10.四聖諦に関わる実践原則



1971年6月4日

 タンマに関心がある善人のみなさん。今日の土曜談話は、みなさんご存知のように、四聖諦に関わる実践法という主題でお話します。

 どうしてこの主題で話すのかは、四聖諦は仏教の心臓部だからです。誰でも「ブッダは四聖諦を悟った、あるいは四聖諦を教えた」と大量に話します。だから仏教の話です。これだけの言葉では不十分で、四聖諦は誰もが知らなければならない話、そして実践しなければならない話と、ハッキリ言わなければなりません。

 もし知らず、実践しなければ、あるのは苦だけです。愚かな苦があり、必要のない苦があり、解決すべき解決できる苦があり、そして解決しません。だから誰もが知らなければならない話、そして自分の滅苦のために実践しなければならない話と捉えてください。

 四聖諦には四つの話があり、苦の話、苦の原因の話、苦がない状態の話、そして苦がない状態に至らせる道、合わせて四つの話を四聖諦と言います。次にこの四つの話は、すべての人の中にあります。ブッダは増支部チャトゥカニバータのローヒタッサスッタの中で話しておかれました。しかし苦を、もっと最高に趣のある呼び方で「世界」と呼ばれました。

 だから「世界も、世界を生じさせる原因も、世界の消滅も、世界の消滅に至らせる道も、背丈二メートルばかりの身体の中に、識と心と一緒にある」と言われています。これは苦の話、苦を生じさせる原因の話、苦の消滅の話、苦の消滅に至らせる道という意味で、この四つの話は背丈二メートルほどの人の中にあります。

 そしてまだ生きていて識があり、心があり、死人ではありません。人は死んだら終わり、死人の中に四聖諦はありません。四聖諦は生きている人、そして背丈二メートルばかりの身体がある人だけにあります。

 次にもっと不思議に、話して世界にします。つまりこの世界は計り知れないほど大きく広いのに、どうして背丈二メートルほどの体の中にあるのでしょうか。これは筆舌に尽くせぬほど広大で膨大な苦が、この小さな体の中に集まっているという意味です。

 おまけに世界を生じさせる多くの原因も、背丈二メートルの体の中にあり、世界が消滅した状態も、背丈二メートルの体の中にあり、世界の消滅に至らせるすべての実践項目も、背丈二メートルの体の中にあります。

 これも奇妙な話で、計り知れない大きさの世界が、背丈二メートルばかりの身体の中に入っていると、不思議な話し方をします。

 次に知らない人、愚かなほど知らない人、愚かすぎるほど愚かな人は、四聖諦は別の所にあると考え、どこにあるのか知りません。ロークッタラ(出世間)は世界の上にあると言う人もいます。それ以上に、最高に愚かな人は「四聖諦の話は庶民に関係ない。四聖諦の話は聖向聖果涅槃に到達するために出家した人のためだけにあり、庶民には関係ない」と言う人もいます。これは四聖諦に関して愚かな人の中の、最高に愚かな人です。

 四聖諦を知りたくなければ、あるいは実践したくなければ、なぜ仏教教団員になるのか考えて見てください。仏教教団員でいるのは、滅苦のために四聖諦を知って実践するためです。四聖諦に関わらなければ仏教教団員である必要はありません。自分を仏教教団員と呼びたければ、四聖諦に関心をもって知り、そして実践しなければなりません。

 次に「四聖諦は普通の人の能力を超えているので、在家には関係ない」と言う人はどれだけ狂っているか、そして私たちに最高に必要な話と感じる人はどれだけ賢いか、どれだけ本当に知っているか、どれだけ仏教教団員か、考えて見てください。

 だから初めに「四聖諦の話は誰にとっても必要」と、話して明らかにしたいと思います。子供たちから青少年、大人、年寄りまで誰でも知る必要があり、実践する必要があります。四聖諦の話は生きている人誰にでもあり、死んだ時だけ、人の中に四聖諦の話はありません。


四聖諦はすべての人に必要

 人の中にどのように四聖諦があるか、はっきり見るために、先ず、四聖諦には四つの話があり、それは何の話か、「苦の話は、困難、あるいは苦と感じる状態で、苦を生じさせる原因の話は、苦を生じさせる原因である煩悩、そして苦がないこと、あるいは滅苦、そして滅苦を生じさせるために戦う方法。この話は人の中にある」と、はっきり見なければなりません。

 この項目は「おお、四聖諦は私の中にある。四つの聖諦が、生きている私の中で、生きている間中、生じては消え、生じては消えている」とハッキリ見えるまで良く観察し、良く熟考してください。本当は、四聖諦は欲望や取など、煩悩の発生と消滅なので、一日中人の心の中で一時生じ、一時消滅しています。それが聖諦です。

 何かの原因で自分の人形が壊れて、子供が座って泣いている話を例にすれば、その子の悔しさは苦で、熱く、幸福がありません。これが苦で、その子の苦諦です。

 次に苦を生じさせる原因、その子を泣かせる原因は、その人がそれを愛し、「私が愛している人形」と執着するウパダーナ(取)があるので、その人形に欲望があり、所有していたがり、生涯人形と一緒にいたがります。その子は人形に愛があり、欲望があるので、人形が落ちて壊れると、その子の愛・欲望・執着が原因で苦があります。

 何日も何年も時が経つと、その子は気づくことができます。あるいは考え直すよう教える人がいて、その人形への未練を捨ててしまうことができます。あるいはすぐに、何分もせずに何らかの理由で考えることができても、人形が壊れたことに関わる苦は消滅します。これが苦の消滅です。

 次は滅苦の方法、あるいはその子が考えなければならない人形が壊れたことに関わる悲しみの消滅です。その子は正しい方法で考えなければなりません。正しい方法でなければ悲しみが消える日はありません。だからその子が自分で考えるか、誰かがアドバイスして、その子が考えても、正しい方法で考えれば「構うものか! こんなの当たり前だ」、あるいはそのような何でも、彼は納得できます。

 小さな子供でも、小さな子の生活でも、生じては消滅し、生じては消滅する四聖諦の話、いろんな話があると見ることができます。子供は、人形だけでなく、まだいろいろたくさんあるからです。

 もう一つの例は、別の子は期末試験に落ちて座って泣いています。期末試験に落ちて非常に悲しいからです。それは苦で、何としても期末試験を通過することに執着し、期末試験に受かりたかったからです。何としても期末試験為受かりたいことが原因で、試験に落ちた時に泣きます。

 時間が経つと泣くのが面倒になり、忘れることもあります。あるいは思い直す、あるいは考え直すようアドバイスする人があり、先生が考え直すよう慰め、その子は正しく理解します。正しい理解が生じれば、期末試験に落ちた悲しみは止まることができます。正しい理解によって苦も消滅します。

 別の例は、ある小さな子供は母親が映画を観に行かせない、あるいは見世物を観に行かせないので座って泣いています。すごく行きたいからです。自分が子供の頃を思い出すと、映画を観に行きたくて、見世物を観に行きたくて、そして母が行かせなければ座って泣いていました。

 これも同じです。映画を観に行けないから胸に迫って啜り上げて泣くのは、苦であり、そして行きたい欲望、あるいは楽しさに執着するウパダーナ(取)が苦を生じさせる原因です。時には彼は「それは善くないから母が禁止した」と自分で考えられることもあります。これが苦の停止です。正しい見解である正しい考えが生じ、映画を観に行けなくて泣いているのを止めさせる道であるマッガが生じます。

 小さな子供でも、二メートルに足りない小さな体の中にも四聖諦の話があると、考えて見てください。だからブッダは「背丈二メートルばかりの人物の中に四聖諦がある」と言われています。小さな体の子供にも苦があり、苦を生じさせる原因があり、そして正しく考えれば苦を止めることができます。

 次は幽霊を怖がる子が、座って苦しくて困っています。人々が騙して怖がらせる幽霊の恐さは、バカな大人が子供を騙して怖がらせるからで、その子も恐怖で困窮し焦燥しています。幽霊の怖さは、幽霊を怖がったことのある人が暗い場所に一人きりでいると、どれだけ怖く、どれだけ大変で、どれだけ苦でしょうか。

 それは苦で、そして煩悩である愚かさ、あるいは無明から生じます。あるいは死にたくない、まだ死にたくない欲望で、幽霊は死なせます。幽霊の恐怖、あるいは何の恐怖も、すべて同じ話の無明であり、欲望であり、取です。だから子供は怖がります。そして幽霊は本当にはいません。

 大人が幽霊の話で子供を騙して怖がらせるので、子供は何らかの方法で恐怖が消えるまで怖がり続けます。考え直して、幽霊の話の新しい理解、正しい理解をすれば、恐怖は消えます。幽霊を怖がらないのは滅苦で、幽霊の話の正しい理解は滅苦に至らせる道です。子供の話でも、このようにいつでも四聖諦があります。

 もう一つ生徒、学生、沙弥も同じで、期末試験場へ入ると緊張します。期末試験場へ入ったことがある人は観察して見てください。心はあまり正常でなく、緊張する人、部屋へ入っただけで震える人もいます。これはなぜか、考えて見てください。それはすっかり混乱した話です。そして愚かで、考えすぎて欲しがるので、いろんな物に執着します。これが緊張する原因です。正しく理解すれば緊張は消えます。

 中には説法台に上ると体が震え、団扇を持つと震え、何をしても震える僧がいます。これは無明の愚かさで緊張し、体が震えます。ナーガ(出家直前の人)のある人は、菩薩堂で出家させてもらうために導師を訪ねると、体が震えて汗が流れます。

 これは、学生は誰でも苦である無明・欲望・ウパダーナ(取)を生じさせる原因があり、正しく理解すれば緊張が消えると観察させるために話しました。

 ちょっと大きくなって、若者になっても、また別の苦があります。ある娘はボーイフレンドが裏切って浮気したので泣いている、あるいは他の問題でも、あるいは彼氏が恋しくて寝て泣いている。こういうのも苦があると言います。そして苦を生じさせる原因は欲望です。

 欲望には必ずウパダーナ(取)があります。そして欲望はいつでも無明から生じます。これは一般原則として理解しておいてください。このように欲望について話せば、根源である無明に注目しなければなりません。それは必ず無明から生じ、他の物からは生じません。

 今私は無明について話さないで、欲望について話します。そして欲望があれば必ずウパダーナ(取)、執着があり、欲望と言えば必ずウパダーナを通過します。だから愚かさである無明があり、執着であるパダーナがあり、一緒に義務をすれば欲望と言います。

 恋人に裏切られ、あるいは恋しくて一人の女性が泣いている、それは苦です。そして欲望から生じ、その下には無明があり、上にはウパダーナがあります。母親が自由に逢いに行かせないので腹を立て、遊びに行きたい欲望による苦があります。その後親が、彼が家に来ることを禁じると、食べ物が喉を通らず、欲望が増大増強します。

 あるいは養母を嫌えば養母に対してヴィバヴァタンハー(無有欲)があるので、四六時中幸福ではありません。あるいは姑を嫌う、普通の性質ではあまり反りが合いません。これはヴィバヴァタンハー(無有欲)があるので当たり前です。だからその人は、正しい見解で解決するまでこの項目の苦が生じます。

