解説



1974年3月14日

 本書は「オーサーレタッバダンマ」という名前で、「サンダッセータッバタンマ」と双子の兄弟です。互いに解説して問題を解決するので、別々でなく、同時に使わなければならないという意味です。そして関連し合う物がたくさんあるので、この二冊を同時に学ぶことをお勧めします。

 サンダッセータッバタンマとオーサーレタッバダンマという言葉の意味は何か、何を意味するのか、初めから疑問に思い、質問する方がいました。私は、この言葉が仏教教団で耳慣れた言葉、言い慣れた言葉になってほしいと思います。

 珍しすぎ、そして疑問や煩雑に感じる人がいる言葉と感じても、重要さとふさわしさがあるので、使えば最後には普通の言葉になり、先々の利益にもなると信じます。だからこの二語の意味を理解し合っている物にするために説明するべきです。

 オーサーレタッバダンマという言葉は「推測して要旨に至るべき物」という意味で、サンダッセータッバダンマは「あらゆる方向から隈なく質問すべき物」という意味です。カーラーマスッタなどのブッダの訓戒から、私たちは、ブッダは仏教教団員が信じ易い人でないよう、あるいは盲信しないよう望まれ田と見ることができmす、そして何らかの問題が生じた時は、その問題を正しく解決できる規則があります。

 この二語は、私がマハーパリニッバーナスッタ(大涅槃経)のブッダバーシタ(ブッダが説いた)から「借りて来た」言葉です。ブッダから、あるいはブッダから学んだアーチャンから「このように聞いた」と互いに主張し、仏教教団員の集団の中で反論が生じるかもしれない、ブッダの教えに関わる矛盾や疑念を判断するための教え、マハーパデーサ(四大法教)の形で語られています。

 ブッダは「ダンマヴィナヤのどの項目でも、矛盾が生じた時には、すぐに反論しないで、あるいは喧嘩しないで、その問題点を、大きな規則、あるいはヴィナヤ(律)と、すべてのスッタ(経)の一般原則をサンダッセータッバし、あるいはオーサーレタッバして見て、誰のどの項目でも、その規則と同調できれば『それは正しい』、あるいは『ブッダの望みと一致する』と見なしなさい」と言われています。

 同調できなければ実践原則にしてはいけません。それは記憶違いをした人が、誤って教え伝えた枝葉だからです。これが、私が「この二語は、仏教の本物を発見するために試験し、そして正しい仏教を涵養し永遠に維持するために、仏教教団員がするべき物を意味します」と述べた言葉の意味です。この二語の意味を、もう一度繰り返させていただきます。

 オーサーレタッバ: 推測して本当の要旨に至らなければならない
 サンダッセータッバ: あらゆる方向から全面的に調べなければならない

 この二つの状態に注意深く、全面的に周到にすれば、何かを深く広く詳細に、そして完璧に、たくさんの方向と角度、そしてすべてのレベルで見れば、最後には本当に有益に使える、つまり問題を解決できる、あるいは望み通りすべての苦を消滅できる最高に良い物、あるいは最高にふさわしい物を見つけます。どうぞこの二語を使い慣れ、聞き慣れて、ずっと伝えてください。

 「深く推測する」と「全面的に調べる」は、違う義務を行うことを目指すので、同じではありませんが、どちらが欠けてもなりません。だから複雑な問題がいっぱいある知性を使わなければならない仕事のどの場合にも、双子のように一緒でなければなりません。

 「サンダッセータッバダンマ」と「オーサーレタッバダンマ」の二冊は述べたような状態があり、智慧で繁栄している時代の学生の学習に十分なことは確かです。しかし用事が多く、問題が多く、仏教の勉強に注ぐ時間を見つけるのが大変です。

 言い方を変えれば、この二冊は宇宙、あるいは核の時代、あるいはピンポンの時代まで、人間集団の中で問題になっている物の、顔を立てない強烈な選別のために全部揃っている最高の処方です。

 たった二冊の本が、仏教を学ぶ現代の学生にとってどのように十分かは、二つの方法で理解する努力をします。つまりオーサーレタッバとサンダッセータッバ、この二冊の本のいろんな話を通過した時、今このように主張している私の主張を信じる必要がなく、その学生の心で明らかになります。安易に信じれば、哀れにもこの二冊の本の規則に反してしまうからです。

 この二冊は、現代の学習者に必要な仏教のすべての面、すべての角度のオーサーレタッバとサンダッセータッバの手法による手術のような講義を満載しています。

 みなさんが良く観察をすれば、哲学的手法だけの仏教の教育の渇きに満ちている、人の頭蓋骨を、講師である私が勝ち割ることを目指していると気づきます。麻薬中毒のような論理を使うことから解放された宗教的手法を嫌うのは、現代の流行として、何も良く知らないで「哲学」という言葉が溢れているからです。

