6.ダンマ語の形の宗教の重要なもの



1971年2月13日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。いつものように生老病死の友に話すための話を選び、今日は予定どおり「ダンマ語で述べてある仏教の重要なもの」です。なぜこの題目で話すのか、人語で話した仏教の重要なものについて話しましたが、ダンマ語での意味を捉えなければならないからです。

 仏教の教えについて話す言葉は高度で深い話で、自分だけの話す言葉がありますが、それはいつも話せません。つまり難しすぎたり、一般の人には理解できなかったりするので、普通の人が話す言葉で話さなければなりませんが、特別な違う意味を持たせ、ダンマを知る人の意味にします。

 仏教の重要なものは、梵行と呼ぶ滅苦のための実践、あるいは八正道を歩く話以上のものは何もなく、これが仏教の最高に重要な物、そして唯一のものです。ここで重要なのは、実践を成功させなければならない、つまり歩いて成功させなければならない、誰にとっても必要な物という意味です。

 そしてこの問題は、私たちが気づかなくても、つまりこの人生は旅をするようなものだと見る人があまりいなくても、全員に本当にあります。彼らは夢中になっていろんなものに陶酔して恍惚とし、そしてそこに急停止するので、その人生は旅ではなく、途中で何かに迷って熱中するばかりで旅と感じず、これは道、あるいは途中と知りません。

 その人が何かに満足するとそのようにし、そのようにしかしないで、ますますそのようにしてしまいます。前へ歩いて行く代わりに、もっと高い所、もっと善い所へ行く本当の人生は、あまりありません。それは「この人生は旅をすること」という意味を理解しないことに因ります。

 「人生は旅すること」と言う時、普通の人の言葉でも、どのように旅をするか聞いて正しく理解しません。この種の言葉はダンマ語のように述べた言葉なので、ダンマ語の意味を捉えなければなりません。人生は旅のもの。旅をすること。これは人語でなくダンマ語の言葉です。そして仏教で最高に重要なものは、全部このようなダンマ語で述べています。

 だからダンマ語の意味は人語の中にあるので、解釈して真実に到達しなければなりません。深遠な意味は、多くは比喩の形になっています。「人生は旅をすること」など、こういうのは例えで、この種の比喩はブッダバーシタにあり、直接のブッダバーシタは三蔵のパーリの中にあります。

 しかし後世の智者が同じように、同じ比喩で綴ったものもありますが、ブッダが話された譬えである教えは捨てていません。この深遠な比喩であるダンマ語の言葉は、ほとんどパーリ・ブッダバーシタばかりとお知らせさせてください。後世の人が、後になって話したものもありますが、そのブッダバーシタにこっそりもたれ掛かっています。

 人間に関わる仏教の重要なものは、滅苦をすること以外にありません。滅苦をすることは何種類もの比喩があり、旅をすることもあり、何をすることもあり、何種類もあるので、見本として十二、ちょうど一ダース取り上げて見せます。どれもみなさんがこれらの言葉の意味を正しく理解すれば、ダンマを聞き、ダンマを学び、後でダンマの実践をする時に便利で、非常に利益があるからです。聞いて見てください。初めに比喩の項目を話し、つまり先に項目だけを話し、後で詳しく話します。

 第一項は最高に重要な項目で、最高にたくさん話しているのは「人生は航海すること」で、海の商人が望んでいる物を求めて航海することのようです。昔は汽車がなく、飛行機がなく、航海する船があって、彼らは世界中を旅することができました。

 船に乗って海を旅するのは、その人にとって最高に価値がある何等かの物を、手に入れるまで探すためで、手に入れれば止まり、旅を止めます。人生も商船に乗って求める何か、つまり銀をいろんな場所で売買し、止めるまで旅をするようなものです。

 第二項は、人生は遠方への旅で、陸路を、涅槃と呼ぶ国へ歩いて旅します。あるいは不死と呼んでも呼び方次第ですが、それも遠くへ旅しなければならないので、困難な旅です。八正道は遠方へ旅することに例えることができます。

 人が遠方へ旅するには知識がなければならず、自分が行く所の地図などを準備しなければならず、護衛がなければならず、食糧がなければならず、乗り物がなければならず、靴も傘も、その国に着くまでの乗り物と呼びます。この人生は識(ヴィンニャーナ)の旅、目的地に到着するまで内面を歩くナーマダンマの旅と同じです。八正道の実践は内面を旅することです。

 第三項は、人生は向こう岸へ渡るようなものです。こちら側の国は凶悪な話ばかりなので、向こう側に行きたくなります。こちら側をティーラ、向こう側をパーラと呼び、涅槃はパーラの名前、向こう岸で、ローキヤ(世俗)はティーラ、つまりこちら岸の名前です。しかし向こう岸へ行ける人は極めて少なく、毎日唱えている経の文句のように、ほとんどはこちら岸で駆け回っています。

 第四項は、人生はローカから出てロークッタラに行くことに例えられます。聞くと、世界は堪らないので他の世界、つまりロークッタラに行くようです。「ロークウッタラ」という言葉は、本当は世界より上、世界を脱して世界に関わらないという意味です。世界、あるいはローキヤは我慢できないので、世界から出て世界の外に、ロークッタラに行ってしまいたくなります。

 述べて来た四種類は「行く」話で、人生はじっとしてなく、行って、行って、行く人生で、欲しいものを求めて航海する旅、あるいは涅槃の国までの遠い旅、あるいはこちら岸から向こう岸へ出て行く、あるいは世界から世界の外へ出てしまう旅と言います。

 第五項は、もう一つの喩えは何かを手に入れる話で、人生あるいはダンマの実践は稲作のようです。稲作はどのようにするか、みなさんは良く知っています。しかしブッダ式の稲作、不死が籾米のように実る田んぼはまだ知りません。

 「善いのは食べるだけで、何もしているように見えない」と、当て擦るようにブッダを非難する人がいたので、ブッダは「私も稲作をしています。不死が実、信仰が種籾、煩悩を消す努力が雨水、智慧は鋭いので田を耕す鋤、美しくする慙、罪を恥じることは鋤の柄、心は鋤を操る紐で、何でも全部揃っています。聖向聖果に到ることが稲作の最後の季節、稲作の終わりで、不死である籾を収穫します」と言われました。

 このように話せば、稲作をしている人は簡単に理解できます。このバラモンの爺さんは田を耕していて、ブッダはわざとその爺さんに悪口を言わせ、そしてその質問に答えられました。これを、人生は稲作、八正道の実践は不死の籾を収穫する稲作と言います。

 第六項は、自分で治療して病気を治すようなものです。何かの疾病がある人は自分で病気を治す努力をしますが、それが体の病気、多少マシなのは心の病気で、普通の病院、心の病院へ行って治療をして治します。しかし大変なのは精神の病気で、ブッダの病院へ行かなければなりません。

 精神の病気とは貪り、怒り、迷いで、突き刺し、焼き炙って非常に苦しくするこのようなものは、ブッダの病院へ行って治療をしなければなりません。この人生を病気の治療に例えるのは、生まれると貪り、怒り、迷いが生じ、どんどん成長するとどんどん病気が悪化して、治す方法を探すからです。人生は自分の病気を治療して治すことのようです。

 第七項は、人生は刺さっている矢を抜き取るようなものです。体に矢が刺さっている人は急いで抜いてしまう努力をし、そして傷を治療する努力をしなければなりません。誰が自分を射たのか、なぜ射たのか、何で作った矢かと、夢中になって繰り返し愚かな質問をしてはいけません。それは愚かになる考えで、時間の無駄です。どのように抜くか、どのように治療して早く治すかを急いで考え、急いでそのようにしなければなりません。

