12.あらゆる角度の仏教



1971年3月27日

 仏教にご関心がある善人のみなさん。今日の講義は、みなさんご存知のように「あらゆる角度の仏教」という主題です。「あらゆる角度」というのは、私は一般のあらゆる角度で話しますが、詳しくはないと捉えてください。詳しく話せないからです。先ず比較してあらゆる角度を知らせるために話し、それから必要な角度だけを詳しく話します。

 それ以外の角度は、詳しく知る必要はありません。だから今日は、むしろのんびり寛ぐような状態で、何かを一度見て回るようです。

 今まで何度も、何らかの角度、何らかの話に没頭してきました。今日は小鳥や樹木を眺め、田畑を眺め、天地を眺め、山や海を眺め、淵や沼、運河や沢や水辺を眺めて遊ぶように、のんびりくつろぐ状態があります。しかし遊びに行ってのんびり休息しても、気分の良くない物に遭遇することもあり、おぞましい腐乱死体などに遭遇することもあります。

 娯楽を探して歩くつもりでもこのような物に遭遇し、あるいは小鳥や植物を見物していて、知らないうちに猛獣に遭遇することもあります。だからそのような状態を覚悟してください。そうすれば期待外れにならず、怪訝にも思わず、そしてすべてに広い利益があります。びっくり仰天、あるいはそのような何かで夢中になりません。これが今日話すことです。このような状態があります。

 なぜ私は、あらゆる角度から見た仏教について話さなければならないのでしょうか。目的のほとんどは正しい面、正しい角度を選ぶことを知って欲しいからです。正しくない面に気づかないでもたもたしていれば、正しくなければ進歩しません。今世界中が進歩発展している核の時代のタイの仏教教団員が、夢中でのろのろ這っているのは正しくありません。タイの仏教教団員として益々正しくするためでなければなりません。

 もう一度振り返って見れば、私たちはほとんど間違った面を信じ、時には汚れた面、時には狭くて低い面を信じ、時には異教徒の外国人に嘲笑させる芽生えたばかりの肉腫の面を信じています。

 すぐに自慢をしないでください。すぐに不注意にならないでください。気づかずに間違った面を掴んでいるかも知れません。そして汚れたと言うのは嫌らしいという意味ですが、慣れ過ぎて感じないこともあります。

 この理由で、私は時々話して、間違いを避け、利益があって必要で正しい面を選ぶことを教えなければなりません。今私たちは益々憂慮すべき状態にあります。つまり彼らの世界は進歩し、彼らの人間も進歩していますが、それは物質面で、心の面は進歩せず、反対に愚かになります。時には物質の後を追っているのは、損害です。

 これが憂慮すべき部分です。だから私はあらゆる角度で話します。そして我慢して聞くようお願いしなければなりません。我慢して聞いてくださいと言うのは、聞くと可笑しいです。幾つかは聞いて面白味がなく、そして幾つかは一部の人にはまだ理解できないかも知れません。しかし一部、あるいはほとんどの人の利益のために話さなければなりません。

 「あらゆる角度」という言葉の意味は、どのような条件のどの角度、どの面か、はっきり見え、話せるものは全部話します。次に譬えれば「最高に高い山の頂上に登って、あるいは飛行機に乗って周りを隈なく調査して見て、そして特に見たい場所を探して見つけるよう」と譬えるべきです。これは狭い知識、あるいは短い視点で、どこかでしょんぼりしているより良いです。

 私たちは何でも自分が欲し物、あるいは自分の望みと一致する物だけを見がちで、そして他の部分を見ません。それも一緒にありますが見えません。これは滑稽です。「自分が欲しい」は煩悩が欲しがっています。煩悩が何かを欲しがると、その人はそれしか見えなくさせられます。もっと良くても、それより明白でも、他の物は見えません。

 例えば自分が求めている竹を切ろうと思って竹藪へ行くと、誰が何を作る竹を欲しがっても、自分が作りたい物に使うような竹しか見えません。他は見えないので、見ないのと、あるいは見えないのと同じです。

 ある人が大麻のキセルを作る節の曲がった竹を切りたいと望むと、頭を低くして節が曲がった竹ばかり探し、高くそびえている真っ直ぐで大きな竹が山ほどあるのは見えません。それは見えず、目が見ず、見るのは大麻のキセルを作る短くて曲がった竹ばかりです。

 これを「煩悩が欲しがる。そして煩悩がそれしか見させない」と言います。次に竹を切って釣り竿を作りたい人は、大麻のキセルにする竹は見えません。竹を編む人は、裂くことができる竹ばかり見ます。家の外壁や道具を作る竹が欲しい人は、自分の欲しい物だけしか見えません。これを「人は一度にすべての角度で見ることはできない」と言います。煩悩が、煩悩の望みと一致する話だけを見るよう誘うからです。どうぞ心の中で、この項目を思ってください。

 そうすれば、何でもすべての角度を見ることができる人になれます。この例は、何かをすべての角度から見て、より良い物を見つける利益があります。利益がある竹、真っすぐで長くて美しい竹は、短く、そして誰も興味がない小さな大麻のキセルを作る竹より利益があります。だから私は仏教の偉大な利益がある面を見ます。一般にしているように、大麻のキセルを作るためだけに見ないでください。

 種類で言えば、種類で分ければ非常にたくさんの種類があります。少なくとも十八種類あり、これは長いので後で話します。ここではたくさんの種類があると知らせるだけです。竹はいろんな物を何種類も、あるいは何十種類も作ることができるように、仏教もいろんな角度があり、少なくとも十八種類あります。聞いて信じられません。

 次にまだ「開かれている」「隠されている」、「気づいている」あるいは「気づいていない」という面があり、こういうのもあります。ダンマ、あるいは仏教の幾つかの面は隠されているので見るのが難しく、幾つかの面は開かれていて簡単に見えます。

 次に人には愚かさと賢さがあり、何かを見ても気づかない、こういう人もいます。いろんな角度をレベルで言えば、最低レベル、中間レベル、そして最高レベルまでいろんな種類があります。仏教も低くて浅くて簡単な話、中くらいの話、深遠な話に分けることができます。

 在家、庶民にふさわしいレベルもあり、出家にふさわしいレベルもあると見えます。庶民がそれなりにできるレベルで、出家は庶民より多くできなければならないという意味ですが、これもあります。私たちが苦に勝つ努力をして世界の上にいても、もっと遠くへ行けるので、庶民ための様式と出家のための様式があります。

 少なくとも新しい文明が生まれている状況がある現代世界の、これら新しい文明と同調できる仏教の部分もあり、新しい文明と同調できない部分もあります。新しい文明の幾つかは狂い過ぎているからです。つまり広く散らばりすぎたので同調できません。こういうのもあります。だから心の中を広くして、それはこのような状態でたくさんの角度があると良く思って見てください。

 さて次は、先ほど話し掛けた、種類は十八種類以下ではないという項目について話します。今私たちはいろんな状態を、少なくとも十八種類も見ます。これはみなさん、一つの物は何種類にもなり、何種類にも見え、何種類にも使うことができ、何とかいう名前で呼ばないで、その物の名前だけに使うのではないと知ってしまわなければなりません。

 例えば斧は切ることもでき、薪を割ることもでき、人を斬って殺すことも、槌の代わりに潰すことも、いろいろできます。だから私は、それをどのように使うか、条件に言及しなければなりません。だから仏教は「…としての仏教」、あるいは「何である角度の」とあります。中には「仏教であり、まだ他に何かである」と見ることを理解できない人もいます。

 斧は、他に何になれるか思って見てください。金槌にもなり、他の道具にもなります。仏教もたくさんの側面があります。

①宗教である仏教、
②宗教でなく哲学である仏教、
③道徳である仏教、
④社会学である仏教、
⑤科学としての仏教、
⑥心理学としての仏教、
⑦文化としての仏教、
⑧芸術としての仏教、
⑨衛生学としての仏教、
⑩語学としての仏教、
⑪文学としての仏教、
⑫史学、考古学としての仏教、
⑬論理学としての仏教、
⑭宗教学としての仏教、 ⑮人が教理を好む時、教理である仏教、
⑯間違った方向に拡大した肉腫である宗教である仏教。

 これで十六種類話しました。次におまけの二つ、
⑰権力者の望みで傾く、国を治める人の政策・政治の道具としての仏教、そして最後の
⑱は、一部の人の儲けや供物を探求する物である仏教です。

 これで十八種類、名前を挙げるだけでも草臥れます。一ダース半の数量は十分で、これ以上多く思えば眩暈が酷くなります。次により良い理解を生じさせるために、簡単にすべての面を見ます。

