7.天精舎・梵天精舎・聖精舎・空精舎にに関わる実践原則



1971年5月15日

 タンマにご関心がある善人のみなさん。土曜談話は予定どおり「ディバヤヴィハーラ(天精舎)・ブラフマヴィハーラ(梵天精舎)・アリヤヴィハーラ(聖精舎)・スンニャターヴィハーラ(空精舎)に関わる実践法」と題してお話します。

 一部の人にとってこの四つの名前は聞き慣れないと思うので、四つの名前に関して適度に理解をしなければなりません。ヴィハーラという言葉は、この場合は菩薩堂、あるいはヴィハーラという意味ではなく、心が住む物という意味です。ヴィハーラは「居る」「住む」という意味で、菩薩堂も居るという意味で、つまり住まい、住む物ですが、ここではナーマダンマ(名の物。抽象)で「心の住まいであるタンマ」を意味し、動詞なら住むという意味です。だから

 ディバヤヴィハーラは天のように、つまり天人のように暮らすという意味で、
 ブラフマヴィハーラは梵天のように暮らすという意味で、
 アリヤヴィハーラは聖人のように暮らすという意味で、
 スンニャターヴィハーラは空で暮らすという意味です。

 四つのヴィハーラは違う意味があり、ディバヤヴィハーラは一番低く、ブラフマヴィハーラは高くなり、アリヤヴィハーラになり、そして一番高いのはスンニャターヴィハーラと簡単に見ることができます。タンマがある人の心には高低があり、このような坂になっています。

 なぜこの話をするのかは、人間は現世で、生きている間にこの四つのヴィハーラに住むことができるからです。ほとんどの人は、天人のように暮らすには死んで天人に生れなければならないと考えていますが、ブッダはそのように言われていません。ディバヤヴィハーラと呼ぶタンマは、「そのようなダンマの中にいる人は誰でも、その人はディバヤヴィハーラに住んでいると言う」と言われています。

 ブラフマヴィハーラも同じで、人が行動しているダンマはいつでも、「ブラフマのように暮らす」、あるいは「その時ブラフマである」と言われます。アリヤヴィハーラ、スンニャターヴィハーラも同じです。

 一つずつ話しますが、重要なことは人間は現世で、生きている間に、正しい実践をしていればこれらのヴィハーラに到達でき、あるいは住むことができ、ほとんどの人が理解しているように、死んで新たに生まれるのを待つ必要はないことです。

 次に「述べた暮らしのように価値がある物は何もない。ディバヤヴィハーラ、あるいはブラフマヴィハーラのように暮らすのは幸福、あるいは善であり、世界の何よりも素晴らしい」と知るまで良く見なければなりません。

 この項目は私たちが汗水流して働き、苦労してお金や財産や名誉名声を掻き集めるのは、一度くらい快適に暮らしたいと望むからに他ならないけれど、それは絵に描いた餅になってしまい、幾らお金があっても快適になれないと熟慮して見せます。時にはお金があればあるほど苦労が多く、問題が多く、困難が多く、名誉や名声が多ければ多いほど妨害が多く、静かさがありません。

 だから一度くらいこの世で幸福で静かに暮らしたいと望んでお金や幸運や名誉名声に求めれば、それは幻のような話です。これらのものの密林に踏み入れば踏み入るほど、複雑困難になるだけです。煩悩は常に太りつづけ、煩悩を養うには手に入れた物では足りないので、静かな幸福はありません。

 次はディバヤヴィハーラ(天精舎)、ブラフマヴィハーラ(梵天精舎)、アリヤヴィハーラ(聖精舎)、スンニャターヴィハーラ(空精舎)などの名を出して心を穏やかさに至らせる方法があります。

 次に、ディバヤヴィハーラ、ブラフマヴィハーラ、アリヤヴィハーラ、スンニャターヴィハーラの四種類の中で、その人が幾つできるか、あるいは能力次第で四つ全部か、選ばせ、変えさせ、交替させるために四種類の方法があると良く見て行きます。

 実践できればまだ希望があり、あるいは「このような四つのヴィハーラの中で、一時的、あるいは味見の種類もあるけれど味は同じで、煩悩を完全に捨てた阿羅漢キーナーサヴァにならなければそのような状態になれないということではない」と非常に期待できる状態があります。

 まだ良いレベルの凡人、つまりカラヤーナプトゥジャナでも、四つのヴィハーラの味を味わえる希望があり、一時でもまだマシで、たとえば一瞬でもブラフマヴィハーラに励めば、山のように布施や供養をするより善いと、ブッダはこのようにたくさんの功徳を説かれています。

 これです。どうぞ、ちょっと勇敢になってください。つまりまだ阿羅漢でなくても、阿羅漢方が受け取ったのと同じ素晴らしい物を受け取る努力をしようと考えてください。面白い喩えを少し話しても良いです。

 子供が身分の高い名誉ある人の事務所などへ行くと、どんなに心地良いか味わうために、機に乗じて一瞬だけその(身分の高い人の)椅子に座って見て、その椅子に座って試している一瞬の間だけ大人物のように振舞い、そして非常に満足し、少なくとも「何が何か」をちょっとだけ知ります。

 この話も同じで、私たちは能力と機会に応じて、心を阿羅漢、あるいはいずれかの聖人の心と同じにする努力をすれば、愚かにも何も知らないより良いです。だから天人になって見、梵天になって見、聖人になって見、あるいは空、つまり空っぽのような生活をして見れば、少しでもウパニサヤと呼ぶような良いことです。

 ウパニサヤであるとは出発点で、つまり植物の種を水に浸してから湿った砂に蒔くと、それが芽を出し始めて木になり葉になるように、少しずつ開花して拡大する発端という意味で、何もしないより良いです。「最高に至らないからしない」と考えてしまえばする機会はなく、無駄死にします。

 今、その子どもが議長の、あるいはどんなお偉方の椅子でも座って見るように味見をするのは、このことについて何も知らないよりマシです。だから私は今日の講義の主題をこういう状態で、ディバヤヴィハーラ、ブラフマヴィハーラ、アリヤヴィハーラ、スンニャターヴィハーラに関わる実践原則としました。

 少なくとも知性を飾るために、みなさんがしっかり決意して興味深く聞き、そしてそのようになれる道が見えることを望みます。あるいは本当に偶然にそのようになり、味を知って訳が分かれば徳があると見なします。


一番のヴィハーラと実践原則
 初めにディバヤヴィハーラと実践原則について述べます。ディバヤ、あるいはデーバヤは、ほとんどの人は欲情に恵まれた天国の天人と理解しています。それは庶民の夢、庶民の希望で、天国の天人になれば、欲情の話である形・音・臭・味・接触に満ちています。

 そのように理解しているなら、ブッダが言われているディバヤという言葉は欲情を意味せず、心の安楽を意味し、欲情に関わらず、そして心の静かさ、特に形禅定があると理解し直してください。

 欲情を意味するディバヤ、あるいはデーバという言葉は、ブッダの時代以前の大昔の物であり、煩悩がある人が望むものなので滑稽な話になり、天国の宮殿へ行って天人の子になり、天人の娘になり、天女になるために人を雇って、あるいは人を騙して徳を積ませる話になりました。一方ここでのディバヤヴィハーラの話はこの種の天国や宮殿には関係ありません。

 ディパヤ、あるいはデーヴァという言葉は広い意味があり、そして幾つもの意味があり、愛欲があるものも愛欲がないのもあり、あるいは何でも普通より高ければデーバと呼ぶことができ、パーリ語では雨もデーバと言います。デーヴォーは雨という意味で、デーヴァは天界という意味もあり、デーヴァは大地の神の名前に使うこともでき、要約すれば「高い。高い所にいる」という意味です。

