3.戒についての実践原則



1971年4月17日

 タンマにご関心があるみなさん。ヴィサーカブーチャー期の土曜談話の第三回目は、みなさんも良くご存知のように「シーラヴァッタに関した実践法」と題してお話します。実践法と呼ぶものは、どのように実践するか、あるいは実践を簡単にするか、あるいはどのように便利にするかを教えられるだけまとめた言葉です。だからすべての角度から述べる必要はなく、直接実践に関わる部分だけを述べます。

 シーラヴァッタという言葉は、理解している人もいればまだ理解していない人もいます。シーラヴァッタとは戒と勤め、これでも良いですが、ここでは戒が一つと、勤めが一つ、合わせて二つに注目したいを思います。

 サンスクリット語のvarta、あるいはパーリ語のvattaという言葉がタイ語になると変化してワット、あるいはプロットになり、シーラはシンになります。ヴァッタはプロットで、プロットは勤めを行い、シーラは戒を守ります。

 この「勤めを行う」と「戒を守る」はどのように違うのでしょうか。シーラ(戒)は強制して実践しなければならない重要な項目を意味し、ワッタ(勤め)はシーラ(戒)に関わる小さなことを意味しますが、戒と呼ぶほど重要でないので勤めと呼びます。そして戒と呼ぶもののように厳格に強制しません。

 次になぜこのように戒について話さなければならないか、ちょっと考えてください。繰り返しで飽き飽きするように見えます。このように感じる人は、考えを変えてください。今「死ぬまで戒を守っても戒がない」、あるいは「戒の功徳を受け取らない」とハッキリ見えるものがあり、広く戒を維持しても戒から利益を受け取れず、本当に戒を維持する決意をしても、まだ正しい戒、完璧な戒と呼ぶものがありません。

 これは、戒と呼ぶものの本当の利益を受け取らない、つまり維持するだけである所で検証できます。だからもう一度この話をしなければなりません。あるいは何度も話して、戒を維持したら十分戒があるようになるまで理解させなければなりません。

 もう一方改善する目的で戒を維持するのは、まだ愚かな状態にあるのもあり、愚かでない状態にあるのもあり、まだ満足できないのもあります。それは改善できる範囲にあり、今は愚かな物も、愚かでないものも、どちらもまだ改善して今より良くする方法があるので、戒について話さなければなりません。

 まだ愚かな人は形式的に受戒するだけで、「口が利けるから言う」というように機械のように受戒するのは、これは非常に改善しなければならない立場にあります。中には善意があり、そして愚かでない人もいますが、まだ自分で満足する物にすることができずに、次々にあれこれ疑っています。だから仏教を信奉する良い基礎にする意図で、戒について話さなければなりません。

 今宗教の実践は満足できるほど良くありません。初めの基礎、つまり戒がまだ善くなく、基礎がまだ善くないので、サマーディを持つこと、高いタンマを持つことができないからです。そして特に現代人のほとんどが著しい物質主義なので、物質を崇拝し、体の面の物を非常に崇拝し、これらの人は戒と呼ぶものを知りません。あるいは知っていても間違って知っています。良く言えば、むしろ知りません。つまり間違って知れば知らないのと同じ結果があるので、知らないと見なします。

 これらの人たちは、人々がお寺には戒の遵守があると話すのを聞きました。あるいはお寺の中を歩くと、あの人たちは戒を守っていると見、そして何のためにどう守るか知らないので、頭の古い人の愚かな人と考え、「彼らは戒を守っている。何もすることがないから戒を守っている」とだけ知り、このように考えてしまうこともあります。

 あるいは戒を維持する人は何をしても見苦しいので、本当の菩薩堂の中で戒を維持している人でも、まだ話すべきでないことを話し、時にはするべきでないことをし、何かを売買し交流する市場として菩薩堂を利用する人もいることが、もう一つ現代人に軽蔑されることです。だから物質主義の時代の人は、持戒する人の話に興味深いものは何もないと見積ります。

 今述べたすべての理由で、すべては戒と勤めの実践を満足できるものにするために、つまり持戒する人は利益を受け取り、見える人は一斉に帰依し、あるいは持戒したくなり、人に戒があることで国も幸福になるために、改善してしまわなければならないと説明するものばかりです。

 次に一項ずつ話します。


戒とは何か
 初めに戒という言葉について話さなければなりません。戒という言葉、あるいは戒と呼ぶものは何か、言語の規則で戒という文字を理解する方法は二つあります。本当の文字、綴りではシーラ(戒)とは正常、あるいは普通に正常な状態を意味します。シーラという言葉はこういう意味です。正常と訳しますが、大意、主旨、あるいは内容は「実践すれば正常さを生じさせる実践」を狙っています。

 文字面と意義の面の意味は関わりがあり、「正常」という言葉にある点が重要です。戒という言葉は正常という意味で、忘れる心配があれば、「シラー(石という意味)、あるいは石碑、あるいは石は静かに正常にいる正常な物だが、今人の「人間の戒」になると、正常の意味は、木のように固く座って静かにいることを意味せず、するべきことを何でもできるという意味になった。しかし正常な状態は困窮せず、イライラせず、不潔が生じず、どんな焦燥も憂鬱も生じないという意味だ」と、シラーあるいは石は忘れないためのものと思ってください。

 これが人の正常な状態です。このような正常な状態があれば、完璧で本当の戒があると言います。身体と言葉の正常な状態が現れてハッキリ見えていて、焦燥する話がなく、混迷困窮せず、不潔でも暗くもなければ、その人は戒があると言います。このようなら十分です。心の面の話は、彼らは余り話しません。戒の話は基礎である体と言葉を重要とし、心の部分は間接的になるからです。体と言葉が正常なら、当然心も正常ということです。

 体と言葉は心に従うので、心が正常なら体と言葉も正常になるからです。しかし戒について話す時は体と言葉で計ってください。つまり外部に表出するものが正常で誰にも衝撃を与えず、そして自分を困難にしなければ正常な状態と言うことができます。「人間のための戒」という言葉は、「石のための戒」という言葉と同じような意味、つまり正常さがあります。

 次に大意、つまり要旨、あるいは意味では、戒という言葉は体と言葉に正常な状態を生じさせるために実践するよう規定された規則を意味します。私たちは「戒を持す」と呼ぶような持戒をしますが、これは体に正常な状態を生じさせるための実践原則を守ります。これを「行動で遵守する」と言います。つまり言葉だけでなく、あるいは規則の文言だけでなく、本当に実践しなければならないもので、行動があり、本当の行動があります。

 法的に話せは、戒はどこにあるのか、誰のものか分からない正常な状態ですが、行動面で話せば、戒があると主張する、あるいは持戒する努力をしているその人物にあることを意味します。これは語学的、話し言葉的に戒はこのような意味があり、正常な状態、そして正常な状態を生じさせる実践を意味します。
 

戒の起因
 これから戒の起因、あるいは発端について話します。ここは、その基礎まで深くハッキリ見るために、少し多く話したいと思います。戒の発端について話せば二種類あり、一つは自然が規定した戒、そして二つ目は人間が規定した戒です。

1.自然が戒を規定すると言えば人は理解できず、信じないで、無駄に喋りすぎると非難する人もいます。本当は自然が規定した戒と呼ぶのは最高に真実で、隠されています。自然が規定したと言うのは、自然には「それはこのようでなければならない。それはこのようでなければならない」という決まりがあり、それは厳格で、人間のように変化を繰り返す感情がなく、人間のように何かを欲しがらないという意味です。