 魂は有るのか無いのか、死んだ後何が生まれるのか、愚かに夢中になって質問しないでください。何によってどのように生まれるか。それは必要のないことを夢中になって考える愚かな質問です。それはこのように生じて問題があるので、何がどのように解決できるか、と問うべきです。苦があれば滅苦がなければならず、苦が何から生じても、そこで解決しなければなりません。死んだ後生まれるか生まれないか、質問する必要はありません。

 生じているものをどうするか、質問すべきです。終わらせれば終わります。終わらせれば、どのように滅苦するかを知り、消滅すれば俺、俺のものも全部消滅し、自分が全部消滅し、誰も生まれず誰も死なず、生まれる話、死ぬ話の問題は消えてなくなり、残るのは苦だけで、苦を消滅させてしまうことができます。これです。人生は体に刺さっている矢を抜くことと同じで、私たちには何としても抜かなければならない義務があるだけです。

 第八項は、人生は頭で燃えている火を消すようなものです。これは前のと似ていますが、頭で燃えている火に例えただけです。これも非常に急ぐ、極めて急ぐ話で、他のことをゆっくり待っていないで、頭で燃えている火を急いで消さなければなりません。この火は熱いという意味で、熱いとは貪り、怒り、迷いです。

 ラーガッギナーはラーガ(欲貪)の火で熱く、ドーサッギナーは怒りの火で熱く、モーハッギナーは迷いの火で熱く、それは熱く炙るという意味です。一方の矢は突き刺し、「熱い」と「突き刺す」の意味の違いだけです。そしてどこが火元か、誰が点けたのか探していないで、急いで消さなければなりません。探すのは後にして、あるいはする必要がなく、何としても火を消せば、再び燃え上がらないようにするだけで十分です。

 第九項は、人生は鬼や悪魔を追い駆けて殺す努力をするようなものです。人語の鬼悪魔は、お伽話の中にそのようにあると知っているので、大変な思いをして追い駆け、賢い方便で鬼や悪魔を殺すことができます。しかしダンマ語の意味は緻密で、鬼悪魔がどこにいるか、どのように殺すか知りません。

 キレーサマーラ(煩悩魔)、カンダマーラ(薀魔)、サンカーラマーラ(行魔)、マッチュマーラ(死魔)、デーヴァプッタマーラ(天息魔)、すべて悪魔です。煩悩は悪魔で、自然の身体も悪魔で、カンマの結果も悪魔で、死も悪魔で、もう一種類の天人も悪魔で、この種の天人は欲情で、悪魔です。悪魔を知らなければそれは悪魔で、自分自身も悪魔になってしまうので、何の悪魔も殺すことはできません。

 だから悪魔と悪魔を殺す道具や方便、方法を知るのは義務です。人生は悪魔を追い駆けて殺す努力をするようなもので、そうしなければ悪魔は繁栄して増えます。これは、悪魔はどこにいるか、つまり何かを教えます。悪魔の話の喩えは、非常に面白い話で書かれています。

 第十項は、ダンマの面で高くなり、人生は卵の殻を割って暗い所から明るい所へ出て来ることのようです。鶏、アヒル、何の鳥でも、生き物の小さな体は卵の殻で覆われていて、その小さな動物が殻を壊すことができなければ死ななければなりません。卵の殻の中で死んでいなければなりません。そしてほとんどは死んでいきます。私たち人にとって卵の殻とは無明で、ブッダがそう言われています。

 ブッダは卵の殻、つまり無明を壊して出てくることができた最初のヒヨコである人物です。これはブッダご自身が言われたブッダバーシタで、私が言っているのではありません。無明は孵る前のヒヨコを包んでいる殻のように包む殻で、ヒヨコは嘴で穴を開け、足で踏んで割って出ることができます。

 それが卵の殻、つまり無明を壊すことができる人です。違うのは、ブッダは初めての人で、ご自身で「手本として最初に出て来ることができた長兄であるヒヨコ」と呼ばれています。そしてブッダを真似て出て来て阿羅漢になった人がたくさんいます。

 今私たちは、自分は今卵の殻の中にいると気づかないので、あれこれ自慢し、自分は卵の殻の中にいると知りません。座って寝て立って歩いて、何でも今忙しくしていているのは、どのように卵の殻の中にいるか知りません。無明がどのように包んでいるか、どのように無明欲望の威力になるか、何も知りません。

 だからほとんどすべては生涯卵の殻の中で死んでいるのと、生まれてから棺に入るまで、生涯殻の中で死んでいるのと同じです。人生は殻を破って出て来られることは、よりダンマである喩えです。

 第十一項は高くなって極めてダンマであり、人生は溶鉱炉の中で最高に涼しい所を探すようです。溶鉱炉を思ってください。鉄でも何の金属でも非常に高熱が必要で、そうすれば金属を溶かすことができます。そして彼らは「溶鉱炉の真ん中に最高に涼しい場所を探しなさい」と言います。百トンの鉄の溶鉱炉はどれほど大きいか、どれほど熱いか、そしてどのように溶鉱炉の真ん中に涼しい場所を探すか、目を瞑って大きな溶鉱炉の様子を思い描いて見ます。

 それは物質の話で、心の話は、輪廻している動物は溶鉱炉の中にいるようなものと知らなければなりません。つまり世界全体がどれほど大きくても、世界全体が溶鉱炉で、火つまり貪り・怒り・迷いに満ちていると知ってください。特に現代は、火が著しく熱くなっています。

 現代の新しいタイプの発展は、世界をどんどん溶鉱炉にしています。闘う智慧がなければ、私たちは溶鉱炉の中で燃え上がりますが、ブッダの智慧があれば、あるいは仏教の教えが助ければ、溶鉱炉の中に最高に涼しい場所を見つけることができます。熱ければ熱い分だけ、同じだけ涼しくなり、つまり二つは同じ分量です。小さな火を消せば少し涼しく、大きな火を消せば非常に涼しく、最高に大きな火を消せば最高に涼しいです。

 だから心配はいりません。どんなに熱くても消すことができれば最高に涼しい話です。最高に熱い所に最高の涼しさがあります。しかし今、それは現れません。それは私たちが愚かで消すことができない熱さだからです。消すことができれば、そこにある最高の涼しさで、他を探す必要はありません。

 ここスアンモークには「ナリケー椰子は蜜蝋の海の中」というこの真実の象徴があります。「蜜蝋の海の中」とは、煩悩の威力で回転する輪廻で、熱いもので、「ナリケー椰子」は、輪廻あるいは蜜蝋の海の真ん中にある涅槃です。

 蜜蝋を作るのを止め、蜜蝋、つまり一時液体、一時個体で、一時善く、一時悪く、一時徳で一時罪で、一時幸福で一時苦で、一時何かに交互にしないで、そのようにしなければ止まり、そこで冷えます。熱さは涼しい所にあります。涼しさは熱い所にあり、熱さを出してしまえば、そこに涼しさがあり、涼しさが出て行けば熱さがそこに入って来ます。

 このように反対の状態を別々のものに分けないで、そこにあると見なします。別々にすれば出合えません。つまり涅槃を一つの方向にし、輪廻をもう一つの方向にすれば、そういうのは二つが出合う日はありません。そして本当は、それは人の心の中にあります。人の心は一時輪廻であり、一時涅槃であり、一時輪廻、一時涅槃で、このように交互に心にあります。

