3.六方向の理念





1970年10月10日

 今日は前回に引き続き、方向についてお話します。前回は「方向」という言葉の、いろんな意味についてお話し、今日は方向について詳しくお話します。

 話し言葉の意味はどの言葉も、段階によって非常に差があり、教育程度や知性によって見る深さが違います。だから今日は、方向と言うものに関わる深い意味についてお話します。つまり両親・妻子・先生・親戚・サマナバラモン・そして下僕、主にこの六つです。これは道徳面の方向の名前です。

 みなさんが真中に立っていると仮定して、前・後・左・右・上・下、これが身の周りで、見なければならない、そして実践して結果を出さなければならないものです。こう見ることは、どれほど深く見るでしょうか。だからこの問題に関する、自分や一般の人の、愚かさや賢さについて理解しなければなりません。

 話し言葉には何段階もの意味があります。話しているように、ある物のどういう角度、どういう系統に注目するかで違います。物質的な面と、タンマの面、心の面では違う意味になります。世俗的な利益を目指すのと、深いタンマの利益を目指すのでは、別の意味になります。

 次に広く見てみます。あるいは親という言葉の哲学、妻子という言葉の哲学はどうか、現代人が言う哲学、その面ではどうか見なければなりません。

 初めに物質面の生物学を見ます。生物学的に見れば、両親はただ動物や植物を生れさせるのと同じ父種と母種でしかありません。生殖して新たな単位を産み出す雄性と雌性です。植物や動物を見れば、両親はそれだけです。これは生物学的な角度です。

 この面を見ると、道徳も文明も、崇高な精神性も何もありません。こう考えると物質的に見るだけの考え方になり、そして物質的な利益だけを考えるようになります。だから両親に恩はありません。昔は多くの人がはそうに考え、捉えてきました。両親はただ子供を産むだけのものと信じ、もっと酷いのは、両親の享楽のためと言います。

 ラーマ六世が書かれた文章があります。ずっと昔の記憶なので、言葉はあまり良く憶えていません。正しいかどうか聞いてみてください。内容は、「彼らが我々に命をくれたのは、布施のようにくれたのではない。自然の法則で、不思議なことではない」というような意味でした。これは民衆を説得するタンマの方の言葉です。

 「彼らが我々に命をくれたのは、布施のようにくれたのではない」というのは、両親が私たちを生まれさせたのは、「与える」ことではないという意味です。布施と違って、与える人も与えられる人もいません。それは自然に生殖する自然の法則なので、両親を思いやる必要も、尊敬する必要もありません。タンマの面の言葉が、こうです。これを昔のことと考えてはいけません。その影響は、現在まで残っています。

 私がよく話す本当にあった話ですが、あまり良い話ではありません。外国で学位を取ってきた女の人がいました。帰国後は母親を使用人のようにひどく扱ったので、母親は堪え切れず、ある日母親は「なんて親の恩を知らない子だろう」と言いました。

 娘は反論して「お母さんでしょ、私の恩を知らないのは。私はお母さんのために、外国で名誉を得て来てあげたんだから」と言いました。このように正反対です。こればクルンテープ(バンコクのこと)で本当にあった話です。時々話した方が良い、実際にあった話です。支障があるので名前は出しません。

 これは「我々に命をくれたのは、布施のようにくれたのではない。自然の法則であり、不思議な物ではないと」という言葉に合います。生物学的に見れば、両親は命をくれた物にすぎず、道徳的、理念の面では何の意味もありません。このような物質的な見方は、他のいろんな見方ができます。

 次にもう少しレベルを上げて、人間社会、社会学、何でも良く、何と呼ぶのか良く知りませんが、両親は子供に対して責任を取る人です。社会的には、子供は両親の責任の下にあり、両親は子供に責任を持たなければなりません。つまり自分の責任として養育し、社会が認める善い状態にしなければなりません。

