3.天地





 道教が使っている「陰陽」という言葉を使いたいと思います。この言葉の意味は、天と地だと彼らは言います。中国人のおばさんの言葉では「天と地」と分けねばなりませんが、智者の言葉、哲学者の言葉では、まだ何と呼んだらよいか分からない正反対のものを意味します。

 今私たちが知っている限りの正反対のもの、たとえば天地、男女、損得、勝ち負け、上下、高低、すべて正反対の対であるものです。力の違う、種類も違う、正反対の対という意味を捉えてください。それが近づくと、ネガティブとポジティブと呼ぶもののように、途端にエネルギー、力が生れます。それが近づけいた時、関係した時、すぐにエネルギーが生じます。

 このような正反対の対は、呼ぶ名前がないタンマで、何と呼んだらよいか分からないので、とりあえず「天と地」と呼んでおきますが、次にいろんな物を生じさせるための正反対の対と見なします。

 だから初めには何もなく、その後相関する正反対のものが生まれ、その後進化する力が生じ、エネルギーが生じ、終りがありません。

 だから初めの日に神様が造った天国と地上は、普通の人の意味、あるいはその後造られた物の意味では、天国と地上ではなく、それは天国と普通の土地で、神様が初めの日に造った天国と地上と呼ばれるものは、道教で陰陽と呼ぶものにすぎません。

 陰陽は、存在と非存在くらい深遠で、それ以前は、存在とも非存在とも呼ぶことができない状態があり、後になって正反対である存在と非存在が生まれます。存在、あるいは存在がないことと呼ばれる状態になる前は、どんな状態だったのでしょうか。これを名前で呼べる人がいるかと言えば、誰もいません。

しかし彼は名前で呼んでいます。話せばきりがありません。無と言うこともできますが、後に私たちが知っているような「何もないこと」ではありません。その無が、その後、たとえばお金があることと無いことのような、存在と存在しないことを生みます。

 初めには何があったのか知らず、私たちは、それを呼ぶ名前がありません。聖書で The light と呼んでいるものを進化の力と見なせば、これが初めにあり、そしてこれが、後に作り出す力によって生じる物質の、存在と存在しないことと呼ぶものを生じさせました。

 つまり聖書の言葉は、文字をざっと読むと矛盾を感じるように、意味や理由がはっきりしていません。文字面をざっと読むと、The light を造ってから、すぐに四日目に太陽と月を造るのは矛盾すると感じますが、これは別の光なので矛盾しません。

 一日目に天国と地上を造ってから、二日目と三日目にまた造り、その後にもまだ規則を造ったのは、矛盾しません。後の天国と地上は、普通の天国と地上、つまり、初めの日の、一番の意味の天国と地上の結果だからです。初めの意味は、ただの天と地で、天と地は、ただ正反対のものでしかありません。能力も威力も違う、正と負です。

 私たちが避けて通れない問題は、仕事と呼ばれるもののようです。誰にもしなければならない仕事があります。特に現代は、仕事なしに生きることはできません。しかしこの仕事が問題を生じさせ、苦になり、憂鬱になり、いろんな種類の複雑困難になります。

 クルンテープ(バンコク)から来た人の多くが、上司が言うことと部下が言うことと自分がしたいことがみな違って、思ったように働くことができないと、死ぬほど疲れきっている心情を吐露します。責任のある仕事をする人は、仕事が非常に毒になっているので、毎日死んでいます。前はそれほどではありませんでしたが、最近は良く聞くようになったような気がします。私を訪ねて来て話す人だけでも、どんどん増えているように感じます。

 今仕事は問題の一つであり、平安を妨害するものと結論させていただきます。ここで私は、どんな神通力を説明するでしょうか。それは、炎でできた目があるように、仕事を一度に空と見てしまうことです。訳が分からない人は、「ヤター パッチャヤン パワタマーナン云々」と話したのを思い出してください。つまり仕事を、仕事である意味より高く見て、仕事と考えず、自然の一種にすぎない何かと見ます。これを考えてみてください。

