2.布施についての実践原則



1971年4月10日

 タンマに関心がある善人のみなさん。本日の講義は、配布した予定表でお分かりのように、予定通り「布施や寄付に関した実践原則」と題してお話します。

 前回は簡単な初歩の話と見なされているサラナーガマナ(帰依)の実践法について話し、次の布施の話も同じで、ほとんどの人は簡単すぎる話、誰でも良く知っている話と見なしています。

 なぜまた布施の話をしなければならないのでしょうか。またこの話をするのは、今までより善くするためと捉えてください。今までしていたのが愚かでも愚かでなくても、まだ以前より善くする余地があります。だからもう一度話さなければなりません。そして一度で生涯使えるように最高に良く話す努力をします。だからみなさん、簡単なイロハである布施や寄付の話をもう一度全部話せば、生涯実践することができると、良く規定し記憶しておいてください。

 このような状態で話すのは、彼らが普通に話しているのより特別な支援と捉えてください。ここで自慢、あるいはお喋り、あるいは何と非難するのもご自由に。自慢、あるいはお喋りと非難するなら、「ここで話すことは常に特別な物がある」と、少し喋らせてください。誰かが話したことの繰り返しでなく、新しいものがあり、少なくとも話が短く理解し易く、近道で、そしてどの話も含める広さがある所が特別です。

 実際、彼らは何時間でも布施の話ができますが、ほとんど何もなく、同じ話を繰り返しているだけです。

 次に特別に話すのは、布施に関わるどんな話も全部話し、率直に言えば、繰り返されていない布施の話を、いろんなブッダの言葉である経から集めて一つにまとめ、「どこでも話されたことがない」と言うことができるので、特別に関心を持ってください。実践原則である布施に関わる話を全部まとめてここに入れておき、おまけに特別の状態、つまり早く涅槃に行くよう促進する状態があります。

 通常一般の人は、布施をすることは低い話、天国へ行く階段に過ぎないと捉えています。それは子供じみた布施、あるいは普通の布施の話で、仕方を知っていれば、つまり布施の仕方を心得れば、布施をする話は涅槃の話、涅槃の話にできるので「私が話すことはここが特別です」と言うものに特に関心を持ってください。

 遠い道を縮めて近くし、長い道を縮めて短くする援けになるので良く聞いてください。良くできれば布施で涅槃の話に到達することができます。これが新しいか新しくないか、聞いて見てください。

 「階段の最初の一段だけ」と布施の話を低く見ていたのは誤解で、夢中になってそのようにだけしていれば、そのように死ぬまで布施します。しかし布施の仕方を知れば、布施をするだけで涅槃に到達でき、他に何もする必要がありません。これからお話します。

 重要な要旨がちょっとあるので、良く聞いてください。布施には二種類あり、輪廻する布施もあり、輪廻から出る布施もあります。

 以前に輪廻をする布施の話だけをしました。布施をして徳を積んで良く生まれ、美しく生まれ、金持ちに生まれ、天国へ行き、人間の財産、天国の財産、それしかなく、輪廻外の涅槃財産には届きません。

 布施の仕方を知っていれば布施の結果が輪廻の外へ押し出すので、輪廻していません。

 次にもっと珍しい話をします。布施の話、すべての種類の布施を全部まとめれば、すべての布施は二種類に分けることができ、一つはパティガーハカ(布施を受ける人)に関わる種類の布施で、受け取る人がなければなりません。

 もう一種類の布施は、受ける人は必要ありません。

 これは珍しいか珍しくないか、聞いて見てください。だから受け取る人が必要ない布施の話をする点が、必ず珍しいと約束します。

 だから布施をして輪廻するのは、受け取る人がいなければならない布施です。次に布施をすると輪廻の外へ出て行ってしまい、その後二度と輪廻しない布施は、受け取る人は必要なく、受け取る貧しい人がいなくてもできます。布施の話はこのように二種類です。

 低い布施は輪廻し、布施を受ける人がいて、高い布施は輪廻せず、布施を受ける人は必要ありません。そして輪廻する布施はたくさん話されています。「俺、俺のもの」のために与えるのがこの種の布施で、輪廻から出る種類の布施は「俺、俺のもの」を上げてしまい、重要な要旨はここにあります。

 俺の利益のために布施をし、徳を積み、俺が何かを得て良くなり多くなる、それは極めて普通の、一般に知られている種類の布施です。

 次に全部話す特別なレベルの布施は、俺、俺の物を残らず上げてしまいます。それは特別な最高の布施で、受け取る人は必要ありませんが、本当の上げることです。

 受け取る人がなければならない布施は三種類に分けることができます。先に名前を憶えてください。

 一種類目は物施。布施として物を与えるので、受け取る人がいなければなりません。
 二種類目は赦施。罪を赦し、赦しを与える。これも受け取る人が必要です。
 三種類目は法施。これも受け取る人が必要で、この三種類は受け取る人がいる布施です。

 次に反対の一種類を空施と呼ばせていただきます。これはみなさん聞いたことがないと思います。空施を聞いたことがなくても、これは教典の中のパーリ(ブッダの言葉である経)の寄付(放棄する)の話で述べられています。しかし誰も話している人がなく、あるいは直接「空施」と呼んでいませんが主旨として話します。

 そして私は「ああこれが、空に関わる物を与えることだ」とハッキリと見えました。述べたような空施は受け取る人が必要なく、そしてその後は輪廻しない布施です。初めに話したのは輪廻する機会があります。