1.宗教としての仏教は、本来の目的で正しい物である仏教という意味で、宗教として存在する人間の拠り所です。初めの角度は人生の羅針盤のようです。これはいろんなパリヤッティの話で、そして旅をするようです。実践は旅をするのと同じです。これは実践(パティバッティ)の角度です。そして世界より上、苦より上にあるレベルの仏教は、実践の結果(パティヴェーダ)です。

 これが宗教としての仏教で、それもこのようにたくさんで、パリヤッティ(学習)、パティバッティ(実践)、パティヴェーダ(結果)です。パリヤッティの意味は人生の羅針盤のようで、パティバッティの意味は目的地までの旅することで、そして今世界より上に、苦より上にいるという結果に言及します。これがどの面の仏教かは、宗教としての仏教です。このように簡単に定義し、後で詳しく話します。一番の条件、あるいは角度は宗教としての仏教です。

2.哲学としての仏教。今人々が非常に迷っている philosophy と呼ぶ物、あるいは何でも呼び方次第で、知識狂いの部類、終点に注目しない知識です。次々に知るので膨れ上がり、あるいは過剰になり、多く知れば苦が長く、知れば知るほどどの方向へ行くか知りません。哲学を知れば知るほどどこへ行くか知りません。

 よく聞いてください。今世界は哲学が盛んで、それで平和に行くにはどの道を行くか、更に知りません。そして哲学が繁栄した分だけ戦闘や危機が増えます。それは膨れ上がった知識です。仏教の中にも過剰な部分があり、哲学の形で見る部分もあります。特にパラマッタ(第一義諦)、あるいはアビダンマと呼ぶ話のほとんどは過剰な話、どこへ行くか教えない話です。正しく適当な物もありますが、哲学と呼ぶほとんどはこのように過剰です。

 みなさんに自分自身を良く観察していただきたい最高に重要な一つの観察点は、「まだ理解できない何の知識も、すべては哲学の形の中にあり、それは愚かな人の知識」です。まだ実践が終わってなく、まだその結果に本当に到達してないから理解できない知識。その種の知識は哲学の状態にあり、疑念が混じっていて、どんどん増えます。

 例えば四聖諦の話を学び始めた時はまだ四聖諦を知らず、まだ至らず、まだ到達していないので哲学の話です。実践すればいつでも、知って実践した、本当に知って本当に到達した四聖諦になります。そうすれば哲学であることから脱して宗教の形になり、科学の形にもなれます。

 次に縁起などのまだ混乱した話は、触れればすべて哲学の話で、真っ暗で疑わしい点がたくさんあります。しかし実践すれば、特に阿羅漢になれば、非常に複雑な縁起の話が、哲学でなく、当たり前の宗教の話、あるいは明瞭で公開されている縁起に関わる科学になります。

 念処やヴィパッサナーをし、アーナーパーナサティをする話は、まだできない、まだ正しくできない、まだ不安定で寝ぼけ眼の時は、こういうのは哲学です。明らかにし、正しくはっきりさせた時、その時科学になり、心をそのように改善する結果を生じさせ、そのような心の面の結果があり、誰も教えなくても、騙さなくても、自分自身で明らかになります。

 しかし最初に触れた時は真っ暗で、推測ばかりで、いろんな疑念や疑問ばかりです。これらのカンマターナ(念処)は何でも、全部愚かな人の、疑念がいっぱいの人の哲学の形の中にあります。

 哲学の角度、哲学としての仏教はこのようであり、そして膨れ上がった部分、過剰な部分です。しかし最高に勉強するよう誘惑する部分です。出世したい、有名になりたい、哲学者になりたいので、実践を忘れるほど哲学の面だけに関心があります。

 西洋人も同じで、哲学者になることだけに狂ったように関心があり、実践できる話、できるかできないかは、彼らは保証しません。そしてできないか、あまりできない立場にあるので、世界中が哲学の煙に覆われ、世界を平和にできず、いろんな問題を解決できません。

 哲学としての仏教はこのようで、アビダンマ教典のすべて、あるいはほとんどすべて、あるいは四聖諦の話、縁起の話など他の法則も、まだ理解できなければできないだけ哲学であり、理解すれば科学になり、宗教になれます。

3.道徳としての仏教。こういうのは宗教の話ですが、私はほとんど社会に関わる低いレベルに注目し、道徳レベル、moral あるいは morality と呼びます。つまり実践しなければならない角度の道徳で、哲学面の道徳まで引っ張り込まないでください。ethics と呼ぶ部類、あるいは何かそのようなものは、道徳面の哲学で、それも哲学の形で膨れ上がります。

 人は morality より ethics の話に関心があり、道徳に関心がありません。道徳の哲学に関心があり、それもそこで寝ぼけています。ここで道徳について話す時、私はっきりした実践に注目し、ぼんやりした問題にしません。道徳はすぐに、本当に実践でき、疑念がないという意味です。そしてダンマのためのダンマの実践、仕事のための仕事など、このように明らかな利益が見えています。

 仕事のために仕事をするのは、信じたら働きます。煩悩のために働かないで、名声名誉のため、出世のために働かないで、仕事のため、正しさのため、純粋な義務のために働きます。これは道徳です。しかしなぜ仕事のために仕事をするのか、そしてそれはどのように良いのか、夢中になって質問をしていれば、こういうのは哲学になり道徳ではありません。

 それ以上質問する必要はありません。あるいは何語も話さずに意味が分かります。なぜ仕事のために仕事をするのか哲学の形の問題にして、際限なく質問して時間を無駄にする必要はありません。仕事のために仕事をするのは、心が低劣にならないため、利己主義にならないためです。

 俺、俺の物のために働けばすぐに汚職、あるいはそのような何かになりますが、仕事のために仕事をし、純粋な義務のために義務をし、ダンマのためにダンマの行動をすれば、間違う余地はなく、あるのは進歩発展ばかりです。

 この仏教支援者はずるくて、ダンマのためにダンマの行動をしないで、俺、俺の物のため、有名になり、偉大になり、あれこれ手に入れるためにダンマの行動をします。すべての庶民も仕事のために仕事をしないで、ずるくて俺、俺の物のために働き、すべては自然、自然の物と知りません。自然に従ってし、自然の義務に従ってするのが正しく、不正でない人です。

 それも食べる物、使う物があり、煩悩がなく、苦がなく、快適に暮らすことができます。俺のために何かをした途端に煩悩になり、貪り・怒り・迷いになり、一時不正をし、一時侵害し、そして奪い合い、競争します。今世界の人は仕事のために仕事をしないで、俺のために働くので、現代の社会には道徳がありません。そして生じる結果は侵害です。

 もう一つの面を見ると、道徳は普遍的な愛です。もし俺があるなら、世界中を全部一人にし、幾つの世界でも全部同じ人にし、世界中、あるいは幾つの世界でも、世界全体を一人の自分にすれば、同じように愛し、普遍の愛があり、普遍の慈悲があれば、誰も侵害できません。これも道徳です。なぜこのように考えなければならないのかと、夢中になって質問して問題を増やさないでください。すぐに哲学になってしまいます。

 自分を愛すように、あるいは自分以上に他人を愛せば、問題はこの世界から消滅します。今私たちは身勝手で、世界中身勝手になりつつあります。あるいは利己主義の世界で道徳がないので、どこも彼処も苦や困難があります。

 下品な言葉で言えば、いい気味です。道徳がなく、際限なく哲学を探求するからです。この世界の解決する話は、反対に際限なく哲学の面を探求するので、目を瞑っているのと同じ状態があり、何でも目茶苦茶にします。

 道徳の角度の仏教は、誰もが互いに行動するためで、自分が快適便利に暮らし、世界も快適便利に暮らすためです。この低いレベルは侵害し合わないだけで十分で、聖向聖果涅槃の話はまだしません。低劣な利己主義でない話をするだけで、道徳があると言えます。このような道徳レベルの仏教の教えもたくさんあるので、自分で勉強してください。五戒があるのも道徳の話です。

 五戒の意味を正しく把握し、五戒の五項全部について述べれば、五戒があると理解しないでください。そういうのは盲目的に話しています。それは五つ全部を、そして正しい意味で実践しなければなりません。①他人の命や体に危害を加えない、②他人の財産に危害を加えない。③他人が愛している物に危害を加えない。④虚偽である言葉によって、他人の利益に危害を加えない。⑤酔う物で自分の智慧や意識に危害を加えない。

 加害することがあってはならない。そうすれば道徳になると、良く聞いて見てください。

①パーナーティバータ ヴェーラマニー=動物を殺さない。この意味は実践できません。まったく殺さなければ、田んぼの仕事はできません。だから彼らは加害する心があってはならないという教えがあり、他者の命と身体に加害しない決意があれば、雨蛙、蛙、カニ、何でも死なせても、それはこの項の戒に反しません。加害する心がないからです。私たちは純粋な心で、他者の命や身体に加害しない決意があれば、この項目の戒です。

