1.道教(タオ)





 老子はブッダと同じように、世界を誰のものでもない仮のものと見るよう、心を世界への執着より上におくように教えました。言い方は違いますが、あるいはブッダのように完璧ではありませんが、世界を欺瞞と見て、自分をそこに埋もれさせない狙いは同じです。だから、目、耳、鼻、舌等々から入ってくるものの欺瞞性を教えました。

 一方孔子は、世界(世俗)で正しく生きなければならないと教え、世界を越える話には触れませんでした。老子が脱世間(ローグッタラ)の話をしている時、孔子は、世間で正しく生きること、世間のことを正しくすることが先で、それから世俗を越える話、あるいは脱世間の話をするとして、世俗の話しかしませんでした。

 いずれにしても、脱世間の話ははるかに何枚も上なので、老子が孔子に教えた一面があります。俗世の人が俗世について良く知らなければ、俗世に迷うので、そして世間について良く知れば、正常な幸福で暮らせるので、その方が良いからです。だから話すことはまったく方向違いでも、老子は孔子の師であり、これは面白いです。

 老子が教えたものは「道(タオ)」と呼ばれています。その最初の文章は、「それは具象でもなく抽象でもなく、つまり体でもなく、そして心でもなく、何と呼んで良いか分からないので、とりあえず道と呼ばせていただきます」とあります。見てください! これは、鋭さ、深さ、至高さの証拠です。

 「これは具象、あるいは物質の話ではなく、抽象、あるいは心の話ではなく、何と呼んだらよいか分からないので、とりあえず「道」と呼ばせていただきます」。それから道について、ああだ、こうだと説明しています。「口で話すこと、説明することは道ではありません」。見てください! 仏教のタンマと同じです。

 本当のタンマは口で話すことはできません。本人だけのもので、サンディティコ(実践する人が自分で見ることができる)です。老子も、言葉で他人に話して聞かせることができるのは、まだ道ではなく、道の外皮で、道を知る人、道を理解した人は最高の人間、つまり完成した人、あるいは至高の人だと言っています。

 一方孔子は、俗世で暮らすための善い行動、善い振る舞いがなければならないと言って、道徳を教えています。人間になくてならない道徳はどんなことかを、孔子は非常に良く教えています。これも、中国独自と言われる中国の宗教の一つです。

 中国の大乗は仏教で、インドから中国へ伝わったので、中国のものとは言わず、中国で生まれた宗教は、老子の道教と孔子の儒教です。この二人の師には、孟子、荀子などの支持者、つまり継承する弟子がいました。それらの人はみな二人の師の弟子だったので、弟子は師と同じように教えました。

 しかし何人いても、すべて二つ、つまり脱世間を目指すのと、世間にいるのとの、二つに集約できます。

 今までの歴史で知られている世界の人間を広く見ると、歴史以前だけでもたくさんあり、歴史から分かるだけでも、人間は根源、あるいは創造者と呼ばれる、万物の始まりを知ることに関心がありました。タンマの言葉か、あるいは庶民の言葉かで呼び方は違います。根源と言えばタンマの言葉で、創造者と言えば庶民の言葉です。


 初めの原因、あるいは万物が生まれる発端、あるいはこれが存在すると認めるもの、つまりブッダが「タンマタートゥ」、あるいはただの「タートゥ」と呼ぶものがあり、変化するものは変化し、変化しないものは変化しません。変化するものを有為と呼び、原因と縁によって経過し、変化しないものを無為と呼び、無為には、これを作った原因も縁もないので、真実つまり本物です。この本物を法則と言います。

 自然のすべての法則は、必ず無為です。そうでなければ法則ではありません。しかし人間が作った法は欺瞞で、あの法この法と制定しても、本当ではありません。そして自身もそう行動しません。これは人間の法と言います。自然が規定した法と違います。

 たとえば因果律は不変で、そのもの自身があり、そのもの自体で存在し、すべての物を支配しています。正しく行動した人は望ましい結果を受け取り、正しくない行動をした人は違う結果を受け取ります。これを法則と言います。特に因果律は、根源と呼べるものです。

 昔から探求する人が多かったので、根拠である本を見る限りでは、ブッダが生まれた時代より良いものを発見した人はいません。つまり今の歴史のブッダです。過去の百人も千人ものブッダについて私は知らないので、それらのブッダではありません。歴史に残っているブッダが、すべての根源を発見したことは、三蔵が証明しています。

 うっかりすると他人を見下して自惚れるので、初めに言ったように、他人を見下さないように考えてください。ブッダの時代は非常に不思議な時代で、特にインド、あるいはアジア大陸はそうです。極東の中国を見れば、老子がいます。水牛に乗っている長いひげの老人を老子と言います。ブッダの時代に相当します。老子の方が孔子より年上で師と言うことができ、孔子はブッダが涅槃に入る約六年から八年くらい前に生まれています。

 孔子が六歳か八歳の時にブッダが涅槃に入りました。だから老子はブッダと同時代と言うことです。

 次に老子の本を見ると、「世界より前に存在したものがある。物質でもなく、心でもないそれを、道と呼ぶ」、という教えがあるのが分かります。つまり物質ではなく、肉体ではなく、そして心や考えのような抽象でもない、どちらでもないものが、世界より前からありました。見てください! それを道と言います。

 この道という言葉は、後にタンマと訳されました。他には訳せないので、すべてタンマと訳します。わざと訳しているのではありません。それが真実で、タンマという言葉と、まったく同じ意味に使われています。アジア一帯と言うこともできます。道(タオ)という言葉の音は、この「トラ」という言葉に相当します。タオをトラと訳すのは、ここです。極東には、世界より前からあるものを知っていた老子がいます。

 インドには「パラマートマン」と呼ばれるものがありました。彼らは、それは永遠に存在すると規定しています。そのパラマートマンが、あれやこれ、物質や、体や心や、何やらに分かれ、小さなアートマンと呼ばれ、出たり戻ったり、分かれたり一つになったりしています。これがパラマートマンとアートマンです。

 それから遠くを見ると、あちらはまだ現れていません。つまり西の端にはまだ現れていません。現れているのはアジアとヨーロッパだけ、つまりユダヤのパレスチナ地域だけです。キリスト教が生まれる前、彼らにも万物より前からあるものを呼ぶ言葉がありました。彼らは神様と呼びます。後に英語になって、あるいは何語か知りませんが、God という神です。

 キリスト教の時代になると、神様または God という言葉は、何よりも前にあり、永遠に存在すると、更に増えました。しかしキリスト教は仏教よりも五百年も後でしょう。しかしキリストの元であるユダヤ教の初期は、仏教より後とは言いません。ですからパレスチナ東部の人も、永遠に存在するものを知っていました。彼らは、カイワンヤタムの形、つまりどこにでもあり、いつでもどこでも変化しない物として語っています。

