5.仏教教団員の観点の世界とは何か



1971年2月6日

 ダンマにご関心のある善人のみなさん。今日の講義は、前回のように生老病死を共にする友のように率直にお話します。今日の主題はみなさんご存知とのように「仏教教団員の観点の世界とは何か」です。

 私はいつも、なぜこの主題で話すのかという話をちょっとします。世界という言葉は、私たち全員にとって非常に大切なものです。私たちは世界にいるので、世界を知らなければならないからです。しかし重要な問題は、世界に住むことは難しいことにあります。

 住み方を知らなければ、あるいは世界の話に合わなければ苦労しなければなりません。今私たちは、どんどん狂気が増していく人と世界を共にする必要があり、私たちは狂人と話してどんどん話が通じなくなっています。

 ここでの「狂人」は特別な意味があり、神経を病んでいる人、あるいは病院に入院しなければならない精神異常だけを意味しません。病院にいる人たちはきちんと収容されているので、それほど問題を作りません。しかし病院へ収容しなくても良い、まだ病院に関わっている精神面の狂人がいて、これです、問題がたくさんあるのは。それは利己主義病が脳に上って狂い、利己主義が世界に増えています。

 これは誰も反論しないと思います。世界は人を利己主義にするもので発展しているので、世界が発展すればするだけ利己主義が増えます。快適で楽しく陶酔するいろんな物、これらがあればあるだけ人を利己主義にします。だから世界の発展、あるいは現代の発展と呼ぶものは著しい利己主義にする話で、これで狂人が増えます。

 人が利己主義になればなった分だけ、そして数が増えた分だけ、この世界を狂人で溢れさせます。利己主義になると「自分は普通の人間ではない」と見、そして他人を侵害し、集団で、群で侵害し、侵害しなければならない必要もないのに世界中を侵害します。狂っているから世界に侵害が増えます。利己主義は気持ちを正常でなくします。

 狂人と言うことができるかどうか、自分自身で考えて見てください。本当は利己主義病以上の精神病はありません。利己主義になった途端に間違った考えをし、間違って話し、間違ったことをする、これは狂人の症状です。ひどく狂うと脳に上ると言います。その人の脳の中には、寝ても覚めても利己主義以外に何もないという意味です。

 この狂人は、同じ狂人同士でも話が通じ難いです。本当の狂人、精神異常の人を観察して見てください。狂人同士で話しても意味が通じません。次に精神面の狂人、利己主義病の人は、もっと話が通じません。利己主義なので自分の利益の方へ引っ張って行き、自分の利益だけを目指すからです。これです。これが話を通じなくする原因で、妥協しないのでこの世界は問題が多くなります。

 多くの宗教の教典、あるいは多くの部分に「昔人間は一つの言葉を話し、その後幾つもの言語に分かれて話が通じなくなった」と述べられています。これは、初めはあまり利己主義がなかったので、話すのが簡単で、話せば話が通じたと言いたいのだと思います。昔の人間は利己主義が少なく、信頼が多く、神様を恐れ、非常に宗教やら何やらを恐れたので、あまり身勝手は生じませんでした。利己主義がないので話は簡単で、話して分かり合えました。

 その後、人はいろんな分野の身勝手になり、それは幾つもの言語になったのと同じで、今は話しても話になりません。次に私たちは、話が通じない時代の世界に住んでいて、誰もが利己主義で自分の利益しか見ません。今世界はこのようになりつつあり、私たちはこのような世界で暮さなければなりません。私たちは仏教教団員なので、この種の世界に住むために自分たちのやり方、あるいは実践方法について知識がなければなりません。

 私たちに正しい世界の知識があれば、少なくとも二通りの利益があります。つまり力を合わせてこの世界を改善し、もしまだ解決できないか、どんな理由でも改善できなければ、自分を「世界より上にいる」と言うように、自分一人でも、自分を世界のいろんな問題より上にいさせます。

 世界が狂い過ぎれば、身を翻して離れることができ、世界の上にある心で世界で暮らすこともできます。これだけでも「私たちは適度に、あるいは知ることができるだけ多くの角度から世界を知るべきだ」と説明して見せる理由として十分です。だから必要なだけ知るべき世界に関わる話について述べることができます。

 最初に「世界」という言葉について、言語面の意味を話してしまいたいと思います。世界(ローカ)という言葉はタイ語でなくパーリ語です。元々のタイ語、純タイ語で何と呼んでいたか、まだ知りません。国土、あるいはそのような物を意味する言葉があって、呼ぶのに使っていたかもしれませんが、今タイ人はローク(ローカ)と言い、良く知られている意味があります。

 この言葉はパーリ語で、ローカという言葉の語形では特別な語根があり、それは「崩壊」という言葉から来ていると見なされています。だからローカという言葉は崩壊するもの、自然によって確実に崩壊するものです。聞いてどう感じますか。嬉しいか恐ろしいか、あるいは厭わしいですか。

 この世界は、自然によって確実に崩壊しなければならないものです。しかし私たちは今「この世界は大きい。盤石で頑健で安定し、本当に永遠だ」と感じています。パーリ語、あるいはダンマ語の世界という言葉は確実に崩壊しなければならないという意味で、たちは世界が確実に崩壊するものと考えず、反対に世界は永遠、望みどおりにあり続けると考えます。

 これについて詳しく話します。他の人たち、あるいは他の宗教、特に神様を信じる宗教は認めないかも知れません。これは、世界を創った人である神様がいると規定する宗教も、世界を占領する神様がいると規定していると問題をまとめてください。

 ヒンドゥー教は、時代によって自分の義務で世界を創るブラフマ神、世界を支配するナラーヤナ神、世界を破壊するシヴァ神がいます。次にこの世界が神様によって消失させられる時代があります。彼らが人物で話しても、世界は同じように確実に崩壊する物と分かり、自然によって壊れることも神様によって壊れることもあります。

 私たちが愚かすぎなければ、自然は神様で、自然より偉大な神様は何もいないと見えます。だから世界は、私たちが思っているように盤石、堅固、永遠でない話で、壊れやすく、確実に壊れ、そして自然、あるいは神様の手によって確実に崩壊しなければなりません。

 これです。言語面の意味の世界という言葉はこのようです。人間界、地獄界、天国界、天人界、悪魔界、梵天界に分けても、確実に崩壊します。だから最初に、鍋、大鉢、大水甕、壺、ガラスコップなどはいつか確実に壊れるように、世界というものも崩壊するものという意味を掴んでください。

 世界を堅固なもの、あるいは頑丈な鉱石があり、巨大で、崩壊するはずはないと見ないでください。それは知らない人の話です。物質的にも確実に崩壊しなければならず、ダンマ語では毎日崩壊しているからです。

 さて次に、世界をあらゆる角度から良く知るために、世界という言葉の意味について話します。世界とは何かという質問は、仏教教団員の立場で一種類あり、仏教教団員でない人のがもう一種類あると、分けることができます。

 仏教教団員でない人は人語の話、普通の人が感じる意味しか知りません。仏教教団員ならダンマ語の意味、つまりダンマを知る人が感じるように知らなければなりません。これが違いを生じさせる原因です。世界の言葉は世俗的な意味があり、智者のダンマ語は智者の意味があります。

 仏教教団員は智者の側にいるので、世俗の言葉を話す人でなく、ダンマ語を話す人です。二つの言語に分かれると言うのは、人語とダンマ語で、普通の人が話す庶民語を人語と言い、ダンマを知る人が話す言葉をダンマ語と言います。最初に身近な世界の言葉で世界を見ます。

 人語で話せば、初めに物質を基準にします。まだ煩悩の感覚を基準にするに至らないので、物質の話の知識を基準にします。たとえば幾何学で言えば、幾何学を学んだことがある人は、世界は丸い球で、ミカンのように上と下が少し扁平で、そのような形をしていると当然知っています。これが幾何学の言葉での世界で、それ以上ではありません。幼稚園児や小学校の児童も世界はこのような形があると知っています。これだけしか知らない人はどんな利益があるか、考えて見てください。

