11.縁起の流れを生じさせない滅苦の実践原則



1971年6月12日

 タンマに関心がある善人のみなさん。今日の土曜談話は、みなさん良くご存知のように「縁起に関わる実践法」と題してお話します。

 パティッチャサムッパーダ(縁起)という言葉は、ほとんどの人にとって奇妙な言葉、あるいは耳慣れない言葉ですが、他の言葉に変えることができないので、この言葉を使わなければなりません。だから慣れた普通の言葉になるまで、縁起という言葉をもっともっと理解する努力をしなければならないのは、みなさんの義務です。

 出家して勉強したことがある人はこの言葉を聞いたことがありますが、全身庶民の人は訳が分からず、そして興味を持たない原因なので、仏教で最も重要な話を理解しません。だから話して、最後には当たり前に理解しているものにすべきと見ます

 この話を話さなければならないのは、仏教の心臓部だからです。

 仏教の心臓部について話す時、ほとんどの人は四聖諦を思い浮かべます。この縁起は聖諦の完全形、つまり全形と理解するので「大聖諦」と呼ばせていただきます。これから説明します。ここでは「縁起の話は大聖諦の話で、仏教の心臓部」と、一度短くまとめさせていただきます。だから非常に理解し合っているものになるまで取り上げて話さなければなりません。

 次に知っておかなければならないものは、縁起と呼ぶものだけで、それは私たち人の中にほとんどいつでもあります。まだ何だか知らない縁起と呼ぶものがほとんどいつでもあり、そして私たちは知りません。こういうのを「それは私たちの過ちで、タンマの過ちではない」と言います。私たちは興味がないから、ほとんどいつでも自分の中にあるものを知りません。それがどのようにほとんどいつでも人の中にあるのか、今話して聞かせます。

 この縁起の話を理解した人は誰でも、自分の苦を消滅させる実践ができます。そして別の見方をすると、誰でもしなければならない義務と捉え、そして助け合って何としても縁起の話を理解しなければなりません。この話を理解しなければならず、そして他人に理解させてやらなければならないのは、私たち一人一人の義務です。これはブッダの望みであり、このようにできればブッダの悟りは不毛ではありません。

 これは四聖諦と同じで、誰も四聖諦を知る人がいなければブッダが大悟したことは不毛になり、何の利益もありません。縁起の話はそれ以上で、十分完璧な聖諦の話という意味です。要するに私たちは力を合わせて、縁起の話を仏教教団員全員に広く知らせなければなりません。これが初等の理由で、略して「なぜ私は大聖諦である縁起の話をしなければならないか」と言います。

 次に縁起の話は何の話か、そしてなぜこの話がなければならないか、何のための縁起か、そしてどんな方法ですればあるかという項目でこの話をもっとはっきり説明します。

1 縁起(パティッチャサムッパーダ)とは何かと問えば、縁起とは、苦はどのように生じ、そしてどのように消滅するかを詳しく教える説明で、苦の発生と消滅は互いに依存し合っている自然の状態があると説いて教えます。天人、あるいは神聖な物、あるいはどこかの何かが苦を作って生じさせ、そして消滅させる必要はありません。

 それは何重にも繋がり合い、そして依存し合って苦を生じさせ、あるいは苦を消滅させる自然の話です。パティッチャとは依存するという意味で、サムッパーダとは一斉に生まれるという意味で、互いに依存し合って一斉に生まれること。これが縁起です。

 もう一部分はここにいる、あるいは輪廻する「動物、人物、自分、私、彼はない」と教える説明です。それは生じて、維持し、消滅する自然に過ぎません。縁起の話を理解すれば、私たちが「俺」と呼ぶ動物、人物、自分、私、彼、はないと理解します。人がこの話を理解できなければ、無明に覆われている自然の感覚や考えのままなので、動物、人物、自分、私、彼がいると感じます。

 これが縁起の話の目的で、このようです。重要な要旨は「苦はどのように生じて消滅するか」と、「その発生と消滅は、互いに依存して生じ、消滅する」、そして「このような様相はどれも動物でもなく、人物でもなく、自分でも、私でも彼でもない」と説明して教えます。

 それ以上に、依存し合って生じて消滅するのは稲光のように強烈で、つまり電光のように素早く強烈です。みなさん、私たちに生じて来る考えは素早くて強烈だと、良く観察して見てください。例えば怒りなどは稲光のように素早く生じ、これを「素早く強烈に生じる心の行動は、私たちの日常生活で苦になる稲光のよう」と言います。

 それが直接縁起の話で、見えれば「実にゾッとする話」、あるいは「最高に恐ろしい話」と感じますが、見えなければ何もないのと同じです。ごく普通の言葉の縁起とは何かと問うなら、苦になるために生じる、私たちの日常生活の中にある電光のように素早く強烈な心の行動と答えます。これが縁起です。

2 二番目の問題は、なぜ私たちに縁起の話がなければならないのかと問う
 私たちは学習と実践のために縁起がなければなりません。今はこの話を知る人が誰もなく、その上まだ誤った見解です。一般の人の誤った見解は、サーティ ケヴァッタプッタ比丘の誤った見解と同じです。

 この比丘は比丘でありながら「タデーヴィダン ヴィンニャーナン サンダーヴァティ サンサランティ、アナンニャン」と信じて主張する見解があり、この比丘は「この識だけが駆けて行き、輪廻し、他の物はない」と信じていました。この比丘は「その識は動物であり、人物であり、そして駆けて行って輪廻する。つまり何度も生まれ、他の物はない」と信じていました。

 その識が動物あるいは人物であり、輪廻する主体と信じることは、縁起の話の真実を知らないからで、だからこのように誤った見解である見解があります。

 すべての比丘がその比丘にこの見解を捨ててしまわせる努力をし、彼が捨てないので、揃ってブッダに奏上しました。ブッダは呼んでくるように言われ、そしてそのような見解があるのは本当かと尋問なさると、この比丘は「そのような見解があるのは本当です」と、つまり「この識が輪廻し、他のものではありません」と答えました。

 次にブッダが「何があなたの識ですか」と質問なさると、この比丘は「イヴァーヤン バンテー ヴァドー ヴェーデッヨー、タトゥラ タトゥラ カラヤーナン パーパカーナン カンマーナン ヴィパーカン パティサンヴェーデーティ」と答えました。「猊下。話すことができ、あるいは何でも感じることができ、そして良いカンマでも悪いカンマでも、すべてのカンマの報いを味わうもの、それが識です」という意味です

 「ヴィンニャーナ(識)は話すことができ、何かを感じることができ、そして後でカンマの結果を味わう」と言うのは、これは更に誤った見解です。

 このように捉えることがなぜ誤った見解なのか、普通の人は聞いて意味が分かりません。誰もが「識はある。そして識はこのようだ」と信じていて、だから普通の人はそのように話して慣れているので、これが誤った見解だと知りません。

 このような言葉は誤った見解です。識は不変の物で、それ自体の中にある物で、ただの縁起の物(パティッチャサムッパンダンマ)、つまり縁起の結果である物ではないと主張するからです。

 本当は識は縁起のもので、実体はなく、原因と縁に依存して加工することが生じ、一時だけ続いているにすぎという意味です。こういうのを「その識は縁起の物であり、縁起の趣旨で実体はないと見せていると見る」と言います。

 次にサーティ ケヴァッタプッタ比丘は実体があると主張し、あるいは「この識は自分であり、駆けて行き、輪廻して行き、あるいはここにいる」と主張し、彼も「話す人、いろんな感情を感じる人、そして善でも悪でもすべてのカンマの結果を味わう人である自分があり、そのような私があり、そしてそれを識と呼ぶ」と主張しました。

 多くの人は邪見と知らずに、一般にこのような見解があるので、私たちには「自分はない。識は自分ではない」と真実を教える縁起の話がなければなりません。識があると言うなら、ただの縁起の物でなければなりません。つまり依存し合って生じ、連なって瞬いている自然にすぎず、どこの何も自分ではありません。だから縁起の話を知らなければなりません。

3 何のために縁起を知るのか 
 それは「人はいる。人が生まれる。人はそれらのカンマで経過する」という誤った見解から脱すため、そして完璧に滅苦をする、つまり正しい見解をもつためです。

 「識は自分」という話にまだ迷っていれば、まだ誤った見解で苦があり、そして滅苦はできないので、本当の識の話はどのようか、つまり識は縁起のものであり、縁起の主旨で生じると知らなければなりません。こういうのは滅苦ができ、そして正しい見解、正しい理解があることで完璧な滅苦ができます。

 この項目は「パティッチャサムッパンナン ヴィンニャーナナン」という短いパーリ(ブッダの言葉である経)の教えがあります。識は縁起のもの。つまり互いに依存し合って生じる物で、アンヤトゥラ パッチャヤー ナッティ ヴィンヤーナッサ サムッヴァヴォー、これらの縁がなければ、識の発生はあり得ません。

 これは「識に実体があれば、何の縁にも依存せずにそれ自体で生じることができるべきですが、今実体はなく、あるのは生じさせる縁だけです。しかしそれは感じたり考えたりさせ、この名形に何でもさせることができ、話させ、何でもいろいろできるほど精密なので、それがこの名形の中に、ここで識と呼ぶ自分である何かがあると誤解をさせる」と説明しています。縁起の話はこの利益のためにあり、誤った見解を捨てさせ、そして完璧な滅苦ができます。

4 どんな方法で、どうすれば滅苦ができるか 
 答えは今までと同じで、一般の教えでは正しい実践、つまり正しい生活、あるいは正しい生き方でできると言います。正しい生活とは、明で無明を消滅させることができる生活、つまり知識で愚かさを消滅させる生活です。あるいはもう一度まとめると、四六時中サティがあること、そして特に感情が触れた時にサティがあることです。

 「正しい生活」とはこのような生活、つまりいつでも、特に感情が触れた時、完璧なサティがある暮らしと理解してください。このような生活をすれば愚かさは生じることができず、無明は生じられず、無明を排除でき、残るのは明、あるいは知識だけです。これが正しい生活、苦が生じられない生活です。大きな教えとして縁起の話はこのようです。

1 縁起とは何かと問えば、それは私たちの心の中に日常的に、稲光の形で生じる苦の話を教える説明です。

2 なぜ私たちがこの話を知らなければならないのかは、人は今愚かで、この話を知らないからです。

3 何の利益のために知るのかは、正しく知り、そして苦を消滅させてしまうためです。

4 どんな方法で滅苦ができるかは、縁起の法則で正しく実践する方法で、サティが常に自覚しているので縁起の流れを生じさせません。話はこのように繋がっています。全部合わせて縁起と言います。


間違って教えるから実践できない
 次にまだ凶悪な、あるいはそれ以上の問題があり、それはこの縁起の話が元のパーリ(ブッダの言葉である経)と一致しない、あるいは正しくないと言うような教え方をしている問題で、元の物であるすべてのスッタンタ(経)の中にあるパーリ、ブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)と一致しないという意味です。パーリの中にある元のと今教えているのが同じではありません。

 この項目の誤訳は、元のパーリ(ブッダの言葉である経)は縁起の話を流れのように繋がっている状態で話していて、このような十一の状態の一巡が流れのように繋がっています。今は、この十一の繋がっている状態が三世もの長い時間、つまり過去世も現世も来世も跨ると教えています。このように教えるので何も実践できません。

 元のパーリの教えでは、十一の状態は心に一回煩悩が生じる一瞬の間にあるので、三世の時間を費やす必要はなく、時間は一生も、一年も、一か月も、一日も掛からず、時には一瞬、一刹那だけで縁起の一巡に、苦がある一つの話になるという意味です。

 つまり本のパーリと違って教えることで縁起の話は議論する以外に何の利益もない話になり、元のパーリで正しく教えれば、日常生活の中にある目前の問題と一致するので、最高に利益があります。だから、これからしっかり聞いてください。

 よく理解するには、最初に十一の縁起のものを良く知らなければなりません。十一とは、

① アヴィッチャーパッチャヤー サンカーラー: 無明が縁でサンカーラが生じ、
② サンカーラパッチャヤー ヴィンニャーナン: サンカーラが縁で識が生じ、
③ ヴィンニャーナパッチャヤー ナーマルーパン: 識が縁で名形が生じ、
④ ナーマルーパパッチャヤー サラーヤタナン: 名形が縁でアーヤタナが生じ、
⑤ サラーヤタナパッチャヤー パッソー: アーヤタナが縁で触が生じ、
⑥ パッサパッチャヤー ヴェーダナー: 触が縁で受が生じ、
⑦ ヴェーダナーパッチャヤー タンハー: 受が縁で欲が生じ、
⑧ タンハーパッチャヤー ウパーダーナン: 欲が縁でウパダーナが生じ、
⑨ ウパダーナパッチャヤー バヴォー: ウパダーナが縁で有が生じ、
⑩ バヴァパッチャヤー ジャーティ: 有が縁で生(生れること)が生じ、
⑪ ジャーティパッチャヤー ジャラーマラナン ソーガパリデーヴァドゥッカドーマナッサウパーヤーサー: 生が縁で老があり、死、悲泣、苦しみ、悩みがあり、すべて苦であるものが生じる。

 十一の部分、あるいは十一の症状が依存していると見ることができます。

 十一の部分に依存する状態があれば、縁起の一巡あるいは一本になります。パーリの説明の十一の部分は何も遮るものがなく繋がっていて、初めの二つが過去世にあり、真ん中の八つが現世にあり、そして後の二つが来世にあり、そして一回あるいは一巡が三世の時間を費やす必要はないと見ることができます。

 そういうのは何もできません。別々に分かれているので管理できず、滅苦の実践ができません。だから今私たちは、縁起から、あるいは縁起の話の知識から何の利益も得られていません。縁起の一巡は三世に跨っていて、それで一回と誤解して、間違って教えているからです。

 パーリを観察して見るとそのようでなく、三世も待たずに縁起の一巡が揃い、一回息を止めるだけ、あるいは場合によって二回息を止める、三回息を止めるだけで縁起の一巡が全部揃います。しかし一回息を止めるだけでも一巡りが揃い、三世も待つ必要はありません。


縁起の流れが生じる例1
 私たちの日常生活にどのように縁起があるかという例を上げて聞かせます。小さな子供が人形を落として人形が壊れ、激しく泣き出す、これはどのような縁起か、良く規定して見て、一時説明して聞かせます。人形が落ちて壊れ、一人の小さな子供が激しく泣き出します。人形が落ちて壊れたのを子供が見た途端に、目が形に触れて眼識が生じ「人形が壊れた」と知ります。

 普通はタンマを知らず、何も知らないので、この子には無明があり、人形が落ちて壊れた時、その子の心には無明があります。

 だから無明が加工してサンカーラ、つまり識になる一つの考えや思いを生じさせる威力の一種を生じさせます。

 識と呼ぶものは、人形が落ちて壊れたのを見て「人形が落ちて壊れた」と知る、これが目の識で、目に依存して人形が落ちて壊れたのを見ます。そしてその時無明があり、サティがなく、タンマの知識が何もないので、「サティがなく、無明がある」と言います。だからこの形を苦になる方向に見る識を作り出す威力が生じます。目と、形つまり人形、そして知る識の出会いを合わせて触と言います。

 今目の触がこの子供に生じ、そしてこの触から、詳しく言えば名形である、苦になる準備ができている身体と心が生じます。

 通常私たちの身体と心は苦になる状態になく、それを苦になれる状態に加工する無明、あるいは何かがなければならないので、「名形は今、この事例で生じたばかりと言う」と知ってください。無明が識を作り出し、識はこの身体と心の状態を加工し(変化させ)、苦になる準備を整える義務をするために立ち上がるという意味です。

 そしてその種の名形の中で、この時いつでも苦になれるアーヤタナが生じます。つまり正常に眠れず、そして完璧な触、この場合は苦になれる触があり、そして苦である受があり、そして苦である受は欲、つまり苦の威力で欲望を生じさせ、ウパダーナ(取)が俺の苦と執着し、俺が生じるとバヴァ(有)と呼び、そして満開になるとジャーティ(生)と呼び、そして人形が壊れた話に苦があって泣き、それをウパーヤーサ(憂い)と言い、心の著しい乾きを意味します。

 次にジャーティ(生まれること)の話は広い意味があり、老も死も、何でも含まれています。無明がなければ「人形が壊れた」、あるいは「人形が死んだ」、あるいはそのような何かと捉えず、そしてどんな苦も生じません。今目いっぱい苦が生じるのは、「俺」「俺の人形」というウパダーナが生じるからで、そして人形が壊れ、無明があるので何をしても上手く行かないので泣きます。泣くのは最高度になった苦の症状で、縁起の終わりです。

 この部分をほとんどの人は、タンマの言葉、あるいは縁起の言葉を理解できないので、「彼らは、人は常に生じているものと見なさなさず、あるいは名形が生じている、あるいはアーヤタナが生じていると見なさず、それらはまだ何も義務をしていないので、まだ生じていないのと同じと見なす」という神秘を聞いて理解できません。

 何らかの自然がそれに義務をさせれば、その時生じたと言います。例えば(ほとんどの人は)目は、私たちに既にある、あるいは生じていると見なしますが、タンマの方では、目が形を見て、形を見る義務を行うまで、目はまだ生じていないと見なします。そして形が生じ、目の識が生じ、三つが力を合わせて触と呼ぶものを生じさせ、それからこの触が受、欲望を生じさせ、最後まで次々と生じさせます。

 次にその後この子供が、人形が壊れたことを寝て考え寝て泣いていると言えば、これはマノーヴィンニャーナ(意識)の話になり、チャックヴィンニャーナ(眼識)の話ではありません。つまり壊れた人形について考えるとダンマーラマナ(心の概念)である考えの話になり、そして概念と心が触れるとマノーヴィンニャーナ(意識)を生じさせ、壊れた人形のことを考えます。

 それは名形、つまりその時の身体と心を作り、突然苦になるアーヤタナ(六処)の基盤になる名形に変え、そのアーヤタナは苦の基盤である触を作って生じさせ、ヴェーダナー(受)、タンハー(欲望)、ウパダーナ(取)が生じ、その結果苦になり、人形が壊れて何日も、あるいは何週間も経つのに、再び寝て泣きます。このように繋がって作り出す考えを、「縁起は私たちの日常にある」と言いもます。


縁起の流れが生じる例2
 別の例を上げると、一人の学生が学年末試験に落ちて寝て泣いている、あるいは卒倒したと仮定します。この子は学年末試験の結果を知らせる名簿に自分の名前があるのを見て、あるいは自分の名前がないのを見て試験に落ちたことが分かります。

 彼は目でその発表を見て、その発表には意味があり、ただの形でなくどのようか教える意味がある形です。その子が目で掲示を見ると、名形つまり正常な身体と心を別の状態に変化させる類のアーヤタナを生じさせ、そして苦になる触を生じさせる状態の識が生じます。

 普通にあるアーヤタナは苦ではなく、このように加工されると、そのアーヤタナは必ず苦になり、つまり苦を生じさせる助けになり、欲望、取になるまで継続して、触、受があり、俺が試験に落ち、そして目が発表を見た瞬間、一瞬で倒れます。こういうのを縁起が十一の状態の仕事をすると言います。彼は試験に落ちた俺がいて、著しい苦であり、極めて憂鬱であり、最高に嘆きます。

 その後何時間も経って、あるいは二三日して、彼はこの話を思い出して再び卒倒します。こういうのは同じ状態がある同じ縁起ですが、今回はマノータヴァン(意門)、あるいはマノーヴィンニャーナ(意識)に依存してこのような識が生じ、それから苦になるナーマルーパ(名形)を作り、苦になるアーヤタナを作り、苦になるパッサ(触)、ヴェーダナー(受)を作り、それでタンハー(欲望)があり、ウパダーナ(取)があり、順に苦になるように加工し、ジャーティになり、「俺は試験に落ちた」になると最高に強烈になります。

   
縁起の流れの譬え3  もう一つの例は、ある娘が自分の恋人が他の女性と逢引きをしているのを見ます。人々がこう話しているので、このように下品な言い方をするのをお許しください。これも十の地獄が入ったように胸が苦しいです。自分の恋人が他の女性と逢引きをしているのを見た後の娘の心は、一瞬の間に十の地獄が入ってしまったように苦しいです。

