9.カンマとカンマの終わりに関わる実践原則



1971年5月29日

 タンマにご関心のある善人のみなさん。「土曜談話」と呼ぶ講義の今日は、みなさんご存知のように、予定通り「カンマとカンマの終わりに関わる実践原則」という主題です。

 みなさん。これは二つの話があると規定していると観察して見てください。つまりカンマに関わる実践が一つ、そしてカンマの終わりに関わる実践が一つ、それは別々の話で、そして正反対ほど違います。

 カンマに関わる実践原則は、善いカンマ、悪いカンマに対してどのようにしなければならないかという意味で、カンマの終わりに関わる実践原則は、善いカンマと悪いカンマを抜き取ってしまえれば、その後は善いカンマ、あるいは悪いカンマの威力下に落ちないという意味です。これが主題で、正反対の状態にある二つの話の説明です。しっかり聞いてください。

 なぜこの話をするのかは、それは知らなければならない、話さなければならない話だからと、中らずと雖も遠からずの答えをします。それは一呼吸ごとに私たちに関わっているので、善い意図があれは善いカンマを作り、悪い意図の時には悪いカンマを作り、時には善悪の意図がない時もあるので、「善」「悪」と言わない中間のカンマがありますが、善悪に関わる感覚がなければ、何かする意図があると知らないので、あまりありません。

 私たちは善と悪しか考えていなので、関わっているカンマは四種類のカンマで、黒いカンマ=悪いカンマが一つ、白いカンマ=善いカンマが一つ、白と黒が混じったカンマが一つ、この三つは動物を困らせるカンマで、四番目のカンマは黒くも白くもないカンマで、白いカンマ黒いカンマの終わりです。これはあまり知らないので、あまり話されません。

 ほとんどは二種類、つまり白いカンマ・黒いカンマと呼ぶ善いカンマと悪いカンマについて話すだけで、混じっているカンマについては話さなくても良いです。話した黒いカンマ、白いカンマと変わらないからです。黒いカンマは悪、白いカンマは善、そして黒くも白くもないカンマは黒いカンマと白いカンマの終わりで、この三つのカンマがあります。

 今、毎日私たちはカンマを作り、カンマの結果を受け取ってカンマになり、眠ってもカンマに妨害され、あるいはカンマの結果を受け取るので、前身寝ても覚めても、十分に人間に関わる話と見なします。


カンマとカンマの終わりの話
 このように二種類に分けて話すのは、私たちがカンマに従って当てもなく漂わなければならないのは楽しいかどうか、良く見れば自分で見え、そしてカンマに従って漂う必要がなく、カンマの威力より上にいることは楽しいか、良く見れば自分で見えると見てほしいからです。

 カンマの話は常に人間に関わる話であるのが一つ、そしてこの話を正しく理解して実践すれば自由な人になれ、カンマに流されて漂う必要がないからです。このように重要なので話します。

 次に話す言葉についてもう少し観察するようお願いしたいと思います。カンマなどのパーリ語の話し言葉はハッキリした定義があり、他の物に翻りませんが、タイ語で庶民が「カンマ」と言うのは別の意味になることもあり、翻ることもあります。

 タイ語でカンマと言うのは行為で、この行為は何種類もあり、カンマである行為もあり、カンマでない行為もあります。だから「行為とはカンマです」と言うのは正しくありません。しかしパーリ語でカンマと言えば完全なカンマで、感覚のある動物の意図による行為を意味します。これを観察しておいてください。

 タイ語のカンマという言葉は意味が変化し、ある種のものになり、例えば「カンマに至る」とは死を意味します。パーリ語にはこういうのはありません。このように言いません。カンマに至ったら死ななければならないと話すことはありません。

 若者が「カンマだね、可愛い人よ」と、このように叫ぶのを良く耳にします。こういうカンマは意味が変わってしまい、それはカンマの結果を受け取る、あるいはカンマが到着したという意味、つまりカンマの結果を受け取るという意味で、カンマではありません。

 もう一つ興味深い言葉は、いつの時代からと言えない伝統で、誰かが亡くなると善人たちは「ほら良かった。カンマが終わってしまった」と感嘆しなければなりません。これは誰かが亡くなると、「それはカンマが終わってしまったので良い」と聞いたという意味です。パーリ語にはそういう意味はありません。

 死はカンマの終わりでなく、カンマの終わりは違う意味、阿羅漢になったという意味です。死んでも死ななくても構わず、煩悩が終わった時カンマが終わるので、カンマの終わりは死ぬ必要はありません。死んだ時「カンマが終わってしまった」と庶民が言うのは、こういうのは意味が非常に違うか正しいか、あるいは誤りか、考えて見なければなりません。

 私は、大昔からこのように話されて来たと理解します。だからある時代には「人が死ねばすべてが終わり、何も残らず、何もない」と教えたのかも知れません。これはカンマの終わりを意味します。

 もしこのような教義を「死ねば生まれる必要はない。死ねばそれだけで終わる」と教えていれば、本当にそのようなら、死を「カンマの終わり」と呼ぶこともできます。これが正しいか誤りか、考えて見なければなりません。ブッダが「死んで生まれる」、あるいは「死んだら生まれない」と言われたと主張する証拠はなく、ブッダは話されなかったからです。

 ブッダは、死ぬ時はどのようになるか話されず、話されたのは、生きている時は必ずこのようになり、生きている時はカンマにならなければならず、煩悩が終わった時カンマが終わるとだけ話され、死の話はしませんでした。ブッダが死後の話をなさらずにそう言われたのは、全部否定されたに近いです。そのように言われたこともあり得ますが「あり得ない。そういうことはない。邪見だ」と反論する人もたくさんいます。

 事実関係はどのようかは言わない方が良いです。どう信じれば利益があるか話しましょう。死んだらまた生まれると信じれば利益があるなら、そのように信じ、死んだら二度と生まれないと信じれば利益があるなら、特に道徳面でどう信じれば道徳面の利益があり、穏やかな幸福になるなら、そのように信じなさい。

 事実がどのようかは、一般の人が自分で見える範疇になく、他人を信じなければならないので、まだ話さずに保留にしても良いです。だから誰かが「死んだらカンマが終わってしまう」と言っても、すぐに反論してその人を軽蔑しないでください。他の意味が隠れているかも知れません。

 普通の言葉で言えば、パーリ(ブッダの言葉である教典)にある教えのカンマの終わりは、煩悩が終わった時という意味で、煩悩が終わり、ローバ(貪り)が終わり、ドーサ(怒り)、モーハ(迷い)が終わればカンマの終わりということで、その後はカンマの結果を受け取る自分はありません。

 そしてローバ、ドーサ、モーハがなければ、何をしてもカンマになりません。体、言葉、心、どの面でもローバ(貪り)、ドーサ(怒り)、モーハ(迷い)がない人がすればカンマでないただの動作になります。

 これは「庶民が話すカンマという言葉はパーリ語とは違う」と見せる例で、一緒にすれば愚かになり、目が回って理解できません。これに関しては「タイ語とパーリ語は同じ言葉でも同じ意味があることを意味しない」と、永遠に生涯忠告させていただきます。カンマなどの言葉は良く注意しなければなりません。

 庶民が「カンマ」と言うのは、悪いカンマが来たという意味で、パーリ語のカンマは良いのも悪いのも、良くも悪くもないのも意味します。これは「庶民の言葉はパーリ語、タンマ語には使えない」と観察しなければならない項目です。


カンマになるため、あるいはカンマの終わりのために、
カンマの話で正しく実践しなければならない実践原則

 実践原則の部分について話したいと思います。しかしその実践原則は論理という正しい理解が必要です。だから実践について話す前に、論理、あるいは実践に関わる必要な知識について話さなければなりません。だから私は基礎的知識、あるいは基礎理論について概要を話して共通の理解にし、それから実践について話します。

1 カンマの話の知識
 カンマの話の知識は幾つもの項目があります。最初は「キリヤー」と「カンマ」という言葉についてで、キリヤーとは行動という意味で、カンマも行動という意味で、どちらもパーリ語ですが同じではありません。キリヤーという言葉は動きという意味で、単なる動きだけでもキリヤーと呼びますが、その動きに「あの意図、この意図」と感じる人の意図がなければカンマと呼ばないこともあります。

 だからカンマは意図に注目し、その意図がカンマです。キリヤー(行動)の方は意図がなく、キリヤーも行動、カンマも行動ですが、カンマは意図があり、キリヤー(行動)は意図がありません。