 地質学の角度から見れば、この世界は様々な元素が集まった一つの大きな塊で、ゆっくり変化し、その塊に生息している生き物がいるとしか見ません。これは地質学の言葉で、この角度しか注目しません。そしてこれだけでは、心の面の苦を消滅させる援けにならないので、他の知識を組み合わせなければなりません。これから話します。

 物理学の面から世界について話せば、この世界は太陽の周りを回転している大きな一つの塊で、そして太陽光がすべての面で重要な縁であることから脱せないということです。この世界は太陽から熱と光を受け取っているので生物が生息ができ、そして他のこともすべて太陽光の威力に依存し、太陽光が無くなった途端に、何もかも存在できません。

 これだけを知っても心の苦を滅す援けにならないので、まだ他の物を知らなければなりません。しばらく話します。しかしそれは太陽光に依存していて、太陽光が欠けるだけで、世界で生きられる動物はなく、植物も生きられず、いろんな物は人間が何も利益も受け取れないような変化をすると、知らないより良いです。

 化学の面から世界を見ると、世界は核、あるいはアトムと呼ぶ構成要素でできていて、それは肉眼では見えないほど小さく、何百分の一か知れませんが、それが世界と呼ぶものの本当の構成物質で、atom になり、molecule になり、このように物質、動物、人になり、その本当の根底の部分は核です。だからこの世界はいろんな形を構成している核以外に何もなく、おまけに化学的変化、chemical change、あるいは何でも呼び方次第の変化が、私たちが感じても感じなくても、常に私たちの外にも中にもあります。

 それは何らかの種類の、何等かの角度の、何らかの部分の常に変化している核以外に、何の意味もありません。一つ一つの核の中には空間があり、無理に分解すれば残るのは空だけです。ここまで知ればまだ良く、不注意でないことを生じさせることができます。しかしまだ、物質面の話です。

 次にこの世界をメカニックの面から見ます。時にはその方が良いこともあります。つまりこの世界は大きな一つの塊があり、真ん中に引き合う中心点があり、すべての物資を中心点に引き寄せる世界の中心点で、そして私たちは休まず吸われ引っ張られているので、世界から落ちず、世界から零れず、上も下もなくさせます。

 上とは遠くなり、下とは地球の重心で、上も下もありません。そして私たちは世界から落ちません。逆さまにぶら下がると言う状態の時、重心の話には逆さになること、そして世界の重心の方へ落ちることはありませんが、私たちは愚かにも上下があると言います。

 あるのはこの塊の中心に駆けて行く重心と呼ぶものだけなのに、私たちは今愚かで「上があり下がある」と言うと憶えておいてください。それは周りにある物を引き寄せる威力があり、それ自身で回転し、太陽に引き寄せられ、太陽の周囲を回転しなければならず、まだ他の世界の惑星、世界の友達である他の星の引力と関わります。

 それはこのような引力によって存在することができると見てください。こういうのもメカニックの面の不思議さです。そして私たちは「自分は何か」を知らないということです。このように目を瞑って、どのように存在できるかを知らずに、自分で推測できるいろんな推測をします。

 すべては物質の、物質である物の観察、普通の人語の観察による世界の話で、ダンマに関わらない本当に物質の話です。このように物質面で世界を知り、それから、これは仏教教団員の見方ではないと知ってください。このような面を知らない仏教教団員でも構いません。このように知る必要がなくても良いです。庶民が知らなければならない話ではありませんが、知ればそれも善く、知らないより善いです。

 これは物質としての世界で、庶民の感覚で、あるいは人が話す言葉ではこのようです。今は子供でも勉強し、小さな子供でも知っています。次にもっと高い人語では、人の感覚、凡人である人の感覚では、つまりまだ聖人のように知らない人を凡人と呼び、凡人が世界をどのようの感じても、世界はそのようと理解します。それは盲人が象を撫でるのと同じです。

 人の感覚では、世界は自分あるいはすべての動物にとって極めて必要な住む場所です。誰でも必ず、基本としてこのように感じます。私たちの住まいなので私たちの世界、あるいは私たちの国より愛すべきと言いたいと思います。

 次に人の感覚では、世界は美しく目を奪う華麗な物で、住むべき、大切にすべきものです。世界に旅行に行くと、世界は美しく珍しく、見応えがあり、海があり山があり島があり、植物があり浜があり、水中にも陸上にも空の上にも、あらゆる種類の美しいものがあって美しいと言います。

 そしてそれはダンマの方で「王の車のように美しいこの世界をご覧なさい。愚かな人は一斉に見惚れているが、智者はまったく関わらない」と話いう言葉があるほど、住むべき、喜ぶべきという方向に迷います。この世界は王の車のように美しいと言います。

 彼らはこれを、見ると気に入って心を奪われ、愚かな人は一斉に美しさに溺れるけれど、欺瞞の話と真実のままに知っている智者は関わらないことに例えています。これは普通の人の感覚で美しいものである世界で、非常に芸術の話、何の話に狂っている現代は、この世界は見れば見るほど美しいと見ます。

 次は、不思議な物としての世界の話で、世界は不思議で神秘で奇怪至極で、考えるべきものです。海底にも地下にもまだ知らないものが多く、自分の中でさえまだ全部は知らず、非常に神秘があります。これらの神秘は死ぬまで勉強するに十分あり、何度死んでも終わりを知らないので、不可思議ばかりです。これは神秘で不思議なものとしての世界です。

 次は人の感覚で、この世界を人間の世界に分類し、天国の世界、あるいは地獄の世界、あるいはその他の世界と同じでなく、あるいは同じにするのを認めません。知らない人は「涅槃は世界」と理解し、涅槃の世界を一つ描いておきます。これも狂人と呼ばなければなりません。涅槃をもう一つの世界に分け、別の絵を描いておきます。

 彼らは地獄の世界、天国の世界を見たことがないのに、こういう世界、ああいう世界、そして私たちの世界と違うように描いておきます。私たちには自分のものである、このような人間の世界があります。このように感じるかどうか、自分自身で考えて見てください。

 次は、世界はダンマと反対のものという感覚を生じさせる、もっと繊細な考えです。ダンマと反対とは、世界は世界、ダンマはダンマで、世界の話は愚かで簡単で低いという意味で、「コイツは著しく世界(世俗的)だ」と友達を罵ります。私たちは彼らを愚かで低劣で価値がないと罵るという意味です。著しく世俗的でなければこれより高い心があり、善悪を弁え、徳と罪を弁え、何でも高くするのでダンマと呼びます。

 時々彼らはアダンマという意味にすることもあり、この世界はアダンマで、ダンマと反対です。これは、世界は今アダンマで、ダンマが無くなったので混乱と困難が増えている現代と一致します。ダンマがあるなら不善の側であるダンマ、アクサラダンマ(不善のダンマ)で、こういうのを彼らは「ダンマではない」、つまりダンマがないと言います。

 いずれにしても、結局人間の感覚で「世界」という言葉は地球を意味し、世界の生き物、あるいは自然の法則である普通の自然に注目しません。ここで道が分かれ、彼らは大きな丸い塊を世界とし、この世界で生きている人間とすべての生き物、あるいは普通の世界を世界にしません。高い心がなければならず、あるいはダンマの方の経過でなければならず、そうすれば世界の動物、あるいは当たり前の法則を世界にします。

 要するに庶民もこの世界というものに多種多様の感覚がありますが、普通の人の感覚だけになり、世界を庶民の見方で知ると言います。つまり普通の人はこのようであり、世界は住む場所であり、美しいものであり、神秘で不思議な物であり、地獄でも天国でもなく、ダンマと反対です。しかしこの世界は丸い地球と言う愚かさは終わりません。