②アディンナーダーナー ヴェーラマニー。「所有者が与えない物を盗らない」は、どんな方法でも、他者の財産に危害を加えない角度で見ます。

③カーメースミッチャー ヴェーラマニー。これは他の人物が愛しているすべての物に加害しない。「浮気をしない」と言うだけの言い訳がありますが、それは狭すぎ、言い訳です。この項目の道徳を正しく遵守するなら、他人のどんな種類の愛している物も加害してはなりません。大人でも子供でも「これはあの人が愛している」と知ったら、手を触れて悔しがらせません。それが三番目の戒を十分な意味で正しく守ることです。

④ムサーヴァーダー ヴェーラマニー、嘘を言わない。これは他人の利益に言葉で加害しないという意味でなければなりません。誰の何にも加害しない嘘を言うのは、この項目の戒は欠けていません。時には人に善行をさせるために嘘を言わなければなりませんが、これは却って、嘘を話すことで徳を得ます。しかしその嘘が他人の利益を損ねることがあり、他人の利益に加害すれば、この項目の戒に違反します。だから「言葉を道具にして他人の利益に加害すること」とハッキリ明示します。

⑤スラーメーラヤマッタパマーダッタナー ヴェーラマニー。お酒を呑まない、酔う物を呑まないとだけ捉えられがちです。酔う物というのを狭い角度を見て、酒でなければ、酔う水でなければ摂っても良いというための言い訳は、真っ直ぐでない曲がった人です。この項目の教条を遵守すれば、自分自身のサティや意識に危害を加えてはなりません。

 食べて、吸って、呑んで、塗って、あるいは嗅いで、それを摂取するとサティや意識が混濁する物、つまり心を抑え、善悪正誤を知ることが狂えば、全部この項目の戒に反すと言います。酒を呑むことだけでなく、心の正常さ、あるいは意識を無くさせる物は何でも酔う物と見なします。私たちは自分の心に加害する機会はないという意味です。

 これも、仏教の道徳の教えはあらゆる角度に、広く全部揃っているとはっきりと見えます。仏教のこの部分は、道徳としての仏教です。

4.次に社会学としての仏教を見ます。多少現代的な言葉になりますが、どの言葉を使えば良いか分りません。社会学とは社会で互いに行動するためになければならない知識という意味で、ほとんど社会に注目します。仏教には、社会に関わる実践に使わなければならない教えが揃っています。特に仏教の教典の中にあるすべてのダンマは家族に関わり、身の回りのいろんな物に関わっています。

 身の回りにあって私たちを取り囲んでいる物、何でも全部社会と呼び、子、妻、夫から友人知己、遠くは先生、王、僧、世界の誰でも、畜生まで含める方が良いです。私たちは仏教徒なので畜生に慈悲を与え、名誉を与え、意味を与えます。西洋人は認めません。私たちは仏教徒で穏やかな情、慈悲や憐れみがあり、社会を受け入れて尊重します。畜生まで含めるのは、世界を共有しなければならないからです。

 ある種の動物、犬などは人間に非常に近く、そして人間にとって非常に利益があります。要するに私たちを取り囲んでいるすべての物を全部「社会」と呼んでしまい、この知識を正しく全部揃えます。仏教にもあります。だから社会学である角度の仏教はたっぷりあるので良く見てください。他の社会学を探して時間を無駄にしないでください。それは気づかないうちに寝言の哲学に落ちます。

5.科学としての仏教。この言葉は、わざと言っているに近いですが、「科学」という言葉を正しく十分に理解する人は理解できます。そしてこのように話さなければならないと見えます。科学は哲学と対象的と見るべきです。哲学は寝言に導き、草藪に迷わせ、どこへ行くか分からなくさせ、基本として疑念があります。科学は開かれていて明らかな道理があり、基本として疑念がありません。だから仏教は、本質的に哲学でない分だけ科学です。

 公開されていて、自分自身で知ることができるという意味で科学です。パーリは、サンディッティコ=人が自身で知るべき、パッチャッタン ヴェディタッポー ヴィンニューヒ=知る人は自分だけの内部で知ることができます。そして道理の世話にならず、何のどんな疑念の世話にもなりません。

 哲学が疑念で推測することに基礎がある時、科学は明らかに見て、器官、あるいは感じるアーヤタナである目・耳・鼻・舌・体・心で感じることに基礎があります。それははっきり感じ、道理に依存する必要がなく、介入する疑念は必要がありません。それは科学です。

 本質的に仏教は科学で、さっき述べたように四聖諦の話は、まだ実践していなければ、まだ曇っている哲学で、四聖諦の実践していれば「苦の話、苦を生じさせる原因の話、滅苦の話、滅苦に至らせる道」の科学になり、目ではっきり見える物質のように開かれている科学になります。

 心に現われているだけで他人に依存する必要がなく、理由に依存する必要がなく「苦はこのよう、苦を生じさせる原因はこのよう、苦がないことはこのよう、そして苦がないことに至らせる道はこのよう」と、こういうのは科学になります。そしてまだ理解できない人が掴んだばかりで、訳が分からないのは、哲学です。だから、それが科学になるまで実践してください。

 非常に難しく混乱している縁起の話も同じで、触れたばかりの時は哲学で、実践して行って、いろんな concept の、思いの状態を管理できるようになれば、それは科学になります。明らかに煩悩を止め、苦を止めることができるからです。しかし今、誰もこのような状態で縁起に対処する人はなく、哲学の面でたくさん話して、益々寝言になります。

 西洋人たちの縁起の説明は誤りばかりです。私はすべての名誉を掛けて保証します。先生である西洋人でも、仏教の大先生でも、実践できない哲学の形で縁起の説明をします。間違って説明してきたのは、千年以上です。目・耳・鼻を通した心の行動が煩悩を生じさせないよう管理する項目を知れば、それが本当の、科学である縁起です。

 カンマターナ(念処)、ヴィパッサナーか何かいろいろも、正しくすれば科学で、間違ってすれば薄暗い哲学です。だから仏教には科学であり、体であり、基礎である部分、サンディッティコー パッチャッタン ヴェディタッポー ヴィンニューヒというこのような文句で、がっしり基礎固めした部分があります。

6.心理学、あるいは心理学の色んな分野としての仏教。これは必要を超えた、膨れ上がった部分と、ちょうど良く実践できる部分があります。つまり哲学の部分と科学の部分がありますが、心理学、あるいは psychology の状態で話しておきます。ほとんどの心理学は実践に使うことができません。膨れ上がってどの方向に行くか分からず、際限なく反論し合います。実践に使える心理学はあまり問題がありません。

 仏教は心を知り、心を強制し、そして心にあるべきダンマがあるようにし、煩悩が生じられないので煩悩が無くなるよう心を支配する方法を教えます。このように心理学の角度を見ても同じです。

 カンマターナをする、ヴィパッサナーをするのも一つの、そしてちょうど良い心理学の話です。つまり実践に使うことができ、apply でき、それ自体に practical があります。しかしアビダンマ教典、あるいは何かの中の膨れ上がった心理学は、山ほどたくさんあります。

 だからヴィパッサナーをする時、特にアーナーパーナサティは心理学に関わる科学で正しくしなければなりません。自然の法則で正しくすれば膨れてない、必要な心理学です。勉強のため、子を分けるため、際限なく考えて哲学者になるための心理学は別の部分で、仏教、特に仏教の教典の中、三蔵の中にたくさんあります。

7.文化としての仏教。これは狭く言及し、家の文化、良い文化・伝統・習慣は発展の印です。それは仏教に基礎があり、人間がどのように実践して良くするかを知らなければ、その宗教面の教えを仏教の教えと掌握し、この話について教えを守って実践して習慣になります。その結果その人物の、その家庭の、その家の文化になります。タイの文化に善い物が何種類あるか、調べて見てください。その基礎は仏教にあります。

 大昔のタイの文化は何の形か知りませんが、現在のタイ文化は仏教に基盤があります。しかし私たちは文化と見ているだけです。慈悲深さ、明るい微笑、援けの手を差し伸べる、赦しを与えるなど、これら諸々は、タイの国民性と呼ばれるほどです。だから「タイ文化」は仏教の教えのいずれかの項目を基礎にしていて、仏教に関わりのない人たちの文化と違います。だから私は「宗教から、仏教から芽を出した文化」と言います。

 このように文化の形になっている宗教、特に仏教はたくさんあり、重要な物もあります。これを文化としての角度と言います。個人である部分も、社会と関わるのもあり、そしてしっかり根を張って「伝統習慣」と呼ばれる物になりました。タイ人の美しい伝統習慣はタイ人の文化で、仏教から形を変えました。だから仏教はこの形になり、タイ人の生活の一部になりました。

