空の心

 

  なぜ今日この話を、このタイトルでするのかは、今この話をするのにふわさしいと見るからです。ほとんどの人がまだ誤解をしているからです。非常に誤解をしている人もいるし、少しの人もいるし、完全に誤解している人もいます。特に「空っぽの心」という言葉は、誤解する人数も、内容も、最高に誤解されている言葉です。

空の話と空っぽの心の話を、別の話だと理解している人もいます。空っぽの心の話は、パーリ語経典の中にない、ブッダの言葉の中にないと言う人までいます。なぜならパーリ語経典の、ブッダの言葉の空の話が、空っぽの心の話だということを知らないので、二つの話に分けています。これは、分けることができない深い繋がりがあります。本質的に分けることができないので、分ければ役に立たない話になります。つまり二つは同じ話です。だから今日はこれについてお話します。

空の話は仏教のすべてだと前にお話したことについて、どうぞ復習してください。これが一つです。そして空の話は、初めからある重点で、仏教に後から塗られた重点ではありません。これが一つです。

これから私が、どのように仏教に元々ある重点なのか、という観点から、この話に非常に利益があって興味深いものになるまで、空の話についてより明確明瞭にお話します。ですから今日は、空の状態についてだけお話します。つまり空っぽの話と空っぽの心の話を、心理学の面から、つまり特に学習の面からお話します。実践の仕方の話は、まだその時ではありません。

空の話とは何かと問うなら、私は、空の話とは空っぽの話、空っぽの心の話と答えます。取り上げて話したブッダの言葉の中にも、「スンヤタパティサンユッター スッタンター」、という名前があります。つまり空に関わるいろんな話は、空に関わるどの話も、ここでは短く空の話と言います。

言葉の綴りが違うので、空っぽにはある意味があり、空っぽの心にもある意味があります。しかし事実上は分けることができないものです。もし人の利益になるように使うなら、あるいは仏教の実践なら、空っぽの話と、空っぽの心の話の二つに分けることは、説明するのに便利で、そして聞く人を理解させるため、あるいは聞く人の理解のために便利です。

  初めに、空っぽ、空とは何かについてお話します。それから空っぽの心の話にします。空っぽ、空とは何かと問うなら、タンマの言葉で話すのか、あるいは庶民の言葉で話すのか、意味を限定しなければなりません。庶民は物質的な言葉で話すので、明らかに現れている自分があると感じます。庶民の言葉は物質しか意味しません。だから空とは何かと問うなら、庶民の言葉では、「何もないこと」です。

何もないことは、庶民の言葉でいう空っぽ、空です。しかしタンマの言葉で空と言うと、また別です。タンマの言葉は物質を意味せず、見えにくく、庶民には見えない抽象を意味しています。ですからタンマの言葉の空っぽとは、俺、俺のもの、という感覚がないことです。何でも今までと同じにあります。心もあり、心の考えや感覚もあり、何でも自然にあります。

ないのはただ一つ、俺、俺のものという感覚、あるいはパーリ語でウパーダナー(執着)と言うものだけです。ですから、タンマの話で、宗教の話で、つまり今話しているような話で空っぽ、空と言ったら、俺、俺のものという気持ちがないという意味です。

つぎにその種の空はどこのあるのか、どこで見つけられるのかと問うなら、物質的な空に譬えて、物質的な空はどこで見つけられるか、何もないことはどこで発見できるかと言うなら、いろんな物に発見できると答えなければなりません。

これは正しいのですが、聞いて良く意味が分かりません。いろんな物がある時、何もないことは現れません。いろんな物がない時は、空しか現れません。それを空と、あるいは何もないと仮定する以外には、見ることができません。そして、普通の人には、物質面の空でも、空を見るのは難しいです。

目を開けてどっちの方向を見ても、何かがあるのが見えるだけで、それは空ではありません。目を閉じてもまだ暗いものが見えるのに、空になることなどどうしてできるでしょう。空ではありません。だからたとえ物質面でも、空を見るには、まず熟慮しなければなりません。

