タンマに関心がある善人のみなさん。今日の土曜談話は、みなさん良くご存知のように「縁起に関わる実践法」と題してお話します。
パティッチャサムッパーダ(縁起)という言葉は、ほとんどの人にとって奇妙な言葉、あるいは耳慣れない言葉ですが、他の言葉に変えることができないので、この言葉を使わなければなりません。だから慣れた普通の言葉になるまで、縁起という言葉をもっともっと理解する努力をしなければなりません。それは、みなさんの義務です。
出家して勉強したことがある人はこの言葉を聞いたことがありますが、全身庶民の人は訳が分かりません。そして興味を持たない原因です。だから仏教で最も重要な話を理解しません。だから話して、最後には当たり前に理解している物にすべきと見ます
この話を話さなければならないのは、仏教の心臓部だからです。
仏教の心臓部について話す時、ほとんどの人は四聖諦を思い浮かべます。縁起は聖諦の完全形、つまり最大形と理解するので「大聖諦」と呼ばせていただきます。これから説明します。ここでは「縁起の話は大聖諦の話で、仏教の心臓部」と、一度短くまとめさせていただきます。だから非常に理解し合っている物になるまで、取り上げて話さなければなりません。
次に知っておかなければならない物です。縁起と呼ぶ物だけ、それは私たち人の中にほとんどいつでもあります。まだ何だか知らない縁起と呼ぶ物はほとんどいつでもあります。そして私たちは知りません。こういうのを「それは私たちの過ちで、タンマの過ちではない」と言います。
私たちは興味がないから、ほとんどいつでも自分の中にある物を知りません。それがどのように、ほとんどいつでも人の中にあるのか、今話して聞かせます。
この縁起の話を理解した人は誰でも、自分の苦を消滅させる実践ができます。そして別の見方をすると、誰でもしなければならない義務と捉え、そして助け合って何としても縁起の話を理解しなければなりません。この話を理解しなければならず、そして他人に理解させてやらなければならないのは、私たち一人一人の義務です。これはブッダの望みです。このようにできればブッダの悟りは、不毛ではありません。
これは四聖諦と同じです。誰も四聖諦を知る人がいなければブッダが大悟したことは不毛になり、何の利益もありません。縁起の話はそれ以上で、十分完璧な聖諦の話という意味です。要するに私たちは力を合わせて、縁起の話を仏教教団員全員に広く知らせなければなりません。これが初めの理由です。略して「なぜ私は大聖諦である縁起の話をしなければならないか」と言います。
次に縁起の話は何の話か、そしてなぜこの話がなければならないか、何のための縁起か、そしてどんな方法ですればあるかという項目で、この話をもっとはっきり説明します。
1 縁起(パティッチャサムッパーダ)とは何かと問えば、縁起とは、苦はどのように生じ、どのように消滅するかを詳しく教える説明で、苦の発生と消滅は互いに依存し合っている自然の状態があると説いて教えると答えます。天人、あるいは神聖な物、あるいはどこかの何かが苦を作って生じさせ、そして消滅させる必要はありません。
それは何重にも繋がり合い、そして依存し合って苦を生じさせ、あるいは苦を消滅させる自然の話です。パティッチャとは依存するという意味で、サムッパーダとは一斉に生まれるという意味で、互いに依存し合って一斉に生まれること。これが縁起です。
もう一部分はここにいる、あるいは輪廻する「動物、人物、自分、私、彼はない」と教える説明です。それは生じて、維持し、消滅する自然に過ぎません。縁起の話を理解すれば、私たちが「俺」と呼ぶ動物、人物、自分、私、彼、はないと理解します。人がこの話を理解できなければ、無明に覆われている自然の感覚や考えのままなので、動物、人物、自分、私、彼がいると感じます。
これが縁起の話の目的で、このようです。重要な要旨は「苦はどのように生じて消滅するか」と、「その発生と消滅は、互いに依存して生じ、消滅する」、そして「このような様相はどれも動物でもなく、人物でもなく、自分でも、私でも彼でもない」と説明して教えます。
それ以上に、依存し合って生じて消滅するのは、稲光のように強烈です。つまり電光のように素早く強烈です。みなさん、私たちに生じて来る考えは素早くて強烈と、良く観察して見てください。例えば怒りなどは稲光のように素早く生じ、これを「素早く強烈に生じる心の行動は、私たちの日常生活で苦になる稲光のよう」と言います。
それが直接縁起の話です。見えれば「実にゾッとする話」、あるいは「最高に恐ろしい話」と感じますが、見えなければ何もないのと同じです。ごく普通の言葉の「縁起」とは何かと問うなら、「苦になるために生じる、私たちの日常生活の中にある電光のように素早く強烈な心の行動」と答えます。これが縁起です。
2 二番目の問題は、なぜ私たちに縁起の話がなければならないのかと問います。
私たちは学習と実践のために縁起がなければなりません。今はこの話を知る人が誰もなく、その上まだ誤った見解です。一般の人の誤った見解は、サーティ ケヴァッタプッタ比丘の誤った見解と同じです。
この比丘は比丘でありながら「タデーヴィダン ヴィンニャーナン サンダーヴァティ サンサランティ、アナンニャン」と信じて主張する見解があります。この比丘は「この識だけが駆けて行き、輪廻し、他の物はない」と信じていました。この比丘は「その識は動物であり、人物であり、そして駆けて行って輪廻する」と、つまり「何度も生まれ、他の物はない」と信じていました。
その識が動物、あるいは人物であり、輪廻する主体と信じることは、縁起の話の真実を知らないからです。だからこのように誤った見解である見解があります。
すべての比丘がその比丘に、この見解を捨ててしまわせる努力をし、彼が捨てないので、揃ってブッダに奏上しました。ブッダは呼んで来るように言われ、そして「そのような見解があるのは本当か」と尋問なさると、この比丘は「そのような見解があるのは本当です」と、つまり「この識が輪廻し、他の物ではありません」と答えました。
次にブッダが「何があなたの識ですか」と質問なさると、この比丘は「イヴァーヤン バンテー ヴァドー ヴェーデッヨー、タトゥラ タトゥラ カラヤーナン パーパカーナン カンマーナン ヴィパーカン パティサンヴェーデーティ」と答えました。「猊下。話すことができ、あるいは何でも感じることができ、そして良いカンマでも悪いカンマでも、すべてのカンマの報いを味わう物、それが識です」という意味です。と答えました。
「識は話すことができ、何かを感じることができ、そして後でカンマの結果を味わう」と言うのは、これは更に誤った見解です。
このように捉えることがなぜ誤った見解なのか、普通の人は聞いて意味が分かりません。誰もが「識はある。そして識はこのようだ」と信じているからです。だから普通の人はそのように話して慣れているので、これが誤った見解と知りません。
このような言葉は誤った見解です。識は不変の物で、それ自体の中にある物で、ただの縁起の物(パティッチャサムッパンダンマ)縁起の結果である物ではないと主張するからです。
本当は識は縁起の物で、実体はなく、原因と縁に依存して加工することが生じ、一時だけ続いているだけという意味です。こういうのを「その識は縁起の物であり、縁起の趣旨で実体はないと見せていると見る」と言います。
次にサーティ ケヴァッタプッタ比丘は実体があると主張し、あるいは「この識は自分であり、駆けて行き、輪廻して行き、あるいはここにいる」と主張しました。彼も「話す人、いろんな感情を感じる人、そして善でも悪でも、すべてのカンマの結果を味わう人である自分があり、そのような私があり、そしてそれを識と呼ぶ」と言いました。
多くの人は邪見と知らずに、一般にこのような見解があるので、私たちには「自分はない。識は自分ではない」と真実を教える縁起の話がなければなりません。識があると言うなら、ただの縁起の物でなければなりません。つまり依存し合って生じ、連なって瞬いている自然にすぎず、どこの自分でもありません。だから縁起の話を知らなければなりません。
3 何のために縁起を知るのか
それは「人はいる。人が生まれる。人はそれらのカンマで経過する」という誤った見解から脱すため、そして完璧に滅苦をするため、つまり正しい見解をもつためです。
「識は自分」という話にまだ迷っていれば、まだ誤った見解で苦があり、そして滅苦ができません。だから本当の識の話はどのようか、つまり識は縁起の物であり、縁起の主旨で生じると知らなければなりません。こういうのは滅苦ができます。そして正しい見解、正しい理解があることで完璧な滅苦ができます。
この項目は「パティッチャサムッパンナン ヴィンニャーナナン」という短いパーリ(ブッダの言葉である経)の教えがあります。識は縁起の物。つまり互いに依存し合って生じる物で、アンヤトゥラ パッチャヤー ナッティ ヴィンヤーナッサ サムッヴァヴォー、これらの縁がなければ、識の発生はあり得ません。
これは「識に実体があれば、何の縁にも依存せずにそれ自体で生じることができるべきです。今実体はなく、あるのは生じさせる縁だけです。
しかしそれは感じたり考えたりさせ、この名形に何でもさせることができ、話させ、何でもいろいろできるほど精密なので、それがこの名形の中に、ここで識と呼ぶ自分である何かがあると誤解をさせる」と説明しています。縁起の話はこの利益のためにあります。誤った見解を捨てさせ、そして完璧な滅苦ができます。
4 どんな方法で、どうすれば滅苦ができるか
答えは今までと同じで、一般の教えでは正しい実践、つまり正しい生活、あるいは正しい生き方でできると言います。正しい生活とは、明で無明を消滅させることができる生活、知識で愚かさを消滅させる生活です。あるいはもう一度まとめると、四六時中サティがあること、そして特に感情が触れた時にサティがあることです。
「正しい生活」とはこのような生活です。いつでも、特に感情が触れた時、完璧なサティがある暮らしと理解してください。このような生活をすれば愚かさは生じることができません。無明は生じられません。無明を排除でき、残るのは明、あるいは知識だけです。これが正しい生活、苦が生じられない生活です。大きな教えでの縁起の話はこのようです。
1 縁起とは何かと問えば、それは私たちの心の中に日常的に、稲光の形で生じる苦の話を教える説明です。
2 なぜ私たちがこの話を知らなければならないのかは、人は今愚かで、この話を知らないからです。
3 何の利益のために知るのかは、正しく知り、そして苦を消滅させてしまうためです。
4 どんな方法で滅苦ができるかは、縁起の法則で正しく実践する方法です。サティが常に自覚しているので縁起の流れを生じさせません。話はこのように繋がっています。全部合わせて縁起と言います。
間違って教えるから実践できない
次にまだ凶悪な、あるいはそれ以上の問題があります。それはこの縁起の話が元のパーリ(ブッダの言葉である経)と一致しない、あるいは正しくないと言うような教え方をしている問題です。元の物であるすべてのスッタンタ(経)の中にあるパーリ、ブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)と一致しないという意味です。パーリの中にある元のと今教えているのが同じではありません。
この項目の誤訳は、元のパーリ(ブッダの言葉である経)は縁起の話を流れのように繋がっている状態で話しています。このような十一の状態の一巡が流れのように繋がっています。今は、この十一の繋がっている状態が、三生もの長い時間、過去生も現生も来生も跨ると教えています。このように教えるので何も実践できません。
元のパーリの教えでは、十一の状態は心に一回煩悩が生じる一瞬の間にあります。だから三生の時間を費やす必要はありません。時間は一生も、一年も、一か月も、一日も掛かりません。時には一瞬、一刹那だけで縁起の一巡に、苦がある一つの話になるという意味です。
つまり元のパーリと違って教えることで、縁起の話は議論する以外に何の利益もない話になりました。元のパーリで正しく教えれば、日常生活の中にある目前の問題と一致するので、最高に利益があります。だから、これからしっかり聞いてください。
よく理解するには、最初に十一の縁起の物を良く知らなければなりません。十一とは、
① アヴィッチャーパッチャヤー サンカーラー: 無明が縁でサンカーラが生じ、