 次に知識のある物であるために、キリヤーと呼ぶものを熟慮して見ます。本当はキリヤーの話は、実践に関わる問題はありませんが、知っておきましょう。この規則はカンマには意図がなければならず、体と言葉と心の行為であり、そして善悪を知る感覚がある動物のものでなければならないとあります。畜生はこの項目に含まれません。畜生は人間のように善悪の感覚がなく、善悪に執着しないからです。

 善悪の感覚がある動物の、そして善でも悪でも、煩悩が根源にある意図でする体と言葉と心の行為、それがカンマです。猫などの畜生がネズミを捕って喰うなど、こういうのはこの話に含まれません。この項目に含めません。猫は善悪を知らず、善悪に執着せず、人間のように貪・瞋・痴のためのウパダーナ(取)がないからです。

 カンマの話は人間のために規定しました。そして人間の基準に達した人間、つまり「何が善で何が悪か」を知り、そして善悪に執着する人間でなければなりません。原始時代の人間で善悪の話がなく、半分猿で半分人間なら、こういうのはまだ善悪の感覚がないので、こういうのは除外しなければなりません。カンマの話は、このような人のために規定しなかったからです。

 このように話す時、みなさん、時々話している説明を思い出してください。つまりキリスト教の話は、罪があり苦があり人間がいるのは、神様が「食べてはいけない。食べれば死ぬ」と禁じた木の実を、人間が信じないで食べたので、食べたら善悪を知り、善悪を知った途端に罪があり、善悪に執着し、そして執着や煩悩の要求でしたので、苦、つまり死があります。ね。キリスト教も、人に苦あるいは罪があるのは、善悪の話を知った時という、このような教えがあります。

 仏教もそのような状態で見ることもできます。つまり善い意図、悪い意図があればカンマで、善悪を知らなければ、善い意図、悪い意図はありません。だからカンマの話は善悪を知り、善悪に執着する動物のために規定し、そして善悪の執着に関わる何かの行動の意図があり、その意図がカンマです。

 次にこの意図も煩悩から生じ、そして無明が根源としてあり、同時に縁でもあると言います。つまり何が苦で何が苦でないかを知らないことです。「これは無明」と知らないので、何が苦で何が苦でないか知らない感覚で混乱した意図があります。これがタンハー(欲望)を生じさせる原因で、何らかの物を欲しがります。愚かだから間違って知り、そして欲しがって誤ったタンハーになります。

 みなさんが三種類あると知っているタンハー(欲望)は、カーマタンハー(愛欲)、バヴァタンハー(有欲)、ヴィバヴァタンハー(無有欲)で、カーマタンハーはカーマ(性愛)を欲しがり、バヴァタンハーは所有や立場を欲しがり、この二つは貪りを生じさせます。ヴィバヴァタンハーは所有したくない、なりたくない、先を待ちたくないなどで、ヴィバヴァタンハーは確実に怒りを生じさせます。

 そして三種類全部はモーハを生じさせることができます。カーマタンハーも、バヴァタンハーも、ヴィバヴァタンハーも、モーハ(痴。迷い)を生じさせることができます。だからすべてのタンハーは、当然私たちが悪の根源と呼ぶローバ、ドーサ、モーハを生じさせることができます。それにも原因があり、ローバ、ドーサ、モーハがカンマを作る原因で、悪の側なら悪いカンマ、善の側なら善いカンマです。

 さてこの、善あるいはクサラも無明から生じるという部分は、誤解あるいは更に混乱する解釈をします。多くの人は、善も無明から生じると信じません。無明は「何が苦か、何が苦でないか」を知らないので、「それは善」「これも善」と誤解して執着します。そういうのも、自分が執着している善ゆえに苦にならなければなりません。苦は執着から生じ、善に執着すれば善の苦が、悪に執着すれば悪の苦が生じます。

 善に執着するのも無明に根源があり、つまり最高に上品な愚かさです。無明にも善のものと悪のものがあり、悪の無明は即座に悪のカンマ、黒いカンマを授け、「悪とは何か、善とは何か」を知らない深遠な無明は、善は善と考え、その誤解の威力で善行をし、その善に執着するので、善ゆえに苦になります。

 無明がなくなれば善行をしたくありません。憶えておいてください。無明が消滅すれば善行をしたくなくなり、善より上、悪より上、すべてのものより上にいます。まだ無明があれば善の話、悪の話で悪戦苦闘し、そして執着して苦になり、無明がなくなった途端に善悪より上になります。これは繊細な話です。

 論理面の話でも、実践に関して理解させるために話さなければなりませんが、聞いて理解できなければ信じないか、あるいは反論します。この無明は善の縁になることも、悪の縁になることも、無関心になることもあるからです。だから善でも悪でも、苦の塊を輪廻しなければならないすべての根源は、善い種類も悪い種類も無明に依存しなければならないと、あるいは苦があれば必ず無明があるとまとめることができます。

 善は執着しなければ苦はなく、執着すれば苦があることを忘れないでください。悪も同じで、執着があれば苦があり、執着がなければ苦はありません。執着がなければ善行も悪行もしません。この話を誤解しないでください。誤解すれば殴り合い、そして全部理解できません。

 次に「このカンマは、善か悪の意図で行為する善悪の話の知識がある動物の体と言葉と心の行為でなければならない。そしてその意図の根源は無明、何が苦で何が苦でないかを知らないことにあり、そしてタンハー(欲望)を生じさせ、愚かさで欲しがってカーマタンハー(愛欲)になり、バヴァタンハー(有渇愛)になり、ヴィバヴァタンハー(無渇愛)になり、

 善行をさせるものも悪行をさせるものもあるので、最高に身近な根源が生じてローバ(貪り)、ドーサ(怒り)、モーハ(迷い)になり、もう一種類はアローバ(貪らない)、アドーサ(怒らない)、アモーハ(迷わない)になる」と比較して見てください。ローバ、ドーサ、モーハなら苦の側になると言い、何も知らないアローバ、アドーサ、アモーハならアバヤーカリタ(無畏。中間)です。

 ローバ、ドーサ、モーハの終わりは別の話なので、混同しないでください。そしてローバは善行をさせる原因でも悪行をさせる原因でもあると良く理解すれば、「善行をしたい人も貪りでし、悪行をしたい人も貪りでする」と簡単に見えます。

 ドーサは明らかに悪行をさせ、善行をさせる原因であるドーサは探すのが難しく、あればむしろ皮肉の話です。怒って徳を積むのは皮肉・当てつけの話で、それも徳ですが、徳の一種です。

 モーハは善行の原因でもあり、悪行の原因でもあり、人に釣られて夢中になります。そしてモーハで善行もでき、あるいは愚かゆえに善行、悪行をすることができます。これがアビダンマと呼ぶほど、あるいはパラマッタダンマと呼ぶほど理解が難しい複雑さです。

 キリヤー(行動)である行為も、善悪を知る動物の体と言葉と心の面の行為ですが、阿羅漢のように善の話、悪の話に執着しないくらい知ると、行動に善の意図も悪の意図もなくなり、そして無明もなく、タンハー(欲望)もなく、ローバ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(痴)もありません。このような行動はキリヤー、つまりローバ、ドーサ、モーハが無くなった人、阿羅漢の行動です。

 阿羅漢の行動以外の行動は、原始人や畜生などはまだ悪も善も知らない動物で、善悪の意図がなく、無明や煩悩に関わらす、猫がネズミを捕まえるなどは猫の行動だけですが、反応は生じることができ、猫にネズミを捕らせたくないので、叩いて猫を殺すことなどもあります。

 あるいは猫に感謝して、良く飼うこともありますが、善悪を知らず、善悪に執着することを知らない動物である猫の行動は、行動の側に分類しなければなりません。カンマの側にすれば、猫は善悪を知っていると認めなければなりません。そうすればできます。そしてそのような悪の意図、善の意図があればできます。

 今私の見解では、猫あるいは畜生は善悪を知ることに関わらないと見なします。だから猫がネズミを捕まえて喰うのを罰して地獄へ落としません。あるいは清信士である何方が猫を罰して地獄へ落とすのも勝手で、する権利はあり、そして私はこれに反対しません。

 もう一種類のキリヤー(動き)は体と言葉と心がない物、つまり命がない物の動きにすぎず、例えばこのように木の枝が折れて私の頭上に落ちて来るなど、これは全部動きだけです。植物には心情がなく、何も感覚がなく、体・言葉・心がないと見なすので、意図がなく、無明がなく、タンハー(欲望)がなく、ローバ(貪)がなく、ドーサ(瞋)がなく、モーハ(痴)がなく、何もありません。これは最高にキリヤー(動作)です。

