9.信じないより信じる方が良い・信じるより信じない方が良い



1971年3月1日

 ダンマに関心がある善人のみなさん。今日の講義は、みなさんもご存知のように「信じないより信じる方が良いと、信じるより信じない方が良い」の二つをお話します。要約すれば信じる話についてで、どういうのが信じる方が信じないより良く、どういうのが信じない方が信じるより良いか、観察するよう勧める提言とハッキリ見えています。

 何は信じた方が良く、何は信じない方が良いかについて話す前に、直接「信仰」という言葉について話してしまいます。「信仰」あるいはパーリ語でサッターという言葉は最高に重要ですが、人はそれを初歩すぎる話、簡単すぎる話と見るので、信仰の話にあまり関心を持ちません。そして「私は信仰がある」と自慢する方向の理解なので、それは何があるか関心を持つ必要はありません。

 本当は非常に重要であるにも拘らず、彼らはまだサッター、あるいは信仰と言うものを少しも知りません。だから初めに信仰というものについて話してしまい、それから信じるのを選ぶ、あるいは信じないのを選ぶ方法について話します。

 初めに信仰と呼ぶものはどのように重要か、信仰の重要性について話さなければなりません。信仰を正しく全部知れば、信仰と呼ぶものの重要性がたくさん見えます。最初に、私たち人間の正常な幸福は信仰次第と話したいと思います。私たちの正常な幸福、心の落ち着き、安心感は信仰次第です。

 信仰について話すと、ほとんどの人はダンマの面、宗教の面の話、僧を信じる、そっちの方の何かを信じる話を思い浮かべます。それも信仰の一種ですが、すべての信仰の頂点である最高に重要な信仰は、自分自身を信じることです。

 自分自身の信仰は広い意味がありますが、要約すれば「自分は安全だ」という信仰です。自分は安全だ、自分は正しい、あるいは善いという信仰がなければ眠れません。私たちが熟睡し、あるいは正常な気持ちで神経系統が混乱しないのは、自分がしたこと、あるいはあるものはすべて安全で死ななくても良いと、自分自身に信仰があるから、それ以上にそれが正しく、手放した心、あるいは少なくなった心、つまり静かになれば眠れると、この観点で考えて見てください。

 これを「日常の心の静かさ、心の幸福は自分自身を信じることによってある」と言います。しかし私たちは気づかないのでこの事実に関心がなく、信仰を喜びません。信仰と呼ぶものの恩を知り、信仰を喜び、深い関心を持っている人は誰もいません。深い関心があればもっと良い信仰があり、もっと親密な信仰があり、それは更に幸福です。

 子供たちは「人生は希望によって生きる」と言い、彼らが望みどおりに得たいと希望することが、彼らに生きたいと思わせる原因です。現代の若者は良くこのように言います。このような時の「希望」は「信仰」です。つまり手に入れるに違いないと希望するから生きたくなり、あるいは希望が人生を涵養して正常にします。そうでなければ彼らは焦燥し、神経が正常でない人になって狂います。

 いろんなものが何とか期待したようになれば、彼らは眠ることができます。このような希望は信仰です。誰でもこのような希望で暮らしているので、まだ死にたくなく、ほとんど希望通りになると信仰するから安眠でき、正常な人でいられ、神経を病みません。よく見れば人生は信仰によって生き、信仰が涵養するから正常な生活になる、つまり幸福でいられるだけ十分涼しいのに、私たちはあまり関心がありません。

 二項目は、信仰はすべての行動の基本条件です。みなさん「もし何も信じなければ、私たちはそれをしない。家のこと、寺のこと、世俗のこと、ダンマのこと、何でも信仰があれば信仰でしたくなる」と良く観察して見てください。だから信仰がなければならず、そうすれば行動が生まれます。すべての種類の行動、些細なことでも、ご飯を炊いて食べる、あるいは何かちょっとするにも、それはすべき、あるいはできる、あるいは安全だ、あるいは何かそれらの信仰の上に基礎がなければなりません。

 これらの宗教、の話か何かまで大きな話は、行動の基本条件にするために猶更信仰を必要とします。だから信仰は良く、正しく、十分にしなければならない最高に重要なものです。つまりこの人生は仕事によってあり、あるいは仕事があり、誰の生活も、人の、あるいは動物の生活も同じと、段階的に見なければなりません。生活は少なくとも食べるための仕事によってあります。

 次に信仰は仕事をさせる原因であり、そして頑強に仕事をさせるので、仕事がある生活にとって必須です。だから私たちは信仰を正しく処理しなければなりません。そうでなければ仕事は間違い、誤った望みになり、そして確実にそれは生き地獄に落ちる話になります。ね、信仰はこのように大切で、私たちはそれを正しく処理し、そしてしっかりした仕事にするために信仰を十分に創らなければなりません。

 第三項は、信仰は体力と気力を養う食糧です。食糧という言葉を、私は「長期間養うもの」という意味にします。次に信仰は体力と気力の両方を養う食糧です。信仰がなくなれば体力も気力もなくなります。自分は持ち上げられると、このように信じれば気力があるので体力が出ます。気力があり、体力もあります。

 体の系統も信仰に依存しなければなりません。だから仕事をしている間中、そして生涯、信仰がなければならず、信仰がなくなればいつでも仕事は衰退し、力が後退します。あるいは養う信仰がない生活は力がありません。

 だから信仰は体力を涵養し、気力を涵養し、希望を涵養し、努力を涵養し、忍耐を涵養すると良く見なければなりません。私たちがあまり本気にならず、あまり努力せず、あまり忍耐しないのは、涵養する物がないからです。すべての涵養する物の中で、一番重要なのは信仰、あるいは自信、あるいは確信で、それはもう一度希望を涵養します。

 希望が確実になると気力が生じ、体力も生じ、忍耐も生じ、忍耐して努力ができます。だから信仰はこれらの物を養う食糧のような物です。パーリには「サッダー バンタティ パーテッヤ=信仰は涵養する物である食糧に含まれる」とあります。

 第四項は、信仰は宗教の話に必要な基礎です。宗教の話と精神の話は同じ話です。食べて行く話は宗教の話に分類しませんが、心の問題、精神面のいろんな問題は宗教の話です。次に信仰は重要な基礎で、重要である外に宗教面で必要です。私たちはもう一つ、精神面の安心のために宗教がなければなりません。心の面だけで、私たちは安らぎがなければなりません。つまり自分に信頼、確信、信仰がなければならず、そうすれば安心があるという意味です。

 宗教は精神面の温かさを生じさせることができ、それは信仰に基礎があり、つまり宗教を信じます。私たちは日常生活のすべてに安心があり、何でもない暮らしに、涵養する安心、確信、安楽がなければなりません。だから宗教は心を安心させるもので、そして必要で、宗教的な信仰の基礎である信仰がなければなりません。

 通常私たちは、しようとすることに信仰がなければならず、そうすれば安心できます。これはするべきだという信仰は最初の問題で、これをするのが良いか、あるいはしないのが良いか躊躇いがあれば、それは信仰がなく、安心がありません。

 それからこれはできるという安心、あるいは確信。初めにそれはするべきと知り、それから、それはできる、人間にできることだと知る、これも安心で、成功すると、それは更に安心し、最後に安全だったという安心です。このような状態の信仰は誰にでもいつどんな所にも必要で、そうでなければ幸福はありません。宗教の話なら更に関わりがあり、関わりが多くなります。

