13.ロークッタラダンマに関わる実践原則



1971年6月26日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。今日の土曜講義はロークッタラダンマ(世界から出るための教え。出世間法)、今ここでのタンマに関わる実践法と題してお話します。今日の講義は風邪を引いているので中止すべきですが、予定が狂うので中止したくありません。だからできるだけお話します。

 「今ここのロークッタラダンマ」と、このように話すと、ほとんどの人は怪訝そうな顔をし、あるいは信じません。他のことと聞いて、他の伝統習慣になるほど信仰があるから、つまり「今ここ」ではないからです。

 死ぬ時まで待たなければならず、そして彼らは到達が難しい物と捉えるので、あと何世、あるいは何十世、何百世、何千世経っても確実ではないという意味です。私は「今ここ(現世)で」と言い、掌と手の甲より違います。だからどのようか、熟慮して見ます。


ロークッタラダンマとは何か
 最初にロークッタラ、あるいはロークッタラダンマという言葉について熟慮しなければなりません。

 一般に昔から知られているロークッタラダンマという言葉は、九ロークッタラダンマで、九とは聖向が四つ、聖果が四つ、これが四対で、涅槃を足して九つです。四向四果とは、預流向、預流果、一来向、一来果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果、これが四対八つで、そして涅槃を合わせると九になり、九ロークッタラダンマと言います。

 このような九ロークッタラダンマは、パーリ(ブッダの言葉である経)のブッダバーシタ(ブッダが言われたという意味)にはありません。つまり私たちがいつも信じている九ロークッタラダンマについて話しているブッダバーシタはありません。あるのは後世の書物だけでしょう。ブッダバーシタにない他の話、たとえば十波羅蜜、あるいはこれらのいろんなものはたくさんあり、すべて後世の書物に現れたものばかりです。

 直接ブッダバーシタであるロークッタラという言葉は、スンンニャター(空)の話の中だけにあります。ブッダ自身が話されたスンニャター(空)の話がある所はどこでも、そこにはいつでも必ずロークッタラという言葉があります。

 一番知られているのは「イェーテー スッタンター タターガタバーシター ガムビーラー ガムビーラッター スンニャターパティサンユッター」という文句で、タイ語の簡単な要旨は「如行が述べたスッタンタは深遠な話で、深遠な意義がある話で、世界の上にある話で、そしてスンニャターでできている」という意味です。

 こういうのはロークッタラについて話したブッダバーシタのあちこちにあります。しかし私たちが知っているように九つに分けている所は一つもありません。だから今私たちが知っているのは、ブッダが言われたことと歪があります。しかし次のように理解する道もあるので、枝葉末節の話でも、独自の意味を理解する努力をしなければなりません。

 初めにロークッタラという言葉の意味を理解しなければなりません。ロークッタラとは、文字では世界を超えた、あるいは世界の上という意味ですが、庶民はロークウッタラと変える人が多く、年寄りはロークウッタラと言います。ロークウッタラを聞くと、訛った意味があり、北方にあると言われる(架空の)もう一つの世界、あるいはそのような何かになります。

 実際ロークウッタラという綴りは、ロークッタラ=ローク+ウッタラ、合わせてロークッタラで、ロークッタラになります。ローカとは「世界」という意味で、ウッタラは「更に」、あるいは「上」で、ロークッタラは「世界より上」、あるいは「世界から脱した」という意味です。

 次にロークウッタラという言葉も同じで、ロークッタラという言葉から来ていて、ロークウッタラという言葉を使いたい人は、世界を脱した話、あるいは世界より上の話を意味すると理解してしまってください。


熟慮しなければならない問題
 次に熟慮して見なければならないのは、「世界の上」あるいは「世界を脱す」というのは何を意味するのかです。世界の上にある、あるいは世界を脱した何かで、もし大地、あるいは場所、あるいは宮殿、あるいは世界の上にある世界を脱した何かを意味するなら、こういうのは先々もっと間違います。パーリでロークッタラと呼ぶものは、世界の上のタンマ、あるいは世界を脱したタンマという意味です。

 次にタンマという言葉は広い意味があり、そのようにするための実践項目を意味することも、そのようである状況を意味することもあります。ここではそのようにする状態を意味し、続けて何の状態かを問わなければならない項目があり、それは心の状態以外の何でもないので、ロークッタラという言葉は、世界より上にある心の状態を意味します。

 この「世界の上にいる人間の心の状態」は、普通の人が聞いても、心がどのように世界の上にいられるのか意味が分かりません。心が身体の中にある時、身体は世界の中にあり、それで世界の上にある心の状態はどのようかという次の問題があります。この種の問題は世界というものを知らないことから生じます。

 「世界」という言葉は、いつも大地を意味せず、世界の意味である何か、あるいは世界の毒である何かを意味するので、「世界の上にある」というのは、世界の支配の上にある」という意味になります。この世界には心を支配するいろんなものがあり、心が世界の支配の威力より上にあれば世界の上にあると、つまり世界の支配より上にあると言わなければなりません。

 次に世界には、動物の心を支配するために何があるか、パーリの中にハッキリ述べられている話があります。これは後で話します。

 今私たちは、ロークッタラとは何か、そしてどうして今ここにあるのか、という項目を判断しています。四向四果と涅槃を意味するなら、四向四果、あるいは涅槃に到達した時にあります。今ここにはありません。これが勉強して理解する項目であり、そしてまだ理解し難いたくさんの言葉と関わりがあるので、四向四果と呼ぶものも、もう一度判断しなければなりません。

 四向あるいは四果とは、述べたように預流、一来、不還、阿羅漢です。

 まだ所帯をもっている預流はまだ五欲を味わい、まだ異性から生じる味を味わい、まだ妻や夫がいます。こういうのを「その預流はどのようにロークッタラで、どの意味でロークッタラと呼べるか」と言います。

 一来もまだそのようで、まだ在家で、まだ妻や夫があり、まだ異性から生じる味を味わい、このようです。

 次に不還になると、不還は五欲と関わらず、異性と関わりませんが、見るとまだルーパヴァチャラバヴァが非常に気に掛かり、つまり形界と呼ぶような純潔清浄なバヴァにいて、まだバヴァに未練があり、離れて行きたくありません。

 バヴァには三つのバヴァが、欲界、形界、そして無形界があると理解してください。不還は欲界を気にしなくても形界を気にし、幸福で快適と見なすので、まだ形界に非常に憂いがあるのと同じです。こういうのをロークッタラと呼べるでしょうか。

 阿羅漢だけが三つのバヴァより上に、関わるすべてのものより上にいて、預流、一来、不還は関わる話があり、バヴァと関わり、世界と関わり、こういうのは世界の上にいる人と呼べません。完全に世界の上にいる人は阿羅漢だけです。

 次に阿羅漢の状態を涅槃の話と重ねて見ます。阿羅漢は当然二種類の涅槃、つまりサウパーディセサニッバーナ(有余依涅槃)、あるいはアヌパーディセサニッバーナ(無余依涅槃)に到達し、この二種類の涅槃に到達しなければ阿羅漢ではありません。阿羅漢の話は直接涅槃の話で、涅槃の話を九つにしなければならない理由はどこにもありません。

 述べたような問題は疑念を誘う項目で、考えて混乱するよう誘うのではありませんが、世界の上にあるというのはどのようか分かるまで熟慮して良く見ていただきたいでと思います。そして私たちが勝手に「四向四果、涅槃はロークッタラ」と言っているのは、まだどのようにと疑わしいかは、「預流、一来もまだ欲界を気に掛け、不還はまだ形界を気に掛け、阿羅漢だけがすべてにおいてバヴァより上にいる完璧な涅槃です」と述べたように疑わしいです。

 阿羅漢の涅槃は一般の涅槃と同じです。阿羅漢は世界の上にいるというのは聞いて分かり、理解しやすく、最高に明らかですが、預流、一来、不還が世界の上にいるのは理解し難いです。このように考えて見てください。