 これは、何でも物質として見る生物学より善いです。つまり善くしていかなければならない義務や役割があり、そうすれば社会も良くなり、親が本当の親になることで、子供を本当の子供にすることができるからです。

 高レベルの三番目は精神の面、宗教やタンマの面からの見て、精神面の理想と言います。仏教の教えでの精神面の理想は、両親は子供にとって王様、初めての先生、その子の阿羅漢です。これは人々が一般に捉えている意味より多いです。最高に集約した意味は、両親は命をくれた人です。

 自分一人では生まれることができないとか、何かそのようで、命は両親からもらいました。両親は命をくれた人、自分をくれた人、何らかの人物にしてくれた人です。しかしそれは何でしょう。ロクでもない人が考えることと知識者が考えること、智慧が浅い人の考えることと智慧が深い人が考えることはみんな違います。

 だから私は、生物学的にはどうか、社会学的にはどうか、そして精神面の最高の理想はどうか、という基準を作りました。仏像を例にして見ても良いです。

 物質的には、小さな仏像なら鯵二皿くらいの値段で買えますから、それくらいの価値です。しかし社会的にはそんな見方はしません。物質的価値は捉えません。人々はそれ以上の利益を生み出す物と見ています。理念としては、仏像はブッダとタンマと僧の代りで、アジ二皿の価値ではありません。この真実で、いろんな物をいろんな角度から比較検討して、一番利益がある面を探すことができます。

 両親は子供を産む父種と母種の提供者ではなく、こういう人で、こういう人で、最後は家庭内の阿羅漢です。仏教教団員の理想では、両親は家庭毎の阿羅漢です。憶えておいてください。子にとって恩のある人です。阿羅漢という言葉は、そういう意味で使われています。子は両親で徳を積むことができます。つまり親孝行して両親を気遣い、気に入られるようにします。つまり親は恩がある所です。

 ここをよく復習してみてください。生物学的には親は命を生じさせるだけで、水牛の親と同じ、植物の雄木、雌木と同じです。社会学的には親は子に対して責任をとらなければならない人です。しかし仏教の、精神の面の理想では、両親は家族の阿羅漢と見なします。

 だから最初の方向、前方の両親はこういう意味があります。前が最初であり重要、と見なければなりません。いつまでも両親のことが前にあるように注意しましょう。そのうち女房を持つと場所を間違えて、女房を前において両親を後ろに持って行くと、善い話は消えて、愚劣な話になります。

 そうしないよう気を付けてください。つまり自分の好きな物、満足している物を前方にしないでください。煩悩が好むから前になります。正しくは、タンマである正しい物を前方にしなくてはなりません。事実はどうでも、タンマである物を前方にするのが正しいです。

 次にこれから一気に見てしまう方が、理解しやすくて良いです。後方は子妻、パーリ語では子が妻より先です。タイ語でも子妻で、妻子とは言いません。子が先にあることについて考えてみなければなりません。

 物質的、生物学的には、子は動物や植物と同じで生殖の結果です。物質的にはこれしかありません。自然の法則による反作用はこれしかありません。これは先ほど言った、「彼らが我々に命をくれたのは、布施のようにくれたのではない。自然の法則であり、不思議なものではない」という言葉と一致します。子供は、物質的には両親の生殖から生まれた何らかの形のある物にすぎません。

 昔から信じられてきた社会の道徳、あるいは世界の自然な感覚では、子供は両親を喜ばせるものです。子が産まれると、あるいは生れる前でも、子は両親を喜ばせると期待されるものです。動物が子を愛すようなに、本能の愛も満足します。しかし人はそれ以上に考えるので、むしろ喜ばせる物です。子(プトラ、プッダ)という言葉の意味があるべきです。