 だから(本当のという言葉を使う必要はありません)仏教から人間が受け取る本当の利益を受け取れないのは、哲学というヘロインの中毒になってしまっているからです。宗教の本物を深く理解し、本当に人間を援けるために宗教の命を延ばし、維持し、そしてすべての時代の、タンマのレベルが自然に違う人間の、すべてのレベルを揃えるために、宗教の面のこの二つの方法を使ってくださるよう、もう一度心よりお願いします。

 もし私たちにすべての方面から周到に調べて見ることがなければ、どこをどのように深く洞察すれば正しいか、例えば一本の木を庭に植えるにも、どこに何を植えるか決断する前に広く調べて見なければならないと観察して見てください。

 一つのタンマを本性に植えつけるには、述べた様な方法でする必要があります。もっと重要なことは、同じ名前の植物も何種類もあり、バナナでも、何バナナをどんな方法で植えれば最高に収穫できるか、その実を食べるにも、どのように食べれば恩恵だけがあるかまで見なければなりません。そうすれば恩恵だけがあります。


帰依

 次に本書で述べたように、サンダッセータッバ、あるいはオーサーレタッバしなければならないいろんな話について熟慮して見ると、帰依にはいろんな種類、いろんなレベルがあり、捕まえられ、あるいは騙されて信じさせられた人の、オウムや九官鳥のような誠意のない帰依も至る所にあります。そして個人の状況によって高さに差があると分かります。

 猿が水晶玉を貰ったように持しても何も利益はありません。いつ捨ててしまうかもしれないので、私たちは利益になるまで彼らを援けなければなりません。これがそのような帰依で、まだその手も届いていません。

 次は善いレベルの凡人です。彼人は信仰で信じる決意がありますが、まだ幾つかの愚かさがあり、本当に信じる決意をしても、まだ到達していると言いません。時には信仰が多ければ多いほど到達し難いこともあります。その信じることは信仰で信じ、到達はこのように智慧で到達するからです。

 信仰がいろんなレベルのあるものなら、し方にもいろんなレベルがあります。一文無しになるまで布施しても、布施をしたことがない人より三宝に遠いこともあります。

 三宝に至るために言葉を発すにもいろいろあります。オウムや九官鳥のような発言もあり、タンマを聞いて理解し、深く喜んでの発言もあります。私が良く見るのは前者の方で、後者は余りいません。いてもあまり言葉に出さず、心に仕舞っておくからです。ブッダの時代には後者は普通にいて、前者、あるいはオウムや九官鳥のようなタイプはいませんでした。現代のようにする伝統習慣がなかったからです。

 いずれにしても、正しい心で発言してもまだ完璧な到達でなく、完璧な信仰と呼べるだけです。その人が預流くらい沢山のタンマが見えれば、まだ最後の完璧な段階である、阿羅漢に到達してしまう段階があるので、初等の完璧な到達ということができます。

 このように述べると、言葉の定義が違うので、あるいは意図する意味の深さが違うので、誰も同調しないかも知れません。講師である私も、時には道徳レベルで話す時もあり、人語を使うのも一つの標準です。第一義諦のレベルの話ではタンマ語を使い、これがもう一つの標準で、矛盾する話し方に見えるかも知れません。

 しかしあなたがサンダッセータッバとオーサーレタッバの手法を全面的に使えば、矛盾は何もないと理解できます。そしてそれ以上に、最高レベルの三宝に、本当に到達する方法を選ぶことができます。そして最後には、仏教の実践は本当の三宝に到達すること以上の何もなく、それだけで十分、あるいは仏教の実践は終わる、という滑稽な話があります。

 聖向聖果涅槃への到達は、全部それに含まれているからです。全面的に見回して、その話の真実である点に穴を開け、あるいは洞察して最高の利益にしなければならない話は、このように隠されています。そしてこれが一部の例です。

 布施


 誰もが仏教界の初歩で浅い話と見積もっている、布施をすることも同じです。意義も細部も、あらゆる角度から詳細に熟慮して見れば、真実、あるいは「すべての仏教の中で最高に布施すること以上の物は何もない。あるいは高い物はない。それだけで十分」と言うほど複雑で不可思議な事実、あるいは何かに出合います。

 読者のみなさんがアーミサダーナ(物施)、アバヤダーナ(赦施)、ダンマダーナ(法施)、そしてアッタダーナ(自我施)とニッバーナダーナ(涅槃施)も含まれているスンニャターダーナ(空施)の話を理解すれば、「何もする必要はない。布施だけで十分。願うのは最高に到達することだけ」という端緒が見えます。