 自然は自然であり、自然は自立している本物であり、それ自身の法則があるので、異常にすれば混乱しなければならないという不動の原則があります。聞くと滑稽で、自然が「正常に暮らしましょう。異常にすれば混乱し、困窮し、分裂しなければなりません」と規定しました。自然はこのように率直に話し、厳格な自然の法則であり、一本の系統であり、そして終始一貫していて「人間が知っても知らなくても人間の自由だが、私は私のようにする」と言います。

 だから人間が知っても知らなくても人間の勝手で、自然は責任を取りません。人間が誤りを知り、正しさを知り、大なり小なり何かを知れば、その人の知ることと実践にふさわしい結果があります。だからこの種の戒は「自然が規定した」と、良く見てください。

 あるいは神様と呼ぶなら、自然の神様が規定した人であり、支配者でもあります。自然は支配者です。だから誰の顔色も伺わないので、最高に公正です。自然の法則に背いた行動をした人は、最高に確実で最高に厳格な結果を受け取らなければなりません。

 自然の神様は純粋に、誰に肩入れもせず、誰にも利害がないように規定したので、自然と妥協し、あるいは厳格に自然に従い、自然で支配すれば、それが最高に公正を守る人です。みなさん。この自然のものである戒の入り口が見えるよう考える努力をしてしまってください。そうすれば人間が規定した戒も理解できます。

2.人間が規定、あるいは設定した戒は、いろんな集団、いろんな時期、いろんな時代にあるので、確実さを求めることはできませんが、それでも初めから永久的に手本としてきた不動の戒、あるいは戒の教えがあり、この種の戒があれば、その戒は自然の法則を土台にしている、つまり自然が規定した自然の戒と適合していることを意味します。

 こういうのは利益があり、受け入れなければならず、良く維持しなければならない本物であることは確実です。だからこの種の戒は人間が規定しても、自然の法則で自然に生じる理由で規定しました。ほとんどは、どの宗教でもどの時代でも全部一致する大きな教えは五戒です。

 「五戒はすべての戒の原型」と聞いたことがない人のために、「何の戒がどのようにあっても、必ずこの五戒が原型になっている」と、もう一度五戒について話させていただきます。今は枝葉の項目があって深遠になりますが、原型は必ず一致します。細かい部分は少しずつ違い、何段階もあり、当然違いがあるので、細部を何かを掌握する基準にしないで、これから挙げる見本のように、本当の本物の部分、あるいはそれの核心部を基準にしてください。
 
 五戒の最初の項目で、ブッダは他人の命や体に危害を加えることを禁じています。これは他人の命や体に危害を加えないという不動の教えです。それから他人とは何かを説明する小さな戒があり、他人とは人、大きな動物、小さな動物であり、そして危害を加える方法はどのようか、何種類あるか、どんな項目があるか、そしてどんな場合は殺して良く、どんな場合は殺してはいけないかを説明します。

 中には何が何でも生き物を殺してはいけないとする人たちもいて、別の人たちは反対に、相応しい理由があれば危害を加えることでなく殺すこともでき、破戒ではないと捉え、こんなようです。文言には、他人の命と体に危害を加えないという短い要旨があります。

 この戒の文言の説明である道徳面もいろいろあり、例を挙げれば、年老いた、あるいは病気で治療する元気がなく非常に哀れな状態にある家畜などは、ある道徳家たちは「殺してはならない。最期まで大切にしなければならない。それが痛みでどんなに苦しくても、私たちがどんなに大変でも、殺してはいけない。自然に死ぬ最期の瞬間まで治療する努力をする」という見方があります。

 また別の道徳家は「その動物たちに同情して憐れみ、あまり苦しめないで、私たちはすぐに死なせてしまう。そうすれば私たちも大変でなく、動物も苦しくなく、この方が正しい」と言います。規定が一致しないので、このように見方が違う人の間に論争が生じます。

 細かい説明、あるいは解説などの相違点を見てください。他人の命と体に危害を加えないという同じ教えを遵守しても、付帯条件、例外、あれこれ相違点があるので、私たちが良く、純粋に、正しく戒を実践しようと決意した時どのようにしなければならないか、理解できるように話さなければなりません。

 人間も自然の法則に従って戒を規定し、心臓部である大きな教えは全部一致しますが、細かい項目、細部は一致しないと見せるだけの例を挙げました。しかし理解を一致させる方法はたくさんあり、智慧に依存することでこの知識が役に立ちます。だから「どうしたら良いか分らないほど愚かで、自分でも戒があるか戒がないのか分からずに疑うだけ」というような持戒をするほど目を瞑って愚かにならないでください。

 人間によって規定された戒もいろんなレベル、いろんな種類があり、多少は人間の願望に譲歩しています。人間は傾いた心があり、煩悩の威力で暮らしているからです。自然が戒を規定すれば、自然の法則で正確に規定をし、人間が戒を規定すれば自分の願望で規定し、例えば天国へ行きたければ、どうすれば天国へ行けるかという戒を規定し、自然は異常な状態にしてはいけないとだけ戒を規定し、天国の話には関わらず正常さだけを求めます。これが違いです。

 人間が人間の願望で戒を規定しても、自然の法則をすべて捨てる訳ではなく、自然の法則を考える前に人間の願望を考える、つまり真実を考える前に自分のことを考えるだけです。

 次に人間が規定すると、人間は戒を遵守するよう維持管理して面倒を見なければならないので、人間に関わる話でいっぱいになり、比丘・沙弥・清信士・清信女のための律の形の規定、一般国民のための法律の形の規定もあり、どれも人間が規定し、そして人間が維持・管理、世話をします。これを人間の規定による戒と言い、自然が規定した戒と異なります。

 「自然は何より先にあり、いつでも法則が先にあり、人間は後から生まれた。同じ自然だが後から生まれた」と知れば、このような自然の規則を知り、そしてこの自然の規則を判断する道具に使えば、このようにできればその戒の規定は、身贔屓の原因である煩悩がないブッダの戒の規定と同じように純潔です。身贔屓をする煩悩がある人に戒を規定させれば、その人の願望の言いなりの戒を規定し、回避あるいは言い訳をする、あるいは自分が有利になる隙があります。


戒の目的
 次に戒の第一項、つまり「不殺生」、他人の命と体に危害を加えないことは、他人の命や体に危害を加えれば途端に混乱が生じ、困窮する人が出て、そしてヤクザ者が難癖をつけて沢山の人を困らせると、私はハッキリ見せます。人が困窮する部分を見ると人間の話のようですが、自然の話を見ても、自然は「それは正常じゃないよ。殺し合い苦しめ合うのは正常な状態ではない」と言います。人間が自然の規則に依存するのはこれだけで、自分と他人が混乱しないため、困難にならないために規定しました。

 本当は自然はどんな側のどんな人物の命も体も認識せず、望むのは正常であることだけです。しかし人間になると、人間は「それは私の物、これは私、それは君の物」と執着し、このようなので「これは私の物、それは君の物」と執着することから、「私はもっと欲しい」まで少しずつ異常になり始めます。

 時には「私もあいつの物を盗る」、あるいはあいつの物を自分の物にするために殺してしまうこともあり、このようです。あるいはあいつは私を侵害しすぎるから、私はあいつを殺してしまうと怒り、こうです。これは煩悩で執着するいろんな種類ですが、「異常になれば途端に混乱し、異常があれば途端に厄介な問題がある」と述べたように、自然の法則で経過します。自然は正常にさせたがり、人間は譲歩しますが、身勝手は終わりません。

 二項目の戒は、他人の財産に危害を加えないとある「不偸盗」で、これを何かを盗むこととだけと見てないでください。つまりどんな方法でも他人の財産に危害を加えてはいけません。他人の財産に危害を加えることは異常であり、正常な自然が失われ、そして自分の物にすればするほど混乱し、異常になり、それだけ煩悩になり、身勝手が多くなります。だから人間は耐えられなくなって、この項目の戒を規定しました。