  どうすれば仕事を仕事でなくできるでしょうか。例を挙げて説明する方が分かりやすいです。ほとんど百人近い人が、「いつ仕事が終わるんですか」、「この映画館はいつ出来上がるんですか」、「いつまでするんですか」、「いつ完成しますか」と、こう質問します。違う形の言葉でも、こう質問します。私は内心で、いつ終わるのか聞く人はバカだと感じます。

 私には「完成はありません」。あるいは「仕事はありません」。しかしこう言ったらその人は怒ります。あるいは意味が分かりません。だから私は、「毎日完成です」と言います。ここの仕事は毎日完成です。仕事を始めた一日目から。あるいは心でどうするか構想した時から。つまり彼らのような目的でしません。私は何も望んでいません。

 私は何も望まないので、そして何も目指さないので、いつでも完成しています。いつでも終わっています。あるいはより正確に言えば、造っていません。それは仕事の意味がありません。仕事としての意味があれば、苦があります。それは仕事になるので苦があります。

 ただ何かを試すだけの意味しかなければ、あるいは、それは日頃の能力を発揮するもの、と言えるくらいなら、あるいはそれ以上なら、ご飯を食べ、水浴をし、厠へ行き、歯を磨き、顔を洗う、こういう日課の一つとすれば、あまりそれに関心を持ったことがないので、仕事と感じません。 

 しなければならない仕事のすべてを、「ヤター パッチャヤン パワタマーナン」という言葉でこのように変えてしまい、意味のある仕事でなくし、取、あるいは希望、あるいは望みなどの基盤にしなければ、仕事と呼ばれるものは途端に消えて、楽しくすることだけが残ります。一分したら終わり、一秒で終わり、一つ一つの動きごとに終わっています。希望も望みもないので、すべての動きは満ちています。

 彼らには希望や期待があるので、いつ終わりますか、いつ完成する見込みですか、あるいはいつになったら完成するんですか、と訊きます。彼らの意図したとおりに完成すれば、それから何かが得られるので、だからそう訊きます。私たちが何も望まなければ、そのように期待しなければ、働くことを望むだけ、作ることを望むだけで、仕事の結果を期待しません。

そう、仕事のための仕事で、仕事の結果を期待しない、義務のための義務。望むのはただ働くことだけで、働いた時、望んだものが得らています。そしてそれをそれだけ、その呼び方だけにしておき、期待も未練も、望みも、何もありません。

 これは以前にお話したことがあるように、なぜ生まれてきたのかという、大きな問題と関連があります。この問題を復習して、なぜ生まれたのかという答が見つかるよう、もっと勉強しなければなりません。結論すれば、苦しむために生まれたのではなく、苦しまないために生まれました。

 仮定で言うなら、苦しみがないように生まれてきたのです。だから、あれやこれを所有し、あれやこれになり、あれやこれをし、あれやこれを手に入れるために、苦を探して取り込まないで、それをもう一つの精神面の機械、俺、俺のものという目的、conception のない、自然に従った、己の義務に従った心の機械にします。

 以前にお話ししたことがあるように、畜生の方が人より勝るのは、この部分、つまり人のように多くの執着がないので、畜生の飢えは、人間の飢えほど問題でなく、あるのは体の飢えだけで、魂の飢えはありません。

 だから時間があったら魚や小鳥や鶏や犬などを見てください。飢えている時でも、強い狙いがなく、時には食べないこともあります。人だったら問題になります。一食食べなければ、必ず問題になります。人は考えるのが得意で、執着するための知性が動物より優れている点が悪です。それは悪で、永遠の悪で、重い悪です。

 私たちがこの悪を解決するには、spiritual 柔道を使わなければなりません。つまり、仕事、義務、負担、あるいは責任、何であってもそういう言葉の意味を空にします。そうすれば苦しむことなく仕事ができます。そうすればするべきことになり、お金より良い、得るべきものになります。しかしそれの重要な問題は、苦がない、苦しまなくてもよい、心配事を頭に積み上げない点にあります。

 現代は、私はこの部分の責任がある、あの部分の責任がある、十種類もの責任が同時にあると自慢する人ばかりで、こういうのは死ぬほどの頭痛になります。こういうのはバカです。つまり仕事にして、責任があるようにして、そして自分の頭の上に積み上げています。Spiritual 柔道で心を空にして、知性の機械のように働き、悩欲望の、期待の、執着の機械でなければ、仕事は楽しいものになります。

