5.後ろと左右





1970年10月13日

 今日は前回の「前方」である「親」に引き続いて、後方である「子と妻」についてお話します。前と後ろは、前回対にして熟慮しました。人間は涅槃に行くために生まれたという一般原則を、常に捉えなければならない教えを、思い出してください。

 今どんな状態、どんな状況にある人間も「涅槃のため」という目標があります。つまり「何になりたい、どういたい」という望みの終りへ行きます。少なくとも精神的に「自分は何々だ」という感覚が無くなるので、話は終わります。

 次に「すべては成るようになる」という考えになります。人生を、恐ろしくも厭わしくも何でもないと見るという意味で、悲観的に見ません。と言っても、肉体的な味を溺れたいと見るほど楽観的にも見ません。私たちは人生を旅と見て、良く歩ければ嬉しく、良く歩けなければ悲しい。それだけです。

 次に自分を、周りにいろんな方角ある中心と見ます。在家は一人では行けないと言われるように、一緒に行かなければならないからです。在家は罪とか、何かの業と考えるべきではありません。ぞろぞろと連れだって旅すると捉えます。

 僧や出家には群れになって行かない目標があり、一人で行きます。あるいは一人の方が好都合です。しかし連れ立って行くのは不運とか、罰などと捉えるべきではありません。能力を表すと見るべきです。一人で生きたい人はそうする権利があります。そしてその方が幸運と言います。つまり多くの人、特に西洋人が理解しているように、この命は罪とか、悲観的な物と捉えるべきではないということです。

 仏教は、何でも悲観的に捉えるショーペンハウェルの哲学のようだと言う人がいます。私は支持しません。自然のもの、本当の自然には、楽観も悲観もなく、人間の対処の仕方次第です。私たちが楽観したり悲観したりすることに夢中になれば混乱します。それ自体の自然の成行きに任せることには敵いません。

 私たちは利益になる面が欲しいので、人生を旅にして利益にする方が良いです。いろんな物、あるいはいろんな状態、いろんな考えを、罪、徳、善、悪、善行、悪行とするのは、それを欲しがる人の気持ちが仮定する話です。欲しがらなければ善悪になりません。あるいは欲しい物が違えば、一人が良いと見ても、もう一人は悪いと見ます。

 だから自然一般で捉えてください。自然は良くも悪くもありません。つまり人間が自分の期待どおりに調整する機会を与えるという意味です。人が愚かなら一つの調整をし、人が賢ければまた違う調整をします。自然を正しく知ることは本当の学習であり、善です。

 だから私はくどくど言います。どうかみなさん、あれこれ仮定や仮説ばかり見ないで、いろんな物を深く見てください。もしそのようなら、精神的に閉じ込められていると言い、自由ではなく、愚かです。

 だからいろんな物を自由に見てください。そうすれば上にいることを選べます。つまりそれらの物による苦はありません。これが「なぜ私がいろんなこと、家庭内のことまで熟慮しなければならないか」と言う理由です。いろんなロマンティックな問題も、奥深い最高の真実の形で熟慮しなければなりません。

 後方である子と妻の問題、あるいは前方と反対の問題を熟慮するには、前回と同じようにします。前方と後方という言葉には、いろんな意味があり、タイ語でも微妙です。前と後ろでも同じです。前に、後には一つのものになります。

 しかし今言っている前方は、前の方にあるという意味で、先に見える、先に見る、先に見なければならない、先にしなければならないという意味です。前方は、何よりも先に顔を出すと憶えておかなければなりません。後方は、見え方は反対ですが、実践は同じくらい重要です。つまり後方、後側と呼ぶことにふさわしく行動します。

 低い段階、つまり低い考えで見ると、ほとんどの人は子妻を後方と見ることができないようです。子妻は前方に、正面にある重荷に見えます。煩悩で子妻に溺れていれば、尚そうです。これは注意しなければなりません。どんどん愚かになり、そして過ちになることもあります。

 惑溺の基盤より高くなると、誰でも、仕事をするため、能力の限りにいろんな物を作り出す気力として子妻がいると指摘したように、子妻は気力です。これは、最高の物をそれだけ知っている俗人、あるいはどんな理由であれ、そう理解しつつある人の段階です。いつも応援してくれる子妻がなければ、何も本気で何かをしないように見えます。

 この項目から分かることは、子妻は後方とされていても、前へ押す力であり、重りではないと明らかに見えます。もし重荷、あるいは重りなら、後へ引っ張って後退させます。子妻がいることで生じる気力があれば、子妻は押して前進させる力です。つまり前へ押します。タグボート、重い物、手足まといと捉えるより良いと見なすべきです。