 そしてその他にも、幾つもの細々したものがあり、すべては、当時の人はこの大地のどこにも、万物よりも前から存在したものがあると、すべての物に従って変化せず、掌の上で、万物が生じては消え、生じては消えるのを容認しているようなものが永遠に存在すると、みな同じことを認めていた、ということを表しています。

 これを仏教だけでない一般的な意味で、万物より前から存在するものと言います。これは知っておくべきことかどうか、どうぞ考えてみてください。仏教はこれを否定しているかを検証すれば、答は、「否定していない。これらを認めている」と言うことができます。

 パーリ経典でブッダは、それらはあると言っています。「私が生まれても生まれなくても、それはある」と。タンマタートゥ、あるいはタンマディタター、タンマニヤムターがあるという意味です。仏教ではこういうのも否定していません。

 つまり大きな教えとしては、これを否定していないということになります。しかし細かな部分では、違う言い方をしているかもしれません。カイワンタムと呼ぶものに関する、つまり至るところにあるものについての講義の狙いで、順に理解できるよう説明します。カイワンとは至るところにあるもので、カイワンタムとはどこにでもあるタンマという意味です。いつまでも無限に存在し、どこでも、限界なく、なんでも限界がないものをカイワンと言います。

 それは何でしょうか。どれくらい大きいか小さいか、どれくらい長いか短いか、どれくらい古いか新しいか、みなさん考えてみてください。理解できれば、これらの対を、カイワンに使うことはできないと分かります。それは、生じることなく、消えることもないので、長い短い、新しい古い、という形がないので、それに使えるものは何もありません。

 これが無為、無為法、あるいは空と呼ぶ時もあるし、ある意味の涅槃と呼ぶこともあるものです。しかしここでは、カイワンタムという言葉で表わされる、「万物より前から存在したもの」と言います。

 知っておけば、人間が理解し合う時に非常に役に立ちます。互いに、海に生じる泡なのですから、敵対し合いません。これが理解できれば、カイワンという言葉は簡単に理解できます。生きとし生きるものも、そして命のないものも、すべては海の表面に生じた水の泡のようなものと見なすので、争い合うことはありません。

 生老病死のない、変化することのない大きなもの、母体、原初のものを知る方がいいです。それを知れば、あるいはそのタンマを理解すれば、いつまでも水の泡として生まれないので、苦の終わり、つまり生老病死の終りになります。これをカイワン、カイワンタム、あるいはケーワラン、ケーワランタム、何と呼んでも、このように興味深いです。ブッダが降参するくらい非常に威力があります。

 ブッダは「私が生まれても生まれなくても、これはこのように存在する」と認めています。ティター ワ サー タートゥ タンマティタター タンマニヤムター。それから三相の話もあり、縁起の中には、タンマティタター、タンマニヤムター、イタパッチャヤターもあります。


 ブッダと同時代の中国には、つまり老子の時代に、老子は、「具象でもなく抽象でもないもの、つまり物体でもなく心でもない物が、世界より前からある」と言っています。道と呼ばれるものは、世界より前から存在し、形でも名でもなく、物質でも心でもないものを「タオ(道)」と呼びますが、この言葉は、その後ただの「タンマ」と訳されるようになりました。

 旧約聖書では、万物より前に、神様あるいは God と呼ばれるものが、神様と共に、神様として存在したと認めています。これが神様であり、これが万物を造りました。これがなければ、造られたすべての物は存在しません。これは、彼らにも、すべての物より、すべての物ができる前から存在していたものに関する知識があったということです。

 しかし確信はありません。明らかに知らないので、姿形のあるものとして、いろんな面、いろんな観点で語っていますが、、すべての物より前からあるもの、そしてどこにでもあり、永遠にあるという意味は同じです。だから神様と呼びます。

 この神様も同じです。私も元の言語、ユダヤ語、あるいはギリシャ語ではどんな意味があるのか、良くは知りませんが、英語になると、はっきりと The Word、 つまり言葉と訳されています。普通の人の言葉ではなく、自然の言葉です。だから、自然の法則の在り方、自然のどんな法則も、それがThe Wordです。あるいは The Word は神様にあります。The Word は神様で、The Word がすべてを造りました。要するに、彼らはそれを神様と呼びます。

 バラモン教、あるいはヒンドゥー教といい、遠く離れた西洋のユダヤ教といい、東の端の、老子の道教といい、同じものについて言っているということが分かります。万物より前からあり、至る所にあり、永遠に存在するものであり、すべて意味が一致します。

 これです。それが何であろうと、ここでは取りあえずカイワンタムと呼びます。つまり至る所にあるもので、時間的な普遍でも、空間的な普遍でも、時と場所を限定しない、一つのものです。


  次に仏教の経典に関してだけ見ると、特に三蔵、その上ブッダの言葉の形であるもの、つまり、ブッダの言葉です。

 ブッダの言葉としては「私が生まれても生まれなくても、そのタートゥ(元素)はそこに存在する」という言葉に集約されます。「そのタートゥはそこに存在する」という言葉には、多くの意味があります。つまり既に存在しています。ブッダが生まれても生まれなくても、すべてのブッダが、つまり何人のブッダが生まれても生まれなくても、それは存在していました。

 それが何か、考えてみてください。ただ「タートゥ」と呼んでも、特別な意味がなければなりません。つまりある特別なタートゥで、タートゥ、あるいは状態に関する講義なので、特別なタートゥ、つまり無為タートゥがあることを教えます。

 普通のタートゥは有為タートゥで、パーリ教典を調べてみると、ただタートゥという一語でも、これほど特別なものがあるので、無為タートゥに注目しなければなりません。それは、すべてのブッダが生まれても、生まれなくても、永遠に存在するものです。

 ブッダがこれに関してこのように述べたのは、「これらの物は、ブッダが規定したものではない」、あるいは「ブッダがこれらの物を生じさせたのではない。それは初めからあり、永遠にある」という項目で、ブッダを剥ぎ取るためです。すべてのブッダの悟りは、「アピサムプッチャティ、アピサメーティ」で知ったにすぎません。

 アピサムプッチャティは、非常に熟知すること、アピメーティは、それを深く理解することです。理解したら、アーチカティ、言って、テーサティ、説明し、パンペーティ、規定し、パタペーティ、置き、ヴィオラティ、公開し、ヴィパチャティ、他人に知らせ、ウッターニー コロ-ティ、表裏を返すように、簡単に見えるようにしました。

 それはもう一度教えられていますが、ブッダが、(ブッダが知っていることを)森の木の葉に譬えた時、「私が教えることは、一掴みの木の葉くらいだ」と言っているように、そのすべては必要でないので、教えてはいないという意味です。