世界の上にいること、あるいはロークッタラダンマは今ここでできる
 出口は一つだけあります。預流などは、確実に世界の上に行く人と言うだけで、今はまだ世界の上にいませんが、確実に世界の上に行く人です。だから世界の上にいる人に含め、世界に埋もれている凡人と一緒にしません。このように説明すれば、まだ阿羅漢になっていない初等の聖人は確実に世界の上に行く人なので、世界の上の側に仕分けすると、何とか理解できます。

 「世界の上の話」を理解できる人は、まだ預流などが世界の上に仕分けされるなら、他の人の何等かの世界の上にいることについて思うべきだと観察することを知らなければなりません。特に凡人も、時には私たちも世界の締め付けから自由になっている機会、時間があります。人の心の状態は、世界の締め付けがない時間がなければなりません。

 世界の締め付けが休みなしなら、人は狂って全滅し、ここで話したり聞いたりする機会はありません。だから公正に「私たちは昼も夜も、一呼吸毎に世界の抑圧の下にいるのではない」と良く観察してください。

 世界の締め付けは時々あり、時々問題になるだけ、つまり不注意な時、サティが十分ない時だけです。執着の基盤であるものに執着すると、その時世界と呼ぶものに締め付けられ、あるいは焼き炙られ、あるいは抑圧され、あるいは巻き付かれ、包まれるでも何でも言い方次第で、その感覚がなくなれば途端に、人の心は元通りの空っぽの心に戻るからです。

 「世界」と呼ぶものは休みなく人の心を締め付けてなく、いつぼんやりするかで、つまりサティがなく、知識がなく、無知つまり無明の威力でする時だけ、その時途端に「世界」が生じ、その人物の心を支配して乗り被さります。

 通常世界は世界だけであり、人間も人間だけでいて、人間の心も人間の心なりにありますが、人間の心はぼんやりし、ぼんやりすればいつでも世界が生じて、人間の心を支配する種類の世界になります。だから私たちは世界の支配より上にある心の状態と、まだ世界に支配されている心の状態と二つの状況があると知らなければなりません。しかし結果は同じようで、世界に支配されなければ心はまだ同じようで、空あるいは世界の威力から自由です。

 もう一つ「スンニャターだけに関わるのは、深遠な意味がある話」とブッダが言われた「ロークッタラー」という言葉は、私たちにとって深遠で、「ここのロークッタラーという言葉は、直接四向四果涅槃を狙っていない」と良く熟慮して見なければなりません。

 「スンニャターに関わる話は世界の上の話」、空に関わるダンマなら世界の上の話、あるいは空がある心の状態は世界の上にある心の状態と、広く述べられ、中立的な言葉で、「どの人物、どこ、どのよう」と言及する必要がありません。こういうのもあります。

 誰かにどんな心があっても「その人はそのようだ」と言い、一時だけなら一時で、永遠なら永遠と言います。だからそれは、普通の凡人の中には、世界の抑圧から一時的に自由な心がある人がいて、阿羅漢だけが世界の抑圧から完璧に自由な心があり、預流、一来、不還は、凡人と同じように、まだ時々世界に抑圧されていますが、普通の凡人より弱い、あるいは軽い点が違います。まだ世界の威力に抑圧されている点に注目すれば、まだどちらも抑圧されています。

 凡人は非常に抑圧された立場に陥っているので、地獄、あるいは悪趣になり、心に焦燥があれば地獄で、飢えがあれば餓鬼で、臆病や恐怖があれば阿修羅で、あるいは愚かなら最後には畜生になり、このようにたくさんあります。凡人は世界の抑圧に抵抗するものが少ししかないので、世界が抑圧する時になれば、このようにたくさん抑圧できます。

 休まず教育して訓練した知性があればだんだん善くなり、善いレベルの善人になり、世界が抑圧できるのは少なくなり、初等の聖人、つまり預流、一来などになり、世界の抑圧が減り、二度と地獄に落ちる、あるいは悪趣に落ちると言うレベルに至りません。

 世界に抑圧されることが減った人は二度と地獄に落ちることがなく、あるいは心が苦しくなく、餓鬼のように渇きがなく、畜生のように愚かでなく、阿修羅のように臆病でもありません。これも涅槃の流れに辿り着いた人、預流と呼ぶことができますが、まだ完全な涅槃ではありません。

 述べたような理由で、預流をロークッタラの側に分類するに相応しく、つまり将来確実に世界の上に行く人、あるいは準備段階と呼ぶこともでき、凡人に分類するのも正しくなく、完全に世界の上と言うこともできません。しかし完全に世界の上にいく準備をしている人です。

 一方スンニャター(空)に関わるパーリ(ブッダの言葉である経)は、「スンニャターでできているなら、永遠でなければ一時的で、多少は世界の上と言わなければならない」と中立に言われています。だから関心を持つべき広い意味があります。

 普通の人がスンニャターの話に関心を持つべきなのは、普段の心が時々世界の支配の上にある状態に出合うことができるようにするためです。例えばここに座っているみなさんも「世界の抑圧がない」と言い、ここに座っている一時も「私たちは今空だ」、あるいは「世界の抑圧の危険がない」と見せている状態があります。

 私たちが家にいる時、仕事をしている時、責任がある時、あらゆる種類の煩悩を生じさせる魅惑的なものといる時は、心はそのようでなく、抑圧されて世界と呼ぶものの威力下にいさせられています。

 ロークッタラの話を勉強する時は、イロハから始めなければなりません。他人を信じる必要はありません。「世界の抑圧の上にいる心はどのようか、あるいは世界の抑圧の上にいるのはどのようか。ほんの一時でも心が世界の抑圧下にいる時と反対のように違う状態がある」と自分自身の心の状態を知る教育から始めなければなりません。だからそれぞれの人の能力の限り関心をお持ちなさい。「世界の抑圧がないこと」、それが涅槃の状態だからです。

 私たちは涅槃と呼ぶものに満足も関心もあるのに、なぜ本当の涅槃、ロークッタラと呼ぶ世界の抑圧がない心の状態に関心を持たないのでしょうか。時々このように心が空で自由なのは、当然一日中、一晩中、一生監獄に繋がれているより良いです。

 心にこのように交互に空の時があるのは、それはどのようか、どのようにあるか、そしてどの部分を排除すべきか、何を塗り重ねるべきかを順に少しずつ知るために、狂い過ぎないよう、そして善すぎないよう心を引き留める援けになります。

 涅槃という言葉について、ブッダは何か所かで例を挙げて「四禅から生じた幸福は涅槃の味の見本」と言われています。まだ本当の涅槃に到達していない人が百パーセント涅槃の味見をしたければ、四禅の味で味見ができます。サマーディに励んで四禅になれば、涅槃の味と呼べる心の面の穏やかな幸福を味わうことができます。

 本当の涅槃の味は一定で変化しませんが、四禅の味はそのように最高でも、まだ本当の涅槃でなく、味見をさせる見本の涅槃にすぎないので、再び普通に戻ってしまう点が違うだけです。あるいは急いでいる人のための、急いで味見をするための涅槃で、その時同じ味を同じだけ味わうことができます。

 しかしまだ、戻って他のものになることができる見本の涅槃であるという理由で、まだ本当でない、まだ決定的でないと言い、パーリではクッパダンマ、つまり「再び悪化するもの」と言います。二度と悪化せず、二度と変化しなければ「アクッパダンマ」と言います。

 だから世界の抑圧がない心があることはクッパダンマであり、まだ裏返ることができます。私たちの義務は空の心を維持して増やし、連続して変化しなくなるまで維持するだけです。毎日世界の抑圧のない時間が二三回あれば、ないより良いです。

