仏教で言うタートゥとは

 

 次に「タートゥ(元素。大種)」という言葉についてお話します。この言葉は、耳慣れているのは、このタートゥ、あのタートゥと良く使われますが、みんなが使うように使っているだけ、あるいは人が話しているだけで、それより深いことは知りません。今仏教のタンマの話をしたいと思い、詳しくお話したいので、タートゥという一語でも、少したくさん話さなければなりません。

 しっかり聞いて、タートゥという言葉を理解してください。普通の人にとって難しすぎる説明があれば、同情します。すべてを詳しく知りたい人もいるので、詳細に知ることができる知性がある人には、難しすぎないからです。ですから、一度で話を終わらせるために、もう一度話さなくても良いように、タートゥという言葉について詳しくお話する機会を頂きたいと思います。

 「タートゥ」は、パーリ語では「タートゥ」、タイ語ではタートゥで、サンスクリット語もパーリ語も同じです。ですから、先ずパーリ語とサンスクリット語の意味についてお話したいと思います。

 ター トゥ、あるいはタートゥとは、ターラタートゥから来ていて、ターラタートゥとは、「維持している」、「安定している」、「消えない」、「規定しておく」という意味があります。この三つの意味は関連があり、安定していれば消えず、消えないで安定していれば、何が何だか規定できます。この三つの意味がタートゥという言葉で、つまり消えないで安定しているもの、あれこれ規定できる状態のものです。

 ごく短く答えれば、タートゥとは「ある」という意味です。いずれにしても、幾つもの意味に分けることができます。それ自体が存在することもタートゥと言い、他のものを維持することもあり、そして他のものに維持されることもあります。パーリ語で、「ニッバーナン ニッチャン ターラティ」、変わらないものである涅槃は当然存在する、とあるように、タートゥという一語で、それ自体が存在する意味もあり、他のものを維持する意味もあり、そして他のものに維持される意味もあり、「涅槃は維持している」という意味です。涅槃は、自分で維持している一つのタートゥです。

しかし「ターレーティ サトゥ サーサナン」と言ったら、当然このような教祖の宗教として存在し、それは他のものを維持させ、誰かが何かを維持させ、弟子たちは、教祖の宗教を維持させています。つまり教祖の宗教を維持継承しています。存在とは、何かを維持するという意味です。

 次に何かが維持しているもの、たとえば山などは、「プータロー」、大地が維持していると言います。「プータラ」とは大地が維持しているという意味です。元の言葉は山を意味し、意図次第で、国王を意味することも、何を意味することもできますが、必ず何か維持するものが必要で、たとえば国王には維持する国民が必要です。あるいはこのように神様をプータラと呼ぶこともできます。

しかし、必ず維持する弟子か信者がいなければなりません。「プータラ」、「プータロー」の初めの言葉は、山という意味で、プーは大地という意味で、タラは維持する、プータラは大地が維持するもので、山を意味します。初めに彼らが意図したのは、他のものよりも山でした。

 タンマの、言葉の例を挙げてお話するのは、興味のない人にとっては大変だと思います。しかし、「タートゥという言葉は、維持するという言葉から来ている」という要旨を掴んでください。それ自体で存在するのでも、他のものを維持するのでも、他のものに維持されるのでも、どれもタートゥと呼びます。だからタートゥはたくさんあります。ありとあらゆるものをタートゥと呼びます。

 次に忘れてならないのは、「タートゥ」と「タンマ」という言葉は、根源は同じで、維持している、何かを維持する、何かに維持されるタートであろうと、同じタートゥだということです。

 私たちがプラタム(仏法)と呼ぶタンマも、「維持する」という意味のタートゥから来ています。タンマは存在するもの、あるいは実践する人が悪に落ちないように維持する、そんなようなものです。タートゥとタンマは、同じタートゥ、つまり維持するタートゥです。チュタートゥの部からきたターラはタンマに分類でき、プータートゥの部からきたタラタートゥは、タートゥに分類できます。これは文法的に厄介なので、話す必要はありません。

