を作る努力をします。そうすれば「これは清潔、これは不潔」という正しい知識であり、その後は静かになるので、ブッダが私たちといる時は清潔、明るさ、静かさを感じます。

 最後の質問は、そのように感じている時はどんな利益があるかです。これは答える必要はありません。それは言い尽くせないほど利益があり、述べる言葉もないからです。話す言葉より高い利益がありますが、まとめれば苦が残らず消滅することが利益です。いつ時々ブッダが一緒にいると言い、いつブッダが常に一緒にいると言うのか、そしてその時私たちはどのように感じるか、その時何の利益を受け取るか、どうぞ持ち帰って沢山考えて、そして本当に受け取ってください。

 次の問題は「私」と呼ぶ物、ブッダを欲しがる私という物ものについて話します。この項目は「身勝手ではいけない」と広く見てください。身勝手になればいつでもブッダはいなくなります。例外なく誰でも生老病死の友と見て、大人から小さな子供まで、馬鹿でも賢くても何でも、自分に対して良い物、つまりブッダあるいは神様、あるいは同じ意味がある何かを欲しがります。

 そしてどの宗教も同じで、その宗教徒に神様、あるいは教祖、あるいはブッダが身体と共にあるあるようにしなさいと教えます。神様はプラタムと話したので、ここで神様を信じる人の話をする必要はありません。

 本当のブッダであるプラタムが私たちと一緒にいるようにする部分は、私たちは欲しがることを知っています。たった二三語で簡単に教えるので、子供でも最高に善い物を望むこと、あるいは最高に善い物を身につけることを知っているからです。だから一言言うと、子供はお守りを手に取って首に掛けますが、もっと高いブッダについての理解はまだ難しく、あるいは困難です。

 つまり誰でも、自分と一緒にいるブッダを欲しがるということです。これが「私」と呼ぶ物です。次にこの「私」は何種類もあり、まだ一緒にいるブッダがない私、それが問題です。簡単に言えば、まだ阿羅漢でない人は問題があり、一緒にいるブッダを欲しがっても、難しいです。

 この世界の人の初めの部類は、今火で炙られているように苦があって困窮していて、火を消す水が欲しい人たちです。自然で困窮している人、つまり生老病死でも困難し、あるいは外部の自然、洪水、火事、いろんな変化でも困窮し、あるいは作っておいたカンマで、カンマの報いで困窮しなければならないのもいます。この困窮する人を一つの部類と言います。困窮を軽減するために自分と一緒にいるブッダを欲しがるべきですが、彼らはどうするか知らず、あるいは困難を追放するためのブッダがいることさえ知りません。

 こういうのは非常に愚かな「私」で、生まれたら自分のため、子のため、孫のための食べる物、使う物があればそれで良いと考えています。見てください。その結果説法を聞く時間がありません。しかし麻雀をする時間はあります。最高に善くても仕事をしに行く時間があるだけで、説法を聞く時間、あるいはブッダの話をする時間はありません。自分自身も困窮しているのに。

 これが物質の話、口の話、腹の話、良い生活の話しか知らないことで、初回に話したように、一頭の水牛しかいないと言います。この困窮している人たちは一頭の水牛しかいないから困窮しています。そして世界中の人がそのようです。これが、一頭目の水牛から生じる苦を追放する二頭目の水牛にするブッダを欲しがるべき「私」です。

 世界の人の二番目の部類の人は、困窮までは至りませんが、飢えていて満腹を知らず、まだ良い生活でなく、あるいは複雑に絡み合った重荷があります。しかし火のような困苦には至りません。これも一つの部類で、小康状態です。それでも、この人たちもそのような状況を打破するために、自分と一緒にいるブッダを欲しがります。

 彼らにダンマがあれば常に満腹を感じ、身体は欠乏していても心は満足でき、良い暮らしと言うほどでなくても、良い暮らしの人たちより安楽があります。良い暮らしでも際限なく腹が減るので、まだ飢えて餓鬼の人もいます。良い暮らしとまで行かなくても、心を満たすことを知っている人たちの方が安楽で、神経症になるような心がなく、憂鬱、混乱、危惧、憂慮の考えは多くありません。

 世界の人の三番目の部類は何不自由ない暮らしをし、権力や幸運、何でもあり、これも一つの部類です。本当は彼らも自分自身と一緒にいるブッダを持つべきですが、彼らはまだブッダを欲しがりません。この種の「私」はブッダを欲しがりません。食べきれない、使いきれない暮らし、権力があり、福分がある暮らしに陶酔しているからです。