 もう一度まとめさせていただくと、

 布施について話すと、寄付(放棄)には四種類あり、物を与える布施、赦しを与える布施、タンマを与える布施の三種類は受け取る人がいなければならず、四番目は空を与え、つまり空に関わる物を布施する、これは受け取る人は必要ありません。

 次に一つずつ詳しく話します。


1. アーミサダーナ
 一番の布施をサーミサダーナと言い、物施と呼んでも良いです。物施は物質を与えることで、アーミサダーナはアーミサを与えます。アーミサという言葉は餌という意味で、嫌らしく聞こえます。このアーミサは目・耳・鼻・舌・体を通じた食べ物を意味し、ご飯や惣菜もアーミサと言います。

 アーミサダーナは受け取る人がいる、あるいはいなければならない布施なので、良い受け取る人がいなければならず、そして良い物施する物がなければならず、そして良い与えることがなければなりません。これが物施についての実践法です。

 みなさんが物質を上げるなら、良い受け取る人がいて、良い品物があり、そして良い上げること、あるいは与えることがあるよう、良く選んで見なければなりません。これからどのように選べば良いか話します。
 

パティガーハカ(受け取る人)の状態
良い  「善い受け取る人がなければならない」と言うのは、布施を受け取る人がすごく善い、少し善い、あるいは悪い、あるいは何でも、その布施はいろいろあって変化するので、受け取る人を基準にしなければなりません。

 一番目は憐れみで与え、受け取る人は畜生、あるいは乞食、あるいは自立できない人です。これが受け取る人で、畜生や乞食である人や耳や目が不自由とか、何かこのようなに自立できない障害者です。

 二番目は尊敬で差し上げるので、受け取る人は正しい実践、善い実践をする人です。私たちは尊敬で差し上げるので、受け取る人は正しい実践、善い実践をする人で、畜生でなく、乞食でなく、障害者でもありません。尊敬で差し上げるのであり、憐れみで与えるのではないからです。

 三番目は徳にお供えするためです。みなさん自慢しないでください。私たちは両親を初め、先生、そして最高に大恩のある人、つまりブッダと多くの阿羅漢たち、周囲の人に恩の借りがあります。恩にお供えする状態で受け取る人に差し上げれば、これは徳を崇拝するために差し上げることです。

 四番目は借りを返すために上げ、これは徳にお供えするのに近いですが、この借りを返すのは、責任を感じ、借りを返さなければならない必要を感じるからです。ブッダには借りがあり、プラタムに借りがあり、僧に借りがあり、すべての尊敬すべき人は債権者で、先生も債権者で、私たちは借りを返すために上げなければなりません。受け取る人は債権者です。

 この趣旨で受け取る人にはいろんな種類があり、述べたように良い受取人を良く選ばなければならないと見ることができます。

 五番目は、善くない人に与え、たとえばヤクザなど、その人に心を入れ替えさせる方法を探すために与えます。今回わざわざ布施をするのは、その人に過ちを改めさせる一つの方便、一つの方法なので、私たちはヤクザな人にも布施をします。誰かが善くない受取人と呼んでも勝手ですが、別の角度から見ると、その人が誤りに気付けば、これも与えるべき良い受取人です。

 次にもう一種類の善くない受取人は与えれば与えるほど怠け、与えれば与えるほど得をします。こういうのは善くない受取人ですが、彼らが社会の危険にならないために、私たちが与えることで彼らが社会に与える危険を少なくするために与えます。私たちはここまで布施をし、社会の危険をヤクザたちから買う、これも善くない受取人への布施と見なします。

 まとめれば、受け取る人は四種類あり、憐れみで与えるのは畜生などで、善い行いの人に尊敬で差し上げるのと、恩がある人の恩を尊重し、そして借りを返すために差し上げるのがあり、物質的な借りとタンマの面の借りがあります。一方善くない受取人は二種類あり、その人に心を入れ替えさせるために与え、その人が心を入れ替えなければ、彼らによる社会の危険を買って少なくするために与えます。

 すべてはよく見れば、分けてやることができる余ったお金を、述べたようなすべての意味で布施し、世界で実践しなければならないと見える教えです。これを「受け取る人、あるいは布施を受ける人を可能な限り良く選ばなければならない」と言います。布施をすることで害があってはいけません。これで受け取る人の話は終わります。


布施する物の状態
 次に布施する物について話します。布施する物とは上げる物、与える物で、与える物は品物でも良く、他人の幸福を生じさせるために捨てなければならない個人の幸福でも良いです。お金などは直接生活を援け、その人の仕事を援けます。

 律では物質を四つに分け、食べ物はビンダバータと言い、身に纏うものはチーヴァラと言い、住まいはセーナーサナと言い、病気を治療するものをギラーナベーサッチャと言い、律の教えでは、私たちはビンタバータ(食)、チーヴァラ(衣)、セーナーサナ(住)、そしてギラーナベーサッチャ(薬)を与えます。

 アビダンマ(論蔵)の教えでは、目の利益になる物、耳の利益になる物、鼻の利益になる物、舌の利益になる物、皮膚の利益になる物、心の利益になる物を与え、何らかの物質が六つの物に対して利益があれば、彼らは与えます。これがアビダンマで、彼らはこう言います。彼らは第一義諦で話すと言います。

 一方スッタ(経蔵)、あるいはスッタンタは、直接物質を明示し、ご飯、水、住まい、乗り物を与え、つまりすべて人間が有益に使う物で、傘を与え、靴を与えるのも、乗り物を与えると言い、蚊帳などを与える、こういうのも律の話、アビダンマの話で話したのと違います。