 タートゥもタンマも、「存在する」、「自身で存在する」、「他を存在させる」、「他のものによって存在させられる」という意味で、これがパーリ語です。パーリ語形でタートゥと呼ばれるものを見ると、こういう意味が掴めます。それは存在するものであり、あるいはそれ自体で存在するもの、他のものを存在させるものもあり、あるいは他のものによって存在させられるものもあります。このように三つの意味があります。

このタートゥという言葉を英語にすると、element、基礎である部分という意味になります。もっとはっきり定義すれば、「構成要素。何かを完璧なものにするためにある、正しく且つ必要な基礎である最後の部分」と言わなければなりません。英語の element の意味は、最後の構成要素という意味です。構成要素を分解して、それ以上分解できないという意味です。

 正しい基礎のレベルの、最後の構成要素。完璧な何かになるために必要な、そうなるために必要で正しいという意味です。これは、何かが完成するためには、正しい基礎の段階で、必要、且つ正しいタートゥ、あるいは element と呼ばれるものがななければならない、という意味です。短く定義すれば、Ultimate constituent of whole、すべてにとって必要不可欠な構成要素で、element 、あるいはタートゥという言葉に相当します。

 見れば、このように正しいこと、このように正しい意味があることが分かります。何かをどんどん分解していくと、最後の部分で、それぞれの部分が必要不可欠であり、それを構成するために正しくなければなりません。

 たとえば一人の人を分解すると、水・土・風・火・空気・魂の部分になります。だからその部分は、一つ一つの部分を、必要不可欠な、そして正しくなければならない基礎である深いレベルの、最後の構成要素と見なします。だから一人の人になることができます。パーリ語の元の原則はこのようで、元の意味のまま、他の言語に広まりました。英語では element という言葉を使います。何かが完璧になるために、必要且つ正しい基本です。

  ある研究者、たぶん深く調査をしたと思いますが、その人が言うには、タートゥという言葉は、ラテン語のcondictor という言葉と一致するそうです。Condictor という言葉は、パーリ語のタラ タートゥという言葉と一致し、「連結している」、そして「維持している」という意味です。分けることができないと、より意味が明瞭になっています。

必ず連結していなければなりません。繋がって、関連しているので、存在することができます。人は六つの元素でできているというのは、六つの元素は関連していなければならず、分かれてしまえば人は消滅するので、関連していなければなりません。そうすれば存在できます。つまりそれ自体で存在する、存在しているという意味です。

 これが、タートゥという言葉の、いろんな言語の語句の意味です。話せばキリがありませんが、どの国のどの言葉も、タートゥという言葉に相当する意味があると結論することができます。それは構成要素であり、すべてのものの最後の基礎です。

どの国にも、どの言語にも、どの教義にも、どの宗教にも、必ずこれがあり、言語面で話すと目眩がします。しかしその意味を捉えれば、それ自体で存在でき、そして関連し合うものがあれば、その群れ、あるいはその集合体が存在できると、意味がより明確になります。

 タートゥと呼ばれるものを、更に明確に見れば、物質語、あるいは形語の面から見なければなりません。物質語とは、化学や物理などの物質を意味します。 Element、あるいはタートゥという言葉は、物質を意味します。科学や化学の勉強をしたことがある人は、人々が本当のタートゥであるいろんなタートゥを意図しているものは、たとえば酸素や塩素など、そういった化学物質だと知っています。それは物質である一つのもので、そして混合物がないものを、一つの本当タートゥ、元素と言います。

現在は108 あると彼らは言います。化学的ないろんなタートゥを混ぜ合わせると、あの物質この物質、あの系統の薬剤、この系統の薬剤になります。これは物質で、仏教ではこれについて言及しません。仏教はこのように物質について話すと理解しないでください。これは庶民が発見し、改革し、いろんなことをした庶民の話、物資の話です。しかしタートゥと呼んでいます。

