3.神様の人と煩悩の人



1971年1月23日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。今日はいつものように生老病死の友としてお話します。なぜ私はこのように、毎週土曜日に話すと決めたように、時々話さなければならないかということを考えてくださいと、忠告とお願いをさせていただきます。

 「今の仏教教団員の身分は、まだ知ることが少なすぎ、実践できることが少なすぎ、あるいは身分にふさわしくない何でも身分にふさわしくない」と常に思ってください。他のもの、特に世界のものを熟慮して見ると、絶えず進歩していますが、仏教教団員の身分は、まだそのようではありません。

 これは、どの国より仏教が繁栄していると自負しているタイ仏教徒である私たちにとって憂慮すべきことです。このように思い、夢見ているだけなら、いつかどこにも面目がないこと、つまり仏教教団員の名誉、あるいは身分にふさわしくないものが明らかになるに違いありません。

 もう一つ、このダンマは多少難しいものなので、探求し続けなければならないと捉えてください。簡単なものなら一度話せば十分ですが、それは簡単でないので、常に話さなければなりません。だからこのように時々時間を割いて理解してください。

 内容については、初めの三か月は教えについて話し、次の三か月は実践規則と実践練習につて話すと、配ってあるチラシで目的を説明してあります。今日はまだ教えの話、あるいは理解しなければならない論理の話、基礎のように広い範囲、あるいは実践の back ground の話です。この基礎が十分あれば実践は容易になります。第一回の講義で、私たちと常に一緒にいる種類のブッダについて話しました。

 聞いた人は当然、私が広くすべてを見る状態のブッダについて話し、いつでも一緒にいるのはどの種のどのようなブッダかを理解して選ぶことができます。第二回目は涅槃の話の理解がどのように分かれているか、あるいは侵害しているか、そしてなぜ涅槃の話から利益を受け取れないのか、見せて聞かせて理解させる道具にするために「現世での涅槃と、死の後の涅槃」という題でお話しました。今日は「神様の人間と煩悩の人間」と題してお話します。

 「神様の人間」「煩悩の人」。題を聞いただけで、どんな目的があるか推測できる方もいると思います。神様の人間、煩悩の人。なぜ人間と人を分けるのだ、あるいは人間から人を切り離すのだと、怪訝に思う人がいるかもしれません。人間は神様の側にし、人は煩悩あるいは魔王の側にします。

 人間なら神様のもので、人なら煩悩のもの、あるいは魔王のものです。みなさん、聞いて人間と人という言葉を理解させる広い教えで熟慮して見れば、この世界の大きな問題は、ほとんどはあまり人間でなく、人であるだけの点にあります。だから私は、人間は神様のもの、人は煩悩のものと区別します。
  人間と人については、初めに、世界の人口の全部、あるいは世界のすべての人は、神様の人間の種類と、煩悩の人である種類がいると観察して見てください。世界中を見回して見ると、あるいは照らして見ると、この世界には神様の人間も煩悩の人もいると分かり、どちらが多いか、みなさん自身で推測できます。そしてある人は永遠に本当の神様の人間ですが、ある人はクルクル変わってばかりいて、ある人は一時神様の人間で、一時煩悩の人だと観察しなければなりません。

 そしてまだ永遠に煩悩の人であり、一度も神様の人間になったことがない人、あるいはグループもあります。試しに心でまだに見たことがない世界中を照らして見ると、この世界のある人は永遠に神様の人間であり、この世界のある人は永遠に煩悩の人で、そしてある人たちは一時神様の人間、一時煩悩の人と反覆を繰り返していると信じます。そしてどの集団が一番多いか、時には、自分はこの世界のどの種の人間か自分で分類することができます。

 次にもっと詳しく見るようお願いします。そうすれば問題点に近づきます。つまり一人の人物の中に、つまり自分自身、あるいは誰でも一人だけでも神の人と煩悩の人の両方がいます。時には一日に何回も煩悩の人になり、そして神様の人間は何回もありません。

 このように話すと、みなさんは「どの時間が煩悩の人で、どの時間が神様の人間か」何とか理解でき、少なくともぼんやりと理解できます。どの種類が堅固か、つまり私たちの神様の人間であることと煩悩の人であることのどちらが強いでしょうか。生まれてから今まで何をたくさん集めて来たか、どういうのをたくさん集めて来たかという意味で、それが堅固なものになります。

 良く見れば、自分が神様の人間である時は見事で、自分が煩悩の人である時は見苦しいと見えます。そして一人の人もこのように二種類が交替になっていて、「情緒不安定」という言葉と一致します。私が「情緒不安定」と言うと、話し手である私自身も聞き手を蔑む言葉と感じますが、なぜ、この「情緒不安定」は自分だと、自分自身を振り返って見ないのでしょう。

 自分が神様の人間の時は良く、自分が煩悩の人である時は悪く、同じ自分でも一時良く、一時悪い「情緒」の人で、その時によりけりです。これが私たちの「情緒不安定」で、一日で、一時煩悩の人になり、一時神の人間になります。「情緒不安定」は正しく、わざと謗るのでも何でもないと言います。しかし人はあまり認めず、精神不安定なバカみたいな人の話にしますが、そういうのは問題がなく、問題は多くありません。

 自分を正常と言う人は一日に何度も「精神不安定」があります。人間がこの問題を解決できれば、この世界は問題がなくなります。だから精神不安定は、今例外なく誰でも、田舎者・農民でも、商人、公務員、政治家、国王から皇帝まで、天界の天人まで患っていると、明らかに見てしまってください。

 人の歴史を読んで見ると、この世界の大皇帝も精神不安定で、一時鬱々と曇った不潔な心があり、一時正常で賢い心があり、皇帝でもこのようです。天界の天人もまだ憂鬱で、精神不安定で、一時死を恐れ、一時死を恐れず、一時思い通りになり、一時思い通りにならないので、感情が変化して精神不安定の話になります。

 これも「これらの人たちは時々煩悩の人、あるいは煩悩の動物になり、時々は神様の人間になる」と言います。だから精神不安定な病気は、誰でも患っていると見なしてください。つまり一時人間で、一時人で、このように交互になっていて、誰も例外はありません。まだ普通の凡人なら、あるいはまだ阿羅漢でなければそれだけ、いつでも必ず交互に精神不安定があります。

 それです。どうぞ理解して、今日の講義の主題、つまり神様の人間と煩悩の人は何の話か、それが直接私たちの、そして日常生活の話でなければどこの誰の話か、熟慮して見てください。だから非常に取り上げて話すべき話と見なすべきかどうか考えてみてください。