 次にそれを多くし、涅槃が一日に十回、二十回あるようにすれば、抑圧される時間は少なくなり、抑圧されない時間が多くなります。抑圧されていない部分を拡大すると、すぐに一日二十四時間、世界の抑圧なしに過ごすことができ、「一日中涅槃にいることができて良い」と見なします、一か月に何日も、何日をもっと増やして一月中になり、そして一年の何か月にもなります。

 つまりこのようにどんどん増やせばいつか満杯になり、二度と変化しなくなるのは確実です。だから時々心に現れる最高のダンマの効果に関心をもって、理解しなければなりません。関心がなく理解できなければ、いつでも味見をさせるために涅槃が現れているのに、興味がないので、惨めな愚か者、あるいは惨め以上です。

 これです。ロークッタラダンマと呼ぶものは世界に支配されていない心の状態で、時々あると良く考えて見てください。それは本当の涅槃の一種で、ただ一時的なだけです。このように一時的なものをパーリではサーマージカンと言います。サーマージカンとは「一時だけ」「永遠でない」という意味で、一時的な物でもないよりマシです。

 まったくなければ死んでしまい、あるいは狂って死に、静かな時間、休む時間が多少あれば狂って精神面で死にません。身体面も同じで、休まず働いて休憩しなければ、死ななければならないに違いありません。だから適度に身体の面の休息がなければならず、そうすれば死にません。

 心の面も同じで、休息あるいは適度に休息する機会がなければならず、そうすれば狂いません。少なくとも頭痛にならず、神経の病気になりません。しかし私たちはもっと欲しいので、そのようである時間が拡大して全部が繋がれば、一時でなく、二度と一時的でなくなれば、このように本当の涅槃、完璧で確定的な涅槃です。

 すべてはみなさんが良く観察して、今ここにある種類のロークッタラダンマというものを見つけていただくよう願って話す以外に、何のためでもありません。わずかなの見本でも、こういうのでもまだ良いです。いつでも「今ここ」の、まだ死んでいない、生きている時の話を主張させていただきます。このように話すのは、違うように話してきた昔からの人の感情を妨害し、逆らいます。

 彼らはこれらのものを「ずっと先の未来の生」の時にし、何十生、何百生、何千生先か知れず、私が「生きているうちに」と話すと、「狂っている」、あるいは「自慢する」と非難します。彼らが何と言おうと、彼らの勝手です。私たちは何としても本当に利益になるものにしましょう。だからまだ生きている「今ここ」という説明を、少し多く聞いてください。

 仏教の重要な話は「今ここ」、生きている時だけでなければならないと説明して見せる論拠は最高にたくさんあり、そして最高に重要な話は、世界に関わる話です。ブッダは「この世界も、世界を生じさせる原因も、世界の消滅も、世界の消滅に至らせる道も、如行は背丈二メートルばかりの、まだ想と心がある体にあると規定しました』と言われています。

 みなさん、よく考えて見てください。つまり先ずは良く聞いて、「世界全部が、背丈二メートルばかりの身体の中にある」とブッダがこのように言われたのはどういう意味か、良く考えて見なければなりません。私たちはブッダを尊敬しているので反論できません。ブッダがどのように言われても反論できません。

 しかし子供がこのように言えば「バカが! 世界全体が二メートルの身体にあるはずかあるか!」と大声でどやしつけます。それだけでなく、ブッダは「世界全体を生じさせる原因も背丈二メートルの身体の中にある」と言われ、そして「世界が残らず消滅することもこの背丈二メートルの身体の中に見つけることができる」と言われています。

 おまけに四番目の話は「世界の消滅に至らせる実践も、この背丈二メートルの身体の中にある」と言われています。しかし「まだ生きている体」と、繰り返し主張されています。

 「サンニャー(想)と心がある」というのは、まだ生きている身体の中という意味で、死んでいる身体なら、これらのものは全部ないということです。まだ生きている背丈二メートルばかりの身体に世界があり、世界を生じさせる原因があり、世界の消滅があり、世界の消滅に至らせる道があるとはどのようか、考えて見てください。

 それは私たちが話し、理解しているような普通の話のようではありません。私たちはたった二メートルの体に中にある種類の世界を知らなければなりません。そうすれば世界の消滅、つまり背丈二メートルだけの身体の中にある涅槃を知ります。範囲と時は生きている時だけで、死んだら話す必要はありません。

 このブッダバーシタを根拠に「死んだ人の話はする必要がなく、生きている人の話だけを話す」と主張することができます。「ディッタダンマ」という言葉は「自分が見たダンマ」という意味で、自分はまだ死んでいないので自分で感じることができます。まだ死んでいないので、自分で理解でき、感じることができ、見ることができ、自分で味見できます。

 心の話はこのようでなければならず、私たちもそのようにしたいです。ブッダもそのように「サンディティコ アカーリコ パッチァッタン ヴェーディタッポー」と私たちが毎日唱えている文句で主張されています。サンディティコ=その人が自分自身で見るべき、アカーリコ=時間に関わらず、正しい行動があればいつでもその時結果があり、その人だけが見える話です。

 次にロークッタラの話は世界の消滅の話ですが、心の世界を意味し、苦である世界、あるいは煩悩である世界で、大地である世界ではありません。「世界に関わる話はどの話も、背丈二メートルの身体の中にある」と言われたのは心に関わる話を意味するので、世界は背丈二メートルの身体の中にあることができます。だから私たちは、今ここで必ず手に入れる希望があります。あるいは希望すべきです。

 誰もが認識しなければならない項目は「今ここで世界の抑圧の上にいたい」とあります。これを望まない人はまだ宗教の価値を知らず、まだ宗教を知らず、ブッダ・プラタム(ブッダの教え)・僧を知らない人で、知っているのは口だけ、名前だけです。

 知っていてもオウムや九官鳥のように口で唱えて祈願するだけで、本当のタンマを知り、本当のブッダ・プラタム・僧を知っている人は「私は今ここで世界と呼ぶものの抑圧より上にいることができる」という信仰があり、希望があります。


世界は恐ろしい物と知るべき
 次に私たちはそれがどれだけ嫌らしく恐ろしいか知るために、大部分である世界の抑圧について思うべきです。大地しかないと理解しているような世界と呼ぶもの、その大地は世界の皮、あるいは世界と呼ぶものの基礎、土台、敷物にすぎません。私たちは大地を世界と見ることでちょっと愚かになります。

 世界中すべての大地は世界本体ではないと見なすべきです。その中に何でも入れてあるので、皮と呼んでも良く、敷台、あるいは何かを入れる碗やどんぶりと呼んでも良いです。だから大地について話す時、それを世界と考えてはいけません。大地は世界の皮にすぎません。大地の中、あるいは大地の上に何があるでしょうか。山があり、木があり、動物や人までいる、これらは世界と呼ぶものの肉や皮です。

 次に、私たち人はまだ人でなく人の皮にすぎず、人本体は人の中にある人の心でなければなりません。そうすれば人と呼ぶことができます。だから心と呼ぶものが混乱させる犯人です。幸福になる、苦になる、あるいは静かに、あるいは混乱になるなど、何でもいろいろ、この心にに関わっています。

 ブッダが心を世界と呼ばれたのは、愚かな人が大地を世界と呼ぶより正しいです。大地には何があるか、その中に何があるか、その中に何があるかを最高に重要なものまで順に熟慮すべきで、そうすれば、世界の中にいるものの心である状態が主犯と見えます。

 人の心の中に入っている物は何でも、それが人の世界で、人の心の中に入っている苦が世界です。畜生の心は人の心と遠く隔たりがあり、人間のように世界と呼ぶものをたくさん取り込むのを認めません。だから世界に関わる問題は、畜生の心の中より人の心の中にたくさんあります。

 人は心があり、そしていろんな話を心に取り入れる入り口があり、目・耳・鼻・舌・身体、あるいは勝手に考える心、合わせて六つの方向があるので、心を妨害する話が簡単に、たくさん入ります。入口が六つもあるからです。

