空という言葉、あるいは空の心は、仏教のすべての教えが含まれている言葉です。このように言うのは、どれでも何でも、すべては無我、あるいは空と説明してきたことと同じです。だから勉強でも仕事でも、仕事の結果でも生活でも何でも、すべてを自然と見なし、私たちのものではありません。つまり自分にする部分、あるいは自分の思いどおりになる部分はありません。そしてこの一語は、どんな場合にも使うことができる仏教の要旨です。

「どんな場合にも使える」というのは、すべての言葉の要旨という意味なので、どんな場合にも使うことができ、問題解決にも、あるいは誤った方向の事にも、当然どんな場合にも使うことができます。

初めの「空っぽの心」という言葉は、ロクでもない空っぽの心です。つまり勝手なことを頑固に言い張り、照れ隠しをし、行き詰まる、そのようなことです。もう一種類は、ブーラナカッサバとアチッタケーサカムポンの教義のように勝手に言っているもので、空っぽの心には二種類あります。

ロクでもない空の心について教えると、空とは何かをそのように捉えず、行き詰まった時、あるいは照れ隠しのため、あるいは絶えず気を引くために勝手に言っている「空の心」は、「空」と見なしません。このロクでもない空の心にも利益はあります。頑固な側、反抗する側、わざと俺はない、何もないと言い続けると言われる、休まず反論する側とします。

 教義である空の心は、ブッダと同時代のライバルだった教義で、何人もいます。特にこの二人は、何もない類の空について教えました。何も考える必要がない空で、こういうのは、刀で人の首を切っても、刀が分子の中を通り抜けただけで、誰が誰を殺したのでもありません。こういうのもあります。

 あるいは善行も、その場で終わりです。たとえば布施をしても、食べれば終わり、布施をしたことで終わりです。生贄も灰で終わりで、何の結果もありません。父も母もありません。考えてみてください。このようにロクでもないです。父も母もありません。これも自我がないからです。それには自我がないので、父もなく、母もなく、孝行する必要もありません。何の必要もありません。これがロクでもない空の心です。

 しかしそれでも、このロクでもない空の心を信仰する人がいます。ブッダのライバルもたくさんいました。ブッダの時代のインドにも、このような誤った見解である教義を信仰する人が、宗派や部派になるほどたくさんいました。ブッダのライバルだった六人の先生の中の、ブーラナカッサバとアチタケーサカンパラという先生です。このようにロクでもない空の心の人たちは、二人いました。

 私たちが興味を持つべき空の心は、仏教式の、つまり本当の仏教の「自然の空の心」です。これを自然に空にする、強制した空、タンマが見えることによる空、と言います。

 別の言い方をすれば、「空」とは、「あるのは自然だけで、自分のものは何もない状態」という意味です。心がこの真実を見解していれば、何かを自分の物と捉えることがないので、空の心と言います。空とはこのような状態です。空の心は、このような状態が見えるから空なのであって、何もない心ではありません。心がするべきことに従って、何かをしなければならない心であることには変わりません。

 心が空でなければ、何かを自分のものにする愚かさがあるので、この心は何かします。心が、「これは私のものではない、自分のもののように関わってはいけない」と知っていれば、借りて使うのと同じなので、違う行動になり、同じではありません。

 この空の心は同じではありません。八万四千項目ある三蔵すべての教えの説明について、仏教すべての教えを短くまとめたらどんな要旨になりますかと、ブッダに尋ねた人がいました。ブッダは、「サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ。ありとあらゆる物、つまりすべてのタンマは、何もかも、自分、自分のものと執着するべきではない」、と答えました。それが空、「俺、俺のもの」がない空です。

 これを、仏教のすべての教えがある「タンマ」と言います。仏教すべての要旨であり、いつでも使うことができます。低級な苦、あるいは中間の苦、あるいは高度な苦を滅すには、高さにふさわしい、空の話を使わなければなりません。