 カーマーヴァチャラ(欲界動物)のレベルの天人、トウリ天、耶魔天、兜率天などは欲界の天人です。しかし形梵天のどのレベルも形界動物である天人と呼び、あるいは無形界動物である天人も天人です。

 ブッダは定に到達し、そしてその定、アーナーパーナサティの話の中で詳細に述べた形禅定と呼ぶ定の中にいる人に対してディバヤヴィハーラに言及されました。

 みなさん、どのようにアーナーパーナサティをし、そしてどのように定である結果が生じるか、その定にいる時をディバヤヴィハーラにいると言うと、その説明を復習して見てください。これはブッダバーシタで、次のように言われました。

 『バラモンさん。如行がこの世界のどの村、あるいは町にいても、朝チーヴァラを纏ってその村、あるいは町に托鉢に行き、食事の後托鉢から戻る時、森の縁に寄り道し、そこにある物何でも、草でも木の葉でも引っ掴んで座る場所を作り、結跏趺坐して体を真っ直ぐに立て、サティを現前に据えます。私はすべての愛欲が静まり、すべての悪が静まって初禅、二禅、三禅、四禅に入り、ウペッカー(捨)による純潔なサティがあり、その感覚の中にいます。

 バラモンさん。私がそのような時歩いていれば、そこはディバヤであるジャンカマ(経行)をする場所と呼ばれ、その時立っていれば、そこはディバヤである立つ場所と呼ばれ、その時座っていれば、そこはディバヤである座る場所と呼ばれ、その時寝ていれば、そこはディバヤである寝床と呼ばれます。

 バラモンさん。これです。私が簡単に作ることができ、探すのが難しくない、大きくて背の高い天の寝床は』。

 これが、何が、あるいはどこが天の歩道、天の立つ場所、天の座所、天の場所と呼ばれるか見えるよう説かれたブッダバーシタで、この文章では「草や木の葉などを掻き寄せて敷いて座る場所を作り、結跏趺坐して体を真っ直ぐに立て、サティを現前に据える」と、ハッキリと説かれています。

 これは、ブッダはどこかの森林の縁の草の上、あるいは木の葉の上にお座りになり、そして初禅などに入られれば、そこを「天の歩道、天の立つ場所、天の座る場所、天の寝床」と呼ぶという意味です。

 みなさん、これは冗談のように話された言葉か、それとも最高の真実があるように話されたか、考えて見てください。欲情の話、天人の話、天女の話、神々の話に夢中になって陶酔している人たちは、たぶん理解できず、そして嘲笑し、ブッダが言われた冗談と非難するかもしれません。しかし正しい知識と理解がある人は、この項目がどのような意味かはっきり見えなければなりません。

 「静かな場所に行って座り、サティを据え、サマーディの感情(心が注目しているもの)を意識して、心を静めて初禅などに到達する」その場所が天の座る場所、天の寝場所、天の立つ場所、天の歩道になります。

 初禅などに到達するには幾つもの方法がありますが、最も良く、最高に賞賛されたのはアーナーパーナサティです。アーナーパーナサティをするのは便利で、何も探してくる必要がないからです。そして初めた時から静かできちんとしていて、恐ろしい物は何もなく穏やかに進行するので、大騒ぎで恐ろしく、初めからゾッとしてしまうアスバカンマダーナ(不浄念処)でカーヤーガタサティ(身至念)をするのと違います。

 アーナーパーナサティは息を吐き、息を吸う度に感情である何らかの物を意識します。初めの段階は呼吸を、長ければ長い、短ければ短いと意識し、長い息は身体にどのような威力があるかを知り、自然の秘密を掴むことができ、身体が静まり、定の中にいると言えるまで心が静まるまで呼吸を滑らかに緻密に精密にします。それが突然生じるディバヤヴィハーラです。

 まとめると、初めの段階は吐く息吸う息を追い駆け、次の段階は息が当たる鼻先で見守り、次の段階ではウッガハニミッタ(目に焼き付ける相。取相)であるニミッタを潜在意識でそこに作ります。それから内面で見えているウッガハニミッタの形を変えるために心を傾け、望み通りにいろいろに変化させます。

 このようにできれば心を非常に良く支配でき、疑うまでもなく心に五つの定の要素、ヴィタッカ、ヴィチャーラ、ピーティ、スッカ、そしてエカッガターがあるようにできたと言います。

 このような五つがあれば、その心の静かさを初禅と呼び、これは最初の段階のディバヤヴィハーラです。ディバヤである、デーバである幸福で暮らす人で、私たち普通の人間の幸福以上の幸福という意味です。人間の幸福は欲情で汚れ、ここでのディバヤヴィハーラである幸福は純潔で清潔で、欲情で汚れていません。更に高い定に移動すると、順に二禅、三禅、四禅になり、あるのは純潔だけで、次第にニデーサ、つまり定の話の解説で知るべき段階的に高い幸福になります。

 初禅については「この宗教の比丘はすべての愛欲が静まり、すべての悪が静まってヴィタッカ(尋。考えること)、ヴィチャーラ(伺。熟考)、ピーティ(喜悦)、スッカ(幸福)、そしてヴィヴェカ(遠離)から生じたエカッガター(一境心)がある初禅に到達し、常にその感覚の中にいます」と、パーリにハッキリと説明があります。これが理解しなければならないことです。

 「この宗教の比丘」という初めの言葉は、この宗教に範囲を限定するためで、他の宗教は知りません。彼らがどのようにするかは知りませんが、この宗教の比丘、あるいはこの方法の場合は静かな場所、森、木の根元、洞窟の中、山、小川、あるいは住んでいる地域で探せる静かな場所で、あるいは在家は森へ行く必要はなく、家の部屋をこの目的にふさわしく整えて、誰も妨害する人がなければ大丈夫です。

 「体を真っ直ぐに立てて座り、サティを維持し」、その時ヴィヴェカがあると呼ばれ、ヴィヴェカとは静まって何も妨害がないことで、ここでは欲情が妨害しないので、すべての愛欲が静まると言い、その時どんな罪や悪も妨害もしません。だからすべての悪が静まったと言われます。

 これが「その時その人はどのような心があるか、重要な意味は、その時心は心を妨害するものから解放されていること」と良く観察しなければならないものです。欲情の話、性の話、いろんな話が妨害すれば失敗するということです。愛欲が静まり、他の悪が静まることは、初めの段階に必ずなければならない重要な要素で、愛欲といろんなニーヴァラナ(蓋)がある悪が静まることは、静まれば静まるほど静かになり、「定と呼ぶほどの静かさがある」と言うほどになります。

 ニーヴァラナ(蓋)と呼ぶものはお寺の人には良く知られていて、カーマチャンダ(欲貪)、ビャーバーダ(瞋恚)、ティーナミッダ(眠気と寂しさ)、ウッダッチャククッチャ(散漫)、ヴィジキッチャ(疑)の五つは人を常に妨害する物です。

 カーマチャンダは愛欲の方へ傾く感覚で、ビャーバーダは好きでない、胸が詰まる、憎悪、誰かを妬むなどで、ティーナミッダは萎れ、しょんぼりし、悲しく、侘しく、挫け、ウッダッチャクックッチャは反対で散漫、うわごと、煩わしいなどで、ヴィチキッチャーは躊躇いで、これをしたら何の利益があるか、ブッダ、プラタム、僧は他の人が言うように良いか否か、人が言うような利益が本当にあるのか否か、仏教の実践項目を疑って躊躇う、こういうのを躊躇いと言います。