 世界が入って来て人間の心を抑圧する入り口を彼らは「門」と呼び、六つあります。つまり目・耳・鼻・舌・体・心は世界がどっと流入するのを放置する門で、これが問題です。そして問題は、賢さが足りなければ抑圧しに来たものの威力下に落ちる点にあります。

 人が十分賢ければ、人の心が十分賢ければという意味ですが、入って来たものが心を抑圧できないので問題はなく、座って話して時間を無駄にし、無駄に疲れる必要はありません。今問題なのは、私たちの心は、心に入って抑圧する物と闘って防ぐことができない点に本当にあります。

 結果は、私たちは時々苦があり、時には慣れて苦と感じなくなるほど苦があり、それ以上に苦を幸福と見てしまう人もいます。だからそのように見る人は、話はそれで終わり、仏教に関心を持つ必要はありません。

 私たちはなぜ入って来て抑圧する物の威力下に陥っているのでしょうか。それは心、あるいは自分自身が愚かだからです。愚かだから入って来て私たちの心を抑圧する物に執着し、何かが入って来て愛させれば愛し、何かが入って来て嫌わせれば嫌い、結果や儲けを得るために来るものを愛し、あるいは執着し、損や赤字にさせるものにも執着します。

 これを「どの角度で来る何でも受け入れ、得でも損でも、受容でも拒否でも、すべてに執着する」と言います。要するに positive な愚かさ、あるいは negative な愚かさで、問題にするために、心を重くするために受け入れるだけで、得でも損でも何らかの観点の苦があります。

 たくさん得をすれば心配で苦になり、たくさん損をすれば残念で苦になり、このように執着すれば得ても損でも問題になるだけ、どんな場合にも苦があるだけです。

 「俺はお前に執着しない」と言われたようなブッダ式の本当に賢い心があれば、苦は支配できないので問題はありません。すべては心の話であり身体の話ではないとハッキリと見ることができます。心あるいは精神の話であり、問題は精神あるいは心の問題です。

 精神あるいは心の話は今あり、ここにあり、非常に頻繁に繋がってあり、昼も夜も次々に変化しています。私たちが昼も夜も問題は今ここにあると気づいた時、あるいは見えた時、死ぬ時に問題解決をするのは狂っているでしょうか。善人でしょうか。あと何百生、何千生すれば問題が解決すると夢中になって考えていれば、こういうのは何百倍、何千倍狂っているでしょうか。

 問題が今ここにある時に今ここで解決を考えないで、死ぬ時に解決してもどうにもなりません。今ここで心は世界と呼ぶものに抑圧されているので、ここで何としても勝たなければなりません。夢中になって来世のことばかり思ってはいけません。

 今述べたすべては、来世の話を信じるのを止めるよう教えるのではなく、来世あるいは来来世を誰が信じても信じなくても自由ですと、もう一度言わせていただきます。誰が信じても良いですが、今ここの方を重要な「生」と見てください。問題はここにあり、苦はここにあり、ここで炙られているので、これらの問題はここで解決しなければならないからです。

 次にそれは、私たちがここでそれらの問題を全部解決できれば、来世まで残る問題は何もなく、来世があと何百何千生あっても、問題は何も残っていない点が素晴らしいです。私たちはこの種の問題、同種類の問題をこの生で、ここで完全に解決できるからです。

 だから来世ばかり思って時間を無駄にしないで、今ここ(現世)で一生懸命何かをして、今ここで終わらせれば、来世は自分の望むようになり、現世でできただけ来世でもできると保証できるということです。

 夢中になって来世に先送りすれば何もしないので、苦はずっと残り続けます。こういうのはどれほど愚かな人でしょうか。私たちの先祖は「善人は近くで商売し、狂人は遠くで商売する」と言いました。

 このようにサティを喚起する言葉はこのような場合にも使います。この言葉は「涅槃でも何でも、未来の何百生先か分からない生に望んではいけない。ここで今実現する努力をしなさい。少しできただけでも良い。まだ本物で、本当に手に入れ、本当にサンディティコ アカーリコ パッチャッタン ヴェーディタッポーになるのでまだ良い」という意味です。

 次に少しできて見本になれば、自分はもう少し、二種類、三種類できると確信し、何種類にも多くなり、その結果継続し、継続します。これが世界の抑圧がない空の心を長くすることです。世界に抑圧される部分は短くなり、時には現れない日もあり、時には現れない月もあり、幾らもしないで完璧な結果、つまり世界の抑圧が完璧な空になります。

 これが今日話した最高に重要な項目で、一心不乱に自分の心を見て、そしてどんな状態にある心か、世界に抑圧されている状態か、あるいは世界に抑圧されていない状態か、心と呼ぶものを知ってください。私たちにある物、関わる物、使っている物、食べている物、消費している物は何でも、それが私たちを抑圧する状態にあるか否か、詳しく見なければなりません。

 これは本当の話でなければならず、お金、荷物、財産、妻子でも何でも、私たちに今ある何でも、そのいろんな物は自分の心を抑圧する状態にあるか、何も心を抑圧しなければ問題はなく、天人より徳があると見なします。あるいは本当にそのように暮らしていれば、自覚しない完璧な涅槃と見なします。

 本当に抑圧がなく、すべてに冷静で正常な気分でいられ、いつでも苦のない利益のある振舞いをしていれば、それをロークッタラと捉えてください。あるいはそれ自体が涅槃です。それ以上何も望まないでください。

 反対にそれらの物があり、あるいはしょっちゅう心を妨害する状態で私たちと関わるなら、それは解決しなければならない問題、片付けなければならない問題と捉えてください。だから原因を知り、二つのもの、つまり世界に支配されている状態が一つ、世界に支配されていない状態が一つ、この二つを、日常生活に本当にあるように最高に良く知らなければなりません。

 そうすれば私たちもロークッタラ(出世間)と呼ぶものを簡単に理解できます。今気づかないで自分の肩を持つことだけが心配です。非常に愚かなので自分の肩を持っていると気づかないでまったく違うことを言い、真実と一致せず、真実にならず、話が通じないからです。


 凡人はまだ始終精神面の監獄に繋がれている
 一般の教え、あるいはこの世界で教えにしなければならない道理で捉えれば、通常凡人はまだ能力がなく、徳行がなく、美徳が十分でない心があるので、常に四方から世界に抑圧されていると見なし、常に精神面の監獄に繋がれていると言います。

 「終始」というのは「終始苦に堪えなければならない」という意味ではなく、「執着している間中堪えなければならない」という意味です。本当の刑務所にいる罪人が「自分は刑務所にいる」と感じれば苦になり、その人が寝てしまえば苦と感じないのと同じです。

 あるいは何かをしていて、何かで遊んでいて、何か他のことを考えていて刑務所にいることを忘れていれば、身体は刑務所の中にあっても、その時間は刑務所に入れられている時間ではありません。人間はそのような状態があり、終始監獄に、精神的な監獄、心の監獄、世界と呼ぶものの監獄に繋がれています。世界と呼ぶものは、感覚や考えがある動物の心を掴んで世界の監獄に入れる物です。

 世界と呼ぶものはタンマ語でカーマローカ(欲界)、ルーパローカ(形界)、アルーパローカ(無形界)の三つに分類でき、時にはカーマバヴァ(欲有)、ルーパバヴァ(形有)、アルーパバヴァ(無形)と言い、どちらでも同じです。カーマローカと言えば欲である世界で、ルーパローカと言えばカーマには関わらずルーパダンマだけの世界で、アルーパダンマと呼言えば形のないものに関わる世界でカーマには関わりません。
 
 一番の監獄はカーマ(愛欲)に関わる世界で、これは最も低い世界、心がまだ自然の威力下に最も多くあり、本能あるいは自然に勝つ知性がありません。これは誰も非難する人はいませんが、本能のままになる話と見なします。女性、男性、若者、娘も避けられないように必ずそのように感じさせる本能の感覚で、異性間の味に関わる話を崇拝します。