 どのように加工するか、加工次第です。たくさん加工すれば輪廻で熱くなり、加工を止めてしまえばそこで涼しくなります。だから喩えは「みなさん、溶鉱炉の中に涼しい点を探しなさい」と言うのと同じです。

 第十二項は最後の喩えで、人生は額にあるダイヤモンドを見つけることと言います。愚かな人がダイヤモンドを探して旅をしますが、死ぬまで探しても見つかりません。ダイヤモンドはその人の額にあるからです。これは人語の物質面の喩えですが、この身体の中に滅苦、あるいは涅槃があり、苦と対であるというダンマの意味があります。

 次に私たちは無明、愚かさの威力で見えず、額にある物が見えないように、あっても見えません。無明あるいは愚かさを出してしまえば「おや、それはここにあるよ。目と鼻の先に」と言います。だから本当の人生を善くすれば、額にあるダイヤモンドを見つけるように難しくも大変でもなく、不可能でも何でもありません。

 しかし探し方を知らなければ不可能以上です。考えて見てください。時々眼鏡を掛けていて忘れてしまい、眼鏡を探し回る、こういうこともあります。涅槃を探す話も同じで、正しい十分な知識と理解を使わなければなりません。そうすれば額にあるダイヤモンドを見つけるように簡単に見つけられます。

 見本として取り上げただけでも十二種類で、たくさん、十分です。この十二種類を持ち帰って良く熟慮してください。そうすれは私の話と一致するに違いありません。

 次に最後の秘訣を教えます。喩え、あるいは秘訣、あるいは何と呼んでも良いですが、「じっとしている方が良い。何もしなくても良い。何もしてはいけない、何も作ってはいけない」と言います。この言葉は聞いて意味が分かりません。クルンテープ(バンコクのこと)の王立学士院の哲学者の何人もが聞いて意味が分からないで、休まず私を叱ります。「じっとしている方が良い。何もする必要はない」と言うのは、特別の意味があり、ダンマ語であり人語ではないと言いました。

 人語で「じっとしている」は手足をピクリとも動かさないことで、これが何もしないことです。しかしダンマ語で「じっとしている」という言葉は「サンカーラに何も作らせない」です。俺、俺のものを作らないでじっと静かになってしまい、考えに俺、俺のものを作らせないで、静かに、何もしないで、暇にしています。あるいはもう一度「元の状態を維持しなさい」とも言います。

 ブッダも「パバッサラミダン ビッカヴェー チッタン=この心は純潔な自然がある」、つまり煩悩がなく、澄み切っていて、その感覚の中に俺、俺のものがなく、「アーガントゥゲーヒ ウパキレーセーヒ ウパキリッタン=しかしアーガントゥカがあるので、つまり煩悩が介入するので、心は暗く憂鬱になる」と言われているからです。

 これは、この煩悩は新しいものとして作られるのでアーガントゥカと呼ばれるという意味です。新しい物を受け取らなければ、古い物しか残っていないので元通り純潔です。だからワルサをしないで、問題を探して目・耳・鼻・舌・体・心の面を俺、俺のものに加工しないで、じっとしています。

 これが最後のもので、 第十三項と呼ぶこともでき、じっとしている、じっとしていると言います。人生は、本当はじっとしていることが滅苦で、到達すべきもの、つまり涅槃に到達することです。歩けば歩くほど到達せず、じっとしていればいるほど到達し、求めれば求めるほど得られず、じっとしていればじっとしているほど得られます。これはこのような譬えです。

 次に、どうしたらじっとしていられるかという問題があります。それはじっとしていることができず、下品で常軌を逸した事ばかり待っていて、じっとしていられず、休まず目・耳・鼻・舌・体・心の面の加工をし、俺、俺のものも休まず転げ回り、いつも焦燥していてじっとしていられません。この喩えが好きな人は、どうしたらじっとしていられるか、じっとしている面を学べば、問題はなくなります。

 旅の方面に興味がある人は旅をする方法を学んで正しく歩き、稲作に興味がある人は、不死の田を作る方法に関心を持って正しくすれば、結果である不死の米が収穫できます。人生は頭上の火、胸に刺さった矢などのようと悲観的に見る人は、火を消す方法、あるいは抜いてしまう方法に関心を持って学び、悪魔のようだと感じる人は悪魔を殺してしまいます。

 「無明のせいだから無明を殺してしまえ」と言うほどダンマの面で高くなれば、熱さ、つまり煩悩、あるいは今煩悩に覆われている世界に涼しい場所を見つけます。すべての人間群の中の何人でもない賢い人が、額で見つけることができ、何でも額で見つけることができます。

 このような十二種類は、誰でも好きな項目を思い出して、その意味で理解を明らかにすれば、最後には自然に出合います。何人でも、幾つの方法でも、どの方法でも、最後は一つの点、つまり終点、苦がないこと、あるいは滅苦ができることに出合います。

 今日は基本である第一の喩えを話したいと思います。それは広い意味があり、教典全般を網羅するからです。つまり一番の喩えで話したように、人生は航海のようという話で、好きか嫌いか、聞いて見てください。知性で見て、世俗の言葉からダンマの意味を探してください。

 ウパダーナ(取)氏は無明の子で、「俺、俺の物」という名前があると仮定すると、その俺、俺の物氏は、人々が望むように金持ちになりたがります。誰もが金持ちになりたい、立派になりたい、優秀になりたい、金持ちであることは役に立つと見るので金持ちになりたがり、だから船で商売に行きます。

 この人は大きな船に乗って他の人たちがしているように海外に商売に行き、例えばインドに住んでいてスワンナプーム(インドシナ)の方に商売に来て、たくさん黄金を持って帰り、ここの金は無くなってしまい、インドへ行ってしまいました。船での商売は海を行かなければならず、船は広々とした海に浮かばなければならないので陸の商売と違うからです。

 海という言葉の意味はたくさんあり、危険に遭遇しなければならず、何種類もの危険、例えば海賊、嵐、海の凶悪な動物などがいて、これは見えています。その人が載っている船も繰り返し難破し、その人は死を知りません。無明・取が残っている分だけ俺、俺のものは死を知らず、船が繰り返し難破しても、新しい船を探すことができます。

 次々に船を換え、この商品が良くないと他の商品に換えることができ、繰り返し取り換え、一時赤字で、一時黒字で、一時赤字で、一時黒字で、交互にすることができ、そして続ける機会を狙っています。酷くなると広い海は終わりがなく、船が繰り返し難破し、危険に遭遇してばかりいることに厭き始めます。

 この後、船が破損していることが明らかになって泳がなければならなくなり、その人は泳ぎ、泳いである方向へ行くと、偶然一つの島を見つけ、その島に上陸し、心をすっかり変える物を見つけると、欲しくない、なりたくない、何もいらなくなり、俺も自分自身に飽き、欲しくない、なりたくない、何もいらなくなります。

 そこいには不死の水があって飲むことができ、不死の水を飲むとすっかり心変わりし、新しい船、新しい商品を探す気持ちがなくなり、何も欲しくなくなったので、そこで止まって崩壊してしまいます。話の要旨はこのようです。

