6.四念処・七覚支・解脱に関わる実践原則



1971年5月8日

 タンマにご関心がある善人のみなさん。土曜談話は、前回半分しかお話しできなくても、すべて配布したプログラムどおりに進行してきました。前回は雨が降って来たので、あのように途中で放り投げなければならず、講義を終わらせることができませんでした。プログラムの予定が狂うので、今日は予定どおりサティパッターナ(四念処)、ヴォッチャンガ(七覚支)、ヴィムッティ(解脱)についてお話します。

 この主題は前回の講義の主題に引き続き、タンマの順に講義で説明しているので、今日初めて聞く人は十分な結果が得られず、そして幾つかは訳が分からないかも知れません。もしそのようなら、得られただけ儲け物と見なしてください。この講義はコースの終わりまで順に繋がってシリーズになっているからです。サティパッターナ(四念処)、ヴォッチャンガ(七覚支)、ヴィッチャー(明)、ヴィムッティ(解脱)はどのような実践から生じるでしょうか。

 決められた主題について、なぜこの話をするのかと問うなら、これは初めから聖向聖果涅槃まで、仏教の本物の実践だからと知ってください。別の言い方をすれば、仏教支援者たちが毎日実践している実践です。しかし、始める、あるいは開始、あるいは初歩という状態になっても、この項目のタンマの実践と感じません。だから自分が今実践しているものを正しく明らかに知るために、そして十分な結果を受け取るまで順に実践できるよう、関心をもって聞いてください。

 サティパッターナ(四念処)、ヴォッチャンガ(七覚支)、ヴィッチャー(明)、ヴィムッティ(解脱)と呼ぶ四つのものは、同じ話に関わりがある話で、アーナーパーナサティバーヴァナーと呼ぶ実践が済んでいると、しっかり観察して規定してください。

 アーナーパーナサティの実践がある時はいつでも、その時その実践の中にサティパッターナ(四念処)、ヴォッチャンガ(七覚支)、ヴィッチャー(明)、ヴィムッティ(解脱)が全部揃っています。だから四念処、七覚支、明と解脱を生じさせる実践は、この様式のサマーディバーヴァナー、アーナーパーナサティと呼ぶ様式を実践しなければなりません。


アーナーパーナサティ様式でのサマーディの実践
 アーナーパーナサティとは、息を吐く、あるいは息を吸っている間中、その間いつでも何らかの自然にある物をサティが意識(規定)するという意味です。この意味は、意識あるいは熟慮を強烈にするにも、最高にするにも、サマーディの感情だけを意識するにも、息を吐き、息を吸っている間中意識しなければならないという意味で、智慧の方面の熟慮をするにも、息を吐き、息を吸っている間中しなければなりません。

 だから何でもアーナーパーナサティ(呼吸念)と呼びます。ここでは意識しなければならないサバーヴァダンマと呼ぶ十六のものがあります。

 ここでのサバーヴァダンマとは、事実関係、あるいは実体がある物はどんな事実関係があるかで、私たちがどのように知性を生じさせられるかを知り、知性が生じてどのように苦を抑制する結果があるかを知れば、すべてをサバーヴァダンマと言い、たくさんあります。しかしこの仲で私たちが実践するのは十六種類のサバーヴァダンマだけで、アーナーパーナサティの十六段階と呼びます。

 その十六の段階を四部に分け、カーヤーヌパッサナー(身随観)の部、ヴェーダーヌパッサナー(受随観)の部、チッターヌパッサナー(心随観)の部、そしてダンマーヌパッサナー(法随観)の部に分け、それはどのようかをこれから説明します。


第一部 カーヤーヌパッサナーサティパッターナ
 カーヤーヌパッサナーサティパッターナ(心随観念処)と呼ぶ初めの四段階は、長い息を意識し、短い息を意識し、体を変調させる義務のある呼吸を意識し、そして体の変調が静まるのを意識する、項目はこれだけです。話、あるいは説明は、

 初めの段階はサティを据え、長い息である自分の呼吸を吐く度、吸う度に毎回休みなく見守って観察し、長い息はどのようか、どんな状態があり、体に対してどんな威力があるか、全身に良く染みわたるまで学んで熟慮し、最初に意識すべき初めのサバーヴァダンマである長い息と呼ぶものを明かにします。

 第二段階目は短い息はどのようか、体への威力はどのようか、どんな時、どんな場合にあるかなどを規定します。

 この二種類は比較すると理解しやすいです。身体が正常で気分が正常だと呼吸は長く、身体は正常に静まっています。何らかの悪い感情が生じた途端に息は荒くなり、身体も何らかの混乱があって静まらず、身体の熱も高くなります。だから長い息と短い息はこのように違い、正常な状況では息は長く、正常でない状況では息は短いです。

 呼吸は体にどのような威力があるかという角度で見れば、長い息は身体を静める威力があります。滑らかで繊細なくらい長ければ、身体は滑らかで繊細というくらい静まり、軽快に感じ、熱く感じず、苦であるものは何も感じず、焦燥も感じません。だから呼吸が短ければ荒く、呼吸の中に焦燥があるので、身体も一緒に焦燥します。これを「呼吸は身体と関わりがあり、特に長いのと短いのは違う」と言います。

 初めの部分は、長い息と短い息について最高に良く知るまで観察して勉強します。これがサバーヴァダンマを掴む初めの二段階の実践項目で、長い息と短い息を、息を吸い息を吐く度に意識し熟慮するサティの感情にします。

 第三段階はカーヤサンカーラ(身行)と呼ぶものを意識し、カーヤサンカーラとは呼吸のことです。呼吸は身体を調整して上昇あるいは下降させ、鎮静あるいは混乱させるので、呼吸はカーヤサンカーラ、つまり「身体を変調させるもの」と呼ばれます。

 この部分は、呼吸はどのように体を変調させるか、身体はどのように呼吸と関わりがあるか、呼吸を通して支配することで身体を自由に支配できるまで、ちょっと詳細に熟慮します。つまり「呼吸を支配しても結果は身体に生じる」と見えるまで熟慮します。

 こういうのを「呼吸を通して身体を支配する」と言います。呼吸は身体を変調させるものだからです。この第三段階はこの項目の事実だけを熟慮し、そしてこの事実を一つのサバーヴァダンマと呼び、息を吐き、息を吸う度にこのサバーヴァダンマを意識します。

 最高に良くできたら「カーヤサンカーラを静めている」という第四段階に移動します。呼吸はカーヤサンカーラで身体を変調させる義務があり、呼吸を静めて繊細にすることができれば、身体も静かに静まります。だから呼吸を静めれば、静めなければならない身体にも結果がある特別な方法があります。

 短い実践規則は、初めの区間は追い駆ける練習をし、吐く息、吸う息を追い駆けるサティがあり、そのようにできるまで感覚から離れず、サティが吐いている息、吸っている息を意識し、サティが逃げていく時間はなく、それは私たちが望むように、本当に吐く息、吸う息にあります。