 このように述べるのは、言葉を弄ぶ、あるいは弁舌を弄ぶつもりはありませんが、時間の節約、知性の節約、勉学と実践の最高の節約の援けをする意図があります。このように節約する方法を喜ぶ人は、当然サンダッセータッバとオーサーレタッバの方法を好むに違いありません。それは、すべての方向に周到に目を配り、話の要旨を洞察する以上の何でもありません。

 述べた方法を良く理解すれば、あなたが時々疑問に感じている問題、「なぜブッダの時代の人は簡単に、あっという間に聖向聖果涅槃に到達できたのか」という問題に「それは、彼らは形式的な、あるいは愚かな聖向聖果を望まず、いろんな問題を良く知り、すべての方向から見て、中心、あるいは核心である問題を洞察し、同じ方法で答えを見つけるだけだったから」と、自分自身で答えることができます。

 ブッダから本当の人生の話を聞くと、座った場所、あるいは会ったその場で理解することができました。その人たちは、当然サンダッセータッバとオーサーレタッバが常に身に付いていた、特にブッダが話されている言葉を聞く時は、自然に最高にあったことを意味します。

 布施の話をまとめると二種類あります。自分の煩悩を増やす儲けを受け取るために与えるのと、執着を払い捨て、煩悩をなくして軽さ、あるいは解脱、最後には目指す目的である空を得るために与えるのがあります。

 今私たちの世界は前者しか知らないので、布施は、却って人間にとって複雑な問題を増やし、際限なく「善い問題」があります。誰もが際限なく適度を越えた儲け、商売を目指すからです。

 社会にとって最高の利益がある、あるいは最高に必要な布施はアバヤダーナ(赦施)です。つまり自分が他人の脅威でなくなることで、責めるのを堪えて赦す形もあり、直接加害しない形もあります。あるいはあまり有利にならないなど間接的に加害しない形もあります。世界中の人がアバヤダーナ(赦施)を厳格に実践するだけで、疑うまでもなく、永遠に平和になります。

 しかし最高に知られている、面子を立てるための布施、あるいは儲けるための投資である布施に比べると、これらの布施を考える人は誰もいません。あるいは誰も知りません。だから世界は最高に偽の平和があります。だからアバヤダーナのサンダッセータッバとオーサーレタッバは関心を持つべき物であり、そして精一杯復興させるべきです。

 いずれにしてもアバヤダーナ(赦施)が最高になれば、スンニャターダーナ(空施)から逃れられません。まだ著しく身勝手なら、他人を愛すことができず、誰も赦せず、他人より有利になるのを我慢できません。

 しかし自分がないくらいタンマを考えていれば、自動的に、そして永遠に、最高のアバヤダーナです。蚊に刺された時は、「それは公正だ。同じ世界で生きていて、あらゆる面で助け合わなければならない。蚊は他の物を食べられないので、人の血を食べるべきだ」というような考えをします。

 他人に盗まれると、蚊に刺された時と同じように考えるので、盗んだ人に腹を立てません。あるいはイエスが「左の頬を叩かれたら右の頬を出しなさい」と教えているように、捕らえて警察に突き出さないで、シャツを盗まれたら捕らえて罰を受けさせる代わりに、スボンも与えるべきです。

 このようにすることは、スンニャターダーナに到達する人にとって簡単です。普通の人はするのが難しくても、努力すべきです。そしてサンダッセータッバダンマとオーサーレタッバダンマを正しく使うことを知れば、難しいことも簡単になり、信じられないくらい楽しくなります。


戒を持すことと戒があること

 一人は死ぬまで戒を維持して一度も戒がなく、もう一人は戒を維持したことはないけれど死ぬまで純粋な戒があるという、誰も反論できない一つの事実があります。後者の状態は、その人がサンダッセータッバダンマとオーサーレタッバダンマの方法を使うことができれば、本当にあります。

 スンニャダーダーナ(空施)が身に付いていれば、どんな悪を行う意図もないので、どの項目の戒を犯すこともありません。そして戒を意図しなくても、自動的に「戒を維持したことはないが、却って聖人のようなロークッタラ(出世間)の類の戒がある」という戒になります。

 智慧がなく、あるのは意図だけの人は、戒を維持する、あるいはいつも変わらない安定した戒を遵守する術はありません。煩悩がない人は、当然自動的に戒があります。十分正しい知性がある人も、戒を犯す行動をする低くて悪い考えがないので、同じようになる道があります。