 どうしたら自分の人生をこのようにできるか、考えて見てください。ここに座っているみなさんも人生があり、人生は航海の旅に出て、止まらせ、そのようにしていることに飽きさせる物に出合うまで、繰り返し商売の旅をするような、このような状態があります。今私たちはこのような状態にいて、もう止まったか、もう飽きたか、もう止まれるか、あるいは今海を泳いでいるか、あるいは今船の上に座っているか、あちこちの国を回って商売しているか、あるいは船が難破して頭を出して泳いでいるか、後で考えてください。

 今、人語で話して置いたけれどダンマ語の意味がある仏教で最高に重要なものを考えて理解するために、もっと詳しく見えるように説明したいと思います。人語の意味で捉えれば話にならず、バカみたいな訳の分からない話で、ダンマ語で話せばいろんな話、そして興味深い話があります。理解するには、今日の講義の主題の説明で熟慮して見てください。

 ウパダーナ氏は無明の子です。ウパダーナ(取)とは、「それ、これ、俺、俺のもの」という思い込みで、この人は無明の子で、無明がなければ氏は生まれる術がないので、氏には父である無明、母である欲望がいて、「俺、俺のもの」と呼ばれるウパダーナに生まれて来たと言います。つまりサンカーラのグループ全部です。俺であり、俺のものである物、それが無明と欲望の子と理解します。

 その子が船で商売に行くのは、彼の母、つまりカーマタンハー(愛欲)、バヴァタンハー(有欲、渇愛)、ヴィバヴァタンハー(無有欲、無渇愛)の望みどおりにしたいからです。無明があると愚かなので、それらの物を欲しがるべきでないと知らず、無明で欲しがればいつでもその時苦があります。みなさんもまだ無明で欲しがって、あれが欲しいこれが欲しい、そしていつでも苦になります。知性や智見で欲しがる方法を知らず、欲しがるのは毎回無明・欲望によってです。次にそれは欲望で行動し、船で商売に行きます。

 船は船主、船の備品がなくてはならず、船本体は身体で、船主は心、そしてその他すべての備品はチェタシカ、つまり心の性質で、ああいう、こういう、そういう心に加工し、善も不善も中間もあります。だから船一式という言葉は船体、船主、船の備品で、つまりこの身体が船で心は船主、すべてのチェタシカダンマは船の備品、船員、用具です。

 別の呼び方をすれば五蘊と呼び、形薀は船、識薀は船主で、受、想、行はチェタシカダンマである船の用具です。五蘊と呼ぶならこのように言わなければならず、そうすれば船一式になります。三つにまとめれば身体、心、チェタシカで、体と心と心の感覚です。二つにまとめれば名と形で、名という言葉は心と二つのチェタシカが含まれ、名と形は船主と船員、船一式です。

 次に船は海を航海しなければなりません。この話の「海」は危険を意味し、沈めば危険で、沈まなくても嵐があり、危険な動物や話したような海賊もいますが、大きな意味は沈む危険です。だから彼らは沈没、あるいは洪水と呼び、あるいはオガと呼ぶ四種類があります。カーマオガは愛欲に沈み、ディットーガは愚かさ、愚かな見解に沈み、バヴォガはあれであること、これであることの自慢に沈んで、アヴィッジョガは闇に沈みます。

 (ディトガは考えや見解に執着するという意味で、アヴィッジョガはいつも暗い所が違います)。この四種類は次々に沈ませる海で、一時愛欲に沈み、一時見解に沈み、一時所有や身分に沈み、一時無明に沈み、一日に何回か知れないほど沈みます。

 一人の人が何回、あるいは何種類の海に沈むか知れず、その上この海は蜜蝋の海です。二つの面があるという意味で、愛させるのが一つ、嫌わせるのが一つで、蜜蝋のように一時溶け、一時固まり、これが善と悪、徳と罪、幸福と苦などです。善は水でmo海でもないと理解しないでください。本当は善も海、悪も海です。それがどのように違っても、沈めば危険だけで、どの種類の水も沈めば難儀します。

 固い水でも液体でも、何であろうと沈めばすべて苦です。幸福でも苦でも海で、人はまだ幸福の海、苦の海に沈まなければなりません。絶対に何にも沈まなければ、そうすれば海ではありません。だから私はこの海を蜜蝋の海と言います。つまり両面を叩く海で、そのようでも沈み、このようでも沈み、上っても下がっても沈みます。

 次に「俺、俺の」氏の話は蜜蝋の海を航海して危害に遭遇します。「海の危害」とは苦、つまり五蘊のウパダーナ(取)から生じる苦です。これは五蘊、つまり形・受・想・行・識について良く知っていなければなりません。通常私たちは形・受・想・行・識がありますが、ウパダーナが混じっていなければ苦ではありません。

 「薀ならすべて苦だ」と彼らが間違って話しているように理解しないでください。それは「ウパダーナがある薀」「ウパダーナの所有者である俺、俺のものがある薀は」とハッキリ言わなければなりません。ただの薀、純潔な薀は苦ではありません。

 身体と心があって、ウパダーナが生じなければ、あるいはまだウパダーナが生じなければ苦ではありません。だから時々ウパダーナが生じれば、時々苦です。煩悩欲望ウパダーナがなくなれば、阿羅漢のように永久に純潔な五蘊になり、苦はなく、苦になるウパダーナはありません。普通の人凡人は時々、あるいはほとんどは俺、俺のものと占領するウパダーナがあり、それが時には眠っても占領する義務をし、つまり執着する夢を見て、そのような夢も苦です。

 覚めていても一時目の、一時耳の、一時鼻の、一時舌の執着をするので毎日苦があり、毎日たくさんあり、つまり海に沈で凶悪な魚、海賊、あるいは猛烈な嵐による海の危害に遭遇します。つまりある日ある時、俺、俺のものに加工された五蘊、ウパダーナがある五蘊から各種の苦が生じます。これを「海にある苦、あるいは害、あるいは危害、あるいは危険」と言います。

 次に輪廻することに大きな問題があり、懲りることを知れば、輪廻から上がってしまうので問題はなくなりますが、私たちは懲りることを知らなず輪廻をするのは、騙して輪廻させる物があからです。それが無明、欲望、ウパダーナを休まず作るり、つまり休まず無明、欲望、ウパダーナを作って入れ替わりで騙し、それも輪廻が生じ、つまり輪廻から出たがらず、いつまでも泳ぎ回っていたいと志願するので、大きな問題は輪廻です。

 仏教で最も重要なものは、望ましくない側は輪廻と呼ぶ回遊すること、望ましい側は涅槃と呼ぶ輪廻の停止、この二つだけです。涅槃でなければ輪廻、輪廻でなければ涅槃、この二つしかありません。

 涅槃は私たちに何もしないので問題はありませんが、輪廻は休まず迫害するので、「輪廻」と呼ぶものを十分知るべきです。だから私はこの話を他の話よりたくさんします。

 輪廻の回遊を幾つかの部分に分類し、各部分の状態を見せると、

1.感情で言えば、輪廻は目・耳・鼻・舌・体・心の形・音・臭・味・接触・考えの中を輪廻させます。つまり目・耳・鼻・舌・体・心から入って来て騙して愛させ、あるいは憎ませるもので、私は形・音・臭・味・接触・考えはこの中を、このような六種類の中を輪廻していると言います。そのビルに描いてあるダンマの謎の絵の丸い絵は、丸い輪があって六人の人が輪の周りをまわっています。六つの感情の中を回遊しているので簡単には飽きません。形・声・臭い等々六種類もあり、それぞれが切りもなく変化できるからです。