 これは、カンマは善悪を知る動物が執着でする意図がある行為であり、これがカンマだと聞かせるために取り上げた例です。一方の行動は善悪より上にいる人、つまり阿羅漢の行動。これはキリヤー(動作)です。そして善悪の話を知らない畜生など行動も行動で、そして心がなく、識がない石や土が壊れて落ちて来る、木が折れて落ちる、これもキリヤー(動き)で、どれも善い悪いと規定しません。

 カンマである物はどういうのが善く、どういうのが悪いか規定し、仮定次第です。煩悩あるいは望みと一致するものは誰でも善と言い、盗賊たちは盗賊式の善と言い、善人たちは善人式の善と言い、このような善悪はまだ非常に欺瞞します。短くまとめると、善は誰もが好むもので、善くないものは誰も好まないものです。

 今みなさんはカンマと呼ぶものと、キリヤー(行動。動作。動き)と呼ぶものの両方を、動作は結果がなく、カンマは何らかの報いがあり、意図がなければカンマと呼ばないと知りました。よく聞いてください。意図があってカンマを作れば何らかの結果があり、良い悪いかは行為次第です。

 これが知っておかなければならない二つの話です。行為、あるいは善悪を知る生き物の行動もカンマになります。一方善悪について何も知らないものの行為、あるいは行動は全部キリヤーです。この二つの言葉を混同すべきではありません。タイ語では全部「行為」と言うので、複雑に混乱する余地があります。カンマも行動(行為)と言い、キリヤーも行動(行為)と呼ぶので混同します。パーリ語は一つはカンマと呼び、もう一つはキリヤーと呼ぶので混同できません。


2 カンマの種類
 さてカンマと呼ぶものを知ったら、カンマと呼ぶものの種類を知ります。

 この話はどこででも話されているので、ほとんど話す必要はありません。思い出すためだけに話します。カンマはクサラカンマ、アクサラカンマ、アバヤーカタカンマに分類し、クサラカンマは善業、アクサラカンマは悪業、アバヤーカタカンマは善業とも悪業とも呼ばず、あるいは呼べません。

 あるいは善い悪いと述べなくても勝手で、述べられなければ述べません。述べられないからです。黒いカンマは悪業、白いカンマは善業、混じったカンマは善と悪が混じっています。黒くなく白くないカンマはアバヤーカタ(断定不可)で、正しく言えば、それは最終的にただのキリヤー(動作)になり、カンマではありません。

 毎日私たちは何らかのカンマがあり、サティがあって注意深く心を善くできれば、むしろ善の方の成り行きになり、サティがぼんやりして煩悩が望むようにさせれば、むしろ不善の成り行きになります。だからそれは同じもの、つまりサティと呼ぶものが煩悩の流れを遮る物、カンマの流れを遮る物で、煩悩の流れを遮るとはカンマの流れを遮ることなので、サティで暮らすことはカンマに関して非常に役に立ち、あるいは最高に助けになります。

 サティがあれば、行動すべきでないカンマを作りません。あるいはサティがあれば、今結果を与える過去のカンマもサティは受け取らせず、苦も、執着で受け取る人のように苦ではありません。過去のカンマの結果は、阿羅漢でない普通の人に到れば苦にすることができ、思い出せるサティがあれば迷わず、愚かに受け取ってさほど感情にしません。

 次に過去のカンマの結果が阿羅漢に訪れると、カンマの結果でなくなり、キリヤー(行動)になり、行動の結果であり、パティキリヤー(反作用)になります。阿羅漢が阿羅漢になった時、カンマは終わり、阿羅漢が何かをしてもただの行動なので、阿羅漢になる前に作ったカンマの結果が到着すれば、それはただのパティキリヤー(反作用)であり、カンマの結果ではありません。

 パーリ(ブッダの言葉である経)にはありませんが、モッガラーナが盗賊にいろんな危害を加えられ、その結果盗賊の仕業によって涅槃しなければならなくなったと、非常に好んで信じられている話は、その人たちは過去のカンマが追い着いたと説明します。こういうのは良く調べないで話しています。何のカンマの結果も阿羅漢を追って来ません。

 カンマが追って来るなら、それは何らかの反作用になり、カンマの結果、あるいは報いと呼びません。だからサティというものに関心を持ってください。普通の人もサティに依存して過去のカンマの結果を攻撃できます。

3 カンマと呼ぶものの原因
 次の項目はカンマの原因、つまり煩悩を見ます。それは的外れな答えではありませんが、この煩悩という言葉は幾重にも重なっています。

 初めの、根の、深い段階の煩悩は無明で、それは無明、つまり「何が苦で、何が苦でないか」という知識に欠ける状態がなければなりません。この知識がないことを無明と言い、これが煩悩の根源です。

 因と縁の段階である無明から芽を出した煩悩、これをタンハー(欲望)と呼びます。欲望は煩悩で、一番近い原因と言われるローバ、ドーサ、モーハ(貪・瞋・痴)を生じさせる原因であり縁である煩悩です。私たちは原因、つまりこのローバ、ドーサ、モーハに関わっていろんなことをするので、ローバ、ドーサ、モーハは私たちにとって原因と言います。

 ローバ、ドーサ、モーハを原因と呼びたくなければタンハー(欲望)と呼んでも良く、タンハーと呼びたくなければ、無明と呼んでも良いです。

 「カンマを作るのは無明があるから」でも正しく、「カンマを作るのはタンハーがあるから」でも正しく、「カンマを作るのはローバ、ドーサ、モーハが原因」でも良く、間違う余地はありませんが、それは重なっていて、無明が欲望を生み、欲望がローバ・ドーサ・モーハを生みますが、必要以上に詳細な知識なので、知りたがらなくても良いです。今話したことも、憶えても良く、憶えなくても良いです。

 これがカンマの原因、つまり無明の中の煩悩でも良く、欲望でも良く、ローバ、ドーサ、モーハでも良く、そしてまだたくさんありますが時間がないので話しません。カンマの原因があれば、確実に、必ずカンマが生じます。カンマはカンマの原因によって維持でき、カンマの原因から生じるからです。

4 カンマの仕事、あるいは義務
 次に見るものはカンマの仕事、つまり作った人に結果を与えることで、これがカンマの義務です。それを責めないでください。それは神様のように、行動した人に結果を与えるカンマと呼ぶものの仕事です。

 カンマの義務を神様と呼ぶこともできます。彼らが神様と呼ぶものは最高に公正に見守っていて、罰あるいは褒美を与え、これはカンマの義務です。神様がいる人たちを責めてはいけません。

 私たちには神様はなく、神様であるカンマの法則があり、カンマの仕事があり、『カンマダーヤードー カンマヨーニー カンマバントゥ云々』を生じさせ、時々唱えているもの、それがカンマの義務、仕事で、それが相続人、カンマの結果を受け取る人を生じさせ、つまり輪廻させます。

 カンマの義務はそのようにあり、カンマを作った人に結果を与えてカンマの結果を受け取らせ、そして輪廻させる義務があります。カンマはこのような義務があります。カンマに腹を立て、カンマを嫌わないでください。神様に罰を与えられないよう、神様から褒美がもらえるよう彼らが神様を信仰するように、カンマを崇拝してしまう方が良いです。

 私たちは神様、つまりカンマに追従することを知らなければなりません。善業だけを作れば、カンマは褒美だけを与えます。しかしまだ輪廻することは忘れないでください。善行をすれば褒美をもらい、素晴らしい褒美をもらえば良い輪廻のためになり、悪いカンマを作れば罰を受けて悪い輪廻をし、痛みや辛酸、焼き炙りがあります。

 良く経過すれば、非常に好まれている天国の宮殿に生まれますが、それは輪廻で、別のものと見ないでください。カンマの結果なら輪廻しなければならず、善趣、悪趣、天国、地獄、何でも私たちは一方を嫌い、もう一方を嫌いませんが、どちらも輪廻です。これをカンマの仕事、あるいは義務と言い、それはこのようであり、変えられません。

5 カンマの結果
 次にこのカンマの結果はカンマの状態、つまり善・悪、あるいは善とも悪とも言えないカンマの状態になるカンマの結果について見ます。これは「カンマの結果は作っておいたカンマの状態になる」とだけ知るよう、それが自体が説明しています。しかしある人たちが理解しているように理解してはいけないと、限定させていただきます。