8.芸術としての仏教。これは口先のごまかし、あるいは曲がった角度があると思う人がいるかも知れません。芸術としての仏教は飾り付ける芸術でなく、騙す芸術でもなく、本当の芸術でなければなりません。芸術とは、本当の意味は美しさ、満足すべき、帰依すべきことに注目し、そして欺瞞しないという意味でなければなりません。ほとんど「純粋な美」という言葉の意味と思っておけば、芸術という意味を知ります。

 私たちは経を唱え、「初めも美しく、中間も美しく、終わりも美しく実践し、そして梵行を広め、仏教を初めも美しく、中間も美しく、終わりも美しく公開しなさい。アーディカラヤーナン マッチェカラヤーナン パリヨーサナカラヤーナン」と言われたブッダの言葉・教えで、毎日「初めも、中間も、終わりも美しく」と唱えています。これが芸術の意味です。体・言葉・心を美しくし、見ると尊敬したくなり、見て心地良く、喜ばしくします。

 このように大きな教えである美しさに注目すれば、芸術と呼びます。ただ良いだけで、美しくなければ芸術とは言いません。つまり心を引き付けず、心を掴みません。善であり、そして美しければ芸術です。ブッダはご自身の宗教をそのようになさりたかったので、そのように実践し、そのように教えを広め、そのようにしなさいと諭されました。次にここでの「芸術」という言葉は広く、物質でも行動振舞いでも思考でも良いです。

 次に美しい方法で思考すれば、それは思考面の芸術、体・言葉・心の美しい行動で、誰でも見れば愛さずにはいられない、こういうのも思考だけでなく、実践しなければならない、実践のための芸術と言います。だから良く考えられる智慧、あるいは考えを形にする、あるいは絵画か何かにできる智慧があること、これも芸術で、仏教にはたくさんあります。しかし仏教の芸術の本物は、実践と、どんどん状態が変化する心を意味します。

 次に外国人はこの話を何も知らず、芸術面の仏教の要旨を知らず、迷って仏像、あるいは本堂や塔などを仏教徒の芸術にします。こういうのは仏教を知らなすぎると言います。仏教徒の芸術はそのようではありません。ブッダがご存命の時、それらの物はまだありませんが仏教はあり、ブッダは美しい菩薩堂を造り、美しい仏像を作るのでなく「初めも、中間も、終わりも美しく」するよう願われました。

 それらの物はまだありません。しかし実践と教えを、初めも、中間も、終わりも美しくさせました。次にそれを広く見ることもでき、仏像、菩薩堂が芸術でも良く、心を惹く物でも良いです。

 使っているより、あるいは理解しているより深い言葉があり、プラタムなどは、このダンマは人生の詩作品です。本当のプラタム、正しく学び正しく実践するプラタムは本当に結果があります。これは人生の詩作品で、こういうのも芸術と呼ぶことができます。こういうのを理解できない人もいて、「何で人生の詩作品」になるのだと言います。聞いたことがある詩作品は、いろんな形式で綴られ、暗唱され、言葉だけ知られ、そのようにだけ知られているからです。

 人生の詩作品は、定型詩のように美しい何かがあるという意味で、定型詩のように美しく、定型詩のように響きが良いですが定型詩ではなく、同じ意味があるだけです。これを私は「人生の詩作品」と呼び、これは人生の芸術で、芸術としての仏教はこのようです。だから歪まなければ、それは一つの美で、現代人が理解している以上に深い美学です。

 それは物質狂いの人物が見ることができる、あるいは喜べる物よりはるかに深い美しさと、跪拝することをお許しください。現代人は汚れた物、身体の面の美味しさばかり喜び、心が低劣なので芸術、あるいはプラタム、あるいは仏教の教えによる人生の詩の美しさに至りません。だからこれを理解できれば、到達するかしないかはともかく、途端に「芸術としての仏教は深遠であり、最高に重要である」と理解できます。

9.衛生、衛生学としての仏教。衛生とは力、あるいは能力の正常さが完璧なことです。しかし今人は身体の面だけに注目し、現代の人間は身体の面だけに狂っているので、衛生も身体の話だけになりました。次に私は、衛生には身体の面と心の面があり、身体の面の衛生と心の面の衛生でなければならないと、全部揃えて見たいと思います。

 仏教のダンマを正しく実践する人は誰でも良い身体があり、良い心があります。良く聞いてください。だから仏教のダンマの実践をすることは、身体と心、両方の衛生を良くします。

 話せばいろいろありますが、例を挙げることもできます。現代人の病気のほとんど全部は、精神面の衛生に欠けることが原因です。つまり心が良くなく、心が休息を取れず、眠るのが困難で、煩悩が多いために憂慮があって眠れず、間もなく神経の病気になります。

 あるいは糖尿病や心臓病、高血圧症か何かでも、心の面の衛生の規則正しくない生活に原因があり、精神面の不衛生が適度の長さになると体の病気が生じます。ダンマがないのでこれらの病気になります。

 ガツガツたくさん食べて胃の病気になって死ぬ。これも「ちょうど良いだけ食べなさい」という項目のダンマに欠けます。あるいは切り傷を作るのはサティサンパチャンニャ(常自覚)という項目のダンマがないからで、心の衛生がないから切り傷を創ります。

 身体と心の面が完璧なら、今の人のように病気は生じません。長生きで百歳以上にもなり、そしてあまり病気がなく、死ぬ日が来たら、熟した果実が落ちるように死んで行きます。一時この病気、一時その病気で毎日病院へ行っても足らない現代人のように、問題は多くありません。

 だからすべての角度から正しいダンマを実践して見ると、初めの項目はサティサンパチャンニャ(常自覚)で、切り傷を作らず、物を落とさず、側溝に落ちず、不注意から生じる物は何もありません。ヒリ・オッタッパ(慙愧)があり、罪を恐れ、罪を恥じれば、夜遊びをせず、酒を呑んで肝硬変にならず、そしてたくさんの種類の病気を防ぎます。ダンマの振る舞いがあれば、ほとんどの人がなっている身体面の病気も生じる道はありません。

 次に心の病気も生じません。つまり貪り過ぎず、強欲でなく、怒りっぽくなく、迷い易くありません。これは快適で、心の衛生も良いです。ダンマの実践のすべての項目は、このような結果のためになります。だから良く見てください。わざと言っているのではありません。あるいはわざと見る必要もありません。公正に見れば、プラタムのすべての項目は身体の面でなければ心の面、あるいは両面の衛生のためになります。

 アーナーパーナサティを実践するなら正しくね。言葉に良く注意して「正しく」という言葉を使います。アーナーパーナサティの実践をして狂って、鎖で繋がなければならない人がたくさんいるからです。それは正しいアーナーパーナサティではないからです。

 正しいアーナーパーナサティの実践は快適で、鎖で繋ぐ必要がなく、そして身体は最高に心地良く、心も最高に心地良く、識は最高に澄み切っています。つまり煩悩がありません。あるいは最高に煩悩がありません。

 興味があればアーナーパーナサティの本を探して読んで見ると、長い息を意識し、短い息を意識するのから始まります。これは身体を最高に快適にし、次々に高くして心の話、最後にダンマの話になり、そして煩悩がなくなります。だから衛生としての、あるいは直接衛生である仏教は身体にどっさりありますが、人は見過ごして見えません。

 次は細かいことで、

10.語学としての仏教です。これも膨れ上がった話です。しかしこれもあります。書籍である三蔵全部を調査して見ると、積み上げれば頭より高く、あるいは頭ほどあり、その中に言語に関わる語学があります。古代の言語の一つ、インドのパーリ語の形の、完璧な語学に関した言語学があります。タイ語の語学の規則はパーリ語の語学の規則を受け継いでいます。次にパーリ語を見れば語学の規則を発見します。

 言葉を繋げた発音を連声と言い、何語も連結して少しの言葉だけ残し、そして広い意味を持たせるのは、文法と呼ぶ語学の話です。そしてその他すべては三蔵の中にあります。そしてブッダも、比丘が語学的に正しい言葉を話すよう望まなければなりませんでした。

 弟子を野蛮人にしたくないので、語学面でも知識があり、語学の規則で正しく話すよう望まれました。もしできれば。だから膨大な三蔵を綴るには、語学面でも、彼らは非常に注意深くしました。

11.文学に関連する角度の仏教。これは文学的な美しさ、あるいは文学の意味の価値まで高くします。スッタの中には、全体が文学の状態の物があります。サッカパンハスッタ(釈問経)などは、若い男女の愛の状態の詩に綴られていますが、意味は阿羅漢の話です。こういうのは現代人にはできないと理解します。