 物理の面から話せば、光もタートゥの一つ、声もタートゥの一つ、熱もタートゥの一つです。それにはルーパタートゥが光で、サッタタートゥが声で、テーチョータートゥなどが熱で、物質はすべてタートゥです。そして物質を意味することも、物質の作用を意味することもあり、生じる反応を意味することもあると明示しているので、すべてがタートゥで、すべて状態のタートゥです。

少なくともそれは、見ることができ、目・耳・鼻・舌・体で触れることができるので、仏教では話して教えたがりません。話すなら、すべてのタートゥは無常であり、苦であり、無我であるという立場からです。

 仏教では、物質ではなく、無形語である、心の言葉であるタートゥについて話し、形のタートゥも、無形、つまり物質の性質を意味します。

 土の元素は、固体の状態で、固体とは、その場所に他の物はくい込ませないで、いつでも場所を塞いでいます。固体は場所を取ります。場所を取るという重要な意味があります。それが固体で、固体を土のタートゥと言います。

しかし土そのものを意味するのではなく、土などの固体であり、場所をとるものの性質を意味します。固くて容積のあるものが土のタートゥであると言わなければならず、土そのものではありません。初めに、仏教では土を土の元素(タートゥ)と言わず、土の元素の性質を土と言うと、このように理解します。

 次に水のタートゥですが、水を意図しないで、水の性質を意図します。つまり柔軟ですがまとまっているので、流れます。まとまって引っ張り合うので流れ、拘束し合っています。まとまっていて、抵抗しきれない理由がない限り、離れようとしません。こういう状態を水のタートゥと言いますが、水そのものという意味ではなく、水の性質を水の元素、水のタートゥと言います。

 火の元素も同じで、熱くて燃える性質、他のものを燃やす性質を意味します。これが火の元素ですが、炎である火そのものを意味するのではありません。

 風の元素は、蒸発し、移動し、浮かぶ性質を意味し、それが風の元素(タートゥ)です。しかし風そのものを意味するのではなく、そのような性質を意味します。

 このように性質について話す方が、より正しく、より高いと言います。つまり物質そのものを意図せずに、物質の性質を意図します。たとえば一塊の土、固体であり容積のある部分は、土の元素の性質で、どんな種類であろうと土の中には、水と湿り気が含まれています。そしてどんな種類の土にも、火の元素があり、どんなレベルであろうと、温度があります。そしてどんな種類であろうと、土には、常に蒸発しているガスがあります。

 例を挙げれば、一塊の土を手に取って、これは土の元素だと言うのは正しくありません。土の塊には、水の元素も、火の元素も、風の元素も含まれているからです。しかし土の元素と言えば、固体である場所を取る性質、あるいは力、あるいは何でも、容積のある固体、それが土の元素です。

 だから水の中にも容積のある微細な固体があるので、水の中にも土の元素があり、ある程度の温度があるので、水の中にも火の元素があり、水の中にもいつでも蒸発している性質があるので、水の中に風の元素もあります。

 仏教で言う元素(タートゥ)は、物質である元素を意味しないと、理解し直してください。形の元素、形のある元素と言っても、その物質を意図せず、その物質の性質を意図しています。あるものは、ほとんどは四元素すべてが揃っています。石は、こういうのはほとんどが土の元素で、簡単に見られます。しかしそれにも、水の元素、火の元素、風の元素も入っています。だから私たちは、それの性質を明示し、その元素と呼ばなければなりません。

 次にナックタム(比丘のための学校)で教えていることは、使い方が間違っていると言いたいと思います。たとえばパタヴィータートゥ、土の元素は、固い状態で、体の中にあるのは、髪、体毛、爪、歯、体などが土の元素だと言います。髪、体毛、爪、歯、体などが土の元素だと言うのは、こういうのは論理的でなく、非論理的、つまり理論に合っていません。

