1.帰依に関する実践原則



1971年4月3日

 タンマに関心がある善人のみなさん。今日の土曜講義は、みなさんも良くご存じの「帰依に関した実践原則」と題してお話します。今日はマーカブーチャー期の談話からウィサーカブーチャー期に変わったので、ウィサーカブーチャー期の三か月間は実践原則に関してだけの講義で、一般の広い意味の理論である状態の前期の講義と違うと承知してください。

 実践原則と呼ぶものは、本当は一般の知識次第で、一般の基礎の知識があれば、一般に広く何も知らないより簡単に正しく実践原則を選ぶことができるので、一般の広い知識は知識の類とします。一方実践原則は常に関わっていなければならない「ヴィッチャー チャラナ サムパンノー」と言う文句の中の理論、あるいは知識でします。知識と呼ぶものはチャラナあるいは実践と呼ぶものの前にも後にもなければなりません。

 旅することに例えると、実践の知識は地図のようなもので、実践は旅をすることです。この規定は仏教の中にハッキリとあります。つまり「ウィッチャー・チャラナ・サムパンノー」とあるブッダの徳で、みなさん全員、読経の時に聞いたことがあります。「ウィッチャー・チャラナ・サムパンノー」=知識と行動が揃っている、つまり知識も実践も両方揃っています。

 私は前に三か月間も、一般の知識について話しました。今日から実践に関した話を始め、初回は帰依についての実践原則という主題で、実践方法である帰依の話について話します。

 実践の部の初めの話としてこれを話すには、幾つもの理由があります。初めに、これは仏教の実践の最初の話だからという理由があると推測できると思います。

 帰依の話をすると言うと、「なぜそのような初歩の話をするのだ。簡単すぎる話で子供でも言え、受け入れられる」などと言う人がいますが、それはまだ正しい理解ではありません。

 「今、形式的な帰依が非常に多く、そして非常に盲信になり、その結果慢性病になり、あるいは悪性腫瘍になることもあるのは、「簡単すぎる」と理解して詳細に考えることに関心がなく、寝言のようにするので形式的で愚かになると見えるまで良く熟慮して見てください。この愚かさは子や孫や子供にまで伝染し、これは仏教の望ましくないものです。

 だから私は、帰依を少なくとも二種類に、つまり儀式的形式的すぎる帰依と、正しい帰依に分けなければなりません。もう一つ全部を一つにまとめた教えにして述べれば、何が何かを知る前から、本気で信仰する前から信じていた人の帰依が一つ、つまり何が何かを知らずに、あるいはタンマや信仰を理解する前に受け入れた帰依で、そしてもう一つは十分タンマを理解して信仰し、我慢できずに帰依することを表明する正しい帰依です。

 パーリ(ブッダの言葉)である教典に現れているブッダの時代について話せば、彼らはブッダの話を聞いて理解して満足し、智慧でタンマが見え、非常に喜悦と歓びがあって堪えきれずに帰依したと、つまり「たった今より生涯、ブッダとプラタム(ブッダの教え)と僧を拠り所にします」と口にし出したとハッキリあります。こういうのは、彼らがタンマを理解した後帰依し、我慢できなくなって口に出しました。

 現代になると、ほとんどは伝統習慣で信じ、捕まえて信じさせ、あるいは騙して信じさせ、あるいは何でも「タンマとは何か、どのようか」を知らないで帰依しています。これを「儀式的な帰依は、何が何かを知る前にする」と言い、これが一つです。もう一つは正しい帰依で、何が何かを良く知った後でします。

 だからこの帰依について正しく理解するべきで、智慧の宗教、道理の宗教、科学と矛盾しない、あるいはそのような何かである仏教にふさわしく帰依することを片付ける、あるいは一度整理してしまえば、それも良いと言います。要するに目を開け、耳を傾ける宗教なので、目が開き、耳が開いている種類の帰依がなければなりません。そうすれば話が一致します。

 それが、誰もが仏教の初歩である簡単すぎる話と見なす話をなぜするのか、という項目です。しかし今は何も考えずにするので、汚れるだけ汚れはじめました。

 これから「帰依と呼ぶものは何か」について話し、歴史的に言えば帰依(サラナーガマナ)には綴りと一致する意味があり、サラナは拠り処という意味、アーガマナは到着するという意味で、サラナーガマナは帰依、あるいは拠り所に至るという意味になります。人間はブッダの時代よりはるか昔から、避難所あるいは拠り所をもって来ました。

 ブッダの時代よりはるか昔から、人間は心の拠り所を持つことを知っていて、信じているもの、信頼しているものを避難所にしました。だから精霊や神々、神聖な物、神聖な樹木、神聖な動物、畜生まで信仰することがあり、神聖と仮定されると拝んで額づく人がいました。

 時にはその動物を何らかの美徳の象徴にし、そのような場合も拝んで額づきますが、畜生をあれこれ神聖な動物とするほどの愚かさは滑稽です。だから避難所・拠り所にすることは最高に正しくなるまで、常に進化と呼ぶ変化があります。

 綴りあるいは文字としては、サラナーガマナというのは避難所、拠り所である何らかの物に至るという意味です。次にサラナ、あるいは拠り所という言葉には体の面と心の面があり、体の面は手や足や体、あるいは金銀や物で助けることができ、こういうのは外部の、体の面の拠り所で、これはこの項目と関係ありません。当たり前すぎるからです。

 サラナーガマナ(帰依)は、大きな問題である恐怖を消す心の面の話だけに注目します。問題は恐怖、病気、不眠、あるいは恐怖で焦燥して狂う点にあるので、確実に恐怖を消すものがあれば眠ることができ、狂わないからです。だから私は、帰依は病気を防ぐワクチンで、正しく持っていれば狂わず、正しくないのを持てば何らかの種類の、つまり明らかなものと、見て分からない隠れたものがありますが精神病にならなければなりません。

 だから帰依と呼ぶものを遊び半分にしないで、持ち方が悪く、持ち方を知らなければ狂人で、つまり愚かな人、迷った人、識と全身全霊の休息を受け取れない人で、それも焦燥し、最後には怠慢に傾いて道から逸れ、誤った見解になることもあります。

 サラナという言葉には「拠り所」という意味も「思い出す所」という意味もあります。本当の文字のサラナは思い出す場所という意味ですが、拠り所という意味になりました。それは同じ話で、何かを恐れると恐怖を止めるために何かを思い出すので、それが拠り所になりました。人が何かを恐れると、まず拠り所であるものを思い出します。

 例えば小さな子供は、何か恐れさせるものがあると泣いて母を探し、先ず母を思い出すので、母親はサラナ、つまり思い出す所です。母親は拠り所であり、保護する人なので、子は母親、または保護者である人を思い出します。これは本能の威力でそうなり、宗教では教えません。

 しかしこの種の本能は、帰依を持つ基礎である本能です。今私たちは大人になり、大きくて難しくて深い問題があるので、恐怖も大きく難しく深くなり、深くなった恐怖を排除する何かがなければならないので、高くなった精神のために宗教面、タンマの面の帰依がなければなりません。これを「文字でのサラナーガマナという言葉は、拠り所に至る、あるいは安心するために思い出す所という意味」と言います。これは基礎です。

 そして思い出すことができる拠り所として心に現れれば、「それが信仰、信仰心、つまり帰依や何か敬虔なものに拡大し、更に高くなった実践があり、最後に滅苦になる道がある」と、心で明らかになります。

 要旨、あるいは意味でとして述べると、到着するという意味のアーガマナという言葉は、要旨としては「持つ」、つまり心が至るという意味で、心が至るとは心が持っておきます。だからこの場合の「至る」と「持つ」は同じものです。