② サンカーラパッチャヤー ヴィンニャーナン: サンカーラが縁で識が生じ、
③ ヴィンニャーナパッチャヤー ナーマルーパン: 識が縁で名形が生じ、
④ ナーマルーパパッチャヤー サラーヤタナン: 名形が縁でアーヤタナが生じ、
⑤ サラーヤタナパッチャヤー パッソー: アーヤタナが縁で触が生じ、
⑥ パッサパッチャヤー ヴェーダナー: 触が縁で受が生じ、
⑦ ヴェーダナーパッチャヤー タンハー: 受が縁で欲が生じ、
⑧ タンハーパッチャヤー ウパーダーナン: 欲が縁でウパダーナが生じ、
⑨ ウパダーナパッチャヤー バヴォー: ウパダーナが縁で有が生じ、
⑩ バヴァパッチャヤー ジャーティ: 有が縁で生(生れること)が生じ、
⑪ ジャーティパッチャヤー ジャラーマラナン ソーガパリデーヴァドゥッカドーマナッサウパーヤーサー: 生が縁で老があり、死、嘆き、苦しみ、悩みがあり、すべて苦である物が生じる。
十一の部分、あるいは十一の症状が依存していると数えて見ることができます。
十一の部分に依存する状態があれば、縁起の一巡、あるいは一本になります。パーリの説明の十一の部分は、何も遮る物がなく繋がっています。初めの二つが過去生にあり、真ん中の八つが現生にあり、そして後の二つが来生にあり、そして一回あるいは一巡が三生の時間を費やす必要はないと見ることができます。
そういうのは何もできません。別々に分かれているので管理できません。滅苦の実践ができません。だから今私たちは、縁起から、あるいは縁起の話の知識から何の利益も得られていません。「縁起の一巡は三生に跨っていて、それで一回」と誤解して、間違って教えているからです。
パーリを観察して見るとそのようではないと見ます。三生も待たずに、一回息を止めるだけ、あるいは場合によって二回息を止める、三回息を止めるだけで、縁起の一巡が全部揃います。しかし一回息を止めるだけでも一巡りが揃い、三生も待つ必要はありません。
縁起の流れが生じる例1
私たちの日常生活にどのように縁起があるかという例を上げて聞かせます。小さな子供が人形を落として人形が壊れ、激しく泣き出す。これはどのような縁起か、良く規定して、一時説明して聞かせます。
一人の小さな子供が激しく泣き出すのは、人形が落ちて壊れたからです。人形が落ちて壊れたのを子供が見た途端に、目が形に触れて眼識が生じ「人形が壊れた」と知ります。
普通はタンマを知らず、何も知らないので、この子には無明があり、人形が落ちて壊れた時、その子の心には無明があります。
だから無明が加工して行、つまり識になる一つの考えや思いを生じさせる威力の一種を生じさせます。
識と呼ぶ物は、人形が落ちて壊れたのを見て「人形が落ちて壊れた」と知ります。これが目の識で、目に依存して人形が落ちて壊れたのを見ます。そしてその時無明があり、サティがなく、タンマの知識が何もないので、「サティがなく、無明がある」と言います。だからこの形を苦になる方向に見る識を作り出す威力が生じます。目と形である人形、そして知る識の出会いを合わせて触と言います。
今目の触がこの子供に生じ、そしてこの触から、詳しく言えば名形である、苦になる準備ができている身体と心が生じます。
通常私たちの身体と心は苦になる状態にありません。それを苦になれる状態に加工する無明、あるいは何かがなければならないので、「名形は今、この事例で生じたばかりと言う」と知ってください。無明が識を作り出し、識はこの身体と心の状態を加工し(変化させ)、苦になる準備を整える義務をするために立ち上がるという意味です。
そしてその種の名形の中で、この時いつでも苦になれる六処が生じます。つまり正常に眠れません。そして完璧な触、この場合は苦になれる触があります。そして苦と感じる受があります。
それから苦である受は欲を生じさせ、苦の威力で欲望します。取が俺の苦と執着し、俺が生じると有と呼び、そして満開になると生と呼びます。そして人形が壊れた話に苦があって泣きます。それを憂いと言い、心の著しい乾きを意味します。
次にジャーティ(生。生まれること)の話は広い意味があり、老も死も、何でも含まれています。無明がなければ「人形が壊れた」、あるいは「人形が死んだ」、あるいはそのような何かと捉えません。そしてどんな苦も生じません。
今目いっぱい苦が生じるのは、「俺」「俺の人形」という取が生じるからです。そして人形が壊れ、無明があるので何をしても上手く行かないので泣きます。泣くのは最高度になった苦の症状で、縁起の終わりです。
この部分をほとんどの人は、タンマの言葉、あるいは縁起の言葉を理解できないので、「彼らは、人は常に生じている物と見なさず、名形が生じている、あるいは六処が生じていると見なしません。それらはまだ何も義務をしていないので、まだ生じていないのと同じと見なす」という神秘を聞いて理解できません。
何らかの自然がそれに義務をさせれば、その時生じたと言います。例えば(ほとんどの人は)目は、私たちに既にある、あるいは生じていると見なしますが、タンマの方では、目が形を見て、形を見る義務を行うまで、目はまだ生じていないと見なします。そして形が生じ、目の識が生じ、三つが力を合わせて触と呼ぶ物を生じさせ、それからこの触が受、欲望を生じさせ、最後まで次々と生じさせます。
次に、その後この子供が、人形が壊れたことを寝て考え、寝て泣いていると言えば、これは意識の話になります。眼識の話ではありません。壊れた人形について考えると心の概念である考えの話になり、そして概念と心が触れると意識を生じさせ、壊れた人形のことを考えます。
それは名形である、その時の身体と心を作り、突然苦になる六処の基盤になる名形に変え、その六処は苦の基盤である触を作って生じさせ、受、欲望、取が生じ、苦になります。人形が壊れて何日も、あるいは何週間も経つのに、再び寝て泣きます。このように繋がって作り出す考えを、「縁起は私たちの日常にある」と言います。
縁起の流れが生じる例2
別の例を上げると、ある学生が、学年末試験に落ちて寝て泣いている、あるいは卒倒したと仮定します。この子は、学年末試験の結果を知らせる名簿に自分の名前があるのを見て、あるいは自分の名前がないのを見て、試験に落ちたことが分かります。
彼は目でその発表を見ます。その発表には意味があります。ただの形ではなく、どのようか教える意味がある形です。その子が目で掲示を見ると、名形である正常な身体と心を、別の状態に変化させる類の六処を生じさせます。そして苦になる触を生じさせる状態の識が生じます。
普通にある六処は苦ではありません。このように加工されると、その六処は必ず苦になります。つまり苦を生じさせる助けになり、欲望、取になるまで、触、受があります。俺が試験に落ち、そして目が発表を見た瞬間、一瞬で倒れます。こういうのを「縁起が十一の状態の仕事をする」と言います。彼は「試験に落ちた俺」がいて、最高に苦で、最高に憂鬱で、最高に嘆きます。
その後何時間も経って、あるいは二三日して、彼はこの話を思い出して再び卒倒します。こういうのは同じ状態がある同じ縁起ですが、今回は意門、あるいは意識に依存してこのような識が生じます。
それから苦になる名形を作り、苦になる六処を作り、苦になる触、受を作り、それで欲望があり、取があり、順に苦になるように加工し、生になり、「俺は試験に落ちた」になると最高に強烈になります。
縁起の流れの譬え3
もう一つの例は、ある娘が自分の恋人が他の女性と逢引きをしているのを見ます。人々がこう話しているので、このように下品な言い方をするのをお許しください。これも十の地獄が入ったように胸が苦しいです。自分の恋人が他の女性と逢引きをしているのを見た後の娘の心は、一瞬の間に、十の地獄が入ってしまったように苦しいです。
これは、彼女の目がこの形、他の女性と会っている恋人の形に触れると、それが識を作り、その途端に眼識になるという意味です。それまでこの種の識はなく、あったのは何も義務をしない識で、あるいはないと言うこともできます。次にこの種の識と形と目が一緒になると、触になります。さっきまで触はなく、今は触があります。つまり目と形と眼識の出会いがあります。
触が生じると、それが受と欲望を生じさせます。あるいは識が生じるとこの身体と心を別の種類に変えます。それから六処、目を作り、苦になる準備が整い、そして触があり、受になり、欲である何かがあり、これは詳しく話しています。苦である受があり、足掻く欲望があり、そして「俺! 俺! 俺! 俺はマイッタ、俺は困った、俺は何々だ」と、このような取があります。
これが生であり、苦である俺です。苦である類の俺が生を得て、生まれ、必ず苦になります。あるいは俺であるだけで、執着してこの生を苦にします。俺の損失になり、このように苦があり、憂いがあり、嘆きがあります。この娘の心の中に縁起の十一の状態全部があります。これを「この縁起が目の系統に生じた」と言います。
次に、本当は恋人はどこの誰とも腕を組んで歩いていませんが、この娘が友達に騙されたと仮定して、恋人が他の女性と逢引きしていると言うのを信じます。こういうのが耳に入ります。
声が耳に触れ、無明がある耳識が生じ、サティがないのでこの識が名形、つまり六処になり、苦にする義務のための新しい身体と心を作ります。完璧な触があり、その話と一致する受、苦受になり、足掻く欲望があり、執着する取があり、めいっぱい俺、俺の物ものである有があり、苦、憂い、嘆きがある俺の生になります。
これを「彼女は耳の系統の縁起の法則による苦が全部揃っている」と言います。
次にこの娘も同じで、その後何時間も、何日も、彼女に疑念が生じるだけで、誰も教えなくても、目で見なくても、いろんな理由で推測して、恋人は他の女性と逢引きしているに違いないと内心で疑います。こういうのは意門に生じた縁起です。
ダンマーラマナ(感情である物)がマノー(意)に触れてマノーヴィンニャーナ(意識)が生じ、意識が新しい名形を作ります。つまり何もしないただの身体と心を、苦になる身体と心にします。
この名形から苦にする六処を作り、苦になる触を作り、苦になる受を作り、そして欲望があり、その受で足掻く欲望があり、取が生じて執着して苦になります。
これを「この娘のこの時の縁起は意識に依存し、彼女が目で形を見た時、彼女の縁起は眼識に依存し、本当の話でなく友達が騙すのを聞いた時は耳識に依存し、そして自分で疑念を抱いた時は意識に依存する」と言います。これは、それは他の六処に依存することもでき、そして同じように苦になるということです。
一瞬で、縁起が苦になる回路になり、一巡、あるいは十一全部の状態が揃うと、あるいは嫁が姑の顔を見た瞬間、胸が詰まって悶え苦しむ一瞬で、縁起の十一全部の状態が揃うと考えてください。
彼女が目で形を見ると、この名形を苦になる名形に変化させる眼識を作り、苦になる六処を作り、苦になる触を作り、受が生じて苦受になります。姑の顔が嫌いなので欲望で悶え苦しみ、それには取があり、有になり、生になり、姑の顔を嫌う「俺」になり、そして苦になります。この話は多少時間が掛かります。どうか我慢して聞いてください。
縁起が生じる例4
次はあの人この人について話さないで、今口の中で美味しい食べ物を噛んでいる人について話します。美味しい物を食べると、普通の人はいつでも必ずサティに欠け、必ずサティがぼんやりし、いつでも必ず無明があります。どうぞそのように理解しておいてください。最高に美味しい物を食べている時は、美味しさでサティがぼんやりしている時で、無明も混じっています。
舌で美味しさを味わっている人の考えは、同じ形の縁起の一巡で、味が舌に触れると舌識が生じ、苦になるための新しい名形を作ります。あるいは普通の名形を苦になる新しい名形に変化させます。名形が生じると、触を生じさせる準備がある六処が生じ、そしてこの場合は苦受になる受、あるいはこの場合は幸受である受が生じます。
美味しければ庶民の言葉の幸福です。しかし美味しさに執着するだけで取になり、苦の方向になります。その美味しさを惜しむので、その美味しさに執着して憂慮し、美味しさに取があります。そしてその美味しさ、あるいは幸福は途端に苦に変わります。俺は美味い! 俺は幸福だ! 俺が幸福なのは本当ですが、熱いので、その幸福に執着するので、心は幸福の奴隷になります。
これが縁起の絶妙さで、このように深遠です。庶民が話せば幸福と言い、縁起が話せば苦になります。その人の美味しさの部分にも、縁起の一巡が全部生じます。
