4.宗教は一つしかない



1971年1月23日

 ダンマにご関心のある善人のみなさん。今日はみなさんご存知のように「本当の宗教は、一つの世界に一つしかない」と題してお話します。しかしその前に、なぜこの話をするかについて話したいと思います。

 一般的に述べれば、今私たちにはたくさんの宗教があり、その結果、宗教間の争いが起き、あるいは矛盾する宗教があることが世界を混乱させる原因になります。もっと深く見ると、問題はもっと深い話に関わるので、問題を幾つかに分類することができます。

 世界共通の問題は、熟慮して見なければならない一つの部類があります。つまり世界は今、危機がどんどん深刻になって、滅亡しつつあります。これはみなさん良く知っているので、あまり説明する必要はないかもしれません。しかしこれが、みんなで解決を考えなければならない、今日の世界の重要な原因であり縁であると見せるためにお話します。世界は今危機に直面し、どんどん凶悪な消滅が進んでいて、それには宗教同士で互いに理解できないことが一つの原因としてあります。

 だから私たちが望むべきものは世界が危機を脱すことで、それには宗教間で良く理解し合うこと、つまりそれぞれの宗教、あるいはいろんな宗教を信奉する人が良く理解し合って、そして自分の宗教を良く理解して正しく実践することです。これが、世界が危機を脱すことができる道です。

 次にそのようになったら、「本当は、万の世界に一つの宗教しかない」という正しい理解がなければなりません。違って見える部分は皮だけで、宗教の外皮で、中身ではありません。これが全世界が共有する問題です。世界は、特に現代はこのような問題があるので、世界の一員として、協力し合って解決するために熟慮して見ます。

 次に仏教徒の問題になると、私たちは仏教徒として自分自身を尊敬尊重し、仏教徒として自分の義務に責任を取り、今ある問題を見ます。一般に私たちの仏教は、天人にも人間にも、まだブッダが望まれたような利益がないと分かります。

 ブッダは「如行のダンマヴィナヤも天人と人間の利益のためであり、梵行あるいはこのダンマヴィナヤを公開したのも、天人と人間の利益のためであり、何もかも天人と人間だけに注目している」と言われています。しかし今私たちの仏教は、天人と人間のどちらの利益にもなっていません。

 ここでの「天人と人間」という言葉は、他の物と見る智慧がなければ、人間とは普通の人、普通の階級の人で、天人は普通の人より良い特別階級の人と言うように見なさい。一般に私たちの世界は、汗水流して働かなければならない普通の人がいて、次に特別な階級の、つまりそのようである必要がなく、快適で楽しく暮らすことができ、同じでなく、ほとんど正反対の違いがあります。

 だから私は「天人は一つの部類、普通の人間も一つの部類で、仏教は天人と人間の利益になることを望んでいる」と言います。天人と人間は正反対の暮らしですが、心の面では同じで、煩悩と苦があります。仏教は天人にも人間にも、同じだけ利益にならなければなりません。

 今私たちは、宗教は天人にも人間にも、教祖が望まれた、人間にふさわしくできる、そして神様が決めた利益がない問題があります。私たちはこのような三つの面を見ます。

 「教祖が望まれた」と言うのは、ブッダは「天人と人間を助ける利益以外に何も望まない」と言われ、このように望まれています。次にこれらはまだ、ブッダが望まれたようになっていないので、自分を尊敬する私たちは、この義務を果たさなければならない責任をとらなければなりません。

 「人間に相応しくできるように」というのは、人間は畜生ではないからです。自然は人間に、畜生より高い、最高の利益を得るに十分な知性を与えました。人間はたくさんの利益を得ることができる何でもあるのに、まだ得ていません。なぜでしょうか。それは、今話している問題があるからです。

 「神様が望んだ」、あるいは自然が規定した、人間ならどれくらい善くあるべきか、どれくらい何かを持つべきかという部分は、他の人は「神様」と呼んでも自由ですが、私は「自然」と言い、自然が「人間は何を得れば人間であることにふさわしいか」を決め、今私たちは、まだそれを得ていません。

 これらを「私たちに関わり、そして私たちが信奉している仏教に関わる問題で、協力し合って解決し、片付けなければならない問題」と言います。

 もう一つの部類の問題は、一部の人たちの問題ですが、この世界にいるほとんどで、部類ごとに分かれて、いろんな問題があります。

 一番目の部類は、現代の世界に宗教は必要ないと見ます。みなさんも聞いたことがあり、非常に多くの人がいる部類で、「宗教はこれからの人間にとって無用」と見ると理解できます。この部類は宗教に興味がなく、そしてどんどん増えています。ここへやって来る大勢の外国の若者などは、何の宗教を信じているか質問すると、彼らは無宗教と言い、涼しい顔で確信をもってそう主張します。これは、宗教はもう世界に必要がないと見る人たちの部類です。

 二番目は、宗教でない部分を宗教と見る人たちです。宗教でないものとは宗教の外皮、呪術や宗教でないつまらない儀式という意味で、これらの人たちはこれを宗教と見ます。田舎にも首都にもあり、良く知られていて、特に新聞紙上でどんどん増えています。

 三番目の部類は、間違って宗教を宗教でないと見ます。つまり直接苦を消滅させ、煩悩を消滅させる部分を、彼らは反対に重要でないと見ます。ある人たちは「自分には関係ない。宗教ではない」あるいは「煩悩を消滅させるのは自分たちの義務ではない」と信じます。

 彼らは煩悩をたくさん持ちたがり、そして煩悩がたくさんあれば力がたくさんあり、煩悩を消滅させてしまえば力が弱まると言います。彼らは、煩悩を消滅させることには何の利益もないと見ます。これです。宗教を宗教でないものと間違って見ます。

 四番目の部類は「手に入れる」ことを宗教と見、お金を手に入れ、物を手に入れることを宗教と見ます。この部類の人たちは宗教を変えるのが早く、何かを自分が欲しがっている物を手に入れる道と見れば、すぐにそれを信仰します。

 彼らがブッダ、プラタム、プラソンに至ると、彼らはブッダ、プラタム、プラソンは彼らが欲しがっている物、特にお金、美しさ、いろんなものを手に入れる援けをしてくれると感じていると観察します。自分が欲しがっている物を手に入れることを宗教にしてしまいます。日立教を信じる人がいると前に話して聞かせたように、これも多いです。日立で働いていると収入が良く、その人がそのように得られる良い物は何もないからです。

 五番目の部類はまた別の人たちで、宗教は発展あるいは世界の進歩の敵と見ます。彼らはこの世界の進歩発展を欲しがり、そして宗教を進歩の敵と見ます。これは、宗教は発展しないように教え、愚かな知足を教えると理解するからです。それはそれらの人の誤解の話で、宗教の話ではありません。

