4.サマーディについての実践原則



1971年4月24日

 タンマにご関心がある善人のみなさん。ウィサーカブーチャー季の土曜談話の四回目は、予定通りサマーディヴァッタ(サマーディの勤め)についての実践法と題してお話します。前回は戒の勤めについて話し、その前は布施について話し、初回は帰依について話しました。みなさん、関係のある実践の説明は、次第に高くなって行くと観察して見てください。

 帰依することである「ブッダ、プラタム、僧」は初めの話と見なします。次に宗教を持ったら段階的な実践がなければなりません。それは布施の話、戒の話、それから今日はサマーディの話です。この講義のシリーズは実践法の説明をしたいので、これは何も面白い話はありません。しかし仏教の知識の話で、知識が欲しい人だけが楽しいと感じます。

 今日はサマーディを現す実践法についてお話します。どうして今この話をするかは、今一般の人は、知識のある人も、知識のない人も、「心を有益にする」と言う物を使うことを知らなすぎると観察するからです。知識があればそれを使って十分な利益を得ることができます。


現代人は心の話を知らない

 現代人は心と呼ぶ物について知らなすぎ、有益に使うことができないと明らかになっています。物質の話、体の話に溺れすぎるからです。本当のことを言えば、人は体の面と心の面、両方の大きな利益を掴むことを知らなければなりません。そしてもう一度言えば、幸福、あるいは苦の感覚は心に関わっているので、あるいは心が感じるので、心の話の方が重要です。

 仕事をして利益を得るにも、人は知識のある心でしなければなりません。そうすれば体を支配して良い結果を得ることができます。今している限りでは、心を有益に使うことが少なすぎるので、心を今より有益に使うことを教えるために、これについて話さなければなりません。


世界に平安がない原因

 次にもう一つ、現代の世界が心を支配できないのは、衰退が始まっていると観察するようお勧めします。これは少し説明しなければなりません。「世界は世界、心は心で関わりない」、あるいは「世界が今、複雑困難になっているのは、これは心の話に関係なく、世界の話に関係がある」と考える人がいるからです。

 本当は人間に関わることは何でも、全部心の話に含まれます。人間が心を管理できなければ、世界も破滅に向かって進むと言うのは、いろんな意味があります。心を支配できなければ宗教のダンマの実践ができないので、宗教に背を向けるのは、心を支配して宗教の教えを実践できないからです。だから宗教を捨てて自分のしたいようにし、世界は破滅に向かいます。

 もう一つ、心を支配して肉体面に溺れないようにできないのは、物質の話、体の話しか考えず、その度に身勝手になるからです。人は体の奴隷になり、神様を崇拝するより、肉体的な幸福、楽しさ、美味しさを崇拝します。物質面の誘惑は自分を抑えられないほどたくさんあります。物質の奴隷になって利己主義になり、利己主義になれば侵害し合います。

 このようになるのは、物質を崇拝すれば物質にしか関心がなく、物質だけを奨励するので、結果は物質の話だけ進歩します。心はどんどん重くなり、心の面の破滅に向かいます。そして気づかないうちに自分と他人を苦しめるいろんなことをします。

 分析して見ると、今の世界の、世界中の大混乱は、人間が心を支配できないことにあると見ることができます。タンマの流れの中にいるよう強制できず、魅惑的な物に溺れないよう管理することもできません。あるのは利己主義だけです。だから私は心を支配する方法について話すべきです。それが今日のテーマであるサマーディヴァッタ(サマーディの勤め)です。

 どうすれば良いでしょうか。今心の面の進歩のために、世界は心について知るべき時が来ました。物質面ばかり進歩させないでください。物質面、身体面だけ進歩しても、心の面が進歩しなければ、人が人であるのは半分だけで、もう半分は化け物です。

 心についての知識がないので、この世界は半分人で半分化け物である状態がどんどん増えています。述べて来ただけで、私たちが心、あるいは心についての話を、できるだけたくさん知り始める理由として相応しいです。これが、特にこれを話さなければならない、そしてこれから話すことができる理由です。

語句の意味

 初めに、これらの言葉の意味について話します。サマーディヴァッタという言葉は、サマーディとヴァッタという二つの言葉でできています。サマーディという言葉は、みなさんはしばしば「静かな状況にある心の状態」として聞いていますが、この言葉にはいくつもの意味があります。

 サマーディは静かさの中にある心の状態の名前でもあり、心を支配し始めることから、実践規則、あるいは実践体系の名前でもあります。始めるだけで心がまだサマーディに達していなくてもサマーディと言います。だからサマーディとは心を支配するためにする行動体系の名前です。

 そしてサマーディはその実践行動の名前でもあり、行動から得る結果の名前でもあり、例えば時々私たちは「サマーディを得たよ!」と言います。このようなサマーディは実践の結果です。「サマーディをしましょう」と言えば、このサマーディは実践の名前です。

 次にサマーディをする教えは、非常に長く広い一つの系統があり、その全部をサマーディと言います。だから聞いたことがない人は「サマーディという言葉はいろんな意味があり、ほとんどすべての言葉にいろんな意味がある」と、このように知ってしまってください。

 ここで私はサマーディヴァッタと言います。このような場合のサマーディは、これから練習しなければならない実践であるサマーディという意味です。ヴァッタはパーリ語で、タイ語ではワット、これは日常的に実践しなければならない物の名前で、時にはプロットという言葉に変わることもあります。

 だからサマーディヴァッタとは、益々心の中の結果を得るために、常に実践しなければならないサマーディです。すべては他の名前でサマーディをすることについて一つ一つ直接明示する、サマーディに関わる話です。

 次にサマーディを意味してもサマーディという言葉を使わない、他の言葉、あるいは名前があります。カンマターナ(念処)、ヴィパッサナードゥラ、バーヴァナー、サマナダンマ、サマナキチャ、これらたくさんの言葉のどれも、サマーディをすることを十分に意味しているのもあり、部分的に意味するのもあります。

 カンマターナ(念処)という言葉は、心の面の仕事の基盤という意味です。カンマターナをすると言えばサマーディの練習をすることです。この言葉は心の面の仕事の基盤という意味で、心の面の仕事をするために心の基礎を盤石にすることを意味します。

 心の面の仕事のほとんどは利益のある考えを意味します。そして幸福や何やらの探求も含まれ、何でも心でしなければならない物は心の面の仕事と呼びます。心の訓練をすれば「カンマターナをする」と言います。

 ヴィパッサナードゥラという言葉は半分に分けます。初めの半分はサマーディをして心にサマーディがあるようにし、後の半分はサマーディである心を使って熟慮して智慧を生じさせます。智慧を生じさせるにもサマーディで生じさせなければなりません。他の物ではできません。だから心をサマーディにすることも、そのサマーディを使って智慧を生じさせることもサマーディをする話、サマーディに関わる行動の話です。

 だからヴィパッサナー、あるいはヴィパッサナードゥラという言葉は、いずれかの段階のサマーディをすることを意味します。ヴィパッサナードゥラは、明らかな見解を生じさせるためにしなければならない義務を意味します。

 心の明らかな見解を生じさせるには、心をサマーディにしなければなりません。そしてサマーディを使って熟慮して明らかな見解を生じさせます。だからヴィパッサナードゥラも、誰もが知って、それなりに利益があるようにしなければならない話です。

 もう一つバーヴァナーという言葉があります。「バーヴァナーをする」とはサマーディをすることです。できるだけ心を発展させるという意味です。知らない人は「バーヴァナーという言葉は発展させるという意味」と知ってしまってください。「座って密かに願い事を唱えることをバーヴァナーと言う」と理解しないでください。

 バーヴァナーとは発展させるという意味で、もごもごと唱える方法でも、あるいはどんな方法でも、心を発展させることができれば「バーヴァナーをする」と言います。だからサマーディや智慧で、心を良くするための実践法を彼らはバーヴァナーと言い、心の側の発展を生じさせるという意味です。