 次に若者を見ると、娘と同じで、彼女が浮気をしないか、あるいは何か被害がありはしないか、疑念で良く眠れません。彼が眠れないで苦なのは、タンハー(欲望)、カーマタンハー(愛欲)、あるいはバヴァタンハー(有欲)があるからです。次にこの若者が恋敵である男性の話を聞いて、堪えきれずに耳がキリキリ痛むのでも何でも、欲望があるからです。

 母であることを見ると、母親の中には、息子が連れてきた嫁が気に入らなくて、ご飯が喉を通らない人もいます。息子の嫁は悪い人。こういうのは、母はご飯が喉を通りません。息子が悪い女性を嫁にしたからです。時には息子にたくさんの愛人がいるので、食事が喉を通らない人もいます。

 父も同じで、母がマージャンをし過ぎるのでイライラして苦になります。ね、苦が家になければどこにあるでしょうか。時には父はお金を預けている銀行が倒産しそうで、銀行が倒産したら、自分はほとんど破滅するので、焦燥することもあります。あるいは天候が良くないことも、農家は寝て苦しみます。天候が悪く、田んぼの仕事ができないと、ちょっとの間損害があります。

 これはカーマタンハー(愛欲)、バヴァタナハー(有欲)、ヴィバヴァタンハー(無有欲)のいずれかの欲望があるからです。良い恰好をするのが好きな人は、誰かが自分より高額の布施や積善をすると、気に入らない人もいます。考えて見てください。

 その誰かは自分に何もしていません。ただたくさんの布施をしただけ、自分より多く布施をしただけで苦になります。それは欲望、つまり自分の方が善くなりたい、優秀でありたい欲望、そのような何かです。ね、四聖諦の話は誰にでもあり、そして家にあると見てください。

 次にお爺さんお婆さんは座って「ワシはどんどん年を取り、子や孫全部に見捨てられてしまい、何を食べてどう死んでも、何も心配しない」と愚痴を言います。お爺さんお婆さんが座って愚痴を言うのは、このように苦です。これも欲望、バヴァタンハー(有欲)です。あるいは本当に見捨てられれば、ヴィバヴァタンハー(無有欲)です。

 本当の善人でも「俺が死んだら作っておいた罪があるから地獄へ落ちることもある。徳も作り、罪も作った。死んだら罪で地獄に落ちはしないだろうか」と考えるのも苦です。これも欲望で苦になります。炊事をする子や孫が、その日、口に合う食事を作らなかったことで怒る年寄りもいます。これはバヴァタンハーで、「軽視している、尊敬していない、愛していない、何していない」と考えます。

 これを「年寄りでも、すぐ死ぬ身でも、このようにまだ苦があり、苦を生じさせる原因がある」と言います。そして滅苦ができるのは正しく考え直した時、正しく納得した時、聞いて正しく納得した時です。

 もっと重要なことは、苦は自然に消えることもあります。苦は、重くなると自然に消えます。サンカーラである考えが変わるので、他の物を見て興味を持つと、一時苦を忘れます。一時苦が生じ、一時苦が消滅し、このように変化を繰り返しています。

 次に住職はお寺の菩薩堂が何年たっても完成しないで、お金が足りず、集められないので、神経の病気になります。本当の住職が神経を患うのは、あるべきでありません。ある住職は導師から外されるので眠れません。あるいは何かになって仕損ない、あれこれの地位から外されるので眠れません。これも苦です。

 住職の中には重要な支援者、筆頭清信士が他の寺に行ってしまい、他の寺を信仰し、この寺を見捨ててしまったので、食事が喉を通らない人もいます。こういうのは何の欲望か考えて見てください。だから住職でも非常に厄介な問題があります。寺の僧が喧嘩好きなら、住職はキリキリ舞いをするような苦があります。すべては何らかの欲望です。

 一般的に広く見ると、どうしてか知りませんが、誰でもと言うこともできます。誰かに取り囲んで見られると私も臆病で、女の人ならもっと、誰かに見られると臆病になります。私は男でも、誰かにジロジロ見られると臆病になります。そして取り囲んで見られると、もっと臆病になります。こういうのも苦です。

 あるいは国中の一般の人は、善くない噂があると、本当の噂、戦争の話でも何でも、あまり眠れません。あるいは幸運の話、呪術の話などの愚かな噂でも眠れません。死の恐怖や、あれこれ恐れるからです。それは何らかの欲望があります。これを国中全員、一斉に眠れないと言います。

 これが苦、苦を生じさせる原因、そして正しい見解が生じて一時苦が消滅する、あるいは少し長く消滅する話です。四聖諦の話をブッダは「背丈二メートルばかりの人間の身体の中に、四つ全部揃っている」と言われています。

 次に「四聖諦の話は在家には必要ない。在家は知らなくて良い」と言う人は、どれほど狂っているか、どれほど愚かか考えて見てください。みなさんはそうならないでください。それは誰にでも、述べたように子供にも必要と知らなければなりません。

 「仏教は四聖諦の外に何も与える物はない」という教えを掴んでください。ブッダ、あるいは仏教は、四聖諦の他に何も私たちに与える物はありません。そしてこの話に関心がなければ止めます。仏教教団員の邪魔をしません。だから「それはまだ感じ、考えられるすべての人の内部に常にある、最高に重要な話以外の何の話でもない」とまとめます。四聖諦の話はこの話です。

 別の角度から考えると、四聖諦は人の中の苦と滅苦を管理する規則です。私たち人の中の「苦と苦がないこと」は、管理する規則である四聖諦の話があります。そのようでなければならず、このようでなければならず、あのようでなければなりません。だから四聖諦は人の中の苦と滅苦を管理する話です。

 次に気力にするために、あるいは四聖諦は私たちを聖人にする話と信じるよう誘う宣伝のために話します。このように話すと、欲望やウパダーナ(取)にしてしまうよう誘うので、あまり話したくありません。本当は「四聖諦の話は、普通の人を聖人にできる話」というのは、最高に真実を話すことです。

 しかし聞く人が過剰に受け取ると欲望やウパダーナになり、野望になり、野望による探求か何かになってしまいます。だから「四聖諦の話は、私たち人の滅苦の話」とだけ話し、聖人になること、何かになることについては話しません。しかし本当は、滅苦ができた分だけ聖人になります。


聖諦とは何か

 さて次は、聖諦という言葉について明らかに理解できるように段階的に話します。これについて私は「何の実践をするにも、適度にその話に関して必要な理論面の知識がなければならない」という原則があります。今私は言葉を見ていますが、パリヤッティ(学習)の面を見ているのではなく、「聖諦とは何か」という実践の利益になる面を見ています。

 聖諦(アリヤサッチャ)は、聖(アリヤ)と諦(サッチャ)でできています。サッチャは真実、正しい、タンマであるという意味です。サッチャは真実と訳さなければならないのが一つ、そして正しいと訳すのが一つ、タンマである、あるいはタンマでできていると訳すのが一つです。

 ある長老は非常に良く定義し、プラワンギーサは「サッチャは真実でなければならず、利益がなければならない」と言います。つまり真実でも利益がないのもあります。よく見ると真実でも何も利益がない物もあります。真実で、そして利益がなければなりません。

 あるいは実践者に利益がなければならず、あればサッチャと言います。ここでの聖諦のサッチャは真実で正しく、そしてタンマであり、そして極めて利益がある話で、サッチャであることの全部が揃います。

 アリヤという言葉は良い意味ばかりですが、いろんな意味があります。アリヤとは敵から行くという意味で、アリは「敵」、ヤは「行く」で、アリヤは「敵から行ってしまう」という意味です。敵とは煩悩である苦で、煩悩から離れてしまうのがアリヤです。そして煩悩がないことをアリヤと訳すことができます。

 次に庶民の言葉で、彼らは聖人たちの物、つまり発展した人の物と訳しします。語根に注目しない一般の意味は、素晴らしい、あるいは最高という意味で、アリヤは最高に素晴らしいという意味でも良く、聖人たちの物でも良いです。しかし私たちにとって利益がある物、敵である煩悩から行ってしまえる物、これがアリヤです。

 二つを繋げるとアリヤサッチャになります。正しくタンマであり、利益があり、そして敵である煩悩と苦から、聖人の最高の素晴らしさで行ってしまいます。全部入ります。美しく言えば「最高の利益がある真実のアリヤサッチャは、聖人の最高の素晴らしさにふさわしく、敵である煩悩と苦がない」と言います。聞いて見てください。アリヤサッチャという言葉に関して、非常に興味深いです。

 次にこのように必要なので、話さなければならない項目と、実践に関わる面の話をします。そして彼らが話し、説法し、教え、印刷して配っていろいろたくさんするのは、ほとんどはパリヤッティ(学習)の話で、どこに行くと誤解させるか分かりません。ブッダが「すべての人の中にある」と教えているように説明して見せません。

 次に聖諦に関わる必要な話があるので、ちょっと差し挟みます。どうぞしっかり聞いてください。


四聖諦を教える前にブッダが使われた規則


 ブッダが誰かに四聖諦を説明なさる前に、どんな規則があったでしょうか。あるいはブッダが誰かに四聖諦を教えられる時、どんな規則があったでしょうか。多少下品な言葉を使うのをお許しいただくと、人が非常に狂っていれば、ブッダは先ずアヌプッバビーカター(次第説法)を話されました。

 非常に狂っていたらと言うのは、金の亡者、欲情狂い、あるいは幸福に溺れている、あるいは富豪であることで惚けているという意味です。あるいは富豪であり、富豪であることに恍惚としている人を「著しい貪欲」と言います。

 このように著しい貪欲の人には、ブッダは先ず次第説法を話され、それから四聖諦の話をされました。このような富豪に教えるには、常に次第説法を話されて、富豪であることへの陶酔を止めさせ、それから四聖諦の話を教えました。

 しかし五比丘のように「それほど狂っていない」と言う人を教える時は、直接四聖諦を教えられました。ブッダは無暗に次第説法だけを教えません。五比丘は出家していて、何がタンマの頂点かを探求して歩いていたので、すぐに四聖諦を教えました。しかし彼らが富豪であり、長者であり、若者であり、非常に世界に熱中している何かなら、次第説法を先に教えなければなりません。

 次第説法は、世界に熱中している心にこびりついている物を崩す、あるいは拭き取るための話です。だからみなさんは実践の利益のために、ここで次第説法を聞くべきです。次第説法は四つの部分、あるいは四項あります。①布施、②戒、③天国、④天国の害、⑤離欲(ネッカンマ)、つまり天国から出てしまうことです。この五つを次第説法と言います。

第一段階 :布施の話を教え、支援するために布施をすることは、徳や名誉や何かを生じさせると話されました。

第二段階 :戒の話は、戒を実践すれば困難、苦、困窮させる原因である煩悩を消滅させ、名誉があり、最高の善があり、最高に良ければ天国だけと教えました。

第三段階 :三番目の話は布施があり、戒があることで天国になり、天国はイッターラマナ(好ましい物)である、動物が喜んで満ち足り、幸福で楽しい感情に溢れていると教えました。これが天国です。

第四段階 :イッターラマナがあり、美味しく楽しい天国はまだ害があると教えました。そのカーマグナ(五欲)は害を与え、人を愚かにし、迷わせ、北も南も分からなくさせ、人殺しをさせ、親子で殺し合うのも五欲ゆえです。愛欲が原因で仲違いして殺すのは他人だけでなく、親子でも愛欲で殺し合います。