 三項目の戒は「不邪淫」、他人が愛している物に危害を加えないことで、他人が愛している物に危害を加える考えや心があること、あるいは他人が愛している物に危害を加える行動をすることは、自然の正常な状態ではありません。だから人間は混乱しなければならず、大騒ぎをしなければならず、困窮しなければなりません。

 「不妄語」という四項目の戒は、正当な権利を侵犯する、あるいは言葉を使って他人の正当な権利を失わせることで、体を使った行動でなく言葉を使った行動に分けます。人間には口があり、口があれば話さなければならず、どのように話せば自然の正常な状態が失われないかという所に教えがあり、誰の何にも加害しない状態で話さなければなりません。

 特に他人が何かを手に入れ何かを所有する正当な権利、その権利を口を使って消失させず、自分の口に迷わせてその人が所有すべきものを失わせません。口を使って自然を異常にすることは管理しなければならないので、自然は人間の口を管理したがってこの規則ができ、それは真実なので、人間も受け入れました。

 「不飲酒」という五項目の戒は、酒類という文言だけと捉えないでください。それは少ししか賢くありません。教条に従って十分正しく捉えるなら「自分の感覚に危害を加えない」という言葉を使わなければなりません。この五項目の戒は「蒸留酒、醸造酒を呑んではいけない」と、小さな子どものように言わないでください。「蒸留酒、醸造酒を呑んではいけない」という文章には、まだ「不注意の基盤である」と説明があります。

 蒸留酒、醸造酒だけでなく、不注意の基盤であるもの何でも、食べる物、塗る物、吸う物、嗅ぐ物、あるいはどうするのでも、知覚を失わせ、理性を失わせる物は何でも、全部この項目に違反すると捉えてください。蒸留酒、醸造酒は口から呑み、今は鼻から、あるいは皮膚から、あるいはいろんな所から吸う物で感覚を失わせる物がたくさんあります。

 「心情」といえば、私たちが心情、あるいは知覚・感覚と呼ぶもの、それが正常である状態、これが自然です。心情を異常にする物があると考えが正常でなくなり、理性が正常でなくなり、全部無くなってしまい、こういうのを異常と言い、自然は望みません。人間と利害関係にない自然は欲しがりません。自然は正常なバランスを維持したいからです。

 人間が正常さを失わせることをすれば自然は認めないに近く、だから問題が生じます。自然が正常なバランスの維持をしているのが見えた時、人は受け入れ、そしてこの項目の戒を規定し、「感覚を失わせる物は何でも、それらと関わらない」と広い意味にしました。このように捉えれば正しく、そして全部揃っています。

 映画や芝居を見に行くと、酒や酔うものを呑んだように正常な感覚を失い、芝居の話なら何かしらに我を忘れさせるので、(正しい)感覚を失わせるので、夫を捨てリケー(大衆歌舞劇)の主演役者を追うこともあります。これは見本として見えている正しい感覚を失うことです。そしてまだたくさんあるので、映画、芝居、リケーでも何でも正しい感覚を失わせる物の中にあるので、この戒で自然が禁じる規定があります。

 次に人間は自分の肩を持って、「私は五戒を守るが八戒は守っていない。なぜこのように映画や芝居を観に行くのを禁じるの」と言います。本当は五戒でも「正しい感覚に危害を加える物は禁じなければならない」と禁じています。

 八戒を守っている側の人たちは、「私たちは五戒を守る人たちより多くの戒を持している」と自慢し、五戒には細かい項目が含まれていると知らず、映画や芝居を観ない、花やかんざしを刺したり飾り付けたりしないのは「感覚を異常にしない」という言葉に含まれます。飾り立て着飾ってはいけない、何かを楽しんではいけないとこのように拡大し、たくさん守らせて厳しくしているだけで、最終的な結果は、内容的には五戒より多くはありません。

 五戒だけを拡大して八戒、十戒、何百戒にもできるので、この五種類の加害することがないようにしましょう。自然は、異常や正常さを失うのを望みません。

 五戒は最高に重要です。人が正しいサティの感覚を失うと、 当然するべきでないことができるからです。正しい感覚を失わせるものと付き合い、正しい感覚を失わせるものを嗜めば、この項目の戒に反すと言い、してはいけません。酒、アヘンや何か、これらを飲めば知覚がなくなるとハッキリと分かります。映画や芝居を観に行くと感覚を失わせ、撫でたりさすったり良い香りを嗅げば、それは正しい感覚を失わせます。そして他にも、感覚を失わせ正しい判断を失わせるものがたくさんあります。

 このように遵守すれば最高に安全で、最高に正しく完璧な戒を持しているということです。人間が戒、あるいは自然の法則と一致する戒を正しく守れば善いです。今身勝手のため、自分の利益のために軌道を逸れた戒を持っていますが、こういうのは持すべきでなく、安全ではありません。

 本当に戒を持っても、純潔な戒を持っても、身勝手のために遵守するなら何も素晴らしくなく、戒でもありませんが、正常な状態、つまり正しさ、公正さ、真実を考えて戒を守れば、それは戒ですと、この項目を詳しく話して聞かせました。

 ほとんどの人は取引のような戒を持し、美しくなるため、金持ちになるため、天国に行くために戒を守ります。これが取引のような戒で、真実、正しさ、あるいは正常に対して忠実で正直な持戒ではありません。これが人間のやり方による戒で、常にこのような隙がありがちで、自然が規定した戒なら水も漏らさないので不正はできません。

 二種類の戒をちらっと見ると、基本である深遠な戒は自然が規定者、つまり自然の法則ですが、人間が規定した規則はいろんなレベル、いろんな種類があり、権力者が関わることで揺らぎ、一時そのように除外し、一時このように除外し、この場合はこのように例外、その場合はそのように例外で、それは枝葉の話で、要旨であり核心である話は除外できません。

 例えば五戒の項目は、これらの戒の枝葉の話を必要な望みどおりに、あるいは必死の話にふさわしく適宜に修正して規定する以外に、例外はありません。


巨大で頑健で安定した戒の状態
 状態で言っても二種類の戒があり、初めの言葉を良く理解するために戒をあと二種類、つまり短く簡単に言うと主軸である戒と、付属である戒で見なければなりません。

1.主軸である戒は断固として変わりません。このような五戒の心蔵部分は主軸で、変化してはならず、欠けてもならず、欠ければ必ず問題が生じ、破滅しなければならず、必ず苦があります。付属の戒は欠けても良いですが、それでも見栄えがせず、破滅しないまでも美しくありません。

 主軸である戒をパーリ語でアーディブラフマチャリヤカー(初梵行)と言い、つまりアーディボロマチャン、梵行の初めの項目で、パーティモッカ(具足戒。227戒)のように断固とした主軸でなければならず、問題にすべきでないものと言います。しかしパーティモッカ以外の細かい項目は、場合によっては除外することができ、欠けても悪い害はありませんが、美しくありません。

 付属である戒はアビサマーチャリヤカー(増上行儀)と言い、より見事にするという意味でこれを付属である戒と言います。基礎であり心蔵部である五戒を遵守し、そしてその他数えられないほどたくさんの付属である戒を持てば十分に使い物になります。五戒だけを守って「特に禁止事項がなければ自由に行動する」と言い逃れをする機会を探さないでください。

 そういうのを付属である戒がない、主軸である戒しかなく付属の戒がないと言います。このように付属の戒がなければ、幾らもしないで主軸である戒も擦り減ってぐらぐら揺れ、干乾びます。すべての物は支える物、あるいは傍で大事に見守るものなしにはあり得ません。戒の話も同じで、本体があれば、必ずもう一つ傍で大切に支えて育てる部分がなければならないので、何種類ものアビサマーチャーラ戒があります。