 現代人は愚かすぎるので、そのような言葉の詩を綴ることができません。信じられないなら読んで見てください。そうすればあなたも奇妙な気持ちになります。あるいは怪訝に感じます。マッジマニカーヤのサッカパンハスッタという名前です。読んで見てください。

12. 歴史学と考古学の角度の仏教。三蔵の形である仏教は歴史的、考古学的知識が溢れています。西洋人はインドの考古学を三蔵から勉強し、まだ目を瞑っている私たちは、どのように取り出すか知りません。

 人間について、統治について、経済について、何に関してもインドの考古学を書くには、彼らは三蔵から持って来て、どのように生きたか、どんな生活だったか、どのように変化したかを知らせるたくさんの角度があります。どんな物を使っていて、今はないか、物質面でも歴史学、考古学の話があります。

 これらの教典で言及している幾つかの楽器は、今はありません。これは物質面の考古学です。そして人間と人間の思考面でもどんどん変化します。膨大な考古学の話は仏教の教典、三蔵の中にあります。だから三蔵のこの部分を仏教と見なすなら、それは考古学と歴史学です。

13.論理学、あるいは logic の面の仏教。アビダンマピダカと呼ぶ論蔵の三番目は logic、あるいは論理学に溢れ、特にカターワットゥという教典です。今はタイ語に訳されているので、奮起して読んで見てください。誰かから借りて読んでも良いです。今人が話している logic より深遠な logic の角度に気づきます。

 それは滅苦のための実践に関わる logic で、logic 角度の哲学の形で話しています。Logic の話し方は話が上手く、その時代、つまり二千年前からから最高に巧く、今の人の方が巧くありません。これを論理学と言います。

 論理学としての仏教は、ほとんどはアビダンマ教典です。ブッダご自身が話された、傲慢な人を苦しめた言葉も、論理、あるいは奇跡の状態のロジックの形がいっぱいあります。ブッダは敵である人を、logic に満ちた言葉で敗北させなければなりませんでした。言葉でブッダを降参させようと目論んだ人たちがいましたが、そのようなら、全員敗北して帰りました。

 そしてカニが子供に噛みつこうと爪を大きく振り上げると、子供が石で高慢を叩き潰し、カニの爪が粉々になるように、最高に良い logic の使い方を見せている話を発見します。ある人はブッダを言葉で負かせに行く決意をして、それで黙りこくって冷や汗を流しました。これが仏教の教典とブッダのチャリタチャリヤー(品行)の中に溢れている logic の話、logic があること、logic の使用です。

14.宗教学としての仏教は Theology(神学)であり、Religion ではありません。初めに「宗教である仏教は、滅苦のための実践規則、 religion 」と話します。今私は、宗教について話す学問である宗教学としての仏教について話します。こういうのは信じなければならない話の形に注目し、純粋な心で信仰しなければなりません。しかしこれは信仰で、そしてあまり知性を使わない道理のない種類の信仰で、決められたように信じなければなりません。

 他の宗教は神様を重要とし、仏教も神様と同じくらい重要な物がなければならず、それはプラタムです。私たちは最高に神聖な物のように尊重し、神様のように批判や批評が赦されない、こういうのは宗教学の話で、神様や神の側になります。このような状態も私たちが実践に使っている仏教にあります。ブッダはそのように実践するよう望まれなくても、仏教教団員の実践はこのような形の中にあります。

 あるいはもう一度言えば、仏教に神様はなくても、神様と同じ義務をする物があります。神様の義務とは、過ちを犯した人に罰を与え、正しくした人に褒美を与え、善行をした人を助けますが、仏教にも過ちをした人に罰を与え、善行をした人を助け、世界を支配する物があります。私たちは「神様」と呼ばず、「プラタム」、あるいはカンマの法則、あるいは真実でも何とでも呼びます。

 しかし意味は、全部 theology で、信じなければならない、崇拝しなければならない、関心を持たなければならない、極めて実践しなければならない、そしてかなり盲信である、姿が見えない神聖な物です。

15.教義としての仏教。これは更に盲信になります。この教義は雑多な物で、その人がどのようなのを好むか、どのような教義を好むか次第で思い切り自由で、「誰が非難しても、私はこのような教義を信じたい」。だから仏教を信じている仏教教団員も、自分の好きな教義として信じます。次に「教義(ラッディ)という言葉は四散して霊験の話、神聖な話、人の愚かさで何の話にもなり、元の形から非常に変形します。

 「愚かさで誤った実践をすれば、いつでも新しい教義が生まれる」と、このように憶えておいてください。仏教の教えのどの項目も、愚かさ、信じ易さで間違って実践すれば、いつでも新しい教義が生まれ、細々した教義の一つになります。だからそのような一つ一つの教義を信じる人のいろんな霊験があり、神聖があります。

 教義について述べれば、キリスト教で dogma と呼ぶ物について話さなければなりません。合議で規定した教義という意味で、誰も反論しないように規定され、これだけが正しい物で、それ以外は誤りと見なさせます。そして誰も反論できません。納得し合っているからです。神様を信じる宗教、あるいは神様の代理である人物を信じる宗教はできますが、仏教ではできません。dogma と呼ぶ物は、正しい仏教にはありません。

 人が誤って細々した教義を信じ、自分の満足で枝分かれすれば、これは仏教でなくなりますが、それでも仏教と呼びます。断定的に言うなら、dogma、あるいは dogmatic system は仏教にはあり得ないと捉えてしまってください。しかし今、人が話す所、あるいはあるようにしたがる所にあります。この教義、この集団、このガナ、このアーチャンはこのようにしか教えず、他のように教えません。そして他の物は全部誤りです。

 これはその集団だけの dogma であり、そしてそのサンガ全体になるほど増えることもあります。こういうのを「教義としての仏教」と言います。それは既に生じていて、そして至る所にあります。そしてほとんどは愚かで危険な話で、多少利益があるのはわずかな部分です。多少という言葉を使います。憶えておいてください。

16.肉腫である宗教としての仏教。肉腫とは癌で、増殖した物で肉でなく、肉に似て見えますが肉ではありません。こういうのを肉腫と呼びます。後世の仏教には増殖した肉腫があり、正しい仏教ではありませんが仏教という名で呼び、仏教に含まれています。こういうのは注意しなければなりません。私たちは癌を恐れるのに、仏教の癌は恐れないからです。

 肉腫である仏教は呪術が混じり、占星学が混じった仏教、心霊の話、幽霊の話が混じった仏教、そして横道に逸れて常見などの邪見になった仏教は、「この人が死んだらまた生まれ、この人は死んだらまた同じ人に生まれる」と言います。

 こういうのはサッサタディッティ(常見)であり、誤った見解であり、肉腫の仏教です。今まではなく、誤った物と見なします。今は再びこのように増殖した悪性肉腫になりました。だから呪術、占星学、幽霊学、心霊学か何かから新しい邪見まで、肉腫の仏教、癌であるのは十六種類あります。

 次は、隅々まで見るためにおまけとして二種類見ます。

17.国策の道具としての仏教。それぞれの国には国家を統治する政策があり、ブッダの時代から現代まで、宗教はこのような道具である立場に落ちています。この形の宗教はあまり原則にすることはできませんが、適度な原則にすることはできます。それは国家の必要次第でなければならないからです。

 この世界は権力を重要と見なさなければなりません。これは忘れないでください。ブッダは「この世界は権力は重大なので、権力と戯れてはいけない」と言われました。

 王の望みは一時免除し、強制する権力があればその人の意に従い、気に掛けませんでした。それで統治にとって利益のある道具にされた、そういうのもあります。時には必要な話であり、権力に負けた話です。他の宗教にもあり、時には植民地にする道具にも使われたこともあります。

 私たちは、政策の状態で国家を統治する道具にされだけです。こういうのはまだマシですね。しかし権力者の望みで、修正することを受け入れなければならなかったことを認めなければなりません。

18.最後は利得や崇拝を求める道具としての仏教。利得というのは品物で、崇拝というのは称賛の声で、仏教は一部の人が供物や崇拝を求めるために使う道具の立場に落ちていて、今日でもあります。私たちが知らなければ、餌に、つまり誰かが利得や崇拝を探求する道具になります。

 この建物の最上階に絵が描いてあり、「天国行きの切符を売る」という文字があります。彼らは天国行きの切符を買う人である仏教支援者の背中で稲作をします。つまりある集団は仏教を、天国行きの切符を買う仏教支援者の背中で稲作する道具にします。こういうのはどの形の中にあるか、何とか理解できます。

 時には、還俗する時にたくさんお金が欲しい僧は、厚かましく宗教を還俗する時の資本を集める道具として使います。これは宗教であるダンマを、資本を集める道具に使います。そこまででなければ、この宗教を空拳の哲学者になるための名声名誉を求める道具に使います。