 次に与える物がなければ、時には自分の幸福、自分の安楽を分けてやらなければならず、それも物質に含める注目します。自分の犠牲によって他人を援ける何でも「布施する物」と呼びます。述べた物施は一つ目です。

 二つ目は、労力、お金、知性、権力の面で援けることで、いろんな方法で他人を援けることができます。労力は、自分の幸福を犠牲にするほどではありませんが、労力、あるいは時間か何かを犠牲にしなければなりません。そうでなければ彼らが「息を掛ける」と言うお金の支援、あるいは福分、知性、権力で援ける、これらも彼らを援けることができるものです。だからこれらの物も布施する物と言います。


タンマである状態
 布施する物はタンマがある物に限定され、公正に手に入れなければなりません。布施するものは必ずタンマでなければならず、つまり正しく、そしてふさわしくなければならず、それに盗んだ物でなく、公正に手に入れなければなりません。物質もタンマであり、つまり受け取る人が受け取るに相応しく、罪がなく、そしてその物質はタンマで手に入れ、公正に手に入れます。

だから布施する物やお金は、タンマで手に入れた物であるべきで、不正に手に入れてはいけません。それは騙し取る話であり、何か奇妙な歪みで、例えば盗んで来て「布施する物が何もないので、今日は布施するために他人のものをちょっと盗んで来たよ」と言い訳します。ここまで吹飛ぶべきでなく、その物品はタンマでなければならず、そしてタンマで手に入れなければなりません。

 三つめは布施として体の器官を犠牲にし、命を犠牲にし、妻子を犠牲にして差し出すまで遠く、それはボーディサッダー(菩薩)の布施の話になりますが、行為者がいます。時には自分の眼球や手足などを他人の利益のために与え、時にはこの命を犠牲にします。

 幾つもの菩薩の話があり、自分の子を食べないように命を犠牲にして虎に食べさせた話もあり、これは菩薩の手法です。そして私たちが最高に聞き慣れている妻子を犠牲にする話、つまりヴェッサンドラ王子は大人物の心情の話で、だからこのようにできます。

 後世の規定では布施は三段階あり、バーラミーの布施は人々がしている普通の物を与える普通の布施で、ウパバーラミーの布施は高くなった中程度の布施で、これも体の部分を与えるくらい与え難いものを与えます。そしてパラマッタバーラミーの布施は、子や妻などをこのように布施するなど、非常に与え難いものを与えます。

 すべては布施する物の話で、品物もあり、労力や知性による支援もあり、体の一部や命や妻子などを与える最高レベルの与えることもあります。

 どれだけできるかは自分で選びます。すべては布施として与えられる物質、あるいは品物の話で、全部話しました。


与え方の状態
 さて三番目は、与える(上げる)こと、あるいは与え方(上げ方)について話します。与えることは善くなければなりません。大原則は、与えるには意図が純粋でなければなりません。与えることに純粋な意図があり、餌で他人を釣るためではありません。今私たちが何十万、何百万、何千万布施をするのは、他人を餌で釣って仲間にし、そして利益を追求するためで、こういうのは意図が布施でなく、純粋でもありません。

 もう一つ、満足して喜ばなくてはなりません。与えようと考える時十分満足し、与えている時も十分満足し、与え終わった時も十分満足します。それは正しい行動なので、与える前、与えている時、与えた後の三度、十分満足します。これは「正しいに違いない」と検証する道具です。

 次に善い布施は慎重に選ばなければなりません。与える物を正しく、相応しく選ばなければならず、そして与える正しい時、相応しい時を慎重に選ばなければなりません。時に関して慎重に選ばなければ一度に集中してしまい、布施を受けた人は捨てます。時々私たちの(寺の)布施も余ってしまって、どこへ持っていったら良いか分からない場合があります。こういうのは時が間違っているので、正しい時にするべきです。

 ある人から聞いた話ですが、ハッジ(イスラム教の儀式)をしにメッカへ行った人は、彼らにも布施をする伝統習慣があり、そこへ行った人は誰でも羊一匹か二匹分の代金を寄付し、お金のない人が食事にありつけるよう、羊を殺して布施しなければなりません。しかし予想以上に寄付する人がいると、殺された羊が山のようになり、切際限なく食べる人は誰もいないので、全部腐って悪臭が立ち込め、ハゲタカが食べるそうです。

 時を間違い、場所を間違えて布施をするのは信仰が強すぎるからで、どの宗教にもあります。だから品物を選び、時を選び、状態を選び、人物を選び、何でも良く選ばなければなりません。ブッダは「慎重に選んで布施をする。これをプラスガタ(ブッダのこと)は賞賛する」と言われています。

 次に与える状態も正しくなければならず、尊重しなければならず、相応しくなければならず、少なくとも自分の布施を尊重しなければなりません。ハンセン病の人に布施しても、自分の布施を尊敬しなければなりません。それはタンマの振舞いなので尊敬しなければなりません。

 次に、広く利益があるように選ばなければならないので、サンガダーナ(僧集団への布施)があり、ブッガリカダーナ(人物への布施)があります。対人施は自分が愛している好きな個人に上げます。

 サンガ施は、ブッダが首領としている集団、サンガに上げ、こういうのをサンガダーナと言います。僧であるあの方この方が好きなら個人に上げ、これをブッガリカダーナと言い、狭いです。正しく善い与えることは、このように注意しなければなりません。