 五戒・八戒、菩薩戒だけを持しても、支える付属の戒を持つ努力をし、あるいはいろんな種類の付属の戒を加え、例えば「そこへ行かない、その人と喋らない、この人と何かしない」などを加えれば、その五戒、あるいは八戒は純潔で堅固になります。

 戒は主軸である戒と付属の戒があり、十分なら「使い物になり利益になる戒がある」と言うと憶えておいてください。
 

戒を持つことの結果
 次に戒を持すことの結果を分類するものと見て、大きな部分の広い戒を知っていただきたいと思います。持戒す人が遵守しているすべての戒は、大きく二つに分けることができ、輪廻になる戒はいくら持戒しても、どのように持戒しても輪廻をさせ、もう一種類の戒は、持戒すれは輪廻の外へ連れ出します。

 一種類目の戒、まだ輪廻させる戒は人々が非常に好み、ダーヤカ・ダージカ(四依を献じる男女。仏教の支援者)のほとんどはこの種の戒を守ります。簡単に見えるのは持戒して天国に生まれる、こういうのは輪廻し、天国へ迂回して行って(途中で)力が尽きて人間に戻って来ます。これも輪廻すると言い、完璧な滅苦、つまり涅槃のためになりません。

 ほとんどの人が遵守している戒は徳を得ることができ、徳が美しくしお金持ちにし、望みどおりに何でもしてくれると言いますが、望みは輪廻の話ばかりで、美しくするのも輪廻の中にあり、お金持ちにするのも輪廻の中にあり、出世し、権力や幸運があるのも輪廻の中にあります。

 直接欲情のために持戒するのもあり、死んだ後、欲情に満ちた天国に生まれると言う人は、欲情のために持戒します。あるいはこの世界の人間の欲情も同じ意味があります。その人は煩悩の海を泳ぎ回るために持戒し、あるいは煩悩が持戒させる原因です。

 その人が豊かで美しくなり、出世し、秀で、社会で名誉名声を得られるから持戒をし、これらの物で教えて騙さず、これらに雇わなければ、これらの人は持戒しないに違いありません。これも煩悩にとって良い結果のため、欲情を得るため、名声名誉を得るため、社会で目立つために持戒します。こういうのを彼らは「すべて世俗的な範囲になるだけ」と言います。世俗的な戒、あるいは世俗の戒と呼んでも良いです。

 ブッダはもう一語、オッパーディカ(有依の)と、びっくりする言葉で呼んでいます。オッパーディとは重い物があるという意味で、重いものでできています。この種の戒は気の毒なほど重く背負わなければならず、戒が多ければ多いほど重くならなければなりません。オッパーディカーとはウパディ(依。しがらみのような物)と一緒になるという意味で、ウパディは重い物という意味で、持戒して重くし、背負わせ、問題を多くし、持戒することで気が重い話がたくさんあります。

 天国の宮殿を手に入れる持戒をするのは一つの心の重さで、美しく生まれるため、金持ちに生まれるために持戒するのももう一つの心の重さで、輪廻するために重い物を背負っておきます。これを輪廻になる戒と言い、別の名をアーサヴァッターニヤと言い、アーサヴァッターニヤとは「随眠の基盤であるもの」という意味です。この種の戒は愛欲、有、形界、無形界を手に入れるために持戒するので、それは随眠のためで、随眠の基盤であり、随眠煩悩の基盤です。

 二番目の戒は輪廻にならず、非輪廻、つまり輪廻から出てしまうためになります。この種の持戒をする人は、煩悩に持戒させない種類の持戒で、前者は煩悩を使って煩悩に持戒させ、この人たちは知性、あるいはボーディ(智慧)に持戒させ、「彼は輪廻から出てしまうために持戒する」と言います。サマーディや智慧を生じさせて聖向聖果涅槃に行くために戒の結果を求め、輪廻させる原因である美しさ、美味しさ、天国の宮殿のための持戒ではありません。

 このような戒は、世界、あるいは輪廻から出てしまう行動によるロークッタラ(出世間)の戒なので、彼らはこの体あるいは自分にサマーディがあり、智慧があり、そして聖向聖果涅槃に到達させるために持戒します。このような戒をアノーパーディカ、あるいはニルーパーディカ(無依の)と言い、重い物を持たず、何も背負わず、背負う必要がない戒、重くなく軽い戒です。

 そしてアナーサヴァッターニヤ、随眠の基盤でなく、愛欲を切望させず、界(バヴァ)を望まず、あるいは何も望まず、愛欲、バヴァ(三界)、すべてのものから脱してしまうことだけを望みます。こういうのを聖人の戒、聖人式の戒、目的がロークッタラの戒と言います。

 前者はローキヤの戒で、楽しさ、美しさ、美味しさによって世界に沈み、後者はロークッタラの戒で、すべての面で世界の上に行ってしまいます。

 これです。戒の結果はこのように二種類あり、そして持戒している人のほとんどは初めの種類ばかりです。忌憚なく言えば、持戒して善を積んでその善をどこに持って行くか、天国の宮殿に生まれるのか、あるいはその戒が美しくし、お金持ちにし、出世させ、有名にし、国中の人から尊敬される人にするのか、自分で見てください。このような持戒をする人ばかりで、それは輪廻する戒です。本当はそれを融合させることもできます。

 輪廻するタイプの戒を持したことがある人は、このように煩悩に仕える戒を遵守する必要はないと、真実を見ることで改めてしまうべきです。私たちが純潔な戒を授かって持戒すれば、他の話は自然について来ます。名誉名声の話、徳を得て天国へ行く話は、後から自然について来ます。あるいは来なくても自由で、私たちは正しいもの、本当の物だけを手にし、本当の戒があるようにすれば、それはどこへも行きません。

 観察して見てください。純潔に戒を持ち、性交に繋がることを望まず、純潔に持戒し、何等かの性交のために持戒しなくても、他の話、あるいはそれらの不潔な話もついて来るので、それを取らないこともできます。名誉の話、名声の話、権力や幸運の話、尊敬の話は拒否しても良いです。あるいは相応しい状態があれば手に入れても良いです。

 例えば名誉を得させ、美しくさせ、金持ちにさせ、出世させ、秀でさせるなど、私たちをそのようにさせる煩悩の利益のために夢中になって何かをしないでください。こういうのは要りません。正しい知性で、本当の教えで正しく善くし、そして副産物である部分、お金の話も名誉の話も副産物と見なし、手に入れても入れなくても良く、取るなら、相応しく正しい方法で手に入れます。

 まとめると、いずれにしても四依を献じるすべての人(仏教を布施で支える人)は、輪廻にならない種類の戒になさい。そうすれば輪廻のタイプの求める結果も必ずありますが、自分を不潔で憂鬱にしません。初めから煩悩に仕えて輪廻になる持戒をすれば、それは不潔で憂鬱で重く、初めから何かになります。

 だから清潔に戒を持ちなさい。軽く快適で、正しく公正で、完璧な滅苦のためになる、つまり最後には涅槃になる持戒をなさい。彼らは「戒は涅槃への階段」と言いますが人は好まず、天国への階段である戒を好みます。長い間そのようにして来たなら、「自分のレベルを上げなさい、その場所で足踏みを繰り返してはいけない」とお願いします。

 戒と呼ぶものはこのようで、文言としては、綴りとしては正常、正常な状態という意味で、意味としては、正常な状態を生じさせるために行動するべき規律です。戒は本当は自然のもので、自然が密かに規定しておき、人間が間違いをすると異常が生じ、困窮が生じます。人間も仲間入りして人間の利益に合った戒を規定したので、いろんなレベルの戒があり、例えば核心レベル、主格レベルもあり、付属のレベルのものもあります。

