万物より前からあるもの

 

 ここではこの部分の講義の主題、つまり「カイワンタム」」と呼ぶものについてお話します。この奇妙な名前のものは、本当は奇妙ではなく、奇妙なものとするべきではありません。いつでもあり、すべてのものより前からあり、そしてすべてのものより後まであるので、これを、最高にありふれたことを話すと言います。

 みなさん、すべてのものより前からあり、そして今現在まであり、そしてすべてのものより後まで残るものを考えてみてください。それは何であるべきでしょうか。今まで聞いてきた仏教では、何に当たるでしょうか。つまり変化を知らない、終わりを知らない、尽きることを知らない、すべてのものより以前からあり、そしてすべてのものより後まで、すべてのものが再び生じるまで残っているものです。

 すべてのものは変化して消滅しても、それは残り、すべてのものが再び生じても、まだあり、変化せずにあります。何と呼ぶべきか、あるいは、何と呼ぶのを聞いたことがあるか、想像してみてください。

 縁起を聞いて理解できる人は、そこでそれを何と呼んだか、推測できるかもしれません。しかし縁起を聞いてすっかり忘れてしまったなら、縁起の話は、去年から詳しくお話してきたので、止めます。ここで、「カイワンタム」という奇妙な名前のものを理解するために、新たに話してもいいです。

 初めの段階で、「カイワンタム」という言葉を考えて、意味を掴みます。本や詩をたくさん読む人は、「カイワン」という言葉を読んだことがあるかもしれません。それが「カイワン」ですが、この種のタイ語の「カイワン」という言葉は、内容が全部でなく、すごく狭いです。「カイワン」というのは、国中どこでも例外なく、に近いです。

しかし「カイワン」という言葉は本当には、もっとあり、すべてを言い尽くせる言葉がないほどなので、少しずつ勉強します。この一言で、十三回は話さなければなりません。つまりこの「カイワン」という言葉が何を意味するのかについてです。

 パーリ語なら、ケーワラというこの言葉に慣れていて、ケー ワ ラとはすっかりと言う意味です。だから意味は、すっかり、あるいは残らずすべてという意味だけで、これも意味が狭いです。もっと意味のあるケーワラは、一緒に使わなければなりません。それは「カイワン」、カイワラヤ、あるいはケーワラと同じ言葉です。私たちが聞いたことがあるのは「残らずすべて」、あるいは「すっかり」「どこでも」という意味で、普通の言葉、普通の話し言葉です。タンマの言葉は、もっと、非常に広い意味があります。

 次に辞書では、ケ ワ ラ、あるいは「カイワン」という言葉は、「アピターンパティーピカー」の八番目のカーターなどにある初めの意味は、涅槃という意味です。ケーワラと言う言葉は、すっかりという意味で、あるいはそれだけで涅槃を意味します。

 意味を限定しない、他のカーターにあるのは、いろんな意味に訳せます。すっかり、あるいは全部、溢れていること、隙間がないこと、こういう意味もあります。そして単一、一つきりという意味もあり、分けること、細かく刻むという意味もあります。

一つ一つの固い物、固まりもあり、足りることを知らないこと、つまり幾ら注いでもいっぱいにならない、満足しないという意味もあります。これらについて話したら、どんなに頭がこんがらかるか、考えてみてください。しかし、少しずつ我慢して聞き、考え、後で勉強しなければなりません。

 今日は、すべてのものより前からあるものという項目だけを、知っていただきたいと思います。今日は、今回はずっと、「すべてのものより前からあるもの」という言葉の意味についてお話します。それが今の講義の題目です。

 しかしすべてのものより前からあるなら、永遠にあり、そしてすべてのものより後まであり、すべてのものが再び生じても、まだすべてのもより前からあり、永遠にあり、すべてのものより後まで残ると、ずっとこのようだということを忘れないでください。

ケーワランとは、変わることのない長い糸です。「カイワン」はサンスクリット語で、ケーワラはパーリ語です。すべての「カイワン」は、このようにすべてでなければなりません。しかしこれを知らない人が書いた詩の言葉は、世界中どこでも、何か全体というような「カイワン」を意味するだけです。