 吐く息、吸う息とは、ここでは「吸う息は鼻先から始まって」、臍でも何でも良いですが「腹で終わると仮定する」と観察するものがあります。科学の解剖学の勉強ではないので、息が入って肺に行き、肺全体に拡がるなどと考える必要はありません。息が十分入ったら、感覚、振動がどこまで行ったかを感じ、どこで止まっても、そこを内部の終わりとします。

 だから腹の臍の辺りを内部の一点とし、そして鼻先を外部の一点と規定し、息はこの二点の間を駆けて行き、駆けて戻り、入れば「息を吸った」と言い、出れば「息を吐いた」と言います。サティは休まずそのように出入りしている呼吸を意識し、こういうのを「追い駆ける」と言います。

 追いかける課題が良く出来たら、それからどこか一点で見守る課題に移り、これは追い駆けません。次に見守る場所に一番ふさわしいのは鼻先で、息が当たったら空に消えて行き、第一課のように内部まで追って行って、それから戻って出て行くのを追い駆ける必要はありません。良くできるまでこのようにすれば、心がどこへも逃げて行かず、サティがどこへも逃げて行ってしまわないという意味です。

 息が当たる点で見守り、触れない時間があってもそこで意識していることができ、どこへも逃げて行きません。今私たちは息が当たる地点、あるいは皮膚を基礎にし始めたので、息がどのように触れたか、触れたように感じます。

 一時触れていない時、つまり息が出て、まだ入って来ない間に空間がありますが、いずれにしても心、あるいはサティは逃げて行かず、息が当たったことがある、あるいは今当たっている点で意識し続けることができます。こういうのを「この点で見守ることができ、最初の課題のように追い駆けない」と言います。

 第二課が良くできたら第三課に移動し、その点に、息が当たる場所にイメージである感覚を生じさせます。この時半分感じる、あるいはsubconcious の状態があるので、そこに外部の目でなく内部の目で見るイメージを作ることができます。その点に何らかのイメージが生じ、それは人によって性質によって違います。

 ほとんどは綿毛のような、あるいは小さな雲のような白い小さな固まりでも、そのような像がそこにあります。あるいはいろんな色の球、あるいは陽射しを受けた草の露のような物、あるいは陽射しで透きとおった蜘蛛の糸のようなものがそこにあります。

 心が半分感じる(潜在意識の状態になる)と像が見えるようにでき、作った像がハッキリしてきます。ここで理解しなければならないのは、私たちは本気でそのイメージを欲しがらない、そしてその像は本物でなく、ただ心の訓練をするための課題にしたいだけです。

 このように繊細で緻密で精緻にできれば、心を支配する練習、あるいは更に心を繊細で緻密にできたことを意味します。この第三課に成功すれば、その点、つまり常に見守っていた所にウッガハニミッタ(目に焼き付ける相。取相)を作ることができたと言います。

 本当に自然の呼吸を意識できればボリカンマニミッタと言い、心が意識するための自然にあるニミッタです。次に今イメージで作ったニミッタを意識するので、ウッガハニミッタと言います。第三課はその点にウッガハニミッタを、自分の欲しいように作ります。

 次は第四課に移り、そのウッガハニミッタの形を変え、色を変え、動きを変えます。今まで見たことがあるのはウッガハニミッタと呼ぶじっと動かない白い点でしたが、今は像が見えるように心を傾け、その像は大きさが変わり、姿形が変わり、色が変わり、動きや状況が変わります。

 たとえば静止していたものが浮かび上がり、あるいは転がり、あるいはどの方向へ行くこともできる、このようなニミッタを「ウッガハニミッタから作ったパティバーガニミッタ(似相)」と言います。

 これも同じで、そのニミッタを実物と見なしません。あるいはそのニミッタは私たちが望んだものではなく、幻影あるいはイメージにすぎないので、それらのものを欲しがりませんが、心に大きな結果が生じます。つまり今心は従順で支配下にあり、どのようにでも思わせ、傾かせることができる領域にいさせることが出来ます。

 だからこの課題を詳細に練習し、ウッガハニミッタをどんな形にも変えるよう心を傾け、小さかったものを大きくし、白かったものを赤や緑にし、目に前に浮かび上がらせ、そして戻って来させ、あるいは空に浮かんで行かせ、心の傾け方次第でどうにでもできます。


アーナーパーナサティ四段階を実践して初禅に至る
 このようにできれば、引き留めてアッパナー(素晴らしい)サマーディを生じさせるにふさわしい資質がある、つまり定の要件、ヴィタッカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)、ピーティ(喜悦)、スッカ(幸福)、エカッガター(一境心)の五種類を引き止めて、この時の感覚の中で一杯にすることができるパティバーガニミッタ(似相)があると言います。

 そうしたら第五課の課題に移り、心を引いて、あるいは心を傾けて、言い方次第ですが、感覚の中にヴィタッカ、ヴィチャーラ、ピーティ、スッカ、エカッガターである感覚を生じさせます。

 ヴィタッカとは、心が感情つまりそのニミッタに掴まっているとハッキリと感じる感覚で、たとえば呼吸などに掴まって、そして心がそのニミッタに染み渡ることをヴィチャーラと呼び、そしてその時満足つまりピーティ(喜悦)を感じ、そしてその時スッカ(幸福)も感じ、これをスッカと言います。

 そして心にはエカッガター(一境心)と呼ぶ頂点である一つだけの感情があると感じます。このような五種類の感覚が少しずつたくさん生じ、一度に一つか二つで、最後には全部揃います。ピーティとスッカである感覚は最高に重要で、何としてもなければなりません。すべてを涵養する物だからです。

 本当のことを言えば、私たちは呼吸、あるいはウッガハニミッタ(目に焼き付ける相。取相)、あるいはパティバーガニミッタ(似相)など何らかのものを意識しているので、ヴィタッカ、ヴィチャーラである感覚は自然にあります。心が感情を意識している動きを心と呼び、心がその感情に対してどのように繊細に深く行き渡っているかを感じる行動をヴィチャーラと言います。

 ここでのヴィタッカとヴィチャーラはここだけの意味があり、他で使うのと違います。他でのヴィタッカは心で考えることを意味し、ヴィチャーラは智慧で熟慮することを意味します。一方ここではそのような考えや熟慮はなく、その時の心の状態だけに注目し、その感情に掴まっていて、その感情を熟慮せずに感じています。だからこれはこの場合だけの特別の意味のヴィタッカ、ヴィチャーラです。

 できれば、成功したと感じれば確実にピーティ(喜悦)が生じ、全身に染み渡るピーティ、揺れるピーティ、たくさんのピーティ、要約すれば満足であるいろんな状態があり、何があるか考える必要はありませんが「これはただのピーティにすぎない」と感じさせるためだけに生じます。

 ピーティがあれば疑うまでもなく、必ずスッカ(幸福)があります。ピーティとスッカはペアで、ピーティがあるから幸福を感じます。そして「心に一つの感情がある。これがエカッガター(一境心)だ」とハッキリ見え、あるいは感じます。