 一度このことについて討論をしたことがあります。彼は、一人は世俗面の実践しかできず、ダンマの面は妨害するので一緒にすることはできないと非難しました。彼は、一枚の食パンの両面にバターを塗ることに例え、誰にもできないと言いましたが、本当はそのようではありません。パンに例えるならサンドイッチのようであるべきで、二つの物の真ん中に具があり、両側が同じものである必要はありません。

 二種類のパン、あるいは一方はパンでない物でサンドイッチを作ることもでき、それも良いサンドイッチで、このように妨害しません。だから宗教は発展、あるいは進歩の敵と見ないでください。

 六番目の部類は、宗教は競争で不利にさせるものと見ます。つまりこの世界で暮らせば必ず競争があり、宗教に厳格な人は不利で、危機を脱せないので宗教と関わりたくない、あるいは信じると有利になる教えの宗教を信じます。

 これらの問題は世界中にあり、今最高に重要な問題です。つまり最後の項目である問題は、幾つもの宗教があり、そして自分の宗教と他の人の宗教を対立する宗教と見、あるいは互いに敵同士と見る人たちがいます。だから仏教徒にもそのような症状のある人がいると、自分自身を顧みてください。私たちには仏教があり、彼らはに別の宗教があり、そしてそれは同じでなく、敵同士で一緒には居られないという意味で、そのようになっています。

 これらの問題は複雑困難を生じさせ、混迷させ、際限なく侵害し合う本当にある問題です。述べたようなすべての種類の問題を無くすには、宗教と呼ぶものに正しい理解がなくてはなりません。そして本当は万の世界にも宗教は一つだけしかないと見なければなりません。

 人が本当の宗教、万の世界に一つのだけの宗教を理解すれば、実践して愛し合うことが生じるのは、万の世界の人も一人だけのように簡単になります。そして愚かでなく、菩薩堂や儀式や教義、慣習、その他いろんな話に騙され易くありません。

 今は愚かで、仏教の菩薩堂、キリスト教の本堂、イスラム教の本堂、その他の人たちの本堂の違いに迷っています。愚かに迷って本堂の違いを見るので、宗教が違うと見ます。本堂が宗教の外皮にすぎなければ、宗教の中身がどこにあるか知らず、あるいは生じたばかりの、宗教本体ではない枝葉の小さな儀式に迷います。儀式は愚かな理解によって生じ、すべての宗教すべての教理にあると理解してください。

 この仏教にも悪性肉腫である儀式があり、他の宗教にもあり、そして愚かにこのような儀式の違いに迷います。あるいはまだできたばかりの、他のふさわしさのために作っただけの習慣に迷います。あるいは教典の解説書に迷います。本当は教典と呼ぶものは、どれも説明書にすぎません。ブッダの時代、あるいは彼らが言うその時代に教典という言葉を使ったことはありません。

 教典(ガムビーラ)という言葉は形容詞として使い、深遠、深遠なものという意味で、今私たちはこの教典という言葉を紙、または木簡の名前、あるいは紙上にある話だけに使い、誰が書いても、誰が話しても全部神聖な物になたので、教典を引用して他人を威嚇します。しかし教典の話は解説書にすぎません。すべての教典は解説書、あるいは教典はすべて説明書です。だから教典に貼りついて愚かに教典に迷い、本当の宗教は何か、どこにあるか知りません。

 他にもブッガラディッターナ(擬人法的な話)に迷い、深すぎる話は直接話せないので、架空の話にして話し、この言い回しである例えをブッガラディッターナと言い、多くの人がこのような話に迷います。そして人語で話す奇跡の話、それもブッガラディッターナの話と似ています。奇跡とは、ブッダは生まれた途端に歩くことができ、話すことができ、このように何でもできたような、言葉で聞くと信じられないことです。

 こういうのはどの宗教にもあり、奇跡と言います。その教祖を賛美し、神聖さを増す目的が一つ、そして生まれてすぐに歩けるなどは、ブッダが大悟すると、ご自身の宗教を布教することができ、聞き従がう人がたくさんいて、人々に受け入れさせることができ、時間が掛からなかったと、この種の言葉の形で深遠なものに例える目的があります。このような奇跡はどの宗教にも同じくらいあり、違いはないと理解してください。

 夢中になってこれらの文字に迷えば宗教に至らないので、先にこのような話に迷うことを無くしてしまわなければなりません。だからこれらの迷いを終わらせる、あるいは問題を終わらせるには、「宗教」という言葉を正しく理解しなければなりません。「宗教」と呼ぶものを本当に正しく理解すれば、万の世界に一つだけの宗教しかないと自然に見えます。

 次は「ローカダートゥ」という言葉になりました。ローカダートゥをまだ理解できない人もいると思います。ダートゥ、あるいはダー トゥは、維持できるものという意味で、それらのもののためにある現象、これもダートゥと言います。パーリ語のローカ(世界)という言葉は、文字では、パーリ語の規則では「崩壊する物」を意味するので、永遠にはない、壊れる、あるいは崩れる物を意味し、どの世界もこれをローカ(世界)と呼びます。

 ローカダートゥとは一時存在して崩壊する物という意味で、ローカダートゥと言います。これがダンマ語の意味です。それが存在できる時間だけ維持でき、そして崩壊すれば、これを一つのローカダートゥと言い、そしてたくさんあります。しかし今私たちが話している普通の言葉はそのようではありません。

 私たちは、彼らが一般に使う普通の人語で話し、パーリ語を基礎にしている国でも、このローカダートゥという言葉は一つの世界、あるいは一組の世界を意味します。しかし話すのが難しく、あるいは説明し難いので、たとえばブッダは一人だけ、太陽は一つだけ、人間、地獄、天国、梵天、何でも一つの体系しかないものを一つのローカダートゥと呼ぶように、彼らが設定したようにしなければなりません。

 例えば「一つのローカダートゥに二人のブッダが現れることはあり得ない」という言葉は、ブッダバーシタにもこのようにあります。だから私たちは、一つのローカダートゥにブッダは一人しかいられず、一度に二人いることはできず、それはどこにどれだけあるか、そして太陽は一つしかなく、地獄は一つしかなく、天国は一つしかなく、あるいは人でも何でも、全部一つの体系しかない限界を自分で知ってください。

 私たちは目で見えないので、彼らが述べておいた規則で数えなければなりません。現代では、中心に太陽が一つだけある太陽系のようなもので、科学で言うソーラーシステムは太陽が一つだけあり、そして何でも一つだけで、これも「一つのローカダートゥ」と呼びます。一つ一つのローカダートゥは少なくなく、何万もあり、ある教典では三万ものローカダートゥがあると、全部で三万のローカダートゥがあると言い、現代風に言えば、三万の太陽系があります。

 さて、この話は重要ではありません。幾つあるかは重要でなく、重要なのはどのローカダートゥ、どの太陽系でも、全部まとめても本当の宗教は一つしかないと、今私が主張しているところが重要です。どうぞみなさん、この点に関心を持って聞いてください。そして聞くなら、「一つだけの宗教」という言葉を理解するまで聞かなければなりません。