 子が養母に何かしたので父が子を殺す。こういうのもあります。あるいは子が愛欲で腹を立て、目が眩んで父を殺します。これが愛欲に惑溺した時目が眩んだ人になり、誤った見解になって自分に苦をもたらす、愛欲の害です。こういうのをアーディーナヴァ、愛欲の害の話と言います。

第五段階 :最後の話はネッカンマ(離欲)、つまり愛欲から出てしまって自由になることの功徳です。「これらの話はこれだけ。これっぽっち。たったこれだけ。それ以上に善い物は何もない」と感じるので、出てしまえば自由でスッキリし、あるいは休息します。これが五番目の話です。

 庶民の言葉で言えば「深い道具」と言い、タンマ語で言えば、「心が愛欲で汚れた人を洗浄するために、ブッダが使われた深い方便」と言います。

 ある富豪を教えた時などは、次第説法、この話を先に話されました。その人は富豪でもあり、善人でもあり、礼儀作法のある人で、「普通の人としては最高に善い」と言う人ですが、その人は山ほど所有すること、あるいは名誉に熱中している富豪でした。だからブッダは布施、戒から始めた方が良いと誘われました。布施、戒は天国にするからです。

 天国も良く楽しいですが、それには悪があり、罪があります。あるいはそのように下に下賤が隠れているので、出てしまう方が良いです。富豪の心が少しずつ移動し、少しずつ移動してそこまで来たら、そしたら四聖諦の話を「苦はそのよう、苦を生じさせる原因はそのよう、滅苦はそのよう、滅苦させる道はそのよう」と教えました。

 四聖諦の段階のダンマを教えたので、その人は天眼が生じて預流などにする原因である結果を得ました。

 次に私たちも、何に貼り付いているか、自分自身を調べて見てしまうべきです。自分自身がお金に、物に、愛欲に、あるいは子に孫に、ひ孫に、何でもそれは、鳥もちに貼り着いている話と言います。それは「まだ足りない。まだ満足できない。そして害もある」と見なければなりません。適度に平坦な心があれば、簡単に四聖諦を理解できます。

 心が財産の話、愛欲の話、いろんな話に執着して真暗なら、四聖諦の話を聞かせても、苦と滅苦の話しかしないので訳が分かりません。幸福について話さないからです。だから汚れた布を洗う洗剤のように次第説法を使い、それから染める方法があります。

 次第説法の話は汚れた布、汚れた心を洗って清潔な布、清潔な心にし、それから望んだ色、つまり四聖諦に染めるのと同じです。だから非常に汚れた心がある人は適度に洗ってしまいましょう。そうすれば四聖諦を理解し、そして実践するにふさわしい心になります。これがブッダが使われ、そして私たちも使わなければならない方法です。

 ブッダより上手にできなければ、ブッダの方法を使わなければなりません。自分を援けるにも他人を援けるにも、この方法を使わなければなりません。これを「四聖諦を知る準備のある心は、どのようでなければならないか」と言います。

 さて次は、四聖諦を知るにふさわしい清潔な心になったら、それから四聖諦の学習をします。しかしこの四聖諦の話は、敷き台である適度に清潔な心がなければならないことを忘れないでください。


四聖諦について理解しなければならない直接の論理

 理解しなければならない直接の論理は四つあります。

1 苦と苦の原因を同時に知る。これを苦諦(ドゥッカアリヤサッチャ)、あるいは短く苦(ドゥッカ)と言います。苦の話は、苦と苦の原因と一緒に知らなければなりません。

2 苦の原因を捨てなければならない。これを集諦(サムダヤアリヤサッチャ)、あるいは短く集(サムダヤ)と呼んでも良いです。

3 苦がないことを実践方法と一緒に知ります。つまり苦がないことはどのようか、そしてどのような実践方法が正しいかを知ります。これを滅諦(ニローダアリヤサッチャ)、あるいは短く滅(ニローダ)と言います。

4 実践を始めます。ここでは知るのでなく、実践を始め、滅苦ができる実践を生じさせます。これを道諦(マッガアリヤサッチャ)、あるいは短く道(マッガ)と呼びます。

 短く「苦集滅道」と呼ぶ四つの言葉は重要な題目です。たった四語の短い言葉は、パーリの中にあるブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)です。

 初めは私も考えもせず、あるいは思いもせず、誰かに言われなければ信じもしませんでした。しかし自分でサンユッタニカーヤ(相応部)を見ると、短い四つの言葉があり、ブッダが長く話したくない機会に遭遇され「ドゥッカ、サムダヤ、ニローダ、マッガ(苦集滅道)」とこのように言われているのもあります。

 もう一度復習すると、一番目は苦を原因と同時に知らなければなりません。二番目は苦の原因を捨ててしまわなければなりません。三番目は苦がないことを実践方法と一緒に知らなければなりません。四番目はどのように滅苦をするか、知ったように実践します。これが四聖諦です。これは普遍的な話、自然の法則なので、私たちは原因と結果を知らなければならないと考えて見てください。

 すべての物には原因があり、原因によって経過し、そして原因があれは必ず結果があるからです。これは自然の法則です。ブッダが自然を支配しているのでも、自然を設定しているのでもありません。ブッダは自然の法則を知り、そして私たちが実践原則として使うために話して聞かせました。

 最高に重要な内容は残り一つ、「苦の原因を捨て」ます。苦の原因を捨てなさい。これにすべての意味が含まれます。苦の原因を捨てる。これは全部の意味があります。苦の原因を捨てるには、苦を知らなければならず、苦の原因を捨てるには、正しく実践しなければなりません。

 だから苦の原因を捨てるという一言だけを掴みます。苦の原因である物は何でも捨ててしまい、捨ててしまえば苦は存在できません。これは四聖諦の実践の心臓部です。一言だけですが、たくさん話してハッキリさせても良いです。

 苦の原因を捨てる、あるいは欲望を捨てるには、八正道を実践します。四聖諦の第四項、最後の項目を滅道諦(ニローダアミニーパティパダーアリヤサッチャ)と言います。八つ全部の正しさがあるように実践すればマッガ(道)です。それは自然に欲望である苦の原因を捨てます。八つの正しさがある道があるようにすれば、それ自体が欲望、あるいは苦の原因を捨てます。

 猫を飼うような簡単な物質面に例えれば、私たちは猫にネズミを捕らせようと夢中になる必要はありません。猫にネズミを捕るのを教えて捕りに行かせるのは、時間の無駄です。猫を良く飼うだけで十分で、ネズミを捕るのは猫の問題です。

 今みなさんは八支がある道を作って実践があるようになさい。そうすれば八正道が煩悩を殺すのはそれ自体の義務で、それ自体が殺します。私たちは八支全部、つまり八つの正しさが揃うよう実践するだけです。

 これを「実践の趣旨は苦の原因を捨てることにある」と言います。どのようにするかと問うなら、マッガと呼ぶ八つの正しさが一つになるように実践すると答えます。これからマッガという言葉について、詳しく話します。今は論理がどのような流れで繋がっているかを説明して理解させます。

 
苦の原因を捨てる教え

 次は、苦の原因を捨てるには、熟考しなければならない教えがあるという項目で話したいと思います。熟考しなければならない教えとは、

1 どこで捨てるか。どこで捨てるかと問うなら、昔の人、先人たちが一般に答えていたように最高に正しく「生じた所で捨てる」と答えます。目で生じれば目で捨て、耳で生じれば耳で捨て等々、どこで生じてもそこで捨てます。こういうのは賢いですか。

 長い経のパーリ・ブッダバーシタなら、ピヤルーパ、サータルーパ(好ましい形、喜ばしい形)が六十種類も散らばらせてあります。これから話すこともできます。しかし要約すれば全部目・耳・鼻・舌・体・心に関してで、何処でと問えば、生じた所で捨てると答えます。

2 いつ捨てるかと問えば、それが生じた時に捨てます。物語でも昔話でも笑い話でもなく、本当の話、本当に実践する話なので、生じた時に捨てなければなりません。しかし防止法という意味なら、サティで防ぎ、常にサティがあって生じさせないようにし、生じたら生じた時に捨てなければなりません。

3 何で捨てるかは、話したアリヤマッガ(聖道)で捨てます。アリヤマッガが揃えば、これは存在できず、飛び散ってしまいます。ね、アリヤマッガ、あるいは八正道で捨てます。

4 どんな方法で捨てるかは、どの方法でも全部は使わず、使うのは二度と生じられない物だけ、生じることができない方法で捨てます。

 このように言うのは弁護士のようです。あるいは非常にロジカルな話し方ですが、必要で避けることができないので、このように話さなければなりません。どこで捨てるかは生じた所で捨て、いつ捨てるかは生じた時に捨て、どのようにするかは正反対の物であるアリヤマッガで、どのような方法かは、二度と生じない方法でします。これが、私たちが思い出さなければならない教えです。

 今はどこで捨てるのか分らないような教え方をします。お寺へ捨てに行ってしまう人もいます。家にいてお寺へ捨てに行けば、お寺へ着く前に死んでしまいます。あるいは木の根元に捨てに行かなければならない、静寂な場所に座らなければならない。こういうのは使い物になりません。それが生じた途端に捨てなければなりません。

 どんな挙措で生じても、その挙措のうちに捨て、歩いている時、立っている時、座っている時、寝ている時、どんな挙措の時に生じても、その時そこで、その挙措の時に捨てます。木の根元へ行って座って努力して捨てるのではありません。家にいてお寺へ走って行ってから捨てるのでもありません。あるいはお寺の菩薩堂だけで捨てる。それはできません。

 生じた場所で、生じた時に、即座に捨てます。そして反対の方法で捨てます。煩悩、あるいは欲望、あるいは苦と反対の物は何でも、それを使います。猫とネズミのように反対で、そして二度と生じない方法でしなければなりません。このように熟考しなければならない教えです。

 次に「四聖諦の話を知るのは欲望を捨てるため」と、憶えやすく、観察しやすく言いたいと思います。欲望は苦を生じさせる原因であることは知っています。四聖諦を勉強するだけ四聖諦を知るのは、欲望を捨てるためです。欲望を捨てるには八正道が揃っていなければならず、八正道が全部揃うには、完璧なサティがなければなりません。

 目・耳・鼻・舌・体・心の六つすべての門に完璧なサティがあれば、簡単に八正道があります。八正道があるには完璧なサティがなければなりません。簡単に完璧なサティがあるためには、ヒリ(恥を知ること。慙)とオータッパ(畏れ。愧)がなければなりません。ヒリがない人は恥を知らず、オータッパがない人は畏れを知りません。そしてサティを持つ術はありません。

 私の所の子供、あるいは沙弥が愚かで忘れっぽくぼんやりしているのは、恥を知らず、怖れないからです。損害を畏れず、あるいは怖い先生を恐れず、そして恥じません。迂闊な時、忘れている時も恥を知らず、そして損害を知りません。あるいは怖い先生も恐れません。これほどヒリ(慙)とオータッパ(愧)がなければ、完璧にサティがなくなることもあります。

 タンマの実践も同じで、苦、生老病死を恐れ、そして煩悩があることを恥じ、そしてこのように最高に恥じます。このように恥と怖れがあれば、サティは簡単に、そして完璧に生じます。簡単に言えば、歩いていて側溝に落ちるのは恐れないから、恥じないからです。だからしょっちゅう落ちます。

