上と下

 

1970年10月12日

六方について熟慮するのも今日が最後になりました。つまり最後の「上と下」です。上はサマナ(出家者)とバラモン(在家の宗教的行事をする人)で、下は下僕です。上方、下方というのは仏教の言葉で、仏教に由来する文化です。一般の人は私たちのような見方はしません。これは、宗教面の方が方向というものを、より詳細に、より綿密に、そしてより重要視していることを表しています。

まずこの言葉について考えてみます。時には上と下と言ったり、高い低いと言ったりします。多少は意味が違いますが、同じものを指しています。物質面の言葉と精神面、タンマの方の言葉なら別です。簡単に言えば、仮定と真実あるいは事実です。これらはすべて善と悪の説明です。上方、高い方向は善と仮定し、下方、低い方向は悪と仮定します。こういうのもあります。しかしここではそういう基準ではありません。

真実を見れば、上または下という言葉は、あまり賢くはない感覚で仮定した言葉です。私たちが上方、あるいは高い方向と感じているものは、地球の引力の末端という真実を見なければなりません。下方は元、地球の引力の始点です。地球は丸いので、中心が真中にあり、引力が周りを包んでいるからです。

地球の引力に関わる上と下は、周りを引き寄せているので、何も意味はありません。この原則を知らないで自分の感覚だけなら、低い方は、どんどん落ちて行く方向と感じます。どんどん落ちると言えば正しくありません。引力から見れば、上へ落ちる、あるいは横へ落ちる、どこか周辺へ落ちるからです。しかしそれは科学です。あるいは人間には関係のない行き過ぎた真実です。これに関わる問題以外は、知らなくても構いません。

普通の人はこういう話を知る必要はありません。知らなくても暮らしていけます。高い低いという感覚が生じたら、正しく行動しなければなりません。これを知らない人に、地球は丸いから何でも地球の中心に向かって落ちて行くと言っても、信じません。

もしそうなら、頭を下にぶる下がる人たちがいて、その方へ引っ張られる人たちがいるだろうと、無用な反論をされます。こういう問題は切り捨ててしまいます。喧嘩する必要はありません。天国は上にあり、地獄は下にあるというような、私たちの感覚に合った上下の意味を捉えます。

科学的には、上も下もありません。下があるなら、地球の真ん中である中心でなければなりません。天国も地球から遠くなります。宇宙全体を基準にすれば、尚のことそうではありません。それは空虚で、上も下も、北も南も、落ちるも出るもありません。

それに、上下、北南、落ちるや出るなどは、引力のある地球の周辺だけにしかありません。基準や観察点になるものがあるから、表裏、北南、落ちるや出るなどが生まれます。だから物質的事実と、仏教、タンマが意図するものとは違います。この問題を、夢中になって言い争わないでください。

この二つの方向、つまり上方と下方は、どちらも実践しなければならない正しさ、善になります。上はサマナとバラモン、下は自分より立場が下の人、下僕です。正しく良く行動しなければならない方向になります。同じように拝まなければなりません。下の方向、下僕も拝まなければなりません。

話し言葉に関して論争にならないように、理解することの範囲を広げてお話します。仏教には特別な意味を定義した言葉があると捉えてください。どう特別でも、仏教の話です。まだ分かったばかりの科学は、世俗的なこと、物質的なこと、労働力のようなことで、別の問題です。自分が何をどう目指すのかを知れば、わざわざ論争して仲違いする必要はありません。つまり六方は仮定でも、いつでも拝まなければならないものです。

これから上方、サマナ、バラモンについてお話します。これは精神的の面で高い善がある人物を意味します。物質である身体面、財産面、あるいは氏素性を意味していないので、それは話す必要はありません。精神的な善を基準にすると、サマナ、バラモンが生まれます。

サマナとは、静か、静かな人という意味です。通常人は静かではありません。一般の人は静かではありません。つまり精神的にイライラして、ソワソワして、混乱しています。普通の人はそうです。まだ何が何だかを知らないからです。

サマナは何が何であるかを最高に知って、あるいはそれなりに知っているので、心に静かさが生じます。そして体も静かで、何もかも静かです。

サマナがこの世に生れるのは、この世は静かではないので、それが問題になって静かさを求めるからです。そして世界にある種の人間が生まれます。そういう人が増え始め、やがて最終的に最高度に達し、つまり智慧のある人、観察することを知っている人になります。あるいは、このように生きるのは苦だと観察し、少しずつよじ昇っていって、苦しくないものを見つけます。

