5.八正道・七清浄・三学に関した実践原則



1971年5月1日

 タンマにご関心がある善人のみなさん。今日の講義は、みなさんご存知のように八正道・七清浄・そして三学の三つに関する実践法について述べます。聞いて多すぎると考える人がいるかも知れません。聞いた人が多すぎると思う項目こそ、それは多くはないと話して見せるために、話さなければならないものです。

 この問題は今ある重要な問題の一つで、人が「このタンマは多い。憶えようにも憶えられない。実践の話ばかりしないでくれ」と考えるのは、まだ間違っている理解です。タンマと呼ぶものは、正しく良い理解があれば、残るのは一つの話だけです。

 しかし人はまだ、どのように一つの話だけが残るのか見えないので、私が今日、見本としてお話しなければなりません。タンマや説教を聞き慣れない人は、この言葉は珍しい、あるいはどこから来た何か分からない言葉と感じます


タンマの項目の関連を知る
 アッタンギカマッガという言葉は八項目より成る道という意味で、七清浄とは七つの純潔で、三学とは三つのシッカー(課題)という意味です。一番目は八つ、二番目は七つ、三番目は三つ、合わせて十八です。それがどうして一つの話になるのか、聞いて見てください。

 なぜ三つの話、つまり八正道と七清浄と三学の話をするのかは、三つの話は全部聖諦だからです。四聖諦で最高に重要なのは四番目の道と呼ばれる聖諦で、苦の消滅に至らしめる実践の道です。八正道も、七清浄も、三学も、すべて苦の消滅に至らせる実践法です。

註: 七清浄とは、戒清浄、心清浄、見清浄、度疑清浄、道非道智見清浄、行道智見清浄、智見清浄。

 これは、三つの話は同じ一つの話で、本質は同じものですが、いろんな角度から見るので違う名前があると見せる手掛かりの説明です。その上この三つのタンマ集は、最終結果に簡単に行ける実践の秘訣と呼ぶ、近道である実践法です。そして三つのタンマ集の実践をする近道です。

 次にこの三つのタンマ集がなぜ四聖諦なのか、もう少し詳しく話します。八正道と呼べば歩く道を意味し、七清浄と呼べば旅を最高に良くすること、あるいはその人が旅をすることで最高に良い実践ができるという意味です。

 三学は課題という意味で、シッカーというのは課題を意味し、私たちがシッカーと呼ぶのは課題で、課題とは良く旅しなければならないことです。旅しなければならない道と、可能な限り良くする旅、そして最高に良く旅をする訓練。全部関連があって、分けることはできません。そして一つにまとまっています。

 もう一度復習すると、旅しなければならない道、旅も最高に良く歩かなければならず、練習も最高に良く歩けるまですれば、その時このように繋がるので、それぞれ別の角度から見た同じ話である実践の話を意味しなければなりません。八正道は道で、七清浄は最高に良くすること、つまり最高に良く旅をすることで、そして三学は最高に良く旅をするための練習規則です。

 関わり合い、あるいは関連はこのようで、すべては同じ四聖諦です。聞いたことがある人は知っていて、聞いたことがない人はどうして四聖諦になるか知りません。四聖諦は最高に利益がある真実の話で、四つあります。

 初めの話はすべての苦についての話で、二番目はすべての苦を生じさせる原因についての話で、三番目は苦の完全な消滅の話、そして四番目は苦の消滅に至らせる道で、四つ全部を四聖諦と呼びます。四聖諦とは素晴らしい真実という意味で、人を聖人にする真実です。これが仏教のすべてです。あるいは仏教の教えのすべてはこの四聖諦に集められています。

 四聖諦が完璧な話になるには問題がなければならず、そしてその問題を解決したいと願わなければなりません。その問題は苦があるので、私たちはその苦を消滅させたがります。苦がなければ問題はなく、そして何もする必要もありません。

 四聖諦を苦と滅苦の二つにして話せば聞いて分かり易いです。次に苦を二つに分けて苦と苦を生じさせる原因、滅苦を二つに分けて、滅苦はどんな状態か、そして私たちはどのようにすればその状態に至るか、これで四聖諦になります。聞いたことがあって理解していても、あるいは聞いたことはあってもまだ理解が十分でない人も、十分に明らかに四聖諦を理解する努力をしてください。四聖諦の話は、仏教の心臓部だからです。

 四聖諦の話はどの話が一番重要か、みなさん考えて見てください。つまり苦の話が一つ、苦を生じさせる原因が一つ、苦がないことが一つ、そして無苦に至らせる道が一つ、この四つの話の中でどれが一番重要でしょうか。良く考えれば、四番目の滅苦に至らせる実践法が一番重要だと自分自身で気づきます。この話がなければ滅苦は生じず、できるのは話すだけだからです。

、  だから四聖諦の四番目、滅苦に至らせる実践の話を知って、そして何としても実践しなければなりません。そうすれば本当に苦が消滅します。これです。どのタンマ集でも、苦の消滅に至らせる実践を重要なタンマと見なさなければなりません。だから今日は四聖諦に関わる話を、少なくとも三つ話します。そしてこの三つを理解すれば、あと何十のタンマ集があっても、当然全部理解できます。


八正道・七清浄・三学に関わる実践法
 今日理解してもらう話は歩く道である八正道で、そして七清浄、つまり最高に良く歩く状態はどのようか、そして三学、つまり練習しなければならない課題、これだけあります。歩く道、最高に良く歩く状態、そして歩く練習、すべては滅苦に関わる実践です。これらに関わる実践規則をこれから詳しくお話します。

 近道、あるいは簡便に実践する秘訣、それはあり、そしてこの秘訣はどのダンマ集にも使え、特に講義の主題にしたこの三つのダンマは、同じ秘訣あるいは近道と呼ぶものを使います。八正道の実践にどんな近道があっても、七清浄の実践にも同じ道があり、そして三学の実践にも同じ近道の方法があり、これから詳しくお話します。

 しかし重要なことは、「アーヤタナ(六処)に触れるものがある時、正しく実践すること」と言える短い要旨があることです。アーヤタナ(六処)とは何かを知らない人がいるので、そのような人のために多少説明をしなければなりません。

 アーヤタナと呼ぶものは、本当は「物」という意味だけで、タンマという言葉が「もの」という意味なのと同じです。アーヤタナという言葉も「物」という意味ですが、アーヤタナは互いに触れ合うものを意味します。中にある物は目・耳・鼻・舌・体・心の六種類で内処と呼び、内部にあるものです。

 次に目・耳・鼻・舌・体・心に触れる形・音・臭・味・接触・考え、これらは外にあるので、形・音・臭・味・接触・考えは、内にある物に触れるための外にある物と呼ばれます。外にある物を外処と呼び、外から入って来て内部のアーヤタナに触れる物という意味です。外部は外処と呼ばれ、内部は内処と呼び、すべてをアーヤタナと呼び、物という意味です。

 次に「物」という言葉は広く使うことができ、最後の結果である涅槃までアーヤタナと呼びます。ブッダは『アッティ ビッカヴェー タダーヤタナン =比丘のみなさん、そのアーヤタナはあります』と言われたことがありますが、これは涅槃を意味します。アーヤタナとは「物」という意味で、内にあれば内処、外にあれば外処と言います。次に私たちはこの「物」を知らないので、何をしても正しくできず、そしていろんな問題を解決できません。この内と外にある物を知らないからです。

 物という意味だけのアーヤタナという名前の外に、もう一つインドリヤと呼ぶもっと重要な名前があります。インドリヤとは重要な物、あるいは重要な事、あるいは重要で大きな物という意味です。目・耳・鼻・舌・体・心もインドリヤとも呼び、問題を生じさせる内部の重要な物であり、外部のアーヤタナがこのインドリヤに触れれば、大きな問題が生じます。

 外に六つ、内に六つあり、重要な物ばかりです。あるいは良く見えるように話すと、凶悪さがあり、外のアーヤタナと内のアーヤタナが触れると、その人に知識があり、利益がある状態に処理できる知性があれば問題が生じ、そのような能力がなければ害になります。

 例えば目と形が触れると、目の所有者である人に十分な知識、十分な知性がなければ、その目と形の触はヴェーダナー(受)を生じさせ、幸福または苦になり、そしてその人は、ヴェーダナーに惑溺する執着と呼ぶ感覚があり、そのヴェーダナーに欲望が生じます。そのヴェーダナーが幸福なら欲しい、独占したい、そのヴェーダナーが幸福でなく苦なら、消滅させてしまいたい、あるいは払いたくなります。

 前者のヴェーダナーは愛を生じさせ、後者のヴェーダナーは怒りを生じさせ、私は愛している、あるいは私は怒っているという感覚があり、混乱だけで静かではありません。怒りの話なら混乱で、愛さない話、怒らない話だけが混乱になりません。

 その人に十分な知識があり、十分な常自覚があり、目が形に触れた時に十分な常自覚があれば、智慧が生じて形が目に触れた話だと知らせ、そして迷って愛さないよう、あるいは迷って嫌わないよう注意します。もしどうすべきか知る知識だけがあり、触れてきた形に関わる話で対処しなければならないことがあれば、怒らないで、嫌わないで、つまり愛や嫌悪なしに対処しなければなりません。

 しなければならないことがあればし、しなければならないことが何もなければ関わらず、触れたら触れただけで終わらせます。このようにできれば苦はなく、このようにしなければ、必ず苦があります。内と外のアーヤタナに接触があれば、道は二つしかありません。

 耳が声を聞き、鼻が臭いを嗅ぎ、舌が味わい、皮膚が体の接触を感じ、あるいは心が感じさせ考えさせる感情を受け取る話のどの対も全部同じで、常自覚があり、十分な知識があれば、好きや嫌いの感覚は生じず、どうすべきか考え、そしてそうするだけで、何もする必要がなければ無関心です。知識がないか、知識はあってもうっかりして知識が間に合わなければ、必ず愛したり嫌ったりする成り行きになり、その愛や嫌悪に執着し、俺、俺のものの話になり、それも苦があります。

 「アーヤタナに接触がある時、全身に自覚があるか。全身に自覚があれば、触れてきた話が心を変化させて煩悩にするのを放置せず、それに煩悩がないので苦はないと言います。次に十分な常自覚がなければ、成り行き次第で煩悩を生じさせ、そしてその煩悩の威力による苦がある」とここにちょっとだけ、最も重要な秘訣があります。

 これはとても重要な話なので、最高に良く理解できるまで繰り返し話させていただきます。外のアーヤタナと内のアーヤタナが触れ合った時、私たちに幸福あるいは苦が生じる所が最も重要です。だから誰でも努力して学んで、目・耳・鼻・舌・体・心と呼ぶものを良く知り、目・耳・鼻・舌・体・心に触れてくる形・音・臭・味・接触・考えと呼ぶものを良く知らなければなりません。

 今は知らないので成り行き任せで、つまり感じる感覚次第です。そしてもっと悪いのは、何かを気に入ると増長するので非常に好き嫌いがあり、好きもたくさんあり、嫌いもたくさんあり、その感覚は火のように熱くなります。愛させ満足させるものは一種の熱さで、嫌わせ怒らせるものはまた別の熱さで、涼しいものはありません。涼しくなるのは、好き嫌いを生じさせないことを知った時だけです。

 これは重要な話、自然の話で、教祖が大悟して教えた自然の秘訣です。私たちも話して伝承します。人間の最も重要な話であるこの項目を、もう一度繰り返させていただきます。何が生じるのも「これ」だけ、目・耳・鼻・舌・体・心の接触があるからです。「これらのものだけ」とは何かについて思うことに、少し時間を費やしてください。

 「この世界が世界の意味を持つのは、目・耳・鼻・舌・体・心があるから」から、「目・耳・鼻・舌・体・心がなければどのようか、世界はないのと同じ価値しかない」まで、すべてのもの、そしてすべてを意味します。人間でも動物でも、目・耳・鼻・舌・体・心がないだけで、世界はないのと同じです。目で感じることができず、耳、鼻、舌、体で何も感じることができなければ、この世界はないのと同じです。

 この世界に私たちが見ているような、感じているような状態があるのは、私たちに目・耳・鼻・舌・体・心があるからです。これは「人間にそれらの形・音・臭・味・接触・考えというものを感じるために目・耳・鼻・舌・体・心があるから世界はある」という最初の項目です。だから外側の世界とは、内側の世界である目・耳・鼻・舌・体・心に触れる形・音・臭・味・接触・考えであり、そうすれば完璧な世界になれます。

 だからこの世界は、私たちが「この世界はある」と言うようにあります。そうでなければ何も意味はありません。この世界に何が何種類あっても、目・耳・鼻・舌・体・心で感じる人間がいなければ、世界はないのと同じ価値しかありません。これが、目・耳・鼻・舌・体・心が世界をあるようにすることです。