 身体の側の発展を生じさせれば別の呼び方をします。しかし心の側の発展を生じさせれば、どのようにしても全部バーヴァナーと呼びます。ここではサマーディをし、そのサマーディを智慧に利益があるように使います。心を発展させ、智慧を発展させることをバーヴァナーと言います。だから誰にでも、心の面を発展させることを知らなければならない在家にとっても、必要な物と見ることができます。

 次の言葉はサマナダンマで、「サマナダンマをする」とは、ほとんどはサマーディをすることです。どうしてでしょうか。それは、サマナダンマをするとは静かさを作るダンマを生じさせることで、静かさを作るダンマをサマナダンマと呼ぶからです。

 サマナダンマを実践するとは、静かさを生じさせるタンマの実践をします。サマナとは静かな人という意味で、サマナダンマは静かな人にするダンマです。静かさが欲しい人は、在家でもサマナダンマをしなければなりません。

 次に人は「サマナダンマは僧の話、出家の話」と理解しがちですが、この言葉は広く静かさを意味し、静かさが欲しい人は誰でもサマナダンマをしなければなりません。このサマナは、このような状態の在家でも出家でも良いです。

 ブッダは「一番目のサマナ、二番目のサマナ、三番目のサマナ、四番目のサマナ」と言われ、預流、一来、不還、阿羅漢を意味しました。四種類のうちの初めの三つは在家でも出家でもあり得、阿羅漢は在家であること、出家であることより上にいます。だからサマナダンマとは、自分に静かさを生じさせるために在家も出家もしなければならない、あるいはするべき物です。

 最後に取り上げる言葉はサマナキチャで、サマナの用事という意味で、つまり静かさを望む人の義務です。静かさを望む人は誰でも、その人はサマナキッチャをしなければなりません。家でもでき、お寺でもでき、どこでも静かさが欲しければ、そこでしなければなりません。

 これです、その言葉の固定した意味があるので、特にこれから説明するサマーディという言葉は良く憶えておいてください。サマーディという言葉は、サマーディに関わる知識の体系という意味があります。実践の体系でも良く、その実践から得る結果でも良く、全部サマーディと呼ぶと復習させていただきます。

 そしてまだジャーナ(定)、サマーバティ、ヴィモッカ(解脱)などの名前があり、これが規定した水準まで実践できる本当のサマーディと呼ぶ物を意味する名前です。


サマーディの意味

 次はサマーディと呼ぶ物について、意味で、あるいは骨子としてお話します。初めにサマーディは二種類あると話してきかせます。正しいサマーディをサンマーサマーディと言い、正しくないサマーディはミッチャーサマーディと言います。

 正しいサマーディならサンマーサマーディがあります。正しい見方、理解、知識が監督している正しいサマーディをサンマーサマーディと言います。誤った、あるいは愚かなサマーディはミッチャーサマーディと言います。

 パーリ(ブッダの言葉である経)の中でたくさん話されていて、ミッチャーサマーディの方は「触れてはいけない。関わってはいけない」と教えるためだけで、少ししか話されてないので、正しいサマーディについて話す方が良いです。至る所で見聞している正しいサマーディは八正道の正しいサマーディで、毎朝唱えています。

 「サンマーディッティ(正しい見解)、サンマーサンカッポー(正しい望み)、サンマーヴァーチャー(正しい言葉)、サンマーカンマントー(正しい業)、サンマーアーチヴォー(正しい生業)、サンマーヴァーヤーモー(正しい努力)、サンマーサティ(正しいサティ)」、サンマーサマーディ(正しい専心)は最後、八正道の八番目です。正しいサマーディはそこから来ています。

 他では、例えば三学などは「戒・サマーディ・智慧」の三つで、サマーディが真ん中です。三学の二番目はサマーディシッカー(心学)と言い、時にはチッタシッカーと呼びます。つまり心についての課題です。

 更に別の所、例えば力の話である五力では「信仰・精進・サティ・サマーディ・智慧」の五つの力の四番目にあり、タンマの行動を成功させる力としてのサマーディです。

 七覚支のように重要なダンマ集には「サティ・択法・精進・喜悦・軽安・サマーディ・ウペッカー(捨)」があり、サマーディは六番目で、七覚支のサマーディと言います。これは三蔵にあるサマーディについて述べています。

 サマーディ全体として、直接述べているサマーディは、「サマーディバーヴァナーは生きている間の幸福のためになり、サマーディバーヴァナーは、最後には天の威力、天の耳、天の目など、天の物を得るためになる」とアングッタラニカーヤ(小部)で述べている四種類のサマーディバーヴァナーです。

 常自覚を完璧にするためのサマーディバーヴァナーと、最終的に漏が終わるサマーディバーヴァナー。こういうのは四つのサマーディバーヴァナーだけを明示する特別な名前です。だからサマーディの話は、どこにでもある一般の教典の中で、どのように重要か見ることができます。そして間接的な物、つまりサマーディと呼ばずに別の名前で呼んでもサマーディを意味している、そういうのもまだたくさんあります。

 ここで知って欲しいのは、教典の中に、サマーディに関した話はこのように多く、そして最も重要なのは、四聖諦の中にある、誰にとっても必要な滅苦に至らせる実践の道ということだけです。四聖諦に関心がある人は、八正道に関心を持たなければなりません。そして八正道でサマーディは最後にある一番重要な物、重要な力です。

 このサンマーサマーディは心に力をつけ、心に洞察させ、煩悩や随眠を消滅させ、サンマーサマーディと呼びます。ミッチャーサマーディは基礎である煩悩に依存し、利己主義なので利益のためにサマーディをし、神通を持つためにサマーディをします。神通を持れば、その神通で他人に危害を加えます。これを「利己主義のため、他人を消滅させるためのサマーディ」と言います。そして最後には、人を狂わせる種類のサマーディです。

 これらのサマーディは全部ミッチャーサマーディと呼びます。非常に嫌らしい言い方をすれば、ヤクザなサマーディと言います。鬼や悪魔たちは殺し合いをするための神通があり、この種のサマーディに依存して絶滅させられると思い込んでいます。

 パーりに由来するミッチャーサマーディは少しあり、「関わってはいけない。触れてはいけない」と教えるためだけです。サマーディには私たちが望む正しいサマーディと、関わってはいけない側であるミッチャーサマーディの二つの側があると話しました。


サマーディの実践の種類

 次は、更に理解するためにサマーディの種類について、何種類もに分けて話します。関心があれば、心して良く聞いてください。幾つかしっかり記憶できない物があれば、どの話も聞いて意味が分かりません。何種類、何十種類、何百種類でも、すべてのサマーディは三種類に集約できます。実践に関わる教えの重要性は二種類あります。

 一番目のサマーディは、名の物(抽象物)を感情として使うサマーディです。名の物は物質でなく、個体でなく、物質である実体がない物、これを名の物と言います。

 ブッダーヌッサティ(仏隨念)を実践してブッダの徳をサマーディの感情にするなどの、ブッダの徳は名の物で、一つの石ではありません。しかしカシナなどの形の物を感情にする類のサマーディをすれば、一つの石を目の前に置いて、心が意識する球体として注目すれば、こういうのは形の物、あるいは物質を感情にすると言います。

 最初の種類のサマーディは、名の物を感情にするサマーディについて話します。ブッダの徳がどのようか、それを心の中で唱えてバヴァナーし、熟慮し、思う。こういうのを名の物を感情にすると言います。あるいは「すべての動物は幸福になれ」と慈しみの実践をすれば、名の物、つまりすべての動物への愛や善意を感情にすると言います。このようなサマーディは、感情として名の物があると言います。

 不浄な物、美しくない物など、いろんな厭わしい物を感情にして、美しさへの陶酔から心を目覚めさせるために思うことなども、このサマーディは名の物を感情にすると言います。

 しかし直接墓地で座って死体を見つめる、死体の前に座るようなのは、物質が感情であるサマーディです。死体の傍に座らないで、かつて美しいと溺れた身体の醜さを感情にし、そして心で思えば、こういうのは名の物を感情にすると言います。