2.場所あるいは国で言えば、スガティ(善趣)ドゥガティ(悪趣)を輪廻し、ドゥガティは四つ、スガティも四つあります。数えやすく憶えやすく、ドゥガティが四つ、スガティが四つ、合わせて八つです。ダンマの謎の絵には八羽の鳥が輪の中を回遊しています。四ドゥガティは地獄、畜生、餓鬼、阿修羅で、楽しく回遊し、次に四スガティは人間、カーマーヴァチャラ(欲界で経過する人)である天人、ルーパヴァチャラ(形界で経過する人)である天人、アルーパヴァチャラ(無形界で経過する人)である天人で、合わせて四つです。

 人間が一つと天人が三つで、欲情に満ちたカーマーヴァチャラの六段階をまとめてカーマーヴァチャラが一つの部類と言います。そしてルーパブラフマ(形梵天)たちは愛欲に関わらない幸福があり、純潔な形を感情にするのが一つの部類です。そしてアルーパブラフマ(無形梵天)は形のないものを感情にし、これが一つの部類です。だからスガティも四つ、ドゥガティも四つ、あわせて八つ、満足して回遊させる場所です。

 考えたようになり、畜生のように考えれば即座に畜生に生まれ、イライラする人のように考えれば即座に地獄の動物になり、恐れれば途端に阿修羅になり、渇きは途端に餓鬼になり、何としても望んでいる物を得るために汗水流して働いて、普通に切望して転げ回ればこれは人間で、一時愛欲があり、一時ありません。

 次に望んだように愛欲が得られればカーマーヴァチャラ(欲界の経過になる)の天人で、厭きた人は、年寄りなどは厭きて愛欲の話に関心がなく、形がある物で遊べばルーパ(形)の段階で、形がないもので遊べばアルーパ(無形)の段階です。しかし昔の教典の中の文字によると、ルーパブラフマ、アルーパブラフマは別の世界にいて、ここにはいないとしていますが、それは見るのが難しいです。

 だから一人の人が一時地獄の動物、畜生、餓鬼、阿修羅に生まれ、一時再び人間に生まれ、一時天人になり、カーマーヴァチャラ(欲界の生き物)、ルーパヴァチャラ(形界の生き物)、アルーパヴァチャラ(無形界の生き物)に交互になっていると、ここを指摘する方が良いです。そしてそれは自然が規定してくれたもののようです。

 一人の人が生まれてから死ぬまで止まっていることができず、次々に変化するので、子供が好きなもの、大きくなってから好きなもの、若者が好むもの、主婦や家長が好むもの、年寄りが好むもの、もっと高齢者が好むもの、それはどんどん変化し、全部揃うからです。

 やきもきすれば、その時は地獄に落ち、飢えれば、その時は餓鬼で、愚かな時はいつでも畜生で、恐怖がある時はいつでも阿修羅で、汗水流して働いている時は人間で、愛欲に狂っていればカーマーヴァチャラ(欲界の経過になる)の天人で、純粋な形を好んでいる時はルーパブラフマ(形梵天)になり、形がない物を好めばアルーパブラフマ(無形梵天)になって、ここにいます。

 こういうのは簡単に見えます。見えない物、どこにあるか分からないものについて話したくありません。私たちは回遊する場所を変え、この八つを回遊していると良く観察して見てください。場所で言えば四つのスガティ(善趣)、四つのドゥガティ(悪趣)を回遊しています。

3.この輪廻を行状で言えば、煩悩、カンマ、報いに分けることができます。煩悩は願望で、カンマは願望の威力で行動することで、報いはそのカンマから生じる結果で、報いは新たな煩悩を生じさせるので再び煩悩があり、再びカンマを作り、再び結果を得、そしてまた煩悩が生じ、カンマを作り、結果を得、このように輪になっています。

 願望、そして行動し、それからその行動の結果を得、そして再び願望に戻って、そして行動して結果があり、このような輪をトライヴァッタと言います。トライヴァッタとは、三つの輪廻という意味で、三つの部分の循環です。詳しく説明すると十二の状態がある縁起の話になります。これは話す時間がないので、煩悩・カンマ・報い、煩悩・カンマ・報いという話だけすれば十分です。

 一日に幾つの輪廻があるでしょうか。一日に願望し、それから行動し、そして結果を得、そしてまた願望し、それから行動し、そして再び結果を得、一日に幾つもの、何回もの輪廻があり、一か月一年ではどれくらいか考えて見てください。たぶん何百、何千、何万でしょう。見てしまってください。そうすれば倦怠を知ることができます。輪廻の状態にはこのような三つがあります。 

4.反作用として受け取る結果で言えば生老病死で、輪廻の結果である生老病死の中を循環します。生老病死を回遊することを、結果を基準にする、結果を基準と見る回遊と言い、この話はたくさん聞いているので説明はあまり要りません。私たちは生まれると老い、そして病んで死にますが、物質的な面だけを意味せず、体の面だけを意味せず、心の面も意味します。

 ウパダーナ(取)である俺が生じ、それから俺が少しずつ衰え、少しずつ変化し、そして俺が消滅し、再び俺が一時生じ、変化し、すぐに消滅し、このような状態は一日に何回もあります。これを「結果である、俺に生じる結果である俺の生老病死は、生老病死である結果を受け取る」と言います。

 彼らが信じているような身体の面でも良く、母の胎内から生まれて日に日に老い、そして時には病気になって死んで棺に入り、そして新たに生まれると信じられていて、新しく生まれるとまた老病死があり、このように循環するのもあります。これは人語での話です。しかしダンマ語ではウパダーナから一回俺が生まれ、一時で変化し、一時焦燥し、一時衰退し、一時消滅し、そして再び生まれ、一日に何回か分かりません。

5.最後は常態で見れば、この回遊は発生と変化と消滅以外の何物でもありません。「生まれる」とは、身体が生まれることを意味せず、何が生まれることでも良く、生じて変化して、そして消える身体のものでも良く、心のものでも良く、土、砂、石、木の物質、何でも良く、常態があり、つまり現れて、変化して、そして消滅し、そして現れて、変化して、そして消滅する、これを回遊と言います。輪廻の回遊はこのような状態があります。

 その旦那が船で輪廻の航海に出ると、このような回遊があり、名と形・体と心は船・船主・乗組員一式であり、このような状態で回遊して形・音・臭・味・接触を探して回り、場所を変えて回遊し、望みと望みですることがあり、そして結果を得、そして再び望むので、繰り返します。

 発生・変化・消滅。発生・変化・消滅。「維持」と言う人もいますが、言わない方が良いです。それは子供っぽすぎ、人語すぎます。それは生じて、そして変化し、「変化する」を「維持する」という人もいて、そしてそれは消滅します。本当は永遠に維持できるものは何もなく、素早く変化します。その変化は「一刹那維持している」でも良いですが、一刹那で変化しなければならず、一刹那以上に維持すれば、それは生じた私たちの考えは必ず変わります。

 考えは死ぬまで変化します。だから良く見れば、発生と変化と消滅以外に何もないと見えます。次に全部を終わりのない変化と見た時には、発生・維持・消滅と言うこともできると言いたいと思います。しかし真実は、発生と消滅の間には変化があります。それが維持できるのは一刹那なので、変化と見なさなければならないからです。

 さて話を続けると、その旦那は商売して回り、商売は儲けを欲しがる願望でし、儲けは自分が望むもので、儲けがあったり赤字になったりは商売の状況次第で、黒字の時はいつも善で、つまり善い側の話です。赤字の時はいつでも悪、つまり悪い側の話です。損得なしの時はいつでもアバヤカリタ(善いとも悪いとも判じない)です。すべてのダンマをたった三種類、つまり善、悪、そして善悪判じ難いものに分類できます。