 この空にはいろんな種類があるので、一緒くたになるのを防ぐために、この空をロクでもないタイプと、仏教の自然のタイプに分けなければなりません。

1.自然の空。朝、私が山の上で話をするような、自然の空、それが自然の空です。山に登ると、自然に空になり、そしてしばらく爽快です。爽快である間は、賢さがあり、澄み切った心で、何でも良く考えることができます。空になると眠くなるのではなく、あるいは空になると何もできないのでもなく、空になると闇でもありません。山に登った時のような自然の空も、利益があります。

2.更に高度な強制による空。これは多少能力が必要で、心が混乱している時、心を強制して空にすることができます。たとえば念処やサマーディバーヴァナーをして、貪・瞋・痴などで混乱している心を、強制力によってしばらく止めると、心が澄みきって明るくなり、その後、何かをすることができます。これを強制した空と言います。

 念処を学んだり、サマーディを学んだりするには、特に心を支配することを学ばなければなりません。そうすれば空の心に、あるいは中間の空になります。高度ではありません。

3.最高に高い空の心は、すべてのものを無我、あるいは空と見えるようにしなければなりません。心が何も「自分、自分のもの」と掴まない空で、この状態の心は、すべての物より上にある特別な幸福で、何にも溺れることも、何かの奴隷になることもありません。心がすべての物より上にあるので、何でも上から見え、何をしても失敗がなく、混乱した心、愚かな心は下にあるので、すべての奴隷です。最高に高度な空ならこのような状態で、阿羅漢です。

 こうお話しするのは、必ず最高にしてほしいからではありません。みなさんが使うことができる普通の段階にしてください。ぼんやりしないように管理し、何かが自分の支配下にあると勘違いした時、この種の心で、賢く、何の奴隷でもない類の心で、何でも解決することができるという意味です。

 まとめは、次のようにまとめる以外にありません。

「タンマ」という一語は、あらゆるものを意味し、自分と仮に呼ぶ自分、あるいは自分のもの、あるいは自分に関わるすべてのもの、それがタンマと呼ぶもので、それは自然と、自然の法則と、自然の法則の義務と、義務を行なった結果に分類されます。

 自分はどこにいるのかと言えば、ここにいます。この項目に、つまり自然、土・水・風・火。私たちは自然の中にいます。

 教育について問うなら、それもここにあります。勉強も、仕事もここにあり、給料もここにあります。だから給料をもらう時、私たちは自然に従った、低級・中級・高級な、どんな義務もします。あるいは間違ったことをしすれば誤った方の自然の結果があり、苦の方の自然は、泣かせることになります。泣くことも、ここにあります。

 安心もここにあります。自然に従って正しく義務を行なえば、笑える、安心できる側なので、安心を受け取ります。この四種類と関わりのない物は何もありません。しかしこの四種類をまとめると、「タンマ」という一語になります。

 ですからタンマという言葉は、自分と自分に関わるものすべてと言うことができます。タンマには、自然の状態もあり、自然の法則もあるので、どんな形であれ私たちに教え、理解させ、学ばせ、そして自分を最高に価値のある方向へ向かわせるようにさせます。

 侮辱するつもりはありませんが、現代社会の教育が、自然の法則に則っていなければ、最も価値のある人生にはできず、反対に、どんどん複雑困難になるばかりと言いたいと思います。私たちはそれを良く知り、自分の状態や状況にふさわしく行動することを知らなければなりません。それを、「タンマにふさわしいタンマの実践」と言います。

 タンマに欠ければ、動物より優れていることは何もありません。これしかありません。タンマと呼ぶものに欠ければ、つまり正しく実践する十分なタンマの知識がなければ、たとえ物質面がどんなに進歩していても、動物より善いものは何もありません。

 「タンマ」という言葉は、たった一語でこうです。そして英語には何と訳したらよいか分からず、いろんな人が、あの言葉、この言葉と、五、六十語を駆使しても、元の言葉の意味を満たしません。たとえば norm と言ったり、law を使ったり、 doctrine など、二、三十語を当てていますが、タンマという言葉の元の意味すべてを満たすことはできません。今述べたいろんな言葉は、何でも意味することができますが、それでもまだその言葉に含まれないいろんな意味があるので、まだピッタリしません。これがタンマという言葉です。

