8.涅槃に関わる実践原則



1971年5月22日

 タンマにご関心のある善人のみなさん。今日の講義はみなさんも良くご存知のように、涅槃に関した実践と題してお話します。涅槃に関した実践原則というのは、今日は実践原則についてだけ話すという意味で、涅槃に関した話はマーカブーチャー期に一度詳しく話したことがあるからです。

 なぜ涅槃についての話をしなければならないのかと聞かれれば、それは仏教から本当に結果を受け取る利益ためです。実践できないと言うなら、それは知識しかないから、知っているだけだからです。その知識が実践にならなければ、プラタム(ブッダの教え)は誰も援けることはできません。だから不注意にならないためにこれを理解しておいてください。

 実践がなければ知識は不毛、仏教の知識は不毛です。涅槃の話は仏教から受け取る結果である唯一の話で、涅槃と呼ぶものがなければ仏教には何も利益がなく、あるいは不毛と言うことができます。もっと広く述べれば、誰に反論されるのも恐れずに「涅槃と呼ぶものがなければ、すべての人間が宗教を持つことも不毛」と言うことができます。

 これを、涅槃と呼ぶものとはすべての宗教があることの結果と言います。他の宗教は涅槃と呼ばなくても、その宗教の実践の結果であるものは、本当は今私が涅槃と呼んでいるものです。

 涅槃と呼ぶものがなければ、道徳の状態でも、宗教と呼ぶものは必要ありません。涅槃と呼ぶものは道徳レベルの宗教にもあるからです。人は良く、道徳レベルは涅槃には関係ないと区別し、どこでも「涅槃は道徳より上にある」と、このように話します。これは道徳という言葉の意味が少なすぎ、あるいは涅槃という言葉の意味が多すぎて一致しません。

 正しく言えば、道徳と呼ぶものの限界は、涅槃である結果があるまで高くなるべきです。そして涅槃は何重もの意味があり、道徳と呼ぶものの結果まで広くすることもできます。心して聞いてください。これからこの話について熟慮します。

 それ以上に涅槃と呼ぶものは誰も知らないようにあります。別の言い方をすれば薄幸で名誉がないと呼ぶものがあり、本当は誰もが一日一日生き延びているのも、いずれかのレベルの涅槃と呼ぶもののお陰です。このレベルの涅槃がなければ人は狂わなければならず、少なくとも神経の病気になるので、涅槃と呼ぶものにはどのように広い意味があるか、これから熟慮して見ます。


涅槃の意味
 涅槃という言葉の文字の意味は熱さがなくなる、あるいは熱さが消えるという意味です。消えるとは、熱さがあるものの消滅で、熱さがなければ何が消えるか、消えなければならないものは何もないので、消滅があると言えば熱いもの、あるいは火の消滅でなければなりません。これが火の消滅、あるいは苦の消滅で意味は同じです。

 次にパーリ語の文字の涅槃は広い意味があり、熱を消滅させる物としての涅槃でも良く、熱が消滅した国、地域でも良く、消滅する行動でも良く、涼しさ、つまり消えて涼しくなった、このような消滅の結果でも良く、どれも全部涅槃と呼びます。パーリ語はこのように奇妙な意味がある言葉で、一つの言葉、一つの語形で、幾つもの意味があります。

1 消滅させるものである涅槃は、涅槃を生じさせるために私たちが実践しなければならないものに注目するので、涅槃は煩悩が生じないため、苦の発生がないため、正しく生きるために実践しなければならないものを意味します。私たちが実践しなければならない「すべてに慎重にすること」を「涼しさを生じさせるために実践しなければならないもの」と言います。

 涼しさが生じれば熱さは消滅するので、これらの実践は熱さを消滅させるものです。これは消滅させるものである涅槃は、苦を生じさせないために人間が実践しなければならないものに注目します。これが熱さを消滅させるものである涅槃に関心を持たなければならない最高に重要な部分です。

2 次は国である涅槃で、これは人間が到達できる、あるいは人間の心で感じられる自然の状態の一つ、あるいは一種で、これは知らなければならない、あるいは知っていなければならないものとしてあります。これをサバーヴァダンマ(常態)と呼ぶのは、在る物、自然にある物という意味で、誰も到達しない時、あるいはまだ現せない時は無いように見え、誰かが正しく実践して、その国、その地域、あるいはその状態に到達すれば「滅苦の国」というちょっと気の利いた言い回しになり、滅苦の状態は自然にあります。

 それは「私はそれを作った」という理解が生じるのを防ぐためで、私たちは自分で涅槃を作れると、あるいは涼しさを作れると、あるいは何かを作れると捉えず、涅槃は自然にある物です。私たちが話を一致させれば、それは人間の心に現れ、これを「心で感じることで人間が到達でき、そして心で到達しなければならない自然にあるサバーヴァダンマ(常態)」と言います。

 このように苦が滅した国である状態の涅槃は、時にはニッバーナダートゥと呼ぶこともあり、つまりニッバーナのダートゥ(元素。もの)で、ニッバーナでないダートゥが消滅したものであるダートゥという意味です。このダートゥはいろんな種類があり、ニッバーナダートゥは他のダートゥが消滅した物を意味します。

 ブッダは「アッティ ビッカヴェー タダーヤタナン ナ アーポー ナ テーチョー云々」と長々と言われていて、「比丘のみなさん。そのものはあります」、つまり「土でなく、水でなく、火でなく、風でなく、空でなく、識でなく、無所有処でもなく、非想非非想でなく、この世界でもなく、他の世界でもなく、太陽でもなく、月でもなく、行くでもなく、来るでもなく、停止しているのでもなく」、このように何でも全部否定され、「しかしそれはあり、そしてそれが苦の消滅であり、苦の終わりです」と短い要旨があります。

 こういうのは、ブッダはニッバーナダートゥ、あるいは苦が消滅した国に注目している。これが誤解されているか誤解でないかは、ニッバーナマハーナガラ(涅槃大都)、あるいはナガラニッバーナ(涅槃の都)と呼ぶ国や都など仮定次第です。これをブッガラディターナ(人物を主体に)で話すと言い、深遠な理解ができない人のために一つの国や町や世界のように話し、その世界へ行って住むために実践する努力をさせます。

 本物で言えばサバーヴァダンマであり村でなく、国でもなく、世界でもなく、実践が正しくふさわしく、全部揃っている時現れる心の状態の一つです。ブッダはこれを一つのアーヤタナと呼ばれていますが、目・耳・鼻・舌・体・心のアーヤタナ、あるいは形・音・臭・味・接触・考えのアーヤタナではなく、それ(涅槃)は原因がなく、縁がなく、ヴィサンカーラ(無為)であり、涅槃であるアーヤタナで、それでもそれは「もの」「在る一つのもの」と呼ばなければなりません。

 涅槃をアーヤタナと呼ぶのは、人間が感じることができるもの、あるいは人間の心で感じることができるものなので、だから同じアーヤタナと呼びます。しかしそのような外部のアーヤタナ(外処)、内部のアーヤタナ(内処)と混同しないでください。これを「消滅する場所である涅槃」と言い、そこへ行ったものは何でも必ず消滅します。

3 消滅する行動である涅槃は、聖道が煩悩あるいは煩悩の習慣を消滅させた時にあり、煩悩と呼ぶものは煩悩の習慣ほど重要ではなく、煩悩は時々感情が触れた時生じ、そして煩悩が生じる習慣は始終あるように、煩悩が生じる習慣が増大します。

 本当は煩悩は始終ある訳でなく、餌あるいは感情を手に入れた時生じますが、煩悩が生じる習性は常にあります。餌を得た時はいつでも機会を得、機会があればいつでも生じる習慣があるので、防ぐ間もなく急に生じ、あるいは生まれます。これです、非常に重要で、非常に危険なのは。

 次にアリヤマッガ(聖道)、あるいはマッガニャーナ(道智)が強烈にあり、生じようとする煩悩の習性を消滅させるほどなら本当の消滅で、本当の涅槃と呼べる種類の滅苦で、明らかにして知らせ、この消滅を現れたものにしなければなりません。「それはこうだ、ああだ」と知っているだけなのは使い物になりません。煩悩あるいは煩悩の根、あるいは煩悩が生じる習慣の消滅があるようにしなければなりません。

4 煩悩が消滅した結果である涅槃は煩悩の消滅を現すので、涅槃と呼ぶものから利益が得ることができます。それは消滅させるものに関わりがあり、消滅させるものがあれば、それを使って消滅を生じさせることができ、正しい方法ですれば消滅である結果が現れ、それも結果があります。これが結果である涅槃、つまり涼しさであり、煩悩と苦の消滅から得た結果であり、現世で生きているうちに得る結果です。

 「涼しさ」というのは比喩の言葉です。タンマの言葉はどの言葉も庶民が使う言葉を借りたもので、例えば「熱さ(暑さ)」は煩悩の名前に使い、涼しさは涅槃の名前に使いました。庶民が知っている言葉、意味を良く知っている庶民の言葉を宗教の世界の言葉に使って宗教の言葉が生まれ、同じ言葉でも別の意味があり、少なくとも意味が分かれました。

 庶民の言葉は物質的な意味で、暑い涼しいなど、こういうのは身体面の熱さあるいは涼しさですが、宗教の言葉の暑い涼しいは心の面、識の面を意味します。そしてより本当の涼しさです。

 要するに涅槃は少なくとも四つの意味があり、消滅したもの、消滅する国、消滅すること、そして消滅の結果である涼しさです。そして最後の涼しさこそ私たちが求めるもので、それ以外は私たちにとって何の意味もありません。それが涼しさを生じさせなければ、誰も欲しがる人はいません。だから涼しさは仏教の実践から受け取るべき幸福、あるいはすべてのレベルの苦がないことを意味します。