なぜなら一本の髪の毛の中には、土の元素もあり、水も、油も、温度、つまり火も、幾らかはあり、ガスとして蒸発し、常に消滅している部分もあるからです。だから一本の髪の毛には、土の元素と水の元素と火の元素と風の元素、全部があります。体毛も同じで、爪も歯も体も同じです。土の元素とは、髪の毛や体毛や爪、歯、体だと言うのは、正しくありません。

 体の中の土の元素は、髪の毛、体毛、爪、歯、体で簡単に観察して見ることができる、と言えば、反論する余地はありません。土の元素は固体で、体の中では、髪の毛、体毛、爪、歯、体で観察できます。固い状態なので、見本として簡単に見えます。しかし、「とは、つまり」という言葉を使うべきではありません。私たちは髪の毛、体毛、爪、歯、体しか観察したことがないので、固くて簡単なので、この部分しか見ません。

 水の元素は液体で、流れ、私たちの体では、血、膿、涎唾、鼻汁、涙で簡単に見ることができます、とこう言うことができます。しかし水の元素と言えば、つまり血、膿、鼻汁、涙です、と言うのは間違いです。血、膿、唾液、鼻汁、涙の中には、土の元素も火の元素も、風の元素もあるからです。だから「体の中で見やすいのは」という言葉を使って、髪の毛、体毛、爪、歯、体、それは血、漿液、膿、涎唾、鼻汁、涙と言い直さなければなりません。それはただ見やすい部分だけです。

 これが仏教の形の元素で、物質元素ではありません。物質元素は庶民の言葉、科学者の言葉です。そして庶民である現在、彼らは物質元素と言い、ほとんどは水素、酸素、鉄、金、硫黄、炭素です。

 化学者の言葉で、それぞれの元素は物質ですが、宗教では、タンマでは、形の元素と言って、それらのものを意味するのではなく、それらにある、土、水、風、火の元素の中にある、あるいは現代の言葉で言ういろんな元素の中にある、性質、あるいは価値、あるいは何らかの力を意味します。ルーパタートゥ(形の元素)は、このような性質があり、それ自体で存在することができるので、タートゥ、元素と呼びます。こういう性質のある形の元素は、他のものを存在させることもできます。それを元素と言います。

 それに確かな実体があれば、それに何かできるものは何もないので、正反対のものと言い、無為の元素と言います。それ以外のものを有為の元素と呼ぶ時、反対のものを無為の元素、あるいは空の元素、あるいは涅槃、解脱と言います。意味はすべて無形的なものばかりです。

仏教で元素と呼ぶものは、固まり、あるいはその物質を意味せず、性質を意味し、そして「俺、俺のもの」と執着される性質をも意味します。これが重要な部分です。無形の元素以上です。

 どうか、このように詳しく、タートゥ(元素)という言葉について、いつでも勉強してください。

 

第一項 タートゥ(元素)という言葉の意味は何か。

 意味を要約すると、文字面でも、語句としても、話し言葉の意味としても、それ自身で存在できるもの、そして他のものを存在させることもでき、あるいは他のものによって存在するものを意味します。これがタートゥという言葉の意味で、物質の状態のこともあり、物資の性質であることもあり、無形であることもあります。

頂点に涅槃、つまり本当の無為があり、騙さず、何の助けも借りず、それ自身で存在します。これが、タートゥとは何かという説明です。そして、それがどうなって行くかを見ると、ほとんどは、つまりその状態は無常であり、苦であり、無我です。無為の元素も有為の元素も無我です。このタートゥとは何かを知るために勉強します。これが第一項です。

 

第二項 タートゥは何からできるか

 タートゥは何でできるのでしょうか。有為ならば、つまり変化させる縁がある元素なら、縁プラス無常の法則による進化で、それには原因と縁があり、それに進化も加わります。つまりその縁はそのままじっとしていないで変化し、その変化は足し算されて、無常の法則のような変化の法則になります。これが有為であるすべてのタートゥの根源で、それの原因があり、進化があり、そして無常などの進化の法則があります。