 だから前へ押すと考え、前とはどこかと言えば、人間であることの最終地点、終点へ到達することです。食べるため、性のため、名誉のため、肉体に溺れている人たちの世界の話にしないでください。人間は誰でも、涅槃へ行かなければならないと見るよう提案します。人間は誰でも涅槃へ行くために生まれてきたと理解させれば、子や妻があっても重荷になりません。

 私が観察して明らかに見た、あるいは少なくともかすかに聞いたところによると、昔からのタイの文化では、何でも涅槃というものに関連づけていたと聞いています。家の中で涅槃について話し、涅槃に行ける性質になるために、いつでも何でも一所懸命にしなさいと教えました。

 だから子供も聞いていました。私も憶えています。私が幼かった頃、年寄りたちはいつも、「どうぞ涅槃へいける性質になりますよう」と言っていたので、それが口癖の文化になりました。つまり人間誰でも、涅槃を最終目的にしていたという意味です。

 子供もそれを耳にしていました。まだ涅槃とは何か理解できなくても、そのうち後に続きます。これは非常に重要です。難しい問題やいろんな苦を断ち切ることができるからです。

 みなさんご存知のように、今の家庭には、子に高い教育を受けさせるお金がない問題があります。だから親はいつでも心を痛め、悩み苦しんでいます。これは、決意が間違っているだけで罪業になります。誰もが涅槃へ行く昔の文化で捉えれば、子を外国へ留学させるお金を探す問題はありません。

 非常に苦しい問題が生じるのは、人間の最終目標を理解していないからです。両親がこの問題を正しく理解していれば、苦しいほどにはなりません。子に良い教育をするためにたくさんお金を探して、何かをたくさん集めることもできますが、苦しむ必要はありません。

 次に、父親は子に宗教面で、タンマの面で善くなってほしいと願い、母親が賛成しない、譲らないというように、意見が分れることがあります。これも複雑で難しく、苦になり、いつも頭が痛くなると言う問題です。

 父親は涅槃の方向で向上してほしいと考え、あるいは決意があります。こういうのはあまり問題ありません。どんな貧乏な人でもできるからです。何とか食べて行けるだけでもできるし、どんなにお金があってもできます。善いこと、世俗で出世することばかり考えれば、お金や、そういった物に関わらなければなりません。

 だから悪い考えを引き寄せ、賄賂や不正を引き寄せます。だから子と妻の問題は良く考えなければなりません。偶然夫と妻両者の、人生と呼ぶ物の考え方が一致していれば、これはとても順調になります。そして昔の人のように穏やかでいられます。そして正しい方、善い意味の善があります。

 バカみたいに、珍しさに興奮して掻き寄せないので、何でも満足できます。子の知性が、勉強して世界で有能な人になるには不十分でも、涅槃へ行くには十分です。生活も財産も、何でも十分です。何も重りや束縛や、焼き炙る物や突き刺す物になりません。このようです。だから前進するのにとても好都合です。罪や苦が生じる隙がないからです。

 だからみなさんは、子妻を苦しくなる形、つまりタグボートか何とかいう状態で見ないで、涅槃へ行く伴侶にします。妻は涅槃への旅の苦労を軽くしてくれます。半分ずつ分ければ負担は少しです。子は両親がこの世で到達できなかったとき、遺志を継いで旅を続けます。

 ブッダが涅槃へ到達して、すべての人間が最高の物を得られるよう道を公開されたように、理解できれば誰でも、涅槃へ向かって歩く生き方を志します。まだ到達できなくても、それなりに穏やかで、穏やかな部分があり、イライラする部分はありません。これも人間の最高最善の物です。

 だから所帯を持っても、この理想と食い違わないようにするべきです。ただ少し遅いだけで、在家にとって、それも善いこと、高い能力を見せることです。この面を見て、この面で実践すれば、妻子も重りでも、重荷でもありません。

 同意・称賛してくれる物であり、予備にもなります。大きな船である両親に終わりの日が来たら、その後は子が代わりに義務を引き継いでくれます。子はこうあるべきなら、両親から出た実、あるいは植物の実のようにしてはいけません。

 いずれにしても身体的な遺産を受け継ぎます。木の実が木から、つまり親から次々に落ちる時、それは身体的な遺産を受け継ぎます。今私は精神的な遺産を受け継ぐ話をしています。子がそうあるべきなのは、人間は植物より、動物より高い精神があるからです。