 この言葉はインドの言葉ですが、昔からインドで信じられている「父と母を地獄から、つまり様々な苦から引き抜く人」という意味があります。子が多ければ、焦燥する心の地獄から抜け出せると、喜ぶことができます。自分が死んだ後も家門を継いでくれる最愛の物を得たと歓喜します。これも喜びの一つです。それで地獄である怒りは駆逐されてしまいます。このように子は両親を喜ばせる物です。

 世間では、子は家を継ぐものと考えられています。それはエゴであり、血統だけを考えていますが、家を継がせたがり、自分が持っている財産を誰にも渡したくないので、子供にやり、子に家名を維持してもらいます。現代はもしかしたらもっと酷くなっているかもしれません。

 ある面ある場合、子は商品になります。滑稽です。タイは娘を高く売り、インドは息子を高く売ります。それは好み、あるいは習俗習慣によって違います。だからわざわざ子供を大切にして、高額で売ります。このようにはっきり言うと多少下品です。かなりレベルの低い社会の考えです。

 三つ目の、精神面の理想で言えば、両親を地獄から救いあげる人以上です。それ以上というのは、子はその後も歩き続け、涅槃、あるいは神様でも構いませんが、それに到達するまで進歩すると目される人です。

 自然の進歩には善くなっていく目標があります。つまり精神の進歩は、神様と同じ地点、あるいは涅槃に到達するまで向上していくという意味です。現世で到達できない時は、子供が残って、その人の名を継ぐ血族が、いつか涅槃、あるいは神様に到達するまで歩き続けます。

 だから理想である子いる人は、低級な面を考えず、子の精神を高めて、神様や涅槃に向かって進ませることを考えてください。現世で自分が到達できなくても、子が到達します。子が到達しなければ孫が到達します。こう考えるべきです。そうすれば苦はありません。安心と進歩があります。

 復習すると、生物学的には、子は両親の生殖の結果作り出された物であり、社会的には家名を継ぐ人であり、親に安心と満足を与える物と見ることができます。仏教、あるいは同じような宗教の崇高な理想は、遺志を引き継ぎ涅槃に向かって歩き続け、涅槃への到達を目指します。長期的に捉えた人生の深い目的を見れば、子はこうあるべきです。

 次は後ろに曳いている「妻」という言葉です。再び「妻」とは何か、という話になりました。物質的な意味と社会的な意味では同じで、動物や植物と同じように、妻は母種、母種である人で、女性は母種です。この点については話す必要はありません。社会学、あるいは人類学、あるいは類似する学問で見れば、その人にとって家庭の面で利益になる人であり、苦労を共にし、共に生活する人なら、こういうのは良い意味と見なします。

 しかし現代は溺れる物、夢中になる物、自慢する物、身分を表す物、身代を計る物です。男性が必死で勉強をするのは、身分の高い妻を探すためです。美人でも金持ちでも何でもですが、階級を表す道具になってしまいました。女性を遊ぶ物の一つ、あるいは道具と見るようになりました。理想ではありません。

 煩悩の当たり前の感覚で経過し、女性が美しくなることばかりに熱中する原因になります。それ以上の考えがなく、美しさで生活することにもなります。妻がそういう状態に陥っているなら、それは欺瞞です。人は非常に溺れて、非常に愚かになっています。妻が家族を発展させる意味のある人なら、素晴らしいです。

 煩悩の考えを越えた深い意味、精神面の理想の角度で見れば、夫婦は道連れ、涅槃への旅の道連れです。この話は長々と話さなければなりません。しかし人間は誰でも涅槃へ行くために生まれてきたと結論すれば、それで話は終わります。涅槃は、まず世界を上手に通過しなければならないからです。

 世界をうまく通過するには、生殖することは避けられません。生殖するために妻や夫を探すのは避けられません。世界を通過すること、俗界を上手く通過するには、人生とは何か、家庭はどうあるべきか、夫や子供はどうかという精神的な知識や、精神的な話に精通している善い夫や善い妻がいなくてはなりません。