 五つの感覚、ヴィタッカ、ヴィチャーラ、ピーティ、スッカ、エカッガターが心の中でハッキリしていれば、「定の要件、最初の定である初禅の要件を全部生じさせ、その人は初禅を維持でき、絶えずその感覚の中にいる」と言います。中にいるとは、この定の中にいて、その定に止まっているので「その中にいる」という言葉を使います。

 次に、追い駆けるのから、一か所で見守り、その点にウッガハニミッタ(目に焼き付ける相。取相)である像を作り、いろんな形に変えられるまで段階的に行動し、心は五つの定の要件を引き留めて、五つの段階、五つの課題を順に生じさせる準備が整うまでを見ていきます。

 順に熟慮すれば、それぞれの課題はカーヤサンカーラを静めることがどんどん増えて行くと見えます。息を追い駆けるだけの時は、一つの段階のカーヤサンカーラ、あるいは身体を静めます。

 しかしどこか一点で見守る第二課になると、静かさはそれまでより多くなり、ウッガハニミッタを生じさせると、もっと静かさが多くなり、パティバーガニミッタを生じさせることができれば静かさは更に多くなり、最後に十分な定になって五つが揃えば、カーヤサンカーラが静まることが初禅と呼ぶ一定の基準に達したと言います。


初禅から次の実践項目をし、二禅に到達する
 次はその定と呼ぶものを静めて更に深遠にする以上の物は何もありません。初禅はヴィタッカ、ヴィチャーラ、ピーティ、スッカ、エカッガターの五つがあり、もっと精緻な、あるいは静まった定があるようにするには、もっと要件が少ない定でなければならないと見て、ヴィタッカ、ヴィチャーラを抜き取ってしまい、残っているのはピーティ、とスッカ、エカッガターだけのより静まった定にすれば、二番目の定、二禅と呼びます。

 次にピーティを抜き取ってしまう努力をし、スッカとエカッガターだけを残し、そのようにできれば三禅と言います。三禅でもまだ粗いと見るので、スッカをウペッカー(捨)に変え、ウペッカーとエカッガターだけを残せば四禅で、形禅定と呼ぶ最高の静かさは四禅で最高になります。アーナーパーナサティの第四段階はカーヤサンカーラが静まって、吐く息、吸う息はこれだけで終わります。

 四つすべての段階の実践は、長い息を規定(意識)し、短い息を規定(意識)し、呼吸が体を変調させることを規定(意識)し、そしてその体を変調させることが静まっていくのを規定する四段階です。初めの段階はカーヤーヌパッサナーサティパッターナ(心随観念処)と呼びます。

 直接身体と呼ぶものに関わる実践なので、この実践をカーヤーヌパッサナーサティパッターナと呼び、息を吐き、息を吸っている間中、常に体を熟慮して見るサティがあります。ここでのカーヤ(体)という言葉は身体という意味だけではありません。

 ブッダは「比丘のみなさん。私は吐く息、吸う息をすべての体の中の一つと言います」と言われています。これは当然カーヤと呼ぶものはたくさんあり、皮膚も呼吸も体と呼び、身体の動き、挙措も体と呼び、体と呼ぶものはたくさんあるということです。

 しかしここでサマーディバーヴァナーの感情にする最高に良い体は、ブッダが「私は吐く息、吸う息をすべての体の中の一つと言います」と言われたに相応しい呼吸です。この身体をサマーディの感情にすると、いつでも呼吸をしているので、どこに行っても熟慮するためにあり、そして繊細なもので、静かな物で、騒がしくないので簡単で便利です。

 本当の身体にすればあらゆるゆる恐怖と恐さで大変にし、死体を感情にするようなのは、大騒ぎや大混乱し、想像以上に厭わしく恐ろしいですが、呼吸である体を感情にすれば繊細で緻密で奥深く、初めから静まります。だからブッダは「この方式の実践は他の方式よりふさわしい」と、つまり便利で静まり恐ろしくないと賞賛されています。これをアーナーパーナサティ第一部である四つの段階、体に関わる部を実践したと言います。


第二部はヴェーダーヌパッサナーサティパッターナ(受随観念処)と言います。
 この部は、多くの人が理解しているように別々の話と理解しないでください。本当は繋がっている一つの話です。ヴィタッカ、ヴィチャーラ、ピーティ(喜悦)、スッカ(幸福)、エカッガター(一境心)がある初禅に到達した時、ピーティとスッカと呼ぶものは次の段階の実践の感情に使う重要なものです。

 その人が四禅まで実践してピーティとスッカを全部捨てることができても、アーナーパーナサティの次の段階を実践するには、もう一度初禅の部分をし、そしてピーティとスッカと呼ぶものを第二部の実践の感情として意識し、熟慮しなければなりません。

 初禅さえ生じさせることができなくても、カーヤサンカーラ(体を変調させるもの。つまり呼吸)をウパチャーラ(近行)の状態で静めることができる人の場合は、これだけでピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)を生じさせることができます。

 その人の望みどおり長い息、短い息を意識するだけで満足があるので、その人はピーティがあり、ピーティがあれば幸福である感覚があります。だから人はちょっと呼吸を意識するだけで、課題にするピーティとスッカの本物があり、そして第二部の実践をすることができます。

 今人は、ピーティとスッカはどこから持って来ても良いと誤解していて、「ピーティとスッカ、ピーティとスッカ」と心を傾ける、こういうのは成功しません。本当のピーティとスッカの感覚でなければならず、心で本当に感じていなければなりません。そうすれば実践できます。

 名前を挙げることができ、書くことができ、あるいはそのような何かであるパリヤッティ(ダンマの学習)でも文字でもなく、すべて実物で本物でなければなりません。心あるいは身体を少し静めることができればピーティとスッカが生じ、そしてこのピーティとスッカをヴェーダーヌパッサナーサティパッターナ(受随観念処)と呼ぶ次の部の感情にします。次の部も同じように四つの段階に分かれています。

 第一段階はピーティと呼ぶものが隈なく染み渡って、すべての角度から詳しく知るまで意識し、それからピーティから生じたスッカが隈なく染み渡るまで意識して、すべての角度から詳しく知ります。ピーティもヴェーダナー(受)、スッカもヴェーダナー、幸福である種類のヴェーダナーです。

 第二段階はヴェーダナーであること、つまり溢れるような幸福である感覚を知り、それから次の段階をします。

 第三段階はピーティとスッカはチッタサンカーラ、つまり心を変調させるものと規定して知ります。すべてのヴェーダナーはあれこれ考えるように心を変調させるもので、誰でもそのようだと見ることができます。つまり晴れ晴れした気持ちを感じると、考えも晴れ晴れし、あるいは爽快な気分の要求のようになり、気分が悪ければ、気分が悪いことにふさわしい考えが生まれます。