 この五つのニーヴァラナがなくなッタ時、すべての悪が静まったと言います。これらの悪が自然に静まるのは難しいので行動をしなければなりませんが、この静かさのほとんどが体の面の初めの部分の静かさを意味するなら、もう一つの力である場所に助けてもらわなければなりません。

 森などの静かな場所に行くと非常に妨害が静まり、そして心がサンニャー(想)、すべての過去の感情から離れ始め、現前の感情、呼吸などを意識して更に静まり、何とか形禅定になるくらい高いサマーディになる静かさがあります。

 ヴィタッカがあるとは「心がその感情に掴まっている」とその感情を感じ、その感情を意識しているサティがあり、ヴィチャーラがあるとは、その感情を明かに知り、その感情に沁みわたっていて、そしてそのようにできれば満足できるもので、ピーティ(喜悦)満足があります。

 そのピーティからスッカ(幸福)である満足を感じ、そしてそのスッカはヴィヴェカ(遠離)、つまり静まることから生じただけです。このような状態には心が一つの感情、つまり呼吸だけを意識することが重要です。心が一つだけの感情を意識することができれば、いろんなことが失敗せず、望みどおりになり、初めの段階である初禅と呼ぶ程度まで静まります。

 これが初めてディバヤヴィハーラに入ること、あるいは初禅のレベル、つまり形禅定一番目の実践です。

 次は「ヴィタッカ・ヴィチャーラが静まって、その比丘は内面の心を明るくするものであり、一番のダンマであるサマーディを表すことができ、ヴィタッカはなく、ヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じたピーティとスッカだけの第二禅定に入り、その感覚の中にいます」というパーリの文言がある第二禅定になりました。これが題目です。

 その比丘が初禅を生じさせることができた時、この「初禅もまだ粗い。それなら私はこの定を静めて更に滑らかに精密にしよう」という感覚があるという意味です。だからその比丘はヴィタッカとヴィチャーラを捨ててしまう努力をします。

 五つの感覚がある定の条件の初めの二つ、つまりヴィタッカとヴィチャーラを引き抜いてしまい、感情、あるいは感情に染み込んでいるものを意識して静め、全面に明らかである結果と心に一つだけある感情、つまり呼吸を意識しているピーティとスッカだけを残すので、「ヴィタッカとヴィチャーラが静まって、彼は内部の心を明るくするものである二禅に入ります」という文言があります。

 この項目は、ヴィタッカ・ヴィチャーラが静まることで心の明るさが増し、主要なダンマであるサマーディを生じさせることができるという意味です。これは、初禅の段階では主要なダンマであるヴィヴェカが生じていて、二禅になると主要なダンマであるサマーディが維持されていると理解すべきです。

 初禅ではヴィヴェカ、あるいは愛欲とその悪が静まることが先導する美徳で、そしてそのヴィヴェカを感じています。二禅では心を更にサマーディにするので、サマーディと呼ぶものが先導し、つまり主要なタンマという立場になります。

 だから「主要なダンマとしてサマーディが現れ、ヴィタッカはなく、ヴィチャーラもなく、あるのはそのサマーディから生じたピーティとスッカだけで、その感覚の中にいます」とパーリにあります。

 初禅の段階では、ピーティとスッカはヴィヴェカ(遠離)から生じ、二禅ではピーティとスッカはサマーディから生じて更に高くなり、更に緻密になり、更に安定し、サマーディから生じたピーティとスッカはヴィヴェカか生じたピーティとスッカより強固になるという意味です。

 これが初禅と二禅の違いです。その比丘が二禅に入ることができれば、二番目の、つまり二禅の段階のディバヤヴィハーラに住んでいると言われます。

 次の三番目は三禅で、この項目はパーリ(ブッダの言葉である経)に「ピーティが薄れて消えるので、その比丘は平然と注目できる人で、サティがあり、サムパッチャンニャ(自覚)があり、全身に行きわたる感覚があり、ナーマカーヤ(名身)で幸福を味わい、すべての聖人が『平然としていられる人で、サティがあり幸福に暮らす』と言われる四禅に到達し、その感覚の中いる」とあります。

 三禅の中にピーティが薄れて消えるという説明があります。これは初めからしてきたのと同じ規則があり、その比丘は「二禅には三つのもの、つまりピーティとスッカ、そしてエカッガターがあるので、二禅もまだ粗いサマーディだ。それなら私はもっと滑らかに静めよう」と考えます。

 だからその比丘は、そのピーティである感覚が鼻に現れないような状態にし、残っているのはスッカである感覚と一つだけの感情つまり呼吸だけを意識する、これをエカッガター(一境心)と言います。

 その人はこのように平然と注目できる人で、非常に平然としていられると言い、サティがあり、以前よりもサンパッチャンニャ(自覚)があり、ナーマカーヤ(名身)で十分スッカを味わうことができます。

 ナーマカーヤでスッカを味わうとは、自分自身で感じる幸福という意味で、理由は何も必要なく、他人を信じる必要もありません。この言葉は心の感覚が十分にあること、あるいは完璧なレベルに至り、そしてその幸福に最高の常自覚があることを表す言葉です。普通の幸福と比べると、私たちが家で感じている幸福は常自覚に欠ける幸福、愚かさの威力による幸福です。

 体の面、目・耳・鼻・舌・体面で美味しくさせるものがあると、変化させる物の威力で身体の感覚があり、このような愚かさによる幸福を味わうと、常自覚がなく、純潔、正しさなどがないので、ナーマカーヤで幸福を味わうと言いません。

 この三禅で「ナーマカーヤで幸福を味わう」というのはこのような意味があります。これが第三禅に入ることで、この定はすべての聖人が称賛する定で、観察すべきは、聖人は初禅や二禅はまだ称賛せず、三禅に至って初めて「彼は平然としていられ、サティがあり幸福にいる」と称賛する点です。

 この三語の意味は非常に重要で、「幸福」で「サティがあり」「平然」としていて、幸福があっても満足の威力で小躍りして喜んで、その幸福で心が揺れ続けません。それは普通の幸福、あるいはあまり平然としていられない初禅、二禅の幸福で、三禅になるとサティで管理する幸福です。だから平然、あるいは正常でいられます。以上の理由で「その人は平然としていられる人で、サティがあり、幸福で暮らす」とハッキリと付加しておく言葉があります。

 これが三番目のディバヤヴィハーラ(天精舎)で、三禅に入った人は述べた二つのレベル以上のディバヤヴィハーラの幸福を味わいます。

 次に最後の第四段階は四禅の話で、パーリには「幸福と苦を捨てることができるので、過去のソマナサ(喜び)とドーマナサ(愁苦)が消えることで、その比丘は苦も幸福もなく、ウペッカー(捨)による純潔なサティしかない四禅に入り、常にその感覚の中にいる」とあります。

 この説明も前のと同じで、その比丘は「三禅の状況でもまだ粗い。それならこの定の状態を、更に緻密に滑らかにする」と見ます。だから彼はスッカである感覚を捨ててしまい、そして苦である感覚もすべて捨ててしまいます。

 ここでの「苦」という言葉は、行動振舞いから生じる些細な感覚を意味し、幸福はサティがあって平然としていられる幸福でも、感覚の中で妨害している一つの感覚です。

 この「妨害」は、妨害して複雑困難にさせることを意味せず、感じなければならない妨害だけで、感じなければ妨害ではないので幸福と苦である感覚のどちらも静まります。どんな喜びも愁苦も当然この機会に消滅に至り、過去のサンニャー(想)、あるいは喜びと愁苦である感覚を意識する、現在あるいは未来のサンニャーはありません。