 子とは、ただ胎から、血から、体から生まれた物という意味ではありません。腹から生まれなくても子であることもあります。腹から生まれるのは体の話で、身体的な子、精神が生み出した子もいるべきです。あるいは精神面の子もいるべきです。つまり精神的な意味の話です。

 だから私たちには、雇い子など、別の形の子がいます。タイ語で雇い子とは、自分の望みどおりに動く人です。他にどんな子がいるでしょうか。色々あります。たとえば囃子、子分などから弟子まで、何かと「子」という言葉をつけます。どれも仕事の目標の、期待に応える人という意味です。出家にも子がいます。つまり弟子で、親のような義務があり、非常に広範囲です。

 出家に何百人もの弟子がいれば、子に対して行動するべき親のようにしなければなりません。弟子を持つことは、むしろ心の話です。なぜタイ語は「子」という言葉を使うのでしょうか。それは、関わる人を見る時、非常に良いイメージだからだと思います。雇い子などは、子と呼ぶほど絆が深いです。子のように愛せば問題はありません。今は雇い人を子のように愛さないので、危険な問題がたくさんあります。

 弟子は腹から生まれてなく、あるいは身体的に生まれていないので、精神的な子です。だから父である人は、父としての義務があります。たとえばブッダを「父なるブッダ」と呼び、精神の父です。

 北部には「養父」という言葉がありますが、また別の種類です。同じように精神的に関わる人に対して、愛と慈悲で接すれば、正しい「養父」です。やくざな養父は、他人の褌で相撲を取るように接すので、標準にするべきではありません。

 子だけについて言えば、愛情や慈しみ、情け、最終目標までの正しい導きなどを、受けらなければならない精神的な意味があります。そして精神面での子は、何もかも精神面です。人から精神バカと呼ばれるほどです。肉体的、身体的なことには重要な意味が少なく、ただの外皮であり、内臓の入れ物でしかないからです。そのような重要な意味があります。

 次に在家に後方があり、この方向を快適で喜ばしく善になるようにするには、このように見なければなりません。みんなが考えているような情けない見方をしてはいけません。貧しい百姓でも、昔のお爺さんお婆さんのようにいろんな物をこのような角度から見る機会、あるいは能力があると言えるかもしれません。

 彼らには苦はなく、子がいれば同じ道を行きました。父がするように子もしました。父が田を耕せば、子も田を耕し、精神的な苦になる問題はありませんでした。ずっと同じ道を行くからです。文字は読めなくても涅槃に行けると言われるほど、その道は開かれていました。

 昔のインドには、文字が読めないで阿羅漢に達し、涅槃に行った人はたくさんいます。現代人は勉強して際限ない学位を持っていますが、愚かしい問題が生じて苦になります。滅苦の話は求めず、魅力的な何かに突っ走りたがり、食べる話、性の話、名誉の話、そっち側だけを回るよう誘惑します。

 だから文字を知らない人も涅槃に行けるという話は、そういう人にとっては意味がありません。現代人は、熱狂して沸騰し、どっちの方向へ向かって全力疾走しているのか分からない状態が見えます。

 目を閉じて心のイメージを見ると、現代人は今走っていて、躓いて転ぶほど、つまり全力疾走しています。それでどっちの方向へ急いでいるのかは知りません。しかし苦である方向へ向かっていることは明らかになってきました。

 現代の世界を見てください。複雑困難になり、苦が増えています。全力疾走してどこへ行くのか知らないからです。つまり集中力や注意力がなく、冷静さも何もありません。勉強をたくさん知っていても、何かをたくさん知っていても、月の世界のことまで知っていても、涼しさ(穏やかさ)さに関しては、何も向上しません。文字を知らなかった時代の人に敵いません。

 だから、子を外国へ留学させるお金がないこと、あるいはその類の話は、あまり心配しないでください。初めから、人間は涅槃へ行くために生まれて来たと、子に正しく理解させてしまう努力をし、そしてそれに最善を尽くします。何をするにも、稼ぐにも、妻子を持つにも、名誉を得るにも、何をするにも、涅槃へ行く話と矛盾しないようにします。それらの世俗的な縁を得なければ、みなさんはきっとまだ涅槃へ行くことができます。

 だから心配は要りません。人間が得るべき最高の物が得られないと、心配する必要はありません。現代人は何かをたくさん手に入れようとしています。そうしても構いません。しかしそれは能力を見せること、あるいは能力を鍛える話と捉えてください。