 戒が心を引っ張って行って輪廻させないよう、つまり際限なく輪廻しないで涅槃の方へ行くよう促す階段にするよう、良く注意してください。これが「戒とは何か。戒とは輪廻から自分を抜き出してしまうために実践しなければならない物」という、戒に関わる、戒の話の実践法です。


戒がなければならない理由
 次は、全部話したいので、何かについて話す時は、その原因についても話さなければなりません。人間に戒がなければならない理由は、人間に戒がなければこの世界はどのようになるかという項目を見れば誰でも見えます。この世界の人間誰にも戒がなければ、この世界はどのようになるでしょうか。耐え難い状況になるとすぐに分かります。自分も自分の状態に耐え難く、自分に戒がなければ、自分自身も自分に耐えられません。

 つまり精神の病気、罪の病気、業の病気、心や精神を苦しめる病気がどんどん増えて、自分自身も耐えられなくなります。戒がないことで社会も耐え難く、人に戒がなければ自分の周囲の社会も耐え難く、社会に不祥事が増え、耐え難いほど多くなれば向きを変えて、この社会に戒があるようにするために相談しなければなりません。

 簡単に言えば、自分自身が耐え難いので戒がなければならず、社会も耐え難いので社会も戒がなければなりません。これが最高に秘された自然の威力です。だから戒を見くびらないでください。物質主義で非常に発展した現代人は、すぐに戒を軽蔑し、戒をバカにしないでください。戒がないことは地獄に落とし、谷に落とし、望まない立場に落とします。

 どんなに美しく豪華でも、内部は不潔で憂鬱で、幸福はありません。だから一人一人の耐え難さと社会全体の耐え難さが、この世界に戒がなければならなくします。自分が耐え難ければ、自分で戒を持たなければならず、全員に戒があれば世界に戒があり、社会にも戒があります。

 ここで今はどのようかという問題が介入し、今もまだ戒がある人もいて、少なくとも輪廻のためになる戒があり、出世したい、優秀になりたい、好かれ愛され尊敬される人になりたいと戒を持ちます。これだけ、この種の戒だけでも耐えられるようにします。この世界を我慢し合って暮らせるようにし、困難すぎず、輪廻のためになる戒があるので生きて行けます。

 しかしもっと良くするには、純潔な本当の戒がなければなりません。戒のために持戒し、俺のために持戒しない、この方が良いです。俺のための持戒は煩悩が持戒させますが、戒のための持戒なら、タンマあるいはボーディ(智慧。菩提)が持戒するよう誘います。

 自分はなぜ持戒するのか、自問して見てください。俺の事しか考えないからなら「まだみっともない戒で、煩悩が持戒させる」と言います。私たちは知性がある種類の持戒をしなければなりません。真実であるすべての物を見、そして戒の素晴らしさを見て、それから自戒します。こういうのを見事な持戒と言い、ブッダが持戒させる人です。つまり自分の知性、善悪正誤の感覚がブッダであり、それが自戒をさせます。


戒の実践
 戒の実践にはいろんな方式があり、説明は「何種類の戒があっても、どの戒もその種類の戒の実践がある」と冒頭で述べたのと同じです。だから戒が何種類もあれば、戒の実践も何種類もあるのは当たり前です。分類して見せると、

1.雇われたように実践する戒で、奴隷戒と言います。奴隷戒とは、煩悩欲望の奴隷である戒です。これが雇われ戒で、煩悩欲望に雇われて持戒します。よく注意してください。「手には杵を持ち、口では戒を持つと言う(註)」のはこの種の戒です。つまり戒が煩悩に雇われ、煩悩に持たされている戒の奴隷、煩悩の奴隷であることを維持する人です。だからこの種の戒の実践は、この種の戒、奴隷戒式に、前で拝んで後ろで騙すことがあります。

註: 「口では持戒をしていると言いながら、他人をひどい目に遭わせようとしている」という意味。

2.主人のように実践する戒で、奴隷ではありません。主人であり煩悩に雇われず、何にも雇われない、つまり戒とは何か、戒がないとは何かを知っていて、そして戒がない時は恥に感じ、戒がある時は誇りに感じるので、誰にも雇われないで善悪正誤の感覚で制止する意図、つまり悪劣なもの、不潔で卑猥なものを回避する決意に依存して持戒します。これがその人が持戒する理由で、彼は欲情である見返りを期待しません

。  このように遵守し実践する戒は、煩悩に雇われず、慙愧、あるいは品性が持戒するよう促し、制止する意図を道具に使う戒でなければなりません。だから必ず大変です。本気で疲労困憊と忍耐で注意深く維持する意図を戒にするからです。

 こういうのを本気の決意、あるいは気力を持戒する道具にすると言い、それは必ず大変で、汗を流すこともあります。この種の実践をすることは、強い意図による純潔な持戒以外に何も知らない人です。こういうのも良く、悪くはありませんが、大変です。

3.これはもう一段上がり、純潔な心を基礎にする戒という意味で、賢い人の戒で智慧を基礎にし、純潔な決意を基礎にします。良く比較しなければならず、そうでなければ理解できません。二番目の戒は厳格に回避する決意を基礎にし、それは大変で、あるいは非常に疲れ、これは純潔を基礎にし、意図しても純潔を維持する意図だけで心の純潔を維持し、そして戒に反することをする余地はありません。

 「純潔な心があれば、心を純潔に持っておけば、不注意でも何も戒を犯す道はない」と、この教えを理解してください。純潔な心を資本にし基礎にすれば、何の戒を犯す余地もありません。だから疲れるほど注意する必要はありません。

 これほど賢い人なら哲学者の戒、賢者の戒であり、智慧を基礎にし、持戒で疲れず、そしてその方が良く持戒でき、どの項目にも反しません。常に純潔な心があり智慧があれば管理する智慧があるので、その戒は煩悩の奴隷である戒ではありません。意図があると言うなら、純潔を育てる意図だけです。

 あの人たちの戒は避け、捨て、注意し、抵抗し、闘い、このような意図がなければならず、それは重く、あるいは仕事がたくさんありますが、他にできない人はこのようにしなければなりません。それも良いです。しかし絶えず何かうっかりすること、欠陥があり、漏れる穴があることから脱せません。他に何も思わず純潔な心を基礎に持戒をすれば、こういうのは疲れず、そして漏れる穴はあまりありません。

4.空っぽを基礎にし、空を基礎にし、自分がないことを戒の基礎にし、何にも、俺、俺のものと執着しない努力を基礎にする、空戒と呼ぶ最後の戒について述べたいと思います。これを基礎として空があると言い、維持するのは更に楽です。しかし人は「一跳びで空の話、智慧の話はできないよ」と抵抗します。

 戒が智慧より先か、それとも智慧が戒より先か、そして空は戒より先か、あるいは戒は空より先かと反論し合う問題があり、私は何が何より先だと断言することはできません。それは能力次第で、智慧を戒より先にできれば賢く、話は快適です。

 ブッダもそのように、智慧は戒より先に来ると見なされ、そのように見なさなければ、智慧は戒より先という形、つまり正しい見解、正しい考えが智慧で、それから正しい言葉、正しい業、正しい仕事が戒で、それでサマーディである正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディに行き着く形の八正道を規定されません。

 なぜこのように智慧が前に飛び出して、それから戒があり戒について話すのでしょうか。これは、空の話の中に正しい見解が十分にあるようにすれば、何の戒もすべての戒は、自然に引き連れて来る部下になるという意味です。しかし今私は智慧戒と呼ばず、空戒と呼びたいと思います。智慧戒は、智慧が純潔な心を使うことを基礎にすれば体と言葉と心に現れる動きは破戒にならないと話しました。