 次にその人の商売は一時黒字、一時赤字、一時損得なしで、一時善、一時悪、一時善悪判じ難いという原則に集約でき、一人の人が一生の中で善や徳を行った部分は儲けで、悪や罪を作った部分は赤字で、時には徳でも罪でもないこともあり、つまり中間、トントンで、このように死ぬまで循環します。しかし私の話は儲けを欲しがらず、赤字や黒字であることから出て行きたがります。

 涅槃の話、不死の話は赤字でも黒字でも損得なしでもなく、何もいらない話で、あれだ、これだ、善だ悪だ、徳だ罪だと仮定する自分がなく、苦がないこと、つまり黒字や赤字より上にいることを望みます。儲けがあれば儲けがある種類の苦があって眠れず、赤字なら更に眠れません。あるいはその儲けが愚かさを増やし、耽溺を増やし、苦の海に沈むこと増やすので、稼ぐことから抜け出せません。

 商人やお金を稼ぐビジネスマン、お金を作る人は、黒字と赤字ゆえに抜け出ることができません。儲けがあればもっと欲しくなって止められず、赤字になると取り返したくなって止められません。黒字と赤字の話が引き止めるので、計る時がありません。止まる話、涅槃の話はそれより上、善の上、悪の上、徳の上、罪の上、幸福の上、苦の上でなければなりません。それは赤字より上、黒字より上という意味です。

 今この旦那は、まだ輪廻の中で商売の旅をし、一時赤字、一時黒字、一時損得なしで、このように循環していて、これがカンマとカンマの報いと呼ぶものです。彼が商売をして歩くことがカンマ(行為)で、それにはカンマの結果があり、赤字、黒字、損得なし、これが報いです。だから彼の商売はカンマとカンマの報い以外の何でもなく、カンマとカンマの報いの流れになります。カンマとカンマの報いと名がつけばどのようかは、どれも手に負えないので、カンマより上でなければなりません。

 善いカンマも堪らず、悪いカンマも堪らないので、善と悪の終わりである特別なカンマでなければなりません。つまり涅槃へ導く八正道、これを善悪より上にいさせるカンマと言います。徳あるいは善は善で、罪あるいは不善は悪で、これは自然の成り行きで汚れ、徳と罪より上、つまり善いカンマ、悪いカンマより上の時はカンマが終わり、そうすれは休むことができ、本当の穏やかな幸福なります。まだカンマで経過しなければならないなら、自由はありません。

 船が繰り返し難破すると話したのは、何とか見えます。人語で身体を基準に話せば、生まれて死んで棺に入り、戻って来て再び生まれて棺に入り、もう一度生まれて棺に入り、心は死なないで、次々と新しい身体を探すことができると見なします。船主がまだ死ななければ、古い船の代わりに、次々に新しい船を探すことができます。しかしこれは子供の言葉で、ブッダが話される前から話されていて、関心を持ちたくありません。

 ブッダが話されたように話せば、一日に、一年でなく一日に、船は何度も難破します。俺、俺のものが生じて一時この身体を支配すると「船」と言い、俺、俺のものが消滅すると、新たに俺、俺のものが生じるまで、この船の所有者はいなくなります。こういうのを繰り返し船が難破すると言うことができます。

 そして一日に何回も何十回も壊れることがあり、一日に繰り返し作ります。一日にね、船が繰り返し破損します。壊れて新しいものを手に入れ、再び壊れて新しいものを手に入れ、そしてまた壊れます。

 だからジャーティ(生)という言葉、生まれることには二つの意味があり、身体のジャーティは百年ほどで棺に入り、精神面、ナーマダンマ(抽象物)のジャーティはニ三分で死んで、再び生まれることもあり、時には、最高でも一時間で再び生まれ、再び死にます。このバヴァ(有)、他のバヴァと呼ぶものは、このような意味があります。

 このバヴァとは今感じている現在のバヴァで、他のバヴァとはその後何分、何時間、何日でも構いませんが、後になって感じるバヴァで、これを他のバヴァと言います。この世界と他の世界はこのような意味で、棺に入る必要はありません。

 非常に誤解しているのは、ディッタダンマとサムプラージカの話です。彼らは「ディッタダンマは現世の全生涯で、サムプラージカは棺に入った後、そうすればサムプラージカになる」と理解しています。本当は、文字としては、あるいは教えでは、サムプラージカとは「これ以外」、つまり今感じているもの以外のことです。

 今現在心で感じているパッチャッタン(自分だけ)であるもの、これをディッタダンマ、ディッタダンマミカと言い、今心の中で感じているもので、もう一方のサムプラージカは、いつか生じる時まで生じていない「これ以外」です。

 二つの涅槃の話の最高に良い説明の言葉を見つけます。つまり人々はこの言葉の意味を誤解するので、サウパーディセサニッバーナをまだ死なない涅槃、アヌパーディセサニッバーナは阿羅漢が死んだら到達すると理解しています。聞いて見ると、極めて滑稽な話です。

 涅槃の話に由来するパーリ(ブッダの言葉である経)の中の説明は、煩悩が尽きた人は阿羅漢とハッキリ見えます。こういうのはディッタダンマミカ、つまり煩悩が尽きたと知りますが、まだ温かい湯気は消えず、残っている温かさはまだ終わらないので、もうしばらくサムプラージカである一定の時期が経過すれば、湯気、あるいは温かさが消えます。

 涅槃は冷えるという意味で、これは簡単に譬えることができ、物質面の見本、赤く燃え上がっている炭火は輪廻で極めて苦で、そして水をジャーと掛けば途端に消え、赤々と燃えていたのが真っ黒に変わります。しかし掴んでご覧なさい、それはまだ熱く火傷をします。火はもうなくても湯気がまだ残っているので、しばらく待たなければなりません。

 そうすれば熱さが消え、冷え切って、この部分がサムプラージカです。水をジャーと掛ける部分がディッタダンマミカで、来世もどの世も、死んだ時も待つ必要がなく継続しています。赤い炭に水を掛けると黒くなりますがまだ熱く、次にサムプラージカまで待てば、黒く冷たくなります。

 だから「セサ」、つまりこの場合の「残り」は湯気を意味し、火は消えても湯気が残っていて、それから冷却し、残っている湯気もなくなります。説明の中で「ディッタダンマミカ」という言葉を使いますが、後者はサムプラージカで湯気が完全に消滅します。

 だから理解し直してしまってください。ディッタダンマミカという言葉とサムプラージカという言葉の意味は棺に入る必要はなく、あるいは現世で棺に入った後を意味しません。一日に何回も、ディッタダンマミカとサムプラージカが交互にあります。だから私たちの船が繰り返し難波するのはディッタダンマミカ、サムプラージカであり、一日に数えられないほど現世-来世、現世-来世になり、何回か数え切れません。

 船は繰り返し難波し、カンマは尽きず、カンマがまだ繋がっていて、カンマの結果の話が新たに生まれさせると言います。カンマが尽きないことが生まれさせ、船が繰り返し難波する状態があり、俺、俺のものが消滅し、すぐに他の俺、俺のものが頭をもたげ、船は繰り返し難波します。

 次にそれが何百回、何千回、何万回、何十万回も数えきれないほど壊れても、人はどれだけ厚くても薄くても、大きく変化する一点、最後の難波に至ると、もっと輪廻に近くなる海に飛び込んで泳ぎます。