 今私は、私たちは精神不安定を患っていて、このように一時人間で、一時人であると主張します。そしてこの世界が神様の人間ばかりなら、この世界は途端に弥勒菩薩の世界になり、人が神様の人間になって煩悩の人を止めた途端に、弥勒菩薩の世界が生まれます。他の宗教の言葉を使えばいろいろですが、要旨は同じです。キリスト教式に言えば、神様の国が突然現れると言い、私たち式に言えば、無弥勒菩薩の世界になると言います。

 人間が正しい人間になること、神様の人間になることで、極めて望むべき状態、あるいは状況に到達し、そして力を合わせて、この世界に弥勒菩薩の世界、あるいは神様の国を作ると、どの宗教も要旨は一致します。だから神様の人間であることは、私たちが精一杯関心を持つべき話です。だから自分を煩悩の人の代わりに神様の人間にすることに精一杯関心を持つたせるために話します。

 さて次に「人間」と「人」はどのように違うのか明らかにするという題で話すことができます。中には「人間はこのよう、人はこのよう」と、私が勝手に言っていると非難する人がいます。本当は人間と人は同じもの、あるいは同じよう。それは、学校の児童が先生から「人間とは人です」と教わるような正しさです。ナラも人という意味、ジャナも人という意味で、何も違うと見えません。

 それは勉強を始めたばかりの小学生の話で、ダンマの話、宗教の話、哲学の話、あるいは児童生徒より高い何かの話は、かつて同じ言葉、あるいは同じものを意味すると理解していた言葉でも、私は違うものを意味しています。だから私は「人間」という言葉と「人」という言葉は、文字としても意味としても違うと観察するよう提案します。

 文字で言えば「人間」という言葉は、好んで「高い心がある」、あるいは「高い心がある人の子孫」と訳されます。人間とは心が高いという意味でも良く、高い心がある動物でも良く、あるいは高い心がある人の末裔、子孫と訳しても良いです。心が高い人の末裔子孫なら、高い心があるという意味です。

 次に「人」という言葉は「ジャナ」という言葉が基礎で、ジャナという言葉は生まれた、命が生じた、あるいは生まれただけでも人という意味で、一方の人間(マヌッサヤ)の、マナは心という意味で、ウッサは高いという意味で、それは文字でも違います。しかし私たちは大雑把に、タイ語では全部同じ「人」を意味します。マヌッサヤも人、チョンも人、プラチャーチョンも人、ブッコンも人、ナラも人、何でも人を意味します。

 だから賢くなくさせます。賢くないとはまだ何かは愚かという意味です。だから私たちにもっと利益を受け取らせる状態で、これらの言葉から利益を得るべきです。だから人間を人と区別して、あるいは人を人間と区別して「人間は高い心があり、人は生れただけ」と言います。これを、文字としてはこのようと言います。

 文字ではまだ確かでないので、私は本物、真実、つまり要旨、あるいはもう一段上の意味が欲しく、高い心があるという意味の人間という言葉は、ボーディ(悟りの智慧。菩提)がある動物、つまり智慧があり、知性があり、そしてボーディと呼ぶものの威力で成長している動物という意味、それが人間です。人間はボーディがあり、ボーディの威力で成長していて、一方人は煩悩が厚く、そして煩悩の威力で伸びています。

 一方はボーディの威力で成長し、もう一方は煩悩の威力で成長し、それで同じあるはずがありません。だから誰にとっても難しくなく理解できます。次に人間は高い心がありで、高いのはボーディがあるという意味で、そしてボーディの威力で経過し、こういうのを「人間」と呼ぶと短くまとめます。

 もう一方の人間でない普通の人は、生まれると煩悩が厚くなり、そして煩悩の成り行きになります。だからボーディが人間と人の違いを生じさせるもので、人間ならボーディがあり、人ならまだボーディがなくても構いません。

 次に「ボーディ」と呼ぶものは何かを見ます。ボーディという言葉は、文字では知識、危機を脱すことができる知性を意味し、そしてボーディと呼ぶものは心の元々の能力と見なします。つまりどの種の心もボーディの種があり、少なくとも初めに知るべきものを知り、それから少しずつ発展成長して難しいもの、深いもの、高いものを知ります。

 だからみなさん「私たち全員は自然からボーディの種をもらったが、私たちが蒔かないから、植えて成長させないから、反対に煩悩が成長する機会になる」と認めてください。私たちは生まれるとボーディを育てる代わりに萎らせ、煩悩に成長する機会を与えてしまうので、ボーディの種はあるのに、自然は与えたのに、ボーディがなくなります。本当のボーディは知性の話で、種を手に入れたら行動して訓練し、それらを明かにします。

 これをしつけなければならないものと言います。しつけしなければならないだけでなく、難しいものであり、しつけけるのが難しく、そしてそれは世界の流れに逆らう状態があり、世界の流れに対して順調でも、便利でも、滑らかでもありません。つまりこの世界は簡単な方だけを欲しがるので低い方へ落ち、これは世界の流れに逆らって、私たちが善と呼ぶ高い方へ行きたがります。

 これです。知性、あるいはボーディと呼ぶものはこのような状態があり、つまりしつけをしなければならず、困難と共にしなければならず、そして世界の流れに逆らうのを受け入れなければなりません。好きなように、煩悩が快適なように楽なものだけをすれば、ボーディの木が成長する機会はありません。

 ボーディと呼ぶもの、あるいは知性、これが人間を人間であるものにし、人間性を満たす域に到達させる「神様」と呼ぶことができる物です。ボーディがなければ、人間を成長させて人間性を満たす助けをする神様がいないのと同じです。人間が「神様の人間」になれるのは、ボーディと呼ぶものがあるからで、だから私は「ボーディは苦労して訓練しなければならない知性であり、最高になるまで世界に逆らい続けなければならない」と理解をまとめます。それが、人間を助ける神様として人間を人間にするものです。

 次に反対の煩悩とは何かを見ます。現代人が教えとして遵守できるように簡単に定義すると、煩悩とは生まれた時からずっと、ボーディが進化する機会を奪う、感情に対しての愚かさと言いたいと思います。煩悩とは感情に対しての愚かさで、次々にボーディの機会を奪ってしまう愚かさで、ボーディの代わりに現れ、代わりにどんどん進化、発展成長し、そして生まれてからずっとこのようです。これが短い言葉の定義です。