 述べて来ただけで、私たちが見過ごして、常に無関心な信仰と呼ぶものの重要性を見るに十分です。話せば、命を涵養する最高に恩がある物、つまり自分自身の正し信仰の恩を知らない恩知らずと言います。安楽になってしまったので考えませんが、宗教では非常に重要と見て信仰を植え付け、信仰を育て、信仰を進歩発展させるよう忠告し、あるいは教えます。

 第五項は、次の信仰の重要点、少なくとも信仰と呼ぶものは、望まなければならない最終結果に到達することに興味を生じさせ、探求を生じさせ、検証を生じさせます。何かに関心を持つことは、面白そうだという信仰が根源にあります。それは面白そうだと信じれば、私たちは興味を持ちます。そうでなければ放置して通過させます。

 だから少なくとも信仰は関心を生じさせ、そして探求を生じさせる物です。十分探求すれば、関心のあるものの真実を発見するための検証があり、最後に目的に到達します。現代の世界のいろんな学問はすべてこのようなものばかりです。今までにない新しく珍しい話に進歩するのは、面白そうだという信仰から生じるからで、「少なくともこの信仰と呼ぶものは、このような特徴がある」と言います。

 信仰がこのように重要な物なら、それを学ばなければならず、信仰と呼ぶものを理解しなければならず、そして信仰を正しくし、十分にしなければなりません。このことを正しくなければならず、そして十分でなければならないと繰り返させていただきます。私たちがしなければならないこと何でも、正しく、そして十分にしなければなりません。正しいだけで十分でないのは使い物になりません。それはしないのと同じです。

 だから私たちは信仰を十分に、そして正しくするよう理解し、取り組み、発展させなければなりません。それは命と同じです。信仰と呼ぶものを命と同じと見てください。冒頭で、信仰がなければ眠れないので、狂って死ぬと述べたように、それは命と同じです。今私たちは信仰があるので眠ることができ、そして気分が正常で、神経が正常だから狂って死にません。

 一番卑近なのは、夜眠るには「この家は安全だ。ドアも窓もしっかり閉まり、すべて安全だ」と信じるから眠れます。このような信仰、あるいは確信がなければ眠れません。次に一日中、一晩中の話も確信、あるいは「それは正しく、そして安全だ」という信仰によって暮らせます。

 だからこの「信仰」と呼ぶものは、命と同じくらい重要な話なので、私はここで話さなければならない話の中の一つとして話します。

 次に忘れないために、サッターあるいは信仰は、私たちの人生のすべての生活体系の暮らしに関わっていると、例えのような題目で話したいと思います。

1.信仰は生活の安定。「生活の安定」という言葉を使うのは広い意味があり、消滅させ難いという意味です。生活の安定は信仰によってあり、信仰がなければ不安定で当てにならず、そして変わり易く破滅します。だから信仰は生活の安定です。

2.信仰は特に心あるいは精神の休息で、信仰がなければ眠れず、そして休息がなければ狂います。だから信仰は植物を活き活きと涵養する水のように、涵養して爽快にする物です。私たちの人生には、すべての物を涵養して爽やかに瑞々しくする物のように、少しずつ潤す信仰があります。

3.私たちの人生で信仰は、終わりがなく力があるよう、後退することがないよう、そして終わりがないように体力と気力を養う食糧です。そしてそれは力でもあります。つまり信仰は体力であり、気力でもあり、体力と気力を涵養する物でもあります。

4.「信仰は心を喜ばせる財産」とパーリにあります。これは普通の人は聞いてあまり意味が分かりません。サッティタ ヴィッタン プリサッサ セッタンは、信仰は私たちの最高の財産という意味です。ヴィッタンとは財産で、この言葉は心を愉快にする物という意味です。財産は喜びを生じさせる原因なので、彼らは「心を喜ばせる物」と言います。タイ語ではサップで、すべての財産は喜びを生じさせる原因です。

 しかし信仰は、塩の恩を知らないように所有者が知らない、感じない喜びを生じさせます。つまり塩は安く、簡単で、誰も「これは価値がある、あるいは恩がある」と、あまり名誉を与えませんが、塩がなければ食べられず、大騒ぎになります。しかし塩を喜びません。信仰も同じで、人に爽快さを感じさせる財産なのに、人はそう考えず、塩を食べるから暮らしていられるのに塩を喜ばないように、信仰を喜びません。もう一つの見方では価値が少ない物で、もう一つの見方では最高に価値があるものです。

5.信仰は安心させる友達。これも似ています。私たちは財産を喜び、安心し、そして財産に迷います。しかし本当は、それ以上に私たちを喜ばせます。つまり信仰、自分自身を信じることはそれ以上にし、それは友達であり、友達という言葉の意味が最高にある友達ですが、あまり見えません。

 私たちは同じ人である(人同士の)友達を欲しがり、護衛を欲しがり、守衛を欲しがり、いろいろ欲しがり、そして愚かになって「本当に永遠に安心させてくれる友達は、自分の能力を信頼すること」であるのを忘れます。これです。信仰は友達であり、このような状態の財産か何かです。

6.私たちの身体の器官に例えれば、信仰は手です。パーリには「サッター ハットーマ ハームニ」とあり、これは何か所もあります。弟子である長老がブッダを称賛して奏上する時「世尊はそれがあり、それであり、これがあり、これである」と話し、ブッダを象の王に例えると信仰は鼻で、大人物に例えると信仰は手でした。「象の鼻」と「手」は同じ言葉で、パーリ語のハッタは手と訳し、象に関しては鼻と訳し、私たちは手である信仰があります。

 手は何をするか、みなさん考えて見てください。手の義務は欲しい物を見つけるまで手を伸ばし、見つけたらしっかり掴みます。これが手の義務、あるいは象の鼻の義務です。身体の手は物質的な義務をするので、心の手は精神面の手の義務をし、掴むとは考えることで、手が見つけたら教えとして掌握するので、手あるいは象の鼻と同じで、欲しい物が見つかるまで手を伸ばし、そして掴みます。

 信仰があることを例えれば手です。信仰がなければ手のない人で、手がなければ止めます。次に私たちは、手に入れるべき物に手を伸ばして掴む良い手を欲しがります。だから信仰がどれほど重要か考えて見ます。

7.農業について言うなら、信仰は籾種というブッダバーシタがあります。稲作をするには蒔いて苗を作る種がなくてはなりませんが、これを籾種と言い、稲作をするには、パーリには信仰が籾種、努力が雨水、智慧は軛や鋤とあり、これは状況任せですが、信仰は籾種のようです。農業では種がなければどうにもなりません。

 商売に資本がなくてはならないように、あるいは最も悪い博打を打つにも元手が必要なように、不死の田を作るには、つまり聖向聖果涅槃の実を刈り取るには、籾種つまり信仰がなければなりません。だから信仰はしなければならないことをしていける資本、あるいは元手です。

8.長旅に例えれば、信仰は食糧です。

9.一人旅に例えれば、信仰は友達です。

 信仰はどのように重要か、期待以上です。みなさんこの状態で見て、そして仏教の教えで「信仰」を知ってください。信仰を知らないほど愚かなら、あるいは信仰がなくても最高に愚かと言い、信仰はなければならない最初の項目と見なします。しかし私たちにあるのは口だけで、それを知りません。だから進歩しないので、あるのは口だけです。だから今これを知る知識を生じさせ、そして進歩させるために話しています。