 タンマという言葉の要点は、無我、あるいは空です。なぜなら自然のものであり、誰のものでもないからです。トラや蛇や、私たちに害のある毒のある動物と関わる時のように、正しい方法で関わらなければなりませんが、自然が望んでいるようにできれば、笑うことができます。妄信や勘違いの笑いではなく、勝利の笑いです。

 次に、心が空なら責任を取る必要がないのか、という疑問に関わる「空の心」について、もう少しあります。

 この項目は、空の心は責任を取るのか取らないのか、どうぞ自分で見てください。空の心は自分の義務を非常に良く知っていて、そしてこれからどうすれば成功するかが分かる明るさがあります。決してロクでもない空の心ではありません。ロクでもない空の心は、ケチばかりつけて寝ていたり、怠けるために文句を言ったり、得をするために文句を言ったりします。これがロクでもない空です。これを混同させてしまいます。

 空という言葉を聞くと、丸太のように何もないという言葉がよぎってしまい、心は丸太のようで、岩のようで、ロクでもない空は、みなこうです。二種類あるので、あっちでなければこっちです。

普通の人の言葉で言うのは、頑固で、照れ隠しをし、行き詰まるタイプで、もう一種類は、ブッダの時代の一時期のインドのように、信仰する人がたくさんいる教義、ブーラナカッサバとアチタケーサカンパラの教義のようなものです。

 仏教の空なら、心を清潔で明るく、静かにします。それが、妨害するもの、焼き炙るもの、抑圧するもの、束縛するもののない、重荷のない、用事で塞がっていない空です。「用事で塞がっている」とは、愛したり、憎んだり、怒ったり、そういうのを「用事で塞がっている。空でない」と言い、空と言うには、こういうものがあってはいけません。このタイプの空は、真実のままのタンマを見る空は、最高に明るい、最高に強い、最高に穏やかな、最高に勇敢な、最高に仕事を楽しむ心と定義します。

 すべてのタンマの要旨である「空」は、無我と呼ばれる時もあり、空と呼ばれる時もあります。私たちの祖父母は、無常、苦、無我という言葉と慣れ親しんでいました。それが、空の知識なしに空で生きることで、本当の空で生きていたので、心には、あまり苦がありませんでした。

 三種類の空は、どれも使えると提言したいと思います。

1.自然の空。空でなければ眠ることができず、死んでしまいます。体が求めるだけ、ちょうどいいだけ眠れるのは、心が空だからで、だから生きていられます。本当の自然の空のお陰で、でなければ眠れません。一日の何時間でもなくても、八時間から十時間あれば十分です。これ以上に混乱すれば、神経の病気になります。

 自然の空が足りなければ、人は神経の病気になり、狂って精神病院へ行かなければなりません。命である、命の基本である、命を支えている空に感謝しなければなりません。

2.強制した空。これは更に良くするために、技法、あるいは一つの知識を求め、更に空になるように強制します。

3.より一層良くするために、強制に関わりません。なぜなら強制は、強制している間だけであり、強制するのを止めれば、普通に戻ってしまうからです。つまり、ずっと正しい空にするには、タンマが見えるようにしなければなりません。そしてあれをしたり、これをしたりせず、いつでも自由で、何かをさせれば、心の自然の力で精一杯します。

 この話で、非常に紛らわしさがある、日常生活で気付かずに使っている空について話したいと思います。たとえば計算をする時、みなさんが学校の生徒で計算をする時、一心に考えるのですべて忘れ、すべて出てしまい、生活は出てしまい、俺を忘れ、俺のものを忘れ、生活を忘れ、何でも忘れて、あるのは空である本当の自然だけなので、どんな心よりも計算することができます。

 あるいはスポーツをする時、投げるにも、射るにも、あるいは何をするにも、その競技の的を当てなければなりません。たとえば銃を撃つなら、撃つ人は忘れなければなりません。自然になる種類の空の心でも、強制した空でもいいですが、その時だけは、いろんなことを考えません。