 その旦那の船が壊れたので泳がなければならず、そこに偶然島があり、この人はその島に向かいます。船が破損して、彼は一日一晩、何か月も、何年も、必死で海を泳いで、次に幸運にも、島である方向が見えたので泳いで近づきます。最後に船が破損して海を泳ぐのは、手足を使って思いっきり水を掻いて、精一杯ダンマの実践をする努力をしているという意味で、これが本当のダンマの実践です。

 今まではどうしようもなく出鱈目で口ばかりでしたが、今は水に沈んで頭を出して泳いでいて、本気にならなければ死ななければなりません。今ダンマの実践の話に本気になり、手足で力の限り努力をするのは、泳いで危機を脱し、特に自分が自分の拠り所になる話にするためです。自分を自分の拠り所にするとは、自分をダンマにし、ダンマを自分にし、それまでのように俺、俺のものを自分にしないという意味です。

 「自分が自分の拠り所になる」と言うのとは違います。彼らは短く簡単に「自分が自分の拠り所」と言いますが、そういうのはできません。自分をダンマである新しい人にしなければなりません。そうすれば愚かでダンマでない自分の拠り所になれます。あるいは、自分をダンマにしてしまい、自分が残らないようにしても良いと言い直します。

 これが、海に落ちた人が危機から脱すことができる本当のダンマの実践です。さて私の話も、一つの部分が終わらせるべきなので、苦の塊の中を輪廻する第一部を終わります。

 次は第二部の幕開けで、彼は岸に上がり、この人が必至で海を泳いで休まず自分を助け、ある時確実に自分でできる限界に達し、一つの方向を見るとぼんやりと島が見え、島に違いないと見て「そこへ行くのが良い。後ろはもういい。過ぎたことはもうたくさんだ」と確信します。「もうたくさんだ」という状態を、私は「ニッピダー」と言い、ニッピダーと言うのが口癖になっています。

 ニッピダーは倦怠で「もうたくさんだよー」と、首を振って飽き飽きするものばかりです。父であることも楽しくなく、母であることも楽しくなく、妻であることも楽しくなく、夫であることも楽しくなく、何になっても何一つ楽しくありません。もう十分だ。これはニッピダーの症状です。

 人間でいることも楽しくなく、天人でいることも楽しくなく、バラモンであることも楽しくなく、アパーヤドゥカティ(破滅の原因)であることも楽しくなく、楽しいものは何もないので、もうたくさんです。どこかで商売して設ける物はもう何もありません。それは儲けでもあり損失でもあるので、もうたくさんです。

 向こう岸を見たのは、その後これらの話に関わらないことで、向こう岸、外側、向こう側はこちら側でなく外へ出ましたが、ここを見つけました。彼は反対側に出ていましたが、ここを見つけました。確かな岸が見え、確実な決意があって普通に戻ることはない。これを預流向、預流果の症状と言います。つまり預流が生まれました。向こう岸を確信し、こちら岸、あるいはこちら側に未練がなく、後退することなく、そして将来確実に到達するという意味の預流であることが生じ、こういうのをプラソダーバン(預流)と言います。

 その人が泳いで行ってどんどんそこに近づき、浅瀬に至って歩いて行くこともできれば、それは十分島に近いのでプラサキダーガーミ(一来)です。更に歩いて行くと水際、渚に至り、この砂浜はプラアナーガーミ(不還)です。それからすっかり乾いている陸に上がればプラオラハン(阿羅漢)です。この人の上陸の過程はこのようです。

 次に乾いた陸の上に上がることは不死であり、島です。涅槃の国、不死の都は涅槃を意味します。パーリの何か所でも、涅槃を島、ディーパ(原書の註:サンスクリット語ではダヴィーパ、パーリ語ではディーパ、タイ語ではタウィーパは島、涅槃の島)と呼んでいます。これです、このように蜜蝋の海の中でナリケー椰子を見つけます。つまり私たちは輪廻の中に涅槃を見つけます。

 だから「ナリケー椰子は、蜜蝋の海に一本だけ。雨が降っても当たらず、雷も届かぬ」という子守歌の歌詞は遊びでなく、深遠な意味があります。まだ他に「マムアンヒンマパーン(訳注:種はカシューナッツ)は熟して甘い、。川の中、大海にあり、猿もテナガザルも、すべての動物は手が出せない」という歌詞があり、すべての物から脱すという同じ意味です。一つは椰子と言い、もう一つはマムアンヒンマパーンと言います。

 島に上がれば椰子の水を飲むことができ、人語で言う「島の上で椰子の水を飲むのは不死の水」と言い、アマルタダンマ、アマタダンマは不死の水をその島の上で飲むことができ、そして食べたり飲んだりするのはヴィムッティスッカ(解脱の幸福)を味わうことです。次に彼が「もう十分だ。終わった」という以外に何もなく、心の中は全部払い捨て、俺、俺のものを全部払い捨てます。

 その水を飲んだので、船を払い捨て、商品を払い捨て、心から何でも全部払い捨てます。これが「パティニッサッガ(捨離)」で、私たちがアーナーパーナサティスッタを唱えると、最後の段階をパティニッサッガパッシー ヴィハラティと言います。

 パティニッサッガは、元の所有者に投げ返します。バカみたいな話、善悪、徳罪、幸不幸を元の所有者、つまり自然に、あるいは正常な常態に投げ返します。要らないので元の所有者に投げ返します。パティニッサッガは投げ返すという意味で、だから俺、俺のものは消え、俺、俺のものはなく、その後心に、感覚に残っているのは永遠の命、あるいは永遠の空と呼ぶこともできる、最高の目的に至ることです。

 人語で言えば、人語の世俗的な言い回しでは「永遠の命」と言い、不死を得、永遠の命を手に入れますが、ダンマ語で言えば「永遠の空」で、永遠である空っぽの状態です。こういうのは危険ではありません。理解できなくても危険ではありません。しかし「永遠の命」は確かではありません。誤解すれば再び執着するので、何も利益はありません。これは、その旦那が自分を払い捨てることの究極に至り、俺、俺のものを払い捨てることを意味します。涵養する欲望、ウパダーナ(取)、無明が無くなるからです。

 これはダンマ語で話すことができる仏教で最高に重要な要旨ですが、私は人語の話し言葉に依存して、「船で商売の旅をする人はそのようであるように、島、つまり俺、俺のものの崩壊である涅槃を見つけるまで漂泊する」と、この話を譬えます。ダンマ語で話す時は、その旦那この旦那と話す必要はなく、「名と形、そして煩悩、苦、そして実践、そして滅苦すれば涅槃」と話します。

 人語とダンマ語はこのように並行しています。ダンマ語の意味が分からない人、あるいは忘れっぽい人は、人語で話して持ち帰って考えましょう。だから仏教で最も重要な話はこのようにあり、人語、ダンマ語を繋ぎ合わせて話して置き、このような状態に歪ませてはいけないと理解してください。

 今、人語の側の話としてだけ話されがちで、そして人はたくさん欲しがり、つまり次々に執着するという所にある事実になりました。だから俺のヴィンニャーナ(識)、あの人この人の識の話に執着が生じ、あの人が死んで火葬が終わり、それでもその人の自我が残って輪廻し、永遠にその人の自我です。こういうのは仏教ではありません。それはサッサタディッティ(常見)、いずれかの人の永遠の自分と見なすので、これは仏教外のサッサタディッティで、仏教以前から話されていました。

