11.アビダンマとは何か



1971年3月20日

 ダンマに関心がある善人のみなさん。今日の講義の主題は、みなさんご存知のように「アビダンマとは何か」です。私はちょっと奇妙に感じるのですが、今回の講義は何か特別のものがあるので、だから散財と寝るのも我慢して聞きに来た大勢のみなさんがいるのだと思います。他の講義の時は一度もありませんでした。

 だから今日は、わざわざクルンテープから来た人がいるほど特別に非常に引き付ける内容があるに違いありません。それがアビダンマと呼ぶものであることは確かです。

 他の回でアビダンマに言及したことは一度もなく、今回は「アビダンマとは何か」という主題なので、だからたくさん来ました。これはアビダンマの話はどのように重要かを表しています。少なくとも仏教教団員にとって、誰でも非常に関心がある物です。だから初めに、なぜこの話を、アビダンマの話をするのかについて話したいと思います。

 アビダンマの話は、非常に関心を持たれている話で、わざわざ遠方から来た人がいるのは、アビダンマは関心がある物で、誰もがアビダンマについて考えると言うことができる、とお話しました。これは、動物と人、両方の本能の威力です。つまり何かを知りたがり、どんどん深入りし、幼い子供でも何かを知りたがり、深く遠回りしたがるので次々に質問します。これは本能の威力です。この本能の感覚があれば、深遠で込み入った話であるアビダンマの話を知りたがるのは当たり前です。

 だから「誰でも例外なく誰でもアビダンマの友」と見なしてください。深遠で込み入った物を学ぶ、あるいは聞く機会があるか無いか、機会次第です。しかし確かなのは、誰でも知りたがるので、誰でもアビダンマの友と見なします。今は嫌いで罵り合っていても、喧嘩別れしていても、それらはアビダンマの友達です。喧嘩するのは深遠なアビダンマを知りたがり、知ったことが一致しないから喧嘩します。これです。だから私はアビダンマの話をしなければなりません。それは目的、あるいは本能の威力による私たちの願望と一致するからです。

 しかし今現在、今日、それはまだ盲人が象を撫でるのと変わらない問題があります。つまりアビダンマを正しく撫でていません。アビダンマは象よりもっと図体が大きく、象の体は小さいですが、それでも盲人はいろんな所に触れて撫で、いろんな器官に触れますが、正しく象の核心に触れたことはありません。盲人は撫でて象の心臓部に触れることはできないと考えて見てください。尾に触れ、脚に触れ、腹に触れ、牙に触れ、盲人は象を撫でて器官に触れますが、心臓部には触れません。

 だから私たちアビダンマの友は、撫でて象の心臓に触れないという項目になるかもしれません。つまりアビダンマの心臓部に触れないで、アビダンマの尾、耳、脚、腕などに触れることが、理解し合えなくする原因です。これが理解できない点で、幾つもあり、このアビダンマも一つの話です。

 一九六五年のある時、クルンテープ(バンコクのこと)で「理解し合えないこと」という話をし、「アビダンマはブッダヴァチャナの形になっていない」と一言話すと腹を立てた人がいて、国のほとんどと言うことができました。「アビダンマはブッダヴァチャナの形でない」と言うと、彼らの耳は偏って「アビダンマはブッダヴァチャナ、あるいはブッダの言葉ではない」と聞いたからです。

 私が「アビダンマはブッダヴァチャナ、あるいはブッダの言葉の形の中にない」と言っても、アビダンマの講義の文字はブッダヴァチャナの形の中になく、新しく編集して綴った言葉で、実質はブッダヴァチャナも、違うのもあります。これです。だからアビダンマの友全員がアビダンマの心臓部に到達するまで、休まず理解しなければなりません。

 私は、可能な限りみなさん全員がアビダンマ、あるいはアビダンマの心臓部を持つことを目指していますが、一方的に自慢し、あるいは知識を主張するのでなく、アビダンマとは何か、そしてその心臓部はどこにあるかを検証して見せる努力を、可能な限りすると主張します。

 講演者である私自身も、アビダンマの友全員にアビダンマの心臓部を掴ませる意図と、善意で話し、どこにも悪意はありません。私も同じ考えがある仲間の一人で、つまり本能で深遠な物を知りたいので、アビダンマを知りたがります。出家前もアビダンマに興味を持ったことがあり、出家して四十五年になり、そしてアビダンマには出家前から関心があるので、かれこれ五十年くらいで、今もです。

 スラータニーでは五十年前からダンマブーチャー寺でアビダンマを勉強していて、私はプムリエンにいたので一緒に学び、カーマーヴァチャラ、ルーパーヴァチャラについてお喋りし、それは何か知らなくても珍しくて非常に楽しかったのは、それが関心を引き寄せるものであり、珍しく不思議だったからです。

 次に勉強していって何に出合ったかは、自分の心で知り、それを何の利益のために使えるか、それも心で知るので、アビダンマと呼ぶ話に五十年も関心を持って来たことについて、話すことがたくさんあります。

 ここで話すのは、全員に利益を与える意図があり、反論、あるいは自慢する意図はありません。誰に反論するのでもなく、そして自分の何を自慢するのでもありませんが、誰もがアビダンマと呼ぶものから利益を得られるようにする純粋な心があると、正しく理解してください。だから特別な関心をもって良く聞いてください。眠気を堪えてクルンテープから来た方もたくさんいるので、見合う利益を受け取ってください。しかし眠くならないほど楽しいかどうか保証はしません。

 利益の話は、話すならそれぞれの人が受け取るべきで、これは利益の一つで、そして国中の仏教教団員も受け取る、これも利益の一つで、少なくとも二つの利益があります。分かるように話せば、これらの利益を確実に受け取らなければなりません。聞く人全員が利益を得る初めの項目は、過剰な部分、あるいは膨張した部分の代わりに、本物の部分から選別することを知ります。

 アビダンマと呼ぶものには二つの部分があり、本物の部分が一つと、過剰な部分、あるいは膨張した部分が一つです。選ぶことを知っていれば、本物の部分を選んで過剰な部分に関わらないことができ、そして二つの部分に分割することを知ることができます。

 この二つの部分の初めの部分はダンマとヴィナヤで、もう一つはアビダンマとアビヴィナヤです。聞き慣れない人は、三蔵の中には一組、つまり二セットあり、ダンマとヴィナヤが一つ、そしてアビダンマとアビヴィナヤが一つと、今聞いてしまってください。あなたがアビダンマとアビヴィナヤからダンマとヴィナヤを区別することを知っていれば安全で、得るのは本物の以上に本物の部分で、膨張した部分、過剰な部分はありません。次に私たちは本当の教祖を自分と一緒にいるものにできます。

 ブッダが般涅槃された時、遺言として「如行が規定して説いたダンマヴィナヤのどれでも、それが、私が去った後のみなさんの教祖です」と言われました。ブッダは「ブッダの体が消滅した後は、ダンマヴィナヤがブッダに変わる教祖としてある」と言われた主旨を掴んでください。私たちがダンマヴィナヤをしっかり維持することで、一緒に生きている教祖がいます。ダンマ・ヴィナヤはアビダンマ・アビヴィナヤでなく、ダンマ・ヴィナヤをアビダンマ・アビヴィナヤと区別すれば、本当に生きている、そして自分と一緒にいる教祖にすることができます。

 結果を見れば、プラタムの結果である涼しさを得ます。涅槃は涼しさで、私たちの日常生活の中の直接ダンマヴィナヤの結果です。これが、一人一人がアビダンマとは何かを知ることから受け取るべき利益の見本です。

 社会全体、あるいは国中が受け取るべき利益は、つまりタイの仏教教団員は全員、あれこれ愚かに執着して信じやすいと非難されません。外国の学生の視点、特にファランと呼ぶ西洋人は、私たちが何かを愚かにしているのを見ると、彼らは内心「これは迷信だ」と考えます。こういうのはタイの恥なので、私たちタイの仏教教団員は、西洋人がこのような角度で見る愚かな物があってはなりません。

 このようなら、我が国は国教である仏教から利益を受け取り、仏教は満足できる普及を振興する部分が増えます。これが団体が受け取る利益で、このようにあり、合わせて二つ、膨大な利益です。

 だからアビダンマと呼ぶものは重要な話です。つまり利益を得させることもあり、利益を得させないこともあり、愚かにすることもあり、愚かにしないこともあると見なします。本物もあり、膨張したもの、過剰なものもあるからです。私は何が膨張した過剰な部分で、何が本物の部分かだけを話します。みなさん、私はみなさんに利益を得させる意図で話し、反論や自慢するためではないと、しっかり聞いてください。

 さて次に、私は広い範囲の、広い意味の、つまりすべての角度から「アビダンマ」と呼ぶものについて話します。あらゆる角度から広く話すことをお許しください。我慢できずに眠くなったら眠ってください。特にお願いするのは、すぐに眠くならないで、すぐに眠らないで自分の腿をつねって、すべての角度を聞くために眠くならないで、眠らないでください。

 アビダンマと呼ぶものは何か。この項目になりました。次に綴り、文字を見ると、アビダンマという言葉の綴りは、ダンマはダンマで、アビの部分、これが先導する障害で、これは「最高の」、あるいは「大きな」という意味でも良く、「過剰」という意味でも良いです。だからこのアビダンマは過剰な部分であるダンマ、あるいは非常に偉大な部分のダンマの、二つの角度になります。

 次に「偉大」というのも同じで、パリヤッティの方で偉大か、実践の方で偉大か、あるいは実践の結果、あるいは論争、論争するための理由がある dialectic の方の偉大か、どの方面に偉大かという問題があります。アビダンマにはヴェーダッラというまた別の名前があります。つまり知性、深遠な理論で論争する方向の話で、これは偉大ですが実践の方の偉大ではなく、論争の方の偉大もあります。

 過剰というのは、人間が知らなければならない、あるいは実践しなければならない必要を超えているという意味で、人間は滅苦のための実践の話を知る必要があり、それを超えれば過剰、あるいは必要がない、あるいは関心を持つ必要はないと言います。アビダンマとアビヴィナヤは過剰な部分で、綴りとして「過剰な部分」という意味もあり、そして本当に過剰な部分でもあります。過剰な部分と分かるのは、ブッダがご自身で話されたブッダバーシタによってで、この部分に、少し関心を持って聞いてください。

 アングッタラニカーヤのパーリ(ブッダの言葉である経)のブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)に、馬について述べている経があり、小型馬と大きな馬と良く訓練された馬の三種類がいます。三種類の馬の、ある馬は脚が速く、毛色は美しくなく、姿も悪く、ある馬は脚が速く、毛色も美しいですが体形が悪く、そしてある馬は脚が速く、毛色も美しく、姿も美しい点がみんな違います。速く、色が美しく、容姿が美しい、この三種類の部分をしっかり憶えてください。小型馬は預流、一来で、大型馬は不還で、良く調教された馬は阿羅漢です。

 小型馬は四聖諦を知っているので速く走り、つまり預流果に到達し、預流、あるいは一来である四聖諦を知っている人は、速く走る小型馬と呼び、この小型馬はアビダンマについて質問されると口を閉ざして答えられないので色が美しくなく、そして有名でなく、名誉がなく、お供え物がないので姿が良くありません。

 二番目の小型馬は速く走る預流、あるいは一来で、色が美しく、つまりアビダンマ・アビヴィナヤの問題に淀みなく答えることができます。しかし姿はあまり良くなく、つまり名誉がなく、貰い物も少ないです。

 三番目の小型馬は速く走り、つまり預流または一来で、色が美しく、つまりアビダンマ、アビヴィナヤの問題に淀みなく答えることができ、そして姿も良く、つまり名誉名声、貰い物もあります。これで小型馬は終わり、三種類の観察点があります。

 大型馬は不還で、第一の部類の大型馬は速く走り、つまり不還果に到達した不還で、そして色は美しくなく、つまりこの部類の不還はアビダンマ・アビヴィナヤの問題に答えることができず、アビダンマ・アビヴィナヤに関わる問題を質問する人がいると困って口を噤み、そして姿もあまり良くなく、つまりあまり名声がなく貰い物もありません。

 二番目の不還は速く走って不還果に到達し、そして色が美しく、つまりアビダンマ、アビヴィナヤの問題に流暢に答えることができますが、姿は美しくない、つまり名誉や名声、貰い物がありません。

 三番目の大型馬は速く走って不還に到達し、色も美しく、つまりアビダンマ・アビヴィナヤの問題に淀みなく答えることができ、そして姿が美しく、つまり名誉名声、貰い物があり、尊敬信仰される人です。これで大型馬は終わりです。

 良く調教された馬は阿羅漢で、阿羅漢に喩えられ、一番目は速く走り、阿羅漢になるまで走って来て、聖向聖果に到達して阿羅漢になったので、調教された馬は速く走りますが、色は美しくなく、つまりこの種の阿羅漢はアビダンマ・アビヴィナヤの問題を質問する人がいると、口を噤んで一言も話すことができず、そして姿も美しくなく、つまり名誉名声がなく、貰い物がなく、そのように広く知られる人ではありません。

 二番目の調教された馬は、この阿羅漢である調教された馬は速く走り、つまり阿羅漢であり、そして色が美しく、つまりアビダンマ・アビヴィナヤの問題に淀みなく答えることができますが姿は美しくなく、つまり名誉名声がなく、貰い物がありません。

 最後の三番目の調教された馬は速く走り、色も美しく、つまりアビダンマ・アビヴィナヤに流暢に答えることができ、そして姿も良く、名誉名声があり、貰い物があり、広く知られている人です。

 みなさん良く観察して見てください。そうすれば三つの部類の馬という言葉は、一つの部類に三種類あるので合計九種類になりますが、それは重要でなく、重用なのは、預流でアビダンマ、アビヴィナヤを一言も話したことがない人も、一来、不還で一言もアビダンマ、アビヴィナヤについて話せない人も、そして阿羅漢になっても一言もアビダンマ・アビヴィナヤについて話せない人もいる点が重要です。

 預流、一来、不還、阿羅漢、四種類全部、アビダンマを一言も話せない人もいます。そして重要なのは、アビダンマを知る必要がなく、アビダンマを話すことができず、アビヴィナヤを知らず、アビヴィナヤを話すことができなくても、その方々は聖向聖果に到達するまで実践し、そして滅苦ができる点にあります。

 だから私は、このアビダンマ・アビヴィナヤは過剰な部分で、知らなくても、話せなくても聖向聖果に到達して阿羅漢になれるので、過剰な部分と見なします。パーリのアングッタラニカーヤ ティカニバータ ヨーターチヴァヴァッガを見てください。パーリ版ななら二十巻の三七〇頁、五八〇項に、このような文章があります。

 だからアビダンマ・アビヴィナヤの二種類は過剰な部分で、直接滅苦の実践をする人にとって必要ありませんが、アビダンマ・アビヴィナヤを学び、流暢に話せる膨張した知性がある人にとってふさわしいと見なします。これも一般の人にとっては過剰な部分ですが、有り余る知性がある人にとっては過剰な部分ではないと言います。

 次にあなたも、自分がどの部類に入るか分類することができます。普通の人の部類なら、アビダンマ・アビヴィナヤは知っても知らなくても良い過剰な部分とお知りなさい。しかしあなたが賢い人で使いきれない智慧があるなら、このアビダンマ・アビヴィナヤは、あなたにとってちょうど良いです。だからこのようにアビダンマ・アビヴィナヤを知ってください。

 続いてブッダがそのように話しておかれたアビダンマ・アビヴィナヤと呼ぶものは、ブッダ以前からあります。アビダンマ・アビヴィナヤという言葉はブッダ以前からあり、ブッダの時代にも話され、アビダンマピダカ(論蔵)の七教典がなくても、彼らにはアビダンマ・アビヴィナヤという言葉があり、ダンマの解説、あるいは普通の人にとって必要を超えた説明を意味しました。さっきダンマとヴィナヤと言った言葉を思い出してください。これが一組で、そしてアビダンマとアビヴィナヤが一組です。