 「心が混乱していれば仕事は苦であり、心が空なら仕事は楽しい」という、憶えるための言葉があります。

 家の拭き掃除でも、汚い仕事でも、洗濯、あるいは汚いことをすることでも、仕事としての、あるいは汚いという意味がないように、「何か分からない」というようにする、何でも楽しく、いつでも楽しくする知性の機械です。普通の人が意味もなく泥の中に入らなければならないと、汚いと言って嫌い、吐き気を催し、何度も体をくねらせますが、泥の中から魚を掬い上げると、反対に喜んで志願し、そして楽しくなるのと同じです。

 これは、同じことでも、同じ状況、同じ状態でも、いつでも意味は同じではないと言うことを指摘しています。取があるかないか、期待や希望があるかないかという心次第です。取や欲望があれば、欲望執着の意味があり、仕事が生まれ、損得が生まれ、悪臭や芳香も生まれ、今あるような問題になります。

 元素にすぎないと自然に熟慮して、この期待や希望を切り捨てれば、つまり潜在意識として、automatic なこの知識があれば、唱えなくても、何かを思い浮かべるよう意図しなくても、空があると言います。

 これは空という種類の武器を持っているのと同じで、どこを狙っても、そこを空にします。どこを狙ってもそこを空にするので、仕事はなく、仕事をする人はいません。あるいは仕事の結果を受け取る人もいません。だからすべての動きに楽しさがあります。

 これは本当か嘘か、他の面から探求してみてください。体を動かすと、当然楽しくて爽快です。心も同じで、動きがあれば楽しくて爽快です。心はじっとしていられないので、害のない動きにしなければなりません。つまり俺、俺のものと執着して「仕事」にしません。あるいは心のない人のように何かにせず、損得にしません。 

 もう一度言います。心のない人は、素晴らしい人です。しかしもう一方では罵る言葉です。時には耳にすることがありますが、心のない人は非常に悪いです。

 しかし私の考えでは、心のない人は最高に素晴らしいです。病気になるもの、生まれたり死んだり、喜んだり苦しんだりするものがありません。心がなければあるのは空だけで、生老病死はなく、損も得も、何もありません。あるのはたぶん、spiritual 柔道のような武器だけで、どこを見てもどこまでも空で、四方八方、上も下も、広々としています。

 この動きは、自然にならなければならない体と心にとって、じっとしていることができない心身にとって快適です。心身は変化するので、煩悩なしに変化すれば、そうすれば、植物が育つように自然で、愉快なだけです。煩悩は必要ありません。

 体を養い、あるいは食べ物を食べて、消化して排泄し、そして食べて消化して排泄して、それは純粋な、私、私のものがない自然のメカニズムで、仕事という意味と関わりません。だから仕事はありません。生まれてきて仕事がないので疲れません。そして責任もありません。責任と感じませんが、周囲の人にとっては、責任のある人より、もっと満足できるものになります。

 このすべてのものとは、タンマと呼ぶもの以外に何もありません。パーリ語のダンマという言葉は、サンスクリット語ではダルマと書き、タイ語ではタンマと言います。この三つは、音は違っても、「もの」という意味のタンマを意味し、「サッペー タンマー」は、すべてのものという意味です。

 みなさん、私がタイ式に「すべてのもの」と言ったら何を意味するのか、心の中ではっきりと見当をつけておかなければなりません。それは、例外なくすべての物、世俗の物もタンマの物も、すべての物で、物質的な物も、精神的な物も、すべての物です。あるいはそれ以上の物があれば、つまり物質、あるいは心以上の物、つまり第三の物があるなら、それもタンマという言葉に入るすべての物と言います。ですから私はみなさんに観察するようお勧めします。