 一千万お金が欲しかったら、凧の尾のように長い学位が欲しかったら、能力を見せるために、涅槃へ行くために内面を鍛えます。一千万のお金で手に入る物、あるいは凧の尾のように長い学位は、ゴミや埃の滓、あるいは水に浮いている塵芥で、何を手に入れたところで、どれもこれも水に浮いているゴミだからです。

 本物は、涅槃を得ることです。次にその人は迷わず、それらの道具で能力を鍛え、小さな子供の時から勉強ができ、試験に合格し、何を求めても手に入ります。たくさん手に入れたら、それらすべては水に浮いているゴミなので、俺、俺の物と執着するべきではないと悟ります。そう悟ることでたちまち涅槃に達すこともあります。これらは重りでなく、援けになる物です。しかし適度にするより難しいです。

 だから何でも、適度を越えて望みすぎないでください。知識も、名誉や名声でも何でも、眠れなくなるほど望まないでください。正しく行動していれば、向こうからやって来ます。正しい形でちょうど良いだけ来ます。ちょうど良ければ快適そのものです。適度という原則を良く憶えておいてください。仏教の基本です。何でも適度でなければなりません。

 滅苦へ向かう人は「ウッパキッチョー」、つまり適量の、適度な、ふさわしい仕事がなければなりません。中道と言い、多くもなく少なくもなく、ちょうど良い行動です。この多い少ないは、人々が使うような計器では測りません。

 非常に賢い人なら、何でもたくさんでき、以前に譬えたことがあるように、賢い人は百か所の精米を同時にできます。その分野に賢い人には、何も大変なことはなく、賢くない人は、半分の精米もできません。だから適量に、自分の知性や考える能力にふさわしいだけにしてください。

 それには差があります。ある人は半分しかできませんが、ある人は何か所も、十か所、百か所でもできます。これを適量と言います。知的能力、体力気力にちょうど良いことです。そうすれば快適に歩けます。いずれにしても、少ない方が快適で便利です。だから必要なだけにします。

 「マッタンユター チャ パットゥサム」、適量を適宜に食べると言うのは、仏教の教えです。適量、適宜に食べ物を求め、餓死する問題はありません。善人にする物がないという問題はありません。子妻と一緒にこのように理解し合えれば、家庭内にいずれかのレベルの涅槃があるので、家族には平安があります。そうでなければ、何らかの苦に耐えなければならない人で、生まれたのが非常に憐れな輪廻です。

 だから後方、子と妻について、段階的に異なる状態を、最も愚かなレベルから、少しずつ少しずつ賢くなって、最高に賢いレベルまで理解してください。そうすればこの問題はなくなります。彼らは「明るく輝く方角」と呼んでいます。パーリ語でそう言います。

 「この方角は私にとって光が現れる方向」。パーリ語にこういう言葉があります。彼らはその方角を正しく理解し、行動しているからです。「真っ暗な方角」は、それに対して正しい十分な理解がないという意味で真っ暗です。真っ暗な方角と明るい方角と言います。

 方向(ディッサ)という言葉は、言語的には明るいという意味ですが、それをわざわざ暗くしてしまいます。愚かだからです。両親の前方は、話したように明るいです。後方もこのように明るいです。


 次の方角は右で、先生です。監督者、指導者など、この方角に入る人はこの方向に含めなければなりません。現代社会では、雇用主もこの方向に入れるべきです。仕事面の指導者であり、生活の一部だからです。良い雇用主、良い監督者は、良い指導者という意味だからです。

 タイ語の先生(クルーバーチャン)という言葉は、元のパーリ語の意味から、大きく変化してしまいました。グルという言葉の元の意味は、精神的な指導者(spiritual guide )です。パーリ語サンスクリット語の辞書を調べてみると、spiritual な面の案内人で、アーチャンは社会で暮らすための行儀作法を教え、訓練する人という意味で、訓練する人という意味だけです。

 インドの古語であるウパジャーヤは、職業を教える先生です。どんな職業でも、現在あるようなどんな種類の職業でも、教える人をウパチャヤーヤと呼びました。乗馬や乗象や音楽などを教えるのも、その教科のウパチャヤーヤと呼びました。

 出家者の言葉として仏教で使い、つまり出家者(サマナ)の職業を教えることをサージヴァと呼びました。シッカー(学ぶ人)とサーチーバです。サージヴァはサマナの仕事、修行者の職業という意味です。