 これは、彼女の目がこの形、他の女性と会っている恋人の形に触れると、それが識を作り、つまりその途端に眼識になるという意味です。それまでこの種の識はなく、あったのは何も義務をしない識で、あるいはないと言うこともできます。次にこの種の識と形と目が一緒になると触になり、さっきまで触はなく、今は触があります。つまり目と形と眼識の出会いがあります。

 触が生じると、それが受と欲望を生じさせます。あるいは識が生じるとこの身体と心を別の種類に変え、それからアーヤタナ、目を作り、苦になる準備が整い、そして触があり、受になり、欲である何かがあり、これは詳しく話しています。苦である受があり、足掻く欲望があり、そして俺! 俺! 俺! 俺はマイッタ、俺は困った、俺は何々だと、このような取があります。

   これが生であり、苦である俺です。苦である類の俺が生を得て生まれ、必ず苦になります。あるいは俺であるだけで、執着してこの生を苦にし、俺の損失になり、このように苦があり、憂いがあり、嘆きがあります。この娘の心の中に縁起の十一の状態全部があります。これを「この縁起が目の系統に生じた」と言います。

 次にこの娘が友達に騙されて、恋人が他の女性と逢引きしていると信じ、こういうのが耳に入り、つまり声が耳に触れ、無明がある耳識が生じ、サティがないのでこの識が名形、つまりアーヤタナになり、苦にする義務のための新しい身体と心を作り、完璧な触があり、その話と一致する受、つまり苦受になり、足掻く欲望があり、執着する取があり、めいっぱい俺、俺のものである有があり、苦、憂い、嘆きがある俺の生になります。

 これを「彼女は耳の系統の縁起の法則による苦が全部揃っている」と言います。

 次にこの娘がその後何時間も、何日もして彼女に疑念が生じるだけで、誰も教えなくても、目で見なくても、いろんな理由で推測して、恋人は他の女性と逢引きしているに違いないと内心で疑念になります。こういうのはマノータヴァン(意門)に生じた縁起で、つまりダンマーラマナ(感情であるもの)がマノー(意)に触れてマノーヴィンニャーナ(意識)が生じ、意識が新しい名形を作り、つまり名形を変え、何もしないただの身体と心を、苦になる身体と心にします。

 この名形から苦にするアーヤタナを作り、苦になる触を作り、苦になる受を作り、そして欲望があり、その受で足掻く欲望があり、取が生じて執着して苦になります。

 これを「この娘のこの時の縁起は意識に依存し、彼女が目で形を見た時、彼女の縁起は眼識に依存し、本当の話でなく友達が騙すのを聞いた時は耳識に依存し、そして自分で疑念を抱いた時は意識に依存する」と言います。これは、それは他のアーヤタナに依存することもでき、そして同じように苦になると説いています。

 一瞬で、縁起が苦になる回路になり、一巡、あるいは十一全部の状態が揃い、あるいは嫁が姑の顔を見た瞬間、胸が詰まって悶え苦しむ一瞬で、縁起の十一全部の状態が揃うと考えてください。

 彼女が目で形を見ると、この名形を苦になる名形に変化させる眼識を作り、苦になるアーヤタナを作り、苦になる触を作り、受が生じて苦受になり、姑の顔が嫌いなので欲望で悶え苦しみ、それには取があり、有になり、生になり、姑の顔を嫌う「俺」になり、そして苦になります。この話は多少時間が掛かります。どうか我慢して聞いてください。


縁起が生じる例4
 次はあの人この人について話さず、今口の中で美味しい食べ物を噛んでいる人について話します。美味しい物を食べると、普通の人はいつでも必ずサティに欠け、必ずサティがぼんやりし、常に必ず無明があります。どうぞそのように理解しておいてください。最高に美味しい物を食べている時は、美味しさでサティがぼんやりしている時であり、無明も混じっています。

 舌で美味しさを味わっている人の考えは同じ形の縁起の一巡で、味が舌に触れると舌識が生じ、苦になるための新しい名形を作り、あるいは普通の名形を苦になる新しい名形に変化させます。名形が生じると、触を生じさせる準備があるアーヤタナが生じ、そしてこの場合は苦受になる受、あるいはこの場合は幸受である受が生じます。

 美味しければ庶民の言葉の幸福です。しかし美味しさに執着するだけで取になり、苦の方向になり、その美味しさを惜しむのでその美味しさに執着して憂慮し、美味しさに取があります。そしてその美味しさ、あるいは幸福は途端に苦に変わります。俺は美味い! 俺は幸福だ! 俺が幸福なのは本当ですが、熱いので、その幸福に執着するので、心は幸福の奴隷になります。

 これが縁起の絶妙さで、このように深遠です。庶民が話せば幸福と言い、縁起が話せば苦になります。その人の美味しさの部分にも、縁起の一巡が全部生じます。

 次にまだあり、その人が美味しく食べるので、彼は明日も盗んでもう一度食べようと考え、その時その人は泥棒になります。盗もうと考えると盗人のような考えになり、盗人になります。仮に彼が隣の果樹園のドリアンを盗んで美味しく食べ、そして明日もまた盗んで食べようと考えると、盗人の考え、あるいは盗人になり、これは有であり、心の中に一つの有が生じます。

 あるいは美味しい肉を食べて、明日は撃ち殺してまた食べようと考えれば、これは猟師であることが生じます。あるいは本当に美味しさに迷っても、美味しさに溺れた天人が生れ、あるいは心の望みに噛むのが間に合わないと言うほど美味しければ、これは餓鬼です。噛むのが間に合わないほどで、美味しさに噛むのが間に合わないからです。

 噛んでいる間だけの口内の美味しさにも、何種類もの縁起があると考えて見てください。だからその縁起は苦の回路の話であり、その縁起は、執着の威力で生じる苦について教える講義であり、執着する取がなければならず、あれば縁起の意味で苦になると良く観察して見てください。執着に至らなければ、どんなに苦があっても縁起の苦ではありません。


縁起の苦は、いつでも必ず執着に依存する
 縁起の苦は、いつでも執着に依存しなければなりません。百姓が陽に曝され、風に曝されて田んぼで田植えをしていて非常に苦しくても、執着が生じなければ、その「非常に苦しい」は普通の苦で、まだ縁起の苦ではありません。縁起の苦なら、俺に関して焦燥するほど「俺は百姓に生れて不運だ。悪業の報いで汗水流さなければならない」と僻むほど執着しなければなりません。このように考えれば、こういうのは縁起の苦です。

 背中がヒリヒリするほど暑くても熱いと感じるだけ、何かこのように感じるだけなら、こういうのは、俺になるほど執着してなく、まだ縁起の形の苦ではありません。だから良く観察して、そして執着されている苦は完璧な苦、縁起の苦であり、仮に鋭い刃物、カミソリなどで手を切って真っ赤な血が流れても、痛いと感じるだけで執着には至らず、縁起の苦にはならないと、この部分を分けてしまってください。

 二つを混同しないでください。縁起の苦は、いつでも必ず無明から始まり、行-識-名形-アーヤタナ-触-受-欲望-取-有-生と、このように全部揃っていなければならず、そうすれば縁起の苦と言います。

 次に短い教えで言えば、タンマを勉強した人は「内部のアーヤタナが何らかの意味、あるいは価値がある外部のアーヤタナに出合って無明の基盤になる」と理解でき、例えば目の系統は、このように視線を投げると木が見え、石が見え、何が見えても苦はありません。見えた物は、まだ私たちにとって何の価値も意味もないからです。

 しかし虎を見ると、あるいは意味があるもの、女性を見る、あるいは意味があるものを見ると、一つは意味があり、もう一つは意味がないので違います。あるいは雄犬が美人を見ても意味はありませんが、若者が美人を見ると意味があります。つまりその美人は彼にとって意味があります。だから犬が見ることは縁起の話の中になく、若者が見るのは、縁起の話の中にあります。

 今人について、見る人である人について話しています。視線を投げると自然の物が見えますが、意味が生じない、こういうのは、まだ縁起の話はありません。ちらっと見てご覧なさい。周りには木があり、草があり、石があり、それに意味がある場合以外は何も意味はありません。例えばそれがダイヤになる、あるいは神聖な石になる、神聖な木になるように、何かになれば意味があり、そして心の中で問題が生じ、そして縁起になります。

 だからそれは、内部のアーヤタナ、つまり目・耳・鼻・舌・体・心が、外部のアーヤタナ、つまり形・音・臭・味・接触・考えに触れると、必ず意味がある物になり、そして無明の居場所になり、愚かさ、迷いの居場所になると規定します。その時、内部のアーヤタナと外部のアーヤタナが触れ、識を生じさせ、その接触の一瞬に識が作られます。

 そしてそれがサンカーラ(行)を生じさせ、つまり更に変化させるもう一つの威力が生じ、名形をに加工するという意味で、見る人の身体と心を変化させ、すぐに狂う、あるいは途端に愚かになる種類の身体と心になり、いつでも苦になる準備が整います。

 身体と心が変化すれば、目・耳・鼻・舌・体・心も一緒に「狂う」アーヤタナに変化するという意味で、そして狂った触が生じ、狂った受が生じ、狂った欲望、取が生じ、最後に苦になり、生(ジャーティ)で俺になって、生という言葉で目いっぱいの俺になって終わります。次に老、病、死、何の苦でも、突然意味がある物として生じます。俺のものと執着するからです。

 これが日常生活の中にある縁起で、みなさんが「縁起は一瞬で十一全部の状態が揃って生じ、そして一日に何回も生じることができる」と見るに十分です。一回を三世に分けるのではありません。過去世が半分、現世が一部、来世がもう一部と、そのようではありません。

 私は、それはこれほど違う見方があると観察して見たので、今教えられている縁起は、元のパーリ(ブッダの教えである経)に照らして正しくないと信じます。これから話してお聞かせますが、ここで縁起と呼ぶものは述べたようで、そして私たちの心の中を苦にするために電光のように生じるものであり、そして毎日生じるものです。


縁起の話の誕生
 これから縁起の誕生についてお話します。縁起の話がどのように生まれ、どのように誕生したかはブッダを基準に、つまりブッダがパーリの第十経、ブッダヴァッガ アビサマヤサンユッタ ニダーナヴァッガ、サンユッタニカーヤで話して聞かせている話を基準にします。

 パーリ版なら十六巻十一頁二十六項で、その経でブッダは六年間努力されたご自身の出家について話され、しばらくそれをし、しばらくこれをし、そして最後の一時期は今私たちが縁起と呼ぶ話を探求さないました。これはブッダバーシタを読ませていただく方が良いです。パーリには、

 「比丘のみなさん。私がまだ大悟する前、まだボーディサッダーだった時、世界の動物は揃って苦に到達し、当然再び生老病死があり、世界の動物が苦つまり老死から出る道具である方便を知らない時はいつでも、苦から出ることは現れないという考えが生じました。

 比丘のみなさん。何があれば老死があるのだろう、何が縁で老死があるのだろうという疑問が生じました。比丘のみなさん。絶妙に熟慮したので、智慧による考えが生じました。

 この生があるから老死がある。老死があるのは生が縁だから。
 有があるから生がある。生があるのは有が縁だから。
 取があるから有がある。有があるのは取が縁だから。
 欲望があるから取がある。取があるのは欲望が縁だから
 受があるから欲望がある。欲望があるのは受が縁だから。
 触があるから受がある。受があるのは触が縁だから。
 六処があるから触がある。触があるのは六処が縁だから。
 識があるから名形がある。名形があるのは識が縁だから。
 行があるから識がある。識があるのは行が縁だから。
 無明があるから行がある。行があるのは無明が縁だから。

また別の復習をなさいました。
 無明が縁でサンカーラ(行)があり、
 サンカーラが縁でヴィンヤーナ(識)があり、
 ヴィンニャーナが縁でナーマルーパ(名形)があり、
 ナーマルーパが縁でサラーヤタナ(六処)があり、
 サラーヤタナが縁でヴェーダナー(受)があり、
 ヴェーダナーが縁でタンハー(欲望)があり、
 タンハーが縁でウパダーナ(取)があり、
 ウパダーナが縁でバヴァ(有)がり、
 バヴァが縁でジャーティ(生)があり、
 ジャーティが縁で老、死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、悩みがある。
 すべての苦の発生はこのような状態である。

 比丘のみなさん。すべての苦の発生は当然このような様相だと、目、ニャーナ、智慧、明、光が、私が今まで聞いたことがないものに生じました。

 これが、ブッダが大悟する前の縁起の探求で、苦の鎖の探求と言います。このような十一種類十一の部分で苦が生じることを発見なさいました。アーヤタナが触れ合った時、無明が家主としているので、サティがなく、途端に識と呼ぶものを作ります。「識は永遠の自分」と理解しないでください。それはアーヤタナが触れた時に生じたばかりです。

 識が生じた途端にサンカーラ、あるいは新しい名形を作り出す威力になり、名形は苦になるための名形に作り変えられ、そして苦になるようにする種類のアーヤタナが生じ、苦になる触が生じ、この場合だけ苦になるようにする受が順に生じ、最後に取、有、生、俺になり、十分な苦があります。

 これを「それまでは、誰もこの話を発見する人はいなかった」と言います。ブッダが仏教の歴史上初めての人物であり、私たちが知る限り、縁起の話を発見して大悟した初めての人物なので、この話、あるいはこの経は縁起と呼ぶものの誕生と呼ぶことができると言います。

 ここで普通の人にとってかなりややこしい話になりましたが、仕方ありません。完璧にするために「十一種類、十一の状態がある縁起は、大悟した後のブッダバーシタで話されているようにいろんな様式がある」と話して聞かせなければなりません。

1 普通の形
 時にはブッダは、無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ、名形が六処を生じさせ、六所が触を生じさせ、触が有を生じさせ、有が生を生じさせ、生が老死を生じさせると、私たちが毎日唱えているように初めから最後まで十一の状態がある縁起を普通に話されていて、こういうのは最初から最後までを縁起の一回と言い、三蔵の何十、何百の経に現れている私たちが最も多く耳にする一般的な形です。これを第一の様式と言い、初めから終わりまで全部話します。

2 終わりから戻る形
 時には終わりから初めに向かって、つまり無明から始めて行、触、苦へ行く代わりに、苦から始めて、苦は生によって生じ、生は有によって生じ、有は取によって生じ、取は欲望によって生じ、欲望は受によって生じ、受は触によって生じ、触は六処によって生じ、六所は名形によって生じ、名形は識によって生じ、識は行によって生じ、行は無明によって生じると話します。

 こういうのは全部の流れを話しますが、終わりから戻って来る逆行と言い、初めから話せば順行と言います。話しやすく憶えやすい二つの形があります。

3 真ん中から始まって初めに戻る形
 三番目はそのように十一の状態全部を述べずに、カヴァリンカーラーハーラなどがある四つの食べ物から話し始め、そしてこの食べ物は欲望から生じ、そして欲望は受から生じ、受は触から生じ、触は六処から生じ、六処は名形から生じ、名形は識から生じ、識は行から生じ、行は無明から生じると、真ん中の部分を掴んで話され、そして初めに、つまり無明に戻る、こういうのもあります。マハータンハーサンカヤスッタの中にもこのようにあります。

4 真ん中を掴んで最後に突進する形
 四番目はまた違う形で、真ん中を掴むのは同じですが、初めに戻らず先へ突き進む、これは非常にたくさんあり、そして多くはヴェーダナー(受)の所を掴み、幸福、苦、苦でも幸福でもないヴェーダナーが発端で、それから欲望が生じ、取が生じ、有が生じ、生が生じ、苦が生じて終わります。

 半分でも縁起と呼びます。それも利益があるので、つまり同じだけ「苦はどのように生じるか」を説明して見せるので、どれだけ話すか、あるいは誰にふさわしいかは、その時ブッダが望まれた利益次第ということです。

 縁起の話は四つの形があり、清浄道論はとても良い喩えをしています。ある男が蔦を探しに森へ行って、蔦を切って来て有益に使います。蔦の切り方は、ある人は根元を切って先の部分を全部手繰り寄せる、これが一つの方法で、もう一つの方法は先を掴んで根元まで引き抜いてしまう、これも一つの方法です。

 次はそのようにしたくないので、そのようにしないで真ん中を切って、根元まで引き抜いて半分だけ持って行く、これが一つの方法、そして時にはそうしたくなく、真ん中を切って、先の半分だけを持って行くので四つの方法になります。蔦を切って来てあれこれ有益に使うには、当然何をするか用途次第で、どれも利益があります。これが、このように四つの意味があり、四つの状態がある縁起で、清浄道論の著者であるブッダゴーサ師は、この項目に関してこのように主張しています。


四番目式は真ん中で消滅する
 しかしそれでもまだ、もっと珍しい方法があり、つまり他の幾つかの経のように、苦の発生であるサムダヤヴァーラ(集の部分)を話して半分行き、タンハーまで行くとニローダヴァーラ(滅の部分)に変わってしまい、欲望が消滅し、取が消滅し、有が消滅し、生が消滅してしまいます。これは非常に珍しいですが、なぜブッダゴーサ師がこれについて話さなかったのか分かりません。話したのは初めに述べた四種類だけです。

 これは無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ、名形がアーヤタナを生じさせ、アーヤタナが触を生じさせ、触が受を生じさせ、受が欲望を生じさせ、欲望まで来ると急停止して、欲望が消滅するから取が消滅し、取が消滅するから有が消滅し、有が消滅するから生が消滅し、生が消滅するから老死悲しみ嘆きが消滅すると流れを戻ると言われた所が疑わしいです。

 この項目は、この部分で掌を返すような変化があり、サティが生じるのでうっかりして最後まで行かない状態があり、つまり私たちは途中で気づき、思い出すことができ、縁起の形にさせません。だから生じる話が消滅の話になり、真ん中で、欲望の所で消滅して苦が生じ内に近い状態です。これは原因の部分が滅の部分になり、真ん中で苦が滅してしまうので、これは最高に苦が生じない縁起になります。もう一つ、こういう形もあります。

 これはどのような森へ蔦を切りに行く話に例えるかは、その地域の真ん中に行って、真ん中を掴んで根も先端も全部引き抜きます。これも全部を手に入れることができます。

 これを「ブッダが指導者に教えられた縁起の形あるいは意味で、このように幾つもの種類がある」と言います。


縁起の話
 次は縁起の話について熟慮して、極めて理解しているものにします。縁起の経を唱えられるのは良いことで、聞いて簡単に意味が分かり、唱えられない庶民は、多少大変かもしれませんが、今日は縁起の話の説明をすると予定しているので仕方ありません。誰がどれだけ自分のものにしても自由です。今私は縁起の十一の項目の状態を話し、「無明はサンカーラ(行)を生じさせる縁」という話から始めます。

 アヴィチャー(無明)とは何でしょうか。無明とは苦を知らないこと、苦が生じる原因を知らないこと、滅苦を知らないこと、滅苦に至らせる道を知らないことで、この四つを知らないことを無明と言います。無明はサンカーラ(行)を生じさせる縁です。

 サンカーラ(行)とは何でしょうか。ブッダは『タヨーメー ビッカヴェー サンカーラー、カーヤサンカーロー ヴァチーサンカーロー ツッラサンカーロー: 比丘のみなさん。すべてのサンカーラは三つだけ。つまりカーヤサンカーラ(身行)、ヴァチーサンカーラ(口行)、チッタサンカーラ(意行)です』と言われました。

 パーリ(ブッダの言葉である経)のブッダバーシタでサンカーラという言葉の意味を、「体の義務を生じさせ、言葉の義務を生じさせ、心の義務を生じさせるもの」と説明されています。ブッダバーシタはサンカーラについてこのように言っています。

 しかしタンマを教える学校のみなさんはこのように教えられてなく、清浄道論式に三つのサンカーラはプンニャービサンカーラ(現福行)、アプンニャービサンカーラ(非福行)、アネニャチャービサンカーラ(不動行)と教えるので、違う話になります。噛み合わせることもできますが、もっとたくさん説明しなければなりません。