 信仰、あるいはサッターと呼ぶものはどのように重要かについて、適度に話したということです。だから話すべきことを話し、時間の無駄ではないと見ることができます。

 信仰に関わる次の問題は、最初に信仰という言葉について詳しく話すべきです。この言葉は何種類もの意味がある点に複雑で厄介な問題があります。信仰と一言言うだけで幾つもの意味があり、例えば自分を信じる、他人を信じる、他の物を信じるなど、少なくとも三種類あり、同じではありません。

 自分を信じる、自分を信頼する。私たちは、少なくとも半分は自分を信じるのが好きで、あるいは本当のことを言えば、本能で自分を信じますが、少しずつ愚かになって、他人を信じる方の知性があります。自分を信じ自分を信頼するのは、自分の愚かさ次第、あるいは賢さ次第です。自分を信じるのは使い物になりますが、自分が愚かか賢いかという問題があります。

 愚かな自分に当たれば何もできません。自分を信じるのが安全なのは自分が賢い場合だけです。だから他人を信じる場所もとっておきます。いずれにしても自分を信じることは重要で、仏教の教えでは非常に求められます。続いて聞いてください。

 他人を信じることは、自分は他人に適わないと見た時に生じ、彼は自分より能力があると明らかに見ると、その人の知識を信じ、能力を信じ、その人に聞き従い、その結果神様はすべてに於いて巧みだと、その人が言うように神様を信じるまでその人に降伏し、神様を信じることが生まれます。これも他人を信じることの中にあります。そしてまだ他人に強制されるという奇妙なのがあります。

 自分は信じず、信じたくないのに、強制されて信じることもあります。布教の歴史の中で、ある宗教は強制して信じさせ、信じなければ殺しました。初めに一時期は強制されて信じ、その後は志願して信じることに変わります。初めは本当に強制されて嫌々信じますが、最後には自分から進んで信じることから脱せません。だから自由で正しさがある信仰に関して多くの問題があります。このように関わり合っています。

 他の物を信じる。これは神聖な威力を信じ、徳を信じ、罪を信じ、運命を信じ、運勢を信じ、これは愚かなら愚かなほどたくさん信じます。賢ければ賢いほど自分を信じます。少しずつ愚かになり、愚かになって他人を信じ、そして人間の愚かさによって作られた、信じるべきでないものを信じる神聖な物の信仰、運勢の信仰になります。

 全部自分の心で明らかに見ないで、他人を信じる種類の徳や罪を信じます。今いる徳と罪を信じる人のほとんどは愚かに信じ、自分自身の智慧がなく、そして自分を信じる形の中にありません。

 正しく本当の徳を信じ、罪を信じる人は、当然自分自身を信じます。しかしいずれにしても自分自身を信じることは重要で、あるいは利益があると見てください。それは自分を信じること次第ですが、十分でないので他人を信じ、他の物を信じます。しかし「自分は他の物を信じることを正しくした」と信じなければならないと言う所に戻って来ます。だから正しい決意を選ばなければなりません。心の混乱は躊躇させ、躊躇いは混乱した選択をし、それが信じるべきでない種類のものを信じることになります。

 次に人物に関わる難しさがあり、私たちの信仰に関わる人物は、二つの部類があると見ることができます。つまり自分の側、自分を愛している人、自分に好意のある人たちが一つで、私たちは信じたがります。もう一つは反対側で敵、仇、利益が相反する、宗教が違う、何でも相反する、こういうのは信じたくありません。その人が正しく話し、正しいことをし、何が正しくても信じようとしません。

 もう一つ真ん中の人たちがいて、敵か味方か分らない、あるいは外国人、見知らぬ人で敵か味方か分からない、これも躊躇します。

 だから私たちの信仰を混乱させ不安定にする物はたくさんあり、そして一般の教えでは、自分を愛している人、自分に好意がある人はいつでも確実でなく、時には愚かな人なので言い間違い、信じている人の問題が多くなります。だからこの三種類の中のどの種の人をどう信じるか、どれだけ信じるか、どれくらい関わるか、良く学んで良く理解しなければなりません。

 私たちは、誰が自分を愛しているか忘れがちで、怒ると言い返し、自分をすごく愛している両親を信じません。敵である部分も誰が自分の敵か知らず、敵である人は、自分が敵であることを公表せず、敵であることを隠して攻撃するので、誰が敵か分かりません。私たちは両親や先生を信じるように簡単に敵を信じることができます。これも信仰に関わる人と言い、これも私たちを混乱させます。


 次に信仰の状態も、何種類もあります。
1.盲信することをニャーナヴィパユッタと言い、知性も理由もありません。これをアディモッカ、盲信と言い、理由がなく智慧がありません。あるいは頭いっぱいの愛、あるいは普通を超えた慈悲、あるいは普通を超えた忠誠で信じます。こういうのは全部愚かな信じることです。だからブッダを信じるにも、愚かに信じている人も、信仰、忠誠が過剰な人もいます。

 この盲信も何種類もあり、誰かを「迷う」と言うほど愛せば、その人のすべてを信じます。これも盲信の部類に入ります。人を過剰に憐れめば、するべきでない愚なことをし、その人を信じすぎます。一般の盲信は愚かというほど鵜呑みに信じ、愚か者のように信じます。しかし今は愛で、憐れみで、正直な忠誠で信じるのもあり、これらは全部盲信の部類に入ります。

2.もう一つは盲信でなく理由で信じます。理由があり、試して見る智慧があり、確かな根拠があるから信じる、こういうのは盲信する道はありません。

3.もう一つは既に述べたように強制されて信じることで、死で強制され、信じなければ殺され、信じれは生かされるので、それも信じなければならず、盲信というのも正しくありません。死ななければならないから、取り敢えず命を長らえるために信じるので盲信ではなく、理由はありますが、述べてきたような理由ではありません。そしてそれは何らかの様式の、何らかの面の盲信に変わるかもしれません。これを死に強制されて信じると言います。

4.最後は最高の忠誠で純粋に信じる。これは盲信には関わらず、理由に関わらず、むしろ本能の威力の経過で、智慧か何かの探求とは関係ありません。ある種の動物の信仰は、私の所の犬はどれも、杖を振り上げて脅しても、頭に触れても怖がりません。私は叩かないと信じていて、杖を持って叩く振りをしても、何をしても怖がらず、叩かれないと信じています。

 これは純粋な、そしてある動物の最高度の信仰です。遠くから来た人が棒を持って来れば走って逃げ、その人を信じません。こういうのも純粋な本能の成り行きと言え、それも最高度の信仰で、それも同じ信仰です。それは叩かれても大丈夫、絶対に叩かない、それ以上に、叩いても怖くない、叩かれても何ともないと信じているかもしれません。これです。畜生は純粋な心の最高の信仰があり、このようです。

 これは、信仰と呼ぶものはいろんな状態があり、信仰の話の問題をたくさん生じさせるので、私たちはどの種の信仰が正しいか、あるいは適当か知らなければならないと見せるために話しました。

 原因を見ると、それもいろいろたくさんあり、信じさせる理由は盲信もあり、理由で信じるのは、話したように信じられそうだから信じ、(自分を)愛していると見ると信じ、可愛いと見ると信じ、自分より能力があると見ても信じます。