 ウパチャヤーヤは職業を教える人。ウパジャーヤとは、注目しなければならない人という意味です。近づいて、どんな風にしているか注目して見て、そして真似ます。あるいは、その人がこうしなさいと教えることに注目し、その通りにしなければいけません。

 タイ語になって、意味がすっかり変わってしまいました。ウパジャーヤ(普通の意味は和尚)は、祈祷して人を僧にする人という意味です。元の意味は一般的な意味で、出家して僧になること以外にも、どんな職業にも使えたと知りません。

 ウパジャーヤとクル-バーチャーンは元々意味が違うところに、それが変化してややこしくなったのはこういう理由かもしれません。そして最後に、グルは雇われて勉強を教えるだけになりました。こういうのは困ったもので、非常に愚かな社会です。

 グルは、元の意味のように精神的な指導者でなければなりません。アーチャンは同じように真似るよう教える人で、ウパチャヤーヤは、身体的な意味で暮らしていけるように職業科を教える人です。要するに生きていくために、進歩発展するために、人生の基礎を作る人です。

 知性の拠り所と呼ぶなら、初歩の段階で、クルーバーチャンとウパチャヤーヤは、初歩の拠り所です。生まれたばかりの体の段階から、高い精神に導くサマナ、バラモンの最高の段階までありますが、今私は右側、家庭に関わる先生について話しているので、この言葉は、この世界で生き始めたばかりの時に、光を与える指導者という意味で見ています。

 みなさんを指揮監督する人がいたら、その人の方が賢いので、その方面、その問題にみなさんを導く、その問題の指導者と捉えなければなりません。みなさんに雇用主がいたら、進んでその人に従ってください。それを世俗の指導者と言って、いろんな種類があり、そこに意味があります。これらは右側に分類されます。

 右側は、パーリ語では右を重要と見、左側より重要です。つまり左よりたくさん、あるいは深く配慮しなければなりません。だから敬意を表す時、プラタクシン(右遶。右肩を仏像に向け、時計回りに仏像を回ること)などは右肩を仏像に向けて右回りするように、右肩を尊敬する人の方へ向けます。

 立って目上の人の目の前を通る時は、右側を目上の人に向けなければなりません。仏像のそばに座る時は、自分の右肩をブッダの方にしなければ、尊敬するとは言えないという習慣が生まれました。だから下方の部下たちは、いつでも左側に座らなければなりません。

 こういうのを、右という言葉、あるいは右側が重要である風俗では正しいと言います。正しいという意味、美しいという意味です。だから右側であるいろいろな用事は、善い仕事になり、左側の用事は反対と見なします。右は差し上げる良い物、崇拝する物の代名詞だからです。

 タクシナターンなどは右を意味し、必ず右手で上げなければいけません。右手でしなければ良いことになりません。だから右方向はその意味で重要です。

 「人間は生まれて目を開けた時から指導者が必要」と言うなら、両親は初めての先生で、生涯にわたって先生です。学校の先生、大学の先生、お寺の先生などは、両親ができない部分、あるいはする機会がない部分の義務をするので、前方に次ぐ右側にします。だから先生たちを敬うことは重要なこと、吉祥であり、最も吉祥な物と見なします。そして老人や年寄りもそこに含めます。

 年寄りは先に生まれたのでいろんなことを知っていて、いろんなことを見ているので、誰でも先生の所にします。だから年寄りを敬わなければならない、というところまで範囲を広げます。年寄りを敬うことと、両親を敬うこと、先生を敬うことは同じです。

 しょっちゅう言っているように、年寄りを敬うことは、タイの昔の文化では非常に厳しく守られていました。年寄りに会ったら合掌をしなければなりません。バカみたいな人でも合掌しなければなりません。道ですれ違う時に年寄りを見たら、手を上げて合掌し、その人がバカでも、敬意を表さなければなりませんでした。

 その人の「馬鹿」を拝むのではなく、先に生まれたこと、世界を良く知っていることの象徴を敬います。国旗を象徴として拝むのと同じです。あれは安物の布切れを拝むのでなく、国という意味で拝みます。

 私が子供の時は、道ですれ違う年寄りは、バカでも合掌して拝みました。みんなその人がバカなのは知っていましたが、先生がそうしなさいと言うので、拝まない訳にはいきません。合掌しなければ叩かれますから。

 その年寄りがどのようか知る必要はなく、年寄りということにしました。それが私たちの心を礼儀正しくしとやかにし、傲慢で意地っ張りでなくなります。それはとても良い習性で、心に素晴らしい何かがあり、傲慢で意地っ張りになりません。

