7.何から仏教を学べば仏教を知ることができるか



1971年2月20日

 ダンマに関心がある善人のみなさん。今日の講義はご存知のように「何で学べば仏教を知るか」です。

 このテーマは一度聞くと、子供のための簡単な話、浅い話のようですが、本当は深い意味がある深い項目、あるいは理解が難しいテーマなので、「みなさん、油断をしてしまわないでください」と忠告したいと思います。話が簡単すぎると見るとしっかり聞かないからです。簡単すぎるという油断、これが、あるいは後の機会、あるいは私の話から受け取るべき利益か何かを非常に失わせます。

 一人一人が「私はもう仏教を知っている」と考え、特に「私は仏教を非常に知っている」と考えるかもしれません。このような考えは自然にあり、仏教の教えで述べればまだ知らなくても、あるいは知るべき、有るべきものがまだ正しく十分でなくても、普通はそれぞれの人がが「自分は何を知っている」、あるいは「何かを少なからずもっている」と感じます。だから、みなさんを多少見下すように聞こえる、この種の話をするお許しをいただきたいと思います。

 本質は難しい話で、そして私自身も何十年も、つまり出家前から関心かあり、仏教を勉強している私でもまだ難しい話です。出家して四十年以上になり、そして出家する前から関心がありますが、まだあるべき十分に正しい仏教を知らないと感じます。そしてかつてはたくさん知っていると考えたこともあり、その後はあまり知らないと感じました。だから経験したことは、正しいものでも、どんな失敗や欠陥があっても、まとめてみなさんに話して聞かせることができます。

 これも「油断しないでしっかり聞いてください」、あるいは「この話を理解することに関心をもって、どのように勉強すれば仏教をするかという主題でこの問題を片付けてください」と最初にお願いしなければならない項目です。

 この項目は、どのように勉強するかを表しています。勉強法は幾つも、何十もあるので、どのように学べば仏教を知るかという意味です。これは当然、何かを勉強しても、死ぬまで勉強しても仏教を知らないということを意味します。ある所で話したことがありますが、誰も信じませんでした。三蔵を学べば学ぶほど仏教を知らないと話すと、誰も信じる人はいませんでした。だから仏教を学べば学ぶほど仏教を知らないと言います。

 今彼らが仏教を学んでいるように、西洋人が仏教を学ぶように学べば、学ぶほど仏教を知りません。西洋人たちの仏教の勉強は違う方式で、幾ら学んでも本当の仏教を知りません。これは話しても信じられない話です。そして「どうして仏教を学べば学ぶほど仏教を知らないのか」続けて聞かなければなりませんが、正しくない方法で学ぶからと、中らずとも遠からぬ答え方をします。だから「どのように、あるいはどんな方法で仏教を学べば仏教を知るか」という主題があります。

 次にすべての種類の勉強、すべての知識の分野の方々に利益を生じさせるために、仏教でなくても利益が受け取れるよう周到に熟慮を始めるので、関心を持って聞いてください。初めにその言葉、あるいはその話を詳細に判断します。

 初めの項目は重要な言葉、つまり「学ぶ」という言葉に関心を持つようお願いしたいと思います。学ぶという言葉はいろんな種類、いろんなレベルがありますが、人はあまり関心がなく、学ぶと言うと学校に入って学校で勉強することを意味し、子供が学校で勉強をする、沙弥がナックタムの勉強をする、これを学ぶと言います。

 これしか学ばなければ、ブッダはまだ学んだと言われず、庶民あるいは私たちが学んだと言っても自由です。本当の学ぶという言葉はそれ以上のものがあるので、学ぶことは何種類あるか、全部話します。

 最初の「学ぶ」は、一般に使っている聞くこと、読むこと、教育することを意味し、これを「聞く」と言い、これも勉強です。私が「ス、ジ、プ、リ」と話すような、ヴィニムットー カタン ソー パンディ トー バヴァー=聞かせ、考えさえ、質問させ、憶えさせる、こういうのは本で勉強するような普通の勉強の話、普遍な話で、パーリ語で「スッスーサン ラバテー パンニャン=よく聞けば智慧を得る」とこのように言うのは全部普通の聞くこと、学ぶことです。

 昔の人は本がなかったので、学ぶことは聞くことでした。今は便利になって紙があり、読む本があり、それは聞くことの代わり、目で聞くことです。これを学ぶことの一種類と言います。

 学ぶことの二つ目は、本当に行動します。口は話す必要がなく、耳は聞く必要がありませんが本当にし、本当に実践します。三学と呼ぶ「戒・サマーディ・智慧」を実践することが学習することです。パーリ語では「シッカー」、サンスクリット語では「スクサー」と言い、タイ語ではスクサーと言うこの三語は学ぶことを意味しますが、本当に行動することを意味します。

 仏教の三学は、戒・サマーディ・智慧で、三つとも本当にすることを意味し、オウムや九官鳥のように口だけで学ぶこと、本で学ぶことではありません。このように学べば成功せず、シッカー、あるいはスクサーになりません。三学と呼ばなければ梵行と呼ぶ方が良く、梵行こそが学習です。仏教の梵行の行動が三学です。戒・サマーディ・智慧の実践、これを梵行の行いと言います。

 梵行には二つのレベルがあり、初めのレベルはまだ阿羅漢でない人の梵行で、「ブラフマチャリヤ(梵行)」と言います。ブッダは「エーヒ ビッカヴェー ブラフマチャリヤン チャラヒ ドッカッサ アンタキリヤーヤ=あなたは苦を終わらせるために、梵行をなさい」、何としても滅苦をした人になるために梵行をなさいと言われました。

 二番目のレベルは出家する前から阿羅漢で、教え、訓練の言葉、あるいは何でも聞いたことによって出家前に阿羅漢になっています。ブッダはこれも「エーヒ ビッカヴェー ブラフマチャリヤン チャラタ」梵行をしなさいと言われました。しかし「正しく苦の終わりにするために」という言葉はありません。その方は苦の終わりに至っているからです。

 この梵行という言葉は、出家前から梵行の行動をして阿羅漢になった人でも使うことができると理解してください。まだ阿羅漢になっていなければ苦の塊を終わらせるため、阿羅漢になるためで、阿羅漢になっていれば、ただ梵行をします。梵行をすることは教育であり、学ぶこと、本当に実践して学ぶことで、夢中になって読んで聞いて、何かを考えることではありません。

 三番目の学ぶことは、人生で人生を学ぶことです。つまり生まれてから今まで、いろんな物をたくさん通過したから学びます。誰でも知らないうちに学んでいることがあり、歳をとればとるほどたくさん学びますが、中には愚かで、この種の学ぶことに関心かがない人もいます。パーリ語では「ラッタンニュー」と言い、夜をたくさん知る人、つまり生まれて久しい人という意味です。

 現代は「熟練」と言い、あれこれに熟練があり、長い人生があり、人生に熟練しているという意味です。パーリ語ではラッタンニュー=たくさんの夜がある、久しい夜があると言い、同じ味です。だからこの人生はまだ死んでしまわなければ、気づかずにそれだけ学ぶことがあると捉えてください。これも学ぶことです。

 一番の学ぶことは、今しているように聞くこと読むことで、世界の言葉、庶民の言葉、人語ではこのような意味です。二番目の学ぶことはダンマの実践者の言葉で、彼らは本当に実践することを意味します。そしてある日ある晩気づかずに通過した自然に学ぶことです。みなさん、どのように学ぶのが本当か、あるいは価値があるか、利益や徳があるか、あるいはどれだけ自分を助けることができるか、自分で比較して見てください。

 もう一つ比較できるのは、教え方で分ける学び方です。教え方と学び方は対で、教えることだけあって学ぶことがないということはなく、学ぶことだけあって教えることがないのもありません。次に教える人は人でも自然でも良いです。さて、人が教えれば便利ですが、それでもいろんな種類、いろんなレベルがあり、一番目は話して聞かせて教える、これが一つです。二番目は話さないで行動して見せ、手本として実践して見せて教えます。

 動物が子に教えるには話をせず、親がして見せて子が真似るのと同じです。先生の中には、話さずにして見せる人もいます。これは夢中になって話しているより善いです。三番目は、利益を受け取って見せることで教えます。つまり幸福であるのを見せ、一言も話さなくても、尊敬したくなるような、信頼すべき幸福な人になって見せて教えます。

 後者のような教えることこそ、人は喜んで受け入れ、義務にしなくても、招待しなくても見習います。最初の教え方は確かでなく、繰り返し教えても関心がなく、尊敬せず聞き従いません。口だけで教えるからです。して見せてもあまり確かではありませんが、幸福なのを見せ、利益を受け取ったのを見せれば大々的に真似ます。

 稲作や果樹栽培などを誰かがして良い結果を得て金持ちになったのを見れば、利益が欲しいので大々的に真似るのと同じです。利益を欲しがることが強制して本当に学ばせ、本当に真似させます。「学ぶ」という言葉は、このようにいろんなレベルがあります。

 結果の種類で分ける学ぶ状態は、直接ダンマの面の学習の結果を、もう一度熟慮する物にすることもできます。学ぶことの結果は、学ぶ状態によって違います。

 一番目の学習は知識を持たせる結果があり、試験に受かり、大学の学位、学者、大学者になり、これは知識を得るために学びます。こういうのは読んで、憶えて、普通にします。

 二番目の学習は賢さや理解を生じさせるために学びます。これは聞くこと、あるいは普通の勉強に依らず、道理を使うことに依り、道理を使う人でなければならず、いつでも道理を使えば賢さ、あるいは知識ではなく理解である結果があります。