 それが合わさると、何らかの有為の元素になって現れます。しかし無為の元素は、原因も縁も必要ありません。これが本当のタートゥの意味です。つまりそれ自身で存在し、そして永遠で無限で、時間に関係ありません。しかし有為のタートゥは、縁に関わりがあり、時間に関わり、そして一時的で、永遠ではありません。

 タートゥとは何かと問う人がいれば、有為のタートゥならこれこれの縁によって、無為のタートゥならそれ自体で存在し、何からできたのでもないと答えることができます。タートゥという言葉の意味は、存在するという意味だと、最初から言っていることを忘れないでください。何の助けも借りずそれ自身で存在すること、つまり無為の部類と、他のものを存在させるもの、あるいは他のものによって存在するもの、つまり有為の部類です。

 

第三項 タートゥはどんな利益のためにあるのか

 論理の原則で、すべてのタートゥはどんな利益のためにあるのか、と言えば、人間が何としても勝利するためにあると答えることができます。人間に人間が得るべき最高のものを得させるため、人間がすべてのタートゥに勝つためです。人間がすべてのタートゥに敗北すれば、タートゥの奴隷であり、下僕であり、召使いであり、人間が得るべき最高のものを得ることができません。

 すべてのタートゥは、人間が何としても勝利するためにあると、あるいは勝てるようにするためにあると認めてください。有為のものも、愚かにもそれに溺れないでください。涅槃などの無為も、人間が何としても手に入れるべき最高に素晴らしいものと見なさなければなりません。だから私たちは、すべてのタートゥは、人間を勝利させるため、そして人間が得るべき最高に素晴らしい物を得るためにあると捉えます。

これは、人間が得るべき最も素晴らしいものであり、今私たちは勝利しているか、あるいは何を得ているか、考えてみなければなりません。まだみんな駄目なように見えますね。まだ何も手にしていない、と言えるでしょう。だからそれを勉強して、良く知って、それに勝たなければなりません。すべてのタートゥは、人間を勝利させるため、人間が得るべき最高に善いものを得て、人間に生まれた機会を無駄にしないためにあるからです。

 

第四項 どんな方法でこの四元素に勝つのか

 論理で言えば、この四項ではどんな方法で、と言ってしまいたいと思います。それには正しい見解で、と答えます。正しい見解は、正しい実践へ導くので、正しい見解があるだけで十分です。つまりタートゥとは何か、タートゥは何からできるか、どんな利益があるかが分かります。

正しい見解は、知り、見え、正しく理解し、そして何をするべきかが分かり、そして行動するだけです。だから正しい見解を使うことですべてのものに勝利し、得るべき最高に素晴らしいものを得ます。率直に言えば、執着してはいけない、「タートゥの奴隷になるほど執着してはだめだよ」です。

 このタートゥの奴隷という言葉は、良く聞いてください。奴隷であることとは、すべての下僕であることす。正しい見解は、あれこれ執着してすべてのタートゥの奴隷にならないように助けてくれます。たとえば愛欲の奴隷になれば、セックス狂になり、それを、執着し愛情というタートゥの奴隷に身を落としたと言います。

仙人やムニーにも、ルーパタートゥ(形の元素)の奴隷になって、形の元素から生じる幸福に溺れる人たちがいます。「戒を守って風を食い、日毎夜毎快楽」と言うのは、それも惑溺だからで、無形(アルーパ)のレベルも同じで、涅槃に到達しなければ、まだ駄目で、涅槃に行かなければならなりません。

 私たちは、タートゥとは何か、何から生まれたか、どんな利益があるのか、どんな方法で、を知る正しい見解がなければなりません。そうすれば、世界にタートゥがあることから、人間が得るべき最高のものを得ることができます。良く見れば、私たちの体もタートゥ、私たちの外部もタートゥ、そしてそれが触れ合えば動きが生じ、それも受蘊であるタートゥであり、避けることはできない、という要点を掴むことができます。

私たちの体は内部のタートゥであり、外部にあるいろんな物は、外部のタートゥで、それが関わって触れ合うと、変化が生じ、受蘊、想蘊、行蘊などの第三のタートゥが生まれ、無明なら支配されて苦になりますが、明が関われば、苦はありません。