 死を思い、死ななければならないこと、あるいは死に関した何かを感情として熟慮すれば、こういうのも名の物を感情にすると言います。しかし死体、死人の傍に座れば、感情である物質、あるいは形の物があります。このように二つに分ける努力をします。

 すべてのアヌサティ(随念)の中で、アーナーパーナサティ以外のサマーディはすべて、感情として名の物があります。

 ブッダ‐ヌサティは感情であるブッダの徳を思い、ダンマーヌサティは感情であるプラタム(ブッダの教え)の徳を思い、サンガーヌサティは感情である僧の徳を思い、シーラーヌサティは感情である戒の徳を思い、チャーガーヌサティは感情である寛大・救済の徳を思います。

 デーヴァターヌサティは感情である人を天人にするダンマを思い、マラナーヌサティは感情である死を思い、カーヤガターサティは感情である身体が美しくないことを思い、ウパサマーヌサティは、感情である涅槃の徳、つまり涼しさを思います。

 これらのすべてを、名の物を感情として使う段階のサマーディと言います。

 名の物を感情として使うすべてのサマーディは、当然定を生じさせることは出来ません。アッパナーサマーディ(素晴らしい専心)を生じさせることもできず、できるのは定には至らず、アッパナーに至らないサマーディと理解しておかなければならない規則があります。

 二番目のサマーディは感情として形の物があるサマーディで、簡単にできます。本当に現われている物質である感情があるので、定、あるいはアッパナーサマーディ(根本定)に至るくらい遠いサマーディになることができます。この物質を感情にするサマーディも、更に二種類に分けなければなりません。

 一つの部類はカシナの玉など自分の外部の物を感情にし、赤、緑、黒、何色でも、壁を丸く切り取った空の色でも、丸い塊である外部にある白い丸にした物まで、その輪を見つめます。こういうのを「空気を感情にする」と言い、死骸を感情にするのまでカシナと呼びます。これらは私たちの外部にあります。

 もう一つは呼吸など自分の内部の物を感情にします。深くなって、自分にある呼吸を意識する。これを内部の物を感情にすると言います。あるいはあちこちが「痛い」「苦しい」と感じる受を感情にしても、自分の内部の物を感情にすると言います。

 外部の物を感情にするサマーディが一つ、内部の物を感情にするサマーディが一つです。これらの物質である物は、簡単に規定(意識)できる基盤なので、深く規定でき、アッパナーサマーディ(根本定)と呼ぶ最高のサマーディを生じさせることができます。

 人があまり話すことがない三番目のサマーディは、アネジャー(不動)のサマーディで、アルーパジャーナ(無形禅定)の類を意味します。形がない物を感情に使うサマーディですが、最初のより遠くなります。

 この種のサマーディは定を目指さず、アッパナーサマーディも目指さないで、ほとんどは静かに静まって消えてしまうことを目指します。アルーパサマーディ、あるいは最高のニローダサマーディと言います。一般の人の望みと遠く隔たっていますが、サマーディの一種と呼ぶ物なので話しておきます。

 短く簡単に言えば、形のない物を感情にするサマーディが一種類、塊である形のある物を感情にするサマーディが一種類です。棒切れや塊など形がある物を感情にすればサマーディは深くなり、アッパナーサマーディに至るほど深い定になります。

 形がなく、物体である物がない物を感情にすればサマーディは浅く、できるのは思考だけです。もう一つの部類は定になり、最高のサマーディになった後、更にそれらの物を抜き取って空にします。そうすればアネジャー(不動)の類の最高のサマーディになります。


結果を基準にするサマーディ

 次に、基本として注目する感情が述べたように三種類なら、他にどんな種類のサマーディがあるかを見て行きます。受け取る結果を基準にすると、四種類話されています。

 一種類目は、現生の幸福である結果を受け取らせるサマーディです。生きている間にする涅槃の味見のような幸福にし、死後まで待つ必要はありません。これが本当のサマーディである四つの形禅定、特に四禅に励むことですが、無形禅定は含みません。無形禅定と呼ぶ物は幸福を目指さないので、これから説明する形禅定だけを目指します。

 あるいは名の物が感情であるサマーディを使うこともできます。つまりメッター(慈)バーヴァナーをして心に幸福を感じさせます。全部、現生で生きている間に幸福な感覚を生じさせるサマーディと呼びます。これも直接形禅定に励ませる一種類です。

 二種類目は天耳、天眼などを持つ結果を生じさせるサマーディで「天の資質を得る」と言います。アローガサンニャー(光明想)、ディヴァーサンニャー(昼想)、あるいは天の声が聞こえるようになるためのサマーディに励み、特別の実践をしなければなりません。

 三番目の常自覚で完璧にするサマーディは、常自覚の完璧さが結果としてあります。これらの人は他の結果を欲しがらず、完璧な常自覚がある人になることだけを望みます。だから彼らは身体の変化、挙措などを意識する練習だけをします。ユップノー・ヤーンノー・ポーンノーなどと呼ぶ種類のサマーディはこの種のサマーディで、していくと常自覚が完璧になります。実践法はいろいろあります。

 外部の物を基礎にすれば、上げる、置く、踏むなど、あるいは立つ、歩く、座る、寝るなど、何かこのような挙措を意識するのを「外部の物を実践の基礎にして常自覚が完璧」と言います。

 内部の物を基準にすれば、ヴェーダナー(受)と呼ぶ物、サンニャー(識)やヴィタッカ(考え)と呼ぶ物の発生、あるいは消滅を意識する心です。

 幸福、あるいは苦である感覚が生じるのを意識すると言うのは、こういうのをヴェーダナー(受)と言います。このヴェーダナーがどのように生じ、どのように維持し、どのように消滅するか、心はヴェーダナーを見守ります。

 サンニャー(想)を意識すると言うのは、あれ、これ、形、声、臭い、味、何でもどのように生じ、どのように維持し、どのように消えるかを知ることで、サンニャーを意識し、規定すると言います。

 ヴィタッカ(尋)を意識するとは考えを意識するという意味で、どのように考えが生じ、どのように維持し、どのように消えるかを意識します。これを「ヴィタッカの発生と維持と消滅を意識し、規定する」と言います。

 述べたように意識していくと、受や識やヴィタッカの発生と維持と消滅に、完璧な常自覚があり、外部と内部に常自覚がある人になります。次に何をしても失敗がないのは、常自覚が生じるまでは何もしないからです。完璧な常自覚がある人は忘れることがなく、何をしても簡単で間違いません。これが、このように常自覚で煩悩の発生を防ぐほど、最高に常自覚があることの利益です。

 四番目サマーディは「漏の終わりである結果がある」と言います。これも同様に発生と維持と消滅を熟慮しますが、取である「俺、俺の物」がある五蘊を見ます。理解すれば、すぐに「バンチュッパダーナッカン(五取薀)と呼ぶ取がある五蘊は俺、俺の物」と見えます。

 時には形薀を俺、俺の物にし、時には受薀を俺、俺の物にし、時には想薀を俺、俺の物にし、時には行薀を俺、俺の物にし、時には識薀を俺、俺の物にします。この五種類のいずれかが、いつでも何らかのタイプの愚かな俺で、くるくる変わることができます。だから形も、受も、想も、行も、識も、この五種類に取が介入して「俺、俺の物」と執着すれば「取がある五蘊」と呼びます。そのような症状が現れた途端に苦になります。

 この項目の熟慮は深遠な熟慮であり、「俺、俺の物が形薀に生じた! このように生じ、このように維持し、このように消滅した。そして一時受薀が生じる!」という智慧の方の話です。どの場合も熟慮してハッキリ見ると、どの薀に生じるかは薀次第です。

 取がどの薀に生じて、維持して消滅しても、このように明らかに知ります。この種のサマーディバーヴァナーを「アーサヴァ(漏)の終わりをもたらすサマーディバーヴァナー」と言います。アーサヴァは苦を生じさせる原因である煩悩です。