 これは平然としている、あるいは十分なウペッカー(捨)があることの説明で、スッカ(幸福)、あるいは苦に傾いて行く感覚は残らないので、残っているのはウペッカーである感覚とサティだけです。今まではスッカとサティがあり、今はウペッカーとサティがあり、スッカである感覚は残っていません。

 だから四番目の定は「苦がなく、スッカがなく、ウペッカーで純潔なサティがあり、エカッガターがある」と言われます。これが、心が一つだけの感情を意識することです。つまり形禅定、感情であるルーパダンマ(物質)がある定は、これだけで最高レベルになり、そして第四禅定は幸福あるいは苦である感覚がなく、ウペッカーである感覚とサティ、つまりその感覚があるということです。

 それは欲情(カーマーラマナ)、悪、あるいは幸福、苦がなく、どれほど純潔・清潔で乾いているか、考えて見てください。この段階まで来ると、ブッダはディバヤヴィハーラ(天精舎)の第四段階にいると言われました。

 ディバヤの第一段階、第二段階、第三段階、第四段階に入った時、座っていれば、ディバヤ(天)の座に座っていると言い、寝ていれば天の寝床に寝ていると言い、立っていれば天の立つ場所に立っていると言い、歩いていれば天の歩道を歩いていると言います。

 身体はブッダが言われたように草の上、木の葉の上にいても、あるいは自由な人の家の静寂な部屋にいても、当然すべての物を望みどおりに整えることができ、サティとウペッカー、つまり苦でも幸福でもないことで静かな心があります。どのようなディバヤヴィハーラを望んでも、心は望みどおり四六時中サティで管理され、そしてどれだけでもいることができます。

 みなさん、これは不可能なことか不可能でないか、それとも人間が今ここで(現世で)できるかどうか考えて見てください。誰かはできなくても、それができるブッダと多くの阿羅漢がいて、そして「それは簡単で、難しくなく、大変でない」と諭されています。

 「バラモンさん。これが私が簡単に、難しくなく、大変でなく作れるディバヤである大きくて高いベッドです」と、このように言われました。すべての仏教教団員はディバヤヴィハーラという言葉、つまりこのような状態にある純潔な天人のような暮らしを理解なさい。  これがディバヤヴィハーラに関わる実践の概要です。


二番目 ブラフマヴィハーラ、つまり梵天のような暮らし
 この項目は「バラモンさん。この世界のどこかの村か町に住んで、朝チーヴァラ(衣)を纏ってその村か町に托鉢に行きます。食事の後、托鉢から帰る時森の縁へ寄り道して、私はそこにある物何でも、草でも、あるいは木の葉でも掻き寄せて敷いて結跏趺坐して座り、体を真っ直ぐにしてサティを現前に据えます。

 私はメッター(慈しみ)があり、偉大な徳で満ち、恨みはなく、復讐心がない心を、第一の方向、第二の方向、第三の方向、第四の方向、上も下も、遮る方も、世界中どの方向も偏りなく拡げます。

 「バラモンさん。私がこのようにしていると、歩いていれば、その時そこはブラフマの歩く道と言われ、立っていれば、その時そこはブラフマの立つ場所と言われ、座っていれば、その時そこはブラフマの座所と言われ、寝ていれば、その時そこはブラフマの寝床といわれます。

 バラモンさん。これが今私が簡単に、難しくなく、大変でなく手に入るブラフマである大きくて高いベッドです」とパーリにあります。

 説明のほとんどはディバヤヴィハーラと同じで、違うのは、この場合はブラフマヴィハーラ、つまりメッター(慈)、カルナー(悲)、ムディター(喜)、ウペッカー(捨)に注目しているだけです。ブッダは同じ徳の文句でメッター、カルナー、ムディター、ウペッカーの話を話されました。

 広大なメッター(慈。他人の幸福を願うこと)があり、無限に大きな徳があり、恨みがなく恐怖がなく、そして広大なカルナー(悲。他人の苦を取り除いてやりたいと願うこと)があり、無限に大きな徳があり、恨みがなく恐怖がなく、広大なムディター(喜。他人の幸福を喜ぶこと)があり、無限に大きな徳があり、恨みがなく恐怖がなく、豊かなウペッカー(捨。助けられない時は平然としていること)があり、無限に大きな徳があり、恨みがなく、恐怖がないという意味です。

 四つの徳、つまりメッター、カルナー、ムディター、ウペッカー(慈・悲・喜・捨)は現前にサティが維持されている心にあるダンマです。そしてメッター、カルナー、ムディター、ウペッカーと呼ぶ感覚を、第一、第二、第三、第四、の方向に広げ、これは東西南北という意味で、上も下も、遮る方向も、これは上の方も、下の方も、遮る方向とは自分の周りという意味です。

 すべての方向に、世界中同じように広げ、光のような状態があるという意味で、明かりが灯ると光は当然身の回りを、上も下も、あるいは周囲も隙間なく照らします。私たちが点ける明かりを観察して見てください。そして「すべての世界」という言葉を理解してください。ここでの世界は動物界を意味し、ここでの動物界とは考えることができる命があるものを意味します。

 ブラフマヴィハーラに励む人は、メッター、愛あるいは友情のある感覚を施し、カルナー、つまり憐れんで同情し、ムディター、つまり一緒に喜び、ウペッカー、つまり援けられない時は泰然としている、これらの心を世界中に広げます。

 ブラフマヴィハーラの実践をする重要な規則は、この四つの理解がなければならないことです。

1 メッター(慈) ミタラから来ています。メッターとは「友情がある」、つまり敵でないこと、だから生老病死の友である人間同朋への愛を意味し、こういうのをメッターと言い、美徳の一つです。

2 カルナー(悲) つまり憐れみで、援けて苦や困難から登って来させることができる人物を援けないでいることに耐えられません。

3 ムディター(喜)と言い、他の人物、あるいは他の動物が幸福を受け取った時は共に喜び満足し、親戚でなくても、一族でなくても、友人知己でも何でなくても他の人物が幸福な時は共に幸福になる、こういうのをムディターと言います。

4 最後はウペッカー(捨)と言い、意味は二つあります。他人を援けることができない場合に私たちが苦になるのは正しくないので、平然としていなければなりません。あるいは他人を援けて、その人が再び私たちを危険にした時、あるいは罵り、あるいは非難する場合も、これも平然としていなければなりません。

 親が善意で子に忠告して子が聞き従わず、反対に親に危害を加える、あるいは監督者が善意で指揮下にある人に忠告して教えたらその人が怒る、このような場合もウペッカーがなければなりません。

 だから援けられない場合でも、あるいは援けても望ましくない反応を受け取った場合でも、ウペッカーである感覚がなければなりません。そして静かな場所へ行ってこの感覚、つまりメッター、カルナー、ムディター、ウペッカーを、身の回りのすべての方向の状態で、すべての世界に広げて覆います。


知るべき定義
 「広大な」という言葉は、欠けず、飛び出ず、例外なく、条件なくという意味で、メッター、カルナー、ムディター、ウペッカーであるすべての心の力を注ぎます。

 「大きな徳がある」という文句は、私たちは大きな徳がある心があるという意味で、その人から愛されたいからするのではなく、徳や善を得るため、あるいは何かと引き換えにするのでもなく、大きな徳がある心で、つまりすべての世界の動物より上で、心をすべての世界の動物より上に置き、他人のご機嫌を取るためでなく、あるいは自分の心をそれらの動物より低くする類のもののためではないという意味です。

 「量ることができない」という文句はパーリ語とタンマ語の言い回しで、数えられない、量れない、数えること、量ることを超えている美徳です。

 「恨みがなく、復讐心がなく、恐怖がない」という文句は、この心には恨みであり恐怖である感覚、あるいはどんな復讐心も残っていないことが明らかです。すべてはメッターはどのようか、カルナー、ムディター、ウペッカーはどのようか、はっきり説明した言葉なので、「最高、あるいは偉大、あるは広大、あるいは量ることができない」と言われます。