 また、ヴィチャータートゥ(明元素)とタートゥヴィチャー、アヴィチャータートゥ(無明元素)とタートゥアヴィチャーの二つの部類があります。正しい見解と言えば、ヴィチャータートゥがあるという意味でなければならないので、無明は介入しません。正しい見解には無明は介入しません。今私たちに正しい見解があれば、知識が前進して、すべてのタートゥに勝利し、最後のタートゥ、つまり涅槃のタートゥに勝利し、涅槃のタートゥが現れるようにします。そして人間が得るべき最高のものを手にします。

 これが、タートゥに関して片づけなければならない、解決しなければならない問題です。つまり、確実に知っていただきたいのは、タートゥとは何か、タートゥは何から生じるか、タートゥは何のためにあるのか、そしてどうしたらそのタートゥが終わるのか、です。そうすれば、タートゥに関して然るべき知識があると言います。

これだけ知れば十分で、聖諦を知るのと同じ意味があります。四聖諦について私たちは、「とは何か、何が原因か、何のために、そしてどんな方法で」と知らなければならず、知って、知ったように実践すれば、苦に関する問題はなくなるということです。

 次に順を追って、「本当のタートゥとは何か」と題して、タートゥと呼ばれるものについて、更にはっきりと、確実にお話したいと思います。

 仏教の教えで話せば、物質だけを意味する庶民の話や、西洋人の話には言及しません。本当のタートゥとは何かと問えば、それぞれの物質に現れているそれぞれの性質、あるいは価値と答えなければならず、その物質自体ではありません。しかしその物質が表している何らかの性質、それがタートゥです。

 普通のタートゥ、たとえば酸素ならどんな価値がある、水素はどんな価値がある、炭素はどんな価値がある、あるいは金属類はどんな価値がある、と知らなければなりません。その価値がタートゥであり、物質という意味ではありません。タンマの方の価値は、庶民の価値とこのように違います。それは個々の物質にあるそれぞれの価値で、それには現象があり、あるいはその物質が表わす道具と考えてみてください。

 すべての性質は無形で、どこから現れたのか分かりません。たぶんその物質から現れた、つまりその物質に見られる現象です。

 たとえば、温度は一つの性質であり、無形で、それは薪や炭の火から現れ、あるいは燃えている薪や炭の現象です。薪や炭の火、あるいは炎も、直接火のタートゥではなく、直接火の元素は、何かを燃やす性質です。炎がでなくても、炭や薪を必要としなくても、熱くなって燃えるので、それは現象があると言わなければなりません。

 物質にはその物質の現象として現れる価値があります。たとえばこの物質と呼ぶものは、土のタートゥの固い性質があり、水のタートゥの液体の性質があり、火のタートゥの燃える性質があり、風のタートゥの蒸発する性質があります。これが形の(ルーパ)タートゥです。

 無形の(アルーパ)タートゥならば、現れる場所である心があり、火のタートゥのような形のタートゥには、薪や炭の性質があり、それが現れる炎があります。しかし感覚や考え、記憶、知性のような無形のタートゥには、現れる心があると言います。たとえば知性、考え、思い、記憶などの無形のタートゥは、形のタートゥと呼ぶものを出現させる薪の火、あるいは炭の火のようなものです。これらのすべては、原因や縁のあるタートゥの話です。

 涅槃のタートゥは原因と縁に依存しないので、別の現れ方をします。つまり心で知ることができる法界で、知ることができるのは現象、あるいは現れた反応だけで、本当の涅槃は、知る方法がなく、触れる方法がありません。しかしそれの反応が心にあります。

心が、束縛されていた物から解脱すると、それが心に触れて、心の感覚があり、苦がまったく無いと感じさせます。これを心に現れた涅槃タートゥと言います。しかしその心が涅槃ではありません。あるいはその感覚、その現象が涅槃のタートゥではありません。しかし涅槃タートゥから、あるいは心の現象から生じて心に現れます。