 世界とは物質、つまり物質である世界全体で、これが一種類、つまりタンマです。

 そして世界のすべてを知る心、これもタンマで、

 世界と心が接触すれば、その接触もタンマです。

 そしてその接触から、何らかの結果、愛や、怒りや、嫌悪や、恐怖などが生じれば、あるいは知性、真実の面の明晰な知識が生じても、それもすべてタンマと呼びます。

 正しさや誤りや善や悪が生じても、すべてタンマと呼びます。

 次に知性が、いろんな系統の知識を生じさせれば、これもタンマです。

 その知識が、戒、サマーディ、智慧の実践、あるいは何らかの実践を生じさせる原因になれば、その実践はタンマです。

 いろんな実践を始めた時、当然生じる結果、聖果である涅槃と呼ばれるものが結果として生じ、この結果もタンマです。

 要するにすべてはタンマです。本当の外皮、つまり世界あるいは物質から心まで、心と世界の接触も、その接触から生じる結果も、間違いも正しさも、善も、悪も、タンマの知識を生じさせる類の知識、タンマの実践、そしてタンマの実践から生じる聖向聖果も、これらの一つ一つをすべて明らかに見れば、すべての物を見ると言います。

 ブッダは、今述べたすべての物は、どれも、自分、自分の物と執着するべきではない、と言いました。つまり物質である部分、体も執着できず、心や情である部分は、物質よりもっとマヤカシなので、更に執着できません。だからもし自分と捉えるなら、物質の方が良いという言葉があります。変化が遅いので、名と呼ぶ心のように、マヤカシで騙さないからです。

 ここで言う心とは、さきほどお話した空と一体の「心」という意味ではなく、心の面の感覚である「心」、あるいは普通の人が知っているいろんな mentality を意味します。

 次に世界と心の接触は、いろんな感覚である結果があり、愛や嫌悪や怒りなど、これらもタンマで、これも執着してはいけません。煩悩によって変化する、マヤカシから生じたマヤカシなので、執着すれば非常に危険です。

 知性の面でも、自分、自分の物と執着しないように教えています。自然の物でしかないので、執着すれば新たな勘違いが生じ、自分があり、自分のものがあります。つまり知性のある自分がいて、自分の知性があり、執着になれば重くなります。執着することで、それらの変化に応じた動揺が生れ、そして苦になります。

 知識も、知識はただの知識にすぎないと捉えてください。執着すれば、気づかずにいろんな戒禁取(仏教以外の戒律を正道と考え信奉すること)になり、必ず苦になるので、執着してはいけません。

 タンマの実践も同じで、ただの実践であり、行動したように、いつでも行動にふさわしい結果が出る自然の真実で、自分とか、自分のものとすることはできません。執着すれば勘違いして、当てにならない自分を作り上げるので、愛欲に執着するのと同じように、他の間違ったものに執着するのと同じように、必ず苦になります。

 聖向聖果涅槃になると、それは、そのような自然、あるいはタンマです。空でさえただの自然にすぎず、空と一体である涅槃も、ただの自然でしかありません。執着すれば、間違った空、間違った涅槃です。涅槃、あるいは本当の空は、自分、自分のものと執着する対象の範囲ではないからです。

 つまり涅槃、あるいは空に執着する人がいれば 、当然その途端に空ではなくなり、涅槃ではなくなります。

 これは何でも、タンマでないものは何もない、タンマ以外の何物でもないということを教えています。


 このタンマという言葉は、自然、すべて自然という意味です。

 何も混じっていない全部タンマのものは、自然であるという語句の原則を捉えることができます。つまりタンマとは、安定しているものという意味で、何かが安定していれば、それをタンマと言います。そして二種類に分け、変化し流転するものが一種類と、変化し流転しないもの、何も作らないものが、もう一種類です。みなさん自身で見れば、二種類しかないことが分かります。

 それを作ったものがあるので、変化するものは、変化の形で安定していて、あるいは変化の流れがそれです。これがタンマの意味、つまり安定しています。

 もう一方の、原因も縁もないので変化しないものは、涅槃、あるいは空だけを意味し、これは、変化しないことで安定しています。つまり変化しない状態がそれです。だからここでは、それは変化しない種類のタンマです。

 しかし変化する種類も、変化しない種類もすべてタンマです。つまりそれぞれの状態で安定しているものです。だから自然以上のものは何もありません。自然以上のものになれるものは何もありません。だから自然と言うだけです。タンマだけです。それ以上のものは何もありません。