 まだ本当のブッダ・プラタム(ブッダの教え)・僧がなければ、取り敢えず持つ、つまり受け取って持っておき、考えて掴んでおくので、持つことも、持つ努力をすることも、まだ至らない、まだできない人の話です。しかしできれば「至った」、あるいは「到着した」と言う方が良いです。

 だからみなさんの中には、戒を授かり、帰依を授かると、「私はブッダを拠り所にするに至った」と言う人、「私はブッダを拠り所として持つ」と言う人がいます。「私は至った」と好んで言う人は、本当かどう、あるいは何も考えず言っているのか、それとも騙すのか、良く観察して見てください。「私はブッダを拠り所とするに至りました」「私はブッダに至りました」と言うのは、「到着した」という完全な意味があります。

 それで、そう言う人は本当に到着したのでしょうか。それとも口だけの到着でしょうか。こういうのは口だけのこともあり、心で本当に到着していることもあります。だから誰でも「至る」と「持つ」という言葉の意味を正しくしてしまわなければなりません。「私はブッダを拠り所として持ちます」。こういうのは誤りがありません。しかし「至るために」なら誤る余地があり、まだ至ってなく、そして人を騙します。

 今正しく言うには「私は世尊に至らせてください」でも良く、「私は世尊を、帰依するものとして持ちます」でも良いです。次に「私は帰依するブッダに至った」と言うなら、「私の心はブッダを拠り所、思い出すものにすることに真実納得した」という意味にし、そして口だけにしてはいけません 。

 サラナ、あるいは拠り所という言葉は非常に重要な意味があり、私たちは適度に理解するべきです。サラナとは思い出すもの、拠り所にするために思い出すものという意味で、これをサラナと言います。

 次にナータなどの言葉があり、ブッダは世界のナータ(natha )です。このナータも拠り所で、思い出すことに関わるだけでなく、滅苦ができ、苦から脱すことに関わり、そしてこの角度の拠り所です。プラタム(ブッダの教え)・僧は、思い出して見習うことで拠り所にしなければならないもので、口で言うだけでは拠り所になりません。

 もう一つ代わりにできる言葉「ターナ(tana) レーナ(lena)」、「ターナー レーナー サッバパーニーナン」。ターナとは抵抗する所、レーナは隠れる所という意味で、これは例えです。ブッダあるいはプラタムはすべての動物のターナであり、レーナです。

 この拠り所は、敵が帰依している人に到達しないよう抵抗するターナである拠り所という意味で、レーナは追手に見つからない洞窟、あるいは深い谷のような隠れる場所という意味です。三宝も隠れる場所で、動物が身を隠して悪魔、つまり苦の威力から脱す隠れる場所で、彼らはこのように例えて話し、まとめれば拠り所、あるいは保護する所です。

 理解しやすく話すこともできます。人は能力が低下すると、抵抗して防止し援けてくれる人がなければならず、それが苦がその動物に訪れないよう抵抗し、そして隠れる場所であるブッダ・プラタム・僧であり、それがサラナ(救護所)です。動物がその中に入ってしまうと、苦は追って来られないという意味です。

 私たちは何としても本当にタンマの中にいなければならず、そうすればサラナ、あるいは拠り所、ターナ レーナになるという意味です。今までのように口だけで言っていれば、そうなれません。

 私たちは口で言うだけでなく、できるだけブッダとプラタムと僧をサラナに、あるいはナータ、ターナ、あるいはレーナにします。

 次にサラナの基盤であるものについて話します。ここで「もの」と言うのは物質ではなく、物事、あるいは感情、あるいは心の基盤である何かを意味し、サラナのものについて話すと、サラナの持ち方にはいろんな種類があるので、幾つもの部類に分けることができます。

 初めの種類は安全でない、最高でない、苦から脱せない物です。

 安全でない、あるいは最高でない、苦から脱せないサラナのものは少な過ぎる拠り所という意味で、お守り、霊験がある物、神聖な樹木、神聖な山などは、ブッダは「最高でない、安全でない、苦から脱せない。それは取り敢えず騙して心を温かくし、安心させるだけの拠り所で、何の拠り所でもない」と言われています。

 お守りなどを持つことは一時安心させて心を温かくしますが、滅苦も、苦からの脱出もできないので、最高のサラナ、あるいは安全なサラナでなく、子供のサラナと見なします。

 二番目は安全なサラナのものは『ヨー チャ ブッダンチャ ダンマンチャ サンガンチャ サラナン ガトー チャッターリ アリヤサッチャーニ サムンッパンヤーヤ パッサティ』という文句で「サラナであるブッダ・プラタム・僧に至った人は、智慧で四聖諦が明らかに見え、それが最高の拠り所、安全な拠り所で、そして苦から脱すことができる」と、このようにハッキリ明言されています。

 エータン コー サラナン ケーマン エータン サラナムッタマンと、毎日唱えているので、思い出せば理解できます。これが安全でなく最高の拠り所でなく苦から脱せない、初めのと反対の、安全で最高で苦から脱せるサラナです。

 三番目は極楽へ行くためだけの中途半端なサラナです。パーリのマハーサマヤスッタ、あるいは長部の幾つかの経のパーリの文句に、『イェー ケージ ブッダン サラナン ガター セー ナ テー ガミッサンティ アパーヤブーミ、パハーヤ マーヌサン デーハン デーヴァカーヤン パリプーレッサンティ=ブッダをサラナとして持つ人は、アパーヤブーミ(悪趣)へ行かない。人間の体を捨てた時、天人の群れに』、つまり『天界に加わる』とあります。

 このようにサラナを持つことは、天人の群れに加わるため、つまり天国へ行くためと明言されています。このように天国に行くためにサラナを持つことはまだ苦から脱せない、まだ滅苦ができないと、タンマを良く知る人はすぐに理解できます。天国はまだ苦から脱せず、人間と同じ輪廻の一つだからです。

 しかしアパーヤブーミ(悪趣)には行かないので、アパーヤブーミと呼ぶような悪い苦はなく、中途半端な話で悪くはありませんが最高ではありません。天国へ行くためのサラナは滅苦ができるものより低く、まだ滅苦ができないので滅苦ができる人たちより良くないと言いますが、樹木や山や精霊その他のものを信じるより良いです。

 次にこれ以外のサラナは物質主義に傾いたサラナの話で、心の話を知らず、物質主義しか知らない人たちは、望みを叶える縁である物資をサラナとして持ちます。

 人から聞いた話ですが、クルンテープ(バンコクのこと)で年寄りたちの時代のある時、年配の実業家の一団が「僧は説教して帰依をさせ、戒を持たせる」とお寺へ行く人たちを騙し、僧が「ブッダン サラナン ガッチャーミ」と言うと、その人たちは密かに「サタン(銭) サラナン ガッチャーミ=お金をサラナとして帰依します」と声を出したそうです。サタン サラナン ガッチャーミ。これは本当の話です。

 クルンンテープにもこのような知識、理解、あるいは願望があり、仏教支援者のように「ブッダン サラナン ガッチャーミ、ダンマン サラナン ガッチャーミ、サンガン サラナン ガッチャーミ」と持したくない人がいます。彼らはサタン サラナン ガッチャーミと言う帰依があり、お金が拠り所で、何でもお金に助けてもらうという意味です。

 この見本を見て考えて見てください、人間は自分の拠り所を持つことを考える自由があり、今でも自分が望みどおりに拠り所にできるので、同じにすることはできず、同じものを好むこともできず、心の在り様次第、高いか低いかは心次第です。サラナの居場所、基盤であるものは何があるか、全部まとめてお話しました。