 「カイワン」という言葉は、どこからどう初めたらよいか分かりません。すべてのものより前からあります。いつからあるのか分かりません。すべてのものより前と言うのは、いつより前なのか、初めがなく、そしてすべてのものより後まであります。それがどのように後まで残るという地点がありません。すべてのものは循環しているからです。「カイワン」と呼ぶ物の中で生じて、存在し、消滅し、生じては存在し、消滅します。

 どうかこれの意味の要点をこのように理解しておいてください。そうすれば少しずつ、何だかが見えてきて、それはこうに違いない、になり、どういう意味か規定できます。だからみなさんはたくさんの意味を規定しておきます。自分でもすっかり混乱するほどです。初めの対の意味は、例外なくどこにも満ち溢れること、そして比較するものがないから、触れられるものがないので、例外なく孤立で満ちていること。これも「カイワン」の一つの状態です。

 そしてそれは、非常に細かく分けられることもできますが、一つのもの、一本のもの、固い物と言うこともできます。

 そして満ちることのないこと、何かを入れてもいっぱいにならない、満ちることを知らないことです。何かを食べさせると全部食べてしまうような、火のように、幾ら燃料を入れてやっても、全部食べてしまい、燃料が溢れることがないもの。「カイワン」というものも同じで、すべてのものを入れても、いっぱいにならず、満ちることを知りません。このような性質を、「カイワンタム」と言います。今日お話しすることです。

 

  次に初めの面からお話します。つまりすべてのものより前から存在するものは本当にあり、すべてのもののようではありません。すべてのものは、生じて、存在し、消滅します。それは生じて、存在し、消滅するので、本当にはありません。

 これを万物、あるいはすべての有為と言います。しかし「カイワン」と言うものは、そうではありません。それの在りようは、万物、あるいはすべての有為の在りようと違います。これは万物より前からあるものを学び、理解し、知る準備です。これは、ヴィサーカ季いっぱいお話する話のテーマを略したものです。

 時間を費やしてなぜこれを知らなければならないのか、ややこしくなるし、あるいは何の利益があるのかと、疑問に思う人、あるいは知りたい人がいるかもしれません。

 これは答えるのが難しい問題です。どうやって飯を掴んで口に入れるか、という話以上は、知ることができない人もいるかもしれません。それだけ知れば十分です。しかしある人はもっと、万物の基礎として、万物より前からあるものを知るまで、キリもなく知りたがります。万物はそれから生じ、それを尽きさせること、あるいはその中で万物が壊滅することもなく、満ちることを知りません。不足したこともなく、満ちることもありません。このような状態で、どんな利益があるでしょうか。

 たとえば、それは現在まで常にあり、そして何よりも後まであります。今私たちは暑いので、暑い、暑いとぼやきます。もし暑さを無くすことができる人がいれば、残っている暑さも出してしまい、暑さの原因も出してしまえば、最後に残るのは、今話している「カイワン」だけで、暑さはなくなります。

 有為であるすべての物でしかない暑さと暑さの原因を取り出すことができる人がいれば、完全に無くしてしまえれば、何が残るでしょう。それは暑くないことです。

 万物は不変でないので、出してしまえば、残るのは不変なものだけです。万物が苦なので、それを出してしまえば、残るのは苦でないもの、苦のない物だけです。

 すべてのものは自分ではないので、出してしまえば、自分である状態のものだけが残ります。しかし、だれが自分と呼ぶか、呼ばないかは、また別の問題です。それはいつでも万物と反対のもの、と見える角度の話だけをしています。ですからこれを知る必要があります。それは、私たちを妨害し、抑圧し、苦しめるものと正反対だからです。

 みなさん、これを考えなければなりません。あるいは、私たちの敵であるものと正反対のものとして、これを学びたいと思わなければなりません。たとえば苦は私たちの敵で、敵でないものはこれしかありません。

 だから、辞書に、ケーワラの訳語として涅槃を規定しているのは正しいのです。しかし、涅槃と呼ばれるものが何だか、まだ分かっていないので、「カイワン」まで続いている意味の理解は難しいです。本当は涅槃という言葉は、この涅槃は、作られた物、あるいは熱が消滅するという意味で、それも涼しいことです。