 説明は、私たちが母の胎からこの世に生まれると、私たちを取り囲む環境は、すべて愚かにする物、滅苦ができるかも知れない人間にする真実に対して愚かにするものばかりと見ることができます。

 美しいものは惑わせて美しさに惑溺させ、妙なるものは惑わせて妙なることに惑溺させ、芳しいものは惑わせて芳しいものに惑溺させ、舌の面の美味しさは惑わして食べること、舌の面の美味しさだけに迷う人にし、そして皮膚の面の美味しさ、皮膚の面の接触は惑わせて皮膚の面に迷わせ、そして気づかない間違った知識は、惑わせて間違わせて、俺の父、俺の母、俺の家、俺の金、何でも俺、小さな子供でも、何でも「俺のもの」と言うことを知っています。

 これは、取り囲まれ、あるいは騙され惑わされて、自分を取り囲むすべての種類の感情に対して愚かさを生じさせ、子供に、幼子に「形・音・臭・味・接触の話に迷ってはいけない。何かを俺、俺のものと捉えてはいけない」と教える人は誰もなく、いるのは俺、俺の話、目・耳・鼻・舌・体・皮膚の面の美味しさに迷わせるよう教える人ばかり、という意味です。

 これは両親でも何でも既に愚かであり、そして今も愚かなので、子を違うように教えることができないからです。次に子が生まれると、自分を取り囲むいろんな感情に対して愚かさを生じさせる環境を受け取るので、この愚かさが機会を得て知性の機会をことごとく奪うので、愚かさは発展し、ボーディあるいは知性は後退します。

 ここは、私たちが小さな子に勉強させ、学問をさせ、哲学や人間の最高の知識を学ばせるのは、反対に愚かにすると観察して見てください。つまり俺、俺のものの話に執着する方向の愚かになり、勉強すればするほどこの方向の愚かになります。つまりこの面の愚かになることに賢くなり、賢いのはこの面だけです。

 だから人間は神様の人間になれず、煩悩の人になり、陰でも日向でも、地上でも地下でも殺し合いや苦しめ合いをし、その結果今は、人間でも残虐な心があり、感情の奴隷で、感情に迷い、俺、俺のものの話がどんどん厚くなります。これが、煩悩とは何かという言葉の説明、あるいは意味です。

 要するに煩悩とは生まれた時からボーディが進化する機会を奪う、感情に対しての愚かさで、その結果はどのようか、自分で見てください。次に擬人的に話すと煩悩は魔王、あるいはサターン、どの言語で話すか呼び方次第で、仮定では煩悩は魔王です。他の魔王を見てはいけません。他の魔王はこの魔王、つまり現在まで進化の機会を奪う感情面の愚かさと述べた種類の煩悩ほど凶悪ではありません。

 この悪魔は二つの面を見ることができます。これはみなさんが聞いたことがある物と違うかもしれません。つまりみなさんは悪魔、あるいは煩悩と呼ぶものを悪い面だけで見がちです。そのとおりです。悪い話、あるいは苦を生じさせる、あるいは善を死なす話、これを悪魔と言います。

 しかし流れを変える反対の面を見るなら、悪魔はあるべきもの、あるいは創造神がいるなら、人間に悪魔を作ったのは人間の利益のため、人間を訓練して強くするため、課題や試練にするためと見なければなりません。だからこの愚かさは賢くする課題と捉えてください。愚かであったことがなければ賢くなれず、愚かさがなければ賢さに価値も意味がないので、愚かさは賢さを作る初歩の課題と捉えなければなりません。

 愚かさが魔王なら、この魔王は私たちを善くするために現れたと捉え、降参しないでください。もっと酷い愚か者になります。既に愚かで、更に愚かさに降参すれば、幾重にも愚かです。この愚かさは私を賢くするために生じたと考えてしまえば、愚かさは消えます。だから賢い人であるために、煩悩あるいは悪魔は私たちの課題、あるいは試練であり、「何としても学んで試練を過えなければならない」と別の意味で捉えて、愚かさの話に正しく対処してください。

 仮定で「彼、私」と話すなら、神様と悪魔は別々の話と考えないで、神様が人間を善くするために魔王を創ったと捉えてください。他人がどのように考えても勝手ですが、私たちは神様がサターンを創り、悪魔を創り、何かを創ったのは早く人間を善くするためで、サターンあるいは悪魔に愚かな人を虐めさせて早く賢くさせ、賢くなって道理が分かれば悪魔はなくなり、その後はサターンも何もありません。

 次に「煩悩あるいは悪魔、あるいは魔王と呼ぶものは、私たちを早く神様の正しい人間にするために、自然あるいは神様が私たちにくれた贈り物」とまとめてしまします。非常に混乱しているなら、悪魔は私たちを何としても勝たせるためだけにいるものと捉えてください。悪魔は何としても私たちを勝たせるためにいるもので、絶対に負けてはいけません。負ければ狂うか、死です。

 魔王に負けた人は狂い、ひどくなれば死ななければなりません。悪の側、低い側の感覚に負け、そして悪の側、低い側の感覚の威力で行動にすれば、それは狂人です。しかし非常に多くの人が狂えば狂っていると非難せず、良いことになる場合もあります。全員が狂っているからです。しかしダンマを基準にすれば、悪魔の威力で何かをする人は、どこにもどんな刑具もつけていない、悪魔に負けて狂った人です。

 狂気が酷くなれば死で、ここでの死とは善が死ぬという意味です。何も善が残っていなければ、死人と同じです。だからみなさん、悪魔は私たちが勝たなければならないもの、彼ら、あるいは自然が私たちに与えたのは、私たちに勝利させるためで、負ければ狂うか死です。これが煩悩と呼ぶものです。

 煩悩と呼ぶものをこのような状態で理解したことがなければ「煩悩はこのようで、煩悩は生まれた時から今まで、感情に対しての愚かさで、善を消滅させてしまう悪魔ですが、それは自分を、狂って死なない神様の人間にするために、私たちが何としても学んで合格しなければならない試験以外の何でもないと、今理解してしまってください。悪魔は何としても人間を勝利させるためにいるので、人間になりたい人は悪魔に勝つ決意をし、悪魔の威力下に陥ったままに、あるいは魔王に敗北したままにしてはいけません。

 これです。私は人間とは何か、人とは何か、そして神様について話しました。次は「神様の人間と煩悩の人」の話になりました。私は、ボーディあるいは知性を神様の本質と見なし、本当に高い心がある人間は「神様の人間」で、心が低ければ「煩悩の人」と見なします。まとめれば神様の人間は今ボーディと一緒にいて心にボーディがあり、心に神様の知性があり、その人はその時いずれかのレベルの清潔と明るさと静かさがあります。一時的でもまだマシです。