 ここで種類別に分けて更に高いタンマを理解させたいと思います。今ある帰依は三種類に分けることができ、正しくない帰依、これから正しくなる帰依、そして本当に正しい帰依の三つです。

 ここに座っているみなさん、自分はどの種の帰依があるか、正しくない帰依があるか、それともこれから正しくなる帰依があるか、あるいは既に正しい帰依があるか、自分で自分を調べて見ください。これは自分で調べて見なければならない話で、他人に質問させるべきでなく、聞かれても真実を言わないので、このような項目は質問しない方が良いです。

 カーラーマスッタの原則でまだ正しくない帰依、そして正しくなる道がない帰依は、煩悩が厚い凡人の帰依です。カーラーマスッタの教えで正しくなる帰依は良いレベルの凡人の帰依です。初めのは悪いレベルの凡人の帰依、正しくない帰依で、これから正しくなる帰依は善人と呼ぶ善いレベルの凡人の帰依です。次にカーラーマスッタの教えで本当に正しい帰依は聖人の帰依で、預流以上の聖人はどなたにも帰依があります。

 次に、カーラーマスッタはどのようか知らない方のために、ここで少し話さなければなりません。カーラーマスッタは、誰でも信じるものを選べるようにブッダが話しておかれた教えで、十項目あります。例えば他人が何かを信じていると聞いて信じるように、他人に釣られて信じてはいけない、そして今現在聞いたように信じてはいけない。

 初めの項目は昔から伝わっているように信じてはいけない。二項目は今大評判になっているからといって信じてはいけない。クルンテープでは丙午で騒ぎ、あれで騒ぎ、これで騒ぎ、一時噂で持ち切りになっているような、こういうのを「イティキリヤ」と言います。大昔から信じて来たのなら「アヌッサヴェン」と言います。カーラーマスッタの教えは、

 マー アヌッサヴェナ=代々伝わっているからと言って信じてはいけない。
 マー イティキラーヤ=噂を聞いたからと言って信じてはいけない。
 マー パラムパラーヤ=実践して伝承されて来たからと言って信じてはいけない。
 マー パティカサムパダーネン=その言葉が教典、三蔵にあるからと言って信じてはいけない。
 これは更に理解できないでしょうね。これが一つ。

 マー タッカヘトゥ=論理学の理由で信じてはいけない。
 マー ナヤヘトゥ=哲学的な理由で信じてはいけない。
 マー アーカーラパリヴィタッケナ=自分の論理的考えで信じてはいけない。
 マー ディッティニッチャーナックンティヤー=自分の考えで証明に耐えるからと言って信じてはいけない。
 マー サムノー ノー ガルーティ=そのサマナが自分の先生であるからという理由で信じてはいけない。

 聞いたことがない人は聞いて見てください。聞いて、ブッダは強烈で鋭い教えを話されたと驚かないでください。特に最後の二項の「その人が信じられそうな人だからと言って信じてはいけない」と、「そのサマナが自分の先生だからと言って信じてはいけない」の二項は。

 それなら何をどのように信じさせるのでしょうか。考察や理論を使わないで、そして誰も信じないで、自分自身の心の感覚で信じなさいという意味です。

 誰かが「ブッダは拠り所です! 拠り所にすべきです!」とこのように言ったら、ブッダはどのようか知るまで待たなければなりません。本当の拠り所と見たら、それから信じます。

 ブッダを知るのは難しいので、その後ブッダはどのように話され、どのようになさり、どのように教えられたか、調べなければなりません。

 ブッダが「煩悩は苦を生じさせる原因」と言われても、煩悩を知らなければ信じることは出来ません。自分の心を妨害して本当に苦にしている煩悩を知った時、「ブッダは私の先生だから」という理由がなくても、ブッダの言葉を信じることができます。

 ブッダは、常に初めに全部払い捨て、「如行が話してもすぐには信じてはいけない」と教えられています。道理に依存して信じる必要はなく、道理を越えて正しい感覚が本当に心に生じた時、ブッダが言われているように心で明らかになった時、その時自分を信じます。こういうのをカーラーマスッタの教えによって信じると言います。

 だからそれは、一般の人がすぐにするのが難しい、あるいはすぐには理解できないものなので、彼らは取り敢えず信じることに依存しなければなりません。取り敢えず信じることは、まだカーラーマスッタの教えで正しくありません。しかし他人を信じなくても自分で明らかに見えるレベルになるまでしなければなりません。初めは他人から受け入れ、取り敢えず信じ、それを明らかに見えるものにし、それから自分を信じます。

 それには注意しなければならない部分があります。試して見ないほど、あるいは検証して見ないほど何も信じないのもいけません。無理にそのようにすれば、私たちはブッダの教えから何も利益を受け取る道はありません。お願いするのは、聞いたという理由だけですぐに全部信じないで、理解して本当に明らかに見えたら、納得して全部信じます。初めは耳で聞くだけで、それを試して見ても良く、そして試す時には注意深くなければなりません。

 西洋人が薬を持って来て飲ませた時、試しに飲ませた時、それまで現代の薬はなく、現代の薬ができ、西洋人が(新しい薬を)知らないタイ人に持って来たので、それは試して見る、試しに飲んでみる話だけでなければならず、「それはそのように素晴らしい」とすぐに信じませんでした。しかし試しに飲んで見ると本当に結果があったので、だから信じ、この段階で信じたのと同じです。

 まだ何十年でもない時代、庶民はキニーネを恐ろしがって飲みませんでした。恐ろしくて、飲むと煩わしい熱が出るので、ほとんどの人は飲む気になりませんでした。これはどうでしょうか。試そうとしなければ、それに利益があるかないか知る術はありません。だから信じて試して見たいと思わなければならず、そして彼らが勧めたように飲んで熱が下がったら、後から信じました。

 タンマも同じで、新しいもの、自分にはなかったので、どのように聞いても初めてキニーネを試して飲んだようにすれば安全で、盲信でなく、そして正しくなっていく信仰で、最後には正しい信仰になります。盲信なら心は別の方向へ歪み、盲信に傾けば仏教の枠内に入るのは難くなります。

 だから信じ易い人であってはいけませんが、何も試さないという意味ではありません。実践して見なければならず、少なくとも考えて学んで、そしてして見て、口で話す理由で信じないで、あるいは他人が良いと言い、噂し合い、良いと保証する理由で信じません。ね、すぐには信じてはいけませんが、試して検証して見ます。

 しかし実に問題が多く、「それは迷信の話」とハッキリ見えている物は試す必要はありません。試して見たい理由がある物は試して見ますがまだ信じないで、その後(明らかな結果が出てから)信じます。このようにすれば「ブッダが話されたカーラーマスッタの教えで正しく実践する人」と呼ばれます。

 次にこれから別の方法で、つまり純潔か純潔でないかでサラナーガマナ(帰依)を見ます。タンマの行動をすること、あるいは帰依することには、純潔なのと純潔でないのがあります。

 純潔でない帰依はあり得、その人が本気で決意しても、煩悩欲望に支配されているので純潔ではありません。煩悩欲望が支配して帰依させる、こういうのは変でしょう? 聞くと矛盾があるように、あり得ないように聞こえますが、それでもあり得ます。本気で帰依し、タンマを遵守し、本気で宗教を信奉しても、金持ちになるため、美しくなるため、死んだ後金持ちに生まれるため、死んだ後美しく生まれ、死んだ後天国に行くためにする人がいます。

 こういうのを「煩悩欲望に支配されている帰依」と言います。このような実践は戒禁取であり、「煩悩」「随煩悩」と言います。このように煩悩の要求のままに美しくなるため、金持ちになるために宗教を持つことを、ブッダは「その実践は煩悩欲望に撫で回されて泥だらけにされた」と言われました。