たとえば、これらのものを全部出してしまったら、世界全体を取り出してしまったら何が残るかと考えれば、残るのは観念の中の空です。物質の問題の類の空でさえ、このように熟慮によらなければ、見ることができません。そうすれば本当に見えます。

中には何もない所を見て、空が見えると自慢する人がいます。こういうのは、ぞんざいな言い方です。なぜなら目は何かを見ているからです。そして心が空と言っている所には、空気やガスや、目に見えないいろんな物があるからです。物理面の科学を勉強すればするほどいろんな物が見えます。

空を見るには、これらを取り出してしまえば空になると、熟慮しなければなりません。そして取り出したことがあれば、それを考えます。たとえばこの石がここにあります。「石がないこと」はありません。この石を出してしまった時を、私たちは考えることができます。実際に石を取り出す必要はありません。この石がないと仮定することで、ここに石がない空があると、見ることができます。

たとえ物質的な空でも、かならず知性で熟慮した視点でないと見えないと理解してください。智慧の目の視点で見れば見えます。物質面でもこんなに大変なのですから、タンマの面、心の面、タンマの言葉の面ではなお、より一層知性で熟慮をしなければなりません。だから熟慮をする形で教えなければなりません。

私たちが知りたい空はどこにあるのか、どこで見つけられるかと問うなら、答は、俺という執着がない心に見つけることができる、です。俺という執着がない時、その時の心を見れば、私たちが求める空を発見します。

「執着のない心」という言葉は、ここでは広い意味があります。まったく執着がない心、あるいは永遠でもいいです、あるいはまだ執着が生じないので、執着がない心も意味します。私たちの普通の日常生活に、いつでも執着が生じている訳ではありません。執着は、何か問題が生じた時に生じます。

何も問題が生じていないとき、心に俺という執着がないので、その時「俺がない空」と呼ぶものが、その心にあるのが見えます。智慧があれば見えます。だから、俺という執着のない心に見ることができると、答えます。

俺という執着のない心を、何の心と呼ぶかと言えば、空っぽの心と呼ばなければなりません。その種の心を、この場合、つまり空の話であるタンマの場合は、空っぽの心、空の心と呼びます。

 空っぽの心は、何が空なのか、すべてなのかと問う人があれば、そうではないと答えます。もしそうなら、それは物質的な空です。物質的な空は、何もありません。タンマの面の空、あるいは空っぽは、俺という執着だけがないことです。

 もしそうなら、何が残っているでしょうか。何が無ではないのかといえば、残っているものです。残っているものとは、心本体、つまり心の考えや感覚です。ここでは、純潔な本物の知性のことです。本当に純潔な心だけが残っています。何が何であるかを知っている知性、何が何であるかを知る知性がいっぱい詰まっています。

 つぎに、知性がいっぱい詰まっているなら、なぜ空っぽの心と呼ぶのかと問うなら、話が通じないと答えるしかありません。話が通じないのは、タンマの面の空っぽとは、執着である俺だけがないことを意味すると、すでに言っているからです。何が満杯に詰まっていようと、俺という執着がなければ、空っぽの心、空の心と呼ぶと規定します。

だから空っぽの心には、俺と呼ぶもの以外は何でもあります。そしてその時心に詰まっているもので、最も大切なものは知性です。新しく訓練して塗り付けた知性でなくても、自然にもともとある知性も同じ知性、何が何であるかを教える知性です。つまり最も重要な、苦がないことを知ります。

 「俺という執着がない空」なら、何が詰まっていても「空の心」と呼ぶと捉えてください。もしこれが理解できなければ、これから話すことも理解できないので、空というのは本当でなく、知性がいっぱい詰まっているので、これは可笑しな冗談と理解してしまいましょう。これは、この話を理解することができない人の罪の問題です。タンマの面、タンマの言葉の面では、俺、俺のものがなければ、何がいっぱい詰まっていても、空っぽ、空と言います。

 つぎに彼らが、もしそうなら俺がいるという感覚は、この場合、それがあるかないかは重要な問題ではないか、と問うなら、これは非常に正しいです。あるかないかにしても、空か空でないかにしても、この問題の重要なものは、俺です。もし俺があればあり、俺がなければ在りません。俺があれば空ではなく、俺がなければ空です。タンマの言葉の限定範囲は、このようです。