 その人の身体の中にそのような、このような感覚を生じさせる義務がある腺があるので、異性間の話である感覚が生まれ、その腺が作る感覚の威力が終わるまで抑圧され、それに従って行動します。しかしこういうのは幾らでもなく、それ以上に、人が異常に促進させて際限なく異性の話に狂わせます。

 時々それらの腺が熟すにともなって性に関わる話の感覚があるなら、問題は今のように多くありません。今は昼も夜も、一月中、一年中、四六時中心の渇きの話になったので、このことに関わるたくさんの悪業の結果を受け取ります。

 性に関わる話を一つの部類にしてカーマローカ(欲界)と呼び、愛欲の威力下に落ちている人の世界で、畜生より人間の方が多いです。考えるのが得意で、異常な発明が得意な人間はいい気味で、愛欲に関わる苦を畜生より多く受け取ります。

 畜生は性の本能の感覚は人間と同じですが、本能の要求以上に拡大させて増やさないので、畜生の異性間の問題は少ないです。人は拡大させて増やし、欲界の天人は更に多く、その結果愛欲で呼吸する動物になりました。すべては彼らがカーマローカ(欲界)、あるいはカーマバヴァ(欲有)と呼ぶある種の動物、特に年齢の若い人の魂を収監する監獄です。

 二番目の監獄はルーパローカ(形界)、あるいはルーパバヴァ(形有)です。愛欲に関わる話に疲れたら、あるいは愛欲の話に飽きたら、精神の監獄である二番目の監獄、つまり愛欲に関わらなくても、執着の基盤である形のある物に関わる話です。普通の人と関わりがあり、簡単に見え、庶民に多いのは、直接愛欲に関わらないいろんな財産という意味です。

 私たちはあれこれ美しい物がなければならず、当然いろんな用品があり、食器も食べ物を入れて食べるためにだけあるのではなく、心を捕え目を奪う美しさのためにあり、それを家中に飾ります。食器の話は芸術的に美しいだけでなく、骨とう品としての価値もあります。他にも愛欲に関わらない、直接性に関わらないいろんな物もまだなければなりません

 。家を飾らなければならない人、、ベランダを飾らなければならない人は、家がこれ以上どう豪華にできるか分からないほど豪華でなければならないので、人と同じにする愚かさです。どのような家を建てれば顔が立つかと、この部分に力を注ぐのが流行っています。これを「ルーパローカ(形界)、あるいは愛欲に注目しないルーパバヴァに夢中になっている」と言います。

 愛欲の話が関わってくればカーマバヴァ(欲有)の話で、カーマローカ(欲界)も含まれますが、年寄りが植物に夢中になり、飼育する動物に夢中になるなどルーパダンマ(形のある物。つまり物質)だけの話、蔦などの美しいものに夢中になる話も、こういうのは非常に夢中になり、若い異性の話に夢中になるように非常に熱中します。こういうのを彼らは、ルーパバヴァである部分の精神の監獄に繋がれると言います。

 三番目の監獄。次に二番目の監獄から出ることができてもまだ三番目の監獄、つまり形がなくても良い物、例えば名誉明声など心で感じる概念だけのものを意味するアルーパバヴァ(無形有)、あるいはアルーパローカ(無形界)が待っています。徳や善と呼ぶものも注意してください。同じだけ惑溺する基盤です。

 名誉に惑溺する人たちは死も受け入れます。こういうのは非常に執着するからです。あるいはそれ以上に静かに黙って何も妨害がないだけを好んでいれば、それだけの幸福に陶酔します。そういうのもこの項目に含めなければなりません。「普通の人がなる」と言います。

 高くなってルーパバヴァ(形有)、アルーパバヴァ(無形有)の話なら別の説明をします。ルーパバヴァは、形があるものを感情(心が捉える概念)にするサマーディから生じた幸福に恍惚となり、アルーパバヴァは形がないものを感情にするサマーディから生じた幸福に恍惚となると説明します。しかしどのよう話しても、どれだけ話しても、先ほど説明した三つの意味に集約され、三つのものに執着します。

 三つのものとは異性、五欲の話が一つ、それから純粋なルーパダンマ(形がある物。物質)が執着の基盤である物、これが一つ、そして形がなく、明声名誉などのようにナーマダンマ(抽象物)にすぎないもの、これが一つです。この三種類をカーマバヴァ(欲有)、ルーパバヴァ(形有)、アルーパバヴァ(無形有)と言い、時にはカーマローカ(欲界)、ルーパローカ(形界)、アルーパローカ(無形界)と言います。

 外面を見ると、それは魂を閉じ込める監獄であり、格子であり、内面を見ると、この監獄は常に深い所にあって心を抑圧し、苦で悶々とさせる物です。だから心が日常的に抑圧される状況に落ちる話は、述べたような三つの話から生じると良く注意してください。人間は畜生より劣ってはいけません。畜生がカーマローカ、ルーパローカ、アルーパローカの話で苦になるのは、人間と比較にならないほど少しです。

 愚かな動物でも、何も知らない愚かなレベルにいても、無用の苦がないという点で人間より優れています。人間は必要のない部分がどんどん拡大し、どんどん増え、どこで終わるか、どこで満足するか分からないほどなので、精神の監獄、鉄格子に繋がれているので苦が多いです。だから精神面の監獄、鉄格子に繋がれていると言うことができます。

 述べてきたのは、この心は監獄から解脱できない三つの世界に沈んでいる心で、そして今ここで、死んでからではないことを忘れてはいけないと外から見た簡単な例です。「今ここで精神の監獄に繋がれている」といつでも思っていなさい。だから今ここで監獄から脱してしまわなければなりません。監獄からの脱出を、百生先の未来に先送りしてはいけません。それは惑溺の話、あるいはモーハ(迷い。痴)や無明があり過ぎる話です。


世界の監獄にいることと世界からの脱出の様相
 次に世界の監獄にいる様相と、世界から脱出する様相を詳しく話します。直接ブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)に依存するのは、ブッダがハッキリと言われている言葉があるからです。

 ブッダは心を世界に熱中にさせる執着する物について詳しく話され、そしてまだ、ブッダが探求された重要な話があり、その結果この監獄から脱出してしまう方法を発見されたので、「だからサンマーサンブッダであると宣言した」と言われています。

 みなさん、このブッダバーシタを聞いて見てください。小部のティカニバータ、第三パンナーサ、サンボーディヴァッガの第一経に、ブッダが比丘たちに話されて言葉があります。

 『比丘のみなさん。大悟する前、私がまだ大悟する前、まだボーディサッタであった時、この世界のアッサーダ(魅力)は何だろう、この世界のアーディーナヴァ(害)は何だろう、この世界のニッサラナ(出る道具)は何だろうと考えました。

 最後に私は、何かに依存して生じるこの世界の幸福と喜びが世界のアッサーダであり、そしてこの世界が不変でなく、苦であり、当たり前に変化することが世界のアーディーナヴァであり、その世界のチャンダラーガ(欲貪)を排除してしまえること、捨ててしまえることが世界のニッサラナであると明らかに見えました』。これがブッダが言われた言葉です。聞いて意味が分からない人がいるかも知れないので、これから説明しなければなりません。

 ブッダが大悟してブッダになられた時、心の中で「この世界の何がアッサーダ、つまり魅力あるいは撒き餌だろうか」という問題を立て、最後に「何かに依存して生じる幸福、あるいは喜びが世界の魅力、あるいは撒き餌だ」と発見されました。これば感情もことで、心に幸福や喜びを生じさせる形・音・臭・味・接触・考えなどがアッサーダ、つまり世界の魅力です。

 「世界中どこであろうと、人間が欲しがる物である点が重要」と、世界の説明をします。人間が欲しがる物とは、人間の心に幸福や美味しさを感じさせるもので、目で知る話も、耳で、鼻で、舌で、体で、心で知る話でも、それは世界の魅力であり撒き餌です。

