8.誤って道徳その他を仏教にする



1971年2月27日

 ダンマに関心がある善人のみなさん。今日の講義はみなさんご存知のように、「迷って道徳その他を仏教にする」と題してお話します。今日の主題の理由は、今日の私たちの世界はどんどん宗教がなくなって、どんどん宗教に背を向け、振り返って宗教を求めても間違って振り返り、迷って道徳やその他を仏教にしています。

 他の物を宗教にすることは、広く言えば二種類あり、学生たちも迷い、学生でない人たちも迷っています。大まかに言えばこのようです。不思議なのは学生であればあるほど、特に教育が進歩していると自慢する、私たちがファランと呼ぶ現代西洋の学生であればあるほど迷います。この種の学生は著しく、つまり普通の庶民より仏教に迷います。

 現代の教育のほとんどは理論、あるいは知識、あるいは彼らの新しい手法を使う教育制度があるので、そのような方法と同調できるものだけを見ます。次に本当の宗教は知識でも哲学でもありません。現代の多勢の勉強する人たちは哲学に酔い、宗教を哲学と見る努力だけをし、仏教は神様がなく、そのような物がないと見るほど哲学の面を見、その結果西洋人たちは「仏教は哲学」と大量に言ってしまいます。これは正しくありません。つまり事実と一致しません。

 仏教の本物は哲学ではありません。しかし哲学的手法で仏教を見ること、そして哲学にすることもできます。西洋人は仏教を哲学面だけで見て、神様がないので哲学と見なします。これはもっと誤りで、神様がいるかいないかは重要ではなく、重要なのは滅苦ができれば宗教である点にあります。

 宗教は滅苦をするためにあり、哲学面の知的状態を自慢するためにあるのではないからです。だから「迷って道徳その他を仏教にする」という私の主題の「その他」という言葉は、現代人たちは迷って哲学などを仏教にするという意味です。

 一つ簡単に見えるのは美術で、西洋人たちは仏像、あるいは石碑、あるいは彼らの考えで「仏教美術」である物を仏教美術とし、仏教美術 Buddhist Art を探し回ります。ある時会って喋ったことがあり、私が「それは仏教美術ではなく、普通の人の物質的美術です」と言いました。ブッダは仏像のような仏教美術を知りません。

 ブッダ美術とは、人に滅苦をさせることができる極めて不可思議な興味深い実践方法、それがブッダ美術です。これだけでも誤解の話になってしまい、非常に興味深く深遠で絶妙な実践法をブッダ美術にするのでなく、仏像美術、彫刻の話、仏教に関わるこれらの何かを書く話を仏教にします。

 学生たちの一部は三蔵を学びに来て、そして何らかの誤解が生じ、アビダンマの心理学の知識を仏教にします。アビダンマの人たちは「論蔵(アビダンマピダカ)を学ばなければ仏教に至らず、聖向聖果に到達する道はない」と言います。これは何も知らない誤解、あるいは何も調べずに話しています。

 三蔵の中の直接実践である本当の仏教のほとんどすべては、経蔵ではっきり説明されています。アビダンマの話は詳細で深遠で絶妙な心理学の話で、直接実践の話は説かれていませんが、心理学、哲学、論理学の面など、非常にたくさんに分けて説明されている、それが論蔵です。これを仏教と見なすグループもあります。

 これです。学生なら学生であるほど仏教に迷うと、よく考えて見てください。そうすれば間もなく、それはどのようか見ることができます。これは、この世界の至る所で、迷って道徳や道徳以外のものを仏教にしていると説明して見せるだけです。進歩した学生集団もこのように迷っているので、仏教の本物から利益を受け取りません。

 「本当の宗教は、万の世界に一つだけ」という主題の第四回の講義を思い出してください。みなさん、どんな話だったか、もう一度思い出して見てください。その回では「本当の宗教は万の世界に一つだけ」と説明して見せました。万の世界があっても、幾つの時代があっても、本当の宗教と呼ぶものは一つしかないという意味で、正しい宗教なら全部一致する一つの宗教で、それは実践することです。つまり実践は学習でなく、話すことでもないと主張させていただきます。

 本当に滅苦ができる自然の法則で正しい実践が宗教の本物、つまり本当は万の世界に一つだけと、短い文句を憶えておいてください。そして私たちの仏教もこの中に含まれます。仏教とは戒・サマーディ・智慧と呼ぶ実践、あるいは梵行、つまり実践をすることで、それは自然の法則に即して正しいです。

 ここでの法則とは苦の話、苦を生じさせる原因の話、苦の消滅の話、苦の消滅に至らせる道です。これ全部を自然の法則と言います。自然の法則に即して正しければ本当に滅苦ができ、正しくなければ本当に苦は滅しません。あるいは滅苦が本当にできなければ、まだ正しくありません。

 だからどの宗教でも、正しい本当の宗教ならこの点、実践することである点、そして本当に滅苦ができる自然の法則に即して正しい点が全部同じです。だから私は、正しい宗教は仏教だけと捉えず、どの宗教も自然の法則に則して正しい実践があり、そして本当に滅苦ができれば、滅苦が最高でなく段階的で、ふさわしい理由次第でも、本当に滅苦ができればそれを宗教と見なします。だからそれは芸術品でなく、話せば話すほど実践することがなく、あるのは文字だけ、話すための論理だけの戯言の哲学でもありません。

 私たちが毎日「ブッダン サラナン ガッチャーミ、ダンマン サラナン ガッチャーミ、サンガン サラナン ガッチャーミ」と持している、あるいは授かっている帰依も、注意深くしないと譫言の話、迷いの話になると、ちょっと近くを見てください。

 夢中になって「ブッダン サラナン ガッチャーミ」と言うだけで、それが何かを知らず、そして夢中になってブッダを信じ、プラタムを信じ、サンガを信じるとこのように考える、それは仏教ではありません。それは正しく実践して滅苦ができなければならず、そうすれば仏教になります。ブッダを信じ、プラタムを信じ、サンガを「信じる、信じる、信じる」と考えるだけなのは、それは出発点で、実践を生じさせるための始まりです。

   「至る」と言えば、ブッダに至り、プラタムに至り、サンガに至ると言えば、これは多少確かで、つまりブッダ、プラタム、サンガに至るのは実践がある時だけで、実践がなければまだ到達はありません。歩くことがなければ当然まだ到達はありません。

 次に戒・サマーディ・智慧などの実践があれば、到達があり、つまり実践の後にブッダに至り、プラタムに至り、サンガに至ります。ブッダのような心があればブッダに至ったと言われ、プラタムである心があればプラタムに至ったと言われ、僧のような心があればサンガに至ったと言われ、これはすべて実践することの結果です。

 だから夢中になって「ブッダン サラナン ガッチャーミ、ダンマン サラナン ガッチャーミ、サンガン サラナン ガッチャーミ」と何十回、何百回も、中には何千回も言い、ある人は何千回も到達し、勤勉に戒を遵守しても何にも到達しない人は、「持す、至る」という言葉が宗教になり、それも可哀そうです。

