10.分別論と刹那論・一体論と常住論



1971年3月13日

 ダンマに関心がある善人のみなさん。今日の講義の主題は、分別・刹那主義と一体論・常住論です。これらの言葉は、ほとんどの方にとって珍しい言葉、新しい言葉で、そして心を煩わすかもしれません。しかしすべての仏教教団員はこの種の言葉を聞いて、少なからず良く理解する必要があります。

 観察しなければならない二つの言葉「ガニカヴァーダ」とよく似ている「カニカヴァーダ」という言葉があります。文字を見れば、カニカヴァーダはカとニで、ガニカヴァーダはガとニです。カニカヴァーダは「すべては一時だけという主義」という意味で、ガニカヴァーダは「それは塊であり実体があるという主義」という意味です。

 この種の言葉は哲学の言葉です。哲学の勉強はしたくありませんが、それについて適度に知らなければなりません。そうすれば理解の難しいぎこちない言葉で聞く人を煩わしても、話すことができます。カニカヴァーダとガニカヴァーダの綴りを見るために、今配っているチラシを見てください。

 さて「ヴィバッジャヴァーダ(分別主義)・カニカヴァーダ(刹那主義)」と「ガニカヴァーダ(一体論)・サッサタヴァーダ(常住論)」と、もう一度主題のお浚いをします。最初の対は仏教で、後の対は仏教でなく正反対です。

 簡単に言えば最初の対、分別主義と刹那主義は仏教で、正しい見解です。後の対である一体論と常住論は誤った見解で仏教外です。簡単にハッキリ理解するため、そして全部を一緒にして混乱しないために、対照する対として一度に話します。

 これらの言葉の意味についてざっと言わせていただくと、分別主義は「すべては分割することができる」という主義で、一つの実体、一塊ではありません。そして刹那主義は「すべての物は一時だけ」と教える主義で、これは仏教の側です。このような教えがあります。

 次に邪見の側の一体論は「一塊で実体があり、分けることはできない」と教えます。そして常住論は「不変で、確実で、永遠に変化しない」と教えるという意味です。

 比べれば分別論は分類でき、一体論である分けることができない塊である物と正反対です。そして刹那論は「この命は一時だけ、しっかりした塊である命ではなく、一時だけで、一瞬でもある」と教え、「不変で今のまま変化しない」と捉える常住論と反対です。これは誤った見解です。

 次に幾つもの部分や要素に分けることができるというのと、一瞬だけの経過という最初の対は仏教で、実体がある塊で、永遠に変化しないというのは仏教でない誤った見解です。だから今日は、仏教の物と仏教でない物を比較する対について話しています。

 もう一度復習させていただくと、分別主義と刹那主義は仏教で、一体論と常住論は仏教ではありませんが、反対に最高にたくさん信じています。みなさん全員、あるいは人間のほとんどは、自分でも気づかずに一体論と常住論を信じています。

 気づかないで自然になるのは、このようなのだけです。つまり人は「俺は俺であり、塊であり、実体があり、そして永遠で死んでもまだ死なず、また生まれ、このように永遠」と感じます。仏教である前者のように感じるより、むしろこのように感じます。

 なぜこのように複雑で厄介な話をするのでしょうか。それは、みなさんが仏教をもっと明らかに知るためだけです。それは、個人的に神経を妨害する躊躇い、疑念、確信のなさを保障するため、そして他の教義と混同させないよう保障するためです。

 どうぞみなさん、先ずこの利益を見てしまってください。そうすればきっと「今私は教えに関して躊躇いがあり、確信がなく、一時俺であり、一時俺でなく、口では自我ではないと言っても、心は自我で、このように、いつでも躊躇いがある」と理解する決意をします。

 あるいはもう一度、他の教義や自我がある、他の宗教と混同させます。このように損害です。次に躊躇させないために、他の宗教と混同させないためにハッキリ言います。もう一つはみなさんが哲学面の仏教を適度に知ってしまうためです。しかし述べたように哲学を教えることが目的ではありません。

 教義、分野、部類、群、塊に分けることは哲学の状態で、知っても知らなくても良いです。本当は知る必要はありませんが、理解すれば利益があります。知識の基礎が強く頑丈になるので躊躇いがなくなり、他の教義と混同しません。だから私は話して聞かせ、いつでも反対の対と比較する状態で話します。

 みなさんはアナッター(無我)という言葉だけを聞くことができ、アナッターはほとんどの人が話すことができ、アナッタヴァーダ(無我論)と言うこともできます。つまり自分がないと言う主張です。これは分別主義と対、あるいは同じです。つまり次々に幾つもの部分に分類できると教える教義と同じです。

 例えばこの身体は土・水・風・火に分けることもでき、形・受・想・行・識に分けることもでき、何種類に分けることもでき、それぞれの部分をまた分けることもできるので実体はありません。

 これが仏教の側です。反対側を彼らは無分別論と言い、分類できないという教義です。分割せず、実体があり、塊であり、それはアッター(自我)という言葉と一致し、アッターヴァーダ(自我論)と言います。実体があり、分けることはできないと言う教義です。だから塊であるという教義、一体論と同じです。

 次に時間を基準にして見ると、時間について説いて教える人たちが生まれ、例えばアニッチャン(無常)は不変でなく時間と共に変化するという意味です。これは「すべての物はほんの一時だけと言う教義」という意味の刹那論です。

 だから無常論と刹那論は同じ物です。一つは不変でなく、変化し続け、もう一つは一時だけと言います。つまり不変でなく変化し続けます。これが仏教です。反対の仏教でないのは非刹那論、あるいは他の部類、他の教義です。彼らは「そうじゃない。すべての物の物は確実不変だ」と言います。それは実体がある塊で、一時だけの物でなく、しっかりした永遠の物で、そして変化しません。

 これは「確実不変」という教義である常論、あるいは「永遠、永遠に不変」と言う常見と一致します。だから非刹那論、あるいは常見、あるいは常論は一つの物、不変、あるいは永遠と見なす人たちで、不変でなく一時だけあると言う意味の刹那論・無常論と反対です。

 憶え易いように比較する対として話しました。要するに、ある人たちは「実体があり、分けることはできない」と言い、もう一部の人たちは「際限なく分けることができる物なので、実体はない」と言います。一方の人たちは「確実不変で変化しない」と言い、仏教の人たちは「一時だけで、永遠に変化する物なので、不変ではない」と言います。

 さて、自分自身の心で今感じている自分自身について、それはどのようか思って見ます。それはほとんど全員が、ほとんどいつでも「自分がある」と感じ、そして不変、永遠に不変という感じ、それは俺であり、分けることはできないと感じ、それは「このように頑丈な俺であり、一時だけ、一瞬だけと言うことはできないと感じる」と話したようです。

 誰の肩も持たず、誰にも傾かなければ、自分の本当の心で感じたことと口で言うのは違うと知ります。そして心が感じていること、それが本当の感覚、あるいは事実で、口で言うのは本当ではありません。つまり心で感じているのと一致しませんが、聞いたように話します。

 彼らは「アニッチャン ドゥッカン アナッター(無常・苦・無我)」と言います。そしてそう言わなければなりません。そう言わなければ、何も知らない人と非難される恐れがあるので、口では人と一緒に無常・苦・無我と言いますが、本当の気持ちはまだ「俺、俺の物」であり、まだ永遠で確実な自分があります。

 次に「私たちはこのようなので、プラタム、あるいは自然の真実と一致しない。そして苦が生じる。私たちは愚かで、実体があり、あるいは不変の物と感じる自分の愚かさがあるので、不変な物と言うそれを愛し、これを愛し、それを嫌い、これを嫌い、苦を生じさせるすべてを嫌う」と何としても問題を捕まえます。

 この種の誤った見解は気づいていない子供の頃から性質で、私たちを取り囲むいろんなものが誘い、誘惑し、あるいはこのような考えを増やすよう騙します。生まれた時から、その度に俺、俺の物と感じさせるよう取り囲んでいるあらゆる種類の環境があります。俺はない、あるいは俺の物はないと理解させること、教えることはありません。