 恥ずかしいと知れば、落ちた時人に笑われたら恥ずかしいと怖れ、足が痛むのを恐れ、恥と怖れがあれば注意深くなり、側溝に落ちなくなります。これは例えで、このようです。

 サティがぼんやりして煩悩を生じさせるのも同じで、恥を知らず、怖れを知らず、慙愧がないからで、このように恥も恐れもない人は、話さない方が良い、話を止める方が良いと見るべきです。誰でも恥と怖れがなければ、タンマの話はしない方が良いです。

 それは恥を知らない厚顔の人であり、怖れを知らない健全でない性情の人なので、非常に話し難く、話さない方が良いです。だから恥と怖れがなければなりません。あればサティがあるよう助けてくれます。簡単にサティが生じるには、恥と怖れがなければなりません。

 仮にどうすれば恥と怖れがあるか、もう一度努力をするには、自分を愛し、善を愛してしまうことを知る練習から始めます。それは一番低い段階で、自分を愛し、善を愛すことを知るよう訓練しなければなりません。自分を愛さず、善を愛さない人は、極めて狂っているからです。自分を愛すことを知らず、善を愛すことを知らないほどの人は滅多にいないように見えます。

 だから自分を愛すことを知るよう、善を愛すことを知るよう訓練しなければなりません。そうすれば恥があり怖れがあり、そしてサティがあり、そして八正道の実践が簡単になり、そして簡単に欲望を捨てることができ、簡単に四聖諦があります。だからこの流れを憶えて、自分はどこに貼りついているか、あるいは快適に行けるのは何が原因か、チェックしてください。

 私たちは欲望を捨てるために四聖諦を勉強し、欲望を捨てるには八正道がなければならず、八正道があるには完璧なサティがなければなりません。完璧なサティがあるためには恥と怖れがいっぱいでなければなりません。

 だから遊びで恥と怖れを軽視しないでください。それはすべての物の、すべての方法の、最高に素晴らしい基礎です。人に恥がなく怖れがないほどなら、すぐに話すのを辞めなければならないからです。

 これは規則に、技術に、あるいはこのように長く完璧な何かである話に従って段階的なので、何語も話しました。それはこのような順です。四聖諦の話の最後は八正道で、八つの話があります。そしてどのようにするかは、このようにしなければなりません。


苦の原因を近道の方法で捨てる

 次は、いずれにしても話したら「まだ絶妙の策のもある」と全部話してしまいます。話したのは生地で、内容で、普通の規則によってで、それはこのようと言います。次に絶妙の策、あるいは現代人が裏道と呼ぶような実践、それもあります。四聖諦の話の中にもあるので、速成教育はどのように学ぶのか、知性を飾る物になるだけ十分に話して聞かせたいと思います。

 この速成教育の話はどの方式も同じです。どの項目のタンマの教えも、速成教育なら方法は一つだけと言うことができます。一つだけの方法とは、俺、俺の物はないと見させるスンニャター(空)の話です。

 これらの人たちは布施の話、戒の話、サマーディの話、智慧の話、八正道の話、何の話にも関心がなく、関心があるのは、空と呼ぶ「自分、あるいは自分の物がない話」だけです。しかし賢く、そして正しい智慧がなければなません。あれば近道をすることができます。そうでなければ近道して淵へ落ち、近道して地獄に落ちます。このような近道は地獄へ落ちます。

 次に正しい近道なら、正しい空に関した智慧があります。つまり、

1 煩悩を見る。ローバ(貪り)、ドーサ(怒り)、モーハ(迷い)、何の煩悩でも、煩悩は空と見、煩悩は自然に経過するだけで、自分は無いと見ます。

2 苦を見る。苦も空であり、苦と呼ぶ物は、極めて、最高に、何よりも空です。

3 自分を見る。このナーマルーパ(名形。心身)は最高に空で、人を見ると人はなく、それには自分(自分であること、実体)がありません。

4 心を見る。この心も自分は空で、自分がなく、自分がない自然の物です。苦を見ればもっと大事で、この苦は小さな原因からちょっとの間だけ生じ、更に自分(自分の物である部分)はありません。
5 長い輪廻を見る。長くてもそれには自分はありません。

6 涅槃を見る。涅槃の状態は極めて空っぽで、涅槃は究極の空です。それはすべてを通過して何も残ってなく、俺、俺の物もどこにあるのか知らず、生じる物は何もありません。実践しなければならないことは何もないからです。

 知らなければならないことは「すべての物は空」という、この一つだけです。そして実践する項目は必要ありません。空と見るだけで煩悩は生じず、苦は生じず、輪廻がないからです。これは非常に絶妙に近道をすることで、ここで終わります。

 これが禅の人たちの一度で首を折って死なせる柔道を使う方法です。柔道という格闘技は、正しい場所を掴めば、一度で首を折って死にます。これは煩悩、あるいは苦を懲らしめる禅の人たちの柔道です。彼らは空という一語を使い、私たちテーラワーダにもあります。しかしこのような手法を好まないだけです。

 ブッダは「世界をいつでも空の物と見なさい」と言われています。これだけ。「スンニャトー ローガン アヴェッカッス モッカラージャ サダー サトー」という一文だけです。「あなたは世界を、いつでも空の物と見るサティを持ちなさい」。これだけです。

 すべてが空になり、人も煩悩がなくなるので空、苦も空、何もかも空、あなたも空なので、閻魔大王があなたを探しても見えません。これが禅の人たちの柔道の手法で、テーラワーダにもありますが、関心を持つ人はあまりいません。

 「近道の話に興味のある人は、空の話に関心がある」と話して知らせました。ブッダは「この空の話は、すべての在家にとって生涯支援する利益がある」と教え、ダンマディンナスッタにこのようにあります。そして空は近道の話、絶妙な秘策の話です。

 本当はサンマーディッティ(正しい見解)で何でも空と見ること、これが正しい見解の極みであり、電光のような、そして最高に正しい見解です。だから誰でも持てれば素晴らしいです。

 小川のように涙を流して泣いていても、空を思い出せば途端に泣き止むことができます。胸の中に堆積した苦があっても、空が訪れれば残らず消滅します。だからこれは最高の近道で、「精神面に使う精神の柔道」と見なします。

 一般的な論理はこのようです。近道でなく、手本どおりに「欲望を捨てるために四聖諦を知り、欲望を捨てるには八正道をしなければならない。八正道があるにはサティが必要で、サティがあるには恥と怖れがなければならない」と言うように、少しずつやって行きます。

 それは長い輪のように繋がっていますが、手っ取り早い話にすればスンニャター一語で十分正しい智慧があり、正しく学んで理解すれば話は終わります。

 空になるだけで完璧な四聖諦です。苦はなく、苦を生じさせる原因もなく、滅もなく、マッガもない電光式の四聖諦です。苦である人もなく、苦もなく、苦がない時に滅苦はあり得えません。苦がない時になぜ滅苦がなければならないか、話すだけ無駄です。これを絶妙の秘策と言います。

 次に近道、あるいは絶妙な秘策について、話すことはたくさんはないので、続いて普通の方法について話します。これは付録として話しました。興味のある人は別の機会に詳しく話します。今日は普通の四聖諦の話の実践法を話したいと思います。


四聖諦の話の普通の実践原則

 一番は苦、苦諦の話は、実践の利益になるための最初の話です。苦はいつも無明、欲望、ウパダーナ(執着。取)から生じると知らなければなりません。先ほどこの三つはいつも一体と言いましたが、無明が先で、それから欲望、それからウパダーナが後を追って来ます。欲望は真ん中です。

 それです、犯人はそこにいて、苦と名がつけばいつでも、必ず無明、欲望、ウパダーナ(取)から生じます。ウパダーナがあるだけで何でも全部苦になります。そして無明が欲望を生じさせ、欲望があれば必ずウパダーナがあり、止まれないことを忘れないでください。

 目が形を見、耳が声を聞くなどした時に無明が生じ、アーヤタナ(六処)に接触があれば無明があります。その時サティがないからです。そのようなら欲望が生じなければならず、それが愛らしければカーマタンハー(愛欲)が生じ、憎らしければヴィバヴァタンハー(無有欲)が生じます。

 あるいは可愛ければカーマタンハー(愛欲)が生じ、バヴァタンハー(有欲)は「欲しい」、あるいは「なりたい」で、憎らしければヴィバヴァタンハー(無有欲)が生じ、「欲しくない。なりたくない。殴り殺したい」で、あるのは二つの話だけです。

 欲しければウパダーナがあります。ウパダーナがあれば必ず苦があり、苦を避けることはできません。だからウパダーナを生じさせなければ苦は生じません。見た途端に欲しくなり、欲しくなればウパダーナ、つまり執着があります。


苦はウパダーナがあるから

 ウパダーナ(取)があるとどのように苦なのかを説明します。苦は必ず執着から生じ、儲けを得るなど得がある時、赤字などの損がある時、そしてまだ得にも損にもならない、このような三種類があると説明します。

 例1 商売をして儲けを得ることを得と言い、「得」ることのウパダーナなり、得ることに執着し、得ることで苦があります。得ることが原因で執着させ、眠れなくさせ、嬉しくて、あるいは再び損をすることを恐れて、眠れなくなります。得ることが心を縛って静かにさせません。それが心を妨害し、得ることが妨害して心を静かにしません。

 だから一種の苦があります。甘い物を食べ、甘い酒を呑んで酔うことを知らないような苦です。しかし別の形の苦、あるいはもっと深い酔い、赤字のような損ももう一つの形の苦です。

 儲けか損か見えなくても苦があり、赤字を恐れる苦、あるいは儲けを期待して心が焦燥する苦です。ウパダーナ(取)があれば必ず苦です。儲けを得ても苦、損失でも苦、まだ儲けか損失か現れなくてもウパダーナによる苦があります。

例2 次に負けと勝ち、あるいはまだ負けまで行かない、あるいは勝ちまで行かないことを比較すると、勝てば復讐されて負けになることを恐れるので、勝っても苦になります。勝った人はいつ撃たれて死ぬかもしれないと怖れます。彼らは「勝者は他人に復讐を企てられるので、苦にならなければならない」と言い、復讐心を持たれることは苦と知っています。

 負けた人も寝苦しく、寝て苦しみ、勝った人も復讐を恐れると言います。次にまだ負けも勝ちもしなければ、心は喘いで焦燥し、負けを恐れ、あるいは勝ちを期待して、内心極めて憔悴します。勝利を期待することも苦、敗北を恐れるのも苦です。だから今「ウパダーナ(取)があれば負けても苦、勝っても苦、まだ負けでも勝ちでもなくても苦」と言います。ウパダーナがあれば。

例3 簡単に見える物、あるいはもっと面白いのは、人の本能はウパダーナがあるので、必ず苦になります。健康で病気がなく、ここへ来て座っていても、病気になるのを恐れるので、命に執着し、俺はそのようにならなければならない、このようにならなければならないと自分に執着するので苦です。

 このようにウパダーナ(執着)があれば、まだ生きているのに死を恐れなければなりません。まだ元気なのに病気を恐れます。ウパダーナはこのように毒を作ります。

 次に病気になると非常に苦で、まだ病気でない時も、病気になるのを恐れます。あるいは病気になりたくないのも、病気になりたくないことによる苦です。生きていたくないのは欲望の一種で、それも苦で、ウパダーナがある人は健康でも苦、病気で苦、どちらでもなくても苦です。