原始時代の人間が野蛮なら、食べることと生殖することだけを求めたはずですが、彼らは十分静かでした。心に渇望がなかったので、自然の成り行きのままでした。だから愚かなようにも見えますが、苦のない種類の愚かさです。

人間の知性が発達すると、好きな物、嫌いなものがどんどん増え、人間は静かでなくなりました。智慧のある人がそれを見て、混乱を回避し、静かさを求めて静かな場所で静かに暮らしました。それがサマナになったと言います。

バラモンという言葉の文字を見れば、ブラフマー(大梵天)から来ていて、あるいはブラフマーに由来し、ブラフマーに関わりがあります。ブラフマーとは素晴らしい、何よりも秀逸なという意味です。バラモンの人たちは、彼らはブラフマーだったと信じていますが、それは彼らの勝手です。

私たちは、普通の人たちより善い人、精神面に関して普通の人より知識があり、賢い人と解釈します。しかし静かな人という意味はありません。つまりサマナのレベルには達しません。まだ家にいて妻子があり、精神面のいろんなことをアドバイスしています。

また別の面から見ると、バラモンはまだ使い物にならず、サマナにははるかに劣ります。しかし彼らは雲の上からブラフマーから来ました。逆に考えると、もし妻子がありながら静かでいることができれば、それは一人だけで脱出できるということで、サマナよりすごいです。いずれにしても、バラモンはサマナのように静かではないと、事実が証明しています。

しかし彼らには、家庭の中を、社会の中を、できるだけ静かにする義務があります。サマナは社会から離れているからです。バラモンは社会の中にいるので、この面ではサマナより価値があります。日本には妻帯しても良い僧がいるそうです。彼らはバラモンと同じように社会的な義務をしたいと望むからです。社会と関わらない、家族と関わらない僧はサマナです。だから同じように二種類あります。

最初には家庭内の僧から始まって、それが高くなって家から出た僧、つまりサマナになったと推測します。家族と関わっていれば、広く社会と関わることになり、社会で精神的なことの担当者になり、そういった儀式をします。涅槃へ向かう静けさではありません。むしろ儀式を執り行う係りになってしまいました。

キリスト教でお坊さんを意味する priest という言葉は、バラモンのように儀式を行う義務のある僧という意味です。Priest はバラモンと同じです。サマナに相当する僧もいます。キリスト教では hermit と言って、儀式には関わりません。

このようにサマナとバラモンは違い、どちらも上方におかれている、つまり精神的に優れているということが分かります。しかし儀式を行う人はすべて愚かとすることはできません。なぜなら人間は愚かだからです。人間のほとんどは無知で愚かです。八、九割の人は何も知りません。だからそれらの知らない人たちを信仰させるために儀式が必要です。

だからそれも必要です。切り捨てる必要はありません。しかしその儀式が、利益になるようにしてください。利益になるというのは、それが社会に穏やかな平安をもたらすことです。だから彼らの多くが宗教を信じて宗教儀式を行えば、誰かを踏みつけることはありません。だからバラモンもこの部分で役に立ちます。しかし暴走した一部が分派して、生贄を供えたり、人を殺して生贄にしたりするのは容認できません。それは野蛮になってしまいます。

バラモンの意味はそうではありません。人を供えて神様のご機嫌をとるのではなく、社会の近くにいる僧という意味です。だからそのために妻子を持たなければなりません。一方、社会から弾け出た僧はサマナで、独身です。たとえ社会と関わって教えを説いても、人々がバラモンと呼ぶことはなく、サマナと呼びます。

バラモンたちはむしろ在家です。あるいは在家の僧です。しかしいずれにしても高い心があり、まだ文字で書かれなかった時代の、印刷されない時代の教典など、高い知識があります。バラモンがいなければいろんな教典は生まれず、あるいは存在しませんでした。サマナの教えをもう一段階解説する人だからです。

サマナの教えは深遠すぎるので、バラモンがもう一段階解説しました。バラモン経典と呼びます。すべては深遠な話を一般人向けに、大衆が理解できるように、普通の人に合わせて解説した言葉です。

