前方への行動

 

     1970年10月11日

 今回は在家の方向に関して、一般的に用いなければならない意味について述べます。今までは「方向」という言葉の意味を細かく、そして涅槃へ行く話まで深く見てきました。そのように見ない人はそれを求めません。みなさんが妻や夫を持つのは友達として、あるいは卑近な言葉では涅槃へ旅する親友です。

こうお話すると笑う人ばかりでした。今はもっと笑う人ばかりです。何でもかんでも涅槃へ行く話だと悪口を言います。しかし私も、いろんな理由があって主張しています。中でも最も良い理由は、最高に利益がある点です。こういう原則があれば最高に役に立ちます。これが最良の理由です。他の理由も最高に利益があります。他にも理由があり、それも本当ですが、一番役に立つ一番いい理由だと言うことができ、それを原則にするほどではありません。

涅槃へ行くことはすべて宗教のこと、あるいは世俗を超越した高い理想と考えてはいけません。進化の法則で、すごく当たり前のことと見なしてください。evolution  は身体面だけと捉えてはいけません。精神面にもあります。

愚かすぎなければ、体と心は分けることはできないということが分かります。別々にしたら成立しません。足の骨折、あるいは盲目は、心しかなければ、目があっても足を骨折しているのと同じであり、体しかなければ、脚は丈夫でも目が見えないのと同じです。

タンマで一人の人間のことを「ナーマルーパ(名形)」と言いますが、二つ別々のものではなく、一つのまとまったものです。無理に二つに分ければ、どちらも存在しません。二つ一緒だからこそ、名(心)と形(体)があります。それが人です。だから物質面だけの進歩というのはあり得ないし、精神面だけの進歩というのもあり得ません。体と心は必ず一緒で、一緒に変化します。

つまりいつでも一体です。evolution も体と心が一体になったものにあります。それでは、どっちの方向へ進歩するでしょうか。大雑把な言い方、あるいは普通の人風に言えば、高い方へ、善い方へ、発展する方へ進歩します。タンマの方では、滅尽、あるいは滅亡へ向かうと見ます。 

どんな種類の進歩も、最終的には滅尽、あるいは滅亡になります。発展という言葉をあまり重要視しません。それは世俗の話、煩悩の話です。発展を苦の一種と見ないから発展したがります。それは最高の結果、つまり滅尽に、滅亡に向かうことで、その後は発展する必要がありません。それが涅槃と呼ばれる地点で、体も心もすべてまとめて停止し、進歩もそこで終わります。

タンマの高いレベルで幸不幸について語れば、発展を幸福と見なしません。なぜなら何らかの種類の苦だからです。しかし終わること、止まること、発展する必要がないことを涼しさ、あるいは幸福としています。まだみなさんの心が発展を望んでいれば、まだ発展するために転げまわっていれば、まだ飢えていて、まだ渇いていて、不安と苛立ちで大騒ぎしているなら、涼しさはありません。

今ここで涼しさが欲しければ、発展を願うのを止めなければなりません。発展狂いを止めなければなりません。その種の苦を生じさせる種類のことを止めなければなりません。と言っても、しなければならないいろんな義務は、やり続けることができます。だから死にません。食べて生活できます。それでも生きていけます。これを、いまここでの涅槃と言います。

死ぬ時に涅槃を求めれば、死んでまた死んで、死んでまた死んで、何百、何千回生まれ変わるか分かりません。それはひどい寝言です。しかしその(発展狂いを止める)教えを捉えることもできます。義務は同じようにしなければなりませんから、輪廻を止めるために、同じように義務をしなければなりません。 

だから夫婦は熱狂やいろんなことを止めるために、一緒に考え学ぶ伴侶になり、穏やかに暮らすことができます。結婚生活を穏やかにすることもできます。こういうのが理想的な進歩です。