 タンマだけしかないのに、どうして私、私の物と執着することができるでしょうか。「私」と考えるものは、ただの自然のすぎないという意味で、パーリ語でタンマと言います。このような場合のタンマという言葉は、自然、あるいは普通という意味です。タタターという意味、つまり、そのようになり、他になりようがありません。だからそれはただのタンマで、すべてのものは、タンマ以外には何もありません。あるいはタンマは、すべてのもの以外にありません。だからすべてのものはタンマです。

 本当のタンマは、まったく自分があってはなりません。どの部分、どの項目、どのレベル、どの種類のタンマも、必ず空と一体で、つまり自分がありません。だから私たちは、すべてのものに空を見つけなければなりません。あるいは空を勉強するなら、必ずタンマと呼ぶすべてを学ばなければなりません。

 あるいは、すべてのものはタンマにすぎないと理屈で言っても、タンマはすべてと同じ、あるいはすべては空と同じです。だから空はタンマと一体でなければなりません。しかしそれは空であり、私、私のものと執着するべきでない自然以外の何でもない、という真実を知ってください。

 次に「空あるいは空のものは、すべてのものの真実である」と明らかに見え、すべての勘違いがなくなるだけで、空が見えます。あるいは空が見えれば、それは勘違いしない智慧、あるいは勘違いしない純潔な本当の智慧です。

 しかしここでもう一種類のタンマがあります。つまり無明、あるいは勘違いの種類のタンマで、心が物あるいは世界と接触することから生じる反応です。心あるいは心の類のタンマが、物質の類のタンマと接触すると、当然考え、感覚である反応があると初めにお話しましたが、この感覚の中で、無明の方へ向かうことも、明つまり「明らかに知ること」に向かうこともあります。

 それがどの形になるかは、環境次第、そのサンカーラ、あるいはそのタンマの状況次第です。だからそれも、他でもないタンマですが、無明の側のタンマは、「自分、自分のもの」という方向に執着する気持ちを生じさせます。しかしこれもすべてタンマにすぎないこと、本当の中身は空であることを忘れないでください。

 無明は、明あるいは涅槃と同じ空ということを忘れないでください。そしてタンマにすぎません。

 それをタンマと見れば、いつでも自分のない空と見ることができます。しかしこの段階の空は、このように空と一体でも、無明による別の結果があり、気持ちの中、あるいは取の中に、自分というマヤカシを生じさせます。だから取である種類、あるいは無明である種類のタンマには、良く注意をしなければなりません。そしてそれはすべての中に、すべてのものという一語に含まれます。

 私たちが本当にすべてのものを知れば、無明である執着する気持ちが生じることはなく、タンマを知らなければ、あるいはすべてのものを知らず、愚かで溺れている動物の本能のままになっていれば、いつでも無明の側、あるいは執着の側のチャンスです。だから私たちは、執着するばかりで、いつから受け継いでいるか分からない遺産のようです。

 私たちが生まれると、意図的のこともあり、意図的でないこともありますが、取り囲まれて訓練され、無知の側のタンマの方向に変化することが分かります。つまり「自分、自分のもの」と執着するばかりで、自分はないという方のしつけは、まったくされません。

 生まれた子供は「自分はない」というしつけを受けることがなく、自分を持つ方向のしつけをされるばかりです。しかし生まれてきた子供の元々の心には、それほど自分はなく、それから自分という感覚を生じさせる環境を受け取ります。目が開くと、物心がつくと、私のお父さん、私のお母さん、私の家、私のご飯と、執着させる環境があり、お膳に並べたお皿さえ自分のもので、他の人が使ってはいけません。

 意図しなくてもそうなる状態、このような autonomy 、つまり自分という感覚が常に生まれて、どんどん育ち、反対の自分にならない感覚はまったくありません。それで、若者になるまで、老人になるまで、どうでしょうか。取、あるいは自分という取の原因である無明が厚くなります。

 これです。だから私たちは「自分は命で、命は自分」、つまり自分という取が命です。あるいは普通に生きることとは、自分に執着する本能なので、話は、苦しかない、苦の症状である重荷、抑圧、締め上げ、束縛、纏いつき、包囲、焼き炙りしかなくなります。