 どうしてそうなのかと問う人がいれば、なぜなら俺と呼ぶものが問題の主役だからと、自信をもって答えることができます。他のものは問題の主役ではありません。問題は俺というものにあります。俺が主役、あるいは問題を起こす人、あるいは問題の人、あるいは、苦と呼ぶあらゆる問題のトラブルメーカーです。主犯である悪人は俺なので、この「俺」を、あるかないか、この場合、空か空でないかを話すときの基準にします。

 「俺」とは、心で強く感じている執着を意味します。俺、俺と叫ばなくても、「俺」と信じています。それは、俺があると感じる感覚なので、これが問題の主犯です。これが、問題を起こす人、トラブルメーカー、あらゆる複雑困難の主役です。心を鎮めることができないので、心を苦悶で満たし、休息がありません。

 目を閉じて、大混乱した、ひっくり返るような騒ぎの、非常に苦しい、心や体を休ませないこの状況を見てください。混乱と呼び、空でないと呼びます。俺のせいです。俺と呼ぶものがない時、空と呼ぶものが心にある時、その心は空っぽの心です。

 私はいま、この言葉の意味を知ってもらうために、心理学の面から話していると銘記してください。

 どうして空っぽの心と呼んで、普通の人を混乱させるのか、理解が難しいので、他の呼び方、「純潔な心」、あるいは「明るい心」という言葉を使う方が良いのではないか、と問う人があれば、これは、良く聞いてください、今私は心理的な面から、原則に従って正しく話しているので、「空っぽの心」と呼ぶ必要があるからと答えます。

このような場合に空っぽの心という言葉を使うのは、空っぽ、あるいは空でできているので、そう呼ばなければなりません。そうすれば正しく、意味として十分です。そうすれば正しい話であり、正しい言葉であり、あるいは他の言葉を使うよりも正しく、十分な意味の何かです。

 明るい心、あるいは純潔な心、あるいはその他、そのような心という言葉を使えば、空っぽ、あるいは空という話の要旨と一致しません。話の意味を満たしません。私は空、つまり空っぽというブッダが言った重要な言葉を捨てないので、空っぽの心は、かならず「チッタスンヤター」と、あるいは「スンヤチッタ」、つまり空っぽの心と呼ぶからです。

 非常に理解が難しい話と思わないでください。これを初めから本当に正しく理解できれば、「空っぽの心」を深く理解することに関しての難しさはありません。そして自分で、「空っぽの心」と呼ぶことは正しい、あるいは公正だと、あるいはこの言葉の十分な意味で呼ぶこと、つまり「空でできている心を空と呼ぶ」という言葉の何かだと分かります。明るい心と呼ぶのは、何らかの意味で狭すぎます。純潔な心と呼ぶのは、純潔という言葉の意味で、何らかの面で狭すぎます。

 

 いま、限界のない、基準のない広い意味で「空」「空っぽ」という言葉を使いたいと思います。みなさん考えてみてください。空ほど大きなものがあるでしょうか。ないと見えます。すべてのものは大きさがあり、大きさの限界があり、これだけ、あれだけと決めることができます。

限界のない大きさ、空だけは、誰も測ることができません。計算できません。アミダ(阿弥陀)、つまり誰も測ることができません。たとえばアミダーパ(無量光)−測ることができない光、アミダーユ−測ることができない年齢、それが空の状態です。

 測ることができない光のあるものは「空」です。年齢を測ることができないものは空です。彼らはいろんな仏像の名前にしていますが、それは彼らの自由です。しかし大きさでも何でも、測ることができない本当のものは、空です。だから何らかの角度から純潔だ、明るい、何だかんだとこのように呼ぶなら、まだそれは範囲が限定されます。もし限界を限定されたくなければ、あるいは計算できないことを望めば、「空」という言葉を使わなければなりません。