 カンマの結果はカンマと同じ形でなければならないと理解している人たちもいます。彼らはそのように理解します。ブッダはそのように言われてなく、カンマの結果はカンマの形である必要はありません。ある人たちは、刀で自殺したら、カンマの結果は刀で殺されると信じていますが、それは次のようなアッタカターの中の昔話です。

 ある人が牛の調教をしましたが思うようにならないので腹を立て、油を染ませた布を牛の首に巻いて火をつけたので、牛は死ぬか、あるいはほとんど死にかけました。次にその人が輪廻してカラスに生れ、空を飛んでいると一軒の家が燃えていて、火の勢が強く、輪の形の鍋敷きが燃えて空に舞い上がり、そして偶然飛んでいたそのカラスは燃えている鍋敷きの輪の中に首が嵌まって死にました。これは、この男はかつて牛の首に火の輪を仕掛けたのと同じ結果があると言うためです。

 これは、カンマの結果はいつでもカンマと同じ形でなければならないという見本で、こういうのはパーリ(ブッダの言葉である経)にはありません。もしあれば、それは偶々、あるいは一部分でしかなく、全部ではありません。今彼らは「それは同じでなければならない。カンマの結果はカンマと同じでなければならない」とこのようです。

 本当は同じのもあり、同じでないのもあります。私が言えるのは、カンマの結果はカンマの状態になり、つまり善いか悪いかになり、善い、悪い、あるいは善いとも悪いとも言えない結果で、そしてその行動の形はそのカンマと同じである必要はなく、同じでも良く、同じでなくても良いということだけです。

6 カンマの味
 カンマの味を譬えると、舌の味は苦味も甘味も淡白な味もあるように、苦いのは悪いカンマで、甘いのは善いカンマで、淡白なのは善いとも悪いとも言えないカンマです。しかしすべてはウパダーナ(取。執着)の基盤であることを忘れないでください。

 アバヤーカタ(善いとも悪いとも言えないカンマ)でも、ウパダーナの一種の状態があり、善くても善い方のウパダーナになり、悪くても悪い方のウパダーナになり、アバヤーカタはアバヤーカタです。だから苦い、甘い、淡白、そしてそれはずっと違っていると考えないでください。そうではありません。

 苦いのもウパダーナになり、甘いのもウパダーナになり、淡白なのもウパダーナになり、ウパダーナがあれば必ず苦になり、すべてはウパダーナの基盤です。ウパダーナが生じれば必ず苦があり、生じなければ、あるいはまだ生じなければまだ苦ではありません。これがカンマの味です。

 だから味がない場合、つまり三番目のカンマである黒くも白くもないカンマ以外は、苦い、甘い、淡白な味は手に入れないでください。あるいは味がないカンマは味わっても、戯れても大丈夫です。まだ根がある、無明がある悪の話、善の話、アバヤーカタの話はダメで、戯れてはいけません。

 この項目は「苦いのも甘いのも淡白なのも堪らず、無味とは比較にならない」と更に良く理解させる助けになるものです。この言葉は喩える言葉で、「アラサルーパ=無味の形がある」という阿羅漢を呼ぶのに使う言葉があり、知らない人はこの言葉を「無味野郎」とブッダを罵る言葉に使い、ブッダを味のない人と罵りました。

 ブッダは「おお善し。そうだとも。私は味がない人で、味に夢中にならず、味わわず、味に関心がなく、味がない。味がないものに到達する梵行を公開した」と答えられました。だから味があるのはカンマの結果です。

 カンマの結果は味がなければならず、苦味や甘味や淡い味などは、無味、つまり味に関わらないことに敵いません。しかし今はまだ無明があり、煩悩欲望があり、ウパダーナ(取)がある人は何らかの味を好みます。その味がその後ウパダーナの基盤である煩悩を生じさせるからです。
7 カンマのアッサーダ
 次にアッサーダと呼ぶものについて見ると、この言葉は聞いたことがない人にとっては耳新しく、何か分からないかも知れません。文字としては「誘惑であるもの」という意味で、魅力という言葉と同じで、魅力とは誘惑するものです。

 カンマのアッサーダは人を引き付けて満足させ、カンマに溺れさせるカンマの魅力で、辛辣なカンマも人は作ることができ、罪も作ることができます。だから罪にも必ず魅力があり、徳も魅力があり、罪もそれなりの魅力があります。

 次に常識で見えるだけ見ると、善いカンマなら甘くて美味しい結果があり、その魅力も惑溺させ、悪いカンマは悪を隠します。それは「利益があれば善い」と理解します。悪を行う人は個人の利益を得るためです。そしてそればかりでなく、悪いカンマの悪い結果は、言い訳、あるいは仕返しのために無茶を生じさせ、人を叩き、人を罵れば気分が良いです。

 観察したことがある人もいると思います。それは内心で燻っていて、人を一度罵ることができれば気分が良いです。こういうのを「悪のカンマの魅力は、少なくとも言い訳するよう、あるいは仕返しするよう誘惑し、話は続きがあり、終わらない」と言います。善、悪、甘い、苦いと言うほどの結果がない薄味の中間のカンマも、甘い物、あるいは望んでいるものに出合うまでまだ試すよう促します。

 こういうのはすべて誘惑するもの、カンマと呼ぶものの誘惑、あるいは魅力で、それから抜け出すのを困難にし、つまり関わらなければならないという意味で、カンマを作らなければなりません。善いカンマ、悪いカンマ、中間のカンマ、何でも観察して知っておき、そしてそれの魅力に迷わないでください。

8 カンマのアーディーナヴァ
 次に耳目が明るくなったら、アーディーナヴァと呼ぶものについて見ていきます。アーディーナヴァはまだ知らない人がいる言葉かも知れません。アーディーナヴァとは「下賤な罪」という意味で、アーディーナヴァでも、アーディーナバでも下賤な罪という意味です。カンマの下賤な罪とは何でしょうか。善いカンマでも執着すれば、それは輪廻させます。

 本当に善いカンマも輪廻させ、悪いカンマも輪廻させるので、善いカンマも悪いカンマも、私が毎日話しているような「蜜蝋の海」です。蜜蝋の海は一時溶け、一時固まり、一時溶け、一時固まり、善いカンマも悪いカンマも、どちらも輪廻させるので、それは非常に広い「蜜蝋の海」です。カンマと呼ばれれば何でも、必ずその後際限なく輪廻するカンマの結果があるという意味です。

 次にもっと緻密で深遠に述べてあるのは、彼らが「カンマは魔王であり、アビサンカーラマーラと呼ぶ一匹の悪魔だ」と述べていることです。アビサンカーラ(行作魔)とは最高に変調させる物という意味で、カンマはアビサンカーラで、そしてアビサンカーラマーラと呼ぶマーラ(悪魔)の名前で、多くのマーラの中の一匹で、マーラは最高に変調させます

 ここでの「変調」は止まらないという意味で、終わりにさせず、終わらせず、次々に生きるよう背を押し、つまり輪廻させます。しかし短い期間、あるいは近い区間を見ると、それは休まず変調させる悪魔で、止まって涅槃になりません。

 私が時々話したことがある言い回しをすれば、それは「俺、俺のもの」にします。カンマと呼ぶものは俺、俺のものに変化させるのでマーラです。俺、俺の物が生じるとどのようか。これは誰でも知っています。俺、俺のものは苦で、俺、俺のものが一日に何回か、何十回か知れないほど生じ、その度に苦になるので、それはマーラです。

 サンユッタニカーヤ(相応部)のアバヤーカタ相応に、カンマヴィンニャーナ(業識)と呼ぶべきもの、あるいは「カンマの力をヴィンニャーナと呼ぶ」と説明している内容があり、それは庶民が「カンマで生まれる」、あるいは「ヴィンニャーナがカンマの結果を懐中に持って生まれる」と話すパティサンディヴィンニャーナ(再生識)で、これは仮定の庶民の言語で話します。

 タンマ語で話せば、死んで棺に入って、どこかに生まれる必要はありません。ここに座っていてカンマがあれば、それは今ここでパティサンティヴィンニャーナを作らなければなりません。こういうのもパティサンディヴィンニャーナと言います。つまりカンマ、あるいはカンマの結果がアビサンカーラ(行作)である義務をし、ヴィンニャーナ、あるいは新しい心を作ります。

 新しい心は俺、俺のものとなって現れるので、この種のカンマはカンマヴィンニャーナと呼ばれ、ヴィンニャーナはカンマで、一般にはパティサンディヴィンニャーナと言います。これはサンユッタニカーヤに一か所しか見えません。