 すべては物施に関わる話ばかりで、受け取る人も善く、布施する物も良く、与えることもこのように善ければ、これはその布施が確実に善いと計る物差しです。

 次にもう一つ、このような物施をすることはアーサヴァ(漏)になることもあり、アーサヴァにならないこともあるので注意してください、と忠告させていただきます。

 アーサヴァになる布施は煩悩を増やします。それは適度を越えた儲けを取引する意図にあり、布施をして願い事を唱えてばかりいます。観察して見ると、百倍、千倍、万倍の結果を得ようとしているように見え、一バーツ寄付して宮殿を一棟手に入れるに近いです。これは妥当を越えた儲けの商売であり、アーサヴァになる、つまり身勝手を増やす種類の布施です。

 彼らはあまり落ち度があると貶しませんが、これはアーサヴァダーニヤ、つまり煩悩の基盤、アーサヴァの基盤と明言します。

 以前は執着が少なく、次にたくさん結果を得たのでたくさん執着し、だからアーサヴァがたくさんあるので、却ってこの種の布施から苦があります。この種の布施を、私はアーサヴァになると言います。

 アーサヴァにならない布施は反対で、アーサヴァを終わらせるために与え、執着を終わらせ、身勝手を終わらせます。例えば寄付するのに「宮殿一棟ください」、「そのよう何かをください」と夢中になって唱えていないで、「他人の利益になりますよう。私は身勝手でなくなること以外何も望みません」と考えて上げ、自分の身勝手をなくすため、そして他人の利益のために上げ、彼らのように十倍、百倍、千倍欲しがりません。

 これが良く注意しなければならないことで、適度を越えた儲けのために上げるのは、まだ輪廻することであり、そしてウパディ、つまり背負っていかなければならない重い物です。前より金持ちになれば、前よりたくさん背負っていかなければならないので重い物ですが、このような見返りを何も求めないで上げれば軽い物なので、涅槃のためになる布施です。

 涅槃のために上げれば必ず軽く、たくさんの儲けを求めて上げれば必ず重いです。どちらの布施にするかは自分で選んでください。実践原則はこのようです。

 与えることが善くなく、何も考えずに与えればヤクザな人を増やし、仏教に破戒僧を増やします。与え方を知らずに善くない与え方をすれば、ヤクザ者が増え、世界の破戒僧が増えます。これは更に悪くなってしまいます。これが布施する時に良く注意しなければならないことです。

 物施に関わる実践規則の重要項目はこれだけです。詳しく話し、天国の宮殿を手に入れる功徳を説けば、一年話しても終わりません。物施、つまり物施に関して知っておかなければならない、そして有益にしなければならない実践だけを話しました。


2. アバヤダーナ(赦施)
 次は二番目の布施でアバヤダーナと言います。このアバヤダーナと呼ぶものも受け取る人がなければなりません。アバヤダーナとは赦しを与えるという意味です。アバヤとは「怖がらなくても良い」という意味で、赦してやり、つまりその人に「怖がらなくても良い」ことを与え、その人は私たちを怖がる必要がないという意味です。これがアバヤダーナです。

 次に「それは布施ではない」と考える人がいるかもしれません。これは知りません。その人は知らないで言っています。このような与えることを布施と言い、人はアバヤダーナと言います。与えることができる物であり、体でも、言葉でも、心でも与えることができます。

 体の面はその人が謝罪し、詫びたら、私たちは受け入れ、言葉の面は私たちは寛恕の言葉を言い、心の面は怒りや恨みを払い捨てます。こういうのをすべてアバヤダーナと言い、体、言葉、心の面があります。次にこのアバヤダーナ(赦施)は、少なくとも三種類あると分類して明らかに見せます。

 初めのアバヤダーナは罪を赦すこと、つまり罪の謝罪を受け入れることで、「罪を赦す」と言います。これは良く理解しているので説明する必要はありません。

 二つ目は誰も侵害せず加害しないことで、それもアバヤダーナ(赦施)です。誰も侵害せず、誰にも加害しない生活をなさい。人が「戒」「戒」と言う、それがアバヤダーナです。私たちは命や体に加害せず、侵害せず、あるいは人の体と心情に加害、侵害しません。

 彼らの体と心に、畜生から人間、天人から、いれば梵天まで、どんなレベルの加害も侵害もしません。命がある物、感情や感覚がある物を侵害して苦しめないという意味で、これを侵害しない、加害しないと言います。

 三つめは普通に慈しみの心を施し、毎日毎晩、一呼吸ごとに慈しみの心を施します。これがアバヤダーナです。

 考えて見ると、アバヤダーナは一銭も投資する必要がないので、お金持ちになりそうです。菩薩堂一棟建てるには何十万バーツも掛かりますが、このアバヤダーナはお金を一銭も上げなくてもでき、もっと高い結果があります。話すと信仰が減退するので、話さない方が良いです。

 しかしアバヤダーナ(赦施)は、品物を与えるより難しいと知っておいてください。それは更に心の話になるからです。高慢な人は誰かが謝罪しに来ても赦そうとせず、そして常に他人を困らせる生活をし、他人を愛さず、他人に同情しません。これをアバヤダーナがないと言います。

 だから「今日からアバヤダーナの話を片付けてしっかりしたものにする」と、強い決意をしてください。物施はたくさんしていて、今朝も物施を見ています。どこでも物施は簡単に見られますが、アバヤダーナ(赦施)は稀で、あまり見ません。これを片付けてください。つまりそれがあるように、どちらも正しくあるようにしてください。