 人間は清潔と明るさと静かさがなければならず、一時でもまだマシで、いずれかのレベルでもまだマシです。それは全部ボーディの状態なので、これを「神様の人間」と呼びます。一方の「煩悩の人」は管理に欠け、本能のままにしている人です。だからその時その人は不潔で暗く、何か衝撃があってその人を暗くする時は焦燥します。「神様の人間」は今清潔で、明るく静かで、「煩悩の人」は今不潔で暗くイライラし、このように大きく違います。

 私は今日、比較してどんどんハッキリさせて明らかなものにするために、神様の人間と煩悩の人の人間について話しています。そして「神様」という言葉に大きな問題があります。それは理解が難しい広さと深さがあるからです。煩悩の人になりたくなければ、煩悩の話はしなくても良いですが、私たちは神様の人間になりたいので、神様の話をしてはっきりさせなければなりません。だからこれから話す神様についての知識、考え、話を我慢して聞いてください。

 「神様」という言葉は珍しいもの、特別な、あるいは素晴らしいもの、あるいは普通の自然より上のものと感じる人がいて、大抵そのように感じます。「神様」という言葉に慣れていないから、「神様」と呼ぶものを知る教えやしつけを受けていないからです。今私は「神様」も動物の本能の感覚で生じるものと話したいと思います。

 動物には本能、つまり誰も教えなくても自然に生じる知恵があり、これが本能で、教えてしつけなければならない知識と違う種類の知恵があります。「神様」は恐怖である本能、拠り所を求める本能から、気づかずに生じます。私の所の犬は何か怖があると、私の傍に駆け寄って来ます。これを「拠り所を欲しがる本能の威力で経過する」と言います。つまり拠り所を欲しがり、それが神様です。

 人間が何かを恐れると拠り所を求めるので、知性で、あるいは愚かさで考えられる何かを思い出し、何かに期待し、どんな考えがあってもそれを拠り所にしなければなりません。だから「神様」あるいは最高のものと呼ぶものは、恐怖があって拠り所を欲しがる動物の本能で生じます。神様を最高のものと考えないでください。創ったのはこの人間です。

 人間に恐怖が生じると拠り所が欲しくなり、拠り所として何かを掴む、それが神様です。次に神様も違いがあり、本能から進化した人間の知性に応じて次第に高くなりますが、初めの出発点は恐怖と拠り所を欲しがる本能です。だから神様は本能の威力で生じたと見なします。神様は、私たちが本能で、危険を避ける本能で知ること感じることができる物です。私たちに危害を避ける本能がなければ神様を知る機会、あるいは希望はありません。

 だから危険を避ける本能に依存して、何らかの方法でその危険を避ける努力をします。そして逃れた分だけ、自分にとって神様になります。危険を避けられた分だけ、自分にとって神様が生まれ、つまりそれだけ自分を助けられます。広い言葉として話すと、人間がまだ動物あるいは動物に近い時から少しずつ人間になり、最高の人間になり、そしてその先の終わりのない長い未来まで、私たちは神様を知る道具として、この危害を避ける本能に依存しなければなりません。

 神様は危険から逃れるよう、危険を避けさせ私たちを助けるもので、危険を脱した分だけ神様を知るからです。このように神様を知ってください。それは本当の神様であり、そしてスタートでもあります。この種の神様を知れば、その後どの民族、どの言語の規定次第で非常にたくさんあるすべての種類の神様を知ります。

 さて次は神様を分類して見て、自慢したいと思います。初めから人間が恐怖、拠り所を探し、生き延びる本能で神様を創ったと自慢しているので、この人間が、神様を部類別に知るために神様を分類して見ます。神様の最初の部類を見ると、それはすべての人の常識の感覚の神様で、この常識は本で学ぶ必要も、誰かを信じる必要もありません。

 善人も悪人も、誰でも常識の感覚があり、時には善人と悪人とが一致することもあります。しかし悪人は管理ができず、常識である感覚にも背くので悪をします。腹と口のことしか考えないから、あるいはそのような物しか考えないからです。しかし内心では「善いもの、本当のもの、素晴らしいものはこのようではない」と感じていることもあります。

 その人が管理できなければ、あるいは管理できた分だけで、その人はそれを満足できるものとして終わらせて神様にしていまいます。だから私たちには異なる常識による神様がいます。

 初めに貨幣の神様と呼ぶようなのを見ます。今お金は何でも援けることができるという常識があるので、それが愚かか賢いかはさておき、ほとんどの人が「お金は何でも助けることができる」と信じているので、お金は神様です。何でも助けることができるので、お金を最初の神様として崇めます。つまり貨幣は私たちが欲しいものを買い求める威力を意味し、紙でも何の金属でも貨幣と呼び、私たちが欲しいものを買い求める威力があり、たくさん持っている人はたくさんの物を買い求める権力があり、たくさん助けることができると言います。

 そして自分には貨幣の神様がいるか、神様である貨幣があるか、自分自身を調べて見ると、時には今でも、今の状況でも、ほとんどの人が貨幣を神様と信じ、特に物質主義者は貨幣を神様と信じ、他の神様を知りません。そして私たちも時により場合により不安定で、物質主義者、煩悩の人になります。私たちは貨幣を神様と見なさなければならず、気づいて恥ずかしくなるまで、しばらく貨幣が神様になります。率直に言えば、このように言わなければなりません。

 次の神様は自分が愛している、自分が好きな、自分が満足しているもので、彼らは「最愛の彼、最愛の彼女」と言います。女性、男性という意味で、それ以上に良いものは何もないので、この言葉を話します。これも愛で何かを愛せば途端にそれが神様になり、他の神様には見向きもしないので、その時自分が最高に愛しているものが自分の神様です。これも常識による神様の一つで、誰も他の神様のことを考えず、この神様に自分の全身全霊を捧げます。

 人は振り向いてブッダを訪ねるより、むしろ振り向いて恋人を訪ねると、ちょっと下品に話したいと思います。彼らは「ブッダがお越しになっても興味がなく、先に自分の恋人に会いに行く」と言います。愛の威力、迷いの威力で生まれた神様はどのようか、大きいか小さいか、多いか少ないか、比較して見てください。これも常識での神様、本当の神様です。