 三番目の学習は精神面に染みわたる結果があり、特に本当に実践することで学べば、あるいはそれ自体が教える人生で学べば、結果は自分だけの精神に染み渡り、誰も代わりに知ることはできず、そして他人に教えることもできません。精神面の染みわたる結果は、言葉で話すこと、文字で書くことができない場合もあります。深遠な本当のダンマはこのような状態があります。

 おまけとして憶えておいてください。でも最高に重要です。つまりダンマあるいは最高に本当の真実は言葉で講義することができず、文字で書き表せないという、何でも全般的な利益がある話です。この種の「もの」は、正しく、そして深遠な方法で学んだ結果で、つまり人生を学ぶこと、つまりそれを本当の人生で経験して学びます。

 だからみなさん、過去をの、生まれてから今までの経験を振り返ってください。私たちは他人が知ることができないいろんな物を知り、それは自分だけの気持ちであり、そして教えることもできません。人に教えて、その人の習性を変えるのは思いの外難しいです。他人の習性、本性を変えるのは難しいです。その人は話したような深遠な方法で自分自身で学ばなければなりません。

 そうすれば変えることができます。先生が一度教えてやるのは、そのようにしなさいと教えるだけで、そのように全面的に、すべての方向を観察すると、自分にふさわしい方法が見つかり、そして行動して見れば気づきます。道を教えても代わりに歩くことができないのと、あるいは何かを食べて見るよう、味を見るよう教えることはできても、代わりに味わうことができないのと同じです。

 これです。学ぶという言葉だけでもこのように幾つものレベルがあります。だから仏教を学んで仏教を知るために、この「学ぶ」という言葉から最高に深い、最高に高い利益を、何としても掴んでください。

 次は「何を学ぶか」を問題にしたいと思います。学ぶこと、学び方、学ぶ状態について全部話せば、何を学ぶかと質問します。これも同じで、多種多様です。学ぶべきでないものを学べば学ばないのと同じです。だから正しく学ぶべきものを選ばなければなりません。学ぶ必要がないもので時間を無駄にしてはいけません。しかしこの世界の人は必要ないもので時間を無駄にするのが、どんどん好きになっています。これは観察材料として集めて話します。

 何を学ぶかと問えば、一番はすべてを学びます。それはすべてを学んですべてを知ってしまう積りの勉強狂いです。これを全部学ぶと言い、学べるものは何でも俺は学びます。このような学ぶことは、何が真実かを知らない藁を抱える狂人の類の哲学者になるためで、何でも知ってしまいます。「藁を抱える狂人」とは、頭の上まで、体が埋まって見えないほど藁を抱えますが、抱えている物は藁で、籾米は一粒もなく、藁に籾が付いていれば実のない空籾です。すべてを学んで、多すぎて使い物になりません。

 三蔵を最後まで学んでも、ブッダは「無益の人」、つまり拳の中が空っぽの人と言われました。三蔵を学び終わっても、ブッダは「何も掴んでいない人」と呼ばれました。こういうのもいます。パリヤッティ(三蔵の学習)の規則でダンマヴィナヤ(経と律)を全部学べば三蔵を学び終わったと言い、まだ三蔵に分かれていない時代にも、今呼んでいるように三蔵と呼ぶことができ、つまり論理で全部学びました。

 全部学び終わるとブッダは「無益の人」、つまり掌中に何もない人と呼ばれました。手は握っていますが、拳の中には何もなく、空気だけです。あるいは牛飼いと言い、牛を飼うことに賢く、百頭、千頭、万頭飼っても牛の所有者ではなく、牛乳を飲む機会はありません。雇われの牛飼いだからです。

 今の人は雇われて教える人になるためにたくさん学びますが、清潔・明るさ・静かさ、あるいはそのようなものであるプラタムの利益は受け取りません。藁を抱える狂人であり、無益の人であり、牛飼い、何とでも呼び方次第です。これが全部を学ぶ人で、雇いたい人の需要で哲学者になるために学びます。

 二番目は、ブッダが学んでくださいと言われたものだけ学びます。ブッダが学んでくださいと言われたものだけを学ぶ。こういうのは「如行が悟ったすべての知識が、国中すべての森の木の葉の量だけありますが、みなさんに教えるのは一掴みの木の葉だけです」という例えの一掴みだけ学びます。

 ブッダは「プッベー チャーハン ビッカヴェー エータラヒ チャ、ドゥッカンチェヴァ パンヤーペミ ドゥッカッサ チャ ミローダン=比丘のみなさん。過去でも現在でも、私が規定して教えるのは、苦の話と、滅苦の話だけです」と言われました。滅苦に関係なければ教えない、取り上げて教えない、そして私たちも学ぶ必要はないという意味です。

 今私たちは滅苦に関わらないもの、梵行の糸口でないものを勉強しています。狂ったように反論することに夢中になって仲違いし、死後に生まれる話、幽霊はいるかいないかという話、魂とは何かという話、それらはどのように滅苦をするかという所に来ないで、どんどん遠くなる説明をします。苦とは何か、何から生じるか、どのように滅苦をするかを問題にしなければなりません。

 そのようにできれば、こういうのを一握りの木の葉と言います。世俗の話でも一掴みだけ学ぶべきで、必要以上に学ばないでください。あさはかになり、欠陥だらけになります。農家なら志願して農家になり、稲作について最高に勉強し、商売をするなら商売の話を最高に勉強し、知識も実践も、論理も技術にも精通します。こういうのを「一握りだけ学ぶ」と言い、本当に必要なだけです。浪費のように全部勉強するのと、あるいは実践のためでなく雇われて教えるためと違います。

 三番目は現代人がするように学ぶのを「煩悩が欲しがるだけ学ぶ」と言います。聞くと奇妙です。一番目は全部学び、二番目はブッダが学ばせたいだけ学びますが、現代人は三番目のように煩悩が欲しがるだけ学びます。

 現代の世界の学ぶこと、教育は、世界の煩悩が欲しがるだけ学び、そして非常に自慢し、この世界で進歩した素晴らし教育をしたと自慢します。しかしそれは煩悩が欲しがるだけ学んだと知りません。そして煩悩は更に厚くなり、勉強も煩悩の厚さ、多さに応じて進歩します。

 今煩悩は身体の話、身体の種類の良い生活、つまり目・耳・鼻・舌・体・心の面の美味しさ、楽しさだけを欲しがります。これが進歩発展した、そしてどんどん進歩発展する現代の煩悩です。次にその人はそれだけを欲しがるので、それを手に入れる原因と縁を探し、競争し、奪い合い、殺し合い、徒党を組んで何千、何万、何十万を殺し、殺し合ってしまうのもこのためです。彼らは身体のため、目・耳・鼻・舌・体・心の美味しさのためだけに闘うと、良く考えて見てください。

 労働者も身体の美味しさを欲しがるので資本家を攻撃することを考え、資本家も身体を惜しんで維持しておくので労働者を鎮圧します。世界中に二つの部類しかありません。一つは幸運で金持ちで、もう一つは不運で貧しいので、何として身体を手に入れるため、あるいは維持しておくために戦います。しかし彼らは理想のためとか、国のため何のためと別の言い方をします。しかし彼らの国も彼らが身体のために生きるためです。彼らの国はダンマでなく、正しさでも何でもなく、維持しておく利益のためです。

 この身体の話は三つに拡大し、つまり食べること、性のこと、そして名誉、これが身体の話です。食べることは知っているので説明する必要はありません。食べた後は性の話が欲しくなり、少し移動すると名誉の話、面目の話です。しかし本当は、現代人の名誉の話は食べる話、性の話の家来です。彼らは、名誉の話は食と性を探す道具にするために持っておくからです。

 純潔清浄な善、美、能力のための名誉ではなく、食べ物を探し、性を探す機会を生じさせる威力のためだけに名誉を手に入れます。だから名誉の話も全部身体の話になります。純粋な名誉は食と性の奴隷ではありませんが、今名誉は偽物で、歪んだ低劣な名誉で、食と性の話の家来です。

 世界の人全員が食と性の話の利益のために学び、本当の名誉か本当でない名誉の話か、考えて見てください。今の世界の誰もが食の話、性の話、名誉の話を最高に良くするために教育し、学んでいます。学問分野、あるいは仕事、手法、たくさんのものに分かれても何も違わず、全部ここに集約できます。経済の話、軍事の話、政治の話、今の世界のいろんな大きな話も、最後の結果は食、性、名誉の話にあります。

 良い経済が持つのは、少なくとも戦いに勝つ良い軍を持つためで、政治で良い駆け引きをするのも相手に勝つためで、相手に勝ったらどうするかは、食べる話、性の話、名誉の話の縁にします。だから経済の話、軍事の話、政治の話は、食べる話、性の話、名誉の話の家来です。それが主人で、それが欲しがる煩悩です。私たちは煩悩が欲しがるだけ勉強し、その他は学ばず、探求しません。だからそれは自分自身の首を斬るための発展、あるいは成長になります。