 気分が良いか悪いかはヴェーダナーで、つまり心あるいは考えを変調させるものであり、強いヴェーダナーは心を強く変調させ、荒いヴェーダナーは心を荒く変調させ、静まったヴェーダナーは心を静かに変調させ、愚かなヴェーダナーは心を愚かに変調させ、賢いヴェーダナーは心を賢く変調させ、ピーティとスッカの二つもヴェーダナーで、このように何らかの状態に心を変調させます。だからそのピーティとスッカをチッタサンカーラと言います。

 この項目は、長い息、短い息が体を変調させるのでカーヤサンカーラと呼び、今ピーティとスッカが心を変調させるのでチッタサンカーラと呼ぶという第一部を思い返して良く観察して見てください。さっきのはカーヤサンカーラと呼び、これはチッタサンカーラと呼び、さっきのはカーヤサンカーラを静めていて、これはチッタサンカーラを静めていて、次の課題はこのサンカーラを静めるばかりです。

 第二部第四段階の課題は、ピーティとスッカである感覚を管理して、心を苦にしない状態に変調させ、心が苦である状態に変調するままにしないで、あるいは変調させなければ更に良く、このような行動によって最高に心の鎮静があります。これがヴェーダーヌパッサナーサティパッターナと呼ぶ第二部です。

 ピーティもヴェーダナー、スッカもヴェーダナーであり、チッタサンカーラは義務をしているヴェーダナーで、チッタサンカーラを静めるとは心を変調させるヴェーダナーの威力を静めることです。この四つの段階はヴェーダナーと関わりがあるので、ヴェーダーヌパッサナーサティパッターナ(受随観念処)という名があります。

 この項目は「比丘のみなさん。吐く息吸う息はすべてのヴェーダナーの中に良く染みわたっている感覚」というブッダバーシタがあり、「私は吸う息吐く息に良く染み渡っている感覚と言う」と言われた言葉を観察して見てください。「吐く息吸う息を良く感じる」というのは、「呼吸はどのようか」を感じるだけでなく、「呼吸はピーティでありスッカである」とまで感じなければなりません。

 だからすべてのヴェーダナーの中の一つのヴェーダナーは、初めの練習課題で静まった呼吸を良く感じます。つまりカーヤーヌパッサナーの課題は、ヴェーダナーである結果、ピーティとスッカである結果が生じます。

 これが「呼吸の結果、あるいは原因、あるいは威力」、あるいは「何かを感じて沁み渡らせる」という言葉の意味で、その時の心はどのようか、アビッチャナー(貪欲)、あるいはドーマナッサ(愁苦)を感じる、それがすべてのヴェーダナーの中の一つのヴェーダナーです。

 アビッチャナーは喜びの方向で、ドーマナッサは不満の方向で、正反対です。チッタサンカーラを管理できるようになるまで実践すれば、チッタサンカーラを静めることができるので、四段階ある第二部と、二つの部を合わせたて八段階の終わりです。

 
第三部 チッターヌパッサナーサティパッターナ
 次はチッターヌパッサナーサティパッターナ(心随観念処)と呼ぶ、同じく四段階ある第三部に移動します。

 第一段階では息を吐く度、吸う度に、自分の心は今どのようか、自分の心は今明るいか委縮しているか、自分の心は今怒っているか怒っていないか、自分の心は今貪っているかいないか、自分の心は元気がないか、あるいは不安定かなど、心と呼ぶものを意識します。

 凧の足のようにたくさんありますが、私たちが本当に感じる、あるいは本当にある状態と何も違いはありません。だからブッダは「心はどのようか心で意識し、心を追って見、心で見る」と短い簡単な言葉を使われました。息を吐く度、吸う度にこのように見守ればチッターヌパッシー(心随観)と呼び、常に心を見守る第三部の第一課です。

 第二段階は、次の課題で心を威力下にいさせるように支配する、つまり心を歓喜させる練習を始め、心を支配して歓喜でいっぱいにする練習をし、そして終始心の歓喜を感じます。

 第三段階、次の課題は、それまでの課題が良くできたら次の課題、つまり心を安定させ、止まらせ、静かにさせ、いつでもどこででも、どのようにでも、望みどおりに最高のサマーディにするという意味で、自分の支配下で安定している心を、呼吸している間中いつでも意識します。

 次に第四段階に移動し、心を開放します。心を包囲しているものから解放して自由にするという意味で、心を包囲している煩悩である思考を心から出し、あるいは心をそれから出して心を開放する、あるいは心の開放があると言います。息を吐き、息を吸っている間中このように何にも包囲されていない心を意識すれば、第四段階が揃います。

 チッターヌパッッサナーサティパッターナ(心随観念処)と呼ぶ部の一番をチッターヌパッッシー(心随観)と言い、二番目はパモーダヤンチッタン(喜悦心)と言い、三番目はサマーダハンチッタン(三昧心)と言い、四番目はヴィモジャヤンチッタン(解脱させられる心)と言い、最高に熟達すればチッターヌパッッサナーサティパッターナと言います。

 本当は完璧な常自覚があることを「重要な物である心に注目する」と言います。だからブッダは「比丘のみなさん。アーナーパーナサティは忘れたサティがあり、自覚がない人にはあり得ないと言います」と言われ、「忘れたサティがないこと、忘れてないサティがあること、自覚に欠けていないことを心と言う」と明言されています。

 だからこのようにアーナーパーナサティをすれば、チッターヌパッッサナーサティパッターナの四段階になり、それは直接心に関わり、つまり心の喜び、心の安定、心の開放である心の状態で、第三部の四段階に成功したと言い、今は十ニ段階です。


第四部 ダンマーヌパッサナーサティパッターナ  ここでダンマーヌパッサナーパッターナ(法随観念処)と呼ぶ最後の部になりました。これも前の部と繋がっていて、別の話、別の回、別の時ではありません。

 今私たちはアニッチャター(無常)、すべての物の、今までにあった十二のもの(サバーヴァダンマ)の無常を見て、長い息にも無常の様相があり、短い息にも無常の状態があり、呼吸が体を変調させる状態も無常があり、そしてカーヤサンカーラ、つまり呼吸が静まってこのような定になればなるほど、ネジのように撚れている無常とはっきり見えています。変化できるのでそのようになるからです。

 そして第二部を、ピーティ(喜悦)も不変でなく、スッカ(幸福)も不変でなく、ピーティとスッカが心を変調させることも不変でなく、今ピーティとスッカの威力が静まったことも不変でないと見ます。

 次に第三部になり、心も原因と縁つまり、ヴェーダナーから生じるので不変ではないと見ます。次に心が歓喜している時は心は不変でないという意味です。つまり仮定で歓喜と呼ぶ状態に変化して安定するのは不変ではありません。心は今安定し、開放できるまで一時安定でなくなるので、不変でないからです。

 初めの十二全部のサバーヴァダンマをこのように熟慮することを、アニッチャーヌパッシーサティパッターナ(無常随観念処)と呼び、ダンマーヌパッサナーサティパターナ(法随観念処)の第一項で、非常に重要です。どんどん無常を熟慮していくと、苦、無我に出合い、自分である意味がなくなるまで、あるいは何にも自分のものである意味がない空になるまで投げ捨てます。