 そしてこれらの物をブッダと括ってしまい、彼らが恍惚としている物をブッダ、あるいはブッダの代わりをする物と見なしてしまいます。これです。だから世界は非常に困窮し、ほとんどの社会は、食べきれず使いきれない物があり、権力と福分がある人の威力下にあります。この人たちが社会を導いて行けるのは、常に一頭の水牛がいる方向だけで、関わる人、あるいはその社会全体も困窮します。

 これもブッダを欲しがる「私」の一つの部類と言いますが、知らないので欲しがりません。しかし彼らが何不自由なく、食べきれないだけ使いきれないだけあり、権力と福分があり、そしてブッダを知ってブッダを欲しがり、ブッダを持てば、余剰の徳・善と見なします。つまり二頭の水牛がいて、他人にも同時に利益を受け取らせることができます。その人には権力と福分があるからです。

 四番目の部類は「巻き込まれる部類」という言葉を使いたいと思います。聞くとあるはずがないと思いますがすごくあり、ここに座っているみなさん誰でも、巻き込まれる部類と言うことができます。私はこのような世界は欲しくありません。世界をこのようにしたくありませんが、権力と福分と影響力がある人たちが戦争を起こすと、私たちは戦争を望まなくても巻き込まれます。

 だから戦争をしたくなくても、戦争に与しなくても、戦争から生じる危険に巻き込まれます。戦争による物価の値上がりなどの困窮に巻き込まれます。ヤクザなことが至る所に溢れるのは戦争に関わる結果で、私たちは余剰である結果に巻き込まれます。これです、この世界はますます混乱に陥り、私たちは巻き込まれます。

 今世界は平穏に戻る希望はなく、あるのは益々混乱して困難に突き進むばかりで、私たちは与しなくても巻き込まれます。だから巻き込まれる人として、巻き込まれ過ぎないよう、良く振舞うことを知らなければなりません。あるいはまったく関わらないことができれば最高に良いです。
 
 まとめて四つの部類は私たち、ブッダを欲しがる私で、感じる人も感じない人も、問題を解決することを知る人も、問題を解決することを知らない人もいます。これを、まだ阿羅漢でない人、つまりブッダを欲しがる人と呼びます。

(1) どんな理由であれ、今困窮している人たち。
(2) あまり口と腹が満腹してなく、まだ良い暮らしではないけれど困窮まではいかない人たち。
(3) 食べる物、使う物があり、食べきれず使いきれず、権力と福分がある人たち。
(4) 善人。しかし世界の非善人に巻き込まれる人たち。

 これ以外の人たちはここから出て行くことを志して阿羅漢の後を追う人たちで、まだ自分を阿羅漢と呼びたくありませんが、阿羅漢の後を追って歩きたい人たちと言いたいと思います。この人たちは更にブッダを欲しがる人たちです。私たちは「阿羅漢の後を追う」と言うようにしなければならず、苦である物を払い捨てなければならず、害である物を、ブッダが教えているように賢い方法で出してしまわなければなりません。

 私たちがブッダを欲しがるのは、普通の状態から変化した心、つまり煩悩に勝ち、貪り・怒り・迷いに勝ち、俺がなく、俺の物がない心になるようにブッダ教えている方法が欲しいからです。

 今私は、憶えやすいように一つの言葉を作りました。「死ぬ前に死ぬ人であることを知る」と言います。死ぬ前に「俺、俺の物」という執着を消滅させます。つまり自分は死にますが、身体はまだ生きています。あるいは、体である自分はまだいますが、精神面の自分はいません。つまり意味をなくしてしまいます。本当はそれはないからです。

 このように「死ぬ前に死なせる」ことを知っておけば苦はありません。そのようになるためにブッダを欲しがります。ブッダに至ればこのようになり、死ぬ前に死ぬことができます。だから今私たちは何も欲しがらず、何も恐れません。それだけで十分です。

 どうか「心で、煩悩で、執着で何も欲しがる物は何もない種類の生活をなさい」と憶えて行って、後で考えてください。お腹が空いたら欲望なしに、煩悩欲望なしにご飯を食べ、何でもしますが、希望、あるいは心を焦がす欲望を持つ必要はありません。日常の用事をするには煩悩欲望でしないで、俺、俺の物がなく、あれこれ思い込まないで、知性でするべきと知ったらします。そしてもう一つ、何も恐れません。

 外部は何も恐れず、虎を恐れず、幽霊を怖がらず、何も恐れず、どんな種類の死も恐れません。そして内部にも恐怖を生じさせると感じる物は何もありません。多くの人は考えるのが得意で、恐れるために考えて憂慮しますが、私たちは恐れず、何があっても、あるいは何もなくても恐怖はありません。何も欲望がなく、俺、俺の物になる考えがないことを、死ぬ前に死ぬと言います。