 理解できないかも知れないので、よく聞いて見てください。現代の人間世界の何の進歩発展も、自分自身の首を斬るためです。経済的、政治的、軍事的進歩、何もかも、益々食・性・名誉の奴隷になって自分をダンマの面で悪化させるためで、これを精神面で「自分自身の首を斬る」と言います。

 次に物質面の進歩は、仮に今ラジオが全家庭にあると仮定して、それで何をするか、歌を聞き、音楽を聴き、煩悩を増やす話を聞き、煩悩を増やさない話、ダンマの話、ドキュメントになるとスイッチを切ってしまいます。歌の話や煩悩を増やす話があると点け、ラジオでダンマの話を聞く人は非常に少なく、一パーセントにもなりません。

 まとめると、結果は、昔はアパーヤムッカ(破滅の原因)の話を聞くのは大変でしたが、今は最高に便利で、いつでも聞くことができ、二十四時間あり、ラジオがあることが原因で心を悪に染める歌を二十四時間聞くことができます。これを「自分自身の首を斬るために発展する」と言わなければ、何と言うでしょう。

 たとえばテレビがあるのは目の毒が増やし、子供たちを勉強ができなくします。テレビ画面に釘付けになるので、品性の衰退、心の面の衰退です。そしてテレビ番組も煩悩を増やす話です。テレビは身体も心もこのように駄目にします。これを「自分自身の首を斬るために発展する」と言わせなければ何と言わせるのでしょうか。試しに捨ててしまっても誰も死なず、あるいは誰も愚かにならず、あるいは誰も病気になりません。正反対です。これを私は、するべきでないことをする、あるいはなくても良いものを作ると言います。

 しかし煩悩の奴隷になるために作る、あるいは持つ努力をするのは、煩悩がするよう強制するからで、これらの必要がないものを持つために、世界中の人が努力して学びます。テレビの話、ラジオの話は小さな見本で、まだ他にたくさんあり、これより非常に大な物、巨大な物は、人間に作る必要のないものを作らせるためです。

 作らない方が良い物を、彼らは反対に持つべき、作るべきと見、人間が作る必要がないあれを作り、これを作り、すべて煩悩の望みを叶えるためばかりです。これが三番目の学ぶことで、煩悩が欲しがるものを、煩悩の望みで学ぶと言います。

 これが「何を学ぶか」で、このように三つあり、全部藁を抱える狂人になるために学ぶことで、ブッダが勧める一掴みだけを学ばず、私たちの主人、つまり煩悩の望みで学びます。これを「何を学ぶか」と言います。

 次の項目は「どんな方法で学ぶか」という質問の形にすると、全部まとめて詳しく話すのは非常に難しいです。しかし私はブッダの教えに依存してできる方法があり、私は頭の天辺から足の先までブッダの弟子なので、何かを考えたい時、話したい時、何かしたい時、先ずブッダの教えを思います。だから「どんな方法で学ぶか」を問題にする時、すぐにカーラーマスッタの中のブッダの教えを思い出して、学ぶことと調整します。

 カーラーマスッタは、信じてはいけない、そのようだからと信じてはいけない、そのようだからと信じてはいけない、というように教えます。次にどのように学ぶことと調整するかですが、それは、私たちは学びたいから誰かを信じると、簡単に見ることができます。何かを話して聞かせる人がいると、私たちがそれを信じるのは、自分が学びたいから、その人の知識が欲しいからです。

 だから信じる教えを学ぶこととを一つに、学ぶ教えを教え方と一つにできるので、学ぶこと、教えること、信じることは繋がっている話で、分けることはできません。ブッダのカーラーマスッタの教えを述べて「どんな方法で学ぶか」という問題に答え、そして二つ同時に、するべきでない、あるいは使い物にならない側と、すべき、あるいは使える側を、同じ項目で話します。珍しいです。今、試しに話して聞かせます。

 カーラーマスッタの教えに則ってどのような方法で学ぶかは、四つの方法があると述べることができます。つまり

1.聞くことで、耳を傾けて聞く方法で学ぶ
2.教科書に任せる方法で学ばせる
3.自分自身で考えて学ぶ
4.他人を通して

 ブッダはカーラーマスッタの十項を話されましたが、このように四つの部分に分けることができます。

 第一部は、耳を傾けて聞くことが三つあり、ブッダが禁止されたのは、聞き伝えているというだけで信じてはいけない、あるいは受け入れて学んではいけない、マー アヌッサヴェナ=聞いて伝えているというだけで信じてはいけない。そして、マーパラムパラーヤ=大昔からこのように伝承されていると言う理由で信じてはいけない。マー イティキラーヤ=今国中で評判になっているという理由だけで信じてはいけない。

 耳を傾けて聞くことに関した話は三つの意味があり、聞いて伝え、その人がこの人に教え、この人がその人に教え、ここで循環している、これが一つ、そしてもう一つは大昔から伝承されていると見なし、彼らは不動の教えがあるもの、そしてもう一つ、噂で持ち切りになっている、つまり町中の人が信じ、どのような噂でも、信じがたいように町中に広まっているので信じます。クルンテープでは、街中が噂で持ち切りになって、そして恥ずべき信じることが時々あります。

 第二番の教科書は、マー ピダカサムパダーネン=教科書にあるという理由だけで信じてはいけない、つまり根拠にする教科書があります。

 第三番は自分で考えることで、四項あります。
①マー タッカヘートゥ=論理学的な理由で、論理学だけの理由で信じてはいけない。②マー ナヤヘートゥ=哲学的理由で信じてはいけない。ナヤとは哲学的考えです。そして③マー アーカーラパリヴィタッケナ=常識で考えただけの理由で信じてはいけない。私たちは普段は常識で考え、そのように信じることを常識で考えると言います。常識で考えたという理由で信じてはいけない。そして④はマーディッティニチャーナッカンティヤー=自分の見解に堪えられるからという理由で信じてはいけない。

 ディッティとは見解という意味で、自分の見解と一致し、自分の見解と矛盾せず、自分の見解で検証したものは何でも自分の見解に堪えられます。しかしブッダは、それだけの理由で信じてはいけないと言われています。自分の見解が間違っていれば、話は必ず間違うからです。

 第四番は他人を通じ、他人を通じて学び、二項あります。マー バッヴァラルーパターヤ=この人は信じるべき立場にあるという理由だけで信じてはいけない。すぐに信じてはいけない。この人は信じるべき立場にあるという理由で信じてはいけない。そしてもう一項、マー サマノー ノー ガルーティ=このサマナは私の先生という理由だけで信じてはいけない。これは最後の項目で、「このサマナは私の先生だから」という理由だけで信じてはいけません。

 ね、ブッダはこのように言われました。今私たちは、ほとんど全員がブッダの教えのように実践していません。自分の先生と言えば、私たちは信じなければなりません。先生の味方をし、先生を褒めちぎってしかめ面で反論して殴り合うのは、その人は自分の先生で信じなければならないからです。

 これです、カーラーマスッタの十項目は四つの群れに分けられ、耳を傾けて聞く種類は言い伝えて来た、あるいは大昔からの伝承、あるいは町中噂でもちきりなっているというだけで信じてはいけない。教科書の方の種類は、教科書にあるからという理由で信じてはいけないという一項だけです。自分で考えることは論理的、哲学、常識、あるいは自分の見解と一致する方法を使ってはいけない。人物の種類は、この人は信じられるから、あるいはこの人は自分の先生だからという理由で信じてはいけません。

 みなさん。ブッダはこのような教えを残された時、私たちはどんな方法で勉強しているか、ブッダが十項目で信じないよう言われている時、私たちはどんな方法で勉強するか。特に、この人は私の先生だという理由だけで信じてはいけないという最後の項目を考えて見てください。そして先ほど「カーラーマスッタの教えを世俗的に、庶民的に話しても使うことができ、そして使っている」と話しましたが、仏教の勉強には使えません。

 世界の人、庶民の普通の勉強、世界の知識を勉強するには、この十項目を使うことができます。しかし仏教を学んで涅槃へ行き、涅槃に到達するには使い物になりません。見れば簡単に見えます。使えると言うのは、今私たちは世界の中で勉強し、聞いて教える教育があり、大昔から評判になっているのは、これは使え、受け入れて利益にすることができ、信じることができます。これは簡単な世界の話です。

 そして今は最高に教科書を使う時代です。ここには象二頭に積んでも積みきれないほど教科書があり、このお寺一か寺だけで、他のお寺はこれ以上、何百倍、何千倍もあります。ブッダは教科書に信頼を預けてはいけないと言われているのに、この世界は教科書に貼り付いて、教科書に頼り切っているということです。世俗的には使い物になり、進歩します。今科学的に進歩し、月まで行くことができ、何でもできるのは教科書に依存し、伝承している知識に依存するからです。

 そして現代の世界は、ブッダが「してはいけない」「してはいけない」と言われている論理学を使い、哲学を使い、常識を使い、学識を使い、見解あるいは道理を使い、彼らは十分使っています。今私たちは、この人は信じられそうだと信じ、この人は自分の先生だからと信じる原則があります。世俗的にはそれで良く、どの部門でも何も考えずにそうしています。

 次にダンマの勉強、宗教の勉強になると使い物になりません。本当の仏教は庶民が勉強するような知識でなく、パッチャッタン ヴェーディタッポ ヴィンニューヒ(智者の各自が自分で感じるもの)であり、サンディッティコ(自分で見るべき)であるダンマなので、使い物になりません。これから熟慮して見ます。

 この経の来源である話で熟慮でき、カーラーマ族と呼ばれるある村、カーラーマ族のケーサプッタ村落、ブッダがその村落へ行かれると、村長が村民を引き連れてブッダに拝謁に訪れました。ブッダがこの村落を訪れてくれたことを非常に喜んで表敬に訪れ、誰でも何でもできるだけのことをしました。

 そしてブッダに「ケーサプッタは街道になっているので、ある教祖の一団が通り掛って、あのようにこのように教え、「みなさんこのように遵守すれば正しく、他のは間違いです」と教え、その後幾日もしないで別の集団の先生が来て、このように、このようにと教え、他のは間違いだと教えます。

 そしてその後幾日もせずにまた別の集団の先生が来て、このように、このようにと教え、他のは間違いだと言います。そしてそれらの先生が教える項目が一致したことは一度もございません。私らは何を信じれば良いか、それらの中のどの集団を信じれば良いか、どのようにすれば良いか分かりません」と質問しました。

 ブッダは「カーラーマのみなさん。言い伝えているという理由だけで信じてはいけません。大昔から伝承しているという理由だけで信じてはいけません。大評判になっているものを信じてはいけません。そして教科書、あるいは教典に信頼を預けてはいけません。論理で信じてはいけません。哲学で信じてはいけません。

 そして自分の考えと一致するからと信じてはいけません。この人は信頼できそうだからと信じてはいけません。あるいはこの人は自分の先生だからと信じてはいけません。しかしみなさんが本当の感覚で知ったら、その時は信じることができます。つまり外部の理由は必要なく、あるいは道理に依存する必要もありません」と言われました。

 たとえば貪り、貪りとはどのようか、生じると心の中が熱いか熱くないかなどです。誰でも貪ったことがあり、著しく貪った途端、耳がジーンと熱くなります。この貪りは理由を使う必要がなく、思考する必要がなく、誰かを信じる必要がなく、貪りは熱いものと教科書を見る必要がないので、先生を信じる必要がなく、どの先生も信じる必要もありません。

 貪りが生じた時、怒りが生じた時、愚かさが生じた時、熱くて耳がジーンとするからです。これも同じで、自分自身で、自分自身にあるもので、そして自分自身で明らかなものから学び、理由に依存する必要はありません。

 これです。今私たちはブッダが言われたようにしません。ブッダは「このダンマはサンディッティコ=自分自身で見ることができ、他人が一緒に見ること、あるいは他人に一緒に見せることはできない」と言われています。私たちはサンディッティコに関心がなく、他人に助けてもらい、他人に教えてもらい、次々に何かしてもらいたがります。

 そして次に重要なのはパッチャッタン ヴェーディタッポで、賢い人も知るのはその人だけで、代わりに知る、あるいは見ることはできません。私たちがこのような教えを遵守すれば、間もなくダンマに到達するのが早まり、そして本当であり、誤る余地はありません。しかしこの十項目を守らなければダンマでないものを得、言葉だけ、噂の言葉だけ、藁のように膨れ上がった言葉だけです。

 しかしそれは、何も利益がないことほど重要ではありません。パッチャッタン以外の方法で手に入れ、そして滅苦をする利益がない知識。苦を消滅させなければ仏教ではありません。仏教の看板を出しても仏教ではありません。それは外皮、仏教の外皮にすぎません。

 仏教本体は声でも光でもなく、ナーマダンマ(名の物。抽象物)で、物質的に触れることができる物がないダンマです。何かと問えば、滅苦に言及しなければならない仏教で、滅苦ができる行動、あるいは滅苦の方法、あるいは滅苦が終わって快適でいる状態を意味することもあり、滅苦、苦から出る、苦から出られる方法を指さなければなりません。それが仏教です。

 三蔵は紙に書かれたたくさんの文字で、そしてどうしたら良いか分からないほど多く、文学的な美しさがあるので、死ぬまで三蔵の文学に狂います。西洋人はこの状態の三蔵を学ぶだけです。次にわが国でもこの状態で三蔵を学びます。あるいは語学の勉強をして九段、十段になれば三蔵の語学の達人ですが、仏教本体には到達していません。

 これを「三蔵を学べば学ぶほど仏教を知らない」と言い、文法、言葉、言語学、言語の何らかの面に酔うこともあり、文学面の美しい文章に心を奪われることもあるからです。マハージャータカ(大生経)の説法を聞いてしきりに涙を流すのは、三蔵の学習をするのと同じですが、仏教を知る道はありません。せいぜい仏教の外皮を知るだけで、他の欲望執着を生じさせることもあり、仏教に執着し「俺の仏教」になるほどです。

 「俺の仏教」と感じるほどなら、それは狂気と理解してください。善人、あるいはダンマを知る人についてだけ言ってはいけません。「俺、俺のもの」があるなら狂気の話、魔王の話、サターンの話、夜叉の話になります。三蔵を学んで執着がなくなれば、それは手放す話で、そうすれば「三蔵を学べば学ぶほど仏教を知る」と言います。

 今三蔵を学べば学ぶほど我を忘れ、身の程を忘れ、傲慢になり、仏教を知りません。なぜこのようになってしまうのか不思議です。学んで仏教の本体に至らないのは、外皮に陶酔を生じさせるからです。これが「三蔵を学べば学ぶほど仏教を知らない」という項目で、このような事実です。

 「三蔵を学べば学ぶほど仏教を知らない」というのは西洋人のほとんどで、「俺は仏教を勉強する」と言うタイ人も同じです。西洋人が仏教を学ぶと、彼らの規則あるいは手法で勉強し、たとえば仏教がどこの国で生まれたか、それはインドで生まれたと言い、彼らはインドについて継続して学ばなければならず、Indology と呼ぶインドについての学問知識を全部学び、彼らは先にそのようにします。

 本当はインドに関わる知識だけ学ぶと、全部学んだ時には死んでしまうこともあり、インドについて学ぶだけで、本当に学べば、終わらないうちに死んでしまい、それで終わります。しかし西洋人は勉強したがり、仏教を学ぶなら地理はどのようか、人種はどのようか、文化はどのようか、それまでの哲学はどのようか、インドについての知識を学ばなければならないと言います。そしてインド、あるいはインド人の考えと同じ時代を学びます。

 その後もう一段階「何? どこに証拠があるの? ブッダは実在したの?」と言い、実在したと、つまり三蔵である教えが残っていると主張すると、西洋人は三蔵に夢中になります。私が西洋人と何かを話す時は三蔵を見せ、そのページその行を見せなければなりません。すると彼らは信じます。この自然の法則を理由に話しても彼らは信じません。

 彼らは絶対に信じようとしないで、口から出まかせを言っていると言うので、「このように言っている」と三蔵を見せなければなりません。次に三蔵は同じ話であるいろんな話が一か所にまとまってなく、そして解釈が難しい点が厄介です。意味を解釈して外国人に聞かせるのは更に大変で、この理由で話ができません。

 彼らはテキストで仏教を勉強するので、テーラヴァーダの教典を山ほど、それから大乗の教典をあと二山ほど勉強し、それから関連している解説をたくさん勉強しなければなりません。だから西洋人は、このように仏教を知らないで仏教の知識に沈んでいます。つまり清潔、明るさ、静かさに、聖向聖果涅槃の何にも到達する心がありません。これを、仏教を学んでも仏教を知らないと言います。その方法で仏教を学べば、学ぶほど仏教を知りません。理解してください。

 次は聞いて伝えること、あるいは大昔からある、あるいは大評判になっているという理由で信じてはいけないという教えで、それは枝葉で更に巧妙な項目です。教典を信じない以外に、この教典は大昔から教えて来ている、あるいは彼らは正しく教えている、あるいは彼らが広く満足している、という根拠であるような理由で使ってはいけません。

 自分で勘定する問題は何種類もありますが、二種類に分けることができます。学理に執着する方向になるのが一つ、そして自分の知識に対して自由になるのがもう一つで、後者は使い物になります。どういう知識があればどのように自由か、その考えを基本にし、哲学、論理学、心理学、あるいは内心の考えでなく、その様式で固定的に規定した手法がある他のものを理由にしてはいけません。

 この二語を、みなさん良く憶えておいてください。理由、あるいは reasoning を使うことは、spiritual experience と呼ぶ心で感じている感覚と違います。彼らが spiritual experience と呼ぶものは、前から明らかである心の感覚です。だから理由を使うことは心で本当に感じている感覚とは別のものです。理由を使うことは間違う道が幾つもあります。理由が間違っていることが一つ、理由が変化できることが一つ、そして理由の使い方が違うのがもう一つです。

 理由が正しいか、あるいは変化しなくても、理由の使い方が間違っていることもあります。だから間違う道がたくさんあります。彼らが「理由の威力下にある」「理由を使う」と言うように気取って話さないでください。それは間違うこともあります。だから論理学などの理由を使う知識は、誰も援けることができず、あるのは眩暈をさせるだけです。しかしそれを使って稼げます。人はそういうのが好きだからです。

 しかし聖向聖果涅槃に到達するための実践に使う必要はありません。理由、あるいはその方法で理由を使うのは、常に感覚を先生にし、熱ければ熱いと知り、そしてそれを作りません。それは「貪り・怒り・迷いは熱いので、生じさせてはいけない」とすぐに知るくらい簡単です。