次にまだあります。その人が美味しく食べると、明日も盗んで、もう一度食べようと考えます。その時その人は泥棒になります。盗もうと考えると盗人のような考えになり、盗人になります。仮に彼が隣の果樹園のドリアンを盗んで美味しく食べ、そして明日もまた盗んで食べようと考えれば、盗人の考え、あるいは盗人になります。心の中に一つの有が生じます。
あるいは美味しい肉を食べて、明日も撃ち殺してまた食べようと考えれば、これは猟師であることが生じます。あるいは本当に美味しさに迷っても、美味しさに溺れた天人が生れます。あるいは心の望みに噛むのが間に合わないと言うほど美味しければ、これは餓鬼です。噛むのが間に合わないほどで、美味しさに噛むのが間に合わないからです。
噛んでいる間だけの口内の美味しさにも、何種類もの縁起があると考えて見てください。だからその縁起は苦の回路の話と、良く観察して見てください。その縁起は、執着の威力で生じる苦について教える講義です。執着する取がなければならず、あれば縁起の意味で苦になります。執着に至らなければ、どんなに苦があっても縁起の苦ではありません。
縁起の苦は、いつでも必ず執着に依存する
縁起の苦は、何でも執着に依存しなければなりません。百姓が陽に曝され、風に曝されて田んぼで田植えをしていて非常に苦しくても、執着が生じなければ、その「非常に苦しい」は普通の苦で、まだ縁起の苦ではありません。縁起の苦なら、俺に関して焦燥するほど「俺は百姓に生れて不運だ。悪業の報いで汗水流さなければならない」と僻むほど執着しなければなりません。このように考えれば、こういうのは縁起の苦です。
背中がヒリヒリするほど暑くても暑いと感じるだけ、何かこのように感じるだけなら、こういうのは、俺になるほど執着してなく、まだ縁起の形の苦ではありません。だから良く観察して、そして執着されている苦なら完璧な苦で、縁起の苦でもあると、この部分を分けてしまってください。仮に鋭い刃物、カミソリなどで手を切って真っ赤な血が流れても、痛いと感じるだけで執着には至らず、縁起の苦にはなりません。
混同しないでください。縁起の苦は、いつでも無明から始まらなければなりません。行-識-名形-六処-触-受-欲望-取-有-生と、このように全部揃っていなければなりません。そうすれば縁起の苦と言います。
次に短い教えで言えば、タンマを勉強した人は「内部の六処が何らかの意味、あるいは価値がある外部の六処に出合って無明の基盤になる」と理解できます。例えば目の系統は、このように視線を投げると木が見え、石が見え、何が見えても苦はありません。見えた物は、まだ私たちにとって何の価値も意味もないからです。
しかし虎を見ると、あるいは意味がある物、女性を見る、あるいは意味がある物を見ると、一つは意味があり、もう一つは意味がないので違います。あるいは雄犬が美人を見ても意味はありませんが、若者が美人を見ると意味があります。その美人は彼にとって意味があります。だから犬が見ることは縁起の話の中になく、若者が見るのは、縁起の話の中にあります。
今人について、見る人である人について話しています。視線を投げると自然の物が見えますが、意味が生じない。こういうのは、まだ縁起の話はありません。ちらっと見てご覧なさい。周りには木があり、草があり、石があり、それに意味がある場合以外は何も意味はありません。
例えばそれがダイヤになる、あるいは神聖な石になる、神聖な木になるように、何かになれば意味があり、そして心の中で問題が生じ、そして縁起になります。
だからそれは、内部の六処である目・耳・鼻・舌・体・心が、外部の六処である形・音・臭・味・接触・考えに触れると、必ず意味がある物になり、そして無明の居場所になります。愚かさ、迷いの居場所になると規定します。その時、内部の六処と外部の六処が触れ、識を生じさせ、その接触の一瞬に識が作られます。
そしてそれが行を生じさせます。つまり更に変化させるもう一つの威力が生じて名形に加工するという意味です。見る人の身体と心を変化させ、すぐに狂う、あるいは途端に愚かになる種類の身体と心になり、苦になる準備が整います。
身体と心が変化すれば、目・耳・鼻・舌・体・心も一緒に「狂う」六処に変化するという意味です。そして狂った触が生じ、狂った受が生じ、狂った欲望、取が生じ、最後に苦になり、生である俺になり、生という言葉で十分な俺になって終わります。次に老、病、死、何の苦でも、突然意味がある物として生じます。俺の物と執着するからです。
これが日常生活の中にある縁起です。みなさんが「縁起は一瞬で十一全部の状態が揃って生じ、そして一日に何回も生じることができる」と見るに十分です。一回を三生に分けるのではありません。過去生が半分、現生が一部、来生がもう一部と、そのようではありません。
私は、それはこれほど違う見方があると観察して見ました。今教えられている縁起は、元のパーリ(ブッダの教えである経)に照らして正しくないと信じます。これから話して聞かせますが、ここで縁起と呼ぶ物は述べたようです。そして私たちの心の中を苦にするために、電光のように生じるもので、そして毎日生じる物です。
縁起の話の誕生
これから縁起の誕生についてお話します。縁起の話がどのように生まれ、どのように誕生したかは、ブッダを基準にします。つまりブッダがパーリの第十経、ブッダヴァッガ アビサマヤサンユッタ ニダーナヴァッガ、サンユッタニカーヤで話して聞かせている話を基準にします。
パーリ版なら十六巻十一頁二十六項で、その経でブッダは六年間努力されたご自身の出家について話され、しばらくそれをし、しばらくこれをし、そして最後の一時期は、今私たちが縁起と呼ぶ話を探求さないました。これはブッダバーシタを読ませていただく方が良いです。パーリには、
『比丘のみなさん。私がまだ大悟する前、まだボーディサッダーだった時、世界の動物は揃って苦に到達し、当然再び生老死があります。世界の動物が、苦である老死から出る道具である方便を知らない時はいつでも、苦から出ることは現れないという考えが生じました。
比丘のみなさん。何があれば老死があるのだろう。何が縁で老死があるのだろうという疑問が生じました。比丘のみなさん。絶妙に熟慮したので、智慧による考えが生じました。
生があるから老死がある。老死があるのは生が縁だから。
有があるから生がある。生があるのは有が縁だから。
取があるから有がある。有があるのは取が縁だから。
欲望があるから取がある。取があるのは欲望が縁だから
受があるから欲望がある。欲望があるのは受が縁だから。
触があるから受がある。受があるのは触が縁だから。
六処があるから触がある。触があるのは六処が縁だから。
識があるから名形がある。名形があるのは識が縁だから。
行があるから識がある。識があるのは行が縁だから。
無明があるから行がある。行があるのは無明が縁だから。
また別の復習をなさいました。
無明が縁でサンカーラ(行)があり、
サンカーラが縁でヴィンヤーナ(識)があり、
ヴィンニャーナが縁でナーマルーパ(名形)があり、
ナーマルーパが縁でサラーヤタナ(六処)があり、
サラーヤタナが縁でヴェーダナー(受)があり、
ヴェーダナーが縁でタンハー(欲望)があり、
タンハーが縁でウパダーナ(取)があり、
ウパダーナが縁でバヴァ(有)がり、
バヴァが縁でジャーティ(生)があり、
ジャーティが縁で老、死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、悩みがある。
すべての苦の発生はこのような状態である。
比丘のみなさん。すべての苦の発生は当然このような様相だと、目、ニャーナ、智慧、明、光が、私が今まで聞いたことがない物に生じました』。
これが、ブッダが大悟する前の縁起の探求で、苦の鎖の探求と言います。このように十一種類十一の部分で、苦が生じることを発見なさいました。六処が触れ合った時、無明が家主としているので、サティがなく、途端に識と呼ぶ物を作ります。「識は永遠の自分」と理解しないでください。それは六処が触れた時に生じたばかりです。
識が生じると、途端に行に、あるいは新しい名形を作り出す威力になります。名形は苦になるための名形に作り変えられ、そして苦になるようにする種類の六処が生じ、苦になる触が生じ、この場合だけ苦になるようにする受が順に生じ、最後に取、有、生、俺になり、十分な苦があります。
これを「それまでは、誰もこの話を発見する人はいなかった」と言います。ブッダが仏教の歴史上初めての人物であり、私たちが知る限り、縁起の話を発見して大悟した初めての人物です。だからこの話、あるいはこの経は、縁起と呼ぶ物の誕生と呼ぶことができると言います。
ここで普通の人にとってかなりややこしい話になりました。しかし仕方ありません。完璧にするために「十一種類、十一の状態がある縁起は、大悟した後のブッダバーシタで話されているように、いろんな様式がある」と話して聞かせなければなりません。
1 普通の形
時にはブッダは、無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ、名形が六処を生じさせ、六所が触を生じさせ、触が有を生じさせ、有が生を生じさせ、生が老死を生じさせると、私たちが毎日唱えているように初めから最後まで十一の状態がある縁起を普通に話されています。
こういうのは最初から最後までを縁起の一回と言います。三蔵の何十、何百の経に現れている、私たちが最も多く耳にする一般的な形です。これを第一の様式と言います。初めから終わりまで全部話します。
2 終わりから戻る形
時には終わりから初めに向かって、つまり無明から始めて行、触、苦へ行く代わりに、苦から始めて、苦は生によって生じ、生は有によって生じ、有は取によって生じ、取は欲望によって生じ、欲望は受によって生じ、受は触によって生じ、触は六処によって生じ、六所は名形によって生じ、名形は識によって生じ、識は行によって生じ、行は無明によって生じると話します。
こういうのは全部の流れを話しますが、終わりから戻って来る逆行と言います。初めから話せば順行と言います。話しやすく憶えやすい二つの形があります。
3 真ん中から始まって初めに戻る形
三番目はそのように十一の状態全部を述べず、カヴァリンカーラーハーラなどがある四つの食べ物から話し始めます。そしてこの食べ物は欲望から生じ、そして欲望は受から生じ、受は触から生じ、触は六処から生じ、六処は名形から生じ、名形は識から生じ、識は行から生じ、行は無明から生じると、真ん中の部分を掴んで話され、そして初めに、つまり無明に戻る。こういうのもあります。マハータンハーサンカヤスッタの中にもこのようにあります。
4 真ん中を掴んで最後に突進する形
四番目はまた違う形で、真ん中を掴むのは同じですが、初めに戻らず先へ突き進みます。これは非常にたくさんあり、そして多くは、基本として受の所を掴みます。幸福、苦、苦でも幸福でもない受が発端で、それから欲望が生じ、取が生じ、有が生じ、生が生じ、苦が生じて終わります。
半分でも縁起と呼びます。それも利益があるので、同じだけ「苦はどのように生じるか」を説明して見せるので、どれだけ話すか、あるいは誰にふさわしいかは、その時ブッダが望まれた利益次第ということです。
縁起の話は四つの形があり、清浄道論はとても良い喩えをしています。ある男が蔦を探しに森へ行って、蔦を切って来て有益に使います。蔦の切り方は、ある人は根元を切って先の部分を全部手繰り寄せる、これが一つの方法です。もう一つの方法は先を掴んで根元まで引き抜いてしまいます。これも一つの方法です。
次はそのようにしたくないので、そのようにしないで真ん中を切って、根元まで引き抜いて半分だけ持って行きます。これが一つの方法です。そして時にはそうしたくなく、真ん中を切って、先の半分だけを持って行くので四つの方法になります。
蔦を切って来て、あれこれ有益に使うには、当然何をしたいか、用途次第で、どれも利益があります。これが、このように四つの意味があり、四つの状態がある縁起です。清浄道論の著者であるブッダゴーサ師は、この項目に関してこのように主張しています。
四番目式は真ん中で消滅する
しかしそれでもまだ、もっと珍しい方法があります。つまり他の幾つかの経のように、苦の発生である集の部分を話して半分行き、欲望まで行くと滅の部分に変わってしまいます。