 どうぞみなさん、この空という言葉を使うのは、初めから正しいと、しっかりと心に刻んでください。いい加減に聞いて、そして理解し、あるいは正しく理解せず間違って捉えて、意味を推測しないでください。いまはそういう人が多いです。特に若い人は、空と聞くと、考えが自分で知っている方向に突っ走ります。つまり何もない、何も考えない、何も感じない。こういうのは、かならず、初めから大きな失敗をします。これを理解するのが、あるいは有効に活用するのが、非常に困難になります。

 もう一度念のため説明させていただきます。いい加減に聞いて勝手に理解しないでください。話を最後まで聞かずに、勝手に意味を推測しないでください。今はほとんどがそうです。

 初めからここまで観察していると、この事実が見えます。空、あるいは空っぽの心と言うと、聞く人の考えは、何もないこと、あるいは心が何も考えない、何も感じないで体を固くすることに突っ走ります。その人はそれしか知らずに、ブッダの深遠で偉大な空を測ります。

愚かなので理解できません。無理して理解すれば、誤解します。無理に使おうとすれば害があります。間違って理解して、空の心の功徳を得ようと、間違った原則で実践します。だから功徳を得る代わりに、危害を受けます。却って正反対のものを得ます。

 良く見れば、空と呼ぶものは、他の呼び方をすることはできない、かならず空と呼ばなければならない、ということが分かります。この種の空の心は、他の呼び方をすることはできません。空の心、空っぽの心と呼ばなくてはなりません。心にこの種の空があるとき、その心はこの種の空の心です。

つまり仏教の原則による空の心です。仏教の原則の空のある心だけが、有効に使うことができます。つまり、苦も害もなく働く道具として使います。あるいは空の心で生活すれば、働いている時も、休んでいる時も、それ自体が幸福です。

 どうぞ良く聞いて、働いている時も、働いていない時、つまり休んでいる時も、空の心は最高に利益があるという言葉を知ってください。

 働いている時は仕事を楽しく簡単にし、そして良い結果になり、働くことに幸福を感じます。他に身体的な幸福を求め回り、自分をだまし、自分を愚かにする必要はありません。

 働かない時、休息するときも、空の心、あるいは空のある心で休みます。それが本当の休息です。映画館で休息する、クラブやバーや、彼らが言うような場所で休息する愚かな人たちと違います。

それは休息ではなく、自分を騙す一種の狂気が詰めこまれています。それで休息と理解します。これが俗人、愚かさあるいは何かが厚い人です。ブッダの空という言葉を理解する機はありません。仕事にも休息にも幸福を生む、空の心という言葉を理解することができません。

 良く注意してください。語句の面、あるいはこれに関する理解や考えを遊び半分にしないでください。これは非常に重要です。空の話は最高に大切です。空は仏教の初めからある要点と、前々からお話してきました。在家にとっても非常に利益があります。この話があれば、本当の元々の仏教がまだあると信じます。価値はこれ程あります。

 直接的な利益としての価値は、たとえば「世界を空のものと見れば、つまりこのような空の心で見れば、死はない」、有名なモッガラーチャの偈にはこのようにあります。ブッダは、「いつでも世界を、空のものと見なさい。このように世界を見れば、死はない。死を超越する」と、噛んで含めるように説明しました。

 死は大問題であり、生き物が遭遇する最高の苦と見なします。すべては死に集約され、存在しなくなることを恐れます。これが問題を生じさせ、閻魔大王を作り上げ、始終生き物を脅しています。どんな智慧があれば、私たちはこの閻魔大王を乗り越えることができるでしょうか。

言い方を変えれば、閻魔から見えないようにできるでしょうか。ブッダの偈は、「私」を空っぽにしてしまえば、閻魔に私は見えねい、と言っています。これはつまり、空の知識で、いつでも空のある心にすることで、閻魔の上にいることができます。いつでも世界を空のものと見なさいというのは、こういう意味です。

 要するに空の話は、最高に低い小さなものから、最高に高度な大きなものにまで利益があります。そして出家は言うまでもなく、在家も使うことができます。そして出家については言うまでもありませんが、在家にも必要です。このように価値がありますが、私たちは十分関心がなく、いい加減な興味で、聞くにも片方の耳で聞くので、明らかに見極められません。