〇罪を赦し、謝罪を受け入れる。
〇誰も侵害せず、誰にも加害せず、衝撃を与えない。
〇昼も夜も、慈しみの心でいる。
 すべてはアバヤダーナであり、二番目の布施です。


3、ダンマダーナ(法施)  三つ目の布施はダンマダーナ(法施)と言い、布施としてタンマを与えます。ここで言うタンマとは、その人が知れば「苦から脱すことができる知識」という意味で、ダーナは与えることです。この三つめの布施も受け取る人が必要です。この法施は煩悩・随煩悩になりません。智慧の話、知識の話なので、物施のように簡単に溺れないからです。

 法施は二種類あり、直接と間接で、直接は、たとえば私がみなさんに利益のある話をして聞かせる、このようなのも直接の法施と言います。関節的な種類は賛同者、協力者がこのようにさせてくれる、私が本を印刷して普及させたいと望むと、非常に多くの人が出版を助けてくれます。これは私が直接の法施者である時、彼らは間接的な法施者です。

 法施は直接も間接もあり、そして布施を受ける人が必要で、それで成立します。上げても誰も受け取らなければ不毛で、山ほど印刷しても誰も読む人がいなければ何の利益もなく、あるいはいくら説法をしても誰も聞く人がいなければ何の利益もありません。ね、受け取る人がなければならないと言います。

 次に法施は三種類に分けることができ、三つの段階があります。
 第一段階は、一般の基礎の知識を布施として与えます。基礎レベルの普遍的な知識という意味で、イロハの文字を習うような初歩的な知識を与えること、これも法施に含めます。

 だから一般の先生方も法施をする人の立場にいます。子や孫が良く知るように教える両親も法施です。あるいはそれ以上にご飯の食べ方を教え、水浴の仕方を教え、善を愛すように教える、こういうのも法施です。両親が幼い子供に基礎として知るべきことを教えるのも、法施と呼びます。そして勉強を教え職業を教える、これも初歩の、低いレベルの、しかし基礎である法施と呼びます。

 基礎のレベルがなければ次のレベルはあり得ないので、関心を持たなければなりません。直接なら教え、間接なら成功するように支援し、学校を作るのを援け、教育用具を作る支援をするのは間接的な法施です。黒板やら何やらを寄付するのは物施と呼ばず、間接的な法施と言います。知識を生じさせる利益のためのいろんな用具は、間接的な法施と呼びます。直接の法施は話さなければならない話を直接話すことで、低いのは基礎的な知識です。

 次に第二段階は高くなって精神面の光と言い、精神に光を与える、これが精神面の光というほど普通のレベルより高いタンマ、あるいは宗教、です。滅苦の話の説法、滅苦を教えるなどは精神面の光を与え、命の進む道を示し、命の歩く道を示して高め、それはどのようかを知らせます。

 私たちは子供にイロハの文字を教えます。学校や大学の子供たちは、まだなぜ生まれてきたかを知らず、生まれて何をするか、どの方向へ行くかを知らず、知っているのは腹と口の話である知識だけで、それは初歩です。

 次に第二段階になると、道を正しく歩くために精神に光を与えます。これは仏教、あるいはどの宗教の教えでも、本当の法施がここにあります。そして間接的のもあり、お寺を建てる援助、本堂やら何やらを建てる援助、人の目を開けさせるためなら間接でも法施で、そうでなければ快適便利のための物施です。

 精神面の光は、良く聞いてください。いつでも美しい必要はありません。ブッダが「初めも美しく、中間も美しく、高い部分も美しい梵行を公開し、タンマを説きなさい」と言われているのは事実ですが、このような美しさは耳に響きが良いという意味ではなく、心が美しく感じ、心が清々しく、心の利益になるという意味です。

 このような時「叱る言葉も法施」という教えもあります。ブッダは「誰でも、叱る言葉は宝を指さす言葉と捉えなさい」と言われています。親や先生の叱責の言葉は宝を指さす言葉なので、この種の言葉は法施です。

 私たちはこの種の叱責の法施に依存しなければこのように自立できず、今より悪かったでしょう。親や先生の叱責の言葉は、私たちがこのような状態になるまで自立するのを援けました。

 叱責の言葉を法施と捉えるのは、それは子への愛、弟子への愛、人間同朋への愛による善意の言葉であり、だから叱るからです。だから叱責の言葉は宝を指さす言葉であり、特別の意味があり、煩悩ではない善意で叱ります。

 たとえ嘘でも、態度の善い人にしようとする善意での嘘なら、それも法施です。普通に言ったのでは信じないので、信じさせるために嘘を言わなければならず、そうすれば悪行をしないので、その嘘は善意で言ったので法施になります。

 しかし他人の利益を盗み取るための嘘、これは違い、別の話、別の物です。このような嘘は地獄へ連れて行き、人に心を入れ替えさせる嘘は特別レベルの間接的な法施です。

 二つ目の法施をまとめると、布施として光を与え、布施としてタンマを与えます。

 ここで三つ目に「布施として涅槃を与える」を追加してしまいたいと思います。聞いたことがない人は意味が分かりません。「布施として涅槃を与える」は、何を与えるのか考えてみてください。多くの人はよく「プッタタートは勝手に言うのが好きで、勝手に話す。本当の話、あるいは教典の中にそのように言っている話はない」と言います。