欲望が消滅し、取が消滅し、有が消滅し、生が消滅してしまいます。これは非常に珍しいですが、なぜブッダゴーサ師がこれについて話さなかったのか分かりません。話したのは初めに述べた四種類だけです。
これは無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ、名形が六処を生じさせ、六処が触を生じさせ、触が受を生じさせ、受が欲望を生じさせ、欲望まで来ると急停止して、欲望が消滅するから取が消滅し、取が消滅するから有が消滅し、有が消滅するから生が消滅し、生が消滅するから老死悲しみ嘆きが消滅すると流れを戻ると言われた所が疑わしいです。
この項目は、この部分で掌を返すような変化があるような状態があります。サティが生じるので、うっかりせず、最後まで行きません。つまり私たちは途中で気づき、思い出すことができ、縁起の形にさせません。
だから生じる話が消滅の話になり、真ん中で、欲望の所で消滅して、苦は生じないに近い状態です。原因の部分が滅の部分になり、真ん中で苦が滅してしまうので、最高に苦が生じない縁起になります。もう一つ、こういう形もあります。
これは、どのように森へ蔦を切りに行く話のようです。その地域の真ん中に行って、真ん中を掴んで、根も先端も全部引き抜きます。これも全部を手に入れることができます。
これを「ブッダが指導者に教えられた縁起の形あるいは意味で、このように幾つもの種類がある」と言います。
縁起の話
次は縁起の話について熟慮して、極めて理解している物にします。縁起の経を唱えられるのは良く、聞いて簡単に意味が分かり、唱えられない庶民は、多少大変かもしれません。しかし今日は、縁起の話の説明をすると予定しているので仕方ありません。誰がどれだけ自分の物にしても自由です。今私は縁起の十一の項目の状態を話し、「無明はサンカーラ(行)を生じさせる縁」という話から始めます。
アヴィチャー(無明)とは何でしょうか。無明とは「苦を知らないこと、苦が生じる原因を知らないこと、滅苦を知らないこと、滅苦に至らせる道を知らないこと」、この四つを知らないことを無明と言います。無明はサンカーラ(行)を生じさせる縁です。
サンカーラ(行)とは何でしょうか。ブッダは『タヨーメー ビッカヴェー サンカーラー、カーヤサンカーロー ヴァチーサンカーロー ツッラサンカーロー: 比丘のみなさん。すべてのサンカーラは三つだけ。つまりカーヤサンカーラ(身行)、ヴァチーサンカーラ(口行)、チッタサンカーラ(意行)です』と言われました。
パーリ(ブッダの言葉である経)のブッダバーシタでサンカーラという言葉の意味を、「体の義務を生じさせ、言葉の義務を生じさせ、心の義務を生じさせる物」と説明されています。ブッダバーシタは行についてこのように言っています。
しかしタンマを教える学校のみなさんはこのように教えられてなく、清浄道論式に、三つのサンカーラ(行)はプンニャービサンカーラ(現福行)、アプンニャービサンカーラ(非福行)、アネニャチャービサンカーラ(不動行)と教えるので、別の話になります。噛み合わせることもできますが、もっとたくさん説明しなければなりません。
その前に三生に跨っている縁起の説明が好きな人たちは、サンカーラという言葉の説明を、いつでもこの形、「プンニャービサンカーラ(現福行)、アプンニャービサンカーラ(非福行)、アネニャチャービサンカーラ(不動行)」の形で説明しますが、本当のパーリのブッダバーシタには「カーヤサンカーラ(身行)、ヴァチーサンカーラ(口行)、マノーサンカーラ(意行)」とあり、「サンカーラ(行)はヴィンニャーナ(識)を生じさせる」とあると知ってください。
ヴィンニャーナ(識)とは何でしょうか。ブッダは『チャジメー ビッカヴェー ヴィンヤーナカーヤー云々: 比丘のみなさん。この六つのヴィンニャーナ(識)は、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。これが六つのヴィンニャーナです』と言われています。
次に三生に跨っている縁起の説明をする人たちは、清浄道論もそうですが、パティサンディヴィンニャーナ(結生識)という、行き過ぎた説明をします。そしてその後の教科書はどれもパティサンディヴィンニャーナのような説明をします。六識のような説明ではどのような話になるか、理解できないからです。
説明者が「新たに生まれる」ことを信じているので、ヴィンニャーナ(識)という言葉をパティサンディヴィンニャーナと説明し、別の系統の別の話が生まれます。
ブッダは「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識は六識」と話して置かれたのに、私たちはこの言葉をパティサンディヴィンニャーナと説明します。次に識が名形を生じさせます。
ナーマルーパ(名形)とは何でしょうか。パーリの中でハッキリと話されています。そのブッダバーシタは『ヴェーダナー サンニャー チェッタナー パッサ マナシカーロー=これがナーマ(名)です。四つの大種形と、四つの大種形に依存する執取形、これが形です』と言われています。
これは全部一致します。誰でもこのように、体、肉体である形、あるいは体の中の気血を大種形と呼ぶと教えます。そしてその大種形に依存するいろんな状態、例えば美しい状態、美しくない状態、女性である状態、男性である状態など、このいろんな状態を執取形と言います。合計四つの形を形と言います。次に名形は六処を生じさせます。
サラーヤタナとは何でしょうか。サラーヤタナとは六処です。ブッダは『チャックアーヤタナ(目)、ソターヤタナ(耳)、ガーナーヤタナ(鼻)、チヴァハーヤタナ(舌)、カーヤーヤタナ(身)、マナーヤタナ(意)』と、私たちが唱えているように話されました。そして六処はパッサ(触)を生じさせます。
パッサ(触)とは何でしょうか。『チャジメー ビッカヴェー パッサカーヤー チャックサムパッソー ソタサムパッソー ガーナサムパッソー チヴァハーサムパッソー カーヤサムパッソーマノーサムパッソー』と言われています。これも六門の名に従った六つの触です。次に触はヴェーダナー(受)を生じさせる縁です。
ヴェーダナー(受)とは何でしょうか。受とは六つの受で、目の触から生じるヴェーダナー、耳の触から生じるヴェーダナー、鼻の触から生じるヴェーダナー、舌の触から生じるヴェーダナー、体の触から生じるヴェーダナー、心の触から生じるヴェーダナーで、目・耳・鼻・舌・体・心を基盤にしています。次にヴェーダナー(受)はタンハー(欲望)を生じさせます。
タンハー(欲望)とは何でしょうか。タンハーも六つあります。形の欲であるルーパタンハー(形欲)、声の欲であるサッダタンハー(声欲)、臭いの欲であるガンダタンハー(臭欲)、味の欲であるロサタンハー(味欲)、皮膚の接触の欲であるポッタッバタンハー(接触欲)、ダンマーラマナの欲であるダンマタンハー(法欲)です。欲望はウパダーナ(取)を生じさせる縁です。
ウパダーナ(取)とは何でしょうか。取は『チャッターリマーニ ビッカヴェー ウパダーナミ カームパダーナン ディッタパダーナン シサッバットゥパダーナン アットゥヴァードゥパダーナン』と言われ、四つの取は、みなさん良く知っているようにカームパダーナ(欲取)、ディットゥパダーナ(見取)、シーラッバトゥパダーナ(戒禁取)、アッタヴァードゥパダーナ(我語取)です。取はバヴァ(有)を生じさせる縁です。
バヴァ(有)とは何でしょうか。三つの有とは、カーマバヴァ(欲有)、ルーパバヴァ(形有)、アルーパバヴァ(無形有)で、有はジャーティ(生)を生じさせる縁です。
ジャーティ(生)とは何でしょうか。生とは生れること、あるいは降りていくこと、あるいは動物の種属の群れに一斉に発生すること、すべての薀が現れること。特に六処を得ること、これを生と言います。
ジャラーマラナン(老死)とは白髪頭になり、歯が折れ、あるいは何でも老いの症状、根の衰退を老いと言います。そして死は移動、破滅、死亡、五蘊の崩壊、死骸を捨てる、寿命の終わりを死と言います。
これは、話す言葉は普通の言葉ですが、意味は一般の意味ではない点に理解の難しさを生じさせる問題があります。「ジャーティ=生まれる」と言うのは、母親の胎から生まれるのではなく、感覚にすぎない「俺」の誕生です。
母親の胎から生まれるのは一度、一回生まれれば終わりです。そしてその後もまだ生まれることがあります。生まれてはまた生まれ、一日に何回も生まれるのは、「俺はどのようだ」と感じる有です。取で生まれれば、一つの生が生じたと言います。
このような生が生じると、すべての生れることに関わる怖れと心配があるので、母の胎から生まれる、あるいはその種の生まれることを苦と見なします。
このような生が生じると、病気の話、あるいは将来訪れる死の憂慮に拡大します。本当は病気や死はまだ訪れていないのに、苦になります。いつでも「俺の病気、俺の老い、俺の死」と見ておくので、何かの兆候があればあるだけ非常に苦になります。今私たちは気づかずに常に死を恐れ、老いを嫌います。「俺に訪れる」と考えるからです。
俺がなくなってしまうだけで、老いや死は、意味がありません。だから縁起の一巡、一本は、一回何らかの苦にする愚かさです。気に入った物を手に入れて苦になることもあり、気に入らない物を手に入れて苦になることもあり、好きか嫌いかまだ分からない物を手に入れて苦になることもあります。執着すれは全部苦になります。これが縁起の説明で、それはこのようです。
縁起の中の言葉の意味
次は最高に重要な物になりました。これらの縁起の中の言葉の意味です。
これらの言葉の意味は、タンマを知る人のタンマ語の意味で、タンマを知らない庶民の人語ではありません。私はタンマを知らない普通の人の「人語」と、タンマを知る人の「タンマ語」の二つの言語に分けます。縁起の言葉はタンマ語です。これから順に説明します。
人語の縁起の意味にすれば混乱が生じ、理解できません。例を話て聞かせると、ブッダは菩提樹の木の根元で大悟され、ブッダの大悟は無明を消滅させてしまうことができたからです。無明を消滅させてしまうことができたので行が消滅し、行が消滅すれば識が消滅し、識が消滅すれば名形が消滅し、それでなぜブッダは死なないのでしょうか。
菩提樹の木の下で大悟して無明が消滅し、無明が消滅したので行が消滅し、つまり識と名形を作り出す威力が消滅して、それでなぜブッダは、菩提樹の木の下で即死しないのか、考えて見てください。これは、縁起の中の言葉はダンマ語で、「消滅」というのはダンマ語で、「生まれる」というのもダンマ語で、身体の誕生でも身体の消滅でもないからです。
正しくない理解なら、縁起の一本で二回生まれると理解します。名形が生まれるのが一回、そして向こうの生がもう一回で、二回生まれると理解します。
二回生まれると理解すれば、縁起の流れは三生、つまり過去生、現生、来生になり、大慌ての話になって大混乱し、話と一致しません。そして最高に滑稽なのは、生まれる時は二回生まれると話し、滅あるいは死の時になると、二回死ぬと言う勇気がありません。どのように二回死ねるか知らないからです。
バヴァ(有)という言葉、「あること」「いること」、あるいは縁起の場合の「生まれる」という意味の生という言葉は、母親から生まれるという意味ではありません。母親の胎から生まれるのではなく、「俺」という感覚に変化させる取によって生まれる、抽象的な「生まれる」ことです。これはこれから引用するパーリ(ブッダの言葉である経)、マハータンハーサンカーラスッタ(大欲行経)でハッキリと言われています。
その経の中でブッダは『すべてのヴェーダナー(受)の中の何らかのナンディ(喜)をウパダーナ(取)と言う』と言われています。六処に接触があれば受が生じ、幸受・苦受・不苦不幸受でも、その受の中にナンディ(満足)があるという意味です。
それが取です。ナンディ(満足)は取です。このナンディは執着の基盤なので、ナンディがあれば、執着がなければならないという意味だからです。
ナンディは「気に入る」、あるいは「満足」という意味です。そのナンディが、ブッダが言われている種類のウパダーナ(取)です。私たちが何かに満足すれば、それに執着したという意味です。
だからその満足は取で、そして満足は受の中になければならない物です。だから受がある時はいつでも満足があり、その時は取があるということです。「ウパダーナ(取)があるからバヴァ(有)があり、バヴァ(有)があるからジャーティ(生)があり、生があるから老死が一斉に生じて苦になります」。