 言葉について喋りすぎました。しかし道理を知るためには利益になります。この二種類の人たちの重要性と利益を見れば、役立てるために、正しく行動しなければならない義務が生じます。だから見なければならないもの、あるいは顧みなければならないものが生まれ、それが一つの方向になり、上方になります。

上方は当然仰ぎ見なければなりません。私たちはこういう姿をしているので、上方を見るには仰がなければなりません。高所にいると思わなくても、身体的には仰ぎ見なければなりません。精神的には仰ぎ見る必要はなく、心は周囲全部を考えることができます。

サマナ、バラモンは精神面での拠り所とお話してきました。そして精神的な最高の拠り所はサマナです。精神面での最高レベルの利益を得たいと思う人は、サマナに関心を持たなければなりません。だから大昔から言われている言葉があります。「サマナを見ることは良いこと、素晴らしいこと」と仏教でも認めています。

彼らを、ただ見るだけでも素晴らしいとされています。これは目で見ることです。心で見れば、知性で見れば、最高に素晴らしいことです。私たちがブッダの体を見ると素晴らしいように、つまり心身が鎮まりきっている人を見ると、「何があるのだろう。なぜこのように好ましく美しいのだろう」と新たな考えが生まれます。それは初めの利益である素晴らしさです。その心がどんなかを知れば、つまり心でもう一度ブッダを見れば、更に素晴らしいです。心が走って追いかけるので、最高の利益が得られます。

だから世界にサマナがいることは、世界にとって非常に幸運です。なぜなら見るだけでも良いからです。初めて見れば奇妙に感じ、どうして静かに静まっているのか興味が湧き、関心を持つので、心を向けます。知らないうちに心を惹きつける力があり、そして抵抗しきれないで引っ張られて行きます。

今みなさんは、サマナ、あるいはバラモンに関してお互いに忠告し合います。つまり尊敬するように、サマナ、バラモンから利益が得られることは何でもするようにと。これが上方の拝み方です。このようです。詳しくはナワコワーダで見ることができます。要するに、この世にいるサマナ、バラモンから最大の利益を得るために、何でもしてください。身近にいるのはバラモンです。もう一種類は高くするために離れています。

もう一つ「バラモン」という言葉には、特別な意味があります。それはバラモン教に由来しています。彼らがブラフマーに由来していると言っているからです。彼らはすべての罪を落としたと言っています。聖水を浴びることで、すべての罪を落としました。今は彼らが水浴をする意味は採用しません。私は、すべての罪が無いという意味を採用します。

熟慮して本当にすべての罪を無くせば、阿羅漢レベルのサマナの原則の実践です。だから阿羅漢はバラモンと呼ばれます。仏教でバラモンと言うときは、阿羅漢という意味になります。阿羅漢だけが素晴らしい人で、阿羅漢だけが罪を無くした人、罪業の上に行った人です。

 多くの経、たとえばダルマパダ(法句経)には、バラモンという言葉が非常に何度も出てきます。ダルマパダのバラモンの章にあるのは、すべて阿羅漢を意味します。

バラモンは罪のない人、煩悩のない人であり、そして最高に素晴らしい人です。しかしそうとだけ捉える訳にはいきません。みなさんは現代社会の在家ですから、そうとだけ捉えることはできません。阿羅漢に達していなくても、人々は広くそう捉えてきました。

まだ家に住んで所帯を持っていますが、私たちより精神面、宗教面の知性があれば、尊敬しなければなりません。周囲の精神的、社会的指導者から得るべき、本当に為になることだけにします。

これには、ほとんどすべての先生が含まれますが、それにはまた別の意味があるので、宗教行事を行う人の代表と指導者が、六方で言うバラモンです。清信士の代表、宗教行事の指導者は、元の意味のバラモンに近い義務があります。

上方、つまりこの種類の人は、他の方向の人と同じように、非常に重要です。なぜならこの方向には、間接的に宗教、あるいは三宝も含まれるからです。サマナという言葉の意味の静かなこと、煩悩がないことが、間接的にこの方向に僧や宗教を引き入れます。