 だから他人のことばかり話さないで「話すだけに夢中になっているのは、持す、至るという言葉を迷って宗教にすることであり、恥ずかしい」と、自分自身を思わなければなりません。帰依する、あるいは帰依に至る話を正しく理解してください。

 「サラナーガマナ」という言葉は「至る」という意味で、信仰するという意味ではありません。サラナとはブッダ、プラタム、プラソンで、そしてガマナあるいはアーガマナは至る、全面的に至るという意味です。全面的にサラナに至るとは、ブッダ・プラタム・プラソンで、実践して滅苦ができる結果を得ることをサラナに至ると言います。サラナに至ればサラナーガマナと言います。

 今は口だけで「ブッダン サラナン ガッチャーミ」と言ってサラナーガマナと見なします。それも正しいです。登録の話だけ、仏教の一員として受け入れてもらう儀式だけになり、まだ仏教に至りません。この人は「仏教を把持し、そして仏教に従って実践します」と、このように仏教の初歩の一員として受け入れてもらう儀式だけです。

 だから日ごとにブッダ・プラタム・プラソンに至らなければならず、そうすれば夢中になってあれこれに迷って、あれこれを宗教にしません。本当の宗教なら実践することでなければならず、そして真実、つまり本当に滅苦ができる自然の法則で正しくなければなりません。そうすれば宗教の本物に至ると言います。

 次に、今のほとんどすべては迷って道徳を宗教にする話と見えるまで広く見ます。先に言えば「迷って皮や辺材を芯材にする」と言います。ブッダはこの話をたくさんされました。ちょっと読んで聞かせます。タイあるいはどこの国の仏教教団員も、ほとんどが迷って皮や辺材を芯材とします。つまり迷って道徳を、道徳だけを仏教にします。それは損害を生じさせる結果があり、つまり本当の宗教がなく、あるのは道徳だけになります。

 道徳しかないのは宗教があることではなく、道徳だけで宗教がなければ完璧な人間ではありません。人間が完璧な人間になるには、道徳だけでなく、完璧な宗教がある人間でなければなりません。道徳だけがあり宗教がなければ、まだ仏教教団員ではありません。仏教教団員と自称しても、まだ仏教教団員ではありません。本当の仏教教団員であることは、宗教があることによってあり、道徳だけしかないのではないからです。

 自分を仏教教団員と呼びたい人は誰でも、道徳しかないのでなく、正しく全部揃った宗教を持つことに関心を持たなければなりません。今迷って道徳を宗教にするので、自分には全部あると理解して不注意になります。「不注意」という言葉は目を瞑っている愚か者、あるいは目を開けている愚か者です。

 目を瞑っている愚か者は何も知らないという意味で、目を開けている愚か者は「自分は知っている、全部知っている」と考え、饒舌で反論が得意で、こういうのを「目を開けている愚か者」と言います。目を瞑っている愚か者も目を開けている愚か者も、どちらも使い物になりません。愚かな話であっていけません。愚かな話なら不注意です。 

 これは非常に必要であり、そしてこれについて話すにふさわしい時なので、私はこれについて話します。悪意で話すのでなく、誰か、あるいは何かに当て擦りたいのでもなく、苦楽を共にする生老病死の友に話すように、何も隠さず開け広げに話すと言ったように、苦を訴える話として話します。

 今私たちは迷って、道徳あるいは道徳の実践だけを宗教にしています。彼らが好きでないことは何もしない、彼らが好まないものはもう十分と言います。こういうのは十分ではありません。十分にするには宗教にしなければなりません。

 だから私たちはこの二つの物、つまり道徳と宗教と呼ぶものの違いを知らなければなりません。

 広く一般的に言えば、道徳と呼ぶものは宗教の一部で宗教に含まれていますが、同じではなく、少なくとも大きさに違いがあります。道徳が宗教の一部なら、宗教の小さな部分で、まだ本当の宗教ではないという意味です。道徳と宗教にはどのような違いがあるか比較して見ます。

 道徳と呼ぶものは身体、あるいは個人の物質面、あるいは関わりのある社会の利益のためだけに範囲が限定されます。道徳は社会の問題を解決することを目指し、そして人物の物質面の利益のためで、範囲はそれだけで、それ以上遠くへ行けません。一方宗教と呼ぶものは精神面、心の面の利益を目指し、物質あるいは身体面ではありません。そして愛着し合って社交にしないので遠くへ行くことができます。

 宗教があれば心の面だけに行くことができ、誰も待つ必要がなく、そして誰とも連携しないで、賢さがある分だけ、習性と縁がある分だけ遠くへ行くことができ、聖向聖果涅槃に到達できるという意味です。そしてその利益は精神面、心の面だけの最高の利益です。道徳の話は社会として暮らすこと、社会として連携することに不可欠で、互いに引き留め合い、社会の利益は世俗的な、あるいは社会の静かさだけで、聖向聖果涅槃に至るほど遠くありません。

 このように共同投資して涅槃に行くことはできず、一緒に同時に涅槃に行くことはできません。それは社会の話です。道徳はこれ、つまり社会の利益だけに止まります。しかし宗教は、それぞれの人に行く機会があり、心で行き、身体で行くのではありません。身体はここに、この社会にいますが、心は遠くへ、まったく苦がないほど遠くへ行きます。

 次に「道徳の話は十分でない。道徳の話は人を最高の幸福にするには十分ではない」と良く思って見なければなりません。簡単な例は、道徳面で正しい生活をし、善い子、善い妻がいて、経済的にも良く、名誉名声があり、何でも全部良くても、それでもまだ泣かなければなりません。妻子がどんなに良くても死んでしまえば、主人はその分だけ泣かなければなりません。

 そして何が泣くのを止めることができるか、それは宗教の話で、少なくとも無常・苦・無我の話は援けになります。子や妻と死別する時も泣かなくとも良くさせます。道徳だけでは人間を援けるのに十分でも全部でもありません。良い生活をする援けにはなっても、心の面、精神面の問題、つまり生老病死の問題を解決する援けにはなりません。だからもう一つの部分である宗教と呼ぶものがなければなりません。これです、道徳と宗教はこのように違います。

 この世界は「良い見本」と呼ぶ状態で現れ、つまり問題が生じ、そして解決するものが次々とあり、教典の中、ブッダバーシタであるスッタの中で述べられているのもあります。例を挙げればディーカニカーヤのサッムティラージャ王の話です。最初に人間は動物と同じように暮らしていたと言うこともでき、つまり世界に人間が生まれ、そして人が多くなりました。

 人が多くなると度々問題が生じ、人が多くなるとしたことがないことをする異常者が現れ、盗みが生じ、何か得をすることが生じます。昔の人は森に自然に生えている、栽培していない米や麦や何の穀物でも採って食べて一日一日命を繋ぎ、この種の草の実を食べるほど話は遠くなります。

 人間が多くなると食べ物が不足するので、持って来て栽培しようと考える人が現れ、各自が栽培すれば足りました。その後、自分で作るより他人の物を盗む方が良いと考える人が生まれます。このような問題が生じると、解決する話が必要になり、人間は誰かを世話人管理人と仮定しました。盗みや加害、あるいは他人が大切にしている物を侵害する、あるいは虚偽を話すのでも何でも過ちを犯す人がいると、この人に処罰する権力を与えました。