 人がこのような心を意識して、このように身の回りやすべての世界中に届ければ、ブラフマヴィハーラ、つまりブラフマのような暮らしになります。

 ブラフマ(梵天)という言葉の普通の意味は「最高」、あるいは「素晴らしい」という意味で、このような感覚があればいつでも、その時歩いていれば、その歩いている場所をブラフマである歩道と言い、立っていればブラフマの立つ場所と言い、座っていればブラフマの座る場所と言い、寝ていればブラフマの寝床と言います。

 その人自身がブラフマで、そのような状態で歩いている、立っている、座っている、寝ているという意味です。ブッダは「私は簡単に難しくなく、大変でなく探すことができる。すべての挙措がそのようであるから」と言われています。

 これを、二番目のヴィハーラであるブラフマヴィハーラに到達するための実践項目と言います。


三番目はアリヤヴィハーラと言う
 アリヤとは幾つもの訳があり、最高に素晴らしいでも良く、敵つまり煩悩がないでも良いです。「アリ」は敵という意味で、「ヤ」は行く、アリヤは「敵、つまり煩悩から行ってしまう」という意味です。聖人は敵つまり煩悩から行った人で、煩悩はその人に何もできません。そのような生活をしていればアリヤヴィハーラにいると言います。

 ブッダが言われたこの項目は、「バラモンさん。この世界で、私がいずれかの村、あるいは町に滞在して、朝方チーヴァラをまとってその村、あるいは町へ托鉢に行き、食事の後、托鉢の帰り道に森の縁(浅い森)へ寄り、その辺にある物何でも、草でも木の葉でも掻き寄せて座る場所を作り、結跏趺坐して体を真っ直ぐに立て、サティを現前に据えます。私は当然、自分自身の心を次のように知ります。

 ラーガ(貪り)を私は捨てて無くし、根こそぎ抜き、首を切られたサトウヤシの木のようにし、再び生きられないように、当然再び生まれられないようにした。

 ドーサ(怒り)を私は捨てて無くし、根こそぎ抜き、首を切られたサトウヤシの木のようにし、再び生きられないように、当然再び生まれられないようにした。

 モーハ(迷い)を私は捨てて無くし、根こそぎ抜き、首を切られたサトウヤシの木のようにし、再び生きられないように、当然再び生まれられないようにした、とこのように。

 バラモンさん。私がこのようである時、歩いていれば、その時そこはアリヤの歩道と呼ばれ、その時立っていれば、そこはアリヤの立つ場所と言われ、その時座っていれば、そこはアリヤの座る場所と言われ、その時寝ていれば、そこはアリヤの寝る場所と言われます。

 バラモンさん。これが、今私が簡単に難しくなく、大変でなく探すことができるアリヤである広くて高い寝台です」。

 これが題目であるパーリで、説明はほとんどサマーディの話だった今までの二つのヴィハーラと違ってきます。この場合は智慧の威力で煩悩がなくなる話で、煩悩は捨てて無くなったことを自分の心でハッキリと確実に知ります。その感覚によるどんな挙措がある時も、その時その挙措によってアリヤである人と言われます。

 この項目は、ブッダはキーナーサヴァ(阿羅漢)で終わった煩悩随眠があり、「このようなアリヤヴィハーラを望む普通の人は、ラーガ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(痴)を捨ててしまうために実践行動をする努力をしている人」とハッキリと説明しているので、あるべき結果は、ラーガ、ドーサ、モーハに妨害されていないと感じる時はいつでも、その時私たちはブッダが住まわれているようなアリヤである場所に一緒に住むことができるだけです。

 この項目を誤解しないでください。つまり自分の価値を高く見積もり過ぎたり、低く見積もり過ぎたりすることに愚かすぎないでください。ほとんどは自分を低く見積もりすぎ、何かをして聖人のような結果を出すことができないと思い込み、中には「憧れてはいけない。聖人方の真似をして野望してはいけない」と禁じてしまう人もいます。これは正しくない教えです。

 正しい教えは、私たちは阿羅漢を見倣わなければならず、阿羅漢方がパッチャヴェッカナ(省察)するように努力しなければなりません。このウボーサタ(菩薩)のパッチャヴェッカナ(省察)にも、「私たちは阿羅漢のようにしよう」と忠告、あるいは誘う文言があります。

 だから煩悩、つまりラーガ(貪り)とドーサ(怒り)とモーハ(迷い)が適度にない機会があったら時があったら、その時をアリヤヴィハーラにいると言います。一時的でもまだ良く、クッパダンマ(揺れるもの)、再び悪化しても知らないより良いです。

 スアンモークに来る人でも、私はいつも説明する機会を見つけて、「このような定に入ったら、偶然ラーガ、ドーサ、モーハが無くなる心の話を学ぶ努力をしなさい」と、忠告しています。本当にできることだからです。一時的にラーガ、ドーサ、モーハ(貪・瞋・痴)がない心を意識なさい。

 そして座って、歩いて、立って、あるいはどんな挙措でもする。これが阿羅漢の跡を追ってアリヤヴィハーラに住むことです。もしできれば「私は自分の能力の限り阿羅漢の跡を追うことができた。野望や憧れではない。あるいは自分を立派な人と同等と思う思い上がりではない」と誇らしく感じます。

 自分の価値を低く見積もり過ぎてこれを誤解する人は、素晴らしい機会を失い、己惚れて不注意すぎる人は、また別の損失があります。だから常に忠告させていただきます。自分の価値を高く見すぎず、自分の価値を低く見すぎず、自分を適度に評価すればアリヤヴィハーラで暮らす機会があり、その素晴らしいヴィハーラで暮らすために聖人と相乗りすることです。

 これが三番目のヴィハーラであるアリヤヴィハーラの話で、実践原則は心にラーガ、ドーサ、モーハがない時に心の時を意識し、タダンガパハーナ(彼分捨離)でも、ヴィッカマバナパハーナ(鎮伏捨離)でも、サムッチェダパハーナ(正捨離)ででも良いです。普通の凡人の場合は、繰り返し説明した趣旨のタダンガパハーナとヴィッカマバナパハーナだけが望めます。
 

四番目のヴィハーラはスンニャターヴィハーラ(空精舎)と呼ぶ
 この話は複雑で混乱します。つまり聞いたことがない一般の人には複雑困難ですが、それでも聞いたことがあり、そして意味が分かる人のことを考えて忍耐してください。

 一度も聞いたことがない人は、理解する努力をすれば多少は理解できるかもしれません。私は、この話を理解しているものにするために、能力の限り最高に良く努力をします。どんなに大変でも努力しなければなりません。仏教のたった一つの心臓部であるスンニャターの話だからです。

 スンニャターヴィハーラとは、スンニャター(空)の中に住むという意味です。スンニャターとは煩悩がない心の状態という意味で、特に自分、動物、人物、私、彼という感覚がないこと、自分、あるいは自分のものという感覚がない状態をスンニャターと言います。

 心がそのような状態になれば、スンニャターヴィハーラにいると言います。しかしラーガ、ドーサ、モーハが空っぽと話すよりもっと詳細な説明の言葉があります。ブッダは「から」という言葉の意味を大きな教えになさろうと狙ったからです。

 私たちは「から」という言葉の意味を適度に理解してしまわなければなりません。この「から」とは、物質的に何もない種類のカラで、心の面のカラは何でもいろいろいっぱいあっても、「私、私の物」と強く理解する中身がありません。タンマの面のカラという言葉はこのようです。世俗的な意味は何もないことです。

 タンマの面の空っぽの心とは、心が何も考えないという意味ではなく、心は何でも今までと同じように感じ考えていますが、心に「自分、自分の物」という感覚がないだけです。仕事のこと、いろんな学問知識を考える感覚はあり、空っぽなのは自分という感覚だけです。

 スンニャターヴィハーラという言葉に関して、カラという言葉の意味を明解に理解すべきです。世尊は「アーナンダ。過去でも現在でも、如行はほとんどスンニャターヴィハーラにいます」と言われています。

 これはブッダがこの経で、現在も過去も、如行はほとんどの時間をスンニャターヴィハーラで過ごしていると言われ、何物も自分と規定しない心の感覚でいる、あるいは何らかの価値のある意味で暮らすという意味です。聞いているみなさん、これから理解するによう注意しなければなりません。

 ブッダは、城、つまりその時サンガが滞在していたミガーラマートゥパサーダというヴィハーラに例えられました。「ミガーラマートゥパサーダのように」とは、象、馬、牛、驢馬がカラで、銀と金がカラで、集まって来る女と男がカラで、カラでないのは比丘サンガだけです。

 ここでブッダは、空っぽという言葉を比丘に理解させるために「今比丘たちと滞在しているヴィハーラは、象がなく、馬がなく、牛もなく、ロバもなく、銀もなく、金もなく、集まって来る男女もなく、これらの物が空っぽであることはどんな意味があるか、規定しておきなさい。そしてこのヴィハーラに空(から)でないのは一つだけ、つまり比丘はからではありません。ブッダを頭とする比丘がいっぱいだからです」と言われました。

 このような文章は、屋敷の中に比丘はカラではないけれど、象、馬、牛、ロバなどは空っぽだと述べています。これはブッダが、他人が理解していることを基礎に説明して、まだ理解していないことを理解させるように言われたので、初めに「この寺、このヴィハーラは、象、馬、牛、ロバ、銀、金などは空っぽであり、空でないのは比丘だけ」と、物質的な空を取り上げられました。

 ここでブッダは「空」という言葉を理解させるために、抽象的な意味の空という言葉について段階的に話され、一番目のスンニャターについては、

 「アーナンダ。そのように心の中を国や人間というサンニャー(想)にしない比丘は、当然森というサンニャーだけにします。その比丘の心は森というサンニャーに駆けて行き、帰依し、維持し、傾いていきます」と言われています。

 この項目は、ブッダがアーナンダに「スンニャターヴィハーラに励んでいる比丘は、心の中を国、人間というサンニャーにしないで、心の中を森というサンニャーだけにします」と説明されています。

 その比丘がそこに座っている時は、心に国、あるいは人というサンニャーを生じさせるのを放置しないで、森というサンニャーだけがあり、僧などの人間がいても、森だけに、何にもない森だけというサンニャーにし、人もなく、国もなく、その比丘の心は森というサンニャーの中にいます。

 ここで「今国の人は空っぽで、空っぽでなく残っているのは森という意味、あるいは森の状態だけ」と熟慮しなければなりません。ここまで来るとその比丘は「ダラター(不安)、つまり人間というサンニャーに依存して心を妨害する物はない。あるのは森というサンニャーに依存するダラター、心を妨害するものだけ」と、自分の心の中を隅々まで明らかに感じます。

 この項目は、比丘が「国。人」というサンニャー(想)を抜き取ることができた時、残っているのは森というサンニャーだけと、詳細に熟慮しなければならないと説明しているいるので、心の中で妨害している感覚は、心を痛めつける、あるいは苦しめるというほどでなくても、まだ心を妨害しています。

 今まで私たちは国や人というサンニャーがあり、それも心を妨害する一つで、抜き取ってしまうことができれば、代わりに森というサンニャーだけが残り、心を妨害している感覚は、心の妨害が少ない感覚になります。

 まだ私たちに「国がある。人がいるという感覚があれば、私たちの心はどう感じるか。もし国はなく、人もいなく、あるのは森だけと感じれば、森というサンニャーがある人の心はどう感じるか。空を感じる心の方が確実で、森というサンニャーがある方が、国があり人がいるという感覚がある人の心より空っぽだ」と、簡潔に良く考えてください。ブッダは、聞き手が空っぽという言葉の意味を、このような状態で観察して見るよう望まれたので、このような状態で話されました。

 ダラターという言葉は聞いたことがないみなさんにとっては奇妙な言葉かもしれません。この言葉の意味をいろいろに理解し、「混迷、混乱、心を苦しめること」とまで誤解している人がいますが、これは多過ぎます。

 この言葉は「心の中を微妙に複雑に重くし抑圧する」という意味で、例えば私たちが市場の方に顔を向ければ心はどのように感じ、海の方に顔を向ければ心はどのように感じるか。これは、市場の方に顔を向ければ、ダラターつまり心に当たって妨害するものは海の方を向いている時より多いと理解できます。ダラターはこのように変わることができます。

 次にその比丘は「今自分の感覚の中にある物、つまりサンニャーに国はなく、人もなく、カラでないのは森という感覚だけ」と、全身で感じます。その人は「何もない。それこそが空であること。そこに残っている物、それがそこにある」と全身で感じます。

 この項目は「比丘は空であるものが見え始め、そしてまだ残っているものが見える」という意味です。この場合は国というサンニャー、人というサンニャーは空になり、ありませんが、森というサンニャーはまだ残っていて、森というサンニャーは残っていても、その比丘は最初のレベル、第一段階のスンニャターヴィハーラ(空精舎)に到達したと言います。

 だからブッダは「アーナンダ。本物で間違いがなく、純潔清浄で、パラマーヌッタラスンニャター(最上義の空)であるスンニャターに入ることは、このような状態で当然その比丘にある」と言われています。最初のスンニャターヴィハーラという意味で、そして本物で正しい物で、失敗のない物で、パラマーヌッタラスンニャター(最上義の空)と言うことができます。

 それまでその比丘は、「国、人」というサンニャーが空でなく、今その比丘は国、人というサンニャー(想)が空で、残っているのは森というサンニャーだけだからです。この段階まで来られれば、第一段階のスンニャターヴィハーラ(空精舎)と言います。

 第二段階のスンニャター(空)は、続けて「まだ他にもあり、その比丘は人というサンニャーを作らず、森というサンニャーを作らず、大地というサンニャーだけを作ります」とあります。

 これは、人を抜き取ってしまい、森という言葉を抜き取ってしまい、大地だけが残っていると意識するという意味です。簡単な例では、私たちがここに座って、あるいはその比丘がここに座ってこの項目のカンマダーナ(念処)をしていて、「今ここに座っている人がいる」というサンニャーを抜いてしまえば、残るのは森だけで、そしてこの「森」というサンニャーを抜いてしまえば、何もない大地だけが残ります。

 この項目は、ブッダは「人が百もの釘で打ちつけた仕切り壁は、当然一定で縮んだ跡がないように、比丘は『人は空、森も空で、残っているのはその壁のように一定で縮んだ跡がない大地だけ』というサンニャーを作ります」と言われています。

 今心の中を「ここに座っている人もなく、木もなく、石もなく、土の山もなく、あるのはピンと張った仕切り壁のように平らな大地だけ」という感覚にします。つまり「人が空であること、森が空であること」が生じ、残っているのは大地だけです。人が空っぽ、森が空っぽ、これは空の部分で、有る部分、残っているのは大地だけです。