 そして聖職の話に無関心になるまで、うんざりするまで、動じなくなるまで知り尽します。上手く通過できなければ、飽き飽きしません。うんざりできません。だから善い夫婦はそこで溺れていないで、力を合わせて精神面の明るさを生じさせます。妻は夫の、涅槃への旅の道連れ、親友です。夫は妻の涅槃への旅の道連れです。

 この経の中のブッダの言葉は、妻子についてしか述べていません。男性に話しているからです。聞いている人が男性なので、妻子のことだけです。しかし一般の人に言うなら、「子妻と夫」と言わなければなりません。現代の若者が、一緒に楽しむ相手、肉体の楽しみを求める相手を思い浮かべるなら、どうぞ勝手に。それは一時的です。

 そして人間は最終的な目標である、涅槃に行かなければならない自然の意味、進歩の意味をすべて知ります。だから妻や夫を持つのは、涅槃へ旅の苦労や困難を分け合い、共にしのぐためです。そこに止まっていないでください。憐れむべきことです。動植物に劣ります。人間は動植物よりはるかに高い心を持っているので、もっと遠くまで旅するべきです。

 これは言いすぎだと思われるかもしれません。子は、親の涅槃へ行く遺志を継ぐ人でなければならず、妻や夫はそこに止まらないで、涅槃へ旅する苦労を分け合う人と、崇高な理念で見てください。

 この三つの段階だけ話せば十分です。多すぎても面倒かもしれません。生物学の物質の面から言えば、両親、夫婦、子供はこのようで、社会学または人類学での両親、夫婦、子供はこのようで、精神面の理念で言う両親、夫婦、子供はもっと深遠で、人間の最終目標である神様あるいは涅槃の話です。


 次のグループは物質的なものから脱して、先生や親戚、友達、サマナやバラモン、下僕などです。右側は先生で、物質的、生物学的には何も意味がありません。物質的な問題ではないので、それに関しては述べません。

 残るのは社会学の面、あるいは社会の標準です。人は、先生は雇われて、職業として勉強を教える人と見がちです。勉強や知識を教えるのが職業だからです。最高に良くて相談する人、あるいはいろんな問題がある時は物質的な利益がある人です。

 しかしもっと高い精神面の理想を見ると、先生は精神の指導者、初歩の段階で、あるいはみなさんの精神の状態を高める人と見、そう言わなければなりません。先生は、町や村の学校の先生は、初歩の礼儀作法を教え、初歩の道徳を教え諭す最初の教育者だからです。初歩であっても、私たちの精神の指導者と見なければなりません。食べるために雇われて勉強を教える人ではありません。

 現代の子供のほとんどすべては、先生たちは自分の親たちに雇われ、国に雇われた人であり、子供に勉強を教えさせるために雇った親たちがいるから生活できると見ています。だから尊敬するべき人として敬いません。昔の人は子供たちに、先生は崇拝するべき人、最高に恩のある人と見るよう教えました。雇われ人ではありませんでした。

 今、西洋の文化はそう教えません。「友達」と教えます。崇拝するべき人ではないと、低めて教えます。だから世界は崩壊し、混乱状態です。そういうバカバカしい文化のせいです。タイの仏教教団員であるみなさんは、先生はある段階の最も崇拝するべき人と見なければなりません。子供たちの精神の状態を、初めの段階で高める人です。右側にはこういう意味があります。

 左側は親戚と友達です。親戚は直接血統で結ばれている人という意味で、血統での親戚です。そしてタンマの親戚、つまり理解が一致する人、理想が一致する人は仲間であり、タンマの方面で支援し合い助け合うので、タンマの親戚と言います。

 重要な意味は、支え合い助け合うという点にあります。血族である親戚も、助け合わなければ親戚ではありません。血では親戚でなくても、手を差し伸べて支え合い、助け合い、親しんで昵懇にすれば、むしろその方が親戚です。