 しかしまだ自分があり、「純潔な人」あるいは「純潔がある」と言うのは、まだ自分があります。この四番目の戒は空を基礎にし、空戒と呼んで智慧で自分を抜き取ってしまうので、最高にロークッタラの戒であり、すべての意図より上にある戒です。

 まとめると、ある人たちは「意図は戒」と規定し、今意図がなければ戒にならないのは、それは彼らが子供の言葉で話す幼児の戒です。「意図がある戒が戒」、それは正しいです。そしてそれは子供の初歩段階の戒です。今私はすべての種類を話し、戒としての意図がある戒も初めに話し、雇われた戒は煩悩を基礎にし、慎重にし、ヴィラティ(制止)で注意し、意図を基礎にし、純潔な心を基礎にする戒は、心を常に純潔にすることを知る智慧を基礎にします。

 しかし今私は空を基礎にし、それは最高に簡単ですが、この空をどこから持って来るかという所が最高に難しいです。空を生じさせることができれば、戒は自然に現われます。

 一度も戒を授かったことがなく、戒について何も知らなくても戒がある阿羅漢もいます。ブッダの弟子の何人かは空の話を聞いて、そのまま阿羅漢になったように、戒を授からず、何も戒を受けませんが、却って戒があります。無我は、戒を犯すことは何もせず、そして意図しなくても自動的に、自然に、常に百パーセント完璧な戒があるからです。このような戒を意図より上の戒、最高の戒と言い、ロークッタラ(出世間。第一義諦)の戒に分類します。

 雇われたように実践する奴隷戒もあり、意図があり、制止があり、目いっぱい慎重に注意し、厳格に実践する戒もあり、智慧を純潔な心を維持する道具にする戒もあり、そして最後の戒は常に空が先導します。これです。この形の実践を見ると四種類あり、後の三つは使い物になり、初めのは使いものになりません。

 つまり煩悩が持戒させ、煩悩に雇われて持戒します。後の三つのタイプは煩悩に関わらずに徳が持戒する基礎で、意図から智慧に、智慧から空に、次々に高くなります。

 誰が私のことを「勝手に言っている」、あるいは「嘘を話す」と言ってもご自由に。本当に見えるのは、このようになっています。そして空戒は誰も聞いたことがなく、この種の戒は誰も聞いたことがありませんが、実物はあり、実物は深い自然の中にありますが、見たくない時、誰も見ない時、それは見えません。

 次に見える人の何人かは、その人は戒と見なさず、智慧と見なしてしまいます。その種の人は疲れるのが好きで、問題がたくさんあるのが好きで、何でもかんでも実践し、疲れるのが好きです。私はあまり疲れるのは好きでなく、あまり面倒なのは好きでなく、簡便なのが好きです。無我に到達すれば、戒・サマーディ・智慧も全部十分になり、無我の話を聞いて阿羅漢になった阿羅漢式に、戒・サマーディ・智慧が自動的に揃うので、問題が少ないと言います。


実践の規則
 実践の規則は、違いのあるいろんな戒次第です。主軸である戒と付属である戒に分けて戒を持てると言うなら、主軸である戒と付属である戒はいつでも綯い合わせなければなりません。基礎である戒はなければならず、付属である戒は必要なだけあり、時には社会にいたくない時があり、社会に関わって社会の礼儀作法に関わる面倒な戒を維持したくないこともあります。

 これは付属である戒の部分を必要なだけ探さなければならないという見本です。あるいは付属の戒は必要なだけ維持しなければなりませんが、主軸である戒の部分も十分にしなければなりません。

 二種類の戒、つまり輪廻のための戒と非輪廻のための戒があっても、美しいのが好きで、出世や抜きん出ることが好きなら、それを調和させなければなりません。つまり非輪廻になるような持戒をすれば、必ず余禄として世俗的な結果を受け取ります。

 だから誰にも尊敬されないと心配しないでください。恐れないでください。恐れれば戒を曇らせます。戒のために戒を持ち、社会のため、あるいは社会的な利益のために戒を持たないでください。だからこの種の戒の話にどのような教えがあるかを勉強し直して、その教えで実践します。

 戒の実践に関わる問題は「生涯持戒しても戒を持ったことがない」そして「持戒はしないが完璧な戒がある」、このように思わなければならない項目があります。それは反対の言葉で、死ぬまで持戒しても戒を持ったことがないのと、持戒をしなくても反対に完璧な戒があります。

 死ぬまで持戒をして戒がないと言うのは、戒はありますが形式的だけという意味で、機械のように儀式的な持戒をします。こういうのは、幾ら持戒をしても本当の戒はありません。重い戒、背負う戒、休まず担いでいる戒だからです。これは煩悩の威力が戒を維持させるので奴隷戒であり、煩悩欲望の奴隷であり、煩悩が撫で回す戒です。

 もう一つ憶えておかなければならない言葉を、彼らは「煩悩欲望が撫で回す」と言います。煩悩欲望が持戒させる戒。それが、煩悩欲望が撫で回す戒です。欲情面の利益のための持戒、こういうのを彼らは「撫で回す煩悩がある戒」と言い、「正しい戒がある」と言わないので、幾ら遵守しても良い戒、正しい戒はありません。

 「持戒をしないが完璧な戒がある」というのは、基礎である智慧、あるいは空に依存した戒で、持戒してなく、多くの人のように戒を遵守している行動はないけれど、反対に完璧な戒があり、つまり常に智慧、あるいは俺などが空である状態を維持していて、無我戒と呼ぶこともできます。

 常に無我を智慧にする。こういう戒は軽く、背負う必要も担ぐ必要もなく、重くなく、奴隷でない主人の戒です。智慧があるので煩悩欲望に支配されず、智慧の威力に依存して、その他の持つべき戒何でも引き寄せます。

 「パンニャー ヒ セッター クサー ヴァダンティ=すべての賢者は、智慧は最高に素晴らしいものと言う。ナックッタラーチャーリヴァ ターラカーナン=すべての星より明るくあるいは素晴らしい月のように」というブッダバーシタの一文があります。

 すべての徳の中で智慧は最高に素晴らしいという意味です。だから「シーラン シル ジャーピ サタンチャ ダンモー=戒も吉祥も善人法も、すべて智慧の威力の中にあり」、智慧があれば、その智慧が戒も吉祥も善人法でも何でも全部引き寄せるという意味です。この言葉はブッダの時代以前からあったと理解しますが、ブッダもこの項目を話されています。

 仏教以外でも仏教でも「智慧はすべての他のダンマより素晴らしい」と認めているという意味です。求めるすべてのダンマを引っ張って来ることができ、戒が欲しければ持って来ることができ、サマーディが欲しければ持ってくることができ、智慧が欲しければ持って来ることができるからです。智慧なので、聖向聖果涅槃が欲しければ、持って来てくれることができます。

 だから智慧はどのダンマより素晴らしいと見なすので、私たちは智慧を持戒する道具にし、戒を引っ張って来る道具にし、戒をまとめればその智慧によって戒があり、持戒をしなくてもその智慧の威力で戒があり、智慧戒と呼ぶこともできます。

 煩悩の望みのためになる戒、あるいは世俗にいる戒、あるいは輪廻する戒は何でも、こういうのは智慧ではありません。智慧があればそのような物を欲しがりません。そのように欲しがれば純潔な戒でなく、永遠に煩悩の戒であり、彼らは世俗の戒と呼びます。天国を手に入れるための戒、名声を手に入れるための戒、尊敬を手に入れるための戒、こういうのは全部ローキヤ(世俗の)の戒です。世界の中を輪廻し、世界を輪廻して意図があることが基礎だからです。