 「から拳の哲学者」は特別に規定された言葉です。から拳の哲学者とは、その哲学者は何でもたくさん知っていますが、拳の中は空っぽで、ちゃんとした物は何もありません。あるのは話すため、教えるため、際限なく何かするための知識だけで、実践できません。そして実践に関わりません。

 こういうのを彼らは「から拳」と言います。無益の人ですが、宗教面の知識に精通しているので哲学者の立場を維持しています。時には善を積んで死ぬ時に遺し、自分にとって夢のような記念碑にするためにこの宗教に依存するだけで、何種類も何十種類もあります。

 これは仏教が、一部の人たちの供物や崇拝を集める道具になった例です。彼らは仏教の教えで話し、仏教の言葉を使い、仏教のような儀式があるので、何でも全部仏教になります。しかし正直でない話、つまり自分の利益だけを考え、宗教を道具にして供物と崇拝を探求する人たちの手中に落ちた仏教になります。これが十八番目の例です。

 だから仏教は、少なくとも十八種類、どの面が一番多く中味があるか、よく見るべき十八の角度があると言うことができます。そして私たちはその角度を信じることができます。

 私が初めに取り上げて話した初めの角度は、宗教としての仏教で、関心をもたなければならない角度で、その角度から何としても利益を得なければなりません。そうすれば自然に他の角度に関わり、本当の宗教の角度を正しく掴めば、自然に道徳である角度、科学である角度、衛生か何かそのような角度になると話してきました。だから私は、正しい本当の宗教である角度について話します。これは話す価値があります。

 もう一度戻って「すべての角度」について話させていただきます。仏教にはたくさんの角度があるのは、それを使って人の人生のすべての問題を解決するためです。というのは、この世界の人間は、数えきれないほど様々な面の問題があるので、世界の人全員の問題を何としても全部解決するために、仏教にもいろんな角度がなければなりません。だからいろんな角度になりました。

 騙さない純粋な部分だけにしても、それもいろんな角度があります。次に真っすぐでなく、正直でなく、純粋でない部分もあり、これもたくさんの角度があります。

 人間の問題を解決するにも、注意しなければならない項目があります。本当の問題もあり、そして膨れ上がった問題もあります。質問する必要がない問題を膨れ上がった問題と言います。私がお寺で寝起きしていると、非常に多すぎる問題を質問する人がいます。その人が質問する問題のすべては、ほとんど膨れ上がった問題です。つまり質問すべきでない、あるいはほとんど質問しなくても良い問題です。

 本当の、直接の、必要で急ぐ問題は、あまりありません。あるにはありますが非常に少ないです。人生の問題は本当の物と、膨れ上がった物があります。必要か必要でないかで言えば、彼らは必要がない話、知性で混乱し、どの方向へ行くか知らない話ばかり質問します。今ここで急いで滅苦をする知性の部分は、あまり質問しません。

 矢で射られた人が「どのように傷の手当てをすれば最も早く治るか」を問題にしないで、「誰が射たか。何の武器で射たか」。大昔は矢で射たので「その矢は何の毒を塗ってあるか」。現代はピストルで撃つので「どの商標のピストルか、どこから持ってきたか」を問題にして、夢中になってこのような質問ばかりしていると、時々例を挙げているのと同じです。なぜ「今どのように手当てすれば、撃たれた傷が一番早く治るか」と質問しないのでしょう。

 次に「最高に早く」という言葉は、自分の頭上で燃えている火は、どれだけ急いで消さなければならないか、重量を比較します。頭髪の火事はどれだけ急いで消さなければならないか、考えて見てください。夢中になって「誰が射たか、どこを射たか、何を怒って射たのか、何のピストルで、誰から借りて」と質問しても、何の利益もありません。「どのように手当てすれば最も早く治るか」と、最高の望みで言わなければなりません。

 「最高の望み」と言うのは、これは「彼らは最高に望まず、遊びで少ししか望まない」と、聞いて信じられません。質問をする、あるいは仏教を学ぶ人が遊びにし、最高に望みません。最高に望むのは、捕まえられて水に沈めて押さえられると、その人は呼吸をしたいと望み、その望みは遊びでしょうか。それとも本気でしょうか。

 捕まえられて水に沈められて押さえられた人は、呼吸をしたがり、そしてその望みは遊び半分か本気か、どれほど本気か、考えて見てください。考えられなければ、自分で頭を水に沈めて見て、そしてその間、浮き上がりたい、水から脱したいと思うのは遊び半分の望みか、それとも最高に本当の望みか、自分で見てください。死んでしまうので、最高に強く、最高に早く水から出たがります。

 仏教にもこのようにしなければなりません。そうすればできます。つまり正しく、最高に早く、最高に急いで、述べた例のように最高に本当に、最高に多く望みます。本当の仏教はこのように目指す規則、あるいは重要な物です。

 しかしここで、仏教は望みに応えたい、あるいはあらゆる角度の問題を解決したいので、広く開放し、遊びの人も許し、本気でない人も許し、哲学者になりたくて滅苦はしたくないのも許し、寝言になってどこへ行ってもその人の勝手で、反対する人は誰もいません。

 そして知りたいだけの人たちもいます。知りたいだけで、すべての種類を知りたい、何でも知りたい。そして何でもそれを考える。こういう人もいます。ほとんどはこのようです。

 今ほとんどは、仏教をこのような状態で学んでしまいます。タイでも西洋でも、仏教協会を設立するのは、このような人ばかりです。つまり珍しい考えをしたい、あるいは珍しさを自慢したい、あるいは宗教を信用や名声を得る道具にしたがり、水に押さえつけられている人が自ら脱したいと足掻くようではありません。

 私は、どの角度にするかによりいろんな角度があると話して聞かせ、それぞれの話を十分説明し、いろんな話がどのように関連しているかを説明しました。必要のない話も、このように必要な話に関わって来るので多くなり、時間の無駄で、しまいには知りすぎて苦が多い話になります。現代の学生、つまり知り過ぎて苦が多い人は哲学に頼りすぎるからです。

 だからいろんな角度は、何十の角度でも、本当の角度は、問題解決のための角度で、本当に利益がある角度は問題を解決できる角度です。そしてその問題は本当の問題、火急の問題、利益のある問題でなければなりません。他の部分は副次的で装飾の援けになる部分です。本物は基礎として立っていて、そして美しくするために飾り、加え、あるいは何かちょっとします。

 だから人は、仏教に解決の援けをさせるための、苦である問題が必要です。このようなら時間が無駄でなく、損害がなく、早く正しくなります。解決するために、本当の問題である角度がなければなりません。次にこれ以外なら時間の無駄の話で、下品な言葉を使えば狂った話、あるいは今狂っている話、あるいは結局、騙す人の餌になります。

 間違った角度、間違った話、本当の状態を間違えば狂い、あるいは今狂っている最中、あるいは騙す人の餌になります。私たちは仏教の正しい面、必要な面、つまり大きな項目である宗教としての仏教に関心を持ちます。それ以外の部分は飾りの、付け足しの話です。

 宗教である仏教、特にこの角度だけでも眩暈がするほどあると話して聞かせたように、まだ小さく枝分かれします。本当の宗教である仏教は滅苦のためで、滅苦のための実践に使います。しかし同時に際限なく勉強する角度であり、勉強するだけでキリがないのはパリヤッティ(学習)です。そしてもう一つは神聖な話で、国のサンガであり、神聖な施設である話、こういうのはもう一つの角度です。

 仏教では時々、菩薩堂、ヴィハーラ、広場、塔、黄衣があることだけを目指し、至る所に黄衣が溢れていれば「宗教はこのように繁栄している」と言い、仏教は渋染めの布の象徴だけになります。誤りか正しいか考えて見てください。黄衣が国中に溢れても、それで滅苦が確実にできるでしょうか。

 黄衣の象徴、菩薩堂ヴィハーラの象徴、仏塔も記念の象徴、仏像、教典か何かもあります。これらの物を霊験のある物とするのまであり、仏像を霊験のある物として崇拝するのもあり、そして非常に形式的な形になってしまっています。

 儀式的形式的な仏教は注意してください。儀式である仏教も何とか使い物になりますが、形式的なのは使いものになりません。儀式としてするのはまだたくさん理由があり、儀式で正しくしますが、形式的なのは使い物になりません。最高に愚かです。そして儀式的形式的な物はどんどん増え、更に執着を増やしてしまいます。

 伝統で出家するようなのは、以前は正しい規則で出家しましたが、今は趣味の出家、無用な出家、火葬前の出家と呼ぶような、形式的な出家があります。出家した人もなぜ出家したのか知らず、三日か七日、死体の前で出家します。それは形式的になります。本当の出家ならずっと出家します。次に一時だけ出家するのには形式的なのと、本当の目的を限られた時間で利益を目指すようなのもあり、こういうのは形式的ではありません。