 理解すれば、それは至る所にいっぱいあると見ることができます。つまり餌、あるいは世界の魅力と呼ぶものは至る所にいっぱいあります。ブッダはこれが世界のアッサーダだと、つまり撒き餌、あるいは世界の魅力と発見したと言われています。

 次は何がアーディーナヴァか、つまり世界の低劣な害かで、「それは不変でなく苦であること、そして当たり前に変化すること」と発見したと言われ、これがアーディーナヴァ、つまり世界の低劣さです。

 「何がこの種の世界から出てしまう道具か」は、「チャンダラーガ(欲貪)を消滅させてしまうこと、世界にあるチャンダラーガを捨ててしまうことが世界から出てしまうものである方便」と言われています。チャンダラーガとは、味つまり世界のアッサーダ(魅惑)に恍惚となることに満足して欲情することです。

 簡略にこれだけ説明してきたので、世界に沈んでいることは、世界の魅力あるいは誘惑するものに沈むことと、ぼんやりと見ることができます。世界の上にいること、世界から脱すことは、世界の魅惑的な物に対する喜びや欲情を消滅させることです。

 ブッダは続けて、ブッダ自身について『比丘のみなさん。私がまだ世界のアッサーダ(魅力)、アーディーナヴァ(低劣な害)、そしてニッサラナ(出る方便)を真実のままに明らかに知らない時は、私はまだ動物群の天人界、悪魔界、梵天界、天人にも人間にも、世界のアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(無上正菩提智)を悟ったと宣言しませんでした』と言われています。

 よく聞いて見れば、更にブッダの心を、つまりブッダはどれだけ正直な方か良く知ることができます。ブッダは『何が撒き餌か、あるいは世界の魅力か、あるいは世界の低劣な害か、あるいは何が世界のこれらの物から出てしまう道具かをまだ知らない間はずっと、その間中、まだすべての世界のブッダであると宣言しませんでした』と言われています。

 すべての世界とは天人界、悪魔界、人間も、天人も、サマナもバラモンです。どの世界にも撒き餌があり、アッサーダがあり、このように同じという意味です。まだこれらのものを知らなければ、あるいはこれらのものに勝てなければ、自分はサンマーサンブッダ(正覚ブッダ)であると宣言するどんな権利、あるいは正しさもありません。私たちは、世界に熱中していることに関わるような、あるいは世界から脱出するような状態のブッダを知らなければなりません。

 ブッダは続けて『比丘のみなさん。世界のアッサーダ(魅力)、アーディーナヴァ(低劣な害)、そしてニッサラナ(出る方法)を真実のままに明かに知った時、その時私は、この世界のアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(無上正菩提智)を悟ったと、この世界と、天人界、悪魔界、梵天界、天人と人間、サマナと、バラモンのすべての動物群に宣言しました』と言われています。

 これです。みなさん良く聞いてください。ブッダは、世界に熱中していること、そして世界から脱出してしまうことを知らない時は、まだブッダであると宣言しなかったと主張なさっています。最後に知り「今私の脱出は後退しない」とまで知りました。「ヴィムッティ(解脱」」つまり監獄から出るという私たちの解脱は、先ほど話したように後退しません。つまり二度と監獄に戻りません。

 そして「この生は最後の生」と言い、俺、俺のものというアスミマーナ(我慢)の発生はこれが最後で、その後は二度と生じないという意味です。新しく生まれることは、二度とありません。ブッダはすべての問題に対する実践を現世でしたので、この生を最後の生にすることができ、そして二度と生まれることはありませんでした。再び生まれることだけを望んでいれば、この世界から解脱する術はありません。

 ブッダは続けて、アッサーダ(魅力)の探求について『比丘のみなさん。私は世界にあるいろんなアッサーダを探求して、世界のアッサーダである物は何でも、私はそれを体験し、世界のアッサーダがどれだけあっても、私はあるだけのアッサーダを智慧で良く見ました』と言われています。

 これは、撒き餌、あるいは世界の魅力の部分はどのようか、そしてどれくらいあるかという意味で、ブッダは論理学の言葉を「どのようか」そして「どれだけ」の二語を使われています。それで十分です。それはどのようにあり、そしてどれだけあるかを探求され、どのようにあり、どれだけあるか全部発見され、その結果智慧で明らかに見られました。

 アーディーナヴァ(害)になると『私は世界のアーディーナヴァを探求し、世界のアーディーナヴァである物は何でも、私はそのものを体験し、世界のアーディーナヴァがどれだけあっても、それらのアーディーナヴァを、私は智慧でよく見ました』と言われています。これは世界の低劣さ、世界の凶悪さ、世界の危険がどのようにあり、そしてどれだけあっても、あるだけそのように智慧で明らかにご覧になられたという意味です。

 ニッサラナ(出る方便)の話では『私はニッサラナ、つまり世界から出てしまう道具である方便を探求し、世界のニッサラナである物は何でも、私はそのニッサラナを体験しました。世界のニッサラナがどのようにあっても、私はそのニッサラナを智慧でよく見ました』と言われています。

 世界から出てしまう方便、ニッサラナについて、どれだけあると言う必要はありません。一つしかないからです。つまりマッジマパティパダー(中道)、あるいは聖道、あるいはすべての正しい実践、世界から出てしまうものは一種類しかありません。

 次にブッダは説明の状態で『比丘のみなさん。もしアッサーダ、つまり世界の魅力がこの世界になければ、すべての動物は世界に夢中になるべくもなく、世界にアッサーダがあるから、すべての動物は世界に夢中になります』と言われています。これは何も深遠ではありません。つまりこの世界にアッサーダがあるから、撒き餌あるいは魅力があるから、すべての動物は世界に夢中になります。世界にアッサーダがなければ、すべての動物は世界に夢中になりません。

 説明の言葉はまだあります。『比丘のみなさん。世界にアーディーナヴァ(低劣な害)がなければ、すべての動物が世界に倦怠するべくもなく、世界にアーディーナヴァがあるから、すべての動物は世界に倦怠します』。これは、世界の低劣な害、あるいは危険がなければ、すべての動物は世界に厭きることを知らないと考えるべきです。世界の凶悪さが頻繁に痛みと懲りること教えるのを、私たちは喜ぶべきです。思い通りになってうっとりすることしかなければ、人は世界に厭きることを知りません。

 他の経にも同じように述べているのがあります。縁起の話で、苦が生じる原因はどのようかについて、「苦が十分生じると、その苦が転げ回って滅苦を探求させる」と話され、そしてサッダー(信仰)があることについて「すべての仏教教団員の信仰は、苦が締め付ける威力によってある」と話されています。

 聞くと、苦が締め付けなければ、ブッダを訪ねて駆けて行かないという非難のようです。世界の人はこのようで、本当の信仰も何もなく、苦が締め上げるから、駆け込んでブッダ・プラタム・僧を信仰し、助けてもらいます。聞くと悪口のように聞こえます。それとも私たちが実践しなければならない真実の基礎である真実。そういうこともあります。

 実践の話なら、私たちは苦を良く知り、苦を良く理解する努力をしなければなりません。良く理解しなければ一時迷って愛して苦を受け取り、(路傍に落ちている)車軸を蓮の花と(無価値な物を価値がある物と)見るのは、厭きることを知らないからです。

 ここでブッダは「アーディーナヴァ、あるいは世界の凶悪さはたくさんあり、動物にいつの日か倦怠と懲りることを感じさせるだけ十分ある」と話されています。だからブッダは「世界にアーディーナヴァがあるから、すべての動物は世界に厭きることができる」と言われています。

 次に『比丘のみなさん。世界の中にニッサラナ(出る方便)がなければ、すべての動物は世界から出て行くことができませんが、世界にニッサラナがあるから、すべての動物は世界から出ることができます』と話されています。これを普通の言葉で話すと、世界から出て行く道、あるいは方法があるから、世界の動物は出て行くことができ、道あるいは方法がなければ、どの動物も苦から出て行くことはできず、永遠に苦と共に暮らすと言います。