 カンマが輪廻させることも、アビサンカーラであることも、カンマヴィンニャーナである俺、俺のものを作り出すことも、善いカンマも悪いカンマも、カンマの下賤な罪と言います。私たちがこの事実を知ればカンマの魅力に迷わず、善いカンマでも二度と鼻先を引っ張って輪廻させることはできません。

9 カンマの所有者  次は「誰がカンマの所有者か」について見ます。まだ煩悩が終わらず、まだ阿羅漢でなければまだカンマの所有者がいて、つまり俺、俺のものに変化させる無明がある愚かな心があり、その欺瞞がカンマの所有者です。

 次に普通の庶民語で言えばカンマを作った人、カンマの結果を受け取る人、カンマにならなければならない人、それがカンマの所有者で、他の人ではありません。カンマを作った人、カンマの結果を受け取る人、カンマになる人、それがカンマの所有者です。

 本当は「動物、人物、自分、私、彼」はなく、無明が「動物、人物、自分、私、彼」と執着させるので、執着が生まれて自分になり、これをカンマの所有者と言います。だからそれは狂っていて、実体はなく、欺瞞であり、「俺のカンマ、俺はカンマがある、俺はカンマの結果を受け取る」という無明から生じたウパダーナ(取)の誤解にすぎません。

 何でも生じることができ、カンマの所有者になることもでき、本当は何もないのに、心の中の感覚はあるのと同じように十分に感じるとすぐに分かります。この感覚は無明がウパダナーナを作ることから生じるからです。だから誰がカンマの所有者かと問えば、「カンマを作る人、カンマの結果を受け取る人、カンマにならなければならない人がカンマの所有者です」と答えます。

10 カンマのニッサラナ
 次に見なければならないのはニッサラナ(出離)で、理解できない人にとっては耳慣れないと思います。ニッサラナとは「脱出してしまう方法」で、行動でも、あるいは手法でも、あるいはカンマの威力から出してしまう何でも、こういうのをニッサラナと言います。

 ニッサラナとは「出る道具である方便」という意味で、広く訳せば方便、あるいは秘訣、あるいは出る道具のような物です。何から出るのかは、カンマの領域から、カンマの威力から出ます。何がカンマのニッサラナかは、カンマの原因と縁を残らず破壊させてしまうことと答えます。

   何がこれらを消滅させてしまえるカンマの原因であり縁でありサムッターナ(集。原因)でしょうか。それはカンマのニッサラナです。だからどんな方法でアヴィッチャー(無明)、タンハー(欲望)、ウパダナーナ(取)を消滅させるか、それがニッサラナであり、カンマの威力から出る出口です。

 何がアヴィッチャー、タンハー、ウパダナーナを消滅させるかは、みなさん知っているのでほとんど説明する必要はなく、一つだけ名前を挙げれば八正道です。八正道はカンマの根源、根、縁を消滅させる道具で、もっと狭く言えば、無常・苦・無我を見るニャーナダッサナ(如実智見)という言葉を使わなければなりません。

 ニャーナダッサナは正しく完璧な知識という意味で、無常を見ても苦を見ても、無我を見ても良く、これがカンマの根源、原因、根、あるいは縁を消滅させます。だからカンマのニッサラナ、カンマから出る方便は八正道で、広い意味があるので誤る余地はありません。

11 カンマのニッサラナが受け得る結果は何か
 次にこのようにカンマのニッサラナがあると見て、カンマのニッサラナが受け取る結果は何かと問えば、涅槃と短く答えます。カンマから出ることの結果は涅槃で、一時的のは一時的で、永遠のは永遠で、状況次第ですが、普通は本当の涅槃、永遠の涅槃です。

 もう一つの状態の説明は、輪廻の終わり、極み、輪廻の終末、つまり涅槃です。その後はカンマの威力で輪廻しないという意味で、「輪廻は止まる話、涼しい話、苦の終わりである種類の快適な話」と言います。しかし本当のことを言えば苦の終わりで、他に誘惑するものはない、涅槃はカンマのニッサラナの結果です。

 カンマの威力から出る道具である方便の行動をする人は誰か、誰が行動する人かは、阿羅漢と答えます。阿羅漢は涅槃に到達した人で、阿羅漢は成功者で、それ以外はしている人です。私たちが阿羅漢でなければ、私たちはカンマのニッサラナをしている人です。阿羅漢はすることに成功した人で、本当に出ることができました。

 カンマのニッサラナを作る人は二種類いて、今している私たち、あるいはまだ阿羅漢でないすべての人と、もう一つは成功した人、つまり阿羅漢になった人です。

12 カンマの終わりはカンマのニッサラナの結果
 カンマのニッサラナが何をもたらすかは、今日の講義の主題であるカンマの終わりをもたらします。今日はカンマとカンマの終わりについて話しています。カンマの終わりはカンマのニッサラナの結果で、二度と輪廻する必要はありません。これを「カンマの終わりはここにあり、人物は必要ない」と言い、カンマの終わりはこのようにあります。
 
13 カンマの終わりの所有者は誰か
 次に誰がカンマの終わりの所有者かと質問して、大慌てさせます。質問好きな人は、誰がカンマの終わりの所有者かと、このような質問をするに違いありません。狂っている質問と見て、「それはいない」と答えます。

 この段階まで来ると感覚の中に俺がなく、俺のものがないので、それはないからです。つまりパラマッタサッチャの最高の真実で答えると、カンマの終わりの所有者は誰もいません。心がこのレベルになると当然アッター(自我)、あるいはアッタニヤー(我所有)という感覚、つまり自分、あるいは自分の物という感覚はないからです。だからカンマの終わりの所有者は誰もいません。

 カンマがある時はまだカンマは終わらず、カンマの所有者がいれば、それは愚かで狂っている人で、俺、俺のものがカンマの所有者です。しかしこの段階まで来ると全部崩壊し、俺、俺のもの、そして俺、俺のものを生じさせる原因も崩壊するので、カンマの終わりの所有者は必要ありません。カンマには所有者がいますが、カンマの終わりには所有者はいまぜん。考えなければ理解できません。

14 誰がカンマの終わりから幸福を味わうか
 「カンマの終わりの幸福を味わう人は誰ですか」と質問する人もいます。ウパダナーナ(取)がある人の質問を休みなく受け付けると、「カンマが終わった幸福を味わう人は誰ですか」と質問します。このような質問は際限なくあります。私はいつでも「それはいません。カンマの終わりから生じる幸福を味わう人は誰もいません。純潔な五蘊しか残っていないからです」と答えます。

   まだ死んでいない阿羅漢は五蘊、つまり形・受・想・行・識、つまりこの身体と心には、俺、俺のものという感覚を生じさせるウパダナーナがなく、俺、俺の物がなくなってしまった純潔な五蘊なので、誰もいません。つまり動物・人物・自分・私・彼はいないので、カンマの終わりの幸福を味わう人は誰も必要ありません。

 カンマの終わりに至った人は、俺が幸福を味わっていると感じませんが、カンマの終わりに至っていない人は、「俺はカンマの終わりから生じる幸福を味わう人になる」と常に狙っています。これは、それ以上質問できない最後の話のように見えます。

 述べてきたすべては勉強しやすくするため、あるいは時間の節約のために初めから正しい理解があるように述べた学理、あるいは論理にすぎません。

15 カンマの話は在家にも関わりがあるか
 考えていただく最後は、在家のみなさん、カンマの話は在家のためでもあるのか、それとも出家だけの話か、よく考えて見てください。まだ躊躇っているなら、「在家の人たちはカンマの流れのままに漂うために実践するのか、あるいはカンマの流れに従って漂わないために実践するのか」考えて見てください。

 そうすれば自分で答えられます。多少賢い人なら「座って笑ったり泣いたり、このように交互にするのは良いですか、あるいは笑う必要もなく、泣く必要もないのが良いですか。どちらが良いですか」と質問します。正しく答えられれば、このカンマとカンマの終わりの話を理解しています。


知るべきことは、カンマとカンマの終わりに関わる実践
 初めに、カンマの話で正しくするために実践するのが一つ、そしてカンマから脱出してしまうために実践するのがもう一つです。次に輪廻させる原因であるカンマが一つ、そして輪廻を止めさせる原因であるカンマが一つで、二つのカンマです。

 だからカンマについて述べる時は、輪廻させるカンマという意味でなければならず、私たちはどのように実践しなければならないかは、他の実践ができなければ、善いカンマだけを作り、悪いカンマを避けてしまいます。だから悪いカンマを避けてしまうことから始めます。