だから私たちには宗教があります。高いレベルの文化も、関心を持たなければならないこの方向に含まれます。宗教は人物に現れるので宗教と人物を分けるのは難しいので、一緒に上方にあります。尊敬尊重するもの、あるいは尊重尊敬する人物という意味です。心の面、精神的な面は全部この方向です。

それに頭上を指しません。感覚で感じるように上の方、空の上は指しません。精神は身辺にあるので、上も下も北も南もないからです。精神と呼ぶものは、どこにでもある元素の一つであり、そのような高さを見なければなりません。高さの方向はどこにでもありますが、高所を仰ぎ見るように、頭上にあるようにしました。

 

 もう一つの方向、つまり下方は下僕です。下僕、奴婢という言葉を使うのは、下僕のいた時代には正しい言葉使いです。しかし下僕という言葉を拡大解釈することができます。現代の状況下でも、下僕はいます。私たちには奴隷はいませんが、私たちの命令に従う義務のある、支配下の人はいます。

 良く見ないと問題が生じます。下僕も主人を仰いで良く見ません。主人も屈んで下僕を良く見ません。だから問題が起こります。だからブッダは、他の方向と同じように重要な方向の一つとしています。

使用人、あるいは支配下にある人に小言を言えば、忠実でなくなりますから、何か起こります。考えてみてください。だからこの方向、つまり支配下にある人から危険が生じないお守りを作って、この方向を守らなければなりません。

彼らが正直でなくなれば、誠実でなくなれば、非常に危険だからです。儒教の教えのある諺は、「信用しないならその人を使うな」、つまり雇用するなと言います。信用しないなら雇ってはいけません。もし雇用するなら、その人を完璧に信用しなければなりません。

雇うならその人を信用しなければいけません。半信半疑にならないでください。その人を疑うような、相手に不信を抱かせるようなことを、決して言ってはいけません。上の人、管理支配する人は、良く見て、何でも心に仕舞っておいて、いつも部下を信用している態度を見せていなければなりません。

叱りつけるに十分な域に達したら、その人を信用しないで、すぐに切り捨てます。つまりその人を雇いません。関わりません。すぐに解雇します。まだ一緒に働くなら、儒教の教えを信じている中国人の商店のように、その人を信用しなければなりません。これは非常に熟慮しなければならないことです。下僕とはこういう意味だからです。

仏教の教えでは、愛して可愛がって、純粋な心で繋ぎ止めるよう教えています。そうすれば使用人は誠実、忠実に従います。昔は奴隷と呼んだ類の人たちも、たくさんある物語の中に、裏切ったり反逆したりした話はあまりありません。

反対に現代の方が、使用人、あるいは支配下の人が反逆し、意味もなく裏切るケースが非常に多いです。機会があれば不正不実を働き、主人を裏切り、管理者や雇用主、恩義のある人の悪口を言います。公務員の世界でも、公務をする人は良く知っていて、部下である後輩たちが裏切り、不正不実を働き、上司から与えられた義務に忠実でないことで、時々部長や課長を猛烈に困らせます。

これが、ブッダが、防止しなければならない重要な方向だ、この方向を守らなければならない、と指摘したおおよその理由です。「拝む」と呼ばせます。ここでいう「拝む」は、最も重要で、最も関心を寄せなければならない問題になりました。それは尊重することです。

尊重が生じれば、愛情が生まれ、生まれたものは確実になり、強い誠意と忠誠で繋がれます。時にはずるいことをする気になれません。自分は不正を働きたくても、上司があまりに良くしてくれるのを考えるからです。だからこの方向を拝むよう教えることに損はなく、最高に利益になり、必要です。

自分の下にいる人は、労働力の面で頼りになる人であることは、すでにお話しました。仮に昔の国王、現代の総理大臣や大統領に、いろんな仕事をする優れた部下がいなければ、何ができるでしょうか。何もできません。これほど重要です

。智恵のある人、頭のいい人も、知性や考えを実行するために、下の、下方の労働力がなければなりません。そうすれば話になります。だから下の労働力は非常に重要です。優れた正しい労働力が十分なければなりません。

他の細かいことはだいたい分かっていると思います。私はどんな重要性があるかということだけをお話してきました。重要性が理解できれば、自然に関心を示し、必ず良い行動になります。

 次に、一つの言葉の意味をよく見ると、広い意味になることがあるので、よく見なければなりません。意味が同じなら形は違ってもこの中に含めます。これはブッダが上方下方について説く時に、落ち度があったからではありません。非常に意味するところが広いのです。