有と生は受・欲望・取に続いていて、死んで又生まれるのを待つ必要はないということです。死んで又生まれるのを待つ必要がないから有があり、生があります。有と呼び、生と呼ぶ物は、今ここにあります。一日に何回あるか知れません。
そして受があり、無明があり、陶酔するのはナンディ(満足)であり、そしてナンディは取です。取は有を作り、生を作ります。だから有と呼び、生と呼ぶ物は今ここにあり、一日に何回か知れません。死んで再び生まれる必要はありません。
このような状態の有、生という言葉はタンマを知る人のタンマ語であり、庶民語ではありません。庶民語なら死んで再び生まれるのを待たなければなりません。そうすれば有があり、生があります。そして一回だけです。私たち人は一度まれたら死んで棺に入り、それから新しい有があり、生があるからです。
今ダンマ語の有、あるいは生は、一日に何回もあります。俺、俺の物が一回生じると一回有があり、生があると言います。一月では何百回、一年では何千回もあり、何千の有、生があり、そして一生では何万、何十万の有、生があります。だから私たちは、日常生活の一日に何回もある有と呼ぶ物、生と呼ぶ物を知らなければなりません。
次に縁起の話は今ここ(現生)の話です。死を待つ必要はありません。あるいは三生の時間を費やして縁起の一回になるのではありません。本当は一日に何回もあるとすぐに見ることができます。
受がある時は欲望、取があります。その時は縁起の流れがあり、有があり、生があります。先ほど年度末試験に落ちた子供、あるいは恋人のことで苦になっている娘の話の例えのように、すべての人の日常生活の中にあると見せることができます。これが日常生活の中にある、ごく普通の見本です。
次に残っているのは、どのように説明すれば「ニャーナ(智)、ナーマルーパ(名形)、アーヤタナ(六処)、パッサ(触)が揃えばヴェーダナー(受)が生じられる」と見えるか、だけです。
この話は難しくありません。厄介で凶悪な犯人は受にあります。受を私たちは良く知っています。日常的に生じているので知ってしまいましょう。
もっと知りたければ手繰って行くと、受は触から生じます。触は六処から生じます。六処は名形から生じ、名形は識から生じ、識は行から生じます。行は根源である無明から生じます。
無明がないだけでこれらの物はあり得ません。苦であるような名形は生じず、苦になる六処も生じません。このような触は生じません。違う物が生じ、苦でないように生じます。だから苦だけになる名形、心身、六処、触、受を作るのは無明だけです。
タンマ語と人語を良く理解していただくために、いつでも繰り返し忠告させていただきます。「生」「生まれる」という言葉は、人語では母の胎から生まれるという意味です。タンマ語の「生まれる」というのは、それが苦になる状態の義務をした時、つまり根源である無明がある時に生まれるという意味です。
今、名形はまだ生まれていません。まだ俺、俺の物の義務をしていないからです。このように心して説教を聞いていても、それは欲望でも取でもなく、普通に経過する話で、縁起はまだありません。
話してきたすべては、「縁起の言葉はタンマ語で、特別な意味がある」と、前もって理解させるためです。庶民の言葉の意味を使わないでください。聞いて意味が分かりません。特に「生まれる」という言葉は。
次の重要な項目は「縁起は詳細な四聖諦」と知っていただきたいと思います。
縁起のサムダヤ(原因)側、つまり生起形は四聖諦の原因の話です。無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ、六処・触・受・欲望・取を生じさせる流れ全体を「縁起のサムダヤヴァーラ(集期)」と言います。これです、四聖諦の苦集諦です。
次は無明が消滅するから行が消滅し、行が消滅するから識が消滅し、識が消滅するから名形が消滅し、名形が消滅するから六処が消滅し、触が消滅し、受が消滅し、欲望が消滅し、取が消滅し、有が消滅し、生が消滅する縁起の滅の側です。これは消滅の話です。こういうのをニローダヴァーラ(滅期)と言います。これは、四聖諦の苦滅諦です。
苦については他で話しているのと同じように話されました。滅苦に至らせる道も同じように、八正道を話されています。だから縁起は詳しく話した四聖諦です。「欲望が苦を生じさせる」とこのように短く言う代わりに、十一の状態に分けて話すと縁起になります。
「欲望が消滅するから苦が消滅する」とこのように短く話す代わりに、無明が消滅し、行が消滅し、識が消滅し等々、同じように十一の状態になります。このように詳細で広いです。しかしいずれにしても同じ話で、四聖諦の話であることから脱せません。
教えと違う縁起の説明
次は最高に重要な出来事について話します。教えと違い、仏教ではありません。そして利益がなく、害だけがある縁起の説明です。
一本の縁起で三生に跨っている縁起の説明は間違っています。パーリ(ブッダの言葉である経)の教えと違い、語句も要旨も間違いです。
語句としては、パーリにある大悟前の縁起の探求の話の部分を読んで聞かせたように、「無明がサンカーラを生じさせ、サンカーラがヴィンニャーナを生じさせ、ヴィンニャーナがナーマルーパを生じさせ、ナーマルーパがアーヤタナを生じさせ、アーヤタナがパッサを生じさせる」と、ブッダは何も介入させないで続けて話されています。
そしてこのように繋がっていて途切れず、断ち切れず、交錯していません。交錯して話せば語句面で教えと違います。
意義の面でも間違いです。簡単に見える間違いは、縁起の話をされたのは、間違った見解について知り、自分、動物、人物という執着を消滅させるためです。だから「どこにも自分はない」と見せるために、十一の状態が続いているように話されました。
次に一本の縁起が三生に跨っていて、一人の人として繋がっている説明をする人がいます。前生の人の煩悩が現生で報いを生じさせる、これが一つの部分で、現生の報いが新しい生で煩悩を生じさせ、そして来生で報いを生じさせます。
このように縁起を教えれば、自我を教える話になり、冒頭で述べたサーティ ケヴァッタプッタという誤った見解の比丘のように自我があり、自分、動物、人物が輪廻する教えになります。ブッダは自我をもたないために縁起の話を教えられたのに、私たちは反対に自我があるよう教えます。ブッダはそのようにハッキリした教えを話され、私たちは反対に新しい説明をしてしまい、再び自我になる説明に戻ります。
この項目はマハーパデーサ(四大法教)などの物差し、テストする物を基準にすると、「このように教えるのは間違いだ。このような説明は間違いだ」とすぐに分かります。それは自我に戻って自我がある側と一致し、自我がない側と一致しません。だから「自我がある」と言うのは、自我はないと教える仏教の教えと違います。
だから縁起を自我がないようにさせる状態で理解する人は、それは正しいです。しかし自我があるような理解は間違いです。三生に跨る状態の縁起の説明は、自我があるという考えを生じさせるよう教えるので、間違いです。直接パーリの教えのように繋がった説明をし、何も改悪せず、自我が生じる余地がなければ正しいです。
いつから間違って説明されているのか
さて次は、なぜ間違った説明があるのか、そしていつから間違った説明がされているのかという、更に緊密な知識についてお話します。
今、タイでもビルマでもスリランカでも、ほとんど同じように縁起の話を教え、つまり清浄道論にある説明のように教えます。話は三生あり、三生に跨り、最高に優秀な西洋人もこのように信じます。これによる説明は歪曲です。仏教教団員であるどの国も、一本が三生に跨る縁起だけを教えているという意味です。
私が変わったことを話すと、世界中の人から謗られると言うこともできます。私は今、三生を跨ぐ道はないと説明して見せる努力をしています。だから私は、説明にどんな違いがあるか、いつから間違った説明がされたのか、探求しなければなりません。
いつから間違った説明がされたか。これを知るのは難しいです。しかし間違った説明であることは、簡単に知ることができます。元のパーリと違い、そして自我を消滅させるために教えられた縁起の目的と違うからです。
ワット・ボーウオン(バンコクにある寺院の名)のクロムワッチラヤーナウォン・僧王殿下(タイ大サンガの首長)は、千年も前から間違って教えているという見解がおありで、三生に跨る縁起の説明を信じません。そして殿下は一生だけの説明をなさっていますが、詳しく説明なさる確信がないのでそのままになさっています。
しかし殿下が主張なさっている「たぶん千年も前から間違った説明をしている」という理解は私も同感です。しかし私は「千年以上かも」「間違った説明は千年以上前からかも」と言います。清浄道論は千五百年も前からあるからです。
清浄道論は縁起の説明を三生から始めるばかりで、全部三生に跨っています。そして清浄道論の中でブッダゴーサ師は「庶民の中に前からある解説」と書いています。ブッダゴーサ師の言葉をこれから読んで聞かせます。
話は。昔から説明されているように説明したという根拠があります。ブッダゴーサ師の時代は千五百年も前で、それからならほとんど二千年、あるいは二千年以上になります。私は、間違った説明は第三回結集後、仏歴三百年頃から、間違った説明がされていたかもしれないと見ます。だから二千二百年間も間違っていたという意味です。僧王殿下が言われたように千年ではありません。ちょっと指摘して見せます。
いつと確実に言うなら、考古学的な証拠を探さなければならず、それは非常に大変です。しかし私がこのように間違う余地がないように話すには、なぜこのような説明が生まれたのかという項目について熟慮しなければなりません。ブッダはこのように三生に跨る余地はない教えで話されたのに、なぜブッダの系統を逸れた説明が生じたか、なぜ三生を跨いで自我を持たせるのか、どうぞ、しっかり聞いてください。
この項目は、無知によってあり、無知が生じ、理解できないことが生じたと推測します。そして意図せずに推測した、あるいは憶測したことが一つです。縁起の話は仏教で最も深遠な話で、ブッダもそう言われました。そして誰もが最高に深遠な話と認めています。
次に三、四百年経つと、理解できないことが生じ、考えが分裂し始め、その後更に分裂し、最後には正反対になりました。こういうのを「誰も間違った説明をする意図はない。それは無知ゆえに」と言います。
次にもう一つ、仏教に「獅子身中の虫が生じたというのもあり得るかも」と推測して見る方が良いです。仏教の中に誰か造反者が生れて、わざと縁起の説明を仏教の教えと違う、ヒンドゥーの常見、あるいはバラモン教にしました。
ブッダの縁起は「自我、チーヴォー、アートゥマン」、あるいはそのような何かがある余地はありません。そのようになる道はありません。「ブッダ」のものだからです。そして仏教の心臓部である縁起を、このように三生に跨るように説明する人がいれば、それは自我になり、その人は仏教を呑み込むことができます。
これほど凶悪な意図があったと言えば、わざと仏教に自我を生じさせる隙を作る説明をする人がいなければならないという意味です。そうすればバラモン教は突然、一瞬で仏教を呑み込めます。これは劣悪な面からの推測です。こういうのもあり得ます。
もう一つは反対にぼんやりして、あるいは愚かで理解できないので、運転資金である、解説者に元からある知識で説明するので、気づかずに間違います。これもあり得ます。しかし意図しても意図がなくても、結果は同じです。
仏教がインドから消えたのはなぜか、知っていますか。人々はこうだから、ああだから、そうだからと言い合います。例えば外部の敵が侵入して踏み潰したからなどというのは、私は、疑わしいと言います。私は、仏教がインドから消えたのは、仏教教団員が仏教の教えを間違って解釈し始めたから、仏教の説明を誤ってしまったからと見ます。
仏教の説明を間違っただけで、例えば本当の仏教である縁起の説明がヒンドゥー(教の説明)、あるいはバラモン(教の説明)になり、三生に跨るようになり、自我になる。たったそれだけで、論理的にはあり得ます。それです。本当に、突然仏教はインドから消えてしまいました。
縁起の説明を間違えば、自我、自分があるようになります。それは仏教がインドから残らず消滅することを意味し、加えてアートゥマンがあるバラモン教の一部になってしまいました!