 第二項は、これくらい無常が見えたら、次の段階で見るのはヴィラーガーヌパッシー(離欲随観)が生じることです。つまりこのように自分がない欺瞞である無常を見ると心は衝撃を受け、欲情に倦怠し、それらのものに執着しません。その執着が緩むことをヴィラーガ(離欲)と言います。

 第二項、あるいは第十四段階で、私たちはヴィラーガーヌパッシーと呼ぶすべてのサンカーラに倦怠する感覚だけを見、息を吐き、息を吸っている間中ヴィラーガが見える人です。これを「ほとんど何も努力せず、無常、不変でないことをたくさん見る努力をするだけで、自然にヴィラーガ(離欲)である結果が生じる」と言います。しかし遊び半分にしないで、倦怠の状態が生じるのが見えたら、この厭き厭きする感覚を、本当に欲情が緩んで倦怠するヴィラーガにするのに十分なだけ強く見ます。

 これは智慧から生じた倦怠で、このような倦怠は、繰り返しすぎ、口癖になりすぎた倦怠のように、苦にしないと知ってください。そのような倦怠は物質面の倦怠、愚かさによる倦怠で、そういうのは苦です。ダンマーヌパッサナーサティパッターナの部のタンマがある倦怠は苦の症状がなく、それらの物から脱出したい智慧の一種です。

 第三項は一呼吸ごとに執着が緩んでいることヴィラーガを見れば、少しずつ煩悩と苦が消滅していくのが、自然に自動的に見えます。煩悩と苦の消滅をニローダ(滅)と言うので、今これをニローダヌパッシー(滅随観)と言います。アッサシッサーミーティ シッカティ=息を吐いている時はいつも、息を吸っている時はいつも、この消滅を見ています。

 この実践が不動のものなら本当の聖向聖果に到達し、まだ流動するものに過ぎなければ、一時的な煩悩の消滅、あるいは滅苦です。しかしその煩悩が消滅している間中同じ幸福があり、味見の涅槃で、本当に消滅すれば本当の涅槃です。これをニローダヌパッシー(滅随観)と言い、息を吐いても息を吸っても涅槃の味見をしています。味見の涅槃も本当の涅槃もニローダーヌパッシーと言います。

 最後の第四項はパティニッサッガーヌパッシー(捨遣随観)と言い、残骸をすっかり終わらせて清浄にし、もう一度残骸を無くすに近く、返却すると言います。すべてを返却するのを見て、何も、涅槃も自分のものと掴みません。

 まだ聞いたことがない人、あるいは理解したことがない人は、ブッダは何も自分のものと捉えず、涅槃も自分のものと執着しない教えを教えられたと理解してしまってください。だから完璧な涅槃であるニローダヌパッシー(滅尽随観)について話す時、パティニッサッガーヌパッシーについて述べます。つまりその涅槃ももう一度投げ捨てて、「涅槃は涅槃」あるいは「涅槃は私の涅槃」と、このように思い込みません。最後の課題をパティニッサッガーヌパッシー(捨離随観)と呼び、第十六段階目です。

 四段階あるダンマーヌパッサナーサティパッターナは、アニッチャーヌパッシー、ヴィラーガーヌパッシー、ニローダーヌパッシー、パティニッサッガーヌパッシーで完璧です。これをダンマーヌパッサナーサティパッターナ(法随観念処)と言います。ダンマ、つまり解脱、つまり世界の貪りと愁苦を抜き出してしまうことを見るからです。

 だから世尊は「比丘のみなさん。比丘は特に良く狙う人なので、智慧でアビチャナー(貪欲)とドーマナサ(愁苦)を捨てるのを見ます」と言われています。今はアビチャナーとドーマナサの威力より上にいて、アビチャナーもドーマナサも智慧の威力で、つまりタンマを真実のままに見ることの威力で、再び生じることはできないという意味です。

 人はアビチャナーとドーマナサの二つがなければ問題は無くなります。このブッダバーシタを良く考えて理解してください。アビチャナー(貪欲)とは愛、あるいは満足、あるいは喜び、あるいは幸福と感じ、そして手に入れたい、抱きしめたい、こういうのをアビチャナーと言います。そしてドーマナサ(愁苦)は反対で気に入らない、気持ちと合わない、遠ざけたい、叩いて死なせたい、こういうのをドーマナサと言います。

 二つの話しかないので、この二つがなければ心の問題はなく、空っぽで爽快です。次に世界のアビッチャナーとドーマナサを出してしまい、世界とは目・耳・鼻・舌・体・心に触れる物で、これを世界と言います。世界に対してのアビッチャナーとドーマナサを残らず取り出してしまえば、最後の部、ダンマーヌパッサナーサティパッターナです。

 これがアーナーパーナサティバーヴァナーで、四部それぞれの部は途切れている部分がなく、十六段階が順に繋がっている完璧なアーナーパーナサティの実践と言います。これが今日の講義の主題である四念処、七覚支、ヴィッチャー(明)、そしてヴィムッティ(解脱)の心臓部である本物の実践です。

 次に四つあるサティパッターナ(念処)を見せます。つまりカーヤーヌパッサナーサティパッターナ(身随観念処)=呼吸に関わる四段階の実践、

 ヴェーダーヌパッサナーサティパッターナ(受随観念処)=ヴェーダナー=ヴェーダナー、つまりピーティとスッカとそれを静めることに関わる四段階の実践、

 チッターヌパッッサナーサティパッターナ(心随観念処)=心、つまり自分で支配できる心の状態、歓喜、安定、解放を知る四段階の実践、

 ダンマーヌパッサナーパッターナ(法随観念処)=欲情が緩むまで、煩悩が消滅してしまうまで、返却が見え、執着あるいは独占の中に何も残っていないことが見えるまで、不変でないことを見る四つ実践です。

 これを「常に休みなくすべての体の中の体を見、すべてのヴェーダナーの中のヴェーダナーを見、心の中の心を見、すべてのダンマの中のダンマを見る」と言います。このような状態を、努力がある人、努力の実践をする人、努力を維持する人、サマナダンマを満たす人と呼び、アーターピと言います。そしてこのような状態を常自覚がある人、ヴィネヤユ ローケー アビッチャナードーマナサ=世界のアビッチャナー(貪欲)とドーマナサ(愁苦)を出してしまえる人と呼びます。

 これがサティパッターナ(念処)と呼ぶものの要旨で、述べたような十六段階の状態でサティを維持し、当然アビッチャナーとドーマナサを出してしまうことができます。


サティパッターナの功徳
 次に、秘訣は同時にこのようにするだけで、仏教のすべてのダンマになる、とあります。仏教に八万四千のダンマがあると言われるのは、あるいは言うのは、すべてこの一項にあります。つまりこのような実践行動がある時は常自覚があり、努力があり、世界のアビッチャナーとドーマナサを出してしまうことができ、これだけあります。