涅槃の道
 次は涅槃の道についてお話します。「涅槃の道」と言えば多少安全ですが、「涅槃への道」と言えば曖昧になり、あまり安全ではありません。涅槃は行く必要がないからです。

 ブッダが「行くのでもなく、来るのでもなく、止まっているのでもない」と言われているように、行くことがあれば涅槃ではありません。涅槃は正しい行動があり、正しい実践がある時に現れる一つの状態で、行く必要も来る必要もなく、そこに止まっている必要もありません。

 これは注意しなければならない言葉で、「行く」は何かを訪ねて行き、「来る」は何かを訪ねて来、「止まる」は何かに張り付いて、どれも使い物になりません。執着があるから行き、あるから来、あるいはどこかに止まり、その執着が消えてしまえば行くことはなく、来ることもなく、どこかに止まることもないので「脱出」と言います。これを仮定で「涅槃の道」と言います。

 涅槃の道をマッガと呼びます。マッガとは道という意味ですが、心の道が何を意味するかによってアリヤマッガ(聖道)と呼んだり、アッタンギカマッガ(八正道)と呼んだりします。八項目がある道、アッタンギカマッガ(八正道)と呼ぶものは涅槃の道です。

 そのように実践していれば涅槃が現れるという意味で、涅槃へ行く、あるいは涅槃へ行くための道と言う必要はなく、涅槃に至らせる道と言わなければなりません。曖昧さを生じさせないために別の言い方をすれば、「心に涅槃を現わす実践」と言わなければなりません。

 八つがある道を全部揃えて正しく適宜に実践すれば、涅槃がその実践者の心に現れます。八つがある道とは八つの正しさという意味で、

 サンンマーディッティ=正しい見解と呼ぶ見解の正しさ、
 望みの正しさをサンマーサンカッポー=正しい考えと言い、
 言葉の正しさをサンマーヴァーチャー=正しい言葉と言い、
 体の行為の正しさをサンマーカンマントー=正しい業と言い、
 生活の正しさをサンマーアーチヴォー=正しい生活と言い、
 努力の正しさをサンマーヴァーヤーモー=正しい努力と言い、
 心の維持、感覚や考えの正しさをサンマーサティ=正しいサティと言い、
 サマーディがあること、つまり心の安定の正しさをサンマーサマーディ=正しいサマーディと言うと、理解を復習させていただきます。

 八支と呼ぶ合わせて八つの正しさを合わせると、涅槃と呼ぶ滅苦に至る道になります。アッタンギカマッガ(八正道)、あるいはアリヤマッガ(聖道)という言葉には、このような意味があります。

 次にこの八つのうち、最初のは先導者のように非常に重要で、サンマーディッティ(正しい見解)と呼び、見解、あるいは理解、あるいは知識、信仰、何でもこの項目に含まれると良く見てください。

 そしてディッティと簡単に呼ぶのは正しい見解です。正しい見解があれば、その他は自然に正しくなるので、正しい見解は先導する先頭のものとして重要です。涅槃の場合の正しい見解と呼ぶものは、その正しい見解がどんな考えの方向に重くなるかで分類することができます。

 この正しい見解は、例えば無常を見ることに重さがあり、そして涅槃に到達すればアニミッタニッバーナ(無相涅槃)で、苦を見ることに重さがあり、そして涅槃に到達すればアッパニヒタニッバーナ(無願涅槃)で、無我を見ることに重さがあり、そして涅槃に到達すれば、スンニャターニッバーナ(空涅槃)に分類することができます。

 この涅槃は同じ意味があり、つまり涼しいものですが、実践者、あるいは見る人のいろんな方向から生じることができます。ある人は無常を見るのが得意で、無常を見ると倦怠と欲情の弛緩が生じ、そして涅槃になる、これはアニミッタニッバーナで、あるのは無常だけで、そして絶えず流れていくので、欲情は何もないという意味がある涅槃です。

 しかしある人は結果として倦怠、欲情の弛緩を生じさせるくらい最高に苦を見せる環境があり、涅槃に到達すれはアッパニヒタ(無願)である涅槃と言い、つまり心が掴まる居場所がなく、どこに掴まっても苦があるので、掴まる場所、立つ場所がありません。

 次に無我を見るにふさわしい人は誰でも、何もかも自分、あるいは自分の物と執着するべきでないと、このように倦怠と欲情の弛緩が生じて涅槃に到達します。この種の涅槃を、空に依存し、空を見ることを基礎にし主とする涅槃、スンニャターニッバーナと名付けます。

 述べた理由で、この涅槃の道はその人の心がどのようか、何から始めるに相応しいかによって、無常からでも、苦からでも、無我からでも始められると言います。それはそのような出発の生じさせ方次第で、「資質次第で」と言います。この段階では、正し見解が先導者としてある八つの道の実践があるとだけ知ります。

 正しい見解は無常に依っても良く、苦に依っても良く、無我に依っても良いです。本当は無常・苦・無我の三つは分けませんが、見る人は一つの角度、一つの面、一つの部分だけ見ても良いです。だから無我を見ること、苦を見ること、無我を見ることを重視するのもあり、述べたように資質次第です。

 これを、涅槃に至らせる道は行く必要がなく、来る必要もなく、どこにも止まる必要もなく、正しさを全部揃って生じさせるだけで、涅槃と呼ぶものが現れると言います。


涅槃の種類
 次は涅槃の種類がハッキリ見え、そしてどのように実践するか学習するのに便利なように、涅槃の種類について話します。

 ここでは涅槃という言葉は何種類も、あるいは幾つものレベルがあると理解してください。「煩悩が滅し、阿羅漢になった時が涅槃」とだけ理解しないでください。それは本当の涅槃、永遠の涅槃で、まだそこまででない涅槃もあり、同じ味があるので、私は全部涅槃と呼びます。

 商品見本と実物の商品は同じでなければなりませんが、その商品見本は短い機会のために一種類しかありません。涅槃の見本も商品見本と同じで、涅槃の味見もありますが、どの種の涅槃も同じ味でなければなりません。良く聞いてください。次に私は涅槃を実践の便宜のために三つの段階に別けます。

1 タダンガニッバーナ(偶発涅槃)と呼ぶ涅槃は、そのものの偶然による涅槃です。この種の涅槃はその要素の偶然によって現れ、何であってもほとんどは私たちの外部のもので、人物、場所、雰囲気でも何でも、偶然が一時、心の煩悩を空っぽにし、その時をタダンガパハーナと呼び、一時的な、味見の、見本の涅槃です。そしてその状態は要件の偶然によって心に現れ、タダンガニッバーナ=それの偶然による涅槃と呼びます。

2 ヴィッカマバナニッバーナ(強制涅槃) 心を涅槃の味のある状態に支配することで現れる涅槃は、心を定と呼べるくらいサマーディにした時、涅槃の味、つまり妨害する煩悩がないことの味が現れるという意味です。定に至らないサマーディをしても心は静かになり、同じ状態の幸福を感じますが、定に至れば静かさも強くなるだけです。それをヴィッカマバナニッバーナと呼び、時にはヴィッカマバナヴィムッティ(強制解脱)と呼ぶこともあります。

 ヴィムッティと呼べば脱出できたという意味で、ニッバーナと呼べば消滅して冷えたという意味です。ヴィッカマバナは支配する、あるいは心を支配して涅槃の味を生じさせる、義務をする状態に支配しておくという意味です。つまり定の時支配することができ、そして支配できる心は味、つまり涅槃である静涼さを生じさせる種類の心があるようにします。こういうのをヴィッカマバナニッバーナ=支配することによる涅槃と言います。

3 最後はサムッチェダニッバーナ(真正涅槃)、一時的な涅槃でない本当の涅槃で、煩悩がサムターナ(原因)と一緒に本当に絶滅して心に現れた涅槃です。煩悩と、煩悩を生じさせる原因と縁、あるいは煩悩が生じる習慣も消滅します。こういうのは本当の涅槃、最高の涅槃で、見本の涅槃、味見の涅槃、一時的な涅槃ではありません。

 初めの二つは一時的な涅槃で、偶然のは時々で、支配するのも時々です。これは永遠ではなく、見本、あるいは味見ですが、最高に利益があり、時々味見をしていれば習性になり、本当の涅槃に到達することに満足を生じさせる縁になります。

 初めの二つ、つまりタダンガニッバーナとヴィッカマバナニッバーナは良く変わる信頼できないものなので、クッパダンマと言います。クッパダンマとは「悪化することがある」という意味で、後の二つはアクッパダンマで悪化することはありません。

 三種類の涅槃に関したこの規則は「心は純潔」という言葉を思い出させます。心は自然では純潔で煩悩がなく、煩悩で憂鬱になっていません。元々の心は純潔で輝いていますが、煩悩が生じれば憂鬱な心になり、純潔でなくなります。

 普通に純潔な心は、通常の私たちのように煩悩が介入できる種類の純潔な心がありますが、最高に実践すればその純潔は永遠で、煩悩は介入できません。これが本当の涅槃で、それ以外は一時的な涅槃です。

 この三種類の涅槃は同じ味があり、心を妨害するもののない空っぽの味も同じで、義務も同じで、涅槃はその時煩悩に心を妨害させないと理解してください。涅槃の時はいつでも、涅槃が煩悩の妨害を防いでいるので幸福で、心を妨害するものが何もなければ涅槃の味、つまり涼しさが生じます。

 見本の涅槃、一時的な涅槃、どんな涅槃でも涼しい状態があり、同じようにその時煩悩の妨害を防ぐことができます。だからこの状態にしておきましょう。厳密でなくても、厳格でなくても、レベルが違っても同じ味があります。

 タダンガニッバーナは偶然に、偶々生じ、多少下品な言葉で言えば「まぐれ」で、自分も意図していないまぐれの涅槃で、偶々ふさわしい環境にいるだけ、何かしているだけ、何かを考えているだけで、煩悩の妨害を防いで空になるまぐれの話です。