その前は、何でも考えてもいいですが、実際にその時になったら、すべてを忘れなければなりません。生活も自分も忘れます。残っているのは体の自動のメカニズムだけで、引き金を引き、最高に空の心で的をねらえば、それは、いつでも奇跡のように的に当たります。しかし人は知らず、理解できないので、彼らは、それを「的を射る自分」と考えます。

 その時自分があれば、的を外し、恐怖や震えや、臆病や他の話になります。学校の名声を考えるなら、他の時にしなければなりません。それをする時は、全部、自分の命さえ忘れなければなりません。学校の名声ばかり、あるいは何か考えていれば、学校の恥になったらどうしようと臆病になり、自分の恥になるのではないかと考えれば、心が震え、手が震えてできません。

 この空は、日常で必ず使わなければなりません。それに、もしこの空がなければ、私たちはとっくに死んでいる、眠れない、と言うことができます。もっと高度な話、煩悩がまったくないと言うくらい珍しい人はこのようです。まったく苦がありません。

 空について知識がないので、空の話を誤解していますが、これを知っていれば、非常に有益に活用できます。本当のことを言えば、世界にコミュニズムが生まれるのは、心が空ではないからです。意味が分かるでしょうか。

 世界にコミュニズムが生まれるのは、人の心が非常に空でないから、自分のことしか考えず、引っ手繰ることばかり望みます。人はかならずタンマで経過するという自然を知っていれば、もし、人はかならずタンマに従って経過すると知っていれば、人には必ず身分の上下、貧富など、相応の何かがあると考えればコミュニストにはなりません。目前の問題なので、初めにこの例をお話します。

 もう一つ、慈悲のない人たちにはコミュニズムが生まれます。それは心が空でなく、非常に身勝手で、他人のことを考えないので、思い遣りがないことから闘争になります。なぜなら一つの集団が獲りすぎるので、もう一つの集団が奪おうとするからです。これを、「自然の法則が見えないので、真実はそのようであるにも拘らず、貧富に分かれるのを認められない」と言います。一人一人が生まれる時、自然は同じではないからです。

 人間がひどく慈悲に欠けてくると、世界にコミュニズムが現れてきます。つまり、精神的な幸福の方が、物質より上だということを知らないので、勘違いして、物質的な幸福を奪います。これが、心の幸福には、物質が十分になければならないと見る dialectic materialism を生じさせ、このような主義が生まれて問題になります。

 タンマをこういう形で知っていれば、コミュニズムが生まれることはありません。それらの人々がこの真実を知っていれば、現代世界のコミュニズムが生まれることはありません。

 ありとあらゆるものがこの真実に含まれ、そして最高の真実はタンマと呼ばれるもので、このような状態です。そして、「それは誰のものでもない」というたった二三語にまとめられます。そしていろんな物を、それ自身の法則で変化させる威力があります。

  だから、貧しい人で空の心があると言えば、「私たちは生まれた時みんな違う。それに同じに生まれることはできない。体も違い、知性も違い、何もかも生まれた時から違うから、私たちは決して同じではない」ということを知っているという意味です。

 私たちが何らかの状態でなければならない時、必ず自分の義務に従ってしなければなりません。みなさんが道路清掃夫になっても、あるいはサムロー(三輪自転車)の漕ぎ手になっても、あるいは舟の船頭になっても正しく、満足すべきです。そしてこのような心で、楽しくする方法があります。そしてその心は、そういう仕事を嫌いません。しなければならない時は、喜んで楽しくすることができ、仕事を捨てたり、盗んだりしません。

 心が空では何もできない、何もしない、他の人より得をすると、悪い面ばかり見ないでください。何でもすべて認めるのが正しく、舟の船頭にならなければならなくても、ゴミの収集人でも、下水道掃除、あるいは非常に嫌われる何かをしなければならなくても、楽しくすることができます。あるいは、この自然を、カンマに従った経過を、これで十分と満足できます。