 ダンマは普通の実践項目を意味し、アビダンマなら普通を超えています。ヴィナヤは普通のヴィナヤ、特にパーティモッカです。次に必要以上に詳細なヴィナヤの説明の言葉、例えば論蔵の中のバーチャニーヤ、カンダカの類、ヴィニータヴァットゥの類などが過剰な部分で、そしてそれがアビヴィナヤと呼ぶ部分です。だからダンマとヴィナヤ、アビダンマとアビヴィナヤの二組の言葉が生まれました。

 そのようにブッダが知られた時、アビダンマ・アビヴィナヤと言えば過剰な部分の説明を意味し、ただダンマ・ヴィナヤと言えば、人が実践するために丁度良い必要なものです。そしてブッダは「ダンマとヴィナヤが、私の身体が滅した後のみなさんの教祖としてあります」と明言されています。

 みなさん、直接ブッダバーシタであるこの経を思ってください。今はタイ語訳の三蔵もあるので、読むこともでき、そうすれば、ブッダはそのような状態で話されておいたと分かります。それは過剰な部分であると、一言もアビダンマについて話さなくても預流、一来、不還、阿羅漢になれると私たちに見せる物です。

 次にこの「アビダンマ」という言葉は、一般的な意味では「普通を超えた、あるいは必要以上に深遠で奥深い詳細な説明の言葉」を意味し、ブッダの時代以前からあり、すなわち深遠で、絶妙で、至高で、何かを超えた言い回しで話さなければならない話を意味します。昔は、話せば滑稽な話もあります。

 三蔵の中のジャータカのビンサカジャータカの話は、一部の人、兄弟、男女の奴隷、何でも出家して修行者になったので、食糧として蓮の根を食べなければならない季節になると、蓮の根を探して食べ、交替で当番である一人が蓮の根を採って来て置いておき、全員が食べました。

 次にインドラ神が本心を試しに来て、一番上の兄のために置いてある蓮根を毎日盗むと、一番上の兄である修行者は我慢できなくなって「なぜ私のはないのだ。誰が持って行ったのだ」と質問すると、すべての修行者は、持って行っていないと誓いました。下女である修行者が「もし私がその蓮根を盗んだなら、死んでアビダンマに精通し、アビダンマに賢く、誰も追いつけない比丘尼に生まれさせてください」と宣誓しました。

 考えて見てください。他の修行者が「もし私が盗んだら、天人にしてください、富豪にしてください、国王にしてください」と宣言する時、この修行者は「もし私が泥棒したなら、死んで、誰も追いつけないアビダンマ家に生まれさせてください」と宣言します。

 これは、昔はアビダンマの話を捲し上げる話し方か何かがあり、名声があり、名誉があり、名誉に囲まれても、名誉の話、愛欲の話は修行者が毛嫌いする物なので、誓約の話になッタという意味です。そして誰もが(その誓約を)信じました。それらの修行者にとって王様になる話、天人になる話、富豪になる話、アビダンマに精通した人になる話、これらの話何でも大嫌いなものだからです。

 これも、ブッダの時代以前と、ブッダ在世時にあったことを表している話です。このジャータカの本を著した時代は、既にアビダンマと呼ぶものがあったからです。そして仏教にしかないと理解しないでください。それはすべての宗教、すべての教義で使える共通の言葉だからです。他の宗教には、他の宗教のアビダンマがあり、仏教にも仏教のアビダンマがあり、自分たちのアビダンマ・アビヴィナヤばかりで、同じではありません。

 ダンマヴィナヤは普通のもので、誰にも必要な普通のレベルで、アビダンマ・アビヴィナヤは普通を超えているので、過剰あるいは膨張したと見なします。アビダンマの内容は高い部分だけで、難しい部分、普通の人は話せない、話したことがない高い部分、高い logic で構成された部分なので、それは哲学者の話であり、庶民の話ではなく、賢く、そして暇のある人の話で、アマチュアの哲学者ならまだマシです。

 普通の人が趣味で、マチュア哲学者でアビダンマを学ぶ努力をすれば、アマチュアの哲学者になる機会があります。しかしブッダの時代にこの言葉は普通の話し言葉で、今話されているように霊験のある神聖な言葉ではありません。

 いずれにしてみなさん、私は「アビダンマは誤っている物、あるいは利益のない無意味な物」とは言いませが、「アビダンマは過剰な部分と適度な部分で、普通の人には過剰で、使いきれない知性のある人にとっては丁度良い」と言うと理解してください。

 過剰な部分に関しては難しく、私たちはこれだけの知性しかないのに、過剰な部分、深遠な部分、難しい部分と戯れれば、気づかないうちに淵に落ちます。その人の知性の能力に余るので、能力以上、レベル以上、身分以上の話と戯れれば、気づかずに淵に落ちるからです。だからもう一つのブッダバーシタをしっかり聞いてください。ブッダが未来の危険、つまり将来訪れる五つの恐ろしい危険について話された非常に必要なものです。

 その中の一つ、つまり三つめは、「比丘のみなさん。まだ別の危険もあり、遠い将来体の訓練をせず、戒の訓練をせず、心の訓練をせず、智慧の訓練をしない比丘が大勢いて、その比丘にそのような体の訓練がなく、戒の訓練がなく、智慧の心がなければ、会話をしてアビダンマカター、ヴェーダッラカターについて述べても、自分でも気づかないうちに黒いダンマに落ちます」と言われています。

 この「黒いダンマ」、「気づかないうちに黒いダンマに落ちる」という言葉に関心を持ってください。「比丘のみなさん。このような状態でヴィナヤの曖昧さは、当然ダンマの曖昧さが原因で生じ、ダンマの曖昧さは、当然アビヴィナヤヴィナヤの曖昧さが原因で生じます。比丘のみなさん。これがまだ生じてなく、将来生じる危険の三番目です」。

 この経の要旨は「アビダンマは、アビダンマに触れるためのものが揃っている人にとってふさわしく、アビダンマに触れる物が揃っていない人が話したり何かをしたりすると、気づかずに黒いダンマに落ちる、です。カンハン ダンマンというパーリ(ブッダの言葉)は、黒いダンマという意味で、それは黒いダンマと呼ぶ誤った見解であり、黒いダンマに落ちるとは、気づかずに邪見になる」です。

 身体にきわめて慎重である人でなければならず、つまり身体を正常にし、完璧な戒があり、完璧なサマーディがあり、完璧な智慧があればアビダンマを撫で回すことができ、そして黒いダンマに落ちません。そこまででないのにアビダンマを撫で回せば、気づかずに黒いダンマ、つまり誤った見解に落ちます。

 これは教えてばかりいるうちに、この心はあの世に生まれ、その世に生まれ、この心は死んだら生まれ、善は持って行けるものと教え、こういうのは誤った見解であり、サッサタディッティ(常見)です。心と体は同じ、あるいは心と体は別々ならアンタガーヒカディッティ(辺見)で、サッサタディッティ(常見)の類の誤った見解です。

 そしてこのように黒いダンマに落ちたと気づきません。これが注意深くない人にとっての危険で、適性がないのにアビダンマに触れ、その結果気づかないうちにこのように誤った見解に落ちます。ブッダは黒いダンマ、カンハンダンマンと言われ、知らないうちに黒いダンマに落ちます。

 だからアビダンマ、心の話、非常に詳細なチェタシカの話を教える時は、深く注意をしてください。そして最後に偉大な善に迷って、偉大な善を背負って提げて、この心であの世まで持って行くのはサッサタディッティです。そして「預流は七回生まれ、その人が七回生まれ、棺に入って、そしてまた生まれ、棺に入ってまた生まれ、七回ともその人」と説明する人もいます。

 それで預流であることを持って行くことができるでしょうか。背負ったり提げたりして行けるなら、二回目、三回目の生では、胎内にいる時から預流であり、あり得ません。それがサッサタディッティ、あるいは誤った見解です。つまりブッダが「気づかずに黒いダンマに落ちる」と言われた、気づかずに間違って話す、あるいは気づかずに言い逃れをする考えです。このように注意してください。

 これがアングッタラニカーヤ パンチャカニパータ ヨーターチーヴァヴァッガの中のブッダバーシタです。パーリ語版なら二二巻、一二二頁、七九項です。パーリ語が読めないでタイ語版を読むなら、アングッタラニカーヤを開いて、七九項を見れば一致しますが、ページは同じではありません。パーリ版とタイ語版はページは一致しませんが、項目の番号は全部同じにしてあるので、七九項を見ればこの話があります。

 これを、アビダンマという言葉の綴りでは、意味ではこのようで、過剰な話という意味で、一般の意味があり、ブッダの時代以前からアビダンマを使うことに関心があり、そしてふさわしくない人が触れれば淵、あるいは黒いダンマに気づかないうちに落ちる誤った見解と言います。綴りではこのように見えると言います。

 次のアビダンマとは何かは、アビダンマの種類から先に見て行きます。まだ眠くならないでくださいと、もう一度みなさんに忠告させていただきます。それは眠気を誘います。そして私がアビダンマ家の何方かを当て擦っていると考えないでください。

 冒頭で「避けられないアビダンマの友であるみなさんの利益のために話す」と言いました。今種類について、五十年以上、つまり出家以前からアビダンマを愛し、関心を持って来た私の理解、満足、研究結果であるアビダンマと呼ぶもののいろんな種類について話します。

 私はいつでもこのように、本当の、本物の、最高の、素晴らしい部分、この最高の部分が一つ、そして膨張した部分、あるいは過剰な部分がもう一つと、アビダンマを二種類に分けます。本当のアビダンマ、本物のアビダンマなら滅苦ができるものを意味しなければなりません。しかしブッダは「アビダンマ」と呼ばれたことはなく、「スッタンタ」と呼ばれました。

 「イェー テー スッタンター=すべてのスッタンタのどれも、タターガタバーシター=如行が話した、ガンビーラー=深遠で、ガンビラッター=深遠な要旨があり、ロークッタラー=世界の上にあり、スンヤタッパビサンユッター=スンニャターだけに関わる」。これが、在家にとっても滅苦を助けるものです。今私は、在家の人たちが何が在家の利益になるのか質問して、ブッダがこのように答えられたダンマディンナスッタについて話しています。

 そして反対のものについて、つまり後世に綴られる美しく深遠で、文字も意味も響きが良い教典について話されました。これは興味を持つと別の方向になり、つまり滅苦ができません。私たちは滅苦だけが欲しいので、本当のアビダンマはこのような状態でなければなりません。

 アビダンマと呼んでも呼ばなくても良いですが、ブッダは「スッタンタ」と呼ばれ、「イェー テー スッタンター=このようなものが滅苦ができます」と言われ、アビダンマの話はありません。ブッダは話している滅苦ができるダンマにアビダンマという言葉を使われたことはなく、せいぜい「ダンマヴィナヤ」という言葉を使うだけでした。

 次に段階的になっているアビダンマと呼ぶものを見ると、冒頭で述べた三種類の馬の話のスッタの中のアビダンマ・アビヴィナヤという言葉は、アビダンマピダカ(論蔵)七教典ができる前の、ブッダの時代に話されている種類です。これがアビダンマの一種類です。

 その後深遠なダンマの解説の言葉、深遠な宗教のダンマのいろんな既定の言葉があり、解説して詳細にし、高くしているパティサンビダーマッガ、チュラニデーサ、マハーニデーサなどの教典に興味があれば紐解いて見てください。とても利益があり、それはどのようか知ります。つまりその中でそれぞれの言葉を更に深く広く説明し、タンハー(欲望)という言葉などは何行もたくさん説明し、同義語がたくさんあり、何でもたくさんあります。

 アヴィッジャー(無明)という言葉、カンダ(蘊)という言葉、ダートゥという言葉など、これらはこの種の、パティサンビダーマッガとチュラニデーサなどの教典の義務です。だからサーリープッタがパティサンビターマッガを綴ったと良く知られているこれらの教典が生まれ、これがアビダンマであり、これしかありませんでした。

 次にブッダが涅槃され、サンガーヤナー(結集)をして深遠な部分の説明を綴り、その後二三百年して完璧なアビダンマ七教典が生まれました。アビダンマ七教典は縮小されてアビダンマッタサンガハになり、それからもう一度説明し返して、私たちがクルンテープで勉強している他のアビダンマッタヴィバーヴァニーになりました。

 アビダンマと言う時、クルンテープで勉強している物は三蔵のアビダンマ七教典でなく、アビダンマッタサンガハの解説の言葉です。まだ知らない人もいるので、アビダンマピダカの七教典は何千ページ、ほとんど何万ページで膨大で、そして仏歴千二百年頃のスリランカの一人のアーチャンが何千ページの物をたった何十ページに縮小して、アビダンマッタサンガハと呼んだと教えたいと思います。

 その後アビダマッタサンガハの解説である教典がたくさん著され、それも元と同じ何百ページにもなり、そしてビルマでも教えられ、学ばれるようになり、タイに入ってクルンテープで勉強しています。

 今私は、一つのレベル、一つの grade のアビダンマであるアビダンマ七教典について話しています。次にもう一種類のアビダンマであるアビダンマッタサンガハの時代になります。そしてアビダンマッタサンガハの解説のために自動的に書かれたり、アッタカターを引用して書かれたり、いろんなアビダンマの時代になります。

 アビダンマッタサンガハヴィバーヴァニーなど、これが四番目になり、次に五番目はアビダンマッタヴィバーヴァニーなどについての説明を競う文章になります。それからタマリンドの種を使い、石ころを使わなければならないアビダンマで、こういうのも一つのレベルのアビダンマと見なします。次にその後「ネズミの巣のアビダンマ」と呼ぶ最後になります。

 良く聞いて見てください。私は「ネズミの巣であるアビダンマ」と呼びます。つまり儀式的なアビダンマが生まれ、アビダンマを唱えなければならない、アビダンマを使わなければならない、長寿を祈らなければならない、両親の供養やら何やらをすると、一束十五バーツで商品として売る中国人が生まれました。七巻を十五バーツで、法外な値段で売ります。当時ニッパ椰子の木簡は何サターンもしませんでしたが、彼らは十五バーツ(一バーツは百サタンーン)で売りました。

 私たちがアビダンマに迷って、何としても両親の代わりに作らなければならないからです。次に誰でも作りたがり、誰でも作りたいので、読めなければ読む必要はなく、中国人が書き間違えても見る必要はなく、私が読んで見ると、間違いばかりでした。そしてアーチャンに差し上げます。

 庶民が一束十五バーツで買って、持って来てアーチャンに差し上げ、お寺のアーチャンは仕舞っておかなければならず、初めは祭壇に置いておき、多くなると仕舞う場所がなくなって、何年も経つと食堂の天井裏に棄てるのでネズミの巣で、これらの木簡はネズミの巣になります。これです。形式的なアビダンマは、ネズミの巣のアビダンマを生じさせなければなりません。

 第一グレードのアビダンマは、馬について話しているアビダンマアビヴィナヤで、第二グレードのアビダンマは、サーリープッタが綴って、まだ存命だったブッダの時代に使ったパティサンビダーマッガも含めていろんなニデーサです。その中でアビダンマについて話していれば、この部分を意味し、そしてスッタンタピダカ(経蔵)のグッダカニカーヤ(小部)のアッタカターの所に収め、サンマンタパーサーディカーは、ヴィナヤもアビダンマも、スッタンタピダカのグッダカニカーヤの中に収められていると言っています。

 次に第三グレードのアビダンマはアビダンマ七教典、あるいは六教典で、呼び方次第です。第三回サンガーヤナー以前なら大きなアビダンマは六教典で、まだカターヴァットゥはありません。第三回サンガーヤナーになると七教典があり、カターヴァットゥが加えられました。アビダンマ七教典は第三回サンガーヤナーの時に完璧になり、その後アビダンマと言えば、アビダンマ七教典を意味し、パティサンビダーマッガニデーサも入っています。