 つまり執着すれば、善い側、善い面でも苦になるということです。このように俗世が善い側、善い面と仮定しても、まだ空でなく、混乱しているので、阿羅漢から見れば誤りであり、悪であり、苦です。それを越えて空になれば、苦はありません。

 仏教の大きな教えは、たった一つの言葉を退治する以上のものは何もありません。つまり、[サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ]で、自分、あるいは自分のものという執着を撃退すること。れ以上のものは何もありません。

 次に私たちがこのように執着と一体になっている時、どうしたら良いでしょうか。誰が助けてくれるでしょうか。あるいは心がこうなってしまって、誰が心を助けてくれるでしょうか、でもいいです。

 このように問題にすれば、それは他でもない心です。タンマ以外には何もないとお話したので、間違いもタンマ、正しさもタンマ、苦もタンマ、滅苦もタンマ、滅苦をする道具もタンマ、体もタンマ、心もタンマで、それ自体が変化していくメカニズムで、それ自体で経過するタンマ以外にありません。こういうのを、徳と呼ぶか、罪と呼ぶかは場合次第です。

 世界との接触が増えて知性の方向になれば、こういうのは徳で、世界との接触が増えて愚かな方になり、迷いが増えれば、こういうのは罪です。

 観察して見れば、誰も損をする人はいないということが分かります。誰でも生まれた時はこうです。つまり誰でも目があり、耳があり、鼻があり、舌があり、体があり、心があり、そして外部には、誰でも形・声・香・味・触・タンマーロム(法界。想念)があり、そして誰にもこれらが触れ合う機会があり、触れ合い方もみな同じです。

 しかしなぜか愚かな方になったり、賢い方になったりと分かれるので、賢い方向へ分かれれば徳、あるいは善と見なし、愚かな方へ分かれれば悪、不善と見なします。多少良いのは、このタンマは、苦を体験すると、懲りて二度としない原則で、本当に人を護るように見えることです。

 火を掴んだことのある子供は、懲りるので、二度と火を掴もうとしないのと同じです。これは物質の問題なので簡単です。もう一つの火を掴むこと、つまり執着、あるいは貪り、怒り、惑溺は、ほとんどは火を掴んだと感じないので、懲りて二度としない症状がなく、反対にその陶酔を、愛すべきもの、望ましいものと見ます。

 一つだけ解決方法があります。つまり「このタンマは何か。このタンマは火だ」と、つまり「執着してはいけない」と、正しく知ることです。そうすれば知性になり、何かを「自分、自分のもの」と執着すれば火になると知り、懲りることを知ります。それは、手でhなく心を焼く火ですが、時には深く焼きすぎて、火だと、熱いものだと感じません。だから人は火の固まり、あるいは溶鉱炉より熱い火である輪廻に沈んでいます。

 大人も、一度火を掴んだら二度と火を掴まない子供のように見えれば、そのようにすることができます。だからブッダはこの項目を、「執着の害が見えれば、心は執着を弛める」と説明しています。

 これです。私たちには、執着の害が見えるかどうかという問題があります。まだ見えなければまだ弛まず、弛まなければ空ではありません。マッジマニカーヤ(中部)に、このようなブッダの言葉である金言があります。

 そしてまた別の場所で「空が見えれば涅槃に満足する」と言っています。もう一度繰り返すと、「執着の害が見えれば、その時心は執着が緩む」。執着が緩めば、空と呼ぶもの、つまり自分がないことを見るチャンスです。

 自分がなくなっていくのが見え始めるだけで、心は列になってその処入(アーヤタナ)、つまり涅槃に満足します。その処入とは涅槃です。つまり涅槃もただ単に、私たちが知ることができるものでしかないという意味です。眼・耳・鼻・舌・体・心で私たちが知ることができるものを、すべて処入と言います。

 ブッダは涅槃を下ろしてきて、他のすべての処入と同じ、処入の一つにしています。私たちは、それでもまだこの処入を知らない愚か者でいることはできません。それは、自分がないことが見えた時にあります。執着が緩むので、その処入つまり涅槃に満足します。




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