 これも苦から出ることができる道具であり方便である、ニッサラナという本当の仏教の価値です。仏教があるのもこの理由で、つまり苦から出るため、あるいは世界から出て行くためのニッサラナであるためです。


人間はどのように世界に沈むのか、あるいは世界から出るのか
 さて次は人間はどのように世界に沈んでいるか、あるいは世界から脱出するかという重要な内容になりました。

 ブッダバーシタには『比丘のみなさん。すべての動物がまだ世界のアッサーダ(魅力)、アーディーナヴァ(低劣な害)、そしてニッサラナ(出る方便)を真実のままに明らかに知らない間は、その間中すべての動物は、天人と人間も含めたすべての動物群も、サマナとバラモンも、まだ囚われている、まだ沈んでいる、まだ脱していない、まだ世界から、天人界、悪魔界、梵天界からも脱していない心があります』と言われています。

 これは世界に沈む部分で、世界に沈み、そしてどの世界にも、人間界、天人界、悪魔界、梵天界にも夢中になります。人は天国へ行きたくて徳を積む、こういうのは天人界に夢中になり、人間界にあるものだけで満足しません。人間界にあるいろんな物も少なくなく、すべてはこの世界のため、そして他の世界のための執着の基盤です。

 ブッダは『世界の魅力について何も知らず、世界の低劣さについて何も知らず、世界から出る道具である方便について何も知らないから、すべての動物には心がある』とハッキリ言われています。ここを良く聞いてください。身体ではありません。

 『すべての動物は、監獄に囚われているような心があり、まだ強く囚われていて、その世界でなければこの世界と、まだどの世界からも脱すことができません』。詳しく説明すると、人間のように考えれば人間界で、天人のように考えれば天人界で、梵天のように考えれば梵天界で、一日にたくさんの世界が心に生じていると見ることができます。

 ここで、性的な感情に陶酔している時間は天人界のような監獄に繋がれていると説明する時間をいただきたいと思います。

 次に最高レベルの欲情の話のような良いものを手に入れば悪魔界と言い、パリニマミタヴァサヴァッティー(他化自在天)です。悪魔界というのは嫌らしく恐ろしい凶悪な鬼や悪魔の世界と理解しないでください。悪魔界とはパリニマミタヴァサヴァッティーのレベルの、つまり最高の天国の名前で、性的な欲情の絶頂です。

 絶頂というのは、可能な限り何でも便宜を図るために侍っている人がいる絶頂です。耶摩天や兜率天など低いレベルの天国はそこまでに至りません。まだ悪魔界と呼ばない低いレベルの天国は普通に天人界と呼び、欲情面で最高レベルの天国はパリニマミタヴァサヴァッティーを意味し、つまり最高に仕える人が侍っている欲情に溢れている世界です。

 梵天界は欲情が休みで、空っぽで、静寂の中に止まっています。私たちは一時欲情で著しく沸騰し、それから急に衰退して、座って休んで静かにしたくなります。人間はこの世界に一度、その世界に一度と、このようにどの世界にも熱中するので、「天人も人間も、サマナもバラモンも、天人界、悪魔界、梵天界に夢中になっている」と言います。これは世界に沈むことについての説明です。

 世界から脱す話は『比丘のみなさん。すべての動物が世界のアッサーダ(魅力)、アーディーナヴァ(低劣な害)、ニッサラナ(出る方便)を真実のままに明らかに知れば、その時すべての動物は、この世界、天人界、悪魔界、梵天界から、天人、人間、サマナもバラモン、どんな動物にも囚われていない心、出て来られる心、脱出できる心があります』とあります。

 短い語句は同じでも正反対で、つまり倦怠して欲情が緩むくらいで、つまり世界の魅力はどのようか、世界の低劣さはどのようか、そしてそのような話から脱出させる道はどのようかを、真実のままに智慧で明らかに知らなければなりません。つまり心の面の変化があるくらい本気で感じれば、その時心は出ることができます。

 だから他人が教えるのを聞くのでなく、心で見ることができ、そして倦怠と欲情の弛緩が生じるまで本物を知ることで、本当に勉強する以外に道はありません。

 次にこの項目の理解しておくべき細々した話があり、ブッダは『比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンのどのグループも、世界のアッサーダ(魅力)、アーディーナヴァ(低劣な害)、ニッサラナ(出る方便)を明らかに知らない間は、私はそれらのサマナあるいはバラモンを、すべてのサマナの中のサマナと見なさず、すべてのバラモンの中のバラモンと見なしません。更にそれらのサマナあるいはバラモンは、現在サマナあるいはバラモンであることの利益を、最高の智慧で明らかにする行動をしていません』とあります。

 バラモンと自称する人でも、サマナと自称する人でも、この三つの話、つまり世界のアッサーダ(魅力)、世界のアーディーナヴァ(低劣な害)、世界のニッサラナ(出る方便)を明らかに知らなければ、ブッダは「その人は本当のサマナでなく、偽のサマナと見なします。それは本当のバラモンでなく、偽のバラモンと見なします。これらのサマナとバラモンはサマナであること、バラモンであることから何の利益も受け取りません」と説明されています。

 「サマナとバラモンであることから何の利益も受け取らないサマナとバラモン」、これは良く聞いてください。比丘、沙弥、清信士、清信女の誰でも、偽のサマナ、偽のバラモンと言い、偽の清信士、偽の清信女も含めることができます。この三つを真実のままに知らないからです。

 反対の部分をブッダは『比丘のみなさん。世界のアッサーダ(魅力)、世界のアーディーナヴァ(低劣な害)、世界のニッサラナ(出る方便)を真実のままに明らかに知っているサマナとバラモンはどの人たちでも、そのサマナとバラモンを、如行はすべてのサマナの中のサマナ、すべてのバラモンの中のバラモンと見なします。更にそれらのサマナとバラモンは、当然現在サマナとバラモンであることの利益を明かにする行動をします』と言われています。

 この文章はさっきと反対で、この三つの話を智慧でハッキリ知った時、その時本当のサマナ、本当のバラモンになり、そしてサマナとバラモンであることの利益を受け取ります。

 次に経が終わる前に、続いてもう少し話された話は『比丘のみなさん。歌を歌うことはプラアリヤ(聖人)のダンマヴィナヤ(法と律。教団というくらいの意味)では泣くこと、踊りを踊ることは、プラアリヤのダンマヴィナヤでは狂人の症状、笑うことはプラアリヤのダンマヴィナヤでは静寝ている赤ん坊なので、歌を歌うこと、踊りを踊ることを厳格に捨ててしまい、みなさんにダンマの喜びが生じ時は、静かにほほ笑むだけになさい』と言われました。

 ここで興味深い三つの話を説かれましたが、どの話も迷っている人と迷っていない人はどのように違うかを説明して見せる話で、迷っている人は世界に沈み、迷っていない人は世界の上に上ります。これは、歌を歌うことは泣くこと、聖人の集団では、歌を歌うことは泣くことと見なしますが、歌を歌うことに酔っている世界の人は、それを泣くことと見ないで楽しく歌うと見ると説明されています。

 聖人たちは歌を歌うことは泣くことと見なすので、精神面の泣くこと、つまり煩悩に抑圧されるので泣くように大声を出して、目を閉じて涙を流している」と説明しなければなりません。

 要旨だけをまとめると、すべての聖人は歌を歌うことは泣くのと同じように恥ずかしく、嫌らしいと見なし、聖人は、踊りを踊ることは狂人の症状と見なします。今世界中が踊りを踊り、彼らは芸術だ、社交の道具だと好んで賞賛し、どれもたくさんの功徳だけがありますが、聖人のヴィナヤ(仏教)では狂人の症状と見なし、しかも精神面の狂人なので、立ち上がって疲れることも考えずに、踊らされるとおりに踊ります。今はほとんど裸のような恰好で踊るほど常軌を逸し、これは今までよりもっと狂人の症状です。