 これは勝手に言っているのではなく、勝手に話しているのでもなく、教典にあります。しかし私は同じ名前で呼ばず、私は聞いて分かるように、理解しやすいように、普通の名前で呼びます。

 「涅槃を布施として与える」は、「その人に涅槃の味、つまり静かな心を味わわせる何らかの方法」と定義したいと思います。

 みなさんが誰かの心に、本当の涼しさ、心の静かさ、安心を与えれば、それを布施として涅槃を与えると言い、直接にも間接にもあり、初歩のもあり、中程度のもあり、最高レベルのもあります。

 ちょっと自慢したいと思います。彼らは私をすごく自慢好きだと言いますが、私は「ここに座っていることが、布施として涅槃を与えること」と自慢したいと思います。いろんなものを整えたので、ここへ来て座ると心が安らぎます。ここが安らぎを与えます!

 なぜ心が安らぐのでしょうか。「俺」「俺のもの」を忘れているからです。ここ(スアンモーク寺)へ来て座っている時は、誰でも「俺」「俺のもの」「家」「家のもの」を忘れ、そして自分に命があるのも忘れ、心が空っぽなので非常に穏やかで、座っているこの辺で見本の涅槃の味を味わいます。だから私は、この場所は布施として涅槃を与える場所と言います。

 信じない人は、ここは「布施として涅槃を与える」か、考えて見て、反論して見てもいいです。ここは「俺」「俺のもの」を忘れさせ、心には俺、俺のものがなく、涅槃の特別な安らかさを与え、偶然の涅槃、一時的な味見の涅槃で、まだ本当の涅槃、永久の涅槃、永遠の涅槃ではありませんが味は同じで、言いようもなく深い心の安らかさがあります。「精神面の娯楽」と呼ぶものも、布施として涅槃を与え、知識だけではありません。

 このように石や木を配置し、池や小川などを造って精神の娯楽にすると、来た人は言いようもない涼しさ、清々しさを味わうので、前もって味わう涅槃の味見です。(四大聖地などの)記念の地、記念の物、仏舎利塔などの建造も、人を穏やかにする利益のある方法で作れば、涅槃を布施として与えると言います。

 昔の人はこの理由でたくさん建造しました。町や村に大きな仏舎利を造って、人に見せた途端に心が清々しく安らかになれば、これも涅槃を布施として与えると言います。

 しかし今は膨れ上がり、そのような利益を与えなくなって仕舞いました。受け取る結果以上に浪費するかもしれないので、自然と遊ぶ方が良いです。石は話すことができ、木も話すことができ、砂も話すことができます。それは何と話しているか、聞いて見てください。

 「おーい、あまり狂っては駄目だ。止まれ! 止まれ! 止まれ!」と言っています。「あまり熱くなってはいけない。冷めてしまいなさい」と言っています。石はこのように話し、石や木の傍に座ると、耳が聾でなければこのように聞こえます。

 今耳が探し求めるのは物質だけ、餌だけで、石が(自分で番号を選んで買う宝くじの当り番号の予想を)何番と言うか聞こうと待っています。これは、ここであったことがあります。石は話せる、木は話せると聞くと、石や木が三桁の数字を何番と言うか、聞こうと待ち構えていました。

 このように別の道なので、布施として涅槃を貰う機会はありませんよ。しかし座って「岩はどのように止まり、どのように涼しいかと石を見、木はどのように止まって涼しいかと木を見れば、騒がしい話、執着の話を忘れてしまい、しばらく石になってしまえば、涅槃である涼しさを受け取ります。

 このような場所、あるいはどんな物質でも、心に停止を生じさせ、心に涼しさを生じさせれば、何でも涅槃を布施として与えると見なします。本当は法施の一種ですが、結果を受け取らせるというところまで特別に遠く、どこかでもたもたと、どんな実践もする必要はありません。普通の法施は良く聞かなければならず、そして持ち帰って考え、それから実践して結果を得ます。

 今みなさんがこの石の傍に座ると、心が涼しくなれ、これを、みなさんに布施として安らかな心を上げる意図で、布施として涼しい心を与えると言います。誰でもそのように生じれば、涅槃を布施として与えると言います。

 このすべてを法施の話に含め、みんな違うタンマで、読み書きの基礎知識を与え、食べること、寝ること、何でも仕方を教えれば初歩の法施と言い、次に心に光を与え、生き物が歩く正しい道を与え、生き物に正しい道を歩かせる、こういうのを本当の法施と言い、次に今ここで、穏やかさである結果を与えれば、涅槃を布施として与えると言います。この三つをまとめて法施と言います。

 法施がたくさんあるよう努力なさい。ブッダは「サッバーダーナン ダンマダーナン ジナーティ=すべての布施のうち、法施はすべての布施に勝る」と言われました。ね、ブッダは「すべての布施に勝る」と法施を賞賛されています。これは受け取る人がいる種類の布施を意味しています。

 私は、例外として受け取る人が必要ない種類の布施を分類させていただきます。受け取る人がいるすべての布施の中で、法施はどの布施よりも高く、(すべての布施に)勝ります。品物を与える物施も、赦しを与える赦施も、知識を与える法施も、この三種類のうちで知識を与える法施が勝りますが、真実であり、滅苦ができる知識でなければなりません。これが三種類の布施で、受け取る人がいなければならない布施をすべて説明しました。