たとえば下方というのは、何でも下にいるもの、自分が面倒を見、世話をする牛や水牛や犬や猫を意味することもあります。牛や水牛は使用人、下僕と感じるので、状況に応じて正しい関心を持たければなりません。

中にはそれ以上で、牛や水牛を友達と考える人がいるなら、友達のように援助しなければなりません。それでも構いません。インドには牛を神様のように大切にする人がいます。サマナ、バラモンのように尊重する人もいます。バラモンという意味をどんどん広げることができます。私は意味を基準にします。形や体はあまり基準にはなりません。

今の人はあまり牛や水牛に関心がありません。これは六方に関して間違った行動をする人、間違って行動する在家で、その人は発展しません。牛や水牛との接し方が良くないからです。

別の意味もあります。あらゆるタイプの自分より下のレベルにいる人という意味も含めます。その人たちに良く接しなければなりません。貧乏で困窮している人、乞食たち全員が取り囲んで私たちを呪って罵ったら、運は消えます。彼らを見下したり軽蔑したりしてはいけません。貧乏人や乞食全員に取り囲まれて呪って罵しられたら、その人は生きて行けません。落ちぶれるだけ、運が悪くなるだけです。

人は他人が考えるように考えるので、大部分の人が「これは悪い」と言うと、村中、町中がそれに従って「これは悪い」というようになるからです。だから乞食でも、彼らに罵られないように注意します。一サターン硬貨があったら、それを投げ入れてやるだけでも良いです。乞食は誰でも祝福してくれます。これは、自分より下の人を思い遣ることほど重要ではありません。

だから、道端やいろんな場所にいる乞食を嫌い、唾を吐くことは、そういう人はバカだと言います。ブッダの教えを知りません。わざわざ赤い硬貨に両替して全員に配る人を、バカと言ったり、非難してはいけません。その人はいつも下方を見て、自分が慈悲の心を持つ人になる練習をしています。

しかし乞食に施しをしすぎれば、乞食を怠け者にする原因になるので、これも別の間違いです。しかし何万、何十万、何百万バーツも人助けをして、人を愚かにしてしまうのは非常に罪深いです。人を助けて愚かにしてしまうのは、見合う結果が出ません。

しかし下の方向と見て、適度でちょうど良い、温かい慈愛で助ければ、ブッダの教えで見て正しいと見なします。何万、何十万、何百万というお金を使って人を助けて、反対にその人から騙される人がいますが、それはバカです。この方向に、この教えに合った正しい行動ではありません。

発展途上国の人への援助は、政治の問題なのでお話しません。今は下の方を良く見ること、個人についてだけ話しています。この方向からの危害がないように、発展や幸福、安楽、安全が生まれるようにしてください。

もし守衛のインド人に裏切られれば、それが破滅、滅亡の原因にもなり得ます。この方向を良く守れれば快適です。だからうっかりしないで、尊重しなければなりません。六方を拝むには、不注意に陥ることなく、どの方向も全部尊重してください。

しかし同じようにする必要はありません。両親を尊敬すること、妻子を大切にすること、先生を敬うこと、親戚や友達を尊重すること、サマナ、バラモンを尊敬すること、下僕を尊重すること、みんな違います。それは周囲を安全にすることであり、周囲を守るお守りであり、周辺から幸福が来る道です。

 だから六方を遊び半分にしないでください。これは、人が社会でどう生きるかという問題です。今風におしゃれに言えば、得意になっている大学生風に言えば、「私たちはどうしたら社会で幸福に暮らせるか」、という教えと言わなければなりません。一昔前の人風に言えば、「いろんな方向をどう拝むか」、「六方をどのように拝むか」と言います。実際には同じ話です。だから、宗教的、文化的な伝統習慣を教える人を軽蔑してはいけません。 

  北や南を拝み、月や太陽を拝み始めたのは、どれも善いことの始まりです。つまり自分よりも威力のあるもの、あるいは一般に威力のあるものに興味を持ち始め、そして拝み始めました。見えるものよりも先に、初めは精霊、幽霊、悪霊を拝み、サーンプラプーム(家の前庭にある、精霊たち用の小さな家)を拝みました。これは恐怖の問題で、恐怖から逃れる方法を探しました。