 親戚は「知る」という言葉から来ています。知るとは考えること。私たちが知っていなければならない人、あるいはいつでも気に掛けている人という意味です。友達は、慈しみという意味の愛を意味します。愛情があればすぐに友達になって、一緒に行動できます。「親戚」と「友達」という言葉の要旨は似ているので、同じ方向に一まとめにしました。

 この二つには、物質的意味はありません。物質面の意味を定義することはできません。両親から物質として生まれた子と違います。しかし社会的には意味があります。誰にでも簡単に分かるのは、助け合い、苦楽を共にする人であり、喜びをもたらす人です。

 社会に仕事が生じ、社会は仕事で溢れ、そして仕事はきつい時は、友達に囲まれていれば、仕事を軽くすることができます。友達みんなの協力があれば、いろんな仕事を成功させることができます。社会的な意味は、このように中間です。

 高い精神面の理想は、友達は他でもなく、涅槃へ旅する伴侶です。だから本当の友達は善い方へだけ向かうよう、涅槃の方向へ向上していくよう、お互いに助け合い忠告し合う人、互いに支え合う人です。自分がぼんやりしている時は、いつでも友達が忠告してくれます。涅槃に行くことを忘れないよう、道に迷わないよう、死の寸前まで、耳打ちして忠告してくれます。これを理想の友と言います。

 一緒にお酒を飲んだり女遊びをしたりするような理想は、亡霊、妖怪のような友達ですから、この意味には含まれません。理想も何もありません。それに物質的な話になり、飲み友達、放蕩無頼の友達です。


「サマナ」「バラモン」という言葉の意味は、上の方、高い方、頭の上なのでサマナ・バラモンです。「サマナ」「バラモン」という言葉を聞いたことがない人もいるかもしれません。簡単に理解して憶えるために、短く定義します。

「サマナ」は、家を持たない種類の出家で、「バラモン」は僧、あるいは家庭を持った半分僧です。しかし義務は同じで、家の中の僧、家にいる僧です。所帯を持って妻や子供がいますが、僧の一種をバラモンと呼び、所帯を持たない僧、非常に自由で高くで、遠くまで行く僧をサマナと言います。二つ合わせてサマナ・バラモンと言います。

 サマナとバラモンという意味です。これはインド人が話すインドの言葉です。ブッダはインド人と同じように話したので、当時の人と同じようにサマナ・バラモンと言いました。

 サマナは、ブッダや他の出家のように家を持たない出家のことです。義務は同じで、精神の状態を高める、あるいは高度な精神的な問題を解決します。

 バラモンたちは所帯を持っているので、高遠なところまでは行くことはできません。時には、大昔から勘違いしている行動を意味することもあります。バラモンの精神面の高さは、死後必ず天国に、最高の世界に生まれる祭祀という意味です。バラモンは大抵こうで、誤った見解の精神的な拠り所です。

 いろんな種類の祭祀を行い、国王が死後天国に生まれるための生贄として、殺人までします。サマナはそういうことはしません。同じように供え物をしますが、別の供です。たとえば涅槃へ行くために「俺、俺の物」を捨ててお供えします。最高に崇高な物は涅槃です。いずれにしても、精神面の高さを求めるという同じ意味なので上に置き、上方をサマナ・バラモンとします。

 次に段階的に意味を見て行きます。サマナ・バラモンの物質的、生物学的な意味はありません。どれも精神的な面、心の面だからです。多少ひどい見方をすれば乞食で、物質的には乞食です。何も仕事をしないのに、散財してご飯やおかずを作って献じます。

 パーリ(ブッダの言葉)を例にすれば、カシ経という経があります。ブッダが重要なバラモンであるその人を困らせに行き、鉢を抱えてその人が田を耕している前に立つと、「他へ行きなさい。田畑を耕してお稼ぎなさい。そのように鉢を持って突っ立って、得をしようとしちゃいけません」と追い払われます。

