1.在家のためのダンマで生きるコツ




1970年6月1日

 二十時三十分を過ぎました。今回で講義を終わらせいただかなければならないので、今日は最後のまとめとして、在家のためのタンマで生きるコツというお話をします。私は体調が悪くて、だるくて仕方ないので、まだ残る人で興味がある人は、以前の、まだ聞いたことのない話のテープを聞いてください。だから今回のお話を今までのまとめとします。そして実際に応用するコツをお話します。

 「コツ」という言葉はどういう意味か、みなさん良くご存知なので、ほとんど説明する必要はないと思います。しかし少しだけ指摘、あるいは観察点を示したいと思います。コツとは、現代人が使う響きのよい言葉で「テクニック」、あるいはそのようなものです。

 みなさんは「テクニック」という言葉に興味があり、崇拝しているので、コツという言葉を見過ごしているかもしれません。その意味は「簡便に、目標通りに成功させる方法」、つまり「仕事を確実に成功させ、十分な結果を得る、苦労をしないで、疲れないで、少ない投資で大きな結果を出す方法」です。

 この点では、コツという言葉とテクニックという言葉の意図するものは同じです。コツは小さな問題解決と理解しないでください。お爺さんお婆さんや先祖たちは、コツという言葉しか知らず、テクニックという言葉を知りませんでしたが、昔の人たちにも十分なテクニックはありました。つまり何でも成功させました。現代人が造れないような物、現代人が造るのは大変な物も、造ることができました。

 現代人は月へ行くことはできますが、いろんな理由でできないこともあります。たとえばアンコールワットのような、世界の驚異的な物は、今の人には造れません。できたとしても昔より高額で、複雑で大変です。だから、先祖たちは鋭い知恵とテクニックがあったからこそ生き延びることができ、私たちが生まれることができたと見てください。

 先祖たちにコツ、十分なテクニックの知識がなかったら全滅してしまい、今日まで種族は残っていなかったでしょう。そして今私たちが見ることができる、私たちに造れないような物を残すことはできませんでした。いろんな物が変化してしまったので、怠惰でないこと、勤勉、奉仕、身勝手でないことなどは、先祖たちには敵いません。

 だからテクニックと呼ばれるものは、人間が存在した時からあり、次第に進歩してきました。コツと呼ばれるものも同じです。だから「少ない投資で満足のいく結果が得られ、望どおりに成功する」と、短い意味だけを捉えれば利益があります。


 次は「在家のためのタンマで生きるコツ」という言葉です。私は稼ぐことに関した話はしません。しかし在家がタンマを十分身につけるため、そして苦をなくすためにどんな秘訣があるか、お話します。このような手法をパーリ語で方便と言います。

 しかし残念なことに、タイ語で方便と言うと低俗な悪い意味であり、正しくない意味があります。しかし元々のパーリ語は良い意味です。コツという言葉と同じ、物事を成功させるものという意味です。

 さて、方便は騙すことと捉えても構いません。しかし煩悩を殺すために煩悩を騙します。サターンを殺すためにサターンを騙し、悪魔を殺すために魔王を騙します。こうなら大丈夫です。しかし本当は騙すことではなく、特別なコツであり、テクニックであり、知性です。

 広範囲すぎる智恵、頭に溢れるほどの智恵では危機を脱出することはできません。ここでは限定された格好な知恵だけを、危機に直面している時だけ役立つものを、パーリ語で方便と言います。

 タイに入って少なからず意味が変化しました。パーリ語やサンスクリット語で入って来た言葉には、タイ語になった時に意味が反対になってしまったものもあります。しかし語学の勉強になってしまうので、ここではお話しません。自分で観察してみてください。

 以前に何度も話したことがあります。たとえばタンハー(欲望)は、タイ語とパーリ語は同じではありません。欲望というのは愚かさによる願望のことで、知性による望みは欲望と呼びません。しかしタイ語ではどちらも欲望と呼ぶので、こんがらかってややこしくなります。

 「方便」はテクニック、あるいはコツという言葉と同じで、物事をうまくやり遂げるにはとても重要です。パーリ語は、他の言葉と組み合わせる必要がありませんが、タイ語は、善い意味の方便という意味で善方便などというように、言葉を組合わせます。パーリ語には善方便という言葉はありません。この言葉はパーリ語ですが、新しく組み合わせて作った言葉で、元々は方便と言うだけで十分でした。

 タイ語にはコツや方便やテクニックなどがありますが、何でも方便と言うことができます。つまり物事を望み通りに満足がいくよう成功させるものです。少ない投資で早く、たくさんの結果が得られるからです。どうしたら在家が出家をせず、僧のような修業をせずに、タンマ、あるいは仏教から最大の利益を得ることができるかという意味で、私は「在家のためのタンマで生きるコツ」と言います。

 コツという言葉を使いたくなければ、コツのようなこと、つまりまだ出家できない時に、出家したのと同じようにすることについてお話します。まだ出家できなくても、出家したのと同じようにすることができます。これはコツではないでしょうか。観察してみてください。

 在家は家で暮らし、出家のような衣食をしていません。出家しようにも妻がいて子供がいて、家族がいて仕事があり、出家することができません。しかしその生活を、出家したのと同じようにするコツがあります。在家でいながら、それ自体が出家になります。