 次に本当の「カイワン」で、すべてのものを取り去ってしまった時、残るのは、暑くないもので、そのうちに、無為、涅槃、あるいは空と呼び方次第ですが、そう呼ぶものと同じになりました。

 これを学ぶべきか学ぶべきでないか、考えてみてください。あるいは、もしこれを知れば、多少は仏教教団員として立派になるかどうか、自分で考えてください。私たちの仏教教団員であることは地に落ち、つまり眠っています。ブッダとは目覚めているという意味なのに、私たちはいつも眠っています。どうすればふさわしいか、仏教教団員であることを目覚めさせなければなりません。そうすれば目覚めていることである「ブッダ」という言葉にふさわしくなります。

 次に、万物より前からあるという観点でそれを知るまで、少しずつ見て行きます。そして、それはあらゆる所にあると知ることができる利点があります。

 それは、いつでもどこにもあり、時間でもあり、すべての空間でもあります。しかし私たちは見ず、あるいは普遍的な科学の面から勉強しないで、タンマの面と見ます。科学なら、いつでも例外なくどこにでもあるもの、何かあると知るための、タンマの科学、仏教の科学です。

 「時間」という言葉は、すでに終わりがないことを表しています。これは理解しやすいです。時間は終わりのないものです。愚かさで推測しても時間には終わりがなく、智慧や知性で推測しても、時間には終わりがなく見えます。

 次に地面について言えば、地面だけなら、もしかしたら終わりがあると感じます。たとえばこの地球、そして太陽系、そして他の天体系もあり、全部をまとめたら、私には考えられません。こういうのはまだほんの僅かです。「カイワン」はそれ以上で、三万世界と言います。つまり三万の太陽系のような体系、あるいは三万の何かですが、それでもまだ全部ではありません。まだそれ以上です。

 それです。概要として、あるいは理論的推測として、永遠にあり、あらゆる所にあるものが存在し、そしてそれは永遠に、どこででもそれであると理解してください。

 万物と呼ばれるものは、これに依存しています。それはただ、これに触れて何らかの反応が生じ、そして万物になったにすぎませんが、それを消耗させることはありません。私たちが知っているのは、触れて生じ、そして存在し、消滅していくもの、滅亡して行くものだけです。そして泣いたり、笑ったりします。特に新しいものの症状だけです。だからそれについて多少知れば、仏教教団員にふさわしく、目や耳が多少は明るくなります。

 次にちょっと有利な話をしたいと思います。もし人間が、自分の知性に応じて多少これを知れば、人間は非常に変わり、つまり人間同士で理解し合い、友好的になり、慈しみ合い、今の世界のようにいじめたり、危害を加えたりしません。

今は、仲間同士に分かれ、攻撃することばかり考え、あの国この国、私の国、他人の国に分かれて、他人のことを考えないで自分の利益だけを求め、あるいは他人を壊滅させ、それでもまだ正しいと見ています。小さな事と見て、最高に利益があると言うからです。

しかし重大なことと見て、測り知れぬほど価値が、筆舌に尽くせぬ価値があると言えば、些細なことの愚かさが、あるいは些細なことへの執着が消えます。これを、「カイワンタム」と呼ばれるものを知ることができれば、人間は大きく変わると言います。

 あるいは、この「カイワン」というものに理解が生じれば、世界中の宗教が理解し合い、互いに友好的に見られるようになります。

 今は、宗教と呼ばれるものでも、その宗教が、互いに鬼や悪魔、仇敵同士のような目で見て、宗教間で攻撃し合っています。同じ宗教でも、宗派間で攻撃し合います。どの宗教もそうで、ますます顕著になっています。支障があるので名前は出さないでください。しかし誰でも、今は宗教間で攻撃しようと企んでいるが、そのうち宗派に分かれれば宗派間で攻撃し合う、と理解し見ることができます。