 私はこれを「受け取る結果を、サマーディは何種類あるか分類する基準にする」と言います。規定してある結果の状態で、四種類に分類できます。大きな原則で述べれば二種類に分類でき、注目して熟慮するのに使う感情を基準にすれば、述べたような三種類のサマーディになり、受け取る結果を基準にすれば述べたような四種類になります。


実践の基礎を基準にするサマーディ

 まだその他のこまごました話がありますが、各種のサマーディの違いを観察する物にするには十分です。こういうのを「実践の基礎を基準にする」と言うこともできます。ハッキリ現れるサマーディの一種で、その結果サマーディが先導していると見えれば、こういうのを彼らはチェトーサマーディ(心三昧)と言います。

 このように心の力が先導しているサマーディは、智慧の状態は見えません。つまり心だけ、心の力だけを使って注目する状態があります。阿羅漢でも解脱すればチェトーサマーディと言います。いつでも心の力を重要な基礎にするからです。

 反対のもう一種類のサマーディは智慧を基礎にするので、チェトーサマーディでなく、智慧を重要とするので心の面の厳格さはありませんが、智慧の面の重厚さがあります。阿羅漢、あるいはパンニャーヌサーリー(随慧行者)の類の聖人で、心の力ではなく、智慧によって(向こう側へ)出て行くことができます。

 サマーディであることを見ると、一つ目は強いサマーディが顕著で、二番目は智慧の中に隠れていて姿を現さないサマーディと見ることができます。

 ここで、「サマーディと智慧は分けることができない。常に智慧の中にはサマーディがなければならず、智慧にはサマーディが欠けてはならない」と、正しく理解するよう忠告させていただきます。あるいは聖向聖果涅槃に到達するには、この二つが欠かせません。

 心で解脱するチェトーヴィムッティ(心解脱)と呼ぶ人も、その中に智慧がありますが、チェトー、あるいは心が隠してしまいます。智慧の力で解脱した人たちは、その中に心、あるいはサマーディが隠れていますが、智慧が隠してしまいます。

 ほとんどの人はチェトーサマーディの類のサマーディを満たすことはできません。できるのはアナンタリヤサマーディというサマーディ、智慧の中に隠れているサマーディです。これもこのように違うと見せる一組です。


 自然のサマーディと訓練によって生じるサマーディ

 次にサマーディという言葉には広い意味があります。心にサマーディの状態があればサマーディと呼び、自然になるサマーディもあります。このサマーディは本能で生じることもできます。例えば何かをしようと決意するだけで、自然に本能でサマーディが生じます。

 お婆さんが針の穴に糸を通そうとして、糸を通し始めるだけで、本能的にサマーディが生じます。そうでなければできません。あるいは銃を撃つ人、矢を射る人が的を狙うと、自然の本能で、自動的にサマーディが生じます。これもサマーディと呼びますが、訓練したのには及びません。だから自然のサマーディと言います。

 もう一つ訓練によって生じるサマーディを「バーヴァナーで生じるサマーディ」と言います。何らかのサマーディの実践をしなければならず、そうすればこの種のサマーディが得られます。自然のサマーディである心を更にサマーディにします。だからサマーディの訓練が良くできる人が、サマーディの訓練をしたことがない人と、針に糸を通す競争をすれば、サマーディの訓練をした人には適わないと理解します。

 あるいは銃撃やそれに近いことをする人で、サマーディ式でサマーディの訓練をした人は、成り行き任せでする人より良くできなければなりません。これは愚かに騙すようにしないで、正しくできるという意味です。だから特に訓練によって生じたサマーディがあるのは、自然で自動的に生じるサマーディより良いです。

 だから私はサマーディを二種類に分け、本能で自然に生じたのが一種類、バーヴァナーと呼ぶ物で生じさせたサマーディがもう一種類です。そして今日話そうとしているのは、人間の手腕で生じさせることができるバーヴァナーの類のサマーディで、これが一対です。


サマーディの実践の正しさの比較

 次の対は実践の正しさの本気度、つまり輪廻をさせるサマーディと、輪廻から出して涅槃させるサマーディを比較する物です。

 輪廻させるサマーディのほとんどはミッチャー(誤った)サマーディの類で、あるいはミッチャーと見なさないまでも「それは輪廻させる」と言います。

 例えば梵天界の梵天に生まれ、梵天のようになるためにサマーディをする。ある時代にはこういうのがたくさんありました。ブッダ以前の時代にはこのようなサマーディがたくさんあり、梵天界に行くためにサマーディや定やサマーパティをしました。このようなサマーディを「あの世界、この世界、その世界と、輪廻させるサマーディ」と言います。

 輪廻から出て行かせるサマーディは智慧があるサマーディで、「輪廻するのは堪らない。それは苦になる」という正しい見解があります。だから迷いを断ち、迷わせて輪廻の中にいさせる無明を断ってしまうサマーディをします。

 だから輪廻から出てしまう状態のサマーディ、ヴィパッサナーの基礎であるサマーディに励みます。つまりサマーディがあればあるだけ無常・苦・無我を熟慮します。ヴィパッサナーの基礎であるサマーディは輪廻から出るよう導きます。

 今述べている対に近いもう一対を話すことができます。つまり煩悩のある人の世界の、ローキヤの、世界になるサマーディと、煩悩を消滅させる人の、世界から出してしまうため、タンマのため、ダンマの方の経過になるサマーディです。これも簡単に理解できます。

 他の人と同じように神通力やら奇跡やらを起こす力を持つため、そして他人より有利になるためのサマーディ。こういうのは稼ぐためのサマーディです。これを世界のため、世界になるサマーディで、タンマのためではないと言います。タンマのためのサマーディなら「無常・苦・無我」を明らかに見せ、そして聖向聖果涅槃に到達させます。これも一対です。

 このような種類の分類だけを話して終わらせることはできません。サマーディと呼ぶ物はどのような種類があるか、そして私たちはどの種類を選ぶべきかの見本としては、これで十分です。

 もう一度まとめると、サマーディの感情を基準にすれば、名の物(抽象物)を感情にするサマーディ、形の物(物質)を感情にするサマーディ、アッパナー(素晴らしい専心。安止)に到達する結果も、到達しない結果もあります。受け取る結果を基準にすれば現生での幸福を生じさせる結果があり、漏を終わらせる結果があります。

 実践の基礎、あるいは実践を生じさせる原因と縁を基準にすれば、チェトーが現れるほどのサマーディ、チェトー(心)が現れないサマーディがあります。自然に生じるサマーディと自分で生じさせるサマーディがあり、輪廻させるサマーディ、輪廻から抜き出させるサマーディ、煩悩欲望に支配されたサマーディがあります。

 神通力を得て他人より有利になるためにするサマーディをし、正しい見解が引っ張って行くサマーディ、完璧な滅苦のためのサマーディをする、とこのようです。

 サマーディはどのようにあるかを、このような状態で、あるいはこれだけ知れば、何とか正しく選んで歩くことができ、ミッチャーサマーディのような行為を難しくなく避けることができます。


サマーディの仕方

 次にサマーディの仕方について時間があるだけお話したいと思います。話せるのは重要な要旨だけです。ここでの要旨は、本当に重要な要旨だけについて話すので、しっかり憶えてください。

 冒頭で「サマーディには二種類あり、定やアッパナーに到達させるサマーディと、定やアッパナー(素晴らしい専心)に届かないサマーディがある」と話しました。定やアッパナーに届かないサマーディの実践、あるいは仕方は難しくありません。普通の感覚でしてもできますが、ちょっと強い決意をします。

 例えば心の中をそのような気持ちにするだけのメッター(慈)、ブッターヌサティ(仏随念)、ダンマーヌサティ(法随念)に励むことは、次のように観察できる状態があります。

1 心を誘導するために自分自身で自分の心を引き、例えば熱心にメッターに励めば、自分の心を引っ張って行って慈しみのある人にします。あるいはブッダ・プラタム・僧を愛すよう心を誘導します。これは自分の心を快適、あるいは静寂な方に引っ張っていきます。

 特に「すべての動物が幸福であれ。苦しめ合ってはいけない」と願を掛けてメッターに励むのは、定やアッパナーを目いっぱい感じる必要はありませんが、その感覚には慈しみと呼ぶ物が詰められています。

2 悪い感情を変える熟慮をします。例えば怒りで悶々としている時、メッターバーヴァナー(慈専念)、あるいはブッダーヌッサティ(ブッダを思い起こす)か何かを始めると、悶々とした悪い感情を穏やかに、苦がない感情に変えます。こういうのは定もアッパナーも望まないので、普通の感覚ですることができます。

3 心に何らかの面の強さがあるよう発願することです。繰り返しこのようにするのは、心がいずれかの方向で強くなるよう祈願しているのと同じです。戒を愛させ、布施を愛させ、涅槃を愛すように傾かせるなど、これを十アヌサティ(随念)の中のチャーガーヌサティ(施随念)、シーラーヌサティ(戒随念)、ウパサマーヌサティ(寂止随念)と呼びます。

 これはアッパナーに至らないサマーディの例で、これだけ実践法があれば十分です。何も重要ではありません。定やアッパナーを目指すサマーディのように、たくさんのテクニックはありません。だからアッパナーに至らないサマーディについての話はこれだけです。

 次に定を欲しがるサマーディ、あるいはアッパナーサマーディと呼ぶ物について話すと、「定やアッパナーに至るサマーディは、外部はいろんな色のカシナ、内部は呼吸など、感情である棒切れや何かの塊である物質がなければならない」と述べたように、たった八項目に縮めた教えがあります。

 呼吸を意識すれば、それ自体は見えず、捕えることはできませんが、それは普通の物質で、気道の中を出たり入ったりする空気です。だから具象物であり、抽象物ではありません。外部はカシナの玉、赤い玉、緑の玉を感情にします。

 次に好きでなければ、あるいはふさわしくなければ、呼吸などの内部の物を感情にします。外部の物を感情にすると、目がそれに注目するので簡単に見え、内部の物を感情にすると、目を閉じても感じることができます。つまり気道に触れる息を感じます。

 第一段階の実践は、このように実物である何かを、ボリカムニミッタ、ボリカムのニミッタの感情にして意識します。ボリカムの行動を始めるとは、口で唱えるという意味ではありません。ボリカムとは、彼らは最初の段階の行動を始めるという意味で、口で唱えるのもあり、口で唱えないものあります。

 人は口で唱える話だけに慣れていて、ボリカムという言葉を口でぶつぶつ唱えることに使うのは、少しだけ正しいです。ボリカムとは「行動を始める」「行動に手をつける」という意味です。行動を始めた時のニミッタとは、話したように感情として使う何らかの物です。外部はカシナなど、あるいは横たわっている不浄、内部は呼吸などです。このように初めの段階の感情は意識するためのニミッタで、イメージに変わるまで意識します。

 二段階目の実践は「ニミッタを変える」と言い、物であるニミッタをイメージであるニミッタに変えます。外部の物はカシナ玉、緑の玉、赤い玉を感情にし、目を開けて見つめるのは第一段階で、第二段階になると目を閉じても見え、どんなに目を閉じても目を開けているように見えます。

 これが第二段階で、実物であるニミッタをイメージであるミッタに変え、「目を閉じても見える」と言うほどにします。しかし呼吸のような内部の物の方が難しいですが、することはできます。つまり常に息が触れる場所、そこを生じたイメージの状態である一点と仮定します。

 ここでもう少し言うと、この呼吸を規定するなら、いろんな段階をしなければなりません。このように走って追い駆けるように呼吸を追い駆けるのができたら、どこかに止まっている練習をし、鼻腔のどこかで見守っていて内部へ追って行かず、外部にも追って行かず、鼻腔のどこかで見守ります。それからそこに、呼吸の代わりに玉でも何でもイメージであるニミッタを作ることができます。

 これも「外部の物をニミッタとして使う」、あるいは「内部の物をニミッタとして使う」というのと同じ結果があります。しかし外部の物の方が簡単です。電球を見つめるようなのは、このように目を閉じても目を開けているように電球が見えるまで見つめます。このようなイメージは、呼吸をニミッタにして生じさせるより簡単ですが、このように難しい物も、できればその方が良いです。その方が緻密で繊細で、そして可能だからです。

 この第二段階を「ニミッタである物を変える」と言い、物質であるニミッタを物質でなくイメージであるニミッタに変えます。このようにイメージに創り上げることができたニミッタを、ウッガハニミッタ(目に焼き付ける相。取相)と言い、自然の実物であるニミッタをボリカムニミッタと言います。イメージを創り上げることができて(ボリカムニミッタに)関わらなくなれば、ウッガハニミッタと言います。

 第三段階の実践はウッガハニミッタが良くでき、習熟したら、次の課題は第三課です。ウッガハニミッタの形、色、行動状態を変動可能な物、movementに、つまり動いて何でもできる物に変えます。

 例を挙げれば仮に緑の玉、赤い玉などのカシナを見つめれば、こういうのは目の前の実物を見なくても、目を閉じても見えます。目を瞑ってもイメージで見ることができます。

 そして静止しているニミッタを動き回れるニミッタに変えることができ、大きくも小さくもできます。いろんな色に変えることもでき、あっちこっち、どこへでも望むようにいろいろ動かすことができます。これを「ウッガハニミッタを思いどおりにパティバーガニミッタ(似相)に変える」と言います。

 これは聞いて理解しにくい話です。何でするかは心です。そしてされる物も心です。だから心は幾つもの面、幾つもの角度に分けられます。心を支配する物は心で、サティと呼ぶ心が心を支配します。感覚である心は支配されます。

 このようにできれば「心は今支配されている」と、そして「いろんな物、いろんな種類、いろんな様式の支配になる」とそれ自体が教えています。それが新たに生じた性質で、「今心は普通以上のことができる」と言います。心の支配について言えば、何種類も支配できます。

 順に比較して見てご覧なさい。初めには外部の物で、それから内部のイメージにします。しかしまだ静止していて、そして色を変え、動きを変え、形を変え、大きさを変え、何でも変化できるようにします。それは心を支配することに関して、どれほど遠くまで来たでしょうか。このようにできれば、心を適度に支配できるという意味です。次は第四課をします。

 第四段階の実践は、何らかのふさわしいパティバーガニミッタ(似相)がある時です。心が内部に定と呼ぶ感覚、例えばピーティ(喜悦)、例えばスッカ(幸福)などを生じさせます。このように心に現わして感じることができます。

 内部の目がパティバーガニミッタであるイメージを見た途端に、スッカ、あるいはピーティ(喜悦)、あるいはヴィタッカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)、あるいはエカッガター(一境心)、何とでも呼び方次第ですが、定である物を感じることを意味します。

 最初にピーティ、あるいはスッカである感覚に傾けるべきです。その方が簡単です。ヴィタッカ、ヴィチャーラと呼ぶ物が外部の目でなく、内部の目にニミッタが現れている時、心がそのニミッタを意識していることをヴィタッカと言い、そのニミッタを明らかに知り、広く理解していることをヴィチャーラと言います。

 そのようにできること、つまり心に感情としてそれだけがあることをエカッガターと言います。この四種類、ヴィタッカ、ヴィチャーラ、ピーティ、スッカの、いずれかの感覚を作って見ることができます。

 初めの段階では全部一度にできないので、一度に一つずつ引き上げる努力をし、感情の中に一つずつ生じさせます。例えばピーティが先で、それからスッカ、それから「それはニミッタに規定されている」と良く見ることをヴィタッカと言い、それから全面的に見ることをヴィチャーラと言います。そして心がこのように静止していることをエカッガターと言います。

 初めは七転八倒して、転んでばかりかもしれませんが、次第に安定し、望めば五つ同時に感じることができるようになります。

 第五段階の実践は、五つの定を全部揃って生じさせることができたら、ちょっと移動して、この五つの定がある心を感じます。これを「心は初禅に、つまり第一禅定、あるいは形禅定、感情である物質に依存しなければならない定にいる」と言います。