 これらはすべて、原初の意味のタンマ、あるいはタンマタートゥは計れないほど多いので、それを森全体の木の葉に譬えれば、仏教として教えることは、一掴みの木の葉くらい僅かであることを表しています。人間はそれのすべてを、あるいはあらゆる面を知る必要はないということです。

 ですから、滅苦に必要な部分だけを知ることにしてください。いずれにしても知らなければならないことは、タンマタートゥ、あるいはカイワンタムです。それが、人間が知らなければならない、そして何としても実践しなければならないものです。

 ブッダは、まだ沢山の関連する言葉で語っています。タンマティッタター、タンマが存在すること、タンマニヤムター、タンマの変わらない法則、タタター、そのようになる、アヴィタタター、タタターと違わないこと、アンヤタタター、他のものになりようがないこと、そしてはっきりと示しているのがイタッパチャヤター、つまり縁である何かがあれば、それが生じることです。 


 ここで面白いのは、偶然かどうか知りませんが、カイワンタムは法則であり、道と同じ意味であり、キリスト教の The Word 、つまり神様と同じ意味なので、神様は法則であり、道、タオも法則、何でも法則です。

 そして面白いのは、西洋人が使う神様という意味の God は、私たちにもある点です。私たちは気持ち短くゴッド(タイでは法則という言葉をゴッドと言う)と言います。私たちの方が正しく本当の神様で、法則と呼ぶものが神様です。西洋人が God という言葉を短く縮めるのを認めればゴッドになり、同じもの、つまり The Word になります。自然の The Word は自然の教えであり、自然の法則であり、それが神様です。

 もしかしたら、ゴッド、あるいはインドに入ってきたインドアーリヤの古い言葉であるガタという言葉が、西洋の言葉になったということもあるかもしれません。そういう言葉は幾つもあります。

 つまり、名前のことで論争しないでください、ということです。ヒンドゥーの人がブラフマ神と呼びたければそう呼びましょう。しかしそれがこれを意味するなら注意してください。それは同じ物です。彼らがパラマートマンと呼んでも勝手です。ある宗派がそう呼ぶのは、彼らの自由です。しかし彼らの説明はこれと同じです。そしてカイワンと呼ぶ人たちもいます。

 これがカイワンと呼ぶものであり、そしてタンマという名に非常にふさわしいです。なぜなら母なるタンマだからです。


 さて次は、今日の講義の目的でこれを理解するために、様々な角度から比較してみます。この比較は、必ず対になっています。何かを比較する時、必ず二種類のものを比べるのは、良く知られています。でなければ比較できません。

 初めの対は、原初のタンマと、形を変えたタンマで、原初のタンマは一つで、一つでなければ、原初のものではありません。考えてみてください。もし二つにも三つにも分かれていれば、必ず元の物ではない物があります。ですから元の物は、必ず一つだけで、その後、原初のものから形を変えたタンマが、何種類にもなります。

 初めのタンマは法則で、断乎とした法則、神様あるいは法則の断乎とした命令を、原初のタンマと言います。アーティタム、アーティブッタ、と言う人たちもいます。何でも構いません。そしてこの法則が、さまざまな具象、抽象であるタンマになりました。これらの状態は、必ず法則から生じ、法則で変化します。これが形を変えたタンマです。

 元のものもタンマと呼び、そこから出たすべての新しいものもタンマと呼びます。パーリ語には、他の呼び方がないので、「元のタンマ」、あるいは「形を変えたタンマ」と、頭に形容詞を足さなければなりません。たとえば有為のタンマ、あるいは無為のタンマなどです。しかしこの初めの対は、原初のタンマと、どんどんどんどん、現在までキリもなく形を変えるタンマであると明言したいと思います。この宇宙に何があるか、数えられません。

 太陽、月、いろんな星が生まれ、そして人間や動物になり、最高のブッダになり、いろんな最高の文化になり、そして破滅し、そして新たに生まれ、そして破滅し、新しく生まれ、こういうのを、変形した部分と言います。しかし本物の法則の部分は、ほんの少しも変化せず、原初のままです。

 これが一つの対です。カイワンタムは原初のタンマで、それ以外の物は形を変えたタンマ、つまり変化するタンマです。

 次に二つ目の対は、本物と、その他の火花、あるいは火花になってはじき出た屑のタンマです。火花であり、何かから火花になって出たもので、同じではありません。

 母体であるタンマは不思議で、終わりを知らず、変化を知らず、カイワンという言葉の意味で、終ることを知らない母であるタンマです。子や孫であるタンマは、生まれては死に、生まれては死に、流転します。これを、子孫であるタンマと言います。だからカイワンタムは母であるタンマで、その他、数え切れない何千万種類、何百種類は、子孫であるタンマで、それが母であるタンマに戻ることはありません。

 三つ目の対は、本当の原因であるタンマをパトムヘトゥ、その他はすべて結果であるタンマと呼びます。キリスト教徒たちは、いつでもこれを最初に質問します。「仏教には根本の原因がありますか」と。これは、この質問を理解できなければ、間違った返答をするかも知れません。神様という言葉を嫌えば、彼らが、神様がいる彼らの罠に落とすために質問したと考えるので、私はそれを恐れて、「ない」とだけ答えます。

 しかし誠意のある偏らない答え方をすれば、私たちにもあります。つまり、永遠に存在するものが原初の原因、パトムヘトゥと呼ぶことができるもの、それは何でしょうか。タタター、アヴィタタター、アナンヤタター、タンマティタター、タンマニヤムターと呼ぶ法則。これがパトムヘトゥで、何よりも前からあります。その他はいろんな結果、いろんなものです。

 もう一度名付ければ、原初の原因はたった一つしかない物で、そして結果はたくさんあり、唯一のタンマと言えばカイワンタムで、雑多ないろんなタンマは、タンマ、火花であるタンマ、一時的なタンマ、一時的な有為のタンマです。

 あるいはもう一つの言葉を使った四つ目の対は、アーティタム、初めのタンマ、あるいは不変の初めのタンマで、これは不動です。それからニラマンタム、つまり、いつでも歪曲するタンマになり、どんどん歪み、どんどん変化し、元に戻ることはありません。

 それは何かに変化し、それがまた次の何かに変化し、そしてまた別の物に変化し、突っ走って行くばかりで、それらの物が再び消滅する場合を除いては、元の物に戻ることはありません。それらが消滅すれば、原初の物になるだけで、アーティタム、つまり原初のタンマになります。そうでなければニラマンタム、どんどん歪曲するタンマです。

 ここに座っているみなさんや木、岩、砂利、土、砂、これらはすべてニラマンタムです。つまりアーティタムから変形してきたタンマです。そして考えなければならないことは、それが体になり、心になり、脳になり、考えがあり、それらの母体を知る知識があることです。これは多少マシです。知らない人は、せっかく生まれたのに自分の親を知らないということで、滑稽です。