 「俺が阿羅漢になる」ための実践もこの種類、煩悩欲望に支配された実践で、滅苦をしたいのではありません。阿羅漢になりたがり、阿羅漢になりたいのは、阿羅漢になったら良い、素晴らしいと伝え聞いて熱中するからで、阿羅漢になるためにヴィパッサナーをします。こういうのは全員ヴィパッサナー狂、アーナーパーナサティ狂と言います。

 その人の「阿羅漢であることはこのように素晴らしく、このように卓絶していて、飛ぶこともでき何もできる、それはその人たちの阿羅漢で、本気で決意をしても純潔でない実践で、煩悩欲望に撫で回されて汚されます。

 清潔清浄な帰依は煩悩欲望に支配されず、正反対で、直接滅苦のために宗教を信仰し、タンマを把持し、帰依します。生き地獄に落ちたような心の中にある苦、これは苦です! 私たちは滅苦をしなければならないので、冷えて涅槃するために帰依します。このようにすれば、煩悩欲望に撫で回されない清潔なものと言い、理想と一致します。

 信仰があり、浄心があり、初めに帰依があり、純潔な心で帰依する、こういうのはまだマシで、まだ純潔と言います。しかし煩悩欲望が介入すれば純潔でなくなります。それは「俺、俺のもの」のためにし、「俺、俺のもの」を洗ってしまうためにしません。身勝手の原因である煩悩です。貪り、怒り、迷いが触れればどこでも、そこは途端に不潔になります。

 だから俺を金持ちにするため、俺を優秀にするために戒を維持する、あるいはタンマの実践をするのは、煩悩欲望に撫で回された不潔な帰依、あるいは不潔なタンマの実践と言い、純潔と不潔の二種類あります。

 みなさん、この二つの言葉をしっかり憶えておいてください。最高に重要な教えで、そしてみなさんが最高に関心のない教えだからです。煩悩欲望に撫で回された行動は純潔でないので、煩悩欲望に撫で回されない行動でなければなりません。そうすれば純潔になると言います。

 帰依の話だけでなく他の話も同じで、煩悩欲望に引っ張られて善行をする、こういうのは使い物にならなりません。必ず善のための善でなければなりません。

 例えば人に布施するにも、自分の利益のために布施をするのは純潔でないと言います。それも布施であり、結果もありますが純潔ではありません。自分を金持ちにするために布施をする。こういうのはどのように布施してないか、考えて見てください。天国の宮殿を手に入れるために布施をして、何百倍、何千倍、何万倍の儲けが欲しい。それは純潔でない布施です。

 本当の人助けのため、自分の身勝手をなくすために布施すれば純潔になります。煩悩がないこと以外に何も欲しがらない。こういうのは煩悩も撫で回せません。次に天女、天人に生まれるために布施するのは、煩悩欲望に撫で回され、初めた時から純潔でなくなります。

 タンマの実践であるどの種類も、煩悩欲望に撫で回される道もあり、撫で回されない道もあると憶えておいてください。戒を維持するのも同じで、物質である結果を望んで戒を維持する、こういうのは不潔で、清潔でないと言います。

 サマーディやヴィパサナーをするのも同じで、煩悩のものである結果を求めれば、それは不潔であり、汚れた物で、煩悩欲望に撫で回されていると言い、話したような狂人になります。だから帰依することには清潔純潔なのもあり、清潔純潔でないのもあります。


 次に使っている言葉を基準に分類して見ます。

 ヒト語のサラナが一つ、
 タンマ語のサラナが一つ、
 ヒト語にもタンマ語にもあるサラナが一つ。

 ヒト語のサラナは、自分と他人を援けることができるものを意味します。そして普通の人は物質の話、体の話以上の何も知らないので、彼らはサラナであるお金があり、サラナであるお金を崇拝し、あるいはサラナである王族がいて、サラナである汚職があり、サラナである神聖な精霊や神々があり、自分自身を騙して執着させてサラナにします。ヒト語のサラナはこのようです。

 タンマを知る人のタンマ語のサラナは、ブッダが話されたのと同じです。タンマ語のサラナはブッダ・プラタム(教え)・僧で、純潔清浄な徳や善、行動しておいた善、罪を恥じること(慙)、罪を恐れること(愧)、これがタンマ語のサラナです。

 最後は最高に奇妙なサラナ、つまり自分です。自分自身が本当のサラナであり、ブッダが勧めているサラナです。ブッダはブッダ・プラタム・僧をサラナにするよう口癖のように勧め、その時は深くなく普通の人のように話され、深い種類になると「自分を自分のサラナにし、拠り所になさい」と言われました。私たちは自分自身を自分の拠り所にしなければならないという意味です。

 自分を自分の拠り所にできるには、自分にブッダ・プラタム・僧があるようにしなければならず、自分自身の中にブッダ・プラタム・僧があるようにすれば、自分は自分の拠り所になり、これが最高の意味です。

 簡単に説明すると、自分を援けられるのは誰か、神様は私たちを援けられないので、自分で自分自身を援けなければならず、そうすれば自分に結果が生じます。しかし自分を自分の拠り所にすることは、まだタンマに依存しなければならず、タンマに依存するには、状況によってブッダ・プラタム・僧全部に依存しなければなりません。

 ヒト語、あるいは一般庶民の言葉では、お金をサラナにし、王族をサラナにし、汚職をサラナにし、神聖な精霊や神々をサラナにし、愚かさが自分を騙して何かに執着させることをサラナにします。これをタンマ語のサラナと一緒にしないでください。タンマ語のサラナはブッダ・プラタム・僧があり、積んでおいた徳や善であるサラナがあり、善であるサラナがあり、罪を恐れ(慙)罪を恥じること(愧)がサラナとしてあります。

 最後の二語を良く観察して、ちょっと良く関心を持ってください。慙愧。罪を恥じることと罪を恐れることはサラナです。これがなければ、私たちのサラナになってくれるものは何もありません。つまり罪を恥じず、罪を恐れず、そして罪を作り続けていれば、何もサラナになるものはありません。慙愧をサラナの基礎にしなければなりません。

 そうすればブッダ・プラタム・僧がどっと流れ込んできます。罪を恐れ罪を嫌う慙愧がある人は、いろんな徳や善が自然に流れ込むので、慙と愧と呼ぶものについて説明したいと思います。罪を恥じ、罪に対して厚顔でなく、罪を恐れ、罪と戯れない。この二つがあれば、最高のサラナがあり、自分自身が自分の拠り所になります。

 一度まとめると、私たちがサラナと呼ぶものは、心の中の苦を脱ぎ捨ててしまう援けをするもので、「心の中の苦を脱ぎ捨てる援けになるもの」と定義できます。

 このすべてをサラナと呼ぶことができます。高くても低くても、良くも悪くも、盲信でも盲信でなくても、サラナの意味は「心の中の苦を脱ぎ捨ててしまえるもの」で、霊験のあるお守りを信じて神聖な何かを拝むのも、一時心の苦を脱ぎ捨ててしまうことができ、聖水を振り撒くのも一時心の苦を脱ぎ捨ててしまうことができますが、完全でなく、何回にもなると感じなくなって意味がなくなるので、新しい心の問題を作り、そしてどんどん愚かになり、他のものを引き寄せて際限がありません。本当のサラナではないからです。

 私たちは本当の物、本物、本当に正しく、そして純潔なものを探さなければなりません。そうすれば最高度のサラナがあります。

 みなさんがサラナと呼ぶものを重要と見るなら、良く持ち、正しく持ちなさい。たくさんの人が持てば国の伝統習慣になり、国の文化になるので、小さな子供の時から、子供たちが初めから正しいサラナを知るよう教えてください。