 この人たちが、「カイワン」というもの、つまり本当に一つだけのものを知ることができれば、宗教が敵対し合うのを止め、あるいは宗教の小さな部分である宗派は生まれません。個人同士で、宗派間で、宗教間で、あるいは、もしまだ別の世界があるなら、世界の間で、何の間でも、一つだけといわれるもの、つまり「カイワン」に依存しているすべてのものの中の、まったく同じものを理解するからです。

 あるいは言い方を変えれば、この「カイワン」を深く理解すれば、他の言葉も、今話しているように不毛でなく、たとえばこのようなタンマを深く理解することも、「カイワン」を深く理解しなければ、「タンマを深く理解する」と言うのは、話すだけ無駄です。あるいは「神様を理解し、神様と生きる」というのも、無駄です。

これを深く理解しなければ、神様と生きる時間はありません。あるいは、これを深く理解しなければ、神様と一体になりません。あるいは、自我、自分を捉え、アートマンがあり、パラマートマンがある人たちも同じで、これを深く理解しなければ、パラマートマン等を理解できません。

 それは、どんな教えのどの宗教、あるいはどの教義の目的も、利益のある本当の目的になり、私たち仏教教団員がこれを知れば、本当に仏教を知ることです。仏教教団員がこの「カイワンタム」と呼ぶものを知れば、本当に仏教を知り、二度と傲慢になることはありません。

 今、哲学者、智者である仏教教団員は、仏教だけが正しい、他の宗教は間違っている、あるいは他の宗教は半分くらい、中くらいまでで、木の根、あるいは足元にいる、仏教だけが頂点へ届くと自慢します。こういうのは、限られた世界を見ればそう言うこともできます。しかし、「カイワン」というものについて深く見れば、このように他人を見下す余地はありません。なぜならこれは、いつでもどこにでも、至るところに、つまりどの宗教にもあるからです。

 だから仏教教団員がこの「ケーワラ」、あるいは「カイワン」と呼ぶものを理解すれば、空を理解するのは、あるいは涅槃、あるいはこのような無為を深く理解するのが、非常に簡単になります。

 これが、私たちがこれを、自然に無限に、無窮に存在するものとして知らなければならない理由の例、あるいは例である理由です。無限とは終わりのない時間であり、無窮とは終わりのない地面です。あるいは、それは万物の母のようなもので、万物は「「カイワン」」と呼ぶものから生まれた子供や孫やひ孫です。それを母と呼びます。

タンマなら、母なるタンマで、それ以外は母からできたもので、大きく育って母になる機会はありません。母はいつまでも一人、つまり「カイワンタム」だけなので、それ以外は水面に風が当たった時に生じる、水の泡のように、ほんの束の間生じて、消滅し、それが水になることはできません。

 これをタンマと呼ぶなら、「カイワンタム」と言い、母のような、すべての子であるタンマの元である、母なるタンマです。そして消滅し、消滅し、消滅します。一方この母であるタンマは、変化することはありません。

 神様と呼ぶなら、すべてのものより前からあるので、これによって存在するので、これを意図しなければなりません。これを、ヒンドゥーの人たちは、彼らのものをパラマートマンと呼びますが、それは大きな、時間の終りもなく地面の終わりもない、全体が一つのものです。

 深く理解すれば、本当に神様を理解した、本当にタンマを理解したと言います。人間がこれを知れば、人間の問題をすべて解決することができます。今人間はこれを知らないので、執着と、身勝手がいっぱいで、キリもなく世界に問題を起こしています。それで解決しようと考え、そして何に譬えたらよいかわからないほど解決します。表面だけでも多すぎます。人間が人間の問題を、表面だけ解決するのも多すぎで、何も解決しないのと同じです。そして現代の人間は、ますます身勝手になるので、ますます病があります。

 良く聞いてください。これを知る以外に解決策はありません。つまり本当に、正しく、まっすぐに最高にタンマを知れば、心は、いろんな種類の問題を起こす身勝手な人から、反対の人に、自然に変わります。

 いま人間と呼ぶものは、まだ人間ではありません。最高に良くてただの人です。目・耳・鼻・舌・体など、体の味の考えがあり、そればかりを心配し、それ以上のものはありません。人間が勉強するのは、お金を取るため、あるいはお金と呼ぶ購買力を得るため、そして目・耳・鼻・舌、体の味になるものを、作り、探し、掻き集めるだけです。人間にそれしかなくて、人間の問題を解決できるでしょう。