 ヴィッカマバナニッバーナ(支配涅槃)なら体も言葉も心も管理して注意し、いろんなものを常に正しくするよう意図して静かな心にします。これが生じさせることです。

   サムッチェダニッバーナは私たちが生じさせることはできません。できるのは正しく実践し、涅槃と呼ぶものの自然で、煩悩の終わりであり自然にある状態を現わさせるだけです。だからこのように違いのある規定をします。

 良く暮らすことで、生じ易い場所にいることで、まぐれの涅槃が簡単に生じます。あるいは最高に本当にすれば、つまり心を管理して煩悩を生じさせなければ、これを「それを生じさせた」と言います。しかしその煩悩の終わりは、すべての自然の中にある一つの自然と見なし、できるのは心に現すだけで、そして心を覆っているものを全部開けてしまえば、心がそれに触れます。

 これは仮定の話で、あるいは例えで話せば、蓋でも何でも閉めてある物を開けてしまえば、光や空気が私たちに届きます。私たちができるのはこれだけです。

 理解を復習させていただくと、文字あるいはそのようなものでの涅槃は、以前、マーカブーチャー季に「涅槃は涼しさのことで物質に使うこともでき、物質の涅槃、畜生の涅槃もあり、そして人の涅槃、仏教の人と仏教以外の人の涅槃もある」とお話しました。仏教にもいろいろあり、このように三種類もあり、熱いものが冷えれば物質の涅槃と言います。畜生を良く訓練して、害がなく、心配がなく、どんな危険もなくなればその畜生の涅槃と言います。

 次に仏教以外の涅槃は、最高の欲情を涅槃とした一時代もあり、その後定やサマーバッティを涅槃にし、最後にブッダが生まれて煩悩の終わりを涅槃にし、そして良く暮らして偶然生じさせる方法もあり、あるいは煩悩が生じて妨害しないように心を良く管理でき、あるいは煩悩を根こそぎ断つこともできる、これが仏教の涅槃です。だから今はそのように詳しく話さないで、実践面だけを話します。


すべての人の日常生活の中の実践面の涅槃
 「誰でも」という言葉は女も男も、在家も出家も、子供も大人もという意味なので「誰でも」という言葉を使います。だから誰にでもできる範囲にあり、そして日常生活にある三つの状態の涅槃は、日常生活の中で常に実践していなければなりません。このように述べれば次のような大原則があります。

1 タダンガニッバーナ(偶発涅槃)、つまり偶然の涅槃を望むなら、環境周辺にあるすべての物を正しく相応しく調整なさい。自分の周りのすべてを正しく、相応しく処理、あるいは調整、言い方次第ですが、そうする賢さがなければなりません。このような状況にいれば、タダンガニッバーナと呼ぶ種類の涼しさが最高に簡単にひょっこり現われます。このように庶民の下品な言葉を使うのは時間の節約のためで、それはまぐれのように不思議と言うように自然に生じます。

2 ヴィッカマバナニッバーナ(支配涅槃)については、特に定に至らせる結果を出すサマーディの練習をする努力をしなければなりません。どう訓練するかは、以前のサマーディヴァタラ(サマーディの勤め)の講義の部分で最高に詳しく話したので、その講義あるいはその説明を思い出してください。印刷して本にしたのもあります。

 ヴィッカマバナニッバーナが欲しければサマーディがあると言えるくらいサマーディの練習をし、ウパチャーラ(近行)サマーディだけでも結果がありますが、アッパナー(素晴らしい)サマーディだけで良いなら確実で、「私たちの威力下にある。自分で支配できるニッバーナがある」と言います。ウパチャーラサマーディだけなら管理し難く、管理できない時もあります。

3 次にサムッチェダニッバーナ(真正涅槃)、つまり煩悩の根をすっかり破壊する類の涅槃が欲しいなら、述べた八正道で実践しなければなりません。ブッダが「サチェー メー ビッカヴェー ビックサンマー ヴィハレユ アスンニョー ローゴー オラハンテヒ アッサ=これらの比丘が正しく暮らすなら、世界に阿羅漢は欠けません」と言われたように、まとめて「正しい生活」と言います。ブッダは「正しく暮らす」「正しい暮らし」とだけ言われていますが、正しい見解などがある八正道を意味しています。

 次にもう一つ「どんな場合も慎重にする」とまとめることもできます。「スッバッタ サムヴトー ビック アッバドゥッカー パムッチャティ=比丘がどの場合にも慎重なら、当然すべての苦から脱す」とパーリにあります。どの場合にも慎重というのは、ここでは戒の話でなく、戒よりたくさん、サマーディも智慧もあります。

 つまり目・耳・鼻・舌・体・心に良いサティがあり、感情が触れた時煩悩を生じさせないよう、「俺、俺のもの」というウパダーナ(取)が生じないよう注意し、こういうのを「どの場合にも慎重ならすべての苦から脱す」と言います。こういうのもサムッチェダニッバーナと言います。

 もう一度短く復習すると、タダンガニッバーナ(偶発涅槃)はすべてのものを、どの面も正しくふさわしく調整しなければならず、ヴィッカマバナニッバーナ(強制涅槃)はサマーディが威力下にあるよう、つまり心を支配できるように訓練しなければならず、サムッチェダニッバーナ(正真涅槃)は煩悩が生じなくなるまで、煩悩が消えてなくなるまで正しい生活をする、あるいはすべての場合に正しく慎重でなければなりません。

 次にみなさんは三つ同時に訓練できて最高に幸運ですと言わせていただきます。みなさんは在家として家で暮らしても、それでも三つも同時に訓練できます。つまりタダンガニッバーナの利益のためには、身の回りの、家のいろんなものをふさわしく整え、いつでも簡単に心の涼しさを生じさせ、そして訓練できるだけサマーディの訓練の努力をすれば、清涼な心が増える結果を受け取ります。

 そして八正道に則った正しい生活。こういうのは四六時中煩悩の根を掘ること、あるいは煩悩の習性を防ぐことであり、長くなれば消えてなくなります。

 短く言うと、私たちが正しく暮らせば煩悩は餌が得られず、一日中、一か月中、一年中正しく暮らせば、煩悩は一日中、一か月中、一年中餌が得られないので、煩悩を生じさせる習性も消滅し、いつか、ある吉日、良い機会に最高の聖向聖果と呼ぶものに到達し、阿羅漢になることができます。

 これを「家にいて、涅槃になる実践を三種類も同時に撚り合わせてできて幸運」と言います。暮らしをふさわしくし、常に心を管理し、そして常に煩悩の餌を断つ類の生活がある。これは三種類だけの項目です。次にそれぞれを明確に理解しているものにするために説明します。

 一つ目のタダンガニッバーナ(偶発涅槃)はそのものの偶然による涅槃という意味で、どのような状態か、どのような実践法があるか、どのような結果を得るかを理解できているものにするためにこれから熟慮していきます。
 

ダラターという言葉について理解してください
 偶然の涅槃があるようにする話を理解するには、ほとんどの人は聞いたことがないかもしれませんが、最初にパーリ語でダラターと呼ぶものを観察して知ることを知らなければなりませ。なぜこの言葉を使うかは、他の言葉はこの言葉ほどふさわしくなく、パーリ(ブッダの言葉である経)でもダラターという言葉を使っているからです。

 ダラターと呼ぶもの何かは、辞書を引いても役に立ちません。それは苦という意味だったり、痛みだったり、恐れだったりいろいろで、それは言葉の辞書で論点と一致しないからです。だから何と訳すかは、「心の感覚を妨害するもの」と訳さなければなりません。「心の感覚を妨害するものをダラターと言う」とはっきりと憶えてください。このダラターは最高に大きいのから、最高に微かでほとんど感じないのまであります。学校で教えているこの言葉の意味は「焦燥」です。

 私は、それは十分ではないと見ます。焦燥はイライラすることだけで、ハッキリしているのは一つだけですだが、この言葉は心の問題すべてを意味するからです。だから何段階かに分類しなければなりません。しかしすべての段階を一まとめにすれば「心の感覚を妨害するもの」と言わなければならず、ちょっと解説すると「心の静かさである感覚を妨害するもの」です。

 仮に簡単な例で「心は何かを感じるのを怠けて、じっとしていたい」と言います。しかしじっとしていられないようにするものがあれば必ず感覚が生じ、それをダラターと言います。だから私たちの心は止まっていることができず、じっとしていられず、必ず感覚を生じさせるよう誘惑するものを感じ、それがダラターと呼ぶものです。だから焦燥と訳すのは少しだけ正しく、広い意味を包括すれば、ダラターは「感覚を妨害するもの」と訳さなければなりません。

 次にダラターを三つのレベルに分け、第一段階は炭や火になるまで炙って生き地獄のようにするダラターです。これは、時々生き地獄に落ちたように苦しかった時を思い出してください。苦、あるいは苦に耐えること、苦に強烈に締め上げられることは焦燥を生じさせてしまいます。これもダラターと呼び、「座っても尻が床に着かない」と言われるほど妨害します。

 第二段階は、焦燥させて心を幸福でなくするダラターで、気が重い、憂慮、煩悶、恐怖、執着、未練、愛、これらは一つの部類で、中間レベルのいろんな心の焦燥です。

 最高に繊細な第三段階は、心が平らでないと感じるだけのダラターで、この心が平らでないとは「平らでない」とだけ感じますが、それは何か、なに故かは知りません。時には気分が悪く感じる日があっても何が原因か知らず、つまり心の中は平担ではありませんが、何が妨害しているか知りません。

 これは非常に繊細な段階ですが、ハッキリ言えばその時何等かのものに微妙な、最高に微妙な「俺、俺のもの」である感覚があり、それが心に引掛かっているので、それが心の感覚を妨害します。私たちは「平らでない」とだけ感じ、「すっきりして明るく爽やか」と感じませんが、何か知らず、最高に微細なレベルの俺、俺の物がこのように妨害します。