 その前に三世に跨っている縁起の説明が好きな人たちは、サンカーラという言葉の説明を、いつでもこの形、つまりプンニャービサンカーラ(現福行)、アプンニャービサンカーラ(非福行)、アネニャチャービサンカーラ(不動行)の形で説明しますが、本当のパーリのブッダバーシタには、カーヤサンカーラ(身行)、ヴァチーサンカーラ(口行)、マノーサンカーラ(意行)とあり、サンカーラ(行)はヴィンニャーナ(識)を生じさせるとあると知ってください。

 ヴィンニャーナ(識)とは何でしょうか。ブッダは『チャジメー ビッカヴェー ヴィンヤーナカーヤー云々: 比丘のみなさん。この六つのヴィンニャーナは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識で、これが六つのヴィンニャーナです』と言われています。

 次に三世に跨っている縁起の説明をする人たちは、清浄道論もそうですが、パティサンディヴィンニャーナ(繋がっている識)という、行き過ぎた説明をし、そしてその後の教科書はどれもパティサンディヴィンニャーナのような説明をします。六識のような説明ではどのような話になるか、理解できないからです。説明者が「新たに生まれる」ことを信じているので、ヴィンニャーナ(識)という言葉をパティサンディヴィンニャーナと説明し、別の系統の別の話が生まれます。

 ブッダは「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識は六のヴィンニャーナ(識)」と話して置かれたのに、私たちはこの言葉をパティサンディヴィンニャーナと説明します。次にヴィンニャーナが名形を生じさせます。

 ナーマルーパ(名形)とは何でしょうか。パーリの中でハッキリと話されています。そのブッダバーシタは『ヴェーダナー サンニャー チェッタナー パッサ マナシカーロー=これがナーマ(名)であり、四つのマハーブータルーパと、四つのマハーブータルーパに依存するウパーダーヤルーパ、これがルーパ(形)である』と言っています。

 これは全部一致します。誰でもこのように、体、肌肉である形、あるいは体の中の気血をマハーブータルーパと呼ぶと教えます。そしてそのマハーブータルーパに依存するいろんな状態、例えば美しい状態、美しくない状態、女性である状態、男性である状態など、このいろんな状態をウパーダーヤルーパと言います。合わせて四つのルーパをルーパ(形)と言います。次に名形はサラーヤタナを生じさせます。

 サラーヤタナとは何でしょうか。サラーヤタナとは六つのアーヤタナ(根。六処)で、ブッダは『チャックアーヤタナ(目)、ソターヤタナ(耳)、ガーナーヤタナ(鼻)、チヴァハーヤタナ(舌)、カーヤーヤタナ(身)、マナーヤタナ(意)』と、私たちが唱えているように話され、そしてサラーヤタナはパッサ(触)を生じさせます。

   パッサ(触)とは何でしょうか。『チャジメー ビッカヴェー パッサカーヤー チャックサムパッソー ソタサムパッソー ガーナサムパッソー チヴァハーサムパッソー カーヤサムパッソーマノーサムパッソー』と言われています。これも六門の名に準じた六つのパッサです。次にパッサはヴェーダナー(受)を生じさせる縁です。

   ヴェーダナー(受)とは何でしょうか。ヴェーダナーとは六つのヴェーダナーで、目の触から生じるヴェーダナー、耳の触から生じるヴェーダナー、鼻の触から生じるヴェーダナー、舌の触から生じるヴェーダナー、体の触から生じるヴェーダナー、心の触から生じるヴェーダナーで、目・耳・鼻・舌・体・心を基盤にしています。次にヴェーダナーはタンハー(欲望)を生じさせます。

 タンハー(欲望)とは何でしょうか。タンハーも六つあり、形の欲であるルーパタンハー(形欲)、声の欲であるサッダタンハー(声欲)、臭いの欲であるガンダタンハー(臭欲)、味の欲であるロサタンハー(味欲)、皮膚の接触の欲であるポッタッバタンハー(接触欲)、ダンマーラマナの欲であるダンマタンハー(法欲)です。タンハーはウパダーナ(取)を生じさせる縁です。

 ウパダーナ(取)とは何でしょうか。ウパダーナは『チャッターリマーニ ビッカヴェー ウパダーナミ カームパダーナン ディッタパダーナン シサッバットゥパダーナン アットゥヴァードゥパダーナン』と言われ、四つのウパダーナは、みなさん良く知っているようにカームパダーナ(欲取)、ディットゥパダーナ(見取)、シーラッバトゥパダーナ(戒禁取)、アッタヴァードゥパダーナ(我語取)です。ウパダーナはバヴァ(有。三界)を生じさせる縁です。

 バヴァ(有)とは何でしょうか。三つのバヴァとは、カーマバヴァ(欲有)、ルーパバヴァ(形有)、アルーパバヴァ(無形有)で、バヴァはジャーティ(生)を生じさせる縁です。

 ジャーティ(生)とは何でしょうか。ジャーティとは生れる、あるいは降りていくこと、あるいは動物の種属の群れに一斉に発生すること、すべての薀が現れること、特にアーヤタナ(根)を得ること、これをジャーティ(生まれる)と言います。

 ジャラーマラナン(老死)とは白髪頭になり、歯が折れ、あるいは何でも老いの症状、根の衰退をジャラー(老い)と言い、そして死は移動、破滅、死亡、五蘊の崩壊、死骸を捨てる、寿命の終わりを死と言います。

 これは、話す言葉は普通の言葉ですが、意味は一般の意味ではない点に理解の難しさを生じさせる問題があり、「ジャーティ=生まれる」と言うのは、「俺」が生まれる感覚にすぎず、母親の胎から生まれるのではありません。

 母親の胎から生まれるのは一度、一回生まれれば終わりです。そしてその後もまだ生まれることがあり、生まれてはまた生まれ、一日に何回も生まれるのは、「俺はどのようだ」と感じるバヴァ(有)で、ウパダーナ(取)で生まれれば一つのジャーティ(生)が生じたと言います。このようなジャーティが生じると、すべての生れることに関わる怖れと心配があるので、母の胎から生まれる、あるいはその種の生まれることを苦と見なします。

 このようなジャーティが生じると、病気の話、あるいは将来訪れる死の憂慮に拡大します。本当は病気や死はまだ訪れていませんが、苦になります。いつでも俺の病気、俺の老い、俺の死と見ておくので、何かの兆候があればあるほど非常に苦になり、今私たちは気づかずに常に死を恐れ、老を嫌います。「俺に訪れる」と考えるからです。

 俺がなくなってしまうだけで、老や死は何の意味もありません。だから縁起の一巡、一本は、一回何らかの苦にする愚かさで、気に入ったものを手に入れて苦になることもあり、気に入らないものを手に入れて苦になることもあり、好きか嫌いかまだ分からない物を手に入れて苦になることもあり、執着すれは全部苦になります。これが縁起の説明で、それはこのようです。


縁起の中の言葉の意味
 次は最高に重要なものになり、これらの縁起の中の言葉の意味です。

 これらの言葉の意味はタンマを知る人のタンマ語の意味で、タンマを知らない庶民の人語ではありません。私はタンマを知らない普通の人の「人語」と、タンマを知る人の「タンマ語」の二つの言語に分け、この縁起の言葉はタンマ語です。これから順に説明します。

 人語の縁起の意味にすれば混乱が生じ、そして理解できません。例えばブッダは菩提樹の木の根元で大悟され、ブッダの大悟は無明を消滅させてしまうことができ、無明を消滅させてしまうことができたのでサンカーラ(行)が消滅し、サンカーラが消滅すればヴィンニャーナ(識)が消滅し、ヴィンニャーナが消滅すれば名形が消滅し、それでなぜブッダは死なないのでしょうか。

 菩提樹の木の下で大悟して無明が消滅し、無明が消滅したのでサンカーラが消滅し、つまりヴィンニャーナ(識)とナーマルーパ(名形)を作り出す威力が消滅して、それでなぜブッダは菩提樹の木の下で即死しないのか、考えて見ませんか。これは、縁起の中の言葉はダンマ語であり、「消滅」というのはダンマ語で、「生まれる」というものダンマ語で、身体の誕生でも身体の消滅でもないからです。

 正しくない理解なら、縁起の一本で二回生まれると理解します。名形が生まれるのが一回、そして向こうのジャーティがもう一回で、二回生まれると理解します。二回生まれると理解すれば、縁起の流れは三世、つまり過去世、現世、来世になり、大慌ての話になって大混乱し、話と一致しません。そして最高に滑稽なのは、生まれる時は二回生まれると話し、滅あるいは死の時になると、二回死ぬと言う勇気がありません。どのように二回死ねるか知らないからです。

 バヴァという言葉、「あること」「いること」あるいは縁起の場合の「生まれる」という意味のジャーティという言葉は、母親から生まれるという意味ではなく、母親の胎から生まれるのではなく、「俺」という感覚に変化させるウパダーナによって生まれる抽象的な「生まれる」ことです。これはこれから引用するパーリ(ブッダの言葉である経)、マハータンハーサンカーラスッタ(大欲行経)でハッキリと言われています。

 その経の中でブッダは『すべてのヴェーダナー(受)の中の何らかのナンディ(喜)をウパダーナ(取)と言う』と言われています。アーヤタナに接触がある時ヴェーダナーが生じ、スッカヴェーダナー(幸受)、ドゥッカヴェーダナー(苦受)、アドゥッカマスッカヴェーダナー(不苦不幸受)でも、そのヴェーダナーの中にナンディ(満足)があるという意味です。それがウパダーナ(取)で、ナンディはウパダーナです。このナンディは執着の基盤なので、ナンディがあれば必ず執着があることを意味するからです。

 ナンディは気に入る、あるいは満足という意味で、そのナンディが、ブッダが言われている種類のウパダーナです。私たちが何かに満足すれば、それに執着したという意味で、だからそのナンディはウパダーナで、そしてナンディはヴェーダナーの中になければならない物です。だからヴェーダナーがある時はいつでもナンディがあり、そしてその時はウパダーナがあるということです。「ウパダーナがあるからバヴァがあり、バヴァがあるからジャーティがあり、ジャーティがあるから老死が一斉に生じて苦になります」。

 これは、バヴァ(有)とジャーティ(生)はヴェーダナー(受)から、タンハー(欲望)から、ウパダーナ(取)から続いていて、死んで又生まれるのを待つ必要はなく、死んで又生まれるのを待つ必要がないのでバヴァがあり、ジャーティがあるということです。バヴァと呼び、ジャーティと呼ぶものはここにあり、一日に何回あるか知れません。

 そしてヴェーダナーがあり、無明があり、陶酔するのはナンディ(満足)であり、そしてナンディはウパダーナで、ウパダーナはバヴァを作り、ジャーティを作ります。だからバヴァと呼び、ジャーティと呼ぶものは今ここにあり、一日に何回か知れず、死んで再び生まれるつ必要はありません。

 このような状態のバヴァ(有)ジャーティ(生)という言葉はタンマを知る人のタンマ語であり、庶民語ではありません。庶民語なら死んで再び生まれるのを待たなければならず、そうすればバヴァがあり、ジャーティがあり、そして一回だけです。私たち人は一度まれたら死んで棺に入り、それから新しいバヴァがありジャーティがあるからです。

 今ダンマ語のバヴァ、あるいはジャーティは、一日に何回もあり、俺、俺のものが一回生じると一回バヴァがあり、ジャーティがあると言い、一月では何百回、一年では何千回もあり、何千のバヴァ、ジャーティがあり、そして一生では何万、何十万のバヴァ、ジャーティがあるので、私たちは日常生活の一日に何回もあるバヴァと呼ぶもの、ジャーティと呼ぶものを知らなければなりません。

 次に縁起の話は死を待つ必要がなく、あるいは三世の時間を費やして縁起の一回になるのではなく、今ここ(現世)の話で、本当は一日に何回もあるとすぐに見ることができます。

 ヴェーダナー(受)がある時はタンハー(欲望)ウパダーナ(取)があり、その時は縁起の流れがあり、バヴァ(有)がありジャーティ(生)があり、先ほど年度末試験に落ちた子供、あるいは恋人のことで苦になっている娘の話の例えのように、すべての人の日常生活の中にあると見せることができます。これが日常生活の中にある極普通の見本です。

 次に残っているのは、どのように説明すれば「ニャーナ、ナーマルーパ、アーヤタナ、パッサが揃えばヴェーダナーが生じられる」と見えるかだけです。

 この話は難しくありません。厄介で凶悪な犯人はヴェーダナーにあります。ヴェーダナーを私たちは良く知っています。日常的に生じているので知ってしまいましょう。

 もっと知りたければ手繰って行くと、ヴェーダナー(受)はパッサ(触)から生じ、パッサはアーヤタナ(六処。六根)から生じ、アーヤタナはナーマルーパ(名形)から生じ、ナーマルーパはヴィンニャーナ(識)から生じ、ヴィンニャーナはサンカーラ(行)から生じ、サンカーラは根源であるアヴィッチャー(無明)から生じるので、アヴィッチャーがないだけでこれらの物はあり得ません。

 苦であるようなナーマルーパは生じず、苦になるアーヤタナも生じず、このようなパッサは生じません。違うものが生じ、苦でないように生じます。だから苦だけになるナーマルーパ、心身、アーヤタナ、パッサ、ヴェーダナーを作るのはアヴィッチャーだけです。

 タンマ語と人語を良く理解していただくために、いつでも繰り返し忠告させていただきます。「生」「生まれる」という言葉は、人語では母の胎から生まれるという意味で、タンマ語の「生まれる」というのは、それが苦になる状態の義務をした時、つまり根源であるアヴィッチャーがある時に生まれるという意味です。

 今、ナーマルーパはまだ生まれていません。まだ俺、俺のものの義務を何もしていないからです。このように心して説教を聞いていても、それはタンハー(欲望)でもウパダーナ(取)でもなく、普通に経過する話で、縁起はまだありません。話してきたすべては、「縁起の言葉はタンマ語で、特別な意味がある」と前もって理解させるためで、庶民の言葉の意味を使えば意味が分かりません。特に「生まれる」という言葉は。

 次の重要な項目は「縁起は詳細な四聖諦」と知っていただきたいと思います。

 縁起のサムダヤ(原因)の側、つまり生起の側は四聖諦のサムダヤの話で、無明がサンカーラ(行)を生じさせ、サンカーラがヴィンニャーナ(識)を生じさせ、ヴィンニャーナがナーマルーパ(名形)を生じさせ、アーヤタナ(六処)、パッサ(触)、ヴェーダナー(受)、タンハー(欲望)、ウパダーナ(取)を生じさせる流れ全体を縁起のサムダヤヴァーラ(集期)と言います。これは四聖諦のドゥッカサムダヤ(苦集諦)です。

 次は無明が消滅するからサンカーラが消滅し、サンカーラが消滅するからヴィンニャーナが消滅し、ヴィンニャーナが消滅するからナーマルーパが消滅し、ナーマルーパが消滅するからサラーヤタナが消滅し、パッサが消滅し、ヴェーダナーが消滅し、タンハーが消滅し、ウパダーナが消滅し、バヴァが消滅し、ジャーティが消滅する縁起のニローダ(滅)の側で、これは消滅の話で、こういうのをニローダヴァーラ(滅期)と言います。これは四聖諦のドゥッカニローダサッチャ(苦滅諦)です。

 苦については他で話しているのと同じように話され、滅苦に至らせる道も同じように、つまり八正道を話されています。だから縁起は詳しく話した四聖諦です。「欲望が苦を生じさせる」とこのように短く言う代わりに、十一の状態に分けて話すと縁起になります。

 「欲望が消滅するから苦が消滅する」とこのように短く話す代わりに、無明が消滅し、サンカーラが消滅し、ヴィンニャーナが消滅し等々、同じように十一の状態になり、このように詳細で広いです。しかしいずれにしても同じ話、つまり四聖諦の話であることから脱せません。


教えと違う縁起の説明
 次は最高に重要な出来事について話します。教えと違い、そして仏教でなく、利益がなく、そして害だけがある縁起の説明です。

 一本の縁起で三世に跨っている縁起の説明は間違っていて、パーリ(ブッダの言葉である経)の教えと違い、語句も要旨も間違いです。

 語句としては、パーリにある大悟前の縁起の探求の話の部分を読んで聞かせたように、「無明がサンカーラを生じさせ、サンカーラがヴィンニャーナを生じさせ、ヴィンニャーナがナーマルーパを生じさせ、ナーマルーパがアーヤタナを生じさせ、アーヤタナがパッサを生じさせる」と、ブッダは何も介入させないで続けて話され、そしてこのように繋がっていて途切れず、断ち切れず、交錯していません。交錯して話せば語句面で教えと違います。

 要旨の面でも間違いで、簡単に見える間違いは、縁起の話をされたのは間違った見解について知り、自分、動物、人物という執着を消滅させるためで、だから「どこにも自分はない」と見せるために、十一の状態が続いているように話されました。

  次に一本の縁起が三世に跨っていて、一人の人として繋がっている説明をする人がいます。前世の人の煩悩が現世で報いを生じさせ、これが一つの部分で、現世の報いが新しい生で煩悩を生じさせ、そして来世で報いを生じさせます。

 このように縁起を教えれば自我を教える話になり、冒頭で述べたサーティ ケヴァッタプッタという誤った見解の比丘のように自我があり、自分、動物、人物が輪廻する教えになります。ブッダは自我をもたないために縁起の話を教えられたのに、私たちは反対に自我があるよう教えます。ブッダはそのようにハッキリした教えを話され、私たちは反対に新しい説明をしてしまい、再び自我になる説明に戻ります。

 この項目はマハーパデーサなどの物差し、テストする物を基準にすると、「このように教えるのは間違いだ。このような説明は間違いだ」とすぐに分かります。それは自我に戻り、自我がある側と一致し、自我がない側と一致しないので、「自我がある」と言うのは、自我はないと教える仏教の教えと違います。

 だから縁起を自我がないようにさせる状態で理解する人は誰でも、それは正しいです。しかし自我があるような理解は間違いで、三世に跨る状態の縁起の説明は自我があるという考えを生じさせるよう教えるので、間違いです。直接パーリの教えのように繋がった説明をし、何も改悪せず、自我が生じる余地がなければ正しいです。

 
いつから間違って説明されているのか
 さて次は、なぜ間違った説明があるのか、そしていつから間違った説明がされているのかという、更に緊密な知識についてお話します。

 今タイでもビルマでもスリランカでも、同じように縁起の話を教え、つまり清浄道論にある説明のように教えます。話は三世あり、三世に跨り、最高に優秀な西洋人もこのように信じます。これによる説明は歪曲になります。仏教教団員であるどの国も、一本が三世に跨る縁起だけを教えているという意味です。

 私が変わったことを話すと、世界中の人から謗られると言うこともできます。私は今、三世を跨ぐ道はないと説明して見せる努力をしています。だから私は、説明にどんな違いがあるか、いつから間違った説明がされたのか探求しなければなりません。

 いつから間違った説明がされたか。これを知るのは難しいですが、間違った説明であることは簡単に知ることができます。元のパーリと違い、そして自我を消滅させるために教えられた縁起の目的と違うからです。

 ワット・ボーウオン(バンコクにある寺院の名)のクロムワッチラヤーナウォン・サンガ王殿下は、千年も前から間違って教えているという見解がおありで、三世に跨る縁起の説明を信じません。そして殿下は一世だけの説明をなさっていますが、詳しく説明なさる確信がないのでそのままになさっています。

 しかし殿下が主張なさっている「たぶん千年も前から間違った説明をしている」という理解は私も同感です。しかし私は「千年以上かも」「間違った説明は千年以上前からかも」と言います。清浄道論は千五百年も前からあるからです。

 清浄道論は縁起の説明を三世から始めるばかりで、全部三世に跨り、そして清浄道論の中でブッダゴーサ師は「庶民の中に前からある解説」と書いています。ブッダゴーサ師の言葉をこれから読んで聞かせます。

 話は昔から説明されているように説明したという根拠があり、ブッダゴーサ師の時代は千五百年も前で、それからならほとんど二千年、あるいは二千年以上になります。私は、間違った説明は第三回サンガヤナー(三蔵の確認集会)後、仏歴三百年頃から間違った説明がされていたかもしれないと見ます。だから二千二百年間も間違っていたという意味で、サンガ王殿下が言われたように千年ではありません。ちょっと指摘して見せます。

 いつと確実に言うなら、考古学的な証拠を探さなければならず、それは非常に大変です。しかし私がこのように間違う余地がないように話すには、なぜこのような説明が生まれたのかという項目について熟慮しなければなりません。ブッダはこのように三世に跨る余地はない教えで話されたのに、なぜブッダの系統を逸れた説明が生じたか、なぜ三世を跨いで自我を持たせるのか、どうぞ、しっかり聞いてください。

 この項目は、無知によってあり、無知によって生じたと推測します。無知が生じ、理解できないことが生じ、そして意図せずに推測あるいは憶測したことが一つ。縁起の話は仏教で最も深遠な話で、ブッダもそう言われ、誰もが最高に深遠な話と認めています。次に三、四百年経つと、理解できなくなり、考えが分裂し始め、その後更に分裂し、最後には正反対になります。こういうのを「誰も間違った説明をする意図はない。それは無知ゆえに」と言います。

 次にもう一つ、仏教に獅子身中の虫が生じたというのもあり得るかもと推測して見る方が良いです。仏教の中に誰か造反者が生れて、わざと縁起の説明を仏教の教えと違う説明に、つまりヒンドゥーのサッサタディッティ(常見)、あるいはバラモン教にしました。

 ブッダの縁起は「自我、チーヴォー、アートゥマン」、あるいはそのような何かがある余地はありません。そのようになる道はありません。「ブッダ」のものだからです。そして仏教の心臓部である縁起をこのように三世に跨るように説明する人がいれば、それは自我になり、その人は仏教を呑み込むことができます。

 これほどまで凶悪な意図があったと言えば、わざと仏教に自我を生じさせる隙を作る説明をする人がいなければならないという意味で、そうすればバラモン教は突然、一瞬で仏教を呑み込めます。これは凶悪な面からの推測で、こういうのもあり得ます。

 もう一つは反対にぼんやりして、あるいは愚かで理解できないので、運転資金つまり解説者に元からある知識で説明するので、気づかずに間違います。これもあり得ます。しかし意図しても意図がなくても、結果は同じです。

 仏教がインドから消えたのはなぜか、知っていますか。人々はこうだから、ああだから、そうだからと言い合い、例えば外部の敵が侵入して踏みつぶしたからなどというのは、私は信じられません。私は、仏教がインドから消えたのは、仏教教団員が仏教の教えを間違って解釈し始めたから、仏教の説明を誤ってしまったからと見ています。

 仏教の説明を間違っただけで、例えば本当の仏教である縁起の説明がヒンドゥー(教の説明)、あるいはバラモン(教の説明)になり、三世に跨るようになり、自我になる、たったそれだけで、論理的にはあり得ます。それです。本当に、突然仏教はインドから消えてしまいました。縁起の説明を間違えば、自我、自分があるようになり、それは仏教がインドから残らず消滅すること、つまりアートゥマンがあるバラモン教の一部になってしまいました!