これです。このような出来事があった時から、間違った説明があったに違いありません。意図的か、意図がなかったかは、今はまだ知り難いです。バラモン教は仏教の敵で、仏教を呑み込みたかったので、呑み込む努力をする人がいたに違いありません。
これはあり得ることで、言い掛かりではありません。仏教は常見ではないので、動物、人物、自分がなく、あの人この人が輪廻してその人に生まれると話しません。仏教には動物も人もいませんが、「動物がいて、人がいて、三有三生に跨る縁起の流れで輪廻する」と話すようになりました。こういうのは、仏教も瓦壊します。
これ以前の根拠は何も文字にされていません。清浄道論が書かれた時代に文字になったばかりです。清浄道論の内容は三つのバヴァ(有)、三つのジャーティ(生)があり、パティサンディヴィンニャーナ(繋がっている識。魂)がある状態で著されています。
つまり縁起の初めの部分があり、そして新しいバヴァに生れて報いがあり、そしてこのように次のバヴァに行くための煩悩があります。このようにハッキリした文字である根拠が清浄道論の中にあります。これはまだ、たった千五百年です。
それ以前なら、第三結集の時代は、偽物の僧を捕らえて還俗させ、本当の僧は還俗する必要がなく、僧を捕えて還俗させる伝統があったことに思いを馳せるべきです。
その粛清で「あなたは仏教の教えについてどんな見解がありますか」と教えについて質問し、非分別論者のような答えをすれば、つまり生き物を縁起の物、薀、ダートゥ、アーヤタナに分割しないで、「このような自分が生死を輪廻する」と、サーティ ケヴァッタプッタ比丘のように話せば、その人は非分別論者の部類で、常見の類の間違った見解と見なされ、還俗させられました。
これは、第三結集では「自我がある。自分がある」という教義を信じる僧を還俗させ、「自我がある。自分がある」と捉えない僧だけを残したという意味です。だから兆候は、第三回サンガーヤナーの時代からありました。「自分はいる。自分がある」と見ていながら仏教で偽りの出家をした人がいたと認められるのは、それは二千二百年前です。
この項目は、仏教に自我がある説明が生じる兆しとして十分です。捕らえられて還俗したのは、たぶん全部でなく、逃れて残り、あるいは還俗させられても、偽の人としてまだ話して教えられます。
まとめると、第三結集以前、つまり仏歴三百年以前はタンマの教えは純潔で、その後から自我がある方に汚れ始めたと述べたいと思います。その時から間違って来ます。仏教がインドで消滅したのは見えています。そしてジャイナ教、あるいは人が間違ってジェン教と呼ぶニグロンダ教は、なぜインドで滅びなかったのでしょう。教えを変えなかったからです。以前と同じまま(自我)だったので滅びませんでした。
仏教は無我から自我に戻り、教えに変化が生じたので、即座に自動的に消滅したと言います。仏教に自我があり始めた途端に、仏教がインドから消えました。これは、縁起の説明が間違い始めた出来事です。しかし文字で著された証拠は清浄道論です。間もなく清浄道論の本を熟慮して見ます。ここではブッダの意思と違った縁起の説明がいつからあるか、ということだけを話したいと思います。
間違った説明をさせる原因
次に間違った説明をさせる原因は「悪意ではない」と言われるように、わざと獅子身中の虫になった人はいません。しかし自然に間違い、「愚かで無知なのでタンマ語を理解できず、理解できるのは人語だけなので、タンマ語を理解していた状態はすべて消失し、人語だけが残る。そこで人語で説明すると、常見になったから」と話したようになります。
だから私たちは、最高に重要な部分である「人」という言葉と「ナーマルーパ(名形。心身)」という言葉を、もう一度人語とタンマ語で理解しなければなりません。
庶民の言葉、あるいは人語では、私たちを「人」と呼び、タンマ語では人とは呼ばないで、「ナーマルーパ(名形)」つまり「体と心」と呼びます。次に人と呼んでもナーマルーパと呼んでも、それはどれだけ生滅し、どのように生滅するかという問題があります。
このように問えば、答えは深さによって三段階あります。
1 ナーマルーパ(名形)が心の一瞬ごとに生滅を繰り返しているのは、誰も知らない、あるいは知りたい人は誰もなく、そして名形、私たちの心身は心の一心時ごとに生滅していると知る必要がない段階と見なします。これは必要を超えたアビダンマの言葉です。
パヴァンガチッタ(潜在意識)と呼ぶ感覚で、その心が生じて、維持して、消滅し、一度心が生じて維持して消滅することを一瞬と言います。そして瞬きをする間より早いです。だからこの意味で、「ナーマルーパ(名形)」、あるいは一人の人は、一瞬毎に生滅を繰り返していて数え切れないと見なします。それを数えられる口はありません。瞬時は口で数えるより早いからです。
名形、あるいは人は、一瞬ごとに生滅しています。これが一つの意味です。それは直流発電機の周波のようです。一周期は一度電気が流れ、一回は一度電気が流れます。次にそれは一秒に千以上の周期なので(早すぎて)見えませんが、火花も散らさずに電球の中で繋がることができます。心も同じくらい頻繁なので、生滅していると感じません。
私たちはこの種の心の教育に依存しなければなりません。そうすれば名形、あるいは人は、一瞬毎に、瞬くように、あるいは私たちが毎日使っている電流の周波より早く生滅していると知ります。それは縁起に関わりがないもう一種の生滅の話です。縁起は、この種の生滅を意味しません。
一瞬毎の生滅は心のテクニックであり、縁起に関わらないアビダンマ(論蔵)の類の過剰な知識です。そしてこのような場合の「生まれる」という言葉に、彼らはジャーティという言葉を使わず、ウパーダという言葉を使います。「ウパーダ・ティティ・バンガ」、「ウパーダ・ティティ・バンガ」と、このように続きます。ウパーダは生まれる、ティティは維持している、バンガは消滅です。
ジャーティという言葉を使わずにウパーダという言葉を使いますが、意味は生まれることです。生じて、維持して、消滅し、数えられないほど瞬いている。それが名形です。あるいは人はこのように消滅しています。これが一つです。
2 もう一種類、ナーマルーパ(名形)は普通の人が知っているように生滅します。母親の胎から生まれれば生まれたと言い、死んで棺に入ると消滅と言います。八十年維持でき、百年ものこともあり、普通は八十年から百年の間に一回生まれて一回死にます。
これは生と滅、二語だけです。生と一言だけ言い、そして八十年か百年の間を経て滅と言います。名形、あるいは人が生まれるのに、あるいはこのように滅すのに、八十年か百年もの時間を食います。これが一つで、人語で話す言葉です
膨れ上がったアビダンマの言葉では数えきれないほど瞬き、人は数えきれないほど生滅の瞬きをします。次に世界の言葉の生滅は、八十年から百年の時間を食うので、数えられ、一度生を数えたら、あと百年待って滅を数えます。あっちの膨れ上がったアビダンマの言葉は行き過ぎで、こちらの人の言葉も行き過ぎです。
3 次にもう一つ真ん中に、今述べている縁起の言葉の生滅があります。縁起の言葉の「生まれる」は何らかの受が生じ、それから欲望が生じ、取が生じ、それから有、生が生じます。これは数えられ、何とか数えられ、そして見えています。人の心の中に俺という感覚が一度生まれれば一つの生、一つの有と呼びます。そしてそれは数えられます。
勤勉に観察して記録すれば、自分は今日何回「俺」が生じたか、翌日は何回生じたか、メモしておけます。これは数えられないほど瞬きません。そして母親の胎から生まれる意味ではなく、滅は棺に入るという意味ではありません。それは、私、あるいは無明によって作られた俺、俺の物の状態である名形の一回の生と滅です。
この名形は、一度苦があるようにするために俺、俺の物というウパダーナ(取)にする無明でできています。これを、初めに例を話して聞かせたように、一つの生、あるいは私たちに見えている一回の生滅と言います。これです、一日に何回も生じ、何回も滅すのは。だから縁起の言葉の生滅は特別の意味、つまり俺、俺の物の生滅だけを意味すると理解してください。
一方膨れ上がったアビダンマの言葉、あるいは母の胎から生まれて棺に入る普通の庶民の言葉は別の言語です。三つの言語を混同させないでください。混同させれば、縁起の話の意味は分かりません。縁起は中間の話だけを意味し、認識できないほど密でなく、そして一生に一回しかないほど離れていないからです。
つまり俺という取の生滅が一回という意味です。そしてそれ以上に、このような消滅をパティッチャサムッパンダンマ(縁起の物)、つまり依存し合って生滅し、依存し合って生じ、依存し合って消滅する自然の物だけと見せます。
一人の人はその時々、その場合毎に縁起の物にすぎないので、自我や自分、アートゥマンや何やらにしないでください。いつでも依存し合って生じて消滅する自然に過ぎません。仮定で人と呼ぶこともでき、ナーマルーパ(名形)、一緒に行動している心身と呼ぶこともできます。それは縁起の物だけです。それが人になるのは、俺と考えさせる無明、欲望、取によってです。
私たちはこの種の「人」を殺してしまわなければなりません。この種の「人」を殺してしまえれば、それが滅苦です。この種の人が苦の根源だからです。ブッダが縁起を説かれたのは、この種の人を生じさせないよう防止することを教えるためです。そうすれば苦になりません。これを「縁起の話である生滅はこのよう」と言います。
次に、考えや感覚があると見なさない物質だけの生滅である、もう一種の生滅、クワズイモなどが生まれることは別の話なので、一緒にしないでください。無明や取に関わらないからです。クワズイモも命があり、生まれて死にますが、無明、欲望、取に関わりません。
一緒にしないでください。それは別の生滅です。縁起の面の生滅する人、あるいはナーマルーパ(名形)を知りましょう。それは「ブッダの元々の、パーリの縁起は三生に分かれていない。日常生活の中にあり、一日に何回も、何巡りもある」とハッキリと区別してしまうためです。
三生に跨る説明は誰の物で、いつから話されているか分かりません。清浄道論に初めて文字として現れたばかりですが、兆候はもっと前にあったと見えます。この話を詳しく知りたければ、ナックタムの学校(僧の検定試験)で先生が教えている教科書の、三生に跨る縁起の話から清浄道論まで自分で読めば、三生に跨っている状態の縁起の説明が見えます。
大きな規則は、無明と行は過去生にある過去の原因で、そして欲望と取と有は現生にある現在の原因で、有の発生と生・老・死の部分は来生、未来の結果になり、それで三生になります。
もう一度復習すると、十一の縁である状態の初めの二つは過去生で、真ん中の八つは現在で、結果のもう一つ、あるいは二つは後に生じる生にしていて、このように三生に跨っています。そしてサンディと呼ぶ結び目があります。過去生と現生の間に一度、そして現生の真ん中で原因と結果を繋ぐのが一度、そして現生と来生を繋ぐのが一度。このようにハッキリとサンディがあります。
そして違うのは「遠い時代」という意味の「アッダー」という言葉を使い、アディータッダー、パッチュバンナッダー、アナーガッタッダーになります。パチュバンナッダーが一度もないパーリ(ブッダの言葉である経)と違います。
(パーリに)あるのはアディータッダーとアナーガタッダー、つまり過去の遠い時代、未来の遠い時代だけで、現在は遠いと言いません。今彼らはアッダーという言葉を「時間」と訳してしまうので、三つの時間、つまり過去と現在と未来に使うことができます。
次に十一のいろんな状態は、煩悩やカンマや報い、つまり無明は過去生の煩悩で、行は過去生のカンマで、そして識、名形、六処、触、受は現生のすべての報いで、欲望、取は現生の煩悩で、そして業有である有は現生のカンマで、来生の生を作ります。
だからこのように過去生、現生、来生の三生になります。このような説明を「三生に跨る縁起」と言い、一巡、あるいは一本で三生の時間を喰います。考えて見てください。
この話をチャオクロムプラワチラヤーナウォン・僧王殿下は「千年もの間、間違った説明をしている」と言われています。そのように信じられ、そしてどう説明するか、確信がおありでないので、多分一世だけだろうと推測なさいました。
ここで私はまだ「縁起の中の心の行動の一回は稲光のようで、無明の威力で加工が生じた時、一巡と言う」とパーリの文言どおりに探求して掴む頑固な子供です。だからその縁起は、一日だけで何十もの縁起があります。
三生に跨る縁起の説明は間違いで、パーリの、元々の、ブッダバーシタの中のたくさんのスッタンタ(経蔵)の中に見られるブッダの言葉と一致しないことが一つ。そして常見である自我、あるいはアータマンである考えに導くことが一つ。そして最悪なのは、何の利益もないこと、これが一つです。
縁起を三生に跨った物にする説明は、実践できないので何の利益もありません。原因が過去生にあり、結果が現生にあるのでは、何の解決もできません。そして現生にある原因の、結果が来生であれば、常見の人たちが夢見る以外に、誰にも何の利益もありません。
更にこのような状態はサンディティコでなく、アカーリコでなく、パッチャッタン ヴェーデタッポー ヴィンニューヒ(註)ではありません。だから三生に跨る縁起の説明は間違いと見なします。サンディティコ アカーリコ パッチャッタン ヴェディッタッポ ヴィンニューヒの教えに合わないからです。
そして何の実践にも使えないので、何の利益もなく、自我と見、自分と見る常見に導くので、止めてしまってください。そして元のパーリのように、文字通りに趣旨と一致させてください。
註: ダンマの六徳。良く説かれた物であり、実践者が自分で見え(サンディティコ)、時を選ばず(アカーリコ)、他人に「来て見て」と言えるものであり(エヒパッシコ)、導く物であり、自分だけが受け取る物であり(パッチャッタン ヴェディッタッポー ヴィンニューヒ)、誰も妨害できず、奪うこともできない、という意味。
ブッダゴーサ師