 これについては、今まで、冒頭で何度もお話ししていることを忘れないでください。精神的なことである滅苦には、僧も在家もないと教えています。つまり、僧も在家と同じ実践をしなければならず、在家も僧と同じ実践をしなければなりません。欲望が苦を生じさせる原因であれば、欲望を滅亡させなければなりません。だからこのように学び実践すれば、出家しているのと同じです。

 在家は自分の腹と口を養わなければならない点では、僧よりも不利です。もう一つすることがあるので、在家は同時に二つのことをしているということです。体の問題、自分の腹を養い、妻子を養うこと、国家、民族の問題が一つ。そして心の問題、煩悩から苦が生じて苦になる問題がもう一つです。

 出家するとかしないとかについては、心の問題なので、仏教の教えで実践を始めれば、出家しているのと同じです。しかし種類の違う出家で、ゆっくりと這って行きます。牽いている物があり、重りがあるので、家を出て財産も妻子もない、出家している人とは違います。

 出家は快適です。それに自分で養わなくても、村人が養ってくれます。自分で田畑を耕してお金を稼がなくても、食べる物も使う物も住む所もあり、僧の実践をするのに都合が良いです。違いはこれだけです。

 まだ出家できないうちは、同じ教えで実践することで、出家しているのと同じにすることができます。ただ、生活に時間を費やすので遅いだけです。しかし見合った利益はあります。お金を稼いで自分や妻子や家族を養う義務は、苦や怒りの原因、あるいは最高に怒りを生じさせる機会です。次に苦や怒りを生じさせないために、タンマで管理しなければなりません。

 そうすれば在家の生活は、苦でも火でもなくなります。タンマの助けがなければ、在家の暮らしは火のように熱く、正しい考えられず、正しく悟れず、何もかも正しくできません。精神的な問題が生じれば、そのまま死ななければならないのも同然です。

 子を亡くした人の体験を読んでみてください。子が死ぬと、自分は何も食べず、水も飲まず、一日中、一週間、自分が衰弱死するまで何もしません。こうです。タンマに欠ければ、このようです。上流階級の社長の話です。

 だから宗教あるいはタンマは、在家が俗世で暮らす時あまり苦がないように、あるいは苦が現れないようにするためにあります。タンマに欠ければ、在家でいることは最高に苦です。タンマが身に付いていないという意味です。

 タンマが身についていれば、ソーダーパンナ(預流)やサカダーガミー(一来)、アナーガミー(不還)などの聖人になる機会があります。これについては、在家でもアナーガミーまではなれると、最初の回でお話ししました。そのすぐ上は阿羅漢です。しかし阿羅漢になったら在家でいることは終わり、そのまま僧と見なしてしまいます。阿羅漢は在家ではありません。

 これをコツと言います。あと何日もしないで皆さんは還俗して、まだ出家できなくても、そのまま僧でいることができます。心の面精神面は僧でいることができます。執着を管理する教えがあり、貪欲や怒りや迷いを生じさせません。在家の義務である日常の仕事のすべてを、苦を生じさせる原因にしません。

 在家が、ナワコワーダ(得度したばかりの僧のための言葉を集めた本)に書かれている、キフパティバットのすべての実践項目を実践すれば苦はないと理解しないでください。あそこにある実践項目は、身体に関した話だけなので、全部の項目を実践しても、精神的な苦からは逃れられません。

 どうお金を手に入れるか、どう良い友人を作ってどう付き合うか、それらに関して手落ちがないように行動するにはどうするかという問題解決の助けになるだけです。しかし手に入れたお金が苦を生じさせることもあり、手にした成功が苦を生じさせることもあるので、失敗の話はしないでください。

 だから何も苦を生じさせないように、心を正しく維持する知識がなければなりません。タンマの知識が十分あれば、損や得が苦を生じさせることはなく、生きることも死ぬことも苦を生じさせません。

 これをコツと言い、一度で二つの物を得ることを意味します。身体面の在家であることもきちんとし、所帯を持つ人としてタンマを学ぶ在家の仏教教団員でもあります。仏教のタンマが十分身についている正しい善い清信士・清信女という意味です。そして清信士・清信女でない一般の人と同じように、正しい生業を営みます。だから皆さんは普通の庶民でなく、清信士にならなければなりません。

 普通の庶民はタンマがなく、宗教がなく、一般人として稼ぐことと、表面的、物質的なことしかない人で、清信士、清信女ではありません。みなさんはそうなることもできますが、それらから苦が生じないようにするためのタンマの知識があり、タンマの行動ができます。だから清信士・清信女であり、世間一般の普通の人ではありません。これが仏教教団員です。

 これについて誤解をして、仏教教団員であること、あるいは清信士・清信女であることに無関心にならないでください。清信士・清信女としてタンマを実践すれば、ある意味、ある部分、僧と変わらない実践行動をしているということです。

 ただみなさんは重りを引っ張っているので、僧よりも遅いだけです。道路の地ならしをするローラー車と同じで、汽車や水上ボートのように早く走れません。しかしそれでも、進もうと思えば進みます。前方に向かって回転します。

 次に、両手で魚を掴むコツに注目しなければなりません。私たちは両手で魚を捕まえることができます。昔の人は魚を両手で獲ることを禁じました。しかし意味が違います。私が言っているような意味ではありません。両方の手で魚を捕まえるのは上手くいきません。魚が滑るので、どちらの手の魚も、二尾とも逃がしてしまいます。

 今言っているのは、そういう捕まえ方ではありません。これは同時に二つのことをして、どちらも成功させるという意味です。たとえば世俗の話もタンマの話も失敗しません。身体の話も、心の話も損ねません。庶民は「本業も欠かさず、国民の仕事も損なわない」でできます。同時に二種類のことができるという意味で、両手で魚を獲るのと同じです。このように魚を獲るのは禁止しません。そして可能です。

 水の中で二尾の魚を両手で獲るのは、手が滑って何も獲れないことがあります。しかし私が言っているのはできます。愚かな人や自惚れている人だけが「できない」といい加減なことを言います。

 学者と言われる先生方や思想家なども、愚かさや考えなしの当てずっぽうで「できない」と言います。世俗とタンマの両面の利益にするなどできないと言います。豊かな財産と、豊かなタンマで涅槃に行くことはできない。それは彼らの愚かさであり、自惚れです。

 ブッダが在家に空の話を説いたことは、十分詳しく説明しました。ブッダが在家に空の話を説いたのは、在家の人が「私たち在家にとって、いつまでも利益があるタンマは何でしょうか」と尋ねると、ブッダは「空の話です。在家を聖向聖果と涅槃に導く話です」と答えられています。

 だから在家は稼いで食べていくと同時に、空の実践をしなければならないという意味です。涅槃も確実に期待でき、腹や口のことは小さな問題になります。この言葉を忘れなければ、このコツは使えます。しかしこの言葉、この項目を忘れてしまえば、口や腹のことが大きな問題になり、タンマは小さな問題になって、コツも消えます。

 だから、どうぞ今までの話の「なぜ生まれてきたのか」という項目を思い出してください。そして「人間が得るべき最高に善い物を、何としても得るために生まれた」という言葉を思い出してください。それらは生活の話、口や腹の話、食べる話、性の話、名誉の話ではありません。

 こういういろんな問題は小さな問題です。それは何かを教えるため、あるいは命を維持するためだけあります。あとは一所懸命、人間が得るべきもっとも善い物である、精神的に最も高い状態、それを得る努力をします。どうしたら最高の、素晴らしい、最も崇高な心になれるかを、何としても探求しなければなりません。職業の話、給料の話はただの仕事、生活です。命があるうちは、人間が得るべき最高の物を得なければなりません。

 この教えが薄れなければ、コツは成功します。反対に生まれてしまえば、身体を通じた味のために生まれてきた人たちで、何もかも物質主義であり、他には何もありません。タンマは小さな問題で、愚かな人を騙すためにあります。こういうのは望みはありません。

 現代は問題があります。世界は著しい物質主義に陥ろうとしています。そして刻々と世界中に広がっています。だから一方的に間違った方向、理解し合えない方へ引っ張られています。このような知性があり、選ぶことができる自由な人間として、人間が到達するべき最終地点、つまり物質主義ではなく、身体のことでなく、腹や口のことでもなく、精神面の最高に崇高なことに到達するべきです。

 現代人は、食べたり飲んだり、急いで存分に楽しんでしまおうと考えています。明日には死んでしまうかも知れないからです。これは物質狂、肉体狂です。ブッダの時代から現代までそうしてきて、今はどんどん増えています。ブッダが生まれて、人間には心があり、善や幸福や最高に素晴らしい物があること、人間が得るべき最高に素晴らしい物を説きました。私たちは誰に教えられなくても知っています。簡単に言えばそれが涅槃です。

 涅槃についても、もう一度まとめとしてお話しなければならないことがあります。現代は物質や肉体に溺れているので、人々は非常に愚かで、涅槃は人間に関係のない話と考えています。これはどちらも間違っています。つまり寺で長く生活する宗教に厳格な人も涅槃を誤解しています。

 どこで涅槃をするのか、何万、何千回後の未来世か知りません。だからどこにあるのかも知らず、何かも知りません。「ずっと先に生まれた時、いつか、涅槃に到達させてください」と願うしかできません。これは誤解であり、愚の骨頂です。

 もう一つ、涅槃が理解できない現代教育は、涅槃は昔の人、愚かな人の古くさいバカらしいものと見ます。これも涅槃とは何かを知りません。今西洋の後を追っているみなさんは、かならずこうです。涅槃は古くさいこと、私たちの問題ではない。こういうのは注意してください。

 「涅槃」という言葉は「涼しい。穏やか」という意味です。詳しくはもうお話したので、繰り返す必要はありませんが、はっきり言えば、涅槃とは「六処が涼しい状態」です。短く言えば、涅槃とは六処が涼しい状態です。六処とは、目・耳・鼻・舌・皮膚・心であり、外部にある形・声・臭・味・触・考えと連絡、あるいは伝達する物です。