 学校の夏休みの中に出家するようなのは、本気の決意で本当に出家し、本当に学び、本当に実践すれば、儀式的形式的ではありません。理由がなく、意味がなく出家すれば、それは儀式的形式的です。

 今カティナは、船の上で酒を呑んで麻雀して遊ぶためです。カティナは楽しく船に乗って酒を呑んで麻雀をします。ブッダ式のカティナはどこにも行く必要はありません。二三人の人がお寺で静かに布を献じれば、百パーセント完璧なカティナです。何万、何十万も投資して船を借り、酒や肴やご飯を用意し、麻雀や何やら一晩中遊ぶ物を探す必要はありません。形式的なのは、このように観光カティナです。

 まだいろいろたくさんあり、愚かさで理由なくすれば、それは全部儀式形式的になります。何かちょっとあれば、精霊に食膳を供えるように仏像に膳をお供えします。考えて見てください。仏像は神聖な霊、あるいは神聖な魂ではないので、食べ物や何かをお供えするのは仏教ではあり得ません。しかし至る所で行われています。ブッダの時代には、まだ生存中なのでできません。

 般涅槃されても、そのようにさせる仏像はなく、仏像が現れたのはブッダが般涅槃されてから六七百年後です。仏像ができたばかりの時、人々はそのようにしませんでした。仏像に食べ物をお供えしません。その後、つい最近、あまり古くなくそれは生じ、そして儀式になりました。これは誰かを非難するのではありません。誰かに当てつけ、皮肉、当て擦する訳ではありませんが、「儀式的形式的」と言うものはどのように生じたか見せる例を挙げました。

 話したような例を挙げて話せばたくさんあり、時間が足りません。しかし取り上げただけで、何が儀式で何が形式か、何が正しく、何が必要で、何が趣味で、何が膨れ上がってこのようにたくさんの角度になるのか理解するには十分です。このように訳が分からないたくさんの話は十分なので、必要な角度、つまりすべての動物の滅苦をする純粋な仏教である角度だけ話します。

 もう一度復習させていただくと、仏教は人間が人間の問題を解決するためにあります。仏教は人間の問題を解決するためにあります。そうでなければ仏教に価値はなく、意味がなく、何の利益もありません。人間は問題がありますか。もし人間に何も問題がなければ、仏教はある必要がありません。みなさんも、このように直接話を聞くために時間を掛けてここへ来る必要はありません。もし問題がなければ。

 次に問題があれば、問題を解決するために仏教を使わなければならないので、私たちはここで会い、話をし、相談し、あるいは苦衷を訴えるべきです。誰でも苦があるからです。問題がなければならず、問題があるから宗教の方を振り向くと言います。

 人間には問題があるので宗教の方を振り返り、そしてどの宗教も、仏教、あるいはキリスト教、イスラム教、バラモン教、ヒンドゥー教でも何でも、どれでも全部、問題があるから問題を解決するために宗教の方に振り向きます。

 次に人間の問題は多く、食べ物がない問題、家族がだらしない問題、友達が良くない問題、すべての種類の問題から、世界が大変な話で混乱している問題まで、ヤクザ者や何か外部の出来事も全部問題で、解決できないほど多いです。だから取り敢えず、まだ必要ない、関係ない幾つかの問題は払い捨ててしまい、必要な問題だけを残します。

 必要な問題もいろいろあるので、その問題の根はどこにあるのか探して見れば、最後には同じ根があると気づきます。一つの根から、あるいは同じ問題から生じたいろいろ必要な問題、人間のいろんな問題は何か。この問題を捕えることができれば、仏教を有益に使うことができます。

 一つだけの問題という問題はすべての問題の根源で、人間がアーヤタナ(六処)の奴隷に落ちている問題です。聞いて意味が分からない人もいるに違いありません。人間がアーヤタナの奴隷に堕ちている問題のアーヤタナとは、目・耳・鼻・舌・体・心の六種類です。人間は目・耳・鼻・舌・体・心の奴隷に堕ちていて、家族がきちんとしていない問題まで各種の問題が生じます。

 人間がインドリア(根)の、アーヤタナ(六処)の奴隷に堕ちている問題は、これも二つのレベルがあります。初めの段階は自然にアーヤタナの奴隷に堕ちます。つまり自然に任せ、人はこれしか望みがなく、これしか探求がなく、これしか困難がないのを、自然のアーヤタナの奴隷と言います。

 今それでは足りず、人間は自然の要求以上になり、自然が与えたがる以上に欲しがります。私たちが、自然が望むだけ所有し、作り、使い、何でもするなら、問題はこのように多くありません。

 昔の人は自然が要求するだけ所有し、作り、何でもしたので、昔の人の問題は多くありません。今私たちは自然が要求する以上に、何十倍、何百倍も欲しがります。ある人は車を五台も所有していて、それは自然の要求の何倍か、みなさん考えて見てください。

 また別の人は車がなくても快適で、どこへ行くにも路線バスに乗ることができ、それは何とか解決できますが、不便なら一台で足り、五台は必要ありません。なぜ必要以上に美しい建物、必要を超えた家具什器を欲しがるのでしょうか。

 それは欲望が増大するので、それに比例して問題も増大し、問題が多くなって解決できません。仏教に出合う前に狂ってしまい、狂って死んでしまいます。あるいは仏教に出合う前に自殺してしまいます。こういうのもたくさんあります。これをアーヤタナの奴隷である人間の問題は、このように二つのレベルがあると言います。自然の段階は身に合っていて、苦は適度で、自然の何倍も超えた段階は、苦が何倍も多いです。

 アーヤタナとは目・耳・鼻・舌・体・心の六種類で、二つの部類に分けることができます。目・耳・鼻・舌・体が一つの部類、そして心がもう一つの部類です。ハッキリ見えるのは、人はほとんど目・耳・鼻・舌・体の奴隷になってしまっていて、この方が強いことです。目・耳・鼻・舌・皮膚の面、異性の接触を美味しく美しくしたい、つまり皮膚であるアーヤタナの話が重要です。

 際限なくたくさん食べる物、使う物があるのは、ほとんどは皮膚のアーヤタナの話で、目・耳・鼻・舌の話は一部分です。初めの五つをベンチャカーマグナ(五欲)と呼びます。この形・音・臭・味・接触・考えは最高に凶悪です。次にもう一つの部分は心で、すべての部分を支配します。これは更に凶悪ですが、人は見えません。それにはもう一つの部分、六番目の部分があると理解できないで、目・耳・鼻・舌・体の話だけと知る人が多いです。

 次に心の面の、心だけのアーヤタナは何か、何が感情かを問題にすれば、私たちに善い子があり、善い妻、善い夫がいて、善い使用人がいて、このように何でも善ければ安心です。これは目・耳・鼻・舌・体に関わりなく、心であるマナーヤタナに関わります。マナーヤタナは心の面のアーヤタナで、それはこれほど大きな話で、何が善く何が悪いかは全部心に集約されます。

 目や耳や鼻などから受け取らない気に入った物があり、ただ仕舞っておくだけでも気持ち良く、迷って愛します。次にそれ以上に脳の食べ物、脳味噌の食べ物は同じだけたくさん毒があり、哲学者、あるいは思考狂いの人たちにとっては毒になります。

 思索家、思考狂い、哲学家は、口を通じ、目を通じ、耳や何かを通じた食べ物はあまり欲しがりませんが、脳の食べ物を欲しがり、脳の食べ物に惑溺します。心の話、六番目のアーヤタナだからです。

 名誉が好きな人は、不正な名誉でない純粋な名誉でも、名誉に狂います。名誉狂いは名誉に迷い、寝ても食べてもいられず、形・音・臭・味・接触の話には関心がなく、名誉の話だけに異常に迷います。こういうのが六番目のアーヤタナ、つまり心の害です。

 愛欲を求める道具にする類の名誉については話しません。名誉には愛欲を探求する道具である種類もあります。これはカーマーラマナにしておきます。しかし愛欲の探求に使わない純粋な名誉も、人を奴隷や下僕にすることができます。惑溺して名誉の要求どおりにし、善悪を知らないこともあります。

 あるいは寝て夢を見て非常に幸福になるようなのは、目・耳・鼻・舌・体に関わらないので、心の面の話と言います。心で美味しいと感じさせる物は何でも、全部マナーヤタナと呼ぶ六番目のアーヤタナです。

 私たちはこれに余り注意せず、危険と見ず、解決しなければならない問題と見ないで、次々に、そしてどんどん、私が心の美味しさと呼ぶ物の奴隷になります。そして貪り・怒り・迷いがどんどん増えるよう促進し、貪り・怒り・迷いが増えると、それを増やすよう促進します。