次はブッダゴーサ師についてお話します。話し掛けになっているので、話そうと思います。
ブッダゴーサ師は、ほとんどすべての仏教教団員が阿羅漢と信じています。よく聞いてくださいね。彼らはブッダゴーサ師は阿羅漢と信じています。私はどんな信仰もありません。私は彼が何をしたか、何を話したかだけを見、そして利益になる物は正しいと見なし、利益のない物は間違いと見なします。
ほとんどの人は、彼は最高に知識がある人で、最高に利益があり、何十何百の利益のある解説を残したと見ますが、この縁起の話に、私はまったく同意しません。アートゥマンであり、バラモン教である形で話すからです。
私はブッダゴーサ師を百パーセント尊敬、あるいは信じません。同意しない部分が何パーセントもあります。私が尊敬できるのは九十パーセントから九十五パーセントです。百の話のうち九十五の話は同意すべきですが、縁起の話など、四つか五つの話は同意しません。重大で言えば、縁起の話一つだけでも、他のすべての話の重さを打ち消してしまうことができます。
縁起の話は難しく、どんな理由で難しく深遠でも勝手ですが、誰もがブッダゴーサ師が縁起の説明をする時、へりくだって奇妙な責任回避をするほど難解で深遠だと認めます。
他の話なら、師は獅子王のように勇敢に獅子吼を轟かせます! ブッダゴーサ師は何の話を説明する時も、何の教典を書く時も、パナームガーターも、あるいは序言を書く時も獅子王のように堂々としていますが、縁起の話になると反対に謙遜し、その謙遜の中に躊躇いが表れています。
そして自分に誤りが及ばないように、精一杯言い訳をしています。師の言い訳の言葉は、非常に美しい文章です。今、師が縁起の話について書いているとおりに読みます。
『縁起の要旨の説明は、昔のアーチャンが「四つのダンマ、サッチャ、サッダー、パティサンディ、そしてパッチャヤカーラである縁起は見るのが難しく、話したり説明したりするのが難いしい」と言われているように、これは非常に難解な話である。我輩はその重さを深慮して、この縁起の話の説明は、アーガマ(阿含)とアディガマ(到達)に精通されている方以外は簡単にできる物ではないと見る。
今日、我輩は縁起の縁生を説明する決意をしたが、核心の完璧さに至ったと確信がない。海の深さを推定するようだからである。しかしこの仏教は、あらゆる角度から説明できる説明の主旨があり、初期のアーチャンが説明しておかれた系統も、まだ消滅していない。この二つの理由により、広く説明を始める。諸君。聞きなさい』。
これが、ブッダゴーサ師が縁起の説明をした時の最高に美しい言い訳です。他の話の説明なら、師は獅子王のように堂々として言い訳をせず、何かの機会を請うことなどありません。しかしこれは難しいと言いますが、「仏教はいろんな角度の説明ができる」と見なしてしまいます。
だから「私は一つの角度からの説明をしなければならない」という理由が一つ。もう一つは「過去のアーチャンたちも縁起の説明をしたことがあるので、自分もその説明を掴むことができる」と見て、敢えてします。
しかしそれでもまだ、大海原は非常に深く、底を計っても届かないように、今回の師の行動が海の底まで届かないのではないかという躊躇いがあります。だから師がどんなにたくさん、どんなに詳しく説明しても、海の底に届くと保証しません。
要するに師は、非常に困難と認め、そして海の底に届いた、つまり話の核心に至ったという確信がなく、古い説明もあるので、師自身の望みで、何らかの角度から説明できるので、縁起の説明をする決意をしたと見えます。
そして師の説明は三生に跨った形で現れ、パティサンディヴィンニャーナ(結生識)が前生から現生へ来て、そして現生は結生識を来生に投げてやります。このようにな三生に跨る兆しがあれば、その後、後世の人たちによって拡大されて強くなり、重くなり、はっきりし、著しくなります。
このような説明をすると、煩悩とカンマ、無明と現生のカンマである行は、来生で結果があります。それはどんなカンマの報いも作った生で結果を受け取りません。私たちは生きている間にカンマの結果を受け取る機会がないことを意味します。煩悩がある人、あるいはカンマを作った人は、現生のカンマの結果を生きている間に受け取らないで、次の生まで待たなければならないという問題が生じます。
もし師が、私がさっき話したようなタンマ語のジャーティ(生)という言葉を使えば、毎日結果を受け取り、このように十分アカーリコ(即刻の)で、サンディティコ(自分で見える)で、過去生の煩悩とカンマが次の生で結果を出すと主張することはできません。
次に過去生、現生、来生を一人の人として述べれば、それは常見になり、辺見になります。だからそれは、ブッダが常見と辺見をなくすために話しておかれた縁起の話を、更に消滅させます。
甚大な損害は、二つが別々の生にあるので、煩悩、あるいはカンマを管理する自由がないことです。現生は報いで、自分は報いで、ここに座っている私たちは報いで、そして原因は過去の生にあり、そして現生の煩悩とカンマの結果は来生にあって、私たちに何の利益があるでしょうか。
これを「私たちは自分がしたことの結果を、生きている間に受け取る自由がない。何かをしておいて、現生で満足できる結果を受け取ることはできない」と言います。このような説明をすれば。
現生でカンマを作って、来生で結果を受け取るのを待たなければならないのは、どこが嬉しいですか。それです。サヴァーッカータダンマである教えに反します。
「サヴァーッカトー バガヴァター ダンモー=世尊が良く述べて置かれたダンマは、サンディティコ アカーリコ エーヒパッシコー」。これは全部違い、サンディティコでなく、アカーリコでなく、パッチャッタン ヴェディッタッポーではありません。ジャーティ(生まれる)という言葉の説明が間違いなので、一つの縁起で、三生に跨って生まれるからです。使う言葉が混乱させることを忘れないでください。
ブッダゴーサ師の個人的な話
次にブッダゴーサ師の個人的な部分を調べて見ます。侮辱でなく、悪口でなく、告げ口でなく、師が縁起の説明をする理由にするためです。それは私たちに観察点を与える側面があります。
ブッダゴーサ師の生まれはバラモンで、バラモンの血統で、バラモンの一人としてトライヴェーダを修めています。バラモンの精神があり、それから仏教で出家して、仏歴千年頃、ある集団によって「阿羅漢」と仮定されていたという観察点があります。
考古学者は、ブッダゴーサ師はマガタの人でなく、南インドで生まれたと見ています。師をマガタの人と見なしているアッタカターの記述と違い、モン(族)と見る人たちもいます。
師はバラモンの生まれで、そして仏教の阿羅漢になり、そしてブッダの縁起の説明をこのようにバラモン(式)にすれば、それは最高に辻褄が合います。つまり師がうっかりしたこともあります。うっかりしたなら、師は阿羅漢ではないに違いありません。この項目はどう話しても、知性のあるみなさんの熟慮に委ねると言わせていただかなければなりません。
次にブッダゴーサ師の清浄道論の中の奇妙な物は、私が先ほど話したようにまだあります。三生に跨る縁起の話も一つです。これは話して理解しました。次に師が、仏教の何かを説明してバラモン教の話にした物は幾つもあります。特にローカ(世界)の話、あるいはローカヴィドゥー(世界解)の話です。
師がブッダの美徳である世界解の説明をすると、世界を全部、人々がそれまで話していたようなバラモンの世界の説明にしました。師は、ブッダが説明されたように世界を説明しませんでした。ブッダは世界を「世界も、世界が生じる原因も、世界の消滅も、世界の消滅に至らせる道も、如行は、まだ生きている、識と心がある、背丈二メートルほどの身体の中に規定しました」と説明されています。
この項目は、背丈二メートルばかりの身体の中に、世界も、世界を生じさせる原因も、世界の消滅も、世界の消滅に至らせる道もあるというのは、すべての梵行が背丈二メートルばかりの身体の中にあり、そしてまだ生きている体で、死ねばないという意味です。命があり、正常な感覚がある身体の中に全部揃っています。
ブッダはこの世界を知ったから、ローカヴィドゥーです。この世界とは四聖諦であり、世界、世界を生じさせる原因、世界の消滅、世界の消滅に至らせる道、それは四聖諦です。
ブッダに世界の説明をする時も、あるいはブッダに捧げる時も、ブッダゴーサ師は世界をこのように説明しません。私は「師の説明はブッダ(の説明)ではない」と言います。つまり私たちが聞いている、ルアン王か何かの三界の話と同じ、空間世界のように説明しました。
それは、地球が幾つ、広さは幾ら、長さは幾ら、宇宙は幾つ、大地の厚さはどれだけ、重さはどれだけ、風の厚さはどれだけ、スメル山の高さはどれだけ、周辺の山の高さは幾ら、ヒマラヤの森の大きさはどれだけ、フトモモの木の太さは幾ら、世界の七つの木はどのよう、太陽の大きさはどれくらい、月の大きさはどれくらい、後三つの半島はどれくらいと、大昔のバラモンの信仰から生じた物で、ブッダの話ではありません。
ローカヴィドゥー(世界解)という言葉を、「ブッダはこのように良く知っている」と、空間世界をこのように説明するのは、こういうのを私は信じません。考えて見てください。このような空間世界の説明は、バラモン(教)の話、仏教以前のヒンドゥーの話です。
次に動物の世界についての説明になると、師は「すべての動物は根が違い、目の中の埃が多かったり少なかったり、根が勇敢だったり弱かったり、簡単に知ったり知るのが困難だったり、美しかったり美しくなかったり」と説明し、四聖諦の世界はありません。
行世界の説明になると、師は「ブッダは名形の話、受の話、食べ物の話、取の話、六処の話、識住の話、八世界法の話、九有情居の話、十処の話、そして十二処、十八界の話を知っておられる」と、このように説明します。このような話しかなく、四つの意味の世界の説明である四聖諦の話はありません。
述べたような理由で、ブッダゴーサ師の世界解の説明のほとんどは、明らかにバラモン(教)であり、ブッダである説明は細々した物で、四つの意味、つまり世界、世界を生じさせる原因、世界の消滅、世界の消滅に至らせる道の四つの意味で、想と心がある背丈二メートルほどの身体の中にある世界と一致しません。
それはブッダ自身が繰り返し話された話です。ブッダがこのように説明されている時、ブッダゴーサ師式のこのようなローカヴィドゥーの説明は、核心と言うにふさわしいブッダではないと言います。
本当は縁起の話こそ世界の説明、世界が生じる原因の説明、世界の消滅の説明、世界の消滅に至らせる道の説明です。「背丈およそ二メートルの身体の中に」というのは、縁起の話は順観でも逆観でも、背丈およそ二メートルのまだ生きている人の中にあるという意味です。
まだ生きている、まだ死んでない、背丈およそ二メートルの人の中に、縁起の順観も逆観もあり、そして自我、自分、動物、人物、何にもなる道はありません。
次にまだ「厄介にする」話があり、四清浄戒、あるいはこのような四つの戒は、ブッダゴーサ師の教典以外で見たことがありません。
師は根律儀を引っ張って来て一つの戒にし、そして学生の勉強を大変にします。そして活命遍浄戒を引っ張って来て、戒の一つにして大変にし、そして省察の四つの縁、つまり三衣、食べ物、住まい、薬を戒の一つにします。
それは意味のある戒を侵害して大混乱させ、基礎や基盤がある教育を困難にしました。このような戒の規定はパーリ(ブッダの言葉である経)にはありません。あるのはブッダゴーサ師の清浄道論などだけです。
他の話、二つの涅槃の話などは、阿羅漢が死んだらアヌパーディセサニッバーナ(無有余依涅槃)で、まだ生きている阿羅漢はサウパーディセサニッバーナ(有余依涅槃)と説明しています。これは清浄道論の中で非常に主張しています。例えばイティウッタカ(如是語経)など、三蔵のパーリ(ブッダの言葉である経)と一致しません。私がブッダゴーサ師に同意しない話は幾つもあります。私は百パーセント同意しません。
まだこのように理解していない、あるいは調整できない部分があるからです。私があまり話すと、ブッダゴーサ師は百パーセント阿羅漢だと信じている人に非難されます。しかしみなさんだけにこっそり話すので、持ち帰って考えてください。私を信じる必要はありません。
これから、縁起の話は三生に跨る話ではないに違いない、と言う理由について話します。そしてそれにはどんな理由があるでしょうか。それにはたくさんの理由があります。
1 初めの理由は、人語・タンマ語についてです。縁起は人語でないことは確かで、さっき一度話しました。縁起の話が人語なら、ブッダが大悟したら、菩提樹の木の下で絶命しなければなりません。無明が消滅し、サンカーラ(行)が消滅し、ヴィンニャーナ(識)が消滅し、ナーマルーパ(名形)が消滅したら、そこで絶命します。
これです、縁起の話は人語ではないという証拠は。無明が消滅し、サンカーラ(行)が消滅し、ヴィンニャーナ(識)が消滅し、ナーマルーパ(名形)が消滅して、ブッダがそこで絶命なさらず、その後四十五年間教えられたのは、縁起に使われた言葉はこのような人語ではないからです。
生起(順観)の側の縁起も同じです。無明が生じ、行が生じ、識が生じ、名形が生じる、こういうのは人語のような「生まれること」ではありません。ブッダはヴェーダナー(受)が生じた途端にタンハー(欲望)、ウパダーナ(取)、バヴァ(有)、ジャーティ(生)が生じると主張なさっているからです。
その人はまだそのように生きています。しかしその人の心の中で「生まれること」があり、消滅があります。生まれる俺があり、消滅する俺があります。だからこの場合のナーマルーパ(名形。心身)という言葉はタンマ語のナーマルーパを意味します。人語のナーマルーパは、私たちにいつでもある体と心で、「生まれてからずっとある」と言います。これは、生まれてからずっと維持していると言う、極めて凡人の言葉です。
膨れ上がった最上義、膨れ上がったアビダンマの言葉では、一瞬(一回心が生じる時間)ごとに頻繁に生じていると言います。しかし本当のタンマ語である、この言葉に関わるブッダの言葉は「感情がアーヤタナ(六処)に触れる度に生じ、そして一度消滅するまで無明が家主としている」と言われています。