 仏教には、このような永遠の自分はありません。あるのは俺、俺のものの発生と消滅、発生と消滅だけです。だからヴィンニャーナ(識)も消滅を繰り返していて、俺、俺のものの識も発生して消滅し、発生して消滅していて、俺、俺のものと同じものなので、識は永遠でも何でもなく、生滅を繰り返しているものです。

 ヴィンニャーナという言葉は二つの面があり、無明によって生じれば、それは縁起の意味の苦になる識で、つまりこの識は無明の威力で生じ、それは縁起の趣旨で有、生、苦に導かなければなりません。次にもう一つの識は無明から生じず、あるいは無明に関わらずに生じ、無明が混じっていないすべてのものの明らかな知識です。この識は涅槃です。

 パーリに涅槃を「ヴィンニャーナ」と呼んでいる所が一か所あり、人が明らかに知るべきものという意味で、あるいは明らかな知識でも良く、これは無明と関わりません。だから識は二種類になり、無明から生じて無明によって生滅を繰り返している識、これは絶えず苦になり、無明に関わらないで智慧に関わり、明に関わってしまう識、これは苦がなく涅槃になり、涅槃の意味があり、永遠に苦がない側です。

 これです。愚かな識で無明側と関わるなら、それは苦と関わり、生起側の縁起で苦が生じます。次に無明が消滅して無明がなければ、苦になる識もなく、状況に従って形・音・臭・味・接触・考えを明らかに知る苦がない識ですが、無明から来ていないので苦に加工しません。阿羅漢も識が全部消滅した訳ではなく識はあり、明のある識があります。阿羅漢もこの種の識で形・音・臭・味・接触・考えを明らかに知るので苦を生じさせないので、縁起の消滅側つまり滅になります。

 私たちは通常、無明に関わっている識があるので、縁起の生起側になって次々に苦が生じます。もう一つは休まず苦が滅し、こちら側は休まず苦が生じます。だから無明と関わらない識があるようにすれば、それが苦が生じないように防止し、何もしないでじっとしていても苦は生じません。

 今愚かになって「ヴィンニャーナ」という言葉の意味の話に夢中になり、識は俺、俺のもので、何世でも同じ人だと執着します。これは間違いです。本当には識は、目・耳・鼻・舌・体・心で取り囲んでいる原因と縁に由って生滅を繰り返しているので、識は一時的な物です。まだ原因と縁があれば次々に生滅を繰り返すことができ、原因と縁がなくなれば発生が止まり、消滅も止まります。

 次に私たちは、識が自然に消滅するのを止め、発生するのを止める必要はありません。つまり俺、俺のものと執着しなければ、残らず消滅したのと同じ価値があります。それが何でも構いませんが、この心に無明がなく、「これが俺だ」と迷って執着しなければ、識は永遠に消滅したものになり、残るのは誰にも何もできない、苦を生じさせることができない目・耳・鼻・舌・体・心の感覚だけです。

 どうぞ勉強してください。関心を持って勉強し、復習をしてこのように実践してください。つまり無明、欲望、取に関わらない識だけを残せば、目が形を見る度、耳が声を聞く度に、いつでも滅側の縁起があります。

 だからその旦那のように輪廻をしなくても良いようになりたい人は、目・耳・鼻・舌・体・心などが形・音・臭・味・接触・考えに触れた時、それが何かを知るための感情を受け取る目・耳・鼻・舌・体・心の識だけであるよう維持し、そしてそれに何をするべきか明らかに知る智慧があり、迷って愛さず、迷って憎まず、迷って嫌って欲望ウパダーナが生じなければ、苦の塊より上にいる人になります。

 阿羅漢方は常に涅槃である識で生活していて、私たちは愚かで、常に輪廻である種類の識があります。おまけにもっとひどくなり、何百世、何千世も永遠に一人の、一つの識にします。

 今クルンテープでは、何らかの識を永遠の識にすると、そのように理解しています。それは仏教に関わりがなく、仏教でなく、滅苦ができません。俺、俺のものでない、俺、俺のものと執着しない自然の状態の識でなければなりません。それがヴィンニャーナニッバーナ、涅槃である識です。

 そのようでなければ輪廻である識です。だから識はあるのか無いのか言い争うのは時間の無駄です。識はなければなりませんが一時だけ、一時的なもので、一種類は苦であり輪廻であり、もう一種類は冷え切った涅槃です。

 冷えた涅槃である識が誰にあっても問題は終わり、その後苦労しなければならない話はありません。俺、俺のものである識にしないで、ウパダーナが混じっていない純粋な薀である識だけにし、ウパダーナが混じっていない薀、自然の識だけにすれば、その心は自然に純潔になり、苦の話の問題はありません。

 うっかりすれば、愚かになれば、その時はいつでも無明、ウパダーナが侵入して支配するので、輪廻の中にある苦である識です。十分賢い人は徳が多く、非常に善い物を得、つまり苦になる必要がなく、そして何の資本も要らず、何もしなくてもすべてを得、全部到達し、全部消滅し、全部冷えます。滅苦ができるのは何もしないからです。

 これは最後の喩えで、何も探求する必要はありません。何も作る必要がなく、何もする必要もなく、ブッダが「サツチェメー ビッカヴェー サッマーヴィダレユヤン=比丘のみなさんが正しく暮らせば、アスンニョー ローコー オラハンテーヒ アッサ=この世界に阿羅漢が欠けることはない」と言われたように正しい方法で何もしません。

 ブッダは「正しく暮らしなさい。正しく暮らしているだけで、何もする必要はありません」と言われました。しかしその中に「正しく暮らせば、世界に阿羅漢が欠けることはない」という意味があり、この「正しく暮らす」は、静かにしていること以上に善いものはなく、静かにしていて、介入してあれこれ加工しないで、あれこれ執着しないで、何としても静かに暮らす方法を探します。これは仏教の最高に重要な話です。いろいろ仮定してある方法で苦から出てしまう方法は何種類もあり、目が回るからです。

 十分に話し、たくさんの話にするなら、あれをしなければならず、これをしなければならず、布施をしなければならず、善をしなければならず、きりがなく、あるいは何千生、何万生、数えきれないほど輪廻へ駆けて行かなければならず、話して聞かせたお伽話のように長いです。しかし賢ければ「正しい方法で何もしなければ、苦も何も生じられず、すべての物に何もしないでいられる所に涅槃がある」と話は短くなり、今ここで終わります。

 何も疲れる必要はありません。何も難しくなく、苦労する必要もなく、パーリに「ラッダー ムダー ニッブティ ブンカマーナー=涅槃はタダで与える物。銭は取らない」とあるように、投資は必要ありません。今人は投資し、涅槃を買うために何万、何十万もたくさん布施し、このように歪んでいます。

 だからみなさんは「仏教の重要なものはいつでもダンマ語で話して置き、人語を借りて話すのは、価値ある中身を入れておく皮または容器にすぎない」と要旨を規定してください。それは同調でき、別々にする必要はありません。ダイヤモンドを持っていれば、それを入れて置く小箱や棚などがなければなりません。

 一つお願いするのは反対に理解しないでください。つまり皮を崇拝して中身に関心を持たないのは止めてください。今まではそのようでした。ほとんどの人がダンマ語に関心がなく、皮ばかり、つまり人語だけに関心があったからです。

 時間になりましたので、今日の講義は、これで終わらせていただきます。
 



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