 今私たちは熱いのが好きです。「すべての動物は苦を恐れるが、反対に苦を好む」と、このように話すと、聞いて信じられません。つまりそういうのは苦と知りながら繰り返し、繰り返し苦を生じさせることしかしません。それは自分を支配すること次第なので、次の言葉は「何としても自分を支配することは、すべてに使う一般原則」です。

 今私たちは「善いことをしなさい、善をしなさい」と話しますが、善行をする人は誰もいません。善をするよう自分を支配できないからです。ある人は純粋な意図があり、本当に善をしたがりますが、善をするよう自分を支配できないので、できません。私たちは善行をするように自分を支配する方法について話さないからです。

 自分を支配して貪り・怒り・迷いを嫌わせ、悪を嫌わせることに関心がなく、関心があるのは、口から出まかせの理屈の話だけです。だから何年経っても自分を支配できないので、心の面、精神面で良くなるものは何もありません。そしてぼんやりすると次々に身体(体)の面の楽しさ、美味しさになります。これがダンマに到達すること、本当の仏教を知ることの障害で、このようにあります。

 先生を理信じないこと、信じられそうな人を信じないことは難しくなく、難しくも深遠でもなく、何とか理解できます。しかし重要なのは、私たちはブッダが教えられたのと反対にしている点にあります。つまり信じ易い人で、理由がなくても簡単に信じ、信じることができ、クルンテープ(バンコクのこと)の真ん中で、理由もなく信じることがあります。信じられそうだから、あるいは信じるべき立場にあるから信じるのでもありません。

 今彼らは「信じられそうでも、すぐに信じてはいけない」と言い、直接ブッダに言及し、ブッダは「たとえ私が言っても、このサマナは私の先生だという理由ですぐに信じてはいけない」と言われました。これはすべてに使えます。ブッダは私たちの先生なので、すぐに信じてはいけません。ブッダが言われても信じてはいけません。すぐに信じてはいけません。内面の本当の感覚が、これは真実に違いないと教えなければなりません。

 自分の感覚で、ブッダが話されているように本当に感じたら、そうしたら信じます。しかしまだ感じなければ、その感覚が生じるまで待たなければなりません。これを彼らは正しい信仰と呼び、本当の信仰はこのような智慧があります。そのようでなければ愚かな信仰、愚かな信心で、愚かな信仰で遅らせて苦を長引かせる原因になります。愚かでないように信じれば時間が短くなり、何の煩悩も断つことができます。愚かでない自分の信仰は煩悩を断つ援けをし、愚かな信仰は煩悩を長引かせる援けをします。

 すべては、現代人はブッダの忠告に逆らい、そして彼らの話では使い物になる所が珍しいです。彼らは騙す物を欲しがるからです。皮肉や当て擦りを言うと非難しないでください。現代の世俗の人のすべては欺瞞の物を欲しがり、当たり前に生老病死のあるものを欲しがり、煩悩を集めるもの、当たり前に煩悩を増やすものを欲しがり、涅槃である冷えることを望まないので、だから彼らはこの教えを、この十項目で信じる教えを使うことができます。

 しかし本当のダンマ、本当の滅苦が欲しくなったら、これらのものを全部捨てて感覚だけを残す方法に変え、感覚を基礎にしなければなりません。智慧は感覚から生じ、理由からではありません。だから彼は、本当のダンマは人生にあり、感覚にあり、理由になく、三蔵の中にもないと言います。これです。禅宗の人たちに恥じてしまうべきは。彼は「禅、あるいはそのダンマは三蔵に関わらず、三蔵の中になく、そして理由にも関わらず、禅つまり人生活に関わる」と言います。

 その人がそこで作った本当の感覚である感覚という意味です。そして理由を使うことに夢中になっていれば、丸い柄杓でナマズを掬うように、どんどん遠くなって成功しません。掬っても入らないので、どんなに滑っても掬えるナマズ専用の道具が必要です。だから本物である感覚を感じるため、知るため、あるいは問題を解決するため、あるいは何でもいろんなもののための原則にしなければなりません。

 これがカーラーマスッタの教えで、このようにありますが、私たちは世界の話を欲しがり、世界の面の結果を欲しがり、騙す結果を欲しがり、当たり前に生老病死があるものを欲しがり、生老病死より上にあるものを欲しがらないので、私たちは始終この教えに逆らっています。どのような方法で学ぶか、この事実を知っておいてください。

 どのような方法で学ぶかと問えば、庶民のは耳を傾けて聞き、教科書で、自分で勘定し、他人を信じて学びますが、本当のダンマを学ぶなら、本物のダンマは感覚で学ばなければなりません。つまりもっと広い意味があり、感覚が何から生じても感覚を作る方法、あるいは感覚を増やす方法、あるいは感覚を管理して正しくする方法があるのは、そのダンマの腕前です。ダンマはいつでもダンマを援けます。

 次に何から学ぶかという問題があり、述べたような「どのように学ぶか」と、そしてまだ、何から学ぶかという問があります。これは好みに応じてたくさんあり、これから話して聞かせます。

 一番は神様から学びます。これは神様を知らない愚かな人に神様を知らせるために話すので、わざと神様から学ぶと言います。神様とは自然、あるいは自然に関わるいろんな規則で、自然以外に神様はいません。何もかも神様で、ルーパダンマ(形のもの。物質)、ナーマダンマ(名の物。抽象)、聖向聖果、涅槃、何でもすべて自然です。すべての物質は自然で、心の面の話と同じような自然の法則があります。だから何から学ぶかは、神様から学びます。

 神様とは自然で、自然本体が一つ、自然の法則が一つ、人間が自然の法則に従って実践しなければならない義務が一つ、そしてその義務の実践から生じる結果がもう一つで、合わせて四つです。いろんな本で詳しく説明しているので、自分で読んで見てください。ここで時間を無駄にしません。自然とはすべてという点を忘れないでください。ここに座っているみなさんの身体、全身全霊、私たちの何でも自然で、私たちの外部の木々、石、土、私たちの外部にある何でも、それも自然です。

 次にこれらのたくさんの自然の中に、自然の法則と呼ぶものがあり、それが法則としてのプラタムです。本当の自然は常態である、つまり自然にあるプラタムです。

 すべての自然の中の自然の法則は、法則としてのプラタムで、サッチャダンマ(真実)と呼びます。あるいは何とでも呼び方次第です。

 次に法則はそのようにあり、誰にも譲らず、誰の顔色も窺わず不動なので、法則を知って法則で正しく実践しなければならないのは私たちです。自然の法則での義務と呼ぶものは実践であるプラタムです。法則だけのプラタムは何の援けにもならず、役に立つのは、どうしなければならないか教えるだけです。

 実践しなければならない義務であるプラタムは、戒・サマーディ・智慧で、これが本当のプラタムになるには、自然の法則に従って正しく実践しなければなりません。そして次に心配しなくても結果が生じ、どんな結果が生じるか、間違いか正しいかは実践の仕方次第で、正しければ聖向聖果涅槃のレベルになります。これが自然の法則に則った義務の実践から生じた結果です。

 他の話、食べて行く話もこれらの法則から外れません。自然でない物は何もなく、自分自身の身体も自然であり、作ったり捕らえたりする外部の物も自然で、訪れる結果も自然の法則だからです。だから他の人たちが神様と呼ぶ仏教の本物を本当に学ぶには、自然を学ばなければなりません。他の人が神様という言葉の意味を別の意味にしてもその人の自由で、今私は神様という言葉を自然の代名詞にします。

 それは最高であり、厳格であり、すべての物であり、すべての物を支配し、すべての物を消滅させ、すべての物を何かし、そして全部最高なので、だからそれを「神様」と、つまり自然と呼ぶ方が良いです。自然から学ぶのは簡単で、誰かを信じる必要がなく、先ほど述べた十項目の何も信じる必要がなく、自然から直接学ぶことができます。それは体にあり、感じることができる心の中にあるからです。

 さて、次は「外部の法則である自然も教える」というのまで認めます。自然から学ぶというのは、最高に深いのから最高に浅いのまで意味が広いと話したことがあります。個人的な話をすると、ここでは魚を飼い、犬を飼い、猫を飼い、鶏を飼い、小鳥を飼い、そして木々、石、池、沼や運河、小川、このような自然があります。これらの自然は教える人としての利益があります。

 ある時一人のドイツ人僧が来たばかりの頃「なぜあなたは犬を飼うのですか」と訊かれたので、「飼わないでどうしますか。あれは先生です」と答えました。犬は先生なので、飼わなければ仕様がありません。するとその人は顔をすぼめました。

 次に「なぜ魚を飼うのですか」と訊かれたので、「魚は先生なので飼わなければなりません。猫も先生、犬も先生、鶏も先生、小鳥、木々も先生です。どういう先生かは、私が神様を知るよう教える先生です。私が神様と呼ぶものを知っているのは、猫、犬、鳥、魚が教えてくれたからです」と答えました。

 特に魚が生まれたばかりの時は不思議で、神様が世界を創ったという言葉を理解させます。この世界は今までなく、それから出来、この種の動物は今まで存在しなくて、今はいます。誰の手腕で生まれたのか、これらのものから知ることができます。これを一般に「それは自然の話を教える」と言い、自然に反す、自然に合っている、半分正しく半分間違いと畜生で見ることができます。人間が知らなければならないダンマのすべては、畜生で見ることができます。