 だからその比丘はダラター(心の静かさを妨害する物)、つまり人というサンニャー、森というサンニャーから来る心を妨害するものがなく、残って心を妨害するものは大地というサンニャーであるダラターだけで、この大地というサンニャーは森というサンニャーより心の妨害が少ないです。

 第三段階のスンニャターは、その比丘が森と大地というサンニャーを引き抜いてしまい、あるのは空というサンニャー、つまり空だけにすればアーカーサーナンチャーヤタナ(空無辺処)と言います。森を抜いて、大地を抜いてしまい、残っているのは空、あるいは空っぽと意識することをアーカーサーナンチャーヤタナと言い、このように空というサンニャーだけが心に残っている時、心を妨害する物は減少し、二度と森、大地というサンニャーで妨害する物はなく、空というサンニャーで心を妨害する物だけが残っています。

 第四段階のスンニャター(空)は大地というサンニャー(想)を避けてしまい、あるのはヴィンニャーナニャチャーヤタナ(識無辺処)だけ、あるのはヴィンニャー(識)、ヴンニャーナダートゥ(識界)、ナーマダートゥ(名界)というサンニャーだけ、つまり心のダートゥだけが残っていて、空なのも知っているので抜いてしまい、残っているのはより繊細なもの、つまりヴィンニャーナダートゥ、あるいはナーマダートゥだけです。

 このようになればダラター、心を妨害する物は更に減って、大地あるいは空というサンニャーから生じるダラターは無くなり、まだ残っているのはヴィンニャーナという感覚から生じるダラターだけです。

 第五戒段階のスンニャターは、その比丘は空というサンニャー(想)、ヴィンニャーナ(識)というサンニャーを抜いてしまい、残っているのは「何もない」というサンニャーだけ、つまりアーキンチャンニャーヤタナ(無所有処)で、何もないというサンニャーの感覚にします。

 その比丘のサンニャーの中には何もなく、その比丘の心を妨害するダラターは更に少なくなり、更に繊細になり、アーカーサーナンチャーヤタナ(空無辺処)、ヴィンニャーナンチャーヤタナ(識無辺処)による心の妨害は消滅し、「何もない」と意識することであるアーキンチャンニャーヤタナ(無所有処)による妨害だけです。

 第六段階のスンニャター(空)は、その比丘は「ヴィンニャーナがある」というサンニャーが静まり、「何もない」というサンニャーが静まり、残っているのはネヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ(非想非非想処)と呼ぶものだけ、つまりサンニャーがあると言うこともできず、サンニャーがないと言うこともできない心の感覚だけです。こういうのをネヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ(非想非非想処)と言います。

 こういうのはまだ死んでいないので死と言うことはできず、何も感覚がないのでまだ生きていると言うこともできない、こういうのをネヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ(非想非非想処)と言います。

 比丘がこのようにネヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ(非想非非想処)のサンニャーにできたら、ヴィンニャーニャンチャーヤタナ(識無辺処)とアーキンチャンニャーヤタナ(無所有処)からの心の妨害も静まり、残っているのはネヴァサンニャーナーサンニャーヤタナに依存するダラターだけになります。

 ここで聞いたことがない人のためにちょっと説明させていただきます。その比丘が心の中を「ヴィンニャーナがある」というサンニャーにすると、こいいうのは「何もない」にするより濃厚です。次に「何でもまだ十分に感じている」というサンニャーにします。

 次にサンニャーがあるのでもなく、サンニャーがないのでもないという種類のサンニャーにし、半分生きて半分死んでいる人、簡単に言えば、こういうのはサンニャーが有るのでも無くないのでもないサンニャー以外に何のサンニャーも感じないので、心を妨害するものは非常に少なくなり、残っているのはこのようなサンニャーがある間だけです。

 第七段階のスンニャターは、その比丘はアーキンチャンニャーヤタナ(無所有処)と、ネヴァサンニャーナーサンニャーヤタ(非想非非想処)と呼ぶサンニャーを引き抜いて、残っているのはニミッタがないチェトーサマーディ(心の安定)のサンニャーだけです。ニミッタがないチェトーサマーディとは、サマーディであると感じている心があるという意味ですが、サンニャーがあるのでもなく、サンニャーがないのでもないというレベルになったので感情はありません。

 ニミッタがないチェトーサマーディはいろんな種類があり、ここではニミッタがないチェトーサマーディを意味し、感情を探すことはできないけれど、チェトーサマーディの感覚はまだあるという意味です。だからダラター、つまりネヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ(非想非非想処)から生じた心を妨害するものは消滅します。今残っているのは「アーヤタナはある」という、つまりアーヤタナをとおした感覚はあるという感覚だけです。

 どのようだという感覚は絶たれ、消滅し、残っているのはアーヤタナを通した感覚だけです。ここでのアーヤタナとはマナーヤタナ、つまり心で、まだ心が感じているだけで、どのように感じているというサンニャーはなく、どのようか感じることはありませんが、感じているという感覚はあり、つまり感じる義務を行っているアーヤタナがあります。

 このようになると心を妨害しているもの、あるいはダラターは残り少なくなり、ネヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ(非想非非想処)の妨害は終わり、残っているのは「アーヤタナを通した感覚はある」という僅かな感覚だけになります。

 比丘がアーキンチャンニャーヤタナ(無所有処)のサンニャー、ネヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ(非想非非想処)のサンニャーを静めた時、ニミッタがないチェトーサマーディのサンニャーだけを作ります。次にこの種のチェトーサマーディもまだサンカーラ(行)であり、つまりまだ変調させるものがあるので、崩壊するのは当たり前という智慧が生じる部分になりました。

 このように知ると心がアーサヴァ(漏)から解脱し、最高のもの、人間が受け取るべき最高に素晴らしいものに執着しません。だから心はアーサヴァから脱し、アーサヴァから脱したとだけ知ります。

 次は心を妨害するダラター、カーマーサヴァ(欲漏)、バヴァーサヴァ(有漏)、アヴィッチャーサヴァ(無明漏)は無くなり、残っているのは「アーヤタナはある」という感覚から生じる心を妨害をするもの、ダラターだけと、最高の段階について知ります。

 その比丘は「このサンニャー(想)はカーマーサヴァ、バヴァーサヴァ、アヴィッチャーサヴァが空っぽで、空っぽでないのは、そのアーヤタナがまだ感じていることから生じるダラターだけで、アーヤタナがまだ自分の感じる義務を行っているそれぞれの段階がスンニャターヴィハーラ(空精舎)だ」とハッキリと知ります。

 消えて空っぽになった部分があり、そして残っている部分が減るからです。一部は消えてしまい、一部が残っているだけで、そして減少しています。一部は消えて、残っている一部もこのように減少しています。

 比丘はどの部分も空になったと規定し、空になったどの部分もスンニャターと規定するので、順に実践して来たどの段階もスンニャターを意識し、そして最後に、まだ感じているアーヤタナだけが残っています。短く言えば、残っているのは知る感覚だけで、アーヤタナが残っている、マナーヤタナも残っていると知ります。

 ここでのマナーヤタナのためのアーヤタナである涅槃も残っているので、残っているのはアーヤタナだけです。これが最高レベルのスンニャターヴィハーラで、残っているのは「アーヤタナがある」という感覚だけで、内部のアーヤタナは心、外部のアーヤタナは涅槃です。

 ブッダは「アーナンダ。本当に、間違いがなく、純潔で、パラマーヌッタラスンニャター(最上義の空)であるその比丘のスンニャターに入ることは、このような状態であります」、「最高で正しく間違いがないパラマーヌッタラスンニャターは、このように段階的に実践する比丘にあり、スンニャターヴィハーラと呼ぶ」と言われています。