 まだ別種の神様がいます。私たちは恐怖の本能があり、恐怖に支配されると自分が恐れているもの以外は何も知らないので恐怖から脱出したいと願い、恐怖を減らすことができると感じさせるものなら何でも受け入れます。だから私たちは神様を知らず、神様を見たことがないのに、自分が恐れるものとして神様を崇めます。世界のほとんどの人はこの種の神様を信じますが、形式だけです。

 彼らは神様を見たことがなく、神様を知ることができませんが、恐怖があるので恐怖を減らしてくれる儀式をしなければなりません。だから恐怖を減らすために各種の呪術、祭祀の儀式、祈願様式があります。そして一度も姿を見たことがなく、顔を知らなくても神様はいると仮定し、そのように信じて祭って祈願します。

 だからこの種の神様は私たちが恐れる人、あるいは恐れるもので、姿を知らず見たことはなくても、祈願はどこにでもあります。「幽霊神」あるいは「幻神」、そのような神様と呼ぶ方が正しいです。姿を見たことがなく姿を知らないのに、恐怖の威力で形式的にします。このような神様も最高に人間の心を支配しています。

、  次に、もう一種類の滑稽な、そして本当にいる、特に現代、つい最近の神様について話したいと思います。どの種の神様と呼ぶか、みなさん自分で名付けて見ると良いです。現代人が最高に耽溺しているものは、自分の要求どおりの利益をもたらす仕事です。ある人が、本人の経験ではありませんが話して聞かせてくれました。その人の友人の一人は日本人の若者で、適度に親しくなると、あなたは何の神様、あるいは宗教を信じていますかと聞きました。

 その日本人の友達は「日立の神様」を信じていると答えました。その人は日立で働く高給取りの技術者で、株式会社日立が養っているからです。その会社が養わなければどのようか、つまりする仕事がありません。表情と口調を観察すると、その人は他の宗教がないと、日立の神様以外に他の神様は本当にいないと感じました。日本製品、日立のブランドは非常に行き渡っていて、たくさん仕事ができ、その人は神様と見なしています。

 この種の神様はどの種の神様か、みなさん、自分で名付けて見てください。初めに述べた貨幣の神様以上です。貨幣の神様はどこにでも昔からあり、何千、何万年かもしれませんが、日立の神様は生まれたばかりで、非常に強く、あるいは今最高に沸騰したばかりです。だからどの会社、どの仕事、どの機構、どの政治家、どの政党に身を捧げている人も、きっとそれを神様にしています。これが新しく生まれたばかりのホヤホヤの神様で、このような部類ができました。

 これは十分な見本です。話してもキリがありません。心に自然に生じる常識の神様はこのようで、誰にこの種の神様がどれくらい、どのようにいるか、自分で調べて見てください。さて、誰も強制できない常識の感覚から生じる神様の部類については十分です。

 次にもう一種類の神様、つまり宗教の教えによって規定された神様です。宗教と呼ぶものは広大で深遠で、話し切れませんが、人間より威力があるものに集約できます。宗教で規定された神様は、その宗教の信頼による最高の威力があります。宗教の規則で規定された神様もたくさんあり、プラプッダ、プラプラタム、プラソンなど簡単に見えるものだけを取り上げます。

 これも神であるブッダ、神であるプラタム(法)、神である僧という言葉を略して、プラプッタ、プラタム、プラソンになり、これも神様と呼び、どれも愚かなのと愚かでないのがあります。このプラプッタ、プラタム、プラソンを信じる人は愚かな人も愚かでない人もいます。しかし愚かでも愚かでなくても勝手で、霊験や神聖さの形、あるいは知性で信じれば、どれも神様の形の中にあります。

 愚かな人は愚かさで全身全霊で信じ、知性があれば、明らかに見える知性があるので全身全霊で信じます。だからプラプッタ、プラタム、プラソン、これが愚かな人も愚かでない人も、つまり本当の仏教教団員と本当でない愚かな仏教教団員も、すべての仏教教団員の神様、あるいは創造主の形をしています。

 プラプッタ、プラタム、プラソンはどのような神様か、ここで私が説明する必要はありません。それは時間が掛かるので、別の機会に説明して理解しても良いです。しかし私は今、プラプッタ、プラタム、プラソンに全身全霊を捧げ、他の神様は援けることができないすべての苦から脱出させる援けをする最高のものと信じるとまとめます。

 だからプラプッタ、プラタム、プラソンを規定された神様と呼びます。一般に規定したものですが、中には誰も規定してくれる人がいなくても、自分の心で知る人もいます。しかし最初には人が規定したこれらの神様を先に信じます。

 次の神様は、大昔からのタイ語で規定された神様という言葉で、この大昔という言葉は、タイにキリスト教も他の宗教も入って来る前から、タイ人は「神様」という言葉を使っていていたので、神様という言葉は新しいものではなく、キリスト教が持ち込んだのではないと言及させていただきます。タイには以前から神様と呼ぶものがあり、タイ語の中で規定して使っていたからです。

 ただの神様という言葉は、昔の法律書ではブッダを意味し、王様を意味し、僧を意味することもあり、昔はキリスト教のような神様を意味しませんでした。キリスト教より前にタイに入ってきたので、私たちにも「神様」という言葉があり、話し言葉として使っていました。だから彼らが意味していたものは、宗教あるいは文化の言葉の規則で規定した神様でした。

 他にも彼らが様々な文字で規定した神様があり、神々、あるいは特別に神聖なもの、呪術の話、神霊学、その学問としてだけ規定したもの、私たちはこういうのを彼らに同調して受け入れました。私たちはまだ愚かだったので、プラプッタ、プラタム、プラソンを神様として信奉していながら、雷同してに彼らが規定した呪術面の神様を受け入れました。

 これはしっかりした基礎のない人で、ぼんやりした恐怖があると、ぼんやりと神様を行け入れ、全部受け入れました。仏教教団員であり、プラプッタ、プラタム、プラソンが最高の神様であっても、それでもまだおかしな呪術の神様を受け入れました。これも彼らが規定した神様を信じると言います。自分自身の常識の感覚でなく、他人の愚かさに同調しただけです。

 次にもう一種類規定した、深遠な、あるいは深遠そうな神様がいます。つまり哲学原則に依存する神様、あるいは宗教の教えが直接規定した神様です。仏教でも、あるいはどの宗教でも、この世界を生じさせ、あるいはこの世界を維持あるいは変化させ、あるいはこの世界を消滅させるものがあるという、確実不動の規則があります。