だから夫婦は肉体の幸福、生活、セックス、最高に良くて名誉のため、それだけと捉えるべきではありません。普通の人は生活することとセックスと名誉しか知らないので、結婚はそれだけと言うのは、普通の人の話、子供の恋愛ごっこで、仏教の理想ではありません。

だからすべてを涅槃へ行く仏教の話にするなら、今ここでの涅槃でもいいし、死ぬ時の涅槃で、何百世、何千世かかっても構いません。理解次第、あるいは好み次第です。何百回、何千回生まれ変わった後の涅槃は、最終的に寝言になり、霧散してしまいます。

あまりに長すぎるので、挫折したり気が変わったりする余地があります。しかし今ここでの涅槃は本気です。こちらは実践できます。実践できる範囲にあります。なぜなら結果を望んでいるから、あるいは出来るたびに、結果が見えるからです。

一緒にそう考え、一緒にそう行動し、家庭での教えにすれば涼しいです。その涼しささが一時的か、あるいは非常に涼しいか少しだけかは、能力次第です。だから私は狂っているとか、分派させるとか何とか非難されても、それは彼らの勝手です。

しかし私はこうでなければならないので、変えようがありません。彼らに見えない部分を指摘したいです。彼らが生活のため、セックスのため、名誉のためだけに結婚するのは、仏教教団員としては不十分だと言います。在家として得られる最高のものを、得なければならないからです。そうすれば前回お話した六方の理想を説明しました。

 みなさんと私が口論する必要はありません。持ち帰って考えてみてください。もし好きなら、実践原則にしてみてください。嫌いでも口論する必要はありません。どうしたら最善にできるか、どうしたら最も利益があるか、というために話すと言います。

 そして、このような教えを捉えれば、他の利益を損なうことはありません。涅槃に行くために結婚するという教えを捉えても、基盤を失ったり利益を損ねたり、他の何かを失うことはありません。しなければならない義務は、それまでと同じようにしなければならないのですから。

それらを涅槃へ行くための課題にします。妻がいれば妻を涅槃への課題にし、夫がいれば夫を涅槃への課題にし、子供があれば子供を涅槃への課題にし、財産があれば財産を涅槃への課題にします。そこに止まっていてはいけません。これが前進、あるいは進歩です。そしてタンマでの発展です。物質的発展ではありません。

 キリスト教の教えも、前にお話したことがあるようにとても深いですが、だれもそう見ません。キリスト教徒でさえそう見ません。聖書のコリンの章で、「妻があっても妻がないように、財産があっても財産がないようにしなさい」と教えています。何を言っているか考えてみてください。

財産や夫や妻に夢中になりなさいと言っていません。妻があっても妻がないようにというのは、心に苦がないように、食べること、性のこと、名誉に執着しないという意味です。妻も同じです。夫があっても夫がないようにしなさい。誰でも、財産があっても財産がないように、子や孫がいても子や孫がいないようにしなさい。

 これは、ロクでもない人が聞くとロクでもない解釈をします。捨ててしまおう。殺してしまおう。これはバカ者の話で、物質的なことしか知りません。智慧のある人は、夫や妻や子どもに関わる苦があってはいけないと、心の面を深く見なければなりません。ロクでもない人たちは、こういうのは在家が知らなければならないこと、あるいはどう実践しなければならないか、という問題と見なしません。

本当は在家が知らなければならいないことであり、在家が必ず実践しなければならない高レベルな話です。人間に生まれたことが、そして仏教に出会ったことが無駄になりません。ただの人ではなく、仏教に出会った人で、仏教に出会えば、崇高な理念いっぱいだからです。

 だからこの部分、こういう状態、このような方向に興味をもって聞いてください。そうすれば在家でも、人間として得るべき最高に素晴らしいものを得ることができます。これが、なぜ発展するすべてのもの、家庭生活まで涅槃へ行くためと見なさいと言うのか、という理由です。