 これを「仮の王」と呼び、世界で最初の仮の王です。すべては道徳の話で宗教の話ではありません。快適に暮らす人間で、家に鍵を掛けずに眠り、家を建てるにも扉を作る必要がなく、誰も加害する人がなく、これほど素晴らしくても、それは道徳の話にすぎず、宗教の話ではありません。

 パーリ(ブッダの言葉である経)の話には、その後それらの集団の中の何人かは倦怠し、そのような繰り返しである暮らしに飽き、離れて行って座って考え、森の中で座って考えると、森の中で暮らす静かな心に出合い、妨害する煩悩がなく、貪りがなく、怒りがなく、妨害する迷いがないことに出合い、それが、そうすれば本当の幸福になります。

 世界にこれらの人たちが生まれ、つまり宗教と呼ぶものの始まり、あるいは創設者、森の中の仙人、ムニー、サマナなどになったのは、家や世界に飽きたからです。「宗教」と呼ぶものが始まると心の問題だけを解決し、物質あるいは身体、あるいは社会の問題はその後ありません。しかし心の面の問題は残っているので、彼は解決方法を探しました。

 最初に心を静めると十分幸福で、しばらくの間これは最高に良いと考え、その後心が静まってもまだ煩悩があれば、それは再び微妙な妨害をすると気づいたので、煩悩を全部消滅させなければなりません。これです。その結果、最高の宗教の教祖であるブッダはこのように生まれました。道徳と宗教の違いはこのようにあります。一つだけでは完全ではありません。

 良い道徳だけで十分と言う人は、何も考えずに言っています。あるいは目を開いている愚か者かもしれません。知識はたくさんありますが間違って話します。本当は良い子がいて、良い妻がいて、お金も良く、名誉も良く、何もかも全部良くても、それでもまだ泣かなければならないと話した例のように、私たちは道徳も宗教もなければなりません。

 だから「道徳と宗教、どちらもなければならない。そうすれば身体的にも精神的にも失恋しなくても良いと保証する」と、庶民が言うように下品な言葉で話します。身体面の失恋は身体面の困窮という意味です。食べる物も使う物もなく、良い子、良い妻、良い夫がないことを身体面の失恋と言います。

 精神面の失恋とは煩悩で貪り・怒り・迷いなどに支配されることを精神面の失恋と言います。体の面も、精神面も失恋の症状がでなければ使い物になります。だから道徳も宗教もなければなりません。

 次に人は宗教を知らないので、宗教と呼ぶものを間違って見ます。そして宗教は道徳より理解が難しく、道徳は簡単に知ることができ、悪い事をすれば警察に捕まるので、宗教と呼ぶものより簡単に知ることができます。宗教と呼ぶものはパッチャッタンの話、サンディッティコの話で、自分だけが知り、他人は知らず、それはまだ苦、あるいは状況次第で幸福の症状があります。しかし道徳の話がなければ、あるいは悪い行いをすれば近所の人に取り囲まれて悪口を言われ、罵られ、罰を与えられ、あるいは警官に捕まります。

 だから道徳も宗教もなければなりません。そして迷って道徳を宗教にして「他に宗教は要らない。知っているように簡単な道徳がある」と言うように、一緒にして混乱させないでください。あるいは「道徳があれば足りる。それが宗教」と見なす人がいます。彼らはなぜ生れたのかを知らず、人間の人生のすべての問題はどのようか、人間は人間が得るべき最高に良い物を得るために生まれたと知りません。

 お金や荷物、子、妻、夫だけではなく、心の面の本当の幸福まで高く目指さなければなりません。心の面がすごく涼しければ、そうすれば「人間が得るべき最高に良いもの」と言います。

 人生の問題は、食べる物がない、住む家がないだけではありません。食べる物があり、住む家があり、何でも全部あってもまだ心の穏やかな幸福を欲しがります。そうでなければビルの中、御殿の中、車の中にいても神経の病気になります。だから車がいっぱいあり、テレビがいっぱいあり、現代の人が持っている何でもある家でも、神経の病気がいっぱいあります。人間を護る最高に良いもの、つまり「涅槃と呼ぶ精神の正常さ」が十分ないからです。

 この部分は忘れないために「この人生は常に二頭の水牛を繋がなければならない」と話したいと思います。荷車を牽くにも、田を耕すにも、あるいは何の仕事でも、人生は二頭の水牛を繋がなければなりません。一頭の水牛は物質面、道徳面の利益を生じさせる体力があり、もう一頭の水牛は力はなくても構いませんが、精神面、心の面、宗教面の利益を生じさせる知性があります。

 人生は、このように二頭の水牛を繋いでいれば、つまり良い道徳と良い宗教の両方あれば危機を脱すということです。だから私たちは道徳と宗教の両方がなければなりません。そして混同させないで、二つは別の義務があるので二つ揃ってなければならないとハッキリ見てください。

 次は、迷って道徳を宗教にすることについて、みなさんが混同しているものを理解でき、混同しないよう注意できるように、更に明らかに話します。迷って道徳の話を宗教にする話について、先に詳しくお話します。

 道徳はいろんな種類、いろんなレベル、いろんな分類があります。仏教以前の古い道徳を仏教にするのは大きな問題です。仏教以前の古い道徳は、よく聞いてしっかり憶えておいてください。ブッダが生まれる前から、彼らには道徳と呼ぶものがあり、それをブッダの時代以前の道徳と呼び、迷ってこの種の道徳を仏教にします。

 これは先ほど話したのと同じようですが、仮の王の話、殺さない、盗まない、何もしない話が道徳として生まれ、こういうのはブッダの時代よりずっと古いとハッキリ言います。次にこの道徳は宗教の傍に歩いてきて、つまり宗教を訪ねて深くなり、当時の一部の人が知ることができただけの心の話、精神の話に関わる道徳が生まれました。

 しかし真実を知らないので知っただけ執着します。だから信じる道徳、「霊がある、チェッタブータがある、魂がある」と信じるような、最初の道徳があり、物質の中、あるいは自然の中に霊や魂があり、人間で稼いでいる守護神を鬼と呼びました。

 これはみなさんにとって、耳慣れないと思います。自分自身で稼ぐことができず、人間で稼がなければならない守護する天人を、人間は「鬼」と呼びます。「ヤック」という言葉は、ヤックは誰もが崇めなければならない人と誤解しています。しっかり憶えてください。ヤックという言葉は「ヤチャ」という言葉に由来し、崇拝という意味です。タイ語のヤックという言葉は誰もが崇拝しなければならない人という意味です。

 次に人間がまだ非常に野蛮な最初の段階では、自分より優秀な人を崇拝しました。自分より優秀な人なら誰でも崇拝し、自分より優秀だと信じる物や人を崇拝しました。だから精霊や神様、恐ろしい顔をした鬼まで崇拝したのは、崇拝しなければ、あるいは機嫌を取らなければ殺される、喰われるからです。

 しかしヤックという言葉は誰もが崇拝しなければならない人という意味です。天人もヤックと呼びます。天人がブッダのことを「ヤック」と呼んでいるのもパーリの中にあります。ヤックという言葉は誰もが崇拝すべき人という意味だからです。

 この時代に人間集団の中に鬼の話の道徳が生まれ、原始時代の人々が鬼と呼ぶものを崇拝しなければならず、守護神も鬼と呼んで崇拝しなければなりません。恐ろしく見える鬼は恐れなければならず、避けなければならず、あるいは鬼に加害されないために十分なだけ、鬼の望みに従わなければなりません。私たちが機嫌を取り、言いなりになり、虐められないようにする人は全部「鬼」と呼びます。

 今世界中どこにも鬼がいます。その人のご機嫌を取らないと私たちを困らせる人、虐める人は誰でも、その人は鬼と呼ぶことができます。つまり誰もが崇拝しなければならない、ご機嫌を取らなければならない人です。しかしブッダの時代以前の元々のは守護神、あるいは誰も恐れずにはいられなくする魔力がある鬼を意味していました。

 未開人たちの集団に霊の話、鬼の話、守護神の話である道徳が生まれ、それは道徳であり、恐怖を知った初歩の段階と言い、恐怖を知らない牛や水牛や犬などより良く、人間が人を、より良い、より熟練した種類に分けることを知る方向の進歩です。これも道徳の一つです。

 今、精霊や守護心たちを信じている人たちは、時代を逆戻りして、宗教というブッダが生まれる前の道徳を掴んでいるのと同じです。今のタイの人たちはブッダに頼ることを望むより、精霊や神様に頼ることを望んでいて、口では「ブッダ・プラタム・プラソンに頼る」と嘘を言い、心ではそれより精霊や守護神に頼ることを望んでいます。今のタイにはたくさんいます。それです。彼らは道徳を宗教にします。

 道徳は精霊や守護神を頼り、何十万年も前の人のものが戻ってきて今の宗教になりました。今もまだ守護神を頼りたいと望み、これらの鬼に頼りたいと望んでそれを恐れるので、それのご機嫌を取らなければならず、チャウェド像(木に描かれた絵、あるいは石のレリーフである土地に神様)を信仰する人もいます。

 鬼たちは人でも何でもないというほど有利で、木や石で作られたチャウェド像も人は恐れます。大昔の道徳が再び甦って人々に宗教と信じさせ、最高に発展した首都であるクルンテープ(バンコクのタイ語名)でもこの種の道徳を宗教にする人がいて、口では仏法僧を信じると言いながら、心では霊や精霊を信じています。

 次の道徳は輪廻転生の話の道徳で、これはどんどん宗教の形になる信仰です。ブッダが生まれるより前の大昔は、死んだ後再び生まれるか生まれないかという知識はなかったと信じます。初めは再び生まれるか生まれないかという話には関心がなく、その後「人は死んだ後、それだけで終わりではないに違いない。再び生まれるために何かが残っているに違いない」と考えることから始まりました。一人がこのような理解をすると、長である人が他の人に教え、他の人はこの形で信じました。

 彼らが教えたのは宗教の形でなく、道徳の形、つまり社会的な何らかの勤めを実践させるためだけで、死んでまた生まれると信じさせ、死んで行くために、そして社会の穏やかな幸福の利益にために実践することができました。

 彼らは煩悩の話を知らず、聖向聖果涅槃の話を知らず、知っていたのは、どうすれば自分の社会が健康で幸運で良い生活ができるかだけだったので、死んで生まれる話の信仰が生まれ、死んで生まれる信仰ができ、「私たちは死んでも終わりではない。また生まれなければならないので、ひたすら善行をたくさん積んでおかなければならない。善行をする努力をし、善いと言うものは何でもしなければならない」と、みんなを非常に恐れさせるために教えました。

 教える人も、どうすれば善行ができるかという話をたくさん教えました。すべての人々が善行をたくさん積んでおくのは、「私」は死なず、「私」は再び生まれるために残っているからです。

 初めのグループはこの話に興味がなく、この問題はなく、そして二番目は霊魂不滅の信仰が生まれました。次につい最近、ブッダの時代に考えが再び裏返って生まれなくなり、ある人たちは死後生まれる物は何もなく、これだけで終わり、火葬すれば何も残らないと信じました。だから死んでは生まれ、死んでは生まれると信じる人たちは古いと理解してください。

 死んだら生まれないと言う人たちより古く、死んだら生まれないと言う人たちは、つい最近自慢し始めました。物質に非常に迷う人たちで、口と腹のこと、目・耳・鼻・舌の美味しさしか考えなくなったので、考えが「死んだら、生まれるために残るものは何も必要はない」という考えに傾いたからです。

 「死んだ後生まれる」と言う人たちの方が古く、ブッダの時代より前からで、「死んだら生まれる物は何もなく終わりになる」と言う人たちは、まだブッダの時代だけです。ここはブッダと混同させないでください。ブッダは死んで生まれるとか、死んだら生まれないとか話されていません。ブッダは「人はいない。死ぬ人は誰もなく、生まれる人もいない。自分ではない。自分はない。人はいないから」と話されています。

 しかし道徳を持ちたい人は道徳のレベルだけを信じるので、死んだら生まれると信じてください。その方が善行をすることができて有利です。死んで又生まれれば善行の結果を受け取ることができ、死んで再び生まれなくても、今行った善を受け取り、損はしません。

 だから仏教は道徳面で「死んで生まれると信じる方が善行ができ、今善を受け取り、もし来世があれば再び受け取り、損はないので良い」と教えます。しかし本当の宗教の部分、本当のダンマでは「人はいない」と言い、だから死ぬ人も生まれる人もいません。今いるのも、人はないからです。これを一緒にしないでください。道徳はすべての人に行動させ、この世界で穏やかに暮らすためだけの低いレベルの話で、宗教は世界を脱して世界の上で暮らすためです。

 これを、輪廻転生の道徳はそれらの人の中に生まれた、と言います。この教えを宗教と信じれば、それはまだ愚かです。真実あるいは第一義諦のレベルは、死ぬ人、あるいは生まれる人はいないからです。この教えを掴めば、死んで生まれる話は低い道徳、古い道徳です。このように死んで生まれるのは誤った見解で、死んで生まれないのも誤った見解です。

 本当には人はなく、無我あるいは空で、このようだからです。行動すれば行動にふさわしい結果があると言うのは、一般的な教えで、だから徳を行って死者に捧げる道徳があります。

 一部の人たちは「死んでも終わらない。また生まれる」と信じるので、徳を積んで死者に捧げる一つの分野の道徳が生まれました。これは孝行の分野の道徳で、私たちは親を愛し妻子を愛し、その人が死んでも愛しているので、彼らに贈る何かをしなければならない義務があります。これはブッダの時代よりずっと古いです。死者に捧げるために何かする考えはブッダより古く、ブッダよりはるかに昔で、そして仕方はいろいろで、非常に愚かか少し愚かか、非常に賢いか少し賢いかによって様々です。