 それは火花、あるいは反応でしかないと考えてください。本当の原初の物はびくともせず、何も変化しません。私たちの前に現れているすべての物は、ただの反応、ただ反応として現れた火花にすぎません。水に風が当たれば波が生じると言われるように、何かがぶつかり合えば、いつも新しい物が生まれます。

 述べたものをケーワラ、あるいはカイワラヤと言います。そしてその他にも、キリもなくたくさん規定した言葉があります。分かれた物同士がぶつかり合えば、新しい物が生まれますが、元のものはそのままです。

 これが物質であるタンマと非常に似ている原則で、たとえば初めには太陽はなく、それから太陽が生まれ、太陽から、あの元素、この元素、といろんな元素が生まれ、それから有機物になり、生物になり、植物、動物、人になりました。初めは、それはなく、これらの物が衝突を繰り返し、新しい物が次々と生み出されました。物質面はこうです。本当の物理面は、本当に物質的には、このようです。

 抽象面にもこのような意味があるので、本当のタンマと火花にすぎない、あるいは反応でしかない、その母体の法則でどんどん変化していくタンマが生まれました。母体は法則であり、その子は法則に従って、ただの反応としてどんどん発展します。

 その法則は神様、あるいは神様のタンマで、その他は、神様から出たすべてのタンマです。だから永遠のタンマ、ニランタラタム、永遠に変わらないタンマと、アントアラタム、つまり一時的なタンマが生まれました。ニランタラとは、期間がない、区間がない、永遠という意味です。これをカイワンタムと比べてみると、カイワンタムは期間がなく、原因がなく、一定期間の結果もありません。永遠は神様で、そして永遠でないタンマ、つまりすべての物があります。


 ここで言うタンマとは、法則という意味で、教えとは話された言葉、あるいは文字と捉えてはいけません。なぜなら、話した言葉や文字は、法則の説明だからです。たとえば無常、苦、無我は法則の説明です。それ自体は法則でなくても、法則を説明しています。私たちがタンマと言えば、必ず法則を意味し、そうすれば本物です。文字や話した言葉を意図しないでください。

 さっき僧たちが唱えた経に、簡単に見ることができます。固定した自然を苦と名付けて、必ずこうであり、こうであり、他にはなり得ないと言い、苦が絶滅した状態を、こうであり、こうであり、他にはなり得ないと言い、苦を滅亡させる実践は必ずこうであり、こうである、こういうのを法則と言います。法則に則って実践すれば、実践が生じ、そして実践に応じた結果を受け取ります。

 ブッダは法則を説明したいと望みました。そしてすべてのブッダが生まれても生まれなくても関係なく、関わりなく存在する法則の、在り様を説明したいと望みました。私はただ、この法則を深く理解しすべてを知ったので、説明して他の人に知らせるだけだと。つまり法則を説明しているということです。

 そしてその法則と呼ばれるものは、時間も場所も限定せず、至る所にあり、これをタンマタートゥと言います。あるいは、どの面で話すか意図次第で、呼び方は様々です。ブッダはタートゥという言葉を使いました。ただのタートゥだけですが、このように特別な名前のタートゥです。

 このタートゥを深く理解した人は、私が分かり易いようにカイワンタムと呼ぶものを理解したということです。あるいはこのタートゥを理解した人は、キリスト教徒やユダヤ教徒が神様と呼ぶもの、あるいは老子がタオ(道)と呼ぶもの、あるいはヒンドゥー教のたくさんの派が、ブラフマとか、パラマートマンとか、カイワンと呼ぶものを理解しました。

 しかしこのカイワンの意味が、これを呼ぶのに一番ふさわしいです。そしてこれは、政治にも多少利益があります。現代の世界はすぐに仲違いして攻撃し合いになるので、闘争をせず、党派や仲間や、白黒に分かれないように統一が必要だからです。

 今私たちは、物質主義の人が見ている物しか見ず、物質だけ、あるいは物質を好むことしか知りません。指しゃぶりをしている子供のように、いつも、深い心のこと精神の話を好みません。こんな年齢になっても、まだ指しゃぶりをする子供と同じで、何を見ても、この目で見えるだけで幼児と同じです。

 子供は何を見ても、「自分の心が知っている」という物しか見えず、何度聞いても「お菓子がほしい、飴玉がほしい」と、このように欲しがり、体全部を洗いなさいと言うと、お腹ばかり洗い、それで全部だと言います。

 私たちは良く見慣れているだけ、そしてしつけられただけの、浅い表面的な物しか見えないという良い例を話しましょう。私が子供の頃、学校へ入る前のこと。生まれた町プムリエンのマイ寺にリーケー(歌舞芝居)を見に行きました。有名なリーケー(芝居の一種)がやってくると、子供も見に行きました。いろんな演目、いろんな出し物を見に、何度も何度も行きました。今でも憶えていることがあります。

 「チャンタクロープ」の話で、モーラーを入れた箱を貰って家に帰る場面を演じていました。仙人は、途中で開けて見てはいけないと禁じましたが、その人が途中で開けて見ると、非常に美しい女が出てきました。

 通常リーケーは、人を虜にするために、ここで思いっきり笑わせる役目があります。女は、一目惚れしたチャンタクロープを翻弄し、本当に愛しているかいないか問い詰めることから始め、女がチャンタクロープにいろんなことをさせて試すと、何でも言うなりにし、男が言うなりにする度に、子供たちがどっと笑います。

 女が、しまいに自分の糞を食べるように言うと、チャンタクロープは食べます。すると観衆全員がどっと笑い、子供も大人も、白髪の老人も、チャンタクロープが糞を食べたと笑います。しかしなぜ糞を食べたのか、あるいは、その話にどんな意味があるのか、考える人はいません。

 煩悩に支配されれば、私たちは糞を食べられると考える人は誰もいません。そう考える人は誰もいないので、男も女も、子供も大人もみんな笑います。ウバディササやゴーリダのように利益のある人はいません。この二人はリーケーを見に行って、芝居を見に行って法眼を得て、俗世に飽きて出家し、サーリープッタとモッカラーナになりました。この二人は芝居にタンマを見て、俗世に倦怠しました。

 この時、芝居小屋には、糞を食べるチャンタクロープしかいなく、自分も糞を食べるチャンタクロープだと、誰も考えたことがないので、大笑いします。考えてみてください。誰でも糞を食べるチャンタクロープです。惚れてしまえば、あるいは気に入れば、その人は糞でも食べられます。つまりそれの餌食、それの奴隷です。

 これは、良く考えてみれば自然のことです。演じている人は、非常に溺れたから、非常に迷ったから糞を食べたと、タンマを教えるつもりはなく、リーケーの役者は、人を笑わせ虜にさせて、たくさんお金にしたいだけで、タンマを教えるつもりはありません。しかし彼らが演じている物は、タンマを教えているかもしれません。