両方の耳で聞かないで片方の耳で聞くので、そこで停滞し、知ったかぶりでいい恰好をし、その後も、空とは何もないこと、何も欲しがらないこと、何も期待しない何でもないことと受け取ります。

 先ほど言ったような、「空とは何もないこと」と言うのは、人間の言葉、タンマの言葉と分類した時以外は、誤った言い方です。「人の言葉で、何も望まない、何も欲しくない、と言うのは、タンマの言葉では、いつでも何かしらの、何らかの結果を受け取っています」。何かを望むなら、空の心で望み、何かをするなら空の心でし、何かの結果を味わうには空の心で味わう、と、このようにあります。

 理解している人は、何もしない、何もない、何も望まない、何の結果も味わわないと誤解し、そして自分は気が変になります。何かを求めているのに、何も欲しがらない、何もないという類の実践をするので、すぐに気が変になります。これは間違った知識、間違った理解の危害です。こんなのがあります。

 どうぞ空の話を正しく理解してしまってください。そうすれば本物の宗教が身に付き、苦を生じさせるものを無くすお守りになります。首にお守りを下げたら、それは空の象徴、空の心であるブッダの、空で生きたブッダの象徴だと、なぜ知らないのでしょう。

 「私はほとんどの時間を、スンヤターヴィハン(空の精舎)で過ごしている」と、ブッダが言ったのを忘れないでください。私は、この言葉を言い、そして、ブッダが生活のほとんどの時間を過ごしていると言った、スンヤターヴィハンについてもう一度詳しくお話すると約束しました。

 その時間は、ブッダの空の時間であり、そして何でも生じさせ、最高の幸福で過ごすことであり、何でも最高で、そして空のお寺に住んでいながら、世界の利益、すべての生き物の利益のために、何でもできます。空の話は、仏教心理学の非常に深遠な話です。この問題は、実践する時まで、いつも聞いて理解しなければなりません。

 

続いて、いつ、心から今言ったような自分という感覚がなくなるのか、という問題があります。それは、私たちに関わるいろんな物を見る時、私たちに関わるものを空と見ること、あるいはブッダが言ったように、世界全体を空の物と見る方が良いと、自信をもって答えることができます。すべてのものが私たちに関わってきた時、あるいは世界全体を、自分がない空のものと見るべきです。

ここで「世界」という言葉について繰り返して言いたい、あるいは考えるよう復習したいと思います。世界という言葉は、目、耳、鼻、舌、体、心を通して関わってくるもの以外には何もありません。六つすべてに正しく触れることで、私たちに関わってくる何らかの分量があるものを、世界と呼びます。他には意味はありません。あるいは知る必要はありません。

すべての世界は、人間が感じられるだけ、目・耳・鼻・舌・体で知ることができるだけしかありません。だからすべての世界と呼ぶものは、目・耳・鼻・舌・体・心で感じることができる感情のことです。そしてそれが、一度に一つずつ、私たちに関わってきます。

今目から、今耳から、今舌から、今体から、今心から。感情は、いろんな方向から同時に入ることはできません。いろんな種類が同時に入ることはできません。世界は世界にありますが、目を通じたり、耳を通じたりして、時々、一度に一種類ずつ私たちに関わってきます。これが世界です。「私たちに関わるもの」と言うものが、世界です。

いついかなる時でも、幾らでも、私たちに関わってきます。私たちは、それは空のものであり実体はない、それ自身である意味はない、それはそのような自然で、私たちの心に触れてくるのはこうで、まだ心に触れてこないのはこうで、そして世界全体はそうで、空の世界と呼ぶものだと、という、空の知識でそれを見、それを迎えなければなりません。

空の世界とは、私たちに触れてくる外部の感情であり、すべては空のものと言うこともできます。しかしもっと賢く詳細で深遠なのが、もう一種類あります。それはブッダが、「世界は苦、苦は世界」と言っている意味です。だから世界とは苦で、苦は空のものですから、その世界も空のものです。苦を空のものと見ることができれば、それは最高に素晴らしいことであり、苦の問題を無くす最高に近道です。