 こういうのは、常に一緒にいるブッダがあるように練習している人で、本当にできれば、本当にそうなります。再び煩悩が戻って来ても、私たちにはでき、休まずたくさんできます。今反駁できないよう煩悩を脅すことができ、心の中で煩悩になる機会を与えなければ、煩悩がないのと同じように現れ、それだけで十分です。休まずこのようにできれば煩悩は痩せて、いつの日か自然に終ります。これです。だから私は、どうすれば本当のブッダが私たちと一緒にいるかという題で話さなければなりません。

 どうすれば本当のブッダが私たちと一緒にいるか、どんな方法があるか。これは二つの方法に分けたいと思います。普通の方法が一つ、そして抜け道、近道である方法がもう一つです。

 一般人のための直接の方法は、一般人は近道の方法を知りませんが、似たような規則があるので、間違いがないと言うような普通の方法は、自分をダンマにし、絶えずダンマがあるようにします。ブッダは「ダンマが見える人は如行が見え、如行が見える人はダンマが見える」と言われました。つまりダンマと如行は同じものです。次に私たちは自分にダンマがあるように努力します。

 この「ダンマがある」は広い意味があり、非常に広く、何をするにもダンマがあり、ご飯を食べるにも、水浴をするにも、トイレに入るにも、尾籠な話で失礼、どうぞすべての挙措に、体にも言葉にも心にもダンマがあるようにしてください。そして事務所、あるいは職場へ仕事に行く時も、ダンマがあるようにしてください。

 あるいはお寺へ来るにもダンマがあるようにしてください。今はお寺に来るにも、あまりダンマがありません。だから家にいる時、あるいは他の場所では尚更ダンマがありません。それは、ブッダが私たちと一緒にいません。

 次に、私たちが実践しなければならないダンマは何があるか、自分で勉強してください。本当はたくさん話したので、まだ憶えています。だからここでは、人にいつでもダンマを持たせる項目だけを話します。それは直接実践する一般の人にとって当たり前の教えです。それだけでなく、次々にレベルが高くなり、自分にあるダンマのレベルが上がり、自分ができた分だけ増やすことができ、怒りを捨てることができ、その分だけたくさん貪りを捨てることができるので、たくさん捨てるようになると理解できます。

 悪を避ける教えを遵守するだけでは十分でなく、善も積まなければならず、善を成しても十分でなく、心を高くすることを知らなければならず、その善に執着してはいけません。これが段階を上げることで、初めに悪を避け、二段階目で善を行い、三段階目でその後は善い俺、俺の物である善に陶酔しません。

 こういうのをレベルアップできる人と呼びます。段階的に少し善くなり、非常に善くなり、純潔な心も順に少し純潔になり、非常に純潔になり、常にダンマの行動をし、ダンマのレベルを高くします。

 次に最高の捷路と呼ぶ部分にはいろんな面があり、そしてその人だけの物のようです。中には捷路である方法を使えない人もいて、捷路である方法を使える人でも、その捷路である方法が違い、同じでなく、いろんな様式があります。捷路である方法について「身勝手でなくすこと以外に、何も思わない」と、例を挙げて話して聞かせます。布施の話、戒の話、サマーディの話、何の話も思わないで、身勝手を追放することだけを思います。これだけで最高の近道です。

 身勝手であるものは何でも、例えばケチも身勝手が原因なのでケチでなくし、怒りっぽいのも身勝手が原因なので怒りっぽくなくし、そして身勝手である何でも、あることを許しません。これを「基本として自分が無い教えに依存する」と言います。「空」という名の教えは、空っぽという意味、「俺、俺の物」という考えが空っぽという意味です。要するに心にある俺、俺の物への執着を空にします。

 他の名前もあり、例えば自分を無くすには「死ぬ前に死を終わらせる」と言う方法で、無我の教えで自分を無くすと話しました。無我とは「自分ではない」という意味で、この体と心は自然であり、自然の法則で経過するとだけ知ります。「私」と呼ぶ物はありませんが、「私」と感じるのは、一部の心がそのような考えや思いを作り出し、そして小さな時から仮定されて「自分」と呼ぶので、私たちも自分があると理解するだけです。

 次に自分を助けられる自分はどこにもなく、それはそれでなければならず、その度に苦なので自分があることに懲りれば、自分ではない方向で考え、身体と心は自然に経過すると見ます。だから生まれ、老い、病み、死んでも何の問題もありません。それはこのように自然の話です。これも一気に阿羅漢になる捷路です。

