2.今ここでの涅槃と死ぬ時の涅槃



1971年1月16日

   ダンマにご関心がある善人のみなさん。今日は生老病死の友として、つまり率直に簡潔に話します。これを生老病死の友として話すと言います。

 なぜこのような講義をしなければならないか、前回も話しましたが、今日もう一度「仏教教団員にふさわしく何も知らない、地に落ちている仏教教団員の面目を取り戻すため」と、繰返させていただきます。

 その結果、他の宗教に対して恥であり、そして自身は愚かで、仏教教団員と自称しても、仏教から利益を受け取りません。この問題を解決するために、この種の講義を計画しました。このように理解し、そしてみんなで問題を片づけるために多少の困難を我慢してください。何かを成功させるためには多少は忍耐をしなければならないのは当たり前です。

 今私たちはすべての仏教教団員共通の問題があり、この国だけでなく、タイだけでなく、世界にいるすべての仏教教団員がまだ愚かで、仏教教団員と言う名前にふさわしくありません。ブッダとは知るという意味、目覚めるという意味、明るいという意味で、愚かな部分はありません。愚かな部分があれば、気づいてもいなくても、仏教教団員の意味はありません。

 前回私は「常に私たちと共にいるブッダ」について話したので、今日は「現生での涅槃」と題してお話します。みなさんしっかり聞いてください。これから「現生での涅槃と死んだ時の涅槃」という題で話します。

 最初は「涅槃」という言葉、あるいは涅槃と呼ぶ物について思わなければなりません。涅槃の話を取り出してしまえば仏教は意味がないと知っておかなければなりません。涅槃の話一つだけを取り出してしまえば、仏教の意味はなくなり、仏教でなくなると、よく聞いて、よく考えてください。

 果肉を全部抉り出してしまった果物のように皮しか残らず、食べられる物は何もありません。多少利益があれば干して乾燥させて薪(たきぎ)にしますが、薪にもならない種類もあります。仏教も同じで、涅槃の話一つ取り出してしまうだけで、残っている肉はありません。だから涅槃の話に興味がないのに仏教教団員と自称する人は、どれほど愚かでしょうか。

 仏教支援者と善人のみなさん、涅槃に関心がなければ、鶏を飼って卵を犬に食べさせるようなものです。鶏を飼って卵を犬に食べさせ、自分で食べない人はどういう種類の人か、説明する必要はありません。誰でも聞いて分かります。しかしそれよりもっと悪いことがあり、自分は反対に鶏の糞を食べます。鶏の糞、鶏の羽、あるいは何でも食べます。

 それはもっと恥ずかしいです。それは涅槃に興味がない仏教教団員と同じです。状況はそのようになります。だから何としても涅槃の話に関心を持ってください。関心を持てないのは、「関心を持つ必要はない」「関心が持てない」、あるいは何かそのように誤解しているからです。しかし涅槃に関心がなければ、鶏を飼って卵を犬に食べさせる人になると、つまり仏教は皮だけで肉はないと思ってください。

 仏教教団員の中には、涅槃を真実と違う理解をしている人がいます。仏教教団員のほとんどが、涅槃を、天国という意味の身体的な楽しさ美味しさ、あるいは最高の欲情を与える物と理解しています。このように理解している人も多いです。何の徳を積むにも涅槃を手に入れるためと決意し、そして涅槃はそのようと考えます。

 これは寝ぼけて寝言を言い、覚めていても夢見ている人で、滑稽です。涅槃の話に一心不乱に関心をもっていますが、涅槃を誤解し、欲情の話、あるいは欲情の頂点の話になってしまうことがあります。

 中には涅槃の時を間違って理解する仏教教団員もいます。死んだ後何百生も何千生もしてから涅槃しなければならないという意味です。何万生も輪廻して、それから涅槃します。これは「涅槃の時を誤解する」と言います。これも気づかないで愚かになり、気づかないで自分を騙し、今は休まず清涼剤を使い、それは良いに違いないと信じ、そして願い、望みます。

 これを涅槃の時を誤解すると言います。涅槃は死んだ後何百生、何千生も後ではなく、現生でなければなりません。そして正しい涅槃を理解しなければなりません。つまり涅槃は涅槃で欲情ではありません。

 涅槃を欲しがらない仏教教団員は、気づかないで嘘を言う人です。どんな理由で涅槃を欲しがらなくても、他の物を欲しがっているのに自分を仏教教団員と言います。こういうのは自分が仏教教団員であることに対して裏切りで、あるいは自分の理想に嘘を言う人で、使い物になりません。その人も口で言うだけの仏教教団員、あるいは登録しただけの仏教教団員です。

 仏教教団員の中に「今はまだ涅槃は要らない。死んだ後十生、百生、千生先にする」と先送りにする人がいるなら、これは鶏を飼って、卵を産むと潰してしまい、後何生後に涅槃すると望んでいるように産む度に潰してしまって、「何万生後に卵が欲しい」という人に譬えなければなりません。その人の生は、一度棺に入ることを一つの生と言います。

 仏教教団員の中には、涅槃は自分たちには不可能だから望むべきでないと理解する人たちもいます。いなくはありません。そして「そっとしておきましょう。興味を持つ必要はありません。私たちには不可能です」と誘い合います。例えれば卵管を閉じてしまって卵を産ませない、あるいは卵管を縫ってしまって卵を産めなくしてしまうようなもので、結局その鶏は死んでしまいます。

 不可能と考える人がいれば自らの道を閉ざしてしまい、折角手に入れられる範囲にあるのに、得るべき物を得させないのと同じです。だから死んだ後万生したら涅槃すると先送りするような考えをする人は、このような状態があります。だからこの話を正しく理解しなければなりません。

 自身はブッダを信仰する仏教教団員だと宣誓しますが、反対に「涅槃の話は時代遅れの古臭い物で、何の利益にもならない。そして今関心を持つべきではない」と見、そう話す人もいます。これは仏教を信奉することに関して明らかに自分を騙しています。仏教を信奉しながら仏教を欲しがらず、宗教の核心を欲しがらないのは自分を騙すことです。

 だから「要するに仏教には涅槃があり、涅槃と呼ぶ物は心臓部であり、本物であり、核心である」と理解できるまで考えてください。涅槃を取り出してしまえば仏教の意味は無くなり、仏教教団員であるのは涅槃するためであり、他ではありません。

 自分を本当の仏教教団員にするために涅槃を正しく理解し、そして得るべき物を本当に得なければなりません。だからみなさん、仏教の心臓部である涅槃に関心を持ってください。しかし今日は涅槃の話を詳しくする時間がないので、涅槃について詳しく話すことはできませんが、周辺の話と、涅槃に関して誤解をしている人について話します。だから「涅槃は今ここで望む物、そして生きているうちに何としても到達する物でなければならない」と見る角度でお話します。

 さて次は、理解できなくさせる障害があるので、この障害を解決しなければなりません。例を挙げると、涅槃の話を間違って教えていること、これは涅槃を理解することの障害です。私たちが涅槃を理解できないのは、涅槃を間違って教えているからです。

 このように話すと自慢か己惚れのようです。誰がこのように考えても、彼らが「自慢だ。己惚れだ」、あるいは「口が悪い」と考えても、私は受け入れます。お願いしたいのは、この話をする機会があり、その後言い伝えられる真実にすることだけです。だから私たちが涅槃を理解できないのは、あるいは正しく理解しないのは、涅槃を間違って教えているからと話させていただかなければなりません。