 次の第四グレードはアビダンマッタサンガハと、アビダンマッタサンガハの解説、つまりアビダンマピダカを縮小して縮小版だけを残し、その後しばらくするとビルマのように解説を競い合うグレードになります。

 私たちがクルンテープで学んでいるアビダンマ、それはスリランカのアヌルッタという長老がアビダンマピダカ(論蔵)を要約して何ページでもないアビダンマッタサンガハにしたことで始まりまったと憶えておいてください。それはスリランカで芽生え、そしてアビダンマに関心があるビルマで成長し、大々的に学習し、それがタイで、今本気で学んでいるように開花し、実をつけました。それはこれほどまでに領域を超えました。スリランカで芽を出し、ビルマで成長し、タイで開花、結実しました。

 次に、競って解説するアビダンマ、タマリンドの種、あるいは呼び方次第のアビダンマになりました。失礼、このように呼ぶのは軽蔑ではなく、そのようにする必要があります。そしてネズミの巣のアビダンマになります。合わせるとこのような六種類あり、どれにするか選んでください。これは種類で話していて、アビダンマはこのように六種類あり、これは過剰な部分です。

 本物、本当の部分であるアビダンマはブッダが話されたスンニャター(空)の話です。これが、アビダンマとは何かを説明して見せる物です。それは六、あるいは七種類あり、どちらが本物でどちらが何か、自分で見ても良いです。

 アビダンマとは何かと話せば、次は利益に依存して、アビダンマの利益を話す基準にして話します。利益とは目的、目的は利益である目的で、これらのアビダンマがある目的、それを利益と言います。これは大昔、ブッダの時代、そして現代と分けなければなりません。

 大昔、ブッダの時代以前という意味ですが、これらの言葉が話され、アビダンマヴィナヤと話すこともあり、まだ仏教が生まれない時からこれらの言葉があり、ダンマヴィナヤ、アビダンマ・アビヴィナヤと使われていましたが、後の時代のような要旨はありません。でも普通に話すこの言葉はありました。深遠で聡明な哲学や論理学の起源である言葉、それがアビダンマです。

 彼らは、ブッダの時代以前からこれらの言葉を使い、何百年、何千年かも知れません。インドはブッダの時代の五百年くらい前から学問で発展し、初めは哲学者でしたが十分な哲学者でなく、ブッダのような哲学者でなく、logic 、哲学面で、高くて深い面で話す哲学者は、ブッダの時代の五百年も前から話されていました。だからこれらの言葉はアビダンマと呼ぶものを意味しました。

 このアビダンマは利益があり、人を賢く訓練します。賢く話し、賢く考え、賢く質問する話に関われば、その人は賢いです。だから彼らは、この種の話をすること、あるいは学習を好み、自分の幼い子供にも賢い言葉を話させ、賢い話を質問させ、考えさせることを好み、幼い時から賢くしたがりました。それがアビダンマの起源、あるいは目的です。行き過ぎたものである「アビダンマ」と呼ぶものも、人を賢くする利益があります。

 人に鋭敏な弁舌、論理、雄弁などの才智を持たせる訓練は、小さな時からその子を賢く輝かせます。だから話す言葉の賢さ、賢い話し方、普通より深く話しておくことはブッダの時代以前からあります。それがブッダの時代以前の大昔のアビダンマと呼ぶものです。

 ブッダの時代にはハッキリ見えます。三蔵を調べて見てください。ブッダの時代は哲学の黄金時代で、現代の言語のように格好良く話しました。哲学の黄金時代はインドのウパニシャッドの時代です。インドのウパニシャッドの時代はブッダの時代が真ん中にあり、そして前後二百五十年で、合計五百年と見積もることができます。

 この五百年間はウパニシャッドの時代、インド哲学の黄金時代で、アビダンマで満ち溢れていました。たくさんの教団、たくさんの団体、たくさんの集団、たくさんの群れ、どれも賢い人ばかりで、高度な主義や言い回しばかり掲げました。

 哲学者と、哲学者同士の集会である社会のすべての教団、すべての支部はアビダンマの言い回しを使わなければなりません。ブッダは「そうだ、マガタで彼らの賭場に加わろう」と選びました。マガタは哲学者の集会所だったので、ブッダが彼らの賭場に参加したのは、ご自身の教理を発表するためです。哲学者の集まる場所、あるいは賭場である所はどこでも、そこにはアビダンマが溢れていました。

 しかし一般的な目的は、才智の訓練、内面の聡明さを訓練するためでした。彼らには彼らの団体があり、個々の修道院を建て、修道院内ですべての人が、今アビダンマと呼んでいる物で賢く聡明になるよう訓練しなければなりませんでした。

 彼らがアビダンマという言葉を使わず他の言葉を使っても、同じ意味があり、たとえばヴェーダッラという言葉は最高に深遠で、聡明な弁舌で反論して問い詰める、これはアビダンマであり、どの教団のどの支部にもなければならず、使わなければならず、そうでなければ他に追いつけず、ライバルに負け、落ちぶれた教団になります。

 別の見方をすると、それは哲学者の、サマナバラモンの脳のスポーツです。哲学者であるサマナとバラモンは試合をしなければなりませんが、私たちのようにフットボールをすることはできないので、アビダンマ、アビパラジャヤーの面の脳の訓練の試合をしました。後で教える義務がある、修道院の中での、聡明な知性があるサマナバラモンの脳のスポーツ、それがアビダンマです。

 朝方ブッダが「まだ(托鉢には)時間が早すぎる」と、わざと他の教義の寺に立ち寄られ、アビダンマレベルの機知に富んだ話について会話されました。三蔵を読んで見ると、時々「朝方ブッダが托鉢に出かけられ、しかし偶々その日は早すぎたので、他の教団の寺に寄り、脳で闘う深くて難しい話の会話をされた」とあります。

 これが哲学者の賭場である国の至る所にあったアビダンマの状態です。ブッダの時代はこのようで、アビダンマと呼ぶものが仏教の狭い世界に来るまで、このような利益、このような目的で使われました。

 現在になると、特にタイではアビダンマが学ばれ、話され、同じように聡明にしましたが、それは間違っていたり正しかったり、過剰だったり委縮していたり、いずれにしても学ぶ人、話す人、教える人の真実次第です。多少違うのは、今それは神聖なもの、霊験のあるものになり、アビダンマでなければ関心がないほど霊験や神聖な方の信頼があります。ね、今日アビダンマについて話す予定がなければ、クルンテープから来たみなさんは、たぶん来ていません。

 タイではこのような霊験と神聖さがあります。今までアビダンマはこのような名誉を受けたことはありません。それは行き過ぎです。ダンマとヴィナヤは丁度良いもので、アビダンマアビヴィナヤは行き過ぎたものです。過剰な部分は注意してください。先ほど話したように、落ちて黒いダンマに行きます。

 それは、ぼんやりすると落ちて自慢するもの、他人を威嚇するものになります。他人を脅して自慢をし、自慢をする道具に使います。人同士ばかりでなく、国同士でも自慢して威嚇する道具として使います。それは行き過ぎで、彼らはこのように目指したことはありませんが、今はここまでできます。

 それ以上のものを言えば、利益を探求する道具として使います。注意してください。アビダンマを利益を探求する道具にするほど気に留めません。食べる話、性の話、名誉の話を探求する道具としてアビダンマを使う、こういうのはお終いです。それは目的を誤り、何もかも誤るので、利益はこのように限度を超えていると、この部分に注意してください。

 ここまでになれば、そのアビダンマ家は暗いダンマに落ちていて、煩悩、愛惜があり、あるいは商品を売る、あるいは誰かがちょっと触れただけで火のように怒ります。私は「アビダンマはブッダヴァチャナの形の中にない」と一言言っただけで、アビダンマを愛惜する人たちから物凄く罵られました。これは迷って霊験や神聖さに執着しすぎています。

 それ以上に、今彼らはアビダンマをヴィパッサナー教習所のクレジットに使います。どのヴィパッサナー教習所もクレジットとして、看板としてアビダンマを掲げ、初めに勉強してアビダンマ家になります。ブッダの時代にはなく、ヴィパッサナー家と関わりませんでした。アビダンマはヴィパッサナーの敵です。今はアビダンマを看板にし、商標にし、ヴィパッサナーに誘う宣伝にします。

 宗教の最高に重要な長老に関わる話を読んで見てください。例えばミリンダ王を討ちに行ったプラナーガセーナなどは重要人物で、重要な義務をし、つまり誤った見解の人ミリンダ王を討伐しました。あるいは第三回サンガーヤナーの議長だったモッガリープッタ長老は最高に重要な方で、この方が彼の先生で、幼い沙弥の時からこの沙弥をミリンダ王を懲らしめに行く最高に賢い人、ナーガセーナに育てようと、協力し合ってしつけし、薫陶し、囲んで世話をしました。

 次に彼は沙弥の時から世話をし、学ばせ、教育し、最高に良く薫陶し、僧になるとヴィパッサナーをしに行くのを禁止し、ヴィパッサナーをしに行かせないでアビダンマを学ばせました。分かりますか。彼はナーガセーナである人にアビダンマを先に学ばせ、すぐにヴィパッサナーを学ばせないで禁止し、周辺を包囲して精通するまでアビダンマを学ばせました。それからヴィパッサナーを学んで阿羅漢になると、ミリンダ王を討伐に行きました。

 ヴィパッサナーを先に学ばせてしまえば、絶対にアビダンマを学びません。アビダンマは膨れ上がったもの、過剰なものだからです。もしプラナーガセーナがヴィパッサナーをしに行かされ、そして阿羅漢になってしまえば、絶対にアビダンマを勉強しません。それは膨れ上がったもの、過剰なものだからです。そこで強制してアビダンマを精通するまで学ばせ、それからヴィパッサナーをして阿羅漢になり、そしてミリンダ王を討伐に行きました。そして仏教史上の他の重要な長老も同じ状態がありました。

 これを、ヴィパッサナーの教習所と関わったことがないと言います。今は看板にし、商標にし、アビダンマを教えなければならず、アビダンマがなければならず、そうすれば正しい、良い、何かのヴィパッサナー教習所になり、その教習所の信用です。これが利益あるいは目的で、それはこのように散らばってしまい、膨張したもの、信用させる宣伝に使われるもので、本物ではありません。

 利益、あるいは目的は自然の法則で正しくならなければならず、脳の発展がなければならず、人間は継続して脳の発展がなければならないので、どこへも逃げて行かず、必ずアビダンマと呼ぶものを求めますが、遠くまで行けるどうかは人によると、もう一度広く見ます。しかし人間の脳は際限なく、止まることを知らず発展しなければならないので、いずれかの角度、いずれかの様式のアビダンマと呼ぶものが人間と関わらなければならないことを忘れないでください。

 だから「私はアビダンマが好きでない」と心配しないでください。それは利益、つまり脳の発展があります。意図する必要はなく、誰も意図しなくても、それはそのようになります。脳の発展はどんどん深い方、高い方、善い方へ行くからです。アビダンマの利益はこのようにあると言います。ブッダの時代以前と、ブッダの時代と、現代と、目的は同じではありません。

 要するにアビダンマと呼ぶものを見る時、名前を聞くと、アビとは「過ぎた」、あるいは「極めて」という意味で、綴りでのアビダンマは過剰です。種類では名を挙げて来たたくさんの種類からネズミの巣のアビダンマまで、過剰であることを暗示しています。次に目的、あるいは本当の利益は、人間が本当のアビダンマの目的を超えさせたので、過剰な話ばかりです。

 だからアビダンマとは、普通の人間にとって過剰な部分であるダンマです。しかしこの過剰と言うのは悪でなく、誤りでなく、意味がなくはなく、良い部分もあります。まだ正しく、意味がありますが、普通の人にとっては過剰です。普通の人は注意してください。誤りでなく、悪でなく、無意味でなく、厭わしくもありませんが、過剰な部分です。

 この過剰な部分は、ルーパ(形、つまり体)の話、チッタ(心)の話、チェタシカ(心の)の話、これらの物の関係の話を学ぶにはたくさんあり、この知識、つまりルーパの話、チッタの話、チェタシカの話の知識で新しい人間を創れるかのように良く知り、学んだら人を創ることができますが、生まれて生きている人間がどのように滅苦できるかという話には関心がありません。

 ルーパの話、チッタの話、チェタシカの話の教典の中に、新しい人間を創ることができるような方法について教えていますが、生まれている人間がどのように滅苦できるか教える十分な言葉はありません。アビダンマはこのような始末なので、「過剰」と呼ぶ範囲にあります。

 アビダンマ・アビヴィナヤに関する三蔵の言葉であるもう一つのパーリを聞かせたいと思います。ブッダが座っておられる集会の中に、森で暮らす僧は高い徳があると自分の情況を自慢する僧の一団がいました。その前に、ブッダの時代に森の僧と言えば、非常に名誉があったと理解してください。つまり森に住んで庶民や貰い物や何かとまったく関わらずに森で暮らす人は、町の僧より特別な立場に、つまり町の僧より高くて善い僧と持ち上げられました。

 ブッダも同座されている集会で、ゴリッサーニサという名のその森で一番の僧がその集会に来て、ブッダが同座なさっている集会でも行儀作法が粗野で、口の利き方が下品でした。次にサーリープッタが仕切って、つまり「森の僧はどのようにしなければならないか」と発言しました。これに「森の僧はアビダンマを知り、アビヴィナヤを知らなければならない」という項目があります。

 この十七項の中に、森の僧はアビダンマ、アビヴィナヤに精通しなければならないという一項があります。重要な項目一項だけでなく、順に考察します。

 第一項は、森の僧がサンガの集会に来た時は梵行仲間を尊重し、畏敬し、丁重で腰の低い人で、自分は森の僧だと思っている傲慢な人ではいけない。次にこのように粗野で下品な行動をする森の僧は「森の僧として形なしで、行儀作法が見苦しい」と、全員が忠告します。

 第二項は、森の僧が僧の集会に来たら、座ることに賢くなければならない。つまり長老を押して座らず、新入りの僧の妨害になる座り方をしてはいけないなど。その森の僧は粗暴で座り方も知らないので「森の僧は座ることの賢さを知らなければならない」と言われなければなりません。

 第三項は、森の僧は朝早く村に入るべきでなく、朝遅くならないうちに村から去るべきです。もしそのようにすれば、村人は「この僧は夜遊びが習性になっている」と言います。

 第四項は、森の僧は食事の前も食事の後も、良家へ遊びに行くべきでない。人々が「この森の僧は遊び好きで、非時に、宵や夜でも遊ぶ」と非難します。

 第五項は、森の僧は体に熱狂し、言葉に熱狂すべきでない。

 第六項は、森の僧は直言すべきでなく、無分別に話すべきでない。

 第七項は、森の僧は話すことに慎みがあり、言うことを聞く人で、友人の忠告を聞き入れ、頑なではいけない。

第八項は森の僧はすべてのインドリアの門、つまり目・耳・鼻・舌・体・心を良く管理する人であるべき。

 第九項は、森の僧はガツガツしないで、食べることの適量を知るべきで、森にいる時飢えて、村へ来て大食などをしない。

 第十項は、森の僧は目覚める道具であるダンマの努力があるべきで、つまりたくさん寝てはいけない。それは森に住んでたくさん寝て、ジャーガリヤーヌヨーガ(眠らない努力)がないなどの習性になる。

 第十一項は、森の僧は不退転の努力を始めるべき。

 第十二項は、忘れていないサティがある人であるべき。

 第十三項は、サマーディである心があるべき。

 第十四項は、智慧がある人であるべき。

 この第十四項は、すべて必要です。そして過剰な項目は、

 第十五項は、森の僧はアビダンマ・アビヴィナヤを探求すべきで、森の僧にこの話を質問する人がいるので、答えられないとその人にとって利益にならず、「この森の僧は何の利益もない」と非難されるから、アビダンマ・アビヴィナヤを探求すべき。