 でなければ地獄へ行く話です。だから私たちはどの地点にいようと、恥を忍んで方向を転換して、涅槃へ行くしかありません。在家が荒れ地にいるなら、ごみごみした所や、遠く離れた所にいるなら、広々した平坦な所まで転げ出て来なければなりません。そして近づきます。在家であることを、このように最高に詳しく、最高に高く見て、そしてすべてをその結果のためにします。

もしただ生活のため、性のため、名誉のためだけと見るなら、地獄へ落ちるか、あるいは畜生になります。畜生は食べ、生殖し、自慢します。雄鶏が得意気になるのは、誇りをひけらかしているか、アイツらなりの名誉に迷っています。だから食べること、性のこと、名誉だけでは、仏教に出会った人間として十分ではありません。絶対に苦を生じさせる問題があってはなりません。

それに食べること、性のこと、名誉は、足下の問題です。しかし現代の人は食べること、性のこと、名誉を頭上に持ち上げ、大切に頭上に置きます。このように間違っています。食べること、性のこと、名誉を頭上に置く人は、低い所にいなければなりません。それらを足下に置けば、つまりは高い所にいることです。

一般の生活で、誰が高い所にいるか誰が低い所にいるかを見てください。両親や祖父母も含めて、高い所にいるか低い所にいるかを見るべきです。まだ芽生えたばかりの芽であるみなさんは、どっちに伸びたら良いのでしょう。低い方でしょうか、高い方でしょうか。

高い心という意味の人間にふさわしく、仏教に出会ったという言葉にふさわしくなりたいなら、もっと良く考えなければなりません。億劫がったり、疲れると考えたり、考えることを嫌ってはいけません。これは、もっと詳しく、高く深く考え、最大の利益を得ていただきたい項目です。

 

「ギヒパティバッティ」は在家の問題であり、低級な話と決めつけられています。このキヒパティバッティはブッダが、一般大衆の話を述べたもので、そして普通の実践の結果は、それだけに限定したという意味ではありません。

どうぞ、ブッダが説いて教えたものは何でも、かならず滅苦のため、解脱のためと捉えてください。在家の純潔(梵行)についても、解脱のため、苦の塊から脱出するためです。純潔と呼ばれるものは何もかも、解脱するためのものばかりです。

在家が最善を尽くさなければならない実践を「在家の純潔」と言います。最善にしなければなりません。何らかの意味の解脱に到達しなければなりません。しかし一言で言えば苦からの解脱、苦を越えることです。これは繰り返し繰り返し、煩わしいくらい言っているように、忘れないでください。

ソーダーパンナ(預流者)、サカダーガミー(一来者)、アナーガミー(不還者)などの聖人は家にいることもあります。昔の人の記録では、山の中やお寺にいるとは限りません。特にソーダーパンナとサカダーガミーは、普通の人と同じ様に食べること、性のこと、名誉と関わっています。

しかし状態が違う、つまり高いのです。だからソーダーパンナやサカダーガミーが妻子や夫を持っても、煩悩の厚い俗人とは違います。アナーガミーも苦のない状態で家にいることができます。それらのものに勝利したという意味です。

 そして広く見ます。家にいる聖人の方々を在家と呼ぶべきか否かという、これらの意味もすべて含む十分な広さで見ます。「在家」あるいは「キヒ」という言葉も非常に広い意味があります。まだ家に依存しなければならない、あるいはまだ家と関わっている、でもいいです。それを在家または俗人と呼びます。

外面的には家と関わっていても、内面は違うこともあります。心はそうではないこともあります。ソーダーパンナ、サカダーガミー、アナーガミーなどの聖人は、在家として所帯を持っていても、かならず一般人より高尚な心があります。

だからこのような高さに注目すれば、傲慢でもないし、身のほど知らずの高望みをすると、非難するべき人ではありません。そのように理解してはいけません。在家でも、人間として最善の物を得ることを、常に原則にすれば、涅槃を志しても、身の程知らずの高望みなどと言う部類には入りません。

 キヒパティバッティに関して、このように熟慮しなければなりません。もしナヴァカワーダ(得度したばかりの僧のための言葉)にあることだけなら、私はお話しません。みなさんは自分で読むことができます。ナヴァカワーダはみなさん全員が持っていて、両親や子どもや妻に対して、これらの方向にどう振舞うべきかを教えているので、読むことができます。しかし文字にはありませんが、もっと深い意味が行間に隠されているので、それを良く見なければなりません。

 

このように深く詳しく見ていくと、否応なく哲学の形になります。しかし饒舌な哲学ではありません。宗教の実践に必要な哲学です。こういうのは饒舌な哲学と言いません。際限もなく反論し合って、目的あるいは目標のある実践から遠ざかってしまう哲学を、饒舌な哲学と言います。いま哲学という言葉は、すべて饒舌なタイプです。

哲学という言葉は非常に複雑にさせます。昔使われた意味とは使い方が違うからです。哲学という言葉の本来の意味は、知るべき知識、智慧という意味で、混乱しませんでした。現代の哲学は際限なく知る智恵であり、自慢するために果てしなく知ろうとします。だから混乱します。バカみたいにキリもなく考えます。

しかし智慧、あるいは哲学という言葉の意味は、今ここで滅苦のために実践しなければならないことに限定しています。しかしほとんどの意味は、智慧のある人のように見るという点にあります。だから在家の生活を智慧のある人のように見るには、哲学風に見なければなりません。つまり至高の理想、涅槃を目指すことです。

親友である妻や夫がいて涅槃へ旅をすると言うのは、ある種の哲学になります。しかし必要な実践に導く哲学です。そしてその実践に含まれて宗教の話になり、哲学者のような見方を練習する哲学ではありません。

「帰依」、あるいは「拠り所」という重要な意味の言葉を例にします。帰依するもの、拠り所は必要で、誰もが求めます。そこで六方の話は拠り所にする拠り所の話、拠り所です。でなければ拝む必要はありません。六方を拝むということは、身をかがめて拝むということです。なぜ頭を垂れて拝むのでしょうか。それは拠り所にするためです。

愚かなシンガーラ青年がブッダと出会う前、先祖に教えられたように、いろんな方向を拝んでいたのも、拠り所のためです。自分の安全無事のためです。その後ブッダに会って、ブッダが新しい拝み方、六方を拝むことを教えたのも、拠り所にするためです。それは拠り所のレベルを高めました。だからこの六方は、正しく実践すれば拠り所になるかもしれないものを意味します。

「拝む」というのは、ただ掌を合わせて拝むだけでなく、正しく振舞わなければいけません。なぜ拝むのでしょうか。それは精一杯関心を寄せ、受け容れ、相手の身になって考え、受け入れ、十分奉仕をするために関心を寄せること、それを尊重すると言います。

 尊重するという言葉の理想としての深い意味は、最高に関心を寄せることです。何かにすべての関心を注ぐことを尊重すると言います。しかし物質的、身体的には掌を合わせて拝むことだったり、頭を下げることだったり、何でもいいです。どちらが利益があるか、自分で見てください。

方向を拝むことも同じです。掌を合わせて四方と上下を拝む、昔風のも一つの方法です。次に尊重して関心をもって、もっと良い意味での方向を、東はそこ、西はここと拝むことは、お話したようなこと、つまり拠り所になります。それだけです。

 

 前方:

 両親は、正しく振る舞えば最高の拠り所の一つです。生まれたばかりは何もできず、両親を依存して成長し、幼児になり、青少年になります。これが拠り所です。教育をし、管理監督をし、世話や忠告をしてくれるので、前方になります。

 後方:

 子供と妻を見下すような見方をしないでください。同じ拠り所の一つです。後ろの拠り所、つまり後押しをする義務があります。前進するために後押しをしてくれます。私は妻をもったことはありませんが、みなさん妻を持つと、心情的に妻に頼ると言いたいです。

みなさんは何をするにも、他の人よりはむしろ妻のためでしょう。妻はみなさんを働かせる気力です。ならば、後押しをする拠り所と呼ばなければなりません。気力面での拠り所です。だから還俗する人は、将来妻をもったら気を付けてください。妻を拠り所とすることから脱せません。

 右側:

 先生はどんな拠り所でしょうか。ほとんど説明は要りません。精神面での拠り所です。両親は身体的な生活、命の拠り所で、先生は精神的、知的な拠り所です。世俗的な智恵でも、それでも知性の問題、世俗レベルの精神の問題です。

 左側:

友達は社会的な拠り所です。親戚や友達がいるのは、社会のため、社会で暮らすため、社会で勝利するためです。親戚も友達も社会的な、あるいは社会面の拠り所です。何か仕事や用事ができても、友達がいればあっという間に終わらせることができます。

上方:

サマナ、バラモンは更に高い、最高レベルの精神的な拠り所です。

下方:

足の下、つまり下僕も拠り所です。労働力をくれる拠り所です。頭脳だけあっても労働力がなければ何もできません。今の世界の難しい主義主張は、労働に関係しています。労働力が不可欠な資本主義が生まれ、労働力とは労働者のことですが、決して資本家に譲ろうとしません。世界の危機はこうしたことから生じます。

資本家が、労働者を拠り所の一つとして尊重しないからです。資本家が仏教を信仰していれば、労働者を尊重し関心をもつので、現在あるような問題はありません。これは下方への接し方の誤りです。それが世界を揺るがせています。これは小さな問題ではありません。

だから「拠り所」、あるいは「帰依」という言葉を熟慮し、正しく有益に使ってください。そうすれば問題はなくなり、身近な何らかの意味での拠り所になります。たとえば屋根があれば、屋根は雨を避ける拠り所になり、屋根がなければ木や木の葉が、それなりの雨よけの拠り所になります。

賢い人は、すべての物は互いに支え合い、互いに支え合っていると知っています。そうでなければ世界は成り立ちません。世界に蟻がいなければ、昆虫がいなければ、今のような世界はありません。なぜなら白アリは落ち葉を処理し、バクテリアはそういった物を、邪魔にならないようにきれいに処理してくれます。

白アリやバクテリアも、世界の生き物にとっては拠り所です。それらも、私たちが世界で暮らせるようにするための、一つの役割を担っています。そういうものでも拠り所、あるいは役に立っているのですから、それ以上の物については説明する必要はありません。

だからこういう愚かさを無くし、一人でも世界で生きられるという傲慢を無くします。人間は一人では生きられない、あらゆる方向と協力し合わなければならないという理解を肝に銘じ、そして最も身近で重要なものが六方と見なします。

これ以外のものは、この六方のいずれかに属します。自分より下の者、劣る者は下方です。自分より優れている者、越えている者は上方で、それ以外は周辺です。だから、あらゆる面で周囲の恩恵で生きる者として振舞うことで、悪くなることはありません。

方向に関わる知識には、こういう意味があります。周囲がいろんな方向から支えてくれる所にいて、これらの方向に対して、こういう結果が得られるよう行動してください。「拠り所」、あるいは「帰依」という言葉について話すだけでも、何であれ正しく関われば、その分量や割合、形や種類に応じて、拠り所にすることができる、と見ることができます。このような目標で、すべての方向に対して、お話したように行動しなければなりません。

 

次にそれぞれの方向についてふさわしいレベルで、もう一度順にお話します。最高の理想、つまり涅槃についてはお話しません。すでに理解していて、適度に正しく実践すれば涅槃に導かれますから。

両親は子供にとって何なのか知ってください。高すぎる理想では、涅槃に行かせるために子供を産んだ人です。これは高く、あるいはまだ何も実践する必要はありません。しかし実践してほしいのは、お話しているように、両親は命をくれた人です。両親は命をくれた人であり、両親がくれなければ自分は命がなく、この世界に生まれて来なかったと捉えてください。

だから命をくれた人と考えて、両親に命も体も捧げなければなりません。両親を苦しめるような問題を起こさないでください。両親の望みを一番尊重してください。同意が得られなければ自分は譲って、両親を立ててください。

子供たちは反論するかもしれません。親の言いなりにばかりなっていたら、外国へ行く機会がない、外国へ留学して出世できないと。それは子供じみた考えで、私が話しているような理念がありません。しかし妥協する道はあります。つまり交渉できます。

なぜなら両親は子供に最高のことをしてやりたいと望んでいるからです。貧しい暮らしの中で土地を抵当に入れて、子供をクルンテープ(バンコクのこと)の学校へ行かせるなどは、両親が何を望んでいるか考えてみてください。本当に承知できない場合には反対をしますが、それ以外は。

もし反対されたら、命は両親からもらったと言っているように、命も体も両親に、梵天に、あるいは家の中の阿羅漢に捧げるべきです。生涯楽しい外国生活も味あわずに両親に仕えて、ここで畑や田んぼを耕すこと、それもみなさんにはきっとできます。私ならそちらを、両親が望むことを選びます。

私自身のことを例にお話します。個人的なことと思わないでください。母親の望みを尊重しなければ、私は出家しませんでした。そして今このような形で皆さんに会うこともありません。私は出家したくなかったのですから。若い頃は出家したくありませんでした。少しも重要なことと思いませんでした。出家して何の役に立つのか分かりませんでしたが、母親が出家させたいと望んだので出家しました。そういうことです。

だから両親の望みを尊重することは、決して罪でも悪いことでもありません。罪や悪になるはずがありません。タンマから見れば善くなること、美しくなることばかりです。少なくともみなさんは親を尊重する人ですから。

外国へ行って出世はしませんが、親を大切にしたと言われます。それは非常に難しいことで、立派です。だから両親は家の中の梵天、家庭内の阿羅漢、命を与えてくれた人です。あるいは常に高い所へ行くために、涅槃へ行くために、自然が作って子供を産ませる人と知ってください。

今回還俗したら、以前より両親を愛すよう、両親を尊重するよう、出家前より両親の望みを尊重するよう願っています。そうすれば出家の成果がある、あるいは方向の拝み方を知っています。ナヴァカワーダにも、「両親は前方で、親が養ってくれたのだから、親を養って返す。親の仕事をする。親の家を継ぐ。遺産を貰うにふさわしい行動をする義務がある、と考えなければならない。親が亡くなった時には供養をする」とあります。

これは昔の人が、シンガーラのような子の義務として残しました。このように考えなければなりません。これは子として正しいです。社会で暮らす一般原則をこれだけ知れば十分です。扶養してもらったから扶養して返すという意味をよく見てください。食事と水を差し上げるだけではありません。給料の一部を差し上げるだけではありません。両親の心も養わなくてはなりません。

親の用事を手伝うには、何を望んでいるのかを知らなければなりません。もし自分の親が高い心だったら何を望むか。それが、みなさんがしなければならない用事です。用事という言葉は、仕事や義務という意味だけではありません。時には味を意味することもあります。用事という言葉の意味は、欲しい味です。

だから両親が何を望んでも、それを用意します。この言葉は絶対で異議申し立てはできません。しかし話し合う知性はあるのですから、交渉はできます。親には、子供の望みを妨害するものは何もありません。みなさんにも親の望みを妨害するものは何もありません。

「遺産をもらうにふさわしい人の行動」とは、広い意味があります。絶対に善い人でなければなりません。「善い」とはどういう意味なのか、自分で理解してほしいと思います。この遺産は両親の汗から生まれたものですから、神聖なものと捉えなければなりません。

クルンテープ(バンコク)へ勉強に行くと親を騙して、その金をあっという間に使い果たしてしまう子のように、酒や女遊びに使えば、中間地獄、無間地獄(二度と浮かんでこられない、最も罪の重い者が落ちる地獄)レベルの地獄に落ちます。こういうのは中間地獄や無間地獄に落ちます。親が汗を流して貯めたお金なので、こういう使い方をする人は、遺産を譲り受ける資格はありません。

最後の項目は、「亡くなったら供養をする」です。これは、死後に関して信仰している風俗習慣でしてください。亡くなってしまっても、どれだけ愛し尊重していたか、真心のすべてを込めてするという意味です。

精神の娯楽館に小さな絵があります。小さな子供が、雷が鳴るたびに母親の墓に建てられた柱に抱きつく絵です。そのようにしなければなりません。亡くなってしまっても、時を限定しないで、いつでも孝養心で生きている時と同じように行動します。いつでも両親に善を供えて供養する習慣は善いです。

たとえばタイの祖父母の供養や、中国の清明(春分後15日目に、先祖の墓参りをする習慣)のようなのは、この範囲です。身体的にも物質的にも精神的にも、できることすべてをします。これが、両親とは何かにふさわしいです。

それに、「マンダー(母)、ビダー(父)」という言葉は、パーリ語やサンスクリット語では「マーター、ピトゥ」と言うことを忘れないでください。インドの言葉では母父と言って、母の方が父より先にあります。どういう意味か、自分自身で考えてください。

しかし私は、母は父より泣き虫なので、母のことを先に考えなさいという、子供の理屈で言えると捉えます。それとも子供を産み、子供を出生させるので、母の方が疲れも痛みも苦も多いので、先に考えさせます。あるいはどちらの面で考えても、母も父も、どちらも崇拝するべき人にさせます。拝まなければならない方向として話す時、インドの言葉では母は父より先に来ます。

両親は命をくれた人、自分を生まれさせてくれた人と捉えなければならないという、パーリ教典の項目を支持するために言いたいと思います。だから私たちの価値は、両親が与えたことにしかありません。「親は布施するように私たちに命をくれたのではない。自然の法則であり、不思議でも何でもない」。親の楽しみによって子が生まれる。これはロクデナシの考えです。しかし私はロクデナシのように捉えません。

私たちの両親はそうではありません。私たちの両親は、喜ばしいものとして子を望み、そして産んでくれました。子は両親にとって嬉しいものです。

そこでみなさんは、親は誰よりも大きな最高の債権者と捉えなければなりません。両親は、すべての債権者の中の最高最大の債権者です。つまりみなさんは命の借りがあります。両親は自分の命を犠牲にすることも覚悟でみなさんを産みました。何のためであろうと、いつであろうと。

パーリ語に「母は、自分の命で子を守る覚悟がある」という言葉があります。つまり子のためには自分の命を犠牲にすることも辞さないという意味です。見てください。犬でも鶏でも、母親は子供のために闘います。死も恐れません。人間なら尚更です。だから、誰よりも何よりも命の債権者と見なします。どの債権者よりも早い、どの債権者より大きな債権者です。

だから、無一文の債務者になる覚悟がなければいけません。そうすれば両親の望みにそうことができます。だから前方に置かないでいられるでしょうか。他に前方にするべき人がいるでしょうか。ブッダが言ったことは正しいです。両親は前方にしなければなりません。

還俗して妻子ができた時、父母を後ろへ回して妻子を前にすれば、それは反逆者です。昔の人は、「親は手足のようなもの」という文章を作って道徳を教えました。子や妻は外側で、いつでも探すことができますが、親は内側にくっ付いてきたので切り離すことはできません。妻子よりもっと大切にするので、前方にします。

両親を前方にすれば、あとは後をついて歩くだけです。前にいるのですから、みなさんは後について歩くしかありません。しかし「歩く」という言葉は、何も分からずに歩くという意味ではありません。より善くすることも「後について歩く」と言います。