 生まれつき慙愧がある習性の人が、更にしっかりした躾を受けて罪を恐れ、罪を恥じると、戒に欠ける隙はありません。戒があるようになる方法は幾つあるか、どの方法が本当に、そして本当より本当に利益があるか、全部勉強して見て、疑うまでもなく他の方法よりも快適便利な方法を選んでください。

 世界中の人について話せば、「私たちは世界中の人に戒を持たせることは出来ない」と考える人がいます。しかし本当は、私たちは世界中の人が善悪正誤を弁え、苦を嫌い、正しく完璧な人間になりたいと思わせ、静かさに関心を持たせ、そしてサンダッセータッバダンマとオーサーレタッバダンマの方法で、彼らが知らないうちに揃って戒があるようにさせることができます。

 今私たちは、世界の中で深くうつむいて、煩悩欲望の餌以外に何も見ないように暮らしています。周囲を見ることがなく、そして本当に人間の物であるレベルの、知性で理解して良く選んで見た、一つの重要点を洞察しません。それは二つのダンマがないことの結果です。私たちの世界に二つのダンマが揃って十分にあれば、この世界は益々本当の人間の世界になります。


サマーディがあること

 今の一般の人は、心と呼ぶ物を有益に使う方法を知っていても低すぎるのは、サンダッセータッバダンマとオーサーレタッバダンマの種類の知識がないからです。心が良い訓練を受ければ、つまり本当に高い心なら、清潔で安定していて、そして自分の義務に敏捷な心で、清潔と明るさと静かさがある人にする結果があります。

 世界中の人がそうなら、世界には恒久的な平和しかありません。あるいは(人間という)名にふさわしい人間の世界になります。サマーディとは闇雲に座って体を固くするという意味ではありません。それは一部分、ある段階の訓練にすぎません。そしてある種類の人たちが性急に幸福を探求するサマーディだけです。

 一般の人にとってサマーディとは、純潔で安定して、自分の義務に敏捷な心があることを意味します。この種の心は、その人がどんな仕事でも、体の面の仕事も良くできるようにする結果があります。何を知りたいと望んでも非常に簡単に智慧のある人にし、同時に前もって受け取る儲けとして冷静さと幸福があります。仕事を始めた時から仕事が楽しいので、他の物に幸福や休息を求める必要がありません。

 しかし今、人は欲情の奴隷であることが多過ぎ、そして気づきません。彼らの様式では欲情がサマーディのニミッタなので、結果は、生涯心が欲情の奴隷に陥っている人になります。仕事は欲情と交換するために汗を流すことだけで、常にある種の飢えがある餓鬼である外に、どんな楽しさも探せません。餓鬼のサマーディはどのようになるか、考えて見てください。

 すべての聖人のサマーディは、目が明るいと理解していても、いつでも人を盲目より暗くする、無明の幕に穴を開けることができる鋭い心にする訓練です。無明の幕とは、習性、本性として癖になっている「俺」「俺の物」という執着です。この種の幕に穴を開けることができれば、明るい世界を発見し、すべての面で人間が手に入れるべき最高に良い物を受け取ります。

 この種の人を聖人と呼びます。あるいは自分のためでも他人のためでも、何をしても誤りのない人です。別の言い方をすれば、一般の凡人(凡夫)が揃ってのろのろ這っている手足に障害がある盲人である時、聖人方は自然のサマーディがあり、そして目的に正しく使うことができます。


  例のまとめ

 例として四つの話を述べただけで、観察することを知り、この原則を残っている話に使うためには十分と思います。

 しかし最も重要なことは、あなたが周囲を周到に見て、「心の執着が空になれば、「俺」「俺の物」という感覚がなければ、いつでも帰依・布施・戒・サマーディと呼ぶもの、そして本書のすべての講義の主題に取り上げたその他の物が生じると明らかに見える、深い一点を洞察できなければなりません。聞いて見ると、信じられないくらい簡単で、たくさんの秘訣と感じます。

 もっと深く見る、あるいは洞察すれば、本書で述べているすべての実践項目は、心が「俺」「俺の物」という執着から解脱する結果のためです。ただそれは、厳格な、あるいは永遠の解脱であるだけです。一時的に空である心は、完璧な空に訓練しなければならない物で、その一時的な空が継続してあるように維持するだけでできます。

 生まれてから混乱だけに慣れているので、空っぽに慣れる訓練をし、述べた意味の帰依・布施・戒・サマーディが自動的にあるようにします。大切な道具は、油断して自慢しないで、周囲を見て、その話の要旨である点、真実である点を洞察する以上に何もありません。

 述べたように双子の本である「サンダッセータッバダンマ」の解説を読んで、本書の解説と合わせてください。

プッタタート インタパンヨー
モーカパラーラム
1974年3月14日


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