 貪れば貪るほど苦が多く、執着すればするほど、苦がたくさんあります。現代は、求めて、しまっておいて、執着で消費するだけなので苦です。これは個人的なことで、それが社会の問題、つまりどんどん人と人の問題に発展します。

社会の闘争や紛争のように、あるいは集まって大きくなって国になり、民主主義側と共産主義側になっても、執着の基盤であるものの奪い合いばかりです。彼らは、ここでタンマと言っているものを知らないからです。それを私は「カイワンタム」と呼びます。つまり人間の問題を解決するすべてのもの、すべてであるタンマです。

 教祖はこれをすべて知っていますが、教えるのは「一掴みの木の葉」と譬えたように、必要なことしか教えませんでした。知っていても教えないことは、山全体の木の葉と同じ量です。ですからブッダは何を教えたか、という明らかな言葉があるので、後でお話します。今はこれを、つまり「カイワンタム」の話を知るべき、知る必要がある、と分かるようにお話します。

 

 これから、「それ」について、特にそれは何かということについてお話します。中には、「カイワンタム」という言葉は何語かも分からない。仏教ではあまり聞いたことがない。聞いたことがあってもケーワラン、あるいはケーワラだけだ。この「カイワン」というのはサンスクリット語だから、仏教のはずがない」と、耳を塞ぐ人がいるかもしれません。

 言葉の問題は重要ではありません。重要なのは意味です。仏教にはパーリ語もサンスクリット語もあるので、「カイワン」が好きでも、ケーワラが好きでも構いません。しかし私たちのタイ語は、全部サンスクリット語に依存しているという理があります。偏りたくなければ、そして軽率でなくするには、どうぞ一つ一つの言葉を、本当のタイ語辞典で確かめてみてください。

すべてサンスクリット語からきていることが分かります。たとえばタンマは、DRRMで、DAMM ではありません(タイ文字で書き表したときの綴り方をアルファベットで表わしました)。文学で使われる修飾語は、みなサンスクリット語です。今も、ケーワラの代わりに、「カイワン」というサンスクリット語形を使用しています。

 次に、それはどこにあるのか、「カイワンタム」と呼ぶものの手がかりはどこにあるのか、三蔵などなのか、を見て行きます。

 これは先ほど言った、因果律を忘れなければ、「どこか」考えることができるという言葉に戻らせていただきます。三蔵を調べれば、「ウッパター ワー ピッカヴェー タターカターナン アヌッパター ワー タターカタナン」というブッダの言葉があります。こういうのが二つあります。

  一つは三相、つまり無常、苦、無我を指していて、もう一つは因果律、つまり縁起を指しています。さっき僧たちがこれを唱えましたが、聞いて分かったかどうか、あるいは意味が分かったか、どうでしょうか。もう一度理解できるようにお話します。

 ブッダの言葉の内容が理解できれば、ブッダの言葉の中にある、そして仏教の経典の中にある「カイワン」ヤタムと呼ぶものの手がかりを発見します。「ウッパター ワー ピッカヴェー タターカターナン アヌッパター ワー タターカタナン」というパーリ経典を良く観察して見てください。

「比丘たちよ。すべての如来が生まれても、すべての如来が生まれなくても、そのタンマタートゥはそこに存在する。タンマの当たり前のこととして、タンマの変わらない法則として存在する。すべての行はこのように不変ではない」という意味です。これが一つです。

 もう一つは、「ウッパター ワー ピッカヴェー タターカターナン アヌッパター ワー タターカタナン」、比丘たちよ、すべての如来が生まれても、すべての如来が生まれなくても、「イタワ サー タートゥ」そのタンマタートゥは存在する。「タンマティタター」当たり前に存在する。「タンマニヤムター」当たり前の動かぬ法則であり、「イタパチャヤター」つまり因果であり、つまりこれが原因である時、これは当然生じる。「アヴィッチャー パッチャヤー サンカーラ ティ」無明が原因なので、すべてのサンカーラ(行)が生じる、とこんなです。