親が百姓だったら、みなさんも後に従って百姓になります。もっと良い、もっと偉大な百姓になります。親が公務員だったら、みなさんは職位や名誉や何やら、親より上の公務員になります。みなさんは望みに従う義務、より良くするために歩く義務があります。

昔のお百姓は水牛を使って田を耕しましたが、子供はトラクターで耕します。こういうのも、後に従うことです。あるいは他の何かに変えても構いません。パッチャヤ(諸縁)と言って、命を維持するのに必要なものは非常に広範囲です。両親はみなさんを、命を維持するものとして求めました。より良く、より多くできるものなら何でも、その部分は父母より良いと言います。しかし両親に借りがあることからは逃れられません。

パーリ経典の別の部分に、三種類の子について述べているのがあります。親より劣る子、親と同等の子、親より優れている子です。親より劣るというのは、被害を与えるという意味ではありませんが、親より成果が少なく、親と同等というのは、同じ程度の生活ができることで、優れているというのは、自分の家の身代をより良く、より高く、より増やすという、それだけの意味です。

しかし最後に、「この三種類の子の中で、聞き従う子が最も素晴らしい子である」というブッダの言葉があります。つまり聞き従う子以外には、この三種類の子の、どれが善いとも言っていません。

だから親より優れている子も、聞き従う子でなければなりません。親と同等の子も、聞き従う子でなければなりません。すべてに親より優れている子も、聞き従う子でなければなりません。ここでは聞き従う子が最も素晴らしい子と言われています。聞き従う子とは、正しい方向に両親を置く子です。ひたすら親を尊重し、何でも両親に捧げます。

 

前方、つまり両親はこのようです。だからいろんな意味、あるいは今までお話したことを全部まとめて、前方とはどういう方向か、どんなに重要だから前にするのか、前方をよく知ってください。

両親は初めての先生です。これは右側の先生と混同しないでください。両親を幾つかの部分に分ければ、両親はいろんな部分に分けることができます。両親は友達でもあり、先生でもあり、そして親にできる何にでもなることができます。しかしほとんどは、主要な部分、大部分は命をくれた人です。そして初めての先生です。

生まれたばかりの動物の子を見てください。母親は初めての先生です。鶏の子、犬の子、豚の子、牛の子、水牛の子、何でも母親が初めての先生です。

人も同じです。気性や性格は全部母親に似ます。生まれるとすぐ母親の乳を飲み、母と一緒に過ごし、なにもかも母から与えられ、母親のいろんな振る舞いを見ているので、子の性格は他の人よりは母親に似ます。これも初めての先生です。母父は初めての先生です。母が前にあるので、父よりも早い先生です。

そして身体的な命を与えるだけでなく、名のものである精神的な命も与えます。つまり二つの意味の命があります。物理的な命と、spiritual 精神的な命です。私たちは二つの意味の命を、両親からもらいます。そして、母親が知識、あるいは精神的な高さを、生まれたその日から、目を開けて見たその時から、少しずつ少しずつ子に注ぎます。身体的に成長する命も一つの命です。この世で目を開けた時からの、初めての先生は、尊重して前方にしなければなりません。

両親は梵天であるという項目の一般的な意味は、愛や慈しみで、親以上に愛してくれる人は誰もいないので、子にとって梵天です。ここでの梵天という言葉には深い意味があり、最高に素晴らしいもの、最高に崇高なものという意味でもいいです。

仏教では「子をもつ人は阿羅漢のように尊敬しなければならない」という言葉になります。だから両親は子にとって家庭内の阿羅漢です。子は両親に対して、仏教の教えで、阿羅漢に接するように行動しなければなりません。ナヴァカワーダの中にあることは、実践するのが簡単すぎるほど簡単です。

だから、このような形で両親を前方にして頭上に置く理念を持ち、還俗したら今までよりも両親を愛し、今までよりも両親を尊重し、今までより譲って親を立て、そして出家したこと、還俗して「バンディット(知識者)」になることが無駄にならないよう望みます。

                


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