 まとめると二つに集約でき、残っていると言う魂(ヴィンニャーナ)に供物を捧げて拝み、供えるために美味しい物、良いものを整えて、霊を招いて祭祀して食べます。そしてもう一度は反対で、贈って上げ、来る必要はありません。徳を積んで死者に上げるのは二種類だけです。食べてもらうために用意する物はアーフネッヤという文句に相当し、食べてもらうために贈る物をパーフネッヤと言います。

 その方は食べても、向こうで食べるのを座って待っていても自由で、この人間はアーフネッヤ、パーフネッヤ式の物を用意します。その後この言葉を借りて仏教の中で使い、霊でなく、僧がアーフネッヤ、パーフネッヤになります。この接待するために用意した物は僧が接待にふさわしく、持っていった物、あるいは挨拶に持って行った物は僧がそれにふさわしいです。

 これが霊を招いて食べさせる、あるいは火を焚いて霊に届けてやるのまで、大昔の道徳を借りて来て、どこかに霊がいると信じれば、どこかへ届ける方法を探し、いろんな仕方があり、水に浮かべるのも、火を焚くのも、土に埋めるのも何でもあり、霊がどこにいると考えるか次第です。つまり亡くなった両親、祖父母、妻や子がどこにいてもそこに届け、時には食べるようここへ招く意味でします。

 これが徳や善を行い、あるいはするべきことをして亡くなった人に捧げる道徳で、ブッダの時代より古いもので、食べるよう招いても良く、届けて食べてもらっても良いです。ブッダの時代よりはるか以前から、彼らはこのようにすることを知っていたと憶えておいてください。だから今もしていれば、当時の人よりも賢くなく、当時の人と同じだけ愚かか何かです。そしてこの主義を宗教にすることもできますが、動物であることから脱したばかりの大昔の人の道徳にすぎないので、笑いものです。

 次に神聖なものに祈願する道徳まで高くなります。私たちの教典の中の、パーリの中のブッダバーシタで言及されている神聖なものは、植物、山、医薬品、川、太陽、月、星、ブッダの時代以前の人が崇拝していた物、何でもあります。私たちも「パーフン ヴェー サラナン ヤンティ パッバターニ ヴァナーニ チャ」という文句を唱えていますが、これがその項目で、ブッダが言われ、ブッダ以前の人々がしてきたものを意味します。

 それらの人々は神聖な木、神聖な山、神聖な河川、神聖な薬剤、つまり彼らが神聖と見なす植物、球根、木の根という意味で、彼らはそれらを崇拝し、恐ろしいと見る月、太陽まで、不可思議でも崇拝しました。これは簡単な物で、彼らが神聖と見なすものは何でも、私たちも神聖と見て崇拝しています。この道徳を宗教にするのは、大昔すぎる野蛮で古い物です。

 これは自然という意味で、自然の物が神聖にされ、天人も非常に神聖にされ、天人の住まい、天界、あるいは天人の住まいもだんだん高くなって神様がいます。最初の意味の「神様」は私たちが使っている意味の神様でなく、ダンマである神様でもなく、昔の人の考え、思い、信仰の神様で、創造する神様、支配する神様、破壊する神様、新しく創る神様、新たに支配する神様は最高、あるいは天人の統領です。この神様は贄(供え物をする祭祀)と呼ばれる祭祀を受け取る人なので、人は恐れると祭祀します。

 贄とは生きている物、生きている動物を殺して神様を喜ばせる祭祀で、これは神様を崇拝するためです。そしてその後、牛や水牛や羊、山羊より神様が気に入ると言って、生きている人を殺してお供えしました。そしてその後は、子や妻のように愛している人を殺して供えなければならないほど重くなりました。これは話しの中にたくさんあり、最後には自分をお供えし、自殺して神様にお供えしました。

 このようにあり得ないような信仰がありました。人はあり得ないほど愚かになれます。こう言う方が良いです。これは宗教ではなく、現在幸福に暮らすことを望む道徳です。村や社会の凶運を払うためで、宗教ではありません。しかしこれを宗教と呼ぶ人もいますが、私はそれらの物を宗教と呼びません。

 それは心の面の問題を解決せず、あるいは完全な滅苦でなく、ただ社会が社会の幸福を欲しかるだけだからです。領主と領民が一緒になって全員が幸福に暮らすためにする、それだけです。私たち全員が幸福に暮らす、こういうのは本当は道徳で、遠くへ行く、涅槃へ行く一人の人の宗教ではありません。

 霊の話も制度になります。制度と言うのは、国中の人が信仰するので制度になります。神様になってしまうのもあります。神様ほどでなくても家屋の守護霊、国の守護神、都の守護神、何の神でも良いですが、近年でも氏神や氏神の祠があります。現代を、私たちは核の時代、ロケットの時代、月へ行く時代と呼びますが、それでもまだ、ブッダの時代よりも古い、家の守護霊、国の守護神、そのレベルの道徳の残骸があります。

 物質の形になったもの、つまり物凄く愚かに作られた像の中にあり、その結果、臆病者が首に下げるお守りになりました。大昔の人と、現代、ロケットの時代人が同じように臆病なら、臆病を防ぐ助けをする話がなければなりません。

 すべては道徳の話で、誤っている話と見なしませんが、安心するため、社会が成りゆくための道徳だけの正しい話で、まだ宗教ではありません。だからブッダは最高には貶しませんが、最高の拠り所として受け入れませんでした。これらの神聖なものを信じる人を、ブッダは「狂人」あるいは何、全部誤っているとは言われませんが、「安全な拠り所ではない。最高の拠り所ではない。それはその時だけ心を温かくして安心させる欺瞞する拠り所にすぎない。それは拠り所になるが、それだけの拠り所です」と言われています。

 霊を信じ、天人を信じ、神様を信じ、大昔からの古い種類の何かを信じるのは、一時だけ安心させてくれます。あるいは神経の病気を防ぐ観点から言えば、それもある面で防ぐことができますが、それは別の面で増やすので、最高の拠り所でなく、安全な拠り所でないと言います。ブッダ・プラタム・プラソンに至らなければならず、宗教である四聖諦を知らなければなりません。そうすれば素晴らしい、そして最高でもある拠り所があります。

 「現代でも、月へ行く時代でも神聖なものにされ、最高のものと信仰される霊や精霊、天人がある」という項目を見て行きます。これらの愚かな人、あるいは臆病な人は、ブッダよりこれらの霊験のある物を信仰し、あるいはブッダの代わりと理解します。しかし彼らがブッダの代わりと理解することは、それが代わりになるかどうか、正しいか正しくないか、誰も責任を取りません。

 だからまだ本当のブッダに至らない人は、取り敢えず象徴であるブッダ、あるいは代りのものを信仰すれば、もっと低い霊や守護神を信じるより良いだけです。ブッダのお守りを首に下げてブッダの代わりにして心を正しくする、こういうのは大昔のように愚かに霊や守護神を信じるより善いです。

 逆行してこれらの物を信仰するのは、全部迷って低いレベルの、初歩の道徳を宗教にする人だけと言います。良く注意してください。仏教教団員の中にいないようにしてください。みんなで本当のブッダ・ブッダの教え・僧に到達し、四聖諦を知って何としても実践すれば、これは死なないように護ってくれます。最高にダンマを知れば、動物・人物・私・彼はいない、生まれる人・死ぬ人もいない、殺せる人もいないと知り、心は爽快です。