 どのローカダートゥでも、幾つのローカダートゥでも、それに生き物がいることが重要という、一つの重要な意味があります。生き物がいなければ重要な物ではないので、話す必要はありません。次に生き物がいれば同じ一つのものがあり、つまり私たちが四聖諦と呼ぶ、苦に関わる、苦を生じさせる原因に関わる規則、苦の生滅、そして苦の生滅に至らせる道があります。これについては後で詳しく説明します。

 ここではどのローカダートゥでも、この話は苦と滅苦に関わり、何万ローカダートゥあっても全部同じと知らせたいだけです。そしてついでに過去、現在、未来にもローカダートゥがあり、全部このようで別の状態ではありません。そして世界とは崩壊するものという名にふさわしく崩壊するまであります。どのローカダートゥも、すべてのローカダートゥは同じ自然の法則の同じ項目、つまり無常、苦、無我の下にあり、百万ローカダートゥあっても、無常であり、苦であり、無我である点は同じです。

 大乗ではアーディブッダと呼ぶ初めのブッダが生まれ、その人から段階的にブッダが生まれ、初めのブッダの心の力あるいはニャーナ(智)から生じたブッダ、そしてニャーナの力から生まれたブッダから生まれた人間であるブッダがいるので、千も万も十万ものブッダがいると奇妙に述べています。

 そしてすべてのブッダは、全部最初のブッダ次第です。これは、すべては一つのものと共にいる、あるいは一つから生れたに近いです。初めのブッダであるアーディブッダ、アミターユ アミターバと呼ぶ人たちもいます。つまり数えられない寿命があり、数えられない光があり、すべての光、すべての寿命の根源です。

 いろんな話をしたので、混乱して頭が痛くなり、眠くなります。「たくさんあっても差異がなく、意味は一つだけ」という要旨だけを掴んでください。宗教面については、どのローカダートゥにも同じ宗教があります。それは何か、これからお話します。

 次に「サーサナー=宗教」と呼ぶものになると更に眠気を誘うので、良く聞いてください。この言葉を語学面で理解すれば、問題が多くなります。最初に「宗教」という言葉は人間が発明した言葉であり、そして自分の感覚で意味を規定したと理解してください。私たちタイ人はタイ語があり、タイ語の意味を掴んでいます。

 タイ語の宗教という言葉はパーリ語から来ていますが、「宗教」は教えという意味で、教えである言葉になりました。この言葉は、まだ実践に注目してないので、タイ語の「宗教」という言葉は教えを意味します。しかしブッダは自身の宗教を教えと呼ばれず、教えだけでなく、実践があるようにさせたいと望まれました。ブッダは「宗教」という言葉を使われたことがなく、「ブラフマチャリヤ=梵行」という言葉を使われ、梵行とは品行という意味で、つまり振る舞いあるいは実践です。

 ブラフマ=梵とは高尚で傑出したという意味です。タイで「宗教」と呼ぶ言葉をブッダが言われたことはなく、梵行と呼ばれ、「梵行をなさい」というのは「この宗教で出家なさい」、そして「梵行を広めなさい」は「宗教を広めなさい」です。だからブッダの宗教は梵行と呼ぶ素晴らしい行動の実践です。

 時には「シッカー」=シーラシッカー(戒学)、サマーディシッカー(三昧学)、パンニャーシッカー(智慧学)と呼び、教えではなく実接実践して戒にし、サマーディにし、智慧にすることで、こういうのをシッカーと呼び、それが宗教です。タイ語でサーサナーと言いますが、パーリ語ではシッカーと言います。

 時にはブッダは「ダンマヴィナヤ」と言われ、ダンマヴィナヤは教えを意味せず、教えを受け取って、ダンマとヴィナヤで実践することを意味します。ダンマがあり、ヴィナヤがあるには、実践しなければならないという意味で、勉強するだけでダンマがあり、ヴィナヤがある訳ではありません。実践が終わらなければならず、そうすればダンマがありヴィナヤがあります。

 だから「宗教=サーサナー」と呼ぶものは、本当は実践を意味し、実践することは教えだけではありません。良く憶えておいてください。すぐに関連する話がたくさんあります。しかしタイ語には「宗教」という言葉があり、この言葉は教えという意味です。

 しかし本当の宗教は教えでなく実践することです。この言葉を正しく使えるようにするには、訳語、あるいはタイ語の宗教という言葉の意味を変えてしまわなければなりません。つまり教えで実践すれば宗教になるという意味にします。みなさん、タイ語であるサーサナ(宗教)という言葉の意味を憶えておいてください。

 次に普遍的な言語、つまり世界中が使っている宗教という言葉について見ると、特に英語の religion という言葉は、ラテン語の religion から来ていて、これはラテン語を継承した英語なので、ラテン語の意味を基礎にしなければなりません。religion という言葉は、今は宗教と訳されています。何と訳したら良いかわからないからです。しかし問題が生じるので、これから神様といろんなものについて熟慮して見ます。

 次に religion という言葉の文字について話すと、英語の勉強を始めたばかりの小さな子はre-lig-ion と読み、ligが重要です。昔、つまり西洋人がラテン語を使っていた時代に Ciceroという人が書いた本で、この人は「religion という言葉はligという言葉から来ていて、lig は実践という意味で、この実践は天国の命令で実践することを意味する」という教えを信じさせていたことが分かりました。

 その後 Servius という人の時代になると、この人は religion という言葉は leg から来ていて、leg という言葉は紐で何かを結ぶように結ぶと、意味を改めました。だから religion は人間を神様と結びつけるもので、二人は二つの意味を生じさせました。

 その後 St.Augustin The Great の時代になると、夢中で反論し合わないよう調停するように、legとligの二つの言葉を結んで一つにしたので、人間と神様の間に結び付きを生じさせるために、天国の命令で実践するという意味になりました。これは十分完璧な意味です。私たちは話すだけ、教えるだけでなく、実践しなければなりません。

 天国からの命令で実践すれば人間と神様の結びつきが生じ、これが religion、あるいはタイ語のサーサナー(宗教)です。聞いて見ると彼らのは良く、良く合っていて、タイ語のサーサナーより良いです。一方英語の宗教という言葉、つまり religion は天国の命令で人間と神様の結びつきが生じるまで実践するという意味で、これはとても良いです。しかし religion という言葉をタイ語に訳すと、宗教と訳す以外に訳しようがありません。

 私たちは世界中一緒に生きているので、世界中て使える言葉がなければなりません。宗教という言葉については、religion という言葉以外にないので、この世界のどの宗教も、話して世界中を理解させる共通の言葉である religion という言葉がなければなりません。顔を合わせて「何の宗教を信じていますか」と聞くような時、こういう時は同じ言葉を使わなければならず、そうすれば何の religion か分かります。

 あるいは外国のビザを貰いに行くと、彼らは「何の宗教か」必ず聞くので、何の宗教を信じても一つの同じ言葉がなければなりません。だからタイ語の宗教という言葉は話さなくても良いです。どの国でもどの宗教でもどの言語でも使える共通語、普遍的な言葉でなければなりません。彼らがビザなどに使っている religion は、人間を神様と一つにする天国の命令でする実践体系を意味します。