 だから正しいサティパッターナがあるまで実践すれば、正しいという言葉を使わなければならず、そうすれば仏教のすべてのタンマがここにあるので、七覚支が簡単にあります。これから見て行きます。
 
 比丘が実践する時は述べたようにカーヤーヌパッサナーサティパッターナ、ヴェーダーヌパッサナーサティパッターナ、チッターヌパッッサナーサティパッターナ、ダンマーヌパッサナーパッターナの実践をし、その時どのようにサティが完璧か、どのように常自覚が完璧か、どのようにサティでアビッチャナーとドーマナサを出すか見てご覧なさい。

 それが十分な七覚支で、違う話、別の部分ではなく、続けて実践しなければ七覚支がないのではありません。それは間違ってパリヤッティを学んだ人の誤解や愚かさで、学生に非常に大変だと思わせます。長い息を意識する初めの段階ができるだけで、七覚支の最初の段階である七覚支のサティです。

 長い息を意識するには十分なサティが必要で、そうすれば呼吸をしている間中長い息を意識できます。そうでなければ逃げて行ってしまい、サティが途切れて心も逃げて行き、他のことを考えてしまうからです。だから十六段階の第一段階を始めるだけで、七覚支のサティが始まります。

 七覚支のサティだけでなく、七覚支のダンマヴィチャヤ(択法)も始まっています。「その比丘は智慧で、つまり長い息、あるいは短い息の関わるすべての事実について考えることで選び、分け、ダンマを熟慮している」からです。だから七覚支のダンマヴィチャヤは、第一段階の実践を始めた時に既に実践の中にあり、始まっています。

 その時その比丘が始めたたゆまぬ十分な努力が長い息を意識するだけでも、これはその比丘が形作り始めた七覚支のヴィリヤです。

 次に満足できるものにするだけでニラーミサ(餌のない)であるピーティ(喜悦)がその比丘に生じ、それはその比丘の七覚支のピーティです。ブッダはそのように言われています。そしてその時その人の体は静まり、ニラーミサであるピーティの威力で心も一緒に静まる結果があり、それはその比丘の七覚支のパッサッディ(軽安)です。

 ここでブッダは「ニラーミサであるピーティ」と限定しておいたと観察してください。ピーティは二種類あり、サーミサであるピーティはお金を手に入れ、物を手に入れ、妻を手に入れ、このように何かを手に入れるのをサーミサであるピーティと呼び、次にするべき義務、つまりダンマの行動をし終わったことから生じるピーティ、このようなピーティをニラーミサと言います。

 サーミサであるピーティは体を静めることができず、全身に沁みるよう促すだけ、散漫にして静まらせないだけですが、ニラーミサのピーティは体を静めることができるので、パッサッディ(軽安)と呼ぶもの、つまり静かさが生じ、それはその時その比丘の七覚支のパサッティです。

 そしてその時です。身体が静まってスッカがあるので、心はニラーミサであるピーティとスッカの威力によるサマーディで安定し、それはその比丘の七覚支のサマーディです。

 次にその時比丘は当然アビッチャナー(貪欲)とドーマナサ(愁苦)のない安定した心に注目すること、それがその比丘の七覚支のウペッカー(捨)です。最後の七番目の七覚支で、七覚支が一斉に始まったと言い、別の場所、別の時、あるいは順にではありません。

 「オンガと呼ぶものは全部同時に生じなければならない」と観察点を設けてください。例えば八正道には八つのオンガがあり、八つ全部が同時に、一つずつでなく一緒に生じなければなりません。七覚支も同じで、悟りのオンガも一度に七つが生じなければならず、一つずつ順にではありません。

 パーリ語のオンガは factor(要素)のような意味で、全部の factor が揃わなければ、それは生じられません。だからどのタンマの七つ八つの Factorも、全部揃わなければなりません。

 今、アーナーパーナサティのいずれかの段階に励むと、七覚支の factor は当然七つ一斉に生じます。だから「カーヤーヌパッサナー、ヴェーダーヌパッサナー、チッターヌパッッサナー、ダンマーヌパッサナー、何であろうと比丘が励んでたくさんすれば、当然七覚支も完璧になる」というブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)があります。これが、アーナーパーナサティに隠れている七覚支の話です。

 アーナーパーナサティをすることの中に四念処の全部と七覚支の全部が隠れています。次に七覚支はヴィッチャー(明)とヴィムッティ(解脱)を生じさせます。

 この項目は「七つの覚支は七覚支のサティ、七覚支のダンマヴィチャヤ(択法)、七覚支のヴィリヤ(精進)、七覚支のピーティ(喜悦)、七覚支のパッサッディ(軽安)、七覚支のサマーディ、七覚支のウペッカー(捨)で、

その比丘が励んだそれらは、ヴィヴェカに依存し、ヴィヴェカニッシタン=ヴィヴェカに依存し、ヴィラーガに依存し=ヴィラーガニッシタン、ニローダに依存し=ニローダニッシタン、ヴォッサッガに傾き=ヴォッサッガパリナーミー。この四種類の一つ一つに依存している」と言われています。ヴィヴェカに依存し、ヴィラーガに依存し、ニローダに依存している七覚支と限定されています。

 ヴィヴェカ(遠離)、ヴィラーガ(離欲)、ニローダ(滅尽)と呼ぶものは、直接ダンマーヌパッサナーサティパッターナの実践です。これらのもの、つまりヴィヴェカ、ヴィラーガ、ニローダに依存しなければ、ヴィッチャー(明)とヴィムッティ(解脱)を完璧にできません。だからアニッチャン(無常)、ヴィラーガ(離欲)、どんなレベルのニローダ(滅尽)でも、見えるまでアーナーパーナサティの実践をしなければなりません。

 最高に至らないレベルなら最高に至らないヴィッチャーとヴィムッティで、タダンガヴィムッティ(抑えてする解脱)、ヴィッカマバナヴィムッティ(鎮伏解脱)になり、最高になれば再び生まれて戻って来ないサムッチェーダヴィムッティ(切断による解脱)です。

 重要なのは、七覚支はヴィヴェカに依存しなければならず、つまり避けて行きたいことに依存しなければならないことであり、世界、あるいはカーマ、あるいはバヴァと呼ぶものに近づきたくはありません。次にヴィラーガ(離欲)に依存するのは緩むことに依存するという意味で、掴みません。ニローダ(滅尽)に依存するのは煩悩と苦を消滅させるためで、それが揺らがないようにとハッキリ定義されること以外に何もなく、そしてヴォッサッガ(最捨)に傾けるとまとめます。

 これがアーナーパーナサティの最後の段階、パティニッサッガ(捨遣)の状態で、すべては放り捨てるために傾きます。普通の言葉で言えば、すべては放り捨てるためにならなければならず、引き寄せるためでなく、ヴォッサッガパリナーミー=ヴォッサッガのために傾くと言います。