 人間はこれら外部のものと連絡する六処、つまり目・耳・鼻・舌・皮膚・心があります。涅槃は、六処が涼しい状態です。欲・怒り・迷いを放置していれば、六処はいつでも熱くなります。一時目が熱くなり、一時耳が熱くなり、一時鼻が熱くなり、一時体が熱くなり、一時心が熱くなります。欲や怒りや迷いの威力を放置すれば、つまりタンマがなければ六処は熱くなります。その時私たちは輪廻である熱い物に陥っています。

 次に私たちには、仏教の教えで正しく実践すれば成果がある、つまり六処が涼しくなる方便、コツ、テクニックがあり、目・耳・鼻・舌・皮膚・心に関わる苦は生じません。その涼しさには恒久的なものと、一時的な涼しさがあり、後者は再び苦になり、また涼しくなります。阿羅漢の段階まで実践が高くなれば、涼しさがどんどん増えて、二度と苦に戻らなくなります。違いはそれだけです。

 涼しさは同じ、苦も同じです。いま現在、ここで目・耳・鼻・舌・皮膚・心の涼しさを生じさせること、そういう仕事のすべてを「涅槃」と呼びます。

 みなさんは試験に落ちると苦になります。自分が非常に傷ついたという執着が生じて苦になります。悔み、悲しみ、悲嘆、どれかが生じれば苦を作り出し輪廻になります。正しく考えれば「すべては原因と縁によって、なるようになるのだ。原因と縁が十分なら試験に受かるが、原因と縁が不十分なら試験に落ちる」と、自然の法則で考えることもできます。そしてそのことで苦しまないで、落ちたら新たに勉強を始めることができます。

 これを「六処を涼しくする」と言います。しかし将来は勉強や試験の問題だけでなく、いろんな仕事の問題があり、人間関係の問題があり、いろんなこと、そのすべてが苦をもたらします。次にどんな場合でも問題を鎮めることができれば、その件に関しては、部分的、一時的に涅槃です。一時的にその時だけ涅槃にして、最後に二度と苦にならないようになれば、完璧な涅槃です。

 だから涅槃は、私たちと切り離さなければならない物ではありません。いろんな物から苦が生じるのを防ぐために、みなさんの知性と一緒になければなりません。死後の話ではありません。何劫も先の、何百回何千回生まれ変わった後に涅槃に到達するのではありません。そうではありません。ブッダはそう望まれていません。

 ブッダは、涅槃は六処の涼しさで、あればあるだけ、それが永遠なら本当の完璧な涅槃だと明言しています。だからみなさん、最高に関心を持ってください。でなければ生き地獄に落ちなければなりません。ある日ある時、目・耳・鼻・舌・皮膚・心のいろんな問題が生じて、非常に苦になり、一番多いのは心の問題です。敏捷に考えられるからです。

 特に現代は、教育が考える人を作りますが、正しい考えか間違った考えかは保証しません。だから考えが間違った方向になり、非常に苦しい問題になります。気づかないうちに苦しい問題になります。私は「冷たい火」、あるいは「濡れた火」と呼びます。ヒッピーの人たちのように火ぶくれを起こすような火でなく、冷たい火、濡れた火もあり、それも熱いです。それらも苦という意味です。

 みなさんが真実のままに見えなければ、在家として家で暮らしても、涅槃は必要なものと感じません。涅槃が在家に必要なければ、ブッダは在家に空の話をしません。それには理由があります。ブッダが在家に空の話をされたのは、家で暮らす在家のための涅槃があり、それで苦を静めることができるからです。

 だから「できない。世俗のことをするなら世俗のことだけで、タンマのことはできない」という人は愚かで、プラス傲慢です。愚かで、しかも傲慢です。バカも傲慢も止めてしまえば、ブッダが「在家も空の話に興味をもって、適度に目・耳・鼻・舌・皮膚・心の、六処の涼しさがなければならない」と言われたのは正しいと見ることができます。

 そうすれば神経症にならないで、精神錯乱にならないで、自殺しないで、そして最後には頭に血が昇ってヒッピーにならないで済みます。

 涅槃は古くさいと考えるなら、仏教のすべてを古くさいと見るのと同じです。仏教のすべては、今、ここでの涅槃を求めるからです。輪廻の中に涅槃を求めるからです。在家の生活は輪廻の中にあり、善-悪、徳-罪、幸-不幸、など何でもあって、上がったり下がったりしています。それが輪廻です。

 そうならなくても良いこと、安定、静かさ、清潔を維持すること、止まること、自由であることは涅槃です。池を思い出してください。

  「ナリケー椰子は、蜜蝋の海に一本きり

  雨が降っても当たらず、雷も届かない

  蜜蝋の海の中

  行き着く人は、徳を超えた人だけ」

 諳んじてみてください。

 これを、在家でも涅槃と関わることができるコツと言います。手が滑って逃してしまうような、両手で魚を獲ることではなく、両手で同時に捕まえられる種類の魚を両手で獲ることなので、成功します。この魚は、もう一匹の魚を熱くしません。だから「今世界の人、一般の人は、腹や口の話、食べていくことをするべきで、宗教や涅槃に興味を持つべきではない。はっきりと区別しなければならない」と捉えないでください。

 一回目の講義で、みなさんの生活は二頭の水牛に牽かせなければならないとお話ししたように、二つ揃っていなければなりません。二頭の水牛を飼います。一頭の水牛は職務に関するテクノロジーで、もう一頭の水牛は、精神・魂の輝きです。二頭の水牛が並んでいれば人生は最高に快適で、大混乱する必要はありません。これがコツです。これがコツでなければ、これ以上何を話したらいいか分かりません。これが最も少ない投資で最大の結果を得るコツです。

 僧だ在家だと分類しすぎて、合わないと誤解させてしまうコツもあります。私は、在家でいながら僧になってしまいなさい、と言います。みなさんは今、あれこれ仏教の高い教えばかり聞いています。こういうのは全部僧のものです。

 戒、サマーディ、智慧、聖向である涅槃の話をすると、「お坊さんのを使うなんてバッカじゃないの、オイ」という考え、理解が生じます。お坊さんの教えを勉強して実践するようなのはバカだと。本当は、そうではありません。お坊さんのものではありません。お坊さんのものと、勝手に愚かな理解をしているだけです。

 滅苦には、お坊さんのも在家のもありません。心のこと、精神のことは、僧の物、在家の物と分けません。執着をなくすこと、あるいは欲望をなくすこと、聖諦、八正道は全部同じで、僧も在家もありません。在家も僧と同じく、ブッダと教えと僧を信仰しています。僧も在家と同じようにブッダと教えと僧を信仰しています。

 そして僧も在家も、実践する教えも、戒・サマーディ・智慧、欲望煩悩を滅すことで同じです。違うのは遠くまで行けるか、たくさん進めるか、あるいは少ないかだけです。僧のすることは全部、内容的には、要旨としては、在家のことでもあります。しかし僧仲間で呼び合う名前を決め、僧の間でだけ話されているので、「僧の話」と理解しています。

 パーティモッカをすることなどは、みなさん僧の話と考えているでしょう。その通りです。ブッダは半月に一度パーティモッカをするよう規定しています。しかし在家はしてはならない、僧だけがする話と限定していません。

 みなさんが毎週、あるいは半月ごとに律の何かを読んで、法律や規則に反しないよう、自分自身に注意を喚起することもできます。だから僧も在家も「パーティモッカサンヴァラ」を使うことができます。僧は僧の規律に注意し、在家は在家の規律に注目します。

 僧に根律儀(六根を慎むこと)がある時は、目・耳・鼻・舌・皮膚・心に注意して、触れてきた物に平然としていられます。在家もそうするべきです。でなければ生き地獄に落ちます。目・耳・鼻・舌・皮膚・心を通して、私たちに降りかかってくるものに注意して、それらが毒や危険にならないようにしなければなりません。僧と同じにはできなくても、同じようにします。程度の差だけにします。

 僧のはもっと重いです。たとえばパッチャヴェーカナ・チーヴァラ(衣省察)、托鉢、座臥所などを、僧は毎日唱えなければなりません。在家は関係ないと理解しないでください。在家もするべきです。しなければ低劣な在家になり、苦があります。

 パッチャヴェーカナ・チーヴァラの言葉は、『この衣をまとうのは、暑さ寒さ、蚊やアブ、風や陽射しを避けるためだけに』、あるいは『僧衣を着る人も、使う人も、その僧衣も、人間でも動物でもない』とあります。

 在家でそう考えることができれば善い在家で、装いに関して浪費することも、衣服や装いでイライラすることもありません。だから衣服に関して、在家も僧のようにし、必要を越えないでください。必要最小限にする人のようにします。

 食べ物の話、パッチャヴェーカナ・アーハラビンダバータ(托鉢省察)は、自分が必要なだけ食べるため、過度にならないよう、あるいはガツガツしないよう、あるいは美しさや滋養を好まないよう、自らに注意を喚起するためです。在家も簡便で働くのにちょうど良い食事に関して、これを実践することができます。

 クルンテープ(バンコク)にいるのに、美味しい昼食を食べに車を運転してノンタブリ(隣県)へ行く必要はありません。これはバカがすることです。こういう原則で生きていれば、在家は生き地獄です。

 しかし僧のようにパッチャヴェーカナ・アーハラビンダバータの教えで、身体が必要なだけにすれば、働くのに快適便利です。みなさんも唱えて憶えているので、私が言う必要はありません。パッチャウェークの経を還俗しても忘れずに、今までどおり唱えてください。

 座臥所についても同じです。人間としての快適さを受け取り、人間の最終目標に到達するためのだけ、寝たり座ったりする場所を使います。うっかり大きな家を建てれば、必要以上の重荷になります。それを手に入れるにはたくさん投資しなければならず、苦労をしなければなりません。

 時には、初めから欠陥があることもあります。そうならば維持しなければならず、維持管理に非常に費用を掛けなければならず、維持できても心配で、心が憂鬱になるほど神経を使います。

 だから「小さな鳥は身丈に合った小さな巣を作る」という諺があるように、必要最低限の家にします。大きすぎる巣を作れば人が笑います。住んだり使ったりするのにちょうど良い、人間の義務や仕事をするのにちょうど良い、必要なだけの便利さにしてください。これが座臥所の話です。家屋や家具調度、何であれ家に関連のある物という意味ですが、僧のパッチャヴェーカナ(省察)のようにしてください。

 ここのような掘っ立て小屋に住まなければいけない、在家になってもこういう小さな掘っ立て小屋に住まないといけない、という意味ではありません。そうではありません。ふさわしい所ならどんなでも構いません。しかしその意味を知って、心が溺れないようにしてください。

 最後は医薬品についてです。パッチャヴェーカナするのは、あまり大変すぎないようにするためです。適度に、必要なだけにします。必要の範囲を超えて不可能なら、死なせても良いのです。身体は七転八倒する必要はありません。

 しかしその他の生活規律を正しく実践していれば、病気にならないし、高価な特別の薬でなくても軽減することができます。心臓移植の手術などというレベルの話はバカな話です。必要ありません。死ぬか死なないかも、自然に任せるべきです。命を治療する医薬品に関しても「足ることを知る」(普通のもので満足する)べきです。

 つまり僧の四つのパッチャヴェーカナは在家も同じです。しかし出家者式の名前で呼んでいるので、在家の人が聞くとびっくりして、僧になってお寺に住まなければならないのかと心配します。本当は、内容として、意味としては同じです。

 食事の適量についてはまた別の話です。僧が精神的な努力をしようとする時は、在家より少量しか食べません。在家が体力を使う時はたくさん食べます。しかし程度、適量というものがあります。適量の食事も、僧も在家も同じように厳しく実践しなければなりません。

 本当の僧の生活はそれ以上で、チャーカリヤーヌヨーガ、つまり少なく眠ることは精神の訓練になるので、多眠しない僧にふさわしいです。在家は体を使うので、僧のように短い眠りでは足りません。しかし在家にふさわしい短い眠りにしなければなりません。

 頭陀の話、頭陀で行脚するのは、誰でも僧だけの規定と理解しています。だから考察してみてください。一日一回だけ食事をし、食器は一つしか使わないという、意味だけを捉えます。つまり無駄をしないで必要なだけ食べます。必要な回数だけ食べ、必要な食器だけ使います。便利でちょうど良いだけ。過剰にしないでください。

 三枚の僧衣のように、在家も必要なだけ、ふさわしいだけの衣服にします。有り余るほど持たないでください。他のことも同じです。意味をまとめればサンドーサ(知足)で、在家が頭陀をするのと変わりません。つまり働くのに便利な、生きていくのに必要十分なだけの、有り余らない生活です。これを頭陀と言います。在家でもすることができます。

 他のことも同じです。とても全部を取り上げて話すことはできません。最後に忠告したいのは、ボディーサッタ(菩薩)の理想についてです。在家は、ボディーサッタになることができます。広い世界が無理だったら、家庭内で、ということにしましょう。

 家庭内の人を助け、バーラミー(最高の目的を成就するために積む特別な徳)を積みます。あるいは力の限り、能力の限り周囲に範囲を広げれば、ボディーサッタの理想を持つことができると言います。だから家で暮らす在家も、仏教の要旨で何でもできます。これがコツです。

 次にお話したいのは「趣旨で」、あるいは「要旨で」、あるいは「本等の内容」で実践するというのは、間接的にという意味ではないということです。一緒にして混乱しないでください。「要旨で」というのは、「間接的に」ではありません。間接というのは、要旨からずれていることです。要旨でというのは直接です。

 在家が僧の問題を要旨で実践すれば、それは直接実践することです。間接ではありません。間接的にと言わないでください。今挙げた僧が実践するいろんな実践項目を、要旨を正しく捉えて要旨ですれば、在家も直接実践することができます。間接ではありません。度合いや何やらは同じである必要はなく、レベルも同じである必要はありませんが、要旨はいつでも同じです。

 だから在家も僧も、要旨が重要です。つまり、今苦から滅苦へ向かって歩いていること、それが要旨です。在家は両肩に荷を背負っているので、歩みは遅くなり、僧は片方しか、あるいは何も背負っていないので、早く歩けます。

 要旨と呼ぶものが一番重要です。何でも要旨で見て正しく、まっすぐに捉えてください。仏教の教えなどを、現代は真っすぐに捉えていません。要旨を誤り、原則を誤っているので大混乱になります。

 偽物の仏教が腫瘍のように増えています。要旨を捉えること、要旨を掴むことができないからです。宗教で物質的に繁栄しても、そこに仏教はなく、滅苦もできません。街中、国中にお寺を建て、仏塔を建て、国中が黄金で輝いても、要旨を間違って捉えていれば、どうしようもありません。

 仏教の要旨は清潔で明るく冷静な心になることです。本堂や仏殿や仏塔、あるいは僧衣やら何やらを溢れさせることではありません。だから要旨が大事と捉えてください。言葉も大切ではありません。いろんな儀式も大切ではありません。大事なことは、要旨を正しく捉えなければならないことです。

 現代は習慣を重んじすぎます。社会は仏教学と習慣等を信じています。習慣には注意してください。外皮にまんまと騙されるかもしれません。仏教学にも十分気をつけてください。饒舌な哲学になるかもしれません。要旨として正しくなく、滅苦になりません。

 伝統儀式も同じです。目的や要旨が間違っていれば、妄信になります。仏教学は要旨でなければならず、哲学ではありません。宗教である学問は、サート(学問)でなければなりません。学問は刃がある物で、愚かさを断つ、身勝手を断つ、欲望、煩悩を断つ刃があります。本当の宗教なら、直接貪欲・怒り・迷いを断つ刃でなければなりません。これを要旨と言います。

 習慣なら、その習慣がなければするのが不便な行動を、便利にするようにしてください。朝これをして、夕方これをして、今月これをして、来月あれをして、と習慣にしておけば、正しい習慣で、秩序があります。こういうのなら伝統習慣は利益になります。しかし良く調べないで鵜呑みに信じてすれば、何の利益もありません。

 だから「正しく」と「適度に」と「揃って」という言葉を憶えてください。哲学の「正しく」「適度に」「全部揃って」のように聞こえますが、そうではありません。私は哲学が大嫌いです。「正しく」「適度に」「全部揃って」は哲学のように聞こえますが大丈夫です。要旨はそこにあります。「正しく」「適度に」そして「全部揃って」に要旨があります。

 みなさん何をするにも、この三語を思い出してください。「正しさ」も適度に、です。正しすぎては敵いません。正しすぎるのは誤りで、良すぎるのは悪です。正しさも確実に正しく、そして適度です。正しさも適度に。過ぎてはいけません。そして「全部揃って」いなければなりません。あるべきものを全部揃えます。それが要旨です。

 「仏教の要旨」と言えば、在家の人、一人一人が実践する仏教の教えで「正しく、適度に、そして全部揃って」という意味になります。こういうのを、仏教の外皮でなく、要旨を捉えることができると言います。

 復習させていただきます。「要旨として」は「間接的に」ではありません。「意味として」あるいは「要旨として」は「間接に」でなく、直接です。要旨としては、正しく、適度に、そして全部揃ってです。在家がこのように教えを遵守すれば、在家のまま僧になることができます。

 つまり仏教、あるいは僧、あるいは話の要旨を掴んで、心の問題である自分の生活の一部分にします。本当の在家の問題、腹や口や妻や子や生活の問題などは、身体の問題なので身体の部分の問題とします。みなさんは二頭の水牛、つまり体と心に人生を牽かせます。これで生活に欠ける物がなく、全部揃って十分正しいので、順調になります。

 こうすれば、密林の中でひたすら何かをしている僧より、早く聖向聖果涅槃に到達します。これはちょっと下品です。お詫びしなければなりません。しかし最高に真実です。

 正しく実践する在家は、僧の仕事に執着しすぎるバカみたいな、どこぞの僧より、早く聖向聖果涅槃に到達します。一人で森に何かをしに行く人は、在家より後ろにいます。だから、どうぞ「正しく、適度に、全部揃って」に関して、耳目を開け、明るい知性があり、自分に要旨である仏教がある在家でいてください。 

 今はコツについてお話しています。こういうコツです。要旨を捉えなければならないこと、それが最高のコツです。これ以上のコツはありません。要旨を捉えること。それがコツです。


 少し時間が残っているので、要旨を掴むコツについて、もう少しお話したいと思います。簡単な言葉でまとめるのは、私が何度も話した言葉を、思い出していただきたいからです。私は何十年もこういう仕事をさせていただいて、いつも観察していると、短い言葉でまとめるのは、聞く人にとって非常にためになるということが分かります。

 それでいつも使っているような、いろんな言葉が生まれました。まとめた言葉は、様々な人に合わせているので、それぞれ違っていますが、どんな人たちにも使うことができます。みなさん聞き慣れているように、「死の前に死ぬ」という言葉もあります。

 スアンモークへ来る人は、「死の前に死ぬ」学位をとるために来ます。身勝手なエゴイズムの類の「俺、俺の物」を、肉体が死ぬ前にすっかり死滅させます。まだ身体が死なないうちに、傲慢・高慢・俺、俺の物を死滅させます。これを「死の前の死」と言います。

 死の前に死ぬよう努力して、傲慢や頑固、欲張り、怒り、迷いなどになる「俺、俺の物」を無くします。これを「死の前に死んでしまう」と言います。非常に涼しいです。死の前に死んでしまうを教えにすれば、六処は非常に涼しいです。

 みなさんが自分で考えても構いません。これを見本にして後で考えても結構です。もしかしたら、もっとみなさんにふさわしい言葉があるかもしれません。しかし私はこう考えて、庶民には、清信士・清信女には「死の前に死んでしまう」と言っています。一日にこの「死の前に死んでしまおう」を何十回言っているか分かりません。これはたった一行にまとめた教えです。

 率直に言うと、たまに面白みがない時、ピンと来ない時は、謎めかせて遠まわしに言います。もう一つ、今何度も話しているのは「滅苦では、心と口は違う」です。一般の人たちが聞いたことがあるのは「心と口が違う」で、つまり「付き合えない」「ずるい人や正直でない人と付き合ってはいけない」という意味です。心と口が違う人は嘘ばかり言います。それは一般人の話、普通の人の言葉です。

 しかしタンマ語で言う「心と口は違う」には別の意味があります。口では他の人と同じように話しますが、心はそうではないという意味です。口では一般の人が言うような言葉を話しますが、心では真実が明らかに見えます。