 仏教も「この世界が自然に生じることはない。それを生じさせ、維持させ、変化させ、そして消滅させる何かの原因と縁がなければならず、それはある」と信じる教えがあります。次に哲学面では、宗教と科学とその他周辺のいろんな物を学んで、自分の理由としてまとめれば、この世界を創り、この世界を管理し、あるいは最後にこの世界を破壊して終わらせるものがなければならないという考えがあります。

 だからこれを神様と規定し、世界を創る義務があり、世界を管理する義務があり、そして一度世界を破壊する義務がある神様にしました。これが哲学面、あるいはダンマの面、あるいは最高レベルの宗教の規則で規定した神様です。

 これらのものは、永遠の神様の基礎にできます。みなさん、本当の神様の基礎は、この世界は作ったもの、あるいは管理しているもの、あるいは破壊するものがなければならないという教えから来ていると、良く規定してください。それが人でも動物でも、あるいは物か何か分からなくても、それは確実にあります。

 次に人物であると信じる人たちは、神様と呼ぶ動物、人物、姿が見えない何かがいると信じます。ヒンドゥー教のブラフマなどは世界を創った人である神様で、世界を支配している神様はヒンドゥー教のナラーヤナ神で、そして時々世界を破壊する神様であるヒンドゥー教のシヴァ神がいます。言葉を聞き取れないで早とちりすれば、そのような人がいると理解し、そして信じたり信じなかったりで、信じる人も信じない人もいます。

 次に人を取り出してご覧なさい、問題はなくなります。つまり人を取ってしまったブラフマ神・ナラーヤナ神・シヴァ神に残っているのは、誰も知らない何かの威力だけで、何かを創る威力があり、いろんな物を支配する威力があり、そして時々いろんな物を潰す、あるいは消滅させる威力があります。

 このように話せばこれも真実で、現代の科学もこの考えに、つまり世界を創り、世界を支配し、そして時々世界を潰してしまい、そして新たに創る、私たちが知らない何等かの威力があるという考えに反論できません。これが神様の本当の基本です。仏教は一つの名前を付け、科学では別の名前を付け、ヒンドゥー教では愚かな人のためにブラフマ神・ナラーヤナ神・シヴァ神と呼びます。

 賢いヒンドゥー教はそのように呼びません。ヴェーダーナタのような賢いヒンドゥーは別の呼び方をし、何らかの神聖な威力であり、庶民にはブラフマ神・ナラーヤナ神・シヴァ神と呼ばせますが、本物は、それらの人に話して聞かせることができない別のものです。まだ愚かで聞いて意味が分からないので、ブラフマ神・ナラーヤナ神・シヴァ神と名付けましたが、その三柱の神様が何なのか後で知ります。これです。宗教の教え、哲学、あるいは科学で規定された神様はこのようでなければなりません。

 さて次は、私は必要のない話をして時間を無駄にしたくないので、必要な話だけをします。私たちは自分にとって利益のある種類の、そして本当にいる神様がなければなりません。必要のない種類、あるいは低すぎる、子供っぽすぎる神様を止めてしまわなければならないので、止めてしまいます。貨幣の神様などは、今は非常に恥ずかしく、止めてしまうに十分なので、神様にしません。

 恋人、恐れるもの、あるいは日立の神様、こういうのを私たちは神様にしません。私たちにはプブッダ、プラタム、プラソン、あるいは神々、あるいはブラフマ神、ナラーヤナ神、シヴァ神がいるので、正しい解釈、つまり何かを本当に創り、支配し、消滅させる威力があるものにします。

 本当の、到達できる意味だけにする方が良いので、二種類に分類しなければなりません。話してあのような、このような人物にしなければならない種類の神様を「擬人的な神様」と呼び、こういうのはまだ賢くない人のためで(このように話すのをお許しください。愚かな人は怒ります)、ほとんどの人はまだ賢くないので、天国の人物である、あるいは神様の世界の、その方の宮殿か何か中にいる人物である擬人的な神様がいなければなりません。

 怒ることも愛すこともできる人物で、何かこのようにご機嫌をとらなければなりません。擬人的な神様は、愚かで難しいことをするのが好きでない人、あるいは愚かで難しいことができないので、簡単なことをしたがる人のためにあります。つまり信じて、それから儀式的にし、悪行をしなければ神様に気に入られるので、善行をしなければなりません。

 本当の神様は人間に善行をさせたがり、人間に悪行をさせたがるのは神様ではありません。神様から外しても良いです。まだ神様なら人間に善行をさせたがるという意味で、儀式的でも善行をする点に意味があります。だから神様を信じるのはこの点が安全です。いずれにしても善行をしなければならず、そして自助努力をし、それから神様が援けます。

 それは擬人的な神様であり、解釈をしなければならない物として本当にあり、仮定で人物と話しておき、もう一度事柄として解釈しなければなりません。次に私たちは人物である神様を払い捨ててしまい、ダンマであり、抽象であり、事柄として述べる神様にします。

 今私は、事柄として見る神様について話しています。みなさん良く聞いてください。そこに利益があるからです。あるいは本当に助け合えるのもここにあり、本当にあり、本当に到達し、何でも本当はここにあるからです。事柄としての神様、つまり人物に注目しないでダンマ、あるいはプラタムに注目する神様です。

 次にプラタムという言葉の最初、ダンマと言う言葉の意味として最初のものは自然です。だから私たちは本当の神様として自然に注目しなければなりません。自然に注目するには四つの部分に分けなければなりません。一つは本当の自然そのものが一つ。つまり自然として現れているすべての現象が一つ。二つ目はその自然の中にある自然の法則。これは、その自然の中にあるいろんな規則、法則、決まりを意味します。

 三つめは、人間が自然の法則に従って行動しなければならない厳格な義務。最後の四番目はその義務を行ったことから生じる結果。これが自然の義務を行った結果で、このように四つ揃えば完璧な自然と呼びます。つまり例外なく何も残さないすべてです。

 基本として神様という言葉を使う宗教は、「神様はすべて」と言います。神様は例外なくすべてであり、私たちの仏教でこのように自然を基準に話せば、それもすべてであり、自然、自然の法則、自然の法則に従った義務、そして自然での結果を合わせた四つ、これがすべて、人間が知っている、そして話すことができるすべてです。この四つが仏教の基礎でもあります。

 すべての自然をサバーヴァダンマと言い、自然の法則をサッチャダンマと言い、自然が強制する義務をダンマと言い、そのダンマはなければならない義務という意味なので、つまりパティバッティダンマで、そして生じる結果、徳、罪、善、悪、地獄天国、あるいは聖向聖果涅槃でも、これらの結果をヴィパーカダンマと言います。

