12.滅苦・三相に関する実践原則



1971年6月19日

 タンマにご関心のある善人のみなさん。今日の土曜講義は、みなさんご存知のように三蔵に関する実践法という主題です。本当は三相の話は細かく分けて話したことがあり、そして書いたのもたくさんあります。今日は狭く限定して、仏教教団員に本当にある実践面の問題という意味で、特に実践方法あるいは実践のための教えについてだけ述べます。

 三相に関わる実践については見るのが難しいので、あまり話されません。三相と呼ばれるものはサンカーラ(行)の状態だけなので、最初の段階では、どのようにその状態の実践をするか見えません。それはサンカーラの状態だからです。

 次にサンカーラにそのような状態があれば、そのサンカーラに対してどのように実践すべきか、それが三相に関わる実践と考えて見ます。

 「三相」という言葉はサンカーラの真実の法則だけなので、ほとんどの人が実践できるのは「三相」という名を口にするだけで、頭に「プラ(神聖なものにつける接頭語)」という言葉をつけて「プラトライラック」と言い、そして口で名を言うことに慣れ、言い間違いにまでなり、「ブットー、ドゥッカン、アニッチャー、アナッター」と言い間違います。

 このような言い間違いはしょっちゅうあり、伝統になります。こういうのも極めて三相を知りません。三相に慣れ過ぎ、そして言い間違いだけが口癖になるからです。あるいは首にお守りを掛けている人たちは習慣になって「本当のブッダとは何か」を思う必要がないのも同然で、口だけで話します。プラは首にあるので、彼らはブッダも、どこの何も思う必要はないと信じてしまっています。

 一般の人が三相に慣れているのは、このような言い間違いばかりで、実践はあり得ず、あり得るのは言い間違いか、そのような何かだけで、神聖な物として三相の名前だけを口にし、プラという言葉をつけてプラトライラックにします。

 本当は、三相はサンカーラの状態、つまり無常・苦・無我なのに、後の世の人はどうしてプラという言葉を足してプラトライラックにしたのでしょうか。これは信仰だけで実践でなく、信仰しすぎて実践する必要がなくなり、一日百回、千回でもプラトライラックの名前を口にできますが、実践はなかったということです。

 だからこのプラという接頭語は常自覚がある体、言葉、心での実践の話でなく、執着しすぎると見せる成り行きになります。三相の話はこの種の、つまり口だけで言う種類の話の一つです。

 今私たちは、このように口で話すだけでどんな利益が得られるか、利益はあるかもしれませんが、少なすぎ、形にならず、本当ではないと見えるので、話して理解させ、実践があるようにしなければならないという問題があります。


三相に関わる実践の中にある知識
 初めに三相と呼ぶもの、「無常・苦・無我」は、宗教の心臓部、仏教の心臓部としてあり、それも仏教の心臓部であり、知識あるいは真実に注目します。戒、サマーディ、智慧の話のようではありません。

 戒、サマーディ、智慧の話は、このようにしなければならないとハッキリ行動に言及し、そのようにすれば簡単に見える仏教の心臓部で、一方三相「無常・苦・無我」は、智慧の部分、あるいはほとんど洞察の部分である仏教の心臓部です。もう一度言えば、パリヤッティ(学習)の面、パティバッティ(実践)の面、そしてパティヴェーダ(結果を得る)の面を広くまとめた観点の仏教の心臓部と言います。

 常に無常・苦・無我を学び、常に話して相談し、教育し、あるいは常に考え、こういうのはパリヤッティ(学習)です。注意するサティがあり、すべてのサンカーラに対して無常・苦・無我の規則でこのように正しく実践すれば、三相はパティバッティ(実践)の形になり、そして無常・苦・無我を洞察する機会があり、聖向聖果に到達します。

 こういうのはパティヴェーダ(結果の獲得)の部分の三相で、つまり洞察します。みなさんがこの項目を理解すれば、この項目が真実のままに見えれば、実践の角度の三相を正しく、そして明らかに見ることができます。

 私が常に三相について話すのは、どのように無常か、どのようの苦か、どのように無我か、文字の三相、口で話す三相、あるいは理由で探求しても洞察ではない三相を広く理解させる利益があります。それは智慧のあるり、考える頭があり、そして考えられ、そして記憶できる人の道理による探求です。

 こういうのはまだの本当の実践でなく、パリヤッティ(学習)の部分の実践、あるいは多くの人がしているような、特に学校でしている「無常・苦・無我を理解させるパリヤッティ」なので、何の聖向聖果にも到達しません。


三相に関わる実践項目
 次に三相とはどのようかよく知ったら、それからどのように実践するか。これは結果を得られる希望があります。三相に関わる実践は、一般の実践のように二つ、あるいは二種類に分けなければならないと、しっかり規定しておいてください。

1 一つ目の種類は勉強して理解し、そして常にサマーディである心で深遠な状態を熟慮し、「すべての物は、誰も、私、私の物と執着すべきでない」と知るために、愛らしいもの、喜ばしい物、あるいは憎たらしいものである身の回りにあるすべての物の真実を見ます。これが、私たちが常にしなければならない、感情が隠れている時は定期的にしなければならない実践項目です。

2 二つ目の実践は感情に遭遇した時、愛させ、あるいは嫌わせ、あるいは恐れさせ、あるいは苦にする義務を行う何らかの感情が生じたら、サティと呼ぶものに依存し、そして熟達するまでしたことがある三相の話の知識を、間髪を入れずに引っ張って来なければなりません。

 サティは触れて来るもの、あるいは目前に生じている物の無常・苦・無我の知識を思い出させるので、心は平静でいられ、それらのものにアビチャナー(貪欲)は生じず、ドーマナサ(憂い)も生じません。これももう一つの実践、つまり生じた問題に直面した時の実践です。

 生じる話がない時は見えない実践をし、「身の回りにあるすべてのものは無常・苦・無我であるサンカーラ」と熟慮します。すべては自分の習性を変えるため、少しずつ自分の習癖を変えるため、すべての物に執着させないためです。このような実践は非常に重要で、定期的にしていれば執着する習性が少なくなり、執着し難くなり、喜んだり悲しんだりさせるものを作り難いという意味です。

 実践項目が感情が隠れている時は、前もって何かの病気の予防注射をしておくように安全にする物で、病気になるのを放置しておいて、なってから戦うより見っともなくないです。しかしいずれにしても病気になったら本当に生じた病気の治療をするように、戦わなければなりません。

 一つは常に予防しているように病気が生じなければ良く、もう一つはどんな理由でも、病気になったら治療しなければならないので、自分を援けるために、このように二つの状態の三相の話を使います。

 普段私たちは予防注射のように三相と暮らしていますが、病気になったら直接病原菌を殺す薬の使用に変えなければなりませんが、病原菌を殺す薬もまた三相です。だから私たちは三相に依存して、いつでも不注意でないようにしなければなりません。三相は病気の予防注射のようにいつでも一緒になければならず、そして病気になったら治療してその病気を撃退する段階です。

 初めの実践は智慧の話で、サティならサティパダーナ(念処)と言い、心にサティがあるのを意識することに専念し、三相の話の真実に到達するまで、休まずこのサティパダーナをします。しかしこのサティパダーナは、本当に問題が生じた場合には、直接闘う武器として使わなければなりません。定期的に常にサティパダーナの訓練をしておかなければ、感情が触れた時にサティがあるのは難しいです。

 あるいは感情が触れた時にサティが生じて思い出すのは難しいです。サティが生じても力が少なすぎ、緻密でなく、その感情を殺せるだけ強くありません。だから三相と呼ぶものについて大まかに述べた二つの項目である実践原則を理解しておいてください。

 次に、常に訓練して熟させておいてサティパダーナ(念処)にする、智慧である部分の三相について詳しくお話します。

 みなさん、先ず正しい知識、正しい理解が必要と理解してください。何の話でも、先ず正しい知識と理解がなければならず、そうすれば利益があります。家で使う道具を思い出すと、使い方を知らなければ何の利益もなく、最高に凶悪な最高に良い武器を買って日常的に備えておいても、使ったことがなくて使い方を知らなければ、こういうのは利益がありません。

 普通の人はこのような状態で三相を身に着けているのて、三相が最高に凶悪な最高の武器で、煩悩を完璧に除去でき、聖向聖果涅槃に到達させることができても、使い物にならないようなものです。あるいは愚かな人が西洋人から何十万、何千万(バーツ)もする最高に素晴らしい、最高に良いピストルを買って持っていても、使い方を知らないのと同じです。私たちのほとんどは、今そのようになっています。みんなで少し注意深くしてください。