それは正しくも完璧でもないので、だんだん改善されました。六方では、幽霊たちを拝んだり、精霊や木の精の類を拝んだりはしません。それらは身の周りにいますが、私たちが拝まなければならない方向にはいません。最後には一番高い三宝の話、上方に含まれる最高に高度な宗教の話になるので、すべてが揃います。

 なぜ国に関心を持つように言わないのか、国に言及する方向はどこにもないのかと問うなら、ないのは言葉だけと思ってください。正しく方向を拝めば、国に対しても正しく振舞う人になります。私たちは六方を正しく拝む国民の一人で、それが国に対しても正しく振舞うことです。このように話せば国を重要視しています。

ブッダの時代のタンマの話では、つまり仏教の話では国については言及していません。彼らはそれを、何かの意味に含まれる小さな分枝と見なしています。あるいは全部の意味をまとめることもできます。意味をまとめれば、六方に正しく行動すれば、私たちは国の良い国民であり、両親の良い子供になり、先生の良い弟子になり、何でも良いものになります。この方向を拝むことを正しく善く実践できなければなりません。

だから一度生まれたら、全員が必ずこうなってください。つまり両親の良い子であり、先生の良い弟子であり、親戚や友達の良い友であり、国の良い国民であり、教祖の良い弟子であり、家庭を持ったら良い夫、良い妻になれば、問題はありません。国はこれらのすべてに含まれます。なぜなら国は、これらすべてで構成されているからです。つまり私たちは、すべての方向に国と呼ばれるものも含んでいる方向を見、拝んでいます。

これが、これから在家になって家庭を持ち、早く正しく実践して、最終的には涅槃に行く教えです。でなければ、ここでうじゃうじゃ、うろうろ這い回っている、世俗でぐるぐる回転しているカメになってしまいます。

これらの話に賢さと智慧がある、早く行ける生き物になりなさいと教えています。たとえカメでも早く行けるカメで、ここで夢中になって旋回していないで、まっすぐ目的に向かいます。賢ければ家庭内の聖人なので、飛んでいける鳥になれます。

この段階の在家は、ブッダに四、五分拝謁するだけで阿羅漢になれます。在家として正しく暮らせば、このような結果になります。在家であることに飽き飽きするまで、倦怠が生じて情欲が緩むまで、最高の実践ができます。ここまで来れば在家の服を着ていても、阿羅漢になれます。その後は家を出て出家になります。翌日、あるいは七日後に死ぬと、恐がらなくてもいいです。

忘れないために、目を閉じて北側の壁画を見てください。牛の背に乗って縦笛を吹いている話があります。牛の背で笛を吹くことに熱中したらどうでしょう。牛にも掴まり、笛も掴むので仰向けになります。自分自身も次第に空になります。自分が無くなるので、物を配って回り、灯火を掲げる在家になることができます。これが方向として正しい旅です。

憶えておいてください。何度も繰り返しできるものは何もありません。どんどん高いものに変えなければなりません。ここできちっと方向に対処すれば、非常に満足できるように、必ず高いものに変わって行きます。この変化はとても利益があります。

変化しないものになれば、それは死で、そこで止まります。だから変化、つまり高くすることを知っていれば、変化はとても利益があります。方向を拝むこともだんだんに変化して行き、最後には正しく最高になります。

人生も同じです。肉体の話が飽和点に達したら、精神の話に変えます。肉体的に、身体的に、社会的に、物質的に正しく方向を拝むことの結果が出たら、正しい精神の話に変えます。人間とは、人間が得るべきもっとも崇高なものを得る人間であることです。これが身の回りの方向の正しい実践です。

私が観察して見ると、出家して修行者試験の三級に合格すると、試験問題に解答するだけで、還俗しないうちに六方を忘れてしまい、六方を諳んじることもできません。試験に通れば忘れてしまいます。ついでに忘れてしまいます。まだ一度も還俗していないのに、六方の名前さえ正しく言えません。還俗すれば元の黙阿弥です。

だから修行者試験三級でさえ受かりません。それらを必ず身につけ、還俗したらそれを実践しなければなりません。還俗しなければそれを人に教えます。一般の人々に六方について教えます。還俗したら自分で良く実践しなければなりません。後で他人に教える時にも、もちろん良く教えられます。