例4 次の深遠な話は、ウパダーナがあれば善も苦、悪も苦、善と悪の間も苦で、善に執着している人は眠れないと言います。自分が望んだように善が得られない人は自殺します。善ゆえに自殺する人もたくさんいます。それに執着すれば、善は心を苦しめる物になります。次に悪は当然苦になり、説明は必要ありません。悪まで行かなくても、善まで行かなくても、それも心配で、心配は苦です。

例5 ウパダーナ(執着)があれば必ず苦という最後の話は、徳があっても苦、罪があっても苦、まだ徳とも罪とも言えなくても苦という意味です。徳があれば徳がある人の苦、罪があれば罪がある人の苦、徳とも罪とも判断できなくても、心配や怖れで苦になります。執着があれば、ウパダーナ(取)があれば、徳も苦、罪も苦、徳まで行かなくても、罪まで行かなくても苦という意味です。

 次に執着しなければ苦である物は何もありません。執着がないだけで、苦になる物は何もありません。死も苦でなく、老も苦でなく、病も苦でなく、元気も苦でなく、何も苦ではありません。負けも勝ちも、何も苦でなく、苦を知りません。執着しなければ。だから「苦は必ず欲望、ウパダーナから生じ、それが何らかの物を欲しがり、そしてその欲しい物ものに執着すれば、それも苦」とまとめます。

 ブッダがそのように話して明言されたのは、すべて「執着した時は」という意味です。私たちは良く聞かないので正しい意味が分からず、そして誤解して愚かになって、愚かさで話します。

 ブッダが「生まれることは苦、老は苦、病は苦、死は苦、悲しみも苦、嘆きも苦、体の苦も苦、心の苦も苦、悩みも苦、愛している物と別れるのも苦、愛さない物と会うのも苦」と言われ、全部で十一種類、十一の例を挙げられましたが、ウパダーナがあるという意味で言われたことを忘れないでください。

 ウパダーナ(取)がなければ苦は生じません。生まれることも苦でなく、老も苦でなく、病気等々も苦ではありません。

 今ブッダは、その中に「ウパダーナ」という言葉の意味を含めています。ウパダーナがなければ「自分の誕生、自分の病、自分の老、自分の死」と感じません。あるいはウパダーナがなければ、誕生と言わず、老、病、死と言わず、「サンカーラの変化」と中立の言い方をします。サンカーラの変化と中立の呼び方をしても、執着がなければ苦ではありません。それはサンカーラの事情で変化します。

 今私たちはサンカーラの変化を自分の物と掌握し、私の誕生、私の老い、私の病気、私の死、私の何か、すべて自覚なしに、感じる前に、知らないうちに、ウパダーナ(取)でそれに執着するので、結果は苦、つまり生まれることを恐れ、老を恐れ、病気を恐れ、死を恐れます。

 この問題があるので、まだ死ななくても、まだ死ぬ必要がなくても、死を思う途端に苦になります。私の死、死が私に訪れる、私に必ず死があるに違いないと執着するので、私が先にあり、それから何でも私の物になります。だから必ず苦があります。

 ブッダは最後の部分でハッキリと、「サンキッテン パンチュパダーナッカンダー ドゥッカー」と言われました。まとめればウパダーナがある五蘊、あるいは五つのウパダーナがある蘊、それが苦です。ウパダーナという言葉もあり、取蘊は苦と言います。ただの薀なら苦ではありません。

 取薀でなければならず、そうすれば苦です。つまり侵入して「俺、俺の物がある」と執着するウパダーナ(取)がある薀です。形も、受・想・行・識も、無明から生じた取があればいつでも「俺」、あるいは「俺の物」とその薀に執着します。その時その薀は途端に取薀になり、途端に苦になります。薀は突然重い物になってその人の心に覆います。

 そのようでなければそれの正常な状態があり、その人の心に乗り被さらないので、その人は苦ではありません。

 次にブッダが要約して言われたのは「ウパダーナがある五薀、それが苦」、つまりウパダーナが生じた形・受・想・行・識に「形は俺」、あるいは「俺の形」と執着します。受・想・行・識も同じで、「識は俺」あるいは「俺の識」と執着して、それも全部苦になります。憂慮があり、心配があり、何でもあり、まとめると、執着は俺、俺の物の欲望であり、これを苦と言います。

 「財産のある人は、財産ゆえに苦にならなければならない。牛がいる人は、牛ゆえに苦にならなければならず、田んぼを持っている人は田ゆえに苦にならなければならない」と言われたブッダバーシタがあるように、苦が生じるのは、何かに執着するウパダーナのせいで、何かに執着するからとまとめます。

 しかしブッダは「俺の物」という心で執着することが苦という意味で言われました。心が正常なら牛は牛にあり、田は田にあり、心の上に乗り被さって来ません。しかし俺の物と執着すれば、それは所有者の頭の上に乗り被さるので、所有者も苦があります。ここでも「苦は執着があるから」と言うことができます。


苦があるのは自然の変化を知らないから

 次に別の角度から見ても良いです。別の形で見ても良いですが、要旨は同じです。パーリには「サンカーラー パラマー ドゥッカー=サンカーラは極めて苦」とあります。サンカーラは極めて苦とだけ言います。ここでのサンカーラは「加工する」という意味で、そのように憶えておいてください。

 この身体もサンカーラと言います。身体は加工した物だからです。何でもかんでもサンカーラと呼ぶのは、それらは変化の物であり、変化させられた物でもあり、他の物を変化させもするからです。

 しかしサンカーラという言葉を変化させる、加工すると訳すのは、変化させる行為であり、process であり、あるいは何かで、何と呼んだら良いか分からないので、パーリ語では、彼らはサンカーラと呼びます。つまり加工することです。加工とは何かに対して休むことなく何かすることで、何かをすればどんどん変化します。このような物全部をサンカーラと言います。

 「加工することが苦です」。ブッダはそのように教えました。その加工することが極めて苦です。生まれることも加工することであり、老も加工することであり、病気も加工することであり、死も加工することであり、悲しみ、嘆き、悩み、何でもそれはすべて加工することです。

 何が加工するのでしょうか。原因と縁が加工します。原因と縁とは何でしょうか。それは無明、欲望、ウパダーナ(取)が加工します。心は心の縁によって加工されます。心とは生じて流れて行く考えで、流れて行く考えを「縁が加工するので、心は流れて行く」と言います。すべてをサンカーラと呼びます。

 サンカーラという言葉は「加工する」という意味です。「加工する」というのは一つだけでなく、何種類もという意味でなければなりません。一つだけなら加工すると呼べません。加工するというのは二つ以上でなければなりません。鍋の汁を加工(調味)すると言うのは、何種類もなければなりません。そうすれば加工してサンカーラになります。

 サンは「同時に」という意味で、カーラは「する」という意味で、サンカーラは「同時にする」、あるいは「揃ってする」という意味ですが、私たちは「加工する」と言います。

 次に、加工することはなぜ苦なのでしょうか。それは、加工には必ず無明、欲望、ウパダーナ(取)が関わっているからです。だから苦になります。あるいは簡単に「その加工は止まらなくさせるから」と言います。加工すると次々に変化しなければならず、止まれないので苦です。

 あるいはその加工することは自分の自由がなく、休まず原因と縁で経過しなければならないので、自分の自由がないので苦です。「サンカーラは苦」という言葉の、加工の話にはまだたくさんあります。しかし「それは加工するから自分の自由がなく、止まれない」とハッキリ見えます。

 教典の中のパーリ(ブッダの言葉)の教えは、このようにいろいろ述べています。しかしどれも要約すれば、たくさんの種類を短く一つに要約すれば残るのは一言だけと言うこともできます。そしてまだいろんな言い回しで話すこともできます。

 原因の角度で言えば愚かだから苦になると言い、愚かだから苦になるのはすぐに見えます。愚かだから迷い、迷って欲しがり、あるいは迷って執着します。愚かだから迷い、迷って欲しくなり、サンカーラに執着し、何らかの物を俺、俺の物と執着して、苦になります。これを原因の側と言います。愚かさが苦の原因であり、愚かだから迷って欲しくなり、何かを「俺、俺の物」と執着します。ね、愚かだから苦になります。

 結果の側を見れば、重いから苦になると言います。執着で担いで背負って、何でもをするから重くなります。重いから苦です。重いのは背負うからで、背負うのは善いのも悪いのも「俺、俺の物」だからです。善い俺も重く、悪い俺も重いです。善い俺は重くないと考えないでください。本当は重いですが感じません。善い俺は重くても感じません。

 普通の石を二十キロ背負えば重いと感じ、背負いたくありませんが、最高に高価な宝石なら二十キロでも重くなく、背負っていたいと思います。だから上等で善い俺も重く、下等で悪い俺も重いですが、心は同じに感じません。いずれにしても重い物です。重ければ苦で、苦は重さから生じます。次に心の面もたくさん背負うことができます。百キロ以上、十万、百万も背負うこともできます。

 私たちが毎日唱えているパーリに「バーラー ハヴェ パンチャカンダー バーラーダーナン ドゥッカン ローケー」とあります。これは毎日唱えているので訳す必要はありません。「五蘊は重い物。重い物を背負うのは苦」。ブッダバーシタにこのようにハッキリとあるので、私が言う必要はありません。これを「苦は、愚かに背負うから」と言います。

 この言葉の意味は滑稽で、この苦である物には、愚かな苦と賢い苦、深遠な苦と浅い苦があります。

 低いレベルの浅い苦は堪えなければなりません。耐え難いから、あるいは耐えられないから苦と呼びます。重い物を背負うなどは苦で、何でもこのように苦です。

 しかし智慧のある人は「これきしの浅い苦は幾らも苦でない。凶悪で嫌らしく、もっと苦なのは、マヤカシで欺瞞する物であるサンカーラだ」と言います。五蘊、身体、心身は本当にはない物、仮の物で、見れば嫌悪したくなります。騙す物だからです。

 このような苦は嫌らしい、厭わしい物という意味です。形・受・想・行・識の何でも、それがどんなに美しくても、欺くマヤカシなので厭わしい物です。その厭わしさを彼らは苦と呼びます。こういうのは心がより高い人です。「重いから苦になる」と言うより高いです。

 もっと賢い人は「それは空」と言います。この空は苦だからです。それは魂消るような空で、何もかもが魂消るような空です。すべてのサンカーラは、何もかも魂消るような空で、自分は無いという意味です。自分がないので、これが苦です。この苦の意味を彼らは空と訳し、魂消るような空です。

 苦という言葉をまとめると、少なくとも三種類に訳すことができます。苦とは耐え難いこと、あるいは苦に耐えること、これが一つ、そしてそれが汚らわしいから苦である、これが一つ、そして魂消るような空だから苦、これが一つ。その人にどのように緻密な智慧があるか、どのように高いか低いかで、どれも苦です。


四聖諦の話の実践項目を学んで理解すれば、不可能ではない

 四聖諦の初めの苦諦は、知らなければなりません。知らなければならない話です。苦に関わる実践は、ブッダが「パリンニェヤン=苦の話は遍く知るべき」と言われたように、苦とは何か、どのように生じるかを知らなければなりません。私たちも唱えているので、知る努力をします。四聖諦の初めの項目の実践は、知る努力をし、苦と苦の原因を知ります。

 四聖諦の二番目の集諦は、苦を生じさせる原因です。苦は心の面の話で、物質の話ではありません。特に四聖諦の苦は心の面の話で、物質ではありません。だから苦を生じさせる原因も、心の面の話で、すべての煩悩は心の面の話です。貪り・怒り・迷いは苦を生じさせる原因で、無明・欲望・取は苦を生じさせる原因です。すべて心の面の話です。