 私たちが実践すべきものの周到で正しい理解は非常に必要です。これが実践に関わる面の三相の話を熟慮しなければならない理由です。


三相を学んで理解して、価値を見る
1 最初の項目は、私たちは永遠の面ばかり教えられるので、三相を知らないこと、それがもう一度取り上げて見なければならない、あるいは私が「摘まみ上げて見直さなければならない」といつでも忠告している理由で、この種のタンマは、私たち全員の体にあり、私たち全員の体にいっぱいあり、体中に三相が溢れていますが見えないという項目です。

 それは髪の毛が山を隠す、あるいは(眼鏡など)自分の額に掛けているものが見つからないのと同じで、そのような状態で隠します。細い髪の毛が山を隠すことができるのは、隠せる所にあるから、あるいは正しい方法で隠すからです。髪の毛より少し大きい物、たとえば一本の指などで目を隠すと、世界中を見えなくすることができます。

 今三相と呼ぶものは体にあり、私たちの体中にあるのに、なぜ私たちは見えないのでしょうか。三相は体にいっぱいあり、四六時中ありますが、私たちには見えません。髪の毛か何かが隠しているからです。これは「生まれた時から反対に見るよう、永遠と見るよう教えられ、しつけられ、取り囲まれて来たので、三相を知らない」という項目を知らなければなりません。

 「私たちはこの世界に生まれた途端に、三相と反対に考えるよう教えられ、取り囲まれる」と良く考えて見てください。私たちは「それは永遠のもので、何もかも永遠」と考え、感じるよう教えられ、家を造ると永遠にし、あれもこれも永遠にします。この身体も死なせない決意をし、そして一日中一晩中、楽しい幸福な話、美味しい話しかしません。

 いこともありますが、一番多く話すのは、気づいても、気づかなくても、一日中、一晩中「俺、俺のもの」と言います。こういうのは三相と反対の習性が生じ、これが山を隠すことができる髪の毛です。

2 もう一つ、人の本能は永遠の方にだけ考えると知っておかなければなりません。本能と呼ぶものは自然に生じることができる感覚で、誰も教えなくてもネズミは巣を作ることを知り、鳥は巣を作ることを知り、あるいはそのようなものを「本能」と呼びます。

 蜜蜂は巣を作ることを知り、あるいは人が歳を経て若者になり娘になると、誰も教なくても生殖を知ることができます。まだ他に何種類もあり、こういうのを彼らは本能と呼びます。本能とは自然に生じることができるニャーナ(智)、あるいは知識です。

 次に人の本能は「堅牢、永久、盤石、崩壊しない」と考える成り行きだけになり、そして楽しさ、幸福、美味しさがあり、自分があり、自分の物があります。元々の本能は本性にこのようにあり、母の胎から生まれると、元々の本能がどんどん拡大するために付いてきます。

 だから聖人の教えで躾を受けない私たちの子供は、当然三相と反対の本能の進歩発展があり、それが次々に山を隠す髪の毛になり、終始体の中にある三相が見えません。

 これを「髪の毛が山を隠すよう」と言い、髪の毛の方が目の近くにあるので、簡単に隠すことができ、それは小さくても、髪の毛で山を隠せるように見えます。あるいは額にある物が見えないのは、私たちが見る方法がない状態にあるから、あるいは見えないからです。他の方だけを見ると、どんなに遠くても双眼鏡で見れば見えますが、額にある物は反対に見えません。

 後頭部にあるものなら、時にはまだ見えるはずと言いますが、額にある物は見えません。ダイヤか何かが一粒額に付いていても見えません。これが最高に素晴らしい物、つまり苦を生じさせないように防ぎ、苦を治療することができる三相が見えない状態です。


愚かさを抜いてしまい、それから三相の真実の法則を知る
 次はこの話を理解します。ルーパ(形)、あるいはヴェーダナー(受)、サンニャー(想)、サンカーラ(行)、ヴィンニャーナ(識)どの部分でも、自分と仮定されるものは何でも、三相である状態、無常・苦・無我があると知ることで愚かさ、迷いを一段階止める、あるいは抜き取るという意味です。これが私たちの内部の熟慮です。

 自分の外部は、私の子、妻、夫はこのようで、もっと悪いのは財産、身上、牛、水牛、畑、田んぼ、荷物、何もかもこのようです。つまり世界中、無常・苦・無我の状態があり、サンカーラであるすべてものは、どれもこのようと知ります。

 誰かが「自分の物」と執着しても、あるいは誰かが「自分の物」と取着しなくてもすべてはこのようで、いつでも、どの時代でも、それはすべてこのようで、誰も支配できる人はいません。それには神様のような状態があるので、ブッダは次のように言われました。

 『ウッパーダー ヴァー ビッカヴェー タターガターナン アヌッパーダー ヴァー タターガターナン=比丘のみなさん。すべての如行が生まれても、あるいはすべての如行が生まれなくても、ティター ヴァ ダートゥ ダンマッティッタター タンマニヤーマター=そのダートゥは当然ダンマティティとして、タンマニヤーマとして存在し、

サッベー サンカラー アニッチャーティ=すべてのサンカーラは無常であり、恒常でないものであり、サッベー サンカーラ ドッカーティ=すべてのサンカーラは苦であり、サッベー ダンマー アナッターティ=すべてのダンマは無我と、タン タターガトー アビサンブッチャティ アビサメーティ=如行は完璧に知り、そのタンマダートゥに完全に到達しました。

 アビサンブッチャトヴァー アビサメトゥヴァ=完璧に知り、完璧に到達した時、アチッカティ=当然教え、デーセーティ=当然説明し、パンニャペティ=当然規定し、パッタペティ=当然維持し、ヴィヴァラティ=当然公開し、ヴィバチャティ=当然分類し、

ウッターニー カローティ=当然簡単なものにしました、サッベー サンカーラー アニッチャー=すべてのサンカーラは無常であり、サッベーサンカーラー ドゥッカー=すべてのサンカーラは苦であり、サッベー ダンマー アナッターティ=すべてのダンマは無我ですと』。

 これは小部ティカニバータのパーリ(ブッダの言葉である経)の中のブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)で、そしてまだ他にもあります。どうぞみなさん、この項目を心に刻んで憶えて下さい。信じるため、あるいは本気で取り組むため、怖れるため、恥じるためにぐずぐずしない力を生じさせるものだからです。

 すべてはブッダが「如行が生まれても生まれなくても、この真実の法則はそのようにあり、如行が生まれなくてもこのようにあり、如行が生まれてもこのようにある。つまり無常・苦・無我である」という趣旨で話されました。

 サンカーラである、つまりそれを作った原因と縁があるすべての物は、当然不変でなく、そして苦です。サンカーラであるすべての物は、ヴィサンカーラでもすべては無我であり、自分(実体)である状態はありません。

 ブッダが「如行が生まれてもこのようで、如行が生まれなくてもこのようです。今如行は知り、この項目を明かに洞察したので、教えて知らせただけです」と主張なさって教えられた項目を思ってください。

 多くの人はまだ知らないので、説明して普及させ、教育し、学習し、記憶するための教えとして規定し、太陽や月が浮いているように遠くから見える目立った事実であり真実であると見えるために明らかにしました。

 ブッダは、私たちが真実を明らかに見るよう望まれて公開なさいました。それは、それまで隠され、秘され、伏せられていましたが、ブッダが公開され、そして明るく広く、ぼやけていない理解にするために細かく分類されたという意味です。

 「ウッターニー カローティ=簡単な物、あるいは仰向けの物にする行動」という言葉がある最後の文句のように、それまでは伏せた物のようにすべての動物が理解するのは難しかったけれど、ブッダが裏返され、そして説明され、公開され、解説され、すべての人が「すべての物は無常であり、苦であり、無我である」と、このように簡単に理解できるだけ十分簡単になさったという意味です。

 私たちはブッダの教えがまだあることで、まだブッダがいる時代に生まれたことを幸運と見なします。ブッダの宗教に間に合うように生まれたということができ、生まれるのが間に合わず、聞く機会がなく、聞かないより幸運です。私たちは聞く機会がありますが、それは他のものになる余地、つまり聞くだけで理解しない余地もあります。