 他の呼び名もまだたくさんあり、話す時間が足りないので、絶滅、あるいは涅槃の話は、後日話しても良いです。次に再び生まれるとこのようで、再び生まれるとこのようで、再び生まれなりるとこのようで云々、という捷路の方法があります。このようにだけ百回、千回、万回、十万回「また生まれるとこのよう」と見ると、一旦止まりたくなり、一旦終わりたくなり、俺、俺の物が終わり、俺、俺の物が残らず消滅し、一度涼しくなり涅槃になります。

 あれこれ感覚がある俺を止めれば、心は涼しくなり涅槃です。こういうのは他の時に、涅槃について話す時に話します。

 これが最高の捷路の見本で、空の教えで空っぽにすることを知り、無我の教えでいろんな物を自分ではないと見ることを知り、涅槃の教えで「俺、俺の物」を消滅させ、熱さを消滅させ、涼しさだけを残すことを知る見本です。

 少し時間が残っているので、次は最後の項目で、「私たちは自分をブッダにしてしまうことができるか否か」という問題です。どうすれば常にブッダが自分と一緒にいるかと言うのは、「私」がいて、ブッダが私たちと一緒にいます。今私たちは自分をブッダにしてしまわなければなりませんが、できるかどうかという問題があります。この項目は、今話したばかりの説明が理解できれば、理解できます。

 つまり「私」を消滅させてしまえば残るのはブッダだけなので、「私」を捨ててしまうことを受け入れなければなりません。そうすれば「私」がブッダになります。自分を持ちたければ、つまり俺、俺の物を持ちたければ、ブッダになる道はありません。初めに「ダンマが見える時は如行が見える」と話したのは、自分が無くなればプラタターガタ(如行)が見え、「私」は如行になってしまいます。

 これも、本当のブッダが一緒にいれば、その時私たちはブッダになってしまうので、同じ話になります。心に清潔と明るさと静かさしかない時、その時私たちは自然にブッダになってしまいます。

 しかしもう一つの角度で見ると、一緒にいるブッダが見えます。私が「自分があり、自分の物であるブッダが一緒にいる」と庶民が話すような言葉、世界語、仮定語で話すので、庶民はそのようにだけ感じます。だから普通に話すには、このように話さなければなりません。次に本当のダンマ語で話せば、ブッダが私たちと一緒にいる途端に、私たちがブッダになります。他に方法はないからです。

 いつでもブッダと一緒にいられるようにする方法は、私がないことを受け入れ、「俺、俺の物」があるという愚かさを止めてしまうという意味で、それも自分が無くなるので、最高のダンマである涅槃になります。つまりその時清潔で明るく静かになります。それは自分ではなくブッダになります。ね。私たちは短い間でも、自分をブッダにしてしまう方法があります。

 ブッダになってしまったら、どのように再び庶民に戻るのか理解できない心配があるので、「私たちが自分の心をブッダにしてしまうことができるちょっとの間は、心に清潔、明るさ、静かさがある時」と話さなければなりません。

 これは冗談でなく、楽しく反論し合うロジックでもなく、私たちがしなければならない本当の実践について話しています。それに冗談と考えないでください。これは最高に真実の話で、ブッダが私たちと一緒にいる時は私たち自身がブッダであり、ブッダである清潔・明るさ・静かさ以外に何もないと言う以上に真実の物はありません。

 最後にまとめのように、「今二千年前のブッダを自分と一緒にいるようにすることができるか、あるいは菩薩堂にある仏像であるブッダを、ブッダはお寺にいて、私たちは家にいて、出合う日はない、あるいは最高に良くても首に下げるお守りで、それも私たちの心の中には入れない、それは首にあり、首でごちゃごちゃしていて、私たちの心の中にいない」と見ます。

  二千年前にインドで涅槃したブッダは私たちと一緒にいることはできず、そしてブッダはお寺にいて、私たちは家にいるので一諸にいることができません。首に下げる小さなブッダも、私たちの心の中にはいません。だから「私たちは首に下げるブッダでなく、心の中にいるブッダがなければならない」と、良くお浚いしてみます。何万(バーツ)もする首に下げるブッダは何の利益もなく、値打のないブッダに適いません。

 価値も値打もなく、一文も払う必要がないブッダは、何万も出して買った首に下げるブッダより利益があります。私たちにはアナッガである、つまり価値のない、価値を計ることができないブッダがいるからです。私たちは心の中に清潔、明るさ、静かさがあり、心の中に本当のブッダがいます。二万(バーツ)のブッダを買ってきて首に下げれば、それは自分の迷いによる二万(バーツ)の値段の物質で、首に掛けるだけです。