 これです。このような出来事があった時から、間違った説明があったに違いありません。意図的か意図がなかったかは今はまだ知り難いです。バラモン教は仏教の敵で、仏教を呑み込みたかったので、呑み込む努力をする人がいたに違いありません。

 これはあり得ることで、言い掛かりではありません。仏教はサッサタディッティ(常見)ではないので、動物、人物、自分がなく、あの人この人が輪廻してその人に生まれると話しません。仏教には動物も人もいませんが、「動物がいて、人がいて、三有三世に跨る縁起の流れで輪廻する」と話すようになりました。こういうのは、仏教も瓦壊します。

 これ以前の根拠は何も文字にされてなく、清浄道論が書かれた時代に文字になったばかりで、清浄道論の内容は三つのバヴァ(有)、三つのジャーティ(生)がある状態で著されていて、パティサンディヴィンニャーナ(繋がっている識。魂)、つまり縁起の初めの部分があり、新しいバヴァに生れて報いがあり、そしてこのように次のバヴァに行くための煩悩があります。このようにハッキリした文字である根拠が清浄道論の中にあります。これはまだ、たった千五百年です。

 それ以前なら、第三回サンガーヤナー(三蔵の確認会議)の時代は、偽物の僧を捕らえて還俗させ、本当の僧は還俗する必要がない、僧を捕えて還俗させる伝統があったことに思いを馳せるべきです。

 その粛清で「あなたは仏教の教えについてどんな見解がありますか」と教えについて質問し、アヴィバッチャヴァーディーのような答えをすれば、つまり生き物を縁起のもの、薀、ダートゥ、アーヤタナに分割しないで、このような自分が生死を輪廻するとサーティ ケヴァッタプッタ比丘のように話せば、その人はアヴィバッチャヴァーディー(非分別論者)の部類で、サッサタディッティ(常見)の類の間違った見解と見なされ、還俗させられました。

 これは、第三回サンガーヤナーでは「自我がある。自分がある」という教義を信じる僧を還俗させ、「自我がある。自分がある」と捉えない僧だけを残したという意味です。だから第三回サンガーヤナーの時代から兆候があり、「自分はいる。自分がある」と見ていながら仏教で偽りの出家をした人がいたと認められるのは、それは二千二百年前です。

 この項目は、仏教に自我がある説明が生じる兆しであるに十分で、捕らえられて還俗したのはたぶん全部でなく、逃れて残り、あるいは還俗させられても、偽の人としてまだ話して教えられます。

 まとめると、第三回サンガーヤナー以前、つまり仏歴三百年以前はタンマの教えは純潔であり、その後から自我がある方に汚れ始めたと述べたいと思います。その時から間違って来ます。仏教がインドで消滅したのは見えています。そしてジャイナ教、あるいは人が間違ってジェン教と呼ぶニグロンダ教は、なぜインドで滅ぼされなかったのでしょうか。それは原則を変えなかったから、以前と同じまま(自我)だったので滅びませんでした。

 仏教は無我から自我に戻って教えに変化が生じたので、即座に自動的に消滅したと言います。仏教に自我があり始めた途端に、仏教がンドから消えた、これはつまり、縁起の説明が魔違い始めた出来事です。しかし文字で著された証拠は清浄道論です。間もなく清浄道論の本を熟慮して見ます。ここではブッダの意思と違った縁起の説明がいつからあるか、ということだけを話したいと思います。


間違った説明をさせる原因  次に間違った説明をさせる原因は「悪意ではない」と言われるように、わざと獅子身中の虫になった人はいませんが、自然に間違い、「愚かで無知なのでタンマ語を理解できず、理解できるのは人語だけなので、かつてタンマ語を理解していた状態はすべて消失し、人語だけが残り、そこで人語で説明すると、サッサタディッティ(常見)になったから」と話したようになります。

 だから私たちは最高に重要な部分、つまり「人」という言葉と「ナーマルーパ(名形。心身)」という言葉を、もう一度人語とタンマ語で理解しなければなりません。

 庶民の言葉、あるいは人語では、私たちを「人」と呼び、タンマ語では人とは呼ばないで、「ナーマルーパ」つまり「体と心」と呼びます。次に人と呼んでもナーマルーパと呼んでも、それはどれだけ生滅し、どのように生滅するかという問題があります。

 このように問えば、答えは深さによって三段階あります。

1 ナーマルーパが心の一瞬ごとに生滅を繰り返しているのは、誰も知らないレベル、あるいは誰も知りたくなく、そしてナーマルーパ、私たちの心身は心の一心時ごとに生滅していると知る必要がないレベルと見なします。これは必要を超えたアビダンマの言葉です。

 パヴァンガチッタ(潜在意識)と呼ぶ感覚でその心が生じて、維持して、消滅し、一度心が生じて維持して消滅することを一心時と言い、そして瞬きをする間より早いです。だからこの意味で、「ナーマルーパ」、あるいは一人の人は、一心時毎に生滅を繰り返していて数え切れないと見なします。それを数えられる口はありません。心時は口で数えるより早いからです。

 ナーマルーパあるいは人は、一心時毎ごとに生滅している。これが一つの意味です。それは直流発電機の周波と同じで、一周期は一度電気が流れることで、一回は一度電気が流れ、次にそれは一秒に千以上の周期なので(早すぎて)見えませんが、火花も散らさずに電球の中で繋がることができます。次に心も同じくらい頻繁なので、生滅していると感じません。

 私たちはこの種の心の教育に依存しなければならず、そうすればナーマルーパあるいは人は、一心時毎に瞬くように、あるいは私たちが毎日使っている電流の周波より早く生滅していると知ります。それは縁起に関わりがないもう一種の生滅の話です。縁起はこの種の生滅を意味しません。

 一心時毎の生滅は心のテクニックであり、縁起に関わらないアビダンマ(論蔵)の類の過剰な知識です。そしてこのような場合の「生まれる」という言葉に、彼らはジャーティという言葉を使わず、ウパーダという別の言葉を使います。ウパーダ・ティティ・バンガ、ウパーダ・ティティ・バンガと、このように続きます。ウパーダは生まれる、ティティは維持している、バンガは消滅です。

 ジャーティという言葉を使わずにウパーダという言葉を使いますが、意味は生まれることです。生じて、維持して、消滅し、数えられないほど瞬いている、それがナーマルーパです。あるいは人はこのように消滅しています。これが一つです。

2 もう一種類、ナーマルーパは普通の人が知っているように生滅し、つまり母親の胎から生まれれば生まれたと言い、死んで棺に入ると消滅と言い、八十年維持でき、百年ものこともあり、普通は八十年から百年の間に一回生まれて一回死にます。これは生と滅、二語だけです。生と一言だけ言い、そして八十年か百年の間を経て滅と言い、ナーマルーパあるいは人が生まれるのに、あるいはこのように滅すのに、八十年、あるいは百年もの時間を食います。これが一つで、人語で話す言葉です<。

 膨れ上がったアビダンマの言葉では数えきれないほど瞬き、人は数えきれないほど生滅の瞬きをします。次に世界の言葉の生滅は、八十年から百年の時間を食うので数えられ、一度生を数えたら、あと百年待って滅を数えます。あっちの膨れ上がったアビダンマの言葉は行き過ぎで、こちらの人の言葉も行き過ぎです。

3 次にもう一つ、真ん中に今述べている縁起の言葉の生滅があります。縁起の言葉の生まれることは何らかのヴェーダナー(受)が生まれ、それからタンハー(欲望)が生じ、ウパダーナ(取)が生じ、それからバヴァ(有)、ジャーティ(生)が生じ、これは数えられ、何とか数えられ、そして見えています。人の心の中に俺という感覚が一度生まれれば一つのジャーティ、一つのバヴァと呼び、そしてそれは数えられます。

 勤勉に観察して記録すれば、自分は今日何回「俺」が生じたか、翌日は何回生じたか、メモしておけます。これは数えられないほど瞬きません。そして母親の胎から生まれる意味ではなく、そして滅は棺に入るという意味ではありません。それは、私あるいは無明によって作られた俺、俺の物の状態であるナーマルーパの一回の生と滅です。

 このナーマルーパは、一度苦があるようにするために俺、俺のものというウパダーナ(取)にする無明でできています。これを、初めに例を話して聞かせたように一つのジャーティ、あるいは私たちに見えている一回の生滅と言います。これです、一日に何回も生じ、何回も滅すのは。だから縁起の言葉の生滅は特別の意味、つまり俺、俺のものの生滅だけを意味すると理解してください。

 一方膨れ上がったアビダンマの言葉、あるいは母の胎から生まれて棺に入る普通の庶民の言葉は別の言語で、三つの言語を混同させないでください。混同させれば、縁起の話の意味が分からないに違いありません。縁起は中間の話だけを意味し、認識できないほど密でなく、そして一生に一回しかないほど離れていないからです。
 つまり俺というウパダナーナの生滅が一回という意味です。そしてそれ以上に、このような消滅をパティッチャサムッパンダンマ(縁起の物)、つまり依存し合って生滅し、依存し合って生じ、依存し合って消滅する自然のものにすぎないと見せます。

 一人の人はその時々、その場合毎に縁起のものにすぎないので、自我や自分、アートゥマンや何やらにしないでください。いつでも依存し合って生じて消滅する自然に過ぎません。仮定で人と呼ぶこともでき、ナーマルーパ、一緒に行動している心身と呼ぶこともできます。それは縁起の物にすぎません。それが人になるのは、俺と考えさせる無明、欲望、取によってです。

 私たちはこの種の「人」を殺してしまわなければなりません。この種の「人」を殺してしまえれば、それが滅苦です。この種の人が苦の根源だからです。ブッダが縁起を説かれたのは、この種の人を生じさせないよう防止することを教えるためで、そうすれば苦になりません。これを「縁起の話である生滅はこのよう」と言います。

 次に、考えや感覚があると見なさない物質だけの生滅であるもう一種の生滅、クワズイモなどが生まれることは別の話なので、一緒にしないでください。無明やウパダーナに関わらないからです。クワズイモも命があり、生まれて死にますが、無明、欲望、ウパダーナに関わりません。

 一緒にしないでください。それは別の生滅です。縁起の面の生滅する人、あるいはナーマルーパを知りましょう。それは「ブッダの元々の、パーリの縁起は三世に分かれてなく、日常生活の中にあり、一日に何回も、何巡りもある」とハッキリと区別してしまうためです。

 三世に跨る説明は誰のもので、いつから話されているか知らず、清浄道論に初めて文字で現れたばかりですが、兆候はもっと前にあったと見えます。この話を詳しく知りたければ、ナックタムの学校(僧の検定試験)で先生が教えている教科書の三世に跨る縁起の話から清浄道論まで自分で読めば、三世に跨っている状態の縁起の説明が見えます。

 大きな規則は無明と行は過去世にある過去の原因で、そして欲望とウパダーナ(取)とバヴァ(有)は現世にある現在の原因で、バヴァの発生と生・老・死の部分は来世、未来の結果になり、それで三世になります。

 もう一度復習すると、十一の縁である状態の初めの二つは過去世で、真ん中の八つは現在で、結果のもう一つ、あるいは二つは後に生じる世にしていて、このように三世に跨っています。そしてサンディと呼ぶ結び目があり、過去世と現世の間に一度、そして現世の真ん中で原因と結果を繋ぐのが一度、そして現世と来世を繋ぐのが一度、このようにハッキリとサンディがあります。

 そして違うのは「遠い時代」という意味の「アッダー」という言葉を使って、アディータッダー、パッチュバンナッダー、アナーガッタッダーになります。パチュバンナッダーが一度もないパーリ(ブッダの言葉である経)と違います。

 (パーリに)あるのはアディータッダーとアナーガタッダー、つまり過去の遠い時代、未来の遠い時代だけで、現在は遠いと言いません。今彼らはアッダーという言葉を「時間」と訳してしまうので、三つの時間、つまり過去と現在と未来に使うことができます。

 次に十一のいろんな状態は、煩悩やカンマや報い、つまり無明は過去世の煩悩で、サンカーラ(行)は過去世のカンマで、そしてヴィンニャーナ(識)、ナーマルーパ(名形)、アーヤタナ(六処)、パッサ(触)、ヴェーダナー(受)は現世のすべての報いで、タンハー(欲望)、ウパダーナ(取)は現世の煩悩で、そしてカンマバヴァ(業有)であるバヴァはと来世の生を作り出す現世のカンマです。

 だからこのように過去世、現世、来世の三世になります。このような説明を「三世に跨る縁起」と言い、一巡、あるいは一本で三世の時間を喰います。考えて見てください。

 この話をチャオクロムプラワチラヤーナウォン・サンガ王殿下は「千年もの間、間違った説明をしている」と言われています。そのように信じられ、そしてどう説明するか確信がおありでないので、多分一世だけだろうと推測なさいました。ここで私はまだ「縁起の中の心の行動の一回は稲光のようで、無明の威力で加工が生じた時、一巡と言う」とパーリの文言どおりに探求して掴む頑固な子供です。だからその縁起は、一日だけで何十もの縁起があります。

 三世に跨る縁起の説明は間違いで、パーリの、元々の、ブッダバーシタの中のたくさんのスッタンタ(経蔵)の中に見られるブッダの言葉と一致しないことが一つ。そして常見である自我、あるいはアータマンである考えに導くことが一つ、そして最悪なのは、何の利益もないこと、これが一つです。

 縁起を三世に跨ったものにする説明は、実践できないので何の利益もありません。原因が過去世にあり、結果が現世にあるのでは何の解決もできません。そして現世にある原因が来世で結果があれば、常見の人たちが夢見る以外に誰にも何の利益もありません。

 更にこのような状態はサンディティコでなく、アカーリコでなく、パッチャッタン ヴェーデタッポー ヴィンニューヒ(註)ではありません。だから三世に跨る縁起の説明は間違いと見なします。サンディティコ アカーリコ パッチャッタン ヴェディッタッポ ヴィンニューヒの教えに合わないからです。

 そして何の実践にも使えないので、何の利益もなく、自我と見、自分と見る常見に導くので、やめてしまってください。そして元のパーリのように、文字通りに趣旨と一致させてください。

註: ダンマの六徳。良く説かれたものであり、実践者が自分で見え(サンディティコ)、時を選ばず(アカーリコ)、他人に「来て見て」と言えるものであり(エヒパッシコ)、導くものであり、自分だけが受け取るものであり(パッチャッタン ヴェディッタッポー ヴィンニューヒ)、誰も妨害できず、奪うこともできない、という意味。


ブッダゴーサ師
 次はブッダゴーサ師についてお話します。話し掛けになっているので、話そうと思います。

 ブッダゴーサ師は、ほとんどすべての仏教教団員が阿羅漢と信じています。よく聞いてくださいね。彼らはブッダゴーサ師が阿羅漢だと信じています。私はどんな信仰もありません。私は彼が何をしたか、何を話したかだけを見、そして利益になるものは正しいと見なし、利益のないものは間違いと見なします。

   ほとんどの人は、彼は最高に知識がある人で、最高に利益があり、何十何百の利益のある解説を残したと見ますが、この縁起の話に、私はまったく同意しません。アートゥマンであり、バラモン教である形で話すからです。

 私はブッダゴーサ師を百パーセント尊敬、あるいは信じません。同意しない部分が何パーセントもあり、私が尊敬できるのは九十パーセントから九十五パーセントです。百の話のうち九十五の話は同意すべきですが、縁起の話など、四つか五つの話は同意しません。重さで言えば、縁起の話一つだけでも他のすべての話の重さを打ち消してしまうことができます。

 縁起の話は難しく、どんな理由で非常に難しく深遠でも勝手ですが、誰もがブッダゴーサ師が縁起の説明をする時、へりくだって奇妙な責任回避をするほど難解で深遠だと認めます。

 他の話なら、師は獅子王のように勇敢に獅子吼を轟かせます! ブッダゴーサ師は何の話を説明する時も、何の教典を書く時も、パナームガーターも、あるいは序言を書く時も獅子王のように堂々としていますが、縁起の話になると反対に謙遜し、その謙遜の中に躊躇いが表れていて、そして自分に誤りが及ばないように精一杯言い訳をしています。師の言い訳の言葉は非常に美しい文章です。今、師が縁起の話について書いているとおりに読みます。
『縁起の要旨の説明は、昔のアーチャンが「四つのダンマ、つまりサッチャ、サッダー、パティサンディ そしてパッチャヤカーラ、この縁起は見るのが難しく、話したり説明したりするのが難いしいと言われているにふさわしく、その重さを深慮して、この縁起の話の説明は、アーガマ(阿含)とアディガマ(到達)に精通されている方以外は簡単にできる物ではないと見る」と言われているように非常に困難です。

 今日私は縁起の縁生を説明する決意をしましたが、核心の完璧さに至ったと信頼で来ません。海の深さを推定するようなものだからです。しかしこの仏教は、あらゆる角度から説明できる解説をする面があり、初期のアーチャンが説明しておかれた系統もまだ消滅していないという、この二つの理由により広い説明を始めます。みなさんお聞きなさい』。