 次に「実践は無常・苦・無我と理解しなければならない点にある」とはどのようでしょうか。無常・苦・無我についての説明はたくさん話したので、後話すのは主題、あるいは要旨だけです。しかしそれでも実践に本気でない、あるいは実践しない前例おりになります。悪をしないで善を行いなさいと話すだけで、実践しません。私たちは自分を支配して善行をすることができないからです。

 私たちは「何が悪で何が善か」、何とか知っていますが善行ができません。至る所にこのような状態があり、善行をするよう強制するものは何もありません。三相の話も同じで、無常・苦・無我はどのようか知っていても、実践して本気を見せることができないので、世界中どこにも苦があり、世界中誰も例外はいません。

 すべての人は通常、無常・苦・無我が見えない盲人で、何がどのようかを知らず、世界はどのようか知りません。だからすべての人は煩悩の威力で目を瞑って行動するので、ヤクザ者のような行動をします。だからすべてのヤクザな行為は、すべて、全部、どの種類も、三相が見えないことに基礎があります。


身勝手、あるいはヤクザは三相を見えなくする
 みなさん「世界中のヤクザであることは三相が見えないことに基礎があり、三相が見えるだけで途端にヤクザはなくなる」と考え、思ってください。

 次に「ヤクザ」について少し話します。自分のことを清信士、清信女、比丘、沙弥と名乗る人でもヤクザ(アンダバーラ)はいます。聞くと信じられませんが、最高に真実で、ヤクザである比丘、沙弥、清信士、清信女は、この世界、この時代、この寺にもたくさんいます。何が無常で、何が苦で、何がどのように無我か知らないからです。アンダは暗いという意味で、バーラは幼稚、あるいは愚かという意味です。

 アンダという言葉は夜のように暗いと憶えてください。アンダは暗い、あるいは盲という意味で、そしてバーラは、まだ愚かな幼児のように幼稚という意味です。比丘、沙弥、清信士、清信女が三相に対してまだ幼稚で、煩悩を防ぐことができる、あるいは煩悩を解決できる無常・苦・無我を知らなければ、それらの人はまだヤクザです。これは考えて見なければならない最初の項目です。

 乱暴や無頼を働いて回るアンダバーラは、あちこちの路地にいるヤクザで、脅迫、盗み、いろんなことをするのは更に悪くなったヤクザで、これも三相が見えないからです。これらの人もブッダが言われたような三相が見えれば、そういう行為はできません。

 彼らが、三相が見える比丘や沙弥である人のような立場に少しずつ移動すれば、聖向聖果涅槃に到達できます。路地にいるヤクザも三相が見えれば、悪いヤクザを止めることができます。「何がどのようか」という知識があり、人はなぜ生まれたかを知るので、二度とヤクザにならないからです。

 更に広く見れば世界中がヤクザで、ヤクザな学生、ヤクザな淑女、ヤクザな政治家、ヤクザな統治者は無常・苦・無我を知らないからで、侵害することでこの世界を混乱させます。世界にまだ侵害があればあるだけ、世界にまだヤクザな人がいると言われます。世界の人のほとんどが暗い人、盲人なので、無常・苦・無我が見えず、すべての物を平和、あるいは幸福を生じさせる状態にできません。

 だから今、世界中がヤクザになっている、あるいは世界のほとんどはヤクザと言います。ヤクザでない人は何人でもなく、少数なので見えません。世界中いつ見ても見えるのはヤクザ、つまり身勝手しかありません。

 どうぞ「あるのは身勝手ばかり」という言葉を憶えてください。どこも彼処もあるのは身勝手ばかりです。だから考え、話し、するのは、他人より得をし、他人を消滅させることばかりです。他人の利益を自分のものにするため、そういうのばかりです。それが無ければ何が生じるか、そして世界にこの項目の智慧がなければ、世界に何が生じるか、三相の重要性を見てください。

 これが神様の、つまり何よりも最高の威力があるものの事実です。ブッダが「如行が生まれても、如行が生まれなくても、これはいつでもこのようでなければならない」と言われたように確実不変で、そして人は知らないで「私は、自分の心が好むように何でもできる」と考えて自分の身勝手でするので、世界は苦で満ちています。これが見えれば一つの力、実践できるよう後押しする力が生じます。

 今、何が善で何が悪かを知ってもまだ実践できないのは、この実践を生じさせる力がないからです。だから悪を避け、善を行う実践がなく「善を行い、悪を避けなさい」と、あるいはこのようなものだけを夢中になって話して骨折り損をしているなら、世界はまだ、悪人で溢れていなければなりません。

 特に仏教教団員の社会も同様で、「プラ・トライラク」という言葉を使うほど三相の話だけを話せば、それで失言することもあり、滑って転ぶ時も間違って「三相」と口にします。こういうのは何も管理できません。本当の三相でなく、口だけの三相だからです。だから「三相がなければ消滅、あるいは破滅、あるいは最高に凶悪な何かになる」と、恐れが生じるまでたくさん(自己)教育する努力をしなければなりません。
 

人は苦を恐れないから三相に対して不注意になる
 次にどのように考え、どのように熟慮すればこの恐怖が生じるか、つまり不注意でなくなるかです。今私たちは、気づいていることも、気づかないこともありますが、不注意で暮らしていて、それで不注意でない考えを生じさせることができるでしょうか。

 考えの流れは、三相の話はこのように断固として動かぬ自然の法則で、誰の顔色も伺わないダンマの法則で、誰が知っても知らなくても、自然はどんな差異も与えないと述べたように順に考えます。国の法律は誰も「知らない」と言うことはできないとみなし、知っても知らなくても勝手ですが、間違いをすれば間違いでなければならないのと同じです。

 自然の法則もそのようです。しかし法律以上です。人が作り、人が実践し、人が維持する法律は人が判断するので、まだうっかりすることがあり、失言があり、失敗がありますが、自然の法則は自然に経過し、人でなく、人以上、神様と同じで、失敗を知らないプラタムであり、宥めに来たものによってグラグラ揺らぎません。

 今この世界では、法律で公正があると見なしていますが、法律を守る人、法律を維持する人、法律を判断する人は、まだぐらぐら揺らぐことがあります。私たちはプラタムの法則にこのような状態を望んではならず、ぐらぐら揺れない断固としたものと見なさなければなりません。そうすれば真直な結果があります。

 そのようにすれば必ず苦があり、このようにすれば必ず苦がなく、あるいは必ず苦を管理できます。このように確定しているものです。

 この自然の法則は、苦を受け入れる場合以外は、人間が知るべきもの、知らなければならないものです。それは苦にならないために人間が知らなければならない法則で、知らなければ必ず間違いをすることがあり、そして必ず苦になります。これもかなり怖いです。

 どうぞたくさん考えて、苦を恐れてください。苦を恐れないほどになると、ブッダも援けることはできません。人が苦を恐れなければ、誰も援けることはできません。だから「苦を恐れる」ことを教え、初めに防いでくれる何かがなければなりません。それには本当の苦と呼ぶものを教え、そして苦を恐れさせる以外に何もありません。

 苦を恐れないのは、本当の苦を知らないからです。人は幽霊を恐れ、虎を恐れ、人を恐れ、病気を恐れ、患いを恐れ、たくさん怖れますが、もっと恐ろしいもの、つまり苦を恐れません。苦と呼ぶものが見えず、理解できないので、却って苦を幸福と見る人もいます。

 明らかに見える苦と言うほどまで話さなくても、話して知らせなければならないことがまだたくさんあります。高い心のある人については、「苦の恐さを知っている」と言うことができます。多少苦の恐さを知っている高い心の人も、まだ愚かで興奮し、関わって来るすべての物に惑溺します。この愚かな迷いも苦です。

 しかし人には苦と見えない苦で、反対に幸福と見てしまう人、満足してしまう人もいます。あれこれに興奮して回り、あれこれに陶酔、惑溺し回り、時には愚かさを最高に気分が良いと考えます。その人はこのように感じます。愚かさで生きている時を却って最高に快適と感じるのは、何も考えたことがなく、何も考えられず、そのように愚鈍なままに放置しておくので快適と感じます。これも三相を知らない人です。

 三相を知っていれば、すべての物に愚かさが消え、迷いが消え、興奮が消え、「笑いも泣きもしない」と言うほどになります。つまりそれを良く知っているので、何も(その人を)笑わせ、泣かせることはできません。笑わないほど、そして泣かないほど、何かを愛さず、笑わず、迷わないことは、何も恐れないことです。