 ブッダはこう言われています。「私は庶民のような言葉で話さなければならないが、心は庶民が執着するように執着しない」。

 一般の人が「私の家」と言えば、本当に「私の家」です。私の身体と言えば、本当に「私の身体」です。愚かさと迷いと欲望で、本当に自分の物と執着しています。しかしブッダが「私の身体」と言えば、口ではそう言っても、心では「私の身体」と執着していないので、自然の身体です。身体を自分のものと執着で強く捉えません。一般の人は何でも言っているように強く執着しています。だから、口と心が違う練習をしましょう、と教えます。

 口で「私の」と言っても、心は「私の」にしないでください。口は「私」と言っても、心は「私」にならないでください。すぐに傲慢になります。これを「心と口は違う」と言います。口ではいつものように「私」と言っても、心は口のようになってはいけません。

 口では私、私の、私の妻子、私の責任など何を言っても、意味を通じさせるために普通に使うだけで、心ではいつでも、すべては自然の物と知っていてください。利益になるようにそれらと正しく関われば、苦はありません。目指す結果は苦がないことです。だから「私」の物にしてはいけません。

 キリスト教徒たちより不利にならないよう、恥をかかないように忠告したことを忘れないでください。聖書にも同じ教えがあります。「妻があっても妻が無いように、財産があっても財産が無いように、苦があっても苦が無いように、幸福があっても幸福が無いように、市場へ買い物に行っても何も持ち帰らない」とあります。

 外部の行動は何をしても自由です。しかし心の中は、口で言ったのと、あるいは行動として現れたのと違います。心は俺、俺の物と強く捉えないという意味です。私、私の物、私が買った、私の物、と仮定しても、真実は自然の物です。心では私、私の物と捉えないで、消費したり食べたり、何に使うこともできます。

 これを知性で生きると言います。愚かさ・迷い・煩悩欲望で生きるのではありません。知性は、すべては自然の物と見せます。自然の物を略奪する盗人にならないでください。それらを自然の物として食べ、使い、関われば、生涯穏やかです。

 自然の物を略奪して自分の物にすれば盗人ですから、とたんに自然から平手打ちを喰らいます。つまり執着で心が重くなって、イライラします。だから自然の物を奪う盗人にならないでください。これは仏教教団員の捉え方です。

 他の宗教では、神の物を奪って自分の物にしてはいけないと、言っています。食べて、住んで、使って、何でもしますが、自分の物と捉えません。神の物を奪えば、神が罰を与えます。それだけです。

 これを、口と心は違うと言い、涼しさだけです。六処は涼しい涅槃です。悪い意味の「口と心は違う」の方は、どうしてそういうことができるのでしょう。誰でもしています。社会では嘘偽りばかりだと聞いています。顔を合わせると手を握り合い、笑って有難うとか何とか、気持良い素振りをして、しかし内心では痛烈に復讐しようと考えている、なんていうのもあります。

 リングでボクサー同士が握手をさせられて、握手をします。あれは嘘です。口と心は違います。表に出る行動は行動。しかし心は別です。リングの中で殴ったり叩いたりすることからも明らかです。こういうのは身勝手を増やすばかりで、減らしません。こういうのを偽りのスポーツと言います。口と心が違うからです。そういうことができます。しかし私が「してください」と言っている「口と心が違う」は、そういうことをしません。

 もっと正しく、もっと本物で、自然の物を「俺の物」と言ってはいけません。神の物を「俺の物」と言ってはいけません。借りて使うと見なします。自然は一生貸してくれます。神も生涯貸してくれます。この方がいいです。だから皆さんの生活は苦のない、恐怖のない生活です。苦のない生活と言います。一言ですべてを含みます。つまり問題も、恐怖も、驚愕も、心配も、何もありません。

 これが、人間として可能な限り善い生き方をするコツです。人間にできる最高に善いことと言います。これで終わりです。何もありません。生まれてきたのは、人間が得られる最高の物を得るためです。すごく簡単です。しかしみなさんの大学では、こんな簡単なことも教えません。

 だからみなさんは、何故生まれてきたのか知りません。何のために生まれたのか知らないということは、何も知らないということです。善と悪、徳と罪など何も知らない上に、興味もありません。なぜ生まれてきたかを知ることに興味がないからです。

 今回は、夏休みの間だけ出家したみなさんにとって、最後の説教になります。還俗して在家に戻る時に、何を知るべきでしょうか。それを望んでいる皆さんに何がふさわしいか、最も良いものを選びました。だから「在家のタンマ」と題して、在家に必要なだけ、そして最大の結果があるタンマを、この講義でお話しました。

 「在家のタンマ」と言います。ここにいるみなさんだけのためのものです。余所で人々が話している「在家のタンマ」と違うからです。余所のは狭すぎて、食べていくことしかありません。私は、在家でも仏教を捨てることを認めません。

 半分は身体で、生活して行くことをし、もう半分は心・精神で、明るく輝いていなければならず、そして両立させます。それが善い在家で、それ自体、いつでも内面は僧です。しかしゆっくり歩いて行く僧です。

 これが世界で最高に素晴らしい在家と結論させていただきます。仏教教団員式の在家であり、支えである仏教の教えがあるからです。これを理解してください。そしてお話したような要旨で正しい実践をし、毎日毎夜、教祖の仏教で発展、成長、進歩してください。




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