 この世界で目を開けた時から母はサラナであり、それからあの人この人がサラナになり、それから行動しておいた善や美がサラナになり、ブッダ・プラタム・僧がサラナになり、最後に自分の脚の上に立って自分自身がサラナになります。これを小さな子供に教え、このような状態でサラナについて順に正しく理解させれば、仏教教団員と呼ぶにふさわしいです。

 次の項目は、サラナを持つことを本気にする知識と理解を増やすために、つまりサラナを持たせる原因について話したいと思います。人にサラナを持たせる原因もたくさんあります。サラナを持つこともたくさん種類があるので、その原因もたくさんの種類があります。

 最初にサラナを持つことは恐怖から生じ、恐怖が私たちにサラナを持たせ、恐れさせるものがなければ、私たちはサラナを持たないだけです。何もサラナとして持ちません。餓死を恐れればお金をサラナとして持ち、住民に虐められるのを恐れれば法律や王族をサラナにし、常に脅威と二人連れで煩悩を恐れ、苦を恐れ、悪趣までも恐れる威力で、私たちは振り向いて宗教を求めてサラナにします。ね、恐怖がサラナを持つ原因です。

 愚かさもサラナを持つ原因です。この信じ易さ、騙され易さは恐れもあり、恐れないのもあり、愚かで何も知らなければ怖がりで、何でも他人の真似をして恐れるのでサラナを持ちます。さて恐れなくてもこのように愚かなら、他人の真似をして熱中するので、人真似の愚かなサラナです。サラナを持たせる原因である愚かさがあり、人に釣られる愚かさ以外に何も理由を理解できません。

 人真似でするのは本能で、畜生でも理由なく何でも真似ます。真似るのが好きな病気はすべて本能で、動物もす真似ることを知り、人も真似ることを知り、牛や水牛も真似をし、歩く時も真似をして歩き、何をするにも一緒にします。こういうのは、自動的な愚かさの話です。

 次は真似になり、人真似病、人真似主義、人真似本能はサラナを持たせる原因です。

 初めの種類のサラナを持つことのまとめると、最高に低いのは恐怖から生じ、愚かさから生じ、人真似主義から生じ、それがサラナを持たせ、あるいはサラナを持つ努力をさせると言います。

 二つ目のサラナは理由の威力、教育の威力、出家して学習する威力でサラナを持ち、「私にはサラナがなければならない」と思わせる他の理由がある人もいます。この理由はいろいろあり、何でもいろいろ知る教育に由来し、あれを知り、これを知り、「自分の安全のために何をするか、どのようにするか」決意する理由があります。

 この宗教で出家して学び、チー(修道女)になり、僧になり、沙弥になる、出家すること、学ぶことはサラナと呼ぶものと関わらせ、そして出家する前からサラナを持たなければならないので、沙弥でも僧でも、サラナを授かる人を出家として受け入れるという規定がヴィナヤ(律)にあるので、それも逃げられません。だからこの二つ目のサラナは理由、教育、出家、学習から生じます。

 三つ目は明らかに見ること、満足してそのタンマを喜び、サラナを持たせる後押しをするタンマの喜悦、タンマの歓喜が生じて染みわたるまで心の中を明らかに見ることから生じ、これは聖人のものです。こういうのは「至った」、サラナに至ったと言う方が良いです。まだ「持つ」なら、述べたようにいろんなレベルの理由があり、最後の到達はそのタンマが明らかに見えて染み渡るので、そのサラナに至ります。

 ここまで来たら、自分でもう一度査問していただきたいと思います。つまり誰でも自分自身のサラナを持つことを「恐怖故に、愚かさ故に、あるいは人真似でサラナを持つのか」、あるいは「正しい理由で、十分な教育でサラナを持つのか」、あるいは「プラタムの恩恵が明らかに見えるからサラナを持つのか」査問します。それはこのように段階的になっています。

 ここで次に話したいのは、サラナを持つ目的、あるいはサラナを持つ目的の結果です。本当は誰でも何とか見えますが、それはハッキリしてなく、あるいは全部ではないかも知れないので、学習して熟慮する物に整理してしまいたいと思います。そして「何のためにサラナを持つか」と言うより、譬えの形で話したいと思います。

 正しく経過して正しい見解になれば、自分の根を下ろすために、自分の根を仏教に下すために、サラナーガマナ(帰依)を持ち始めます。

 今まで私たちは異教の外国人で、慣れてなく、何でもなく、今宗教に近づき、それが強く根を張ってほしいので、形式的でも本当にでもサラナを持ち始め、段々にあるようになり、例えば私が子供達を預かってブッタマーマカ(仏教徒を自認する人)にしてサラナを持たせると、ブッダ・プラタム・僧も仏教の子供たちに根を下ろし始めるなど、これを「形式的に」と言います。

 次に私たちはプラタムに利益、最高の素晴らしさがあるのを見ると、満足してサラナを持ち始めます。これも初等の根を張ることと言い、儀式に関わらずに、信仰あるいは心が強くサラナに根を張ります。

 これは自分自身の根を張るように、最高の安全のために仏教に強く根を張り、このような結果を得るために、できるだけ行動してください。みなさん全員がこのような結果のためにサラナを持つ努力をし、このようになり、仏教に自分の根をしっかり下すようお願いします。

 もう一つは土に種を蒔くことに例えたいと思います。籾米でも何の種でも、最初に土に蒔くことは花や実が成る出発点です。私たちは土に種を蒔き、それから常に水を撒いて土を掘り返し、そしてつききりで世話をして雑草を取り、すべての面の危険を防がなければなりません。

 そのような結果があるサラナを持って、「私の心よ、仏教の道の最高レベルまで、段階的に美しく成長しなさい」と、そのような結果を目指しなさい。形式的でも、心の本当の感覚ででも、サラナを持つことで種を蒔かなければなりません。

 初めの段階は種を蒔くのと同じですが、それに止まらず、サラナーガマナと呼ぶものをずっと把持し続けると、芽が出て、枝が出て、花茎が出て花が咲き、最後には実が成ります。

 私たちはこのタンマの教えで花を咲かせ、実を成らせるためにサラナを持ちます。聖向聖果に到達することを「花が咲き、実が成る」と言います。

 最後はサラナによって幸福に暮らすことで終わり、私たちが幸福に暮らし、特に心の面の幸福なら、体の面の話は付いてきます。心の問題を正しくし、基礎にしてください。そうすれば体の話は自然に正しくなります。次にサラナを持つことで幸福に暮らすのは、心に正しい帰依があるからです。

 なぜ幸福かは、タンマが護るからです。この幸福はタンマの守護次第で、心にとって危険な物は何でも、近づいて心に触れないようタンマが護ることができ、煩悩も苦も、心に触れることは出来ません。

 これは例え話で、タンマの威力で心が別の状況に変化してしまっているので、氷を入れた冷たさ、物質的な冷たさでない、タンマ式の静かで涼しい生活があり、煩悩の熱がない涼しさ、こういうのが涅槃の意味です。

 まだ知らない人のためにちょっと話す時間をいただき、知っている人もいますが、涅槃という言葉は冷たいという意味です。ある人たちは「涅槃は国であり、都であり、考えられる全ての物がいっぱいあり、そこへ行くと何でも思い通りに得られる」と信じていますが、それは初めにそう信じて涅槃に関心を持たせるように誘う宣伝です。

 本当の涅槃とは、文字通りに訳せば涼しいという意味、止まるという意味です。涼しいとは熱い物がないという意味で、貪りも怒りも迷いも涅槃の中にない熱いもので、自分のものと執着する生、老、病、死は涅槃の中にない熱いもので、だから涼しいです。