 あるいは「人は何かに惚れてしまえば、何でも受け入れる」と教えていますが、人はそういう面を見ません。誰一人そう感じません。私もまだほんの子供でしたが、そう感じた人は一人もいないと信じています。みんな、糞を食べたと言って大笑いしました。

 私たちは、意図せずに教えている自然について考えなければなりません。どこもかしこも、あらゆる面、あらゆる角度の真実を教えるものがいっぱいあります。特に、溺れればするべきでないことをしてしまう、つまり自分を苦にする角度で、愚かなので何にも役立てないで笑っている、と憶えておいてください。だから、自分こそ糞を食べるチャンタクロープだ、と憶えおきます。

 ですからカイワンタムの説明も、同じような説明になります。文字どおり、言葉どおりに、「こうこうだ」という話と見て、物質ではない、心のもっと深い部分で衝撃を受けるような意味、あるいは真実は何かという知識にしないで、たとえば糞を食べれば糞だけで、煩悩の、欲望の、無明の、愚かさの餌という所まで行きません。

 私も、大笑いをしたことがある「糞を食べるチャンタクロープの話」と、今見えたばかりです。私も六十年くらい愚かだったんじゃないでしょうか。非常に深く、とても価値があり、とても素晴らしいと見ることができませんでした。私もそう取ることができませんでした。まだ子供だったからです。

 今カイワンタムの話をして、年齢は何十歳になっても、まだ子供ということもあり得ます。だからお願いですから、これらの話を遊び半分にしないでください。これで遊ばないでください。聞いてすぐに理解できるようなものではない、非常に深いものがあるので、心を集中させ、鋭いサマーティで段階的に、本物に到達するまで段階的に洞察して、それを知ります。

 初めて聞いた時は、知識として憶え、その後道理で熟慮すれば、満足すべきと言う理解になります。しかしもっと深く見て、心が衝撃を受け、精神的な変化が生じるまでは、まだそれには到達はしていません。到達すれば、それを悟り、つまりカイワンタムを理解すると言います。

 神様のいる宗教のように言えば、神様と一体になると言い、パラマートマンのある宗教なら、パラマートマンと一体になります。仏教のような宗教なら、あるのは自然のタートゥだけなので、自然のタートゥだけで、どこにも「俺、俺のもの」は残りません。そしてこの自然のタートゥの状態は、違う状態、つまり空で、そのような空にならなければなりません。そうすればカイワンタムを深く理解した人と呼ばれます。

 タイ人も西洋人も、キリスト教も仏教も、イスラム教もヒンドゥー教も、道教も何もなく、それは空であり、「俺、俺のもの」がない空のように、中身はみな同じです。そしてこの空がいつからあるのかを見ても、分かりません。どれくらい広い、何年たっていると言うこともできません。これがアミターパ(阿弥陀光)、つまり無限の光、無限の後輪で、アミターユは、無限の年齢で、これをカイワンタムと言います。

 これをブッダは、愚鈍のように、科学者のように、「タタター(そのようになる)」、「アヴィタタター(そのような状態と違わないこと)」、「アンヤタター(他にはならないこと)」、と言いました。私たちはこれを知りません。

 一番耳慣れている言葉、無為でも、どこが無為なのか知らず、それには何らかの自我があります。無為を話しても、それを自我にし、無我と言っても、それを無我の自分にします。ずっとこんなです。だから私は、耐えなくてはいけません、我慢して考察してください、と言います。


 老子はブッダと同じ時代の人で、東の端に生まれました。言い伝え、あるいは記録によれば、孔子が八歳の時にブッダが涅槃に入りました。その時老子は、すでに高齢でしたが、会っています。つまり老子はブッダの時代とほとんど同じということです。

 老子は道教(タオ)と呼ばれる教義を教えました。哲学の面を見れば哲学で、宗教の面から見れば宗教で、子供の道徳の面から見れば、子供の道徳です。たとえば中国人のおばさんが獅子頭に線香を上げて拝むなどは、最も愚かな人のために残骸として残りました。つまり天地を拝ませます。

 映写室の壁に描いてある絵(陰陽図)のように、一方がプラス、もう一方がマイナスで、二つが関わると力が生じ、そして双方が止まるまで輪廻を循環します。つまり黒も白も、善も悪も、徳も罪も止めて抜き取ってしまえば空になり、その時道(タオ)になります。

 ここで道という言葉を、どう訳したら良いか分からないという問題があります。非常に問題であり、結果的に訳さない方が良いので、そのまま「道(タオ)」と呼んで、「道と呼ぶものはいったいどんな状態か」を学ばせます。

 しかし現代の言葉では、道という言葉を「タンマ」と、ただタンマとだけ訳しています。ただのタンマはタオです。それに、このタオという言葉の語句の意味は、道、つまり歩く道、あるいは行く道という意味だと説明した人がいました。

 これは、特に実践するタンマを「道」と呼んだに違いないと、すぐに分かります。タンマという意味のタオは、道の部分を意味することもあります。しかし真実の部分、パラマッタムでは、タンマ、あるいはタオと呼ぶかもしれません。ですから道という意味のタオは、実践する道を示すだけの狭い意味です。

 タオという言葉は、タンマと訳されるべきです。タンマ-タートゥという言葉と同じように、真実であり、自然の状態であり、あるいは実践であり、実践の結果であり、どんなタンマでも、すべてタンマと呼ぶので、このタオという言葉も、同じであるべきです。特に深遠なのは無為であるタンマ、あるいはカンワンタムで、それをタオと呼びます。

 良く聞いてください。でないと、東の果ての中国にいながら、なぜインドと同じように、あるいは仏教と同じように生じたのだと誤解します。同時代に、なぜ同じように話したのでしょうか。これは疑う余地があります。つまり、老子がこちらの地の果てにいても、同じように、世俗、あるいは有為と正反対である無為の考え方をすることはあり得ます。このように同じに考えることもあり得ます。

 もう一つは、道教の教典は、老子が亡くなって大分たってから書かれたという、多少侮蔑的な説明をしなければなりません。西洋の研究者の中には、道教の教典は、老子の死後何百年も経ってから書かれたと考える人たちがいるからです。それなら、仏教がすでに中国に伝播していたので、その教えと同じになることもあります。つまり仏教を受け入れた、あるいは少なくとも、ヒンドゥーのパラマッタムの類がタオになった、ということもあり得ます。

 これには、確実に判断できるものはありません。しかし彼らの教典、あるいは言葉を尊重するなら、彼らは、老子は、ブッダと同じ時代に自身でそう教えたと信じるので、タオと呼ぶものはカイワンタムかどうか、耳を傾けてみます。


 道教の経は三十章程あります。初めの章だけでも十分です。道徳経の第一章で、タオと呼ぶものは何かを教えているので、私たちは頭を痛めて、三十章全部を読む必要はありません。道徳経の第一章の初めの一行に、次のように書いてあります。