 これに至らなければまだ生まれることがあり、死があり恐怖があります。盗賊たちもお守りを首に掛け、警察官もお守りを掛けて銃撃戦をして双方が死んで、これはどちらが良いでしょうか。どちらが良いということはできません。しかしこれより高い心があれば死より上にあるダンマを知ります。

 それが何時でも心に本当の宗教がある人、死がなく、いつでも微笑んでいる人です。つまり人がなく、死ぬ自分がなく、あるのはいつも微笑んでいる自然だけなので苦はありません。この角度が宗教の部分です。臆病な人式に一時的に防ぐ部分は、道徳です。

 次にもう一つの角度から見ると、道徳は誘って説得して強制してさせる話です。例えば法律は道徳と呼ぶものに含まれ、しなければならず、するよう強制し、誘って説得してさせます。宗教は自分で見て、自分の心で知り、自分で信じる話にし、そうすれば宗教の話です。他人の誘いに依存し、他人に囲まれれば道徳の話になります。

 だから法律は道徳に含まれます。風俗習慣、伝統など、体の面、社会面の利益のためのいろんな種類は全部道徳ですが、個人がすべての苦から脱した心を持つ話なら宗教です。次にそれは強く刻まれます。宗教を知らない人の風俗習慣伝統への執着、そして強い恐怖による執着は心に強く刻まれ、モルヒネ中毒、マリファナ中毒の何百倍も強く心を中毒にします。

 モルヒネ中毒、マリファナ中毒は簡単に難なく捨てることができますが、精神面のモルヒネ中毒、つまり理解できない物、神聖な物への執着、迷いによる誤解は捨て難いです。だからブッダの時代よりどれだけ昔か分からない大昔から、明るく輝く時代、つまり宗教が生まれる時代、仏教が生まれ、正しい、あるいは本当の、あるいは道徳に執着する話より道理のある物を教える時代まで永く伝承することができました。

 世界にブッダが生まれた時代になると、変化しない、ブッダを信じようとしない、変化したがらない人たちは相変わらずで、そしてその方が多数でした。これです。ブッダの時代にインドに生まれた人はブッダが本当に行ったり来たりするのを見てもブッダを知らず、受け入れようとせず、尊敬しようとせず、これらの人たちは変化したがりませんでした。これらの人たちは依然として話したような大昔の道徳を信じ、神聖な物を信じ、相変わらず何でも信じ、変わろうとしませんでした。

 ブッダが説法をしても聞かず、教えても信じず、ブッダの時代はこのようでした。その後、今もそれは残っています。ブッダは何かの利益があり、ブッダは最高に利益がありますが、僅かな人だけが受け取りました。ブッダは最高のものを大悟し、最高に利益のあるものを教えましたが、受け取る人は少数でした。

 ブッダは最初に「教えない。この大悟したことは誰も理解できない」と言われ、その後「外へ出る、つまり向こう側、涅槃へ行ける人は少ない」と言われ、そして世界中の人と阿羅漢の数を比較して、ほとんどないのと同じくらい少ないと話されました。これはブッダがこの世に生まれて、すべての苦を消滅させることができる宗教が始まっても、人はまだ関心がなかったという意味です。

 次に人は霊を信じ、天人を信じ、いろんなものを信じている問題があります。ブッダが生まれて新しく教えても、理解できる人は何人でもなく、それ以外は教えることができませんでした。ブッダの系統に関心がある人も多少いましたが、まだ知らず、まだ最高でなく、これらの人たちです、ブッダが教えることができたのは。

 ブッダは「目の中の埃が少しだけの人」と呼ばれ、ウッパラチャック チャーティカーという言葉を使い、ダンマを授ける時は「目の中の埃が僅かしかない人たちもまだいるので、これらの人を救うためにダンマを説く」という言葉があります。しかしブッダは最高に素晴らしいすべての物を知る人で、何でも本当に最高で、誰も非難せず、攻撃せず、裏切らず、そして信じない人、あるいは従来通りに信じたい人に教える機会を、絶妙な方法で伺っていました。

 「天人はいますか」と質問した人がいて、パーリにこのようなのがあります。ブッダは「言うことは何もない。至る所で信じてしまっているのだから」と、このように答えられました。考えて見てください。庶民がブッダに天人はいますかと質問すると、ブッダは「言うことは何もない。至る所で信じている」と答えられましたが、最後にどうしたら天人になれますかと質問すると、「このように、このように」と、つまり善い振舞い、正しい見解である品行、滅苦ができる方向の正しい振舞、それが天人ですと答えられました。

 死んだら生まれるか生まれないかと質問する人がいれば、ブッダは同じように「話すことは何もない。あなたでも誰でも、死んだら生まれると信じているから」と答えられました。次に「私は生まれるか生まれないかは話しませんが、今生まれている人はどうしなければならないかを話します。私に、死んだら生まれるか生まれないかという問題に答えさせないでください。それは梵行の初め、梵行の発端でなく、つまり滅苦の糸口でなく、死んだら生まれ。るとか生まれないかと質問することは、滅苦の糸口ではありません」と答えられました。

 生まれている物はどのようにしなければならないかと、質問を変えさせ、このような問題にすれば、それは梵行の初めであり、滅苦までよじ登って行くための発端で、最後に「そうだ、人はいない。そして生まれる人、生まれている人は誰もいない」と知ります。

 次に生まれるか生まれないか、何としても答えさせようとするしつこい人たちについて話せば、時にはブッダは「生まれさせる因縁が残っていれば生まれ、生まれさせる因縁が残っていなければ生まれない」と答えられることもありました。これは賢く聡明な質問か、どれだけ科学か考えて見てください。

 次にブッダはブッダの「生まれる」の話をされました。たとえば縁起は識の面のアハンカーラ、ママンカーラが一度生まれ、一度生まれると、生れる度に苦と言います。今この世界にいる私たちの義務は、俺、俺の物である煩悩を生じさせないことで、これは生まれません。次にまだ他にあるかと問えば、誰も問題はなく、これまで以上に重要な問題は何も残っていません。「生まれる人はなく、苦はない」という終点に到達したからです。

 道徳面と宗教面で違う信じることに関してブッダが答えたのは、あるいは目前の問題解決はこのようと言います。その次のもブッダは解決し、意味を新しく変え、つまりより賢い話にしました。例はたくさんあります。

 たとえば昔はお月様、お日様、星、木などを信仰したので、彼らはこれらの物を拝み、「方角を拝む」「六方を拝む」と言い、これらの人がブッダに出合うと、ブッダは「そのように方角を拝むのは昔からしている一つの話です。しかし私の、如行式の方向を拝んでみなさい」と言われました。

 私の「方角を拝み方」のは、すべての方向のすべての人に対する義務の遂行で、両親は前方で、どのように実践するか、子と妻は後方で、どのように実践するか、左側は友たちで、どのように実践するか、右側は友人、先生にはどのように実践するか、下方の部下に対してはどのように実践するか、上方のサマナバラモンに対してはどのように実践するか、これらのすべての方向の人物に対して正しく実践しなさい。これが、それぞれの方向に霊や天人がいる昔式の方角を拝む代わりに、仏教式に方角を拝むことです。