 だから仏教には自然に関わる法則、四つ全部が揃っています。自然も、自然の法則も、自然の義務も、自然に従った義務も、全部合わせて、短く一語で「ダンマ」、あるいは「ダンマチャーティ(自然)」と言います。仏教が使っているパーリ語では、これが「神様」です。この四つを全部合わせると、これが神様で、それ以上の何でもありません。

 神様とはすべてで、つまりこの四つを合わせたものです。そして私たちに一番関係がある神様は、自然の法則に従って正しくしなければならない義務です。そしてそれは、私たちに関わらせるための自然があり、何も自然がなければ、私たちは生まれることができず、何もできません。

 私たちの身体は自然で、土、水、火、風、世界を構成しているいろんなものは、この自然です。自然はこのような基礎の自然がなければならず、そしてその自然の中に規則があります。それに出合えればそれを実践することができます。たとえば身体に関わる自然の法則を知れば、体に対して正しく実践できます。私たちは世界にあるすべての物に対して実践できます。次に私たちは、自分が行動した善悪正誤多少に応じて、神様が与えるのと同じ結果を受け取ることができます。これが最高に厳格な、そして本当にいる、私たちの血肉の中にいる神様です。

 自然の法則は私たちの血肉の中にあり、すべてを支配し、この心身は神様の指揮統括でそれの義務を行わなければならず、そして神様から賜る結果が生じます。だから私たちは全身が神様です。他の人も同じで、この世界に集約されるすべてのものは、すべて身体である神様がいると言います。

 だから私たちの中に身体としてあると言うほど本当にいる種類の神様を見てください。これがダンマである神様で、このようです。それは人物である神様と違います。天国の宮殿にいる人であり、どこにいるか述べることができない神様、それは仮定で話して人物にします。

 今私たちは、自分の体の中に世界を創り、世界を支配し、あるいは時々世界を潰す威力があります。「世界」というものを正しく知っていれば、ブッダが「世界も、世界を生じさせる原因も、世界の絶滅も、世界の絶滅に至らせる道も、如行はこの背丈二メートルばかりの身体の中に規定しました」と言われたのと同じです。

 ブッダは、生きている人の身体の中と言われ、死人ではなく、生きている人でなければならず、生きている人には世界があり、世界を生じさせる原因があり、世界の消滅があり、世界の消滅に至らせる道が揃っていなければなりません。一人の生きている人の中に、創る人、支配する人、破戒する人、すべての種類の神様が全部揃っているという意味です。

 だから私たちはこの隠された不思議な威力を知るよう、学んで熟慮して知ります。生じさせる威力、しばらく維持させる威力、すべてのサンカーラダンマが新たに生れるために消滅させる威力。すべてのサンカーラダンマという言葉を知らないほどお寺に来るのを怠けていれば聞いて意味が分からず、救い難いです。サンカーラダンマという言葉を普通に知っていれば、聞いて簡単に分かります。

 サンカーラダンマとは変化させる原因と縁があり、そしてその原因と縁で経過している自然です。原因と縁によって生じ、原因と縁によって維持し、原因と縁によって消滅していく、これをサンカーラダンマと言います。サンカーラダンマを生じさせる威力もこの身体の中にあり、サンカーラダンマを維持させ、変化させる威力もこの身体の中にあり、別のものを新たに生じさせるために一つのサンカーラダンマを消滅させる威力もこの身体の中にあります。

 何の秘された威力と言うか知りません。すべてのサンカーラダンマを生じさせ、維持させ、消滅させる威力は、話すことができません。次にこのサンカーラダンマを生じさせる威力は世界を創る人で、サンカーラダンマを一時維持して変化させる威力は世界を支配する人と呼び、サンカーラダンマを消滅させて新たに生じさせる威力は世界を破壊する人と呼ぶので、世界を創造し、世界を支配し、世界を破壊する神様がここにいます。

 あるいはブラフマ神、ナラーヤナ神、シヴァ神もここにいます。サンカーラダンマを創る義務をし、サンカーラダンマを支配し、あるいは時々破壊する義務を行っている威力の所にいます。このようなら、私はサンカーラの発生、サンカーラの維持、サンカーラの消滅を生じさせる一つの神秘なものを神様と呼びます。

 さっき私は「自然」という言葉を使い、自然、自然の法則、自然での義務、自然での結果が神様と話しました。今、私も何か知らない、しかし彼らが「ダンマ」と呼ぶ、生じさせ、維持させ、消滅させる神秘的な威力、これも「自然」と呼ぶので、それも自然です。この威力が、理解できない不可思議で神秘的な特別の威力でも、それは自然です。これです。創り、支配し、破壊する義務を行う非常に神秘な威力である神様は。これで二種類になりました。

 次は最後の種類である本当の神様、つまり自分自身について述べます。自分自身も述べているような神様、つまりこの自分の中にあるサンカーラダンマは、それにも自然の法則があり、創り、支配し、破壊する状態があります。次に最高に善く訓練すれば「アッター ヒ アッタノー ナーター=自分は自分の拠り所」というブッダバーシタ(ブッダが説かれた言葉)があるように、他のものでなく、自分自身が自分の拠り所になれます。

 この「自分」とは、愚かな自分ではありません。生まれたばかりの何も知らない自分は、取り囲む感情に対して愚かで、そのような自分は使い物になりません。良く訓練し、良い教育をし、十分経験した、自然に到達した自分、自然の法則の威力がある自分でなければなりません。自然の最高の威力が良く訓練したので、何を欲しがることもできます。

 この良く訓練した自分は何でも欲しがることができ、聖向聖果涅槃を欲しがることも、何を欲しがることもできます。どうぞ良く訓練した自分にしてください。それだけで、お金も名誉も、どんな幸福も欲しがることができ、聖向聖果涅槃を欲しがることもできます。ね、自分は本当の神様です。本当の神様であるだけでなく、いつでも自分の身体の中にいる神様で、他には何もいりません。

 本当の神様、つまり援けることができ、そしていつでも私たちと一緒にいる神様です。つまり自分自身が神様になってしまいます。何でも、初めから終わりまですべての方向で良く訓練した自分、これが神様です。

 続いてもう少し、どうすればこの種の自分、あるいは神様が生まれるかを思わなければなりません。私たちは神様の人間になりたいからです。次に繰り返し復習して考えると、神様の人間になりたいなら、自分に進歩があるように、あるいは最高の発展成長があるように訓練しなければならないという軌道に合わせます。