 粗いレベルの「俺」も妨害して、生き地獄に落ちたように炭や火のようにし、中間レベルの「俺」も焦燥させ、あれこれを愛し、あれこれを嫌い、あれこれを恐れ、あれこれを煩がり、あれこれ心配し、これを中間レベルのダラターと言います。最後のレベルの微細なダラターは心が平らでないことで、ここでの「平らでない」とは涼しくなく、静かでなく、爽やかでなく、明るくなく、何もありません。

 みなさん、パーリ語でダラターと呼ぶものはこのようにたくさんあり、このように三つのレベルに分類できると観察して良く見てしまってください。これを良く知れば、涅槃と呼ぶものを良く理解できます。

 涅槃と呼ぶものは「消滅」あるいは「冷える」という意味で、それはダラターの消滅、あるいは涼しさのことで、涼しいのは妨害するダラターがないから、感覚を妨害するものが妨害しに来ないからです。最高レベルになれば、その心は安楽に座り安楽に眠れるのと同じで、何も妨害するものがなく安楽です。

 次に心が妨害されれば、微妙な妨害、あるいは中間の妨害、あるいは最高に粗い妨害でもこれは苦で、その時はダラターと呼ぶもの、つまり心の感覚を妨害するものによる苦があります。

 どんなダラターもなく、あるいは心を妨害するどんなダラターもないことは涼しさ、あるいは何らかのレベルの涅槃と見なします。だからタダンガニッバーナ(偶発涅槃)は偶然どんな妨害をするダラターもないので、感覚は涼しくタダンガニッバーナ-偶然の涅槃式の涅槃になります。

 ヴィッカマバナニッバーナ(強制涅槃)にも生じさせたサマーディの威力でダラターが介入できないので、妨害するダラターがありません。詳しく話せばたくさんあり、これについて話す時間がありません。粗いダラターは繊細なダラターに遮られ、そして繊細なダラターはより繊細なダラターに遮られるという法則があります。これはサマーディである心の状態の話でどんどん深くなりますが、要するにどんなダラターでも出て行けば涼しさが生じるだけです。

 だから要旨として「心を妨害するどんなダラターもないこと、それがいずれかのレベルの涅槃である涼しさで、味見の涅槃でも、支配による涅槃でも、本当に煩悩が消滅した涅槃でも良い」と言います。


タダンガニッバーナがあるようにする実践法
 どのように実践すればいつでも簡単に、偶然にタダンガニッバーナ(偶発涅槃)があるようにできるか。私は一般の人、一般の庶民には次のような実践規則でする方法があると見ます。

1 仕事のための仕事と呼ぶ類の生活がなければなりません。仕事のために仕事をするという原則を遵守して本当にそのように実践すれば、ダラターが妨害できるのは少しです。つまり仕事のために働くことには意味があります。

 人がお金のために働くのは問題が生じ、子のため妻のために働くのも更に問題が生じやすく、愛している人のために働くのは更に大事になりますが、仕事のために働く、職務のために働くのは反対で、仕事のために働くのはダラターを良く防止できます。

 愛している人、好きな人のために働けば多種類のダラターに包囲されますが、仕事のため、正しさのため、タンマであるため、真実のため、真実の理想のために働くという原則を守ればダラターは近寄れません。だから「私は仕事のために働く人になる」という原則を強固にしてください。そうすればタダンガニッバーナが簡単にひょっこり現れ、そしていつでもあります。

 仕事のために働くには俺のためでも、俺の物のためでもいけません。俺のためでなく、俺、俺のものである煩悩・欲望のためでなく、子のため妻のためでなく、あるいは名誉名声、何でもそれらのためでなしに働かなければなりません。こういうのは何のために働くと言うか、言い方次第で、本当に、そして仕事のために働くのは俺のためでなく、俺の物のためでもありません。

 もし俺のためにするならタンマを俺にしなければならず、煩悩を俺にしてはいけません。俺、俺のものという感覚を生じさせるウパダーナ(取)である煩悩は、普通は煩悩の俺で、直接煩悩です。このような俺は駄目で、それはダラターになってしまいます。それは煩悩であり、苦であり、火になってしまします。

 次にまだ俺を持ちたければ、正しさ、プラタムを俺にし、煩悩でない善、美、真、正しさ、公正を俺にし、タンマの俺にします。こういうのをタンマのために働くと言います。タンマのために働くのは仕事のために働くのと同じです。純潔な仕事はタンマだからです。

 正しくする仕事、あるいは純潔な仕事はタンマの実践で、仕事はタンマ、私たちはタンマの実践、つまり仕事をします。これを純潔な仕事と言い、こういうのを煩悩のためでなく、俺のためでもなく、仕事のために働くと言います。

2 私たちは「神様を信じる正直者」でなければなりません。これはタイの昔のことわざです。「神様を信じる正直者」という詩の言葉があり、ヤクザなどが「亀・蟹・魚のように極めて愚か」と罵るのは言わせておきます。これらの人が「正直に神様を信じるのは亀・蟹・魚のように極めて愚か」な人なのは勝手にさせます。彼らが私を極めて愚かと言うのは認めますが、彼ら自身は狂っています。

 だから私たちの方が良く、私たちは神様を信じる正直者で、神様つまり真実、正しさ、公正、タンマであることに忠実で、絶対に煩悩に忠実ではありません。そしてヤクザな人たちに「これは愚かな人、亀・蟹・魚のような人で、金持ちになれる時が来ても、機会を奪って不正や汚職をしない」と言うのを認めます。

 私たちは正直者で神様を信じ、それらの人に「大馬鹿者」と言わせます。私たちは愚かで、彼らは狂人で、こういうのは私たちの方がまだマシです。

3 職務のための義務を崇拝しなければならず、崇拝するものである純潔な義務がなければなりません。仮に子や妻を養う義務があれば、子や妻があることに満足するのでなく、義務を尊重することに満足します。私たちは子や妻を正しく純潔に、順調に養わなければならない義務があり、子や妻を崇拝するのでなく義務を尊重し、そして果たした義務に満足します。

 義務という言葉と妻子、あるいはいろんな財産を混同しないでください。正しい義務を正しく崇拝する人ならタダンガニッバーナが簡単に現れ、簡単に満足が生じ、自分への敬意が簡単に生じます。自分を拝める時はいつでも、その時はタダンガニッバーナで、その時は心が清々しく、あるいはダラター(感覚を妨害するもの)がありません。次に間違って崇拝すれば、心を妨害する物と呼ぶものがいっぱいになります。

4 私たちは可能な限りふさわしい環境で暮らさなければなりません。自分で求めることができる、あるいはできる限り最高にふさわしい環境で暮らします。例えばヴィヴェカ(遠離)である雰囲気、つまり場所は、率直に言えば、今みなさんが座っているここのような場所はヴィヴェカである雰囲気です。

 ここは田舎で、首都でなく、海、森、山、自然にヴィヴェカがある何でも、これは自然の中で自然に、非常にダラターを防止しています。だから選んで住み、あるいは選んで付き合って自然と友達になり、混乱で騒がしい場所でひしめき合って暮らさないでください。

 自然にヴィヴェカ(遠離)がある場所へ回避する努力をし、回避できなければ家を自然のヴィヴェカがあるように整えます。今は読経部屋、ブッダを拝む部屋、個室、田舎の海や森や山へ行ったように何の妨害もないヴィヴェカを受け取るために冷房など何でもあります。すべてを短くまとめて「ヴィヴェカがある雰囲気にしましょう」と言い、自然でも良く、自分で整えても良いです。

5 正しい、そして適度な暮らしと食生活がなければなりません。家も食べ物も衣服も、衛生も何でも正しくなければなりません。

 つまり暮らしと食べることを正しく適度にし、平らな心があるように家をふさわしく整え、心を平らにするよう促す食生活があり、衣服装身具も平坦な心を生じさせる助けになる状態にし、衛生であるすべての健康管理は体と心のダラター(感覚を妨害するもの)を防止するものです。これを適度で正しい食住と言い、これはタダンガニッバーナ(偶発涅槃)が簡単に偶然に現われるようにするために必要です。

6 次は周りの人、周りの社会について話したいと思います。清潔、明るさ、静かさがある人物の中にいるべきで、きっと探すのは大変で、清潔、明るさ、静かさがある人物の群れは探し難いですが、できるだけ探す努力をしなければなりません。不潔で暗くイライラしている人と交際しないで、清潔、明るさ、静かさがある人物、つまり悪劣でない振る舞いがあり、心持ちも静かな人物とだけ交際します。

 この種の善人に近づいて交際する努力をしなさい。家族の中でも、あるいは友人でも、賢い人、サンティがある(穏やかな)人だけを選び、賢く穏やかなら十分です。賢さとは清潔で明るく、サンティは静かさです。だから私たちがお付き合いする、あるいは仕事の連絡をする人、あるいは夕方座ってお喋りをする人でも、この種の人物を選ばなければなりません。

 それはこの種の人物と付き合い、交際し、言葉を交わしていれば、ダラター(感覚を妨害するもの)と呼ぶものは生じ難いので、タダンガニッバーナが偶然に生じる援けになります。

7 最後にアパーヤムッカと呼ぶもの、つまりアパーヤ(破滅)の入り口は、最高に確実に避けなければなりません。アパーヤの入り口とは発展がないもの、アパーヤムッカ、アパーヤの入り口、あるいはあらゆる相応しくない環境を意味します。在家のために彼らが話しておいたアパーヤムッカは、酔う水を飲まない、夜遊びをしない、公演を観ない、賭け事をしない、悪人と友人にならない、仕事を怠けないの六つです。

 これだけでは不十分ですが、在家がしてはいけない大きなことはこの六つで、これも十分と言います。しかし涅槃の味を知る人になるためにはこれ以上の、更に微妙なアパーヤムッカを避ける必要があり、「酒を呑まない」などを私は「煙草を吸わない」あるいは「酔う種類のことは何もしない」「寝て歌やラジオを聞かない」までにし、心を煩悩の方向に染めるものは全部、これらのアパーヤムッカの部類に含めます。