 だから問題がたくさん生じて、強硬になり、最後に、大人になると、俺、俺の物に執着することから生じる貪り・怒り・迷いがいっぱいになります。これは問題です。これが非常に重要な問題です。つまり一つだけ、問題はこれだけです。

 だから小さな子供の頃から分別主義と刹那主義を学んで良く知っていれば、このような考えは生じないか、生じ難いです。子供たちに、「自動車や船、あるいは住宅など、何でもいろんな部品で組み立てられているように、命や体も小さな部分で構成され、一つになって義務をすれは実体があるように走ることができ、話すことができ、何でもできる」と教えます。

 あるいは刹那主義を知るよう教えれば、一時だけ組み立てられている物は、刻々と変化し、一瞬毎と言うこともでき、非常に早く一秒毎、一分毎のこともあり、このように休まず変化しています。

 子供たちがこのような教えを受ければ、実体があるという邪見は生じ難いです。あるいは生じても少しです。今子供たちが大きくなればなるだけ「俺、俺の物」、「永遠に変化しない実体」と感じるだけである状態に、誰も責任を取らないように、あるいは取れないようになって来ています。

 だから哲学の形で話さなければならない問題と見ます。しかし哲学を教えるつもりはなく、必要なだけ、普通の人が知っておかなければならないだけ話します。

 膨くれ上がった哲学で話せば終わりがなく、検証だけに夢中になります。瞬間の話、分別の話は終わりがないので、疲れるだけです。今は「すべては次々に細かい部分に分けられるので、そしてそれは一瞬だけなので自分ではない」と見せるだけにします。彼らは、体も何日でもなく、何か月でもなく、何年でもなく、何かしら全部変化しているので同じではないと見なします。

 身体を構成している細胞は、十年以内にすべての細胞が全部入れ替わります。心の面は話す必要がなく、それは今も変化し、一刹那毎に変化しています。このように刻々とする変化を「一刹那」と呼びます。つまりすべての物は、体も心も一時だけの物にすぎないと教える知識です。

 このように本当に見えれば誤った見解は生じません。そして貪り・怒り・迷いも生じ難いです。人は非常に快適なので、この話を話してしまいます。「してしまいます」という言葉を使うのは、哲学の形のこのような話を、あまりしないからです。今日はこのような話をする最初の日です。

 憶えるための題目として「このような教えは何か」「一瞬の物であり、分類でき、次々に変化する」と教える教えは何かと言うと、これは人間にとって最高に必要な知識ですと話し、敢えて「人間にとって最高に必要」と主張します。畜生はこの知識は必要ありません。畜生は人間のような知性、人間ほど知性がないので、成り行き任せ、元のまま、本能のままにします。

 人間は常軌を逸し、あるいは罪があり、あるいは何があるか知らず、呼び難く、人間は知性が生じて急速に発展し、本能を捨てました。次に急速に生じた新しい智慧がどっちへ行くか、通常どんどん発展する人間の知性と並行して執着が生じ、俺、俺の物になり、利己主義を生じさせる方向だけに行きます。

 時代ごとに話すこともできます。現代の世界の人間の知性の発展は、月の世界へ行けるほどで、これも知性の方向の発展と呼びますが、利己主義の感覚も非常に発展し、それも多くの問題が生じ、貪り・怒り・迷い、利己主義が増え、互いに侵害し合い、何でも多くなるばかりです。

 だから知性の多さが間違った方向に、つまり苦が多くなる方向に向かわないよう、知性の量だけ静かさや幸福がある方向に進むよう、管理する知識がなければなりません。そうすれば相応しく、あるいは正しくなります。

 短く言えば、知性が多いほど穏やかな幸福があるべきと言います。今はまだそのようでなく、反対になり知性が多ければ多いほど悪くなり、道徳がなければないほど加害し、身勝手なら身勝手なほど貪り・怒り・迷いで蒸し暑くなります。こういうのは正しくありません。正しくは、知性があればあるほど人間性が多くなり、穏やかな幸福が多くなるような成り行きにならなければなりません。

 次に本当に智慧のある人の中に、智慧ある人の統領である頂点としてブッダが生まれ、探求してこれらの事実を発見したので、規定して教えました。たとえば分別主義、刹那主義、無我論、何でも、人間にこの知識を持たせてしまえば、その人の知性は、苦をたくさん生じさせる成り行きにならず、穏やかな幸福を生じさせる成り行きになります。

 だから私たちはブッダを尊敬し、開祖であり、そして刹那主義の話、無我の話、分別主義の話などを教えたブッダが生じさせた仏教を信仰します。

 次にもう一段階良く注意しなければならないのは、分別主義、刹那主義、何でも正しい言葉があっても、同じ名前のダンマに関して誤った教えがあります。例えば「サンカーラ・身体は自我でなく、自分ではない」という正しい教えがあります。これは正しい教えですが、その後「自我でなく、自分でないので、何も責任がない」と歪められます。だから誤った見解の無我の教えになります。

 正しい無我の教えは責任を取り、良い実践と呼ぶ、実践すべき実践をしなければなりません。そして悪い実践をせず、誰も侵害せず、誰かより優位に立たず、身勝手ではありません。それが正しい教えです。

 しかし「自我でなく自分でなければ、何も責任を取る必要はない」と歪んで異教になるので、何をしても良く、徳を積んでも徳はなく、罪を重ねても罪はなく、誰かより優位に立っても罪ではありません。このように慎重にしなければならないことは何もありません。これも正しいダンマが歪んだと言いますが、まだ元の名で呼びます。

 だから「アナッター(無我)」という言葉には、正しいのと歪んだのがあります。スンニャター(空)も同じで、正しいのと歪んだのがあります。空っぽと話すのも、自分はないと見せるためです。何があっても構いませんが、自分でなく、自我でもありません。歪んだ人たちは「空っぽなら何もない。何も思考する必要はない。抑える必要も、責任を取る必要も何もない」と言うので、邪見である空です。

 だから私が「これらの教えは正しい理解を生じさせるため、苦を消滅させるためです」と言えば、正しく述べておいた教えであり、正しい範囲の中にある正しい理解があり、常軌を逸した、あるいは歪んだ物はないという意味です。

 簡単に理解できるように、この教えや主義は何から生まれたかを見ると、述べたような正しい教え、あるいはディッティ(見解)は智慧から生まれ、正しい見解から生まれ、すべての物を正しく見る人のニャーナダッサナ(智見)から生まれると、簡単にハッキリと見えます。

 アナッター(無我)であり自分ではないと言うのは、それは正しい見解があり、ヴィパッサナニャーナ(観智)があり、正しい智慧があることに関わり、「すべての物は一瞬だけで、そして分別できるので自分はない」と見ることによっています。

 こういうのは正しい教えです。そして智慧から生じます。次に、時には歪んで、心に邪見があるので邪見が介入して、引っ張ってちょっと歪ませ、「自分がなければ何も責任はない。徳を積んでも徳ではなく、罪を作っても罪ではない」と言います。こういうのは誤った見解が介入し始め、その人が煩悩に従って何でもしたがる煩悩なので、「自分でなく、自我でないので、責任を取る必要はない」と言い訳をします。

 これを「歪んだ教えは邪見が介入して誘導する」と言います。誤った教えなら、歪んだだけでなく本当に間違いで、こういうのも無明から生まれます。無明が基礎で、何一つ真実のままに知りません。だから正しいのもあり、歪んだのもあり、そしてこのように完全な間違い、全部間違っているのもあると良く観察して見てください。

 だから正しい智慧から生じれば、自分にも他人にも本当の滅苦である結果があります。しかし邪見が介入すれば滅苦はできないので、ここで分かり、そしてあるのは優位に立つことだけ、あるいは侵害が増えるだけです。

 もっと確実にするために、もっと良く見ることでこの教えの利益について見ます。あるいはどんな結果が生じても良いと中間にしても良いです。それが正しく経過すれば、日常生活に生じるいろんな問題を排除するためになります。そしてそのようにすることを目指します。要するにそれは滅苦のためになり、最終的に涅槃のためになります。滅苦の頂点は涅槃です。

 だから自分でない無我の話、空の話、自分がない話、刹那論の話、いろんな物が瞬時にあり、これらは全部私たちが賢い心を持つためです。自然を正しく理解すれば、愛させる物を夢中になって愛さず、嫌わせる物を嫌わず、恐れさせる物を恐れず、は悲しみ、あるいは日常にある委縮もありません。

 他の人たちは、見えないと霊を責め、精霊を責め、神様を責め、運勢を責め、いろんな物を責めますが、智慧があり、目があってそれが見える仏教教団員は、教えてあるように自然の真実を理解できない愚かさを責めるので、苦はありません。次に滅苦をするには、この種の愚かさを終わらせなければなりません。だから正しく経過すれば、滅苦は滅苦のためであり、滅苦ができなければそれは正しくないと見せる物です。

 だから霊や精霊、神様やら何やらを持ち出して関わらせないでください。それが苦なら間違いをした、これらの自然の法則に対して間違ってした、自分でない話、一瞬の話に対して間違ってしたと見なしてください。だから正しくやり直し、考え直し、解決し、苦がないようにしてください。正しい教えは、このように滅苦のための利益があります。

 正しくなければ話したように歪み、間違い、その後愚かにし、最高に愚かにする結果があり、このように輪廻を長く引き延ばします。なぜ私たちは心の中にある苦の話の問題を排除できず、今まで通りあるのか、よく見ると、それはこの邪見の部分を排除できず、夢中になって自我の話、不変の話か何かに次々と執着しているからです。

 だから愚かなまま、あるいは更に愚かになり、あるいは繰り返し輪廻し続けます。今年も去年と変わらず、まだ心の問題があり、そのように悶々としています。だから私たちは仏教の正しい教え、特に無我、あるいは一瞬の物、あるいは小さな部分に分けることができ、最後には何もなくなる物という教えを知らなければなりません。このように見えれば誰も愛すことはできず、誰も嫌うことができず、何かを恐れることもできず、あるいは何かに悶々とすることもできません。

 続いて「アナッターなどの教えの結果が欲しいなら、今ここで私が話すのを聞くだけでは利益がなく、実践がなくてはならない」と言いたいと思います。持ち帰って実践しなければなりません。つまり誤った見解、あるいは間違った見方が生じないよう、これらの間違った見方が生じる機会が生じないよう注意し、正しい知性で暮らさなければなりません。そうすれば間違った愚かな考えは生じられなくなり、生じる機会はありません。正しさだけにサティがあるからです。

 だから正しさは「すべては一瞬の物、すべての物は自分でなく、自我でなく、すべての物は永遠に変化し、すべての物は最後にからになり、自分がなくなるまで次々に分けることができる」という項目以外の何でもありません。これを正しい知識と言います。そしてこのように正しい知識によるサティがあり、迷いが生じる機会を与えません。これが実践です。仏教のダンマの実践はこのようにあり、そしてこれだけです。

 つまりうっかりして誤解や迷いや、何らかの誤った見解を生じさせない知性があり、常に正しい見解だけと共に暮らします。こういうのを「正しい生活」と言い、この世界に阿羅漢が欠けないようにする類の正しい生活があります。

 この言葉はブッダご自身が「正しく暮らせば、世界に阿羅漢は欠けない」と話されました。この正しい暮らしは、知性があり、常に自覚があり、俺、俺の物などを生じさせません。あるいは実体があるという考え、感覚、見方が生じる一体論など、反対側の誤った見解、非常に長く永遠で終わりがない自我である常見を生じさせません。

 このように誤った見解が支配すれば、道を外れ、道を誤り、正しくない生活と呼びます。そして世界に阿羅漢が生まれる機会はありません。だから一呼吸ごとに正しく暮らすことだけに注意して、ぼんやりしてり誤った見解を生じさせないでください。心の中が愚かになり、俺、俺の物という執着や利己主義を生じさせないでください。実践項目を細かく分ければ八正道です。

 八正道は以前にたくさん話し、たくさん説明したことがあります。教科書にもあるので読むことができます。要するに正しい生活をさせる、あるいは正しい生活の八項目で、「自分ではない変化する不変でない物」と話したような見解の正しさ、このような正しい見解が先にあれば「見解の正しさ」と言います。

 そして望みの正しさがあり、話すことの正しさがあり、仕事の正しさがあり、生活の正しさがあり、努力の正しさがあり、常に心で感じるサティの正しさがあり、サマーディである心の力の正しさ、あるいは心がどのように専心しているか、これも正しくなければなりません。

 この八種類の正しさが揃っている人を、その時「正しい見解だけ」と言います。つまり常に一瞬であること、自分でないことが見え、そして反対の誤った見解は入り込めず、入り込む場所がありません。だから私たちの心中は八つの正しさが一杯です。

 別の話しをしても良いです。私たちが「すべての物は、いつでも執着すべきではない」と見る方法で暮らすのは、「すべての物に執着すべきではない」という仏教の心臓部です。つまりそれは自分、あるいは自分の物と理解すべきでなく、自然にし、自然の物にし、そして自然の法則で正しく実践します。そうすればこの身体と心に苦はありません。自分がなくなれば苦はありません。

 「絶えず無常・苦・無我が見えるので、常に無常・苦・無我が見えるから」と別の言い方をしても同じです。常に無常・苦・無我が見えれば、何にも執着しないので、その時、そのこと自体に八つの正しさがあります。

 長々と話してきたすべてを「今十分な年齢で、いろんな物を見るに相応しいので、迷うべき物は何もないと自分で感じる」と短くまとめたいと思います。これは冗談のような言葉ですが、最高に真実です。最高に利益がある言葉になり、それに迷うべき物は何もありません。何もないというのは物質である物、あるは名誉名声、権力・幸運、善も功徳もすべてです。

 このように話すと意味が分からず、気づかずに誤った見解になります。確かに善は善い物、功徳も功徳ですが、それに迷わないでください。迷ってはいけません。善、あるいは功徳と呼ぶ物にも迷ってはいけません。善はあるままにし、そして善行をすれば苦はありません。苦がなければ幸福と言います。福もそれに迷わなければ「何にも迷わない。何にも俺、俺の物と執着しない」と言い、「迷うべき物は何もない」と言います。

 今私たちは何にでも迷っています。何にでも迷い、物品にも迷い、名誉名声にも迷い、何にでも迷います。愚かになって何かを愛し、それに迷い、あるいは何かを嫌えば嫌うことに迷い、一時迷って愛し、一時迷って憎み、一時迷って怖れ、一時迷って怒り、このように上がったり下がったりしています。

 だから述べてきたすべての正しい知識の結果は、「おお、迷うべき物は何もない」と、心の中に生じて本当に見える明らかな知識です。もう少しハッキリ言うと「欲しい物、なりたい物は何もない。欲しい物、なりたい物は何もない」です。欲しいとは愛すべき物、満足すべき物で、なりたいとは、人が「良い、名誉がある」、あるいは「豪華」と言う、何でもそのようなあれこれになることです。

 何も欲しい物、なりたい物はありません。それらはすべて、一時だけの物で、自分ではなく、変化する物で、そして執着した途端に、手に入れ、それになった途端に苦があります。だからそれを手に入れ、それにならないでください。しなければならないなら、そのようになさい。人に生まれたら人の義務をし、親になったら親の義務をし、親であることに迷わないでください。子になったら何でも子供の義務を良くし、子であることに迷わずに、迷いであれが欲しいこれが欲しいと要求しないでください。

 だから、何でもすべてを正しくし、迷いません。農家、商人、公務員、もしなれれば天人まで、それであることに迷わないでください。ね、欲しい物、なりたい物は何もありません。そうすれば何でもすべて「十分」と感じ、家の話は十分、迷う話も十分と払ってしまうことができます。誰の心も「もう十分だ」という気持ちが生じれば、その人はヴァーダと呼ぶ仏教の核心である教えを確実に知ります。

 カニカヴァーダ(刹那主義)はすべては一瞬で、ヴィバッジャヴァーダ(分別主義)はすべては分類でき、最後に何もなくなるまで薄切りにでき、アナッタヴァーダ(無我主義)は自分でないと言い、アニッチャヴァーダ(無常論)は不変の物ではないと言います。ここまで見えれば中止、あるいは急停止し、それは「もう十分だ」と拒否します。仏教の教えを知った結果です。

 次にどの人たちがこのようにすべきかは、「人と呼ぶ、あるいは人に近いすべての部類」と、即座に答えると、同時に話してしまいます。人間もすべての部類で、在家である人間もこの感覚にしなければならず、出家である人間もこの感覚にしなければなりません。同じだけ、あるいは同じレベルにできなくても、無常であり、苦であり、無我であり、一瞬だけと言う項目をして洞察を生じさせます。

 在家の人の中には、これらの話は哲学の話、第一義諦の話、高度な話、何かの話で庶民の話ではないと見る人がいます。こういうのは誤解です。これらの知識が仏教の本体、仏教の本物です。仏教の本物は滅苦のためにあるので、苦のある所はどこでも、苦がある人は誰でも、その人には仏教がなければなりません。次に庶民は在家よりも苦が多いので、庶民こそ滅苦をするダンマを欲しがります。

 だからここでヴィバッジャヴァーダ(分別主義)、あるいはカニカヴァーダ(刹那主義)と呼ぶ無常・苦・無我の話に興味を持たなければなりません。呼び方が違うのは、詳細にするためです。自分ではないと言うだけでは聞いて意味が分かりません。「アナッター、自分ではない」でも分からないので、それは分類できる物と言います。つまりヴィバジャ、分類できる物です。それは分別できる物なのでアナッター(無我)であり、自分ではありません。

 そしてそれはカニカ、つまり一瞬の物なので無我であり、一瞬なら実体はありません。苦は「自分である。自分がある」という愚かさから生じます。在家に苦があるなら、在家もこの知識がなければなりません。僧も同じですが、僧は実践する機会が多く、早く実践でき、在家は他のことで混乱し、苦労しているので、遅く行く点が少し違いますが、どちらも行かなければなりません。

 誰がこれらの実践項目に関心を持って学ぶかと問うなら、全員と答えます。人間なら人間全員で、天人なら天人全員です。欲界の天人も、どの梵天界の天人も、まだ自分があるので苦があります。だから人間のように学ばなければなりません。人間より良くはありません。人間は天人より苦が多く、天人は人間より楽しさが多く、我を忘れることが多く、慌てふためくことが多く、苦が多い点が人間より劣ります。

 人間は苦と幸福が半々と見なされ、半々なら簡単に真実を知る良い機会です。天人は非常に面白く楽しいことばかりなので、苦は現れず、苦はあってもほとんど現れないので、非常に我を忘れます。天人も死ななければならず、天人も貪りがあり、怒りがあり、迷いがあり、天人も泣くことを知り、煩悩があるので、同じように苦があります。しかし彼ら天人は徳があり、「楽しむ機会の方が多い所に徳があり、我を忘れさせる」と言います。

 私は最高に広く「考えたり思ったりする智慧がある動物は、これらの教えを知る必要がある」と答えることができます。ヴィバッジャヴァーダ(分別主義)、カニカヴァーダ(刹那主義)、アナッタヴァーダ(無我論)、アニッチャヴァーダ(無常論)、呼び方次第ですが、要するにそれに迷うべきでないと見るよう教える真実です。

 次に「どこだって? 行ってみよう。どこで勉強し、実践するのだ」、あるいは「この規則はどこで使え、どこで使えないのか」と言えば、この話の規則、このダンマは、人間が「それは何で、どこにあるか」知っただけどこでも使うことができ、あるいは使わなければなりません。お寺の言葉、宗教の言葉で、彼らは「すべてのローカダートゥ」と言います。万の世界でも自由ですが、すべての世界はこの規則を実践しなければなりません。

 この規則を知って、それからこの規則を例外なく実践しなければなりません。この世界、このローカダートゥの人間についてだけ話す必要はありません。考える知性のある他の世界ダートゥのすべての動物は、この規則を知らなければならず、この規則を実践しなければなりません。それは自然の法則だからです。

 だから自然の領域がどこまででも、ダンマの規則もそこまで行きます。それは自然の法則、人間、あるいはすべての動物が自然の法則に従って実践しなければならない義務です。だから自然がある所に法則があります。どこも例外なく、地獄の動物も、あるいは天国でも、どのレベルでも、どこででもこの項目を知って実践しなければならないと言うことです。そうでなければ苦になります。

 最後にいつと問うなら、過去も未来も現在も、いつでもと答えます。「ある時代のある時期」と、時間の話の出口を探さないでください。必要ありません。そのダンマは時間に関係ありません。人間はダンマがなければいつでも、その時苦の話があります。例外なくその時で、時間に関わりありません。「問題、あるいは苦が生じた時」と、ちょっとハッキリ言います。他のすべての時はダンマを欲しがりませんが、心に苦が生じた時、あるいは問題が生じた時だけダンマを欲しがります。

 援けるのが間に合う正しい知識がなければなりません。この知識が正しく、そして間に合わなければならないと、この二語を良く憶えておかなければなりません。苦がある時、その苦を解決するために間に合うように来なければならず、そして正しければその苦を解決できます。

 だから自分に苦がある時、あるいは苦である心の問題、精神の問題が生じた時は、分別主義、刹那主義、無我主義などの知識が正しく、そして間に合うようになければならないと準備しておきます。そうすれは苦が滅します。これを「苦が生じている時」と言います。

 まだ苦が生じてない快適な時間がある時に、私たちは述べた知識がもっと強靭になるよう訓練しなければなりません。無常・苦・無我の話、分別主義、刹那主義の知識がもっと強くなるよう訓練します。ここでの「強靭」とは、いつでも掌中にあり、手から離れなくなるまで、もっと明らかに、もっと早く理解し、もっと自分の支配下に、自分の掌中にあるようにするという意味です。

 これを「普段から毎回この知識をより強くするために訓練しなければならず、そして問題が生じ苦が生じたら、その知識を正しく、時に間に合うように使う」と言います。これらいろんな規則は「みなさんはこのような理解がなければならない」と述べてきた教えと関わりがあります。

 次に冒頭で「その教えをヴィバッジャヴァーダ(分別主義)、カニカヴァーダ(刹那主義)と言い、ヴァーダとは話す言葉という意味です」と述べたように教え、ダンマについて話します。分別主義は、すべての物は最後に空っぽになるまで細かく分割することができると教えるヴァーダ(主義主張)という意味です。刹那主義はすべての物は一瞬だけで、永遠ではないと教えるヴァーダです。ヴァーダという言葉、ヴァーダという言葉について話すと怪訝に感じる人もいます。

 このヴァーダという言葉は昔のパーリ語、あるいはサンスクリット語の習慣で、現代の西洋人が使う ism という言葉と同じです。彼らはヴァーダという言葉を使いました。ism は説、あるいは見解、あるいは何らかの主張である行動という意味で、このヴァーダという言葉に相当します。ヴァーダと呼んでも本物は言葉でなく、本物は説、あるいは心の中にある考えで、口から流れ出て言葉として表出します。愚かに「それはヴァーダだけで、何もできない」と言う人もいます。

 本当はこのヴァーダは言葉という意味でなく、話させ、発言させ、あるいは言葉で表現させる考えや思いを意味します。みなさんにとって聞き慣れませんが、学習者には珍しくなく、ヴァーダ、あるいは ism と聞き慣れてしまっています。カニカヴァーダ(刹那主義)、あるいはこのヴァーダは話す言葉でなく、心の中に埋まっていて、言葉として表出する主義主張であると良く理解してください。

 次にそれは話す言葉だけでなく、それ以上に常識、本能でみなさん自身の中に生じる感覚でもあります。みなさん「それぞれの人は自分がそう考え、そう信じ、そう話し、他のように話さない、自分の断固とした気持ちである感覚がある」と、自分自身も含めたすべての人について思わなければなりません。このようなヴァーダが誰にでもあります。ありますが、正しい方や間違った方にあり、ほとんどは間違った方にあり、述べたように苦にさせます。

 しかし今、通常それは誰にもあり、誰にでもあり、そして自然に生じると指摘したいと思います。私たちが母の胎から生まれると、この ism、あるいはヴァーダが芽を出し、根を出してどんどん根を張り、若者になると自分の物がいっぱいになって、それぞれの形になります。それをその人の ism、あるいはヴァーダと言います。それは常に話す準備が整っていて、常に心の中の頑丈な基礎です。そしてこれが常識になると見なします。

 つまりその人は、生まれてから毎日取り囲まれている環境で勝手に思い込んで、ディッティ、見解の形にし、自分の物にします。そしてそれ以上に、動物のように本能からも生じることができます。

 すべての動物には本能があり、低いのは畜生ので、人間にまで付いてきます。最高に低い人間の感覚は本能の話で、食べ物を欲しがり、生殖を欲しがり、名誉を欲しがり、優秀になりたがり、自慢をしたがります。何でもこれは本能の話で、十分たくさんあります。

 次に、本能が訓練された知性によって改善解決変化させられると、その人の完成した主義に形を変え、その人のヴァーダ、あるいは ism と呼びます。これは誰にでもあります。これです。それは本能と幼い頃から取り囲んでいる常識から始まり、これが一段階で、次にそれは環境によって少しずつ発展します。

 発展というのは、環境、特に教育による変化です。環境という言葉は意味がたくさんあり、非常に重要で、環境が心を変えます。かつて心と今の心が同じでないのは、環境が少しずつ包囲して、別の人になるまで少しずつ包囲するからです。次に教育なら教育であるだけ、強烈に素早く変化させる凶悪な環境です。

 教育には正しいのも誤ったのもあり、苦のためになっても気づかないのもあります。ここに座っているみなさんが、ここでこの話を聞くのも教育です。理解があれば非常に威力があり、心を変化させて滅苦の方に行かせることができます。理解しなければ何もなく、誤解すれば悪い結果が生じます。

 だからヴァーダ、あるいは ism と呼ぶものは避けようもなく誰にでもあり、そして自覚する必要はないと見なしてください。感じるのはそれをどのように使うか、どのように届けるか、どのように明示するかだけです。

 だからこれは私たちに関係ないと理解しないでください。それがどこにあるか知りません。本当は小さな時から心の中、識の中に棲みついています。だからある人に基礎として一つの見解があれば、その人はそういうヴァーダがあり、そういう ism があります。だから私たちの義務は、それが正しい方に行くよう管理するだけ、あるいは更に正しい方へ行く成り行きになるよう解決するだけです。

 もう一度ヴァーダ、あるいは ism と呼ぶ物を見ると、神様のように最高の威力がある物と言うことができます。誰でも自分の信仰があり、自分の信仰は真実で正しいので、自分自身の信仰、自分の見解を崇拝します。これがその人物のヴァーダ、あるいは ism です。それはその人にとって神様と同じ状態があります。だからそれは、その人に関しても社会に関しても、その人の人生を動かす、運勢を動かす威力があります。

 その人の主義であるヴァーダ、あるいは ism は、その人を創った神様で、その人はそのヴァーダの威力で経過します。だからその人が苦か幸福かは、その人の状況次第で、同時にその人は社会を幸福や苦にします。が、それはその人のこの話が原因です。だからヴァーダは、すべての人の人生を動かす威力がある物と見なします。

 人は何をするにも、自分のヴァーダですると憶えておいてください。その人は自分の ism のようにし、他の仕方はできません。そして人を傲慢にさせ、あるいは謙遜させるのもこの ism であるヴァーダです。だからある人はある時は傲慢で、ある時は謙遜します。そして傲慢の話、謙遜の話は小さな話でなく、悪い出来事・良い出来事を生じさせる話です。だから良く理解し、良く対処してください。

 続けて見ると、このヴァーダは主義で、哲学主義でも宗教の主義でも、いろんな主義の発生源です。その人のヴァーダ、あるいは ism は宗教を創り、その人にとって主義を創ります。次に偶然大勢の人が一致すれば一つにまとまって、信者がたくさんいる教理になり、それより多ければ信仰する人がたくさんいる宗教になります。だからヴァーダと呼ぶ物は小さな物ではありません。

 仏教も、話したように無常・苦・無我の話を教えるヴァーダの一つです。それは主義、あるいはいろんな主義が生まれる源であり、同時にそれに関わる他の物の発生源です。この ism は犠牲、あるいは犠牲でないことの発生源になります。そして血迷わせる原因であり、血迷うのを拒んで死を甘受することもあります。だから見過ごしてしまわないでください。遠く見て、何があるか分からないほど慌てふためかないでください。

 最高に凶悪で、人をどのようにもすることができ、礼儀正しくもでき、下品で荒っぽくもでき、血迷わせることもでき、死を甘受させることもでき、犠牲にも、ケチにも、いつでもどのようにでもできる最高に重要な物です。ヴァーダの話を遊びにしないでください。

 さてみなさん、なぜこれがヴァーダと呼ばれるのか、「ヴァーダは話す言葉という意味で、これは言葉にして外へ押し出すもの、あるいは人が話すのはこれの威力で話す」と、誰でも自分で見ることができます。私たちは短くヴァーダと言いますが、話す言葉ではなく、話す言葉の根源であり、話す言葉の来源です。すべての話す言葉はこれを表出するため、あるいは表現するためです。

 ヴァーダは主義、あるいは心の中の感覚の代表で、ヴァチーは普通に口で話す言葉です。それでもこのヴァチーは、ヴァーダと呼ぶ内面にある考えの威力で経過します。何らかのヴァーダがある人はその(ヴァーダの)ように話します。

 私たちが最高にたくさん聞くのは、アッタヴァーダウパダーナ(我語取)という言葉で、合わせてアッタヴァードゥパダーナと言い、ウパダナーナ(取)=自分というヴァーダの威力による執着、アッタは自分+ヴァーダ(主義)+ウパダーナ(取)である執着、合わせて自分というヴァーダによる執着という意味です。

 これは自分、自分の物という言葉への執着ではなく、俺、俺の物と言わせる原因である考えや心情への執着です。それです。この場合のヴァーダという言葉は、話す言葉だけを意味せず、話させる原因である深い物、深い内部にあり、そして話すのはそのためという意味と憶えておいてください。これがヴァーダ、あるいは現代で ism と呼ぶ言葉の理解で、このようです。

 残っている時間で、ヴィバッジャヴァーダ(分別主義)という言葉について話したいと思います。ここで、一つの話す言葉、特にヴィバッジャヴァーダという言葉には何種類もの意味があると言う機会をいただかなければなりません。ヴィバッジャヴァーダは分割できると言うワーダがあるという意味です。

 このヴィバッジャワーダは、ダンマ、あるいはサンカーラ(行)の分割に関わらず、正しさのために分類しておくもう一種類があります。つまり何かを断定して話さないで、曖昧に話しておくようなのもヴィバッジャヴァーダと言います。

 エーカン(一辺)-サヴァーダのように断定的に話すと、相手が反論した途端に、策に詰まって降参しますが、ヴィバッジャヴァーダなら、「もしそうなら正しいと言い、もしこうなら間違い」と言い、このようなら幸福で、このようなら幸福でないと分けて置けば、詰まることはないという意味です。こういうのもヴィバッジャヴァーダと言います。ブッダはヴィバッジャヴァーダで、何も一方的に否定も肯定もしません。

 「他人の教え、あるいはヴァーダについてどのように仰いますか。他の宗教、外の教義ではそのように話し、そのように実践させ、そのように捨てさせます。何であれ、ゴータマブッダ様は何と言われますか」と質問する人がいました。

 その時ブッダは『私は、この苦行は励むべき、あるいはこの苦行は励むべきでないと一方的に話しません。何も断言しないで、どんな苦行、あるいはどんな実践をするにも、実践して善が生じ、不善が消滅する、こういうのは励むべき、あるいは行動すべきで、実践したら不善が生じ、善が消滅したら、これは行動すべきではありません』と答えられました。

 ブッダがこのように話されたのを、ヴィバッジャヴァーダ(分別主義)と言い、何が可で何が不可か断言しないで、判断する道具である意味にしました。だからブッダは威嚇すべき人を威嚇し、称賛すべき人を称賛し、全面的に「人は称賛すべき、あるいは威嚇すべき」と捉えませんでした。だから質問した人は満足し、喜びました。

 次にもう一つ、述べたようなヴィバッジャヴァーディー(分別主義者)という言葉があります。つまりすべてのサンカーラダンマは実体がなく、塊でなく、何でもなく、分割できるというヴァーダがある人です。すべてのサンカーラダンマは自分であり、自我であると言えばヒンドゥー主義で、仏教外の他の教義です。だから仏教の比丘あるいは仏教教団員は全部ヴィバッジャヴァーディーで、すべての物は分割できる物でできていると言う人です。

 この話がある歴史書の中に、アショーカ王の時代に第三回サンガーヤナー(結集)をして仏教を粛清した時の話があります。その時仏教が繁栄していて、アショーカ王が振興したので外部の人たちが大勢仏教で偽の出家をし、損害が生じるほどになりました。仏教は衰退し、玉石混交としていたので、仏教でない人を選ぶ、あるいは仏教の比丘を選び出すのにどのようにしたでしょうか。それは分別主義、あるいは非分別主義の話を使ったことが分かっています。

 容疑者、つまり偽りの出家か偽りでない出家か疑いのある比丘は誰でも、サンカーラ(行)について、すべてのダンマについて「それはどのようか」尋問しました。分割できる物でない、あるいは一時の物でない、自我である方の回答をした人は捕まえて還俗させ「仏教でない。偽りの出家をした」と見なしました。

 次にヴィバッジャヴァーダ(分別論)、カニカヴァーダ(刹那論)の正しい回答をした人は受け入れて居させ、仏教の比丘としていさせました。この方法は、アショーカ王の時代に、偽りの出家をした仏教以外の人たちを追放し、仏教から全部追い出すことができました。そして仏教を粛清して純潔にしたサンガーヤナーの一回と見なします。

 ヴィバッチャヴァーダという言葉は二つ、あるいは幾つもの意味があると理解しておいてください。しかし重要な意味は、すべてのサンカーラは分割できる物と見させます。

 次に前者の分別主義である仏教については、ここに座っているみなさんを見ると、一人を少なくても二つの部分、つまり体と心に分けることができます。一つの石のように一人、一つ、一個と呼ぶことはできません。一人の人には二つの部分があり、一つは体、一つは心です。こういうのをヴィバッジャヴァーダと呼びます。次に一人の人を三つの部分に分けることができます。

 体が一つの部分、そして今考えている心がもう一つで、今思っている心の感覚がもう一つ、全部で三つの部分になります。こういうのを形が一つ、心が一つ、チェタシカ(心所)が一つと言い、三つです。さっきは体が一部、心が一部で二つの部分に分け、次は心を二つの部分に分け、心の部分と心の感覚になるので、全部で三つの部分になります。

 次に、もっとたくさんに分けたいと思います。二つ、つまり体と心に分けたのをそれ以上の五つの部分に分けると、五蘊と呼ぶ形・受・想・行・識です。体は形で、心は四つの部分に分け、幸不幸に関わる感覚である受が一つ、自覚、意識、記憶に関わる想が一つ、そして考えや心情である行、これが一つ、そして考える人、思う人である心、識が一つで、五つの部分になります。一人の人が五つの部分に分けられるのに、塊と呼ぶことはできません。

 次に他の物に分け、六つの部分にすると、ダートゥに分けると言います。土・水・火・風・空・識で六つのダートゥになり、一人が六つの部分に分けられます。土・水・火・風は体の部分で、識はまだ分けてない心です。そして空ダートゥはすべての物の基礎である空っぽで、それも身体に含まれます。身体と心は空の上、空のダートゥの上に基礎があるという意味です。

 別の利益のための別の分け方があり、器官の義務を基準にすれば、一人の人を目・耳・鼻・舌・体・心に分けます。これが犯人、これが悪者なので、彼らは「悪者」、あるいは「凶悪者」という意味でインドリアと呼びます。

 インドリア呼ぶ目・耳・鼻・舌・体・心の六つの部分、つまり問題を生じさせ、感覚を生じさせ、それから思考、そして執着すると貪り・怒り・迷いが生じ、最後に苦になります。すべてはこの六つの部分、目・耳・鼻・舌・体・心に依存しています。

 一体の人が六つの部分、つまり目・耳・鼻・舌・体・心に分割されます。そしてそれが感情を味わっている瞬間は、その感情も身体の一部に含めます。目が形を見、耳が声を聞き、鼻が臭いを嗅ぎ、舌が味を味わい、体が皮膚の接触をし、心が感じ考える時、外部の六つの部分を内部の六つの部分と合わせるので、今形は目に関わる内部の仕事をし、声は耳に関わる内部の仕事をし、それはその中に入っています。

 これだけでみなさんは、「それは幾つかの部分に分けることができる。ダートゥに分け、そしてそのダートゥを更に分け、最後には空になる。これをルーパダンマ(形の物。具象物)もこのように分けることができると言う」と例を挙げたように、何とか理解できます。

 次にナーマダンマ(名の物。抽象物)、つまり識の意味を分け、識と呼ぶものがどのように働き、どのような結果が生じるか、その状態ごとに人を分けます。こういうのを煩悩、カンマ、報いである「ヴァッタ(輪)」と言います。時々私たちは煩悩の状態、あるいは領域にあり、心に煩悩が生じている時の私たちを仮定で煩悩とし、そしてその後はカンマであり、カンマの行動です。

 このカンマの行動をすると、この人はカンマを作っている人になり、そしてその後、この人物はカンマの結果を受け取る人になり、カンマの結果を受け取り終わると、また煩悩が生じて煩悩の人になり、煩悩の物、あるいは煩悩になります。煩悩の話、カンマの話、報いの話の中を循環し、三種類の人になります。煩悩がある人、カンマを作る人、カンマの結果を作る人、そしてまだ他にたくさんの物があります。「ナーマダンマ(名の物。つまり心)の側をよく見ると、人もたくさんの種類に分けることができる」と言います。

 もっと深遠なのは、人は時には、時々、世界、あるいは苦である時があり、時には苦を生じさせる原因であり、煩悩になっている時があり、そして時には滅苦である時があり、煩悩がなく、苦がなく、快適で穏やかで安心で、時には私たちは滅苦の努力をして、このように滅苦の道を歩いている時もあります。

 もう一つの言い回しの譬えで、ブッダは「世界」と呼ばれ、時には私たちは世界で、時には世界を生じさせる原因で、時には世界の消滅で、時には世界の消滅に至らせる道です。その時何をしているかによりけりです。

 その時苦があって泣いていれば、苦しければ、こういうのは、私たちは世界であり、苦です。そして時には貪りがある人で、終始一貫して煩悩・欲望・取があれば「世界を生じさせる原因」と言います。時には何もなく、妨害する何もなく、まだ快適、あるいは阿羅漢になってしまうのは、世界の消滅です。

 私たちのほとんどは煩悩を消滅させ、苦を消滅させるために必死の努力をしています。遠路ここまで来て、何時間も聞いているのは、正しい理解と知識を探求する教育によって、世界を消滅させるための努力です。座って説法を聞くのは、旅、あるいは世界を消滅させるのと同じで、二度と苦にならないために世界の消滅に向かいます。

 次に家に着いた途端に再び苦が覆い、再び世界になります。あるいは煩悩があって眠れないでいます。それは暮らし方次第で何種類にも、何十種類にも分類できます。

 人である状況の中に悪趣もあり、善趣もあります。悪趣も四つ、善趣も四つあり、これは分かり易く話します。

 悪趣とは地獄・畜生・餓鬼・阿修羅です。地獄は焦燥で、あなたが焦燥している時はいつでも、その時あなたは地獄の動物です。これは子供式の話です。あなたが心の面、精神面で飢えていれば、その時あなたは餓鬼です。あなたがあるべきでないほど愚かで、あるべきでない愚かさがあれば、その時あなたは畜生です。人の体の中で畜生になれます。

 次にあなたが理由もなく臆病な時、その時あなたは阿修羅です。ね、一人の人が地獄にも、畜生にも、餓鬼にも、阿修羅にもなれます。

 その人がどのような状態か、ダンマを知っているかいないかで、いつでもなれます。無常・苦・無我を何も知らない。こういうのは簡単に繰り返し地獄・畜生・餓鬼・阿修羅に戻る機会があります。これが四種類の悪趣です。これはその人にとって簡単な物です。だから心の有りようと同じになり、心の在り様次第で、ある日その人は地獄・畜生・餓鬼・阿修羅、全部になれます。

 善趣は、時には人間、時には欲界である天人、時には形界である天人、時には無形界である天人になります。庶民のように言えば人間、天国の天人、形梵天、そして無形梵天と言うこともできます。この四種類を善趣と言います。心が人間のようなら私たちは人間で、幸福だったり苦だったり、汗を流したり、こういうのは人間です。

 爽快で一日中、終始ふざけて笑っているだけの時は天人になります。あるいは純粋な物質である物による静かさがある時は、いつでも形梵天ですが、あまりありません。純粋な名の物による静かさがあれば、無形梵天と呼びます。

 悪趣と善趣を合わせたると八種類、どれにでもなることができ、八種類全部を行ったり来たりします。このように見えれば「ヴィバッジャヴァーダ(分別主義)」で、人は固定した物でないと言います。人は永遠に何かでなく、一時的で、心がどれだけ早く変われるか次第で、地獄の動物に五分だけなり、それから畜生に変わり、餓鬼になり、阿修羅になることもできます。これがカニカヴァーダ(刹那主義)です。

 そして人は一種類だけでなく分割できると言うのを分別主義と呼びます。刹那主義と分別主義とは、このような状態と理解してください。

 一回生まれるというのは、私という考え一回を「一生」と言います。あのような、このような自分がある考え一回を「一生」と呼ぶので、一日に何生も何十生も、何百生もあります。一回の縁起の話も一回生まれると言います。これは更に刹那主義、一瞬一瞬で、分別主義であり、自分ではありません。

 サンカーラダンマだけ、つまり無明になり、サンカーラ(行)になり、ヴィンニャーナ(識)になり、ナーマルーパ(名形)になり、アーヤタナ(六処)になり、バッサ(触)になり、ヴェーダナー(受)になり、タンハー(欲望)になり、ウパーダーナ(取)になり、バヴァ(有)になり、そしてローカ(世界)、つまり俺などになります。

 このように見ていれば、その人は仏教の分別主義、刹那主義に明らかな知性があり、仏教を理解し、仏教に傾いていく心があると言います。

 反対になれば、刹那主義、分別主義と反対なら、それは一体論です。一体論とは石のように一つの塊です。この石を彼らはガナと呼び、一つのガナは一つの石です。一体論は「塊であり、自分があり、人物であり、何かの動物である」と言う主義で、正反対で、いろんなレベルがあります。

 最初は、人間は畜生よりほんのちょっと良く、俺の話の思考が生れると一体主義が始まり、俺のような思考がある時はいつでも一体論です。そしてそれが発展して永遠の自分になり、たくさん解説してアートマンになり、死を知らず、際限なく輪廻するアートマンになりました。

 これは死を知らないアートマンで、一体論です。これが、私たちが魂とかチェッタブータとか呼ぶ物の根源です。それが流れて行って、際限なく輪廻に生まれます。最後に私たちの自我、エゴイズムという形に生まれました。何十万年も昔にもあり、その後もあり、つい最近もあります。

 西洋の哲学はこの自我について話し、「我思う、ゆえに我あり」と言う人たちがいて、これは Descartes という人の言葉で、「我思う、ゆえに我あり」とラテン語で教えを残し、タイ語ではそのような意味になります。「 cogito, ergo sum = 私は考えることができる。だから私はいる」。

 これは一人の個人である人物と言う一体論で、分けられず、原因と縁で経過せず、一瞬だけ構成された物でない egoism である私です。これは現代の哲学である教えで、まだこのようにあります。

 だから一体論の人たちは生まれたばかり、あるいはブッダの時代に生まれ、今は消滅したと理解しないでください。それはまだ無くなりません。「自分はいる。俺はいる」と言う愚かな人が理由を探して称賛するので、このように信じる考えを永遠に残らせます。

 著しい物質主義の時代、現代にになると、皮膚の面の美味しさに迷うので何も考えず、「この美味しさを感じる心が俺」と考えます。だから自分がいっぱいで、今世界中に利己主義が溢れています。皮膚の面の目・耳・鼻・舌・体・心の美味しさである、自然の感覚の威力下に落ちているからでです。これは、世界中に山のように積み上げられている現代の一体論です。

 それは本能から生じ、心が迷って目・耳・鼻・舌・体・心の面の美味しさに迷った時、感覚は簡単に、自然に生じます。だから感覚は他の方向には生じません。「俺はいる。俺はそれが欲しい。俺はこれが欲しい」という賢さ以外、どの面にも賢くありません。これを、私は分別主義である空になるまで分割できる物と、一体論である実体があり塊であり、分割できない物について話したと言います。

 最後の対は刹那主義と常論で、刹那主義は一瞬だけあるという意味で、常論は反対に永遠不変です。刹那主義の人たちは仏教の人たちで、何でも一瞬だけ構成され、一瞬だけ作り出されると見なします。人の身体も一瞬だけ構成されるもので、原因と縁が瞬くように頻繁にあり、心はもっとそのようです。思考が生じるのは縁が一瞬だけ構成するからで、考えは状況で薄れて流れて行きます。体も心もこのように一瞬だけ構成されている物です。

 次に「一瞬」という言葉はどれくらいの長さでしょうか。彼らは「一瞬とは心が一回生じた時」と規定しています。この心は自然の一つで、生じて維持して消滅し、生じて維持して消滅し、何も混じらないこともあります。心は、普通の人には理解が難しい自然の物ですが、抽象である自然で、その原因と縁は、人が知り難い物です。

 つまり私たちが知りがたい神秘な自然で、まだ知りません。あるいは知る必要はありません。そしてダートゥの一種である「心」と呼ぶ物は、法則で、あるいは心と呼ぶ物の自然の威力で、次々にこのように一瞬現れます。

 人間は「心と呼ぶ物は何か」をまだ知ったことがなく、関心がなく、電気を知らなくても、電気とは何かを知らなくても電気を有益に使えるように、心があり、あるいは心を感じ、心を有益に使うことができますが、本当の心は何かを知りません。彼らは、本当の心は本当の自然、すべての物と同じ普通の自然と捉えますが、ナーマダンマ(抽象物)の側で物質側ではありません。

 次に、それがどのように維持しているかは、それは電球の中に見える電流が非常に頻繁に繰り返すので、私たちは生滅のない明るい球に見えますが、本当は一分に千回以上の生滅があるように、ピカピカっと続けて生じて維持しています。知らなければそれが生滅していると考えません。

 しかし私たちが知れば、あるいはエンジニアなら、電流の発生の話、ダイナモの中の電流の発生も、一分に何百何千の生滅があると知っています。しかし庶民は知りません。心の話も同じで、本人は心は生滅している物と知りませんが、本当は、生滅していると言う電流より生滅する自然です。

 これを「心の基礎は、一心時だけある」と言います。だから心の変化は一心時ごとにあるので、私たちは幸福や苦を感じ、あるいは何を感じても、それは線のように繋がって変化する心の一瞬です。そしてこの一心時の身体は別の一心時の身体と違い、どの心の時も同じではないと見なします。だから「幸福も苦も、一心時だけ意味があり、それが長く連続しているだけ」と教える言葉があります。

 次に人の身体や命も同じで、心が生じている一瞬の時間、心が生じている時だけ価値があり、一瞬後は別の物です。しかしそのように感じないで「俺」と言い、「俺は一時間も座っている。俺は何か月、何年もここにいる」と言い、一分、一秒の間に数えきれないほど心が生滅していると感じる人は誰もいません。

 すべてのサンカーラは非常に小さな一瞬、つまり一心時である一瞬の物と知る人は誰でも、その人は刹那主義の話である「すべての物は一心時だけある」と教える説、あるいは教えを知る人と言います。次にそれが教育のためには頻繁すぎ、あるいは短過ぎれば、俺と一回考える時間を一人と言うと、もう少し伸ばすこともできます。

 縁起の法則で、あれこれ何らかの俺である理解や意味が一回生じると、それが一人の人が一回生まれた、一生と見なします。一分くらいで消滅し、五分で消滅し、非常に強ければ一時間で消滅し、そしてまた生まれます。だから人物は一瞬だけの物です。粗く、中くらいに、細かく、どのように規定するかで、細かければ一心時だけです。

 執着の基盤になる物を見ると、その「心」が一回感じたら一つの心と呼びます。一回感じれば一つの心と呼び、どのようにでも一回感じれば一つの心です。こういうのを彼らは何十種類もに仕分けし、アビダンマでは八十四、あるいは規定次第で百二十一あります。

 一回生まれた心を、彼らは「ヴィンニャーナ(識)」と呼ぶことが多く、一つのヴィンニャーナと呼ぶこともできます。ここでのヴィンニャーナは感覚という意味で、心の一回の感覚です。一般には「ヴィンニャーナ」と呼びますが、このヴィンニャーナが何らかの義務をすると「心」と呼び方を変えます。その名前の心はそのような義務をし、心の義務をする心は現世で死んだ後、他の生に生まれる義務をします。

 そして心は目や耳や鼻を通じた感情を受け取る義務をし、感情を受け取ったら感情を審査し、感情を考え、感情を味わい、そしてこのように煩悩である感覚が生じるので、たくさんの種類です。しかし私たちは、心と呼んでもヴィンニャーナと呼んでも良いです。ヴィンニャーナと呼ぶ人たちもいます。

 大乗仏教のある宗派は「ヴィジャーナ パティマータラーシッティ」と言い、「何もない。ヴィンニャーニャ以外の物は何もない」という教えを最高に詳細に明らかに教えます。つまり心が考え、思い、何かを感じると、彼らは心と呼ばないで、ヴィンニャーナ(識)と呼ぶだけです。ヴィンニャーナは明らかに知るという意味で、心がそれを明らかに知り、これを明かに知り、目・耳・鼻・舌・体・心、どの方向でも、すべての方向を知ります。

 だからこの世界には、心、あるいはヴィンニャーナの感覚以外に何もありません。そして動物、人物、いろんなサンカーラは分別主義にすぎず、どのようか感じているヴィンニャーナにすぎません。ああいう俺、こういう俺を感じるのは、ヴィンニャーナが愚かで、そのように感じるからです。彼らはヴィンニャーナ以外に何もないと信じます。

 次にヴィンニャーナは二種類あると言うことができます。常在のヴィンニャーナは「自分は生きていてまだ死んでいない」と感じるだけで、何かを変化させる思考は生じないという意味です。これが一つです。そしてもう一つのヴィンニャーナは、その時思考して何かを「俺、俺の物」と執着させるのがもう一つです。

 だからまだ執着に変化させないヴィンニャーナは快く、苦のないヴィンニャーナ、あるいは心で、何かに執着させるヴィンニャーナ、あるいは心は、苦がある心、あるいはヴィンニャーナです。

 人は普通二種類のヴィンニャーナがあり、私たちがここに座ると、目が見ても、耳が聞いても苦がなく、鼻が臭いを嗅ぎ、舌が味を味わってもまだ苦がないのは、まだ目や耳などを通して執着に変化せる何もないからです。だからこのようなヴィンニャーナ、あるいはこの種の心はまだ苦でなく、気分が良く、座って説法を聞くことができます。

 しかし思考がこれを過ぎて、そのヴィンニャーナから生じたヴェーダナーを受け取ってタンハー(欲望)、ウパーダーナ(取)に作り変え、あれが欲しい、これが欲しい、あるいはそのようにしたい、このようにしたいになれば、苦があるヴィンニャーナ、あるいは心です。だから一時私たちは苦があり、一時苦がなく、一時再び苦があります。

 この心、あるいはヴィンニャーナはちょっとの間苦があり、ちょっとの間苦がなく、交互になっています。こういうのを見れば、基本的には一瞬一瞬の物で、誤って執着すれば苦になり、誤って執着しなければ苦ではないと見えます。一瞬だけの物と知って、何も「自分、自分の物」と執着しなければ、苦はありません。

 自分である方向に執着すれば、自然に経過する名の物、あるいはヴィンニャーナダートゥでなくても「自分、私、私自身で」なら、こういうのは一体主義になり、サッサタヴァーダ(常住論)になり、苦があります。

 時には「サタヴァヴァーダ(動物論)」と呼んで動物になり、時には「プッガラヴァーダ(人物論)」と言い、人物になります。「動物、あるいは人物、自分、そして私、あの人、貴様、俺、こっちが優れている、あっちが優れている、同等」等々になります。

 どれも自然に経過するだけの話を受け入れません。あるいは忘れ、動物、人物、自分、あの人、俺、俺の物と見るばかりです。こういうのを「サタヴァヴァーダ(動物論)」と呼びます。そして苦です。刹那主義であればあるだけ苦はありません。

 ね。みなさん、時間を過ぎていると思われるほど長々と話してきた内容を、私たち仏教教団員が多少知っておかなければならない重要な物、少なくとも基礎として知っておくべきものは、彼らが話す哲学の言葉、現代のダンマの言葉で「ヴァーダ」あるいは「ism」言うと復習してください。しかしヴァーダという言葉はブッダの時代より前からあります。つまり言葉をそのように変化させる物がヴァーダです。

 先に考え、それから言葉で話し、そして話すにはその感覚で話さなければなりません。どのように感じても、話す時は感じ考えたように話します。そしてこれが私たちを苦にする最高に凶悪な、最高に重要な物と知ってください。だからそれを知ってしまい、何としてもそれを管理し、消滅させるべき部分を消滅させ、自然の真実である物だけを残します。「私、私の物」と執着する必要はありません。

 今私たちは気分が良く、妨害する「ヴァーダ(主義)」がありません。しかし、うっかりすればいつでもそのヴァーダが生じ、そしてそれが情況次第で問題を生じさせ、苦を生じさせます。

 このように話すのは深遠な心理学、深遠な哲学であり、必要以上のこともあります。しかしどう話したら良いか分からないので、「ディッティ、あるいはヴァーダは人間に関わる最高に重要な物で、良くなるのも悪くなるのも、あるいは幸福になるのも、苦になるのもこれ次第」と観察する方法として、このように話さなければなりません。

 どうぞみなさん、良く考えて見て、何としてもそれを管理してください。自分は一つの物、一つの塊というガニカヴァーダ(一体論)でなく、それは空っぽになるまで分割できると常に明らかに知っているヴィバッジャヴァーダ(分別主義)があるようにしてください。

 そして永遠に変わらないと言うサッサタヴァーダ(常住論)にしないで、正しく、カニカヴァーダ(刹那主義)にしてください。サンカーラダンマ(行の物。有為の物)である何もかも、すべての物は一刹那だけの物です。話はそれで終わりです。複雑なので時々復習してください。あるいはかなり難しいですが不可能ではありません。

 今日の講義はこれで終わらせていただきます。




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