 タートゥという言葉の意味を、原因別に分類すれば、先ほどお坊さんたちが唱えたようになります。タートゥは三種類あって、1.形の元素。形として現れるタートゥ、2.無形の元素。無形として現れたタートゥ、3.滅元素。すべてのタートゥの滅亡として現れるタートゥの、この三種類だけです。

 初めの形のタートゥは、物質的な面も、その物質の性質の面も、私たちは非常に慣れています。これを具形のタートゥ、あるいは有為のタートゥと言います。あるいはもう一つの呼び方で、ルーパタム(形)でもいいです。先ほど、タートゥという言葉と、タンマという言葉は、語根は同じだと言いました。

つまりターラです。ルーパタートゥはルーパタムであり、ルーパタムと言えば、ルーパタートです。しかし今はタートゥという言葉で話しているので、ルーパタートゥと言います。初めのタートゥは、すべての形を生じさせるルーパ(形)タートゥです。

 二番目のタートゥは、すべての無形を生じさせる無形タートゥで、このタートゥを有為のタートゥと言います。

 三番目のタートゥは、滅のタートゥ、あるいは無為のタートゥで、形も無形も滅亡してしまうタートゥです。タートゥはこれだけで、これ以上はありません。一粒の埃から神や神様、そして涅槃まで、全部で三種類、つまり形、無形、そして滅です。

  次に、それがどう現れるのかという点を見ます。そのタートゥと呼ばれるものは、物質ではないので、タンマの方では、宗教の方では、物質の性質、そのタートゥと呼ばれるものの性質は、名で、それがどう現れるのでしょうか。

 有為であるタートゥの出現は、変化させる原因と縁があり、原因と縁がある時に現れることができます。そして変化する機会があります。もし縁だけで機会がなければ、変化する道はありません。必ず縁が必要で、そして変化させる機会も必要です。粘土があっても、それを鍋にすることはできないように、粘土を捏ねて鍋にする機会、あるいは能力が必要です。有為、つまり変化させる縁が必要なすべてのタートゥは、必ず縁と、変化させる機会の両方が必要です。

 たとえばカーマ(愛欲)タートゥ、つまり一つのタートゥが現れて、異性間の性の感覚を生じさせます。これをカーマタートゥと言い、かならず異性などのカーマタートゥの縁と、そして二つのものが触れ合う内処入、外処入と、そして無明の力が必要で、それを機会と言います。そして縁起の法則による変化があります。カーマタートゥはカーマタートゥという意味に作られ、愛欲を味わい、あるいは反応があり、その愛欲から何らかの結果(報い)もあります。

 カーマタートゥは愚かなので、たとえば異性のようなカーマタートゥの縁と、内処入を通じた接触の機会が必要です。そして縁起の順の変化が必要です。たとえば触れ合って識が生じ、触が生じ、受が生じ、欲が生じ、取などが生じるのを、完全形と言います。これがカーマタートゥです。

 形元素(ルーパタートゥ)、あるいは無形元素(アルーパタートゥ)も同じですが、愛欲元素、あるいは異性には関係ありません。形元素には、愛欲は必要ありません。といっても、形欲無形欲のどちらかが必要です。すべて形に満足するので、愛欲に関わらず、あるいは愛欲を嫌悪します。

たとえば形禅定と無形禅定には、かならず形欲、あるいは無形欲、つまり愚かさ、惑溺による愛や、反対のものへの嫌悪が必要です。私たちがハトに夢中になったり、闘魚に夢中になったり、クワズイモに夢中になったり、何かの物質に陶酔するのは、愛欲ではなくても、すべては何らかの種類の欲望があります。これが現れた形の元素の話で、かならず縁が必要です。

 あるいは、例を挙げれば、クワズイモで遊んだり、あるいはガラス器を磨いたりするにも、感情(対象物)である物質が必要で、そして触れて関わる機会が必要です。そして心の中で変化が生じ、愛情や惑溺が生じ、それで形の元素が姿を表します。