 次にそれはそれに止まらず、もっと悪いことをし、人間は世界を知るため、世界を感じるために目・耳・鼻・舌・体・心があるので、正しく十分な知識がなければ、これらのアーヤタナは苦にするために感覚があります。苦なのは、取と呼ぶ執着を生じさせるからです。

 例えば目が形を見るとヴェーダナー(受)が生じ、美しい、美しくない、好き、好きでない、可愛い、可愛くない、嬉しい、嬉しくないなど、何らかの正反対の二種類の感覚を感じます。可愛ければ喜びがあり、掌握する方向の取があり、憎たらしければそれを消滅させる、あるいは嫌悪する方向の取があります。

 愛す部分は大きな問題を生じさせ、切ったり殺したり、戦闘や戦争など世界中を混乱させ、これも取が原因です。俺の財産、俺の国、これらの「俺のもの」と見なす物に取があるので、それらは愛して満足する物ばかりなので、惜しまなければならず、防いで維持する戦いをしなければならず、それが苦しめ合いを生じさせます。もっと酷いのは他人と争いや喧嘩がなくても、愛が、執着が心に絡みついて心を焼き炙り、心を縛り上げる、こういうのも苦があると言います。

 怒りは苦である沸騰する感覚で、そしてまだ復讐や悪意など、何かたくさんの物に発展します。だから相手が嫌がることをすることをして危害を加え、危害を加えられた人が不満なものに触れると、狂ったような症状があります。

 すべては「いろんな問題は深いレベルのタンマと呼ぶ目・耳・鼻・舌・体・心次第」と見せる見本です。感じている浅いタンマは、一瞬の感覚の「俺、俺のもの」次第ですが、この俺、俺のものは基礎、つまり目・耳・鼻・舌・体・心と形・声・臭・味・接触・考えが触れることで心に生じた感覚から生れると知りません。

 智慧のある人がいて、首領であるサンマーサンブッダがいて、この話をご覧になり、この話を大悟され、そしてこの話を教えられました。だからすべての話はこの話に集約できます。この話を知れば、すべての話に拡大できます。


苦である感覚を管理し、苦をなくす
 今日は、この話をどのように八正道、あるいは七清浄、あるいは三学に拡大できるかについてお話します。苦である感覚を管理して苦がないようにする角度からだけ話し、苦はどのようか、苦を生じさせる原因はどのようかを話す必要はありません。なぜなら既に知っているし、知るだけで何も義務を生じさせないからです。

 義務は「苦の原因をどのように断つか」だけで、これが実践しなければならないことです。すべての実践は目・耳・鼻・舌・体・心を管理すること、あるいは目・耳・鼻・舌・体・心を支配すること、あるいは目・耳・鼻・舌・体・心を明らかに知ることに集約できます。こ

 こでは「目・耳・鼻・舌・体・心を良く管理すれば」、管理という言葉を使いますよ、「目・耳・鼻・舌・体・心の話について良く世話をして管理し、失敗がないようにすれば、良い戒のある人になれる」と観察する物にできるように規定したいと思います。

 次にそれ以上に、それを威力下にあるよう、止まっていさせるよう支配でき、目・耳・鼻・舌・体・心を良く管理できれば、こういうのも戒です。もし威力下にあるよう、望みどおりに止まっているよう管理できればサマーディです。目・耳・鼻・舌・体・心を良く、明らかに知ることができれば智慧があります。だから戒・サマーディ・智慧は、目・耳・鼻・舌・体・心と関わりがある話で、特にこれらのものと正しい方法で関わることがタンマの実践です。
 戒の話には、「目・耳・鼻・舌・体・心が軌道内にあるよう管理すれば、戒に欠けることはない」という言葉を使います。人を殺し、他人の物を盗み、人が愛している物に危害を加え、嘘を言い、酔う水を飲むのは、目・耳・鼻・舌・体・心が軌道上にあるよう管理できないから、触れる物がある時に管理できないから殺人などをするという意味です。

 例えば恨みのある相手が通り掛かっただけで心が煮えたぎり、その人を殺す、その人に危害を加える方向に変化させます。あるいは他人が愛しているもの、満足している物を見ると、他人のものを盗もうと考え、あるいは本当に盗んでしまいます。だからこれは目・耳・鼻・舌・体・心が軌道上にあるよう管理できないことで、何等かの戒、どんな戒でも犯せます。