 私が熟慮してきた限りでは、人語、普通の庶民語で世界と呼び、彼らが知り、話しているのは、まだ利益がありません。全部まとめてもまだ仏教教団員の見方による世界ではありません。仏教教団員はもっと賢く、もっと深遠です。これから仏教教団員はどのような状態で世界を知っているか見ていきます。

 ブッダとは「知る人、目覚めた人、明るい人」という意味と、もう一度復習させていただきます。ボリサッダ(ここでは教団員と訳している)とは一つの結論、見解によって多くの人が集まるという意味で、ボリは「周り」、あるいは周辺の輪という意味で、サッダは「座る」という意味で、ボリサッダは、理想あるいは目的、あるいは見解、あるいは信仰が同じ人たちが丸くなって座るという意味です。

 これを一つのボリサッダと言います。物を売るボリサッダ(会社)もこの規定の中にあり、物を売るボリサッダ全員が集まることをボリサッダと呼びます。全員が一緒に行くトイレも、ボリサッダと呼ぶことができ、同じ目的で一諸に行って集まるという元の意味を維持しています。

 みなさんは仏教教団員なので、仏教教団員の考えあるいは理想があり、この講義を聞くために集まりました。ここへ来たようなのも一つのボリサッダと呼ばなければなりません。しかし仏教教団員は意味が広く、知る人、目覚めた人、明るい人のボリサッダで、首長であるブッダがいます。要するに首長であるブッダ、つまり知る人、目覚めた人、明るい人の頂点であるブッダと違う考えはないという意味です。

 これらのブッダボリサッダ(仏教教団員)は、世界と呼ぶものにどのような見方があるでしょうか。仏教教団員であることの最高点に至った本当のブッダボリサッダは、自分で考えることができ、世界と呼ぶものに対して正しい感覚があり、なったばかりの、あるいは登録したばかり、あるいは口だけの仏教教団員はまだ知ることができません。しかしそれでも、知っている方の考えを自分の考えにすることを受け入れます。

 仏教教団員の枠内にいる人なら、本当の仏教教団員が考え、話し、教えるように考え、話さなければなりません。だから完璧な仏教教団員とブッダを首長とする大きな集団も含めて、これらの方々が世界をどのように見ているか、知ってしまうべきです。これらの方々は智者の見方で世界を見、ダンマ語と呼ぶ智者の言葉で話すので、ダンマ語の世界と言います。だからこれから一つずつ熟慮して行きます。

 ダンマ語の世界の最初は、世界という言葉は崩壊する物、壊れる物、壊れ易い、そして確実に壊れる物という言語の意味です。どの種の世界でも、世界は確実に崩壊します。仏教教団員は「世界は確実に崩壊する」と知っています。だから愚かでなく、迷って「それを壊さない」と考えず、あるいは崩壊しなければならなくても驚かず、恐れず、苦でなく、何も不思議ではありません。

 これも仏教教団員式の基礎的な考え、理解があり、世界は不変でなく、必ず崩壊すると見て、基礎である備蓄にしておき、それから次の角度で見ると言います。どの種の仏教教団員と呼ぶかは、世界をこのように崩壊する物という見方で見なければなりません。

 そして次は土の塊よりむしろ動物群を見、仏教教団員の意味の世界という言葉は、土の塊よりむしろ心があり、感覚考え、思いがある動物群に注目します。「世界、世界」と言うものは、ブッダは動物群を意味し、時には世界の法律、世界の当たり前の法律を意味し、地球だけ、あるいは世界の美味しさ、美しさのようにある美味しさを見て世界に迷い、美しさに迷い、神秘的な不思議さに迷う凡人のように見ません。

 まだ特別な意味があり、地獄界・畜生界・天人界・悪魔界というのは世界を意味せず、地獄界・畜生界・天人界・悪魔界・梵天界のような心情がある動物の群れを意味します。それはこれらの動物の心のレベルに注目し、物質を意味しません。

 時には「この世界は現象以外に何物もない」という高くなる教えを意味します。現象という言葉は、まだ理解していない人がいます。現象とは、目・耳・鼻・舌・体・心を通して接触して来るもので、これを現象と言います。目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、舌で味わって、皮膚で触れる減少以外に何もなく、皮膚で触れるものは、何よりも煩悩を生じさせ、貪欲などがある大きな話です。

 私たちに目・耳・鼻・舌・体・心の感覚を現すもの、これを現象と言い、それが世界です。皮だけの物質、あるいは本物ではない物質を狙いません。それは毒であり、害です。私たちにとって何らかの恩恵や利益は、述べたような目・耳・鼻・舌・体・心からの現象にあります。

 ここで、簡単に外の世界と内の世界の二つに分けられる、一つの事実を観察していただきたいと思います。外の世界は目で見、耳で聞く現象で、これが外の世界、つまり形・音・臭・味・接触・考えで、内の世界は目・耳・鼻・舌・体・心です。目・耳・鼻・舌・体・心は、すべてのものを世界の、つまり外部のものの意味を持たせることができます。

 外部の物が世界になれるのは、目・耳・鼻・舌・体・心が受け取るからです。だから自分の外の世界は形・音・臭・味・接触・考えで、内の世界はインドリヤ(根)と呼ぶ目・耳・鼻・舌・体・心です。

 外の世界はもう話したので、次はナーマダンマ(抽象物)である内の世界について話します。「内の世界」は目・耳・鼻・舌・体・心と言っても、肉体を意味せず、眼球は目、耳たぶは耳ではありません。

 それは目・耳・鼻・舌・体・心で生じる感覚を意味し、あるいは感覚を生じさせるもの、それが内面の世界で、「内部のアーヤタナ」と呼ぶ内面の世界である世界があります。それで外部の世界を受け取る準備が整い、目と形、耳と音、舌と味、皮膚と接触、そして心と心の中に生じる概念の対になります。これが基本である内部の世界です。

 次は述べたような知識、覚醒、明るさがある仏教教団員式に詳細に見て行きます。仏教教団員がこの見方で世界を見れば「世界は煩悩」という考えが生じ、世界がある分だけ煩悩があると理解します。だから世界は煩悩と見なしてしまいます。世界から脱した時煩悩から脱し、ロークッタラになれば煩悩から脱します。まだ世界から脱せなければ、世界である分だけ煩悩であり、まだ煩悩があり、煩悩の威力、煩悩の領域にあります。

 まとめて「愚か」と呼んでしまいましょう。この世界は愚かです。パーリ(ブッダの言葉である経)のブッダバーシタに「世界の動物はバヴァに関わり、バヴァと呼ぶものが包囲している。そして反対に愚かを別の物と見るので、バヴァと呼ぶものに迷って恍惚となる」とあります。その人は「この世界は確実に崩壊する物で、簡単に壊れる」と見ないという意味で、その人はこの点が愚かなので、壊れやすいもの、確実に崩壊するものである世界に迷っています。

 すべての人がこのようなら「この世界は愚か」と言います。この愚かさは煩悩に集約でき、愚かなら怒り、愚かなら迷い、愚かなら愛し、あるいは憎み、怖れ、煩悩であるいろんなものになります。そしてこれらを愛せば、世界を知らなければ迷って世界を愛すので、全部を「愚かな群衆」と言います。これが一つの見方で、見れば本当に見える、たくさんの見方の中の一つの見方です。

 次に「世界は人生」という気持ちの良い話をします。ここでの「人生」は生活状態、あるいは命がある生き物の成り行きという意味で、まとめて短く「人生」と言い、この人生が世界です。世界に生活がなければ世界はなく、世界の意味はありません。だから生き物の生活は世界です。