 別の例は持って行って水に投げたり、火で焼いたり、生贄を供えるなど、徳を積んで死者に捧げたりします。座って何時間も泣く、あるいは物を焼いて送って食べさせる儀式、あるいは大昔から、そして今もインドにある儀式をする代わりに、ブッダは僧の群れの周りを右回りすると規定しました。私がインドへ行った時も、昔式に死者に食べ物を供えるのを見ました。まだあります。

 ブッダは僧の群れの周りを右回りする儀式をするよう提案され、そのような(昔式の)儀式をする必要はないと言われました。「僧の群れ」と言うのは、滅苦の実践をしている人という意味でも良いです。ダカシナダーナ(右回り)をすることは、比丘サンガが世界に居られるように保護する意味があり、そして生きている動物を殺す必要はありません。

 普通のご飯とおかず、普通の衣、知足である人の生活に必要な物で祭祀します。だから死者に供えるための広い結果が生まれ、死者も受け取ります。もしそれがいて待っているなら、それも受け取ると言います。それ以上に、少なくともここにいる誰でも受け取ります。良い実践、正しい実践は実践者に結果を与えるからです。

 物を水に投げたり、火で燃やしたり、あるいは生贄の人を殺して焼いて煙を送る、こういうのはどこへ行くか分かりません。だから世界にとって、人間全員に利益があると明らかに見える種類をするのとは比較になりません。仏教以外は人を殺し、動物を殺すような生贄をしている時、仏教にはこのような生贄がありました。そして仏教式にするなら、この生贄はするべきダカシナダーナになりました。

 これを、ブッダはまだ騙されやすい人間の心情を調整改善して、このように正しい方へ変え、見るに堪えない道徳を、このように見て美しい物に変えたと言います。動物を殺し、子を殺し、妻を殺して生贄にする代わりに、籾米や果物を供える方が良いです。

 しかしいずれにしても仏教の三蔵は、古いもの、ブッダの時代以前からのものを、そっくりそのまま仏教の教典に受け入れたものもあります。大人物の三十二相などは、ブッダの時代以前からのバラモンの物で、仏教の教典の中に落ちて来て、信じる教え、あるいはそのように認めています。

 そして時には元のものより信じられてしまうこともあります。大皇帝の亡骸の処理法はバラモンの本で、それが仏教に入って、ブッダの亡骸を大皇帝の亡骸のように処理したと言います。それは道徳の話で、宗教の話ではありません。だから道徳を宗教と一緒にして混乱するのは、良い結果がありません。

 述べてきただけで、道徳と宗教は別々で、私たちには両方がなければならないと説明して見せる見本として十分です。そして初め人間は宗教を知らず、あったのは初歩の低い簡単な道徳だけで、それから少しずつ高くなって心の話、精神の話になり、それも一緒にいる人たちの平安を目指すので、まだ道徳の話で、深遠な、行く人だけの個人の話である宗教の話ではありません。これは、他の教義、他の道徳、他の宗教と仏教を比較することに関わるほど広い範囲で話しました。

 次は狭く、最高に狭く仏教の範囲内だけ、そして直接私たちに関わるものだけを話します。つまり人の話、仏教教団員、比丘、沙弥の話で、この出家者は何が梵行か、あるいは宗教か、仏教の本物、あるいは本物の仏教は何かを誤解し、そして間違いを引っ掴んで正しいとし、外部を本物と理解しています。明解に揃って言われているブッダバーシタを芯材に例えると、芯材は辺材でなく、樹皮でなく、そして樹皮の外にある乾いた表面でもなく、若葉でも古い葉でもありません。芯材はどこにあるのでしょうか。

 仏教の教団員がこの話を誤解して、先端の若葉を芯材にするのはどれほど憐れか考えて見てください。もっと良くするには木の皮の乾いた表面、樹皮、そして辺材の方が良いですが、芯材に到達するまでは、まだ芯材ではありません。これも道徳を宗教にする人たちに含まれます。「供え物、貰い物は梵行」と初めの項目で言及しているからです。

 今は至る所にいて、ブッダの時代にもいて、いなくはありません。いなければブッダはきっと「これらの比丘は供え物、貰い物、称賛の声を梵行とし、これらの物のために梵行をする」とこのように話されません。

 ブッダバーシタ(ブッダが言われたという意味)であるパーリ(ブッダの言葉である経典)があるので、読んで聞かせます。

 『比丘のみなさん。良家の子息のある人は、私は生老死,悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦に支配され、苦の塊の中に落ちて目前の苦がある。どうすればこの苦の山を終わりにできるか、自分にとって明らかにすべきだと考えるので、その子息は信仰で家を出て出家します。出家すると供物や貰い物、称賛やお世辞を生じさせることができ、彼は喜んでその供物と貰い物、賞賛やお世辞について十分考えます。

 その比丘はその供物と貰い物、賞賛やお世辞ゆえに「私は供物と貰い物が多い人で、他の比丘たちは権力がなく、供物や貰い物がない」と自慢します。その比丘は陶酔していて、その供物と貰い物ゆえに不注意に至ります。不注意になって陶酔すれば、彼は嫌らしい暮らしになります。

 比丘のみなさん。芯材を欲しがって芯材を探し歩き、芯がある大木の所に来ても芯材を見落とし、芯材を知らず、辺材を知らず、辺材を見落とし、生皮を知らず、生皮を見落とし、外皮の乾いた皮膚を知らず、外皮の乾いた皮膚を見落とし、そして「これが芯材だ」と理解して先端の柔らかい葉を摘んで持って行く男のようです。

 もう一人、目の良い男がその人を見て、「あなたは芯材を知らず、辺材を知らず、生皮を知らず、乾いた皮を知らず、枝先の若い葉を知らない人だ」と言います。その人は芯材が欲しくて芯材を探し回わり、芯がある大木の所に来ても芯材を見落とし、芯材を知らず、辺材を知らず、辺材を見落とし、生皮を知らず、生皮を見落とし、外皮の乾いた皮膚を知らず、外皮の乾いた皮膚を見落とし、そして「これが芯だ」と理解して先端の柔らかい葉を摘んで持って行きます。

 同じように彼が芯材で作りたがっている物は、当然彼にとって何の利益もありません。比丘のみなさん。私はこの種の比丘を、梵行を木の先端の若葉にし、そして彼は供物と貰い物、称賛とお世辞を生じさせるだけで梵行があると言います』。

 これはブッダが、迷って梵行でないものを梵行にする人について話された最初の項目です。言い回しを聞いて見てください。そうすればブッダがどのように目指されていたか分かります。そして現在の仏教の比丘も目的は供物と貰い物にあり、膨大な供物と貰い物の話に溺れて金持ちになり、「これで十分、これ以上掻き集めなければならない物は何もない」と言います。

 タイも仏教を信仰する他のすべての国もここで停滞し、ここで麻痺していると言います。迷って皮より、辺材より酷いものを芯材とし、つまりすぐに萎れて枯れてしまう若い葉を摘んで「これが芯材だ」と言います。

 みなさんは、供物と貰い物の話は道徳の話と知らなければなりません。世界中、供物と貰い物、受け取るべき必需品を仕事の目的である結果と見なします。それは道徳のレベルだけです。供物と貰い物、名誉でも何でも道徳の結果であり、道徳レベルだけで、道徳レベルの正しさであり、もう十分に近いです。これも迷って道徳を宗教にすると言い、現代社会の仏教の出家集団の中にもいます。

 次に高いのは、ブッダも同じように長々と話されていて、全部を読めば時間が足りないので、次の要旨だけを話させていただきます。出家した比丘の何人かは「私は戒があるが、他の比丘たちには戒がない。俺には戒がある」と、このように戒の話に恍惚とし、そしてこれが実践行動の頂点だと、自分にある戒に執着します。この種の比丘についてブッダは、樹皮の乾いた表面を芯材にする人のようだと言われました。

 次にサマーディの行動をしてサマーディを生じさせることができ、そして「私にはサマーディがあり、他の比丘尼はサマーディがない」と見なし、そして梵行の終わりであるサマーディがあると、このように自慢します。これらの種類の比丘をブッダは、樹皮を芯材と考える人のようだと言われました。

 もう一種類の比丘はもう少し良くなり、それより高くなり、ニャーナダッサナ(智見)、無常・苦・無我が見えるニャーナダッサナを生じさせますが、まだ解脱してなく、まだ解脱に至らず、そして「私はニャーナダッサナが具わっているが、他の比丘たちは徳が少なく、何かが少なくニャーナダッサナがない」と自慢します。

 そしてこの比丘は、自分がニャーナダッサナに到達していることに執着します。こういうのをブッダは「これが芯材だと考えて辺材を、辺材だけを剥いで行く人のようだ」と言われています。この四つの部類は外皮、梵行、あるいは梵行の目的ではない外皮を梵行と言います。

 最後の部類はチェトーヴィムッティ(心解脱)に到達した人で、苦から解脱して、これが苦からの解脱だと知り、そして自慢せず、「自分だけで、他の人たちにはこの解脱はない」と括りません。ヴィムッティに到達すれば、つまり解脱できれば「優れている、劣る、同等」と言うことがなく、他人を見下す煩悩がないからです。これが梵行に至った人で、迷って道徳を宗教にせず、本当の梵行を梵行に、梵行の目的の終わり、つまり解脱にします。

 今は大部分、あるいはほとんど全員が供物と貰い物が梵行の目的になってしまい、戒があれば自慢し、サマーディを生じさせることができ、ちょっとニャーナダッサナ(智見)を生じさせることができ、ほとんどヴィパッサナーの先生のようにできるのは少数で、これは素晴らしいと、このように自慢します。

 サマーディを生じさせることができる、あるいはニャーナダッサナを生じさせることができるヴィパッサナーの先生は少数ですが、誰も知る人がいないので自慢できるので自慢する話になり、本当の梵行ではありません。本物の梵行なら滅苦ができなければならず、自慢しません。それが宗教の本物です。

 庶民からの供物と貰い物、名声や称賛を生じさせるものである道徳を素晴らしいものとし、そしてまだ自慢するのは「意図して迷い、意図しないで迷う」という人たちの中にいます。迷いには意図したのと意図しないのがあり、道徳を本当の宗教にし、ほとんどの人がそうです。

 これは悲しい、悲惨なことなので「今私たちを覆っている凶悪な危険です」と話して聞かせます。つまり迷って宗教でないものを宗教にし、迷って芯でない物を芯にし、そして現代人の知識は、物質、現代の世界の発展だけを欲しがり、現代の学生は物質、食べ物だけを欲しがり、体の面、目・耳・鼻・舌・体・心の面の美味しさ、楽しさを得れば十分と言い、他の物を欲しがりません。次に世界はたくさんこのようになり、至る所に生じて問題になっています。

 私たちのタイでも、哲学者の中にはキヒパティバッティ(書名)のような道徳を宗教にし、そして在家として十分だと言う、こういう人もいます。あるグループは来世の天国の宮殿と交換する布施を宗教にします。中にはそれ以上で、布施したら良い恰好をしなければならず、有名にしなければならず、何に布施しても偉大な人の手を通さなければならず、ラジオで公表し、新聞紙上で公表して有名にしなければならない、こういう人もいます。最高に良いものです。

 ある人は戒を持していますが、他人に見せればそれだけで十分です。しかしブッダは、本当に戒があってもまだ十分でなく、まだ宗教の本物には至っていないと言われます。アーチャンの中には象が耳をバタバタさせるだけヴィパッサナーを教え、象が耳をバタバタさせるだけメッターに励んで、これだけで十分で、これも十分宗教です。

 あるいは伝統習慣でアーナーパーナサティをすれば十分と教える人がいます。しかしブッダは、本当の正しいヴィパッサナーをしても、まだ梵行の芯でなく、本当の梵行でないので、ヴィムッティ(解脱)まで行かなければならないと言われています。

 今サマーディをして成功すると、サマーディを神通を持つ援けにするのもあり、サマーディでサマーディの幸福を求め、続けて智慧にしない人もいますが、ブッダはニャーナダッサナ(智見)を生じさせても、それはまだ梵行の本当の芯ではないと言われています。まだヴィムッティ(解脱)でないからです。だから今沼地に落ちて泥か何かに沈んで、梵行の本物に歩み寄ることができず、そして望んでもいないのと同じです。

 ヴィムッティと呼ぶものを、現代は誰も欲しがる人がいません。理解できないので聞くと恐ろしく聞こえ、解脱、ヴムッティは恐ろしいからです。教育が十分でなく、これらの名前を正しく知らないので怖がり、涅槃まで怖がり、仏教の最高のものを怖がります。現代のように学べば学ぶほどこれらの物を恐れて嫌い、人を叩いて遠ざからせるので、現代の仏教教団員としては在家の道徳だけで十分という結論が生じます。

 今私たち仏教教団員にある最高の悲惨さを熟慮して見てください。だから「道徳その他のものを宗教の本物にする」という主題でお話しました。道徳は供物と貰い物だけの結果を与え、ブッダはそれを、本当の芯材と比較した時の先端の柔らかい葉に例えられています。

 次にもっとすっ飛んで哲学の話、心理学の話、芸術の話か何かを仏教にしますが、それもまだ芯に至らず、芯ではありません。それは皮の類、辺材の類、外皮の表面の乾いた部分に含まれ、益々遠くなります。そして物質だけ、あるいは身体の面だけを目指す現代の話に迷うので、木に関わらなくなることもあります。

 熟慮して見ると悲惨さが生じ、互いに助け合ってこれらの迷いを排除し、「サンマーサンブッダの仏教教団であることを無駄にしない」と言われ、自分の利益を成し、他人を支援し、正しい仏教を維持する助けをし、すべての生き物の拠り所として永遠に伝承していくことを希望します。

 時間になりましたので、今日はこれで終わらせていただきます。




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