 涅槃という言葉、つまり涼しいという言葉は大昔からあり、それを借りてきて宗教の言葉に使い、煩悩が完全に消滅すれば涅槃になるという意味です。初めは庶民の言葉で「涼しい」という意味です。涼しさと呼ぶどんな涼しさも、熱さの終わりです。

 真っ赤な炭が冷えると「炭が涅槃した」と言い、鍋の中の熱い食べ物、皿の熱い食べ物が冷えれば「食べ物が涅槃した」と言い、その後毒がなく、危険がなくなった畜生も「その畜生は涅槃した」、つまり冷えたと言います。

 次に望みどおりに何かを手に入れて心が冷えた人は、一時的に冷えたので「一時的な涅槃」と言い、サマーディをして心を強制的に冷やした人も、一時的な涅槃と言います。煩悩を滅尽させた人は本当に冷え、最高に冷え、一時的ではありません。いずれにしても涅槃という言葉は冷える、涼しいという意味です。

 今私たちは持つだけでなく、到達したサラナ(帰依)があり、十分到達し、心はサラナ、つまりブッダ・プラタム・僧の威力で冷え、庶民の言葉でなくタンマ語の意味の涼しい生活があります。庶民の言葉の涼しさは簡単に作れ、氷を入れ、あるいは何かを入れれば涼しくなりますが、タンマ語は熱いものを出さなければならず、そうすれば本当の涼しさ、あるいはより涼しくなります。

 私はこれを、人間が手に入れるべき最高に善いものを得ると見なします。このような物を手に入れることは最高のもの、そして人間が得るべき最高に良いものを手に入れることです。人間が知ることができる、あるいは持つことができる、到達できる良いもの、最高に素晴らしい価値があるという意味で、それ以上に高いものはありません。つまりその後心に熱いものがない暮らしです。

 これがなければ、何もかも熱いもので、私たちを護るサラナがなければ、つまり正しいタンマが防護しなければ何もかも熱いもので、子も妻も熱いもの、お金も熱いもの、名誉や名声も熱いもので、得れば得るほど熱くなるだけです。

 しかしタンマがあり、サラナがあれば何でも涼しく、火でさえ涼しいので「人間が手に入れるべき最高に良いものを手に入れた」と言います。最後のレベルの最高の譬えで話せば、これが永遠の命があることで、その後生老病死する俺、俺のものはなく、そのタンマがあることは永遠に維持され、永遠の涼しさがあります。

 自分があるなら間もなく崩壊する体でなく、永遠にあるタンマにします。あるいは心次第なら、くるくる変わり、一時生じ、一時消え、以前好きだった物も嫌いになり、常に生じては死んでいて、永遠の命ではありません。宗教面の永遠の命はプラタム(ブッダの教え)を意味し、心が純潔で到達していれば、それをサラナにすることができるので、その人には永遠の命があります。

 これがサラナーガマを持つことの結果で、ここで最高になります。種を蒔いて根を張り、葉が出て枝が出て、花茎が出て花が咲き、実が成り、最後には人間の精神面の涼しさになる、これを「サラナに至ることの結果を知る」と言います。次にまだ最後の問題が残っています。

 私たちはどのような方法でサラナ、あるいは本当のサラナーガマを持てるか、功徳について話し、いろんなことについてそれなりに長く話したので、残るのはどんな方法でできるかで、これが講義の主題に関わる実践原則です。

 私たちはどんな方法でサラナーガマに至る、あるいは持つ、あるいはできるか。これは二つに分けることができます。

 初心者、勉強を始めたばかりの人は、それまでタンマに関心がなく、今タンマに関心を持ち始め、宗教に向きを変えた人で、「どのように誤りで、どのように正しいか、どのように最高に利益になるか、最高は先ほど述べたカーラーマスッタの教えにある」と、先ほど述べた正しい出発にするために、能力の限り努力します。

 重要な意味は、登録した仏教教団員であることを本当の正しい仏教教団員に改め、あるいは変えます。誰かが「みなさんは仏教教団員ですが、登録でだけです」と言っても、悔しがったり怒ったりしないでください。仏教教団員である両親から生まれて出生登録をする時、仏教教団員と記録し、そして身分証明書やら何やら作ると、役所は仏教徒と登録します。これを生まれつきの、登録による仏教教団員と言います。

 私たちは改めなければなりません。変えなければなりません。それだけにしないで、本当の、そして実践で正しい仏教教団員になってください。そのままにすれば登録だけ、帳簿だけ、ほとんど制服だけの仏教教団員です。仏教教団員の服装をするのは制服による仏教教団員で、こういうのは冒頭で述べたように本当のブッダ・プラタム・僧がある本当の仏教教団員に変えなければならず、改めなければならず、向上しなければなりません。

 本当の仏教教団員、あるいは今本当の仏教教団員になるために努力している人たちのために、良く憶えておいていただきたい二つの言葉を紹介したいと思います。

〇初めの言葉は、本当のブッダ・プラタム・僧がある。
〇二つ目の言葉は、ブッダ・プラタム・僧になってしまう。
 初めにブッダ・プラタム・僧を正しく持ち、自分、自分の全身全霊、自分の精神でも何にでも正しいブッダ・プラタム・僧があるようにし、そしてちょっと移動して、自分自身がブッダ・プラタム・僧になってしまいなさい。

 聞いて意味が分からない人は、私がバカみたいなことを言って自慢すると非難しますが、このように話すのは、本当はバカみたいな言葉でも自慢でもなく、それは、そうでなければならない事実です。そうでなければ使い物になりません。

 サラナを持つことでブッダ・プラタム・僧があると言うのはごく普通のレベルだけで、そして仮定の言い方でもあります。最初の段階はまだ愚かで、まだ子供なので「持ちなさい」と言わなければなりません。私は私のブッダがあり「ブッダマーマコー ティ マン ダーレタ」。「みなさん、私を、ブッダは私の物ですと宣言した人と見なしなさい」。

 ブッダマーマカという言葉はそのような意、「ブッダは私のもの」と宣言する人という意味です。これが「その人のブッダ」がいる人です。そしてこれはブッダになってしまって「私はブッダになってしまった」と言う人とは違います。

 「もつ(ある)」という言葉は面白い言葉で、ほら、あなたはブッダ・プラタム・僧をどこから持ってきましたか。持って来て箱に仕舞っておきますか。それとも金庫ですか。ブッダ・プラタム・僧があると言えば、心にどのように仕舞っておくのですか。どこにあり、どのように持ってくるのですか。

 結局「私はブッダが実践されたように、プラタムにあるように、僧のように実践しなければならない」という項目を認めなければなりません。私たちはそのように実践しなければなりません。それが「私はブッダ・プラタム・僧がある」ことです。

 要旨だけまとめると、

 ブッダは清潔で明るく静かな人になるための実践が終わった人で、悪がない清潔な人、愚かさがない明るい人、苦がない静かな人です。ブッダは最高に清潔で、明るく、静かな唯一の人であり、プラタムは学んで実践して、清潔で明るく静かな結果を得る話で、僧は努力をしている人、あるいは清潔と明るさと静かさがあるようにする実践が終わった人です。

 清潔と明るさと静かさはブッダ・プラタム・僧である価値があります。この心の面の美徳がある人はブッダ・プラタム・僧があると言い、物質のような話し方で「私は持っている」「私の物」という言葉を使います。

 こういうのは少し正しく、真実ですが仮定の真実で、そして正しいのは少しで、所有、あるいは独占できるかどうかは、これらの物は最高で神聖すぎます。しかし「なる」にしてしまえば、その方が簡単にできます。

 私たちは自分の心をブッダ・プラタム・僧のように、できるだけ清潔で明るく静かにしてしまいます。

 清潔で明るく静かな心がある時はいつでもどこでも、そこでその時、その時だけ、その人はブッダ・プラタム・僧です。

 次に私たちは時々ブッダ・プラタム・僧である時がありますが、一部です。清潔な心は少なく、小さな明るさで、小さなブッダ・プラタム・僧で、そして最高レベル、つまり煩悩を全部捨てるまで増やし、残っている貪り、怒り、迷いをなくします。それが、私たちがブッダ・プラタム・僧になってしまうことです。

 こういうのはハッキリ見え、「ある」と言うより正しいです。私たちは何の権限で持って独占するのでしょうか。仮定の話で正しく言えば、「私たちは自分の心をそのようにしてしまう」と言います。

 「ある」と言えばそのようであることが「あり」、ブッダ・プラタム・僧にあるのと同じ状態があります。しかしそのようであることはブッダ・プラタム・僧です。ブッダ・プラタム・僧は、愚かな人のように物質や体を意味しないからです。

 子供のように愚かな人は、当然「ブッダはその時代にインドで生まれた人」と理解しています。それはブッダの皮の部分、あるいはブッダの外皮です。本当のブッダはその人をブッダにした美徳であり、清潔・明るさ、静かさです。ブッダは「タンマが見える人は私が見える」と言われています。

 みなさん、本当のブッダとブッダの外皮を正しく知りなさい。例えば仏舎利であるブッダ、あるいはブッダの体はブッダの外皮で、本当のブッダは純潔清潔・明るさ・静かさである美徳で、それが本当のブッダです。

 プラタム(ブッダの教え)も同じで、子供や庶民は三蔵であるプラタム、あるいは「さあ、プラタムを聞きなさい!」と叫んで唱える声だと言い、何を唱えさせているか知りませんが、あれはプラタムの皮です。本当のプラタムは学習と実践から得た清潔・明るさ・静かさの状況です。

 僧は、庶民は黄衣を僧とし、出家して勉強して頭を剃った人を僧とします。狂人が黄衣を纏って遠くから歩いて来ても僧と考えますが、これは僧の皮です。本当の僧は、多くても少なくても最高でも、その人の心の中にある清潔・明るさ・静かさの状態で、これを僧と言います。

 これらのものは、私たちがそれになってしまう方法があり、部分があり、権利があります。これです。私たちがブッダ・プラタム・僧になってしまいます。ブッダは所有権、著作権を主張なさらず、何も禁止されなかったので、私たちは幾らでもブッダと同じになることができます。もしできれば、教えにもタンマにも、何にも違反しません。

 しかし私たちはブッダと同じブッダにはなれません。ブッダと同じ清潔・明るさ・静かさを持つことは出来ますが、自分自身で大悟する、自分で一切智になる、このようにはできません。私たちはブッダから聞いて、自分をブッダにしなければなりませんが、ブッダは自分自身でなることができ、ここが違います。だから人物である部分のブッダはこのようです。

 本当のブッダの部分は誰でも同じで、違うのはレベル、あるいは永遠だったり永遠でなかったり、時にはブッダと同じ心があり、そして再び変化してしまい、このように永遠でなく、後はそれを永遠に変わらないようにするだけで、ブッダになり、プラタムになり、僧になってしまえます。

 次にどうすれば良いでしょうか。それはブッダが勧められているようにし、そして絶妙に実践して見なければなりません。

 次にみなさんに教えの言葉、執着しない話を思い出すよう忠告したいと思います。三蔵の中の教え八万四千のタンマを一つにまとめると、「すべての物は、俺、俺の物と執着すべきではない」という一文だけが残ります。それは自然のものなので、自分の物と見てはいけません。見た途端に愚かになり、そして途端に苦があります。何かを「俺」「俺の物」と執着すれば、その時苦です。

 食べるにも使うにも、何をするにも自然のままにしておきなさい。「妻があっても妻がないよう、財産があっても財産がないよう、幸福があっても幸福がないよう、苦があっても苦がないよう、買い物に行っても何も持って来てはいけない」と教えているキリスト教徒より劣ってはいけません。理解できない人はキリスト教徒より劣ります。しかしほとんどのキリスト教徒もこの教えを理解できません。私たちの側の最高に深い教えと同じで、最高に深い教えだからです。

 妻を持つことも、しなければならない義務で持ちますが「自分の妻」と思い込みません。それは自然のもの、神様のもので、自分の物と詐称することはできず、一時自然から借りて使うだけです。

 財産も同じ、幸福も苦も同じで、自分のお金で買った市場の物は法律では自分の物で、家に持って来ますが、心は愚かに「これは自分のもの」と言わないでください。本当は、それは自然のもの、神様のもので、持って行って食べるため、使うために私たちの手に渡り、そしてこのように循環しているので、「これは俺の物」と言うほど心が愚かにならないでください。

 まとめると、妻や子、財産、物、お金、名誉名声、何でも、愚かにも俺の物と言わないでください。そしてこの塊を、愚かに自分と言わないで、愚かに外側を自分の物にしないでください。

 これが最高のサラナを持つことで、執着しないことが最高のサラナです。執着しないことが清潔・明るさ・静かさの美徳で、執着すれば途端に不潔になり、途端に暗くなり、途端に焦燥し、執着しなければ、その途端に清潔で明るく、静かです。

 次にもっと良いのがまだあり、ブッダはすべての行動の状態をまとめて「正しく暮らす」とだけ言われました。じっとしていて、あちこちへ行ってあれこれ掴んで自分の物にしません。

 だから最高に不思議な、最高に興味深いブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)は、涅槃間際に、あと数分、あと数時間で般涅槃される間際に「これらの比丘たちが正しく暮らしていれば、世界に阿羅漢は欠けません」といわれた言葉で、正しく暮らしなさいという意味です。正しく暮らすとはどのように暮らすことかは、自分で解釈します。もし全員が正しく暮らせば、この世界に阿羅漢は不在ではありません。

 それが最高のサラナーガマナを持つことです。正しい生活とは「貪らない、怒らない、迷わない」ことで、「貪らない、怒らない、迷わない」は、何かを「俺、俺のもの」と執着しません。あれこれ掴んで「俺」「俺のもの」にすれば正しくない生活、不正な生活、盗人の生活で、自然の物、あるいは神様の物を俺のものにします。

 智者はすべてのものを自然のもの、神様のものと見なし、この世界を構成している土・水・風・火・空・識、それは自然のもの、神様のものと見なします。盗人になって盗んで来て、ずうずうしく俺にし、俺のもの、俺の金、俺の妻子、俺の何かにしないでください。それは人間が規定した法律で、愚かです。私たちはこのような愚かさを止めてしまいます。

 外部は仮定で、社会で暮らすには規則や法律に従って話さなければなりませんが、心の中はそのようにしないで、「それは自然のもの、プラタムのもの、神様のもの」と手放します。私たちは神様を知りませんが、最高に神聖な威力があるので、神様の物を盗んで自分の物にすれば、途端に頬を叩かれ、途端に何らかの苦があります。

 大胆不敵に盗人や泥棒になって、あれこれ盗んで「俺、俺のもの」にしないでくさい。命や体も俺のものではありません。それは自然のもの、神様のものです。「形・受・想・行・識は俺だ、俺のものだ」と執着すれば盗人になり、盗人になれば罪を受けなければならず、途端に地獄に落ちます。

 これがサラナーガマナを持つため、あるいはサラナーガマナに至るための最短で、真実で、真っ直ぐで正しい方法です。ブッダ・プラタム・僧もこのように持ち、ブッダ・プラタム・僧に至るのもこのように至り、手放した心があり、何にも「俺、俺のもの」という理解で執着しません。

 心からこれらの不潔なものを出せば心は清潔で、純潔な知性だけが残り、純潔な知性は、「今日どうするか、どんなおかずでご飯を食べるか、事務所で何をするか、休息である何をするか」教えるので、苦を伴わずにすることができます。ブッダ・プラタム・僧が住んでいると言うような純潔で正常な知性でするので、間違ったことはできず、ご飯を食べ、水浴をし、仕事をし、社交をし、子や妻も持っても、何を持っても間違いなくするので、苦はありません。

 死が訪れても、死を自分のものと受け止めて自分のものにせず、病気が訪れても受け止めて自分のものにしないので、病気や生や死などいろんな物は意味がなくなり、恐れなければならないものは何もありません。

 これを、心が解脱して自由になったのは、保護するサラナーガマがあり、保護するブッダ・プラタム・僧があり、本当のサラナがあり、本当に抵抗できる拠り所があるからと言います。これが「どのように実践すれば正しく本物であるサラナが得られるか」という項目です。

 これはブッダ・プラタム・僧を自分のものとして「ある」という言葉と、ブッダ・プラタム・僧に「なってしまう」という言葉の違いを指摘して見せています。

 執着でブッダ・プラタム・僧を持てば大事になり、更にブッダ・プラタム・僧でなくなります。それは埒外のことであり、大きな間違いです。

 ブッダ・プラタム・僧になってしまうことも同じで、執着しないで、「清潔で明るく静かな心になる」真実が見える明らかな知識だけにし、心の中を、執着で汚れた闇にしないでください。同時に一瞬ぼんやりしたら大いに恥じ、大いに恐れ、一瞬心に貪り・怒り・迷いが生じたら大いに後悔し、大いに恐れ、大いに恥じれば、だんだん薄くなります。

 今は恥を知らず、恐れを知らず、後悔を知りません。それほどまで低劣なら誰も援けられません。神様もブッダも援けることはできません。ブッダの援けを願わず、ブッダの教えに従わないので、ブッダも援けません。自分で自分を援けなければ、誰も助けません。

 一度まとめると、本当の拠り所を持つには、自分自身をブッダ・プラタム・僧にし、何でも、一つでも俺、俺のものと思い込まないで、心に清潔、明るさ、静かさを生じさせ、自分自身を拠り所にしなければなりません。そうすればその心にその後苦はなく、「その後苦がないように護るものがある。人間が得るべき最高に良い物を得た。人間に生まれた機会を無駄にしない」と言います。

 次に残っているのは他人の利益を成すことだけで、便利にできます。自分は自分の利益を成すことの極みに達しているので何も望みませんが、時間もあり、力もあり、労力もあるので、楽しく他人の利益になることをするからです。それで、生まれて来て人間がなり得る最高に善い人間になることは、これで終ります。

 これと違えば、あるのは不潔と暗闇と憂鬱のために何かに執着するだけで、苦の海を回遊している愉快でない人間です。

 今私たちは「仏教教団員でブッダ・プラタム・僧を信仰している」と表明しましたが、まだ愚かで、まだ目を瞑っていて、どのように到達できるか知らないので、目を開けてこれらの問題を正しく片付ける努力をしなければなりません。そうすれば問題は終わります。

 すべてはサラナーガマナに関わる実践原則で、詳細に話せば何日でも、何か月でも、何年でも話せますが、要旨を話せば二三分で終わります。つまり「何にも執着しない心を持つことでブッダ・プラタム・僧になる努力をなさい。執着してはいけない。執着すれば苦になる」と見ます。それは自然の物、神様の物なので、失敬して俺の物にしてはいけません。これだけです。

 このようにすれば貪りも生じられず、怒りも生じられず、愚かさも生じられません。貪り、怒り、迷いが生じるのは「俺、俺のもの」という執着があるからで、貪り、怒り、迷いが生じればお終いです。

 今私にできるのは「貪らないで、怒らないで、愚かにならないで」と話すだけで、大声で叫んでも、どうすれば貪らないようにできるか、怒らないように、愚かにならないようにできるか教えることはできず、貪らないよう、怒らないよう、迷わないよう夢中になって叫ぶ結果はありません。

 それは、どうすれば貪らず、怒らず、迷わないようにできるか、つまり「盗人になってプラタムのもの、自然のもの、神様のものを盗んで俺のものにしてはいけない。いつでも手放している心を持って、自分のものは何もない、市場で買った物も持ち帰らないという教えでキリスト教徒より劣ってはいけない」と教えなければなりません。これは忘れないために深遠な謎として話しています。だから私の物、俺のものは何もありません。

 今「俺のもの」と話している言葉は、仮定で話していると捉えてください。庶民は「これはこの人の家、この人の土地、この人の子や妻、この人のお金。この人の何かの権利」と仮定し、社会的にはそのように法律が保証します。それはまだ法律がなければならない愚かな人間が、あれこれ独占するために規定した法律の話です。

 民主主義があるのでこのように執着し、滅苦ができません。私たちの心の中は、盗人になって自然のものを盗んで俺のものにするほど間違ってはいけません。

 それは他人の物を一時的に借りて使い、恩知らずで自分の物にしてしまうのと、一時的に他人の家に住んで、それで恩知らずで自分の家にしてしまうのと同じです。

 自然、あるいは神様、あるいは私たちがまだ知らない物が、身体、心、土、水、風、火を一時的に私たちに貸し、私たちは「俺の物だ。借り物ではない」と詐称する、このような状態と理解してください。それです。苦はそこにあります! 強奪者、あるいは公然と盗む人であるのを止めれば、純粋な人、苦のない人になります。これが正しく最高の拠り所を作ること、サラナーガマナ(帰依)の持ち方です。

 初めに自分のブッダ・プラタム・僧があり、そして最後には自分がブッダ・プラタム・僧になって終わります。

 みなさんにお願いするのは、初歩の話と捉えないで、サラナーガマナ(帰依)を受けることは、宗教のいろんな儀式のイロハと捉えないで、これを良くしなさい。そうではありません。これは見過ごしてしまう、あるいは止めてしまうイロハでなく、最後の物、実に生きるか死ぬかの話です。

 イロハに例えると、小さなクラスの子は「イロハ」を習い、今白髪頭の老人が大学で、ボロママハー大学で勉強するのに、まだイロハを使わなければなりません。何の本でもイロハを使わずに書けないからです。だからイロハは初めから最後までなければならないもので、そしてそれを良くしなければなりません。特にイロハであるサラナーガマナは、全部使わなければならないほどすべてです。

 不注意で、愚かさと不注意でイロハと見て、片付けてしまう関心がなく、進歩発展させないからそれはこのようで、このような状態にあり、真っ暗な仏教教団員で、聞くと滑稽です。

 ブッダとは「目覚めた、明るい、朗らかな」という意味ですが、私たちは暗いブッダで、それは自分の悪を曝け出す、あるいは自分を騙す、何かそのような意味で、悲しむべきです。

 この重大な問題を持ち帰って考え、熟慮して、体が壊れて死ぬ前に、急いで「自分自身があること」を終わらせ、「俺、俺のもの」を終わらせ、「俺、俺のもの」を全部死なせるよう希望します。

 サラナーガマナがあることの利益や功徳を受け取る人は最高に受け取り、「俺」が死んだ時、残っている体や人生は幸福で、涅槃の味、つまり終局である静かさを味わいます。

 これを、中学に入ったら関心を持つ必要がないイロハの話と見ないでくださいと、もう一度繰り返させていただきます。イロハの文字はレベルの高い文学や語学でも使わなければならないように、(サラナの話は)人生の最期まで関心を持たなければなりません。

 時間になりましたので、これで講義を終わらせていただきます。



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