 ブッダは『私も田んぼを作っていますよ。あなたはなぜそのように言うのですか』と答えました。ブッダは詩文でそれに答えました。内容は『「信仰が蒔く籾、努力が田の水、慚愧が鋤の刃』、他にもいろんな例をあげると、最後にそのバラモンに光が生じ、その時正しい見解になり、聖人になりました。

 しかし利己的な物質主義者は「サマナの取り得はタダで飯が食えることだけ。畑も田んぼも作らず、働かないでタダで食べるのを待っている」と考えます。物質主義者の目にはそう見えます。

 私たちが考えている、認めているサマナ・バラモンの施設は、教え導き儀式を行う、高くて神聖な人と崇拝されています。簡単に言えば、拝むため、儀式を行うためにあります。このお寺の精神の娯楽館にある絵には、「現代人は拝むだけ。タンマを実行しなさいと言うと耳を塞ぐ」と書いてあります。

 現代人にとってサマナ・バラモンは、拝むため、そして儀式を行うためだけにいます。教えで行動するように言うと、知らんふりして手で耳を塞ぎます。今世界全体がそうなりつつあります。サマナ・バラモンは地に落ちて、拝むため、儀式を執り行うためだけです。

 しかし精神面の理想では、サマナ・バラモンは精神の状態を高め、最高レベルに到達させる精神面の指導者です。あるいは、人間が到達するべき最高のレベルまで心を高めるためにいます。だから上方に、頭の上に置きます。この崇高さを見なければこれは分かりません。人間であることの崇高さ、あるいは人間が得るべき、到達するべき物です。上方にはこのような意味があります。


 最後は下方、下僕です。昔の言葉では下僕ですが、現代は、民主主義の現代は、人々はこの言葉を嫌います。どこへ捨てたのか知りませんが、愚かさの仕業です。「下僕」と呼ばれるものはまだ存在します。誰かが権力を持てば、権力のない人は常にその支配下に落ちなければならないので、いつでも下方です。それがある意味での「下僕」です。

 ここで言う「権力」とは武力のような権力とは限りません。経済的権力、知的権力、他にも人々が行使するいろんな権力があります。誰かが何らかの権力を上手に行使すれば、権力を使われた人は下僕になります。西洋人が資本を持って来て騙せば、いつでもタイ人を下僕にできます。

 注意してください。「下僕」はまだなくなっていません。世界に権力がある間は、まだ終わりにできません。それは「権力は世界の偉大なもの」というブッダの言葉と一致します。権力は世界の偉大な物です。

 女性が男性を下僕にすることもできます。美しさが権力になるからです。高学歴の男性が、美しさの他には何もない女性に懇願することもあります。タンマ問答の絵に、刀を持った男を完璧な呪文で美女に変身させ、ブランコを揺すっている鬼を降参させてしまう絵があります。これが人を下僕にする威力です。

 現代でも被雇用者、労働者、権力下、他人の支配下にいる人は、全部下方の状態にあります。どんな状態であれ他人の威力下にいる人は、下方にいると見なします。正しく見て、正しく振舞わなければなりません。

 物質面では、昔は召使や下僕に仕事をさせ、自分のしたいように酷いことをしました。それは野蛮な物質的な意味です。そして時代が変わって現代になりました。以前は人間を売り買いすることができ、買って奴隷として働かせることもできるし、男も女も、何をさせることもできました。

 現在では人に使われるという意味があります。みなさんに何らかの力があれば、他人が使われにやって来ます。社会一般では、下僕は使うためにあり、名誉をひけらかすものでもあります。名誉をひけらかすために使用人を雇う人もいます。利益を追求する道具として、あるいは何らかの意味で有利になるための道具にする人もいます。

 するどい知性のある人はいつでも何でもできます。知性はいつでも何でもできるので、誰かの上に立って、あるいは何らかの集団の上に立って働かなければ、結果は出せません。だから使用人、労働者、下僕、奴隷等はこういう意味であり、知性のある人が使えば、何かを作り出す労働力です。これが社会学、人類学、哲学の類から見た一般的な意味です。これだけです。