 第十六項は、森の僧はサマーバッティ(禅定)より高く緻密な解脱を探求すべき。本当は必要ないが、人がこの僧は森に住んでいると見て論争して上達し、高くし、形禅定より高いレベルの解脱をするので、だから森の僧はこのサマーディ解脱の訓練をして、形禅定より高くしなければならない。

 第十七項は、森の僧はウタリマヌッサヤダンマ(上人法)の探求をするべき。ウタリマヌッサヤダンマは、普通の比丘がウタリマヌッサヤダンマを自慢すればパーラージカ(永久追放に値する重罪)で、森の僧は庶民が「森の僧は高い徳があるべき」と望んでいるので、ウタリマヌッサヤダンマを探求しなければならない。だから定があるよう、禅定があり、解脱があり、解脱・何かの聖向聖果があるよう努力しなさい。

 これは森の僧になければならない過剰な部分で、庶民が特別なものと持ち上げる、村の僧より得意な何かがなければならない。

 これにも「アビダンマ・アビヴィナヤ」という言葉があり、ここまで付いてきて、これは中部マッジマパンナーサ、第二〇三項のゴリサーニサスッタで詳しく読んで見てください。

 その時モッガラーナが「これは森の僧だけに実践させるのですか。村の僧はそのようではないのですか」と割り込んで来ると、サーリープッタは「そうではありません。森の僧がしなければならないなら、村の僧は言うまでもありません」と答えました。つまり村の僧もしなければなりません。だから村の僧も人に聞かれた時のためにアビダンマ・アビヴィナヤに関心を持たなければならないということです。

 それは出家して久しい僧の不名誉、名折れになります。そしてこれは「アビダンマ・アビヴィナヤは過剰な部分、つまり必要以上、普通のレベル以上と見なされていた」と指摘して見せる三蔵の中のパーリの一つの経です。しかし利益がない訳ではなく、利益はあり、時にはなければなりません。そうでなければ他の害があり、要するにそれは過剰です。

 次に「過剰」という言葉について話す機会を少し頂戴します。過剰という一語について、子供を例を挙げれば、子供に何かを学ばせ、何かを知らせ、どれだけ質問をすれば丁度良いと言い、過剰なら過剰と言うでしょうか。子供は知識があるべきで、あるいは質問して知るべきで、そして善行をするにはどのようにするかだけ知って、そして行動します。善行はどのようかを知って、します。

 これは子供にとって丁度良く、いずれかの方法で何としても善行をすると言います。これも子供にとって十分です。しかし子供が「何でしなければならないの。そして何で善悪を判断するの」と言うほど異常なら、そこまで行ったら、それは子供にとって過剰です。どのようにするかしないか、何が良いか何が良くないか知っている哲学者にとって過剰でなくても、このダンマは子供にとって過剰です。

 あるいは子供が「え、あの人たちは何時から善行をしているの?」と聞いたら、年寄りは答えられません。「善行をして良くなかったら誰が補償するの」。このように聞いけば、それは過剰で、子供にとって過剰です。子供たちは知るべきですが、何らかの方法で何としても善行をすれば十分です。慌てふためいて知らせる、あるいは質問させないでください。それはアビダンマ、つまり過剰な部分です。ダンマである部分は、どのようでも、何としても善行をすれば十分です。

 さて次は農家になりました。ここの人は農家が多く、たくさんの人が稲作をしているので、農家のために話したいと思います。農家はどのように土を選ぶか、どのように季節を選ぶか、どのように種籾を選ぶか、どのように肥料を選ぶか、どのように耕して蒔いて田植えをして、世話をして刈り取るか、それだけで十分です。

 国の背骨である農家として十分です。私は、農務省の事務所の椅子に座っているのでなく、国の背骨である農家という意味で話しています。田んぼの中で日差しを浴び、汗を浴びている国の背骨である農家は土を選び、時を選び、種を選び、肥料を選び、耕して、蒔いて、田植えして、世話をして刈り取る方法を知るだけで、農家として十分です。

 土の元素、リン酸の元素、いろんな元素を知り、他の元素はどのように分類するかを知る、こういうのはその農家にとって過剰で、膨れ上がったアビダンマです。そして農家の誰かが頑固になり、これを知らなければ田んぼを作らないと言い出せば飢死するに違いありません。それは農務省で農業について教える先生の話で、農家の話ではありません。

 農家が土を構成している元素、肥料を構成している元素は何か、稲の芽にはどんな元素があるか、稲全体にはどんな元素があるか、稲は何時どの時代に世界に生じ、どのように経過したか、何百万年前から水牛で耕すようになったか、人間が畑作、耕作をするようになったのは何百年前で、木、鉄、水牛には何の元素があるかを知れば、そういうのを知らなければ作業をしたがらなければ、こういう農家は狂っています。それは過剰以上に過剰で、農家のアビダンマ以上にアビダンマです。過剰という言葉はこのような意味があります。

 滅苦をする、私たち仏教教団員の話になりました。本当は実践面の一つの話だけを知れば十分です。つまり目・耳・鼻・舌・体・心を管理する方法を知るだけです。ちょうど良く、ぴったりで、本当で本物で素晴らしいのは、何かが触れて来たらくだらない考えを生じさせて世界にしない、怒りにしない、迷いにしない状態で、目・耳・鼻・舌・体・心を管理することを教える一文だけです。これだけで十分です。これに関心を持つだけで阿羅漢になれます。このようにすることを「正しく暮らす」と言うからです。

 ブッダは『これらのすべての比丘が正しく暮らせば、世界に阿羅漢が欠けることはない』と言われました。正しい暮らし一項しかなく、目・耳・鼻・舌・体・心を、何かが触れて来たら、貪り・怒り・迷いが生じられない状態に管理する暮らしです。つまり俺、俺の物と執着し、そして貪り・怒り・迷いを生じさせません。これは最高に必要で、最高にふさわしく、最高に丁度良いです。

 次にみなさんはたくさんあるのが好きで、一項だけのものは簡単すぎて好きではないので、四聖諦の四項に分けさせていただきます。苦の話、苦を生じさせる原因の話、滅苦の話、滅苦に至らせる道の話で、合わせて一掴みの木の葉と言い、森全体の葉ではありません。『如行は森全体の木の葉ほどの知識がありますが、如行は一掴みの木の葉だけ教えます』と、ブッダはこのような言い回しをされました。

 みなさん、森全体の木の葉と一掴みの木の葉を比べて見てください。そして一掴みの木の葉とは四聖諦です。次に四聖諦は四つの話で、苦の話、苦を生じさせる原因の話、滅苦の話、滅苦に至らせる道の話です。この四つの話の初めの三つの話は重要でなく、重要なのは滅苦の道である実践の話です。そのように実践できれば滅苦ができ、初めの三つは自然に知ります。実践の中で自然に知ります。

 話した滅苦のための実践、それは何もなく、あるのは目が形と触れ、耳が声と触れ、鼻が臭いと触れた時などに、欲望・怒り・迷いが生じる機会を与えないよう、目・耳・鼻・舌・体・心がいつでも正常であるよう管理するだけです。これだけで十分。ぴったり必要なだけで、そして正しいです。次に要らない、好きでない、非常に好き、だからその度に枝分かれする話になります。

 苦というのは、学習が哲学の言葉に炸裂するので、綴りはどう、要旨はどう、何種類あり、どの種類はどのように軽いか重いか、アビダンマの形になります。幾つもの要素に分かれ、そして一つ一つの要素も別れ、アーヤタに分かれ、カンダ(蘊)に分かれ、パッチャヤカーラ(縁相)に分かれ、それはいつでも歩き出し、どんどんアビダンマになります。初めの時代の阿羅漢はこれらの話は意味が分かりません。

 パーリレベルの教典の伝記を読んでご覧なさい。ブッダが大悟されて人に教えて、何十何百の人を阿羅漢にしましたが、このように分ける話について話したことはありません。話したのは一言だけ、つまり目・耳・鼻・舌・体・心を管理して、俺、俺の物を生じさせない話だけです。アナッタラッカナスッタ(無我相経)などは、このようにカンダ、ダートゥ、アーヤタナと段階的に分け、そして数えきれなくなり、タマリンドの種を使わなければならなくなりません。そういうのはどんどんアビダンマになりました。

 人間を創り直せると言うほど、いろいろな関係や複雑さを学んで知り、カンダを知り、ダートゥ、つまりアーヤタナ、パッチャヤカーラを知れば、人間を作り直すことができますが、生きている人間がどのように滅苦をするかには関心がなく、それについて話さないので、これらの詳細の中にありません。アビダンマの過剰な部分には、生きている人間がどのように滅苦をするかという部分はありませんが、人間を創り直せるほど細目に渡っています。

 これを「過剰な部分」と言います。ちょうど良くし、過剰にしないよう、みんなで注意してください。自分自身も過剰にしないで、タイ国内のすべての社会も過剰にしないで、有益に使える適度にしてください。そうでなければ時間の無駄です。そうでなければ愚かで、そして気づかずに黒いダンマに落ちます。過剰で重くなるので、気づかずに間違って邪見の沼、邪見の淵に落ちます。

 例えば「この人は預流であることを抱えて七回生まれ、この心が生まれる」と教えるのはサッサタディッティ(常見)です。「過剰」というのはこのような意味があります。過剰とはこのような意味があると、憶えてください。

 今、なぜこれほど果敢に審理するのか、このように自由に果敢に審理するのは好きか、話すべきと見ることを次々に話します。この項目、こういうのはいつでもすべての話に使えるように、なぜ私がこれほど勇敢に審理するのか、一度に全部話します。

1.初めに、口で記憶していた三蔵は、四百年から五百年の間、耳で聞き、口で伝承して来て、それから文字で書かれました。四百年余り、あるいはほぼ五百年間口で記憶して耳で聞き、それから文字で書かれたので、四五百年の間にわずかな違いや、意図しない記憶の欠落があるかもしれません。だから果敢に審理しなければなりません。

2.文字で書かれても、それは二千年も経っていて、それが文字で書かれたのは仏歴五百年の頃で、今から二千年前です。だから消えてしまった物、あるいは補填されたもの、あるいは意図的でも意図的でなくても増やされた物があるかも知れません。こういうのがあるかも知れず、写し違いもあるので、私は果敢に審理しなければなりません。

 果敢に審理するのは自慢でなく、ブッダがカーラーマスッタで話されています。前にカーラーマスッタについて詳しく話したので、今は項目を話すだけで十分です。

マー アヌッサヴェン=代々聞いているといって信じてはいけない。
マー イティキラー=ブームだからといって信じてはいけない。
マー パランパラーヤ=昔からして来たという理由で信じてはいけない。
マー ナヤヘトゥ=哲学的理由で信じてはいけない。
マー アーカーラパリヴィタカケン=状況で考えて信じてはいけない。
マー タッカヘトゥ=論理学の方法で信じてはいけない。
マーディッティニッチャーナッカヌティヤー=これは自分の考えで検証に耐えるからといって信じてはいけない。そして最高に悪いのは、
マー ピダカサムッパダーネン=これはピダカにあるという理由で信じても、受け入れてもいけない。そして、
マー バッバルーパターヤ=話す人が信じられそうだという理由で信じてはいけない。そして最後は、
マー サマノー ノー ガルーティ=このサマナは自分の先生という理由で信じてはいけない。

 ブッダはこのように言われました。よく聞いて見てください。このサマナが自分の先生だという理由で信じてはいけない。それが三蔵にあるからという理由で信じてはいけない。信じられそうだからといって信じてはいけない。論理、あるいはロジック、哲学などの理由で信じてはいけない。「それは本当にそのようだ」と心の中に現われた時に信じさせます。誰かが火は熱いと言っても、信じません。

 子供が触って手を引っ込めたら半分信じ、もし自分の手を焼いたら、火は熱いと信じます。ブッダはこのように最高に自由に公開されたので、私は勇敢に審理し、ブッダのことも審理します。このように話すのは罪か、罪でないか、自分で考えてください。ブッダに無礼だと考える人もいますが、ブッダは「私が話してもすぐに信じないで、熟慮判断しなければならず、自分の心で感じたら、それから信じなさい」と命じられました。

 私はこの教えに依拠しています。つまりカーラーマスッタやゴータミースッタ、経蔵のマハーパデーサのスッタンタ側に依拠して果敢に審理し、百パーセント勇敢で、何も抑止しません。しばらく審理してお見せします。

3.まだ、私たちが勉強し、教え、している物の中に、欠点を暗示する、異常を暗示する何かがあるという理由があります。異常とは様式と一致せず、教えと一致しません。例えばアビダンマピダカ(論蔵)を例に挙げれば、率直に忌憚なく、あるいは何も恐れずアビダンマピダカを例に挙げれば、一つの教典の中サッカーヤディッティ(有身見)の言葉を説明し、もう一つの教典でアッタヴァートゥパダーナ(我語取)という言葉を説明し、一言一句が一致するなど、それ自体が暗示しています。

 サッカーヤディッティとアッタヴァートゥパダーナの説明が、一言一句が一致します。預流のサッカーヤディッティと阿羅漢のアッタヴァートゥパダーナが、一言一句同じです。私はこれを疑念を暗示する物、普通の道理にならない異常さを暗示するものと見なします。そして疑念が生じたらすぐに、真実に出合うまで自由に審理します。これは私たちが関わっている物の中に怪しさを暗示するものがあるので、私は果敢に自由に審理するという教えです。

4.次は、言語から言語への伝達、例えばインド語からスリランカ語に、一部はスリランカ語からインド語に戻し、それからタイ語になる、この言語から言語への伝達は、必ず気づかずにうっかり間違えることがあります。そしてその中で意味の解釈、あるいは自分の国にないものについて自分の国にあるように話すことがあり、例えばスリランカの中の話が、インドの話のようになり、それも怪しさを暗示します。

 これは間違わない保証はありません。だから私たちは濾すもの、取捨選択するものであるカーラーマスッタの教えに依存しなければなりません。そして特にアッタカターレベルの解説の言葉も、最高にカーラーマスッタを使わなければなりません。

5.ブッダの言葉の引用の最後の「このサマナは自分の先生という理由だけで信じてはいけない」の、このサマナはブッダで、ブッダは私たちの先生なので信じません。ね、ブッダはこのように教えられました。自分を信じる人であり、ブッダから聞いて勉強して、探求して、実践して、道理を使い、テストをし、それは本当だと見えるまで実践を続けます。

 しかし中にはそこまで待たなくても良く、自分を信じても良いのもあり、例えばブッダが「貪りは熱いもの、怒りは熱いもの、愛は熱いもの」と言われたら、待たずにすぐ信じて良いです。それは今までも心にハッキリと現れているからです。愛は熱いもの、怒りは熱いもの、これはすぐに信じて良いです。

 しかしこのような状態で現れていない話なら、取り敢えず待ちます。もし貪りの話を知らなければ、心に貪りが現れるまで待たなければなりません。そうすれば貪りはどのようか、それはブッダが言われたのと一致すると知ります。だから私は果敢に、述べたような理由で果敢に信じないで、それから果敢に、最高に自由に審理します。

6.再びアビダンマについて、アビダンマ七教典について、特に三蔵のヴィナヤピダカ(論蔵)の部分で、第一回と第二回のサンガーヤナー(結集)について述べた話があり、第一回、第二回サンガーヤナーをした話をし、ダンマとヴィナヤだけについて話し、アビダンマピダカはありません。このようにアビダンマピダカの信用はどこにあるか分からないとハッキリ見えます。

 三蔵の中でも第一回、第二回サンガーヤナーをしたことについて十分詳しく明らかに話しあり、アビダンマについては話さず、話したのはダンマとヴィナヤのサンガーヤナーだけです。

 三蔵の内容を説明しているアッガカターにも、ヴィナヤピダカ(律蔵)の説明、つまり仏歴九百余年に、最高に有名なアッタカターチャーン、ブッダゴーサ師が書いたサマンタパーサーディカー(一切善見)の説明で、師は「ヴィナヤもアビダンマも、グッッダカニカーヤ(小部)、つまりスッタンタピダカ(経蔵)の第五部に収めた」と書かれています。