 笑うことは、聖人の集団では静かに寝ている赤ん坊と見なします。これは心の中を生まれたばかりの赤ん坊が布団の上で始終微笑んでいるようにしなければなりません。聖人は私たちが普通に笑うのを「何でも笑い、何でも笑ってばかりいて、何度も繰り返し歯を見せる」と捉えます。

 こういうのを「ここでの笑うことは布団で寝ている赤ん坊の症状と見なす」と言います。それも愚かな、あるいは足りない、あるいはヤクザな話で、ヤクザとは弱いという意味で、年寄りが子供のようになるとこのようです。

 次にその三つのもの、歌うことと踊ることはセトゥガータの行動をするべきです。セトゥガータとは橋を破壊してしまうという意味です。セトゥとは橋という意味で、ガータとは破壊してしまうという意味で、行き来できないように橋を破壊してしまえば、二度と関われない厳格な回避、完璧に捨てることで、これをセトゥガータすると言います。

 一方笑うことは、ダンマで正しいピーティ(喜悦)やバモーダヤ(歓喜)の力があれば、微笑むだけにするべきです。ブッダは「歯が見えるほど笑ってはいけない」と、このように望まれています。

 三つの症状は世界に沈んでいる人、つまり迷っている人、世界を知らない人の迷いを表しています。つまり世界に沈んでいる人の象徴である歌うこと、踊ること、あるいは笑うことです。これは自分で考えても「世界を知らない人だけが踊り、歌い、一日中笑い続けることで世界に迷うことができるが、世界を知り始めればそれは止まる」と見ることができます。

 実践については、今まだ世界に沈んでいれば、自分を抜き出す努力をし、避けるべきことを厳格に避け、捨てるべきことを捨てなければなりません。避けられないことは増やさないで、笑うなどは微笑むだけにします。これが世界に沈むことと、このような方法で世界の上にいることについての説明のたとえ、あるいは見本です。

 最後に『比丘のみなさん。当然三つを嗜むことに十分満足することはありません。三つとは何でしょうか。それは眠ることが一つ、酒類を飲むことが一つ、夫婦である人の仕事、つまり同衾が一つ。この三つを味わうことに十分満足することはありません』と言われています。世界に沈ませるもの、あるいは迷わせる物は、その種の人を心行くまで満足させることを知らない物と説いて見せています。

 寝ること、酒類を飲むこと、異性間の用事をすることによる幸福の追求は、それらの人物にとって満足できないものなので、その状態を世界に沈んでいる状態と見なします。だから満足して倦怠した人は誰でも、世界の上にいる人たちに分類します。この部分の世界の威力はその人を抑圧できず、つまり心は世界の抑圧より上に、述べた三つに満足しないことより上にあります。

 それは今ここの話、現在の話であり、死ぬ時まで待つ必要がないと、私たちもすぐに見ることができます。世界の抑圧の威力より上に行ってしまうことは今ここの話で、そして死ぬまで待つ必要がない話です。年を取るまで待たなくても良いのも最高に良いです。しかし良く熟慮すると、これらのものに常自覚による行動があれば、間もなく倦怠が生じますが、終始惑溺ですれば倦怠は生じ難いと見えます。

 だから常自覚で自分がしなければならないことをするのは、非常に利益があります。つまりその常自覚は知るべきもの三つすべて、つまりアッサーダ=世界の魅力、アーディーナヴァ=世界の低劣な害、そしてニッサラナ=世界から脱す道具である方便を早く教えます。

 最後に説明してきた全部をもう一度まとめると、ロークッタラ、つまり世界の上にいる状態に関わる実践の教えは今ここでなければならず、死んだ時ではないと、常に主張させていただきます。ロークッタラとは「世界の抑圧の威力より上にある心の状態」という意味で、「世界の抑圧の上にある心の状態は、世界が抑圧できない」と捉えてください。

 ここでの「世界」とは、目・耳・鼻・舌・体・心の六方向から心に入って来るすべての物で、人間の煩悩欲望にとって価値がある物、つまり六つの感情です。だからこの世界に価値があり、値打があるのは、六つの感情であるすべての物を六つの方向から心に入れることができるからです。

 今世界で世界中の大地をひっくり返すほど大々的に掻き集めるのは、素晴らしい何かを探すためで、それもこの六つの物、つまりブッダが世界のアッサーダ=魅力、あるいは撒き餌と言われた目・耳・鼻・舌・体・心の美味しい感覚をもたらす物から脱せないと、すぐに見ることができます。

 すべては主犯である心の話だけについて話し、身体の部分は心の威力に従います。心は身体に、心の威力に従って行動するよう命令します。だから心を管理すれば他のすべてを管理できます。カンマの報いの威力で経過しなければならない身体の部分を「残り」、あるいは「一部分」と言い、過去のカンマの結果である一部分の話が多少抑圧しても、それは一部分であり、大部分ではないので何も危険ではありません。最高に抑圧するものは、今ここでの煩悩、あるいは愚かさです。

 社会との関わり、社会の威力、多少関わって来る社会的な抑圧について詳しく見ると、それは過去のカンマの報いと同じで少なく、重大な話と捉えないでください。重大な話は、述べたように煩悩欲望、無明の抑圧です。心がこれらの抑圧より上にあればロークッタラダンマと言い、心が世界の抑圧より上にある状態です。

 次に私たちはプラタムとブッダに正義を与え、私たちがこれらの抑圧するものに勝つことを「不可能な話」と見ないでください。普通は四六時中抑圧しているわけではなく、偶々心が止まる方へ、休む方へ、静かさを求める方へ傾く時があります。

 たくさん砂糖や甘い物を食べると最後には真水を飲みたくなるように、私たちはスッキリしていること、妨害がないこと、黙っていること、静寂、淡白を求めます。心も同じで、それ自体にそのような自然がありますが、心の所有者が愚かで同意せず、心にその方向を向く機会を与えません。

 無明がある心、これが世界のアッサーダが心を支配する機会を与え、あるいは便宜を図り、所有者も一緒に愚かになり、現世では壊す必要も抜く必要もなく、このように放置して腐って棺に入る方が良く、苦を甘受して楽しくしています。

 人は迷って朗らかにし「めいっぱい楽しく飲んで食べよう。止める必要も緩める必要もない。急げ。明日は死ぬかもしれない」と、こういう教義が生まれ、世界の奴隷であることの崇拝が生じ、世界の奴隷であることを崇拝する社会、団体になります。

 これをローキヤダンマ(世俗のもの)と言い、世界と関わっている心の状態で、ロークッタラダンマ、世界の抑圧より上にある心の状態と反対です。この二つを良く知るには、心の面を勉強しなければなりません。そして心に適度な清潔、明るさ、静かさがある時に勉強しなければなりません。

 心を清潔で明るく静かにするに十分な環境にいる時は、最高に勉強して理解する努力をなさい。「あと何百生しなければ世界の上にいられない」と夢中になって考えていないでください。そのように考えるのは考えてばかりいる狂人です。今ここで苦しく、今ここに問題があるのに、死んでからゆっくり問題を解決するのは、考えるだけの狂人です。

 心が自由ですっきりした時間を長くし、心が苦である時間を短くする努力をなさい。そうすればいつか、心が完璧に世界の抑圧より上にいるようになります。ブッダは「涅槃は、背丈二メートルばかりの、まだ生きている身体の中にある」と言われています。まだ生きているとは、今ここ(現世)です。

 ブッダが「まだ生きている身体の中に涅槃を見つけることができ、死んだら見つける方法はない」と時々言われていることを思い出してください。みなさん、ロークッタラダンマと呼ぶもの、つまり心が世界の抑圧より上にいる状態に最高に関心を持って、そして今ここで、今生きている生で、全員が利益を成功させてください。

 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。


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