 良く聞いてきださい。言葉で講義できるタオは、本当のタオではない。「言葉で講義されたタオは、本当のタオではない」。いつからなのか分からず、無限、あるいは永遠で、永遠のタオと言う方が良いですが、言葉で話せるタオは永遠のタオ、つまり無限の昔からある本当のタオではありません。こうだと定義できる名詞は、変わらない名前ではありません。これが初めの項目です。

 タオとは、さきほど述べたように、タンマ、あるいは道という意味です。しかしあの人この人に話すものは、普通の人が話す言葉は、それはまだタオではないと信じてください。まだタオではなく、本当のタオではありません。

 これは私たち仏教の言葉と比較できます。私たちは、本当のタンマはパッチャッタンと言い、自分が知っても、深く理解しても、他人に話して教えることはできませんん。できるのは、実践すればこういう知識が生じる、と実践する方法を示すだけです。仏教のこのようなパッチャッタンを、「タンマはパッチャッタン」、「本当のタンマはパッチャッタン」と言います。

 本当のタンマ、無為のタンマ、あるいはこのカイワンタムと呼ぶものは、言葉で説明することができず、自分自身の心で理解すれば、知ることができます。早く言えば、涅槃は説明することができず、できるのは、こうすれば自分自身で涅槃に到達すると教えることだけで、そうすればその人は涅槃を知ることができます。

 老子の道教の経の初めの言葉は、「言葉で話せるタオは、Eternal なタオではない」です。Eternal とは、終わりがない、あるいは永遠にあるという意味で、つまり本当のタオのことです。

 そして「あれこれ定義できる名詞」という文は、抽象である名詞であり、noun です。この名詞は、あれこれ定義することができれば、変化を知らない名詞ではありません。

 変化を知らない名前は、Aさん、Bさんのように、人々がつけた名前はありません。固有名詞も、石や木や豚や犬、カラス、鶏などと名付けた普通名詞も、これには定義した状態があります。つまりあれこれ限定しています。彼は、これはまだ本当の名前ではない、本当の物の名前ではない、あるいは変化を知らない物の名前ではない、つまりタオの名前ではないと言っています。

 自然と呼ばれるものはすべてタンマで、あれもこれもみんなタンマです。そして、このタンマは石、このタンマは木、このタンマは砂、このタンマは人、動物、豚、犬、カラス、鶏と名前を決めます。これはまだ、このように規定できる名前で、変化を知らない物、つまりタオの名前ではありません。

 話すには、意味を限定して定義しなければならないので、私たちには、話す言葉がありません。タオという言葉も、意味が限定されます。しかし話す言葉がなくても、それらの物と同じように、タオと呼ばなければなりません。本当は、何とも呼びようのない自然ですが、何かしら呼ぶ必要があるので、あるいは、少なくとも自然と呼ばなくてはならないので、自然と呼び、いくら実体を無くしても、無くなることを知りません。それには話す言葉がないからです。

 たったこれだけでも、老子が意図した本当のタオと呼ぶものは、カイワンタムの状態であることが分かります。


 第二章は「存在するもの」で、これは名前ではありません。名前という言葉では不足なので、中国語では何と言うのか説明できないので、最も正確だと言われている西洋の本では、non existence と言います。つまり存在しないことです。non existence とは、存在しないことで、これが天と地の初めの名前です。「存在しないこと」が初めの名前、私たちが天地と呼ぶものの原初の名前です。天地、つまり絵と同じ陰陽です。

 すべての物は、中国の言葉、あるいは中国文化、特に道教では、すべての物は天と地に集約することができます。半分は天で、半分は地なので、何百、何千、何万、何十万もの物があっても、この両極以外、この二つ以外の物は何もありません。

 それにはいろんな呼び方があり、陰陽、天地、正負、善悪、徳罪などは、すべて新しい名前で、これらの本当の名前は、「存在しないこと」です。

 ここでは短く「アポップ」と呼ぶこともできます。アポップとは、界(有)がないこと、アポップ、アパーワ、存在しないことです。タイ語で言えば、存在がないこと、それが名前、すべての物より前からある名前です。パーリ語で言えばアポップ。つまり界がないことです。界がないことは、私たちがあの界この界と呼ぶよりもっと前の、古い名前です。アポップは天地より古い名前です。

 今非常にたくさんの名前がある抽象物、具象物は、昔は「存在しないこと」と呼ばれていた、と言うこともできます。つまり、まだ何にもなっていない状態のカイワンタムを意味します。まだ何かに分かれていない、空である、何かを作り出すものではない、時間と関係のない、広さに関係のない、こういうのを「存在がない」と言います。

 それを名付けることができないので、「存在がないこと」という言葉で説明するしかありません。この名前が、その後抽象(名)、具象(形)になるもの、すべての古い呼び方です。

 ここで私は、敢えて有為と無為のすべても、初めには「存在がないこと」という名前があったと言います。存在しないことは無界で、その後、人の知識、あるいは感覚で、有為、無為に分けられ、すべての有為は、休まず非常にたくさん作り出され、今は何十万か何万か分かりません。

この名前、あの名前、電車、飛行機、月へ行く宇宙の乗り物。あれも名前ですが、それの一番初めの名前は、「存在しないこと」です。まったく存在しないことを non existence、あるいは無界と言います。

 その後界ができ、つまり存在になるので、界、あるいは existence になります。何でもないことから、何かになる、これを界と言います。この界の部分は、非常に生み出し、界が作られると、形、名、煩悩、欲望、形、声、臭、味、触、考え、現代社会のあらゆる物を生みます。これが界、あるいは存在と呼ばれるものです。

 存在しないことは、存在するものの古い呼び名なので、存在は、天地と呼ぶ万物の親です。天地とはすべて、つまり上と下、両方という意味で、体の面と心の面でもよく、物質面、抽象面でも良く、正と負、善と悪、善と不善でもいいです。

 これが、老子が「無は、すべての物の古い呼び方」と言っているもので、その後存在が生じて変化したので、すべての物の親になりました。

 これは彼らが、「それ以前は何でもないものがあり、作り出す物は何もなく、何も作り出さなかった」と見ていたことを表しています。しかし、いろんな物をそのままじっとさせておくことができない法則なので、必ず変化が生じ、変化の状態が始まって、存在が生まれ、いろんなあり様になります。

 こういうのは、何という言葉で呼ぶかという問題は多く、原因と呼べば正しいのか、原因と呼ぶのは正しくないのかは、意図次第です。たとえば光のような、決して深くはない本当の物質的な例は、次のようです。

 陽射しが当たると変化が生じ、太陽光が当たることで地表に新しい物が生まれ、陽射しがなければ、これらのものは生まれ、変化しません。こういうのは、陽射しが原因と言うこともでき、陽射しは原因ではないと言うこともできます。何もなければ、何でもありませんが、陽射しが当たって作用するので、反応が生じます。