 この言葉も深い意味があります。普通に存在する、普通の不動の法則、因果律は、「これがあれば当然これが生じる」という法則です。これを、「タタター」はそのようになる、「アヴィタタター」は、そのような状態と違わないこと、「アナンヤタター」は他の物にならないこと、「イタパッチャヤター」は、因果の法則になること、つまりこれがあり、これが原因の時は、これが生じること、と結論してしまいます。

 これが、仏教のブッダの言葉の中にある、「カイワン」ヤタムと呼ぶものの手がかりです。どうぞ冒頭の、ブッダあるいはすべての如来が生まれても生まれなくても、「ティター ワ サー タートゥ」そのタートゥは存在する、という文章を思い出してください。これはブッダが生まれる前も、あるいはブッダが生まれた後でもいつでも、そのタートゥが存在することを証明するものです。

そのタートゥを十分な意味で言えば、「タンマタートゥ」、あるいは「タンマター トゥ」、そして「タンマティッタター」、「タンマニヤムター」、「イタッパッチャヤター」、「タタター」、「アヴィタタター」、「アナンヤタター」などになります。すべて、固定した、動かない、変化しないものが存在することを意味しています。

 これが、「何よりも前からあるもの」の意味です。もしブッダが生まれなければ、誰もこの話を知らないので、あるいはこれを知らないので、話されることはありませんが、それがないという意味ではありません。ブッダのような種類の人物が生まれたので、それが分かるまで考えたということです。ブッダが話し、述べ、教え、諭し、規定し、公開したので、理解しやすいものになりました。

 これは、それらの如来たちが作ったものではないということが、はっきりと分かります。ブッダは、私が生まれても生まれなくても、それは重要ではない、これはすでに存在している、と主張しているからです。

パーリ経典には『すべての如来が生まれても生まれなくてもこうである』とあります。

 

次に、如来とは、ブッダ一人ではないと、つまりブッダも含まれると、ちょっと広く考えていただきたいと思います。「来たように行く」あるいは「そう来て、そう行く」という言葉の意味を捉えれば、すなわちすべての生き物のことです。

すべての生き物が動物として来、動物として行く時、動物のように生まれ、動物のように死にます。だからすべての動物は「如来」と呼ばれます。これは、パーリ語辞典も認めています。如来の意味として、このようにすべての生き物というのもあります。つまり来たように行く、行くように来る、これがすべての生き物です。

もっと広げれば、それ自身の原因と縁で変化するものを、すべて如来と呼びます。どう行くかは「そのように行き」、どう来るかは「そのように来る」ものを、すべて如来と呼ぶことができます。すべてのものがそれ自身の法則に従って、その状態に従って、どのような発生と消滅をしている時も、「ティター ワ サー タートゥ」、そのタートゥはそのように存在する、それはそのように維持していく、というところまで広く意味を捉えることができます。

それが「カイワンヤタム」です。それは、そのように存在します。それは、そのように、誰の顔も見ずに、誰の声も聞かずに、何かによって変化をせずに存在します。すべての如来、つまり原因と縁のあるものを、あれやこれにさせます。それはこのように存在するだけ、それだけです。こうです。

今述べたような奇妙な状態を、細かく分類することもできます。そして分けることができない固い一つのもの、こう言うこともできます。あるいは意図する面によって、どこにでもある、あるいは唯一と言うこともできます。

 次に、「ティター ワ サー タートゥ」という言葉について言えば、それは「タンマタートゥ」と説明することもできます。そしてこの「タンマタートゥ」は、「タンマティタター、タンマニヤムター」と説明し、そのようになる、「タタター」、あるいは「アヴィタタター」そのような状態と違わないこと、「アンヤタタター」他にはなりようがないこと、つまり因果律、つまり「これが原因としてあれば、当然これが生じる」ことである因果律という不動の法則、と結論します。

 ですから、これらの言葉の主語として、ブッダは何を意図していたかに注目してください。すぐに法則、つまり法則と呼ばれるもの、非常に重要な意味があると言うことが分かります。それは法則として存在します。「タンマティタター」も、「タンマニヤムター」も、「イタッパチャヤター」も、「タタター」も、何でも、法則として存在しています。