 次に苦の原因という言葉は曖昧な言葉です。タイ語に訳すと「苦の原因」で、パーリ語では「サムダヤ」、一斉に発生するという意味です。サンは「一斉に」という意味で、ウは「なる」、ダヤは「発生」で、サムダヤは「一斉に発生する」という意味です。見ると揃って芽が出るように見えます。サムダヤは、苦の芽が揃って発芽するという意味です。

 だから縁と呼んでも、原因と呼んでも、あるいは他の呼び方でもこれを意味しなければなりません。直接パーリの意味の方が良いので、サムダヤです。しかし私が「苦のサムダヤ」と言うと、今の庶民は聞いて意味が分からないので、タイ語で「苦の原因」と話すのに慣れてしまいました。

 「サムッターナ」という言葉も同じ意味です。それはサムッターナで生じさせます。「ムーラ」という言葉は生じさせる根源で、アーハラ(食べ物)は結果をもたらすという意味で、「アーハラ」は原因と縁です。だから原因、あるいは縁、あるいは基盤、あるいは根源、あるいは苦のサムッターナでも何でも、それは欲望です。

 この欲望について、パーリに「ヤーヤン タンハー=欲望はどれもで、ポノッバヴィカー=新たに生まれさせる、ナンディラーガサハガター=喜びによるラーガがあり、タトゥラタトゥラービナンディニー=その感情を極めて楽しむ」とあります。全部合わせると「タンハーと呼ぶ欲望は無明から生じる願望なので、欲望と呼ぶ」という意味になります。

 智慧、知識から生じる望みなら欲望と呼びません。タンハーと呼ぶ願望は無明から生じる願望で、タンハーなら、それはポノッバヴィカー、つまり「俺、俺の物」というウパダーナ(取)を生じさせます。ナンディラーガサハガターは、俺、俺の物の話による最高の満足です。俺、俺の物の話だけを最高に楽しむ。これがタンハー、欲望です。

 このような心の感覚をタンハー(欲望)と言います。それが何らかの物を引っ掴んで執着すると、その執着の威力で苦になります。

 次に詳しく話すと、先ほどのタンハー(欲望)はどこに生じるでしょうか。それは何から芽を出すかと問うなら、マハーサティパターナスッタ(大念処経)を唱えたことがある人は「ピヤルーパ、サータルーパ」というこれらの言葉を発見すると、途中まで話しました。

 ピヤルーパは「可愛いらしい形」という意味で、サータルーパは「喜ばしい形」という意味です。ここでのルーパは「物」という意味です。目で見る物、可愛らしく喜ばしい物は十の分類があり、それぞれに六つあります。わざわざ覚える必要はありません。理解するだけで十分です。十の部類に、それぞれ六つです。

第一部は内部のアーヤタナ。目・耳・鼻・舌・体・心の六種類。

第二部は外部のアーヤタナ。形・音・臭・味・接触・心の概念の六種類。

第三部はヴィンニャーナ(識)。目の識・耳の識・鼻の識・舌の識・体の識・心の識の六種類。

第四部はパッサ(触)。目の触・耳の触・鼻の触・舌の触・体の触・心の触の六種類。

第五部はヴェーダナー(受)。目で生じる受・耳で生じる受・鼻で生じる受・舌で生じる受・体で生じる受・心で生じる受の六種類。

第六部はサンニャー(想)。受の後、その受の理解があり、彼らはそれをサンニャー(想)と呼びます。目のから生じる形の想・音の想・臭の想・味の想・接触の想・心の概念の想です。何と理解するかは、例えば受が生じ、触が生じ、ヴェーダナーが生じた時、そのヴェーダナーは何のヴェーダナーか。これが想の義務です。男性という受、あるいは女性という受、あるいは何の受でも、これをサンニャー(想)と言います。これが第六部です。

第七部はサンジェッタナー(思)。サンニャーの後、心の中で選別があることを形・音・臭い・味・接触・心の概念のサンジェタナーと言います。

第八部はタンハー(欲)。形の欲・音の欲・臭いの欲・味の欲・接触の欲・想念の欲。

第九部はヴィタッカ(尋。熟慮)。形のヴィタッカ・音のヴィタッカ・臭いのヴィタッカ・味のヴィタッカ・接触のヴィタッカ・概念のヴィタッカ。

第十部はヴィチャーラ(伺。熟考)。形のヴィチャーラ・音のヴィチャーラ・臭いのヴィチャーラ・味のヴィチャーラ・接触のヴィチャーラ・概念のヴィチャーラ。ここでのヴィチャーラは形・音・臭い・味・接触・心の概念の、最後の段階である考えです。

 可愛らしく喜ばしい六十の物が十部あり、それぞれ六種類で合計六十、たくさんです。しかしナックタム(僧の検定試験)の勉強をしたことがある人は簡単に憶えられます。

 内部のアーヤタナ(内処)、外部のアーヤタナ(外処)、ヴィンニャーナ(識)、パッサ(触)、ヴェーダナー(受)、サンニャー(想)、サンチェッタナー(思)、タンハー(欲)、ヴィタッカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)。合計十部で、各部が六あり、総計六十種類です。すべてがピヤルーパ、サータルーパ、愛らしい物、喜ばしい物です。何の愛らしい物、喜ばしい物かは、ウパダーナ(取)のです。簡単に憶えられます。これだけです。

 愛らしく喜ばしい物が六十種類。あるいは何百何千種類あっても、それはウパダーナの愛らしい物、喜ばしい物です。それが辛く苦く、悪臭がしても何でも、それはウパダーナが愛する物、喜ぶ物です。

 「自分、自分の物」と掌握すれば、それはすべてウパダーナ(取)なので、芳しさが悪臭を放つこともあり、美しさが美しくないこともあり、美味しさも不味いこともあります。嫌ってもウパダーナ、愛してもウパダーナなので、六十種の物はウパダーナが愛す物の範囲にあります。あるいは憎もうと愛そうと自由です。

 ウパダーナは俺の目・耳・鼻・舌・体・心、俺の形・音・臭い・味・接触・考えと執着するのが好きです。どの種類も俺の物で、悪臭も俺の物,芳香も俺の物、六識も俺の物、六触も俺の物、六受も俺の物、六想も俺の物、あるいは俺、六思も俺、あるいは俺の物、六欲も俺の物、六尋も俺の物、六伺も俺の物です。ウパダーナが愛す物、満足する物は、愚かさから生じた執着です。

 憎らしければ嫌うために執着し、愛らしければ愛すために執着します。このように執着するのが好きなので、これらの物をピヤルーパ=愛らしい物、サータルーパ=喜ばしい物と呼びます。

 欲望が生じれば、当然ここに生じ、身を埋める時は当然ここに身を埋めます。パーリ(ブッダの言葉である経)はこのように言っているので、その六十種類は欲望が生じる物、あるいは欲望が発芽する所です。まとめれば「この六十種類、六十全部が愛らしい物、欲しがらせる物なら、それはカーマタンハー(愛欲)を生じさせる」とまとめます。

 次にそれが好きでなく、愛らしくなければ怒りを誘い、憎しみを誘うので、ヴィバヴァタンハー(無有欲)が生じます。愛らしければ生きるよう誘うので、バヴァタンハー(有欲)が生じます。三つのタンハーしかありません。

 いっぱいあるピヤルーパ、サータルーパの全部が愛らしく、欲しくなれは愛欲が生じ、それが「なりたい」なら、名誉名声に関わるダンマーラマナなど、名誉名声がある人になりたい、より良い身分の人、大旦那になりたい、天人になりたい、富豪になりたい、何になりたいでもバヴァタンハー(有欲)です。

 次に愛らしくない状態ならヴィバヴァタンハー(無有欲)で嫌います。だから三つのタンハー(欲望)は六十種類のピヤルーパ、サータルーパから生じます。

 なぜブッダが六十種類もたくさんにしたのでしょうか、こういうのは、私も答えられません。大念処経の中では何でも必要以上にたくさん話しています。本当は形・音・臭い・味・接触・考えの六種類で十分です。この六種類に執着しなければ、どこにも何も生じる道はありません。

 今は六十種類全部執着できるように、形だけの時にも執着できるために、細かく分けることを目指します。識になっても執着でき、触になっても俺の触と執着でき、受にも執着できます。想、思、欲望、ヴィタッカ、ヴィチャーラまで、六十種類、全部執着できます。

 次に煩悩に関わる実践も、知らなければならない話です。先ほど「苦の話は、苦の原因と一緒に知らなければならない」と言いました。煩悩は苦の原因なので、私たちは「煩悩は苦を生じさせる原因」と正しく知らなければなりません。このように煩悩を正しく知ることは正しい見解です。

 だから結局この知識は、八正道の話の正しい見解に含まれます。そして煩悩を生じさせないよう注意するサティがあり、これは八正道の正しいサティに含まれます。だから煩悩に関した実践、サムダヤに関した実践は、それの顔を最高に良く知り、煩悩の容貌を知り、それの言葉を最高に良く知る努力をしなければなりません。これが実践項目です。

 四聖諦の三番目の苦滅諦、あるいは短く滅と呼ぶ物は、パーリに「ヨー タッサーイェーヴァ タンハーヤ アッセヴィラーガニローダ チャーゴー パティニッサッゴー ムッティ アナーラヨー」とあり、毎日唱えています。タンハー(欲望)の完全な消滅、タンハーを手放し、タンハーを返却し、タンハーに未練を残しません。タンハーの終わりをニローダ(滅)と呼び、タンハーの消滅、滅苦です。

 欲望の消滅を良く理解するために、二種類に分けることもできます。完全な消滅である、四聖諦の目的で本当に消滅することを「聖道で本当に欲望が消滅し、再び生じない」と言います。これが一つ。自然に消滅する普通の消滅、これが一つです。

 普通の消滅は、自然に消滅します。サンカーラと名がつけば何でも、維持できず、必ず消滅します。生じた苦も原因と縁が終われば、自然に崩壊します。消滅させる人は誰もなく、サンカーラ・煩悩・貪り・怒り・迷いの変化で消滅します。どこにも消滅させる八正道がなくても、原因と縁の変化によって消滅します。

 一時貪りが消滅し、一時怒りが消滅する。こういのを「変化させる原因と縁があり、変化するサンカーラの自然で消滅する」と言います。これを普通の消滅と言います。八正道での消滅ではありません。

 その時サティが生じて、「やや! 貪りが生じたよ」と恥に感じて、その貪りが消滅する。こういうのは、サティなどの原因や縁が生じたからで、八正道での消滅ではなく、自然の消滅です。だから私たちが消滅させなければならない、あるいは毎日しなければならない範囲にある欲望の消滅は、「サティがある」という消滅です。この欲望の消滅は、八正道で消滅する機会に至るまで休まず続ける努力をします。

 普段、日常的に休まずサティがあるように努力すれば、欲望、あるいは煩悩を生じさせなければ習慣になるので、幾らもしないで八正道が生じます。煩悩が生じないのは、常にサティがあるからです。