 精神面で見れば、精神面の最高の理想では、涅槃へ旅する人にとって、下僕あるいは奴隷は必要と、敬意で見てください。それは課題です。私は更に、下僕、奴隷、あるいは部下は「徳を生む田」と言いたいと思います。

 私たちは困っている人、あるいは自立できない人を援助しなければなりません。そうすれば徳になります。こういう人たちがいなければ、誰も、何も善行(布施や慈善)ができません。

 だから欠乏している人、能力のない人、自立できない人は徳を生む田です。盲人や障害者も徳を生む田です。下僕が助けを求めて来たら、私たちが徳を積める好機と見なければなりません。雇用人も、支配下にいる人も、押さえつけて苛めたり、得をしようとしたりしないでください。彼らをこのように見れば、精神面の理念です。

 次に低級な徳は、援助したり慈悲を掛けたりすることで、それも徳になります。高級な徳は、自分自身の身勝手を消滅させるためです。下僕は服従を余儀なくされる立場で、怒鳴りつけることも、殴りつけることもできます。それは自分の煩悩を増やし、ますます愚かにし、地獄に落とします。

 しかし次に腹を立てず、優位になろうとしないことで自制の練習をし、課題にし、そして怒鳴りつけず、怒りを抑えることができ、下僕に対して腹立ちを抑えられる人がいれば、非常に我慢強いという意味です。誰も我慢しない人に対して我慢するからです。

 次にみなさんが自己中心的にならないよう、怒らないようにすれば、下僕は、みなさんが身勝手にならないように、善い雇用者になるように支援する立場になります。徳がない人から徳のある人に、「俺、俺の物」がない人に高めてくれます。下僕を課題にして「俺、俺の物」を攻撃する練習をすれば、非常に善くなります。

 普通では、雇用主が我慢をする場面ではありませんが、忍耐するよう、身勝手を我慢するよう、自分を鍛える課題にするからです。部下を援助し、面倒を見、子や孫のように愛して思いやり、下僕が病気の時は、子や孫のように情を掛けます。それはブッダの時代からある古い習慣です。

 だから仏教教団員の奴隷制度は廃止する必要はありません。亡霊妖怪の奴隷制度は、廃止しなければ民主的にはなりません。タンマ式の奴隷は、廃止する必要はありません。止めてはいけません。能力の劣る人、自立して生きていけない人は世界中どこにでもいるので、私たちはいろんな面で彼らを支援しなければなりません。それも意味としては奴隷、奴隷であることです。

 あるいは下僕のように人の世話にならなければならないことは、避けられません。しかしそれを、徳の話、善の話にしてしまう方が良いです。だからみなさんが善や徳を積むように、能力の劣る人を支援しましす。それはかならず、他の人々をも、大々的に巻き込みます。


ブッダの時代などは、富豪はたくさんの下僕を抱え、大事に庇護しました。時には一つの集落全体が一人の富豪の庇護下にあることもありました。国王も認めて任せ、弾圧しません。何があっても一緒で、何をするのも一緒でした。菩薩日の夜八時にお寺へ行ったり、持戒をしたり、布施をしたり、何でも一緒にしました。幸福な奴隷なので、奴隷であることから抜け出したがりません。本人は能力がないので、完全に自立したら生きて行けないからです。

 要するにどんな徳であろうと、他人の徳に頼らなければならない人は下方になります。彼らを見る時は、言ったように見なければなりません。いじめたり、搾取したり、騙されて利益を奪われる人と見ないでください。それは精神面の理想の「下僕」という意味で正しくありません。だから奴隷、あるいは下僕は、尊重しなければならない方向、拝まなければならない方向として拝むべき、一つの方向です。