 だから、この法則と呼ばれるものは、この場合、特に「カイワンタム」という言葉は、興味を持たなければならないものです。「カイワンタム」とは、法則であるタンマで、すべてのものより前からあり、そして何かによって変化することなく、すべてのものが消滅して、再び物が生じるまで、何よりも後まで残ります。この法則は、ずっとそのように存在し続けます。ブッダが『ティターワサータートゥ、如来が生まれても生まれなくても、そのタートゥは存在する』と言っているのは、その存在に終わりがないという意味です。

如来もまた、生じては存在し、生じては存在し、すべてのブッダも、世界に生じて、後どれくらいにしても、涅槃に入り、幾ら消滅しても、何百人も、千人も、万人も、十万人も、百万人も、千万人のブッダがいても、「ティター ワ サー タートゥ」、そのタートゥは存在します。だからそれはブッダではなく、あるいは如来でもなく、それはただ、一つの当たり前、あるいは当然、必ずそうであること、他になりようがないことの、法則の一つ。それが残ります。法則と言います。

 

   次に、今までこの世界になかったものが生じ、太陽から生まれると言ったり、あるいは炎霧から生じると言ったり、何からでも、すべてのものが次々に現れるのは、この法則に従っていますが、それは何の威力で生じるかを、一般的な科学の面から勉強すると、それは、因果の法則の力によって生じます。

「カイワンタム」であり、何かによって変化しない唯一のものであり、そして、すべてのものを生じさせては消滅させ、生じさせては消滅させる最高の威力があり、幕の前から生じて、幕の後ろへ消え、幕の前から生じて、幕の後ろへ消えます。法則と呼ぶものは、万物をこのように支配しています。

 このように言うと、誰も反論する人はいません。仏教教団員も反論しません。そして神様がいると信じている人たちも、これを神様と見なしています。彼らもこれを神様としています。だから神様のことで、彼らを軽蔑しないでください。私たちはこれを、永遠に存在し、万物に際限なくドラマを演じさせる規則である法則と認めなければなりません。

私たちは神様と呼ばず、法則、特に因果律と呼びます。あるいはタタターの法則と呼ぶもの、アヴィタタターの法則、あるいはアナンヤタターの法則、何であっても、それにはたくさん代名詞がありますが、最も一般的な呼び方なら、タンマタートゥと言わなければなりません。タンマタートゥ、タンマタートゥとは、タンマであることです。

 「タンマタートゥ」とは、維持しているという意味で、語根はパーリ語、サンスクリット語、ラテン語もまったく同じで、どれも「安定している」という意味です。タートゥという言葉は、不思議と言われるほど安定しています。本当に安定しているものは、すべて「カイワンタム」です。

それ以外は作られた、飛び出さされ、そして消滅させられる反作用です。これは変化の安定です。変化しない安定なら「カイワンタム」と呼ぶもの、あるいはブッダが、「私が生まれても生まれなくても、そのタンマタートゥは存在する」と、つまり永遠に存在すると言っているような、タンマタートゥでなければなりません。

 つまり、万物より前からあるものを知ってください、ということです。今日は一時間ばかり掛けて、「すべてのものより前からあるもの」という言葉を理解するためにお話しました。

 

 次に、「タンマ」という言葉についてお話します。このタンマという言葉については、以前に何度も何度もお話したことがあります。まだ憶えていれば、この言葉の要旨はどんな意味か、思い出せると思います。「タンマ」とは「存在する」という意味で、存在するものは、それをタンマと呼びます。一時だけ存在すれば、一時的なタンマと言います。永遠に存在すれば、本物のタンマ、あるいは無限のタンマ、無限であると言います。

 形や名の類は、ほんのしばらくの間、つまり一時だけでどんどん変化し、一つの形に安定しません。すべての形や名、私たちの体を見てください。体だけ見ても、いつでも変化しています。心も常に変化しています。考えや気持ちや知性も、どんどん変化していて、安定しているものは何もありません。ほんの一瞬でも変化しています。