 ブッダバーシタがあるので取り上げて話すと、「初めは不注意な人であったけれど、その後不注意でなくなった人は誰でも、その人は、雲から出たお月様のようにこの世界を明るくすることができる」と言われています。彼が不注意な人を止めてしまうと、雲から出たお月様のように世界を明るくするという意味です。

 その人はこの世界を明るくでき、愚かで暗い人生を明るいものにすることができます。それまで人生は暗く、今彼は人生を明るくします。このブッダバーシタの中の「世界」は人生です。彼は雲から出たお月様のように、この世界を明るくできます。彼は自分の生活を明るく輝かせることができ、その後雲や霞のように愚かなものは何もありません。

 世界は地球だけ、あるいは動物世界、あるいはアーヤタナ、あるいは煩悩から、最後は人生まで、どれだけ繊細で深遠な見方か、に比較して見てください。

 次にブッダは「世界は苦」と言われました。世界は苦、苦は世界。ブッダバーシタの中で、「世界も、世界が生じる原因も、世界の完全な消滅も、世界の完全な消滅に至らせる道も、まだ想と心がある背丈二メートルばかりの身体の中にある」と言われています。背丈二メートルばかりのまだ生きている人の体の中に、その中に世界と、世界を生じさせる原因と、世界の消滅と、世界の消滅に至らせる道があります。

 ブッダはこのように話されています。ここに座っている人は同感ですか。それは自分の仏教教団員の資質があるか否か、あるいはどれくらいあるかを計る道具です。世界全体はこの背丈二メートルほどの身体の中にあると見れば、繊細で利益があり、世界に勝たせる角度で世界を見ています。

 世界は苦、苦は世界という言葉について話す時、世界は苦であるという重要な意味があります。苦とは、堪えなければならない、あるいは見ると厭になるという意味です。苦が自分にあれば堪えなければならず、私たちに今苦があれば、見て厭になります。他人の苦、あるいはどこに現れていても、見ればうんざりして嫌気を催し、ゾッとします。しかし自分の中に本当に生じていれば堪えなければなりません。

 世界は苦、苦は世界で、堪えなければならない物です。それが愛させるためにあれば、それを愛すことに堪えなければならず、嫌わせ、怒らせに来れば、それを嫌うことに堪えなければなりません。それが痛めつけに来たから堪えなければならないと理解しないでください。愛させ、迷わせに来たもの、それ、その方がもっと苦しめます。

 知らない人は愚かな人で、仏教教団員ではありません。首の上に跨っていろいろ苦しめている物は却って感じないで、可愛いもの、満足する物と見て、堪えなければならないものではないと見てしまいます。これは世界を知らないという意味です。

 だからいろんな美しいものは、苦しめるために来ると言うことができます。目を苦しめ、耳を苦しめ、鼻を苦しめ、舌を苦しめ、体を苦しめ、全部苦しめますが、私たちは苦しいと感じないで、反対に愛し、好きになり、うっとりし、死も受け入れ、これが得られなければ死も受け入れ、これと離れるなら死も受け入れます。これはどれほど愚かでしょうか。世界は苦、苦は堪えなければならないものです。

 どんな形で来ても、世界の話ならどれも堪えなければなりません。お金を手に入れ、物を手に入れ、名声名誉を手に入れても堪えなければならず、背負うことに堪え、担ぐことに堪え、闘うことに堪え、心の重さに堪えなければなりません。世界と呼ぶものは重く、背負わなければならず、担がなければならず、そして堪えなければなりません。振り捨ててしまえば快適で、堪える必要はありません。

 だから世界を振り捨ててしまわなければならないことに関わる話は、重要な話です。そうでなければ私たちは、寝ても覚めても休まず堪えていなければなりません。目覚めて考えられると苦しく、寝ても悪夢を見、それが執着の感覚の中に引っ掛かっているので、堪えなければなりません。ね、「世界は苦」はこういう意味があります。この趣旨でどんどんナーマダンマ(名の物。抽象)の側の世界に、地球ではなく、人間の心の中にある世界になると言います。

 もっと詳しく細かい点を見ます。この世界は形・音・臭・味・接触・考えの六種類しかないと言うのなどは、人が感じているように無数で、何十万、何百万、何アサンカヤ(1に0が14桁ついた数字)ではなく、本当には六種類しかなく、この六種類も残るのは一つだけ、外部の感情、外部の現象です。世界を一つだけ残して話を少なくすれば問題は少なくなり、話は一つだけなので蹴っ飛ばすには楽です。

 しかし百の話、千の話、万の話、十万の話があれば、蹴っ飛ばすことはできません。愚かに話を多くすれば管理ができません。形・音・臭・味・接触・考えの六種類の話は現象にすぎず、愚かな心に入って来ると執着で受け止めるので、苦になります。世界は一つだけのもの、つまり愚かな心に現われる現象です。

 次に「世界は闇」という憶えやすく短い項目にまとめて、世界の細部を見ます。今ここに座っていると、正午なので光があり、私が世界は闇と言うと、「世界は闇と言うのは狂人」と考える人がいるかも知れません。物質の言葉の「闇」という言葉とダンマの言葉の「闇」は別です。正しくない知識がある時はいつでも、その時は闇があり、太陽を百個、千個持って来てもまだ闇です。

 光、あるいは太陽の光が闇になってしまい、別の物に見せ、ダンマが見えず、真実が見えません。光が目を遮り、光が真実を隠します。この世界が闇なのは無明に覆われているからで、「アヴィッチャー ニヴトー ローコー=この世界は無明に覆われ」、これはブッダがそれは闇だと言われ、「ヴェヴィッチャー ナッパカーサティ=世界が明るくないのは、人は欲しがるばかりだから」。

 世界が暗いのは無明が覆うからで、世界が明るくないのは、人は欲ばかりだからです。人の心の中にあるのは欲だけで、欲に覆われて闇になります。そしてまだ「世界は闇だが、それを闇と見える人は少ない」と言われています。「アンダブートー アヤン ローコー=世界は闇、トンケーッタ ヴィパッサティ=しかしこの世界をこのように見る人は少なすぎる」。この世界を暗いものと見るのは、高いレベルの聖人だけという意味で、それは非常に少ないです。

 普通の凡人は「世界は暗い物」と見えません。私たちも暗い物と感じないのは、明るい面だけを見るのに慣れているからです。一時昼があり、一時夜があり、一時昼があり、一時夜があり、夜、夕刻になると電灯を点けるので、闇について話す必要はありません。本当は心の中が闇で、昼も夜も闇です。それは闇という仏教教団員の見方による世界です。

 もう一つ「世界は不変でなく苦」という見方があり、不変でないものを先にします。「世界は不変でない」とは、休まず変化し、ブッダの時代の人は、東洋も西洋も中央も、世界は変化するものと見る人がたくさんいました。極東には老子などの宗教があり、世界の不変、変化について非常に良く説明しています。これはブッダの時代に相当します。西洋にはヘラクレスがいて、すべては流れるという意味のペンタレー主義のギリシャ人哲学者がいます。

 「すべての物は流れる」とは、流れないものは何もないという意味で、彼は「流れとは休みない変化、流れとは無常」と見ていました。これもブッダの時代と一致します。だから世界は不変ではなく、休まず変化しているという話は、何千年も前からブッダの時代まで見て来たということです。彼らは真実の角度から見る努力をしたからです。

 今私たちは、世界の奴隷になる角度で世界を見ています。世界の美味しい餌を探すことだけを見て、真実の面を見ません。だから現代の世界の人は、世界は絶えず流れているもの、絶えず変化しているもの、あるいは無常と見えません。だから「本当は、世界は無常であり、休まず変化し、あるいは休まず流れている」と話して教えてしまいます。ブッダは、すべてバヴァは不変でなく、苦であり、休まず変化していると言われています。

 「サッベー テー バヴァー アニッチャー ドゥッカー ヴィパリナーマダッマー=すべてバヴァは不変でなく、苦であり、休まず変化している」。絶えず変化している状態で世界を見てください。良く見れば、この石も絶えず流れていて、この木も絶えず流れていて、この大地も絶えず流れています。変化の威力で絶えず流れます。

 物質の内部も変化し、アトムである核でできているので、すべてはその中に揺れ・流れ・回転・変化があり、ふさわしい時間の中で別の物に変化します。「世界は不変でないもの」はこのような意味で、「世界は動物の群」は、生き物は見るのが簡単で、特に人の考えは休まず変化し、休まず流れています。私は、石や土の塊、木や竹も休まず変化し、休まず流れている物と言うのに同意します。

 次の角度は「世界はマヤカシのもの」、つまり変化と同じですが、マヤカシであるもう一つの角度が違います。「人が世界を水の泡、蜃気楼と見ていれば、死はその人が見えない」というブッダの教えを引用する方が良いです。これは世界を水の泡、あるいは蜃気楼と見るように教えています。水の泡は水の表面の衝撃から生まれて水泡になります。

 中は空っぽで何もなく、すぐに壊れます。これを水の泡と言い、世界をこのような状態と見させます。蜃気楼は日差しが空気を異常にして、目が熱さに耐えられなくなって、あのようなこのような形の蜃気楼のいろんな像が見えますが、本当はありません。

 世界を、あれこれ見えるように見るのは、マヤカシである欺瞞があるからです。本当は「不変ではない」と述べたような物です。「ヤター パッブカン パッセー ヤター パッセー マリージカン=世界をこのように見れば、エーヴァン ローカン アヴェッカンダンマッチュラーチャー パッサティ=死はあなたが見えず、死はあなたを支配しない」。

 つまりそれはマヤカシで、動物・人物・私・彼はいないと見れば、誰が死ぬか知らず、死ぬ人はいません。これを「死はあなたを捕まえることはできない。あなたが見えないから」と言います。これがブッダの教えです。

 ね、見てください。物質界、人間界、動物界、この石にもマヤカシがありますが、マヤカシと見るのは難しいです。いつ掴んでも堅い石で、水の泡、あるいは蜃気楼のようではないからです。しかし高い知性で見れば不変でないこと、変化が見え、初めには無く、そして存在し、最後に消えます。

 この石だけでなく、世界全体も初めには無く、それから有るようになり、そして変化し、そして残らず消滅します。時間が長く、私たちが生きている間に見えないだけ、それを見るだけの長い寿命がないだけです。

 仮に私たち寿命が世界の百倍、千倍も長く、世界の寿命が何十万年で、私たちに何アサンカヤ年(100,000,000,000,000)の寿命があり、世界が生じては消滅し、生じては消滅するのを見れば、そうすれば「世界は水の泡や蜃気楼のようにマヤカシ」と見るのは簡単です。

 試しに仮定で考えて見てご覧なさい。私たちの寿命が世界の何百倍もあり、この世界が何回も生じては消滅し、生じては消滅するのを見れば、この石はマヤカシと簡単に見ることができます。これを「世界はマヤカシのもの」あるいは「マヤカシのものは世界」と言います。

 もっと高尚で、もっと高くなると、世界はアナッター(無我)のもの、スンニャター(空)のものです。世界は自分ではなく、自分がないもので、ブッダも「世界を空と見る時、閻魔はあなたが見えない」、つまり「二度とあなたを捕まえることはできない」と、このように言われています。

 ここでの「空」とは自分と呼ぶにふさわしい物、部分、ふさわしい何も見つけることができず、それは不確実で休まず変化し、どこも自分にすることはできないので、すべての物は目・耳・鼻・舌・体・心に現れる現象以上の何でもないという意味です。

 目・耳・鼻・舌・体・心の所有者も休まず流れ、休まず変化し続け、どこにも真剣になることはできません。内部の物、つまり世界を受け入れる物もこのように休まず変化してしまう物なので、全体も一緒に変化してしまいます。これを空っぽ、自分が空っぽと言います。

 この「自分」というのは、愛しているもの、気に入った物、思いどおりになって満足する物に執着することから生じます。だから「自分」と言い、思い通りにならなければ自分の物、あるいは自分と呼びません。次に私は、思いどおりになれば自分が生じると理解します。

 すべての物は誰かの威力、あるいは領域になく、それ自体の都合で休まず変化していると知らない人たちは、まだ知る時にならないので、自分、自分のもの、俺、俺のものと理解します。お金や荷物も俺のもの、まだ何をするか考えていない心も俺と呼びます。

 もっと繊細のは、この世界は自然だけと短くまとめます。何という言葉を使ったら良いか分からないので、パーリ語の文字通りに、パーリ語ではスッダン ダンマサムッパッナンとあり、自然から生じたものという意味で、スッダン ダンマサムッパッナンは、サンカーラの継承にすぎません。すべて自然の発生にすぎず、サンカーラの連続した継承にすぎない、それが世界です。自然の発生以外には、どこにも何もありません。

   すべて自然とは、自然だけで外の何物でもなく、神様でも、他の動物人物でもないという意味です。そして純粋なサンカーラの継承だけです。サンカーラとは変化させられた(加工された)物であり、そして次に他の物を変化させる(加工する)物で、これをサンカーラと言い、どこにも自分はありません。

 「サンカーラ」と呼ぶものはすべて、他の物が加工することで生じ、どこにも何も自分である中身、実体はないという意味です。いろんなものが作ったから一つの状態で現れることができ、そしてそれ自体もその後他の物を作ります。たとえばこの身体は土、水、風、火、ご飯とおかずで作られ(変化させられ)、両親が発生源で、加工によって成長します。

 ね、身体は加工された物です。そしてこの身体は続いて別の物を加工し、目・耳・鼻・舌・体・心の基盤である物が接触を生じさせ、続いてヴェーダナー(受)、タンハー(欲望)などを生じさせます。加工され、続いて別の物を加工するもの、これをサンカーラと言います。

 世界は、すべてのサンカーラの継承以外の何物でもありません。サンカーラはたくさんあって、種類は数えきれませんが、加工である点は同じで、その後他の物を加工するために加工され、そして次々に継承して途切れさせない、それが世界です。私たちはそのように見ないで、世界を自分と見るので、動物、人物、俺、俺のものになれます。この世界は自然が生まれることだけ、すべてサンカーラの継承だけと見れば、それは世界を仏教教団員の標準で見ることです。

 最後に「パッサンタッサ ヤターブータン バヤン ナ ホーティ ガーミニ=ガーミニさん。世界をこのように真実のままに見れば、恐怖はありません」と言われた言葉があります。これはガーミニという名の人が恐怖について質問したことに関してなので、このように言われました。恐怖はすべての人の問題で、死の恐怖、貧困の恐怖、あらゆる種類の恐怖は未来の話の恐怖で、死の恐怖に集約できます。

 世界を生じた自然だけ、すべてサンカーラの継承だけと見れば、その時恐怖は生じることができません。だから世界を真実のままに、真実のままに正しく見てください。そうすればこの命は恐怖がありません。この心は恐怖がなく、この心は二度と恐怖の基盤になりません。この角度で世界を見ることはこのように素晴らしく、苦はまったく残っていません。

 今誰もがあれこれ心配事、つまり恐怖がいっぱいで、ここに来ても家の心配をし、家がどうなるか分からないことを恐れます。今は死を恐れ、危険を恐れ、あるいは死んだ後望んでいるように良い所へ行けるかどうかを恐れ、恐怖の話ばかりです。すべての物、つまり世界が自分のない物になれば恐怖は生じられません。

 次に「この世界は嘘の形振りをする動物の群れ」と、もう一度動物に戻って奇妙な状態を指摘させていただきます。この世界は嘘の形振りをする動物の群れです。この世界の誰でも、今嘘の形振りをしています。気づいていても気づいていなくても、世界は嘘の態度をする動物群です。

 すぐに信じないで、私はいつものようにブッダバーシタを引用して、ブッダのバーラミーに頼らせていただかなければなりません。「モハサムバンダノー ローコー=世界の動物は闇に覆われ、バッバルーポヴァ ニッサティ=しかしこの上なく勇壮に見える」。この世界は目いっぱい闇に覆われ、縛り付けられていますが、この上なく勇敢な人のような態度を見せます。

 これは「私たちは愚かさの只中で愚かさによって生き、愚かさに覆われているが、それを認めず、智者の振りをし、有能な人の振りをし、愚かさがない人、あるいは闇のない人のようにあれをし、これをし、あれこれ手に入れる」と、何度も繰り返し考えなければなりません。これが嘘の形振りをすることです。本当か、それとも本当でないか。

 自分は能力がなく、何の才能もないのに、愚かさにまとめられ愚かさに繋がれるのに、有能な人の振りをして、そのように、このように、あのようにし、すべてが有能な人のように見え、自分は今闇の奴隷のようになり闇の威力下、領域にいると知りません。

 無知ゆえに表われる態度は真実と反対になります。自分自身にとって自由がない暗い奴隷ですが、有能な振りをします。要するにこの世界は嘘の形振りをする動物の群れで、事実と一致せず、才能はありませんが、すべての方面の何もかも得意な振りをします。

 述べて来ただけで十分多いので、一度「世界は憐れな動物の群れで、生老病死の友の方が良い」とまとめます。誰もが述べたような要旨の憐れな状況にあるので、お互いに敵同士、仇同士でいるより、生まれた友、老いる友、病む友、死ぬ友になってしまう方が良いです。

 短く言えば、この世界は苦難の人ばかりの世界で、同じ問題があり、同じ頭と胸があり、闇に包まれているという点は同じで、苦があり、生老病死をしなければならず、このことによる問題があります。この角度で見れば不注意でなく、個人的にも社会的にも少しずつ問題が無くなります。

 今私たちは、あまり生老病死の友と考えず、反対に妬み合い、助け合いません。私たちは今、煩悩ゆえの苦があると、真実である角度で見ません。冒頭で狂った人がいっぱいいると話したように、利己主義がいっぱいだからです。この世界にいるのは狂人ばかり、つまり利己主義者ばかりです。彼らには生老病死の友という気持ちがないからです。

 私たちは「貴様は貴様、俺は俺」と見る、このような利己主義があるからです。次に仏教教団員の視点で「この世界は今苦に陥って困窮している友の世界」と見直してしまってください。そして急いで手を繋ぎ、個人も世界全体も、この問題を一緒に解決するために団結してください。

 深遠な、あるいはパラマッタ(深遠な要旨という意味。原文の註釈)の見方で世界と呼ぶものについて十分話してきました。残り時間も少なくなったので、おまけとして道徳、倫理の角度から世界とは何かを話したいと思います。

 これから倫理の角度で世界とは何かについて話します。倫理(チャリヤダンマ)とは、仏教教団員が行動しなければならないダンマで、チャリヤとはするべき、あるいは行動すべきという意味です。チャリヤダンマは仏教教団員がすべき、行動しなければならないダンマです。私たちは世界をどの角度で見れば、チャリヤダンマの利益があるか、私は何十年も考えたことがあるので、今話して聞かせる幾つもの観点があります。

 最初は、世界は劇場という角度で見ていただきたいと思います。無明が主演男優である劇場で、役者に教える人はなく、自分で演じることができ、俺、俺のものの話に執着があり、貪りが生じた途端に貪りの振りをし、怒りが生じた途端に怒りの振りをし、あと何十何百種類の他の煩悩は教える人は必要なく、自分自身でいろんな振りの芝居を演じることができます。

 無明がどの面に分配するかで役割が生じ、そして生涯演じ続けます。人が劇場で演じる芝居は何時間でもありませんが、その芝居は寝ても覚めても、そして生涯演じ続けます。世界はこのような劇場で、私たちは無明の役者で生涯演じ続ける愚かさを止めてしまおうと考えるべきです。

 二項目は世界は課題で、この項目は「いろんな物を利益である角度だけで見る」という教えを思い出すよう忠告させていただきます。世界も含めていろんなものは何十何百の側面があり、あるいは一人の人物も同じで、幾つにも見える側面があるので、利益のない面、あるいは悪い面を見ないで、利益になる面だけを見てください。一人の人が歩いて来ると、私たちはその人の利益になる善い面だけを見、悪い面を見なければ気持ち良いです。

 世界も同じで、苦で、不変でなく、休まず流れ、何でも悪い面がたくさんありますが、私たちは、私たちに何かを見せている課題である面だけを見てしまえば、こういうのはそれ自体が課題であると同時に期末試験の問題でもあります。強い痛みもあり、騙すものもあり、迷わせて陶酔させる物もあり、話しきれないほどたくさんの種類が揃っていますが、すべては教訓です。

 生まれてから死ぬまで課題を受け取り、次々に試験があり、そしてほとんどは試験に落ち、棺に入ってもまだ勉強し、勉強できたのは二つ三つ、つまりあまり多くありません。世界は課題と捉え、積極的に努力して学び、努力して試験勉強をすれば、間もなく世界の上に行きます。これが行動しなければならないチャリヤダンマです。

 三項目は、もう一度「世界は魔王が試験するもの」と見ます。魔王は私たちがすごく嫌っている、非常に嫌っている敵という意味ですが、今魔王を、試験問題を出す人という角度で見ています。だから世界は魔王の試験問題、あるいは期末試験で、この人は世界に貼りついて、どれくらい苦の中を輪廻しているか、昇級するために試験を受けさせようと魔王が試験して見ます。

 試験がなければ私たちは昇級できないので、試験するものがなければならず、そして試験に受かれば昇級できます。だから試験をする人として魔王を迎え、私たちも志願して試験を受け、何としても試験に合格し、毎年試験に合格しなければなりません。そうすれば間もなく魔王は敗北して背を向けて帰って行きます。

 この世界を「魔王が試験するもの」にしてください。私たちが行動するべきチャリヤダンマ(倫理)は、喜んで期末試験を受ける、あるいは魔王に対面して恐れず、逃げず、何でもなく、人々がしているように私たちはしません。しかし私たちは試験を受け、そして試験に合格することで臨みます。

 四項目は、遠くへ旅する人は昼間は日差しが厳しいので、時々休憩するために木陰に依存しなければならないのと同じように、世界は途中で休む木陰です。意味は、木あるいは木陰を自分の家と見なさないで、そこに居てしまう点にあります。私たちは涼んで、それからまた出発します。世界も同じで、この世界を俺、俺の物、俺のお金、俺の家、俺の妻子と執着しないで、涼むために休んで、終点に着くまでまた歩いて行くようなものと捉えてください。

 終点とは心が世界の上にあること、俺、俺のものである物を必要としない心があることです。俺のものとして執着させるために来るもの、それは俺のものでなく、一時的に依存するためと教えるために休憩させるものと見なします。この世界は通過してロークッタラ、あるいは世界の上に行くために、一時的に住む場所と捉えます。

 何にも俺、俺のものと惑溺しないでください。猿が耳を洗って当て擦って非難します。この話、猿が耳を洗って当て擦って人間を避難する話(ジャータカの中の話)は、精神の娯楽館に描いてあります。何もかも途中の仮の宿にすぎないと捉えないからです。

 五項目は、それは一時的な住まいと、いつでもチャリヤダンマの角度で思わなければなりません。だから一時的と捉え、それ以上と見ないで、そしてこの世界は非常に悪路である通らなければならない道、歩かなければならない道です。整理された道なら簡単で軽々ですが、道は非常に荒れて、通行するのに問題がたくさんあります。自動車や飛行機に乗ることについて言わないでください。

 歩く道について話し、そして非常に荒廃していて、泥が溢れ、邪魔するものがいっぱいあり、山にも川にも悪人盗賊が潜んで命を狙っている、このように物凄く荒んだ悪路がこの世界です。私たちは何としても通過しなければならないので、この悪条件は何としても上手く通過させるためにあります。世界が簡単で快適なら人は愚かで、時には生まれてくる必要はありません。

 世界は自然が、生老病死による、各種の煩悩による凄まじい荒廃があるようにしたので、欺瞞と危険ばかりです。もし通過できれば、悪路を通過出来た人のように本当に達人です。だから私たちは酷い困難を歓迎しなければなりません。何としても煩悩に勝利するには、どんなに困難でも歓迎しなければなりません。

 次に人は愚かで「大変だから、俺はいらない」と言い、だから熟練を知らず、闘うことを知らず、背を向けて楽しく美味しい物を求めるので後退します。つまり荒廃が増し、生老病死が増え、煩悩が増え、欲望が増え、一層悪路になります。私たちは夢中になっていろんな誘惑する形・音・臭・味・接触・考えの話に迷います。

 それが避けることで、避けて長くなる道、荒廃が酷い道を選ぶことです。だからチャリヤダンマ(倫理)の角度で私たちが闘う世界、非常に悪路である世界に住めば、少しずつ通過することができます。そうすればこの意味で正しくなります。

 六項目は、世界は大洋以上の大洋です。普通の大洋はどれほど広く深いか知っていますが、これは「人間魚」にとって大洋以上で、満腹を知らずに餌を求めて泳ぎ回ることができます。人間は水中を泳ぐ魚のようで、水が目に届いても水と見えず、海中にいても海中にいると知らず、苦の塊の中にいても苦の塊の中にいると知らず、目が水を見なくても泳いで行き、美味しさだけを見ようと目指し、餌と呼ぶ美味しいものだけを目指し、そして満足を知る道はありません。

 私たちの世界は、満足を知らず、終わりを知らないように魚を泳ぎ回らせる大洋です。チャリヤダンマの角度は大洋から、海から、輪廻から上がる努力をしてしまい、涅槃になります。世界は大洋、あるいは常に水に沈んでいる海で、これも「常に憐れな状況の中にいる」と言います。世界は愚かな魚が終わりを知らずに泳ぐための大洋です。

 七項目は、世界は鶏を運んで殺すために入れて置く篭です。汽車の駅や船着き場には、運んで殺す鶏を入れて置く篭がたくさんあるので、行って良く見て、篭の中の鶏は俺とどのように似ているか熟慮します。本当は似ている以上に似ています。つまり後で殺される篭の中にいて、そして篭の中で突っ突いたり叩いたりぶつかり合ったりしています。

 これは閻魔大王が捕まえて篭に入れておいたこの世界の人です。つまり閻魔大王に篭に入れられたように、全員確実に死ななければならないのに、まだつ突き合い、叩き合い、侵略し合い、殺し合い、愛しているものを侵害します。いつでも武器を持って乱闘し、そして集団で殺し合い、世界の大戦争に発展します。

 つまり殺されるために篭に入れられていると知らないで、まだ篭の中で突いたり叩いたりしている鶏たちです。世界はこのように鶏の篭ですが誰も関心がなく、一瞬思うことはできても、すぐに忘れてしまいます。本当は、むしろ誰も関心がありません。

 チャリヤダンマの角度で、この篭を壊してしまうために助け合い、すべての鶏が手を繋ぎ、力を合わせてこの篭を壊し、そして全部飛び立たなければなりません。何年も前のある時、他県へ説法に行って刑務所で説法をした時、あまり考えずに「みなさんは世界の鶏篭の中にいて、そしてまだ夢中になって突いたり叩いたりしているようなものだから、一致団結を愛し、侵害しないで助け合って篭に勝つべきです」と話しました。

 説法が終わると、私が囚人に、協力し合って刑務所をこじ開けるように教えたと解釈する人がいました。そういうのは人語で、囚人に協力して刑務所を壊して逃げさせ、私はダンマ語で、私たちは閻魔大王の囚人なので、みんなで輪廻を壊すと話しました。輪廻は刑務所や鶏篭と同じで、私たちが助け合って輪廻を壊せば、当然全員が脱出できます。

 チャリヤダンマの角度はこのようで、夢中になって妬んでいないで、夢中になって侵害していないで、後で首を切り落とすために篭の中に入れられている生老病死の友であり、助け合って篭を壊してこじ開けて外へ出て、全員飛んで逃げて行ってしまいます。

 八項目は、世界を動物の群れという角度で見ます。世界は夢中になって「私」「彼」と捉えている動物の群れです。さっき、それは篭の鶏で、それぞれの鶏は団結せず、過去を壊すために手を繋がないと話し、今は、世界は「私」「彼」とばかり捉えている動物の群れと言います。

 ブッダバーシタのこの項目は「アハンカーラパスター ヤン パカー=この動物群はアハンカーラがあることに夢中になり、パランカールーサンヒター=パランカーラがある」とあります。アハンカーラとは、自分という感覚にする、パランカーラとはあなたという感覚にする、あるいはアハンカーラは「俺」、パランカーラは「貴様」です。この動物群にあるのは、アハンカーラとパランカーラの探求だけです。

 「私、彼」「貴様、俺」という感覚があるという意味で、そして嫉妬して、妬んで侵害し、虐待し、有利になろうとし、消滅させようとし、このようなことだけに夢中になっています。ブッダはこう言われ、私もまったくこのように見ます。もう少しこの話を続けます。

 この世界は、夢中になって「私」「彼」と捉えている動物の群です。みなさん、自分は今「私、彼」と捉えているかどうか考えて見てください。そして自分は好きな物、嫌いなものを選んでいるか、あるいは自分は他人と一緒に喜べるか、じっくりと考えてみてください。執着で「私」と「彼」が生まれると言います。このように「私」「彼」と捉えれば、必ず有利になろうとし、侵害するのは確実です。だから世界中に競争が溢れ、一秒ごとに、一呼吸ごとに侵害があります。

 撒き餌がたくさんある所はどこでも、侵害するために「私」「彼」と捉えることがたくさんあります。密林の中にはあまり餌がないので、「私」「彼」という感覚、有利になること、侵害は少ないか、あるいは生じません。

 しかし動物の群れのすべては、アハンカーラとパランカーラ=自分という感覚、あなたという感覚だけに慣れているので、チャリヤダンマの見方で利己主義を止めさせます。利己主義は全世界の凶悪な敵です。利己主義を無くす努力をし、私の話、彼の話に執着するのを止めてしまいなさい。

 九項目は、世界は私たちの足の下に持って来なければならないものです。聞くと荒っぽく聞こえますが本当です。あるいは「世界は私たちの足の下になければならず、頭上にあってはならない」と、そのように話さなければならない意味があります。愚かさで世界を自分の主人にしないでください。迷って愛し、迷って怒り、何に迷っても、こういうのは世界が頭上にあります。

 自分が愛している物は何でも頭上にあり、自分が嫌っている物は何でも、それは頭上にあり、世界の何でも二つの面があり、「可愛いと可愛くない」です。私たちが迷えばどちらも頭上にあり、心の上にあって心を苦しめて愛させ、あるいは嫌わせます。それは私たちを支配し、死ぬまでどの芝居でも演じるよう支配できます。

 述べたように世界が形・音・臭・味・接触・考えなら、それは私たちの足の下になければなりません。現代は「お金」という言葉になり、お金があれば形・音・臭・味・接触を買うことができ、これはふさわしくなく、お金があっても足の下に置かなければならず、頭上に置いてはいけません。ブッダの賢さを拠り所にしてこれらの物を自分の足の下におけば、世界がどれだけ大きくても、幾つあっても、関わるなら自分の足の下に置き、頭上に置かないでください。

 チャリヤダンマの角度では、感情の奴隷になってはいけない、内部のアーヤタナの奴隷になってはいけない、目・耳・鼻・舌・体・心の奴隷になってはいけないと言います。あるいは外部のアーヤタナ、つまり形・音・臭・味・接触・考え、つまり感情の奴隷になってはいけないとも言います。感情の奴隷にならず、アーヤタナの奴隷にならなければ、世界のすべてが自分の足の下に来ます。

 『世界の最高の愛欲の幸福も、天国のすべての最高の愛欲の幸福も、欲望の終わりから生じた幸福のマイナス十六乗にもならない』というブッダバーシタがあります。人間世界、天人世界の世俗的な幸福を追求すれば、私たちは奴隷に、つまり感情の奴隷、煩悩欲望の奴隷になります。このように幸福は私たちを奴隷にします。

 欲望の終わり、ウパダーナ(取)の終わり、煩悩の終わりから生じる幸福を探求すれば、私たちは何の奴隷でもなく、奴隷であることを脱ぎ捨てることができます。だからブッダは世界、あるいは天国の欲情でも、それから生じた幸福と比べれば、涅槃、つまり自分がなくなった幸福、自分がないことから生じた幸福のマイナス十六乗の四分の一にも足りません。「マイナス十六乗」はパーリ語で、ダンマ語を知らない人は知ってしまって憶えて、他の話を聞きやすくするために、ずっと憶えていてください。

 マイナス十六乗と言うのは、ある部分を十六に分け、そしてその一つの部分をまた十六に分け、そしてその一つの部分だけをもう一度十六に分け、このように十六に分けることを十六回繰り返すとどれだけか残るか、それをマイナス十六乗と言います。欲情面の幸福は、欲望が無くなったことから生じる幸福のマイナス十六乗の四分の一にもなりません。

 世界に勝利して世界を自分の足の下に置きたければ、世界の奴隷にさせる幸福を払い除いてしまわなければなりません。感情の奴隷、アーヤタナの奴隷になってはいけない一般の人のチャリヤダンマでも、それは義務です。世界の言葉で「紳士も感情の奴隷であるべきでない」と言います。

 今世界中の紳士淑女は感情の奴隷であることを好み、美しさ、美味しさに恍惚としていて、それで紳士淑女と呼べるでしょうか。スパーブとは良い状態があるという意味で、「ス」は良い、「パーブ」は状態で、良い状況があり、姿形が良く、良い状態があります。

 感情煩悩の奴隷であることは不潔で醜いです。だから世界の紳士も感情の奴隷であってはなりません。そうすれば「私は感情の奴隷でない紳士になる」と、チャリヤダンマの角度の目的があり、すべての物は自分の足の下にあり、頭上にありません。

 そしてこれが、ダンマあるいは仏教徒の哲学の目的です。仏教教団員はダンマの、宗教の、哲学の、何の目的もここに、世界は自分の足の下になければならない所になければならず、ヴィムッティ、世界からの解脱と言います。これもチャリヤダンマの角度の最高の幸福と言います。

 十項目は、もう少しの時間見ると、この世界はカンマの法則で経過しなければならない物と見なければなりません。世界はカンマの法則に従って経過しなければならないもので、カンマナー ヴァッタティー ローコー=世界は当然カンマで経過します。カンマとは行動することで、世界にどんな行動があっても、そのような行動の結果にならなければなりません。

 今世界は多くの人が狂っているので、結果つまり苦があります。狂っている人が多いので、複雑な混乱があり、直接あるいは間接的に世界中で侵害し合い、世界中妬み合い、一斉に宗教に背を向け、目・耳・鼻・舌・体・心の感情の方を向きます。身体の方を向くために宗教に背を向けます。

 これは宗教面の最高に下品な悪罵の言葉ですが、今の人は厚顔なので、悪罵の言葉と感じません。仏教教団員の心があるなら、これは凄い悪罵の言葉と捉えなければなりません。「宗教に背を向け、身体の方を向く」というのは、言いようもない悪罵の言葉です。

 世界はカンマで経過しなければなりません。これは、見ると科学の原則です。つまり原因があり、縁があり、何となく自然に生じず、原因と縁の威力で経過しなければなりません。だから私たちは原因と結果があるカンマの話に精通しなければなりません。カンマとは行動で、行動させる原因があり、そのように行動をした途端にそのカンマには結果があり、再びこのカンマの行動をした途端に、このカンマは他の結果を生じさせる原因になります。

 カンマもサンカーラ(行)であり、カンマは何となく生じることはできず、煩悩など、カンマを作らせる何らかの原因がなければなりません。行動したカンマは、結果つまり報いを生じさせる原因になり、報いは戻って来て煩悩を増やし、煩悩は成長発展して更にカンマを作るよう煽り、カンマは再びカンマの結果を生じさせ、カンマの結果は戻って来てまた煩悩を増やし、これを輪廻と言います。

 カンマ、カンマの結果、そして煩悩を循環は、カンマを作りたがり、そしてカンマを作り、そしてカンマの結果があり、そしてカンマを作りたがると、このように循環して輪廻の輪の中にいること、これが世界です。だから世界はカンマで経過し、原因と縁の法則で経過しなければならないものと言います。

 私たちは解決するために、この話を周到に知らなければなりません。苦に堪えてカンマで輪廻しないで、カンマの終わり、あるいはカンマが尽きる状態、あるいは滅尽つまり涅槃に到達します。

 すべて、私たちは喜んで良い見方の世界を受け入れます。つまりそれは能力を現させるので、苦しめるためにあると非難しないでください。課題のため、述べたようないろんな種類のチャリヤダンマの見方のすべてのためにあります。要するにそれは解決できるものであり、そしてこれらすべてのものは原因があり縁があり、原因と縁の法則で経過する希望を持たせる角度に関心を持たせます。

 因縁の法則を良く知れば管理できるので望ましい経過だけになり、最高になれば何も望まず、つまりカンマがなく、カンマの結果がないので煩悩はありません。これを「人間の終局はここ、つまり世界の上にいて、カンマが終わり世界の上にいることで終わる」と言います。

 世界の上にいるには、世界とは何か、どこにどのようにあるかを知らなければならず、そうすれば世界の上にいることができます。今私たちは、世界をこのようにいろんな状態で知っていますが、最高の希望であるものはカンマの法則で、私たちはカンマ法則で正しくすることができます。

 悪いカンマを捨ててしまい、そして善いカンマを作り、最高に善いカンマを作り、それから悪いカンマも善いカンマも止めてしまうカンマを作り、つまり善悪に執着しなければ「俺、俺のもの」の滅尽であり、苦がなく、輪廻しない涅槃になります。そしてこの希望は近くにあり、ここにあり、「苦がある所に滅苦の機会がある」と言います。だから喜んで苦と遭遇し、滅苦の機会を探してしまいなさい。熱い所に涼しさを探さなければ、つまりその熱さを消さなければなりません。

 今世界は火のように熱く、世界より火のように熱いものは何もないので、その世界に冷却を探さなければなりません。そしてブッダは「世界と世界の消滅は、背丈二メートルばかりの、まだ生きている私たちの身体の中にある」と言われているので、それは不可能ではありません。

 背丈二メートルばかりの身体の中に何でも全部あり、何を選ぶこともでき、苦を選ぶことも、滅苦を選ぶこともできますが、最高に良いのはそれを滅苦のための実践に使うことです。そうすれば人間が得るべき最高に善い物を得ることができます。

 仏教教団員はこのような角度で世界を見るので、自分を本当に「知る人、目覚めた人、明るい人」にすることができます。みなさん持ち帰って熟慮して、協力してこの世界を良くすることを希望します。毎週土曜日にここで講義をする願望にふさわしく、世界が良くなるようにしてください。

 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。
 



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