 これが、ブッダゴーサ師が縁起の説明をした時の最高に美しい言い訳です。他の話の説明なら、師は獅子王のように堂々として言い訳をせず、機会を請うことなどありませんが、これは難しいと言い、しかし「仏教はいろんな角度の説明ができる」と見なしてしまい、「私は一つの角度からの説明をしなければならない」という理由で、そしてもう一つは「過去のアーチャンたちも縁起の説明をしたことがあるので、自分もその説明を掴むことができる」と見なして、敢えてします。

 しかしそれでもまだ、大海原は非常に深く、底を計っても届かないように、今回の師の行動が海の底まで届かないのではないかという躊躇いがあり、だから師がどんなにたくさん、どんなに詳しく説明しても、海の底に届くと保証しません。

 要するに師は非常に困難と認め、そして海の底に届いた、つまり話の核心に至ったという確信がなく、古い説明もあるので、師自身の望みで何らかの角度から説明できるので、縁起の説明をする決意をしたと見えます。

 そして師の説明は三世に跨った形で現れ、パティサンディヴィンニャーナ(結生識)が前世から現世へ来て、そして現世はパティサンディヴィンニャーナを来世に投げてやります。このようにな三世に跨る兆候があれば、その後、後世の人たちによって拡大されて強くなり、重くなり、はっきりし、著しくなります。

 この様式の説明をすると、煩悩とカンマ、例えば無明と現世のカンマであるサンカーラは、来世で結果があります。それはどんなカンマの報いも作った生で結果を受け取らず、私たちは生きている間にカンマの結果を受け取る機会がないことを意味し、煩悩がある人、あるいはカンマを作った人は、現世のカンマの結果を生きている間に受け取らないで、次の生まで待たなければならないという問題が生じます。

 もし師が、私がさっき話したようなタンマ語のジャーティ(生)という言葉を使えば毎日結果を受け取り、このように十分アカーリコ(即刻の)で、サンディティコ(自分で見える)で、過去世の煩悩とカンマが次の世で結果を出すと主張することはできません。

 次に過去世、現世、来世を一人の人として述べれば、それはサッサタディッティ(常見)になり、アンタガーヒカディッティ(辺見)になります。だからそれは、ブッダが常見と辺見をなくすために話しておかれた縁起の話を更に消滅させます。

 甚大な損害は、二つが別々の世にあるので、煩悩あるいはカンマを管理する自由がないからです。現世は報いで、自分は報いで、ここに座っている私たちは報いで、そして原因は過去の世にあり、そして現世の煩悩とカンマの結果は来世にあって、私たちに何の利益があるでしょうか。

 これを「私たちは自分がしたことの結果を生きている間に受け取る自由がない、何かをしておいて現世で満足できる結果を受け取ることはできない」と言います。このような説明をすれば。

 現世でカンマを作って来世で結果を受け取るのを待たなければならず、それでどこが嬉しいですか。それです、サヴァーッカータダンマである教えに反します。

 「サヴァーッカトー バガヴァター ダンモー=世尊が良く述べて置かれたダンマは、サンディティコ アカーリコ エーヒパッシコー」。これは全部違い、サンディティコでなく、アカーリコでなく、パッチャッタン ヴェディッタッポーではありません。ジャーティ(生まれる)という言葉の説明が間違いなので、一つの縁起で三世に跨って生まれるからです。使う言葉が混乱させることを忘れないでください。


ブッダゴーサ師の個人的な話
 次にブッダゴーサ師の個人的な部分を調べて見ます。侮辱でなく、悪口でなく、告げ口でなく、師が縁起の説明をする理由にするためで、それは私たちに観察点を与える側面があります。

 ブッダゴーサ師の生まれはバラモンで、バラモンの血統で、バラモンの一人としてトライヴェーダを修めていて、バラモンの精神があり、それから仏教で出家して、仏歴千年頃、ある集団によって「阿羅漢」と仮定されていたという観察点を立てます。考古学者は、ブッダゴーサ師はマガタの人でなく、南インドで生まれと見なし、師をマガタの人と見なしているアッタカターの記述と違いモン(族)と見る人たちもいます。

 師はバラモンの生まれで、そして仏教の阿羅漢になり、そしてブッダの縁起の説明をこのようにバラモン(式)にすれば、それは最高に辻褄が合います。つまり師がうっかりしたこともあります。うっかりしたなら、師は阿羅漢でないに違いありません。この項目はどう話しても、知性のあるみなさんの熟慮に委ねると言わせていただかなければなりません。

 次にブッダゴーサ師の清浄道論の中の奇妙なものは、私が先ほど話したようにまだあります。三世に跨る縁起の話も一つで、これは話して理解しました。次に師が仏教の何かを説明してバラモン教の話にしたものは幾つもあります。特にローカ(世界)の話、あるいはローカヴィドゥー(世界解)の話です。

 師がブッダの美徳である世界解の説明をすると、世界を全部、人々がそれまで話していたようなバラモンの世界の説明にしました。師はブッダが説明されたような世界の説明をしません。ブッダは世界を「世界も、世界が生じる原因も、世界の消滅も、世界の生滅に至らせる道も、如行は、まだ生きている、識と心がある、背丈二メートルほどの身体の中に規定しました」と説明されています。

 この項目は、背丈二メートルばかりの身体の中に、世界も、世界を生じさせる原因も、世界の消滅も、世界の消滅に至らせる道もあるというのは、すべての梵行が背丈二メートルばかりの身体の中にあり、そしてまだ生きている体で、死んだらないという意味です。命があり、正常な感覚がある身体の中に全部揃っています。

 ブッダはこの世界を知ったから、ローカヴィドゥーです。この世界とは四聖諦であり、世界、世界を生じさせる原因、世界の消滅、世界の消滅に至らせる道、それは四聖諦だからです。

 ブッダに世界の説明をする時も、あるいはブッダに捧げる時も、ブッダゴーサ師は世界をこのように説明しません。私は「師の説明はブッダ(の説明)ではない」と言います。つまり私たちが聞いている、ルアン王か何かの三界の話と同じ空間世界のように説明しました。

 それは、地球が幾つ、広さは幾ら、長さは幾ら、宇宙は幾つ、大地の厚さはどれだけ、重さはどれだけ、風の厚さはどれだけ、スメル山の高さはどれだけ、周辺の山の高さは幾ら、ヒマラヤの森の大きさはどれだけ、フトモモの木の太さは幾ら、世界の七つの木はどのようか、太陽の大きさはどれくらい、月の大きさはどれくらい、後三つの半島はどれくらいという、大昔からのバラモンの信仰から生じていて、ブッダの話ではありません。

 ローカヴィドゥー(世界解)という言葉を、「ブッダはこのように良く知っている」と、空間世界をこのように説明するのは、こういうのを私は信じません。考えて見てください。このような空間世界の説明は、バラモン(教)の話、仏教以前のヒンドゥーの話です。

 次に動物の世界についての説明になると、師は「すべての動物は根が違い、目の中の埃が多かったり少なかったり、根が勇敢だったり弱かったり、簡単に知ったり知るのが困難だったり、美しかったり美しくなかったり」と説明し、四聖諦の世界はありません。

 サンカーラ(行)の世界の説明になると、師は「ブッダはナーマルーパ(名形)の話、ヴェーダナー(受)の話、アーハーラ(食べ物)の話、ウパダーナ(取)の話、アーヤタナ(六処。六根)の話、ヴィンニャーナティティ(識住)の話、八ローカダンマ(世界法)の話、九サッダーヴァーサ(有情居)の話、十アーヤタナの話、そして十二アーヤタナ、十八ダートゥの話を知っておられる」と、このように説明し、このような話しかなく、四つの意味の世界の説明である四聖諦の話はありません。

 述べてきたような理由で、ブッダゴーサ師のローカヴィドゥー(世界解)の説明のほとんどは、明らかにバラモン(教)であり、そしてブッダである説明は細々したもので、四つの意味の、つまり世界、世界を生じさせる原因、世界の消滅、世界の消滅に至らせる道の四つの意味で、想と心がある背丈二メートルほどの身体の中にある世界と一致しません。ます。

 それはブッダ自身が繰り返し話された話です。ブッダがこのように説明されている時、ブッダゴーサ師式のこのようなローカヴィドゥーの説明は、核心と言うににふさわしいブッダではないと言います。

 本当は縁起の話こそ世界の説明、世界が生じる原因の説明、世界の消滅の説明、世界の消滅に至らせる道の説明です。「背丈およそ二メートルの体の中に」というのは、縁起の話は順観でも逆観でも、背丈およそ二メートルのまだ生きている人の中にあるという意味です。まだ生きている、まだ死んでない、背丈およそ二メートルの人の中に、縁起の順観も逆観もあり、そして自我、自分、動物、人物、何にもなる道はありません。

 次にまだ「厄介にする」という話があり、四清浄戒、あるいはこのような四つの戒は、ブッダゴーサ師の教典以外で見たことがありません。

 師は根律儀を引っ張って来て一つの戒にし、そして学生の勉強を大変にし、そしてアーチヴァパリスッディ(活命遍浄戒)を引っ張って来て戒の一つにして大変にし、そしてパッチャヴェッカナ(省察)の四つの縁、つまり三衣、食べ物、住まい、薬を戒の一つにし、それは意味のある戒を侵害して大混乱させ、基礎や基盤がある教育を困難にしました。このような戒の規定はパーリ(ブッダの言葉である経)にはありません。あるのはブッダゴーサ師の清浄道論などだけです。

 他の話、例えば二つの涅槃の話などは、阿羅漢が死んだらアヌパーディセサニッバーナ(無有余依涅槃)で、まだ生きている阿羅漢はサウパーディセサニッバーナ(有余依涅槃)と説明しています。これは清浄道論の中で非常に主張しています。例えばイティウッタカ(如是語経)など、三蔵のパーリ(ブッダの言葉である経)と一致しません。私がブッダゴーサ師に同意しない話は幾つもあり、私は百パーセント同意しません。

 まだこのように理解していない、あるいは調整できない部分があるからです。私があまり話すと、ブッダゴーサ師は百パーセント阿羅漢だと信じている人に非難されます。しかしみなさんだけにこっそり話すので、持ち帰って考えてください。私を信じる必要はありません。

 これから、縁起の話は三世に跨る話ではないに違いないと言う理由について話します。そしてそれにはどんな理由があるか、それにはたくさんの理由があります。

  1 初めの理由は、人語・タンマ語に関わりがあり、縁起は人語でないことは確かで、さっき一度話しましたが、縁起の話が人語なら、ブッダが大悟したら、菩提樹の木の下で絶命しなければなりません。無明が消滅し、サンカーラ(行)が消滅し、ヴィンニャーナ(識)が消滅し、ナーマルーパ(名形)が消滅したら、そこで絶命します。

 これです、縁起の話は人語ではないという証拠は。無明が消滅し、サンカーラが消滅し、ヴィンニャーナが消滅し、ナーマルーパが消滅して、ブッダがそこで絶命なさらず、その後四十五年間教えられたのは、縁起に使われた言葉はこのような人語ではないからです。

 生起(順観)の側の縁起も同じで、無明が生じ、サンカーラ(行)が生じ、ヴィンニャーナ(識)が生じ、ナーマルーパ(名形)が生じる、こういうのは人語のような「生まれること」ではありません。ブッダはヴェーダナー(受)が生じた途端にタンハー(欲望)、ウパダーナ(受)、バヴァ(有)、ジャーティ(生)が生じると主張なさっているからです。

 その人はまだそのように生きていますが、その人の心の中で「生まれること」があり、消滅があり、生まれる自分があり、消滅する自分があります。だからこの場合のナーマルーパ(名形。心身)という言葉はタンマ語のナーマルーパを意味します。人語のナーマルーパは、私たちにいつでもある体と心で、「生まれてからずっとある」と言います。これは、生まれてからずっと維持していると言う、極めて凡人の言葉です。

 膨れ上がったパラマッタ(最上義)、膨れ上がったアビダンマの言葉では、一心時(一回心が生じる時間)ごとに頻繁に生じていると言います。しかし本当のタンマ語である、この言葉に関わるブッダの言葉は「感情がアーヤタナに触れる度に生じ、そして一度消滅するまで無明が家主としている」と言われています。

 次に縁起の流れ全体を人語で捉えると、一本の流れに二度生まれるので、理解できない話になります。それです。三バヴァ、三ジャーティと説明しなければならず、その後サッサタディティ(常見)になります。ほら、人語とタンマ語はこのように違います。

 ここで、人語とタンマ語は天地ほどの違いがある最高に良い例、サンバヴェーシーという言葉の例をお話します。私たちが水をそそぐ時「ブーター ヴァー サムヴァヴェーシー ヴァー サッベー サッダー バヴァントゥ スキタッター」と言います。これは生き物には二種類あるという意味で、ブーターという生き物は生まれている動物、これが一つで、サンバヴェーシーはこれから生まれるために生まれる場所を探している生き物が一つです。

 一般にタイ、あるいはどこの国でも、生まれて生きているもの、例えば座っている私たちなどをブーターと言い、つまり生まれています。サンバヴェーシーの方はヴィンニャーナ(識)だけで身体がなく、空気の中に漂って生まれる場所を探していています。生まれる場所を探しているヴィンニャーナを彼らはサンバヴェーシーと呼びます。

 この説明は普通の人語で、そしてまだ他の側、つまりブッダの側ではありません。ブッダの側は、そのようなヴィンニャーナ・自我があると主張しないからです。そのように実体があって生まれる場所を探すのは常見の人たちの間だけにあり、仏教にはありません。ヴィンニャーナと呼ぶものは、いつでも縁起の物でなければならず、いつでもその場の因と縁によって生滅します。

 そのように漂っているヴィンニャーナはないので、その人たちの人語のサンバヴェーシーは、仏教のサンバヴェーシーではありません。これが私の見解です。仏教の意味のサンバヴェーシーはタンマ語の意味があり、普通の人語のとはまったく違います。仏教のサンバヴェーシーはまだ欲望、ウパダーナ(取)、自分という執着がない時の凡人の心です。

 よく聞かないと訳が分かりませんね。私たちの正常なある日ある時、私たちは欲望、ウパダーナ(取)、執着があり、「俺、俺のもの」になりますが、ほとんどの時間は何もありません。

 例えばここに座っているあなたは、自分はありませんよ。欲望もウパダーナも何もないので、正常に座って、気分も正常で、心も正常に空っぽで、私が話すのを聞いていますが、時にはあなたに著しく沸騰している欲望、ウパダーナがあり、苦が生じます。このように二種類あります。

 欲望、ウパダーナが生じて俺になり、焦燥している時はブーター(生き物)で、つまり生まれていて、正常な時はサンバヴェーシーで、いつか生まれるまで待っていて、生まれる準備があります。これが、水を注いで捧げるべき二種類の生き物です。生まれている時は愚かで、まだ生まれていなければ何も知りません。

 ちょっとアビダンマの言葉で言えば、バヴァンガ(有分。潜在意識)の中にない心、つまりバヴァンガより覚めて考えはあり、しかし俺、俺のものには至らない、縁起の流れがない普通の心、世間一般の人の日常にある自然な、普通に空っぽの心がサンバヴェーシーです。これは、人には自然に感覚や考えがあり、煩悩欲望「俺、俺のもの」がない時、それがサンバヴェーシーという意味です。

 あなたもサンバヴェーシー、誰でもサンバヴェーシーで、それはいつか「俺、俺のもの」が生まれるのを待っています。憐れなンバヴェーシーは、いつでも俺、俺のものが生じられる準備があります。

 次に運良く感情を得た途端にサティがぼんやりして無明に覆われ、俺、俺のものが生じ、これでブーターになり、更に憐れになり、ブーターもサンバヴェーシーも慈悲を受け、水を注いで捧げられるべきですが、強い俺、俺のものがあればブーターになり、一時その威力がなくなり、例えば怒る、あるいは愛すなどして一時間もしないうちに威力を失い、そして再びブーターが死んでサンバヴェーシーになります。

 そしてサンバヴェーシーはそのような時を待ち、一時ブーターになり、愛や怒りや憎しみや怖れ、縁起である何かによって一時俺、俺のものになり、それで一度ブーターになり、そして一時その場合の原因と縁が衰退消滅して、再びサンバヴェーシーになります。

 私は、サンバヴェーシーはそのようだと主張します。それは有益に使うことができ、実践でき、管理でき、何でもでき、そして利益があります。それは彼らが「人が死んで体が棺に入ると、ヴィンニャーナが漂ってサンバヴェーシーに生まれる」と話しているのと違います。そのようなのを私はサンバヴェーシーと見なしません。

 そして関わりません。何の利益もなく、そして見ることができず、理解ができず、他人の言いなりに信じなければならないからです。おまけに常見のサンバヴェーシーでもあります。

 次に、このように型破りの見解を後ろ盾してくれるパーリ(ブッダの言葉)があり、アビサマヤサンユッタのマハーヴァッガ、第三~四経の中の四食の話です。ブッダは四つの食べ物、つまりカヴァアリンカーラーハーラ(食事)、パッサーハーラ(触食)、マノーサンチェタナーハーラ(意志食)、ヴィンヤーナ-ハーラ(識触)の四つで、みなさんナックタム(僧の検定試験)二級で勉強しました。

 みなさんは四食とは何か、そしてこの四つの食べ物をブッダは「ブーターナン サッダーナン ティティヤー=生まれた生き物、つまりブータサッターが維持できるために、サンバヴェーシーナン サッターナン アヌッガハーヤ=まだサンバヴェーシーである生き物の支援のため」と言われていると鮮明に記憶していてます。

 この四つの食べ物を、生きている人の日常生活の話に四つの食べ物があると説明して見せる例えと一緒に説明されています。だから二種類の生き物は、ある日の私たちです。四つの食べ物はサンバヴェーシーたちを支援する義務がありますが、最高に必要な義務は、生まれたブータサッターを受け止める基盤であることで、このように違います。

 この例は、サンバヴェーシーとブーターという言葉を理解するためにも、二つの様式の意味があり、人語式が一つ、タンマ語式のが一つあり、そしてタンマの教育とタンマの実践に有益に使うことができ、自分で管理できる領域にあり、関わることでも何でもできるのは、タンマ語式の説明でなければならないと理解させるためです。

 見ると奇妙で、誰でも普段はまだ煩悩が生じていないサンバヴェーシーであり、煩悩が生じて欲望、ウパダーナ(取)があるとブータサッターになるので、まだバヴァ(有)、ジャーティ(生)が終わっていない人は、同じ人が一時サンバヴェーシーになり、一時ブータサッターになり、一時サンバヴェーシーになり、一時ブータサッターになります。

 次に私たちはブータサッターもサンバヴェーシーも止めてしまいたいので、縁起の教えで正しい実践に依存しなければなりません。自分を持たず、全部でも、あるいはサンバヴェーシーのように時を待っている種類の生まれることでも、俺を生じさせてもいけません。

 サンバヴェーシーにも、ブータサッターにもなってはいけないという意味で、四つの食べ物を排除してしまうために、意味を持たせないで、四つの食べ物に加工させません。これが縁起の話の知識で、このような利益があります。これがサンバヴェーシーという言葉に関わる人語とタンマ語です。

 いずれにしても話すなら、時間の心配をしないで話してしまう方が良いので、もう一つタンマ語の例を、つまり苦という言葉を取り上げます。

 苦はいろんなレベルがあり、最高レベルのタンマ語は、縁起の中の苦です。パーリの縁起の中に「苦、苦の発生、苦の消滅」があり、それは縁起の順観と逆観です。この場合の苦はどれとも違う、縁起の話だけに使う意味があります。縁起の順観、つまり生起する形は無明がサンカーラ(行)を生じさせ、サンカーラがヴィンニャーナ(識)を生じさせ、最後に苦が生じる、これを縁起のサムダヤヴァーラ(順観)と言います。

 縁起の流れのこの部分は、誤ったパティパダー(道)と規定し、誤った道とは何か、相応部ニダーナ ブッダヴァッガの第三経を開いて見ると、誤った道とは苦を生じさせる縁起の順観です。そして正しいパティパダー(道)、正しさとは何かは、苦まで消滅する縁起の逆観です。正しいパティパダーは正しい側で、生じる側はミチャッタ、誤った側と呼びます。