 「ラッタンユー」という言葉を思い出してください。長い時間を知る人という意味で、先に生まれた人のことです。相手の方が何でも先にできました。今は「俺はお前より先にご飯を食べた。俺はお前より先に母乳を飲んだ」等々の言葉があります。向こうの方が先に生まれたので、何かを良く知っているという意味です。

 少なくともご飯の味、乳の味をその子より知っています。だからその人の方が、みなさんより先に、たくさん知っています。ラッタンユーは、普通はたくさんのことを見ているので、当然役に立つことを言います。バカみたいな人は例外です。 

 次に自然を根拠にしたいと思います。この犬は他の犬より年を取っています。他の犬より年寄りなので、この犬の方が賢いです。もう一匹は生まれたばかりなので、いろんなことを何も知らないバカですが、誰も教える先生はいませんが、自然に教えられて、少しずつ賢くなります。これが長く生きることの結果、ラッタンユーです。

 生まれつき、あるいは業の結果である賢さや愚かさは、どうでも構いません。しかし年を取ることは、常に知ることが増えることです。継承し、真似するので、初めはできなったことも、そのうちにできるようになります。先に生まれたものを真似るからです。だから伝承します。

 犬にとって蛇を噛み殺す学習は簡単ではありません。初めの犬が上手にできれば、後の犬もできるようになるので、危険でなくなり、蛇を噛み殺せます。それが先に生まれた結果、世界を長く知っている結果です。

 だから年を取っている人は、たとえバカな人でも、何かしらの、何らかの面の先生と見なさなければなりません。その人が自分の経験を話せば、いつでも聞く人の利益になります。だから先に生まれた人、あるいは年寄りを軽蔑しないでください。

 三つのうちのいずれかで敬われる人です。つまり年の功、生まれの良さ、知識や能力に優れていることです。先に生まれたことでみなさんより優れている、つまり年の功か、血統がみなさんより優れているか、能力がみなさんより優れている、それが右側です。何かを自分より良く知っている人で、指導的立場にある人を、右側と言います。常に右側にいて、何かをするには右手でします。

 現代社会は右側が消えつつあります。世界中の先生は、給料をもらって勉強を教える人、子供の遊び相手にされてしまいました。今の子供たちが先生を右側と見るようしつけることができれば、世界全体は今の状態より善くなります。はっきり言えば、ヒッピーはこの世に生まれません。

 先生の言うことを聞かない、親の言うことを聞かない、年寄りの言うことを聞かない、孝行をしない、型破りの文化が在るなら、右側を捨て、右側を真っ暗闇にした世界の人間の罪です。

 ナヴァカワーダにある「先生に対してどう振舞うか」については、お話しません。時間の無駄だからです。自分で読んで、自分で考えてください。そして厳格に実践してください。結果は、私が今話しているようになります。それにみなさんは、仏像の前で読経する時に唱えています。ナヴァカワーダを唱えています。

 みなさんにとって、右側はなくてはならないものと捉えてください。そうすれば生涯輝いています。生まれてから死ぬまで、明るく輝いている右側がなければなりません。生涯正しい行いをして、楽しく暮らせます。右側は、初期の知性の拠り所を意味します。人生の良い基礎を作り、そして最終目標、つまり涅槃へ向かって発展していくための、正しく良いスタートです。

 先生は最終的な目標、つまり最後には涅槃へ行くための初期の精神的指導者です。これが先生の話です。涅槃と、このような関係があります。

 「いろは」を教えるのは、賢い知性を身につけるための基礎と捉えます。文字を知れば文字を知らないより賢くなるので、文字を教えます。そして他の賢さを訓練して増やし、それを涅槃へ行くために正しく使います。輪廻に溺れていてはいけません。

 輪廻に溺れていなければならないなら、苦の海の中に賢さを生じさせてください。そうすれば生涯苦の海に埋もれ続けることはありません。最初から賢くなって行く知性があるので、いつまでも愚かでないからです。相も変わらず愚かでなく、だんだん賢くなります。


 次は左側で、親戚と友達です。ここで言う左とは、右の反対という意味ではなく、右に次いで重要という意味です。別の意味で左と言えば右の反対という意味で、間違いという意味もあります。その意味は採用しません。私は「右と一対」という意味にします。

 右手は左手より器用です。左手は右手の補佐で、子分で、右と左の両方があれば、何でも良くできます。人は生まれた時右手と左手があり、右手と左手は役目が違うので、両手を合わせれば完璧です。だから正しく実践しなければなりません。