 信じさせない理由は反対で、信じられそうでない、理由がない、自分より劣る、自分の拠り所でない、これは信じません。そして前には信じていた信仰を変えさせる理由があり、今それは変化し、自分が変わった、あるいは相手が変わったのでも、信仰は変化します。そして非常に凶悪な、つまり自分が良く、正しく信じている信仰を踏みにじるもう一つの理由があります。時には従わないで信仰を踏みつけ、ブッダの教えを踏みつけることがあります。このように率直に言います。

 私たちはブッダを信じ、ブッダがどのように教えているか知っていて、私たちは知っていて信じていますが、時には凶暴になって制止を無視し踏みつけてしまい、信じません。両親を信じず、先生を信じず、このように両親や先生の教えを踏みつけてしまいます。信仰に関してこのように常軌を逸した状態を生じさせる原因がたくさんあるので、それが私たちを困窮させます。だから私たちは信仰が完璧でない人です。
 次におまけとして、この信仰の話は自分を信じすぎれば誤った見解になることもある、と言いたいと思います。十分徳がない人物の自分を信じることは誤った見解です。両親に対して強情で親や先生の言うことを聞かない人、この種の自分を信じることは誤った見解です。その信仰は非常に力がありますが誤った見解です。

 そしてそれは精神面のヤクザで、すべきでないことをし、恥知らずで、厚顔で怖れを知りません。これが狂気の自分を信じることで邪見です。少なくとも自慢をし、尊大で傲慢でほら吹きです。

 ほら吹きたちは、邪見である類の自分を信じる人たちです。通常私たちも自分を信じたがりますが、正しく適度にします。適度を超え、そして正しくない自分を信じれば、それは話したように邪見で、そして強情で誰の言うことも聞かず、ヤクザで恥を知らず、厚顔で罪を恐れず、恐れるべきものを恐れず、そして始終自慢しています。

 次に「事実あるいは事実でない話は、人が信じるかどうか分からない」と話してしまうべき細々したものがあります。他人が信じられる範囲を超えた真実なら、彼らは信じません。普通の人が理解でき、信じられるレベルの真実でなければなりません。それが本当に善く、あるいは真実過ぎ、人が知っている範疇でなければ、誰も信じる人はなく、誰も信じようとせず、そして「その人は狂っている。本当でないことを話す」と非難されます。

 パーリの中に、この信仰の話に関わる面白い話があります。話は天人と阿修羅が闘い、互いに優勢と劣勢を繰り返し、ある時、阿修羅軍が負けている天人が追い駆け、阿修羅たちは奇妙な状態で逃げ、ある時阿修羅が蓮の茎の穴に逃げ込んで地下の隠れ家へ行き、軍隊全体が小さな穴から降りて行きました。

 サマーディ家である、天耳、天眼、神通の類のサマーディ家である人が、阿修羅軍が蓮の茎の穴を降りて地下へ行くのを見て不思議に思い、そして友達に「阿修羅軍が蓮の茎の穴を通って地下へ逃げるのを見た」と言うと、誰もがこの人は狂っていると言いました。この話は、彼らが忠告するために話します。本当の話は、真実過ぎれば、あるいは普通の人の領域を超えていれば誰も信じず、私たちでも信じないからです。

 これは「信仰」というものについて話し、一般の教えでも、パーリ語の教えでも「信仰とは何か」を話して知らせました。次に拠り所である信仰、つまり宗教に関わる信仰について見ます。私が「信じないより信じる方が良い」あるいは「信じるより信じない方が良い」という主題にしたのと同じような問題が生じ、信じない方が良い場合もあり、信じて置かなければならない場合もあります。これが、信じる方が良いか、信じない方が良いか、どう決意すれば良いか分からない点で、この問題は最高に神経を妨害します。

 ブッダがカーラーマスッタで言われたのは、もしブッダの話を理解しなければ、何でも全部信じさせないよう感じます。このカーラーマスッタは非常に重要です。みなさん遊び事と見ないで、全員が憶えていただくようお願いします。「いろんな教えを教える人がいるので、誰を信じたら良いか分かりません」と奏上した人がいた時、ブッダはカーラーマスッタで話され、マー アヌッサヴェン=次々に聞き伝えていると言って信じてはいけない。

 マー パランパラーヤ=長く伝承しているからという理由で信じてはいけない。マー イティキラーヤ=人々が、それはそのようだと大評判になっているという理由で信じてはいけない。マー ピダカサムパダーネン=ピダカ(教典)にあるという理由で信じてはいけない。マー ナヤ ヘトゥ=ナヤ、つまり現代の哲学的手法で信じてはいけない。

 マー タッカ ヘトゥ=タッカ、つまり現代のロジックのようなもので信じてはいけない。信じるためにこの方法を使ってはいけない。マー アーカーラパリヴィタカケン=常識の感覚で、常識で推測して信じてはいけない。マー ディッティニチャーナッカンティヤー=それが自分の信仰と一致するという理由で、自分の考えに耐えられるという理由で信じてはいけない。これは最高に理解が難しいです。私たちの考えや見方が注目する度に同感しても、それでもブッダは、すぐに信じてはいけないと言われています。

 すぐに説明します。マー バッヴァルーパターヤ=この人は信頼できそうという理由で信じてはいけない。マー サマノー ノー ガルーティ=この人は私の先生だという理由で信じてはいけない。聞いて見ると「先生に聞き従わない人は駄目だ」と話したのと矛盾します。今本当のブッダの教えが、この人は私の先生という理由で信じてはいけないと言います。

 この要旨を正しく捉えれば、ブッダが目指されていた「信仰」という言葉の意味を解釈し、理解しなければなりません。つまりすぐに信じないで、すぐに受け入れないで、そしてすぐにそのように実践しません。それは盲信になります。正しいか間違いかを知らないので、この教えを守れば、正しいのも間違いも全部盲信になります。

 二度と信じる必要がなく心で明らかになり、他の人の言葉、他の教えに依らずに、他の人の教えに任せる必要がなく、本当に心で知った時、その時はいつでも信じなさい。あるいは信じることができます。たとえば自分の心に貪りが生じた時、貪りはこのように熱いものと見なければなりません。そしてその時心が本当に熱いので、貪りは熱いものと信じます。これです。こういうのを彼らは「聞いたという理由で信じない。貪りは熱いものと三蔵で述べられているという理由で信じない」と言います。

 あるいはどんな道理で考えても信じません。つまり先生でも信じません。しかし心に貪りが生じてこのように熱くなったら信じます。怒りも迷いも、正しい話、間違いの話も同じで、行動したら損害が生じ苦になったら、間違いに違いありません。反対に幸福なら、間違いでないに違いありません。間違いと信じる、正しいと信じる、熱いと信じる、涼しいと信じる、何でも自分でそのように知ることで信じます。

 だからカーラーマスッタと呼ぶものを使い方を知らなければ、害になります。つまり何も聞かないほど、関心を持たないほど、あるいは検証して見ないほど信じません。ブッダは「その時すぐに信じない」ことだけを望まれました。火はこのように熱いと言っても、聞いただけで信じないで、本当に火に触れた時そのように熱かったら、それから信じます。

 だから三蔵を根拠に信じない、この人は信頼できそうという理由で信じない、あるいはこの人は自分の先生だからという理由で信じない、とまで言われています。要するにブッダは、信じることを自由に、完全に自由に開放され、信仰に関してこれほどまでの自由を与えています。そして自分自身の感覚に任せ、それに対して本当の感覚があった時、その時信じます。彼らは「自分自身を信じる。自分の本当の経験を信じる」と言います。