 今私たちは何が何かを知らないので、喜び、明るく喜び、思いどおりになった時は明るく笑い、そして思いどおりにならない時は泣きます。これがヤクザな人たちです。一般の人はこれらの人を「ヤクザ」、あるいは「異常者」と呼びませんが、阿羅漢、あるいはブッダはこの種の人を「ヤクザな人」、愚かな人の状態と見ました。

 たとえばあれこれ美しい踊りを踊るのを好む、こういうのをブッダは「このダンマヴィナヤでは、踊りを踊ることは狂った人の症状」と言われています。しかし一般世界の人は、現代世界全体が、踊りを踊ることを「文化だ、良いものだ、利益がある」、ああだ、こうだと好みます。

 ブッダのアリヤヴィナヤの教えが「踊りを踊るのは狂人の症状。笑うのは幼な児の症状。歌を歌うのは泣くこと」と捉えている以外に、「誰それは狂っている」と言う人は誰もいません。これらの文言はパーリ(ブッダの言葉である経)にあります。

 心が高いレベルにある時は、このように述べた状態に見え、普通一般の人は、一時笑い、一時泣いても、誰かを狂人と言わず、喜ばせる物があると笑い、怖がらせるものがあると怖がり、走って逃げて泣きます。普通の人は、まだ聖人のように心が高くないからです。

 「狂人」あるいは「ヤクザ者」という言葉にはいろんな意味がありますが、簡単に見ると、それは正常でいられないと言います。本当の三相を知らない人は正常でいられず、いつでも一時笑い、一時泣きます。そして一時笑い、一時泣き、一時笑い、一時泣く、このようなのは善人か狂人か、自分で考えて見てください。

 そしてそれは非常に疲れないでしょうか。普通にしているのと、泣かなくても良く、笑わなくても良いのと比べて、どっちが良いですか。

 最後に人が笑わなくても良く、泣かなくても良いようにする三相の効果を見ます。一時喜ばせる感情の奴隷になれば喜び、一時悲しませる感情の奴隷になれば悲しみ、そして生涯このように喜んだり悲しんだりして、休まず転げ回割っていることは、たくさんの苦でなくても、その転げ回ることに隠れている深い苦です。三相の効果が見えれば、その足掻きを止めることができます。

 ここまで十分にできれば、三相はいずれかの種類の涅槃である涼しさにすることができ、一時的な涅槃である涼しさ、どんどん多くなって本当の涅槃にもなります。涅槃である涼しさの話は、以前の講義で詳しく話しました。

 その講義を思い出して、涼しさという言葉の意味を知り、そして今、この三相が涼しくする援けになり、熱くないと知ってください。しかし自分が知り、そして実践した能力に応じた、いずれかの種類の涅槃である涼しさになります。

 これを「智慧で三相を知ることは本当に知るので利益がある」と言います。知らなければ愚かで、つまり盲目でヤクザで、僧でも沙弥でも、あるいは清信士でも清信女でも、愚かな人、ヤクザ者です。

 知らずに自分を困窮させ、自分を困窮させて苦にし、そして無茶をして他人をたくさん困窮させ、際限なく妨害します。そして最高に凶悪な愚かさは、三相の意味が分からないことから生じる愚かさで、他の愚かさはここまで凶悪ではありません。

 みなさん、三相を理解する努力をしてください。知ってしまえば知らないより良く、時々抑止するサティがあるように、少なくとも知ってしまわなければなりません。そうすれば知らないより良く、多少知っていれば抑止することができ、あるいは半分ぼんやりしてから気づいて、我に返ることができ、このように知らないより良いです。


三相の状態
 さて次は、三相を三つに分ける話をします。初めの部類をアニッチャン(無常)と言い、不変でないこと、つまり作り出す原因と縁があるものの絶え間ない変化を知ります。つまり私たちが世界と呼び、サンカーラと呼ぶすべての物は、休まず変化します。二番目は苦、つまり耐えなければならないもの、耐え難い、あるいは耐えなければならないもので、三番目は無我、つまり自分である意味がないことです。

1 アニッチャン(無常)
 不変でないことはいろんな説明ができ、時間を物差しにして不変でないと教え、あるいは行動を物差しにしても不変でないと教え、姿形を物差しにしても不変でないと教えますが、これらは繋がっています。

 良く見てください。時間は、何がどのように変化したかを教えるもので、姿形、状態もどれだけの時間にどのように変化したか教えます。だから時間に関わる法則と空間に関わる法則は、無常、あるいは変化することを教える法則と理解しなければなりません。

 時間が短すぎれば、一瞬だけなら、それが変化していると知るのは困難ですが、長い時間なら、一時間、二時間なら、変化していると知ることができ、何日、何か月、何年もの時間なら、たとえば若者からこのような老人になるなど、「おお! いっぱい変化している。非常に変化している」と知ることができます。

 時間に賢ければ、一瞬の間でも変化を知ることができ、少なくとも、瞬きをする目は変化であり、一心時は生じては消え、生じては消える変化であり、一心時も心の変化と知ることができます。

 時間と物の関係を理解すれば簡単に変化を知り、そしてすべての物は川の流れのように、休まず流れる水のように絶えず変化していると見えます。ざっと言えば生まれて子供になり、若者や娘になり、大人になり、年寄りになり、そして死人になります。次に子供である同じ区間にいろんな変化が定期的にあり、そしてたった二三秒の間に、考えや思い、挙措、いろんな面で休まず変化があります。

 ご飯が口の中にある間、全部呑み込まない間に心の面の変化があり、何種類ものバヴァ(有)が生じ、ジャーティ(生)が生じることができると前回話したように、美味しければ盗んで食べようという考え、あるいはそのような何かが生まれます。これは心の面の激しく大きな変化です。

 このように一般の教えで変化を知れば一つの知識で、すべての物は変化するという初めの知識です。だから愚かにも「それは私の望みどおりに確実不変だ」と言わないで、「すべての物は変化する」と、取り敢えず信じてしまってください。しかし今、それは私たちを騙し、変化は私たちを欺瞞し、すっかり愚かにします。

 食べ物を食べる時、一時辛く、一時甘く、一時しょっぱく、一時酸っぱく、一時苦く、一時何かで舌に変化あるので、だから更に美味しくなります。 一つのお膳に甘い物、酸っぱい物、辛い物、しょっぱい物、苦い物があり、このように交互にたくさんあり、このようにたくさん変化し、美味しければ美味しいほど陶酔して溺れます。

 それは変化の味だからです。変化がなければ味わいがなく、幸福と苦、幸福と苦の間で休まず変化がなければならず、このように変化があれば味わいがあります。苦い味のご飯をちょっと食べたら、それから甘いおかずを食べ、こういうのはその味を非常に強く感じるので、人は味に夢中になれます。

 この項目は、変化は私たちを騙して望ましいものに見せる、つまり変化するから幸福で楽しく美味しさを生じさせる重要点があります。私たちはこの部分に関心があり、美味しい部分に興味があるので、変化する部分は気にしません。不注意があり、陶酔があり、無常を知らないからです。

 無常の話はブッダが大悟された最初の項目で、ちょっと簡単に見えるようなので、苦より簡単に見える初めの項目にし、苦は無我より簡単に見えるので、無常を最初の項目にしました。それ以上に、仏教以外の人たちにも無常の教えがあると知ることができます。

 ブッダも無常の教えがある教祖について話されていますが、彼らは無常の話だけ教え、苦と無我については教えていません。彼らは無常について良く、たくさん、強く教えていますが、苦の話、無我の話は教えることができませんでした。その教祖も同じインドにいました。

 知識の歴史で、西側のブッダと同時代の古代国家ギリシャの哲学者や思想家の何人かも、変化の話を同じような状態で教えました。だから変化の話は他の状態より簡単に見えると言うことができますが、それでも深遠さ、あるいは角度の違いがあり、最高に求められるのは、倦怠を生じさせ、欲情を弛ませる種類の変化です。

 本当の、そして最高に完璧な変化を見れば、倦怠と欲情の弛緩が生じ、聖向聖果涅槃に到達できます。苦あるいは無我について話さなくても、無常について十分強烈に話すだけで、倦怠と欲情の弛緩を生じさせ、そして聖向聖果涅槃に到達できます。つまり苦を知り、あるいは無我を知ることができますが、少なくとも無常に隠れていてハッキリ現れず、現れているのは無常だけです。