 生起の側の苦は発生があり、消滅は苦の消滅があります。この場合の苦は、他のと違い、ウパダーナ(取)があって執着するから苦になる場合だけなので、プンニャービサンカーラ(徳行)、アプンニャービサンカーラ(不徳行)、アネンチャービサンカーラ(不動行)と分類したような徳も苦、罪も苦、不動も苦です。

 縁起のサンカーラはどれも苦の基盤で、サンカーラは苦に追い遣る縁という意味なので、プンニャービサンカーラは苦になります。しかし庶民はそのように理解しません。

 彼らは、徳は必ず幸福と理解します。これは徳を作るプンニャービサンカーラたちは徳を得、アプンニャービサンカーラは罪を作って罪を得、アネンチャーサンカーラは動じない状況を作って動じないことを得、このような三つは全部ウパダーナの基盤だから苦です。ウパダーナが徳を支配し、罪を支配し、不動を支配するので、三つ全部苦になります。だから縁起の中の苦という言葉は、他の苦という言葉より特別な意味があります。

 罪はミッチャッタ(邪悪)で、苦になり易いですが、徳、あるいは不動もまだ苦でミッチャッタです。徳、あるいは不動も、今ウパダーナの基盤になっているので、まだミッチャッタです。不動は、本当は徳の方へ傾いていますが、彼らは徳と呼ばず不動と呼び、罪と徳にビクともしないこびくとですが、まだ俺があります。

 この不動は、よく「すべての梵天」と呼んでいるもので、これらもまだ俺があり、罪や徳には夢中になりませんが、俺があります。動揺がなく、心はサマーバティの中、禅定の中にあっても、俺があるのでまだウパダーナの基盤であり、「俺の不動」があれば苦です。だから、徳あるいは苦という言葉は非常に混乱すると捉えてください。

 庶民は「徳なら必ず幸福になり、そして善」と言いますが、縁起の言葉では全部苦で、徳も苦、善も苦です。加工し、そしてその後加工するので、必ず苦になる縁起の物と見なします。人語とタンマ語はこのように正反対に違うと見、理解して受け入れ、そしてタンマ語を選んで縁起に使えば、簡単に縁起を理解できます。

 
2 次は縁起は執着する範囲内だけに限定されるという、ちょっと理解が難しい部分で、考えや感覚があればすべて縁起になるという意味ではありません。だから縁起の法則は胎内の子にはありません。

 憶えやすいように「縁起の法則は、胎内にいる子には使わない。胎児は無明、欲望、ウパダーナがあると言うほどハッキリした感覚がないから」と、こう話す方が良いです。子が生まれてから縁起が生じるまでに関して述べたパーリがあり、中部ムーラパンナーサ、マハータンハーサンカヤスッタで、人の一生がどのように始まるか、最高に明らかに説明されています。

 「父と母が一緒に住んでいて、そして母に生理があり、特にカンダッパが維持していれば動物は生まれる」と言われました。父と母が一緒に住んでなければ生まれる機会はなく、父と母が一緒に住んでいても母に生理がなければ、それも生まれる術はありません。あるいは同居していて生理があっても、カンダッパが行って維持していなければ、これも生まれません。

 父母が一緒に住んでいて、母に生理があり、そしてカンダッパ、タイ語では何と訳したら良いか知りませんが、これが行って特に維持している、必ずこの三つが揃っていなければなりません。現代の学術的に言えば、このカンダッパは父の精子を意味し、そしてそれが母の卵の中で生存しています。

 このようにあれば生き物として生まれることができます。父母が同居していて母に生理があっても、カンダッパが行って維持していなければ生まれることはできません。つまり父の精子が母の卵子に混じらなければ生まれられないので、三つ揃わなければならず、そうすれば妊娠できると言います。

 次に妊娠して九か月か十か月すると母は子を出産し、母が子を出産すると大きな赤ん坊になり、玩具で遊び、砂で遊び、泥遊びをし、まだじっとしていられます。少年と呼ぶくらいになると、形・声・臭い・味・接触、そして喜びや悲しみが生じ、これが縁起の始まりです。

 縁起は胎児から始まらず、胎児にとって始めるには幼すぎ、縁起が始まるのは、執着する方の「俺」という考えが出始めた子供だけです。だから冒頭で『ソー チャックナー ルーパン ディスヴァ ピヤルーペー ルーペー サーラッチャティ=その男児が目で形を見た時、愛すべきものである形に欲情があり、アッピヤルーペー ルーペー ビャパッチャティ=当然愛さない形に憤懣があり、アヌパッティタカーヤサティ チャ ヴィハラティ=彼は行って維持しているカーヤサティがなく、つまりサティがありません。

 パリッタチェタソー =軽い心があり、つまり知識がなく、学問がなく、悪がいっぱいの心、タンチュ チェトーヴィムットゥ パンヤーヴィムットゥ ヤターブータン ナッパチャーナーティ=彼は心解脱、智慧解脱を真実のままに知らず、ヤッタッサ テー パーパカー アクッサラー ダンマー アパリセーラニルッチャンティ=知っている種類は、すべての罪や悪が、残らず消滅します』と話されたブッダバーシタ、ハッキリ書かれているパーリがあります。

 よく聞いてください。タイ語だけを復習して、もう一度要旨を掴みます。胎内の子は予定日が来ると生まれて来て、まだ小さい時は土で遊び、砂で遊び、そしてある時期、その子は五欲、つまり形・音・臭・味・接触と関わることを受け取り、愛らしい形を見ると愛し、あるいは欲しくなり、可愛くない形を見ると妨害し、その子は良く維持されたサティがない心で生活します。

 「どのようにサティを維持するか」という知識がないという意味で、あるのは無明だけで、触れて来る感情次第の軽い心です。

 ここで極めて奇妙なのは「その少年は、すべての罪や悪を消滅できる種類の心解脱、智慧解脱を真実のままに知らない」とあることで、これは滑稽ですが、最高に真実です。つまりこの少年は一度も心解脱、智慧解脱の話、心を空にする方法、感情から煩悩をなくす方法を知ったことがなく、この話を知りません。その子は解脱の話を知らず、そしてサティがないという意味です。

 次にその子供はアヌローダ(満悦)とヴィローダ(攻撃)が揃い、つまりこのように喜びと悲しみを繰り返し、幸福あるいは苦、そして苦でも幸福でもないヴェーダナー(受)を味わい、そのヴェーダナーに溺れている時は喜んで陶酔して褒めちぎり、そのような時当然ナンディ(喜び)がその少年に生じます。

 すべてのヴェーダナーのナンディは何でも、それはウパダーナ(取。執着)です。ウパダーナがあるからバヴァ(有)があり、バヴァがあるからジャーティ(生)があり、ジャーティがあるから老死があります。

 これは子供の話で、母の胎内で維持して、生まれるとまだ何も知らず、まだ縁起に関わらず、五欲に関わるようになると喜びと悲しみを知り、そして心に智慧がなく、知識がなく、解脱の話の知識、つまり苦からの解脱とサティを維持する知識がありません。何も知らないからです。

 次に幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても、五欲のヴェーダナーを味わえば、それはアビナンダティ=非常に陶酔し、アビヴァダティ=いいなぁ! 美味いなぁ!と褒めちぎる、これがアビヴァダティで、それからアッジョサーヤ ティッタティ=そのヴェーダナーの味に陶酔し惑溺します。

 そのような暮らしはナンディと呼ぶものがその少年の心に生じ、可愛い形を見ると欲しくなり、可愛くない形を見ると妨害し、こういうのはナンディが生じていて、そのナンディはウパダーナです。これがここでの縁起の始まりです。だからこの縁起の場合は、子供は五欲の意味を知るほど大きくならなければならず、そして通常その子の心には無明があり、解脱の知識がありません。

 縁起が生じるには、子供は五欲の話を知るだけ成長しなければならず、このようなものなければならず、そしてタンマの知識、あるいはヴィッチャー(明。知識)がないことがなければならず、何らかのヴェーダナーを味わえば極めて陶酔する状態があり、最高に褒め、極めて惑溺します。子供が大きくなると、結婚するほどの年にならなくてもこのような症状があります。子供は五欲の面の感情の話を知り始めるので、縁起はその子の中で始まることができます。

 私は、以前はこの話に関して非常に誤解して混乱しました。今はこのようにハッキリ説明しているブッダバーシタを見つけました。この子もバヴァ(有)がありジャーティ(生)があります。小さな子供も新しいバヴァがありジャーティがあります。それは母の胎から生まれるバヴァ、ジャーティでなく、この小さな子が五欲の面の感情に出合う度に、バヴァ、ジャーティがあります。

 述べたように死んで棺に入らなくても、毎日、毎月、毎年、幾つものバヴァ、幾つものジャーティがあり、毎日新しいバヴァがあり、ジャーティがあります。身体は死ななくても、このように次々にバヴァがあり,ジャーティがあります。これが縁起の話、小さな男児に生じたばかりの縁起の流れです。

 縁起は喜びと悲しみがあり、そしてサティがないから、サティをどのように維持するか知らず、そして滅苦をする物、つまり解脱を知らないから生じると、短くまとめることができ、心にこのような症状がなければならず、そうすれば縁起があり、そして現世に、今ここにあり、何巡か、何本か、何千巡か知れない縁起が死ぬまで繋がっています。だから縁起の一巡で三世に跨る説明は、間違いに違いないと見ます。   3 次に縁起の流れ全部が生じるのは、私たちが意識できないくらい早いという最高に重要な部分になりました。稲光と言う方が良く、ぴかっと閃光が走る、このような電光の一瞬と見ます。その中にいろんなものが十一から十二、順に、私たちに分らないようにあります。

 例えば私たちが怒って苦になった途端に、一瞬で怒りと苦になることが完了し、その一瞬に十一の区間があると知りません。無明からサンカーラ(行)、ヴィンニャーナ(識)、ナーマルーパ(名形)、アーヤタナ(六処)、パッサ(触)、ヴェーダナー(受)、タンハー(欲望)、ウパダーナ(取)、バヴァ(有)、ジャーティ(生)、十一もの区間が一瞬の中にあります。

 私たちの目などを通した感情が「電光」と呼ぶ一瞬で愛や怒りなどになってしまいます。しかしその電光は十一の部分に分けることができ、そうすれば縁起になります。

 先ほど「世界、世界を生じさせる原因、世界の消滅、世界の消滅に至らせる道は、背丈二メートルの生きている身体の中にある」と世界を説明したブッダバーシタがあります。サラーヤタナ相応、ヨーガケミヴァッガ、ローカスッタの中で、ブッダは縁起の意味の世界の発生と世界の消滅を、次のように言われています。

 『比丘のみなさん。世界の発生はどのようでしょうか。目と形に依存して眼識が生じ、三つの会合がパッサ(触)で、パッサが縁でヴェーダナー(受)があり、ヴェーダナーが縁でタンハー(欲望)があり、タンハーが縁でウパダーナ(取)があり、ウパダーナが縁でバヴァ(有)があり、バヴァが縁でジャーティ(生)があり、ジャーティが縁で老死、悲しみ嘆き、苦、憂い、悩みがあります。比丘のみなさん。これが世界の発生です』。

 このような縁起の発生は至る所にあり、ブッダは「これが世界の発生」と言われています。苦の発生は世界の発生で、内部のアーヤタナと外部のアーヤタナが触れて識が生じた時に生じたばかりです。

 次に無明がサンカーラ、ヴィンニャーナ、ナーマルーパ、アーヤタナを作る時から、「それは二、三、四の区間で加工する」と分けて見られない所が難しいです。電光より早く、幸福、あるいは苦、気分が良い、あるいは気分が悪くなったとヴェーダナーを感じるからです。

 消滅の部分も同じで、無明、サンカーラ、ヴィンニャーナの消滅は苦の消滅であり、世界の消滅です。世界の発生、世界の消滅も電光より早いです。だから緻密で特別な関心がなければ、縁起の話の中のその電光の間に十一もの状態があると理解する術はありません。

4 次にバヴァ(有)の話、ジャーティ(生)の話を、「棺に入った時に新たに生まれるのでなく、一日に何生も、何有も生まれる」と、更にハッキリ話します。

 今、口の中の食べ物を噛んで呑み込む前に、一時一口の食べ物を口の中で噛み続けて呑み込むより早く、たったそれだけの間に何回も、何周もバヴァがあり、ジャーティがあることができると話したいと思います。口の中で噛んで呑み込むまでを二分、あるいは一分と仮定すると、一分は六十秒です。その六十秒のうち、考えは美味しい話、不味い話に傾き、あるいは美味しさに関わる他の楽しい考えに夢中になります。

 それだけの間に俺、俺のものが生じることができ、呑み込むまで一時だけこのように、一時だけそのように、そして満腹するまで新しい一口を噛み、満腹するまでに数えきれないバヴァとジャーティが生じます。考えるのが得意で、感じるのが得意な人、あるいは感じるのが早く、あるいは取り囲むものが多すぎる人は、一食満腹するまで食べ物を噛む間に、数えきれないバヴァが生じ、ジャーティが生じられます。

 この話は、アビサマヤ相応、マハーヴァッガ第四経の中で『比丘のみなさん。ラーガ(貪り)、ナンディ(喜び)、タンハー(欲望)がカヴァリンカーラアーハーラ(ご飯)の中にあれば、ヴィンニャーナ(識)も特に維持し、そのカヴァリンカーラアーハーラの中で成長します。ヴィンニャーナが特に維持し、そして成長する所はどこでも、ナーマルーパ(名形)の踏み込みは当然そこにあります』と言われています。

 聞いて意味が分かりますか。深遠すぎて意味が分からないかも知れません。「比丘のみなさん。ラーガ、ナンディ、タンハーがカヴァリンカーラアーハーラの中にあれば、ヴィンニャーナも特に維持し、そのカヴァリンカーラアーハーラの中で成長します」と、もう一度言わせていただきます。

 私たちが口の中のご飯を噛んでいて、そしてラーガ(貪り)、ナンディ(喜び)、タンハー(欲望)で美味しいと感じている時、その時ヴィンニャーナ(識)は、ご飯を噛んでいる間維持し、その咀嚼の中でも成長しています。それは一口のご飯を噛み潰して呑み込むまでの間に、ヴィンニャーナを生じさせていろんなヴィンニャーナにする幾つもの過程があるほど緻密だという意味です。

 一度美味しく、一瞬美味しく、別の美味しさ、違う美味しさに変わり、ね、新しいヴィンニャーナがどんどん生じます。ヴィンニャーナが生じれば、その度にナーマルーパ(名形)が作られるという意味です。

 心の中に感覚が生じ、ヴィンニャーナの威力で一時このよう、一時そのように変化する体と心があり、「それはそれの義務をする」と言います。それはそれまで義務をしていませんが、今はヴィンニャーナの力で義務が生じ、一口のご飯を噛む間にヴィンニャーナが何回も生じ、ナーマルーパも何回も生じます。

 だからブッダは「どこででも」と言われています。どんなご飯もという意味です。「ヴィンニャーナが維持し、そして成長する所はどこでも、ナーマルーパの踏み出しは当然そこに」つまりそのご飯にあるという意味です。これは無明サンカーラによって作られたナーマルーパは、今噛んでいるご飯に関わってその度に別の形で生じて感覚が変化するので、一口を呑み込んで食べ終わるまでにいろんな形の新しいナーマルーパを作ることができるという意味です。

 パーリの中の厄介な問題はまだあり、「ナーマルーパの踏み出しがどこにあっても、つまりどんなご飯の一口でも、サンカーラの成長は当然そこにある」とあることです。それは繰り返し生じ、繰り返しサンカーラである作る威力を生じさせ、あるいは強くし、あるいは増やす結果、強いマノーカンマ(意業)であるカンマになります。

 話はまだあり「サンカーラの成長が当然ある所はどこでも、アーヤティプンババヴァービニッバッティ、つまり次の新しいバヴァに生じることは、当然そこにある」と続いています。座ってご飯を食べて噛んでいる時、そこにサンカーラの加工があるので、引き続きそこに新しいバヴァの発生があり、食事が終わらないうちに、そこに新しいバヴァが生じます。次の新しいバヴァの発生がある所に、当然次の生・老・死があります。

 この項目を彼らが説明している人語で説明すれば、全部来世、次の生の話になります。しかしパーリのブッダバーシタの文字はそのようにすることを認めず、口の中のご飯を噛んでいる時のナンディ(喜び)、ラーガ(貪り)、タンハー(欲望)が発生することについて話すだけで、何もたくさん話していません。

 カヴァリンカーラアーハーラ、つまり口で噛むご飯である食べ物の話はこのようです。

 次にパッサーハーラ(触食)、マノーサンチェタナーハーラ(意志食)、ヴィンニャーナーラ(識触)の三種も同じ教えを掴みます。これは更にルーパダンマ(形の物。物質)の側、つまりご飯の塊もこのようであると見せます。

 次にナーマダンマ(名の物。抽象)の食べ物、触食、意思食、識食はこれより素早いので、心だけで行動するナーマダンマの側の食べ物が新しいバヴァ、新しいジャーティを作って生じさせるのは更に早いです。これがこの経に関して見なければならない事実関係です。

 この規則は、私たちはラーガ(貪り)あるいはナンディ(喜び)、つまりその味の欲情、満足は味わっている時だけ生じることができ、噛むこと、食べることがなければそれは生じられないので、すべての物が生じられるのは、舌で美味しさを感じている時だけとあります。

 ラーガ、ナンディがあるのは、食べ物を噛んで、舌で美味しさを感じている時だけです。だから舌に依存するチヴァーハーヴィンニャーナ(舌識)はその食べ物の中で維持し、成長し、長ければ長いほどヴィンニャーナは大きく成長します。

 これが縁起の意味のヴィンニャーナで、サンカーラがヴィンニャーナを生じさせるというのは、パティサンディヴィンニャーナ(繋がっている魂、あるいあ識)ではなく、そして人語しか知らず、人語しか話せず、自分があってバヴァを跨ぎ、ジャーティを跨ぐと信じる人たちによって、全部パティサンディヴィンニャーナと詐称されています。

 しかしもう一度言えば、私が述べた趣旨で縁起のウパダーナ(取)、バヴァ(有)、ジャーティ(生)を生じさせる義務をする何のヴィンニャーナ(識)も、そのヴィンニャーナをパティサンディヴィンニャーナ(繋がっている識)と呼ぶことができると話すことができます。それは「俺」が生まれることを繋ぐからです。

 みなさん、ラーガ(貪り)とナンディ(喜び)が成長したこのようなヴィンニャーナ(識)は、食べ物を噛んでいる時は普通のヴィンニャーナで、庶民が話すようなパティサンディヴィンニャーナ(繋がっている魂)ではありませんが、縁起の形の普通のヴィンニャーナは、今ここで本当の縁起の意味のバヴァ、ジャーティを山ほど作ると知ってください。

 「ナーマルーパが踏み出す」という言葉を使うのは、口の中で今噛んでいる食べ物を美味しいと感じた時、踏み出したばかりという意味で、ナーマルーパはナーマルーパの義務をここで目いっぱいしたばかりで、彼らが「死んで棺に入ってから生まれる」と言うように生まれた体と心であるナーマルーパではありません。

 「サンカーラの成長」と呼ぶものは、縁起の中のサンカーラで、つまり体と言葉と心を変化させて強くする物はあり、非常に広くなるという意味です。パーリでは「サンカーラの成長は美味しい食べ物を噛んでいるその時早くなる」と言います。だからそれは新しいバヴァ(有)、新しいジャーティ(生)を作ることができ、次々にたくさん、広く新しい「俺」、新しい「俺」になります。これをサンカーラの成長と言います。

 このようなら、生老病死に関わる、あるいは何でも俺の問題がたくさんあり、そして非常に苦なので、次に最後の項目である「比丘のみなさん。アーヤトゥ ジャーティ ジャラー マラナン、当然どこにあっても、私はそれをソーソカン サラチャン アウパーヤーサンと述べます」と言われました。老いの話、死の話の自然に関わる複雑で厄介な問題は、自分のものと執着するので心を妨害する面倒な問題です。

 生老死に関わる問題がどこにあっても、何にあっても、ブッダはそれを「悲しみがあり、埃があり、憂いに満ちている」と言われています。これは、この新しい俺の状態は悲しみに満ち、煩悩に満ち、困難に満ちているという意味です。