 特に煩悩の話は、ある種の魚は著しい煩悩がありますが、ある種の魚には見られません。ある種の魚は噛み合うことは一度もなく、ケンカをしたこともなく、夫婦と見なすこともなく、これは俺のものだからお前は近寄るなと捉えません。

 しかし別種の魚は反対に休まず噛みつき合い、連れ合い、俺の連れ合い、ここは俺の場所と見なします。だから最も低いスタートの煩悩の話を理解させ、それを明らかに見せているこれらの物が欲望の話を教え、ウパダーナ(取)の話を教えます。

 教典に沿って行くのは後で話します。私たちが教典を読んでも何も理解は生じませんが、これらの物を見ると、煩悩・欲望・執着とはどのようか、ないとどのようか、多いのは、少ないのはどのようか、どのように変化するか理解するので、それは先生です。それに対して恥ずかしい点で最高の先生です。自分は人で、怒るのが得意で、飼っている魚より、犬より怒りっぽく、恥ずかしいと感じます。

 だから犬も先生、猫も先生、魚も先生、鳥、ネズミ、アリ、虫も先生です。だからこれも自然から学ぶ、神様から学ぶと見なし、必要がなくなるまで飼っても無駄になりません。あるいは少なくとも他人のため、あるいは種属の維持のために飼ってみます。これは自然から学ぶという小さな部分です。一番目は神様、つまり自然から学びます。

 第二番目は精神の娯楽から学ぶと、勝手に話したいと思います。考えたことがある人、知っている人はあまりいません。あるいは精神面の娯楽があると考えたがりません。知っているのは、繁華街にある身体面の娯楽だけ、映画や芝居などは身体面の娯楽で、精神面の娯楽は計り知れないほど素晴らしいですが、誰も興味がありません。

 さてここに座っているみなさん全員が、今精神の娯楽から利益を受け取っていて、そして魅了されて時々来るのは、みなさんが座っているここに精神の娯楽があるから、という話から始めます。何が欲しくても全部得られ、精神の娯楽は本当のダンマで、本当のダンマが心に現れた時はいつでも、その時「心が精神の娯楽を見る」と言います。

 最高に簡単な例は、石ころ、土塊、植物、みなさんが座っている景色、それは用具、あるいは道具、あるいは精神の娯楽館です。家にいると、あるのは四六時中俺、俺のものの話に包まれるだけです。次にここに座ると、目・耳・鼻・舌・体、あるいは心が全部変わります。ここの木々、石、砂利、アリや虫は止まっていて、そして涼しい物ばかりだからです。次にそれはここに座った人の心を引き寄せ、俺を忘れさせ、俺の物を忘れさせ、家から持ってきた心を覆っている利己主義を忘れさせます。
 家では、あれこれ、あのようこのよう、俺の話、俺の物の話がいっぱいで、一時ちょっと貪り、一時少し怒り、一時ちょっと愚かになり、家で俺、俺の物の話だけを順番に循環しています。お寺へ来てここに座ると、神様つまり木の、木の葉の威力で、石が心を引き付け、最高に狂った最高に愚かな家の話をすっかり忘れさせるので、心に俺、俺のものがなく、心に偶然の清潔・明るさ・静かさ・自然の涼しさが生じます。みなさんはここに座ると言いようもない心の爽やかさを感じ、そしてなぜそのようなのか知らないほど愚かです。

 これらの物が心を止まらせ、煽らず、けしかけない方へ引いて行くからと思うべきです。それは止まらせる方向へ引いて行くだけなので、私たちはそれに負けて心が止まり、俺、俺のものが止まるので涼しくなります。止まった途端に涼しくなり、涼しければ爽快で、言いようもないほど安心です。神様つまり自然の威力が精神面の一種の満足を生じさせ、煩悩の話のような美味しさはありますが、同じではありません。

 同じだけ美味しいですが、同じではありません。身体面の娯楽も煩悩の美味しさがあり、精神面の娯楽は精神の美味しさです。今「本当に気分が良い。言いようもなく気分が良く、死を忘れ、生老病死を忘れ、そして俺を忘れ、俺のものを忘れ、何もかも忘れ、残っているのは空だけ、つまり静かさ、あるいは清潔さだけ」と自分の心で明らかです。

 今心が受け取っているこの種の感覚が精神面の娯楽です。どうぞみなさん、精神面の娯楽から本物の仏教を学んでください。つまり今受け取っている本当の安心は何か、それは何から生じるか、どんな方法で生じるか、こういうのを増やします。幾らもせずに涅槃の話を知り、つまり俺が空っぽで俺はなく、俺のものはないと知ります。それが精神面の娯楽です。それが本当に心に現れた時はいつでも、急いで学んで最高にたくさん知りなさい。

 今機会は既にあるので、心に現れていたら急いで学んでしまいます。ブッダが「空っぽの狂人」と言われたように、本で学ぶことはできずません。三蔵で学ぶ道も、先生から学ぶ道もありません。カーラーマスッタの十項目の状態で学べば使い物にならないので、感覚、特に精神の娯楽である感覚から学ばなければなりません。

 つまりそれは可愛らしく、満足すべきで、望ましく、煩悩に関わらずにダンマの様式ですべきです。もっとはっきり言えば、この状態の安心がある時はいつでも、特にこの状態の時は急いでこの状態を学び、このものを学んでください。そうすればこれが本当の安心だと自分で気づきます。

 お金がたくさんあり、何もたくさんあり、善い子や孫がいて、子や孫がご機嫌を伺ってくれる、その種の安心と違うタイプ、違う種類で、そして欺瞞で、神様の安心、つまり精神で精神の娯楽を味わう時の安心とは比較になりません。そして急いで学んでどんどん進歩させて、聖向聖果、永遠の涅槃にします。今それは全部一時的な、一時だけの聖向聖果涅槃です。こういうのを私は「精神の娯楽から学ぶ」と勝手に呼びます。誰かが「馬鹿らしい」と非難しても自由です。

 さて次は普通に話し、三番目は誰も執着すべきでないすべての物から学びます。「みなさん、誰も執着すべきでないすべての物から本当の仏教を学びなさい」という、このブッダバーシタが理解できる人は簡単です。みなさんは、サッペー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤというブッダバーシタを知っています。すべてのダンマは誰も執着すべきでない。これは仏教の心臓部で、八万四千ある三蔵の心臓部です。

 これが仏教の心臓部です。よく聞いて見てください。仏教の心臓部はすべての物にあります。ブッダが「すべての物は、誰も執着すべきでない」と言われ、執着すべきでないことはすべての物にあります。だからすべての物に執着しないことを学ばなければなりません。だから私たちは、すべての物に誰も執着すべきでない仏教を学びます。

 次に子供のように愚かな人は、白髪頭をしていても「そりゃーいっぱいだ。どこで何を勉強できるってんだ」と考えます。白髪頭のバカな子供は、すべての物は何百、何万、何十万、何百万もあり、どこでどう学ぶこともできないと考えます。それは「良く見なさい。誰も信じてはいけない。すべての物は、形・音・臭・味・接触・考えの六つにまとまっている」という教えを聞かないからです。

 すべての物は、形・音・臭・味・接触・考えの、たった六つに集約されます。目から入って来る感覚、耳から入って来る感覚、鼻から入って来る感覚、舌から、皮膚から、そして心から入って来る感覚の六種類を合わせて「感情」と呼びます。感情とは心が止まる、あるいは掴む物という意味です。

 感情とは止まる、掴むという意味で、つまり喜びです。喜べば止まるか掴むので、もう一度喜ぶという意味にし、文字は止まる、あるいは掴むという意味です。喜びや悲しみを感じさせるために来るものを感情と呼びます。中立な言い方をすれば心を停まらせる物で、喜ぶために止まることもあり、悲しむために止まることもあり同じではありません。ある人が好きな物を別の人は嫌いなこともあるので、何かはいつでも誰にとっても良い、あるいは可愛いと言わないでください。それは同じではありません。

 人と犬を比べればもっと遠く、まったく好みが違い、正反対のこともあります。そして人の中でも同じではありません。これを「すべての物とは目・耳・鼻・舌・体・心の六つの感情だけだが、分ければ一万、十万、無数の種類になり、本当に難儀する」と言います。しかしそのようにすべてを見る必要はなく、意味は心を止まらせる、あるいは掴まらせる所にあります。

 だから心を止まらせ掴まらせるものがあったら注意深くし、これは悪者、悪魔、苦を生じさせる原因であるものと見ます。そして、喜びあるいは悲しみでも止まって掴む物は何でも、それは「俺のもの」であり、愛すもの嫌うものになり、嫌っても俺のもの、愛しても俺のものになると、一機に見てしまいます。それは俺、俺のものなので必ず苦になります。だからすべてのものは誰も「俺」あるいは「俺のも物」と執着すべきでなないと規定します。

 もう一度「何にも、俺、俺のものという気持ちを生じさせてはいけない」と短くまとめます。だから目から何が入って来ても、そのように見、耳から何が入って来てもそのように見、鼻、舌、体、心から何が入って来てもそのように見、すごく簡単です。宇宙全体を見て歩く必要はどこにもありません。