 今、それはどう間違っているか、見えるように話します。死んだ時、あるいは死んで何生も、何百生も後に涅槃すると教えるのは、間違って教えています。このように夢中になって間違って教えるのは、ブッダの教えに対する裏切りであり、私たちの愚かさによってブッダの望みを裏切ることです。

 私たちは自分の愚かさを使って、そのように教えていないブッダの教えに反逆し、そのように望まれていないブッダの望みに反逆します。ブッダは「涅槃はサンディティコ=自分自身で知り、アカーリコ=時間に関わらず、つまり煩悩が生じた時に、そこになければならない」と教えられています。

 ブッダの願いは動物を苦から脱出させる援けのためで、自分自身で即座に見えるサンディティコである苦からの脱出があります。次に私たちは次々に先送りして、死人に涅槃させ、つまり死んだ後で涅槃すると教えます。こういうのはどういう利益があるか、考えて見てください。そしてそのようの教えることで、一般の人、特に現代人は涅槃に興味をなくし、それが仏教を不毛にします。間違って教えるからです。

 だから死んだ時、あるいは死後何百、何千生も経ってからの涅槃を教えるこのは、私たちの愚かさです。そしてその愚かさを使ってブッダの教えに、そしてブッダの願いに対しても裏切ります。死んだ時の涅槃を教えることは「ダンマはサンディティコでなければならず、アカーリコでなければならず、パッチャッタン ヴェーディタッポでなければならない」という教えと矛盾します。

 サンディティコは、涅槃はこのようだと自分自身で明らかに見え、一時的な涅槃でも永遠の涅槃でも、何でも生きている人の心で明らかでなければなりません。死ぬ時、あるいは死人になってから涅槃すると教えれば、サンディティコ、あるいは「パッチャッタン ヴェーディタッポ=知る人、智慧がある人は自分で明らかにし、自分で見える」という教えに反します。

 そしてアカーリコは、今滅苦ができれば今涅槃である涼しさがあります。現生でダンマの実践をし、来生でダンマの実践の結果を受け取るのではありまあせん。それは勝手に言い、教えの混乱です。

 水を飲んで満足や爽やかさを感じるのは、生きている間でなければなりません。私たちがダンマの実践をして、あるいは煩悩が現れない、煩悩が消滅した類の生活をして、現生で煩悩がないことの結果を感じることをアカーリコと言います。死んだ時、死人にさせる涅槃だけを教えていれば、こういうのはアカーリコではありません。

 このように死んだ時の涅槃ばかり夢中になって教えていれば、一般の人に涅槃を理解できなくさせ、あるいは間違った理解をさせます。もう一つ無関心にさせ、死ぬ時にする物に関心を持ちたくなくさせます。それは事実でなく、聞いた人に害を与えます。信じやすい人は夢として、そういう夢の話としてしまっておきます。

 死んだ時、何百何千何万生後の涅槃を教えるのは、愚かな人を騙して布施をさせ、迷わせて餌にし、何百何千生も騙して、際限なく、脇目も振らずに布施をさせるだけです。せいぜい「ニッパーンパッチャヨー ホートゥ」と話し、それを次々に涅槃の縁にしていつ涅槃するのか分かりません。悪意で、あるいは教える人愚かさで騙して際限なく布施させる教えです。涅槃は現生でなければならないと理解する努力をしてください。これから話します。

 もう一つ重要なのは、同じ人が死んで生まれ、死んで生まれ、ずっと同じ人でいるという角度で教えるなら、こういうのはミッチャーディッティ(誤った見解)、邪見の類の常見です。本当はこの瞬間の人と、次の瞬間の人は同じ人ではなく、それは原因と縁に由って変化しているからです。だから「自分があり、その人は涅槃するまで永遠」と教えるのは、不変、永遠という常見の話で、仏教ではありません。

 同じ人が奮闘努力して何十生、何百生、何千生経ったら涅槃すると教えるのは常見であり、仏教の教えではありません。永遠の俺があり、永遠のパラマートマン、つまり大きな涅槃と一体になるまで、次々と永遠にアートマンがある。それは仏教を教えでなく、常見の話、邪見を教えることになります。「死ぬ時の涅槃」と間違って教えることは、このような結果があります。

 「涅槃は現代人には不可能なもの」と教え、あるいは誘い、あるいは丸め込んで理解させる人がいます。自分は今そのように考えているかどうか、自分の友達は「涅槃は不可能」と、「現代には不可能だからしてはいけない」と、そのように教えるかどうか、よく考え、よく聞いて見てください。これも間違って教えることです。

 それはそう教える人の愚かさ、あるいは出鱈目ですが、他人に教えたがります。自分は愚かで出鱈目でも、まだ他人を教えたくて、自分で自分に言い訳するために、涅槃は不可能と教えなければなりません。そして他人を無関心に引き込み、あるいは自分と一緒に出鱈目にさせます。

 話す人は、本気で不可能と考えて話す人もいますが、騙す意図がある人もいます。その人は、ブッダが不可能な物を教えたら、そのブッダはブッダではないと、あるいはブッダがその時だけの物を教えればブッダではないと知っているからです。ブッダは、本物で正しく、永遠に使えるものを教えなければなりません。「ブッダの時代は使えたけれど二千年以上経ったら使えない、時代遅れで不可能な、その時代だけの物」。

 こういうのは使い物になりません。私たちは、ブッダが大悟したことを信じるなら、ブッダが教えている物も不可能ではないと信じなければなりません。ブッダは大悟され、ブッダは一切知なので、ブッダは何が可能か何が不可能か知っているので、可能なことだけを教えなければならないからです。

 だから不可能と見なさないでください。しかし自分を別の物に変えてしまえば本当に不可能になることもありますが、自分を仏教教団員の話で正しくすれば、それはまだ不可能ではありません。「涅槃は現代人には不可能だから関心を持ってはいけない。布施だけ、善だけを続けなさい」と教えるのは、こういうのは教える人に騙す意図があるかも知れません。その人は「ブッダは不可能なことは教えない」と知っていますが、他人には「現代人には実践できない物」と教えます。

 だからその人は騙す意図で、教える人が利益を期待していれば、騙して自分に布施させます。これは、教える人が僧、あるいはこの宗教の人で、人々に布施するよう教えれば、自分は際限なく人が布施した物を受け取ることを意味します。涅槃の話を教えれば、お金の流入口を断つことです。涅槃をしたい人は、涅槃を望まず布施をしたがる人のように布施する必要がなく、布施に夢中にならず、布施に酔わないからです。

 中には子や孫が出家して家にいなくなるのを恐れて、子や孫に「出家してはいけない」と言う人もいて、現代は、涅槃は不可能な物になりました。子や孫を騙して自分と同じように愚かにします。こういうのを「子や孫に世界のこと、美しい話、美味しい話、お金の話、愛欲の話、名誉の話に埋もれているよう教える意図、あるいは騙す意図」と言います。これも悪い意図の話です。

 他にもまだ、自慢するだけの人が自慢話をしたくて、涅槃は現代人には不可能と話す、こういう人もいます。その自慢好きな人は黙っていることができないので話さなければならず、そして感じたように話すので「涅槃は現代人には不可能」と、間違って歪めて話します。

 また別の人たちは、涅槃が本当にあっても、あるいは本当にできる範囲にあっても、それはバカみたいな人の話、あるいは時代遅れと教えます。涅槃は古臭い物と考える人たちは西洋の尻を追い過ぎる人で、西洋の肉体文化に憧れすぎるので、涅槃は古臭い話と感じます。そしてもう一度見ると、自分を知らないから、涅槃は古臭いと間違います。