 これは彼がそのサンガーヤナーをした時、すべてを五部だけに収めたことを意味し、長い話、中くらいの話、短い話、群れになっている話、その他こまごました話で、合わせて五部です。長い話を集めてディーカニカーヤ(長部)と言い、中くらいの話を集めてマッジマニカーヤ(中部)と呼び、短い話を集めてサンユッタニカーヤ(相応部)と言い、群ごとになっている話をアングッタラニカーヤ(増支部)と言い、その他をグッダカニカーヤ(小部)と言います。

 そして師は「ヴィナヤピダカ、アビダンマピダカはグッダカニカーヤに収めた」とハッキリ書いています。これは、アビダンマピダカはそのようだというクレジットです。それはグッッダカニカーヤの一部分ですが、その時、グッダカニカーヤに入っているのは少しです。

7.アッタカターダンマパダを見ることはとてもできません。それは後世に綴った話で、チャクバーラが出家してブッダに質問すると、ブッダが「三蔵を勉強しなさい」と答えるなど、三蔵がない時代に三蔵について話すのは、誰も信じる人はいません。三蔵はまだ生まれてないからです。そして奇跡の話を取り上げてアッタカターダンマパダの中で述べているのは、精査しなければなりません。これから話して聞かせます。

 ブッダがトウリ天に上ってアビダンマピダカを説いた話は、三蔵のアビダンマピダカ(論蔵)にはありません。直接アビダンマピダカの中にはありません。それはアッタカターダンマパダなど、後世に綴られた話の中にあります。アビダンマピダカのクレジットはどのようか、続けて聞いてください。

8.自分でアビダンマピダカを全部読めば、誰も教える人がなくても自然に感覚が生じ、構造、使用している語句、話の内容が「新しい物」と教えています。だから西洋人はすぐに分かります。みなさんに伏してお願いします。可能なら、タイ語のアビダンマピダカを全部通して読んでください。そうすればこれは何か、文体はどのようか、何がどのようか、古い物か新しい物か、自分で分かります。

 今は怠慢でケチで、たった一揃いの本を買って読んで見ません。読むのを億劫がらないで、ケチらないで、宗教局発行のタイ語版のアビダンマピダカ全巻を買って読んで見ると、天人に話して聞かせた話ではない話が、四方に何種類も現れています。プッガラバンヤッティ(人施説論)の文体はスッタンタピダカ(経蔵)の文体と同じで、アビダンマピダカの文体ではありません。

 アビダンマピダカの文体はスッタンタピダカの文体と違い、簡単で、低く、新しく、スッタンタピダカの文体の方が古いです。そしてあるのはプッガラバンヤッティ教典ばかりです。このように偶然文体がスッタンタピダカの文体と同じなのは、他にもまだたくさんあります。
 これは、それは不確実で、カターヴァットゥ教典は第三回サンガーヤナーの時に加えられたばかりと広く知られているように、それは書き加えられたものであることを表しています。だから文体が同じはずはありません。

9.それ以上に重要なのは、ブッダが般涅槃された時、最後の遺言は何項目もあり、「みなさんがダンマヴィナヤに関して正しいか間違いか、記憶違いか否かという疑念が生じたら、マハーパデーサの原則を使いなさい」という重要な一項があります。このマハーパデーサは、その疑いのある項目をスッタ(経)とヴィナヤ(律)の中にある一般の教えと照合して試して見させます。

 ブッダが明言されたのは「スッテー オーサーレタッバン=スッタで推量して試して見る、そしてヴィナイェー サンダッセーダッバン=ヴィナヤと照合して見る」と、この二つだけです。スッタと照合させ、ヴィナヤと照合させます。アビダンマと照合しなさいと話されているのはなく、ただのダンマと照合しなさいと話されているのもなく、「すべてのスッタと照合し、すべてのヴィナヤと照合しなさい」と明言されています。

 それが一致すればそのとおりで、正しいです。先生が言ったからと信じないで、その人が言ったからと信じないで、導師が言ったからと信じないで、法友が言ったからと信じないで、スッタで推測して試して見て、ヴィナヤと照合して見させます。アビダンマという言葉はありません。これが問題である、あるいは疑念がある話を試すために話しておかれたブッダの最期の言葉、遺言の中にアビダンマはないというクレジットです。

10.アビダンマピダカのクレジットは、まだたくさんの見方があります。どうか我慢して聞いてください。眠くなったら脚を抓っても良いです。西洋人の勇猛な学者の知識、考え、意見によると、私が良く知っている外国人の勇敢な学者、ニャーナギラカというドイツ人長老は亡くなるまでスリランカ島に住んでいた高僧で、三蔵に精通していました。

 これを私は「これらの西洋人は精神面の囚われがなく、つまり tradition がなく、私たちのように生まれた時から信じさせ、生まれた時から信じている文化が何もない」と言います。私たちは生まれた時から精神的に囚われ、伝統習慣で話せば信じなければならず、そして休まずそのように話してきました。次に西洋人はそうしたことがないので、彼らは自由で、何に触れても自由にします。

 その方はアビダンマが大好きで、三蔵が大好きでしたが、「アビダンマはブッダヴァチャナ、あるいはブッダヴァチャナの形の中にない」と言いました。そしてアビダンマはブッダの時代からあったと見なさず、後世に生まれたと信じます。ね、その方はこのようにハッキリ書いています。これがニャーナギラカ長老の言葉です。この長老は、

「アビダンマピダカ(論蔵)は、今ある現在の構造を見ると、他の二つのピダカ、つまりヴィナヤピダカ(律蔵)とスッタンタピダカ(経蔵)より後の時代に生じた物です。アビダンマピダカは他の二つのピダカより後に生じた物の状態が現れています。スッタンタピダカの中の教えを哲学面の説明で簡単にし、あるいはもっと正しく言えば、真理学と生理学にしました」と書いています。

 これはスッタンタピダカの言葉は直接道徳の言葉すぎ、そして哲学者が喜ぶものでなく、あるいは哲学の勉強に便利でなく、他のニカーヤ、あるいは他の宗教と闘える十分な名誉がないので、著者はスッタンタピダカの中の難しい言葉、特別な言葉一つ一つを説明し直し、説明する言葉の形を哲学の角度に変え、もっと正しく言えば心理学の面、心の話、チェタシカの話と生理学、つまり形(体)の話にしました。アビダンマには心の話、チェタシカの話、形の話があり、そして涅槃、つまりそれらの消滅の話があります。

 そしてその長老は「アビダンマピダカの内容がアヌルッダ大長老によってアビダンマッタサンガハに要約されたのは、西暦八世紀、つまり仏歴二千三百年以前ではありません」と書いています。続いて「アビダンマピダカの中の幾つかの言葉は、スッタンタピダカにはありません。アビダンマッタンサンアガハの中のある言葉、あるいは教えの角度はアビダンマピダカの中にありません。

 新たに持ち込まれ、改革し、あるいは整え直したからです。しかしこの新たに持ち込まれたのは、縮小する便利のため、あるいは様式を変えるためだけで、間違ったもの、あるいは曲がったものではありません」。このアーチャンはこのように言っています。アビダンマッタサンガハは間違ったもの、歪曲したものでなく、大きなアビダンマピダカを要約しました。

 つまりスッタンタピダカの中にある言葉はアビダンマピダカにはないと指摘しています。アビダンマピダカの中のある言葉が、みなさんが勉強しているアビダンマッタサンガハにないのと同じです。

 そして長老はまだ「スッタンタピダカとアビダンマピダカの違いは内容にあるのではなく、違うのは言葉の配し方、言葉の使い方であり、要旨は同じものを目指しています」と書いています。使う言葉が違い、配し方が違い、教える骨組みは違いますが、目指すことは同じです。続けて「スッタンタピダカは庶民が普通に話す言葉で教えの説明をします。

 スッタンタピダカは庶民が話す普通の言葉を話し、それは哲学の面では多少正しくない話し言葉で、アビダンマピダカは第一義諦の意味の純粋な哲学の言葉を使っています」と書いています。長老は、同じことを話しても、スッタンタピダカは庶民が話す言葉で話し、それは哲学の面の意味では多少正しくないと言います。

 スッタンタピダカは人間に関わる話をしなければならないので、だから「私」と言い、「我輩」と言い、「あなた」と言い、ブッダ自身も「如行である私」と言われ、ブッダも「私はいません。あるのは蘊だけ、ダートゥだけ、アーヤタナだけ」と教えたばかりなのに、なぜブッダが「私如行はこのようで、このようで」と話されたのでしょうか。

 それは哲学、あるいはロジックで正しくありません。だからスッタンタピダカは庶民の言葉で話し、アビダンマピダカはパラマッタの言葉で「動物はなく、人物もなく、蘊、ダートゥ、アーヤタナ」と言う純粋な哲学の言葉で話します。

 しかしここで、アビダンマピダカのある部分、ヴィバンガ教典のダンマハダヤヴィバンガなどは餓鬼について話し、天人について話し、擬人的な地獄について話していて、これは再び人物で話すのでアビダンマの教えに反します。アビダンマピダカ全般は「蘊、ダートゥ、アーヤタナ、動物でなく、人物でない」と自然に話すので受け入れられますが、ところどころ、たとえばここなどは動物のように、人物のように、そのような地獄、そのような動物、餓鬼、このような何かと話します。

 こういうのは面倒です。そして私たちの国のアビダンマ家もこれで主張するのが非常に好きです。

 ニャーナギラカ長老は続けて「あらゆる角度からアビダンマの学習をするには、その人が基本の教えと仏教の倫理の目的に対して、前もってすべてに習熟していなければなりません。そのようにできた時だけ、アビダンマピダカは利益があります」と、このように書いています。アビダンマピダカを勉強する人は、基礎の教えに慣れていなければならず、つまり仏教の基礎がどのようか、先ずそれに習熟しなければなりません。

 そうでなければ、アビダンマピダカを学ぶ時歪みます。そして仏教の倫理の目的は、自分はない、私はない、自分のことばかり考えさせない話を教えることで、それを勉強して明らかにし、精通したものにしてから、それからアビダンマピダカを勉強すれば、アビダンマピダカから利益を得ることができます。そうでなければ歪み、ブッダが言われたように、気づかずに黒いダンマに落ちます。

 この哲学者は既に亡くなっているドイツ人で、どちらにも傾かずに書いています。しかしこれは西洋人で、次に私はスリランカの哲学者に聞いて見ました。このスリランカ人について少し説明しなければなりません。このスリランカ人は強く仏教に執着し、私以上に保守的で、仏教といろんな教典は、誰も手を触れてはならないと言うに近い人でした。

 スリランカの血は必ずこのようですが、この人は本当のスリランカ人で、次のように書いているので、これから読んで聞かせます。その人は名を Cassius A. Pereira と言い、これはポルトガルの名で、ポルトガルはある時代スリランカで権力があったので、多くの人がポルトガルの名前を付けました。

 彼は「七つのアビダンマ教典が、今私が見ている状態で現れたのはいつだったか、私は特定して規定することはできません。その教典の内部(仏教界という意味)の根拠は、今私たちに現われている形のサンギーティ(合誦)として唱えることができるダンマサンガニー、ヴィバンガ、パッターナの三教典は一番古いものとはっきり見せています。

 仏歴約百年の第二回サンガーヤナー(結集)の時から唱えています。一方ダートゥカター、プッガラバンヤッティ、ヤマカは、アショーカ時代、アショーカ王の時代前のもので三百年余り、そしてアショーカ王の時代の第三回サンガーヤナーでサンギーティに加えられ、そして現在の形に非常に近くなりました」と書いています。

 この部分は、初めの三つの教典は同じくらい古く、第二回サンガーヤナーの時からあり、後の三教典は第三回サンガーヤナーの時に完璧になりましたが「完璧に近い」だけと指摘しています。一方カターヴァットゥ教典は、今私たちが知っているように、だんだん増えて来た真実にとって危険である邪見を排除し、そして防ぐためにモッガッリープッタ長老が編纂したように、第三回サンガーヤナーの時からあります。

だからカターヴァットゥの中には、インド南部に生じたばかりの邪見について述べた話があります。アンダラ地方、あるいはこれらはブッダが般涅槃されて五百年くらいたった頃はこのようでした。本当にその時からの古いものなら、なぜ仏歴五百年と六百年の話をするのでしょうか。だから、増やす必要に応じて増やしたものと見なします。

 この人は「だから探せる限りのいろんな証拠が、この七教典は西暦紀元前ニ百五十年より古くないと証明しています。つまり仏歴二百九十年より古くありません。そしていろんな証拠から、その七教典はスリランカにあった間は、意図的に改竄されていないと信じることができます」と書いています。スリランカ人であるこの人は、得られた限りのいろんな証拠は、スリランカで教えている間は意図的に改竄した人は誰もいないと信じさせると言っています。

 しかし但し書きがあり、「学習者、あるいは教典を書き写す人の意図がなく生じた間違いがない、あり得ないという訳ではありません。もし間違った項目がなければ、それは不思議すぎることです」と書かれ、「今明らかに見えているのは、それには多少の間違いはありますが、重要な部分ではないことです」と、このように書かれています。

 Professor T.W.Rhys Davids は、三蔵の学習面で有名な人で、ロンドンで Pali‐Text Society を創設し、氏は「それは哲学、あるいは心理学の面の話にすぎず、仏教の目的である道徳を目指してなく、仏教の道徳を哲学と心理学の角度から説明したもの」と見なしています。

 次にもう一人、Hary Singh Gour という名の有名なインド人学者がいて、彼は短い言葉で「アビダンマピダカは初等のブッダヴァチャナの説明の言葉で、中には難しい言葉もある」と、ぶっきらぼうに言っています。

 これもアビダンマのクレジットとしては同等に見えます。それは私たちが自由に調査すべき範囲にあるので、恐れてはいけないとだけ、短くまとめます。話は更に眠気を誘います。もう一度脚を抓ってください。

11.アビダンマピダカに関わる奇跡を聞いて見てください。ネズミの巣のアビダンマが生じるほど私たちが盲信する原因である、アビダンマピダカに関わるいろんな奇跡。タイにネズミの巣のアビダンマが生じられるのは、アビダンマピダカに関わる奇跡の威力なので、良く聞いて見てください。天井裏でネズミの巣になるほど散財して木簡を買う人は、アビダンマピダカの奇跡の威力によって生じるからです。

 アビダンマピダカに関わる奇跡の重要な話は、ブッダがトウリ天に昇ってアビダンマピダカを説き、母親だったことがある天人を救った話です。これが大奇跡で、そして関係ある奇跡もあります。たとえば先に奇跡を取り上げ、それからどのように上り、どのように降りたと説かなければなりません。

 しかし重要な話は、天人界へ行ってアビダンマを説いたことです。人間の国の庶民や哲学者は学んでも意味が分かりませんが、遊んで食べるだけ、快適なだけの天人に説いて教えることはできます。

 この話は、どうか我慢してもう少し聞いてください。ブッダが天人界へ上る話、それは私たちの仏教になければならない話です。なぜなら他の宗教、あるいは宗教に関わらない他の教義も、彼らの教祖、あるいは彼らの重要な人物は、天界へ上ったことがなければならないからです。そして仏教側も、私がないと言えば大変です。だから結局、彼らと同じようになければなりません。

 次に、それは誰の仕業でしょうか。これは神聖なものを創るためになければならない話です。たとえばブッダがサラブリーに足跡を取りに来たと言わなければならないなどは、ブッダが足跡を取りに来たと言わなければ、誰も関心を持ちません。次に私たちは、関心を持たせて施設にさせる物がなければならず、それが庶民の心の中でしっかりした施設になれば、それは使い物になります。

 それが本物か本物でないかは勝手です。彼らは庶民の心の中にしっかりした制度を作りたいからです。昔のインドも同じで、私たちのブッダは何もかも上手だったと信じさせる話を欲しがりました。