 右手の代わりに左手を使う人がいますが、その人は左手を右手と見なすと付け加えなければなりません。左手で文字を書く人は、文字を書く手を右手と思ってください。左利きの人は、左手を右手と見なしてください。左・右という言葉の意味を混乱しないでください。

 右側は南のこと、左側は北のことで、正反対です。これは話す言葉です。だから北は南より下に見られます。昔のタイ人は南のことを「寝る時の頭の方角」と言いました。ラームカムヘン王の碑文の中に「寝る時の頭の方向」とあるのは、南を意味します。それで人々は南に頭を向けて寝ます。呪術か何かでしょう。

 昔の人は南の方角を重視しました。寝るとき頭を南に向ければ吉祥です。寝るとき頭を西に向けて寝ると不吉、凶です。これは呪術です。科学的にはどうかは知りません。しかしタンマでは、宗教的には、先生は南に、寝る時の頭の方角にいると言います。だから南側に頭を向けて寝るのは正しいです。先生の方向を踏みつけてしまったと気分が悪くなることはありません。寝る時もきっと気分良くできます。

 左は右を支持する方角です。そういうことにしてください。どれくらい安定が増すかは感じ方次第ですが、左は右を補佐するためにある親戚と友達です。拠り所という点で見れば、身近な拠り所です。人は身近に親戚と友達がいるので、社会的な拠り所になります。たくさんの人と協力し合えば、困難なことも簡単に、重い物も軽くなります。

 「親戚」とは、「あの人は親戚だから、親戚に対する義務に責任を持たなければならない」と、常に心で受け入れている人という意味です。親戚という言葉は「知っている」という意味で、承知していなければならない、内心で数に入れていなければならない、という意味です。

 友達は愛している人です。友(ミッタ)とは愛という意味ですが、五欲の面ではありません。ミッタ、ミトラ、どちらも愛という意味で、純粋な愛です。お互いに助け合い、利益になる人なので、愛情で受け入れなければならない人です。

 親交という言葉を使いますが、親交とは定期的に関わるという意味で、社会的な安定した力になります。村や集落などが、親戚や友達のように愛し合えば、敵が力をつけても何もできません。楽に発展します。このように社会的な拠り所です。だから良い方法、みんなで愛し合うことで敵をやっつけてしまいます。

 間違えば、血を分けた兄弟も敵になり、あるいは仲違いします。このように重大です。後を追って這って来たと言われる血を分けた兄弟も、この方向を間違えば敵になることがあり、身近にいるので非常に危険な敵です。だから慈しみの心を広げるように教えれば、敵はいません。ブッダはそう教えました。

 私たちは自分の心を、誰も敵がないように染めなければなりません。自分を殺しに来た人も敵と捉えず、善を行うよう努め、悪に勝ちます。

 カカチューパマ経(鋸喩経)に手本になる話があります。私が時々話しているブッダの言葉はこれを根拠に友達と見なすことで、世界中の誰も敵でなくします。盗賊が現れてみなさんを縛りあげ、鋸で切る話で、カカチャとは鋸のことです。

 鋸で皮膚を切っても、盗賊たちを邪悪と考えません。もし邪悪と考えるなら教祖の人(弟子という意味)ではありません。鋸が肉を切っても、彼らは邪悪でなく、鋸が骨に達しても、邪悪でなく、鋸が骨髄まで達しても邪悪ではありません。こういうのが教祖の人で、敵がないと言います。パーリ・カカチューパマ経(鋸喩経)と言い、マッチマニカーヤ(中部)の中にあります。

 敵は無いと狙うための点で、誰も敵だと考えないので、死んでしまっても敵はいません。それに敵を友人にするいろんな方法があります。どうしたら善で悪に勝てるか、自分で考えてみてください。それは、いつでも慈愛の心を持ち続けることです。死ぬなら慈愛の心で死んでいくので、敵はいません。自分自身ではそう言えます。

 外部の人たちは「この人が殺したから、この人は敵に違いない」と言いますが、死んだ人は誰も敵と思いません。すべての動物に対して、善意があるからです。慈経を唱える時にも、かならずこのように考察します。敵になる人など誰もいません。