 自分は何か、何を得るべきか、自然はどのように作ったか、あるいはこれらは何かを知らず、自分を何も知らないので「涅槃は古臭い話」と間違った理解をします。自分を知らない人はプラタムを知らない人で、その人は「プラタムは自然、あるいは自然の法則、あるいは自然による義務」と、何もこのように知りません。

 だからその人は、自分がどのように自然と関わっているか知らないので、涅槃は古臭い話という考えが生れます。静かさ、止まること、空、何かこのような話しか教えないからです。彼らは現代人がしているような楽しく美味しい話を欲しがり、「涅槃は現代では古臭いバカみたいな話」と教えるので、子や孫は涅槃の話から背を向けます。

 中には「涅槃は在家には関係ない。在家は涅槃に興味を持ってはいけない」、そして「涅槃の話は在家の発展に対する敵だ」と教える人たちもいます。よく聞いてください。どこにでもある本当の話です。涅槃の話に関心を持つと、在家の生活は発展しないと言います。これはものすごく馬鹿で、そして何も良く調べないで言っています。

 その人は涅槃を知らない分だけ在家であることを知らず、自分を知りません。その人は涅槃を知らない分だけ自分を知らず、そして在家でも在家とは何かを知りません。「在家は火の山の中にいる人たち」と、その人が少しでも知れば、在家は火を消す水を欲しがり、火を消す水を探して来る知性がなければなりません。そうすれば火の中で暮らす必要がないような暮らしができます。

 涅槃の話は誰のでも、何方のでも、在家でも出家でも火を消す水の話です。在家が出家より多く火の山にいる時、在家は出家より火を消す水を欲しがるので、在家にとって最高に必要です。  ブッダは、苦がある人を助けたいと望まれました。どの宗教の教祖も苦である人を助けたがると、教えとして憶えておいてください。苦のない人なら助ける必要はなく、問題がある必要はありません。援けなければならないのは問題があって苦の塊の中にいる人です。だからダンマ、あるいはいろんな宗教は苦の塊の中にいる人、特に在家が必要のない苦がない在家になるためにあります。

 「涅槃は在家に関係ない」という理解が生じるのは、在家の発展にとって敵であり、間違った言葉です。そして仏教にとっても極めて裏切りです。しかし人はまだそのような理解があります。クルンテープ(バンコクのこと)のように発展した街では、田舎よりもっと、人は在家であることに迷い、そして涅槃は在家の人たちの敵と感じます。

 こういうのは教える人が間違って教えるからです。教える人が僧でも、在家同士でも間違って教え、悪意で間違うのもあり、愚かさで間違って、意図せずに愚かさで話すのもあり、そして教える必要も聞く必要もなく、それ以上研究する必要もなく、次々と教え伝えます。だから「涅槃の話は在家に関係がない。そして在家の敵だ」と愚かに決めつけます。

 しかし重要な根源は、人が何も知らずに肉体面の楽しさに迷っている所にあります。親の世代はそれほどでもありませんが、子や孫の世代は際限なく肉体面に惑溺するよう教育され、しつけられ、取り囲まれたので、これらの物から引き離すものがあれば、それは自分たちの敵という考えが生まれました。だから現代の若者は、彼らが間違って教えている涅槃の話に関心がなく、本人も間違って理解します。

 どうか理解し直して、「在家は火の塊の中にいて、涅槃は火を消してくれるので、泣かなくても良く、自殺しなくても良く、神経の病気にならなくても良い」と自分の理解を新しくしてしまい、子や孫に正しく教えてください。

 すべての時代の至る所をまとめても「涅槃に到達できるほどの習性のある人は非常に少なく、私はその部類ではない」と言う人たちがいます。涅槃に到達する人は非常に少なく、牛の角の数のように少なく、到達できない普通の人は牛の毛の数くらいいると言います。一頭の牛に角は二本で、毛は何万、何十万、何百万か知れず、数えたことがありませんが、誰でもそれは非常に多いと見えます。

 次にその人は、涅槃できる人は牛の角の数だけで、輪廻の中にいるのは牛の毛の数だけいると執着するよう主張する方向に教えます。このように信じさせて心に埋め込んでしまうのは、愚かさの一種である軽率に話す人です。つまり「ウパニサヤ」という言葉を理解していません。「ウバニサヤ(習性。性質)」は作ることができ、訓練でき、取り囲むことができ、増やすことができ、直すことができるものです。

 みなさん。このように理解を改めてしまってください。ニサヤパッチャヤ、あるいはウバニサヤ、アッチャーサイ、あるいは何でも、それは私たちが作ることができ、修正変更でき、増やすことができる物です。可能にする習性がないと信じ切ってしまわないでください。こういうのは全部手放してしまいます。その人は自分を理解せず、涅槃を理解せず、すべての動物を作った自然を理解せず、人が出まかせに習性(性質)と呼ぶ物を理解しません。

 もう一つ、涅槃にはいろんなレベルがあると理解しなければなりません。つまり一時的な物も永遠の物もあり、少なくとも今私たちは一時的な、あるいは見本の、あるいは味見の涅槃を知ることができる習性があります。例えばここに座っている時、妨害する煩悩がなく、清涼で、この心の涼しさを感じることができます。これも味見の涅槃です。

 何も特別な能力を使わなければならないと見えませんが、味見の涅槃、あるいはブッダの商品見本である清涼さを味わうことができます。私たちは味見ができ、それから次々に追って行ける立場、あるいは習性があります。だから「私は涅槃のための習性がない」とこのように言う人は自分を知らず、涅槃を知らず、何も知りません。だから「私は涅槃のための習性がない」と言います。その人は自分をバカと、バカ以上のバカに仕分けし、そして最高に悪運の人に仕分けします。

 畜生も静かさの味を知り、静かさに満足し、妨害なく静かに眠りたがり、静かさについて理解し、そして静かさを好む習性があります。だから人はそれより良くなければなりません。自然は誰でも自分の苦を滅すことができる習性があるよう、知性があるよう作ったので、それを歪めずに自然の方法で経過させれば、その度に少しずつ滅苦の話に賢くなります。今人が自然を歪めるのは、間違った教育、間違ったしつけ、間違った環境によって、現代世界の発展につれて、どんどん肉体の話に惑溺する方向に向きを変えます。

 だからみなさん、私たちはいろんな間違い、幾つもの間違いを受け取っていると、良く考えて見てください。死んで何百生、何千生後の涅槃、現代の私たちに不可能な涅槃、馬鹿みたいに古臭い話である涅槃、こういうのは全部心から取り除いてしまい、そしてそれは、そのような教えを受けた不運な話と見なし、解決してしまい、止めてしまい、幸運にしなければなりません。

 さて、涅槃に興味を持たせない障害物について十分話したので、直接涅槃について話します。観察するものとして今は、詳しく述べることはできないと述べましたが、概略として話して何とか理解させることはできます。だから次は「涅槃とは何か」という題目でお話します。

 まず「涅槃とは何か」を問題にしなければなりません。それから「涅槃は死んで何百生、何千生、何万生後のもの」と軽率に言わないで、そのように理解しないで、すぐにそのように理解しないで、まだそのような問題がないようそれらを全部捨ててしまい、今涅槃とは何かを熟慮します。

 涅槃とは何かと問えば、二又二方向に分かれます。つまり自然の普遍の本当の涅槃が一つ、そして教育の、パリヤッティ(ダンマの学習)の、言語の、頭から溢れるほど知っていても危機を脱せない、藁を抱える狂った人の知性の寝言で伸びた肉腫の涅槃。それを弁士の、学習者の、パリヤッティ家の涅槃と言い、これが一つです。