 誰でも毎日「サッター デーワマヌッサーナン」と唱えている項目を思い出さなければなりません。話が本当でなければ、私たちは毎日嘘をつき、「サッター デーワマヌッサーナン」と話し、「イティピソーバガワー アラハンサンマーサンブッドー ヴィッカーチャラナサンパンノー スガトーローカヴィドゥー アナッタロー プリサダンマサーラティ サッター デーワマヌッサーナン」。ブッダは天人と人間の先生なので、天界へ上らずに天人の先生にはなれないと私たちは毎日唱えています。

 だから話はあり得なければならず、話は身に合わなければなりません。だからそれは、当時の責任者の義務で、その当時のすべてのサンガの代表である大長老、あるいはその時仏教の援護者である責任者、大皇帝も力を合わせて責任をもって、ブッダは何でもすべて揃っていて、天国へ上ることもできると、すべての人の心の中にしっかりした話を生じさせなければなりませんでした。

 次にスアンモークの石碑を見ると、バーラフタ時代、サーンジー時代は仏歴四百年から五百年だけです。仏歴四百年から五百年は、ブッダが天国へ上った話を信じていました。見てください。彼らは石碑に、ブッダが天国へ上り降りした階段を彫っています。だからこれらの絵を掘らせた大皇帝の権力で信じなければならないので、庶民は全員信じていたことを表しています。

 人生の前半は信じていなかった人たちが全部死に絶え、後の時代は全員「ブッダは天国へ行った」と信じました。仏歴四百年から五百年は庶民が強く信じていたので、証として石碑があるということです。そしてブッダの伝記である教典は石碑より後に書かれ、ラリタヴィサタラ、あるいはブッダチャリタでも何でも、ブッダの伝記は仏歴九百年から千年の頃に書かれました。

 だから本は石碑のとおりに書かれました。石碑は文字を使わない時代に彫られました。次に石碑は仏歴四、五百年で、仏歴四、五百年の石碑より前なら、もっと遡ってアショーカ王の時代になります。

 アショーカ王の時代は、この話の石碑は発見されていませんが、なぜアショーカ王が象の柱頭がある石碑をサンカサに埋め、「ここはブッダが天人界から人間の国へ降りて戻って来られた地である」と明記したか、一つの手掛かりがあります。サンガサには象の柱頭がある大きなアショーカ石碑があり、そしてブッダが天国から降りてきた場所と信じられています。これは、少なくともアショーカ王も、庶民の心の中に「ブッダが天国へ上って降りて来た」この話があって欲しいと願ったと信じられるということです。

 それは政策的にも領土の面でも、法輪の面でも、何でも全部利益があったからです。しかし絵は彫られていません。仏歴九百年から千年も、パトムサンボーディのようなブッダの伝記である書物、教典が書かれています。タイでパトムサンポーティと呼ぶものもインドにあり、ラリタヴィサタラ、ブッダチャリタなどの教典にもトウリ天へ上る話があります。

 だからトウリ天へ上る話は、事実でも事実でなくてもなければならず、ブッダはサッター ヘヴァ マヌッサーナンであり、天人界と人間界の両方で教えたと、庶民の心に埋め込まなければなりませんでした。私はなければならないと認めることに同情しますが、それは事実だと、私を信じさせることはできません。私は愚かで信じ易くないので、ブッダに従って信じます。

 ブッダは本当に良く、天人界へ上らなくてもブッダの教えは本当に良いです。天人界へ上らない方がブッダは優秀で、私にとってはこのようです。しかし信仰だけの一般庶民は、天界へ上らなければなりません。今私たちがこの状態にあるのは正しいか、あるいは丁度良いか。天界へ行った奇跡の話は、それ自体に道理があるか否か、私は勇敢に審理します。

 自由に審理する角度でこの物語を見ると、最初に、ブッダが天人に説法をするためにトウリ天に上った時の異常さを見、まだ知らない人のために話させていただきます。知っている方は我慢してください。すべての天人の長である、かつて母だったことがある人物を救うために、ブッダがトウリ天へ昇って、三か月の間雨安居をしなければなりませんでした。

 次にブッダはどのようにされたか。ブッダが私たち人のようにご飯を食べ、それで三か月天界に居られるでしょうか。朝になると降りて来て人間界で托鉢をしなければなりません。内容には、復路はブッダがいた町、つまりジャムブーダヴィーパに下りず、ウッタラクルダヴィーパ、つまりヒマラヤの裏側のロシヤに托鉢に行ったとあります。

 あっちへ托鉢に行き、そして毎日サーリープッタに拝謁させ、トウリ天で何の説法をしたかをサーリープッタに話すためにヒマラヤの麓、アノガータ池で食べました。サーリープッタが憶えて来てすべての比丘に話し、毎日五百人で記憶しました。しかしブッダは人間の国に降りて来て托鉢しなければならず、大小便の排泄は人間の国でしなければなりません。天上界ではできないからです。一雨安居、あるいは三か月の間、そのようにしました。

 次にブッダが降りて来て托鉢と食事をした時、天人はあまり困らなかったかと言えば、ブッダは、代わりに説法をさせるもう一人のブッダを創りました。天人たちは愚かなので知られません。次にタイの三か月、一雨安居、タイの三か月は天人界の二三時間に相当するので、なお気づきません。みなさん、このような時間の比較を知っていますか。人間の国の一日は天人界の何分でもなく、天人界の一日は、人間の国の何百年に相当します。

 だから人間の一雨安居、三か月は天人界の二三時間と同じです。そしてその間、天人界の二三時間に、ブッダは九十回もここへ降りて来て托鉢をし、大小便を排泄しなければなりません。さてと、ブッダはそのようにできたと言うことです。これは私も、なぜウッタラクルダヴィーパ側に行って托鉢をしたのか、なぜこのように身を隠さねばならなかったのか、それまで通りこちら側へ托鉢しては駄目なのかと疑問に感じます。

 それはこのような疑わしさを暗示します。そしてブッダがこちらで托鉢をして食事をしている時、ニミッタであるブッダが何を話したかをどう知ったのか、あるいはブッダは話をさせていて、それで同時に食事ができたのでしょうか。これは、このように審理を続けるよう誘う話です。

 三蔵の一般の話は、時々天人が人間の国へ降りて来て拝謁、あるいは何かをしているのに、なぜブッダは天人を人間の国に呼んで話を聞かせなかったのでしょうか。多くの天人を人間の国に呼び集めることはできなかったのでしょうか。天人界の二三時間は私たちの三か月で、このようにできないのでしょうか。

12.話したことを見ると、現れると「クサラーダンマー アクサラーダンマー アバヤーカタダンマー」と言うのは、天人は聞いて意味が分からないに違いありません。到着してすぐこのように話すのは、訳が分からないに違いありません。そして蘊の分類、ダートゥの分類、アーヤタナの分類は更に深遠になり、猶更意味が分かりません。苦があって滅苦をしたい、擬人的な人物の話をしたことがないからです。

 だからブッダの母だった人に話した話は、その方が聞いて理解できる領域ではなかったと言うことです。先ほど三蔵を買って読んでくださいとお願いしたように、読んで見てください。そうすれば天人は聞いて意味が分からないだろうと自分自身で感じます。このように審理する項目があります。

13.パーリ・アビダンマピダカ(論蔵)の中にある文体を見ると、それは別の文体で、スッタンタピダカの文体と同じでなく、そしてそれは後の世代の文体、時代を下った後の文体であることを暗示しています。そしてもう一度見ると、学校で教えるはっきりと断定した本の手法、学校の子供に教える本のような、そのような、つまり学校で教える時に使う文体。そう言うこともできます。子供でなくても、学校で教える文体です。

 アビダンマピダカはこのようです。スッタンタピダカは庶民に話す文体で、その時次第で、人間と普通に話す文体です。アビダンマピダカは学校で論理学、心理学を教える文体で、スッタンタピダカは滅苦の話について普通に話す文体です。

 これは、アッタカター サマッタパーサーディカーを書いたアーチャンは、なぜ非常に重々しく、非常に conservative =伝統を重んじるのか指摘しています。つまりブッダゴーサ師は「アビダンマピダカはグッダカニカーヤに収蔵されている」と書いています。師がうっかりしたのかどうか、考えて見てください。

14.もう一つの角度から見ると、スッタンタピダカに生じたすべての話は、話が生じた場所を明示し、そしてブッダが誰に話したか、話ごとに教えています。アビダンマピダカはどこで誰に話したか教えてなく、天国のブッダの母に話されたと言っていません。天国のブッダの母に話されたというのは後の人が言い、三蔵の中になく、アビダンマピダカの中になく、直接アビダンマピダカのアッタカターの中にもありません。

 あるのは後世の、もっと後の時代の人が書いた本の中だけです。私たちは愚かにもブッダが言われたと言い、あるいは「アビダンマピダカが、それはこのようだと言っている」と言います。下品な話をご勘弁ください。アビダンマピダカの中には、ブッダがここで、あそこで話されたと言ってなく、現れると「クサラーダンマー アクサラーダンマー」で、そして学校で教える文体で、人と話す文体ではありません。

15.考えるべきは、スッタンタピダカは話した話の根拠があり、聞いた人でも何でも全部揃っていて、そして「もし信じなければ地獄に落ちる」と脅しません。スッタンタピダカの中では、信じなければ地獄に落ちると、誰も脅していません。しかしアビダンマピダカは奇妙で、誰による脅しでも、今でも「信じなければ地獄に落ちる」と言います。

 なぜ素晴らしく優れた物が、このように脅さなければならないのでしょう。これはみなさんで考えて見てください。アビダンマピダカにこのような奇跡があるなら、ブッダがトウリ天に行って説法をしたと話せば信じるので、なぜ信じなければ必ず地獄に落ちると脅さなければならないのでしょう。それは非常に矛盾します。

16.次も奇妙なことで、解説する文字の話だけ文学として話し、論理学的に、心理学的に説明し、滅苦の実践について話しません。サマタの話、ヴィパッサナーの話は少ししかなく、アビダンマピダカにはないと言うこともできます。アビダンマッタサンガハの九篇の中で、実践について話しているのは一篇の半分しかありません。

 そして名前しか言わず、それにスッタンタピダカのどこの説明でもありません。しかし心の話、チェタシカの話、形の話、原因の話、いろんな話を何編か分からないほどたくさん、何万、何十万の語句か分からないほど話しています。それは疑わしいです。

 直接利益がある話、アーナーパーナサティなどはどのようか、カーヤガタサティ(身随念)はどのようかなどはありません。それがあるのはスッタンタピダカだけです。そしてこの話について良い説明があれば、それは今でもスッタンタピダカに引っ掛かっているパティサムピダーマッガ(無碍解道)の中にあります。

 パティサムピダーマッガにあるようなアーナーパーナサティの詳しい説明は、アビダンマピダカにはありません。直接利益がある話はなく、深遠な文学の話だけで、次々に哲学者になり、大哲学者になる終わりがない話だけなのは、悔しくもあり、もったいなくもあります。

 さてもう一つ比較する例を挙げると、同じ話、つまり同じ名前で、話すと別々の角度になる例はアクサラムーラです。ローバ、ドーサ、モーハ(貪・瞋・痴)をアクサラムーラ(不善根)と言います。

 アクサラムーラについて話せば、スッタンタピダカ(経蔵)ではどのように捨てるか、はっきり詳しく言いますが、アビダンマピダカ(論蔵)では子を配るだけで、アクサラという言葉、クサラという言葉、そしてローバ、ドーサ、モーハという言葉の根がどのようか、縁がどのようか、どの根がどの根とどのように関わるか、このような話だけで、どのように捨てるかはありません。

 同じ話をして、スッタンタピダは apply(適用)、つまりこの人にとって実践に使うことができますが、アビダンマピダカは哲学の言葉、心理学の言葉で、logic(論理)の手法で話します。ね、同じ話をして、アクサラムーラという同じ名前で、このように違います。

 次に滑稽なのは、ブッダが天界に上るほど重要な出来事の話が三蔵になく、反対にもっと重要でない話があるのでしょうか。三蔵の中には、比較すると重要性の少ない話があります。ブッダが天界へ上った話、このように重要な出来事が、却って三蔵にはありません。三蔵の中には、もっと重要でない話が何百、何千もあります。ね、このように疑わしいです。

17.アビダンマピダカの中には五禅定、五形禅定の話があります。アビダンマを勉強したことがある人は、アビダンマの中には四禅定はなく、私が教えているような四形禅定はなく、あるのは五形禅定だけと良く知っていると思います。みなさんは何と言いますか。ブッダは人間に四禅定の話を教え、天人には五禅定の話を教え、これほどクルクルと言うことを翻すでしょうか。

 形禅定を教える時、人間には四禅定と教え、天人には五禅定と教え、私はブッダの不正直な戯れを認めません。次にそれはそのようではなく、アビダンマピダカを書いた人が大きな態度を取りたくて五禅定、五形禅定と書きました。ブッダは終始一貫しています。四形禅定は、四つでなければなりません。

 五形禅定はあり得ません。人間に教えるのと天人に教えるのと違う、こういうのは要りません。それは同じ話の中のブッダの教えに反します。本当のパーリ・三蔵の中で、サンガーヤナー(結集)について話し、アビダンマピダカについて話したのはないと話したのを思い出してください。

18.次にまだ残っている問題は、「天界とは何か、どこにいるか」だけです。みなさん、天界とは何か、そして天人はどこにいるか、考えたことがありますか。小さな子供の天界と、知性のある大人の天界は同じではなく、アビダンマの言葉の天界は、国や都、そのようなのは駄目です。アビダンマは「動物はなく、人物はなく、自分はなく、我はない」自然の話しかしないので、天界は国でない他のものを意味することもあります。

 これは最高のアビダンマの言葉で、それぞれ違う心にあり、その(人間の)ような状態の心を人間と呼び、その(天人の)ような状態の心を天人と呼びます。この問題を整理できる人、つまり天人とは何か知る人は、すべての問題を終わらせることができます。そしていろんな話が全部真実の話になります。しかし意味がなければならず、文字通りに捉える子供のようなのは駄目です。

 これを「私は自由に審理する」と言い、初めの話はアビダンマの奇跡の話で、アビダンマピダカを攻撃するためでなく、どのように見なすべきか、そして信仰しかない種類の人物をどのように許容するか、真実のままに知らせるためです。

 大長老、あるいは国王はアビダンマピダカの永続のために、何としてもこの話を創らなければなりませんでした。この奇跡の話を創らなければ、時には全部なくなってしまい、現在まで残っていなかったかも知れません。あるいは残っても、誰も関心を持たない狭い世界だけ、教典の中だけに残り、このようにたくさんの人のブームになっていなかったかも知れません。

 次も眠気を我慢して、三回目の腿を抓ってくださいとお願いします。いずれにしても話すなら全部話してしまいます。それにみなさんは、もう来ません。アビダンマについて審理しなければならない角度、あるいは難題がまだ幾つかあると言います。

19.最高レベルと言うブッダヴァチャナ、ブッダヴァチャナの頂点は最高に良く、正確で、本当の話でなければならないと、忌憚なく言いたいと思います。アビダンマの話なら、膨張したアビダンマでなく本当のアビダンマでなければなりません。先ほど、何が膨れ上がったアビダンマで、何が本当のアビダンマか話しました。ブッダは膨れ上がったアビダンマでなく、本当のアビダンマだけを話されました。

 本当のアビダンマとは、ブッダが「イェー テー スッタンター タターガタバーシター ガムピラー ガムピーラッター ロークッタラー スンニャタパティサンユッター=」と常々言われているもので、これだけ、全部で六語しかありません。つまり深遠で、深遠な意味があり、世界より上の、空についてだけ話している、それが本当のアビダンマで、僅かしかなく、そして膨れ上がらず、実践に直行します。