 初めの段階が成功すれば第一形禅定と言い、ヴィタッカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)、ピーティ(喜悦)、スッカ(幸福)、エカッガター(一境心)である感覚があります。

 次に熟練したいので、七転八倒しないで、夢中になって欲張り過ぎないで続けます。心の面の実践が失敗するのは、欲張って急いでレベルを上げてしまうからできなくなり、それで挫折することもあります。だから最初の段階を何としてもする努力をし、それからそれを繰り返しして熟練し、復習課題を常に復習して、絶対に手から滑り落ちることはないと確信したら、それから次の段階に移動します。

 だから第五段階の第五課は、初禅を熟練した物に、掌中にあり、支配下にある物にします。この五つの感覚をいつ望んでも得ることができたら、そうしたら第六課である定、あるいは形禅定と呼ぶ物に移動します。より良い定、より素晴らしい定に変え、二禅、三禅、四禅に行きます。

 第六段階目の実践は二禅、三禅、四禅のためで、初禅の中にいっぱいある物を取り出してしまう以外に何もありません。ヴィタッカとヴィチャーラの感覚を生じさせないで、ピーティ(喜悦)、スッカ(幸福)、エカッガター(一境心)の三つだけを残すなど、捨ててしまう行動をします。

 次に三禅、四禅にするにも、ピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)をどんどん捨てて、ウペッカー(捨)とエカッガター(一境心)だけを残して四禅、第四禅定にします。これを第六課と言います。つまり得た定を段階的に、より緻密な定にします。初禅になったら、その定である感覚だけを引き留め、少しだけ残して他は捨てることで、二禅、三禅、四禅と順に高くします。

 第七段階の実践は、手慣れて本当に支配下にあるようになるまで、すべての角度で初めに戻って、繰り返し復習する以上のものはありません。初禅をして習熟し、二禅をして習熟し、いつでも、幾らでも、どんな状況下でもできるよう、熟達するまで繰り返します。

 通常私たちは、十分な静寂が得られなければサマーディはできませんが、この段階になると「炎の中でもできる」と、そう言います。そういう言葉を使う方が良いです。どんなに問題があり、大混乱している状況下でもでき、どんなに誘惑の多い状況下でもできます。これが第七課です。

 第八段階、最後の課題の実践は、いずれかの定の状態にどれだけ長く留まっていることも出来ます。こういうのをサマーパティと言い、到達してその感覚の中にいるという意味です。そのような状況に一時間いることもでき、二時間いることもでき、望むだけ何日でもいることができます。

 そして第七段階の練習まで熟達しているので、思い通りに、自由自在に出入りできます。そしてここに至ると、欲しいだけ止まっていることもできます。サマーパティにどれだけ長くいることもできます。これだけで終わりますが、それぞれの段階の詳細はたくさんあります。

 これは実践の状態は八種類しかないと分類して見せました。短く言えば、物質である感情を注視し、熟慮し、それから物質である感情をイメージである感情に変え、それから静止しているイメージである感情を自分の思い通りに動かします。そのようにするのは、心が定である感情を引き留めてヴィタッカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)、ピーティ(喜悦)、スッカ(幸福)、エカッガター(一境心)にするのにふさわしいです。

 引き留めておく練習が完璧にできれば、最初の定、初禅になります。それからより高い感覚にし、何かを残して何かを捨てます。すると緻密な定になり、二禅、三禅、四禅になります。それからこれらに関わるあらゆる角度に習熟するまで練習し、最後にはサマーパティに入ることができ、いずれかの定に望むだけ長く留まることができます。あるのはこれだけです。

 
アーナーパーナサティバーヴァナーの実践法

 次は述べたような八つの規則で、アーナーパーナサティを例に理解を復習して見たいと思います。それは何を感情として使うこともできます。カシナ(遍)を使っても良く、アスバ(不浄)、寝ている死体を使っても良く、あるいは呼吸を使っても良いと、広い原則で述べておきます。今「呼吸を感情にするのは、ブッダが推奨した方法です」と紹介したいと思います。

 ブッダは「アーナーパーナサティは利益があり、功徳があり、雑でなく、緻密で、恐ろしくなく、大騒ぎでないので、どこに座っても良い所が便利」と言われています。だからアーナーパーナサティをお勧めします。

 カシナを楽しく使えば大変で、面倒で、恐ろしく、便利でなく、どこへ行くにもカシナを担いで行かなければなりません。あるいは墓地へ行かなければできないなど、このようです。呼吸はいつでも自分にあるので、どこに座ってもできるので、ブッダは呼吸を使うことを推奨されています。

 呼吸については、その呼吸がニミッタで、普通の形の物(具象物)は自然にあります。次に私たちは、ただの呼吸だけでなく、呼吸とはいったい何かを知らなければなりません。呼吸を良く知るには呼吸をして見る、つまり管理する、あるいは勉強する、観察する気持ちで呼吸しなければなりません。

 第一段階の長い息はどのようか、第二段階は短い息はどのようか。これもまだ長い時間学習しなければなりません。つまり長い息はどのように身体に対して威力があるか、短い息は身体に対してどのような威力があるか知ります。

 第三段階は、呼吸は身体と関わりがある物で、何でもこのように一緒に変化するので、パーリでは「呼吸は体」と言います。良く聞いてください。呼吸と呼ぶ物は体の一種で、それは肉体と、この身体と関わっているので、呼吸が滑らかなら肉体も滑らかで静かに静まり、呼吸が荒ければ肉体も荒いです。あるいは疲れるなどして身体が荒い時は呼吸も荒く、身体が気持ち良い時は呼吸も滑らかです。一緒に変化するほど関わり合っているので、同じ物と見なします。

 短い呼吸と長い呼吸を学習させるのは、これを知るためで、呼吸はこのように身体と関わっていると教えます。呼吸にこのような状態があり、自然の正常な状態がこのようなら、身体への威力もこのようにあります。これもこのように座って見る練習で、初めは長い息を知り、短い息を知り、呼吸は体を変調させる物と知ります。

 第四段階は、滑らかな身体があるよう呼吸を滑らかに管理し、そして静かな身体があるよう呼吸を静かに管理する練習をする課になりました。だからこの呼吸をどのように管理するか、それがアーナーパーナサティと呼ぶ実践法です。荒い呼吸をどのように滑らかにするか、長い息をどのように短くするか、このように管理できるようになるまで練習します。

 実践の秘訣は、初めの段階の呼吸を意識する時、息を追い駆けるように呼吸を意識します。息を吸っても吐いても、サティという名前の心が追って行き、息が出て来る一番奥はどこか、息が入る一番端はどこか、常に追い駆けるような任務があります。息を吸った時、どれだけで止まるか、息を吐いた時どれだけで止まるかを仮定します。鼻の先に仮定しても良く、臍でも良いです。

 呼吸に添って追い駆ける感覚の間に、隙があっても欠ける部分があってもいけません。初めはこのように練習しなければなりません。このようにできるようになれば、小さな勝利を意味します。一段階勝利して「呼吸だけを追い駆けなさい」と心を支配できる段階になりました。

 更に難しい課題は追い駆ける必要がなく、どこか一点、つまり鼻先で逃げて行かないように鼻先で見守り、そこを息が通った時、十分感じます。そこを通り過ぎて腹に入って、止まっていても勝手にさせ、関わり合わず、あるいは鼻から出て行っても気にせず、関心を持たないで、鼻に触れた時だけ関心を持ちます。

 ここに隙間、つまり管理の隙間ができます。あるいは鼻先だけで見守って意識するので、管理し難くなります。しかし追い駆ける段階から良く管理できているので、良く管理でき、この部分になってもまだ結果があります。つまり鼻腔の所だけで管理することもでき、鼻を通過して内部へ入っても、あるいは外へ出ても、どこへも逃げて行きません。だからもう一つ心を管理することが増えたと検証して見せます。