 涅槃を二つに分けると、文字を知らない小母さんやお婆さんの自然の涅槃、このような自然の涅槃が一つ、一つの意味で、そして百の意味、千の意味に話すことができる一番のパリヤッティ家の涅槃、それも一つの部類で、涅槃はこのように二つあります。次はブッダの本当に自然の、普通の涅槃を話をするので、良く聞いてください。それから藁を抱える狂ったパリヤッティ家の涅槃について話します。

 涅槃とは何かと問うなら、本当の自然の涅槃が本当の涅槃で、そして文字を知る必要がない庶民の物、あるいはブッダが目指した、あるいはブッダ以前の人が正しく目指した涅槃です。涅槃とは何かと問うなら、涅槃は涼しい、あるいは熱くないと答えなければなりません。これです。このように簡単で、涅槃は涼しく熱くないと憶えるのがすごく簡単です。完全に涼しければ「パリ」を付けてパリニッバーナになり、完璧に涼しいという意味で、ただの涅槃は涼しいという意味です。熱ければ涅槃でなく、涼しければ涅槃です。

 ブッダの時代以前に話されていた言葉はダンマに関係なく、「ニッバーナ」は涼しい(冷える)という意味で、パリニッバーナは完全に涼しいです(冷えます)。次に良く理解するためにハッキリ広く話すと、この完全に涼しいという言葉は、ダンマの面、宗教面の話を意味しません。彼らは全部意味したので涼しさを三種類に分け、つまり熱くなって冷える、心がない物質の涼しさ、それも涅槃と呼び、例えば熱い炭が冷えて冷たくなる、その冷たさが涅槃です。

 熱くて食べられないご飯、あるいはおかずを放置しておくと冷めれば食べられる、その冷めることも涅槃です。あるいは何であろうと熱い物が冷えれば、その冷たさが涅槃です。こういうのを物質の涅槃と言い、ブッダの時代以前から涅槃と呼んでいました。ブッダの時代、あるいはパーリ語を話した時代にも、物質に注目すれば涅槃という言葉は物質の冷たさを意味します。

 二番目は礼儀作法の涼しさです。凶暴で危険な態度、虎、熊、何でも森の猛獣、あるいはまだ荒々しい野生の牛や水牛の凶暴な態度を「熱い」と言い、そしてそれらの動物が訓練されると「涼しい」態度になります。人も野蛮人は態度が凶暴で信頼できませんが、良く訓練すれば礼儀作法が涼しくなり、こういうのも涼しいと、態度あるいは礼儀が涼しくなると言います。これは畜生の涅槃にするために話しておきます。一番の涅槃は心がない物質の涅槃で、二番目の涅槃は、態度に価値がある畜生の涅槃です。

 三番目の涅槃は心の涼しさで、善い徳行があり、ダンマがたくさんある人間の涼しさです。煩悩があれば熱く、次に煩悩が溶けて薄くなれば涼しくなり、この涼しさを涅槃、人の涅槃と言います。しかし広く心の涼しさと言いましょう。煩悩が尽きていない他の心の涼しさもあるからです。

 涅槃とは涼しさで、物質の涼しさでも良く、態度の涼しさでも良く、心の涼しさでも良いと良く憶えておいてください。話す言葉では全部同じ涅槃と言いますが、ダンマの面の涅槃は心の涼しさを意味します。教えはこのようにあります。ここでは心の涼しさの話だけをします。物質の涼しさ、態度の涼しさはダンマに関係ありません。ダンマに関係があるのは心の涼しさの話だけです。

 心の涼しさも、知性、あるいは教育探求、あるいは最初から今までの文化の高さによって段階的に分類できます。

 知性の高低が涼しさの高低を生じさせます。だから人間の歴史にあるように、涅槃の話、涼しさの話の探求、特にインドでは最初は迷って欲情面で思いのままに手に入れる涼しさにしました。欲情の渇きは熱さであり、思い通りに手に入れると一種の涼しさになります。

 だから彼らは迷って欲情面の豊かさ、性の話の頂点を涅槃、あるいは涼しさにしました。これも一時、一時代で、それが本当の涼しさかどうか曖昧にしか答えられません。それは一時渇きを抑えている間だけの涼しさであり、本当の涼しさではありません。

 だから智慧のある人が探求して「それは本当の涼しさではない。これは本当の涅槃ではなく、子供だましの涅槃だ」と気づき、その後サマーディの威力による本当に涼しい心を発見しました。つまり訓練の威力で心の焦燥や散漫を止め、心がすっかり冷静になりました。だからこのサマーディによる静かさを一時、一時代、涅槃と見なしました。これも非常に長く、ブッダの時代にも残っていました。

 ブッダはこれらの人たちについて「四禅を涅槃と迷っている人たちは、ブッダの時代にもまだいる」と話されています。これらの人たちはサマーディから生じた幸福を涅槃にし、少なくとも四禅を得ていました。四禅を生じさせられる人は極めて幸福を感じ、いろんなアーヤタナ、つまり空無辺処、無所有処まで高くなり、一時代このように迷っていました。

 その後ブッダが生まれるまで知性が高くなり、ブッダは「そのような二つはまだ本当の涅槃ではない。同じように涼しいが、本当の、あるいは最高の涼しさではない。本当の涼しさは煩悩が尽き、煩悩が残っていてはならず、カンマも尽き、カンマもなく、煩悩が終わり、カンマが終わることで苦が終わる。そうすれば本当の涼しさだ」と発見されました。煩悩が尽き、カンマが尽き、そしてカンマの結果である苦が尽きる。それが本当の涼しさです。これが筆舌に尽せぬ涼しさで、本当の涅槃と言います。

 比較して見ると、望みどおりに欲情を得る涼しさ、心がサマーディである涼しさ、心の煩悩が尽きたことによる涼しさ、この三段階です。しかしどれも涼しいと呼ばなければなりません。初めの二つは本当の涼しさでなくても、熱いよりマシです。知性の高さを基準にすればこのようになります。

 行動の重さ、あるいは本当の涅槃、あるいはどの涅槃でも涅槃に関しての行動の能力を基準にすれば、これも三段階に分類できます。偶然、あるいは自然の涼しさ、これも涼しさの一種類です。それは偶然で、みなさんがこのお寺に来てこのような環境に出合い、偶然心が涼しくなり、何もしなくても自然に涼しくなる、これも一種の涼しさで、「偶然に、自然に涼しくなる」と言います。

 あるいは眠い時自然に眠るように、熱い時、熱さが酷くなると熱さに倦怠して自然に止まる、これも涼しさの一つで、自然にそうなります。

 二番目は支配している間心が涼しくなるよう訓練、あるいは支配できます。実践で支配しているだけ涼しくできます。このような涼しさは最高の涼しさではありません。最高の涼しさ、最高に永遠なのは、煩悩が尽き、カンマが尽き、苦が尽きたことに因らなければなりません。

 そうすれば本当の涼しさです。しかし三種類とも涼しいと言い、三種離とも涅槃と呼ぶことができます。しかし本当の涼しさではなく、本当に完全に涼しくなければパリニッバーナ(般涅槃)と呼びません。

 繰り返し忠告させていただきます。涅槃も般涅槃も生きているという意味で、死んだ時のと一緒にしないでください。それは何も知らずに話す人の話です。涅槃も般涅槃も、命があって生きている人の話で、死人の話ではありません。だから涼しさがあれば涅槃と呼び、本当の涼しさ、最高の涼しさなら、般涅槃と呼びます。