 現代は非常に問題があります。つまり、それらは自然に作られたというカンマの法則を認めず、奪い合い、競い合い、攻撃し合います。私たちは、みんな同じにはなれません。しかし、私たちが満足すれば、満足している時、それは苦にならないと捉えなければなりません。これを理解しなければなりません。そうすれば満足することができます。

 みなさんたちの誰かが、悪臭のするゴミを集めのような仕事をしなければならないとしたら、たぶん何と言っても受け入れられないでしょう。それは、それには何があるか理解できないからです。しかし現在はこうです。どこでもタンマで正しくなりません。だから解決するためには正しくします。もし解決できなければ、世界は世界の成り行きで攻撃し合い、簡単に自殺するばかりの破滅に向かいます。今そうなっています。

 空の心、あるいは空、これは仏教の深遠な面でも、最高に利益になる点でも、何でも、最高の唯一のものです。なぜなら、タンマと呼ばれるもの全部の要旨であり、タンマのすべてを要約したものが、無我、あるいは空です。

 「空の心で働く」とは、自由で、最高に自立している心で、あれこれに縛りつけられている心ではありません。空の心で働くことは、最高に自由で最高に賢く、最高にアクティブで、人が混乱と呼ぶいろんな物が何もない心です。

 仕事の結果としてお金や名声を得ても、愚かな心で執着しないで、自然からの預かりものと捉えなければなりません。お金を銀行に預けるのと同じで、頭の上に置くのは大変です。お金が幾らあっても、頭の上に積んで置くのは大変なので、銀行に預けなければなりません。精神面も同じで、自分のものと考えないで、集めるにも、維持するにも、使うにも、食べるにも、自分のものと理解しなければ心の重荷になりません。ご飯を食べるには、空の心で働いたお金、空に預けていたお金で食べます。

 私の詩があります。人は読んでも理解できないで、私をバカだと貶します。

 どんな仕事も空の心で働け

 仕事の結果はすべて空にやり、

 空の飯を僧が食うように食えば

 そうすればハナから死んでいる

 こういうのは誰も認めません。誰も認める人がいません。「そうすればハナから死んでいる」。聞いて分からないからです。つまり、いつでも俺、私がなければ、最高に快適です。自分があると考えない心は、絡み付く首かせや鎖に繋がれていないので最高に快適だと、山の上で話したように、これを、「そうすればハナから死んでいる」と言います。

 

 (次は質疑応答)

問: 観念することも空の心の問題でしょうか。

答: 観念することもある種の空の心です。空の心にします。しかしこの方法で心を空にするのは、観念するより上で、何をどうするべきか、すべてを知ります。観念することは、正しい方の観念でなければならず、正しくない方の観念なら、照れ隠しになり、知らないうちに的外れの空の心になります。

 観念するというのは、このように正しく理解することであり、その後は動じず、恐れず、悲しまないという意味でなければなりません。こういうのを観念すると言い、心を空にする方法の一つですが、すべてではありません。

 

問: なぜ空の心には差があるのでしょうか。

答: お話してきたように、空の心にはいろんなレベルがあり、ロクでもない空もあり、正しい空もあり、まだ他のレベルもあります。そして私たちは、みな違う原因で混乱しているので、空も同じではありません。

 

問: 深いタンマは、どうしたら理解できますか。

答: 深いタンマは、話して理解させることはできません。本当に深いタンマは、口で話すことはできません。これはたくさんあります。本当に深いレベルのタンマは、口で話すことはできないと知っておいてください。涅槃のようなタンマは、こういうのは、口で話して他人を理解させることはできません。

 壁に描いてある絵のように、いつでも口をつぐまなければなりません。ブッダとは何か、タンマとは何かと問われれば、答は口をつぐみます。しかし、どう理解したら良いかと問われれば、ああ実践しなさい、こう実践しなさいと答えることができます。そうすればブッダやタンマが、自分自身に現れてきます。

 例を挙げれば理解しやすいです。たとえば私たちが毎日食べている砂糖は、甘い味がします。甘さとはどんなかを教えてください。砂糖を食べたことはあっても、話すことはできません。砂糖を食べたことがない人に、説明して分からせることはできないので、砂糖を買って味を見てみなさいと言うしかありません。そうすればどう甘いか分かります。