 

 最後の項目は、六方をどのくらい重い義務と見てほしいか、です。「義務」と呼ばれるものは必ず重いです。軽い義務はどこにもないと理解してください。義務というものは何でも重いです。役目、義務、何の用事でも、要するにみんな重いです。どれもみな重いものばかりです。

還俗したら、重責を恐れないでください。重責を恐れながら在家になるのはバカです。重責が恐いなら、僧のままでいても涅槃へ行けます。在家も涅槃へ行けますが、いろんなことがあるので、道中は重いです。

在家は用事が多く、しなければならないことが多いので、だから重いです。重ければ六方にいることが、当然出家者よりも多く、六方に関わる義務や役目が多いです。出家は何種類かを切り捨ててしまいます。あっても快適な、軽い、実行しやすい範囲です。そしてそれらは少しずつ減って、何もなくなります。

在家ならそれらに縛られます。社会にいるのですから仕方ありません。在家は家があり家庭があり、子供や妻や夫があり、支配者があり、使用人があり、仕事があり、すべてに縛られます。これを人は重いと言います。

カーラワーサ、サンパーローとは、狭い所、埃の出るところのことです。ブッダの言葉にはこうあります。それが見える人は、ブッダが言ったのと同じように感じたので、「在家は窮屈なところです。埃の出るところです。反対に出家者のありようは、広々とすっきりして身軽で、翼しかない鳥のように、重いものは飛ぶための翼の外にはありません」とブッダに言いました。

鳥の重い荷は翼ですが、翼は鳥を運びます。ブッダ自身も、出家した時にこの言葉の文句のように、この文章と同じように感じました。そして出家しました。もう一度、「ブッダの言葉によるブッダの伝記」を読んでみてください。シーラチャーラという有名なイギリス人が出家した時、こう書いています。

A dense of strife, is household life,

And filled with toil and need

But free and high as the open sky,

Is the life the homeless leads.

  在家の暮らしは a  dense  of  strife のようで、toil and  need で満ちています。僧の暮らしは free high open sky  のようです。彼はパーリ語の言葉を解説して訳しています。この人は在家の意味をよく知っているので a  dense  of  strife とし、戦士でなければならず、戦う武器はつまりこのことに関する知識です。

空のように明るく広々した所へ出れば、壁画に描いてあるように、free is now !  脱出したぞ〜、という結果になります。雲のように浮き上がるか、あるいは大混乱、あるいは A dense of strife を越えてしまうか、それらの上に浮き上がることです。

次に在家はどの地点にいるのか、どう歩いて行くのか、そしてどこで終わるのか、という方向を知りましょう。死ぬ時に、「オーラハン。忘れるなよ。オーラハン。忘れるな」と誰かに耳元で囁いてもらわないでください。それも善い意味の方法です。人が死ぬ時、道を教えます。方向を教えて、そちらへ行かせます。トウ利天にあるブッダの遺髪を納めた塔を拝ませます。こういうのもまだ行われています。

臨終が近いと、周りの人が「忘れるな」と言って、花と線香とロウソクを手に握らせてやります。それを持ってトウ利天にある塔を拝めと言います。見てご覧なさい。死んだら天国へ行かせます。その花を持ってトウ利天にある塔を拝みに行けと言います。

塔はブッダが出家した時に切り落とした髪を、天使が天国へ持って行って納めた塔です。だから必ず行かなければならない方向と言います。それよりはマシなのが、「阿羅漢を忘れるな」です。言っている人自身も、阿羅漢が何かも分かっていません。  

こういうのは滑稽です。今ここに座っているみなさんは、行かなければならない方向を正しく知っているからです。世界の低い行く所を捨てて、最終目的地である方向、つまり涅槃へ行きます。

私は、誰でも涅槃に行かなければならないと言って、彼らに反論され、嘲笑され、侮辱されます。夫婦は手を取り合って涅槃へ行かなければなりません。子や孫は親の遺志を継がなければならず、つまり涅槃へ行きます。両親の代わりに何としても涅槃へ行きます。友達は、涅槃へ行く友達です。雇用者と被雇用者も、助け合って涅槃へ行くためです。私の考えでは、方向はこのようになっています。

                                                          


ホームページへ