 偶然の涅槃なら「タダンガニッバーナ」と言い、行動することで支配している涼しさは「ヴィッカマバナニッバーナ」と呼び、これはまだ完全な涼しさ、本当の涼しさではありません。しかし「何もする必要がない偶然の涼しさもあり、私たちはこの涼しさによって生きることができる。だから狂わない」と観察することを知り、理解しておいてください。

 心が始終不安定なら、いつでも熱く、自然の涼しさを知らなければ、私たちは死ななければなりません。あるいは狂うか、神経を病みます。私たちには正しく実践して支配することで涼しくする方法があり、それはそれらの悪い物を解決できます。そして煩悩が尽きてすっかり涼しくなるまで実践し続けることができます。涼しい、あるいは涅槃という言葉はこのように段階的になっています。偶然の涼しさ、支配する涼しさ、そして煩悩が尽きた涼しさです。

 次に全部を理解し易くするために、涅槃という言葉について他の意味で話して、もう一度理解しておきたいと思います。つまり「味見の涅槃」という言葉を聞かせたいと思います。この商品見本を味見の涅槃、商品見本と言います。私たちがどこへ行っても、何をしても、あるいはここに来て安心したと仮定して、これが味見の涅槃です。

 もう一種類の涅槃を「欲しい時得られる涅槃」と言い、いつ欲しくなっても、その時涅槃にすることができます。まだ本当の涅槃ではありませんが同じ味で、欲しい時にすることができます。サマーディの訓練をして成功すれば、サマーディにしたい時いつでもできるという意味です。欲しい時得られる涅槃が欲しければサマーディに入り、欲しい時得られる涼しさの中にいることができます。涼しさは同じで、本当の涼しさです。

 「一時的な涅槃」あるいは一時の涅槃と呼ぶべきもう一つの涅槃は、私たちがそのようにしても、あるいは自然になっても、一定の時間、あるいは一時という意味で、時には理由もなく、ただ心がすっきりして涼しく快適になり、あるいは休息して快適に眠り、目覚めると瑞々しく清涼で、妨害する煩悩が何もないことがあります。これは偶然の涅槃で、そして一時だけ、あるいは一時的な話です。すべては一時的な涅槃、あるいは欲しい時得られる涅槃、あるいは取り敢えずの、味見の涅槃です。

 本当の涅槃がもう一つで、本当の涅槃も二段階に分けることができます。つまり阿羅漢の段階で、阿羅漢は本当の涅槃、最高の涅槃と言いますが、阿羅漢になったばかりの頃は、煩悩がすっかりなくなっただけで、身体の変化が追いつかないので、いろんなヴェーダナーの感覚があり、時にはヴェーダナーがその方にとって熱い物で、阿羅漢でも物凄く痛く、苦しく感じ、そのヴェーダナーはまだ涼しくないこともあります。

 次にその後しばらく阿羅漢でいると、どれくらいの時間かは確かではありませんがすっかり変化し、命を必要とするヴェーダナーでも二度と熱くなる術が無くなります。まだヴェーダナーが追い着かない、なったばかりの阿羅漢を、パーリの中で「サウパーディセサニッバーナダートゥ」と呼び、その方はまだ種が残っている種類のニッバーナダートゥを得、まだ「苦である」と言うような、苦であるヴェーダナーに出遇わなければなりません。

 次に、その後その方がヴェーダナーの威力より上になり、苦になる物が何もなくなると「アヌパーディセサニッバーナダートゥ」と呼びます。ブッダの般涅槃のようなのはアヌパーディセサニッバーナダートゥで、その方にとって熱い物であるヴェーダナーはありません。本当の涅槃もこのようにまだ最高でないのと最高の二種類あります。

 涼しい話をして来ました。自然で当たり前で何も策略がない文字の面の話す言葉、涼しいという言葉を、このように全部知ってください。まとめると、涅槃とは何かと問うなら、涅槃とは熱い物が冷めることで、熱くない物の涼しさではないと答えます。冷えている物が更に冷えるとは言いません。

 しかし熱があれば、必ず冷やす方法があり、熱い物が冷えることを涅槃と言います。熱い体も、熱い心も、熱い何でも冷えればそれを涅槃と言い、家で不快になってこのような森へ来ると涼しくなる、不愉快が冷える、これを一種の涅槃、一時的な涅槃、偶然の成り行きの涅槃と言います。

 だから涅槃は熱い物が極限まで冷えることと、ハッキリと定義します。そして人の心で知ることができるものです。だから死んだ人の話でなく、生きている人の話でなければなりません。これが誰もが関心をもたなければならない涅槃で、自然の話、誰でも理解できる不可能でない話、何種類も、何段階もの涼しさの話、そして自分の能力に応じてできる話です。

 これが「涅槃とは何かと問えば、熱い物が冷えること」と、みなさん誰でも理解できる涅槃ですと、もう一度忠告させていただきます。それが物でも畜生でも人間でも、冷えれば涅槃と言います。これだけで、ぶっきらぼうに短く、熱い物が冷えると言います。

 さて次は、だらだらと喋りつづける涅槃、誰が先に眠くなるかを試すための、パリヤッティ家(三蔵の学習をする人)の錯綜した涅槃について話します。パリヤッティ家の涅槃について話せばたくさんあります。

 仏教のパリヤッティの話という意味で、ブッダが涅槃されて久しくなると、パリヤッティの話、語学の話、教典の話、教科書が増えて、頭から溢れるほどパリヤッティが多くなります。頭から溢れるパリヤッティになると、涅槃の話も多く、たくさんになりますが、理解の助けになる利益があるので、聞いて見るべきです。

 ブッダの時代の後になると、パリヤッティと呼ぶ物、書物や経の学習、文学の教科書は、雨季のキノコのようにどんどん増えたので、あれこれ解釈が多くなりました。次に涅槃という言葉はたくさんの意味を定義され、たくさんの解釈がなされ、「涅槃」という一語で何種類もの意味があります。

 涅槃をダンマと呼ぶこともあり、自然と呼ぶこともあり、アーヤタナと呼ぶこともあり、涅槃の代名詞もたくさんになりました。そして涅槃という語句も、その言葉の公共性により、場合により、ケースにより意味が変化しました。すべての教典で使っているのは次のようです。

① 国土である涅槃、あるいは土地。涅槃はサンカーラが静かに静まった地で、その土地はサンカーラの輪廻が静まる地という意味です。どこにあるか言うことはできず、指差すこともできないので、サンカーラが静まる土地、地域、場所と、中立的に言います。こういうのは知る必要はありませんが、文字にはあり、そして知性の話としてあります。

② 道具であり、煩悩を終わらせた自然であり、アーサヴァ(漏)を終わらせる道具であり自然である涅槃。それは道具です。私たちは道具である涅槃に依存して煩悩を殺し、アーサヴァを殺します。涅槃は道具です。

③ 涅槃は行状で、煩悩が尽きて消滅した、あるいは空になった状態で、貪り・怒り・迷いが尽きて空になり、消滅した状態を涅槃と言います。それらが尽きた状態を意味します。

④ 涅槃は煩悩が尽きたことの結果です。このような見方では涅槃は最高の幸福であり、涅槃は最高の涼しさであり、涅槃は突き刺さず、焼き炙らず、涅槃は究極の空です。

 少なくとも四つの意味で、煩悩が消滅する土地、あるいは国土、そして煩悩を消滅させる道具、それから煩悩が消滅した状態、それから煩悩が尽きたことから生じる結果です。四種類は更に小さな種類に分けられ、少しずつ増え、少しずつ膨れ上がり、少しずつ、眩暈がするほど際限のない話になります。

 次に「涅槃は知らなければならない物。到達しなければならない目的」と、細々した説明をします。三蔵のある所に「涅槃はヴィンニャーナ(識)」という奇妙なパーリ(ブッダの言葉)がありますが、目・耳・鼻・舌・体・心、あるいはその他のヴィンニャーナではありません。

 特にここのヴィンニャーナという言葉は、人が知らなければならな物という意味で、、明らかに知らなければならない物は涅槃です。人間が最高に知らなければならない物は涅槃以外にないので、涅槃を「ヴィンニャーナ」と呼びます。こういうのもあります。これです。それは文字によって、文字で膨れ上がります。

 まだ他に、涅槃はダンマ、究極のダンマ、最高のダンマ、涅槃は島、涅槃は拠り所、涅槃は陣地、涅槃は砦とあり、涅槃とは何か一日中話しても終わりません。そしてまだ、涅槃は不死の物、不滅の物とあり、涅槃は無為の物、作り出す縁がない物、涅槃はヴィサンカーラで、何も作り出さず、涅槃はアバヤーカタで「それは何」と言うことができません。最後には涅槃は都、不死の大都、シヴァモッカ、アマタマハーニッバーナとあります。

 国や都の一つという仮定は、人に急いで布施をさせ、そうすればその都へ行くことができます。そして涅槃は他にもたくさんあり、最後は最高の空、究極の空である「パラマスンニャター」で終わります。これがパリヤッティで趣旨での涅槃で、一月話しても、一年話しても終わりません。取り上げて話した項目だけでも、一年話しても終わりません。

 無常を見ることで生じた涅槃なら「アニミッタニッバーナ」と言い、苦を見ることで生じた涅槃なら「アッパニヒタニッバーナ」と言い、無我を見ることで生じた涅槃なら「スンニャタニッバーナ」と言い、この三つの名前は、ニ三か月説明しても終わりません。

 次に後世の本にはキレーサニッバーナ、カンダニッバーナ、ダートゥニッバーナと、信じられないほど、そして信じたくないほどたくさんのおまけがあります。ブッダが大悟してブッダになったのは煩悩が尽きたからなので「キレーサニッバーナ」と呼び、その後ブッダの体が崩壊すると「カンダニッバーナ」と呼び、仏舎利が残って、仏舎利は世界のあちこちに分配され、

そして後千年くらいかどうかは知りませんが、それらの仏舎利が集まって再びブッダになり、ダンマを説き、いろんな奇跡を見せ、そしてもう一度涅槃をすると「ダートゥニッバーナ」と呼びます。こういうのは信じられなくなり始めますが、ダートゥニッバーナ、キレーサニッバーナ、カンダニッバーナと、後世の本で述べられています。

 次にまだ奇妙な涅槃があり、声明書の中に「この方、あの方は涅槃した」という声明、宣伝があります。名前は出さない方が良いです。声明文である本の何冊かを探して読んで見てください。現代のある人の死、蘊の崩壊に涅槃という言葉を使っているのを見つけます。そしてその人は木が涅槃した、植物が涅槃したと言うこともあります。つまりその木が普通でない枯れ方をすると、その木は涅槃したと言います。これもあります。

 これがパリヤッティの言葉の膨れ上がった涅槃で、このようにたくさんあります。それは実践と関係がないパリヤッティ面の言葉の解釈の哲学の話です。みなさんは関心を持つ必要はありません。愚かな庶民が話す言葉の涅槃の方が良いです。

 私も志願してこのような涅槃、愚かな庶民の言葉で話す涅槃、冷えるだけの涅槃を掴み、あるのは「冷える」一語だけ、それ以上は欲しがりません。もっと説明すれば、涼しさも涅槃と言い、涼しくする物も涅槃であり、冷え切った状態も涅槃で、結局「冷える」という一語が涅槃です。

 だから涼しさを知るために継続して努力し、涼しさを知る決意をし「知り過ぎて困苦が長い」人の言葉に注意してください。話したようなパリヤッティ家は知り過ぎて困苦が長い人たちです。たくさん知ると苦が増え、困難が増え、パリヤッティ家はこのようです。だから彼らを「藁を抱える輩」とも言います。頭に、耳に、体に溢れるほど藁を抱えますが、米は一粒もなく、藁だけです。こういうのを「藁を抱える狂人」と言います。ある種の知識はこのような状態があります。

 もう一つ「からこぶしの輩」と言い、彼らの掌中には値打のある物は何もないという意味で、「無用の人」と言いますが、三蔵を知り、アッタカターを知り、パーリを知り、何でも知っています。ブッダの時代のある比丘はたくさんのダンマを知っていましたが、ブッダは「無用の人」と呼ばれました。その人は知るだけだったからです。

 今は知るだけでも利益がありますね。たくさん知っていれば先生になり、教授になり、教えて高給がもらえ、知るだけで利益があります。しかしダンマの面では「知り過ぎて困苦が長い」「藁を抱える狂人は、知っても滅苦ができない」と言いますが、世俗的には、稼ぐことに関しては利益があり、稼ぐ道具になります。

 どうぞ愚かな庶民の意味の涅槃を知ってください。私もそのように志し、冷えることだけを知り、涼しくする道具、涼しい物、冷えた状態で、山のようにたくさんの文字の話はしません。さて涅槃とは何かはこれで十分です。

 愚かな庶民の意味での涅槃は「冷える」で、パリヤッティ家の涅槃の意味はだらだらと際限なく話し、一か月話しても話し終わらず、一年話しても終わらず、死ぬまで話しても終わりません。際限ない文字の曖昧さで、この角度、あの角度、その角度で話すからです。

 これから話す項目はいつ涅槃するかです。今日の講義の主題は「現生での涅槃、それとも死ぬ時の涅槃」で、二つの観点があります。現生での涅槃は、率直に言うと愚かな庶民の言葉で曖昧でなく、本当の涅槃は現生でなければならないと言います。

 こういうのはみなさん、目を閉じて熱さについて考えて見てください。どこで熱くても、そこで消さなければなりません。いつ熱くても、その時熱さを消さなければなりません。そうすれば本当の涅槃です。

 いつ熱くてもその時熱さを消滅させ、どこで熱くてもそこで熱さを消滅させ、二つはくっ付いていなければなりません。離す必要はありません。現生で熱く、来生で熱さを消滅させると言うようなのは、狂った話か良い話か考えて見てください。ここで熱いのに、クルンテープで熱さを消滅させることはできません。熱い所で熱さを消滅させ、熱い時に熱さを消滅させなければなりません。そうすればブッダの本当の涅槃と一致する意味があります。

 そうでなければブッダの涅槃ではありません。本当でない、真実でない、その人の見方で話す他の人の涅槃です。その時そこで熱さを消滅させるのでなければ、仏教の涅槃ではありません。仏教の涅槃はアカーリコでなければなりません。ニッバーナン アカーリカン。涅槃はアカーリコです。時間を別にせず、季節はなく、「その時そこで間を置かずに」でなければなりません。

 悪をしたらその時悪く、善をしたらその時善く、冷えるのもその時です。他の時、他の場所、別の時間にするなら仏教ではありません。そして今ここで熱さが消滅しなければ、それには何の利益もありません。考えて見てください。何も利益はありません。今自分が火事で、来年火を消して、自分は先に死ぬ。それは何の利益もありません。

 仮に今私が病気になって、そして来年になったら治療をするのは、何の利益もありません。利益があるなら、ダンマと呼ぶ物の意味で「その時、そこで」アカーリコであり、サンディティコでなければなりません。そしてもう一つ自分で知らなければならず、代わりに知ることはできません。自分自身で感じるサンディティコです。

 だから生きている人の話で、死人の話ではありません。そしてその人だけで、他の人が代わりに知ることはできません。涅槃は今ここでなければならず、そしてその人でなければなりません。本当の涅槃は即座に冷え、即座に熱が冷めなければなりません。熱さが消滅しなければまだ涅槃ではありません。

 だからどこで涼しさを探すかは、熱い所で涼しさを探し、熱い所ならどこでも、そこで涼しさを探します。そうでなければ何のために探すのでしょうか。何の利益もありません。ここに苦や熱さがあれば、今ここで、その人物が滅苦を探さなければなりません。別々にしないでください。

 話して見ると反対のようでも、それは一緒にあります。火を消すのはどこで火を消すか、考えて見てください。火を消すにはどこで消すか。それは火がある所で消さなければなりません。火は熱く、自分は涼しさが欲しいので、火のある所で消さなければなりません。

 だから熱い所で涼しさを探し、火のある所で消火を探さなければなりません。だから私たちが俺を消滅させるには、俺のある所で消滅させなければなりません。俺の消滅を探すには俺のある所を探せば、生じた俺は消滅します。夢中になって別の場所を探せば、見つける術はありません。苦が現生にあって滅苦が来生にあれば、出合う日はありません。苦がどこにあっても、滅苦をそこでその時に、その人がしなければなりません。

 次は「煩悩が現れない所はどこでも、そこに涅槃がある」と、涅槃の意味は広いです。「煩悩が現れない所はどこでも、そこが涅槃」と、ちょっと重要な言葉として憶えておいてください。みなさんが今ここに座っていて、心に煩悩が現れなければ、そこに、その心に涅槃があります。煩悩が再び戻って来れば、ほら、涅槃は消え、再び輪廻があり、輪廻、あるいは苦、あるいは熱さが再び生じます。

 だから不動の教えとして、「煩悩が現れない所はどこでも、そこに涅槃が現れる」と言うことができます。もう少し綺麗に言うと「輪廻が現れない所はどこでも、そこに涅槃が現れる」と言います。今私たちの心に煩悩が現れていないので、代わりに涅槃があり、涼しいです。しかし私、あるいはこの身体、あるいは名形は、煩悩が生じる癖がまだ残っているので、再び煩悩が生じること、あるいは再び現れることができ、このように交互になります。

 次に私たちはブッダからもらった知性があり、煩悩が生じないように管理することを知っているので、つまり煩悩が生じられない状態に目・耳・鼻・舌・体・心を管理するので、私たちには「煩悩がない」ことがあります。それが長くなって、涼しさが長くなって、ある時二度と熱さがない日が来、その結果一か月に一度も熱さがなく、一年、あるいは何年間も一度も熱さがなくなります。

 私たちは健康で仏教の道で進歩発展し、熟睡でき、神経の病気にならず、精神異常になって死にません。だから煩悩が現れない所はどこでも、そこに涅槃があります。つまり二つは同時になく、一緒に現れることはできませんが、同じ場所、心にあります。この二つの物を他で探すことはできないので、心の中を探さなければなりません。時には煩悩として現れ、時には煩悩が空っぽの常態として現れますが、それは同じ場所にあります。

 次に、まだ阿羅漢になっていなくても阿羅漢のように涼しくなれます。ただ私たちの涼しさは時間が短いだけです。この「涼しい、涼しい」というのは、他の種類の涼しさにならず、同じ涼しさで、そうでなければ涼しさではありません。だから阿羅漢の涼しさと私たちの涼しさは同じですが、私たちは再び熱さに戻る時があり、煩悩が再び現れます。

 煩悩が空っぽの時は煩悩は現れずないので、その時私たちは阿羅漢と同じように涼しく、何も愛さず、何も嫌わず、何も恐れず、何も欲しがらず、何も猜疑せず、何も疑わず、熱い話はまったくありません。しかし私たちの涼しさは一時で、変化して熱くなります。次にたくさんして長く涼しくし、時間を延ばすと熱い物は居場所、住む場所がなくなって阿羅漢になります。

 「この種の涼しさは私たちに最高の利益があり、この一時的な種の涼しさは私たちを危機から脱出させ、神経の病気にならず、精神異常にならず、死なない」と良く見てください。一時的に涼しいからです。寝る時も安眠し、悪夢を見ることがないので、それも自然の、自然がくれた、自然がふさわしく正しく按配してくれた涼しさです。

 私たちは涼しさである休息があり、そして身体を維持でき、命も維持でき、そして私たちが希求するのは環境だけで、ここのような環境に来れば涼しく、このような物だけを専ら探して増やし、涼しさを増やし、涼しい習性になるようにし、その結果家にいても涼しくなるようにし、熱くしません。

 次に熱さが消滅した分だけ涼しくなり、熱さが消滅しただけどんどん涼しくなるだけで、どこで消滅してもそこで涼しくなり、いつ消滅してもその時涼しくなります。どこでも何時でも、幾らでも、そこでその時、それだけです。

 今私は「俺」という憶えやすい一つの言葉を使います。俺が現れない時はいつでも涼しく、俺が現れればいつでも、その時そこで熱く、大きな俺は非常に熱く、小さな俺は少し熱いです。

 だから原則として「心に俺がない時、その心に涅槃があり、その心に俺が生じると、涼しさの代わりに輪廻が生じる」と憶えておいてください。これです。いつ涅槃するかと問えば、今ここでと答えます。そうでなければ仏教の涅槃ではありません。だから愚かな庶民の言葉で率直に言うと、私も「私たちは涅槃があり、それは今ここでの涼しさ」という教理があるのを認めます。

 さて次に「死ぬ時の涅槃」というもう一種類の涅槃があります。これは曖昧な言葉で、時には戯言になりますが、聞くべきです。今ここでの涅槃が一つ、もう話したので、良く憶えておいてください。そして本当の涅槃、愚かな庶民の本当の涅槃で、どんなに愚かでも涅槃があることができます。

 次に死ぬ時の涅槃で、これは厄介な話、曖昧な話、あるいは話す言葉、つまり「死」という言葉のいい加減さの話です。「死」という言葉はいろんな意味がありますが、信じられている意味は間違っているか、利益がありません。

 つまり死ぬ時の涅槃とは、死んで棺に入ってからまた生まれて棺に入り、そのように何十回もしてから涅槃するという意味です。このような状態の死んだ時の涅槃と言えば全部間違いで、正しいのはありません。つまり関わる方法がありません。涅槃は現生でなければなりません。繋がった一つの話でなければなりません。別の生、別の有に分けることはできません。

 しかし次に、もう一つの意味の「死」という言葉があり、死んで棺に入る身体の死です。次に身体は死ぬ必要がない俺の死、そうれがもう一つの意味です。俺、俺の物という思い込み、愚かさ。このような「俺、俺の物」は死ぬことができ、再び生まれることができ、一日に何回も死んで再び生まれることができます。

 ここでの「死」という言葉がこのような意味なら、「死ぬ時の涅槃は正しい」ということもできます。つまり俺が死んだ時、その時は涅槃です。俺がいつ死んでも、その時は涅槃です。しかし身体はまだ死にませんよ。これを「死ぬ前に死しんでしまう」と言い、死の前に死んでしまう種類の死で、俺が死んで、身体はまだ死にません。

 だから俺が生じた時は火のように熱く、貪るために俺が生じれば、貪って貪って貪るので火のように熱く、怒るために俺が生じれば、怒って怒って怒るので火のように熱く、愚かさ迷いに関しても火のように熱く、俺が死んだ途端に涼しく涅槃になります。死んだ時の涅槃も使えると言いますが、棺に入って焼かれるような死ではありません。