 七覚支にこれらのオンガ(要素。あるいは項目)があり、その比丘がこのように励んでたくさんすれば、当然ヴィッチャー(明)とヴィムッティ(解脱)を完璧にすることができます。

 次にヴィムッティ(解脱)はタダンガでも良く、ヴィッカマバナでも良く、最高に至らなければ初めの長い息を規定するだけでも、その時長い息を意識している威力だけで煩悩の妨害がないので、このようにタダンガヴィムッティ(抑えてする解脱)になります。そして第四段階まで実践することができ、定の威力でこのようにサンカーラを静めると、その定がヴィッカマバナヴィムッティ(鎮伏解脱)を生じさせ、その定にいる間中、煩悩の威力から解脱できます。

 こういうのはタダンガヴィムッティより確実です。それから最後まで続け、ヴィラーガーヌパッシー(離欲随観)、ニローダーヌパッシー(滅尽随観)、パティニサッガーヌパッシー(捨遣随観)になればサムッチェーダヴィムッティ(正断解脱)で、再び戻らない本当の解脱です。

 これを「呼吸に関わり、ヴェーダナーに関わり、心に関わり、ダンマに関わって実践するアーナーパーナサティの十六段階の実践は、それ自体が四念処であり、それ自体が七覚支であり、いずれかのヴィムッティ(解脱)を生じさせ、最後には最高のヴィムティの功徳を生じさせる」と言います。


ダンマサモーダーナ
 次にそれ以上の功徳を指摘したいと思います。彼らがダンマサモーダーナ(受法)と呼ぶものはすべてのダンマを引き寄せて見ることで、私たちが周辺に手を伸ばしてそれを引き寄せて見、これを引き寄せて見、あれを引き寄せて見るように、周辺からいろんな物を引き寄せて見る、これをサモーダーナと言って掻き集めて見ます。

 人が励んでたくさんした四念処であるアーナーパーナサティの十六段階の中の、人が励んでたくさんしたもの、実践したものを、仏教の中の好きなものを何でも引き寄せることができます。

 アーナーパーナサティをこのように実践して三つの行動の美徳が十分になり、その時布施、戒、バーヴァナーが十分あり、待つ必要はありません。

 布施は与えることで、俺、俺のものと執着しているものを与え、これは大布施より、大贄より最高の布施です。ブッダは「ブッダが首領であるすべての僧を招聘して、どんなにたくさんのゴザを敷いてご馳走しても、その大供養もバーヴァナー、つまり一瞬のアーナーパーナサティほど善くない」と言われています。物を布施し、何かを布施するのは、私たちが「俺、俺のもの」を布施するほど善くないという意味です。

 俺、俺のものという執着を追い出せた時、その時が最高の布施です。だからアーナーパーナサティに励むことは最高の布施であり、俺、俺のものを放り捨ててしまうことができます。

 次にどのような戒でしょうか。アーナーパーナサティをしている間中、非常に慎みがなければならず、その慎重に注意する意図が戒であり、「パーナーティパター ヴェラマニー」などの戒条で慎む必要はありません。それはカニを捕まえてザルに入れるようにキリがありません。

 サティを据えて呼吸を意識すれば、それだけですべての戒のすべての項目、僧のでも沙弥のでも、あるいは庶民のでも、どんな種類も欠けたり突き抜けたりする道はなく、この点に慎重に注意する威力だけで、完璧な戒があると言います。

 バーヴァナーについてはハッキリ見えています。アーナーパーナサティに励むことの一部はサマーディで、もう一部は智慧で、二つ合わせてバーヴァナーと言うので、バーヴァナーと呼ぶものも完璧です。

 アーナーパーナサティの実践をしていると完璧な布施があり、戒があり、バーヴァナーがあり、後で実践する必要はありません。アーナーパーナサティを実践している時は布施、戒、バーヴァナーが完璧で、幾らしても完璧なだけです。

 次の部は見本として取り上げるだけ全部を取り上げることはできませんが、もう一つ見本として取り上げるべき嬉しいものはヴィヴェカ(遠離)です。ヴィヴェカはカーヤヴィヴェカ(身遠離)、チッタヴィヴェカ(心遠離)、ウパディヴィヴェカ(依遠離)の三種類あります。

 アーナーパーナサティをする比丘が当然森や木の根元や空き家、あるいはどこでも静かな場所へ回避する、こういうのをヴィヴェカと言います。次にそのような場所が見つからなければ、現代の冷房のある部屋でも良く、カーヤヴィヴェカでアーナーパーナサティをしていると言います。

 しかしそれはどこへ行っても、外部の感情を気にしないことほど重要ではありません。つまり今見ているような外部の感情、草木でも何でも、目を閉じ、耳を塞ぎ、感覚を閉じてそれらのものを感じなければ、本当のカーヤヴィヴェカと言うので、可能なら劇場の中、映画館の中にもカーヤヴィヴェカ(身遠離)があります。

 感情を塞いで、心がアーナーパーナサティだけを意識できれば、映画館の中でもカーヤヴィヴェカができます。だからニーヴァラナ(蓋)を静めて定か何かにできれば、チッタヴィヴェカ(心遠離)です。

 俺、俺のものを捨て、俺、俺のものを一時投げ捨てられれば、一時のウパディヴィヴェカ(依遠離)で、全部放り捨てられれば、完璧なウパディヴィヴェカです。

 このようなヴィヴェカは唱えるヴィヴェカやパリヤッティ(学習)の話でない本当のヴィヴェカで、本当にしている本当にある話でなければなりません。アーナーパーナサティに励むことの中にあるカーヤヴィヴェカ、チッタヴィヴェカ、ウパディヴィヴェカです。

 次に三学の部を例にしたいと思います。戒・サマーディ・智慧。これは述べた徳行に近いですが、アーナーパーナサティを始めれば、その時本当の戒があり、本当のサマーディがあり、本当の智慧があります。

 本当の戒とは欠けず、汚れず、偽物でない戒です。アーナーパーナサティをしている時は慎重で注意深く、アーナーパーナサティを成功させるくらいの心があるので、その時本当の戒があり、菩薩戒、五戒、あるいは何の戒とも呼ばないで「すべての戒」と呼び、そして本当の戒です。最高のサティで注意深くする決意がある所が本当です。本当のサマーディは話す必要はなく、本当の智慧も話す必要はありません。もう話したからです。

 次は三宝、あるいは三帰依、つまり本当のブッダ、プラタム、僧です。述べたアーナーパーナサティをすれば、その時本当のブッダがいて、その時本当のプラタム(ブッダの教え)があり、その時本当の僧がいます。それ以外は口だけのブッダ、口だけのプラタム、口だけの僧で、唱えること、思うこと、あるいは勝手に言い、勝手に思い、勝手に熟慮するだけです。