次に縁起の流れ全体を人語で捉えると、一本の流れで二度生まれるので、理解できない話になります。それです。三有、三生と説明しなければなりません。その後、常見になります。ほら、人語とタンマ語はこのように違います。
ここで、人語とタンマ語は天地ほどの違いがある最高に良い例、サンバヴェーシーという言葉の例をお話します。私たちが水をそそぐ時「ブーター ヴァー サムヴァヴェーシー ヴァー サッベー サッダー バヴァントゥ スキタッター」と言います。
これは生き物には二種類あるという意味です。ブーターという生物は生まれている動物、これが一つで、サンバヴェーシーはこれから生まれるために生まれる場所を探している動物が一つです。
一般にタイ、あるいはどこの国でも、生まれて生きているもの、例えば座っている私たちなどをブーターと言い、つまり生まれています。サンバヴェーシーの方はヴィンニャーナ(識)だけで身体がなく、空気の中に漂って生まれる場所を探していています。生まれる場所を探しているヴィンニャーナを彼らはサンバヴェーシーと呼びます。
この説明は普通の人語で、まだブッダの側ではありません。ブッダの側は、そのようなヴィンニャーナ(識)・自我があると主張しないからです。そのように実体があって生まれる場所を探すのは常見の人たちの間だけにあり、仏教にはありません。ヴィンニャーナ(識)と呼ぶ物は、いつでも縁起の物でなければなりません。常に現前の因と縁で生滅します。
そのように漂っている識はないので、その人たちの人語のサンバヴェーシー(求生。次に生まれる場所を探している動物)は、仏教のサンバヴェーシーではありません。これが私の見解です。仏教の意味のサンバヴェーシーはタンマ語の意味があり、普通の人語のとはまったく違います。仏教のサンバヴェーシーはまだ欲望、ウパダーナ(取)、自分という執着がない時の凡人の心です。
よく聞かないと訳が分かりませんよ。私たちの正常な、ある日ある時、私たちは欲望、取、執着があり、「俺、俺の物」になりますが、ほとんどの時間は何もありません。
例えばここに座っているあなたは、自分はありませんよ。欲望もウパダーナも何もないからです。正常に座って、気分も正常で、心も正常に空っぽで、私が話すのを聞いています。しかし時にはあなたに著しく沸騰している欲望、取があり、苦が生じるほど沸騰します。このように二種類あります。
欲望、ウパダーナが生じて俺になり、焦燥している時はブーター(生き物)で、つまり生まれていて、正常な時はサンバヴェーシーで、いつか生まれるまで待ち、生まれる準備があります。これが、水を注いで捧げるべき二種類の動物です。生まれている時は愚かで、まだ生まれていなければ何も知りません。
ちょっとアビダンマの言葉で言えば、バヴァンガ(有分。潜在意識)の中にない心、つまりバヴァンガより覚めて考えはありますが、俺、俺の物には至らない、縁起の流れがない普通の心、世間一般の人の日常にある自然な、普通に空っぽの心がサンバヴェーシーです。これは、人には自然に感覚や考えがあり、煩悩欲望「俺、俺の物」がない時、それがサンバヴェーシーという意味です。
あなたもサンバヴェーシー、誰でもサンバヴェーシーで、それはいつか「俺、俺の物」が生まれるのを待っています。憐れなサンバヴェーシーは、いつでも俺、俺の物が生じられる準備があります。
次に運良く感情を得た途端に、サティがぼんやりして無明に覆われ、俺、俺の物が生じ、これでブーター(生まれた物)になり、更に憐れです。ブーターもサンバヴェーシーも慈悲を受け、水を注いで捧げられるべきですが、強い俺、俺の物があればブーターになり、一時その威力がなくなります。怒る、あるいは愛すなどして一時間もしないうちに威力を失い、そして再びブーターが死んでサンバヴェーシーになります。
そしてサンバヴェーシーはそのような時を待ち、一時ブーターになり、愛や怒りや憎しみや怖れ、縁起である何かによって一時俺、俺の物になり、それで一度ブーターになり、そして一時その場合の原因と縁が衰退し消滅して、再びサンバヴェーシーになります。
私は、サンバヴェーシーはそのようと主張します。それは有益に使うことができ、実践でき、管理でき、何でもでき、利益があります。それは彼らが「人が死んで体が棺に入ると、ヴィンニャーナ(識、あるいは魂)が漂ってサンバヴェーシーに生まれる」と話しているのと違います。そのようなのを私はサンバヴェーシーと見なしません。
そして関わりません。何の利益もなく、見ることができず、理解ができず、他人の思い通りに信じなければならないからです。おまけに常見のサンバヴェーシーでもあります。
次に、このように型破りの見解を後ろ盾してくれるパーリ(ブッダの言葉)があります。アビサマヤサンユッタのマハーヴァッガ、第三~四経の中の四食の話です。ブッダは四つの食べ物、つまりカヴァアリンカーラーハーラ(食事)、パッサーハーラ(触食)、マノーサンチェタナーハーラ(意志食)、ヴィンヤーナ-ハーラ(識触)の四つで話されました。みなさんナックタム(僧の検定試験)二級で勉強しました。
みなさんは四食とは何か、そしてこの四つの食べ物をブッダは「ブーターナン サッダーナン ティティヤー=生まれた動物、つまりブータサッターが維持できるために、サンバヴェーシーナン サッターナン アヌッガハーヤ=まだサンバヴェーシーである動物の支援のため」と言われていると鮮明に記憶していてます。
この四つの食べ物を、生きている人の日常生活の話に、四つの食べ物があると説明して見せる例えと一緒に説明されています。だから二種類の動物は、ある日の私たちです。四つの食べ物はサンバヴェーシーたちを支援する義務をします。しかし最高に必要な義務は、生まれたブータサッターを受け止める基盤であることです。このように違います。
この例は、サンバヴェーシーとブーターという言葉を理解させるために使い、二つの様式の意味があります。人語式のが一つ、タンマ語式のが一つです。そしてタンマの教育とタンマの実践に有益に使うことができ、自分で管理できる領域にあり、関わることでも何でもできるのは、タンマ語式の説明でなければなりません。
見ると奇妙で、誰でも、普段はまだ煩悩が生じていないサンバヴェーシーであり、煩悩が生じて欲望、取があるとブータサッターになるので、まだ有、生が終わっていない人は、同じ人が一時サンバヴェーシーになり、一時ブータサッターになり、一時サンバヴェーシーになり、一時ブータサッターになります。
次に私たちはブータサッターもサンバヴェーシーも止めてしまいたいので、縁起の教えで正しい実践に依存しなければなりません。自分を持たず、全部でも、あるいはサンバヴェーシーのように時を待っている種類の生まれることでも、俺を生じさせません。
サンバヴェーシーにも、ブータサッターにもなってはいけないという意味です。四つの食べ物を無くしてしまうために、意味を持たせないで、四つの食べ物に加工させないでください。これが縁起の話の知識で、このような利益があります。これがサンバヴェーシーという言葉に関わる人語とタンマ語です。
いずれにしても話したら、時間の心配をしないで話してしまう方が良いです。もう一つタンマ語の例を、つまり苦という言葉を取り上げます。
苦はいろんなレベルがあります。最高のタンマ語は、縁起の中の苦です。パーリの縁起の中に「苦、苦の発生、苦の消滅」があり、それは縁起の順観と逆観です。この場合の苦は、どれとも違う、縁起の話だけに使う意味があります。縁起の順観、つまり生起する形は無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、最後に苦が生じます。これを縁起のサムダヤヴァーラ(順観)と言います。
縁起の流れのこの部分は、誤ったパティパダー(道)と規定します。誤った道とは何か、相応部ニダーナ ブッダヴァッガの第三経を開いて見ると、誤った道とは苦を生じさせる縁起の順観です。そして正しいパティパダー(道)、正しさとは何かは、苦まで消滅する縁起の逆観です。正しいパティパダーは正しい側、生じる側はミチャッタ、誤った側と言います。
生起の側は、苦の発生があり、滅側は苦の消滅があります。この場合の苦は、誰のとも違います。取があって執着するから苦になる場合だけなので、徳行、不徳行、不動行と分類したような徳も苦、罪も苦、不動も苦です。
縁起のサンカーラ(行)はどれも苦の基盤です。行は苦に追い遣る縁という意味なので、徳行は苦のためになります。しかし庶民はそのように理解しません。
彼らは、徳は必ず幸福と理解します。これは、徳を作る徳行たちは徳を得、不徳行は罪を作って罪を得、不動行は動じない状況を作って動じないことを得、このような三つは全部ウパダーナの基盤なので苦です。取が徳を支配し、罪を支配し、不動を支配するので、三つ全部苦になります。だから縁起の中の苦という言葉は、他の苦という言葉より特別な意味があります。
罪はミッチャッタ(邪悪)で、苦になり易いですが、徳、あるいは不動もまだ苦でミッチャッタです。徳、あるいは不動も、今取の基盤になっているので、まだミッチャッタです。不動は、本当は徳の方へ傾いていますが、彼らは徳と呼ばず、不動と呼びます。罪と徳にビクともしないことですが、まだ俺があります。
この不動の類は、よくすべての「梵天」と呼んでいる物です。これらもまだ俺があり、罪や徳には夢中になりませんが、俺があります。動揺がなく、心はサマーバティの中、禅定の中にあっても、俺があるのでまだ取の基盤であり、「俺の不動」があるので苦です。だから徳、あるいは苦という言葉は非常に混乱すると捉えてください。
庶民は「徳なら必ず幸福になり、そして善」と言いますが、縁起の言葉では全部苦です。徳も苦、善も苦です。加工され、そしてその後加工するので、苦にならなければならない縁起の物と見なします。人語とタンマ語は、このように正反対に違うと見、理解して受け入れ、そしてタンマ語を選んで縁起に使えば、簡単に縁起を理解できます。
2 次は、縁起は執着する範囲内だけに限定されると、ちょっと理解が難しい部分になりました。考えや感覚があれば、すべて縁起になるという意味ではありません。だから縁起の法則は胎内の子にはありません。
憶えやすいように「縁起の法則は、胎内にいる子には使わない。胎児は無明・欲望・ウパダーナ(取)があると言うほどハッキリした感覚がないから」と、こう話す方が良いです。子が生まれてから縁起が生じるまでに関して述べたパーリがあります。中部ムーラパンナーサ、マハータンハーサンカヤスッタで、人の一生がどのように始まるか、最高に明らかに説明されています。
「父と母が一緒に住んでいて、そして母に生理があり、特にカンダッパが維持していれば動物は生まれる」と言われました。父と母が一緒に住んでなければ生まれる機会はありません。父と母が一緒に住んでいても、母に生理がなければ、それも生まれる機会はありません。あるいは同居していて生理があっても、カンダッパが行って維持していなければ、これも生まれません。
父母が一緒に住んでいて、母に生理があり、そしてカンダッパ、タイ語では何と訳したら良いか知りませんが、これが行って特に維持している。必ずこの三つが揃っていなければなりません。現代の学術的に言えば、このカンダッパは父の精子を意味し、そしてそれが母の卵の中で生存しています。
このようにあれば動物として生まれることができます。父母が同居していて、母に生理があっても、カンダッパが行って維持していなければ生まれることはできません。つまり父の精子が母の卵子に混じらなければ生まれられないので、三つ揃わなければなりません。そうすれば妊娠できると言います。
次に妊娠して九か月か十か月すると、母は子を出産し、母が子を出産すると大きな赤ん坊になり、玩具で遊び、砂で遊び、泥遊びをし、まだじっとしていられます。少年と呼ぶくらいになると、形・声・臭い・味・接触、そして喜びや悲しみが生じ、これが縁起の始まりです。
縁起は胎児から始まることはできません。胎児にとって、始めるには幼すぎます。縁起が始まるのは、執着する方の「俺」という考えが出始めた子供だけです。
だから冒頭で『ソー チャックナー ルーパン ディスヴァ ピヤルーペー ルーペー サーラッチャティ=その男児が目で形を見た時、愛すべき物である形に欲情があり、アッピヤルーペー ルーペー ビャパッチャティ=当然愛さない形に憤懣があり、アヌパッティタカーヤサティ チャ ヴィハラティ=彼は行って維持しているカーヤサティがなく、つまりサティがありません。
パリッタチェタソー=軽い心があり、つまり知識がなく、学問がなく、悪がいっぱいの心、タンチュ チェトーヴィムットゥ パンヤーヴィムットゥ ヤターブータン ナッパチャーナーティ=彼は心解脱、智慧解脱を真実のままに知らず、ヤッタッサ テー パーパカー アクッサラー ダンマー アパリセーラニルッチャンティ=知っている種類は、すべての罪や悪が、残らず消滅します』と話されたブッダバーシタ、ハッキリ書かれているパーリがあります。
よく聞いてください。タイ語だけ復習して、もう一度要旨を掴みます。胎内の子は予定日が来ると生まれて来て、まだ小さい時は土で遊び、砂で遊び、そしてある時期、その子は五欲、つまり形・音・臭・味・接触と関わることを受け取り、愛らしい形を見ると愛し、あるいは欲しくなり、可愛くない形を見ると妨害し、その子は良く維持されたサティがない心で生活します。
「どのようにサティを維持するか」という知識がないという意味で、あるのは無明だけで、触れて来る感情次第の軽い心です。
ここで極めて奇妙なのは「その少年は、すべての罪や悪を消滅できる種類の心解脱、智慧解脱を、真実のままに知らない」とあることです。これは滑稽ですが、最高に真実です。つまりこの少年は一度も心解脱、智慧解脱の話、心を空にする方法、感情から煩悩をなくす方法を知ったことがなく、この話を知りません。その子は解脱の話を知らず、そしてサティがないという意味です。
次にその子供はアