在家が目指すべき方向

 

                                               1970年10月9日

 ご存知のように、今日は戒条を解かれる人のための特別講義です。だから戒条を解かれる人に関わる、思いついたいろいろなことをお話します。とくに在家、俗人、呼び方次第ですが、それに関する話です。

 最初に言ってしまいたいのは、在家に関する教えは、ブッダが本当に言ったのかどうか、という問題です。この問題は、一般にある教えで捉えなければなりません。つまり、これはブッダが本当に言った言葉かどうか、という問題がある時は、マハーパテーサ(四大法教)を判断の基準にするという教えを使います。

この宗教、あるいは純潔に関わる大教えと一致していれば、経と一致する、律と一致すると判断します。つまりブッダが言ったとします。三蔵の中にあるというだけでブッダの言葉だと主張するのは、正しくありません。それにブッダ自身が禁じています。在家に関わる話も三蔵の中に、在家についてだけ述べた長い経があります。なぜこれほど長いのかと疑念を抱く人がいるほどです。

 長編の経をディーカニカーヤ(長部)と言います。ディーカとは長いという意味です。経として最も長く話された経を集めたもので、ブッダが一つのことについて、これほど長く喋ったとは信じられません。たとえば大念処経などがそうです。一度にこれほど長く話すのは不可能です。そこで幾つかを合わせて編集し、後世の結集の時に三蔵に入れたのではないかと推測されます。

 だからと言って、教えと捉えるのを止めるという意味ではありません。今までどおり経と一致する、律と一致すると見なします。他の経や律になくても、経と一致し、律と一致すると見なし、ブッダが言ったと見なします。だから重要な教えは、たとえ直接ブッダの口から聞いたとしても、直接ブッダの言葉でも、すぐには信じないで、理由があるか繰り返し考えて、それから実践して、それから信じてください。

 在家に関わるこの長い経にも、仏教の教えと一致する、経と一致する、律と一致すると見ることができる根拠があります。たとえば経の冒頭で、昔から教えられている古い方法で方角を拝む人たちについて述べています。そこでブッダは、「文明人たちはそのように方角を拝まない。彼らは聖人の、あるいは文明人のやり方で拝む。方角を六方に分けて、このようにすれば、文明人の方角の拝み方になる」と言っています。

 この項目は正しく、より明るく、より智慧であるということが明白に見えます。それに「ブッタとは智者、覚者、明るい人」と言われる仏教の要旨である教えと一致します。だからこのように方角を拝むことはブッダ、つまり智慧のある人の行動です。

 もう一方の東西南北を拝むのは、伝承されてきた儀式、あるいは何らかの意味が隠れていますが、拝んでいる人は知りません。吉祥で縁起が良いと考え、ただ拝むだけなので盲信です。ここで知性の話、明の話、理由を知っている話、本当の話になりました。仏教の経や律と一致しているので、知性になります。

 「方角」という言葉の意味をこのように解釈すると、いっそう内面に知性が生じ、論理的になって、これは直接、あるいは間接的にブッダの教えだと分かります。だから、ブッダの教えと見なします。つまり、もしブッダならどう言うだろうかと考えれば、きっとこう言うに違いない、という間接的な根拠があります。ブッダなら必ずこう言うという理由があります。だからこのように述べる言葉はブッダが言った言葉です。これは直接ブッダの言葉でなければならないという意味ではありません。

 ブッダが言った、あるいはブッダなら必ずこう言うと、一般に見なされている教えでも、他の人の言葉ということもあり得ます。だから、ブッダが直接話したとは信じがたいほど長い経の数々は、容認されて三蔵の中にあります。

 さて、ディーカニカーヤのパーティカワッカにある、シンガローワーダ経と呼ばれる経の話になりました。これも在家に関わる経として完璧な形、あるいは教えと言えます。枝葉末節の細かい部分は、他にもあったかもしれませんが、この経と変わらないので、全部この経一つにまとめたのかもしれません。つまりこの経は、六方すべてを集めた大切な題目です。だからブッダが話した在家だけに関わる経とされています。