 だから在家のために作られたアパーヤムッカの六つの教えは、百にも千にも、つまり避けなければならないふさわしくないすべての環境に拡大することができます。このような生活をしていると、つまり仕事のために働く理想があり、そしてこのようにふさわしい環境にいると、タダンガニッバーナがいとも簡単に現れ、時々現れ、満足できるほど時々あり、いつでも爽快で満足し、そして最高に満足します。

8 このようになるにはもう一つの哲学があります。私は最高に哲学嫌いですが、ここでは哲学という言葉を使わせていただかなければなりません。「元々の心は純潔」という哲学を掴む人でなければならないのは、「煩悩、あるいは悪、苦は心の基礎ではなく、心の基礎は煩悩がない」という知識、理解、信仰を生じさせるためです。

 今彼らは一般に、クルンテープの教師の団体でも「心の基礎は煩悩」と教えています。煩悩が心の基礎で、始終無明があると教えるのは間違いで、そして狂人です。狂人と下品な言葉を使ったことをお許しください。「心には基礎である煩悩、あるいは無明がある」と言うのは誤りです。

 「心には煩悩がないこと、無明がないことが基礎としてある」と言わなければなりません。そして煩悩の部分は今来たばかりで、お客のように今来たばかりで、お客は家に来てしばらくすると帰ります。家の本当の主人は煩悩がない心で、自然の心には煩悩がありません。

 「通常心には煩悩がなく、どんなダラターもなく、快適」と、この哲学を掴んでください。そしてぼんやりしてはいけません。ぼんやりすればいつでもお客が来たのと、来て妨害して時間を無駄にし、あるいは盗賊が来て破滅させるのと同じです。

 「心には基礎として涅槃があり、本当の心は本当に純潔で輝いている。涅槃は基礎であり、心の正常な領域であり、そして何らかの悪が生じて、一時介入する。だから追い払ってしまうのは余り大変ではない」という教えを把持してください。これは簡単にします。「煩悩が心の基礎。無明は心の基礎」と信じたらどうしましょう。基礎であるものを排除するのは非常に大変です。それは誤った話、間違った言葉です。ブッダはそのように言われていません。

 ブッダは「無明も今生じたばかり、目・耳・鼻・舌・体・心がぼんやりして、サティがない時に生じたばかり。そしてサティがないから無明が生じる」と言われました。煩悩は生じたばかり、無明も生じたばかりです。しかし次に煩悩が生じる習慣は常にあり、人は愚かにも「煩悩は常にある」と言います。

 本当は常にあるのは煩悩が生じる習慣で、それはいつでもあり、この習慣はいつもあり、そして増えます。私たちは母の胎内から生まれると導火線があり、煩悩を生じさせる環境があり、そして時々生じて煩悩が生じる習癖が増えます。しかしそれでも煩悩が生じるまでは問題がなく、煩悩が生じると何かになります。

9 次に反対の方に、煩悩が生じ難いように注意して、生じるのが少なくなるようにします。これは「じっとしている。黙っている。静かにしている」という謎の言葉があり、ここでは、ぼんやりして心の内部を「俺、俺のもの」に変調させてはいけないという意味です。それを「じっとしている」と言います。目・耳・鼻・舌・体・心を通して感情を受け取り、そして俺、俺のものに作り変えます。これを悪戯坊主と言います。

 次に目・耳・鼻・舌・体に良く注意し、サティサンパッチャンニャ(常自覚)があり「この常自覚は煩悩の流れを遮るもの、あるいは加工して煩悩にする煩悩が来る道」と口誦しなければなりません。

 サティを訓練すればするほど煩悩が生じる習性は減り、これは消し合うもの、敵同士です。しょっちゅうサティに欠ければ、その分だけ煩悩が生じる習慣が増えます。だからブッダが「サッバッタ サンウットー ビック サッバドゥッカー パムッチャティ=どの場合にも、どんな挙措にも、どの話にもサティがあれば煩悩は生じられない」と言われているように、一呼吸ごとにサティで暮らしてください。最後には煩悩が生じない習慣が生じます。それが、涅槃の商標である静かさです。

 すべてはタダンガニッバーナに関した実践原則で、在家である庶民もこの知識がなければならず、そしてこの実践をしなければなりません。

 もう少し復習すると、仕事のため、純潔な仕事のため、正しさのため、タンマであるために仕事をする理想を尊重する生き方をし、神様を信じる正直者で、誰かが「ものすごく愚かだ」と罵っても勝手にさせておき、純潔な義務を行うことを崇拝し、ふさわしい環境で暮らし、雰囲気も、食住も、付き合う人も、すべてのアパーヤムッカを避け、「煩悩がないことが心の元々の基本なので、この話は難しくない」という哲学があります。

 注意するのはちょっとだけ、客つまり煩悩を家に入れないだけで、もし入ったら注意しなければならず、そしてふさわしい時に追い帰さなければなりません。これをタダンガニッバーナ、つまり偶然現われて味見させるまぐれの涅槃に関する実践原則と言います。現世で、今ここである生涯、常にそのようにします。


ヴィッカマバナニッバーナのための実践方法
 次はヴィッカマバナニッバーナ(強制涅槃)、心の力で支配しなければならない涅槃についてお話します。これは、これから熟慮する状態と二つの実践法があります。

 ヴィッカマバナニッバーナとは、支配、あるいは管理、あるいは抑圧することから生じる涅槃という意味です。心を強制あるいは支配できれば、ヴィッカマバナニッバーナの状況がその心に生じて現れ、味は同じで、つまり苦がなく、煩悩がありません。もう一つの呼び名はディッタタンマニッバーナと言います。

 ディッタタンマとは自分が見たダンマのという意味で、ディッタタンマニッバーナは自分で見た、今ここで自分が感じた涅槃で、誰を信じる必要もないという意味です。これをディッタタンマニッバーナと言います。これに染み渡る感覚があり、これを作る意図があり、そして自分の望むようにこれを管理する、これが実践できるヴィッカマバナニッバーナです。実践法は、

1 心をどのようにも使えるサマーディにすることを知らなければなりません。心がサマーディの段階になれば、当然いずれかのレベルのディッタタンマニッバーナ、あるいはディッタタンマスッカ(現世の幸福)を生じさせることができます。かすめる程度のサマーディなら掠める状態の、あるいは一時的な幸福を生じさせます。次に堅固なサマーディなら堅固な幸福があります。

 みなさん、アカーリコという言葉を思い出して見てください。「サンディッティコー アカーリコ エヒパッシコー」。これは私たちがプラタムのイティピソー云々を唱える時、いつも唱えているプラタムの徳です。

 サヴァーカトー ヴァカヴァートー ダンモー サンディティコ アカーリコ エヒパッシコー云々。アカーリコが一番重要で、時間を限定しないという意味で、時間に関わりがなく、実践すればいつでもその時結果があるという意味です。だから私たちが始めた実践はいつでも、その時涅槃である結果があり、見本のレベル、小さなレベル、味見のレベル、あるいはまだ変化する初歩のレベルであるだけです。

2 戒の段階の仏教のプラタムの実践をし、戒、布施、何の段階でも、涅槃である安心を受け取らなければなりません。最後の時まで待てば最高レベルになって涅槃を受け取ると理解しないでください。いずれかの段階の仏教のプラタムの実践を始めた時、その時涅槃である結果が生じるという原則を掴んでください。彼らは涅槃と呼ばず、そして見ないだけ、この結果を見ないだけです。

 たとえば布施があり、正しい方法で布施して正しく純潔になれば安心があり、ダラター、つまりケチなどによる混乱や焦燥を排除してしまうことができます。この部分のダラターがどれだけ出ても、涅槃の安心が生じます。これがアカーリコ、つまり「即刻」で、実践すればいつでも、その時、即刻結果があります。仏教のタンマの実践をすればいつでも、そこで即刻、いずれかのレベルの涅槃である結果があることをアカーリコと言います。

 あるいは戒を遵守するだけでも、本当に正しく遵守し、本当の戒、アリヤカンタシーラ、つまり聖人方が本当に喜ぶ戒なら涅槃があり、破戒に関わるダラターのない安心があります。そしてあるのはアカーリコであり、その時そこで即刻、涅槃である安心だけがあります。

 その戒を遵守し始めた時、死を待つ必要はなく、後日を待つ必要さえなく、一時間後も待つ必要もなく、タンマの実践があると同時に熱さであるダラターを取り除き、代わりに安心があります。

 これがアカーリコ=時間を限定せず、実践の威力あるいは力で実践している間のものです。だから終わり、たとえば布施の結果は完結し、戒の結果も完結します。だから休まずバーヴィトー バフリーカトー=たくさんし、熟練させ、どんどん発展させる実践をしなければなりません。このようならその結果も途切れることなく継続し、一時的でなく、途切れずに繋がります。

 これがディッタタンマの幸福、あるいはディッタタンマの涅槃と言います。つまり今ここで、生きている間に受け取る安心です。自然のままに放っておくのでなく、自分で対処し、自分でした威力で偶然現れます。今私たちは体と言葉と心を意図して慎むことで、管理することで対処しなければなりません。こういうのを手法として正しく、心の面、識の面のテクニックとして正しいと言い、このようなら結果があります。

 述べたような味見のレベルの聖向・聖果・涅槃は、布施をしても持戒をしても、維持できなければ再び後退することがあるクッパダンマ(動揺する物)のレベル、味見のレベルの聖向聖果涅槃と見なします。だから何としても涅槃を維持して、休まず味見をします。