捨てるべき黒いカンマ
 最高に未熟な在家である人にとっては、シンガローヴァーダスッタ(善生経)で述べた黒いカンマの話があり、ブッダはシンガーラ青年に「カンマキレーサとは憂鬱なカンマ、罪であるカンマ、黒くて悪いカンマです。長者のご子息。聖なる弟子はカンマキレーサがあり云々」と言われました。つまり聖人あるいは聖人である弟子はカンマキレーサ(憂鬱にするカンマ)を四つ規定します。

 人は当然、そのような四つのカンマキレーサで罪である行為をし、聖人である弟子は避けてしまい、そして六つのアパーヤムッカ(破滅の門)を嗜まず、十六の罪悪を避け、すべての方向を良く塞いだ人という意味です。二つの世界に勝つための実践とは、この世界も良く始め、他の世界も良く始めたということで、体が崩壊して死んだ後、当然スガティ(善趣)、天界に至ります。

 『聖なる弟子が捨ててしまった四つのカンマキレーサはどのようでしょうか。長者のご子息。パーナーティバータ(殺生)はカンマキレーサ(憂鬱にするカンマ)で、アディンナーダーナ(盗み)はカンマキレーサで、カーメースムッチャーチャーラ(邪淫)はカンマキレーサで、ムサーヴァーダ(妄語)はカンマキレーサで、これが、聖なる弟子が捨ててしまった四つのカンマキレーサです』。

 これでブッダがカンマキレーサは最悪のカンマと言われたのはどのようかを見ると、五戒の初めの四項であり、聖なる弟子が絶対に捨てなければならない最悪のカンマであるパーナーティバータ(殺生)、アディンナーダーナ(盗み)、カーメースムッチャーチャーラ(邪淫)、ムサーヴァーダ(妄語)と明言されています。

 次に黒いカンマを捨てるための実践は五戒と呼ぶものを捨ててしまうための実践で、五戒にならない初めの四項だけです。これがここでのスタートで、最高に普通の黒いカンマと呼ぶもの、つまり悪のカンマと見なされているものを避けます。どのように避けるかは話す必要はないように見えます。五戒の話なので、五戒の話をこれ以上夢中になって話せば憐れです。

 問題は、どのように捨てるか知らないと言うより、自分を支配して捨てることができないことにあります。そのように捨てなければならないと知りながら、そして自分を支配して捨てることができません。これを最高に粗い外部に現れた初歩の黒いカンマと言います。

 繊細になると外部に出て来ない、つまり体、言葉に現れない煩悩で、内部を取り囲んでいるすべてのニーヴァラナ(蓋)、すべてのウパキレーサ(憂鬱にする煩悩)で、それも捨てなければならないので、手本にある暗唱できる項目で努力しなければなりません。だから在家のために簡単に明示すると、持戒をするなら五戒、菩薩戒(八戒)があり、これは公開されている黒いカンマを捨てるための実直な実践です。

 次はまだ他に誤解されている話で、何らかの実践行動に惑溺して、正しくないものを正しいと執着する黒いカンマがあります。こういうのを「二重に黒いカンマ」と言います。それは間違っていて、そして間違っていると知りません。

 これは非常に深遠で、殺生、偸盗などの話なら、それは確実に誤りだと知っていますが、それには誤りと知らない別の愚かさがあり、そして正しいと執着します。ブッダの時代の人はシーラッバッタパラーマーサ(戒禁取)と呼び、犬のような勤めの行動、何らかの勤めの振舞いです。

 犬のような勤めの行動とは、何を食べるにも地面の上に一旦置いて、それから屈んで食べ、生涯このように実践しているのを、犬のような実践行動と言います。彼らはこのような行動で煩悩がなくなると信じ、そして次々に伝授して行動する人がいます。

 このような勤めの行動をした人が二人いました。一人は牛のような勤めの行動をし、もう一人は犬のような行動をしました。彼らは誤解である類の黒いカンマがありました。次にこの二人がブッダに拝謁に来て、それぞれ自分の実践の結果を託宣してください、説明してください、予言してくださいとブッダにお願いしました。

 これが、ブッダに四つのカンマの話させた原因です。これはマッジマバンナーサのクックローヴァーダスッタ(狗戒経)にあり、他では見たことがありません。そしてもう一か所はサーリープッタの言葉で、長部のサンギーティスッタの中でサーリープッタが述べていますが、ここの説明は、ブッダご自身が話された話です。

 ブッダは何らかの犬のような勤めの行動について、犬のような勤めの行動、牛のような勤めの行動は何も利益がないと説明され、ブッダがご自身の話、つまりブッダ式のカンマの話をされました。その人はプンナという名前だったので、ブッダは『プンナさん。この四つのカンマは、如行が自分の智慧で明らかにし、そして他人に教えて知らせました。

 四つのカンマはどのようでしょうか。プンナさん。黒いカンマは黒い報いがあり、白いカンマは白い報いがあり、黒くて白いカンマは黒くて白い報いがあり、黒くも白くもないカンマもあり、カンマの終わりになります』と言われました。

 『黒いカンマはどのような黒い報いがあるでしょうか。プンナさん。この世界のある人は苦があるカーヤサンカーラ(身行)を集め、苦があるヴァチーサンカーラ(口行)を集め、苦のあるマノーサンカーラ(意行)を集め、その時彼は当然苦がある世界に至り、触れる苦があるパッサ(触)があり、彼は苦がある世界に至った人です。彼は触れた苦があるパッサがあり、当然苦があり、地獄の動物のように苦のヴェーダナーだけを味わいます。

 プンナさん。このようなカンマゆえに、動物の生まれることがあります。動物がどんなカンマを作っておいても、当然そのカンマに至り、パッサは当然、到達して苦がある人に触れます。プンナさん。このようなので、私は「すべての動物は相続人としてのカンマがある」と言います。この項目は、私は「黒いカンマは黒い報いがある」と言います』。

 ブッダバーシタの形の中にある「黒いカンマ、あるいは悪いカンマは苦である報いがある」という言葉は、「ある人はカーヤサンカーラ、つまり苦になる類の体を変調させるものを集める」と言い、「彼は苦にする種類の体の面の行動を生じさせるものだけを集め、彼は苦にする種類の言葉の面の行動を生じさせるものだけを集め、彼は苦にする種類の心の面の行動を生じさせるものだけを集め、そしてカンマの結果を受け取る」という意味です。

 これも私たちがあまり聞いたことがない教えで、誰でも憶えるべき教えの一つです。何が黒いカンマ、悪いカンマかと問えば、「体・言葉・心を苦に変調させるものだけをを集めること」と答えます。つまり体・言葉・心を変調させて苦にする物ばかり集める、これが黒いカンマ、暗いカンマで、黒い報いがあります。

 次にそれを捨てるためにどのように実践をするかは、一般の教えで、そして要約すると「体・言葉・心を苦にする原因であり縁であるものを集めてはいけない」というブッダバーシタと一致するようにします。体・言葉・心が苦になるようにするものは何でも、触れず、関わらず、関係しないでください。

 これを「体も、言葉も、心も、一度で宇宙を覆う」と、まとめのように言います。五戒だけを話せば、それは体と言葉の面だけで、心についてはまだ話してなく、十項目ある十戒について話せば、体と言葉と心が揃います。そして項目を限定して言及しているので、この十項では全部ではありません。

 これは体、あるいは言葉、あるいは心を変化させる原因と縁であるサンカーラが生じて苦にし、そして止めるという所まで広く拡げます。残るのは三つ、体、言葉、心を突いて苦にするものだけです。

 まとめると残りは一つだけ、つまり周囲を突いて苦にするもので、ほとんどは心次第です。体と言葉は心次第で、心に関わる話に注意すれば、体と言葉まで覆います。だから心に注意するサティを持って、苦にするために変化させるものに関わらないでください。黒いカンマを捨てるための実践にはサティだけと憶えておきなさいね。
 

白いカンマを生じさせなければならない
 次に黒いカンマを捨てなければならない時になったら、白いカンマを生じさせなければなりません。これは白髪頭の年老いた子供のために初めから始めるという意味でず。

 白髪頭の子供は仏教と長いこと関わって来ても何も知らず、幼児と同じなので、タンマの面では白髪頭の年寄りである子供もいるので、タンマの教えは初めから、何も知らない所から始めなければなりません。だから黒いカンマを捨ててしまい、そしてしょっちゅう唱えているように白いカンマを発展させます。だから白いカンマと呼ぶものを知らなければなりません。