 ローキヤ(世俗)の戒は基礎である意図に頼らなければならず、ロークッタラ(脱世界。聖)の戒は基礎である智慧、あるいは空に頼って意図を捨ててしまうことができます。智慧あるいは空っぽであることを基礎にすれば、この戒は意図より上にあると言います。普通の戒は意図で維持でき、意図の威力以下にあるのを世俗の戒と呼びます。

 一方智慧の威力になる最高の戒は、意図より上にあるので意図に注目しません。空があれば、つまり執着がなければそれ自体が完璧な戒であり、すべての戒のすべての項目があります。
 

戒の実践の周辺の知識
 さて次は、戒の実践は身の回りにある知識を求めなければならないという項目について、少し話します。実践をするには、何が戒の原因、戒の土台、戒の道具、戒の縁、戒の食べ物、戒の飾りか、これらのいろんな物を簡単にするために知るべきなので、紹介したいと思います。

 一組目は慙と愧で、持戒を簡単にする、楽にする、あまり重くなくする最初の一組で、持戒を簡単なものにするために慙と愧があるよう訓練する努力をしなければなりません。罪を恥じ、罪を恐れることを、繰り返したくさん思い起こしていなさい。そうすればどの戒も犯す機会はなく、そして慙と愧だけを維持している時は、すべての戒を維持しているということです。罪を恥じ、罪を恐れなさい。今は罪と知っていてもまだ敢えてしていて、これは慙がなく、愧がありません。

 二組目はサティとサンパッチャンニャ(自覚)です。サティと自覚はどんな場合にも、いつでもどこでも使わなければなりません。戒の話も同じで、完璧な常自覚がなければならず、ぼんやりしてはいけません。サティとはぼんやりしないこと、サンパッチャンニャは常に感じていることです。常自覚があれば戒もあるので便利です。

 三組目は忍耐と柔和、忍耐と節度で、忍耐の話です。これはどんな場合にも使わなければならないと捉えてください。何かを良くしようとする途端に忍耐しなければならず、持戒をすればすぐに忍耐しなければならないので、忍耐を習性にする練習をします。堪える時にしかめ面をしないでください。見苦しいです。

 忍耐できる人とは、戒の正常な状態で忍耐するという意味で、戒という言葉の意味、つまり正常な状態を失いません。これらが戒の基礎であり、縁であり、道具です。どの角度から見ることもでき、罪を恥じることは戒の基礎であり、戒の用具であり、戒の装飾品です。


威力、あるいは力、あるいは道具であるタンマ
 威力、力、あるいは道具であるものには三つの名前があり、ダマ(自分に強制する)、サンヴァラ(警戒する)、パハーナ(捨てる)と言います。ダマとサンヴァラとパダーナがあれば捨てるべきものを捨てます。これは戒があるようにする力、あるいは道具です。

 食べ物のように戒を養う力になるものはサッッチャ(真。誠)が一つ、チャーガ(棄てる)が一つ、そして自分自身を尊敬することに言及しなければなりません。

 私たちがサッチャ(真。誠実)でなければ、責任を持つのは一瞬だけで戒を持っておくことは出来ません。言い終わると誓約を取り消し、サッチャがなければ戒はなくなります。

 チャーガは戒の敵であるものは何でも、休まず捨てます。その人と話してはいけない。そこへ行ってはいけない。それを好んではいけない。それを犠牲にしなさい。これをチャーガと言います。このようにチャーガがあれば、戒も良く涵養されます。

 自分自身を尊重する。これは慙と愧に似ていますが、自分が人間であることを「最高に良いこと」と尊重することと区別します。私たちが人間であることは小さなことではなく、人間が到達すべき最高の利益を得させるためにあります。

 私たちは常にこの理想を尊重し、「悪人ではない。低い人ではない。無能な人ではない。絶望した人ではない。人間が手に入れるべき最高の物を手に入れたい」と自分自身を尊敬します。これが戒の初等の食べ物で、このようです。意図で少しずつよじ登っていくローキヤ(世俗レベル)戒は、涵養するこれらのものがなければなりません。

 次に高くなり間もなくこれらの必要性から脱す段階になり、当然智慧の、空の威力で自動的に戒があります。しかし戒の初めの部分の基礎、あるいは縁、あるいは食べ物について話すなら、「罪を恥じること、罪を恐れること、常自覚があること、忍耐があること、サッチャ(真)があること、謙虚であること、自分を支配すること、慎重であること、常に捨てるべきものを捨てること、正直であること、自分を尊敬することを、何としても良くしなければならない」と、これらの物について思ってください。


戒の功徳
 話さなければならない最後の項目は戒の功徳以外に何もないので、功徳について少し話します。戒の話の実践法という項目で、なぜ功徳について話すのかは、功徳は気力、実践する気力で、功徳を見なければ挫けるからです。だから戒の功徳を知っておくことは、実践する気力を生じさせる助けになります。

 功徳も同じように戒の種類次第で、戒が何種類もあれば、戒の功徳も必ずいろんな種類があります。アーディボロマチャン戒、つまり主軸である戒は安全に安定させ、付属の戒であるアビサマーチャリカーシッカー戒は見栄えを良くします。しっかり埋めた基礎である柱があれば、持戒を望むに十分ですが、それでなぜ美しく塗るのかは、見栄えが良いので美しく色を塗ります。

 家も同じで、レンガや石やコンクリートで作れば十分なのに、なぜ塗装するかは、美しくするためにもう一手間加えます。だから本当に生きるために主軸である戒を遵守し、付属の戒は美しく見えるために遵守します。あるいはシロアリを防ぐために家に塗装すると見れば、こういうのは主軸である戒を援けるためです。だから時には付属の戒は主軸の戒を援けて補助します。これが戒の功徳です。

 次に大きな二種類の戒、つまりウパディ(依)のためになる戒と、ウパディのためにならない戒について見て行きます。ウパディのためになる戒は背負わなければならず、疲れなければならず、必ず何か非常に重い、こういうのはローキヤ(世俗)の戒です。

 これらの戒のどれも、その戒の功徳がなければならない目的、あるいは必要性からはっきり見えます。この種の戒は一人一人を美しく、芳しく、善く、優秀に、豊かにし、この世界と他の世界を広くし、芳しい香りを風上までまき散らします。

 「花は芳しいが、風上には匂わない」と常に話されている言葉がありますが、戒は風上にも香ります。人は花の香りに例えました。美しさも同じで、宝石で飾る美しさは小さな子供のようで、本当の美しさには戒があり、善があり、秀でていて、この世界と他の世界で快適に暮らす美しさです。これは他の世界があった時のためで、あるいは他の世界がなければ、快適に暮らせると保証できるという意味です。

 戒は人をこのようにし、社会をこのようし、そして小さな社会でも大きな社会でも、この社会に尊敬すべき状態があり、平穏と団結で暮らすことができるようにします。加害しないことの功徳は戒の功徳で、互いに愛の眼差しで見、水と乳のように良く溶け合います。これはパーリ(ブッダの言葉である経)の言い回しで、戒がある社会の功徳を表しています。

 今私たちは疑いの目、恐れの目、嫌悪の目で見、双方に戒がないから、あるいは一方だけに戒があってもこのような状態で見、懐疑、嫌悪、恐怖、誰を嫉妬するか知れず、そして違う戒があるから、あるいはまったく戒がないからあまり仲良くできず、妨害し合います。

 「寝るにも扉を閉めない」。これも非常に昔の言葉で、「寝るにも扉を閉めなくても良く、子を胸の上で踊らせる」とパーリにあり、このように加害しないことの功徳であるものは非常にたくさんあります。人は恐れる必要がなく、誰かを疑う必要もなく、家の門を閉める必要もなく、家に扉を作る必要もありません。ウパディがある四つローキヤの類の戒はこれだけたくさん与え、つまり個人と社会の両方で平安に暮らさせます。