 要するに新しいバヴァ、新しいジャーティはたくさんあり、美味しい食べ物を食べている時、一口が噛み終わらない間に数えきれないほどあり、そしてその中にラーガ(貪欲)、タンハー(欲望)、ナンディ(満足)も生じていて、そしてサンカーラも生じさせ、一回の縁起になる十分な話です。


実践法、あるいは縁起の黄道十二宮と呼ぶ
 次は実践法と呼ぶ話になりました。時間も大分過ぎましたが、まだ話は終わらず、もう一度話す機会もありません。それに縁起に関わる実践法の話をすると予定していたので、続けて話さなければなりません。

 この広い輪は最高に奇妙で、私は「縁起の黄道十二宮」と呼びます。順観から始まって逆観まで行き、そして滑稽なのは、それが「苦の功徳」を説いて見せる点です。続けて聞いてください。

 このブッダバーシタは、滅苦の話を奇妙に話します。ブッダは「私は知った。私は見た。だから私は述べる。もし私が見ず、知らなければ、私はアーサヴァ(漏)の終わりについて話さない」と言われ、アーサヴァの終わりは、当然すべての薀の発生と消滅を見て知った時にあります。

 アーサヴァの終わりを取り上げられ、それは発生と消滅を見て知った時、そしてウパダーナつまりルーパ(形)、ヴェーダナー(受)、サンニャー(想)、サンカーラ(行)、ヴィンニャーナ(識)の五つによって生じた五蘊の発生と消滅の状態を見て知った時にあり、それはどのようか、どう生じるか、どう消滅するか、その状態を本当に知ればアーサヴァの終わりになります。

 あるいはアーサヴァの終わりはこれを知ることで生じます。これはブッダが「如行はこのことを知ったので述べる」と主張されています。見たことがなく、知らなければ述べません。つまり知らない話、見えないものは絶対に話されません。

 アーサヴァ(漏)の終わりが生じれば、心は漏が終わったと知るニャーナ(智)を生じさせます。漏の終わりであるダンマのニャーナはヴィムッティ(解脱)がある時にあり、解脱があるのはヴィラーガ(離欲)があるからで、それはは離欲にもたれ掛かり、拠り所である離欲があり、ヴィラーガ(離欲)はニッビダー(厭離)に依存しなければならず、厭離はヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)に依存しなければならず、

つまりすべての物を真実のままに見、如実智見はサマーディに依存しなければならず、サマーディは幸福の感覚に依存しなければならず、幸福はパッサッディ、つまり軽安に依存しなければならず、軽安はピーティ(喜悦)に依存しなければならず、喜悦はパモーダヤ(歓喜)に依存しなければならず、歓喜はサッダー(信仰)に依存しなければならず、そしてこの信仰という部分は苦に依存しなければなりません。

 次に逆戻りして、苦はジャーティ(生)に依存しなければならず、生はバヴァ(有)に依存しなければならず、有はウパダーナ(取)に依存しなければならず、取はタンハー(欲望)に依存しなければならず、欲望はヴェーダナー(受)に依存しなければならず、受はパッサ(触)に依存しなければならず、触はアーヤタナ(六処。六根)に依存しなければならず、六処はナーマルーパ(名形)に依存しなければならず、名形はヴィンニャーナ(識)に依存しなければならず、識はサンカーラ(行)に依存しなければならず、行はアヴィッチャー(無明)に依存しなければならず、それで終わります。

 これは、アーサヴァの終わりはサッダー(信仰)に至るまで、述べたような順に縁であるものに依存しなければならないということです。私たちはブッダ、プラタム(教え)、僧に信仰があり、滅苦のための実践に信仰があります。これを信仰があると言います。

 次にもう一度逆戻りして、信仰があればパモーダヤ(歓喜)があり、歓喜があればピーティ(喜悦)があり、喜悦があればパッサッディ(軽安)があり、軽安があればスッカ(幸福)があり、幸福があれはサマーディがあり、ヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)があり、ニッビダー(厭離)、ヴィラーガ(離欲)、ヴィムッティ(解脱)があり、そして解脱があったと知るニャーナ(智)があるのでアーサヴァ(漏)の終わりがあります。これは、信仰から始まらなければならないということです。

 次は、サッダー(信仰)は苦に依存しなければならないので、これは奇妙です。「私たちの信仰は苦に依存して維持できる」と、誰も聞いたことがないと理解します。締め上げる苦がなければ、ブッダを訪ねて駆けて来ません。そうでしょう? ブッダに駆け寄ってブッダを拠り所にし、ブッダに厳格な信仰があるのは、苦に絞り上げられるからです。

 だから人生のあり方が、苦は信仰を生じさせる原因になり、苦は最高に醜いヒキガエルの頭の中のダイヤモンドのように善いものになり、苦の中に、私たちをブッダに駆け寄らせて信仰させるダイヤモンドがあります。

 このブッダバーシタでは「苦は信仰の基盤」と言われています。そして苦は無明、サンカーラ(行)、ヴィンニャーナ(識)、ナーマルーパ(名形)、つまり縁起から生じるので、「後悔してはいけない、恐れてはいけない、僻んではいけない」と説明して見せているという意味です。

 この縁起の話は、私たちが善くすれば、苦は却って信仰の基盤になり、信仰はタンマの方で絶えず成長させ、漏の終わりに至らせます。苦をこの角度で見れば、非常に醜いヒキガエルの頭の中にダイヤモンドを見つけるのと同じです。

 しかしここで、醜いので人は全部怖がってしまい、ヒキガエル、ネズミ、ヤスデ、ミミズ、何でも全部怖がりますが、苦は信仰の縁、信仰が成長する基盤と知れば、有効に使える話になるという意味です。

 さて時間も大分過ぎ、幾つもの話をしたので、録音テープでお浚いする以外に憶えられないと信じますが、縁起の話はどのような利益があるかまとめてしまいたいと思います。


まとめ

縁起についてのまとめ
 世界も、世界を生じさせる原因も、世界の消滅も、すべての世界の消滅に至らせる道も、生起の側と消滅の側の縁起の中のアーヤタナ(六処)で感情を受け取る時にあります。

 そしてそのすべては、背丈およそ二メートルのまだ生きている体の中にあり、死んだらありません。

 縁起の流れは三バヴァ、三ジャーティに分かれる道はありません。あるいは人語で話されているようにバヴァ(有)、ジャーティ(生)を跨ぎません。文字的に、つまりパティッチャという文字で理由がありません。

 パティッチャという言葉は依存という意味ですが、繋がっている種類の依存で途切れません。ここでもうちょっとパーリを教えると、パティチャは依存という意味で、つまり途切れずに続いています。

 例えば太陽があるから地球があり、地球があるから地球の水があり、地球の水があるから水蒸気があり、水蒸気があるから雨雲があり、雨雲があるから雨があり、雨があるから降り、降るから道が濡れ、道が濡れるから滑り、道が滑るからA氏が転倒し、A氏が転倒するから氏の頭が割れ、頭が割れるからA氏は医者へ行き、A氏が医者へ行ったから、医師は治療をし、治療をしたから治った、という例えのようです。

 こういうのは、切ることはできないでしょう。このように繋がっているという意味で、介入して途切れさせる物は何もありません。それがパティッチャという言葉の意味なので、縁起はこのように依存し合って生じることを意味します。だから三つのバヴァ、三つのジャーティに分けることはできません。それは文字面でも三つのバヴァ、三つのジャーティに分ける理由がありません。

 分けなければならない理由がないのは、縁起の話は本当の四聖諦の話で、日常生活の中の四聖諦だからです。三世に跨る縁起と言えば私たちにとって何の利益もなく、そしてサンディティコ、アカーリコ、そしてパッチャッタン ヴェディッタッポー ヴィンニューヒ(注)になれません。

註: ダンマの六徳。良く説かれたものであり、実践者が自分で見え、時を選ばず、他人に「来て見て」と言えるものであり、導くものであり、自分だけが受け取るものであり、誰も妨害できず、奪うこともできない、という意味。

 それに、三バヴァ(有)、三ジャーティ(生)に跨る縁起を掴めば、サーティ ケヴァッタプッタ比丘のような常見になります。

 彼が三バヴァ、三ジャーティに分けるのは愉しく論争するためで、真実はなく、楽しく縁起を教え、愉しく反論し合い、深遠なら深遠なほど楽しく、そして実践できないので利益は何もありません。それは元のパーリで正しい実践でなければならず、そして実践でき、管理でき、全部ここに、手が届く範囲になければなりません。

 私たちが実践でき、対処できるという意味ばかりです。だから三世に跨る縁起は肉腫であり、癌であり、一般の癌のように治療しても治らないパリヤッティ(学習)の肉腫です。

 次にその要旨は「感情が触れる度に縁起が生じる」とあり、感情の接触がなければならず、そしてその人は胎児でなく、赤ん坊でなく、考えることを知らない子供でなく、適度に成長して物事を知ることができるまで成長していなければなりません。

 そして彼はサティがなく、明がなく、あるのは無明だけで感情に触れ、外部のアーヤタナと内部のアーヤタナがヴィンヤーナ(識)を作り、ヴィンニャーナが即座にナーマルーパ(名形)を作り、ナーマルーパに変化させるため、あるいは無明で何かをする新しいアーヤタナ(六処)にするために即座にアーヤタナを作り、その作ることは電光のようで、たくさんなら驚愕するほどです。

 「たくさんなら驚愕するほど」という言葉を憶えてください。何かをちらっと見た時驚愕し、何かの声を聞いて驚愕し、あるいは鳥肌立つほどの出来事を見て驚愕するように、それはそれほど最高にアティマハンターラマナ(極大感情)で、驚愕します。

 サンカーラ(行)が驚愕するほどヴィンニャーナ(識)を作る場合は、その驚愕の刹那に縁起のすべての部分の状態があり、無明がサンカーラ(行)を作り、サンカーラがヴィンニャーナを作り、ヴィンニャーナがナーマルーパ(名形)を作り、ナーマルーパがアーヤタナ(六処)を作り、その触は驚愕するほど強烈で、驚愕するほど強烈なら、必ずすべてが縁起で正しく並んでいます。

 縁起は生じる苦、消滅する苦の事実を説明する話で、苦を提げたり抱えたりしてバヴァを跨ぎ、ジャーティを跨ぐ苦の所有者である人の説明ではありません。苦の所有者である人なしに、苦である人は必要なく苦は生じます。

 だからみなさん、縁起は苦の発生と苦の消滅を説明することを目指し、生じて消滅する苦の所有者である人物を説かず、その上原因と縁の規則を詳しく利益があるように、世界のどこにもないように説明する話と見てください。私は「縁起の話は原因と縁についての法則を、世界のどこにも説明できる人がないように説明している話です」と、ブッダに代わって自慢します!

 最後に「私は懺悔をします」と話したいと思います。私もかつては、ブッダの望みに反すような縁起を勉強しました。ナックタム(僧の検定試験)で勉強した頃は仕方なく、それから一年間ナックタムの教師になり、真実と違う縁起を教えました。私は三世に跨る縁起の話を間違って学び、間違って教えたことがあります。

 だから今ここで過去の罪を認め、お詫びを申し上げ、赦しを乞いたいと思います。そして何十年もの間探求する努力をし、このような状態の縁起、つまり自分で管理でき、実践でき、感情が触れた瞬間に正しいサティで防ぐことができる縁起、実践の教えである利益のある縁起を発見したと主張させていただきます。

 どのように実践するのかと問えば、感情が触れて来た時にサティがあり、苦になる類の行、識、名形、六処を作る無明を生じさせないと答える以外に答えはありません。いつでも元のままに維持し、サンバヴェーシー(生まれる場所を探している生き物)で、生まれない方が苦が生じないのでまだ良いです。

 次に、これからは正しい知識を持つよう祝福させていただきます。在家の人たちは家に帰ったら縁起を正しく知り、台所で美味しい食べ物を噛んでいても、バヴァ(有)・ジャーティ(生)が何十、何百も生じられると知ってください。このような縁起の説明をすると、私はタイだけでなく、世界中から大声で非難されます。どこの国でもバヴァを跨ぎ、ジャーティを跨ぐ話だけを教えているからです。

 スンニャター(空)の話、このアビダンマ(最高のダンマという意味)を話すだけで、タイ国内で非難され、タイ中騒がしくなります。この縁起の話をすることは、必ず世界中に響くほど非難されると知っています。しかし私はプッタタート(ブッダの奉公人)として話さなければなりません。

 私はブッダのタート(ブッダの奉公人)で、何が何か、何がブッダにとって損失かを知っているので、戦わなければならず、しなければならないので恐れません。世界中から非難されるばかりでなく、一斉に宇宙全体に響くほど非難されても恐れません。

 バヴァを跨がずジャーティを跨がない縁起と、バヴァを跨ぎジャーティを跨ぐ縁起の話はこのように違います。バヴァ・ジャーティを跨ぐ縁起は何も利益がなく、実践できず、自慢をするためであり、自分を知らない哲学者になり、実践できる縁起はブッダが話しておかれたものであり、私たちはそれで滅苦ができ、常見にも辺見にも関わらず、縁起の中に自我・自分はなく、アリヤであり、利益を伴ったものであり、利益に満ちた素晴らしいものです。

 この長い縁起の話は、ちょっと長く話さなければならない話だということです。そして話すのは一度だけで、もう一度話す機会はないかもしれません。ですから大分時間を超過し、一部の人をお煩わせしたことをお詫びさせていただきます。

 これで終らせていただきます。




縁起の話の教育に関わる説明の言葉のメモ


 縁起の教育は仏教教団員にとって重要な、あるいは必要な話で、パーリの長部、サンギーティヤドゥカンのサンギーティスッタにあるように、知った人、見た人、阿羅漢サンマーサンブッダである人、ブッダが良く話された二つのダンマは、

 『すべての比丘はその二つのダンマをサンギーティ(つまり尋問)すべきであり、そのダンマで仲違いすべきでなく、この梵行(宗教)である項目で安定し、長く維持すべきです。その項目はほとんどの大衆にとって非常に幸福のためになり、世界を援けるため、天人とすべての人間の幸福のためになります。その二つのダンマは何でしょうか。その二つのダンマとは、

 アーヤタナクサラター : アーヤタナ(六処)の話に賢い人であること。
 パティッチャサムパバータクサラター : 縁起の話に賢い人であることです』とあります。

 これは、縁起の話は私たちが助け合って、自分自身のためにも宗教のためにも、そして天人と人間のため、そして特にこの話の実践に関した問題が生じ、一致した見解がないことで述べたように仏教教団員の集団に分裂が生じないために、互いに正しい理解を生じさせる努力をしなければならないものと説明しています。

 そのようであるための道はどれでも、私経ちはその道から得られるだけ最高の利益を得ます。この講義は分裂の糸口を作る目的でなく、縁起の話を教える先生と弟子から学校以外で別の形の教育をする人までの「分裂」を無くすためです。

 縁起は仏教の心臓部、あるいは仏教の本物にふさわしい最高に深遠な話です。だから幾つかの問題を生じさせる必要があります。

 その結果その問題が戻って来て、例えば仏教教団員がこの話で仏教の本物から利益を得られないなど、宗教にとって危険になります。プラアーナンダが「スガタ様にとって縁起の話は簡単な話、浅い話に見えます」と申し上げた時、ブッダは『アーナンダ。そのように述べてはいけません。アーナンダ。そう述べてはいけません。縁起は深い話で、顔つきは深い話に見えます。

 動物の群れは知らず、私が教えるように知らず、縁起を洞察しないので、心は絡まった糸の塊のように、結ばれ合った糸の塊のように、ムンチャ草パバッチャ草のように絡まり合い、サンサーラ(輪廻)、つまり破滅、悪趣、報いを受ける場所から脱せません』とこのように言われました。(アビサマヤサンユッタ、ドゥッカヴァッガ 第十経)。

 この項目は、この話を遊び半分にしてはならず、知性と力を全部注いで、注意深くこの話を学ばなければならないと説います。

 常見しか知らな一般庶民は、いつでも自分があると考えているので、縁起の話は簡単に理解できる範囲を超えた深い話で、絡まった糸の塊のように頭を悩ます深い哲学の話になり、そして複数の盲人が象の別々の部分を撫でたように反論し合わなければならなくなります。

 しかし阿羅漢にとってこの話は自然の話になり、あるいは名前を知らなくても、掌に載せて観て楽しむ物のように開かれた科学になります。つまりその方はいろんな物を良く知り、その結果何にも執着せず、どの種の感情が触れても欲望、取は生じません。最高に完璧なサティがあるからです。

 その方は縁起の滅側の方法で完全に苦を消滅させることができますが、縁起の状態の十一の名前を知る必要はありません。その方は縁起の消滅側の方法で苦から脱しますが、その方は誰かに詳しく縁起の話を教えることはできないかも知れません。あるいは話し方を知らないほどかもしれません。こういうこともあります。それが、サンマーサンブッダが探求する段階、そして一般の人に説明して教える時に知性を使わなければならないほどの縁起の深遠さです。

 しかし多くの人が理解するのは非常に困難で、誰にも教えない方に考えや心が傾くほどで、大悟したばかりの時、徒労だと、あるいは苦労に見合う結果がないと見られましたが、最終的に大慈悲の力が、難しい話、あるいは深遠な話を教えるため、この世界にいる理解できるかもしれない人のために苦労に耐えられるよう後押ししました。

 この項目は、普通の人には理解できない話を理解できるまで説明しなければならなかったブッダのご苦労を、私たちは見なければなりません。この話についての深遠な事実は、ブッダは大変なご苦労によって宗教を公開されたという点にあります。

 つまり同時に二つの言語で話さなければなませんでした。まだ常見が厚い人、「私、私のもの」という気持ちがあり、いつでも強く執着している人に道徳を教えるためには人語で話され、そして目の中の埃が少ない人に教えるためにはタンマ語で話されたので、パラマッタダンマ(第一義諦)を理解させることができました。

 初めの財産を捨てるためにパラマッタダンマを教え、初めの財産である常見から出させ、このように二つの言語です。縁起の話はタンマ語で話さなければならないパラマッタダンマ(第一義諦)の話で、道徳と反対です。そして道徳の話のために使う人語で話すにはどんな方法で、あるいはどのようにできるかは、人語では話すことはできません。

 タンマ語で話すと、聞く人が全部人語で解釈するので理解できません。あるいは正反対に理解してしまいます。これが縁起の話を教えること関して、最初は「教えない」とブッダを挫けさせたくらい難しい問題の根源です。

 教える人もサーティ ケヴァッタプッタ比丘のようにまだ理解できません。現代の私たちも訳が分からないように教え、訳が分からない話をし、訳が分からない会話をし、教えの言葉を受け取っても実践できず、実践すればするほど遠のき、このようです。

 道徳を教えられる時は、動物がいて、人物がいて、如行自身もいるように教えなければならず、徳や善を行うよう教え、死んだら、徳や善が作っておいた結果を受け取ります。パラマッタダンマ(第一義諦)を教えられる時は、動物、人物、如行自身もなく、あるのは依存し合って一時生じるもの、いろんな縁起のものが糸のように繋がった縁起と呼ぶものだけを話されました。

 その時は「誰」と話す方法がないので誰も生まれず、あるいは常見のように誰も死んで古いカンマの結果を受け取らず、そして断見のように死んで消滅しません。今からは死んで消滅する人がいないからです。中間にいることが縁起の話、あるいはパラマッタダンマの中道で、道徳の面にも使える中道である八正道と対です。

 通常普通の人は、善の因と縁が変化しない間は、善で安心するために道徳に執着し、原因と縁が変化すると、あるいはそれが不変でないことを現わし、執着で苦になると、道徳だけの知識は拠り所にならないので、レベルが高くなった苦である感覚を排除するために、縁起の話のようなパラマッタダンマの話に向きを変えなければなりません。つまり残っている苦はなく、心は自分があることより、あるいは何か自分の物、善悪、徳と罪、幸福と苦、それらのものより上にあります。

 だから、自分があり、そしてジャーティ(生)とジャーティが繋がっている種類の縁起の話を教えるのは縁起の教えに反し、あるいは自分という感覚を終わらせるよう、あるいはすべてにおいて自分があるという感覚より上にいよう教えるブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)の教えに反します。だから縁起の話はまだ常見に依存しなければならない道徳、あるいは基本として自分がある道徳には一切関わりません。