 これについてブッダは、『プンナさん。白い報いがある白いカンマはどのようでしょうか。プンナさん。この世界のある人は、苦にならないカーヤサンカーラ(身行)を集め、苦にならないワチーサンカーラ(口行)を集め、苦にならないマノーサンカーラ(意行)を集め、その時彼は、当然苦がない世界に至ります。

 苦のないパッサ(触)は、苦のない世界に至った人に触れ、苦がないパッサが触れた人は、当然スバキナハ(遍浄天)の天人たちのように、苦のないヴェーダナー(受)を味わいます。

 だからプンナさん。このようにあるカンマゆえに動物の生まれることがあり、どんなカンマでも作った動物は、そのカンマに至ります。パッサは当然、そのカンマに至った人に触れます。プンナさん。このようなので、私は「動物は相続するカンマがある相続人」と言います。だから私は、白いカンマは白い報いがあると言います』と言われています。

 この場合の白いカンマの話は黒いカンマの話と反対で、苦にならない種類のカーヤサンカーラ、ヴァチーサンカーラ、マノーサンカーラを集め、それからパッサ(触)、ヴェーダナー(受)あるいは世界も苦にならない種類で、ドッカヴェーダナー(苦受)はありません。

 次にブッダがブラフマの一つのレベルの名前を「スバキナハ(浄天)の天人のように」と引用されているのが少し珍しく、このスバキナハは形梵天の一部の梵天の名前で、私も何か知りませんでした。しかし今は、最高に白いカンマを作る人たちで、苦であるパッサヴェーダナー(触受)がない人たちと知っています。

 簡単に理解するには、このように喩えなければなりません。地獄の動物は苦だけで、人間のような動物は一時だけ苦も幸福もあり、カーマーヴァチャラのレベル(欲界)の天人、四天王、トオリ天、耶魔天、兜率天、楽変化天、パリニマミタヴァサヴァッティーでも何でも、まだ苦があり、まだ泣くこともあり、カーマーヴァチャラのレベルの極楽の天人、そして初等のレベルの梵天もイライラや不満や苦があり、スバキナハ(遍浄天)の梵天になれば苦であるパッサ(触)、あるいはヴェーダナー(受)はありません。

 次にどこの上に梵天界があるという人がいても、そう言うこともできますが、今はタンマの名前をつけたいと思います。ダンマーディサターナ(人物を主体に述べるのでなく、事柄を主体に述べる叙述法)の言葉でこのレベルになった心をスバキナハブラフマ(浄梵天)、あるいはスバキンナレベルのブラフマ(梵天)と呼びます。

 苦でない触、あるいは受しかない人物の心をスバキナハブラフマと言います。しかしこのレベルはまだカンマがまだ終わらないので、滅苦、あるいは苦の終わりではないことを忘れないでください。

 このブラフマたちの中には善いレベルの凡人もいて、素晴らしいレベルの凡人で苦を知りませんが、まだ凡人でアヌサヤ(随眠)の類の煩悩があり、起き上がって何も役割を現さない「俺」があり、「俺の物」があります。その人は白いカンマの道、あるいは軌道上にあるように管理できるからで、これはスバキナハで最高になります。白いカンマはここで終わります。


黒くも白くもないカンマはカンマの終わりになる
 黒くも白くもないカンマについては二つ一緒に話され、そして「人間たちのような、ある部類の天人、ある部類の報いを受ける動物は、黒くも白くもない人たち」と明示されています。次にカーヤサンカーラ(身行)、ヴァチーサンカーラ(口行)、マノーサンカーラ(意行)を集めないために実践しなければなりません。

 そして苦にならないカーヤサンカーラ、ヴァチーサンカーラ、マノーサンカーラだけを集め、これは白いカンマの段階から実践を始める人です。カンマに関わる話をする必要ありません。それ自体が説明しているから、つまり黒い話、白い話が交互に混じっているだけです。

 次は最高に重要な部分になりました。『プンナさん。黒くも白くもないカンマは黒くも白くもない報いがあり、どのようにすべてのカンマの終わりのためになるでしょうか。プンナさん。三つのカンマのうち、黒い報いがある黒いカンマを捨ててしまう意図があり、白い報いがある白いカンマを捨ててしまう意図がある人、これを私は、黒くも白くもない報いがあり、すべてのカンマの終わるになる黒くも白くもないカンマと言います』と言われ、最後にまとめて『プンナさん。私はこの四つのカンマを最高の智慧で明らかにし、他の人に教えて知らせました』と言われています。

 みなさん「黒いカンマと白いカンマと黒白混じったカンマはサンカーラの話しかなく、黒いのも、白いのも、混じったのもあるカーヤサンカーラ、ヴァチーサンカーラ、マノーサンカーラの話だけをするが、四番目のカンマ、最後のカンマになるとサンカーラについて話さない」と、違いを良く観察してください。

 分かりますか。サンカーラは変化させる話、終わりがない話なので、黒、あるいは白、あるいは黒白混じった意図を捨ててしまう話になり、黒い報いがある黒いカンマを捨てる意図があり、白い報いがある白いカンマを捨てる意図があり、黒白混じった報いがある黒白混じったカンマを捨てる意図があるからです。

 これは、カンマはまだ意図であり、意図はカンマであり、捨てようと意図すれば、つまり黒いカンマ白いカンマより上にいたいと望めば、これは黒くも白くもないカンマなので、黒くも白くもないカンマについては短く規定します。つまり善悪を捨ててしまう意図は、黒も白も混合したのも捨てます。だから実践も意図がある点にあり、黒いカンマ、白いカンマ、そして黒白混じったカンマを越える意図があるよう努力します。

 この項目についてブッダは「これは他人から受け取ったものではなく、ご自身で知ったもの、ご自身の最高の智慧で悟って他の人に教えて知らせたものです」と主張なさっています。次に、だから黒くも白くもないカンマを捨てるため、すべてのカンマの終わりのための実践は、もう一種類に分かれ、述べたようにサンカーラに関わらず、あるのはこれらのサンカーラを消滅させる意図だけです。

 三つのカンマを聖道で捨ててしまう意図、これは四つのカンマの最高に良い定義です。憶えるための教えにするなら、「聖道で三つのカンマを捨ててしまう意図」と言います。三つのカンマ全部、それは何かを知っています。つまり黒いカンマ、白いカンマ、そして黒いカンマと白いカンマが混じっているカンマ、これを三つのカンマと言い、聖道でこれを捨ててしまう意図があり、聖道とは八正道を指します。

 これが「不注意になってはいけません。すぐに八正道を黒または白くしてしまいます」と、常に忠告している項目です。勉強を始めたばかりの人は、そのように理解することもあるからで、それは滅苦の側にあるので、善い側あるいは白い側でなければならないと理解するからです。しかし仏教の教えでもっと遠く、つまり黒くもなく白くもなくなければなりません。

 次にこの八正道は、本当は黒と白より上に行く意図がある教えですが、私たちは低くすることもでき、まだ白いカンマに執着する自分にふさわしく引き下げても八正道の実践です。つまり教典を「避け」、規則を「避け」て八正道の教えを掴み、結果は善だけ、この世界の幸福だけです。

 八正道の話は、ブッダが「世界より上の話、この道は世界より上の状態、つまり涅槃に行く道」と規定されましたが、それでも適度な実践に使えば善い道、白い道と呼ぶ種類の世界の幸福がある実践に使える教えがあります。しかしこれが基本、あるいは目的と捉えないでください。

 八正道は世界より上、善より上、悪より上、黒より上、白より上に行きたがる話と捉えてください。だから八正道を実践する意図は黒くも白くもないカンマです。八正道は世界より上のロークッタラ(脱世間)になる目的があり、八正道の意図は黒くも白くもないカンマで、そして黒くも白くもない結果があります。

 だからその実践が成功するまで実践する努力をしてください。そうすれば黒くも白くもない結果、報いを受け取ります。それはすべてのカンマの終わりで、それ自身、つまりカンマであるもの、あるいはカンマであること、あるいはカンマ、カンマ、カンマに関わる何でも抜き取り、全部なくなります。

 次に話す言葉はいろんな系統で話すことができ、八正道で話せば八正道の話になります。それは過剰だと言えば、私がいつも「俺、俺のもの、それを消滅させてしまいなさい」と話しているように、近道、あるいは秘訣があります。それが黒くも白くもないカンマ、すべてのカンマの終わりです。