 そしてブッダは挑戦なさるように「アーナンダ。過去でも未来でも現代でも、サマナ・バラモンがスンニャターヴィハーラに至るなら、このスンニャターヴィハーラ以外にスンニャターヴィハーラはありません」と言われています。

 これが、ヴェサーラッチャカラナダンマ(無畏にするもの)がある人ブッダの挑戦の言葉です。そして最後に「アーナンダ。だからみなさん、みなさんはこのような状態で純潔なパラマーヌッタラスンニャター(最上義の空)に入り、常にその感覚の中にいると留意なさい」と言われました。

 このスッタはスンニャターについて述べて終わります。多くの人はたぶん聞いて理解できないので、ここでもう一度まとめのように説明します。

 感覚の方法で明らかに現れるもの、つまりサンニャーを抜き出してしまい、それより少なくなったもの、減ったものだけを残します。このようにしていると心は物質的な空を意識し、そして抽象的なものを意識し、何もないことを意識し、そして感覚があるでもなく無いでもない心を意識し、そしてそのようになった心を意識しているサマーディだけを残し、「それはまだ生滅を繰り返すもの、生まれて維持して消滅していく物」と見ます。

 だからここにアーサヴァ(漏)の終わりがあり、アーサヴァが終わり、煩悩がなく、アーサヴァがなくても、まだ「アーヤタナはある。アーヤタナにはまだアーヤタナの感覚がある」という感覚は残っていて、短く「知識」と呼び、そしてその空を知り、その空が涅槃です。

 心には知識があり、空、その空が涅槃と知ります。最高のスンニャター(空)はこれだけです。つまりどの部分にも動物がなく、人物がなく、知る義務、空を知る義務を行うアーヤタナだけが残るまで、ずっとそのようです。

 聞いたことがなく、そして混乱している来たばかりの人のためにもう一度復習すると、ブッダはアーナンダにスンニャター、つまり空っぽであることを意識(規定)するよう教えられました。空は段階的に空になり、このお寺で例えれば、このお寺は初めに座って聞いているダーヤカ、ダージカ(お寺の支援者である男女)、座って説法をしている私、木々、石、土などがあります。

 初めは「人はいない。何もない。あるのは森だけ」と意識し、こういうのを「森の木にサンニャー(想)がある」と言い、サンニャーは森の木や土で、あるいは「森のサンニャーがはっきりし、明らかになった」と言います。

 森のサンニャーを抜き出して大地のサンニャーだけを残し、石、木々などは何でも弾け飛んで、心の中の感覚に残っているのは大地だけにし、でこぼこした物は何もなく、高い所、低い所もなくなり、仕切り壁のように平らな大地のように平坦な物だけが残り、このように平坦なら、大地というサンニャーだけがあります。

 これだけではまだ粗いので、ここでもう一度大地というサンニャーを抜き出してしまいます。私たちがその上に座っている大地が消え、残るのは空、つまり空っぽであることだけという意味です。これは心ですることができるという意味で、体でできるのではありません。つまり今残っているのは空だけです。

 しかしこの大地もまだ粗いと見るので更に精緻な物にし、ヴィンニャーナ(識)ダートゥ、あるいはナーマ(名)ダートゥにするので、何を意味するか理解が難しいですが、ナーマダートゥとは心の面のダートゥ(もの)を意味し、空より精緻になります。

 次に心のダートゥはまだ粗いので何もなくする方が良く、この何もないこともまだ感覚を妨害するので、「感じるでもなく、感じないでもない」方が良く、この感覚もまだ妨害するので、感情もニミッタも必要ないサマーディ、つまり感情でないもの、ニミッタでないものを意識している心にし、これをニミッタがないチェトーサマーディと言います。

 ここでそれは「その時残っているものは感じているアーヤタナ」と言っています。これは、まだアーサヴァ(漏)から解脱していない人は、「感じる義務を行っているアーヤタナ以外に何もない」と見るという意味です。ここでアーサヴァから脱せば、更にハッキリと「感じる義務を行っているアーヤタナ以外に何もない」と見えます。これがアーヤタナだけしか残っていない最後で、マナーヤタナは「空」「空だけ」と知る義務だけを行っています。

 つまり動物、人物、自分、私、彼、あるいは自我、霊魂などの感覚は生じる余地がなく、その功徳は清々しさということです。ブッダは、休息するならスンニャターヴィハーラ(空精舎)で休息すれば最高に快適と見なされています。

 だからブッダは「アーナンダ。私はほとんどスンニャターヴィハーラにいます」と言われました。普通の人のように眠る代わりにスンニャターヴィハーラにいるという意味で、それ以外はブッダの義務で仕事に出掛けます。日課である義務を行っていない時間は、普通の人のように眠る代わりにスンニャターヴィハーラにいます。

 空に入り、空と感じることは、どんなレベルでもスンニャターヴィハーラ(空精舎)と言います。スンニャターヴィハーラの一つ段階も、ダラターと呼ぶ心を妨害するものの減少があります。簡単な例は子や妻や孫、甥姪などがいっぱいいる家にいると、ダラターにすっかり覆われるので火のように熱いです。これらのものを抜き出した途端にダラターは変化しますが、空っぽの家だけでもまだ心を妨害します。

 家を全部出してしまって大地だけが残れば、妨害はもっと少なくなり、大地を出して空っぽであることだけが残れば、更に妨害か減ります。空っぽであることを抜き出してしまい、感じるでもなく感じないでもないことだけを残せば妨害は更に少なくなり、最後は空と感じるアーヤタナだけが残り、それで終わります。

 これが「まだ阿羅漢にならなくてもそれなりにすることができ、そしてそれなりに最高の利益を得ることができる」と説かれている教えで、知らないより良く、しないより良いです。

 簡単にまとめると、アーヤタナがあるという感覚以外に何も感覚がなく、そして空を感じている時は清々しいです。他のものより幸福で、気分が良く、つまりこのように空で暮らし、空と暮らし、前もって涅槃の味を味見します。

 このような感覚で暮らしている時はいつでも、スンニャターヴィハーラの中にいると言います。スンニャターヴィハーラである歩く道、スンニャターヴィハーラである立つ場所、スンニャターヴィハーラである座る場所、スンニャターヴィハーラである寝床は苦がありません。

 これがスンニャターに関わる最高の教えの言葉で、最高にスンニャター、つまり涅槃です。ブッダは「いつでも世界を空のものと見なさい」と言われています。詳細はこのようでなければなりません。そして「その時あなたは、閻魔大王から見えず、エンマ大王はあなたを探しても見つかりません」と言われています。

 段階的にこのように詳細に述べたような状態で、すべての物を空の物と見るサティがなければなりません。しかし一気に空のものと見て「俺、俺のものと執着するべきものは何もないと掃いて捨てる、それも良いです。これが第四番目のヴィハーラ、スンニャターヴィハーラの話です。

 一番のヴィハーラはディバヤヴィハーラ(天精舎)で定の中にいて、二番目のヴィハーラはブラフマヴィハーラ(梵天精舎)で、メッター(慈)、カルナー(悲)、ムディター(喜)、ウペッカー(捨)である感覚の中にいて、アリヤヴィハーラ(聖精舎)は「今煩悩は妨害していない」という感覚で暮らし、スンニャターヴィハーラ(空精舎)は「アーヤタナの感覚以外は何もなく、残っているのは空を感じる最後の段階のアーヤタナだけ」という感覚で暮らします。これがスンニャターヴィハーラです。

 このすべてを、今日の講義として予定していたテーマであるディバヤヴィハーラ、ブラフマヴィハーラ、アリヤヴィハーラ、そしてスンニャターヴィハーラに関した実践原則と言います。時間になりましたので、これで終わらせていただきます。




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