 次に同時に「仏教の信仰と呼ぶものはカンマを信じ、そしてカンマには結果があると信じ、そして作った人が結果を受け取ると信じ、ブッダが大悟したことを信じる」という仏教の信仰に関わる教えがあり、信仰とはこのように信じること、という教えになります。次に聞いたから、説教を聞き、本を読んだからと信じれば、カーラーマスッタの話の誤りから脱せませんが、信じないより信じる方が良いとは言い切れません。これがこれから話す問題です。

 動物が何かをするとカンマになり、そしてそのカンマは結果を与え、行為した人がカンマを受け取ると言うのなどは、初めて聞いたら、カーラーマスッタの教えを守れば信じてはいけません。しかし信じないより信じる方が良いと見なします。これはまだ完璧に信じないで学ぶ項目にして、検証する項目として受け入れるだけ信じるという意味です。だからブッダの大悟、あるいは教えを受け入れるのは、その後真実を検証するためで、こういうのは安全で失敗する余地はありません。

 だから「信じておく方が良い」と言います。信じやすい人、あるいは何と言われようと、私たちは「カンマの行動があり、カンマの結果があり、カンマを受け取ることがある」と信じます。そしてブッダがカンマの話を教えられたのは、信じないより信じる方が良い物だからです。私たちが信じても何も害はありません。「幾つかの信じることは、信じても大丈夫、害はない。最悪でも損得なし、そして儲けがある。こういうのは信じないより信じる方が良い」と良く観察して見てください。

 次に預流の信仰についてで、預流はブッダに対して揺らがない信仰があり、プラタムに揺らがない信仰があり、僧に揺らがない信仰があるとあるので、預流は疵のない、すべての聖人が喜ぶ戒があります。預流はブッダに揺らがない、動揺しない信仰があり、こういうのは盲信ではありません。

 預流はダンマが見える人で、ダンマの理由が見えるので、ブッダに揺らぎのない信仰があるからです。普通の人がそれほどまで信じれば盲信になる余地があり、そして理由がなく、苦の話と滅苦の話を預流のように理解していないので、まだ揺れることがあります。

 預流は苦の話、苦を生じさせる原因の話、滅苦の話、滅苦に至らせる道を知り、ブッダはこの話を知り、このようにでき、そしてこのように教えた人であることで確実に善いと信じる十分な善です。全身全霊でどのように信じても盲信になる余地はなく、害になる余地もありません。そしてこれほどの信仰は、この人が危機を脱せるかどうかを計る道具です。ブッダ・プラタム・プラソンの信仰が二度と揺らがない人は預流であり、素晴らしい戒があることは、信仰がたくさんあるので当たり前にあります。

 まだ預流でない人がたくさん信仰し、無一文になるまで信じてもまだ動揺します。なぜなら四聖諦を見ることに関して阿羅漢のような基礎がないので盲信から脱せないからです。だからこのような聖人のために話しておいた信仰は、カーラーマスッタの篩、あるいは何でも通るということです。あれこれ引用する必要がなく、見ること、理解すること、四聖諦の話を明かに知るので、心の感覚だけで篩を通ります。

 まだ聖人でない、まだ預流でない一般庶民は、信仰があると言える人かどうか計るため、あるいは試すための基準を与えました。つまり「ダッサナカーモー シーラヴァタン=善人を見たい、サッタッマン ソートゥミッチャティ=サッダンマを聞きたい、ヴィムッティヤネッヤ マッチェラ マラン=いつでも汚れ、利己主義を減らしたい、サ ヴェー サッドーティ ウッチャティ=これが信仰のある人です」。パーリにはこのようにありブッダバーシタでもあります。

 ダッサナカーモー シーラヴァタン=善人を見たい人と言い、善人、戒がある人、善い行いの人、彼らは善人を見たがります。そしてサッダッマン ソートゥミッチャティ=サッダンマ(正法)を聞きたい。サッダンマという言葉は限定的な意味で、滅苦をするダンマという意味ならサッダンマ、あるいは善人のダンマと呼びます。善人のダンマなら、滅苦をしなければなりません。だからただのダンマでなくサッダンマと言います。プラタムとサッダンマは同じで、静かにするダンマ、あるいは静かな人、つまり善人のダンマです。

 その人はサッダンマを聞きたいのであり、ただのダンマではありません。そして汚れ、つまり常に利己主義を減らしたい。これは非常に重要です。常に身贔屓、身勝手を無くす人だからです。このような教えを守れば失敗する余地はなく、最高に安全です。その信仰は最高に安全で、落ちて盲信になる道はありません。「信仰がある人は善人を見たがり、サッダンマを聞きたがり、そしていつも身勝手を無くしたがる」と憶えておいてください。これを仏教の教えで「信仰がある人」と言います。

 次に私たちの規則でこれを計って見ると、「善人を見たがり、サッダンマを聞きたがり、そしていつも身勝手を無くしたがる」、このような教えがある時、信じるべきでしょうか。道理で考えて見ると反論する余地はないので、志願して信じます。次に行動すると、行動が「正しい物に違いない」と保証するので、信じるだけです。それは最高に恐ろしく述べて置いたカーラーマスッタと、その人が自分の先生だからという理由で信じないというのにも反しません。

 私たちがこの人は私の先生だからと信じない時、信じる必要はなく、そしてその人はどのように言ったか、言った言葉を見なければなりません。私たちはここでブッダを信じないで、ブッダがどのように言われたかを見て、最後には「善人を見たがり、そして利益のある話を聞きたがり、そしていつでも利己主義を減らしたい人は、その人は善人に違いない」と降参してから信じます。

 この話をするのは、どう信じたら良いか、あるいは誰を信じたら良いか分からないで、すぐに狂って死ぬので、妨害を生じさせないために、信仰を選ぶことを知り、ブッダが信仰に関して正しく話されておいたいろんな規則を使うことを知らせる目指してです。一方ブッダはその人が自分の先生という理由で信じてはいけないと言われ、仏教の聖人である弟子はこのように信じていると言われています。

 これは矛盾するように見えます。この問題を片付けるには、聖人である弟子はこのように信じたという方法で信じれば、他人を愚かに信じなさいと教えず、自分の内面の感覚で信じなさいと教えるので、どれとも矛盾する余地はありません。

 みなさんこの項目に、つまり私たちはどのような教えがあれば、「これは信じる方が信じないより良い。この話は信じない方が信じるより良い」と判断できるかに関心を持ってください。これから記憶する助けになる物として見本を見せるので、本当にある物、あるいは本当に生じる物の方が良いです。

 人がもし「阿羅漢はまだ今の世界にいる」と言ったら、あなたは信じますか、それとも信じませんか。あるいは信じる方が良いか、あるいは信じない方が良いと見ますか。私は信じる方が良いと言います。誰かが「この世界に阿羅漢はまだいる」と言ったら、信じる方が良いです。ブッダは「正しい実践がある時はいつでも、世界はまだ阿羅漢に欠けない」と、このように科学のように言われているからです。

 「イメチェ ビッカヴェ ビック サンマー ヴィハレッヤン=すべての比丘が正しく生活すれば、世界に阿羅漢は欠けない」。これは信じないより信じる方が良いです。今話して聞かせます。信じないと害になる道があり、信じれば儲けになる道があるという意味です。