 次に煩悩が生じる習性が薄れます。生じる習慣がある煩悩の癖がどんどん薄くなります。将来のいつかある日、智慧が生じ、あるいはアリヤマッガニャーナ(聖道智)が生じて薄くなり、最高に薄くなり、二度と生じなくなります。だから今、私たちはそれを生じさせないようにしなければなりません。それが生じないよう、機会が生じないよう注意深くすれば、生じる習性が変化して、生じなくなります。

 それが生じないようにだけ注意すれば、煩悩は生じません。煩悩は太りません。煩悩が太っているのは非常に快適に生じる習慣があるからです。こういうのを「丸々太った煩悩」と言います。本当は初めから太っているのではなく、簡単に生じる習慣があるからです。私はそれを太った煩悩と言います。

 次に、それがしょっちゅう生じないようにすれば煩悩は痩せ、生じ難くなり、生じるのが遅くなり、生じる癖が少なくなります。実践項目はこのような秘訣があります。サティがあるよう努力して、煩悩が生じるのを防ぐことを増やしなさい。

 次にどんな理由でも、煩悩が生じなければ苦はありません。それは儲けです。まだ種が尽きなくても、煩悩のアヌサヤ(随眠)が尽きなくても、苦はありません。煩悩がない時は欲望も生じない時です。私は「まだ生じない」「煩悩欲望はまだ生じない」と言い直します。

 私たちはこの項目の利益があります。今心地よく座っているのは、煩悩欲望がまだ生じていないので、このように心地良いです。煩悩欲望が生じれば、途端に心地良さは無くなります。

 私たちは「煩悩が未だ発生していないこと」から利益を得、先ずこれを増やします。簡単にできるからです。それがまだ生じていない時はいつでも、それが生じないよう注意します。日常生活で自然になるのもあり、原因と縁がないから、煩悩がまだ生じないこともあります。煩悩は原因と縁がある時に生じ、原因と縁がないから生じないことは、一日にたくさんあります。

 良く見えるので、休まず責めてしまう方に偏らないでください。本当は自然に生じないのもたくさんあります。だからこれは、先ず確実に利益を掴みます。つまり欲望が生じない時は煩悩も生じず、私たちは爽快です。

 正しいタンマの実践、特にサティがあれば煩悩は生じません。ずっと、まだ生じず、どんどん生じなくなります。私たちにタンマがあるので煩悩は生じられません。それで空と呼ぶ状態、欲望が空っぽの状態が生じます。これは利益だけがあります。欲望が空っぽの状態は、どんな種類も利益しかありません。

 煩悩が空っぽの状態は、利益しかありません。欲望がまだ生じない空、欲望が生じないように管理している空、そして八正道が全部消滅させてしまう空、三つの空があります。ふさわしく暮らしているから生じない、普通に自然に生じないから空。こういうのもあります。何らかの念処の実践に専心しているから生じない空もあります。最後に八正道で煩悩が終わる、これも生じません。

 これを「三種類の煩悩がない状態はどんな種類でも、あるのは利益だけ」と言います。欲望が空になれば、なった分だけ聖人になります。アヌパーディセサブッガラ(無余依人物)である阿羅漢は、煩悩が残ってなく、欲望が残らないように、すっかり欲望を消滅させました。これをアヌパーディセサブッガラと呼びます。欲望が残っていない人は阿羅漢の方々だけです。

 サヌパーディセサブッガラ(有余依人物)、まだ欲望が残っている人、欲望が消滅してもまだ残りがある人は九種類あります。預流が三種類、一来が一種類、不還が五種類、合計九種類です。この九種類を「欲望を消滅させて、まだ残っている部分がある人」と呼びます。

 だから聖人とは他でもない、欲望を捨てる欲望に関わる仕事をしている人で、アリヤ(聖人)と呼びます。アリヤサッチャ(聖諦)がアリヤブッガラ(聖人)を生じさせるのは、この項目です。

  煩悩をなくす四聖諦は、阿羅漢の類の聖人にさせます。煩悩の一部を終わらせ、一部はまだ残る四聖諦は、預流、一来、不還などの聖人を生じさせます。要するに聖人は欲望を全部消滅させた人、あるいは聖人である部分に応じて消滅させた人です。

 欲望の消滅はあまり価値がなく、本当は滅苦に価値があります。欲望の消滅は滅苦ができるので、欲望の消滅にも価値があります。欲望を消滅させられるのは本物ではありません。「私の涅槃」と呼ぶことはできません。涅槃に到達すると自分がなくなってしまうので、心から自分が無くなって涅槃に到達するからです。だから心は「私の涅槃」と執着する機会はありません。

 まだ愚かなら「私の涅槃」「私が得た涅槃」「私が狙いをつけておいた涅槃」と、このように話すことはできますが、本当に心がその段階に到達すると自分がないので、自分の物になる涅槃はありません。涅槃は涅槃の物で、涅槃は涅槃にすぎず、自然にすぎません。すべての苦の消滅した物であり、俺でも、俺の物でもありません。

 だから滅諦に関わる実践は、何にも執着してはいけないという項目を知ることです。執着しないように注意すれば、ニローダ(滅)になり、次々に消滅します。執着すれば途端にサムダヤ(集。原因)になり、欲望がありウパダーナ(取)があれば、途端にサムダヤになります。欲望がなく、ウパダーナがなければ、途端にニローダ(滅)になります。

 実践するためにこの項目を良く知っておきます。実践するなら、この項目を知るまで良く学習しなければなりません。

 四聖諦の四番目は、マッガ(道)と呼ぶドゥッカニローダガーミニーパティパダーアリヤサッチャ(苦滅道諦)です。これは直接実践です。初めの三つはむしろ知る話で、実践なら知るための実践です。この段階になると本当に実践して煩悩を消滅させ、マッガ(道)、あるいはマッジマパティッパダー(中道)と呼びます。いろんな呼び方がありますが、要するにマッガ、滅苦の道です。

 次に実践の面からだけ話します。パリヤッティ(学習)の角度は前回たくさん話し、十分多いので、これ以上話しません。次は実践に必要な論理の面、欲望を消滅させる方法です。欲望を消滅させる道であるマッガは、ブッダの言葉の前にプラアーナンダの言葉を取り上げます。

 プラアーナンダが「タンハーに依存してタンハーを捨てる」と言ったのは、「欲望に依存して欲望を捨てなさい」という最高のヒト語、最高に人を信じさせる宣伝文です。

 タンマに強く執着する人は聞いて意味が分かりませんが、庶民は聞いて理解します。欲望に依存して欲望を捨ててしまう。それは別々の欲望です。欲望を捨てる道具に使う欲望は、善の側の欲望。欲望と呼ぶべきでない望みで、智慧から、明から生じる望みです。

 プラアーナンダはわざと欲望と呼びました。ブッダは欲望と呼んだことはありません。その善い願望を「プラアーナンダの欲望」と呼んで、そして苦を生じさせる原因である欲望を捨てる道具にします。

 この経の説明は「その男は、他の人はどうして実践できるのか。あるいは捨てられないのか。私たちも同じ人だから、自分もできなければならない。だからマーナ(慢)に依存し、タンハー(欲望)に依存し、この項目に依存して苦を消滅させてしまいたい」と、プラアーナンダがハッキリ説明した言葉があります。私たちは滅苦をしたいと望まなければならず、そうすれば滅苦ができます。

 私たちが滅苦を望まなければならない、滅苦の望みは、本当は欲望と呼ぶべきではありません。しかしここで庶民の言葉、愚かな人の言葉では欲望と呼びます。欲望に依存して欲望を捨ててしまい、タンハーに依存してタンハーを捨ててしまいます。しかし初めの欲望は良い望みで、悪を捨ててしまいます。

 だから誰でも欲望を捨ててしまう努力があり、望みがなければならないと準備しなければなりません。この願望による努力を「智慧から生じ、善悪を知る明から生じたタンハー(欲望)」と言います。望みが生じると、無明から生じた愚かな望みを捨ててしまいます。

 「欲望を消滅させる。初等の欲望を捨てる」と考えるのは、それを消滅させてしまいたいからです。次に欲望で欲望を捨てるのも同じで、無明を消滅させなければなりません。欲望を消滅させてしまう望みがなければなりません。

 あるいは無明が生じないように防ぐこともでき、サティがぼんやりしなければ無明は生じられません。これはあまり話されません。何の話ばかりするか知りませんが、「無明は生じたばかり、目が形に触れた時、耳が声を聞いた時に生じたばかり」という話はしません。

 無明はそこで始まり、四六時中生じているのではありません。間違って教えられた人は誤解するよう、無明は心に始終生じていると教えます。それは間違いです。

 ブッダは「それはサティがぼんやりした時に生じたばかり」と言われました。サティがない時に無明が始まり、無明の義務で仕事をします。目が形に触れるなどしたその時に、サティがぼんやりしていれば、すべての煩悩を加工して欲望ウパダーナにするために、無明が形作られます。

 だから無明を阻止するサティがあれば無明は生じません。欲望も生じません。あるいは無明が生じている時ぼんやりしていても、二番目のサティが駆け付ければ、無明が消滅し、欲望も消滅します。だからサティと呼ぶ物は無明の発生を防ぎ、今生じている無明を消滅させる物です。

 「欲望に依存して欲望を捨てる」という初めの項目はこのようです。欲望を消滅させたければ、それです、欲望を消滅させられるとまとめます。

 次は「欲望に依存して欲望を捨てる」という恐ろしい言葉ではなく、「八正道で暮らすことは正しい生活」と、別の言葉を使います。棘が刺さったら棘で抜く(目には目を)と言っても怖いです。本当は利益のある方法で、棘が刺さったら棘を二つ探して来て穿り出すことができますが、怖いです。

 「八正道で暮らす」は、常に八正道の実践をすれば、欲望は生じる術がなく、煩悩が生じる機会がなく、煩悩は命を養う食べ物がありません。八正道の話は何度も何度も話したことがあり、理解しています。正しい見解、正しい望み、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディはどのようでしょうか。

 そのような状態で生活すれば、欲望は生じる術がありません。それは完璧なサティであり、智慧であり、戒なので、その中で欲望は生じることができず、そして欲望を養う食べ物は何もないので、欲望、随眠は衰弱します。

 普通の欲望は生じません。欲望随眠は欲望の習慣なので衰弱して、衰弱して、ある日消滅します。だから欲望随眠が食べ物を得られないように暮らせば、それを生じさせないことです。それが生じなければ生じる習慣が消え、いつの日かなくなります。だから八正道で暮らせば欲望が生じる機会がなく、そして欲望を養う食べ物もありません。

 これをブッダは「正しく暮らす」と言われ、この世界に阿羅漢が欠けないようにする類の正しい暮らしです。人々がこのように暮らせばこの世界に阿羅漢は欠けません。それ以上に良いことは、このように暮らせば、この世界は安楽になります。殺し合う必要もなく、危害を加えることもなく、ほんの少し苦しめ合う問題もありません。

 聖道には八種類の正しさがあります。正しい見解・正しい望み・正しい言葉・正しい業・正しい生活・正しい努力・正しいサティ・正しいサマーディ、八つの正しさをまとめて一つにしたのがマッガ(道)です。

 だから「一人の人物が一つだけの物、つまり涅槃である滅苦に行くための一本の道」と言います。入れ替えることはできません。そしていろんな話、厄介なたくさんの道はありません。一つの話、一人の人物のための一本の道で、一つだけの物に向かって旅をします。これが八正道です。