4.空施
 次に、受け取る人が必要ない特別な布施についてお話します。彼らがプッタタートさんは勝手に言っていると非難するのはこの種の布施です。勝手に言っているかいないか、聞いて見てください。この種の布施について話すと、受け取る人がいないので奇妙な状態があり、特に幾つかの言葉を熟慮判断しなければなりません。

 「ダーナ(布施)」という言葉は与えるという意味で、「ボリチャーガ(棄てる)」という言葉は、四方に捨てる(犠牲にする)という意味で、そして「パティニサッガ」は返す、返却するという意味です。この三語を順に理解すれば、空に関わる布施、スンニャターダーナ(空施)と呼ぶこの奇妙な布施を理解できます。スンニャターとは空、スンニャターダーナは空に関わる布施です。それはどんな意味か聞いて見てください。

 「スンニャターダーナ」という言葉は、自分で勝手に名付けたと大声で言わせていただきます。私が勝手にスンニャターダーナと名付け、三蔵にこの名前を探しても見つかりませんが、その話はすごくたくさんあります。「俺、俺のもの」を全部寄付してしまうことをスンニャターダーナと言います。この布施は受け取る人を欲しがらず、布施を受ける人を欲しがりません。

 そしてそれ以上に、布施する人も必要ありません。聞いて見て、奇妙でしょう? 布施する人も、布施を受け取る人もいらない布施で、本当にできれば、最高にできれば、俺、俺のもの、布施する人はなく、受け取る人は誰もいません。聞いてどんどん難しくなります。だから寄付という言葉をよく考えるよう、つまり思い込みでなくハッキリさせるようお願いします。そしてパティニサッガ(返却)という言葉は、持ち主に返す、元の所有者に返却します。

 スンニャターダーナ、空に関わる布施は何を上げるのか、何を与える物にするのかという質問があれば、「俺」「俺の物」を上げると答えます。「俺」「俺のもの」という執着を全部上げて、「俺」「俺のもの」がなくなれば空が生じます。空、空っぽに関わる布施はこのようです。今は誰でも「俺」を愛し、「俺のもの」を惜しんで誰にも上げたがりません。

 「俺」「俺のもの」があればあるほど「俺」「俺のもの」と呼ぶものを惜しみ、上げたがらず、それで話して分からせることができるでしょうか。やりたくない人ばかりです。今上げなければなりません。俺、俺のものを抱えていてはいけません。それは火のように熱いです。次に火のように熱い「俺」「俺のもの」を誰に上げましょうか。

 バカな人以外誰も欲しがりません。賢い人で受け取る人は誰もいません。それは火であり、火の熱さで、煩悩や苦は火の熱さなので、誰かに上げても、受け取る人は誰もいません。

 次にこの「俺」「俺のもの」が与えられたら、誰が与える人でしょうか。「俺」「俺のもの」が空っぽでなければならないので、知性のある心が与える人です。知性がある心は俺でも、俺のものでもありません。この知性があれば「俺」「俺のもの」を全部与えます。これを「与える人はいなくても良い。心は自分ではないから」と言います。

 心が自分なら、与えません。それには自分があってはならず、だから自分を与えてしまうことができます。与える人はいないと言うことも、受け取る人はいないと言うこともでき、誰かに上げても、誰も貰いません。自分があれば、与えることは出来ないので、自分が無い状態でなければなりません。

 そうすれば自分を上げてしまうことがあります。だから彼らは純潔な心、あるいは純潔な五蘊、純潔な名形と言い、「俺、俺のものがないこと」が俺、俺のものを与える人です。これは仮定で話し、こういうのを彼らは最高の寄付で、残らずすべてを寄付すると言います。

 「俺」「俺のもの」を残らず全部寄付してしまったら、残る物はあるか、考えて見てください。残るのは空、あるいは純潔、あるいは清潔、俺でなく俺のものでもありません。この「俺」「俺のもの」は不潔で暗くてイライラするので、与えてしまえば空っぽになり、俺もなく、自分もなく、残っている状態は、「俺」「俺のもの」がない清潔、明るさ、静かさです。この種の布施はこのようです。

 「ボリチャーガ」という言葉を段階的に理解してください。このボリチャーガ(寄付)という言葉は全部犠牲にし、そうすればボリチャーガになります。犠牲にして多くの儲けを取れば、それは寄付ではなく商売です。ボリチャーガとは純潔な心で犠牲にするという意味で、知性でしなければなりません。次にこのボリチャーガは誰にして良いか分からないので、元の所有者である自然に寄付して返却すると言います。

 この部分は、「すべては自然のものであり、自然は自分でない。あるのは自然だけで、それは変化させ合い、自然に変化している」と、深いタンマのもう一項を学習しなければなりません。関心を持つべきブッダの言葉に「スッダン ダンマサムッパーダン」とあり、生じた自然だけ、「スッダン サンカーラサンッティー」サンカーラの継続だけで、俺はなく、俺のものもありません。

 土、石、植物や何かから私たちの身体・心身まで自然であり、すべて自然の発生であり、自然が加工し、自然が維持するので、人になり、食べることができ、歩くことができ、眠ることができ、あれこれすることができます。それは自然の変化の継続です。

 次に心が愚かになって、勝手に「自分」「これは自分」「私はこれの所有者」と言い、心が「これの所有者」と考えると、私たちはそれの所有者だと感じ、それは自分のものになり、自分はそれの所有者になり、私は所有者、それは私のもの、私はそれの所有者。これが「俺」「俺のもの」、非常に愚かな愚かさが心に生じ、そして愚かさと知らずに真実と考えるので、「俺」「俺のもの」という執着が心に生じ、そして何もかも俺、何もかも俺のものと根を下ろし、頑丈に根を張ります。