 次にその人が「この人は阿羅漢です。その人は阿羅漢です」と言ったら、そういうのは信じません。信じるより信じない方が良いです。信じないでください。この人あの人は阿羅漢だと言ったら、信じないでください。いつか自分が阿羅漢になれば、阿羅漢であることはどのようか知り、そうすれば本当に阿羅漢か、本当でないか分ります。それまでは信じるより信じない方が良いです。

 もし今「この人は阿羅漢です」というのを受け入れれば、狂っているか、愚かか、盲信か、あるいは最高の何かです。しかし誰かが「この世界に今阿羅漢はいる」と言ったら、信じる方が良いです。あまり追求する必要はありません。つまりいつでもどこでも正しい実践があれば、その時阿羅漢であることはあります。そして私たちは実践する努力ができます。つまり気力を失いません。あるいは愚かに「それは時代遅れだ。実践する必要はない」と考えません。

 あるいは誰かが「私たちは、ロークッタラの話で世界のすべての物の威力より上にある心を持つことができる。私たちは実践をして、自分の心を世界のすべての物より上にいさせることができる」と言ったら、こういうのは信じないより信じる方が良く、損はありません。しかし誰かが「このようになさい。そうすれば心が上になる」と言う人がいたら、こういうのは信じない方が良いです。少なくとも損得なしです。

 誰かが「このようにしなさい。そうすれば心が世界の上になる」と言う人がいたら、これはすぐにカーラーマスッタの十項で接しなければなりません。つまりこうすればこうなる、そうすればそうなると検証するまで押し退けて信じません。そして終始自分自身で検証して「そうすれば心が世界の上に行く」あるいは「行かない」と信じます。

 もしその人が「苦の完璧な消滅は、人間にできるもの」と言ったら、こういうのは信じてください。すぐに信じ、信じないより信じる方が良いです。しかしその人が完全に滅苦した、あるいは私のようにすれば完璧な滅苦ができると言ったら、これも同じで、信じるより信じない方が良いです。

 次に小さなことで、誰かが「ブッダは人間が知るべきこと何でも知っている」あるいは「できる」と言ったら、つまりブッダはサッバンニュー(一切智)だと言ったら、こういうのは信じる方が良いです。ブッダは一切智、これは信じる方が信じないより良いです。信じなくても何も間違いではありませんが、信じる方が良いです。

 しかし誰かが、ブッダは外国語が話せる、車の運転ができる、あるいは勉強しなくても、練習しなくても何でもできると言ったら、これは信じないでください。今ブッダが中国へ行けば中国語が話せ、西洋へ行けば西洋の言葉が話せ、現代でも車の運転ができると、そこまで理解する人がいますが、こういうのは信じないでください。それはあり得ません。

 しかし「ブッダは知るべきことは何でも知っている」と言ったら、これは滅苦に関してだけ信じられます。つまり一切智の一切は、自分で悟り、自分でできた滅苦に関わる話だけです。車の運転、中国語を話すなど、これは勉強しなければなりません。同じように勉強しなければなりません。自然に分かることはあり得ません。

 「自然に知る」という言葉は限度があり、話次第、種類次第で、心の中の苦を知り、滅苦を知る種類は、ブッダはすべてご存知で、そしてご自身で知り、私たちも自分自身で知らなければなりません。ブッダの後を追って聖向聖果に到達するには、自分で知らなければなりません。ブッダから聞いて知ることはできませんが、それを実践すれば、自分で知ることができます。私たちが練習しなくても車の運転ができる、勉強しなくても中国語が話せると言うのはあり得ないのと同じです。

 あるいは「来世、あるいはパラローカはある」と言う人がいたら、こういうのは信じる方が良いです。「来世、あるいはパラローカはない」という人は信じない方が良いです。誰かが来世あるいはパラローカはあると言ったら、つまり今後死んだ後の世界、あるいは何でもパラローカと呼び、現在より後に行けば全部パラローカで、それはあると言ったら、信じないより信じる方が良いです。それはあると本当に見えているからです。過去・未来・現在があると見えていて、そしてまだ死んでないのでそれはまだなく、後であると見えるからです。

 まだ見えない来世は、あると信じる方がないと信じるより安全です。それは儲る道があるだけです。つまり来世があると信じれば、来世のために善や徳をたくさん作っておき、もし来世が本当にあれば、目いっぱい儲けがあり、万一来世がなくても損はありません。

 私たちは善行をし、それは自分にとって良く、毎日自分にとって良いので、このように損をすることはありません。来世はないと信じれば狭くなって常軌を逸れ、取り敢えず現世の利益だけを取るので汚職が簡単にできます。だから来世はあると信じる方が、ないと信じるより有利です。

 「来世」という言葉は、棺に入った後だけと意図してはいけないと忠告させていただきます。来世あるいはパラローカという言葉は、精神面の世界、つまり心の面の世界です。つまり現在より後は全部「来世」です。この一瞬より後、あるいは一秒後、それは全部来世なので、それは確実にあります。一回私、私の物という感覚があり、一回損得があり、勝ち負けがあれば、一回死んだと言います。次にその後再びあり、いつまでも繰り返します。いつでも後に来るのが、先に来たものの来世です。

 次に誰かが自然、あるいは神様という言葉を使って、あるいは何でも「この自然が、人間に行使する規則を規定した」と言い、もう一人が「人間が自然に使うための規則を規定した」と言ったら、前者が安全です。自然は人間に使う規則を規定したと言うのは、人間は反抗できず、強情ではだめです。

 このように言えば、信じる方が信じないより良いです。全部が見えなくても、あるいは最高には見えなくても、自然は人間より上の威力があり、それは人間に行使する不動の原則と信じる方が、信じないより良いです。

 人間が自然に使う規則を規定したと言うなら、これは自分を知らない愚かな人間です。自分の能力は僅かで、それを使って自然を支配します。私たちが自然である何かを使い、食べ、発明し、あれこれにできるのは、人間が自然に対して規則を作ったと理解してはいけません。自然は自然の法則を維持し、私たちは自然の規則を知る。そうすれば望みどおりにすることができます。「人間は自然に勝つことができる」と言う人は狂っていると言う方が良いです。つまり信じないでください。

 次に身近な話をします。あるいは身近である必要があります。「プラタムあるいはこのダンマは生きるために最高に必要だ」と言う人がいて、もう一人は「生きるためにお金が最高に必要だ」と言うなどは、生きるためにダンマが必要だと言う人は信じられ、信じても安全です。生きるためにお金が最高に必要だと言う人は、絶対に信じてはいけません。少し信じるだけでも危険で、強欲になり、拝金主義者になり、手に入れれば良いという主義にし、最後は不正の沼に落ちます。

 人生にはダンマが必要と言えば、お金がたくさんあっても、何の権力がたくさんあっても、まだ人でない人もいるので、非常に広いです。良く聞いて見てください。お金があり、権力や福分がたくさんあり、何でもたくさんあっても、まだ命がないようにまだ人でない人も、まだ人間でない人もいて、寝ても良く眠れず、そして情緒不安定です。煩悩に支配され過ぎるから、人生にはお金が必要と見るからです。「人生にはダンマが必要」なら安全で、そのようにならず、そして実践している教えがあればお金はついて来ます。自分で這って来ます。

 私はみなさんに「ダンマがあればお金は自然に生まれ、足の下にあり、ダンマがなければお金を探さなければならず、頭に上に積み上げなければならない」という教えを持つよう話したことがあります。ダンマがあればお金は足の下にあり、ダンマがなければお金は頭上にあります。それはどのように違うか、お金の奴隷とお金の主人はどのように違うか、考えて見てください。