 味見をする利益はたくさんあり、自分の確信を増し、気力を増し、望みを増します。正しいもの、確実なものの味見をし、それを増やすだけで即座に、本当に、今ここでの涅槃であるディッタタンマスッカ(現世の幸福)が生じると知っているからです。アカーリコに依存した私たちの対処は、始めた途端に結果が得られ、待つ必要がない自然のプラタムの規則です。その人の心に関してはこのようで、社会的な結果の部分は別の話なので、ここでは話しません。

3 次に高くなってサマーディの段階まで実践すれば、ヴィッカマバナニッバーナ(強制涅槃)である結果があります。詳細に話したことがあるアーナーパーナサティの規則、特にアーナーパーナサティの第四段階の、カーヤサンカーラ(身行)を静めて息を吐き、息を吸う実践をしてアッパナーサマーディ(素晴らしいサマーディ)にします。

 このようにしていればヴィッカマバナニッバーナがいっぱいになり、見本の涅槃、味見の涅槃です。マーカブーチャー季に詳しく説明したアーナーパーナサティの第四段階の話の理解、記憶を復習してください。

 アッパナーサマーディの段階までできない人、あるいはそこまで望まない人はウパチャーラサマーディ(近行三昧)をしますが、途切れないで続いているサマーディにすることもできます。定には至りませんがサマーディで、そして成功させた満足によるピーティ(喜悦)とパモッダヤ(歓喜)があります。これもディッタタンマスッカ(現前の幸福)、ディッタタンマニッバーナ(現前の涅槃)です。

 前回の講義で天精舎、梵天精舎、聖精舎、空精舎について話し、そして梵天精舎は一般に実践できる範囲にある話で、幸福になり、安心できるに十分なウパチャーラサマーディ(近行サマーディ)が得られると話しました。私たちはメッター(慈)・カルナー(悲)・ムディター(喜)・ウペッカー(捨)によって、断固とした生活ができ、恐怖やいろんな物に関わる心の焦燥、心の妨害の幾つかは排除されるので、この方式の涅槃である安心があります。

 これをアッパナーサマーディ(素晴らしいサマーディ)に依存すると言うこともでき、ウパチャーラサマーディに依存すると言うこともでき、述べた教えで実践すればいつでも結果があります。私たちは涅槃を創ることができると言います。少なくとも私たちが実践している一時だけの涅槃は。

 次に実践できるように、まだ話したことがない話を紹介したいと思います。アーナーパーナサティをする話、ブラフマヴィハーラの話などは話したのでもう話しません。例えば心の秘訣、あるいは秘密に関わる秘密である知るべき話など、まだ話したことがない話です。

イ 心の秘密、例えば「心は同時に一種類しか感じることができない」と知らなければなりません。つまり人の心は、同時には一種類しか感じることができず、二つのことを知ることはできません。これは、私たちがその状態、あるいはその自然と一致させなければならない重要な秘密です。これを理解すれば簡単にできる助けになり、理解できなければ大変になります。心は一つの心しかなく、同時には一つの感情しか知ることができないと知ってください。

 庶民は「二心」と言うのは、それは庶民語で別の意味があります。私たちは同時に二つの心を持つことはできません。一つの心でなければならず、そして同時には一つの感情しか知ることができまません。別の話に変えるには他の時でなければならず、同じ心でも他の話に変えます。

 しかしタンマ語では「その心」と呼びません。心が別の感情、別の話に変われば、彼らは「別の心」と呼びます。ここでは心は一つだけしかありません。しかし良い心、悪い心、貪りの心、怒りの心、迷っている心、何の心でも、何種類にも変化でき、一つの心から生じますが、幾つにも変化できます。

ロ 一方の感情の方が大きければ、当然小さい方の感情を抑圧するという秘密があります。仏教の感情という言葉は、庶民の言葉、あるいは外国語の感情と違います。

 仏教の感情という言葉は「心が意識しているもの」という意味で、それを目・耳・鼻・舌・体・心の面の感情と言います。そして感情つまり形・音・臭・味・接触・ダンマーラマナ(心の概念)は目・耳・鼻・舌・体・心で意識されるもので、感情と呼びます。

 心で感じる感情であるものをダンマーラマナ(漢訳では法界)と言い、初めに目から入って来るルーパーラマナ、耳からはサッダーラマナ等々、感情に、想に、内部の何かに作り替えてもダンマーラマナと呼びます。そしてこのダンマーラマナと呼ぶものは他の物より多くの義務をします。

 次にどの感情が大きくても小さな感情を排除し、生じさせず、近寄らせず、あるいは追い出すことが出来ます。だから愛の物から生じた愛の感情は、普通のものから生じた感情より強いので、愛の物から生じた愛の感情が心の中を覆っていれば、他の感情を追い出すことができます。間男や間女などは墓地で落ち合うことが出来るのと同じです。

 普通は幽霊が怖いので墓地へ行きたくありませんが、大きい方の感情、つまり愛の感情が支配すれば幽霊の恐怖を忘れさせ、幽霊の恐怖もなく墓地で落ち合うことができます。大きな感情が威力の小さい感情を支配するからです。こういうのは例えです。

 可笑しな話ですが、私自身が子供の頃この秘訣を使いました。このような夜更けに墓地を通り抜ける時、薄暗い大きな菩提樹の下を通り抜けて運河の岸にある共同便所に行く時、儀式がたくさんなければならず、薄暗い菩提樹の下を通り抜けて川岸の公衆便所へ出るまで、闘魚(ベタ)のことを考えなければなりませんでした。

 飼っている闘魚が昼間はどのように美しいか、闘魚の話に心を向けて菩提樹の下を通り抜け、広い場所、運河の岸の便所へ着きました。家へ帰る時ももう一度同じようにしました。私には、何のサマーディをしてそれ(恐怖)を抑圧するという知識も智慧もありませんでしたが、闘魚を思うといつでも(恐怖が)消えました。

 これが、どの感情が大きくても小さい方の感情を抑圧するという心に関わる秘訣で、私は幽霊の怖さより闘魚を好きな気持ちが強かったので、それが(幽霊の恐怖を)抑圧することができました。

 これは意味のない話、あるいはあまり重要でない話でなく、大きな感情は小さな感情を、あるいはマハンターラマナ、あるいはアティマハンターラマナは当然パリッターラマナ、あるいはアティパリッターラマナと呼ぶ感情の力を支配すると教える話です。

 私たちは望まないダラター、つまりイライラや焦燥など、私たちが望まない心の妨害を排除するために、一つの威力、何らかの感情を作る秘訣を使って更に上の感情を作り、望まない感情をどやしつけて追い出します。誰でもそのように使っていますが自覚してないだけです。ここに座っている誰でもこの秘訣を使ったことがあり、この規則を使ったことがありますが、関心がありません。

 例えばブッダーヌサティ(仏随念)はブッダを偲んで想うと、このように幽霊の恐怖が消えます。私たちにできれば、ブッダーヌサティは大きい方の感情になり、幽霊を怖がる感情より大きいので、ブッダーヌサティは幽霊の怖さを追放することができます。身に付けているいろんなお守りの類も大きな感情を作ることができれば、幽霊の怖さ、あるいは他のたくさんのものを追放できます。

 それは何もないのではなく、何かあり、そして誤った使い方もできます。正しい方にも愚かな方にも、そして賢い方にもなるので良く知らなければなりません。サマーディの力は不正な方でも真っ当な方でも何にでも使え、これ力があるので正しい方に使わなければならないと良く知ってください。

 サマーディの力がダラターと呼ぶものを脅すことができれば、つまり心を妨害するものの力を無くしてしまえば、あるいは消滅させれば、私たちは幸福を感じます。熱さが消えればいつでも、その時そこに涼しさ、涅槃が生じます。心を支配して常にサマーディにできれば、その分だけ、その間中幸福があります。

 ここで幸福の感覚もダラターですが、それは苦と感じないほど微妙だと理解しておいてください。だから取り敢えず幸福である種類のダラターとしておいてください。決定的でなく、まだアクッパダンマ(動揺しないもの)でないのは事実ですが、それは非常に私たちを妨害せず、あるいは何とか我慢でき、快適と、そのようにしておきます。

 だから誰でも何らかの様式の、何らかの方法のサマーディをする努力をすれば、悪の種類のダラターを追い出すことができ、悪い心の妨害を排除でき、あまり妨害しないもの、妨害しない微妙なものだけが残り、何とも感じないのもまだマシです。

 このように実践は高い美徳に上って行くための階段であり、サムッチェダニッバーナ(真正涅槃)の部類です。タダンガニッバーナ(偶発涅槃)、ヴィッカマバナニッバーナ(強制涅槃)に慣れると、サンディッティコー(自分で見えるもの)なのでプラタムに対する信頼が生じ、そしてこれは他人を信じる必要がない確実な幸福と知ります。

 プラタムに対する信仰も増し、努力も増し、実践も更に本物の涅槃の道で前進します。だからタダンガニッバーナの話もヴィッカマバナニッバーナの話も無過ごさないでください。


サムッチェダニッバーナ(真正涅槃)の実践方法
 さて次はサムッチェダニッバーナ(真正涅槃)の話になりました。最後の話はどんな状態と実践法があるでしょうか。タダンガニッバーナ(偶発涅槃)やヴィッカマバナニッバーナ(強制涅槃)が自分の支配下にあるよう自分で生じさせることができることを忘れないでください。

 しかし私たちがこのサムッチェダニッバーナを現すのは、すべてその規則に従ってするのを受け入れなければならず、そして神様の思し召しのように現われるに近いです。

 偶然の涅槃が重要な縁である偶然に依存し、支配する涅槃が重要部分である心の支配に依存する時、断固とした涅槃、あるいはサムッチェダニッバーナはニッビダー(倦怠。厭離)とヴィラーガ(離欲)である基盤に依存します。これが智慧の話です。ニッビダーは倦怠で、ヴィラーガは欲情が緩むことで、ニッビダーやヴィラーガを生じさせることができなければこの種の本当の涅槃は望めません。