 このように無常が先に見える人も、同じように涅槃に到達します。彼らは「アニミッタヴィモッカ(無相解脱)」、あるいは「アニミッタニッバーナ(無相涅槃)」主な教えとして無常を見ることで得た涅槃、あるいは解脱と呼び、「掴むことができる物は何もない。それは休まず流れているので、掴まって強く掌握できる物は何もない」と明らかに見て心を倦怠させて欲情を緩ませ、解脱することができます。

 苦を基礎として主として依存すれば、アッパニヒタヴィモッカ(無願解脱)、あるいはアッパニヒタニッバーナ(無願涅槃)の類の涅槃に到達します。こういうのはすべては苦なので、どこに求めることもできないので、基盤である物、依存するもの、掴まるもの、掴むものはないという角度で見ます。

 中には先に無我、自分がないことを見る人もいて、無常や苦はあまり思わず、あまり感じず、最初にあるのは無我だけで、スンニャターニッバーナ(苦涅槃)、あるいはスンニャタヴィモッカ(空解脱)と呼ぶ涅槃に到達します。こういうのは空をハッキリ見、すべての物は空の物と見て解脱、あるいは涅槃します。

 三種類述べたのは全部揃えるため、完璧にするためですが、実践者は三種類を同じだけ見なければならないという意味ではありません。ある人、ある種類の人たちはみんな違う心があります。

 ある人は苦や無我より無常をたくさん見、ある人は無常や無我より苦をたくさん見、ある人は無常や苦より無我をたくさん見ることができ、そして教典にある一般の話で言えば、無我を見て聖向聖果涅槃に到達する人は、他の人たちより多いです。

 無我を見れば倦怠と欲情の弛緩が確実で、無常あるいは苦を見れば確実でなく、時には他の方向に揺れることもあります。それは非常に騙すからです。

 無常の話は苦の話より欺瞞し、苦の話は無我の話より欺瞞し、無我の話になるとほとんど欺瞞しません。無常の話が欺瞞するのは先ほど話したように、その変化が楽しく美味しいからです。今の人は変化で暮らしているので、変化がないと「悲しい」「寂しい」と言い、特に現代の若者は、何も変化するものがないと「悲しい」「寂しい」と言います。それは無常とは何かを知らないことから生じたばかりの愚かさです。


2 ドゥッカン(苦)
 無常の話は例を挙げて十分話しました。次は苦の話をします。苦の特別な意味は「堪え難い」ことです。

 「堪え難い」という言葉は「耐えなければならない」と言う言葉ほど良くありません。だから苦は「堪えなければならない」という意味で、彼らはいつでも「堪え難い」と訳します。しかし「まだ良くない。堪え難いという意味を堪えなければならないと訳し直す方が良い」と提言したいと思います。何でも堪えなければならず、快適でなく、楽しくなく、美味しくもありません。何かを背負っているように堪えなければなりません。

 笑うのも堪えなければならないことの一種、泣くのも堪えなければならないことの一種とたとえて見ると、粗く見れば見えず、詳細に見れば、それは「堪えなければならない」と、つまり「堪えてしなければならない」、あるいは「しなければならない」と見えます。この人生は堪えなければならないもの、人生自体も生きるために堪えなければならないものと、一度に全部の意味をまとめて言うこともできます。

 こう話すと、誰でも「ご飯を食べることに堪えなければならない」というようなのを思い出します。愚かな人なら「堪える必要はない」と見、詳細に見れば、私たちがご飯を食べることは、堪えなければならないと見えます。つまり食べなければなりません。

 「なければならない」という言葉がある所はどこどでも、そこに「堪える」あるいは「堪えなければならない」という言葉はあります。身体が食べ物を欲しがる時刻になると、ご飯を食べに行かなければならず、満腹する段になったら満腹しなければならず、排泄しなければならない段になったら排泄しなければならず、「なければならない」ものばかりですが、愚かな人には見えません。

 ブッダのような知性を使えば、ほとんど一呼吸毎に「なければならない」「なければならない」「なければならない」という言葉があるのを発見します。これが「なければならない」で、「なければならない」という言葉は、堪えるという意味です。

 私たちは立たなければならず、一日中、一晩中、寝ていられず、立ち上がったら、しなければならない何かをしなければなりません。稼ぐことに関してもしなければならず、そして私たちは健康管理も実践しなければなりません。

 体が凝ったら体を伸ばさなければならず、それはしてしまわなければならず、そのようでなければならず、このようでなければならず、宵になったら再び寝て、また起きて、そしてまた寝て、また起きて、「なければならない」と言うものがいっぱいです。

 次に大きな話なら大げさに感じ「なければならず」、病気などになると養生や治療をしなければならず、死にそうなら医者に行かなければならず、あるいは何らかの方法で闘うのも自由ですが、それはハッキリ苦として現れます。

 だから人生は全部、堪えなければならないという意味で苦です。つまりいつでも何かをすることに堪えなければならず、いつでもその荷物を背負っていなければなりません。

 堪えなければならない話は、私たちが毎日唱えている経文の中で「バーラー ハヴェー パンチャッカンダー=五蘊は重荷ですよ」と言われています。それが重い荷物なら、堪えなくて良いはずがありません。重荷はすごく重くても少し重くても、背負わなければならず、堪えなければなりません。バーラハーロー チャ プッガロー=その人物こそ、重荷を背負って行く人です。

 この「人物」は俺という執着から生まれ、「俺」という感覚があるだけで堪えなければならず、俺であるものを背負うことに堪えなければなりません。バーラーダーナン ドクッカン ローケー。「重荷を背負うことは苦」と、ハッキリ言われています。

 これは、一日中、一晩中「なければならない」「なければならない」「なければならない」がいっぱいで、これは重荷なので苦になります。バーラニッケーパナン スカン=重荷を投げ捨ててしまえば幸福になる。それが「しなくても良い」です。


 今私たちにあるのは「なければならない」だけです。俺は生きている、俺が死ぬ、俺はあのよう、このようと執着するので、「なければならない」ことばかりで、執着を振り落としてしまえば、「なければならない」というものが終わり、その後「なければならない」、「そのようでなければならない」「このようでなければならない」ものは何もなく、バーラニッケパナン スッカン=重荷を捨ててしまえば幸福、です。

 今それは「なければならず」、そのようでなければならず、このようでなければならず、簡単に言えばここへ来なければならないと言います。なぜここへ来なければならないか。それは聞きたいからここへ来ます。ここへ来なければならないのは、聞きたいからです。

 そしてなぜ聞きたいかは、何かを解決しなければならず、真実を知らなければならず、何かでなければならないからです。だから聞きたい。知りたい。あるいは苦から出たいでも良いです。だから苦は私たちを「なければならなく」する重荷であり、苦から脱す努力をしなければなりません。だから苦は二重に重い物です。

 私たちは苦と知らないので、苦を好みがちです。私たちはいつでも車軸をハスの花と見て、「なければならない」「なければならない」「なければならない」と、一日に何百、何千、何万回か分かりません。迷ってそのように好み、苦に倦怠しません。熟慮して見ると、聞くと信じられないほど滑稽なブッダバーシタにあることにふさわしく見えます。

 「アタ ニッビンタティ ドゥッケー エサマッゴー ヴィスッディヤー=無常・苦・無我が見えれば、その時は苦に、あるいは苦であるものに倦怠する」。それまでは苦に倦怠してなく、苦である物に倦怠してなく、いつでも楽しい物と見ていて、食べても遊んでも、笑っても泣いても、満腹になっても空腹でも、何でも全部楽しく見え、無常・苦・無我が見えれば、その時は苦を嫌います。

 今はまだ苦が嫌いでないので、「私たちは倦怠するまで苦を良く学ぶ義務がある」と言います。アタ ニッビンダティ ドゥッケー=その時苦の倦怠がある」。そしてこの学習は、座って「俺、俺のものという執着があれば、必ずなければならない、なければならない、なければならないで、煩悩の奴隷、下僕のように全部そうでなければならない、ああでなければならない、こうでなければならないになり、苦と言う」と熟慮する以上に良いものはありません。

 この角度でしか見ない人は誰でも阿羅漢になれ、涅槃でき、アッパニヒタヴィモッカ(無願解脱)で解脱できます。「どこにも掴まる所、掴むところはなく、どこに触っても火のようだ」と見るからです。どこにも掴まる所、掴むところはありません。このような意味があある涅槃もあり、苦を見ることが重要で、無常・無我を見るのは小さな部分、隠れた部分です。