 ここに座っていて、目・耳・鼻・舌・体・心にサティがあり、入ってくるのも自然、自然の、自然にある名のもので、俺でも俺の物でもありません。このようにすることを「誰も執着すべきでないすべての物から学ぶ」と言います。ここに座って「この宇宙全体は俺、俺の物と執着すべきでない」と感じさせて宇宙全体を学ぶことができます。こういうのも良く、すべての物、あるいは誰も執着すべきでないすべての物で学ぶと言います。

 別の言い方をすれば、四番目はブッダが「ダンマが見える人は私が見え、私が見える人はダンマが見える」と言われた種類のダンマで学び、この種のプラタムは学ぶべきものです。すぐ忘れてしまうので、ここでもう一度復習させていただきます。このダンマという言葉は、一語でいろんな意味があります。今私は「ブッダが、これが見える人は私が見える」と言われたのには、苦と、苦を生じさせる原因と、滅苦、そして滅苦への道の全部が含まれている」と言います。

 この四つのダンマ、あるいは一種類だけ見えるなら滅苦が見える人で、このダンマが見える人はブッダが見えます。ブッダは「苦がなく、清潔、明るさ、静かさがある」所に重要な意味があります。つまり苦がありません。この状態が見える人は「その人はブッダが見える」と言います。だからブッダは「ダンマが見える人は、如行が見え、如行が見える人はダンマが見える」と言われました。ダンマが見えない人は、如行は見えません。足や腕に掴まり、如行の衣に掴まっても、如行が見えると言われません。

 だから私たちは、ブッダが「それが如行」と言われた種類のダンマが見えるよう学習しなければなりません。これは直接内面を学ぶことであり、苦と感じたら苦と知り、苦を生じさせる原因を苦を生じさせる原因と知り、苦がないことを苦がないと知り、失敗しないで常にこのように知り、教える人は必要ありませんが、失敗する道はありません。苦も知り、そしてなぜ苦かを知り、なぜ苦でないのかを知ります。

 家にいて苦になるのは「俺、俺の物」があるからで、ここに座って苦がないのは「俺、俺の物」がないからで、今苦はありません。感覚でこれらの事実を見てください。目で見るのでなく智慧で見、あるいは智慧以上の、つまり感覚で見れば、その時ブッダが見えます。これを見ることで仏教を学んでください。それが仏教の本物です。先生や三蔵から学べないので、内面にあるそのダンマから学ばなければなりません。

 「プラタム」については、まだ「私が去った後は、ダンマヴィナヤがあなたたちの教祖です」と言われました。こういうのもあります。「ダンマヴィナヤは学校の勉強することで、そしてそれを教祖と見なすのは正しくなく、ほんの少しだけ正しい」と説明する人がいます。ダンマヴィナヤは実践と実践の結果が結び合わせてあるダンマヴィナヤという意味で、こういうのを「私が去った後、みなさんの教祖としているダンマヴィナヤ」と言います。

 これは例として挙げただけで、全種類をとり挙げることはできないので、仏教を学ぶには本物、実物、つまり「ダンマ」を学ばなければならないと言います。次に本物、実物、つまりダンマから学ぶだけでなく、それらの二種類のダンマ、つまり執着させるダンマと執着させないダンマに関わるダンマを比較することを知らなければなりません。

 手放させるダンマも、執着させるダンマも、どちらもダンマであり、重用か、あるいは煩悩欲望の望み次第かで二種類のダンマになります。煩悩欲望と一致すれば執着し、そして煩悩欲望と一致する物が無くなりはしないかと心配して二重に執着するので、怒りや恐怖が生じます。次に愚かで執着するから、自分にとって値打が生じると、深遠な事実を知ります。自分が執着しなければ自分にとって何の値打もなく、私たちが迷って苦労して何かするのは、迷って執着し、それに値打を与えるからです。

 次に二番目の賢さは、この価値あるいは値打ちは本当は欺瞞でマヤカシで、本当の価値あるいは値打ちはなく、それがあるのは善と悪、反対の物を比較する自分の愚かさのせいで、そして気づかずに違う物を比較するから価値が生まれると言います。善に価値があるのは悪があるからで、悪に意味または価値があるのは善があるからです。悪がなければ善はありません。愚かに善を愛すのは悪を嫌うからで、だから善は自分にとって、自分の愚かさにとって価値があります。

 本当は悪にも価値があり、誰かを苦しめることができる価値ですが、私たちは身勝手で自分の肩を持つので、自分にとって善である善と呼ぶ物ばかり欲しがり、真実にとっての善、あるいはダンマにとっての善ではありません。自分の気に入ったものは何でも自分にとって善で、自分が嫌いな物、それは自分にとって善ではありません。本当はどちらか一方を嫌ったり愛したりすべきでないのに、私たちは騙されて一方を嫌い、一方を愛します。

 これがダンマの面で「価値」と言うもので、このようです。物質的、経済的な価値、物質面の価値もこのような意味があり、反対の物があるから価値が生まれます。欲しいものを欲しがる人の心に望みが生じるからです。次に欲しがるのを止めれば、「それはそのように、このように反対だ」と愚かさが止み、その人は中間にいて、つまり平然としていられます。

 これも目・耳・鼻・舌・体・心を通したあのような、このような正反対の感情に、価値あるいは値打ちを与える自分の愚かさで仏教を学びます。善悪、功罪、苦楽、美味不美味、美醜、芳香悪臭、何でも対になっていて、何万何千組もある自分の愚かさの話で、対であるものが生まれます。本当は全部自然で、当たり前で、普通の自然は何かと呼ぶべきでなく、全部同じ物、つまり「それはそのよう」です。

 人は自分の愚かさで、これは芳香、これは悪臭、これは美味しい、こればは不味いなどと規定します。だから学んで本当の仏教を知るには、これらの愚かさから学ばなければならず、そうすれば仏教を知ります。

 これ以上話すと終わらないので、第六番目の、生活と仕事から学ぶ、生活と日常の仕事から仏教を学ぶと話して終わりにします。生活と仕事には誤りがあり、正しさがあり、愚かさがあり、賢さがあり、何でもあり、特に重要なのは誤りと正しさで、間違った途端に苦が現れ、正しければ楽しく美味しく、密かに苦しめます。善悪も同じで、悪は公然と苦しめ、善は美味しくさせて、密かに人を苦しめます。だから誤りも正しさも、善も悪も、負けも勝ちも、全部止めてしまわなければなりません。

 職業生活にも正誤があり、損得があり、勝ち負けがあり、対の物である騙すものがある人生を学び、そして過ちは正しさより良い先生であることを忘れないでください。正しさは望んだような結果があり、そして自分を忘れ、大騒ぎをし、誤りは痛みがあるので気が付くことができます。だから誤りは正しさより良く教える、正しさより良い先生です。

 昔の人は「間違いも先生、正しさも先生」、どちらも同じようと話しましたが、私は、正しさよりむしろ誤りの方を先生と見ます。正しさはのぼせ上らせ、ご機嫌を取り、誤りは噛まれ、噛みつかれ、頬を叩かれ、人は簡単に気づくので、過ちは正しさより良い先生と見なすべきです。それは油断をなくさせ、注意深くし、何かたくさんします。

 私たちは、日常生活と仕事はほとんど思いどおりにならないので、成功より失敗の方が多いと感じ、あるいは見えています。誤りにするか正しいくするかは話さないで良いです。幸福を感じるか苦を感じるかにします。初めはほとんど苦を感じるので、最高に良い先生である苦を受け入れなければなりません。それは動揺させ、忠告し、あるいは鞭打ち、噛みつくので、愚かに夢中になって生老病死の話に迷って執着しないよう注意させ、正しくしやり直させます。

 だから苦の恩を知り、苦を好きになり、苦を愛し、先生として受け入れれば早く良くなります。人生が苦なのは、ほとんどは愚かさ、あるいは執着で暮らしているからですが、それは却って教え、最高に良く教えます。生老病死は「愚かに熱中してはいけない、迷って生老病死の話に執着してはいけない、そのように理解してはいけない」と教えるので、心は自由になり、生老病死の脅威から脱します。これが生活と仕事から学ぶことで、このようです。もう一度言えば輪廻から学ぶと言います。

 日常生活は輪廻で、願望と、願望による行動、そして望みと一致する、あるいは一致しない結果を得ることを循環し、そしてそれが次の願望の原因になり、そして再び行動し、再び結果があり、これは日常生活の輪廻です。日常生活のこれから学びなさい。そして同時に、時には輪廻が生じないで、まだ空っぽで、少なくとも寝る時、あるいは正しく心を維持している時は輪廻でなく、その時は小さな涅槃、見本の涅槃、味見の涅槃、偶然の涅槃と良く見なさい。

 自分の手腕でなくても良く、一時止まるに相応しい偶然で生じ、それも涅槃である気持ち良さで、見本の涅槃、偶然の涅槃が輪廻と入れ違いにあります。そしてそれは心に、生活の中、仕事の中にあります。

 仕事の中を良く見ると、輪廻である区間もあり、小さな涅槃に止まっている区間もあります。暗い面、あるいは解決法や管理方法がない苦しかない面を見ないでください。これを「仏教を学び、人生の輪廻を学び、生活の中の涅槃を学び、仕事と生活の失敗と成功を学ぶ」と言います。本当の仏教を学ぶには、その場所で学ばなければなりません。

 三蔵で勉強しないでください。三蔵を学べば学ぶほど仏教を知りませんが、三蔵を知ります。西洋人が学ぶように仏教を学ばないでください。西洋人のように学べば、学ぶほど仏教を知りません。ブッダがカーラーマスッタで、感覚から学びなさいと忠告されているように学ばなければなりません。