 たとえば非常に溺れてバカになる無形である名誉名声に形はありませんが、形がなくても縁が必要です。思い巡らして縁にし、そして、こういう無形誉を得たと感じる機会がある無形がなければなりません。それは縁起の法則になるので、欲望が生じ、取が生じます。これを無形元素が現れた、あるいは、毒を作ったと言います。

 述べたように、愛欲元素、あるいは形元素、無形元素のどれでも、かならず同じ状態で現れます。つまり縁と機会、そして規則に従った変化が必要です。この三語を、良く憶えておいてください。縁と機会と、規則通りの変化があれば、愛欲、形、無形と呼ばれるものが生じます。

 これは有為の側で、無為の側つまり涅槃や滅以外はこうなっています。無為のものはこうではありません。

 次に、無為の側はどのように現れるのでしょうか。涅槃には縁がないので、縁の威力の下にありません。それは無為元素として、必ず心の問題に傾く無為の側である心の話です。無為元素である涅槃の話ではありませんが、私たちは、すべての煩悩と漏をどう滅亡させるかを、ブッダが語った方法で、心を善く、正しく訓練することで、涅槃から利益を得ることができます。

 すべての煩悩と漏を取り出してしまえば、それが涅槃です。あるいは、少なくとも涅槃の味、つまりまったく苦がないことが心に現れます。体と心は有為元素なので、できるのはそれだけです。

 しかし、有為である元素の結果を得、利益があるようにすることができます。直接煩悩を滅すのではなく、元素であり、もう一つ裏に隠れているものがあるので、もう一度それの裏へ行きます。つまり煩悩元素がなくなった時に現れてきます。しかし話す時は、そう言えないので、「貪、瞋、痴がなくなることが無為元素です」と言わなければなりません。パーリ経典の中の説明はこうなっています。ブッダの言葉ではありませんが、こうになっています。私は他に話しようがないからです。

 本当は、貪・瞋・痴がなくなった時に現れる、無為である何らかの状態と言うべきです。しかし貪が尽き、瞋が尽き、痴が尽きることが無為だと言っていますが、それは、貪・瞋・痴がなくなったという意味、あるいは状態としなければなりません。それが無為元素です。有為も無為も、元素の出現はこのようです。

 すべてのものは元素と言うことができます。これが初めの項目で、はっきり見え、理解できなければなりません。有為も無為も、あるいは何でも、すべてのものは元素と他人が言うのを信じる必要はありません。しかしその元素は、機会に出合うまで価値や性質を現すことはできません。その元素が有為でも無為でも、機会に出合うまでは、まだ価値あるいは性質を現さないという意味です。それの縁を得た時、正しく変化し作り出す機会を得た時、その時本当の価値を発揮します。

土の元素、水の元素、火の元素、風の元素も同じです。ふさわしい機会があれば、その物質ではなく、その価値が現れます。涅槃の元素も同じで、体と言葉と心が、そろって正しく調整されなければなりません。そうすればそれが掻き分けて出て来て姿を見せます。

涅槃の元素が現れて幸福になると言うようなのは、涅槃ではなく、それは、心が涅槃元素、あるいは涅槃元素の価値に触れることから生じた反応でしかありません。結果、つまりその幸福は、受元素(ヴェータナータートゥ)と呼ぶ元素です。

涅槃に関した話は、「サウパーティセーサニパーナタートゥ=有余依涅槃元素」、最高の「アヌパーティセーサニパーンタートゥ=無余依涅槃元素」の二種類の涅槃元素について学んでください。アヌパーティセーサニパーンタートゥとは、「その比丘の貪り、怒り、愚かさがなくなれば、漏がなくなれば、するべき仕事がし終われば、その人の受のすべてが涼しくなる」ことです。

これがアヌパーティセーサニパーンタートゥの状態で、すべての受に、何らかの涼しさが現れます。つまり熱いものである受はありません。これを、有為のものも無為のものも、タートゥの出現と言います。


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