 これが原初で、何かの存在ではなく、何の存在でもなく、それは、光の照射に似たような存在です。だから何かが触れれば、あるいはそれ自体の中で増殖し、体になり、皮になり、何にでもなります。これは説明しがたい事ばかりですが、それは何かを生み、いろんなものになります。だから「存在がないこと」は、すべての物の原初の呼び名です。

 存在になると、それはどんどん何かを生み出す母体になり、太陽を生み、星を生み、月を生み、宇宙を生み、どんどん何かを生み出します。これはつい昨日の、新しい物ばかりです。一方初めのもの、つまりタオと呼ぶ何も存在しないこと(無存在)は、原初のカイワンタムであり、同じです。


 次の三章には「永遠の物は何もない。だからそれから、当然何かの存在の始まりを観察して見ることができる」とあります。

 これはバカみたいに、あるいは詭弁を弄するように聞こえます。必ず初めの、何もないことを見なければなりません。永遠である物は、いつでもそのようであり、過去も未来も現在もなく、無存在は、これからもそのままで、これまでもそのままで、ずっと未来もそのままで、現在もそのまま、つまり何も存在しません。

 元のものは何も変化しないで、何もない物から、何かが生まれました。永遠である何もないものを見れば、それからこの宇宙、あるいは不可思議な存在の始まりを観察して見ることができます。永遠に何もないことを知っていれば、現在の存在の始まりを知るのは、決して難しくありません。

 次に新たに生まれた存在を見ると、この存在も、同じように終りがありません。ずっとあり、終りがないのは同じです。存在しないことに終わりがないのは一つの状態で、次に何かの、何らかの、何らかの存在に終わりがないのも、もう一つの状態です。

 この建物の中の絵について、アナンタの話、アナンタつまり鐘の音についてお話したことがあります。鐘は叩くと音がします。これは、「鐘の音」の中に「鐘」があり、鐘の(叩けば)、「音がすること」には終りがありませんが、音はしません。まだ音はしません。

 鐘を叩くと音がし、音は終わることがなく、そして音は、永遠に向かい、つまり世界に満ちることはありません。どんなに鐘の音を出しても、世界に溢れず、いくら鐘が音を出しても、音が終わって尽きることはありません。

 だから静かな状態の鐘は、音であるものの終わりを知らず、あるいはまだ音になっていない物の終わりを知らないと言うことができます。だからまだ音がない状態を見れば、次に音があることの始まりが見えます。老子はこう言って、当然原初の原因の状態を説明しています。道教で「原初の原因」と呼ぶものは、このようです。

 次に存在、つまりあれやこれに、「なること」、「であること」を見ると、その違いが見えます。そしてこの存在すること、何かになること、生まれることは、生まれるだけでなく、それらは、ぞろぞろと因果律に繋がれています。だから私たちは、それらの終わりのない存在の、実に様々な違いが見え、数えることができません。

 だから二つになります。つまりまったく存在しないこと。これはアナンタ、あるいは永遠で、そして作ること、生まれること。これもアナンタ、あるいは永遠です。しかし二つは別種の永遠です。同じ eternal という言葉ですが、別の eternal です。原初のものと、新しく生まれたものは違います。

 たとえば限りなくどんどん生み出すこと。これは存在であり、作り出すこと、あるいは有為の永遠で、一方無為の永遠は、涅槃のように本当に永遠なので、本当の、正しい、あるいは明瞭な、あるいは永遠と呼ぶにふさわしいものです。

  たとえば空、たとえばすべてのタンマタートゥ。これらは本当に永遠で、どんどん作り出すサンカーラや有為は、変化によるバカバカしい永遠で、この変化し続けることも、永遠です。一つは変化をしない永遠で、もう一つは変化し続ける永遠です。

 タオを遊び半分にしなければ、仏教と同じように、これらのものが見えます。もしこれを、老子が本当に言ったのなら、ブッダが「このような状態には二つの物が関連し合っている」と言ったのと同じことを言っているということです。


 次の第四章は、この二つ、つまりこのように永遠に存在しないことと、永遠に存在することは、同じ根源があると言っています。

 仏教の言葉で仏教式に言えば、「有為と無為は同じ根源がある」です。では、これらに違いがあるなら、それは何でしょうか。無為が原因であるタートゥ、あるいはタンマタートゥ、つまり「私が生まれても生まれなくても、それはある」と言われるものであるただのタンマ、あるいはただのタートゥ(元素)でなければなりません。それは一つしかありません。

 その後存在になり、あれやこれやの存在になり、サンカーラ(行)、ヴィサンカーラ(無行)、有為、無為になり、二つに分かれました。だからこの二つは、根源は同じと見なします。つまり、ブッダが生まれる前からあった、あるいは、ブッダが生まれても生まれなくてもあった、ただ自然のタートゥ、タンマタートゥです。

 ではなぜ違いが生じ、それが現れる時、別のものになったのでしょうか。何も作り出さなければ、いつまでも同じ物で、まだ同じもので、つまり違いはなく、変化もありません。姿を現わせば、必ず変化があるので違いが生まれます。だから同じ根源をもつものが、存在しないことと存在することの、二つに分かれます。

 今私たちは、根で触れることができる、目・耳・鼻・舌・体で感じられる存在だけしか知りません。私たちが感じることができるのは、触れることができる存在だけで、そして変化すること、つまり発生し維持し消滅することで存在しています。正反対のもう一つの方は、私たちは知りません。

 だから、原初の根源は同じでしたが、姿を現した時に違いが生じたと言います。つまりあれやこれに、人間、動物、植物、岩、土、砂などに作られた時、違いが生じ、人間になってからも、違いを生じさせる新しい原因によって、更に違いが生じ、原初の人と現代の人は大きな違いが見られると言います。変化に対して不変の物は何もないということです。

 それは一つあり、存在する必要がなく、変化する必要もありませんが、それは存在します。「生まれること」が無くなることを、涅槃と言います。長老偈の中に、「界(有)が滅すことを涅槃という」という言葉があります。界の滅亡が涅槃で、そして涅槃とは何もないことではないのかと、もしこう考えるなら、最高のバカ、あるいは誤った見解です。

 すべての界が滅すこと、つまりすべての存在が滅すことが涅槃で、そしてその涅槃とは何もないことでしょうか。これは最高のバカ、あるいは誤った見解です。それにはこれ、つまり存在がなくても存在するものがあります。涅槃と呼ばれるものは、本当は存在します。無為も存在しますが、すべての有為のような存在ではありません。だからブッダは「比丘のみなさん。それ、つまり処入はあります」と言いました。それをどんどん説明すれば、苦の終わりである涅槃です。