 いずれにしても縁起の話は二種類あり、間違った説明をし、あるいは膨れ上がって実践できず、そして千年も間違った説明をしてきたのと、もう一つは正しい縁起、あるいはブッダの望みと一致する正しい説明の縁起で、今ここで実践に使うことができ、今ここで結果を得ます。すなわちアーヤタナ(六処)に接触がある時注意して、ヴェーダナー(受)にタンハー(欲望)を作らせません。

 そして縁起と呼ばずに一般に実践されているものもあり、終始満足できる結果を得ています。関心のある人は、この二種類が混合している時は、ブッダの縁起と一致させるよう注意してください。ブッダの本当の縁起は、人に善行をさせない、責任を取らせない、あるいは国を愛さない、何でも告発するのが好きな断見ではありません。そして自分自身に迷わせ、国に迷わせ、自分であり自分の物である何にでも狂ったように迷わせる常見でもありません。

 縁起は、たくさん話されているような学習面の膨れ上がった話でなく、機敏な実践の話で、感覚を管理するサティがあり、アーヤタナ(六処)に接触がある時、技術的な言葉すぎる縁起という言葉を使わずに、タンハー、ウパダーナ、バヴァ・ジャーティを生じさせないこともできます。

 注意し合わなければならないのは、仏教の心臓部である縁起の説明が、自分があり、生まれ、あるいは生まれている体の中に常に生じているような心、チェッタブータ、ヴィンニャーナやなどがある教義、アニミズムになるのは、核の時代、宇宙の時代、あるいはピンポンの時代でも、学生、あるいは西洋人に笑われます。

 この部分は厳格にタイ仏教教団員の面目を取り戻してください。人語、あるいは常見の言葉で熱心に道徳を教えるのを、タンマ語、あるいは最高に正しい見解、つまり縁起の知識でパラマッタダンマ(第一義諦)を教えるのと混同せないでください。

 縁起の教えで実践するのはパラマッタダンマの側の中道と見なします。(ニダーナ相応 アーハーラヴァッガ 第五経にある)。そして同じ経で、ロークッタラである最高に正しい見解は、縁起の知識の威力で、常見あるいは断見に傾かないディッティと明言されています。

 縁起は自分があるのと自分がないのとの真ん中にある話で、そして「これがあるからこれがあり、これが消滅すればこれが消滅する」という、独自の教えがあります。そしてこの教えが仏教を常見側にも断見側にも落とさないで、真ん中にいさせます。良く見て、ブッダでない縁起の話を教えて、ヒンドゥー教かバラモン教になってしまわないでください。

 常見がある集団は縁起と呼ぶことができないものはありません。正反対だからです。常見の形で縁起を教えるのは、縁起の教えを消滅させることです。これが注意しなければならないことです。

 パーリ、つまり元々のものであるたくさんの経の中のブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)を熟慮して見ると、ハッキリした区別があると見ることができ、まだ常見がなければならない人の道徳の話が一つ、そして常見を消滅させ、そして断見まで行かないためのパラマッタダンマの話が一つです。

 アッタカター(解説書)の時代になると至る所に多くの歪みが生じ、第一義諦の話を自分がある常見の形で説明し、この縁起も、いつでもちょっとした機会あれば「死んだら、同じ人として再び生まれる自分がある」形で説明し、あるいは物質の話だけになります。例えば地獄は死んだ後の地下の地獄を説明するだけで、もっと恐ろしい、ここにある「縁起の流れの中の地獄」を説明しません。

 縁起のヴェーダナーに生じる状態で話しておかれた地獄があれば、いつものように死んだ後地下(の地獄)に連れて行きます。だから縁起の教育では、元のパーリを根拠にしなければなりません。何も調べずにアッタカターに身を任さないでください。あるいは清浄道論などの後世に書かれた書物に百パーセント身を任さないでください。(清浄道論の著者は、アッタカター全部の編集者と同一人物と信じられています)。

 それは独占と同じで、一種類のものしか聞かなくさせます。ブッダがカーラーマスッタで与えた権利を大切にし、行使しなければなりません。そしてマハーパリニッバーナスッタなどで話されておかれたようなマハーパデーサ(四大法経)のスッタンタ側を、益々常見に傾かせる後世に書かれた書物、あるいは説明した本の奴隷にならないよう管理し防衛する道具にします。

 しかしマハーパデーサなどが掌中にあれば、私たちは何の利益もないのではなく、山積みされたゴミの中から正しい物だけを吟味して選び出すことができます。本当に選び出すためにブッダが残しておかれた規則で厳密に選別する以外、何の利益もありません。

 プラマハーサマナチャオ・プラヤーワチラニャーナワローロート殿下(第十代サンガラージャ)のような時代の哲学者はこのよう忠告され、パーリのサンギーティレベルの教典でも、このように調査するよう忠告されています。

 そして私は、ずっとあの方の言うことを聞く門弟として振舞い、どんな物、どんな問題でもマハーパデーサの教えで、タンマとヴィナヤ(法と律)、あるいは「スッテー オサーレタッバン ヴィナイェー サンダッセタッバン」と呼ぶものの大部分の原則と一致しなければ、この場合聞き間違い、記憶違い、間違った説明、あるいは教え間違いと見なします。

 縁起の場合は、常見を排除してしまうため、そして同時に断見まで行きすぎないための大原則があるので、三世に亘って同じ人物であるような理解をさせる縁起の教え方は、マハーパデーサで受け入れることができません。今印刷している「ブッダヴァチャナによる縁起」という本は、この項目をたくさん検証する助けになります。


縁起に関わる規則は次のようです。

1 バヴァ(有)あるいはジャーティ(生)は、解脱の話に知性がないアーヤタナ(六処)に接触がある度にあり、別の言い方をすれば、その接触の時、無明しかなければ縁起に加工します。

2 縁起の言葉には、苦がある、あるいは滅苦する、あるいはサーティ ケヴァッタプッタ比丘の話のように輪廻する「人物、自分、私、彼」はいません。

3 縁起の中には幸福という言葉はなく、あるのは「苦」と「滅苦」という言葉だけです。常見の基盤である幸福を説くのを目指さないからです。涅槃は最高の幸福と言うように、道徳を教える利益のために人語で苦がない状態を幸福と見なして述べる時以外は。

4 自分である種類のパティサンディヴィンニャーナ(繋がっている識)は、縁起の中になく、縁起の中のヴィンニャーナは六識と明言されています。しかしこれらのヴィンニャーナをパティサンディヴィンニャーナと呼ぶ方策を探せば、できる余地もあり、六つのヴィンニャーナ(識)が、ナーマルーパ(名形)、サラーヤタナ(六処)、パッサ(触)、ヴェーダナー(受)を生じさせ、そしてまだ縁起の終わりであるバヴァ(有)とジャーティ(生)まで続きます。

 しかしブッダはどこでも、パティサンディヴィンニャーナと呼ばれたこと、あるいは説明されたことはありません。私たちがタンマのとおりのヴィンニャーナを見るよう望まれたからです。パティサンディヴィンニャーナという言葉は後世の書物に現れたばかりで、間接的に仏教に常見を引き寄せ、仏教を全部喰い尽くしてしまう仏教の寄生虫です。

 私たちは普通に六識があり、そしてパティサンディヴィンニャーナという言葉に依存しなくても縁起があります。

5 縁起の輪の中には縁起のもの、つまり他のものに依存して生じ、次に別のものを作り出すために一時現れているものしかなく、その作り出すことを縁起と言います。関心を持つべき、あるいは教育すべき言葉は二つあり、大きな教えの言葉で「自分を生じさせてはいけない」、あるいは「常見になってはいけない」。そして「何もなくなってしまうほど自分と反対と見る、つまり断見になってもならず、中道と呼ぶ真ん中、つまり縁起にいなさい」。

6 カンマの話で述べれば、縁起は黒くも白くもないカンマと、黒いカンマ白いカンマの終わりであるものをの説明することを目指し、徳と不徳と不動は全部苦の話に仕分けして、この三つより上でなければならず、そうすれば完璧な滅苦ができます。だから自分という執着の基盤でなく、あるいはすべての点で常見ではありません。

7 仏教の教えは、現在のダンマ、あるいは常にサンディティコでなければなりません。縁起の一巡が(普通の人語の意味の)三ジャーティもの空間を使うのは、サンディティコ(現在見る)ではありません。縁起の十一の症状はいつでもサンディティコでなければならず、そうすればブッダが教えられた縁起です。

8 縁起の経はいろんな様式で話され、順観は無明から苦へ向かい、逆観は反対に苦から無明へ向かい、そしてニローダヴァーラ、つまり消滅観もあり、二つの様式で話されています。そしてまだアーヤタナ(六処)が触れる時に始まり、そして無明の名前を出さずにヴィンニャーナ(識)、パッサ(触)、ヴェーダナー(受)が生じるのもあり、ヴェーダナーが苦へ行くのだけ話されたのもあります。

 最高に珍しいのは、縁起が欲望まで行っても、サティが生じて欲望を妨害して止めることができ、そして後戻りして不思議に滅苦になると説いて主張されたように、一本の流れで順観と消逆観を一緒に話され、無明がサンカーラ(行)を生じさせ、ヴィンニャーナ(識)、ナーマルーパ(名形)、タンハー(欲望)まで行って、それから変わってタンハーの消滅を話され、ウパダーナ(取)から次々に滅苦まで行きます。

 縁起の経のすべての様式を一度に見ると、縁起の話は三バヴァ、三ジャーティの空間、あるいは時間を食う話(普通の人語の意味で)ではないと明らかに見せることができます。

9 縁起は刹那主義の話で恒常主義ではないので、「生まれる」「ジャーティ」という言葉などは、普通の人の日常の中の一つの縁起の瞬間に生れることを意味します。つまりアーヤタナ(六処)に一度接触がある時にサティがぼんやりし、貪り、怒り、迷いなどが生じ、その度に「俺」、ジャーティ(生)が生じるのを簡単に知ることができます。

 現世、来世という言葉を使うのが好きな人は、このように束の間のジャーティ(生)と捉えることもでき、まだ真実と一致し、サンディティコであり、恒常主義の言葉で、縁起の言葉でなく、縁起を理解できなくさせる人語の生れる状態(つまり母の胎内から一度出る状態)を(生と)を掴むより利益があります。私たちはどこにあるか知らない来世より、手を伸ばせば届く近さにあり、望みどおりにできる来世を好むべきです。

10 話すための縁起は哲学で、必要がなく、あまり利益がありません。本当の縁起はすべての門(目・耳・鼻・舌・体・心)でアーサヴァ(漏)を生じさせないよう慎重にする教えで、六所に接触がある時、六門にサティがあることで苦を生じさせない実践です。それは完璧な縁起の消滅形で、別の名前で呼んでも本当は同じ話です。この種の縁起をサンマーパティパダー(正しい道)と呼びます。

 すべては、実践でき、直接滅苦の利益がある本当の縁起を知るためにテストする教えで、煩悩ゆえに苦が一度生じれば縁起の一回、あるいは一巡とし、そして二度生まれることがあるにちかいです。外部のアーヤタナ(六境)と内部のアーヤタナ(六根)が触れ合った時に無明があればヴィンニャーナ(識)が生じ、これがそれまでは眠っていたのでないのと同じヴィンニャーナ(識)、ナーマルーパ(名形)、アーヤタナ(六処)の発生です。

 この時のヴィンニャーナは常見の状態にあるので、パティサンディヴィンニャーナと名付け、パッサ(触)の威力でヴェーダナー(受)が生じれば直接煩悩が生じたと見なします。つまりもう一度生まれることであるバヴァ(有)、ジャーティ(生)を生じさせるタンハー(欲望)ウパダーナ(取)が生じます。それはアッダヴァードゥパダーナ(我語取)が生じ、生、老、死、嘆き、苦、憂い、悩み、あるいはまとめて苦である五取薀と呼ぶ物から生じる非常に苦しい「俺、俺のもの」になります。

 要するに縁起の一巡の中に二度生まれることがあります。しかし死んで棺に入らなくても、死があり、生があります。人語の身体の話は、ブッダが話しておかれた縁起ではありません。

 縁起の話は目指された利益、つまりアッターヌディッティ(我見)を除去し、あるいは自分という理解を明かにして「五蘊はああいう、こういう自我」と分類して見せるだけでは足りず、すべての薀は「これがあるからこれがある云々」という教えで縁起の十一の状態が揃ってある時に生じたばかりと、縁起の状態を説明してハッキリ見せなければなりません。

 ね、煩悩、カンマ、カンマの報いも無我をハッキリ見せ、あるいは原因と結果もずっと無我と言います。縁起の状態が明らかでなく、「五蘊は無我」と聞いただけなら、相応部カッチャニヤヴァガ、プンナマスッタの中のある比丘の話のように、「発展したみなさん方。五蘊は無我と聞きました。行動した無我であるすべてのカンマは、どのように行動した無我に触れるのですか」と、滑稽な疑問が生じることができます。

 これは「薀は無我」と聞いたように無我の半分を見ることで何とか見えますが、結果があるカンマの行動をする時になると、幸福でも苦でも結果を自分のものにし、滑稽な状況を生じさせます。しかし縁起のものの状態に明るさがあれば、この種の迷いは生じられません。

 刹那主義である縁起の教えを明らかに理解する人は、述べたような自分がなく、まだこの生、次の生があり、アパーヤつまり地獄、畜生、餓鬼、阿修羅、人間、極楽、バラモン、ブッダ、プラタム、僧まで、縁起の流れの中にいることができます。

 サッチャ相応、パパータヴァッガ、第三経でブッダは、マハーパリラーハ(大焦熱)という名の地獄と言われ、サラーヤタナ相応デーヴァダヴァッガ、第二経の中で、チャパッターヤティカ(六処所属の)地獄などと言われているのは本当の地獄、あるいは常見の人たちの地下の地獄より怖いです。そして次の第三経で天国についてチャパッサーヤティカ天国と言われ、それは常見の人たちの空の上にある天国より本当の天国です。

 そのヴェーダナー(受)あるいは苦が恐怖に満ちていれば阿修羅で、死ぬほど空腹なら餓鬼で、愚かなら畜生で、人間のように適度の苦なら人間で、いろんな種類、いろんなレベルの欲情で美味しければいろんなレベルの天国で、そしていろんな種類の形禅定と無形禅定のスッカヴェーダナー(幸受)、あるいはアドッカスッカヴェーダナー(不苦不幸受)に満ちていれば、いろんな種類のブラフマ(梵天)で、棺に入った時に到達するという物より本物です。すべては仏教のオッパーティカという言葉の意味の解釈が違うからです。

 縁起の逆観の流れで、本当のブッダ、プラタム、僧を見つければ、常見の人たちが口先だけで夢中になって唱える三宝よりサンディティコであり、パッチャッタン ヴェディッタッポー ヴィンニューヒです。現世は現在をせがむ縁起で、来世は次をせがむ縁起です。

 これも母の胎内から生まれて棺に入る常見の人たちのジャーティより、ブッダの言葉の縁起でなく、人語、あるいは幼児の言葉で「生」と言うものを数える道具であるジャーティより本当の現世、本当の来世です。これもブッダのものである縁起と呼ぶものを教える教育に最高に良い助けになる物であり、後世で勝手なことを言い、現代まで言い伝えている常見のアーチャンたちのものではありません。

 「縁起の言葉、あるいはタンマの最高の言葉は、まだ必ず常見が混じっている普通の庶民の言葉と違う」という事実を理解する助けになるものは、何種類もあります。たとえば「正しい見解」と呼ぶもの、一般の凡人のために話しておかれた正しい見解は、この世界、次の世界があり、父母がいて、地獄天国があり、カンマと、カンマを作る人がいて、普通の人が理解し執着する言い回しの現世と来世でカンマの結果を受け取る人がいると明示します。

 中程度の正しい見解になると八正道のものとして現れ、このように明示されず、苦と苦の消滅だけを明示し、苦である人がいる、あるいは滅苦をする人がいると明示せず、あるいは認めません。そしてこれも正しい見解と呼びます。

 最高レベル、あるいは本当のロークッタラのレベルの正しい見解は、ニダーナ相応のアーハーラヴァッガ、第五経の中ではもっと高くなり、つまり本当の縁起を見る見解で、アッティター(自分があるという見解)に傾かず、ナッティター(自分はないという見解)にも傾きません。

 その中間、つまり「これがあるからこれがあり、これがないからこれがない」とある縁起の流れがハッキリ見えるからです。すべては自分でなく、あるいはどんな意味の人物でもなく、地獄天国と述べても道がありません。それ以上に、ここまで見ることを本当の中道と呼びます。あらゆる点で常見にも断見にも傾かないからです。

 人語の正しい見解あるいは縁起の言葉は自分があると話し、タンマ語の正しい見解あるいは縁起の言葉は自分がないと観察して見てください。しかしどちらも仏教の正しい見解です。人語は一般の人に道徳を教えるため、タンマ語は目の中の埃が少ない人に、後で聖人になるためにパラマッタダンマ(第一義諦)を教えるためです。

 ブッダは常にこのように二つの言語で話されました。そして縁起の話は道徳の話でなく、最高のパラマッタダンマの話なので、ジャーティを輪廻する自分がなく、一本の縁起で三世の空間、あるいは時間を食う必要はありません。

 最後に一本の縁起が三世になる説明、あるいは教えることを何の目的で批判するのか、熟慮しなければならない問題になりました。

 一本で(人語の)三世の場所を取る縁起の教えは、直接でも曖昧でも、ブッダゴーサ師の清浄道論から出ているという理解で一致しています。文字に現れている証拠がある限りでは、このような説明をしている清浄道論ほど古い教典はないので、私の考察は、本書の三八七頁にあるように、その教典、あるいはその教典を著したと信じられている人に突進します。

 しかし正しく言えば、熟慮はブッダゴーサ師の批判ではなく、縁起は仏教のもの、ブッダのものなので、私たちは力を合わせて正しい状態の教育と実践のために、つまり利益のためにあるようにしなければなりません。

 そして私は、ブッダの目的と違う説明をしていると見える人誰でも、その人の説明に満足しないので、考察の言葉は批判でも何でもなく、カーラーマスッタの教えに反して私、あるいは誰も信じないで、「それは何か」自分で知り、自分で見るために、もう一度縁起に関わる元のパーリに立ち戻って熟慮していただく理由の説明だけです。

 カーラーマスッタの十項で禁じているように何でも愚かにするのは、絶対に使い物になりません。アビサマヤ相応、マハーヴァッガ、第八経で、これらの問題を判断する道具として言われているように、私たちは「ヤターブータサンマッパンニャー(如実正智慧)」と言われたものを使わなければなりません。

 仮に私が本当にブッダゴーサ師の批判を目的とするなら、ブッダゴーサ師の清浄道論は、以前からあったヴィムッティマッガ(解脱道)にいろんな説話とパリヤッティ(三蔵の学習)の面の分析を上塗りした教典にすぎないという角度で批判します。話は大きくなり、そして本当の批判ですが、今私は、ブッダがたくさん話しておかれた縁起の話の説明に関心がある誰よりもブッダを愛すみなさんの関心を、もう一度引き寄せたいだけです。

 それがどんなに難しく困難でも、すべての動物の利益になるようにと望まれたものを本当にすべての動物の利益にするために、捧げる以上に捧げるものです。今のように眠らせておいて不毛にするのは、何も利益が生じない状態で反論するのに良いだけです。

 ブッダゴーサ師の説明が、パーリであるすべての経の中のブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)で検証に耐える理由がなければ、カーラーマスッタなどの気力に依存すれば、それが、ブッダタートの木っ端がサティの力でブッダゴーサ師の丸太を止めます。

 誰の笑い種になっても、この解説の冒頭で取り上げて説明したパーリ・サンギーティヤドゥカンのように、仏教の心臓部である縁起の話の教育界に、一度正しさを生じさせてしまうための己の行動に、極めてピーティ(喜悦)パモーダヤ(歓喜)があます。

プッタタート インタパンヨー
1971年9月30日


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