 次に利益になる宗教はただの命令でなく、義務を行わなければならないという問題が生じます。あるいは三蔵の中の教典だけではだめで、世界を援け、世界を管理する助けになる物でなければなりません。まだたくさんの譬えがあり、世界の病院、あるいは何かそのような物という言葉などは、宗教が世界にあるのは、宗教に人間を心の面、精神面の苦から脱出させる援けをさせるためで、心の面、精神面の病院、それが宗教です。

 次にどの国、どの宗教の人が何と呼んでもその人の自由、彼らが他の幾つの言葉で呼んでもその人の自由ですが、本物は一つしかなく、これだけです。つまり人間を心の面、精神面の苦から脱させる援けをするものです。そして広く知るための共通である religion という普遍の言葉を基本として使う、と結論します。私たちはこの言葉を国際間の共通語として使っているからです。

 本当の宗教はどのような意味があるでしょうか。それは、人間が苦から脱す助けをする点に意味があり、人間を苦から脱出させる助けになる何らかの実践体系、この体系を宗教と呼びます。だから私が「本当の宗教は一つのローカダートゥ(世界)に一つだけ」という時、人を助ける実践体系、あるいは万のローカダートゥのすべての動物を心の面、精神面の苦から脱させる援けになる実践体系に注目しなければなりません。

 そして冒頭で述べた何百、何千、何万、何十万のローカダートゥでも、無常・苦・無我の話、苦と滅苦の話、これは全部同じで、違いはまったくありません。だから全部、これらすべての動物の苦を消滅させるもので、同じもの、同じ項目、同じ話、あるいは同じでなければならないので、直接苦から脱すための実践体系と言います。

 直接苦から脱出するための実践体系、つまり宗教は、宗教と呼ぶものだけの状態があり、話す言葉でなく、文字でなく、そのような何でもなく、儀式でもなく、伝統教義でなく、労力と手足で本当にする実践で、そして苦から脱すことができる実践体系、それが宗教です。

 だから「サーサナー(宗教)」と呼ぶものは「脱出」と呼ぶものと対で、この脱出には二つの意味があります。身体の面の脱出は死なないことで、精神面の脱出は苦がまったくないこと、苦がなく生きることです。虎や象から逃げて危機を脱すような体の脱出は、身体面の脱出で、これは重要ではありません。精神面の脱出は生きている間に煩悩から生じた苦から脱し、煩悩は私たちを捕まえることができないという意味です。煩悩による苦がないことを「精神面の脱出」と言います。

 宗教と呼ぶものは危機からの脱出と対で、そして精神面の脱出であり、体の話はしません。それは宗教より低い話だからです。苦から脱すことができれば使い物になります。だから苦がある動物は何でも、その動物がただの畜生でも、その動物は宗教がなければなりません。よく聞いて見てください。だから畜生の宗教もなければなりません。

 しかしそれは体の中にあります。だから私は畜生のための宗教があると言いませんが、本当は、身体面の系統がなければなりません。最高に低い例として挙げられるナマズやカニなどの畜生、これも宗教があり、穴に入ります。走って穴に逃げれば災いを避け、危険から逃れて命拾いができ、つまり危機から脱出します。それが、誰にも敵わないので穴に逃げ込むことが、その生き物の宗教です。

 しかしナマズやカニより良い生き物なら他の脱出方法があり、良くなり高くなったのがあります。私たち人間は、これだけの脱出では十分と見なしません。これだけの脱出で十分なら、それは畜生と同じで、畜生より良い人間の恥さらしです。もっと高い別の脱出、つまり心の面、精神面の脱出がなければなりません。

 全部まとめて話すなら、この宗教という言葉は身体と心両面の危機からの脱出体系を意味する方が良いです。体が脱出しなければ心が居る場所、依存する場所がないので、「宗教と呼ぶものは危機から脱すことの体系」とまとめてしまい、危機からの脱出という共通の言葉を使い、体と心の危険から脱出しています。

 だから本当の宗教は、体と心両面の危険から脱出させる実践体系です。神様がいるかいないか、天国に由来するか、それは重要な問題ではありません。危機を脱すことができる実践なら、どれも使い物になります。それが神様に由来するか、天国に由来するかどうかは重要ではなく、危機を脱すことができる点が重要です。しかし本当の最後には神様がいて、天国に由来しています。

 生き物が危機から脱出する援けをする様式も、精神を脱出させる援けをする様式も、それぞれ違う意味があり、全部神様から、あるいは天国から来ています。一人は「神様は人で、私たちのような人で、どの方向にしても天国に住んでいて、そして命令を下し、中止を求める」このように信じる人もいます。しかし仏教教団員の神様はそのようでなく、私たちの神様は自然の法則で、神様の天国は自然の法則のある所です。

 宗教、あるいは実践すれば危機を脱すことができる真実の体系は自然の法則で、自然の神様が、自然の法則の神様がくれ、どの種類の神様より重要です。仏教は神様の天国に由来し、神様がくれたと言うこともできますが、私たちの神様はこのような意味であり、他の人たちの神様は別の意味があります。

 しかし皮の話に夢中になって反論し合わないで、天国から送って来たものはどのように言っているかという項目の審理に専念します。つまり何としても苦から脱すにはどのようにしなければならないか、これは同じです。どのように同じか、これから話して聞かせます。

 今私は「宗教」と呼ぶものについて話していて、そして本当の宗教は危機を脱すことができる実践体系で、それは天国あるいは神様から貰ったもので、そして私たちにも私たちの様式の天国、あるいは神様がいて、他の人は他の人の様式のものがあります。

 この段階ではすべてのもの、あるいはすべての命、すべてのレベルの命は宗教と呼ぶものがなければならないと、広く見てしまっていただきたいと思います。この項目を見て、そして満足が生じて宗教と呼ぶものを好きになってください。高いレベルの動物、人間、天人、悪魔、梵天、あるいは何でもこの高いレベルの動物は宗教があります。

 人間は宗教がなければならず、天人も宗教がなければならず、梵天も宗教がなければならず、宗教がなければなりません。普通の人の言葉で言えば、人間はここにいて、天人は上にある天国にいて、梵天は高い所に上り、宗教がなければなりません。しかしすべては人の心の中にあると捉えれば、汗水流して働いて苦労している時はこのように人間で、これらの問題を解決する人間の宗教がなければなりません。

 時には快適で、何もかも望んだように五欲で満たされ、自分に満足する、こういう時私たちはここで天人になっています。私たちがこれほどの天人の状況にいても、宗教がなければなりません。なぜなら満足し、快適で面白おかしく笑って、それほどのレベルでもまだ注意しなければならないもの、慎まなければならないもの、実践しなければならないものがあるからです。

 淡白で清潔な定やサマーディから生じた梵天の幸福がある梵天でも、宗教がなければならず、注意深く実践して苦を生じさせないようにしなければなりません。天人、悪魔、梵天のどの種類になっても、宗教がなければならず、人間も宗教がなければなりません。

 地獄の動物、畜生、あるいは餓鬼・阿修羅と呼ぶ低い方を見ても、彼らの様式の苦から脱出させる宗教がなければなりません。

 地獄に落ちている者たちは地獄の苦から脱したいので、実践する宗教がなければなりません。畜生が知ることができるだけ、知った分だけ危機を脱して生き延びられる実践法がなければなりません。餓鬼は餓鬼であることから脱す方法を、阿修羅は阿修羅であることから脱す方法を見つけなければなりません。だから地獄全部、畜生、餓鬼、阿修羅は宗教がなければならないという意味です。

 他の、彼らが動物を分類するのに使っている原則で話します。彼らは卵から生まれるアンダチャ、水の中で生まれるチャラーブチャ、湿った不潔な場所で生まれるサンセーダチャ、心の面、精神面で突然生まれるオッパーティカ、この四種類で言えば全部同じです。鳥類など卵で生まれるアンチャダ類も宗教がなければならず、水の中で生まれるチャラーブチャ類、つまり人間たちも宗教がなければなりません。

 両親は必要なく、湿った不潔な場所で生まれる、眼で見えない微生物、サンセーダチャ類も宗教がなければなりません。それらも生きていたがり、危機を脱したいと願い、危機を脱すために転げ回るからです。心の面、精神面で考えたように生まれるオッパーティカは、これも危機を脱す考えをしなければなりません。あるいは苦である感覚がある時は、危機を脱す考えをしなければなりません。これらの生き物は全部宗教、つまり危機からの脱出がなければなりません。

 次に私たちが見ている植物、これらの植物は大きなものから目で見えない小さな植物、植物に属する微生物まで、それも宗教がなければなりません。この植物も宗教があり、生き延びるために休まず奮闘しています。それは光の話、水の話、食べ物の話、空気の話で闘い、何の話も植物を生き延びさせています。だから植物の闘う様式が植物の宗教です。目で見えないほど小さな植物も生き延びるために闘う様式があります。

 小さな生き物、一つ細胞も闘って生き延びる気持ちがあり、宗教があることを意味します。これが宗教科学です。どうぞ理解してください。科学が好きで、科学を基礎にするのが好きなら、これが宗教科学です。つまり命のある物は、自分が生き延びるために奮闘する気持ちがあり、そして本当に奮闘努力して危機を脱していて、その様式が生き物の宗教です。それが高くなると闘う様式があり、実践法がどんどん高くなって人になります。

 人は体の面と心の面の問題があるので宗教の様式も広くなり、畜生や植物は体の問題があり、知性がないので、知性があることによる問題はないと見なします。人間は知性があるので、知性があればあるほど、知性があることで苦が生じる道は多いはずです。つまり考えるのが得意で、貪るのが得意で、怒るのが得意で、迷うのが得意で、人間はよく考えるので、深遠、あるいは高い宗教体系があります。

 述べて来たことはすべて「宗教」というものは何か教えるためで、つまり自分が望まないものからの脱出を生じさせるために闘うことです。これが本当の宗教である宗教です。そして一種類しかなく、万ローカダートゥあっても全部同じです。これからお話します。

 以前に「隠れている宗教」と呼ばせていただいたものについて、全部話してしまいたいと思います。話したのは「本当の宗教」という意味で、本当に率直に明示します。正しい本当の宗教以外に隠れた宗教があり、宗教と一緒に隠れて入って来たもので、その結果宗教に見えます。これは別の形の宗教ですが、宗教と関わりがあります。だから「隠れている宗教」と呼ぶものは、道徳、文化、伝統習慣の形の中にある宗教と言うことができます。

 道徳は共通で広く、世界中どこでも使うことができ、実践様式は全部同じです。つまり社会面で加害し合わない、正直で正しく人であり、恩を知り、あるいは社会を正常にするものは何でも、これを道徳と言います。このように道徳の形である宗教もあり、あの宗教この宗教と明示されないけれど道徳の形をしている宗教です。あるいはその道徳は宗教の一部分の形になっています。

 文化も同じで、タイもああいう文化こういう文化があり、それは文化の形の中に隠れている宗教です。あるいは宗教の一部分でしかない形の文化です。いろんな美しい伝統習慣もこのようです。

 高くなったのもあり、哲学の形の中にある宗教、あるいは哲学は、知性が多く深く、知性の話に関わりがあり、実践に関わりません。哲学あるいはアビパラッチャニャーと呼ぶものは論理だけで実践ではありませんが、彼らは正しい実践を生じさせる原因と見なします。しかし今、知性がありすぎて愚かになります。聞いて理解して見てください。知性がたくさんありすぎて愚かになります。

 知性があり過ぎて考えるのが巧みで、何百何千の角度から考えられ、それで使い物にならず、骨折り損の草臥れ儲けです。それは知性があって愚かになる話で、こういうのは哲学の話、つまり考えるのが好きなだけです。仏教の理解できない話になればなるほど、その哲学は、後で膨張した哲学になります。本当は仏教は哲学でなく、述べたような直接実践原則であり、そして科学の形をしています。

 つまり煩悩はこのよう、生じるとこのようで、このように苦があり、煩悩が滅してしまえばこのように苦が消滅すると、ハッキリした道理があり、これは科学です。しかし理解できない形、あるいはすぐに理解できない形で話されているので哲学になります。複雑で深遠な縁起などは非常に間違って話され、千年も間違って説明され、仏教の縁起が哲学になります。しかし本当は科学の話で、それが生じたからこれが生じたと、明確に説明しています。

 それが生じたからこれが生じ、どこの誰にも聞く必要はなく、それ以上勘定する必要がない科学です。しかし理解できず、そして見えないので哲学の形の中に入ってしまいます。四聖諦の話、縁起の話は阿羅漢にとっては明らかに見え、そして実践している科学の話で、普通の人はそのように見えないので哲学になります。現代の考えるのが非常に好きな西洋人は、出合った途端に大哲学になります。しかし本当の話は、阿羅漢にとって簡単な科学の話です。

 次に論理を使い、実践する必要がない論理学の形をしている、論理学の哲学の形の中にある仏教もたくさんあり、死ぬまで学んでも何の利益も得られません。そして現代の学生もこの角度で学びます。これらはこのように時間を無駄にする「隠れた宗教」です。

 心理学の形の中にある隠れた宗教もあります。普通私は煩悩を滅すために煩悩の話を知るだけで、心理学の知識にしたくありません。欲しいのは煩悩を消滅させることだけで、それは滅苦の話、宗教の話です。次に彼らは心の面、心に関わる話の問題点を増やしたので心理学になり、「アビダンマ七経」と呼ぶ山になりました。これはほとんど全部心理学の話で、山ほどあり、心理学の形である仏教になりました。これもあります。

 まだ特別に、芸術の形である仏教もあります。つまり考えや思い、あるいは滅苦ができる実践の美しさで、滅苦ができれば極めて美しく、見るのは美しさだけなので芸術になります。だから実践する必要はありません。そして仏教に関わるたくさんの物があり、仏像、菩薩堂、そしていろんな美しいものなどは芸術です。だから何も実践する必要はありません。

このようにいろんな形の中に隠れている仏教はたくさんあります。隠れた宗教であり、本当の宗教ではないと憶えておいてください。ナマズやカニが走って穴に逃げ込む方法は滅苦の助けになる実践をするので、この方がむしろ本物の宗教です。それが本当の宗教です。人間なら失敗しないよう、目・耳・鼻・舌・体・心に俺、俺のものという感覚を生じさせないよう管理することを知る、それが本当の宗教です。

 それ以外は隠れている宗教で、たくさんあり、そして藁を抱える狂人になるほど膨張します。頭描溢れるほど、耳から溢れるほど藁を抱えても、藁に籾は一粒もついてなく、あるのは藁だけです。もし籾米があっても、ひしゃげて実のない粒です。今私たちはこのような状態に陥っています。迷って際限なく何かを考えるのが好きな人たちの後を追うので、合うのは皮だけ、隠れた宗教だけで、正しい宗教ではありません。

 述べてきた隠れている宗教の他に、勝手に言っている形であるものがあり、これも隠れた宗教です。何かを気に入ると、それをそのような宗教と勝手に言う宗教、日立教という宗教を信じていると言った人などは、その人に誰が何をしたと、その人は勝手に言っています。私たちも同じようにする機会があり、私たちが好きなように、そして感じたように何かの宗教を信じ、そして話します。

 要するに私たちには、本当の宗教と隠れた宗教があります。つまり実践面で、今本当は人間集団に二種類の宗教があり、本物である本当の宗教は、政治の威力の下にないなど、自由でなければなりません。政治の威力下にある宗教は政治の威力で改革、変化、歪曲され、宗教を政治の家来にします。今世界中がこのようにしています。

 彼らに何の宗教があっても、政治的な利益に追従するように、政治が強制して彼らの宗教を歪曲させます。仏教もこのように使われ、キリスト教もこのように使われ、他の宗教もこのように使われます。このように使われてしまえばそれは本当の宗教、あるいは自由な宗教ではありません。私たちは本当の、そして自由な宗教があり、これが一種類です。

 二種類目は仕方なく従う宗教で、降参する必要があり、他の物の権力の下に従わざるを得ない宗教で、自分自身の中では真実ではありません。時には「今とても貧しいので、しばらくの間アヒルを飼うブッダの許可をください」という人がいます。こういうのを、仕方なく従う宗教と言います。しかしまだ小さな話です。世界の人の大きな話は世界中で殺し合い、そして神様に、罪と見ないで罪を見逃してくれるようお願いします。これは仕方なく従う宗教で、本当ではありません。

 私たちは厳密に区別するために、本当の宗教と仕方なく従う宗教を知り、そして万の世界に一つだけの宗教にするために本当の宗教を持つべきです。

さてここまで来たら、万のローカダートゥに一つだけの宗教があるという論点について話して、更に明らかにしたいと思います。つまりこの点だけを話して、更にハッキリ、明らかにします。一つ目は自然の原則では一つだけの宗教しかなく、この論点の定義は、宗教とは自然の法則に従って正しい実践から生じた危機からの脱出です。

 重要な意味は脱出でなければなりません。あるいは脱出していて、そして正しい実践からで、そしてその正しさは自然の法則での正しさでなければなりません。自然の法則と違えば正しくなく、そしてそれはできないので、自然を基礎にしなければなりません。次に自然の教えについては、自然が一つ、自然の法則が一つ、自然の法則による人間の義務が一つ、そして自然である義務から生じた結果が一つです。

 「自然」と呼ぶものには、このように私たちが知らなければならない、あるいは到達しなければならない四つの重要な物があります。本当の自然とはどのようか、それにはどのような規則があるか、そしてその規則から生じる義務はどのようか、私たちは結果を受け取るまでしなければならず、まだ結果を受け取らなければ利益は何もありません。

 何もかも自然であり、私たちの命、体、血肉、全身は自然で、私たちに生じる苦も自然で、私たちにある煩悩も自然で、そして形(体)、あるいは名(心)、あるいは薀、あるいはダートゥ、あるいはアーヤタナ(処)、あるいは無常・苦・無我である状態も私たちの中にある自然の話です。

 次に私たちは幸福、あるいは苦に関わる自然の法則を見つけなければなりません。俺、俺のものという考えが生じればいつでも、その時は、途端に苦である感覚が生じ、俺、俺のものという感覚がない時はいつでも、その時苦はありません。

 これが自然の法則です。だから私たちは俺、俺のものを生じさせないようにしなければならない義務が生じます。他のこと、生活するための仕事や、様々な仕事を実践しなければならなくても、俺、俺のものという感覚を生じさせないよう管理しなければならず、そうすれば苦は生じません。次に私たちが俺、俺のものを生じさせない状態で実践すれば結果は幸福で、幸福に暮らせます。

 私たちは聖向聖果涅槃と呼び、他の人たちは「神様と一緒にいれば、神様の世界に住めば苦がない」と言います。その時俺、俺のものがないからです。ね、万のローカダートゥに一つだけの宗教はあり得ます。それはこのように一つだけの、同じ自然の法則だからです。一心不乱に熟慮して「万のローカダートゥでも、たった一つの自然と自然の法則次第だ」と見てください。

 それが一つしかない時、今の、あるいは過去、現在、未来でも、何百の宗教、何十の宗教があっても、それは幸福と苦に関わる自然の法則に依存しなければならず、そうすれば宗教になり、世界にある宗教はどれも同じという角度で見ます。

 そのようでなければ個人の見方にすぎません。個人の見方というのはある人たちの見方で、間違いでも正しくても、その人はそのような主義を規定し、誤った見解も正しい見解もあり、それは小さすぎて宗教と呼びません。多くの人を助けることができれば宗教と呼びます。

 すべての宗教は自然の本当の法則から来ているので、外側の皮は違っても同じです。本堂が違い、儀式が違い、伝統習慣が違い、教典が違い、使う言語や文字が違ってもそれは外皮で、中身は欲望、執着を除去して俺、俺のものを生じさせない点にあり、このように同じです。このようにしなければ自然が罰を与え、苦にするからです。

 同じであることが理解できなければ違っていると見るので、例えで同じであることを理解し易くする方が良いです。この話は好く水に例えることがあります。水はどこでも同じです。水はどこでも同じですが、運河の水、井戸の水、沼の水、淵の水、濠の水、便器の水、大便の水、小便、ナムプラー(魚醤)、酢などのいろんな水、その水は外観は違う状態にありますが、これらの水は水である点では全部同じで、包んでいる外皮の部分が違います。

 本当の水は純粋な水で、こういうのを本当に純粋な蒸留水と言います。私たちが見ている蒸留水は純粋ではなく、何も混じっていない純粋な蒸留水にしたと仮定して水と呼んで、そして純粋な水はどの水の中にもあり、大便の水、小便にも純粋な水はあります。大便、小便の部分と分けてしまえば、大小便の中に純粋な水があります。

 運河の水、沼の水、淵の水、濠の水でも何でも、不潔な部分を出してしまえば残るのは純粋な水だけで、水牛の糞の水、泥水、何でも同じ状態です。酢の水、ナムプラー(魚醤)、酒、何の種類の水でも、水でない部分を出してしまえば、残るのは純粋な水だけです。そしてこの純粋な水は、ナムプラー、酢、砂糖、あるいは大小便の中の水も全部同じです。純粋でなければ水と呼びません。

 水と呼べるなら純粋な水でなければなりません。そして純粋な水はどこにあっても全部同じです。私たちの血、血液の中にも純粋な水があり、血である赤い状態の膜を出してしまえば純粋な水があります。だからこの純粋な水と呼ぶ物はどこにでもあると見てください。

 土の中、砂の中、植物の中、何の中にも、どこにも純粋な水があります。空気の中にも水があるので、水と名がつけばどこの水も同じと言います。それが本当の水なら。宗教も本当の宗教なら同じで、同じでなければ本当の宗教ではありません。本当の宗教は滅苦をしなければならず、何としても危機を脱すので、この点で同じです。

 次に同じであること、あるいは同じと主張させていただくものは、三つの観点があり、三つの観点で更にはっきり見るよう説明します。第一項は、本当の宗教なら同じ目的がなければなりません。つまり人間が手に入れるべき最高に善いもの、脱出を人間に得させることを目指します。どの宗教でも、何百何千の宗教があっても、真実の部分がある宗教なら全部同じ目的でなければなりません。

 つまり人間あるいは動物に、人間が得るべき最高に善いものを得させることを目指します。キリスト教もこの項目について話し、どの宗教もこの項目について話します。どの宗教も目的は一致し、脱出をさせることを目指します。このように目指さなければ除外しても良いです。それを宗教と見なさないでください。その様式に宗教であるものはありません。動物の脱出を目的にしなければ、それをあの宗教この宗教から除外してしまって良いです。

 第二項は、本当の宗教は同じ実践規則があります。目的が一致するだけでなく、実践規則が一致しなければなりません。一致して、そして最高に全部まとめた実践規則は、身勝手をなくせる、あるいは俺、俺のものという執着をなくしてしまえる実践規則です。どの宗教もこのように教え、利己主義をなくさせ、特に俺、俺のものという執着を何としてもなくしてしまわなければなりません。

 これが本当の宗教の実践規則です。これと違えば、このようにしなければ外しても良く、宗教でないので宗教にしません。つまり宗教ではありません。宗教ならどの宗教も利己主義をなくしてしまい、俺、俺のものという執着を管理し、あるいは抑制し、あるいは止めてしまわなければなりません。

 もう一つ同じ第三項は、本当の宗教は最後に受け取る結果が一致しなければなりません。本当の宗教は目的が一致し、実践規則が一致するだけでなく、最後に受け取る結果も一致しなければなりません。つまり危機からの脱出に到達します。神様がいる宗教は「神様と一体になる」と言うのもあり、「神様の世界に至り、神様と一緒に暮らす」と言うのもあります。

 しかし私たちの仏教では「聖向聖果涅槃に到達する」と言います。聖向聖果涅槃に到達することが、最後の段階まで段階的に危機を脱すことです。どの宗教もこのような結果を受け取らせなければ、宗教であることから除外してしまい、宗教でなくします。本当の宗教は、実践した人である動物に、苦からの脱出である結果を受け取らせなければなりません。

 だから私は、本当の宗教は一致した目的がなければならず、一致した実践規則がなければならず、そして一致した最後に受け取る結果がなければならないと言うことができます。これを本当の宗教と言います。

 次に未解決の妨害する問題は「神様はいる、あるいは神様はいない」と言うもので、これは神様という言葉の解釈次第です。仏教は話したような神様、つまり自然の法則が神様で、プラタムが神様です。だから西洋人が「神様がいれば religion と呼ぶ」と主張したら、私は「私たちにも神様はいる」と言います。だから私たちのも religion で、プラタムが神様、厳格な自然の法則が神様です。

 天国にいる神様は、容姿が人間のようで、怒ることも愛すことも憎むこともできる、そういうのは要りません。私たちは神様と認めません。私たちの神様は誰にも見えない姿があり、容姿は人の様でなく、私たちが自然の法則と呼ぶもの、あるいはプラタム、あるいは何とでも呼ぶものは抽象以上、つまり見えないもので、そして何も作るものはなく、何も加工できるものはありません。私たちの神様はこのようです。

 私たちの宗教、教え、実践規則はこの神様に由来しています。だから私たちのは religion で、つまり神様が天国から送って来た実践規則、教えがあるので、仏教は religion です。彼らが騙して、人のような容貌をして白髭を蓄え、一時怒り、一時愛す神様を信じさせるのを、私たちは受け入れません。そういうのは要りません。だから水はどこにあっても同じように、どの宗教も同じものと見なしてください。本当の宗教は同じ宗教です。そしてどれも religion と呼ぶべきです。

 今、私たちが幾つもの宗教にし、いろいろにして敵同士にすることは、私たちの愚かさであるという、この講義の目的である重要な問題になりました。仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒でも誰でも、反対の、敵同士の、闘争相手の違う宗教があるという理解が生じれば、その人は愚かです。

 その人は、本当の宗教は万のローカダートゥに一つしかないという事実を知らないからです。愚かなら愚かであることを止めてしまい、真実のままに正しく理解してしまってください。賢さまで求めないで、愚かさが終わり、そして真実を知るだけで十分です。

 私たちは「私たちは今、狂った人たちと世界を共にしていることを忘れてはいけない」と、周囲の観察点を設けるべきです。私たちは今、狂った人と世界を共にしているので問題が多いです。少なくとも「宗教には違いがあり、その宗教は今敵同士、仇同士で、殺し合い、消滅させ合っている」と理解する狂人です。

 このように理解する人は誰でも狂人です。そしてまだ他の狂人もたくさん、何百何千種類あり、百八種類より多いです。しかし最高に危険な狂人は、宗教間の闘争を生じさせる人で、宗教はどの宗教も違うと見ることで俺の宗教が生じます。これも俺の宗教がある狂人でしかないと言いたいと思います。

 誰かが「俺の仏教」と言ったら、その人が言っている仏教は悪魔の宗教と理解してください。本当の仏教は俺の宗教にはなれません。どの宗教も同じです。俺のキリスト教と言う人はサターンの宗教があります。誰かが俺のキリスト教と言っている、それがサターンの宗教です。次にそれはそれ以上にあり、俺の仏教と言い、そして「俺の宗教だけが正しく、他の人の宗教は全部間違っている」と言います。

 それは狂っている悪魔の宗教です。自分の宗教を何と呼ぶかで、それは狂っている悪魔の宗教です。身勝手、あるいは自分だけが正しく、他人は間違っているという誤解を止めてください。こういう考えは全部止めてしまわなければなりません。そうでなければ私たちは狂人の宗教、魔王の宗教を信じる人であり、そして狂った悪魔でもあります。サターンの宗教であり、狂ったサターンでもあります。

 その種の考えを全部止めてしまい、本物、本当のもの、何でも真実は万のローカダートゥに一つしかないと見てください。誰でもこの真実を掴んでいますが、ある時代には愚かになり、厚い皮で包んで別のものにします。そして実践しなければならない話を religion か否かと論争しないでください。religion という言葉は、宗教を意味する普遍的な言葉でなければならないので、仏教も religion で、世界中の宗教に使うことができる普遍的な言葉です。

 次に幾つか面白い話をしたいと思います。religion という言葉は、この言葉を母語とする人たちから問題が生じ、明言すればこの言葉を話し、基本としてこの言葉を使う宗教を信じる西洋人は、神様がない宗教はどれも religion ではないと、つまり宗教ではないと彼らの宗教の定義を規定します。宗教を教える時、あるいは宗教の担当者がそのように規定すると、一般の人も信じ、受け入れます。

 だから頭脳明晰な学生、哲学者である大学生、大学教授は、神様がなければ宗教ではないと話す人を信じます。彼らがそのように規定したからです。次にタイの私たちも何も考えずに彼らに追従して「神様がなければ religion ではない」と言います。これは religion という言葉の本当の意味は、神様から来ていようといまいと、危機から脱出する道と知らないからです。

 しかしすべては神様から来ています。ただ神様の意味、あるいは狙いが違うだけです。ある人たちは「神様は人だ」と言い、もう一部の人たちは「神様は自然だ」と言います。だからタイの私たちもつられて網にかかり、何も調べずに話します。そのような考えは捨ててしまう方が良く、どっちの側も神様と呼ぶものを真実のままに知ります。

 そうすればこの神様は最高に重要で、すべての物を創り、すべての物を支配し、すべての物を破壊することで、そして宗教の根源、つまり人間が避けることができない自然の法則を、正しく実践しなければならないと知ります。religion という言葉の所有者(母国語の人)が惜しんでケチって他人に使わせないのは滑稽です。

 これから話す滑稽な話は、タイが新年の元旦になると、キリスト教系の新聞の中には「タイの庶民はにじり寄って来てキリスト教を信仰する」と大喜びし、このように書く新聞もあります。一月一日を新年と見なすからです。本当はキリスト誕生以前から、一月一日を新年としていたのもあります。つまりそれは惜しむ、あるいは常に自慢する機会を狙っています。

 だから「本当の宗教は、結局万のローカダートゥに一つしかない」、つまり「自然の法則に従う義務だけ」と捉えてください。「自然の法則での義務」という言葉を、百回、千回暗唱してください。「自然の法則での義務、自然の法則での義務の実践」は本当の宗教で、万のローカダートゥに一つだけです。本物は一つしかありませんが、姿が違うのは外皮だけで、それは違う外皮があります。

 なぜ外側を包む外皮に違いが生じたのかは、異なる環境から問題が生じるた問題があるからです。本物、本質、中身は同じものですが、外側を包んでいる皮が違います。人が違うからです。別々の話として話すのは、違う神様に関わる人間の知性の高さ次第です。

 人間は神様に関した知性の高さが違い、一部の人は神様をたくさん知り、もう一部の人は少し知り、もう一部の人は中くらい知り、一部の人は一方へ傾いて知り、もう一部の人はもう一方へ傾くので、神様という言葉は異なる知り方をされ、これが宗教に異なる外皮を生じさせ、その結果、たとえば本堂と呼ばれるもの、その宗教の本堂はそのような形、この宗教の本堂はこのような形で、同じではありません。

 そして住んでいる地理的条件が違います。その時代のインドは快適で、賢い人がいっぱいいて、生活する縁の話は完璧でした。次に他の宗教は乾燥した荒地で生じ、貧困、愚昧など、このように同じではありません。そして物質的条件、つまり体の状態も異なり、心、精神、教育も異なり、最後は変化で、急速で強烈な休みのない時代の変化が変化をさせました。

 何の宗教も先に生まれ、その後仏教が生まれ、その五百年後にキリスト教が生まれ、その後五百年してイスラム教が生まれ、これは幾つもの宗教に見えます。本当はどれも自然の法則で苦からの脱出を教えたがっています。

 しかし別々の時代に別々の土地で、異なる人種の中で、異なる知性の人の中で生まれたので、外皮の部分はそれぞれ違う形をしています。次にこの皮は伸び続けている肉腫で、どこにあるか分からない肉腫です。

 それぞれの宗教は外皮を掴んで主張し、それは異なり、殺戮し合いや侵害をするのは、外皮が異なるからです。中身を基準にすれば殺し合いや侵害が生じる道はありません。本物は、述べたように万のローカダートゥに一つだけだからです。だから「宗教」と呼ぶ宗教が幾つあっても、本質は一つだけです。

 今十二の、ちょうど一ダースの宗教があると言われ、東洋には儒教、道教、日本の神道、こっちへ来てインドのバラモン教、仏教、ジャイナ教、シーク教、西洋にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教、合わせて一ダースです。(訳注:十種類しかありません)。そして互いに友情の視線で見ません。本当の宗教は万のローカダートゥに一つだけという事実を理解しないからです。

 そして宗教も間違って掴めば、その宗教が原因で人が噛み付き合い、殺し合うので、世界の人間の罪であるカンマで、不運です。本当の宗教は万のローカダートゥに一つだけという真実を知ってしまうことができれば、これは非常に幸運で、非常に徳であり善です。そして忘れないために最高に善いのは「水」で、純粋な水と言えば、どんな形をしていても、全部同じという言葉です。

 みなさん一人一人が、今日の講義の要旨をこのような状態で憶えてください。今宗教に関わる誤解が原因の一つである問題が世界を覆い、世界を破壊し衰退させるからです。本当の宗教は万のローカダートゥでも、三万のローカダートゥでも、あるいは何十万のローカダートゥでも一つだけ、つまり人間が、俺、俺のものを消滅させてしまう実践することで危機から脱す援けをする自然の真実の法則と正しく知ってください。

 これしかありません。どの宗教も同じで、過去も現在も未来も同じです。そして水という言葉で忘れないようにしてください。この水はダンマに例えられ、ブッダも「ダンモー ラハドー アカッダモー=このダンマは、沈殿物のない水のよう」と言われています。だから沈殿物のない水、あるいは何も混じっていない水は、どの種類もどの水も全部同じです。

 時間になりましたので、今日の講義はこれで終わらせていただきます。




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