こういうのを、安定していると言えるでしょうか。一時的なタンマなので、ほんの一時だけは、安定していると言えます。有為、あるいはサンカーラ(行)、変化させるサンカーラと呼びます。サンカーラとは変化させるもの、変化させる力で、どんどん流れて行きます。

 同じことの繰り返しに飽き飽きすれば、そうでないもの、変化しない安定したもの、見てもヒヤヒヤしないものを探そうと考え、すると正反対のもの、つまり本当のタンマを発見します。本当のタンマは、非常にしっかりと安定していて、見事です。だれも騙したことはありません。本当のタンマと言えば、こうでなければなりません。

 本物でないタンマは、有為、あるいはサンカーラタムで、いつでも変化させる原因があります。これは渦のようにぐるぐると流れているタンマ、渦のようなタンマで、それも安定していると言います。それは、非常に騙す、非常にマヤカシな、最高に嘘つきな安定なので、嘘つきのタンマです。一方本物のタンマは、間違いなく無為で、ヴィサンカーラタムで、つまりお話しているような「カイワンタム」です。

 私たちがこのように二種類両方を知れば、出口があります。そしてこの騙すもの、マヤカシものに飽きるか、それを嫌悪すれば、いたたまれなくなって方向転換をし、そうでないもの、つまり私たちを満足させることができるもの、変化しない、騙さない、嘘をつかない、いろんなことがないものを求めます。

 そして心が深く理解すれば、心も同時にそうなります。一時的でも、ついでにそういう結果になります。心というものは、一時だけのものだからです。しかし心がこの種のものを深く理解できれば、ついでに静まり、同時に穏やかになり、ついでに清潔で明るく静まった心と呼ばれるものの、何らかの状態を受け取ります。

  つまり生じず維持せず消滅しない、しかし反対に無限にある、空のようにある、変化させることがない、あらゆる混乱や大騒ぎのない、本当のタンマである物を見るので、変化させられない心です。それは本当に存在し、無限に存在します。

 どうか観察して見てください。そうすれば、それは近道、あるいは近道より良い、あるいは近道以上の、いずれにしても何か、私たちに本当のタンマを深く理解させる方法かも知れないということが分かります。本当のタンマ、騙さないタンマ、無為、あるいは涅槃、あるいは「ヴィサンカーラ」と呼ぶもの、呼び方はいろいろですが、それは本当にあります。騙しません。騙すものとの決別を多少早めることができ、そして騙さないものに向かうのが、多少早くなります。

 今は、騙すもの、執着の基盤であるもの、タンマの火花ばかりを愛しています。それが愛すべき、満足すべき形・声・臭・味・触・考えである騙すものになり、そして無明がある愚かな心になるので、欲望と取を生じさせます。だからぴったりし、この種の心は、現在もそうであるように、かならず惑溺の基盤である物質や感情に溺れます。楽しいと感じる人はその後も溺れ続け、飽き飽きした人は、陶酔を止めることができます。

 私は、惑溺を止めるには、騙して迷わせないものを見るしかないと思います。騙して陶酔さないものは、「カイワンタム」だけなので、これだけが本当のタンマと呼ぶべきもので、ブッダも尊重しています。

 ブッダが大悟したばかりの頃、何を尊重したらよいか考えた末、もっと広い考えが生まれ、タンマを尊重しました。三蔵に、大梵天の王が、「現在・過去・未来の、すべてのブッダがタンマを尊重した」というブッダの考えを認めたと書いてあるほどです。こういうのは信じがたいです。

  ブッダのものを、まだ承認する人が必要でしょうか。しかし経典には、大梵天の王が認めると言ったと書いてあります。ブッダが、「私はタンマを尊重しよう」と納得した時、まだ大梵天王の支持が必要です。本当はブッダ自身の気持ちです。

 だから、このタンマは、最高のものに違いないと見なしてしまいます。そうでなければ、ブッダが、どのブッダもタンマを尊重したと捉えません。誰を尊重するかと考えた時も、私は誰を尊重すると表明した時も、ブッダについて述べられている所どこにも、「タンマを尊重する」と、はっきりと書かれています。


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