 苦という言葉を「堪えなければならない物」と訳せば簡単に理解できます。「堪え難い」と訳せば、時には感じないこともあり、美味しい時、堪え難いと感じず、今美味しいのは堪え難いと感じません。しかしその「今美味しい」を良く見れば、堪えなければならないと見えます。つまりその美味しさに堪えなければなりません。他になり様はなく、美味しさに堪えなければならず、それの美味しさに堪えなければなりません。

 だから美味しくても堪えなければならず、不味くても堪えなければなりません。俺、俺のものがあれば堪えなければならないものばかりで、幸福も堪えなければならず、苦も堪えなければならず、背負っておくことに堪え、受け入れることに堪え、食べることに堪え、使うことに堪え、美しさに堪え、美味しさに堪えなければなりません。最後はその美味しさにも堪えなければなりません。だから苦は堪えなければならない、背負わなければならない重荷という意味です。


3 無我
 無我(アナッター)という言葉は、文字としては「自我ではない」という意味です。アンは「ない」、あるいは「でない」という意味で、アッターは自我で、アナッターは「自我ではない」という意味です。しかしそれは、私たちが勝手に「自分」にする物、あるいはする状態、あるいは状況、あるいは意味はないという意味です。

 子供でも大人でも愚かな感覚があり、勝手に「俺、俺のもの」と言い、俺の威力下にあり、俺のものの領域になり、俺がそれを作り、俺がそれをし、俺が探してきて、俺はそれより上の権力があります。こういうのを「自然に愚かな感覚になった自分、あるいは自我」と言い、子供から大人になるまで、歳を取るにつれてどんどん愚かになると言います。

 自我は俺、俺のものという理解、執着、愚かさにすぎず、大人になり、歳を取って老いるまで続き、時には運が悪く捨てられず、ブッダの教え、教祖の教えの言葉を聞かないので、死んで棺に入るまで捨てられないこともあります。しかし運良く、この執着を捨てさせる話を聞く人もいます。

 次にこの話は重要なので少し詳しく見ます。それは俺、俺のものという感覚が生じる本能の一つで、非常に隠されていて複雑です。なぜ俺、あるいは自我という言葉が私たちの感覚の中に生じることができるのか、遡って見なければなりません。人がまだ非常に愚かで野蛮人だった石器時代、まだ布をまとってなく、まだ本当の人でなく、半分人、半分猿、猿であり動物である所まで順に遡って見ます。

 詳細に見ると、生きている動物の心が何かを考えられるだけ十分高くない時は、まだ自我はなく、この意味の自分はなく、考えることを知り、思うことを知り、観察を知った時生じたばかりで、そして観察し、あるいは間違った方向、執着の方向、あるいは愚かさの方向に考え思います。このように詳しく勉強したければ、自我という言葉の意味から勉強することができます。

 アッター(自我)はパーリ語で、これは良い所が一つあり、それぞれの言葉に語根があり、彼らはダートゥ、言葉のダートゥと呼びます。語根はどのような意味があるでしょうか。パーリ語のどの言葉も意味があります。

 彼らは、人間がどのように考えて言葉が生まれたか、根源を探求する努力をしたのでこの言葉が生まれ、その言葉の語根にはそのような意味があります。それはたくさんあり、全部説明する時間がないので、アッターという言葉だけ説明する方が良いです。

 アッターという言葉は、アッターという語形から見ることができ、それはアタという語根、あるいは言葉のダートゥから来ています。あるいはアサというダートゥから来たこともあり得ます。

 アタというダートゥからなら、アタダートゥは行く、または着く、あるいはピッタリ続いているという意味です。アタダートゥは語尾が変化してアッターになります。だからアッターは行く人、あるいはぴったり繋がって着いた人、あるいは行った人という意味です。ここは、どこへ行き来してもピッタリくっついていて変化しない、他人ではない何かという意味です。

 だから魂、あるいはチェタブータ、あるいは自分、あるいは何でも、あちこちへ行き、あちこちへ行き、あちこちへ行き、同じ人として密着しています。アッターという言葉をアタダートゥと見なせばこのような意味です。

 このアッターという言葉は、アサダートゥから来ているかもしれません。普通にパーリ語を勉強するテキスト、経典になくても、それはあり得ると見えます。もしアッターがアサダートゥから来ていれば、食べる人という意味です。アサという言葉は食べるという意味だからです。今彼らは説教をしたり教えたりする時に「アッターは食べる人」と至る所で話して説明していて、何を食べるかは世界を食べます。

 アッターは世界を食べる人です。世界は世界全体で、世界全体とは形・音・臭・味・接触・考えで、形・音・臭・味・接触・考え、世界中食べる人であるものがいる、それをアッターと呼びます。これもアッターであるものは、いろんな物を消費し、感じ、味わうものという意味です。

 アサダートゥはもう一つ「行く」あるいは「持って行く」という意味があり、持って行く人と訳せば、俺の物であるあれこれを持って行く義務をするという意味です。あれこれ何でも俺の物にする義務のあるもの、それをアッターと呼びます。

 アサダートゥは、光のある人と訳す部類もあります。これは心がある物を意味しなければならず、その心は光で、何かを知ることができます。だからアッターとは心があるもの、あるいは何かを知る光があるものです。

 ブーダートゥの部類から来ているアサダートゥは、生きている、あるいは居るという意味で、このようなアサと見なせば、アッターは生きている人、あるいはいる人、つまりバヴァでありジャーティであり、ジャーティの間中、バヴァの間中バヴァを支配し、ジャーティを支配して生きている人、これをアッターと呼びます。

 全部を合わせると、食べる人、使う人、居る人、行く人、話す人、思う人、考える人、感じる人、輪廻を回遊する人である何かがあるに違いないと人間が感じ始めた時、それをアッターと呼びました。

 だから世界の人間が話す言葉に初めてアッター(自我。自分)という言葉が生まれたのは、すべての「所有者」、身体の所有者、何かの所有者で、そして知る人、話す人、考える人、何でもする人、そして偉大な意味は食べる人で、世界を食べる人、世界にあるすべての物を食べる人です。これが文字でのアッターです。

 次に感覚、あるいは事実関係で見ると、それは文字と一致し、俺、俺のものというウパダナーナ(取)による感覚が支配する人、取る人、手に入れる人、食べる人、いろんな物に何でもする人と見えます。それが俺、俺のもの、つまりアッターです。

 次にこの感覚は非常に発展する人間の知性に応じてどんどん発展し、そして普通の教育、つまり宗教面の教育でなく、脳を普通の賢さにする教育があればあるだけ人間のアッターは大きく多くなり、粘着して頑丈になり、そして狂えば狂うだけ、愚かになればなるだけ苦になります。だからこの世界の人間は今、苦が増えるばかりで、アッターが大きくなるにつれて苦が増えます。

 だからアッター(自我)は背負い続けなければならない重荷と見なします。そして勘違いで俺と理解し、俺の物と理解することで深い苦を生じさせる物です。この俺という理解をアッター、あるいはアハンカーラと言い、俺のものという理解をアッタニヤー(我所有)あるいはママンカーラと言い、合わせてアッターです。

 初めの感覚は俺が先になければならず、それから俺に関わるという意味のアッタニヤーがあり、俺と、俺に関わる物が一緒になった途端に、貪り、怒り、迷い、身勝手、自分を困らせ他人を困らせる際限のない考えが生じます。

 アッター(自我)の害あるいは毒が生じると抜き難く、あるのは頑丈になるばかりです。すべてのものはアナッター、つまり自分でなく、自分はないと見るのは難しい真実で、ずっと自分がある方向だけを見続けます。

 だから世界の人間はこのような状況にあります。自分があり、これは俺、それはお前、あれは彼、これは自分、そして俺がいて、お前がいて、彼がいて、彼らがいて、自分たちがいて、そして得損、彼のもの、自分のもの、彼らのもの、私たちのものがあり、自分を困窮させ、他人を困窮させる状況があります。アッターの凶悪な害はこのようです。

 次に、ブッダが見られたような真実のとおりに見てください。ブッダは「サッベー ダンマー アナッター=すべてのものは自分ではない。ただ縁起の物にすぎない」と言われました。つまり自然が加工してあれこれにしたサンカーラ(行)であり、そのような考え、このような感覚、思いにすぎません。