 いくら目の前で猿に耳を洗われても感じず、憶えることを知りません。この「俺」「俺のもの」を犠牲にできなければ、まだ苦があります。だから犠牲にしなければなりません。段階的に犠牲にして自然に返さなければなりません。

 第一段階では粗い頑固さを犠牲にします。誰も受け入れない高慢ちきな頑固さを最初に捨ててしまいなさい。捨てて誰かにやろうにも誰も貰う人がいないので、元の所有者である自然に返却し、煩悩の自然にします。それがどこにあっても私たちは知る必要はなく、捨てて自然に返します。一番に、高慢にする高慢・頑固さを捨てます。

 第二段階では身勝手を捨てます。この身勝手を「アッタニヤー」と言い、俺のものという意味です。俺のものというものは何でも、今すぐに鳩であるのを止めてしまいます。鳩の鳴き声を聞いたら、それはバカだと知ってください。私は時々鳩の鳴き声を(テープで)聞かせて、「コーンクー ・コーンクー(俺のもの、俺のもの)」と言っているようだと教えます。これはバカです。鳩のように「俺のもの、俺のもの」と自分に引き寄せる身勝手を捨ててしまう努力をします。

 三段階目はアスミマーナを捨て、最後に捨てるものは俺です。俺を捨てます。ここで俺と呼ぶもの、つまりアッターを持たないでください。アッターは煩悩の中核であり、誤った考えの中核なので、このアッターを捨ててしまい、寄付してしまい、元の所有者である自然に返してしまいます。

 自我、あるいは俺と呼ぶものを捨てることができればどのようか。それが涅槃です。傲慢を捨ててしまい、そしてもう一度俺を捨ててしまえれば終わり、涅槃です。涅槃とは「俺」「俺のもの」がないこと、苦がないこと、輪廻がないこと、すべてがないことで、だから穏やかな幸福になります。私たちの心が涼しく、何にも変化させられない時は、それが涅槃の見本です。このようなのを空に関わる、つまり「俺」「俺のもの」を布施すると言います。

 二つだけでは全部でないので、もう一つ加えさせていただきます。何を捨てるか、当てて見てください。何を捨てましょうか。今涅槃になり、快適な涼しさになって、それから、まだ何を捨てましょう。

 第四段階目は、その涅槃をもう一度捨ててしまいます。俺の涅槃でなく、涅槃の涅槃でなく、誰の涅槃でもありません。涅槃は空っぽで、究極の空っぽで、残っているのは最高の空だけです。これが空施、あるいは空に関わる布施の結果です。結局何も残らず、空だけが残ります。


 復習して見ると、布施は段階的にあり、少しずつ高くなり、物質を布施して物品で支援することから、赦施、苦しめないことを与え、そして法施で「涅槃が確実」と言うまでその人を正しく歩いて行かせる知識を与えます。次に何としても涅槃するために、先ず「俺」「俺のもの」を与えてしまいます。

 そして涅槃になったら「俺の涅槃」と捉えず、涅槃の涅槃と捉えず、この涅槃を誰の物とも捉えないで空のものにし、空であることだけを残します。この最後の布施を空施と言います。そして空に関わる物を与え、そして空以外に何も得ません。

 この空とは煩悩がない、苦がない、輪廻がない心、あるいは体、あるいはこの個体で、これも自然の物で自然に変化します。全部自然で、所有者は誰もいないので全部終わります。この布施によって話は終わります。

 このようにできる人は戒の話、サマーディの話、智慧の話に関心を持つ必要はありません。布施することの中に戒があり、サマーディがあり、智慧があり、すべてあるので、他のことに興味を持つ必要はありません。

 このようにできれば、つまり「俺」「俺のもの」を全部布施してしまえれば、そしてそれが全部終われば、百の話、千の話、万の話、八正道などいろんな話に関心を持つ必要はありません。涅槃したらもう一度涅槃を振り払って、それを空(から)にしてしまいます。それは終わり以上の終わりで、これ以上に終わる物は何もありません。

 だからこのように言うのが本当か本当でないか考えて見てください。つまり最高の近道の話と言えば、近道か近道でないか、そして私が勝手に言っていると非難するのは、勝手に言っているか、それともブッダが言われているか、熟慮判断して見てください。

 ブッダは「空に関わる話は私が話す話で、それ以外は話しません」と言われています。今これは全部が空の話で、「イェーテー スッタンター=すべてのスッタンタのどれでも、タターガターバーシター=如行が規定したのは、ガムビラー=深遠で、ガムピラッター=深遠な内容があり、ローックタラー=世界を超え、スンニャタッパティサンユッター=空に関わる話です」とあるブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)と一致します。

 私はたくさんしたくありません。一度生まれて複雑にしたくなく、布施だけをしたければ話したような布施をしてください。この布施だけで十分です。涅槃に到達したら、通り越して、つまり涅槃も自分の物にしないで空だけを維持し、そうすればどこかの何かに輪廻しない本当の涅槃、永遠の涅槃、永久の涅槃で、話は終わります。

 みなさん、布施、ボリチャーガに関する実践はこのように遠くまで行けると、良く認識して記憶し、良く考えてください。実践法はこのようにあります。この路線で実践なさい。そうすれば空に出合い、それで全部終わります。

 今日は元気がないので、これだけで終わらなければなりません。


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