 ニルーパディカの類、つまりウパディがない戒はサマーディ、智慧、聖向聖果涅槃に後押しするので、ウパディがない類の戒を実践する人は、天国の宮殿を望まず、社会で秀出たがらず、速く煩悩をなくしたがるので、戒がある時はいつでも、外部から入るものを管理します。煩悩は外部から内部に入るのを管理され、その上サマーディと智慧に切り刻まれて死滅します。

 この戒が煩悩を取り囲み、あるいは受け止めて角へ追い詰め、サマーディに頭を押さえさせて智慧に首を切らせるので煩悩は死にます。この形の持戒はこのような目的で、ニルーパディカで、聖向聖果涅槃のための功徳があります。これが要旨であり大原則である功徳で、このようです。詳細は読経して見てください。

 今世界に平和がないのは世界に戒がないからで、現代社会は戒がないので平和がありません。現代の世界は戒に欠け、戒がなく、戒のどの項目も消滅させました。現代世界と大まかに言っても全員ではなく、少数の例外はあり、世界は今平和がなく、どんどん暑苦しくなり、殺戮の時代に傾いていくと、他人を信じなくても自分で見ることができます。

 世界は大原則である主軸の戒がなく、不殺生戒を遵守しないので冷血な殺し合いもあり、怒りの殺し合いもあります。怒りの殺し合いもあり、そして冷血な殺し合いは、困らせて破滅させ、経済的に衰退させ、後で死ぬのもあり、こういうのは冷酷に殺し、誰の顔を立てることもなく、熱血でも冷血でも殺そうと考えます。

 そして今、誰でもたくさんの人を殺すことができます。名誉があり、最高の勲章を胸に飾っている人は、最高にたくさん人を殺すことができ、それによって胸に最高レベルの勲章を飾ることができます。「人を殺せば殺すほど有能で名誉がある」と人が好んで言う時、このようで、それで混乱しないはずがありません。

 現代の世界は二番目の戒、不偸盗戒がなく、著しい身勝手で、著しい身勝手ならこの戒を守ることは出来ません。陰で盗むことばかり言わなくても、今は公然と盗みます。公然と盗むとは、兵を挙げて公然と盗む戦争で、これはこの項目の戒がないからです。見えない所で盗み、目の前でも盗み、そしてその後重大な盗みの準備をし、政治的政策を使って他人の利益を奪って自分の物にすることもあります。

 政治と呼ぶものは何があるか知りませんが、最高に興味深く、最高に恐ろしいのは、小刻みに揺れる政治家の舌に基礎があり、自分の利益を守ることだけを目指すことです。政治はタンマの上、あるいは何の上にも基礎がなく、現代の政治は政治家の小さな舌、自分の利益だけを維持する、あるいは自分の利益のために戦う義務がある小刻みに動く政治家の舌に基礎があります。

 世界がこのタイプの政治を尊重すれば、不偸盗戒を守ることは出来ないので、公然と盗み、陰で盗み、大規模な盗み、国ごと盗むなど、このようです。

 現代の世界は三番目の戒、不邪淫戒がありません。彼らはこの項目の戒を削除した新しい宗教を設立しようとしています。物理的な受胎調整が普及すればするほど、この戒を守ることができなくなり、そして彼らの心は「この項目の戒を取り止めましょう。そうすれば厄介でなくなります」という考えに傾きます。外国ではたくさんそのようになっていて、タイもこの話に関して彼らの尻を追い、間もなく世界からこの項目の戒はなくなります。

 四番目の戒、不妄語戒は、今この項目の戒を持す人は誰もなく、世界を取り囲む雰囲気は妄語に溢れ、口での妄語は毎日話し、テレビでの妄語は放送し、人工衛星を通じたラジオは妄語の話ばかりです。

 彼らは政治の話、有利になる話、あるいは有利になるために騙して迷わせる話ばかり宣伝するので、有利になるため、他人を騙して自分の支配下にいさせるため、自分は有利な側だと信じさせるためにラジオを使って伝え、冷戦をします。これは妄語ばかりです。だから世界を覆っている空気は最高に恐ろしい妄語の息吹に満ちています。

 世界は五番目の戒、不飲酒戒がありません。今世界はほろ酔い、物質的なほろ酔いが好きで、酒などの酔うものを好み、ヘロインまで益々好きになり、これが物資的な酔いです。身体面の酒は欲情に陶酔することを崇拝し、ナイトクラブ、バー、欲情面のいろんな話も酒の一種で、正しい感覚を失わせます。これが身体面、身体面の酒です。そして精神面の酒があり、いろんな主義、政治主義でも何の主義でも、人をその主義に酔わせて迷わせて知覚を失わせる精神面の酒です。

 酒は三種類あると捉えてください。グラスに注いで口に流すのは物質である酒で、そして体の酒は手に入る肉体面の欲情を求め、精神の酒は溺れさせて人を鹿や魚のように殺させる主義です。これは主義の酒で、主義で騙して酔わせます。すべては現代の世界の新しい発展の中にある筆舌で表せないほど甚大なサティや知覚の消失です。

 だから現代の世界は、五戒の全部がありませんが、彼らは付属の戒はあるかもしれません。これらの主軸である戒がなければ、付属の戒で人を騙すことがあり得ます。それについては話しません。

 これが世界の政治で、このようになっています。そして世界は、日に日に政治の世界になっています。世界は日に日に政治の威力下に落ちているからです。政治家が世界を支配するので世界はこのようになり、だから世界に平和がありません。だからみなさんがこの項目を見て、戒があるように後戻りさせるよう、伏してお願いします。そうすれば世界に平和があり、自分にも平和があります。これが戒の功徳で、これ以上何も話す必要はありません。

 まとめると、戒とは自然の正常な状態で、自然が規定し、そして私たちは、大混乱や異常を無くしてしまうための実践法として受け入れました。私たちはその苦に耐えられないので、心の力で注意深く慎んで戒を実践し、智慧の力で戒を実践し、純潔だけを維持し、そして空の力で戒を実践し、俺、俺のものがない心だけを維持しておけば、戒を涵養する完璧さがあり、慙と愧、忍耐と真、何でも名前を挙げた物によってこのような功徳を受け取ります。

 世界にいたければ世界の美しさ豪華さがあり、世界から出たい人は何でもすべての面で世界より上にいることができます。

 戒があって世界にいるなら、平和に静かに暮らせ、世界から脱して世界より上に行けば、何かと述べるより上、徳より上、罪より上、善より上、悪より上、幸福より上、苦より上、すべての物より上で、これは解脱で、良い物も悪い物もすべてのものから脱します。あるいはまだ良い縛るものが好きなら、戒を良く遵守し、良い縛る物と暮らし、悪の側、アパーヤや地獄に落ちません。

 善く暮らせば十分耐えられますが、重い物を背負うのは仕方がありません。何かを所有したければ背負わなければならず、背負えば必ず重く、たとえ良い物でも、ダイヤや宝石でも、厭きるまでは重く、厭きれば世界を循環することから出る、輪廻から出る種類の持戒をし、それが聖向聖果涅槃です。

 戒はこの世界と他の世界で幸福に暮らさせ、そして幸福より上、苦より上、すべての点で世界より上に脱出させ、いつでも精神面の美しさがあり、精神の芳香があり、醜くなく、嫌らしくなく、退屈でなく、恥ではありません。

 どうぞみなさん一人一人が戒の話、そして戒の勤めに関わる実践法に関して、述べたような状態の理解を持ってください。

 これで講義を終わらせていただきます。



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