 次にそれが触れる点があり、鼻腔が基点です。そこを感情、あるいは完璧なボリカムのニミッタと言い、常にそこに触れる息を感じることをボリカムと言います。次はその点をイメージに変え、息を意識する代わりに、丸い物、あるいは何でも、そこにあるように感じます。

 時には白い玉、時には赤い玉で、全員が同じではありません。時には太陽がそこにあるような、月があるようなこともあります。人によってそこに光を浴びた蜘蛛の巣があるように感じることもあり、何でも勝手にさせ、逆らわないでください。

 現れて来る物は何でも、それをウッガハニミッタ(目に焼き付ける相。取相)、つまりそこに作ることができたイメージであるニミッタと見なしなさい。

 その後は本物の呼吸に関心を持つ必要はありません。それ自身が創り上げたじっと動かないイメージに関心を寄せます。白い玉なら白いまま、緑色なら緑色のまま、クモの糸ならそのまま、綿毛ならそのままにして、止めて変えてはいけません。つまり十分習熟するまでそのようにします。どれだけ長くても良く、いつまででも良いです。十分習熟してからゆっくり課題を変えます。

 十分習熟したら、それを変えるために心を傾け、形を変え、姿を変え、色を変え、動きを変え、変えたいように何でも変えます。これを「ウッガハニミッタ(取相)をパティバーガニミッタ(似相)に変える」と言います。

 このようにできれば、「うわぁ、私はもう一つ心の支配を増やした。思い通り自由に支配できた」と、それ自体が証明しています。現れたこのニミッタは、時には、季節によっては同じでないかも知れません。しかしそれは本物でも何でもなく、練習するためのニミッタにすぎないと受け入れます。

 支配して、熟練して、手慣れたパティバーガニミッタに変化させることができれば、これほど管理できます。だから、ヴィタッカ、ヴィチャーラ、ピーティ、スッカ、エカッガターを少しずつ生じさせて、一度に一つか二つ明らかにし、最後に五つ全部になるまで、定である感覚を支配できると、それ自体が教えています。

 これも初めに述べたような初禅に到達し、それから緻密に、残りを少なくし、次第に二禅、三禅、四禅にします。そして変化しないサマーパティの状況に長く留まることができるまで、練習して習熟します。

 これがアーナーパーナサティの練習についての見本です。核心レベルの正真の教えはこれだけです。些細な枝葉の問題はまだありますが、何も重要ではありません。このような原則で正しくすれば、必ず成功させる規則に則った経過になります。すべてを「話の要旨であるサマーディの仕方」と言います。

 もう一度復習すると、定を望まない、アッパナーサマーディ(素晴らしい専心)を望まないサマーディは思考するだけです。

 メッターヌサティ(慈を思う)、ブッダーヌッサティ(ブッダを思う)、ダンマーヌサティ(ダンマを思う)をする、死を思う、何を思うのでも、心を誘導し、説得して善くするため、あるいは悪い感情を抑えて善い感情にし、熱い感情を涼しい感情にする、あるいは自分の心の決意を強くし、何らかの望ましい方向に行くようにする物として使います。

 こういうのはサマーディを欲しがらず、多くの定を欲しがりませんが、もしできればサマーディの一種と言います。

 定が欲しい、アッパナーが欲しいサマーディは、「自然の物を感情にすることから、自然の感情をイメージの感情に変え、それからイメージの感情を望みどおりに変えることができます。

 そしてその機会を見て、その時の定である感覚を引き留め、定の要件が全部揃えばアッパナーで、初禅など何らかの定に到達します。その定である感情を捨てることで、より高い定に到達し、そしてどこかの定に幾らでも長く留まっていられるまで習熟すれば、サマーパティと呼びます」と述べたようにしなければなりません。


サマーディの功徳

 最後に話すのは功徳です。サマーディに励むことの功徳も知っておくべきです。それも受け取るべき利益だからです。そしてまだ利益を受け取らなくても気力になり、本当にする気力を生じさせる物なので、その功徳、あるいは結果を知るべきです。本当は、私たちは「本当の自然、純粋な自然は静かさを求めている」と言うくらい理解しなければなりません。

 誰か反論するならご勝手に。しかし私は「本当の自然は静かさ」と理解しています。混乱は自然に反す物で、自然は静かにしたがり、混乱したがりません。だから何をするにも静かにするためにすれば、自然と友達であり、自然と気が合い、自然と同調できます。そしてその静かさは穏やかな幸福です。

 静かでなければ自然でなく、自然に反すと、このように言う方が良いです。静かでないことを自然と見なすなら、「ほとんどは静かだ」と反論する理由があります。静かでないのは時々、ちょっとの間だけで、静かである部分は永遠に近いです。

 自然の本質は静かさであり、そして静かさのためになります。サマーディの結果も、最初の項目は静かさのためで、混乱しません。自然と友達になると簡単に静かになれます。しかし静かさには幾つものレベルがあります。自然の物質的で簡単な静かさも良いです。悪くはなく、混乱より良いです。

 しかし私たちは心の面の静かさが欲しいので、心を訓練するための課題、つまりサマーディがなければなりません。静かな時は心の面の智慧の部分の発展があります。

 パーリの至る所に「サマーヒトー ヤターブータン パチャーナーティ=心がサマーディで安定している時は、当然すべての物が真実のままに見える」という教えがあります。これがサマーディの功徳です。「心がサマーディで安定している時は、当然すべての物が真実のままに見える」と教典のあちこちにいっぱいあります。特にすべての物の無常・苦・無我が明らかに見えます。

 出家したばかりの人に「サマーディパリバーヴィター パンニャー マハプバラー ホーティ アハーニサンサー」と教えるのは「サマーディが良く訓練されている時は、智慧は当然大きな結果があり、当然大きな功徳がある」という意味です。サマーディの訓練を良くすれば、偉大な真実を明らかに見ることが生じます。

 これも、もう一つの隠れた深遠な自然です。心は自然に、それ自身ですべてを知ることができるに近いですが、今それは知ることができません。隠している物、つまりいろんなニヴァラ(蓋)のようなサマーディの敵があるからです。

 心が気づかずに悶々とし、意気消沈している時は何も知ることができず、幾ら考えても答えが出ませんが、心がスッキリするだけで、誰も教える人がなくても答えが出てきます。観察して見ると、寝て起きるだけで、何もしないでも、心に引っ掛かっていた問題の答えが出てきます。そういうのは幾らでもあります。それは、寝て起きた時は心が静かで、サマーディの状態があるからです。

 次に心と呼ぶ物の元は、それ自体で何でも知ることができ、義務を行います。本当は毎日、毎月、毎年知識を集めて内部に詰め込んでいますが、心がサマーディでなければ使い物になりません。使う機会がなく、形になりません。しかし心がサマーディになった途端に、このように知識にすることができます。サマーディと呼ぶ物の状態は真実を見せます。自然にすべての物を真実のままに明らかに見せます。

 これが偉大な功徳、一般的な功徳です。私は何度も繰り返し話されている、四つの功徳については話しません。現在の幸福のため、天耳のため、天眼のため、常自覚を完璧にするため、漏を終わらせるためのサマーディの功徳は、形通りに話せば、知っているので話しません。話したいのは、深遠で隠された心の能力を今使えることです。

 今まで使うことができませんでしたが、サマーディにできれば、サマーディにすることで、心の最高に隠れた威力、あるいは能力を出してきて有益に使うことができます。これが一般の教え、特に仏教の教えです。

 次は現代人に、現代の人が使うことができる功徳について話したいと思います。火のように蒸し暑い世界は、仏教のサマーディと呼ぶ物を、どのように有益に使えるでしょうか。

 範囲が違って全然噛み合わないので話さない方が良い」と考える人がいるかもしれませんが、本当はそうではありません。それは現代の人間に有益に応用できます。

 先回りして言っておくと、今の世界はどの時代よりもサマーディと呼ぶ物を欲しがっています。健康なら何が必要かと言えば、何も欲しがらないという意味です。今人間は苦が多いので、解決する物、あるいは滅苦をしてしまう物を欲しがります。だからサマーディと呼ぶ状態の、能力がある心を使わなければなりません。