 俺、俺のものというウパダナーナ(取。執着)を消滅させてしまうことと、ハッキリと規定できます。俺、俺のものは、無明・欲望から生じるウパダーナに過ぎないからです。俺、俺のものを消滅させてしまう、あるいは俺、俺のものというウパダーナを消滅させてしまう、これが黒くも白くもないカンマで、私たちが実践し終わった黒くも白くもない報いがあるので、すべてのカンマの終わりです。つまりカンマより上にいるカンマの終わりの話で、それは阿羅漢の美徳です。

 天人は「ブッダはスッバカンマッカヤン、パットー」とブッダを賞賛して、バーヴァリーバラモンの学生たちに聞かせました。スッバカンマッカヤン パットーとは、すべてのカンマの終わりに到達した人という意味で、すべてのカンマという言葉を使いました。

 ブッダはすべてのカンマの終わりに至った人で、他の阿羅漢もすべてのカンマの終わりに至りました。これが、バーヴァリーバラモンが十六人の弟子をブッダに拝謁させるために遣わし、私たちがローラサパンハーと呼んでいつも唱えている問題をブッダに質問させた原因です。

 すべてのカンマの終わりに到達することはこのように信用があり、誰もが欲しがりますが、どのようにするか知らず、誰でもカンマになるのは堪らないと知っています。

 知り始めると、バーヴァリーバラモンの一団などはカンマになるのは堪らないと知り、十分倦怠しますが、どうすればカンマが終わるか、あるいはカンマの威力が終わるか知らず、「ブッダだけがカンマの終わりに到達した人です」と人が言うのを聞くと、賢い弟子十六人に拝謁させ質問させました。自分自身で行けないからです。

 ブッダの時代以前の人はカンマに倦怠するくらいの気持ちがあり、どうすればカンマの束縛から脱出できるかを探求していました。このように聞くと聞き耳を立て、興味を持って追求し、一斉に質問しに行きました。バーヴァリーバラモンは十六人もの弟子をブッダの所に質問しに行かせました。

 これはちょっと賢く、少人数では信用できないからです。中には愚かな人も、一部分だけ賢い人もいるので、質問させるためにたくさん送りました。つまり非常に関心があったということです。

 次に私たち仏教教団員も「人間の最高の最終目的はカンマの終わりである」という事実を知ります。このように言うとあまり興味がなく、ブラフマスッカである涅槃に到達すると言えば耳をそばだてます。このようにカンマの終わりと言えば好きでなく、どんなに枯れて淡泊で薄暗いか分からないと見ます。カンマの終わりを「幸福の頂点である涅槃に至る」と言えば、途端に興奮して活発になります。

 今「涅槃は国であり、都であり、そこへ行けば望みどおりに何でも手に入る」と話すほど大騒ぎし、大騒ぎすればするほど望みます。本当はそれはカンマの終わりの名前です。アマタマハーナガラ(不死の大都)、ニッバーナナガラ(涅槃の都)でも何でも、本質はカンマの本当の終わりの名前で、カンマになる必要がないので涅槃であり、アマタマハーナガラです。

 次にパーリを見ると、マハーナガラ(大都)はここにあり、三つのカンマを捨ててしまう意図があるよう努力する人は誰でも、アマタマハーナガラ(不死の大都)がその人の心の中に、今ここに生じます。これがカンマの終わりの話です。

 ブッダは「貪り、怒り、迷い、つまり煩悩がなくなった時カンマが終わる」と言われています。次に貪り、怒り、迷いの終わりは、死ぬ必要はありません。貪り、怒り、迷いの終わりは、まだ死ぬ必要はありません。つまり阿羅漢はまだ死ななくても最高の涅槃に到達できます。

 貪り、怒り、迷いが妨害しなければ、一時的にカンマは空で、一時的な涅槃です。これも、空っぽを知らないより良いです。だから「生きているうちに、まだ死なないうちに段階的に実践する」と興味を持ってください。試しに黒いカンマと白いカンマ、悪いカンマであるものをちょっと突いて見ると、後ずさりして逃げ、そして白いカンマ、善いカンマをちょっと多く見てみると、間もなく首を振ります。

 今は本当にしません。善もまだ善くしたことがなく、手を伸ばして掴むにはまだ善行が足りないのに、それでいつ手を伸ばして取るのでしょうか。ツヅフジを食べるとちょっと触れるだけで止めて吐き出しますが、砂糖を食べると満足します。しかしたくさん食べて見るとすぐに首を振り、無味には敵わないように、それくらい十分して見てください、そうすれば手が届きます。

 正常な幸福でいることは、清潔、明るさ、静かさ、あるいは停止、あるいは涼しさ、あるいは受け入れがあり、これは苦さがなく、甘さがなく、淡白さも何もなく、三つのカンマを通リ越すことで完成するカンマの終わりの話でなければなりません。

 現世で、幾らもしないで手を伸ばせば届きます。適度な知性があれば手を伸ばして掴むことを知り、そして現世で生きているうちに最後のカンマ、つまり黒くも白くもないカンマ、あるいは涅槃を受け取り、死ぬ時まで待つ必要はありません。

 そして次は、私がいつも話していることを思い出してください。滅尽の話、滅尽に注目し、欲しいもの、なりたいものは何もないと見て心を常に滅尽に傾ければ、最高に早く黒くも白くもないカンマに、最高に早く到達します。次にすぐにできなければ、身体が崩壊する最後の瞬間に、心を滅尽に傾けなければなりません。身体が崩壊する最後の息、あるいは何でも「私は滅尽を志願する」という確信で進行させます。

 残っているものは何も期待しません。それは魅力がなく、黒も白も、黒白も迷うべきでなく、滅尽を志願します。これだけでも黒くも白くもないカンマに到達でき、その瞬間に死んでいきます。阿羅漢になるかならないかは考えないで、最善を尽くします。このような最期の瞬間でも「俺は一瞬だけ阿羅漢になって死ぬ」と期待しないでください。そういうのは却ってできません。ウパダーナを作って将来のために餌で捕えて置くからです。

 最期の一瞬に「この知性と智慧と知識がある全身全霊は、適度にいろんな物を感じて来た。これほどの年齢になり、欲しいもの、なりたいものは何もない。何を所有し、何になっても、すべて苦になるだけだから、いつでも所有と立場、俺、俺のもの、俺、俺のものを空っぽにしなければならない。そうすれば、再び生まれる種を残さない最期の消滅だ」とだけ考えます。

 好機は身体が崩壊する最期にもあるので、「欲しくない、なりたくない」という気持ちで身体を消滅させ、命を消滅させます。これが死ぬ前にカンマの終わりに至る最高の秘訣であり、近道です。彼らが「死と同時に」と言うならご勝手に。私は「死の前に」と言います。常に払い捨てているからです。

 体が崩壊すると知り、それから百パーセント滅尽を志願し、そして二三刹那結果を受け取り、それから感覚を失う。このようでもまだ良く、重い荷物、つまり俺、俺のものを担いだり提げたりして死ぬより善いです。これは仮定の話で、このように話さなければなりません。

 普通に言えば人の心は黒から白に、そして白から何でもないように高くなるように訓練すべきと言います。これは「心は善くなる」という意味です。「善くなる」と言うようなのは、タイ語では言えますがパーリ語では言えません。つまり「善くなく悪くなく」でなければなりません。だから「心は悪から善に、善から善悪より上に高くなる」と言い直さなければなりません。もう一度言えば、黒いカンマ、白いカンマが段々薄れて、黒でも白でもなくなる、こうでも良いです。

 私たちの人生はカンマの面で発展しなければなりません。つまり黒が薄れ、白が薄れて色がなくなり、黒でも白でもなくなり、それが人間であることの頂点で、涅槃がそこにあります。黒は黒い汚れで、白は白い汚れで、何も色がなければ「黒くも白くもないカンマ」と呼びます。

 今日の講義の主題は「カンマに関わる実践とカンマの終わり」で、カンマに関しては黒と白で、それを善くし、それが苦にならないようにしてください。しかしカンマの終わり、つまり黒が終わり、白が終わることには適いません。

 重要な要旨はこのようで、詳細に話すと非常に多いのでこれだけにします。しかし持ち帰って学習して熟慮し、そして理解するには十分です。子供たちに「甘いのも苦いのより幾らも良くない。無味には敵わない」と教えることから「何も味がないのは混乱がない。心が何の味にも夢中にならなければ面倒はない。苦さにも意味はなく、甘さにも意味はなく、無味にも意味はない」まで、このように熟慮できれば安楽です。

 さて、時間になりましたので、これで終わらせていただきます。



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