 山の上で教えた最高に素晴らしいイエスの話には、このようにあり、悪魔がイエスに「なぜ魔法で石をパンにしないのだ。食べる物がないのだろう」と言うと、イエスは「人はパンだけで、ご飯とおかずだけで生きるのではない。人は神様のダンマで生きるので、これほど飢えても魔法で石をパンに変えるのは受け入れない」と答えました。これは最高に善い教えで、イエスの山の上での教えの話で、このようにあります。この話の実践を間違えば、精神面、心の面で非常に危険です。

 次に一人が「煩悩がないことは人を自由にする」と言い、もう一人は「民主主義は人を自由にする」という細々した話は、私は「煩悩がないことは人を自由にする」という人を信じます。民主主義が人を自由にすると言うのは信じません。そして嘘だと言います。煩悩がある人は自由になることはできません。どの種類の民主主義でも、煩悩があれば、誰も自由にはなれません。

 私は仏教教団員なので、このように見ます。誰でも煩悩があり、煩悩の奴隷、お金の奴隷、何かの奴隷であれば、自由がある人にはなれず、どの種類の民主主義を採用しても自由は得られません。

 煩悩を殺せば、あるいは煩悩を減らせば、あるいは煩悩を管理できるだけで自由が得られ、煩悩は私たちに何もできません。だからどのような統治下でも、全員自由があります。人に煩悩がなければ、弱い者いじめをする機会も、あるいは虐められる機会もありません。

 「民主主義」とは何かも知らないから、煩悩のある人は自由を作ることができると愚かに信じ、あるいは煩悩を管理することは尚のことあり得ません。だから振り向いて、試しに煩悩を抑える、あるいは管理するダンマを探して見れば、民主主義が現れ、時には自由も現れます。

 誰かが「私たちは二つの問題がある。体の問題と精神の問題です」と言い、もう一人は「私たちの問題は一つだけ。つまり体の、口と腹の問題だけ」と言ったら、こういうのは聞いて意味が通じるかどうか考えて見てください。

 一人は「私たちは二つの問題、つまり人生には二頭の水牛を繋がなければならないように、体と心の二つの面の問題がある。一頭は体のため、もう一頭は心のためで、正しく、そして進歩しなければならない」と言い、もう一人は「問題は一つだけ。つまり口の話、腹の話の問題だけで、腹と口が満腹すれば問題はない。体が良ければ心は自然に良くなる」と言います。

 これはコミュニストの dialectic materialism(弁証法的唯物論)です。だから信じるか信じないか、話す必要はありません。

 二つ面の問題があると言うのは、体の面は体の面の知識、テクノロジーを使って様々な問題を全部解決できます。これは一頭の水牛で牽くことができます。次に正しい理解があり、正しい信仰があり、心の面、精神面の正しい行動があり、非常に冷静なら、これがもう一頭の水牛で、牽くのを助けます。このようなら高い心がある人間で、人間であることにふさわしく、苦はまったくありません。

 このようなら信じます。「私たちは二つの、つまり体と心の面の問題がある」と言う人を信じます。そして「腹と口が満腹すれば済む。問題は一つだけ」と言う人は信じません。こういうのは信じるより信じない方が良いです。

 もっと細かい問題は、昔の人は「父を信じ、母を信じ、年寄りを信じておきなさい」と言いました。今の子供たちは「両親、年寄り、古くて時代遅れの人を信じてはいけない」と言います。それで、私たちはどっちを信じますか。子供たちはどっちを信じますか。現代の子供は後者だけを信じます。今の子供は「親や年寄りや古くて時代遅れの人を信じてはいけない」と言う人を信じます。

 それはどんどん多くなって、子供たちはダンマを聞きたがりません。年寄りの中には子供を連れてここへ来る人がいますが、質問するため、ダンマを聞くために連れて来るのではなく、観光のためです。宗教の話、ダンマの話は利益がないと見るので、子供たちは益々今話したようになって、ダンマを信じず、宗教を信じず、そして年寄りを信じません。

 これは「年寄りを信じる方が良い」という教えを持してください。誰でも、現代でも、ロケットの時代、核の時代、何の時代でも、「年寄りを信じておく」と言う人は正しいです。核の時代、ロケットの時代は年寄りを信じる必要がなく、親を信じる必要もないと理解しないでください。それは非常に愚かで、何も知りません。そして今子供たちは全員このようになり、親や年寄りを信じないで、ロケットの時代、核の時代は西洋の尻を追う方が良いと言います。

 滑稽な問題、ここチャイヤーの滑稽な問題です。もし「シヴァ神はエビを食う」と言う人がいたら、こういうのは信じる方が良く、信じる方が信じないより良いです。「シヴァ神はエビを食わない」。こういうのは信じないでください。つまり信じるより信じない方が良いです。他の場所にもあるかどうかは知りません。昔の人が楽しく話した話で、インドから来た話かも知れないし、あるいはこの辺で作った話かも知れません。

 すべての動物がシヴァ神に「人間が迫害しすぎる」と訴えた話があり、動物たちはシヴァ神に、人間がそのように迫害すると訴え、エビがシヴァ神を訪ねて「人間はこのように侵害します」と訴えると、シヴァ神は「おっ、お前、肉は食べると旨い」と、このように言いました。このように言ったので、エビは驚いて逃げました。

 彼らは「シヴァ神もエビを食う」と、つまり煩悩のある人を信頼してはいけない。そうすれば悪いこと、特に現代は汚職をしないと、からかう言葉にします。このような人は、まだ収賄をしなければならず、そしてその人は「シヴァ神もエビを食う」という言葉でからかい、シヴァ神はエビを食わないと信じません。

 しかしその人が「ボーディサッタ(菩薩)がエビを食う」と言えば、私たちは信じません。ボーディサッタはエビを食わず、神であるシヴァ神はまだエビを食います。彼らはシヴァ神を煩悩のある人、普通の人にし、神様なら天人のような神様で、まだ煩悩があり、まだ欲しがり、まだ利己主義で、助けを求めに来たエビを食います。

 しかしボーディサッタならあり得ず、喜んで自分の肉を他人に食わせ、虎に喰わせます。これは、まだ煩悩がある人はまだ収賄をしなければならないと知るべき、という主旨の話です。だから収賄を討伐するには、人でなく煩悩を討伐しなければなりません。シヴァ神もエビを食うので仕様がなく、解決できません。これは昔からある話で、シヴァ神であってもまだエビを食うという教えにするために、消滅してしまうのを心配して話しました。

 「動物は人間より優位になろうとしない」と言うのは、こういうのは信じるべきです。動物は人を騙しません。動物は人より優位に立ちません。しかし「この人は動物を騙す」そして「動物より優位に立つ」、こういうのは信じます。しかし反対に「人は動物より優位に立たず、動物を騙さない」というのは、私は信じません。

 今ある限りでは、人は動物を騙し、公正でないように動物より優位になります。小さな動物より優位になれれば、大きな動物にも優位になり、大きな動物より優位になれれば、人同士でも優位に立ちます。

 同じ人より優位になれば、侵害侵略も当たり前です。動物は絶対に人を騙さないと言うのを私は信じ、動物は人を騙すというのは信じません。私はまだ見たことがありません。動物は誰かを何かで騙す、あるいは誰かより優位になる知性はありませんが、人はその人にダンマがなく、宗教がなく正しい信仰がなければ、他人より優位に立つ、あるいはたくさん騙す道に歩いて行く知性があります。