 軌道上にいるよう管理できると言うのは、どうしなければならないか正しく考えることを教えます。他人の物を盗み、人を殺し、他人に何かをするのは正しいですか。正しくないと知っていてもする。自分が誰にもそのようにされたくないと知っていても、自分で自分自身を管理できない。これは目・耳・鼻・舌・体・心に触れるいろんな物を管理できないから戒がない状態が生じます。

 もしできれば戒の十分な項目があり、五戒、八戒、十戒、何百、何千の戒があっても、もしそれがあれば、目・耳・鼻・舌・体・心を管理できるので、これらの戒は良い状態で揃っています。だからみなさんこの話を理解し、この項目の戒だけを遵守する決意をすれば、どの項目の戒も、何十、何百項あっても、全部の項目が揃った戒があります。

 「目・耳・鼻・舌・体・心が軌道から逸れないよう管理する戒を遵守する」と言います。貪り、怒り、迷いにしないという意味で、そうすれば生まれながらに、普通に、自然に、自動的に戒があり、疵や汚れはありません。これがアーヤタナを管理することから生じる戒で、このように完璧で、このように非常に善いです。

 高いレベル、サマーディの話になると、心を支配して威力下にいさせることに関わらなければならないので、この心が触れてきた感情によって変化しないよう管理します。触れてきた感情をニヴァラ(蓋)と言い、目・耳・鼻・舌・体・心に何かが触れると、カーマチャンダ(愛貪欲)、バヤーバーダ(瞋恚)、あるいはティーナミッダ(眠気と憂鬱)、ウッダッチャククッチャ(散漫)、ヴィチキッチャー(疑)である感覚を生じさせます。

 私たちは利益のない考えを止めることができず、あるいは混乱する考えを止めることができず、心は押され、散漫と呼ぶあるべきでない状態に変化させられます。だから目・耳・鼻・舌・体・心を支配できる人は、心に良いサマーディ、素晴らしいサマーディがある人、つまりサマーディと呼ぶものの源泉があり、そして簡単にサマーディになれる人と見なします。

 目・耳・鼻・舌・体・心の感覚を断固として威力下にあるよう支配できる人は、非常に良い規律のある兵士のように心にサマーディの状態があります。つまり清潔で純潔な心、非常に堅固な心で、善いこと、善い方向の心の義務をするのに相応しい心です。このような心を「サマーディである心」と言います。

 外部の感情、つまり形・音・臭・味・接触・考えの奴隷に落ちないので、心はサマーディの状態があり、六つ、つまり目・耳・鼻・舌・体・心を支配することによって自由でいられます。これを「サマーディの話は戒の話と同じように目・耳・鼻・舌・体・心に基礎がある」と言います。

 次は智慧の話、知識の話で、知識がなければなりません。つまりそれについて知り、理解し、正しくはっきりした明確な見解があれば、智慧と呼びます。ここでは目・耳・鼻・舌・体・心と呼ぶものを明らかに知ることです。目・耳・鼻・舌・体・心はどのように感覚を生じさせる原因なのかを知ることから、それが新たに何を作り出すかまで、目・耳・鼻・舌・体・心に関わるすべてを正しく、そして全種類知れば心を維持することができ、目・耳・鼻・舌・体・心に触れるものの奴隷に落ちません。

 こういうのを智慧があると言います。目・耳・鼻・舌・体・心に関わるすべてのものを管理し、あるいは支配し、あるいは最高に平然としていられるまで知識がなければなりません。

 これが秘密、あるいは秘訣と呼ぶもので、これがあるだけで、つまりアーヤタナに接触がある時に正しい行動があるだけで、全部終わります。

 すべてを「アーヤタナに接触がある時、サティがぼんやりしてはいけない」とまとめることができます。まとめて三回言います。これを良く規定して、記憶してください。

 アーヤタナに接触がある時、サティがぼんやりしてはいけません。
 アーヤタナに接触がある時、サティがぼんやりしてはいけません。
 アーヤタナに接触がある時、サティがぼんやりしてはいけません。サティがぼんやりしなければ、戒、サマーディ、智慧が正常にあります。

 これで十分です。雨が強くなってきたのでこれで終わります。



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