 次にこの八正道をどのように実践するか、関心を持たなければなりません。しかし八つという数字を恐れて、怖気ないでください。本当は重要な項目は正しい見解、一つだけです。正しい見解があれば他の物は尻尾で、引っ張られてついて来ます。正しい見解を持ってください。そうすれば残る七つは同じ房のように引っ張られてくるので、多いと心配しないでください。正しい見解を持つことだけを成功させてください。

 間違った見解を持たないでください。誤解をしないでください。正しく理解すれば、自然に滅苦の道を「好き」になります。そして実に簡単です。そうでなければ難しく不可能と感じます。正しい見解が十分でなければ「これは難しい。これは不可能だ。庶民に話してはいけない」と考えます。しかし正しい見解が十分なら、可能な範囲に、できる範囲にあると見ます。

 ブッダは「人にできないことは話さない」と、このように主張されました。そして私たちも「ブッダは人ができないことを話して時間を無駄なさらない」と、このように信じるべきです。だから私は、正しい見解の話と、四聖諦の重要な物である八正道の実践である、正しい見解を初めに話します。正しい見解という言葉にたくさん関心を持ってください。

 直接正しい見解は、大原則で、最高に重要な基礎である四聖諦の話の知識です。だからこの四聖諦の話を正しく、明瞭に、全部知らなければなりません。そうすれば正しい見解になります。苦とは何か、苦を生じさせる原因は何か、滅苦とは何か、滅苦に至らせる道は何か。それは四聖諦の話を知ることに戻って来ます。

 これが最高に重要な正しい見解です。問題は滅苦をしたがるからです。滅苦をする話だけしかないので、苦の話を知り、苦が生じる原因を知り、苦の終わりの状態の話を知り、そしてその状態に至らせる道の話を知らなければなりません。だからこの四つの話は正しい見解のための重要な話です。

 次に正しい見解という言葉は、この利益に関わるどんな話も、全部正しい見解と言います。

 正しい見解の一番目は、四聖諦を良く知る。 

 正しい見解の二番目は、三相の話、無常・苦・無我を良く知る。

 すべてのサンカーラ(行)は無常であり、苦であり、すべてのタンマ(物)は無我です。私たちは毎日唱え「すべてのサンカーラにあるのは、絶えず変化することだけ。原因と縁で経過するから」としらせています。すべての物、すべてのサンカーラ、そしてサンカーラでない物も無我で、自分、あるいは自分の物になる部分はありません。自然であるだけです。

 正しい見解の三番目は、カンマとカンマの終わりの話を良く知る話です。カンマの話は善いカンマ悪いカンマで、誰がどんなカンマを作っても、その人はそのカンマの結果を受け取らなければなりません。これを「カンマの話はカンマの成り行きになり、カンマの威力下にある」と言います。

 その次はカンマを終わらせる三番目のカンマ、つまり煩悩を断つことができる聖道で、すればカンマの終わりが生じ、残るカンマは何もありません。この話を知って明らかに理解すれば、カンマの終わりが生じ、いろいろ詳しく「カンマとカンマの終わり」という前回の講義でお話しました。

 正しい見解の四番目は縁起です。詳細は次回の講義でお話します。実践の教えは何もありません。重要な意味は「智慧で明らかに理解して、すべての物はそれだけでは経過できず、いろんな物が変化させることに依存しなければならない。互いに依存し合って変化し、単独の物、それだけで経過できる物は何もないと見ること」です。

 「この身体はご飯とおかずに依存し、天候に依存し、色んな用具に依存して維持することができ、毎日生きることができる。単独で独立している物は何もない。苦も同じで、原因、あるいは関わる縁に次々と依存しなければならない」というように見ます。

 無明がサンカーラ(行)を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ、名形が六処を生じさせ、六処が触を生じさせ、触が受を生じさせ、受が欲望を生じさせ、欲望が取を生じさせ、取が有を生じさせ、有が生まれることを生じさせ、生まれることが苦を生じさせます。

 単独で生じられる物、あるいは単独で存在できる物、あるいは変化しないで終止できる物は何もありません。こういうのを縁起と言います。この話を明らかに理解すれば、最高に正しい見解です。

 話したい最後の話である正しい見解の五番目は、正しい見解、精神面の柔道である、空の話です。一度で苦が残らなくする、空の話です。空の話を理解すれば最高に正しい見解で、すべての物に俺、俺の物はありません。

 このすべてを、人を世界より上に行かせるロークッタラ(出世間)の正しい見解と言います。世界の中を輪廻させるローキヤダンマ(世俗)の側の正しい見解なら、善と悪に執着し、徳と罪があり、地獄と天国があります。善行をしても天国へ行くだけ、悪をすれば地獄へ行きます。これも輪廻です。

 良い輪廻をするための正しい見解は、苦から完全に脱出できません。楽しく陶酔する世俗的なスッカヴェーダナー(幸受)を受け取り、いつか美しく生まれ、金持ちに生れ、良い身分に生れ、天人に生れ、富豪に生まれるだけで、ここだけを輪廻しています。両親や先生の恩を消さないことも含めます。

 これを、初等のレベル、基礎レベルの正しい見解と言います。しかし高い正しい見解はこれらを辞退します。これらの中を輪廻することを受け入れないので、四聖諦を知る、三相を知る、カンマの話を知る、縁起の話を知る、空の話を知る正しい見解になります。

 要するに、出して涅槃へ行かせる側の正しい見解が一つと、良いレベルの輪廻をするための正しい見解がもう一つです。

 一方の四聖諦の話は、良い輪廻をするための初歩の低い正しい見解を欲しがりません。八正道の正しい見解はすべての苦から出させたいので、四聖諦の話に言及します。だからこのような正しい見解があれば心配ありません。本当にあってください。そうすればそれが他の物を全部を引っ張って来ます。

 私たちは、正しい見解を持つと同時に、望みも必ず正しくならなければなりません。正しい知識があるので、間違った望みになる余地はないからです。正しい見解があれば話すことも正しくなります。心に従って話すので、心に正しい見解があれば口も正しく話し、体も正しく仕事をし、生業も正しく、努力も正しく、サティ、サマーディも同時に全部正しくなるからです。

 しかしサマーディはもう一つの義務を行い、正しい見解の力を強くします。だから八正道は完璧で、一本道、一つの道、聖道と呼ぶ種類のマッガ(道)です。

 このように理解すれば、いろんな話でなく、道標のような正しい見解にだけ関心を持つので、羅針盤を持っている船長のように正しく航海でき、道に迷いません。大昔、人が磁針を知る前、彼らは鳥の一種を飼育し、海の上で方向を知るために使いました。それは何もないより良いです。

 八つの正しさが全部揃っていれば、「八正道で暮らせば世界に阿羅漢は絶えない」と言います。つまり何も「俺」「俺の物」と執着しないで暮らします。これが八正道、あるいはマッガと呼ぶ実践です。正しく知り、正しく理解し、そして正しく信じます。サッダー、正しい信仰はこの項目に含まれ、間違った信仰はこの項目には関わりません。正しい信仰は正しい見解に含まなければなりません。

 この話をまとめると、四聖諦は不可能な話、あるいは一部の人のためだけに遠くにある話と理解しないでください。どうぞ「誰にでもある、そして誰にでも既にある」と理解を改めてください。「誰にでも既にある」という言葉を使いました。四聖諦は誰にでも既にあり、すべての人の中で生じては消え、生じては消えています。

 一時苦があるのは欲望があるからで、一時欲望が消滅し、苦も自然に消滅します。あるいはサティがあって気づくことができれば、欲望が消滅し、苦が消滅します。こういうのは、ある日ある晩、既にあります。初めに例を上げて聞かせたように子供にもあり、若者にもあり、大人にもあり、年寄りにもあります。

 だから四聖諦は誰でも日常生活に本当にある話で、背丈二メートルばかりの身体の中に四聖諦が全部揃っていると定義します。おまけに二メートルに届かなくても、つまり二メートルに満たない子供でも、この四聖諦が既にあります。

 ブッダは普通の言葉で、普通の言い回しで、「背丈二メートルの身体の中に」と言われました。大人の中には二メートル以上の人も、二メートに届かない人もいますが、これは大人という意味です。

 しかし子供が物事を弁えるようになれば、四聖諦が生じては消えている領域内になります。良く探して見ください。四聖諦を知って実践すれば、誰でも苦はありません。知らない人は実践できず、実践しなければあるのは必ず苦だけです。

 次は義務になりました。どうぞ憶えておいてください。義務とは①知るべき部分である「ドゥッカ(苦)」の話は知らなければならない。②捨てるべき物である「サムダヤ(集)」は捨てなければならない。③明らかにしなければならない部分である「ニローダ(滅)」を明かにしなければならない。④生じさせなければならない部分である「マッガ(道)」を生じさせなければなりません。

 逆に言えば、苦は知るべき物、サムダヤは捨てるべき物、ニローダは明らかにするべき物、マッガは生じさせるべき物です。私たちはテストしなければなりません。話はどのようか、どのようにしなければならないか、それをし終えたか、チェックする物があります。

 これが「それはどのようか知っているか、それをどのようにしなければならないか、それをし終えたか」、自分で計る道具です。ブッダは、自分は四聖諦があるかどうか教える知識である「四聖諦に関わるニャーナ」と言われました。

 これを「誰でも必要な話で、できる範囲にあり、そして試して見ることができる」と言います。「ない」とか「不可能」と理解しないでください。だから四聖諦の話をするなら、彼らは好んで、後押しする一つの話をします。

 つまり滅苦があると信じようとしない人の話です。ここに座っている人も、自分は滅苦ができると、あるいは滅苦があると信じようとしない人がたくさんいるように見えます。

 つまり不可能と見てしまいます。あるいは涅槃は人間に可能な領域にあると信じません。これは物質主義者で、知っているのは自分の目・耳・鼻・舌・体・心で触れられる物だけです。

 彼らは次のように話ます。亀と魚が出合って友達になり、そして時々会いました。魚が亀に「ここしばらく、どこへ行っていたんだい?」と聞くと、亀は「陸へ行って美しい物にたくさん会った。美味しい物ばかりで愉しかった」と答えました。魚は陸という言葉を初めて聞き、陸とは何かを知らないので、陸とは何かしつこく質問すると、亀は亀の知性で「それは何か」を説明して魚に理解させました。

 例えば亀が「陸は固くて歩くことができる」と言っても、魚は「陸は固くて歩くことができる」と理解できません。魚には足がなく、陸へ上ったことがないからです。そして魚が「私が陸を歩いたら、掻き分けて私の鼻を通してくれるかい?」と愚かな質問をすると、亀は「できないよ。陸はそんなことできない」と答えました。

 魚が知っているのは水の話ばかりで、質問は水のような問題ばかりで、亀は「できない」と答えます。次に魚が「この嘘つき! 本当でないことばかり話す」と怒ってしまい、絶交しました。

 ね、注意してください。陸である涅槃があると知らず、信じようとしない人は、話して聞かせる人がいると「狂っている」と言います。だから話す必要はありません。これが「四聖諦の話は庶民には関わりがない。四聖諦は聖人を涅槃させためにある」と言う人です。その人は四聖諦は庶民に関わると信じたがらないので、陸を知らない魚と同じです。

 どうぞ不注意にならないで、「滅苦は本当にある。涅槃と呼ぶ物は本当にある。そして四聖諦の系統で正しい実践をすれば、到達できる範囲にある」と信じてください。

 さて、これで終わります。




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