 初めに慈愛の心を起こし、それから慈愛の心でその人に接すことで、敵を友人にするコツも方便もあります。ね、犯人をブッダの人、教祖の人と見なして、敵を敵でなくします。

 キリスト教には「左の頬を叩かれたら、右の頬も出しなさい。泥棒が服を盗んだら、コートも持たせてやりなさい」とあり、ブッダは「鋸で切られても怒ってはいけない」と言っています。これは世界中のすべての敵を友人にするためです。幽霊も天人も、虎やライオンも、猛獣も畜生も、その人の心の中ではみんな友達です。だから殺害や銃撃などはあり得ません。

 慈愛を含んだ目で見るという意味で、水と乳のように融け合うというのは、パーリの慣用句で、敵のない友情の世界です。今は敵同士の世界で、ラジオでやかましく罵り合っています。誰が誰か知らず、どちらも悪人でになり、敵同士の世界、復讐の世界、恐怖の世界で、慈愛の心があれば、すべてが友達になるので、温かい世界です。

 友情を生じさせる友人に対する義務も、パーリのある経典に「どんな形であれ、自分より優れたもの物には敬意を表し、同等なら親しさを表し、劣れば慈愛と憐れみを表す」とあります。自分を基準にすれば「劣ると、同等と、優れている」があります。

 次に自分より劣る人にも自分自身があり、そして世界の意味の規定で、劣る人、同等の人、優れている人がいます。カンマがカンマの威力で、いろんな世界の動物に差異を生じさせるので「低い、同じ、高い」が生まれます。

 カンマであるその人の行為が、その人を自分より高い立場にしていれば、どんな理由であれ、年上でも、生まれが良くても、何が優れていても、能力的に優れていても、何であれ優れていると言い、同等なら同等と言い、自分より劣っていれば、劣っていると言います。見下したり軽蔑したりする余地はありません。他人を見下す心のある人は、ブッダの言葉どおりに行動しない畜生です。

 上の人は尊重し、同等の人には親しさを表し、下の人に慈愛と憐れみを与えれば、どこも見下し軽蔑しません。僧も、寺男もや沙彌、あるいは自分より劣る人を見下す機会はありません。だからパーリでブッダバーシタの形の、この仏教の教えを持してください。あるいはブッダ以前からの物だとしても、私は、ブッダはこの教えを推奨したと見なします。

 ほとんどの人は「自分より優れている人は尊重し」と言っても、敬意を表わさないでライバル視し、手や足を払い、相手の評価を落とそうとします。これでは友情は生まれません。同等でも下に突き落としたいと思い、妬んで嫉妬します。自分より劣る相手に対してはイジメっ子になり、何でもカンでも軽蔑侮辱します。

 だから「この世界には、軽蔑して虐げるべき人など誰もいない」と改めてください。優れていれば尊敬し、同等なら親しくし、劣っていれば慈悲で可愛がります。それしかありません。これですべての敵を友人にすることができます。時には、こちらが尊敬を表したら逆にいじめられたという、考えの狭い人の小さな問題はあります。これは、どちらもどうしようもありません。ロクでもないことだらけの時代、社会です。

 指導者、監督者のレベルの人もどうしようもないので、部下たちは苦労をします。尊敬すればするほど苦労します。そして尊敬するべきものが何一つないので、尊敬できないから大問題になります。

 こういう問題は、そう考えないでください。少なくてもその人は、運よくその任務を任された監督者なので、その点を尊重することにしましょう。しかし「その人の命令に従って悪事をしなければならない」という意味ではありません。

 尊重という言葉は、頭を下げたら何でも従わなければならない、あるいは一緒にしなければならないという意味ではありません。尊重するとは、筋の通った正しい方法で関心を寄せるという意味で、尊重支援と言います。「私は犬を尊重する」というのは、自分は人間として犬にどう接すべきか、という話に正しい関心を持つという意味で、それを尊重支援すると言います。

 どんな点でも自分より優れていたら尊重します。そうすることで、その人の性質を変えられるかもしれません。競い合えば、ロクデナシとロクデナシのいがみ合いになります。次は「同等なら親しみを表す」で、これは自堕落に暮らすためでなく、お互いに正しく振舞って、仲良くしなければなりません。もし劣るなら、慈悲をかけ、見下さず、相手の身になって考えます。

 話はこれだけです。社会に対する実践、世界中の、友達にならなければならない人は、左側です。右側より下でも右側より広くて、私たちの身の周りです。ブッダが教える教えで実践すれば、北、あるいは左側に光が見え、疑うまでもなく、良家の子息にとって明るさと平坦さが現れます。

 これが右側と左側です。このように行動しなければなりません。二つの方向は反対ではありません。




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