 アーナーパーナサティをすれば、心はブッダの心のように清潔で、明るく静かになるので、「本当のブッダが私たちの心にいる」と言います。意味は、どんなレベルでも、どれだけでも、心が清潔で明るく静かという意味で、自分の中に本当のブッダがいる、自分の中に本当のプラタムがある、自分の中に本当の僧がいると言うのは、自分自身がそのような実践者であり、そして清潔で明るく静かな心があるという点で成功しているからです。

 アーナーパーナサティをしている時、その時私たちの心に本当の僧がいます。そして本当のタンマ、つまり清潔、明るさ、静かさがあり、本当のブッダも私たちの中にいます。だからその時、自分自身の中に本当に帰依するものであるブッダ、プラタム、僧がいます。

 アーナーパーナサティをしている時、あるいは何らかのサマーディバーヴァナーでもいいですが、俺、俺のものを投げ捨ててしまえたことで心が清潔で明るく静かな状態になれば、その心には本当のブッダ、本当のプラタム、本当の僧がいると言います。

 他のタンマ集、例えば如意足などはもっと簡単に見え、そのようにアーナーパーナサティをしている時本当のチャンダ(満足)があり、本当のヴィリヤ(精進)があり、本当のチッタ(心)があり、本当のヴィマンサー(熟考)があります。それ以外は口で唱えるだけの話です。

 そのようにアーナーパーナサティをしている時、それがダンマチャンダで、ダンマの最高の満足、最高の努力、最高の配慮、最高の精査です。そのようにしなければアーナーパーナサティはできず、初めから挫折します。つまり長い息も規定できませんが、如意足が十分にあれば、初めからできます。

 次にもっと多い、最高に広いタンマ集である五力、「サッダーインドリヤ(信仰の力)、ヴィリヤインドリヤ(精進の力)、サティインドリヤ(サティの力)、サマーディインドリヤ(サマーディの力)、パンニャーインドリヤ(智慧の力)」と唱えている五力を、サッダーから見ていきたいと思います。

 ブッダ、プラタム、僧を信じることサッダー(信仰)は、自分自身の行動に信頼が生じるまでは持てません。

 今私たちはアーナーパーナサティをして、そして清潔、明るさ、静かさがある心になり、それで「このプラタムは本当だ。このプラタムは本当にサヴァーッカトー(善く説かれ)で、本当にアカーリコ(時に左右されない)で、本当にサンディッティコー(自分で見るもの)なので、他人を信じる必要はない」と、このように自分自身でプラタムを信じることができます。そしてこのタンマを公開した人であるブッダを信じ、このタンマだけを実践している僧を信じます。

 だからブッダ・プラタム・僧への信仰は十分にたくさん、そして本当にあります。

 次にこのように実践している時は完璧なサッダーがあるので、カンマ(業)を信じ、カンマの結果を信じる話など、何でも全部揃います。このように実践すればこのような結果が生じると検証しているからです。長い息を意識し、短い息を意識し、何でも実践すればこのように結果が生じ、自分自身を信じ、自分の心を信じる、こういうのを「ナーマカーヤ(名形。心身)でダンマを見る」と言います。

 「ダンマン カーイェン パッサティ=その比丘は当然ナーマカーヤでダンマが見える」、つまり本を読むこと、あるいは説法を聞くこと、あるいは何でも、そういうことでダンマは見えません。ナーマカーヤの中のダンマを見るとは、内のタンマを心に生じさせ、そしてこのナーマカーヤの体は心で、その心がそのダンマを見ます。

 これを「ナーマカーヤでダンマを見る」と言い、短く「体で」と言います。しかしここではタンマである体を意味し、タンマである体を見るので体の面のタンマを見る、あるいは本当にこのように体で見ます。それ以外は口で話す話、パリヤッティの話です。

 すべてのダンマの最初にあるサッダー(信仰)も、このような実践をする時になければなりません。このようでなければ本当のサッダーでなく、何のサッダーでも勝手で、話せば嫌らしいです。本当のサッダーはタンマの実践をする時から始まります。

 述べたようなサバーヴァダンマ(常態)をサティが意識し、そして本当に結果が生じ、途端に心で本当に明らかなものになり=アカーリコ、自分で見え=サンディッティコー、パッチャッタン ヴェーディダッポー(識者が自分で自覚すべきもの)。これがアーナーパーナサティを実践した時に生じるサッダーです。

 戒は述べたようにあり、ヴィリヤ(精進)も述べたようにあり、サティ、サマーディも七覚支の話で述べたようにあります。それは七覚支の項目で、ここで新しいのはサッダー(信仰)だけです。だからサッダーと呼ぶものだけ説明しました。

 これがアーナーパーナサティで、ここの所でほんの少し、ちょっとの時間だけ、見てください。いろんなものを幾らでも、全部持って来ることができ、三徳行もヴィヴェカ(遠離)も三学も帰依も、如意足も五力も七覚支も、八正道も聖向聖果涅槃も、アーナーパーナサティを実践するだけで生じます。

 次に聖向聖果涅槃は「アーナーパーナサティをするだけで、どうして聖向聖果涅槃に、預流、一来などになれるのか」と疑問に思う人がいるかも知れません。聖向聖果という言葉は意味が広く、まだ凡人なら元に戻ることがあるので、預流、一来、不還とは呼びません。

 しかし同じ状態があり、違うのはまだ元に戻ることがあるだけ、つまりそのようになっても戻ってしまえるので、クッパダンマ(動揺する物)と言います。アクッパダンマ(動揺しない物)になった時、私たちは預流、一来、不還、阿羅漢と呼ぶ聖向聖果になります。

 そのようであることが一時で、一時的で変化できれば一時的な聖向聖果で、彼らは聖向聖果と呼びません。涅槃も一時的な涅槃もあり、タダンカニッバーナ(偶発涅槃)、偶々煩悩が生じない涅槃、俺、俺の物が現れない、このようなのは一時的な涅槃と言い、あるいは定に入っているので俺、俺の物が現れない、こういうのはヴィッカマバナニッバーナ(強制涅槃)で、これらを一時的と言います。

 パーリ(ブッダの言葉である経)でありブッダバーシタ(ブッダが言われたという意味)であるサーマージカという言葉があり、サーマージカとは一時という意味です。サマヤは時、サーマージカは一時、一瞬で、つまりまだ十分でない、まだ本当でない、一時的な涅槃です。つまり言いようもないような快適な涼しさになっても、すぐに涼しくない状態に戻ります。

 この辺の木陰に座るのも、来たばかりは一時的な、偶然の、一時の涅槃で涼しく、家を忘れ、いろんなものを忘れる、こういうのは見本の涅槃、一時だけ味見の涅槃です。次に定になるレベルまでカーヤサンカーラ(体を変調させるもの。つまり呼吸)を静めればそれ以上で、時ももっと長く、最後の段階までできた時はいつでも、すっかり煩悩を断つことができてサムッチェーダ(正断解脱)、本当の涅槃になり、話は終わります。

 これは予定どおり「四念処、七覚支、ヴィッチャー、そしてヴィムッティ」という主題の説明で、述べたような概略である解説があります。詳細はこれから学んでいきます。

 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。



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