 それ以外は膨れ上がったアビダンマです。そしてスンニャタパティサンユッタ(空相応論)、つまりスンニャターについて話しているダンマ、これはどのアビダンマよりも前からあり、パティサムピダーマッガの中のアビダンマより前、アビダンマピダカの中のアビダンマ七教典より前からあります。ブッダはこのスンニャターを先に教え、そして「アビダンマ」と呼ばれません。奇妙なのは、本当のアビダンマはアビダンマという名前がなく、本物のアビダンマはアビダンマと呼びません。

 アビダンマと呼ばれるアビダンマは、膨れ上がったアビダンマで、智慧や機智を見せびらかすために話すアビダンマ・アビヴィナヤです。膨れ上がったアビダンマがアビダンマです。本当のアビダンマはアビダンマと言う名がなく、反対にブッダ自身が話された、世界より上で深遠なスンニャターの話だけを述べた「スッタンタ」という名前があります。

 私が話したものがアビダンマの値打を無くすと心配しないでください。このように話し、このように審理することがアビダンマの値打を無くすとびっくりして怖れないで、正しく考え直してください。そうすればあるのは、アビダンマを明らかなアビダンマにし、そしてアビダンマの目的と一致する利益に使うことだけです。侵害しないで、西洋人が「タイ人はアビダンマに関して騙されやすい」と軽蔑する面がないようにしてください。

 先ほどタマリンドの種のアビダンマの元であるアビダンマッタサンガハ、このアビダンマッタサンガハはスリランカで芽を出し、ビルマで成長し、タイで開花したと話したことを忘れないでください。この事実に関して間違えば、西洋人たちに軽蔑されます。

20.執着によるアビダンマ、それも一つのアビダンマで、正しく自由なアビダンマ、それも一つです。アビダンマに迷っている人の執着によるアビダンマ、それももう一つで、「その方の観点でのアビダンマ」と言い、こういうのは本当のアビダンマではありません。これは「その方の観点でのブッダは本当のブッダではない」という言葉と対照しています。

 つまりその方が執着してブッダを愛し、崇拝しすぎ、そして感じたようにブッダを自慢し、感じたような意味を与え、その方が執着するためのその方の観察によるブッダで、これは本当のブッダではありません。その方の願望、希望、愛、迷いによるブッダで、本当のブッダではありません。本当のブッダはこのようであるべきでなく、つまりブッダの式の自由です。

 次にアビダンマも同じで、その方の見方によるアビダンマは本当のアビダンマではなく、その方の見方によるアビダンマで、そしてアビダンマと呼ばない、スンニャター(空)についてしか話さないブッダ式のアビダンマでなければなりません。

 世界には愚かな人が多いので、多くの人の信仰は信じられない物です。本当でしょうか。率直に言うと、一般に、世界に愚かな人は賢い人より計り知れないほど多いです。だからほとんどの人が信じていること、あるいは多くの人の理解は信じられません。ほとんどの人は愚かなので、カーラーマスッタの教えのように何でも真似たり、聞いて信じてはいけません。

 私たちは群れを離れて、知性がある自由な人になり、知性を自分にし、愚かさを自分にしてはいけません。だから大衆の信じることは愚かなので、標準にできません。だから大衆、あるいは多数の人が信じているアビダンマを信じないで、道理で信じ、あるいは本当の感覚で信じ、審理して聞かせたように自由な常識で信じます。

21.ほとんどの人が「アビダンマをこのようだ、そのようだ、あのようだ、このように神聖だ」と信じても、ほとんどの人はまだスッタンタに頼りたいと望んでいます。クルンテープでもどこでも、ほとんどの人はまだスッタンタに頼りたいと望んでいて、アビダンマに頼りたいと望みません。アビダンマを話して他人を踏みつけても哲学者になるだけで、滅苦をするには、直接滅苦の実践はスッタンタに頼るしかありません。

 ブッダの時代の阿羅漢はアビダンマに関して何も知らず、何十何百の阿羅漢はアビダンマという言葉を聞いたことがありません。しかしアビダンマと言う名前がないアビダンマ、つまりアナッター(無我)、スンニャター(空)がアビダンマで、それにはアビダンマという名前はありません。

 阿羅漢である人は、アビダンマという名前がなく、スンニャターという、アナッターという名前のアビダンマで危機を脱すことができました。ブッダの時代の阿羅漢はアビダンマという名前のアビダンマを知りませんでしたが、スンニャター、アナッターという名で知りました。

 このように話してもアビダンマの値打がなくなる訳でないと忠告させていただきます。膨れ上がったアビダンマでも、過剰でも、哲学者集団のために膨れ上がらなければならない、過剰でなければならないものとして価値があります。ブッダバーシタの形、あるいはブッダバーシタでなくても利益があります。高度な、あるいは普通のレベルを超えた知識として、その様式の正しい教えだからです。それにはサーリープッタが森で暮らす人たちに「アビダンマを知らなければならない」と諭すほど哲学、心理学の価値があります。重要でなければ諭しません。

22.次に滑稽なのは、ブッダがわざわざ天上界へ上って行って説法をし、そしてその後二度と説いていないことです。ブッダは二度と説いていません。考えて見てください。それは滑稽です。ブッダは終始アビダンマを説いていますが、人は聞いてなく、つまりブッダはそれをアビダンマと呼んでいません。アビダンマピダカの本当の要旨はブッダの教えの中にあり、ブッダは毎日教えていましたが、アビダンマという言葉を使いませんでした。

 ブッダは「アビダンマを信じない人は地獄に落ちる」と言われたことはないと主張させていただきます。三蔵のたくさんの教典の中で、ブッダは、信じない人は地獄に落ちる、あるいは聖向聖果に至れないと言われていません。ブッダは「八正道で実践しなければ、滅苦の道はない」と言われ、このように主張されています。

 私にハッキリ見えるのは、預流支は基礎であり、初歩であり、四つ、つまりブッダに対して揺るがない信仰、プラタムに対して揺るがない信仰、僧に対して揺るがない信仰、そしてアリヤカンタシーラ、つまり非難すべき点がない純潔な戒、聖人はこの種の戒が好きで、この四項目が、預流にする預流支です。これに集中しなさい。これをアビダンマと呼ぶか呼ばないか、自分で言って見て」ください。

 ブッダが不思議に話しておかれたのは「正しく暮らせば、世界に阿羅漢は欠けない」です。ブッダは「アビダンマを学ぶ」と言われず、「正しく暮らす」と言われました。正しく暮らせば世界に阿羅漢は欠けないと言われました。次に「正しく暮らす」には、暮らし方を知りなさい。みなさん、暮らし方を心得なさい。正しく暮らすとはどのように暮らすのかは、間違った方に揺れないで、つまり目・耳・鼻・舌・体・心を正しく管理します。

 西洋人を参考にすれば、述べたように聞いて見なければならず、西洋人は全員、アビダンマがブッダヴァチャナであると信じず、トウリ天に上った話を信じませんが、西洋人はアビダンマが非常に大好きです。アビダンマの中にある哲学の味、論理学の味が好みに合うからです。投資して仏教を布教する西洋人は極めてアビダンマを好みますが、ブッダヴァチャナであると信じません。

 次にもう一部の人はブッダヴァチャナの話の肩をもち、つまり彼らは反論して肩を持ちます。私は「肩を持つ」と言います。つまり彼らは「ブッダの意見と合致すればブッダヴァチャナと見なしなさい」と言います。これはアビダンマがブッダヴァチャナであるという口実にするためです。彼らは「ブッダの意見と合致すればブッダヴァチャナと見なしなさい」と言います。

 それも事実で、アビダンマ全体は「動物はなく、人物はなく、あるのは蘊、ダートゥ、アーヤタナだけ」と言うブッダの意見と一致します。しかし今、文字、あるいは話す言葉が多すぎ、破壊しすぎ、そしてブッダヴァチャナの形をしていません。このように理解してください。

 「苦があるようになるダンマはどれでも、それはブッダヴァチャナではない」というゴータミースッタを原則にすると、アビダンマはブッダヴァチャナではありません。特にアビダンマピダカは勉強を難しくし、大変にし、眩暈を起こさせ、邪見に落とすのもあり、狂人にさせるのもあり、苦が生じるほど問題を増やします。本当はそのようです。

 次に多くして困難にするので、それは苦のためになり、ブッダの体系、ブッダの規則ではないと見なします。だから困難を増やす話を切り取ってしまって、困難が少ない、そして必要な物だけを残せば、ブッダヴァチャナになります。

 人は何でも愛し、何でも酔い、何でも迷えば、それを信仰して誰も手を触れてはならないものになります。私は「アビダンマピダカの内容は、ブッダヴァチャナの形の中にない」とちょっと話しただけで、さんざん罵られました。彼はそれを愛し、迷い、信じるので、誰もほんの少しでも手を触れさせません。私は述べたような理由で、十分批評できると信じます。私たちは力を合わせて簡単にしなければなりません。そうすれば正しいです。深い物を元のまま深くしておけば、理解し合えません。

 私たちは本物のアビダンマを取り出すことができると言うなら、カーラーマスッタを使ってテストして、知り、理解し、実践できる部分を実践し、実践に関らない部分は関心を持つ必要はありません。今アビダンマピダカを全部学び終えて七教典に精通し、そしてその人はまだカーラーマスッタ、あるいはゴータミースッタの教えに依存する必要はないと、そう言うのですか、と挑みたいと思います。それはあり得ません。

 アビダンマピダカを全部勉強し終っても、彼らがカーラーマスッタ、ゴータミースッタ、八正道を学んで、目・耳・鼻・舌・体・心に集中しているように、振り返ってイロハから始めなければなりません。アビダンマは役に立たず、それは文字の話しかありません。だから「アビダンマ・アビヴィナヤ」という言葉と、「ダンマ」という言葉、「ヴィナヤ」という言葉に関心をもって全部理解してください。そうすれば膨れ上がったアビダンマに触れずに本当のアビダンマピダカを掴むことができます。

 批評しなければならないことはまだたくさんありますが、簡単にハッキリ見せる助けになるものだけ取り上げると、核の時代のアビダンマとしては、誰も反論でき余地があってはなりません。他の時代のアビダンマはどうでも、核の時代の仏教教団員のアビダンマは、誰かが反論する余地を無くしてください。私が話した内容と道理を隙を塞ぐのに使い、そうでない部分は掃き出せば、残る部分は、きっと核の時代の思想家の検証に耐えます。

 「ダンマ」と「アビダンマ」という言葉は対で、ダンマなら実践の話をし、アビダンマならパリヤティ(学習)の話を話すと思い出してください。このように主張し、誰に罵られるのも恐れません。ダンマなら実践の話をしなければならず、アビダンマなら卓絶した哲学であるパリヤッティの話をしなければなりません。ダンマは滅苦の話だけをしなければならず、体と言葉と心に直行します。

 次にアビダンマは「体・言葉・心」という言葉の、何という言葉でも全部文字の子や文字や意味を分類するのでパリヤッティであり、パリヤッティの意味があります。だから例えばスッタンタピダカ(経蔵)で例に挙げたアクサラ(悪)という言葉など、同じ言葉、同じ名前でもまったく違う角度で話します。このようにただのダンマは実践の話、つまり「どのように悪を捨てるか」しか話しません。一方アビダンマは細かく分類して話し、何でも次々にこれらの言葉を分類して話す、これがパリヤッティの形です。

 次にアビダンマを全部掬って捨て、知っているようなアビダンマ、アビダンマピダカ、アビダンマッタサンガハ、膨れ上がったアビダンマを明示する何のアビダンマでも、全部掬って捨ててしまっても何も不足しないと、このようにたとえます。ぐずぐずのろのろしないで早く涅槃するための実践項目であるスッタンタ(経)があるからです。次は反対に、スッタンタピダカを掬って全部捨ててしまい、アビダンマピダカだけを残せばぶっ潰れます。

 このように下品な言葉を使わせていただきます。人間も潰れ、世界も潰れます。スッタンタピダカを全部捨ててアビダンマピダカだけが残れば、人間は破滅して正しく歩けません。涅槃へ行く八正道を行けません。しかしアビダンマピダカを掬って全部捨てスッタンタピダカだけが残れば、私たちは涅槃へ歩いて行くことができ、そして簡単になります。

 アビダンマピダカに熱中して焦燥しないからです。ね、怒られるのも恐れずこのように言います。分かりますか。嫌いだから、あるいは怒りで、あるいは皮肉や当て擦りで言うのではありません。核の時代のタイの仏教教団員に、本当に煩悩を突き刺す核のような種類のアビダンマを持っていただきたいからです。

 奇妙なもう一つの言葉は、「マーティカー(本典要項)」という言葉で、ほとんどの人はマーティカーとはアビダンマを意味すると理解しています。そういうのは目いっぱい目を瞑っています。マーティカーという言葉は要項という意味で、スッタンタの要項でも、ヴィナヤのでも何でも良いです。スッタンタの項目、それが解説してアビダンマにしたマーティカーです。そしてヴィナヤ(律)のマーティカーもあり、パーティモッカ(二二七戒)はヴィナヤのマーティカーです。

 パーティモッカを解説したカンカーヴィウタラニーを、彼らは「マーティカッタカター」マーティカーのアッタカターと呼び、そのマーティカーはパーティモッカです。だからマーティカーという言葉をアビダンマか何か一つだけと捉えないでください。

 アビダンマピダカはマーティカーによっていますが、彼らはアビダンマにしたスッタンタマーティカーを意味するので、それをアビダンママーティカーと呼びます。ヴィナヤもマーティカーはあります。まだ何も解説していないアビダンマをマーティカーと呼び、たくさん説明したアビダンマがアビダンマピダカです。

 次に実践面を話す方が良いです。文字の面、logic の面は、あまり利益がありません。アビダンマは説明が多く、「クサラー(善)、アクサラー(不善)、アバヤーカター(どちらとも断言できない)」という三語を説明するだけで、アビダンマ七教典の二三冊になります。アビダンマッタサンガハ、このアビダンマを勉強したことがある人は、すべては「クサラー、アクサラー、アバヤーカタ」の三語に関わりがあると見えます。心の話、チェタシカの話、形の話、涅槃の話でも何でも、この三語に関わっています。

 次になぜ巧妙な方法を使うのか、あるいは短期学習をするのかは、ブッダは「クサラ、アクサラ、アバヤーカタは空」、つまり執着できないと言われていて、そして私たちはなぜ座って子を分けるのでしょうか。全部投げ捨てる方が良くないでしょうか。クサラも、アクサラも、アバヤーカタも、運河に投げ捨てる方が座って子を分けるより良く、絶妙に短期間で学びます。時間を無駄にして子に分け、孫に分け、ひ孫に分け、ひ孫の子に分け、それは際限がありません。

 執着できない物として運河に投げ捨てます。「サッペー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ=すべての物は執着すべきでない」という文章が途端に浮かび、すべてのダンマは、クサラも、アクサラも、アバヤーカタも、「俺。俺の物」と執着できないので捨ててしまい、関心を持たず、心が、善にも不善にも中間にも何にも執着しないようにします。これが核の時代の最高に使い物になるアビダンマの頂点です。核の時代のアビダンマはこのようです。

 夢中になって子を分け、子を分ける形の話をし、それが誰かを阿羅漢にしたことは一度もありません。アナッタラッカナスッタ(無我相経)、アーディッタパリヤーヤスッタなどを見てください。それは善、不善、中間に執着させない角度で話すだけなので、その場で、座って聞いている所で阿羅漢になります。次に好きでなければ堪え、何十年も耐えて子を分けるアビダンマを学ぶので大麻中毒で、大麻になり、麻薬になります。

 ある時代、ある時期、このアビダンマピダカは麻薬で、目が開かないほど中毒になり、大麻の話しか喋らず、他の話はできません。しかしその時代が過ぎると、今は大麻のアビダンマではなく核のアビダンマになり、大麻のアビダンマは止めてしまいます。

 このアビダンマはウッタリマヌッサダンマ(超人法)、つまり過剰、あるいは極みですが、パリヤッティの側の過剰あるいは極みで、パティバッティ(実践)の側の過剰、極みではありません。アビダンマは最高の物、過剰なものであり、最高のウッタリマヌッサダンマですが、それは学習の方であり、実践の方ではありません。