ある人が、苦を空のものと見ることを、「キレーソフィカン柔道」、煩悩は柔道、哲学的柔道のある所、と言っていました。簡単な方法を一回、ほんの少し使うだけで、苦をすっかり消滅させるという意味です。つまり空の話、苦を空にするので、生じる苦がありません。このようにすれば苦はありません。愚かな人は苦を苦と見、賢い人は、苦を空と見ます。

何か問題がある時、苦を苦に、俺の苦にすれば、俺が出てきてその苦を受け入れるなら、非常に大きな問題になり、俺がない空の心なら、幾ら苦があっても、波が岸に打ち寄せるように、消えて空になります。だから、空は危険から守る鎧であり、お守りであり、人間が望む何かいろんな物である、非常に素晴らしいものです。

 心に空を呼んで来て、空の心にすれば、何でも知ることができ、生、老、病、死、いろいろ何でも知ることができます。虎が来ても恐れる必要はないと、話したことがありますが、虎と戦うのを恐れる必要はありません。走って逃げて木に登る時も、怖がる必要がなく、虎に噛まれて、食い尽されても、恐れる必要はありません。これを、空の心で虎と戦うと言います。

 あなたはどちらを選びますか。虎の姿を見ただけで怖がる方を選ぶって言うんですか。それはどうしようもないバカです。虎の形を見て、あるいは本当の虎を見て、あるいは虎と戦わなければならなくても、あるいは走って逃げて木に登らなくてはならなくても、あるいは虎に噛まれて食われても、怖がる必要があるようには見えません。これが空から得られる免疫で、つまり死さえ苦になることはなく、何でもすることができます。死より上にいるので、死は私たちを見つけることができません。

 私たちは、世界を消滅させ、世界全体を空にするために、心に空と呼ばれるものがなければなりません。この世界の形・声・臭・味・触・考えのどれも、世界のどの部分も危険ではなく、害がなく、問題にはなりません。霊験のあるお守り、つまり空の心があるので、もっと深く見れば、心にある空と一体であり、分けることができないので、空の心はどこにあっても非常に素晴らしく、死もなく、苦もなく、閻魔より上にあり、休息も楽しく、働くのも楽しく、勉強も楽しくなります。

 人間の義務であるしなければならないことを、何でも空の心ですれば、問題もなく苦もありません。失敗しても楽しく、上手くいっても楽しく、手に入れても楽しく、失っても楽しく、つまり苦はありません。生まれてきて、こうなるだけでも十分です。そしてブッダが教えた唯一の話なので、本当の仏教教団員がお寺に入って出家するには、まず初めに、「ヤターパッチャヤン パワッタマーナンを学ばなければならない」という習慣になりました。仏教の本質、つまり空の話を入門として学びます。

 もう一度繰り返させていただきます。夏休み中の出家でも、空の話を学ぶことから、この宗教に入らなければなりません。他の勉強は、時間を掛ける価値がありません。敢えてこう言います。仏教の本質である空の話を学べば、その後、勉強を続けるにも、仕事をするにも、将来職業に就くにも、あるいは成功や人生のあらゆることに遭遇しても、それを応用することができます。この「空」は、生活に苦がないようにするお守りで、苦は、全部消えてしまいます。これのお陰で、いつでも苦はありません。

 空は、人間が得るべき最も素晴らしいものです。生まれたからには、人間が得るべき最高に素晴らしいものを得るべきです。そうでなければ時間の無駄です。生まれて来て、忙しく慌ただしく騒がしくして、それで腐って棺桶に入るなら、気の毒な、憐れむべき話です。生まれて飛び回って跳ね回って、自身を苦しめるだけに見え、そして腐って棺桶に入ります。俺、俺のものという考えしかなく、幾らサルが耳を洗って被せてやっても、何も感じないで、腐って棺桶に入ります。

 空の話、あるいは空っぽの心を遊びにしないでください。それがどういうことか正しく理解し、心の本来の自然は空であるという所まで理解します。「心は純潔である」と言うのは、自然の空の心の一種、空の基本です。この純潔を維持できれば、同じように苦はありません。同じように俺、俺のものはありません。これを、自然は基本的に純潔な心を、快く与えてくれたと言います。