 ここでは、現代でも非常に必要とされる、長所があるサマーディの状態について話したいと思います。だから「パリスッドー サマーヒトー カンマニヨー」と唱えられるように、正確に憶えてください。ボリストーは純潔、サマーヒトーは安定、カンマニヨーは仕事に敏速という意味です。純潔な心で、心が安定して、そして仕事に敏捷。この三つが揃えば、その心はサマーディがある、あるいはサマーディであると言います。

 ほとんどの人は、サマーディなら目を閉じて体を固くして、じっと座っていなければサマーディにならないと考えます。こういうのは勝手に言っています。教典の中ではそう言わず、「最高のサマーディの状態は清潔な心、そして安定した心、そして自分の義務に敏捷で、何を考えさせても考えることができ、止まらせれば止まることができ、何をさせても良くできる心」と明言しています。

 パリストーは、その時汚して憂鬱にする物が何もないので、心は本来の性質で義務をすることができます。サマーヒトーは安定してぼんやりしない、心の流れ、あるいは心の力がぼんやりしないで一点に集中しているという意味です。だから堅固で丈夫で安定しています。そしてカンマニヨーは最高に良く訓練されたので、何でもすることができます。
 

現代のサマーディの利益

 つい最近の時代について言えば、サマーディをどんな利益のために使うことができるでしょか。現代に応用するには、心の能力を使わなければなりません。

能力1 心が純潔なら、世界に汚職が溢れている時代に汚職をしません。これがパリストーです。純潔な心があれば、汚職をしません。Corrupt という言葉は、白い面にある汚点という意味です。パリストーは純潔で、何も汚いことができない心です。だから現代人の汚い物を、サマーディの心の美徳の一番、つまりサマーヒトーで排除できます。

能力2 サマーヒトーと呼ぶ安定して動揺しないことは、現代人の心が物質主義に揺れないためです。身体であり欲情である目・耳・鼻・舌・体の美味しさは、非常に魅惑があります。サマーヒトー、安定した状態があれば、今日の世界の人は物質主義の進歩の誘惑に動揺することなく、堪えて闘うことができます。物質面の進歩を探求する人は商売人で、騙された人から利益を得ます。今私たちは誰も騙せない人です。

能力3 カンマニヨーというのは仕事に敏捷です。現代の進歩した世界、発展した世界の仕事は、昔より、大昔より、更に大変で困難な仕事になりました。だからサマーディである心のカンマニヨーと呼ぶ性質があれば、難しい仕事を簡単な物に、簡単な仕事にでき、自分の能力に複雑さや困難は生じないと、広い利益を取ります。私たちの心はこのように良く訓練されたからです。

 これを、サマーディである心の功徳を、様々な恒久的な危機と戦う現代世界の人間の要求に応用することができる、と言います。


訓練して文化を高くする時代に至るべき

 次に「私たちは進化するべき時代になった。特にこの文化面を高くするべきで、低い方へ後退してはいけない」と、幾つかの真実、あるいは事実関係まで見ていただくようお願いしたいと思います。次にできる方法は、心を訓練し、文明面でも道徳面でも宗教面でも、高い心にする外ありません。高くする方法は、心の訓練以外にありません。

 心の訓練は、サマーディであることは避けられません。この道を通過しなければなりません。サマーディになれば、述べたように何が欲しくても、手に入れることができるからです。今文明は低劣な方へ後退し、自分を管理しない低劣な心があります。道徳も人間の煩悩に負け、宗教は公然と踏みつけられ、口先で信奉するだけです。

 だから人間が本当に受け取るべき利益、あるいは功徳は全部消失しました。私たちはサマーディの話を取り戻す道具にして、文明、道徳、宗教面の正しさと成長があるようにしなければなりません。だから仏教教団員であるみなさんがこの問題を解決するために、この話に関心を持つよう希望します。

 「簡単に見えて喜ばしい」というような言い方をすれば、信じるよう誘う宣伝に見えても、「人間の幸福は、述べたようなサマーディの規則で心を正しく調整する以外に道はない」と言いたいと思います。そのようにすれば本当の、そして十分な幸福があります。身体面も幸福で、心の面も幸福で、精神面も幸福です。つまり知性や考えの面も正しく、そして心も正しい状態を維持し、体と言葉の振舞いも正しく、体と心と精神面の幸福です。

 今、物質面は進歩して溢れ、もし心の面の進歩が更にあれば、それはちょうど良いです。物質面の進歩が膨れ上がらないよう、あるいは溢れて危険にならないよう管理することができます。今私たちの生活は一頭の水牛、つまり身体の面、身体面の力の水牛を繋いでいます。物質面の進歩は淵に連れて行きます。人生に二頭の水牛を繋がなければなりません。

 つまり一頭の水牛は知性の話、精神面、心の側の知識の面です。一頭の水牛は心の面の話で、もう一頭は物質の話で、並んで歩けば人間は安全です。これがサマーディをすることの功徳で、心の面の発展があります。欠けている半分を手に入れる援けをし、五十パーセントを百パーセントにします。

 今私たちは、穏やかな幸福がある世界を非常に望んでいます。今の世界は、あらゆる種類の苦と混乱に満ちた暑苦しい時代だからです。世界は今、最高の静かさを求め、人間誰もが自分を管理して、自然が規定してくれた枠内である静かさの中で暮らし、そして破滅する前に何としてもそうしてしまう以外に方法はありません。物質主義に負けた人間の心の言いなりになれば、間もなくこの世界は崩壊します。

 どうぞみなさん、この土曜談話の要旨であるサマーディの話を、「心をサマーディにすることは、日常的に実践すべき勤めと見なす」と規定してください。人間の伴侶である話で、分けることはできません。無理に分ければ人間は人間でなく、畜生になると捉えてください。

 サマーディに励むことは、八項目の道の八番目です。これがなければその道を行くことができず、力がないので挫折します。八項目の道を、八項目がある一本道と言います。

 正しい見解は光であり、道案内人ですが、正しいサマーディは最後にあり、これは力です。正しい見解は先鋒部隊で、正しいサマーディは本隊で、その他は全部道具です。つまり正しい言葉・正しい業・正しい生活・正しい努力等々はすべて道具です。重要なのは先鋒隊である正しい見解で、正しいサマーディは本隊で、直接敵を踏み潰す物です。

 八正道の一つである「正しいサマーディ」という名前のサマーディに関心をもってください。そうすれば何らかのサマーディを正しく、相応しくすることで、安全を手に入れることができ、苦から出てしまうことができます。

 毎日するべきサマーディは、定に至らず、アッパナーに至らなくても良いサマーディで、メッター(慈)に励む、ブッダを思うなどは、毎日するべきです。そして心を益々発展させるサマーディは、できる機会にするべきです。定になるまで、最高のサマーディになるまで、心を訓練できるまで真剣にしなければならないからです。

 これを「自分に勝った人」と言い、煩悩に勝っていろんな物が滅苦の方向だけに向かいます。人間はこの点で、高い心がある点で人間です。本当の人間になるだけで、問題はなくなります。

 今、ほとんど全員が人間ではなく、人であるだけという問題があります。人間でないのは心が高くないからです。だから心の訓練をして心を高くすれば、人間になることができます。

 全員が人間になれば問題はなくなります。この世界に人間が五十パーセントから六十パーセントいるだけで、問題はなくなります。安全な状態に引き留めておくのに十分だからです。今人間である人は、仏教の教えで見れば二、三パーセントに足りないでしょう。

 どうぞ急いで解決して、この方法で人間になってください。高い心、清潔な心、安定した心、あらゆる仕事をするに相応しい心を持ってください。人間になれればいつでも、世界に問題はありません。

 土曜談話の目的はこれだけです。時間になりましたので、これで終わらせていただきます。



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