 だからすべての界の滅亡、あるいはすべての存在が滅亡したら、何も残るものはありません。それが涅槃と呼ぶものです。そして、それも存在すると言わなければならず、存在しないと言うことはできません。しかしそれは、私たちが良く知っているすべてのもののように存在するのではありません。これは、「存在しないことと、存在することは、根源は同じで、変化が現れた時に分かれた」というのと同じです。


 一部の終わりである第五章は、根源が同じだからそれらが同じであるのは、非常に微妙で深い状態だと言っています。この言葉の意味は、エータム ソンタム エータム パニータム、「最高に緻密で、最高に精緻で、最高に深遠」という言葉と同じで、それが涅槃です。

 ここで老子が「存在しないことと、存在することは同じものだ」と言ったのは、涅槃の存在と同じように、最高に真実で、最高に深遠で精緻な真実です。この文章は老子は言ったのではなく、私が譬えて言いました。これは、涅槃の存在と同じように、最高に緻密です。

 私たち仏教教団員が話せば、この二つ、つまり存在しないことと存在することの同一性について言った老子の言葉と比較するために、最高に深遠で、緻密で、精緻な涅槃のありようを取り上げなければなりません。この真実を人が知るには精緻すぎ、非常に精緻なので、人はタオ(道)を知りません。

 この緻密で深遠であることは、物質的にも深遠で、抽象的にも深遠で、非常に深遠で緻密です。そして終るものがなく、すべての粗雑なものから流れ出てくる門のようです。すべての粗雑なものとは、この宇宙にあるすべての物です。すべての物、すべての部分は、粗雑なものばかりですが、非常に小さな、針の穴より小さな門から出ることができます。つまり宇宙は、針の先より、あるいは針の穴より小さな物から出たということです。

 直言すれば、すべてのものはタオから流れ出たと言います。だからタオ(道)は、タンマと同じように、針の先、あるいは針の穴より小さいと言います。私は、何もないくらい小さいと言います。それでも出る所、流れ出る所になります。流れ出て、形も名も、すべてのものが溢れて、過去も未来も現在も、あるいは宇宙も、この世界も、どの世界も流れ出て来ました。

 タオの話を全部するには何カ月も何年もかかります。しかし道教の経の第一章にあるタオの本質で、それは何を言っているかを知っていただくためには、今日お話ししたことで十分です。それは口では説明できません。これは、普通の人が分かるごく普通の言葉で話すことを、お許し願わなければなりません。つまり、口で説明することができない、話すことができない何かがあります。

 話せば話すほど、それでなくなります。話して話せるなら、話すことができるなら話しますが、それは本当のそれではありません。カイワンタムについて一年ばかり講義しても、それは本当のカイワンタムでないのと同じです。

 たとえば私が生涯空について話しても、それが本当の空ではないのと同じです。あるいは聖果である涅槃について話せば、それはパッチャッタン(自分だけのもの)ですが、それは話す言葉にすぎず、本物ではありません。しかし最終的に認めることができるのは、それは本当にあるということです。

 そして私たちが知っているすべてのもの、有為も無為も含めたすべてのものを何と呼んでいたのか、と問うことに「名前」という言葉を使うのは、非常に可笑しいです。それは何と呼ばれていたのか、老子のように答えられる智慧のある人は、誰もいません。老子は、non Existence 、「何も存在しない」と言いました。

 「無存在しないこと」が、すべてのものの最初の名前で、そしてその後存在に、あれやこれやの存在になったので、名前を変え、この名前、あの名前、土、水、火、風、空気、魂、苦楽、根、呼び方次第で、これらの名前は後からつけられました。

 元々の名前は「無存在」で、それが無為です。そしてそれは、いつでも必ずカイワンタムです。なぜならそれは、いつでもどこでも、すべてのものの呼び名だからです。時間の名前も「存在しないこと」で、物質の名前、体の名前も「存在しないこと」で、その後存在になり、現れた現象の変化にしたがって、あれこれ名前がつけられました。

 要するに人間の最高の知性と見なされている教義、あるいは宗教であるタオの教義にも、カイワンタムと呼ばれるもの、つまりたった一つしかなく、そしていつでも、どこでも、過去も現在も未来もなく存在するものがあります。これは深い部分です。


 次にタオの浅い部分である道です。どう考え、どう学び、どう実践すれば、タオを、初めのタオを知ることができるでしょうか。これは、見えやすい、あるいは知りやすいタオになりました。つまり八正道のような実践の方法で、こういうのを道と言います。あるいは実践してみれば涅槃が見え、涅槃に到達します。だから涅槃は初めのタオであり、八正道は二番目のタオ、つまり実践です。これは善い実践であり、本当の実践であり、正しい実践です。

 しかし非常に愚かな時代、愚かさが重篤な時代になると、それは痩せて、何が残っているでしょうか。

 見ると、現代は迷信と呼ぶものだけが残っています。仏教教団員は迷信のように何かの実践行動をしていて、八正道を歩くのではありません。これを三番目のタオと言います。中国人のおばさんが線香に火を点けて獅子頭を拝むように、彼らには、いつでも天と地の二つがあって、これらを拝む意味があります。これが気力の元になります。

 私たちにまだ対、つまり善悪などがあれば、善があれば悪が生まれ、そして意味があり、善があれば悪が生まれ、そして意味があります。同じように、女がいれば男に意味があり、男がいれば女に意味があり、対になっています。これを彼らは陰陽と言います。これは真実です。だから線香に火を点けて祭り、便利なのでどこにいても獅子頭を拝むことができます。

 結局「形のないものであるカイワンタムと呼ばれるものも、存在という意味の存在はない。しかしそれは、本当にあり、そしてすべての有為である、形と名として現れる反応がある」と見なければなりません。そして戒、サマーディ、智慧の実践の形で現れ、苦を生じさせない実践の形で現れます。

 そして後で非常に堕落して、儀式的になり、出家も、出家僧も沙弥も尼僧も、形式として出家します。これが残っている現象です。「カイワンタムと呼ぶものについて良く調べもせずに」と言います。

 今私は、何とかこれを理解してもらおうと、宗教という宗教に、すべての教義にあると指摘し、毎日これについて話しています。その宗教の知性の基礎であり、代表なので、これを知っていれば、宗教間で理解し合うことができます。

 もう一度言うと、知っていれば、理解するために時間を費やさなくても、怒りも、嫌悪も、誤解も、自然に無くなります。つまり、何も努力しなくても、自然に同じものになります。ですから、どうぞこれを知ってください。みなさんこれを知るために努力してください。今私は、これは何よりも前からあると見、そしてこれの存在によってすべてのものが出来、流れ出し、流れ出たので、原初の原因と言います。

 さて二千年以上も前の、ブッダと同じ時代の道教の要旨で原初の原因を説明する今日のお話は、これで十分でしょう。持ち帰って考えてください。そして後日、他の宗教の同じもの(原初の原因)について話します。




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