 本当のタンマもこんなものです。話すことができる、意味を定義されたタンマは、まだタンマではありません。老子も、話して教えることができるタオ(道)と呼ぶものは、まだタオではない、と言っています。私たちの仏教も、話すことができるタンマは、最高の真実であるタンマではない、まだ低いタンマ、あるいはタンマを理解する方法である、と言います。

 

問: もしかしたら、甘さが同じでないという問題があるのではないでしょうか。

答: 甘さを知るのは、同じです。しかし舌の状態が違えば、病気の人や、体が正常でない人は味が違います。しかし舌が正常なら、砂糖の甘さは同じです。

 

問: 人の理解が同じでないという問題です。

答: 人の理解が同じでないのは、たとえば一人は非常に正しく理解し、もう一人は少し正しく理解していれば、二人が話すことは同じではありません。特に空の話、あるいは他の話でも同じです。ブッダもタンマも、空が多い人、空が少ない人、本当の空の人、嘘の空の人など、さまざまなレベルの基準、あるいは強制する様式に従ってなるなど、心の状態が同じでない人にとっては、みんな同じではありません。

 俗人レベルの人は、時々空の心になり、自然の空であり、阿羅漢のように、永遠で本物の空ではありません。阿羅漢は実践してきたと言われる特別のものがあり、永久に心に煩悩を生じさせません。

 私たちが煩悩に妨害されないのは、時々だけです。煩悩に二十四時間妨害されたら、眠ることはできません。神経の病気になり、狂って死んでしまいます。しかし阿羅漢は、いつでも煩悩に妨害されることがないので、私たちより良い状態にあり、私たちより快適で、私たちより上です。そして厳格な空で、三番目のタイプの空で、すべてのものを明らかに見ることによる空です。

 

問: 良く質問される問題なのですが、ブッダは二千年以上も前に、当時の人、その国の人に教えましたが、非常に世界が変化した現代で、どのようにそのタンマを使うことができるでしょうか。

答: これは、質問させていただきたいのですが、誰がそのように考えているのですか。

   (誰も答える人はいない)。

 教えと突き合わせて言えば、教えで主張するなら、本当のタンマは「アガーリコ」と言っています。アガーリコとは、場所を選ばず、時を選ばず、時に関係なく、場所に関係ありません。だからどんなに時が過ぎても、そのタンマはいつでも使うことができます。変化して過ぎてきた時は、何が変化したのか、枝葉が変化しているのか、大きな教えが変化しているのかを、見て知らなければなりません。

 これは面白い話、考える意味のある話です。ブッダの時代は、女の人は女の人、男の人は男の人でしたが、現代は、女も男のようにします。女の人は女の人の義務を捨てたがっています。こんななので、誰も女性の勤めを果たさない問題が生じます。しかし私たちは幾らも抵抗できません。まだ自然があるので、女性はまだ女性でなければならず、子供を産み、そのようなことをしなければならないからです。

 そして、もう一つ簡単な質問をすれば、貪りと怒りと愚かさ、これは良く聞いてください。あるいは現代人の心にある煩悩、願望、欲望と、ブッダの時代の人、あるいは二千年、あるいは五千年以上前の人のものと、違いはありますか。苦を生じさせる原因である煩悩に、違いがあるか、考えてみてください。

 実際には、煩悩を生じさせる原因は違うかもしれません。あるいは変化しているかもしれません。しかし貪りや怒りや、迷いとして生じた煩悩は、当然同じです。

 何千年も前に生じた貪りと、現代に生じた貪りは、同じ貪で、それは、何千年も前と同じ、解決するものを求めます。貪り、怒り、愚かさ、苦、何でも、あるいは生、老、病、死も同じで、何千年も昔も今も、同じです。

 たとえ今は車に乗り、飛行機に乗り、冷房があり、何があっても、それらは枝葉で、貪瞋痴を作り出す人間の心は昔のままで、苦も昔のままです。体の苦、心の苦、憂いは変わりません。

 考えてみてください。泣くことは一度も変わったことはありません。何千年前の人の泣くこと、あるいは泣く声も同じです。中国人も西洋人も何人でも、誰が泣いているのか、ほとんど聞き分けられません。本当の自然は、このように同じです。だから苦を解決するタンマも元のまま、同じものです。現代人が、生活面でどんなに変化していても、です。

 この空の話は、煩悩を攻撃して混乱した心を自由にし、何でも正しくできるようにし、そして身勝手でなくします。空の心の話は、身勝手をなくすことをほとんど目的としています。自分があれば空ではなく、自分があるのは空ではありません。これは分かりやすいです。

 自分があれば、空になれません。自分があれば空でないので、自分がない時が空です。自分があれば身勝手で、どんなに自分を愛していても、身勝手があります。うっかりすれば身勝手になり、他人を出し抜こうとします。

 自分をなくして空になれば、自分より上にいます。こうなれば自分があることを管理し、自分より下の人を支援するようになります。ブッダは世界の誰よりも働きました。人間はブッダの時代の人と変わりがないと考えれば、簡単に理解できます。ブッダについて勉強すれば、ブッダは誰よりも多くの仕事をし、社会全体の利益になったことが分かります。

 ブッダは奉仕のように、つまり個人がなく、他人のためだけに生きました。そしてブッダは、現代の誰よりも、休みなく働きました。すべての阿羅漢も同じで、普通の人より利益になることをしました。普通の人は身勝手なので、自分のためにしますが、阿羅漢は他人のためにします。

 阿羅漢になったら休むよう、逃げるよう、あるいは寝ているよう誘うのではなく、反対に利益になるするべきことを何でもします。純粋に感じる以外には何も考えないで義務を行ない、仕事のための仕事をするだけです。

 混乱した心なら、自分のため、お金のため、名誉のために働き、空の心なら、仕事のために働きます。仕事のために仕事をすることを学べば、空の心を、以前より良く理解できます。混乱した心は、お金のため、自分のために働き、空の心は、仕事のために働きます。これが、仕事のために働くという普遍的な道徳の教えです。

 普遍的な道徳とはどんなことか、いろんな道徳の本を読むと、duty for duty’s sake という、タンマである、こういう目的があります。仕事の利益のために働くだけ。それが空の心で働くことです。

 世界中の道徳家は、どの国、どの民族、どの宗教も、duty for duty’s sake は人間の道徳の Summum Bonum と結論しています。更に彼らは四種類に分けています。

 perfection − 人間性の完成

 happiness  − 本当の幸福

 duty for duty’s sake − 仕事のための仕事。義務のために義務を遂行する。

 Universal love − 自分のない愛。Universal である愛。

 この四種類は、道徳の Summum Bonum です。これは、世界中の道徳家の一致している普遍的な道徳の原則です。

 duty for duty’s sake について学ぶべきです。そうすれば空の心を良く理解できます。でなければ働けません。心がぎゅうぎゅう詰めなら、義務のために義務をすることができず、いつでもお金のため、あるいは何かのために働きます。

 心が空なら何もできないということは、あり得ません。心がすべての物より上にあれば、心は精いっぱい他人を助けたいと望み、良い仕事をしたいと望むだけなので、いい加減にするのではなく、必ず十分責任をもってすることができます。

 私も、この話は理解が難しいと認めますが、理解できないことではありません。空の心は仕事を苦でなくし、楽しいものにすると理解させる目的があります。仕事のために働くことができれば、快適で、お金のために働くなら、使い物にならず、お金を貰っても楽しくはありません。お金になってもまだ十分ではなく、まだ苦しいです。お金のために働けば、こうなります。

 仕事のために働けば、仕事を始めた時、すでに楽しいです。働きたくて働けば、仕事のために働くことで、仕事を始めればすぐに楽しくなり、運動するためにスポーツをするように、運動を始めた途端に楽しくなります。しかし、勝つために運動をすれば、勝たないうちは愉快になれず、もし負ければ大変です。こんなに違います。


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