 「不注意であることこそが死」という言葉があります。「アッパマードー アマタン パダン パマードー マッチュノー パダン、アッパマッター ナ ミヤンティ 言います。イェー パマッター ヤターマター」。すべては「不注意は死、不注意な人は死人」と説いています。今私は「不注意は死。死んだら注意深さはなくなる」と言ってしまいます。こういうのは死なないで涅槃します。不注意が無くなればいつでも、その時は涼しく、その時は涅槃で、不注意がある時はいつでも、その時熱いです。

 だから、普通の人は話さない特別な意味があり、普通の人が言う死は、棺に入れて埋め、あるいは焼きますが、ダンマ語で「死」は、棺に入れて埋めたり焼いたりする必要がなく、反対に健康になってしまいます。つまり「俺」の死は不死になり、涅槃になります。

 みなさんの誰でも、死んだ時の涅槃を信じたければそれもできますが、「俺が死んだ時が涅槃で、どこで俺が死んでも、そこに涅槃がある」と正しい意味でなければなりません。不注意が死ねば、そこに涅槃があります。「死」という言葉は、いろんな種類の人間集団の中で話す意味があり、そしてどれも絶妙です。

 キリスト教の教典の「死」という言葉の意味は二つあり、死は苦です。果物を食べて善悪を知ったので、死ななければならず、これは永遠の苦です。そしてもう一度、神様を見た時は死ななければならないことを意味します。最高のダンマ、つまり涅槃の話を知ること、俺が死ぬことを意味します。

 要旨は、神様はモーゼが神様を見ることを許さないので、モーゼが神様を見れば、その時モーゼは死ななければならないとあります。つまり止まって何もしないと何も利益はなく、モーゼにあの利益この利益を成させたければ、まだ神様の顔を見てはならず、見るのはぼんやりした後ろ姿だけ、衣服の裾だけとあり、神様を見た人は涅槃が見え、俺が死ぬという意味です。これです。

 「死」は棺に入れる死を意味することもあり、愚かな日常的な苦を意味することもあり、俺の死、涅槃を意味することもあります。神様の顔を見て死ぬのは涅槃で、二度と死ななくなります。死ななければならない部分は死んでしまい、死ぬべきものは死にました。だから身体を埋めたり焼いたりする死もあり、死の前に死んでしまい、その後は死を知らない、こういうのもあると理解してください。

 しかしいずれにしても、死んだら棺に入ると見なさないで、死んで棺に入るのは本当の死と言い、それは身体の話です。そして涅槃はその種の死によってはあり得ず、涅槃は「俺、俺の物」が死ぬことであり得ます。

 これが死の時の涅槃の話で、それはこのようにあり、間違いと言えば間違い、正しいと言えば正しいです。しかしほとんどの人が理解しているのは全部間違いで、むしろ自分、俺の話、邪見である常見の話に惑溺するよう、輪廻するよう教えられてしまいます。

 さて次に、最後の項目は時間がないので、どうすれば涅槃である涼しさになるかという話をします。涅槃とは涼しさ、そのような涼しさと話せば、今ここの涅槃もあり、死の時の涅槃もあり、どれも全部涼しいと言います。

 次は重要な問題で、どうすれば涼しくなるかを誤解すれば「涅槃は不可能」と感じ、これを正しく理解すれば「涅槃は手の届く所にある」と感じる点が重要です。しかしこの「手が届く」というのは、額にあるのに見えないこともあるので、手が届くとバカにしないでください。すぐ手の届く所にあっても、愚かな人には死んでも見つかりません。

 ここで「涅槃はすぐ手が届く所に」と言うのは、「その涼しさである涅槃は基本としてある。それに何もしてはいけない、それは基礎である自然で涼しい」という意味です。「心の基本はいつでも涼しさであり、熱さは生じたばかりで、来客のように時々来る物」と、正しく理解してください。客は家の主人でなく、常時家に住んでいる訳でもありません。私たちが常時住んでいる家の主人です。

 だからこの涼しさが家の主人で、常時家にいて、熱さは訪問客です。しかし誰の愚かさかか知りませんが、無明がある名形、身体の愚かさは熱さである客を迎えるのが好きです。ここに注意してください。つまり何としても基本の状態を維持しましょう。これはできる物です。ブッダは「この心は純潔である」と言われているからです。つまり輝いて清潔で澄んで明るいですが、客ゆえに、つまり時々訪問してくる煩悩故に憂鬱になります。

  心の基本は純潔で、明るく澄んで静止していて、煩悩ではありません。だからどうすれば涼しくなるかと問うなら、「お節介してそれを熱くしてはいけない。それをけしかけて熱くしてはいけない。介入してそれを熱くしてはいけない。それの自然の基本は涼しいのだから」と、率直に言うことをニ度三度お許しください。私たちが愚かさで貪り、怒り、迷いを作ることを「お節介で介入してそれを熱くする」と言います。

 このように言うのは狭すぎるので、ちょっと広く言うと、「人間はお節介にも熱くした。自然は人間を涼しく作ったが、人間がお節介をして熱くした」と言います。人間は思いや考えがあるので畜生より進歩し、植物より進歩したので、それを熱くして問題を作ります。畜生や植物は元のままの状態にいます。だからあれに迷いこれに迷って貪りになり、怒りになります。これを「介入してそれを熱くしてしまう。涼しい物を熱くしてしまう」と言います。

 「両親が私を産んだ時涼しく生み、涼しく生まれさせ、両親は私たちを涼しい状態で産んだが、私たちは母の胎から生まれ出た途端に、あれこれ熱望させる間違った環境を受け取り、どんどん善に迷い、どんどん悪に迷って、その結果貪りが生じ、怒りが生じ、迷いが生じて増えるので熱くなる。善い家族、善い文化の正しい環境を受け取り、両親が正しく教えれば、涼しい方の成り行きだけになる」とこのようにしましょう。

 今誰のカンマか、人間、あるいは何のカンマでも、世界は子供を熱い方へ迷わすしつけをする方向になり、キリスト教が「善悪を教える木の実を食べたので、死ぬまで常に貪り、怒り、迷いが生じる」と言う善悪に迷います。この熱い物はまだ関わって来たばかり、異常に作ったばかり、それは作ったばかりです。自然は涼しく作り、両親も涼しい状態、あるいは中間の状態で産みましたが、成長すると反対に、介入して熱くする部分を探します。

 文化が善くなく、間違って教え、家族の中で間違って教え、「すべての物は、俺、俺の物と執着してはいけない」と教えたブッダの教えを守らないからです。私たちが、どんな場合にも「すべての物は俺、俺の物と執着してはいけない」と教える教育、しつけを受ける環境があれば、熱い人は一人もなく、子供は泣かず、大人は自殺する必要がなく、頭痛になる必要もなく、神経の病気、あるいは何でも全部なる必要はありません。

 どうすれば涼しいかという質問の答えが、それは自然にあり、あなたはお節介にもそれを熱くしてはいけないというのは、聞いて滑稽です。自分がお節介をして熱くしないようにする方法は、長く話さなければならないので別の時にします。ここでは「自然の基本は涼しく、私たちがお節介をしてそれを熱くする」を、自分自身で明らかに見える心の中の真実として掴んでください。

 だからお節介をしてそれを熱くしないで、基本の涼しい状態を維持します。話はそれだけです。この項目を理解すれば、途端に自分自身で理解でき、誰も「本当の涅槃は生きている間にある物で、死んだ後ではない」と教える人は必要ありません。さて「現生での涅槃と死んだ後の涅槃」という今日の話はこれだけです。これで終わらせていただきます。

 



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