 まだ残っている問題として、ブッダは執着しない話、あるいは空の話、あるいは無我の話の他は話さない、という教えを捉える問題があります。だからその種の教えは要旨、あるいは仏教の要旨という意味だということを忘れないでください。細々した話は、要旨である話の添え物と見ることができます。あるいは世間一般の話と見なします。

どの宗教の教祖でもそうですが、質問次第で、いろんな問題に答えなければならない義務があります。つまり教祖の知性は、どんな問題にも答える準備がある訳です。仏教にかぎらず他の宗教でも、孔子も、一般の人に関わる細かい問題について質問されれば、基本の大原則で、どういう問題にはどう答えるというように、何でも答えることができました。

 老子は、仏教と同じ、「自我はない」という深い問題を教えたことがあります。つまり世俗の人が溺れているものの欺瞞性を見るようにと。最も称賛される老子の教えの原理は、世俗の人が惑溺しているものに潜んでいる、あるいは一般の人には見えない欺瞞性について述べていることです。そこで民衆の問題、家族の問題に関して答えを求められれば、老子はその教えで、奥深くて利益になる回答をすることもできます。

 仏教は執着しないこと、それらのものに惑溺しないことを教えますが、家族のこと、妻や子供のことを質問しても答えることができます。他の経、サンユッタニカーヤ(相応部)の中に明確な根拠があります。そのほとんどは、正真正銘の在家の人が、在家の実践項目について尋ねています。

ブッダはその在家に対して、「在家の人は空について知り、空を実践しなければならない」と答えています。つまり執着して苦を生じさせないことです。だから、その経で在家に空の話を教えることは、矛盾しないと捉えなければなりません。

その経で妻子のこと、家庭のことを教えているのは、空が見える人でも、まだ在家のこと、このような家庭のことを実践しなければならないという意味です。そうすれば空という大きな教えと一致します。つまり空が見える人でも、両親や妻子、夫や子供などに対して実践しなければなりません。

 だからローグッタラ(俗を超えたもの)とローギヤ(俗であるもの)は、敵同士で向き合うことができない、と理解しないでください。そう理解してはいけません。これについては、以前に、在家の人も涅槃に行くための教えを持たなければならないと、繰り返しお話してきました。しかし歩みは遅いです。ごちゃごちゃと背負ったり担いだりしているからです。

在家、あるいは俗人と出家者の違いは、ごちゃごちゃしたものがたくさんあることで、外部のことです。精神面では、涅槃に向かって正しく歩んで行かなければならない出家と変わりません。だからこの話で「方角」という言葉を使うのはふさわしいです。方角という言葉は歩いていかなければならない方向という意味だからです。六方と言います。

 方角(ティッサ)という言葉について少しお話したいと思います。ディサーとは見える、あるいは現れるという意味で、つまり見えてしまう物、避けることができない物です。見えれば現れています。見ている物でも、見えた物でも、それは現れた物です。だからみなさんが知っているように見分けることができます。

つまり東西南北は、現れたそれぞれの方角です。人間が太陽を見た時から良く知られています。人間がまだ野蛮で何も知識がなかった頃でも、朝太陽がこっちから昇り、夕方あっちに沈むのを見ました。太陽から顔を反らせば右と左の両側が生まれます。それで右と左の方角になります。どんなに細かく分けても、方角として意味があります。

 だから方角という言葉の意味は一つ、つまり必ず見える現象です。その後東西南北になって、いろんな名前で呼びます。そして宗教ではあと二方向、つまり上下を足して六方になります。たった三語だけに略して方角のことを呼ぶ言葉があります。上方、下方、そして遮る方向である四方です。パーリ語では下方と遮る方角です。このように、上と下と、そして身の周りである最重要な大原則に注目しているということです。身の周りとは、東、西、北、南です。

考えてみてください。身の周りはどこも同じで、細かく分けると東西南北になります。大きいのはむしろ上と下です。このように六方に分けるのは正しいです。つまり上方は上方、下方は下方、遮る周囲は四つに分けても、八つに分けても、十六に分けても自由です。

しかし重要なのは四方向だけ、つまり前後左右です。これは自然に見える、あるいは普通の自然の感覚で方角に分かれます。人は自然に前後、左右、上下を感じます。だから良い教えだと興味を持ってください。

 この六方全部を知れば、人間が関わらなければならないこと、すべてを知っているということです。上はずっと先の涅槃という意味でもいいです。下は深く地獄という意味でもいいです。そして周辺には何があるか、あるもの次第です。つまり人間が対処しなければならない、避けることができないものすべてを意味します。これを方角と言います。

 還俗するために出家したみなさんが方角について知ることは、非常にふさわしいことです。還俗していくみんなさんが方角について知ることは、非常に大切なことです。還俗しても何も切り捨てることなく、完璧と言われる人間の役割を十分に果せるからです。それらはどれも、かならず方角に関係があります。十分な負担が能力をたくましくするので、どの方角にも正しく行動することができます。

 タイ語には一つおもしろい言葉があります。同音のティット(方向)とティット(学者)です。本当はヤンディットという言葉から来ています。どこかの修道院で修道し終わって、修道院長から「終了した」と保証された人を、バンディタと言います。それから、例えば在家に戻って所帯を持つなど、自分のしたいことをします。それに、修道院に入る目的は、戻って所帯を持つためで、こういうのがあります。勉強が終わると、昔からバンディタと呼びました。今でもそう呼んでいます。どこかの団体で、その教育課程を修了して、世俗に戻る準備のある人という意味です。

 タイの文化がインドから持ち込まれた物であることは言うまでもありません。文化でも宗教でも、色んなことを、インド人が先生として教えました。高度な言葉、王族語、上流の言葉、そして宗教の言葉など、全部教えました。だから上流のタイ語は、全部インドの言葉です。つまりパーリ語、サンスクリット語です。だからインド人がこの制度をタイが持ち込んで、何かを勉強し終わるとバンディットと呼びます。宗教を満足するまで学んで還俗すれば、それもバンディットと呼びます。

 インドの発音ではバンディタ。タイ語ではバンディット。これが元の形です。これはパーリ語ともサンスクリット語とも一致します。パンダとは智慧という意味で、パンニャーと同じです。イタとは至る、あるいは有るという意味で、バンディタは智慧があるという意味になります。つまり生き抜く智慧がある人という意味です。バンディタは生き抜く智慧がある人です。

 次にタイ語は、本当のタイ語に変化して、バンディットになりました。バンは重要でないのでディットだけタンマダー残りましたが、当然バンディットから来ています。このディットという言葉のために、何らかの教育機関は満足するものであり、受け入れられるものだったのでしょう。だから、ディットに娘を嫁がせるのを喜ぶ人がいます。その後、良い機会と見ると大々的に出家するのに慣れ、ディットは低劣になりました。バカみたいな人も出家し、そして戻ってくればディットになり、バカみたいなティット(方向)になり、からかう言葉にました。

 愚鈍で足りない人でも、出家して戻ってくればティットか何かです。タイ語では、末音の t と d が同じ発音になるからです。t なら正しく、d なら愚鈍で揶揄です。だから還俗してディットになるには、学者という意味の t にしてください。揶揄する d にしないくでださい。

 正しいディット、つまりバンディットは、六方向に正しく実践しなければなりません。方向について知れば、良いディットになれます。綴りは違いますが、発音は同じです。だから還俗していく人は、方向について正しく知らなければなりません。そうすれば六方向の善い実践ができます。

 

 次に方角の順序についてお話します。自然の原則、あるいは科学ならば自然科学による観察項目を示したいと思います。パーリ経典の順序は、東が初めで、次に南、西、北で、私たちのほとんどが言うのと同じです。それから上下です。これでもいいです。つまり東から初めて右回りに四方を回って方向を決めることもできます。

しかし自然にすると憶えやすいです。前後、左右、そして上下です。子供でも理解できます。それが東南西北、上下です。良く言われるのは、東西北南です。教科書には東南西北と、縁起の良い右回りに並んでいます。それを神聖と捉えるのは、かなり規則的な教えがあるからです。右回りに四方を回り、そして六方にします。子供のようにごく常識的な感覚で見れば、前と後ろ、腕が両側についているので、左、右と呼び、前、後、そして頭の上、足の下です。

 このような状態の方角になったら、どの方角が何を象徴としているかという意味を教えます。パーリ語では東、つまり前から話が始まっています。どっちを向いていても、前方はどこよりも重要と見なすので、そこに両親を置きます。前方に両親が現れます。

後方には自分より重要性の低い人、あるいは後ろに牽いている人だから、妻や子供です。経では妻子について述べています。夫について述べていないのは、若い男性に話しているからです。もし一般的な教えにするには、夫についても述べなければなりません。

次に左右ですが、左は友達、右は先生です。それぞれ意味が違います。両親、妻子、親戚友人、そして先生。上を仰ぎ見れば、サマナやバラモン、下を見れば使用人や労働者、奴隷、雇い人です。これで途端に良い原則になったということが分かります。在家に関わるすべてが揃っています。もし、国はどこに置くのか、国については述べていないと質問する人がいたら、どの方角になるか、みなさん自身の知性で考えてみてください。

 初めに考えなければならないのは、これは個人に対して話しているのであって、社会や地域に対して言っているのではないことです。だからむしろ家庭の中の個人の問題です。と言っても国について考えない訳にもいきません。これらすべての基礎ですから。

 国も身の周りにあるべきで、少なくとも四方どこにでもあります。右側の全部を集めれば国になります。それは四方全部を集めたものであり、私たちが考えなければならないことです。しかし意味を狭めれば親戚友達の中、つまり左です。なぜなら国中の人はすべて親戚か友達だからです。

 これでは、国を軽視していると感じる人がいるかもしれません。しかし、私は左側に含まれると言います。つまり親戚と友達全部が国です。私たちの国は、親戚や友達のように一つになって暮らしています。納得できなければ四方全部を国とします。

 あるいは心も精神も含めて、上も下も入れます。これは文字には現れません。国を切り捨てずに、こういう意味を知っておいてください。このように拡大解釈してください。そうしないと、ブッダは一切智、つまり周囲のことを何でも知っている人でなくなってしまいます。

 そのように矛盾を感じたら、それは解釈する私の無知としてください。ブッダは国を尊重せず、国について述べていないので、国家主義ではないと解釈する必要はありません。そう解釈しなくてもいいです。もちろんそう解釈することもできます。

 いま私はタンマについて話しているので、世界についてではありません。世界のこと、子供のこと、妻のことなどについて話しても、タンマの面から、国家主義や煩悩である感覚を作らないよう話しています。このように見えます。

しかし当然国家主義の話もあります。そしてそれも、タンマでなければならないことを忘れないでください。だから国家主義があれば、国という感覚をタンマの教えで正しく捉えてください。タンマのある国家主義なら更に良いです。つまり国民である私たちが人間として責任を取り、それが最善の結果を生じさせます。こういうのも、良い意味での国家主義と言います。

還俗して「知識者」と呼ばれる人たち(タイでは出家経験のある人を知識者と呼ぶ習慣がある)は、避けることができません。世俗にいれば、かならず責任を持たなければならない国があるからです。この責任を取らなければならないという教えを、大原則にしてください。

責任に欠ければ、文明人ではありません。そして石器時代の原人でも責任があったということを忘れないでください。責任と呼ぶものを感じ始めました。現代も非常に責任があります。それは人間性を計るものなので、国や宗教や、国王や憲法に責任を取らなければなりません。なぜならこれらは、個人個人のこういったものの基本だからです。

次に、仏教の教えは狭い目標であるという、もう一つの項目になりました。分析的な哲学、あるいは analyse であり 、全員に善い行いをさせるのではなく、個人に善い行いをさせることを教えとしています。一人一人が善い行いをすれば、全員がそういう行いをすれば何も問題はありません。それは practical 、つまり全員が善い行いをするよう強制するより、簡単かもしれません。強制するのは大変ですから。

もし各自が一所懸命善い行いをすれば、自然に全員が善い行いをすることになります。だから個人の話として六方の話をすることは、全員が正しく六方を実践すれば、全員の所属する社会、あるいは国家にとって良いことです。だから、みなさんがしっかり六方を実践することも、問題解決になります。

これは、出家してブッダの修道院の学徒になり、還俗して「知識者」になるという項目です。知識者とは、すべての方角に対して正しく実践できる人であり、三ヶ月間の出家、あるいは若者の伝統習慣で出家したことにふさわしいです。三か月、あるいは雨安居の間、あるいは二年間でも、本人の自由ですが、短い期間出家して還俗することには、このような意味があります。本当は仏教の本来の目的ではありません。

ビルマやスリランカのように、仏教を厳格に捉える国では還俗しません。初めから還俗するために出家する習慣や制度はありません。タイも初めはそうだったと思います。その後還俗できる制度、還俗できる習慣が生まれ、還俗できることが好まれたのかもしれません。出家の目的も変化し、善い在家になることを学びます。若者が三か月から一年余の間出家して、精神的な意味で完璧な人生を送るため、明るい目や耳のある在家になるためです。

昔は世俗的な教育も、お寺以外には何もありませんでした。だからお寺で出家することは勉強のためだったので、精神面のことも、世俗的なことも、体のことも、何でもお寺で勉強しました。職業訓練もお寺でしました。タンマのこと、聖向聖果、涅槃のことまで、全部お寺で勉強しました。

だから出家してお寺に入ると、二つの学問を学びます。取りあえず一定期間出家しなければならない人にとっては正しいことです。それから還俗して賢くなります。愚かではありません。これは、取りあえず出家して学ばせる、タイ文化の賢さと見なければなりません。仏教の目的は、俗世界を通過した人が、その後高度な幸福を求めて出家することが本来の一般的な教えであるとしても。

しかしみなさんがこれを勉強してそれぞれの方向について知るという、今の時代だけの、この場合だけの教えがあれば、在家として普通に生き易くなるので、学ぶ必要があり、それがタイの仏教に関わる新しい伝統習慣になりました。

あるいは出家したことのない若者は、公務員になってから補填のために一時的に出家する人がいますが、これでも形になります。つまりまだ学んでいないことを学ぶためです。得な出家だとか、出家して休養するなどと見るべきではありません。学ばなければならないことは、みなさんたちの時より多いからです。

しかしこの三カ月は、ほとんど仏教の一般的な教えを学びます。それから仏教の大原則で、在家に関わりのあることを学ぶので、還俗してから善い仏教教団員、善い清信士、清信女になることができます。どちらも発展させることができます。つまり自分自身と国や宗教の両方を、良い方へ発展させることができます。これが一般的な目的、一般的な見方です。戒を解かれるみなさん、どうぞこのように考えてください。

一回目はこれだけ、つまり人間に生まれて仏教に出合ったら何をしなければならないか、一般的な見方についてだけお話しました。仏教界の一般の人も、こうしなければなりません。これは挑戦し、あえて証明しなければならないことです。エーヒパッシコ。「来て見て。来て見て」。世界中のみんなに、あるいは他の宗教を信仰する人にも、「来て見て、来て見て」です。

これは善い、これは正しい、これは正しいはずがないと、事細かに証明できます。みなさんにはエーヒパッシコのタンマがあります。こういうのはこれから所帯を持つ人も、そして所帯を持たない人、つまり家のない人(出家)も、エーヒパッシコのレベルでいてください。つまり他人に見せることに挑戦できます。

だから一時的ではありましたが、出家して還俗するに当って、これを土産に持って行ってください。今日はいろんな方角について、それはどんな形かということを、一般的な見方を詳しくお話しました。

 


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