 ニッビダーは厭きる、ヴィラーガは欲情の弛緩という意味で、文字はこういう意味ですが、本当はもっと多いです。ニッビダーを倦怠と訳すのは正しくありませんが、どのように訳したら良いか分からないので倦怠と訳します。それは倦怠と言うくらいの状態がありますが、特別な、あるいは高い倦怠です。

 普通の庶民の倦怠は繰り返すことで倦怠し、例えば単調な繰り返しで顔も見たくなくなり、毎日食べればどんなに特別に美味しくても間もなく飽きる、こういうのはタンマの方のニッビダーと呼びません。

 タンマの方のニッビダーは、事実を知った後で「うわー、これは危険だ」と言い、そして倦怠して二度と愛さないという意味です。映画館(スアンモークの中の建物の呼び名)の中の謎の絵で描いた話、つまりある男の妻である女性の絵で、かつて(男)はその女性を愛していましたが、その後(彼女は)善くない人で不倫をしていると知ると興味を失って、妻と見なすのを止める、こういうのをここではニッビダーと言います。

 ここでのニッビダーは無関心と訳しても良く、煩わしくなく、怒りません。もし何かを怒り、嫌い、煩わしければ、この場合のニッビダーではありません。庶民のニッビダーは、怒り、嫌い、厭き、あるいは煩がりますが、タンマの方のニッビダーは無関心です。

 ここでの倦怠は、愛や執着や愛着、哀惜を払い捨て、そして無関心で、その人を危険にせず、自殺するほどになる必要はなく、自殺は偽のニッビダーです。自殺をするほど厭きるのは、あるいは嫌うのは偽のニッビダーで、本当のニッビダーは、智慧によって無関心でいられます。繰り返しで気に入らないから飽きて煩わしいのではありません。

 今私たちは厳格な種類の涅槃の基礎であるニッビダーに依存しなければなりません。ニッビダーと呼んでも、ヴィラーガと呼んでも同じです。ヴィラーガは執着が緩む、薄くなるという意味で、ニッビダーは倦怠で、厭きれば緩みます。それは自動的に連続して義務を行い、厭きれば欲情が緩むので、ニッビダーと呼んでもヴィラーガと呼んで良いです。

 サムッチェダニッバーナ(真正涅槃)はニッビダーとヴィラーガに基盤があり、この二つ、あるいはどちらか一つが生じなければ希望はありません。

 次はサンマーディッティ(正しい見解)の話で、倦怠ニッビダーは正しい見解から生じると話したように、ニッビダーも幾つもの方法で、つまり本当に見、明らかに見、正しく見るから生じます。

 だからニッビダーはアニッチャター(無常)から生じ、つまり不変でないことを見て倦怠することもあり、それはアニミッタニッバーナ(無相涅槃)で、ニッビダーは苦を見ることからも生じ、それはアッパニヒタニッバーナ(無願涅槃)で、アナッター(無我)を見ることからニッビダーが生じればスンニャタニッバーナ(空涅槃)です。

 アニミッタと呼ぶのは意識(規定)するものがないという意味で、休まず流れ、休まず変化します。アッパニヒタと呼ぶものは幸福にする基盤がなく、スンニャタと呼ぶものは、全部空っぽになってしまったという意味です。

 倦怠はすべての物の無常を見ることから生じることができ、すべての物の苦を見ることからも生じることができ、本当の自分はどこにもないこと、無我を見ることからも生じることができます。

 これが智慧の話で、十分なら倦怠が生じ、それから欲情が緩みます。比較して見ると、初めのニッバーナは偶然に生じる偶然の涅槃で、二番目の涅槃は心を支配することから生じ、そしてサマーディが支配する話で、三番目は智慧の話です。だから熱さを追放することにも違いがあり、高低差があります。今むしろ智慧の力に依存してダラター、心の妨害を追放でき、つまり更に違い、繊細な部分の苦を排除し、まだ残っている部分をもう一度なくします。


一般人のための涅槃の実践原則
 次は一般人のための実践原則で、庶民も農民も、この聖果に到達するための実践原則は、田んぼの中、畑の中にあります。私たちは何かをしている時も感じたり考えたりできるので、「その感覚を見なさい、見ることに最高の努力をしなさい」という言葉を使います。

 心の中で感じている感覚を見なさい。本を見ないで、人の話を聞かないで、今心の中にある、今起こっている、感じている感覚を内部から見なさい。一日に何回も繰り返し生じている俺、俺のものへの倦怠、俺、俺のものの発生を見なさい。それはアハンカーラ(我慢)、ママンカーラ(我所有)を生じさせ、俺になり、俺のものになり、一日に何回でも、生じる度に苦になり、熱くなり、いつでも炭や火になります。

 煩悩であり、誰も受け入れない原因であり、執着の原因である俺が生じて介入し、それは物凄く厭き厭きすると見せます。しかしそれを学んだことがなく、観察したことがなければ、どこを見たら良いか分かりません。

 だからある日ある夜、身勝手であり自分である感覚が生じる度に炭や火のように熱くなるのは何回か、何度か、どのようか、何から生じるか、いつもこのように見れば倦怠が生じます。農家の人でも見られます。すぐに続けて「欲しがるもの、なりたがるものは何もない」こと、つまり「欲しい、なりたい」と執着するものは何もないと見ます。

 これは良く理解しなければならず、言葉を良く聞かなければなりません。「欲しがる物はない」、このように言っておきます。銀、金、牛、水牛、象、馬、田畑、欲しがらせるものはどこにも何もないという意味です。私たちが要るのは必要なだけという意味で、本当に手に入れれば、つまり本当に「俺の物」と執着すれば、苦があるという意味です。

 銀、金、牛、水牛、象、馬、田畑は、昼も夜も、寝ても覚めても人の頭上に隠れていて、田があれば田ゆえに苦になり、水牛がいれば水牛ゆえに苦になり、お金があればお金ゆえに苦になります。こういうのは執着の心で本当に手に入れるからです。

 次に要らなければ、つまり心が執着しなければそれは借り物と同じ、あるいは死ぬまで「明日は返す」と先伸ばしにし続けるのと同じで、このようなら苦はありません。そして正しい方法で使い、正しい方法で所有し、正しい方法で対処して関われば苦になる必要はありません。

 これは「本当は要らない」という意味です。しかし私たちは手に入れなければならない「必要があり」、水牛を所有して田を耕し、田を作るにも手に入れなければならない必要があり、そして正しい方法で手に入れてその話を成功させます。間違った方法なら苦になり、そこで生き地獄になります。

 まとめれば本当に欲しいものは何もないので、心はそれを欲しがってはいけないと言います。このように必要に応じてそれと関わることを「何も欲しい物はない」と言います。「要る」「欲しい」というのは、俺の物という心で執着することを意味します。

 このようなら、お金を持てばお金ゆえに苦になり、金を持てば金ゆえに苦になり、何を持ってもそれゆえに苦になります。これが、あれこれ自分の物にしたいが故の苦です。だから彼らは「自分の物と見なしてはいけない」と教えました。

 これはキリスト教徒も教えていると、繰り返し言わせていただきます。仏教教団員は自分をキリスト教より悪くしてはいけません。このようにハッキリ言います。キリスト教徒が「妻がいても妻がないように、財産があっても財産がないように、市場で買い物をしても何も持って来てはいけない」と教えている時、これは「執着してはいけない」、これは「心で所有してはいけない。そうすれば苦はない」という教えです。これを見たら、私たちも「欲しい物は何もない」と見ます。

 「所有すれば、途端に苦になる」ので必要なだけ関わりなさい。牛、田、象、馬、お金、黄金があれば、必要な義務でそれらの物と関わり、心がそれ以上の俺の物にすれば、そこで生き地獄に落ちます。

 次に「なりたがるものはない」は、執着で本当に「成る」という意味で、火のように熱いのは「成る」から執着するからです。サティサンパッチャンニャ(常自覚)の感覚で「なり」、執着しなれば、こういうのを「成らない」「なっていない」「なりたがるものは何もない」と言います。

 夫、妻。これも、良く経験した人はなりたくなく、親、子、それもなりたくありません。夫であることに執着すれば夫の苦があり、妻であることに執着すれば妻の苦があり、親であることに執着すれば親の苦があり、子であることに執着すれば子の苦があり、主人は主人の苦があり、下僕は下僕の苦があり、金持ちは金持ちの苦があり、貧乏人は貧乏人の苦があり、敗者は敗者の苦があり、勝者は勝者の苦があり、善人は善人の苦があり、悪人は悪人の苦があり、徳がある人は徳がある人の苦があり、罪のある人は罪のある人の苦があり、幸福な人は幸福な人の苦があります。

 聞くと可笑しいです。苦がある人は苦がある人の苦があり、幸福がある人も幸福がある人の苦があります。どんなに幸福がある人でも、生まれること、老いること、病気、死、損得、勝ち負けに関わる問題に遭遇し、このような幸福は普通の言葉の意味だからです。

 敗者は苦ですが、勝者も別の苦があります。良く見てください。勝者であることに執着しないでください。それは簡単には受け入れません。今この世界では全部は受け入れません。その人は勝者であることに執着して受け入れることができません。何年争っても受け入れられません。勝者であることに執着するからです。

 どんな物でも執着すればダラターになると、つまり心の熱、心の妨害になると見る方が良いです。夫であること、妻であることに執着すれば、夫であり妻である義務に熱が生じて炭になり火になります。次に執着しないで適正な義務でし、「俺は何々だ」と執着しない、こういうのは苦がありません。難しくても利益があり、功徳があり、つまり苦がないので、努力してください。

 「何かである」と仮定するなら仮定にして、本当に執着しないでください。夫、妻、親、子、主人、下僕、富豪、乞食、敗者、勝者、休まず何かであり、徳があり、罪があり、幸福があり、苦があると、彼らが呼び合う仮定だけにして、自分の心が何かになってはいけません。