 すべては、みなさんが持ち帰って、何は信じないより信じる方が良く、何は信じるより信じない方が良いか対比して、自分で考え、自分で判断し、そして信じないために述べたカーラーマスッタの十項を拠り所にする見本です。せいぜい実験して見て、検証して見るために聞いておくだけです。しかし仏教の教えは、実践を経て、検証や何かを経た人の教えであり、そして信じた人に害がある余地がない状態で述べられています。

 だから信じた人が損をする状態で述べてある文章、あるいは宗教の教えは何でも、信じない方が良いです。彼らも同じように、倣って実践して損をする余地があると述べています。しかし仏教では損する余地はなく、あるのは安定・安全だけで、最後には儲けがあります。

 次にもう一度信仰について話すと、このようにダンマである信じることの教えで、宗教の教えで信じれば損はありません。愚かでも損する余地はなく、損害の餌になりませんが、決められている教えで正しく実践しなければなりません。今限度を超えた信仰があり、何も調べずに信じ、愚かに信じ、宗教が規定した以上なので無明の奴隷になり、損害、あるいは苦になります。彼らは「目を瞑って信じる。愚かさで信じる」と言います。こういうのは仏教にはありません。

 あるのは適度なものだけです。家や土地を売ってお寺を建て、全部お寺にやり、そしてついでにお寺に住んでいる話、それは仏教にはありません。しかし話す人、提案する人、そしてその通りにする人がいます。これは仏教が責任を取る必要はない話です。それは、その人が何を信じる方が良いか、何を信じない方が良いか判断する教えを知らず、目を瞑って信じ、そして「私は仏教を信じている清信士、清信女です」と仏教を責める話です。こういうのは公正ではありません。

 だからみなさん、規則、あるいは教え、あるいは述べたような譬えに依存して信仰というものを知り、信仰と呼ぶものを使って今以上の利益にしてください。今私たちは信仰の恩を知らず、そして信仰を正しく調整せず、更に進歩させません。信仰が正しければ初めから終わりまで利益があり、阿羅漢にもなれます。

 全世界の宗教を彼らは、信仰を基礎にする宗教、努力を基礎にする宗教、そして智慧を基礎にする宗教の三つに分けています。

 仏教は智慧を基礎にする宗教と見なしますが、信仰も捨てません。智慧があれば智慧が教えるとおりに信じるので、それも信仰から脱せず、信仰から逃げてどこへも行きません。

 ある宗教は信仰を先にし、宗教が正しく規定した項目を拠り所に正しく実践し、多すぎず少なすぎないようにすれば、それも危機を脱します。つまり死ぬまで苦はありません。

 もう一つの部類の宗教は心を支配して体を苦しめ、心を支配して威力下にいさせ、苦である感情が生じないようにします。それも危機を脱すことができます。しかし智慧を基礎にし、信仰を智慧の後にする仏教の教えほど安全ではありません。智慧を信仰の奴隷にしないで、信仰に智慧の後を追わせ、あるいは二つを合わせて智慧の一種にします。信仰が関心を生じさせてくれ、実践すると智慧になり、智慧があれば智慧で最終的に信じます。そこまででき、そして滅苦ができます。

 ブッダバーシタは、信仰で聖向聖果に到達した人について述べ、彼らはサッダーヌサーリー(随信行者)、サッダーヴィムットー(信解脱者)と呼びます。七種類の聖人の中で一番はサッダーヌサーリーと呼び、二番目はサッターヴィムットーと呼び、それからカーヤサッキー(身証者)、ウバトーバーガヴィムットー(倶分解脱者)、ダンマーヌサーリー(随法行者)、ディッティッパットー(見至者)、パンヤーヴィムットー(智慧解脱者)と呼びます。

 信仰の習性、性質、本性がある人は高い信仰の力があるので、ぐらぐら揺れません。彼らはそれを他のことに使わず、信仰の力ですべてのサンカーラ(行)の無常を熟慮し、無常だけに信仰を集め、それは執着しないので聖向聖果に到達できます。預流向に到達すれば、この種の人をサッターヌサーリーと呼び、つまり信仰の威力で駆け出します。駆け出すとは信仰の力で駆け出し、信仰の力でこの世界から駆け出すのでサッターヌサーリー(随信行者)と言います。

 預流果、一来向、一来果、不還向、不還果阿羅漢向、阿羅漢果に到達すれば、サッターヴィムットー(信解脱者)と呼び、信仰の威力で解脱します。今人はこのようでなく、信仰があると利益を追求して煩悩にやる信じ方をするので、その信じることは危険です。しかしこの二種類の聖人は信仰の力や威力で無常・苦・無我を熟慮します。そして特に無常だけを熟慮すると、苦と無我は後からついて来ます。そしてサッティンドリアの威力で聖向聖果に到達します。

 つまりサッティンドリア(信根)が前にあり、サマーディンドリア(三昧根)、パンジンドリア(智慧根)は助ける人、あるいは象の後足です。この種の人物は、サッティンドリアが象の前足なので、サッターヌサーリー(随信行者)、サッターヴィムットー(信解脱者)と呼びます。これは長い話なので話す時間がありませんが、正しい信仰の威力で阿羅漢果まで聖向聖果に到達でき、このような名前で呼ぶと話して聞かせました。

 まとめると、この信じる話は重要で、幼い子供から若者、年寄り、世界の話、ダンマの話、地獄天国の話、聖向聖果涅槃の話まで、信仰に関して正しくすることで成功します。だから本当に実践しなければならない部分は、何は信じる方が信じないより良いか、何は信じない方が信じるより良いかを知り、そして「それは生きること。安眠できるのは信仰があるから、自分の能力と安全を信じるから神経の病気にならず、狂って死なない」と、信仰と呼ぶものにたくさんの重要性を与えます。

 私たちが強い気持ちで仕事ができるのは信仰があるからで、いろんな探求をして進歩があるのは、それに信仰があるかです。信仰を正しく使うだけで利益があり、人々が「世俗の件も、ダンマの件も」という言葉を使うように、ローキヤ(世俗)でもロークッタラ(脱世間)でも良い結果があります。

 だからお父さんお母さんは、無邪気な子供が最初から基本である正しい信仰があるようにしてやり、子供たちが「何は信じる方が信じないより良いか、何は信じない方が信じるより良いか」、述べた項目で彼らが選ぶことを知り、判断することを知れば、得るべきものを得ることができます。仏教を信奉していれば、仏教の最高に善い物を得ることができます。つまり苦がなく、聖向聖果涅槃に到達します。

 次に何も宗教を持っていないなら自然の宗教を持てば、それも良い結果があり、人生は正しい方向だけに進み、それも同じ結果があり、最後には苦がなくなります。どの宗教でもこのような状態があります。宗教でなければ科学になり、それもこのような原則があり、他の原則はあり得ません。

 信じるべきものを信じなければならず、そして信じるべきでないものは信じないで、そしてこれはまだ信じなくても良く、それはまだ問題なので、テストと検証を通過するまでまだ信じなくても良いと区別しておくのは科学です。

 「信仰は人生にとって重要で、あるいは命そのもの」と短く憶えておいてください。信仰を良く調整して、発展と呼ぶ状態にしてください。そうすれば世界に阿羅漢がいなくなることはありません。

 時間になりましたので、今日の講義はこれで終わらせていただきます。




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