 身体はご飯とおかず、天候、環境である縁が作り出したので縁起のものであり、一時だけ作り上げられたもので、これを「縁起のもの」「互いに依存し合って生じたもの」と言います。

 心も同じで、今のいろんな感覚、考え、思いはすべて縁起の物で、そして一つの縁起の物が他の縁起の物と繋がることを、彼らは前回の講義で私が詳しく話したように「縁起」と呼びます。一つ一つの単位は「縁起の物」で、そして他のものと関わって加工することを、彼らは「依存し合って生じる縁起」と言います。

 縁起を理解すれば「アッター(自我)はない。すべての物は偶然の物にすぎず、そしてちょうど良く風が吹くと、水が膨れてしぶきになって一瞬で消滅していくように、一時だけ生じて消滅する」とハッキリ見えます。物質面は簡単に見えます。たとえば海岸に立って波頭を見ると、水と風と岸と、周囲の他のものの偶然によって膨れ上がって不可思議な沫になり、終わると消滅します。これが物質です。

 心の面も同じで、いろんなものがちょうどよく触れ合うと、俺、俺のものという感覚、理解が時々生じ、時々生じて消滅し、生じては消えます。これはアナッター(無我)でなく、偶然、一時生じた縁起の物と呼ぶものにすぎません。このような理解を、アナッターと言います。

 アナッター(無我)が本当に見え、「自分、自分のもの」という感覚がなく、貪り・怒り・迷いの何も生じなければ、その時は涅槃です。大きな教えであるアナッターを見ることに依存すれば、その涅槃の到達はスンニャターニッバーナ(空涅槃)、あるいはスンニャタヴィムッティ(空解脱)、あるいはスンニャタヴィモッガ(空解脱)、呼び方次第で、そしてこの涅槃はどの種類の涅槃にもなれることを忘れないでください。

 一時的な涅槃もあり、永遠の涅槃もあり、相応しさに触れた時に一時アナッターを見ることが生じる一時的な偶然の涅槃もあります。阿羅漢でなくても、一時アナッターが見えれば一時涅槃であり、一時幸福で、そしてまた熱く(苦に)なることもあります。ハッキリ無我が見え、そして身体と心と本性をすっかり変えるだけ十分深く見れば本当の涅槃であり、本当の阿羅漢であり、煩悩が二度と悪化することはありません。

 三相を見るには、三つの状態、つまり無常・苦・無我を同時に熟慮すれば涅槃に到達でき、それぞれの状態に分けて熟慮しても涅槃に到達できます。すべては人の向き不向き次第です。


何らかの三相を見ることは当然資質次第
 三相のそれぞれの状態はどのように違うでしょうか。

 ここでは資質のある人たち、つまりウパニサヤ(資質。習性)があると言う、思考、教育、心の中で何か努力したことがある人たちに無常の資質があれば、無常に依存して聖向聖果に到達でき、苦の資質があれば苦に依存して聖向聖果に到達でき、無我の資質があれば、無我に依存して聖向聖果に到達でき、無我の話を聞いただけで聖向聖果涅槃に到達した人もいると話したいと思います。何らかの状態の三相の資質がある人物は、その話を聞いただけで聖向聖果涅槃に到達できます。

 次に、特にどんな状態の資質もない一般の人たちは、イロハから勉強するように最初から訓練しなければなりません。このようなら、三つの状態を関連させ、混ぜ合わせて依存しなければなりません。無常を適度に見て、それから「無常だから苦」と熟慮して見、無常であり苦でもある、それが無我です。

 これが学校でたくさん教えている教えで、無常を適度に見せ、無常なら幸福と見なすか苦と見なすか、それは適度と見なさなければなりません。無常なら、それを幸福と見なすか苦と見なすかは、苦と見なさなければなりません。

 無常であり、変化し、そしてこのように苦なら、「自分」「自分の物」と言うことができるかは、できないと答えなければなりません。このように三つを混ぜて続けていくと、聖向聖果涅槃に到達できますが、ほとんどいません。人は固有の心があり、自分だけの物を溜め込んだ資質か何かがあるからです。

 無我を見ることによる到達ならアナッターという言葉を使い、ほとんどの人、あるいはほとんどは無我を見ることで聖向聖果涅槃に到達できます。無常を見るだけ、あるいは苦を見るだけでもできますが、一部であり少数です。

 賢くするにはこのように三つ全部で努力すれば、どれか一つは役に立ち、ある役に立つ状態に到達するかもしれません。三つ全部に努力すれば、一つは役に立つに違いありません。人はみな同じでないので、それがどれか、まだ知ることはできません。

 アッター(自我)を先に知ってしまわなければならないアナッター(無我)の話は役に立ちます。私たちに非常に関わりがあるからです。どのように私たちと関わっているかは、「私たちには俺、俺のもの、という感覚があり、俺、俺のものはどの感覚よりも多いから」と簡単に答えることができます。

 だからアッターである感覚を処理して消すだけでアナッターが見えます。あるいはアナッターが見えることで聖向聖果涅槃に到達できます。つまり今私たちは無常の部分でなく、苦の部分でもなく、自我に関わる部分に基礎である感覚、あるいは分厚い愚かさがあります。しかし自我、あるいはむしろ無我に関わる部分の部分です。

 つまり私たちは常に「自分がある、自分の物がある」と感じています。これは無常あるいは苦に凭れ掛からないで、一日中、一晩中俺、俺のものの話です。だからアナッター(無我)の話、つまり自分、自分の物がない話で直接解決しなければなりません。

 次に現代になればなるほど、すべての人が「魂は生まれ変わり、死んでまた生まれ、常にどこにでも生まれ変わる魂がある」と信じていると言うほど度を越えています。それは自我の話なので、無我で消滅させ、解決してしまわなければなりません。

 彼らは自我あるいは識、あるいは身体の中に潜入しているチェッタブータがあり、今考え、あるいは話し、行動し、食べ、使い、あるいはいつでも何らかの義務をしていて、身体が壊れて腐って棺に入ると、この識が次に新しく生まれると信じています。

 このように死んで生まれ変わるという話を信じている人たちは、堅い居住地である家主です。この種の人たちにとって解脱は無我の話でなければならず、無我に集結しなければならず、無常の話、苦の話は、これらの人たちの愚かさを解決するには力が足りません。

 十分な力がある無我の話でこの人たちの愚かさを解決して、「すべての物は縁起の物にすぎない。原因と縁が依存し合って変化させることで生じて、消滅し、生じて、消滅するだけで、永遠に変わらない自分はない」と、真実のままに見せなければなりません。

 私たちタイ人は、自我があり、魂があり、何十代か分からないほどチェタブータがあるバラモン教の教えを受け入れ、二三千年になるかもしれないので、この考えが強固にあります。私たちには害があり、この種の害が身に付いていると言うことができます。だからこの害を解決するには、そのための話、無我の話で解決しなければなりません。

 私たちは伝統であり文化であり習慣である自我があり、逝って生まれる自我があり、誰かが死ぬと「良い所に生まれなさい。あれに生まれなさい、。これに生まれなさい」と言います。このように揃って自我があり、このような自我の教義を信じているので、解決するには、無我の話で解決しなければなりません。

 次に三相になりました。私は三相の三つ全部を自我を殺す話にすることができます。「不変ではない」という無常の話を知り、どんなに変化しても、この無常を武器にして、自我つまり俺を殺し、俺のものを殺し、あるいは魂を殺し、チェタブータを殺し、「そのように言われている魂はない、そのように永遠不変の魂はない、あるのは変化させて発生し、維持して消滅する縁起だけ、と言います。これです、無常で自我を殺します。

 苦を見れば、この人生は堪えなければならないもので、生活のどれも、バヴァあるいはジャーティは堪えなければならないものです。次にその堪えなければならないことが苦なので、苦以外の何もありません。人生は苦以外に何もありません。

 すべての人生が堪えなければならず、どこにも自分はなく、あるのは堪えなければならないことだけだからです。この堪えなければならないことで「自我は要らない」と自我を殺してしまいます。堪えなければならないことは苦なので、苦で自我を殺してしまいます。

 無我は、当然自動的に自然に自我を殺します。つまり自分はないと見、食べる人、居る人、使う人、行く人、旅する人、輪廻する人、何をする人もいないと見、すべての物をサンカーラ、縁起のものと見ます。こういうのを「無我は自我を殺す」と言います。