 自分が神様の人になり、自分の神様がいて、神様に至り、神様と一緒にいられるには、人間であることの最高点に到達するよう自分を訓練すること、つまりダンマがあることです。プラタムがあるだけで、この自分は最高の状態に至ります。

 ダンマがあるので美徳があり、能力があり、あるいは何でも自分を助ける力があり、何でも欲しがることができ、そして恐れなければならないことは何もなく、恐れるため、問題になるために残っている物は何もなく、求めるべきものを求めます。何を欲しがるべきかという問題があり、欲しがるべきものはすべて欲しがることができ、聖向聖果涅槃でも可能です。

 この種類の自分が欲しければ、あるいはこの種の神様が欲しければ、どのように実践しなければならないでしょうか。それは、神様に従って実践しなければならないと、中らずとも遠からぬ答え方をします。つまりこの人が神様に従って実践するためにある規則でします。仏教では正しく実践しなければならないと言います。

 ブッダは短く「すべての比丘が正しく暮らせば、世界に阿羅漢は欠けない」と言われています。「正しく暮らす」という簡単な教えで正しい生活をします。これはハッキリした良い言葉ですが、隅々まで見えない人もいるので八つの正道に分けなければなりません。

 私たちが八支の道と呼ぶものは、考えや見方の正しさを正しい見解と呼び、望みの正しさを正しい望みと呼び、話すことの正しさを正しい言葉と呼び、体の面の仕事の正しさを正しい業と呼び、生活の正しさを正しい職業と呼び、終わりのない努力勤勉、ひたむきさの正しさを正しい努力と呼び、常にサティを維持する正しさを正しいサティと呼び、いつでも最高に強い気力がある正しさを正しいサマーディと言います。

 合わせて八つの正しさは実践面です。これが私たちを神様の人にし、神様を持ち、神様に至り、そして神様と一緒にいるための道、あるいは実践の道で、神様に従って実践すると言います。神様はそのようにさせたがるからで、そのようにさせたがらない神様は、神様から外しても良いです。神様と見なすことはできません。

 近道、あるいはコツと言う、近道できる実践原則である短く簡単な言葉があります。自分が自分を「他人の人」にしてしまう実践で、自分の人でなく、自分の自分でなく、自分のためでなく、自分のことばかり考えません。自分を忘れてしまうようなもので、自分自身のことを思い出す必要はなく、脇目も振らずに他人の利益だけを目指します。

 食べる物がなくなるとびっくりしないでください。それは愚かすぎます。他人の利益だけを目指せば、食べるご物がなくなるとびっくりするなら、それは物事を大雑把に見すぎる人です。本当に全部他人の利益なら、食べきれないほど食べる物があります。そのように挑戦させていただき、説明しはしません。

 「他人の利益を成すことだけに夢中になっていれば、ご飯は食べきれないほどある」と、ブッダを証人として証言させていただきます。だからみなさん、自分の利益を考えるのを忘れ、何時でも他人の利益だけを考えてください。そうすれば自動的に八つの正しさが生じ、そして神様が望まれる種類の実践になります。

 要するに神様は、すべての人が自分を忘れ、他人のことだけを考え、他人にとって利益であることだけをするよう望まれています。そして全員がそのようにすれば、誰でも食べきれないほど食べ物があります。これを「人間が煩悩の人を止めてしまい、神様の人になる方法」と言います。煩悩、サターン、魔王の人にならないで、神様の人間におなりなさい。

 残っている最後の言葉は「自分がブッダになってしまう」だけです。述べたような教えで実践できれば、つまり煩悩に勝利した自分がいれば、先ほど説明したように、私たちが神様になってしまいます。これは自分自身で神様になります。良く訓練し、良く練習し、最高に進歩すれば「身勝手な自分を出してしまい、煩悩に勝利し、煩悩である自分に勝利した」と言い、「勝利した自分がいる」と言います。

 この種の自分は、俺、俺のものという執着がなく、何かを生じさせる煩悩がないので最高の自分であり、何を欲しがることもでき、聖向聖果涅槃のような幸福を欲しがることも、望みどおり得ることもでき、「自分と他人のために、何でもするべきことができる自分」と言います。これが本当の神様で、その後何も問題は残っていない自分です。

 その段階に至らなければ、人、あるいは人間であるための問題が残っていますが、自分が自分に勝つ段階まで行けば、煩悩に勝てば最高で、自分であるダンマがあり、ダンマである自分があり、自分はダンマであり、ダンマは自分であり、俺でなく、俺のものでなく、自然、あるいは自然の物になってしまいます。今自分のための利己的な考えのない心があります。これを「価値的に最高で、能力的に最高で、どの面でも素晴らしさにおいて最高」と言います。

 これを私は「みなさん全員が神様になってしまう」という言い回しで話します。そして神様であることは全部同じで、どの体の中にあっても正しい人間なら全部同じ人間で、「煩悩がない人間は全部同じ」と言い、「自分であるダンマがあり、ダンマである自分がある」と言います。それが神様です。だから神様は自分、自分が神様です。つまりダンマである自分です。煩悩の人であることは残らず消滅します。

 みなさん良く復習してください。神様の人間と煩悩の人はどのような違いがあるか、持ち帰って明らかな理解、ハッキリした理解にすれば、煩悩の人であることから自分を引き離してしまい、神様の人間になることは最高に簡単です。力を合わせて一瞬でこの世界を弥勒菩薩の世界にするのと同じ結果があります。

 政治の話、経済の話、悪い事を起こす話、あるいは今世界中にある問題は必要ありません。それは神様への反逆なので、神様を信仰しないで煩悩を信仰します。煩悩の人を神様の人間にするだけで、問題はなくなります。

 今世界の問題は、神様の人間がおらず、いるのは煩悩の人だけという点で止っています。だからどんなに良い知識も利益がありません。どんなに良い計画がどれだけあっても、計画通りに実践する善人がおらず、いるのは煩悩の人ばかりだからです。

 良い計画を提案しても、その人自身の個人的な利益のためにするので、知識がどんなに良くても、計画がどんなに良くても、人にとって、あるいは国にとって利益はありません。神様の人間が欠乏し、いるのは煩悩の人だけだからです。

 それはこのように重要です。この世界が危機を脱して人間の世界のように暮らすには、この点を解決しなければなりません。そうでなければ、永遠に煩悩に満ちた人の世界になります。

 時間になりましたので、これで講義を終わらせていただきます。




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