 神様はちゃんと、初めは「俺、俺のもの」のない空の心をくれました。アダムとイヴがリンゴを食べた時愚かになり、善悪が生じ、善悪への執着が生じ、善によって傲慢になり、未来永劫、現在の子孫にまでついてくる罪になりました。いまはもっと増えています。

 若い男女のみなさんは、ますます何らかの良いことや素晴らしさに陶酔して、勉強ができなくなる限界を超え、頭がおかしくなります。必要以上に勉強するからです。出世したい、偉くなりたいという気持ちは、これほどの結果をもたらし、現代は、心の純潔は消滅しています。

 タンマの言葉で言えば、聖書を理解している人のように、何千年、年万年も前の話をする必要はありません。生きているうちに、この人生で、現世で、心の基本は純潔で、「リンゴを食べる」というのは、母親の腹から生まれたばかりの、赤ん坊の初めの心は空という意味で、子供になると、良くなりたい偉くなりたいと考え始め、青少年になると、すっかりそうなります。

これはリンゴを食べて善悪に執着するので苦があります。これが純潔の消滅です。しかしいずれにしても、良く見てください。一日のうちに一時間だけでも、私たちには純潔な心があります。純潔でない心が、いつも休みなしではありません。心が、いつでも休みなくぎゅうぎゅう詰めだったら、とうに狂って、とうに死んでいます。ここに座っていないで、死んで棺に入っています。

 純潔は時々入れ替わり、そしてたくさんあります。しかしこのように一時的な純潔は、再び憂鬱になるので、この純潔を不変の純潔にする何らかの方法が必要ですが、それは空の話以外にありません。つまり仏教の本質である教えを心に埋め込んで、変わることのない純潔な心、つまりブッダのような、阿羅漢のような空の心に変えます。みなさんも、変わらない純潔な心になるまでは、良く分からないままいつでも時々そうなっています。実践しなければならない勤めはまだ沢山あるので、油断をしないでください。

 どうぞこれを良く理解すれば、心理学の面の学習として、実践をするのに便利です。現代人は罪が深く罪が厚く、知識を好み、知りすぎて苦労が多く、知れば知るほど苦が増えるのでこの話が理解できません。昔の人、ブッダの時代の人のようではありません。

彼らは、学問は少ししかなく、みなさんのように長い学位はありません。しかしそういう生き方は、空を理解させました。あるいは座っている場所で、座ってブッダと会話している所で、空の心になりました。

 今は罪で、私たちは知りすぎているので、非常に苦があります。善や出世に執着させ、山ほど、俺、俺のものにさせる木の実を食べたので、これを心から出して、初歩のレベル、入門のレベルでも、空の心にしてしまわなければなりません。俺である感覚がない空の心になった時が、すべてのものを空と見ることができる時です。

 どう実践すれば、心がすべてのものを空と見られるのかと聞かれれば、それは実践の話なので、どう実践すれば心がすべてのものを空と見られるか、つまりどう心を空にするかという点で話します。今日は空の状態と、空の心とは何か、その後の簡単な実践法を理解するために、それはどう関わりがあるのか、ということだけをお話します。

 今日の空の話は、空と、空の心、空っぽの心はどんな関係があるのかを、心理学の面からお話しています。そして仏教の核心部分、つまり空の話を有効利用するために、心理学の手法のいろんな説明法で、現代人を理解させます。

現代人は、昔の人、ブッダの時代の人より、何倍も、何十倍も、何百倍もいろんなことをしたがるので、ブッダの時代の人よりも広範囲な話で始めなければなりません。少なくとも心理学的な知識にして、雇われて人に教えることもできます。これは最低限で、最高なら滅苦ができます。