 そして貪りと怒りと迷いが増えれば、ここで話す必要はありません。これ以上話す必要はなく、あるのは苦だけです。これを「目・耳・鼻・舌・体だけでなく、最高に重要で凶悪なもの、つまり心に注意しなさい」と言います。

 五羽の鷲(タイ語では鷲もインドリアと言う)、つまり目・耳・鼻・舌・体は、六番目の鷲(第六根)、心ほど凶悪ではありません。彼らは鷲に例え、鷲は生きている動物を突ついて食い、生きている人も食います。初めの五羽は止まって目・耳・鼻・舌・体を啄み、六番目のほど悪くありません。六番目は心を啄みます。心とは心臓でなく、心という意味です。

 私たちは二つの面で重要な鷲に関心を持たないほど放ったらし、迷って狂ったようになる角度は初めの五羽だけで、それを殺して平定する角度、最後のにはあまり関心がないので、仏教のダンマの実践ができません。

 これを「話に合わない解決。全部末端の原因で、根源の解決ではない」と言います。だから重要な原因を知らなければなりません。仏教に解決させる本当の問題がなければなりません。仏教はこれらの問題を洗浄する道具、あるいは武器と同じです。

 自然に任せるのも一定水準の苦であり、次に自然以上に拡大するのも、何倍か何百倍か、拡大次第で苦が増えます。だから私たちは正しい方法で解決しないで、末端だけ解決し、根源を解決しません。通常それは苦です。アーヤタナ(六処)の奴隷である物は、既に苦であると、この点を良く憶えておいてください。

 次に愚かに解決すれば、間違った方法で解決するので、それまでより苦が増えます。だから三重の苦です。自然の状態でも既に苦であり、これを一つと仮定し、そしてそれを自然以上に増やすのが二つめ、そして間違った方法で解決してこの部分が増え、三つ目になります。四つ目、五つ目になり、このように苦が増えます。どんどんアーヤタナの奴隷になり、どんどん鷲の餌になります。

 これです。アーヤタナの奴隷は目・耳・鼻・舌・体・心の奴隷で、これが問題です。みなさん、すべての問題はここに集約していると、何としても問題を捕らえてください。アーヤタナの奴隷にならなければ、それだけで他の問題はありません。極貧で食べる物がないのは、貧しい人はインドリア(根)の奴隷、煩悩の奴隷だからです。

 あるいは大富豪でも煩悩の奴隷、アーヤタナの奴隷で苦があります。権力者でも苦があるのは、アーヤタナの奴隷だからです。侵略して殺し合う人もアーヤタナの奴隷だからです。すべての問題はここに集約されていると自分で分析し、自分を管理して、アーヤタナの奴隷である煩悩欲望の言いなりになるのを放置しません。

 次の問題はアーヤタナの奴隷にならず、目・耳・鼻・舌・体・心の奴隷にならず、自由、あるいは自由独立になることを望みます。本当の独立とは、心が何の奴隷でもないことです。世界の人が話している自由は嘘の話、嘘偽りの話です。

 自由でも民主主義でも煩悩欲望の奴隷で、まだ悪行をし、まだ収賄をし、まだ利己主義で自分の利益を正しいと見なし、他人の利益を考える必要はありません。どの民主主義、どこの国の民主主義も自分の利益だけが重要で正しいと見なします。だから自分の利益があればどれほど人を殺しても不思議でなく、自分の利益のために他人を殺す自由があります。これが世界の民主主義です。

 本当は民主主義でも自由でも何でもなく、それは煩悩の奴隷、貪り・怒り・迷いの奴隷、アーヤタナである目・耳・鼻・舌・体・心の奴隷です。次にこれを解決できなければ、この世界は美しく見事な人間の世界になる部分はなく、野蛮な世界になります。

 先ほど「庭園や森や花を観賞に行って死体に遭遇する。あるいは景色を見に行って虎に遭遇する」と話したのは、このようと思って見てください。問題の根源であるアーヤタナの奴隷を解決しなければ、清々しい物は何もありません。

 時間が少し余っているので、アーヤタナ(六処)の奴隷にならないことについて話させていただきます。それが聖人、つまり善人です。仏教には「サタブルサ=善人」という言葉があり、もっと高い言葉は聖人です。これでなければ何等かのヤクザ者、愚か者です。善人とは、アーヤタナの奴隷にならないため、自由のため、煩悩の抑圧から脱した独立のために闘い始め、力の限り闘う人です。

 サタとは善という意味で、サタブルサは善人という意味です。強く決意し、アーヤタナの奴隷であることと闘い、抵抗し、罪を成すことができず、どんな種類の悪も成すことができない人です。そうできれば、罪や悪が減った分だけ、その段階の聖人と呼び、順に高くなって、最高位の聖人になれば、罪はまったくなく、すべての徳や罪より上にいます。それがインドリア(根)の奴隷でないことです。

 このようにできることを、仏教の目的で正しくすると言います。仏教に関わらなければ、人間の目的で、人間という意味で正しいと言います。人間とは「心が高い」という意味です。他の訳し方をしないでください。人間とは高い心という意味です。あるいは意味を説明すれば、心が高い人の子孫で、それを「人間」と呼びます。心が高ければアーヤタナの奴隷でなく、アーヤタナの奴隷は心が低いです。

 次に私たちがアーヤタナの奴隷でなければ侵害がなく、自分は困窮せず、他人も困窮しません。これが生きているうちにある弥勒菩薩の世界です。本当の弥勒菩薩の世界はこのようで、コミュニストが言うようではありません。コミュニストたちは、すべての人が物質で豊かになれば、世界は弥勒菩薩の世界になると言います。

 それは物質主義の弥勒菩薩で、あり得ませんよ。それはまだ目・耳・鼻などのアーヤタナの奴隷です。仏教の弥勒菩薩の世界なら、アーヤタナの奴隷である人は誰もなく、あるのは煩悩より上にある自由独立で、誰も困窮する人はいません。これが生きている時の弥勒菩薩の世界です。キリスト教徒なら神様の世界と呼び、現生でこのようになります。

 だから宗教として、あるいは仏教としての仏教は、このように目指します。人を善人にし、聖人にし、世界を生きているうちの弥勒菩薩の世界にし、人間を人間にすることを目指します。今人間はまだ人間でなく、名前だけ人間、口だけ人間で、心はまだ低いです。次にこの教えを、話したようにしてほしいと理解してください。例え家の中でも。

 スアンモーク、あるいはどこの何の森や密林へ来て欲しいのではなく、家にいても、目・耳・鼻・舌・体の奴隷でない心があり、「素晴らしいもの」と身体面の美味しさに溺れないでください。多少あっても、世界にそのように自然にある物とし、それを崇拝しないでください。それの奴隷にならないでください。身体の奴隷になってはいけないと言います。奴隷になりたければプラタム、あるいは神様でも呼び方次第ですが、それの奴隷になってください。

 私たちには、本当の奴隷であることからに解脱させる援けをする、仏教としての仏教があります。他の物の奴隷は取るに足りません。煩悩の奴隷、アーヤタナの奴隷が本当の奴隷、最高に奴隷です。これが仏教と呼ぶ物の、あるいはどの宗教でも、最高に善い、最高に重要な角度です。

 利益のある本当の宗教ならどの宗教も、人をアーヤタナの奴隷であることから引き抜いてしまうことを目指さなければなりません。つまり魔王、あるいはサターン、あるいは呼び方次第で何でも、つまり身体の面の惑溺は身体の奴隷です。ダンマは身体の奴隷であることから引き出してしまい、自由な人、善人、聖人にし、弥勒菩薩の世界にします。このような状態ですべてが望ましくなります。

 十八の角度、十八の面で話してきました。人を奴隷であることから引き抜いてしまう本当のダンマである一面があり、その他は立派に見せる装飾、付属の話です。それ以外、それ以上は膨れ上がった話です。今の多くの人たちがそうであるように、頭から溢れるほど知識があっても危機を脱せない、藁を抱える狂人の話です。

 藁を抱える狂人は、知識が頭に溢れても危機を脱せません。仏教教団員は、そのようにならないでください。ダイヤモンドであり、宝石である、煩悩欲望を斬り、切り刻み、アーヤタナの奴隷であることを切り刻んで無くす利益や価値がある物が、少しあるだけで良いです。十八の面、十八の角度の中にこの一つの角度があります。

 あらゆる面、あらゆる角度の仏教について話したのは、この角度を発見させるためです。みなさんがここまで足を運ばれたご苦労に見合うよう、持ち帰って考えて、この目的の利益になることを望みます。

 時間になりましたので、今日の講義はこれで終わらせていただきます。




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