 見る方法での実践は他の方法より簡単です。つまり無常を見るのも自我を殺すため、苦を見るのも自我を殺すため、無我を見るのも自我を殺すためで、他には何もありません。本当のタンマを見るには、無常・苦・無我の三つを見て、それを集めて自我を殺します。こういうのは他の方法より簡単に聖向聖果涅槃に到達できます。

 述べたような教えに関心を持っておいて、次の機会に更に理解する努力をします。ここでは三相は自我を殺すためだけにあるとします。三相は自我、つまり普通の俺、俺のものを殺す武器としてあります。自我を飢えさせ、どんどん痩せさせる方法で自我を殺し、そして遭遇した時はいつでもすぐに殺してしまいます。三相はこのような状態で自我、自分を消滅させる武器、あるいは道具です。

 
三相の功徳
 三相の功徳の素晴らしさを見ると、実践にチャンダ(満足)、ヴィリヤ(精進)、チッタ(心)、ヴィマンサー(熟考)が生じ、二重の実践になります。私たちは実践したくさせる何かがなければならず、そうすれば実践する気力があり、実践を促すものがあり、そして簡単に実践できます。だから熟慮して三相の功徳を見なければなりません。

1 すべての苦を除去してしまうために、三相を使う方法を見なければなりません。転んだ時のためにだけ知っておくようなのは利益がありません。小さな仏像を首に掛けるなどは、慣れると何も利益もないので、本当の話にするために使わなければなりません。

2 三相、この無常・苦・無我を、正しい見解の感情として掴んでください。そうすれば正しい見解によって脱出できます。サンマディッティ サマーダーナ サッバン ドゥッカン ウパッチャガン=すべての生き物は正しい見解を遵守することで、すべての苦から脱すことができる。正しい見解が常にあることで苦から脱す。このような教えとして話しておかれたのは、同じ話です。

 正しい見解は正しい知識があることで、正しい知識は無常・苦・無我という知識で、合わせると、サッベー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ=すべてのダンマは、誰も執着すべきではない、という新しい文章になるからです。

 なぜ執着すべきでないかは、無常・苦・無我が見えるからです。無常・苦・無我が見えれば、「執着すべきでない」と見え、これが正しい見解です。正しい見解も滅苦ができます。だから正しい見解を持ちたければ、無常・苦・無我の話に関心を持って理解し、明るく明らかにしなければなりません。

3 次にもっと詳しく話すこともできます。まだ話しきれないほどたくさんの話がありますが、この三相はヴィパッサナーニャーナのすべての段階、すべての部分の感情であるという、もう一つの例を話したいと思います。

 ヴィパッサナーのニャーナ(知ること。智)であるヴィパッサナーが生じる段階まで実践すると、必ず無常・苦・無我を見る話になり、ヴィパッサナーは九つの部分、九つのニャーナに分けられ、あるいは準備段階を入れた十をサンマサナニャーナ(理解したと知ること)と言います。

第一番目のニャーナ 初めの段階で無常・苦・無我を見始めなければならず、更に濃くなり、ウダヤッバタニャーナ(発生と変化)になります。このニャーナは無常・苦・無我、つまりすべてのサンカーラの発生と変化を見ます。

第二番目のニャーナもカンガニャーナ=消滅、消滅、消滅だけを見ます。すべてのサンカーラの無常・苦・無我を見れば消滅が見えます。

第三番目のニャーナはバヤトゥパッターナ(恐ろしい物)ヴィンニャーナで、すべての物は無常・苦・無我の状態に満ちているので「恐ろしい物」と見ます。

第四番目のニャーナはアーディーナヴァ(害で満ちている)ニャーナで、すべてのサンカーラは無常・苦・無我なので害に満ちていると見ます。

第五番目のニャーナ その後ニッバーナ(想像を絶する倦怠)ニャーナは生じ、無常・苦・無我に満ちているので、計れないほど倦怠します。

第六場目のニャーナ その後はムンチトゥーカンマヤター(脱したい)ニャーナが生じ、凶悪な無常・苦・無我に満ちた物から脱したくなります。

第七番目のニャーナ その後パティサンカーヌパッサナー(無常・苦・無我から出てしまう方法を熟慮する)ニャーナがあり、無常・苦・無我を見る力に依存して道に沿って出て行くよう後押しをします。

第八番目のニャーナ サンカールペッカー(すべてのサンカーラに無関心でいる)ニャーナは、妻と離縁した夫が妻に無関心なのと同じです。そこの壁に描いてある絵を見てください。それは無常・苦・無我が見えるから、サンカールペッカーニャーナが生じるからです。

第九番目のニャーナ 最後はサッチャーヌローミカ(聖諦を知る準備が整った)ニャーナで、それは無常・苦・無我を最高に見るからです。

 これは、三相を見れば当然九ヴィパッサナーニャーナの感情になると説明する例です。
 その次は聖向聖果に到達し、仮定で預流になり、今回の実践の聖向聖果の到達は預流だけです。

 次に一来になるにはどうするかは、無常・苦・無我を見る力を更に増やさなければなりません。そうすれば聖向聖果に到達して一来になります。同じように熟慮しますが、無常・苦・無我を見る力を更に増やせば一来になります。

 そしてどうすれば不還になるかは、無常・苦・無我を見る力を更に増やします。

 さて不還になったら、無常・苦・無我を見る力を更に増やす以外に方法はなく、そうすれば不還になります。不還は無常・苦・無我を見る力がまだ百パーセントでないという意味なので、まだ欠けている部分を増やせば阿羅漢になります。

 凡人から聖人になるのは、無常・苦・無我を見る力によってで、第一の聖人が移動して第二の聖人になるもの無常・苦・無我を見る力に因り、第二の聖人、あるいは第二のサマナが移動して第三のサマナになるにも、無常・苦・無我を見る力に因らなければならず、第三の聖人が移動して第四の聖人、つまり阿羅漢になるにも、無常・苦・無我を見る力に因らなければなりません。

 だから最後の聖向聖果に到達するまで順に上って行く助けになるのは、無常・苦・無我の話以外に何もありません。

 次に凡人のままで、聖人になりたくなく、何とか堪えられる凡人でいたくても、無常・苦・無我の話の知識に依存しなければなりません。避けようはないと見えますか。無常・苦・無我が必要ない場所はどこにもありません。

 幸福を感じ、安楽に呼吸し、幸福に呼吸するにも無常・苦・無我の話の知識に依存しなければなりません。だからこのような状態で実践し、このようにハッキリ知り、このような実践を目指し、そして感情の前でも陰でも実践をしていなければなりません。

 どうか、無常・苦・無我の話の知識を常に学んでください。それは煩悩を飢えさせて消耗させ、本当に感情と遭遇したら無常・苦・無我を目いっぱい使えば、「予防注射は無常・苦・無我の代名詞で、治療薬は無常・苦・無我の話」と冒頭で説明したように、苦、貪り、怒り、迷いになる変化を防止してしまうことができます。

 ブッダが「すべてのサンカーラは不変なものでなく、苦であり、すべてのダンマは無我であると真実のままに見た時、その時苦であるものに倦怠し、それが清浄への道」と言われている最高に重要な話にふさわしく、みなさん全員が関心を持たれることを望みます。清浄な道を歩いて行けばすべてのニャーナの段階になり、聖向聖果で聖人になる段階になり、そして断固として後退しない完璧な涅槃で終わります。

 もしそこに至らず、まだ今の生活を続けるなら、無常・苦・無我に依存して次々に一時的な涅槃を生じさせ、無常・苦・無我を見なければなりません。そうすれば見る度に涼しくなり、忘れた途端に熱くなり、再び見るとまた涼しくなります。だから三相、つまりこのような状態の無常・苦・無我で生活なさい。

 迂闊に転ぶ失敗だけにしておかないでください。そういうのは何の利益もありません。もっと見苦しいほど失敗をする人もいますが、更に利益がありません。それは宝石やダイヤモンドを貰って何に使うかを知らない愚かな人の伝統習慣です。

 それにどこにあるか見つかりません。額にあっても見つからず、身に着けていても見つからない山を隠す髪の毛です。こういうのを愚かな人と呼ばせないなら、何と呼んだら良いか分かりません。

 ヤクザでないように注意してください。比丘、沙弥、清信士、清信女にもいます。ヤクザになるのも無常・苦・無我が見えないからです。忘れないように、繰り返させていただきます。仏教の最も重要な話、つまり三相の話、あるいは無常・苦・無我の話に不注意にならないでください。

 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。


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