 人間に、人間が得るべき最も素晴らしいものを得させ、そして子供から青少年、大人や老人までに、基盤を整えさせるこの話を、遊び半分にしないでください。

 残念なことにタイの文化は変わってしまい、仏教の本質である空から遠のいてしまいました。私たちタイの昔の、元々の文化は、赤ん坊も空に関わらせる状態で、小さな頃から、気付かないうちに、いつでも執着しないように教え、許すように教え、身勝手にならないよう教えられていたので、大人になって空を理解するのが簡単でした。

今は自分のことばかり考えるよう教え、欲張るよう教え、何でも多く持つよう教えるので、学校へ入ると自分のことを考えるように教え、大学へ入ると、もっと大きな、もっと広範囲な身勝手になるよう教えるので、大学に付き物である火炎瓶を使います。これは空ではありません。つまりどんどん身勝手になります。

 どこの大学も身勝手になるよう、身勝手なものに溺れて我を忘れるように教えるので、どんどんロクでもなくなります。だから幾ら学校を増やし、先生を増やしても良くならず、増えた学校と先生の数だけ、ロクでもないものが増え続けます。学校は西洋の後を追って、自分という気持ちを生じさせる方向ばかり教えるからです。大学も同じです。世界中同じです。

 世界は「俺」に支配されているので、世界は空でなく、心も空ではないので、苦が世界に満ちています。そして私たちはこの問題に関心がありません。これを何と言ったら良いでしょう。自分の首を絞めると言うのも、神様が罰を与えたと言うのも正しいです。しかしブッダ式に言えば、「無明が世界中を支配しているので、世界は空でない」で、そしていつか火となって燃え上がり、世界全体が燃えて灰になるまで、世界の内部には、火がくすぶり続けます。

 この危険な出来事から守れるものは、所帯をもち、妻子と密着している在家でも、永遠に幸福の助けにするために、いろんな問題は空を頼りにしなければならない、「イェー テー スッタンター」すべてのスッタンタのどれでも、「タターカタパーシター」私が言った、「カンピラー」深遠な、「カンピラター」奥深い意味のある、「ローグッタラー」世界を超えた話、「スンヤタパティサンユッター、空にだけ関連がある、とブッダが言った、空の話しかありません。

 空の価値と利益が見えたら、この話にもっと興味を持ち、そしてしっかり聞く努力をするべきです。早飲み込みしないでください。勝手に理解しないでください。話が違ったものになります。この言葉を聞いて、いい格好をして勝手に世俗的な理解をすれば、間違った方向へ突っ走ります。大抵の人がそうです。みなさんはそうならないでください。

 

参考:昔話「猿が耳を洗う」

 昔大きな森の中の猿の群れに、全身の毛が白く美しいボス猿がいました。ある日猟師がそれを見つけ、褒美に欲しいと思って王様に話すと、王様はその猿を生け捕りにして連れて来るよう、家来に命じました。ボス猿を一目見た王様は、その美しさ、賢さ、気高さを愛してしまい、自由な身として宮廷に住んでくれるように頼みました。

 猿が廷内を自由に歩き回ると、聞こえてくる人間の話は、自分のこと、自分の金や、自分の家や自分の財産の話ばかりでした。日が経つごとに猿は疲れを感じ、食事も水も口にしなくなったので、飼育係が心配して王様に報告しました。

 王様がなぜ食事も水も摂らないのかと聞くと、ボス猿は、私に餌や水を摂らせたかったら、元の森に帰してくださいとお願いしました。

 森へ戻ると、部下の猿たちが喜んでボスを迎え、町や宮廷の様子や、人間が何を話しているのか聞きたいとせがみました。ボス猿は断りますが、部下たちがますますせがむので、仕方なく話して聞かせました。

「人間が話すことは、自分の物以外には何もない。あれは自分のもの。これも自分のもの。それしかない」。

 猿たちは、ボス猿の言葉をさえぎって耳をふさぎ、何かを手に入れるために他人を苦しめても、何でも自分のものにする人間には身勝手しかないと見て、汚い言葉を聞いた耳を洗うために、一斉に水に入って耳を洗いました。自分たちは小さな木も大きな木も、身勝手ではなく大切に守っているのに、身勝手しかない人間たちの汚い言葉を聞いたと感じたので、猿たちは耳を洗いました。


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