 次に「スッタンタだけならあまり話さず、何も執着すべきでないとだけ話し、背丈二メートルばかりの身体の中を学び、この外へ出してはいけない。それは十分」とアドバイスしたいと思います。この二メートルの身体に入れる場所はあまりないので、体力を超えた問題を多くしません。

 スッタという言葉については、これは非常に practical です。すべての庶民は、ここに座っている人もと言いたいと思いますが、すべてはスッタと言えば物語を思い浮かべ、ジャータカの話、アッタカターダンマパダの話を「これはプラスッタだ」と言います。これは最高に愚かです。

 スッタンター=スッタの規定は、タターガターバーシター=ブッダ自身が話され、ガムピラー=深遠で、ガムピラッター=深遠な要旨がある、ロークッタラー=世界を超えた、スンニャタッパティサンユッター=スンニャターについてだけ話す、これがプラスッタで、木簡で説かれているプラスッタと呼ぶ物語ではありません。クルンテープ(バンコクのタイでの呼び名)でも同様で、いろんなお寺でプラスッタと言えば、木簡の中の物語を意味します。

 しかしブッダの「プラスッタ」はそのようでなく、スンニャター(空)の話です。先ずスッタンタは物語という庶民のような理解を止めてしまいます。スッタンタ。スッタはプラスータラという意味で、アンタは頂点、あるいは核心、あるいは罫線のという意味で、スータラの罫線はスンニャターの話です。スータラは物語というのはここで捨ててしまい、クルンテープへ持ち帰らないでください。ここへ捨ててしまって、クルンテープへ持って帰らないでください。スータラはスンニャターの話です。

 このいろんな言葉をすべて自分のものと考え、非常に執着するので利己主義になります。涅槃も俺のもの、阿羅漢も俺のもの、蘊、ダートゥ、アーヤタナも俺のもので、他の宗教にはない。こういうのは良く調べていません。本当はこれらの言葉はブッダの時代以前からあります。究極に至る「涅槃」という言葉は、ブッダの時代以前からありました。善・悪、徳・罪、幸福・苦、地獄・天国、クサラ・アクサラ・アバヤーカタ、これらはブッダの時代以前からありました。

 しかしそれを払い除ける状態で説明できませんでした。ブッダはそれらを全部払い除ける状態で説明でき、それが違うだけです。それらの言葉を「俺の物で、他の宗教にはない」と理解しないでください。涅槃という言葉はずっと前からあり、「涼しい」「冷える」という意味で、何の涼しさも、ブッダの本当の涅槃になるまでの段階的な涅槃です。カーマヴァジャラ・ルーパーヴァジャラ・アルーパーヴァジャラ(欲界・形界・無形界)という言葉を俺の物と理解しないでください。

 他の人たちのもあり、彼らは彼らの様式で説明し、私たちは借りて使い、動物・人物・心の有りようなどの状態で、何でも学び易く理解し易くしました。つまり何でも俺の物と感じて利己主義になるのを止めてしまうということです。そして仏教は俺がない話を教え、私たちは次々に俺のものがあり、こういうのは仏教を知る日は来ません。だから本当にアビダンマが好きなら、本物でないアビダンマ、膨れ上がったアビダンマ、過剰なアビダンマを避けなければなりません。

 どうぞ本物でないアビダンマ、膨れ上がったアビダンマ、過剰なアビダンマを避け、本当のアビダンマ、本物のアビダンマ、最高のアビダンマを掴んでください。前者はどれも助けることはできません。本物でないアビダンマ、膨れ上がったアビダンマ、過剰なアビダンマは大麻であり、ヘロインであり、中毒になったら抜け難く、本当のアビダンマは中毒にならず、あるのは解放するばかりで縛り付けることがなく、あるのは手放して解脱させるだけです。

 アビダンマに迷ってアビダンマの中毒になり、執着すれば人生の無駄遣いで、膨れ上がった話による時間の浪費なので、早く本当の話だけにする方が良いです。時間を浪費すれば、国も時間の無駄になり、それは罪を作るだけ、国にも時間を浪費させます。

 これが熟慮しなければならない項目で、まだたくさんあります。三回脚を抓っていただくだけでも多いので終わりにすべきですが、まだたくさんあります。だから本当のアビダンマ、つまりスンニャター(空)の話を、僅かな項目でさせていただきます。本当のアビダンマはアビダンマという名前の中になく、スンニャターという名前であります。

 スンニャタッパティサンユッター スッタンター。これはブッダが在家に必要と言われました。一九巻のサンユッタニカーヤのダンマディンナスッタを見てください。在家が「何が在家にとって必要で、永遠に幸福のためになるでしょうか」と質問すると、ブッダは「スンニャター」と答えられました。

 ブッダは「すべての仏教教団員がスンニャターの話を捨て、豪華で珍しい新しく考えたものを好む時はいつでも、その時仏教の本物は消滅する」と言われました。十六巻のサンユッタニカーヤを見ると、その話の中に非常に滑稽に比較しています。昔、ある一族の将軍王の陣太鼓は古く、何代も使い続けていて、どこかが欠けると次々に新しい生地で塞ぎ、何代もの時代を経ると、その太鼓のどこにも古い木はなく、新しい木ばかりになったという話です。

 太鼓とは仏教のことで、仏教も同じです。スンニャターの話を見落とせば古い生地は消えて新しい生地を加え、古い生地が消えると新しい生地を加え、最後には古い生地の部分は無くなります。スンニャヤターの話を正しく理解してください。そしてそれは注意深く慎み深い人だけにあり、口が軽くなく、猪突猛進でなく、あるいは怒りや恨みがなく、自慢や大風呂敷で差別のある人ではありません。

 罵ることができ、殴ることができればまだアビダンマ家ではないと、このように知ってください。私たちのは罵ることができないアビダンマ、あるいは他人より有利になることができないアビダンマでなければなりません。

 スンニャター(空)の話に興味があれば、自分でできます。二十巻アングッタラニカーヤ(増支部)のドゥッカニパータを読んでください。これは全部パーリ・三蔵です。タイ語版なら自分で見てください。スンニャターの話だけに関心があれば、他人の考えや見方に関心頼らずに自分自身で生きることができると言っています。スンニャターの話に興味をなくした途端に曖昧になり、本物の仏教から少しずつ遠くなります。

 だからスンニャターの話は私たちが道の外へ落ちないよう監督する保証の話で、更に良いのは、この輪の中にいるだけで助け合うことができ、間違うことがなく、助け合ってこの輪の中にいることができ、スンニャター(空)と呼ぶものの威力で正しく安定し、完全に滅苦ができることです。ブッダがブッダになられた時「如行はほとんどの時間をスンニャターヴィハーラで過ごしている」と言われています。

 これはブッダになっても、まだわざわざスンニャターヴィハーラにいます。考えて見てください。だからみなさん、関心をもってください。そしてスンニャターが見えればいつでも、俺、俺の物がないのが見え、心は涅槃を愛すので涅槃を好むことに傾き、涅槃を愛すことが増えます。

 今みなさんは哲学者であることを愛し、偉大であることを愛し、善を愛し、秀逸であることを愛し、涅槃を愛しません。スンニャターを理解しないからです。スンニャターを理解した途端に、何よりも涅槃を愛し、そしてどんどんスンニャターに傾いて行きます。

 だからアビダンマという名がなく、述べたようにスンニャターという名があるアビダンマに興味をもってください。それは「サッペー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ」という文に含まれていて、これが本当のアビダンマ、ブッダのアビダンマです。それ以外は過剰なアビダンマ、少なくともブッダのアビダンマの解説にすぎません。ブッダのアビダンマを解説したアビダンマはたくさんあります。ブッダのアビダンマは「すべてのダンマは、誰も執着すべきでない」という一文だけです。

 最後に「本当のアビダンマはアビダンマという看板、あるいは商号はない」と、二三語を繰り返えさせていただきます。本当のアビダンマはスンニャターという看板、あるいは商号です。そしてアビダンマを学ぶ前に、何としても仏教の核心を全般的に掴んでしまわなければなりません。

 それからアビダンマを学べば歪まず、執着せず、あるいはうっかり黒いダンマに落ちません。本当にアビダンマを教えるアビダンマ家がうっかり落ちて邪見・サッサタディッティの話を教え、俺もその人、その生もその人になります。

 本当はスッタンタとアビダンマは同じ話をしようと目指しますが話す方法が違うと、このように理解してください。みなさんは時間的に間に合う利益のある方法を選びなさい。今頭上で燃えている火を消すように素早く火を消す方法を選びなさい。誰が火を点けたか、何で火を点けたか、どんな理由で火を点けたかなどと夢中になって調査する方法を選んではいけません。「今どのように火を消すか」という話だけにすれば、命拾いします。

 「アビダンマ」はヴィパッサナーと同じではなく、そして関係もありません。人がヴィパッサナーをして阿羅漢になれば、アビダンマは勉強しません。だから急いでヴィパッサナーをして、できるようになればそれが本当のアビダンマで、過剰なアビダンマではありません。
 「すぐにヴィパッサナーをしてはいけない」と禁じ、先ずアビダンマを勉強するのは、過剰なアビダンマ、膨れ上がったアビダンマ、先にたくさん勉強して、それからヴィパッサナーをして阿羅漢になり、そしてそれを有益に使い、自分のためでなく、他人の利益の道具にしました。だから膨れ上がったアビダンマ、過剰なアビダンマは、仏教を復権させて誰にも引けを取らなくする最高の利益があります。

 しかし本当のアビダンマ、本物のアビダンマは、早く個人の苦を滅すためだけです。どのアビダンマが何のためか知らないように混乱して教えるのは止めるべきです。そしてこの人が再び生まれ、そして偉大な善を目いっぱい担いで行き、そしてまた次に生まれるサッサタディッティ(常見)のアビダンマを教えないでください。今からは「俺、俺のもの」があってはいけません。クサラもアクサラもアバヤーカルタも、全部掬って捨てればアビダンマになります。

 今「アビダンマ教典のすべての教えはブッダの本当のアビダンマである」と理解しないでください。天上の天国の話、地下の地獄の話、これは止めましょう。天上の天国、地下の地獄は止めてくださいと、繰り返しお願いします。上も下もないので、それは愚かすぎます。丸い地球の真ん中に引力の中心があるので、外側が上になり、こちら側が基本的に下です。

 一つのソムオー(晩白柚)の中心に強力な磁石を埋め込んで、そして鉄製の非常に小さな人形を晩白柚の周りに付ければ、みなさんは上も下もないと知ります。上下という感覚は地球の重力の欺瞞です。月の世界へ飛んでいく人たちはこれを良く知っているので、夢中になって「天国は上、地獄は下」と教えるアビダンマの人たちを嘲笑します。だから上の天国、下の地獄の話を止めても良いです。それはもう止めても良い話です。

 本当のアビダンマは空です。本当のアビダンマは空と聞いたことがありますか。空には上もなく下もなく、左も右もなく、前も後ろもなく、空っぽです。それが本物、つまり本当のアビダンマで、それはどの方向にもくっ付いていません。本当のアビダンマに到達すれば、スンニャターに到達します。

 短くまとめると、今日私は「アビダンマとは何か」という講義をし、本当のアビダンマが一つ、膨れ上がったアビダンマ、過剰なアビダンマが一つと言います。本当のアビダンマはスンニャター(空)の話で、本当のアビダンマはアビダンマという看板を掲げてなく、スンニャターという看板を掲げ、偽物のアビダンマ、膨れ上がったアビダンマ、過剰なアビダンマはアビダンマという看板を掲げています。このように区別することを知って、本当のアビダンマを掴むことを知ってください。


 次は、仮に抜けないほどアビダンマに帰依したと仮定して、アビダンマを教える学校を創り、ビルを一棟ほど建ててアビダンマを教え、七階建てのビル、アビダンマを教える七階建ての館にしてもらいます。最上階はスンニャターという札を貼って本当のアビダンマを教え、アビダンマという札は貼らず、下の六階は、段階的に膨れ上がったアビダンマを教えます。

 館の一階はネズミの巣のアビダンマを教えます。つまり執着を増やし、たくさん布施をし、何でもアビダンマに関して多くし、そして印刷所を作って七束の木簡を印刷し、一束十五バーツでも山ほど儲けがあります。ね、このようにネズミの巣のアビダンマはこのように普及し、これが一階です。

 次に館の二階は、タマリンドの種のアビダンマを教えても良いです。アビダンマッタヴィバーヴァニー ディーカーアッタカターであるアビダンマは、石ころを使い、タマリンドの種を使わなければならないアビダンマです。

 それからまた昇って三階はアビダンマッタサンガハ、アビダンマッタヴィバーヴァニーを台本に教え、勝手に説明しないでほとんど自動的です。これは文字どおりに教典に引き返させ、アビダンマッタサンガハ、アビダンマッタヴィバーヴァニーに引き返すのはまだマシです。

 次にもう一階上って四階は、直接アビダンマ七教典を教えます。直接アビダンマ七教典は、アビダンマッタサンガハと同じと理解しないでください。サンガーヤナーのサンギータの中の直接アビダンマ七教典は何千ページもあり、アビダンマッタサンガハは縮小されて何ページもありません。アビダンマッタサンガハは縮小されて何ページもなく、そしてアビダンマッタヴィバーヴァニーは何百ページも解説しています。アビダンマッタサンガハを精通するまで学んだら、もう一段と上ってその元、本物、つまりアビダンマ七教典を学びます。

 次に五階に上ると、サーリープッタが話したアビダンマ、ニデーサ、ジュッラニデーサ、ラニデーサ、マハーニデーサ、パティサムビダーマッガを教えます。これらはアビダンマピダカと同じような文体ですが、範囲を限定して説明します。たとえば最高に近道であるアーナーパーナサティの説明ですが、アビダンマピダカと同じような文体です。

 だから私は、まだクッダカニカーヤに残っているアビダンマは、サンガーヤナーをした時、ジュッラニデーサ、マハーニデーサ、パティサムビダーマッガに言及したと言います。次にもう一階上って六階ではアビダンマ、アビヴィナヤを教えます。ブッダが度々話されている最高にパラマッタ(第一義)で難しいアビダンマカターヴェダッラカターですが、アビダンマ七教典ではなく、ダンマの言葉、ダンマを話す方法、深遠で絶妙に、一機にダンマを教える方法を、彼らは哲学と言います。最上階の七階になると、アビダンマスンニャターです。

 七階建てのアビダンマ学校を作って、上から数えればアビダンマスンニャターを教え、それから(六階で)アビダンマアビヴィナヤ、アビダンマカター、ブッダが話されたヴェダッラカターという名前があるアビダンマを教え、五階まで下りて来たらクッダカニカーヤ(小部)のアビダンマを教えます。四階まで下りたらアビダンマ七教典を教え、三階まで下りたらアビダンマッタサンガハ、アビダンマッタヴィバーヴァニーを台本どおりに教えます。

 それから二階まで下りたら非常に多いので、小石やタマリンドの種を使って助けにしなければならないディーカーアッタカターを教えます。それから一階へ下りたらネズミの巣のアビダンマを教えます、このような七階で最高に完璧です。アビダンマに対して百パーセント利益がある人と呼ばれ、このような七種類全部できれば最高に完璧です。

 これを持ち帰って思考し、相談し合って見てください。アビダンマに依存して仏教を復興させるなら、ネズミの巣のアビダンマからアビダンマスンニャターまで、この七つ全部を揃えるようお願いします。私は草臥れて、もう話す力がありません。お聞きのみなさんも三四回脚を抓っているので、終わりにするべきと思います。みなさん全員が過剰なアビダンマ、膨れ上がったアビダンマの代わりに、足代に見合う、眠気を我慢してここまで来た価値がある本当のアビダンマ、本物のアビダンマを受け取ってください。

 これで今日の講義を終わらせていただきます。




次へ ホームページへ 法話目次へ