 最高に良くても本当のブッダを思い起こすために忠告するお守りだけです。しかし今はそのようではない物質の話なので、何万もの値段の物を首に下げる必要はなく、代わりに他の物でも良く、何万もする仏像やお守りは値打のない、幾らもしないお守りには適わないと、よく注意してください。

 彼らはブッダのお守りを身につけて殺し合い、武器を持って争ってブッダに護ってもらうのは、これはまだ当てにならないブッダです。「首に下げるブッダのお守りがあるからブッダが護ってくれる」と言うのは、こういうブッダは小さすぎ、武器を持って闘わなくても良くさせるブッダとは比較になりません。

 誰とも暴力沙汰を起こさなくても良くさせるブッダが本当のブッダで、首に掛けて暴力沙汰を起こしに行くブッダ以上のブッダです。不死身であることに意味はありません。

 次に、私たちが首に下げるお守りとは何かを知らないと言えば、つまり首に掛けるお守りに関して正しい見解がなく、何万、何十万の物を買って首に掛ければ、それは「自分は愚か者です」と他人に教える札を下げている愚か者と表明するだけです。多少し良ければ、他の人に「これは狂人で頑固者です」と知らせます。

 本当のブッダとは何か、どうすれば私たちと常に一緒にいられるか知ってしまうことは非常に重要と考えて見てください。さてと、もしブッダのお守りが好きなら、本当のブッダ、つまりダンマと呼ぶものの象徴であり、代わりであると思わなければなりません。ダンマは如行であり、如行はダンマなので、ダンマが見える人は誰でも、その人は如行が見えます。

 この項目を忘れないでください。次にお守りを首に下げるのは、ダンマと呼ぶ物を忘れないためのダンマの象徴と知ります。首に下げるブッダのお守りを持っているなら、すぐに「私はダンマの人、私は私の人ではない」と感じてしまわなければなりません。

 お守りを首に下げている人に、このように考えているかどうか質問します。首にお守りを下げているなら、すぐに自分はダンマの人で、今俺、俺の物はないと感じなければなりません。自分がダンマの人なら大丈夫です、その時は本当のブッダが来ています。首にお守りを下げて戦場へ戦いに行くなら、ダンマのために戦い、俺のため、あるいは俺の国のためではありません。あるいは首にお守りを下げて戦場で死ぬなら、ダンマのために死ぬと言い、死にたくないのに撃たれて死ぬ非業の死ではありません。

 家で生きているなら、ダンマの人なのでダンマのためです。生きても死んでもダンマの人で、その時本当のブッダが常に私たちと一緒にいます。そして本当に永遠です。そして私たちは利益を受け取り、苦はありません。誰も祝福する人は必要ありません。年末年始の祝福も必要なく、何もする必要はありません。

 私たちには常に一緒にいるブッダがいるので、自分の幸福があります。講義の時間もなくなったので、みなさんしっかり記憶して、わざわざここへ来たことを無駄にしないでください。

 まとめると、この講義をしたのは、みなさん揃って二頭の水牛を繋いだ生活があり、どんどん悪くなる世界の状況下で暮らすに相応しい、あるいはそれらと闘うふさわしさのある正しい仏教教団員になっていただくためです。

 そして私がこれを話すのは、どの種類のブッダが常に私たちと一緒にいるかという話をしなければならないのは、それは簡単すぎる話なので、「ブッダン サラナン ガッチャーミ、ブッダン サラナン ガッチャーミ」と、何百回、何千回か知れないほど唱えているので、本当に本当のブッダがいるようにしなければならないからです。次にそうすれば苦がなく、何を手に入れても苦はなく、何をしても苦はなく、何を食べても苦はなく、休息しても苦はありません。

 そして私たちと常に一緒にいるブッダは人物でなく、物質でもなく、ダンマでなければなりません。そのダンマが如行で、如行がダンマです。それ以外は肉腫、悪性肉腫、あるいは誤解、創り出した物、最高に善くても清涼剤、頭痛を治すアスピリンで、何の病気も本当には治せません。

 次に私たちはブッダが本当に一緒にいるように努力します。私たちは生老病死による苦で困窮しなければならない部類にいるので、常に旅をして、近道を見つけたらいつでも、その近道を歩きます。近道がなければ真っ直ぐで広い道を歩き、近道を見つけたらその近道を歩きます。

 そして最後には自分がブッダになってしまいます。私たちと一緒にいるブッダがいる時はいつでも、その時私たちがブッダのなってしまいます。

 今日の講義は、これで終わらせていただきます。




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