 これがサムッチェダニッバーナを生じさせる秘訣で、執着で所有することに倦怠し、何も欲しがらず、何にもなりたがりません。石や土になることも堪らず、木になり虫になり畜生になるのも堪らず、人間であることも堪りません。

 「執着で、俺は何々だと考える愚かさがあってはいけない」とまとめることができます。これが原因で、つまり受け入れることができなくて喧嘩別れすることもあります。これが原因で殺し合わなければならなくなり、そして自分を苦しめて困窮させます。次にどちらも「私たちはすべて自然で、自分も自然、自分に関わる何でも自然であり、自然のもの」と知り、もう一度「神様のもの」とも言います。

 何かの所有者にならないで、それらの物に偶然出合ったように振る舞い、そして使い、返すまでそのように借りて使います。私たちが旅をしていて東屋や泊まる場所を見つけると、必要がなくなるまで使ってから旅を続けるように、「自分の物」と独占しません。

 生き方の原則をこのようにしてしまいなさい。私たちはこの世界に生れ、そして関わらなければならない百種類、千種類もの物を所有し、財産、家、庭、田畑、子、妻、夫、このようにいろいろ何でも、途中で出合った物のように関わり、そしてこのように良く通過なさい。そうすれば涅槃による暮らしがあります。

 まとめると、俺、俺のものと執着すればその時苦になると見、倦怠するまで、あるいは欲情が緩むまでこの話を見、そしてより緻密なのは生老病死を見、生、老、病、死、生、老、病、死と、一日に何回も循環しているのを見、棺に入った時死ぬのでなく、一日に、一日だけでも生老病死が何回もあると見る所にあります。

 今一日に何回も、あるいは何十回も生があり、老があり、病があり、死があり、何の生老病死か、「俺、俺のもの」と感じ考えるもののは一時で消えて行き、俺が消え、一時また俺が生じ、そのような俺、このような俺、一時は貪りになって生じ、あそこでは怒りになって生じ、一時は迷いとして生じ、このように交互になります。

 これを「俺の生老病死」と言います。俺というアスミマーナ(我慢)が一時だけ生じて、維持し、そして消滅し、生じて、維持して、消滅し、一日に何回か分からないほど輪廻しています。すぐにアッター(自我)つまり俺になり、一時アッタニヤー(我所有)つまり俺のものになり、あるのは俺と俺のものばかり、厭き厭きする俺、俺のものばかりです。このように見、このように理解する人はニッビダーと呼ぶ倦怠が生じます。

 次に真実のままに見れば倦怠し、ニッビダー(厭離)とヴィラーガ(離欲)が生じると言い、これもサムッチェダニッバーナ(真正涅槃)の基礎です。厭きれば必ず止まり、熱さが止まり、苦が止まり、厭きなければ止まりません。次に厭きるのは本当に見えた時、この真実が明らかに見えた時です。次に厭きれば熱さは止まりますが知性と体力はまだ残っているので、その後は苦になる必要がなく、するべきことをします。

 今後何をしても苦でなく、二度と苦はありません。今まで何か少しするにも希望で、心配で、執着で苦になりましたが、今はもう苦はなく、何をどのようにしても、誰のためにしても、二度と苦はありません。

 このように永遠に苦がないことを、彼らは「俺、俺のものが滅尽したことによる断固とした涅槃、サムッチェダニッバーナ」と言います。

 これが煩悩と苦が維持できないため、いろんな心の焦燥であるダラターを排除するため、サムッチェダニッバーナのための実践法で「決定的な」と言う種類です。

 これに至らなければ休まず努力する初等のレベル、つまりタダンガニッバーナで、常に偶然の機会を探し、そしてヴィッカマバナニッバーナは常に支配する努力、管理する努力、細心の注意をする努力をし、同時に常に欺瞞を見る、あるいは俺、俺のものと呼ぶすべての物のマヤカシを見る熟慮をします。

 タダンガニッバーナもヴィッカマバナニッバーナも、そしてサムッチェダニッバーナも、涅槃させる実践方法について、このように実践にふさわしい熟慮をしました。


死ぬ時に涅槃できると誤解してはいけない
 次は最後に、この涅槃と呼ぶものは死ぬ時にできると誤解しないでくださいとまとめさせていただきます。死ぬ時の涅槃を欲しがらないでください。何の利益もありません。死んでしまうのだから誰にも何の利益もありません。

 今ここで涅槃しなければなりません。いつでも今ここでの涅槃にしてください。一時的な味見の種類でも、今ここに涅槃があれば、死ぬ時にも必ずあります。疑わないでください。ためらわないでください。今ここに涅槃があれば、死ぬ時も必ず涅槃があります。先ず、今ここに涅槃があるようにしてください。そうすれば死んでも必ずあります。

 今ここで、毎日、常に心をいずれかの涅槃になさい。死ぬ時の涅槃は重要ではないので考えなくても良く、今ここで涅槃にすることだけを考えれば、今ここで本当の涅槃にすることができ、そしてもしもう一度死んだら、確実に涅槃になります。心はこのような状態、俺の滅尽にあるので、心は俺の滅尽に傾き、死んだら再び生まれず、涅槃します。重要なのは述べたように今ここで涅槃すれば、死ぬ時は確実に涅槃することです。

 それはすごく簡単です。「倦怠、要らない、なりたくない気持ちが溢れていることで、いつでも滅尽のために心を傾け、この俺を消滅させてしまいなさい」といつも話している滅尽の話は、いつでもこのように俺を消滅させたいと望めば、ここで苦がなく、死んだ時は疑うまでもなく、当然苦はありません。これを死んでも涅槃すると言います。今ここに涅槃があれば、死んでも必ず涅槃です。

 次にこの偶然の涅槃をたくさんする努力をし、いつでも生じる機会を作ります。何でも間違った対処をしないで、正しい環境があるようにすれば、いつでも偶然に、まぐれで、心は自然に静まり、信じられないような安心があります。こういうのは功徳が多いです。偶然の涅槃、この偶然の種類の涅槃は非常に功徳があり、涅槃を忘れるのを防止します。

 忘れないように「涅槃は清潔、明るさ、冷静」と、いつでも涅槃を思ってください。そうすれば涅槃の信仰が増し、そしてブッダ、プラタム(ブッダの教え)、僧への信仰が増します。

 ブッダ、プラタム、僧の話はこれしかなく、他の話はないので、「ああ、本当に苦がある」とハッキリ見え、「本当に良く大悟された」とブッダへの信仰があり、「このプララムは本当に良い」とプラタムへの信仰があり、「このように実践する人は本当に良い実践をする人だ」と僧への信仰があるので、信仰がどんどん増えて強固になります。

 私たちは偶然の涅槃の証人であり、そして明るい人で苦も熱さもないので、他の人のように苦がありません。ここに儲けがあります。そして間もなく最高の涅槃のための習性や縁になります。

 味見の涅槃がいつもあれば、間もなく本当の涅槃になります。心で支配する種類の涅槃も、これも涅槃に手が届くのと同じで、心を支配して見なければ、涅槃と呼ぶものは私たちの掌に入らず、代わりに苦がいっぱい現れ、心を支配できれば、その時はいつでも涅槃で、そして信仰が増し、何でも増し、アカーリコの話も明らかになり、サンディッティコーの話も明らかになり、涅槃はこのような利益があり、功徳があります。

 次に煩悩の根を掘り上げる涅槃については、常に根を掘る努力をし、俺、俺のものの嫌らしさ、厭わしさを見、一日何回あるか分からない「俺、俺のもの」の生老病死を見ます。このようにするとどんどん本当の涅槃に近づきます。だから棺に入る前に本当の涅槃になります。何でもどんどん増えるからです。

 みなさん。「現世で一呼吸ごとに涅槃の味見をし、涅槃の味を知ってください」とお願いします。それは一呼吸ごとに述べたような何らかの種類の安心があります。仕事をしている時も楽しく働き、一呼吸ごとに明るく安心で、遊びのように楽しいです。こういうのは涅槃の味を知ります。

 すべての種類の焦燥を静める義務がある涅槃を知ってください。そうすれば明るくなります。私たちは苦のため、苦に耐えるため、苦を増やすために生まれたのではありません。いつでも「私たちは苦のため、苦に耐えるため、苦を増やすために生まれたのではない」と満足し、確信してください。私は口だけで言うのではありません。いつも何らかの涅槃のために実践して来て、本当に感じている論拠があります。

 ここにはサティを喚起するものとして、池の中のナリケー椰子があります。ナリケー椰子を見てご覧なさい! あれは苦がありません。あれは苦がある人を嘲笑します。ナリケー椰子に嘲笑されないようにしてください。

 だからこまめにナリケー椰子を見に行けば心が空になります。苦の塊の中で芽を出しても、苦の中に立っていても、心と苦を分けることができるので苦はありません。「ナリケー椰子は蜜蝋の海の中」。蜜蝋の海とは苦です。ナリケー椰子は苦なしにそこから突き出ています。人は見習ってください。

 私たちは自然の生老病死と苦の塊の最中で暮らし、そしてこの世界が悪い方へ変化することが多くなり、このように住み難い時、私たちは苦でなく暮すことができます。私たちが内面に精通して内面を調整すれば、苦に満ちた世界にいても、心は他の人のように苦になる方法を知りません。これを「空の心で働き、空の心で生活し、俺、俺のものがなく執着しなければ、それは息を吐き息を吸っている間中、生涯永遠に、何らかの種類の涅槃」と言います。

 これが滅苦の道具であり、滅苦の国であり、滅苦をすることであり、熱さの消滅から生じる涼しさである涅槃と呼ぶものに関わる実践方法と結果の状態です。心が涅槃に傾くまで意識し、記憶し、検証してください。そうすれば自分自身で保証することができます。

 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。



次へ
ホームページ
法話目次