 初めから、どの方向も拝まなければならないと話してきました。その青年がすべての方向を拝んでいたので、ブッダは、文明人の拝み方はそうではないと言われました。彼らはこのように、つまり前は両親、後は子妻、右は先生、左は親戚と友達、上はサマナ・バラモン、下は下僕で、そのように尊重し拝まなければなりません。

 下僕という言葉を使うのは、尊重し、敬意を表し、その人の身になって考え、善や徳の面で、涅槃への道を共に歩む人と見なければなりません。全部涅槃へ行く話です。六方を正しい義務を行なうことで拝めば、涅槃へ行けます。

 今日は、このように一つの言葉に何段階もの意味がある言葉以外には、あまりお話しません。復習します。「親」という言葉は、低い意味では動物の雄雌、あるいは雄木と雌木がある植物と同じで、父種と母種にすぎません。社会面では高くなって、親は子に責任を持つ人で、理想まで高くすると、親は家毎の阿羅漢です。

 「子」という言葉は、低い意味では生殖で生じた結果であり、高い意味では家名を継いで両親を喜ばせる人であり、最も高い意味では両親の遺志を継いで涅槃まで旅をする人という意味です。

 「妻」という言葉は、低い意味では動植物と同じで、生殖をする人で、社会的には、精神的なことでも、自然の何でも、いろんな問題を協力して軽くする物であり、人に自慢する物だったり、世俗的な幸福を追求する物だったりします。

 しかし最も高い意味では、妻や配偶者は、人生の深い部分を一緒に学ぶために、世界に飽きるために、世界を抜け出すために、世界を共に超えるために、俗世の生活の負担を分け合う人でなければなりません。そこに溺れているのでなく、互いに助け合い、高め合っていく友です。

 「先生」という言葉は、雇われて職業として勉強を教える人、あるいは良家の子息に知識を売って生活する人ではありません。先生は初等の段階ではあっても、涅槃へ行くための精神面の指導者でなければなりません。

 「親戚、友達」も同じです。飲み友達や、良からぬことをして煩悩を楽しませる友達でなく、人間の義務を行うために助け合う友達でなければなりません。最高の意味では、涅槃まで一緒に旅する伴侶です。

 「サマナ・バラモン」は、人々が言うような、庶民にただで食べさせてもらう乞食、人から搾取する人、社会のダニではありません。現在捉えられている意味は、拝むだけの物、儀式をするだけの物になりました。しかし最高の意味は指導者で、私たち一人のではなく、世界のレベルの、最高のレベルの、心のレベルを引き上げる人です。

 「下僕」は搾取して利益を得る対象ではなく、利益を分け合う人でなければなりません。カンマが人とすべての動物を分けると言われるように、カンマによって身分や階級が生じます。廃止することができない身分です。

 身分や階級を廃止することはできないと自慢しないでください。口で言うだけ、バカらしいだけです。カンマによって生まれる身分や階級が分かれますが、それは自然が分けるのであって、人間が分けているのではないからです。

 だから人は生まれるとカンマが多く、罪が多く、欠陥もあり、知性にもレベルがあります。だからみんな同じ暮らしはできません。みんな同じように暮らそうと考えることが、dialectic materialism の起源であり、コミュニズムやら何やらになります。カンマについて知らないからです。

 私たちは、あの人も私と同じようにカンマがあると見て、それにふさわしい解決法で支援して、彼らの境遇を向上させます。自然に、生まれつき能力の劣る人、知性のない人は、知性面でも身体面でも、拝むような敬意で援助しなければなりません。

 みなさんが在家として所帯を持った時に拝まなければならない方向の、それぞれの言葉の意味はこのようです。多くするか少なくするか、重くするか軽くするかは、自分で考えてください。しかし避けることはできません。必ずしなければなりません。正しくしなければなりません。

 怖かったら在家にならないでください。在家になりたければ恐れず正しく行動しなければなりません。それが在家として最高のタンマの行動です。ブッダはこのような意図で方向について教えました。




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