 さて次に話してしまうのはどこで学ぶかです。これはいろんな話ができ、弁舌を奮えば何百もの話をすることができます。そこでどこで学ぶかと問う時、三つほど話したいと思います。

1.学校で学びます。つまり背丈二メートルばかりの体と想と心で学びます。これはブッダが言われたのであり、私ではありません。ブッダは「世界も、世界が生じる原因も、世界の消滅も、世界の消滅に至らせる道も、如行は背丈二メートルばかりの体と、想と心に規定した」と言われました。

 背丈二メートルばかりの、そしてまだ生きている、つまり命があり、想と心がある身体の中に世界全部があり、世界を生じさせる原因があり、世界の消滅があり、世界の消滅に至らせる道がある、この四つが四聖諦です。ここでの世界は苦で、それが学校です。私たちの学校は背丈二メートルですがまだ生きていて、そしてその中に世界と世界の何もかもがあり、おまけに世界を生じさせる原因、世界の消滅、どのように消滅させるかもその中にあります。

 それが私たちの学校です。三蔵でなく、パリヤッティダンマの学校でなく、あるいはどこの何の学校でもなく、背丈二メートルほどで、学ばせる仏教の本物である話がある学校です。学校、つまり背丈二メートルほどの身体で学びます。これは場所を話しています。

2.宗教の言葉でダンマと呼ぶ心に今現われている感覚で学び、今心に現れているダンマで学びます。このダンマは何でも良く、善でも悪でも復讐でも良く、原因でも結果でも良く、形でも名でも良く、薀でもダートゥ(要素)でも何のアーヤタナでも全部ダンマと呼び、文字でも話す言葉でも記憶でもなく、今心に現れていて心で本当に感じているもの、何がどのようか、今心に本当に現われているものです。

 特に受(ヴェーダナー)に注目し、受は幸福・苦・そして不幸不苦の三種類です。私たちは、ほとんどこの感覚で生きていて、他の感覚はこの感覚に関わっています。だから私たちはこの感覚、つまり幸福・苦・不幸不苦だけを学べば十分です。本当の仏教を学ぶには、ここで学ばなければなりません。感覚がなければ死んでいるので、感覚は誰もが必ず感じる物です。次にまだ生きていて、背丈二メートルばかりの身体がまだ生きていれば、それはまだ感覚があるので感覚で学びます。これは受に注目します。

3.心あるいは識(ヴィンニャーナ)で学びます。通常私たちには自分があり、俺、俺のものがあるという愚かさがあることを忘れないでください。「何が自分か」は、一般の人は魂、あるいは自分と言い、識と言うことが多いです。

 しかし「魂(ヴィンニャーナ)」という言葉には注意してください。この言葉は最高に騙します。それは「自分」と同じだからです。自分という言葉が人を騙すように、ヴィンニャーナという言葉も人を騙します。最初はこの言葉から根が出て魂が生じ、魂が死ぬと再び識が生まれ、自分が死ぬと再び戻って来るので、ヴィンニャーナという言葉を使うからです。

 識(ヴィンニャーナ)と呼ぶものを正しく学習すれば、本当の仏教を知ります。本当の識は学習すべき識で、詰まらない識は要りません。本当の識は二種類あります。本当にある本当の識は二種類あると良く憶えておいてください。一種類は無明から生じた識で、形が目に触れ、声が耳に触れた時、サティが欠ければ、つまり無明があり、そして苦になるためだけに無明によって目・耳・鼻・舌・体・心の識である明らかに見ることで生じます。

 これが無明の名形、無明の触、無明の受、無明の欲望にするために一時加工された縁起の識です。それは一時作られ、間もなく消滅して行きます。だから一度に何回か分からないほど識が生じ、無明が作った識です。

 もう一種類の識は純潔な心に関わる識で、心は純潔な状態があるので無明は関わって来ず、目・耳・鼻・舌・体・心の感覚はまだ純潔で無明でないので、この識は苦がない、普通に自然に苦がない識です。このような識を、時には「涅槃」と呼ぶことがあります。三蔵を隅々まで勉強しなければなりません。そうすれば、この種の識の意味を発見します。

 それは清浄な心と同じ涅槃という意味ですが、一時的な物、その時だけの物で、まだ永遠でなく、不動のものではありません。だから苦にならない、無明がない種類の識もあり、これは快適で、一般の人のように声を聞き、臭いを嗅ぎ、味を味わい、何に触れることもできますが、無明がないので爽やかです。

 しかし次に時々、あるいはほとんど全部そのようでなく、サティがぼんやりし、根源である無明を使って、無明の威力で六処の感覚を生じさせます。だからその識は無明から生じ、無明でできている苦になるための識です。だから一日に一時無明の識があり、一時純潔な心の識があり、このように交互にあり、これしかないと知ります。これがたくさんの言葉を生じさせる話になり、話せば切りがありませんが、本当は無明があるかないかだけ。こういう方が正しいです。

 俺と規定する何の感覚・考えでも、時には無明があり、無明の識で、苦であり、時には無明がなく、苦でない、このような俺にする方が良いです。苦でない俺は純潔な心に関わっている識で、無明に関わる識にしません。だから精神の娯楽を見る時のように最高に爽やかな時は、最高に幸福に感じます。しかし感覚あるいは何かの受や識は、無明とまったく関わりません。

 だから二種類の「俺」、二種類の識を知ってください。無明から生じた識が一つ、「俺」という理解があるので苦である俺です。無明がない識は純潔と関わり、俺である感覚がなく、その時俺である感覚はありません。ここに座っているみなさんは、俺であることを忘れていますが、目・耳・鼻・舌・体・心は感じることができ、蝉が鳴いても聞こえますが、俺、俺のものにしないで、喜びや悲しみか何かにしません。

 「識」はこれしかないく、そして無明がない種類の識は涅槃の側で、無明がある識は輪廻の側と、良く見てください。そして二つとも本当は俺、俺の物ではありません。しかしまだ取がある人は何かを「俺、俺のもの」と執着し、涅槃を知らない愚かさで、涅槃に「俺、俺のもの」と執着する人もいます。これは程度の重い愚かさです。

 愚かでなければ何かを「俺、俺のもの」と執着しません。だからこれから直接仏教を学んでください。そうすれば仏教を知ります。三蔵を学べば学ぶほど仏教を知らず、知るのは文学、パリヤッティ(学習)、語学だけで、三蔵で学ばずに苦で学べば仏教を知ります。

 西洋人が学ぶように仏教を学べば、学ぶほど仏教を知らないので、仏教から仏教を学ばないで、自分自身から仏教を学んでください。自分自身から仏教を学び、仏教から仏教を学ばないでください。ここでの「自分自身」とは、「何がどのように心の中で加工するのか。それは自分ではないのに、愚かな人は自分はどうこうだと言う。二種類の識はどのようか」と話した意味で、これを自分自身から学べば仏教を知ります。

 次に、ダンマの面で優秀になりたければなりたいほど仏教と一致しません。ダンマの面で、宗教で優秀な人になりたがる人は何方でも、それは更に仏教に触れません。それは俺、俺のものため、「ダンマの知識がたくさんある」あるいは「ダンマの実践をたくさんした」あるいは「たくさんのダンマがある」と自慢するために優秀になりたがる実のない話です。ダンマの方で優秀になりたがればなりたがるほど仏教にと一致せず、全部俺、俺の物と一致します。

 滅苦だけを目指さなければなりません。ダンマの方で優秀になること、教師になることを目指さないでください。ヴィパッサナーの先生である比丘は、至る所で発狂して狂人になっています。ダンマの方で優秀になりたいので、滅苦を目指さないでアーチャンを目指し、ダンマの方で優秀になることを目指すので仏教と一致せず、悪魔のもの、騙しのものと一致してしまうからです。

 最後に「仏教に執着すればするほど仏教ではない」と話したいと思います。仏教に執着する人ほど仏教と一致しません。本当の仏教は執着する余地はないので、執着するためにありません。最高に手放さなければならず、手放せば手放すほど自然に仏教になり、執着する必要はありません。忘れないようにこの種の言葉を憶えておいてください。精神異常のバカみたいな人が話す言葉のように不可解な言葉ですが真実です。


 『三蔵を学べば学ぶほど仏教を知らないので、直接苦で学ばなければなりません。それは仏教を教えてくれます』。

 『仏教を学べば学ぶほど仏教を知りません。彼らは最高にバカだと言いますが、私は最高に真実ですと言います。これが、西洋人は極めて仏教を勉強するので仏教を知らないことです』。

 『ダンマの方で優秀になりたがればなりたがるほど、仏教から離れさせます』。

 『仏教に執着すればするほど仏教と一致しません。仏教は何一つ執着することに関わらないからです』。

 どうぞみなさん、今日の講義の項目で「どのように仏教を学べば仏教を知るか」考え、思い、熟慮して見てください。それは、どのように仏教を学べば仏教を知るか、そして学ぶとはどのような意味か、何を学ぶか、どんな方法で学ぶか、どこで学ぶかと小さい項目に別れ、これらの質問に全部正しく答え、このようであり、そして代わる代わる話して来たすべては、どのように学べば仏教を知るかを説明して見せています。

 時間になりましたので、今日の講義はこれで終わらせていただきます。




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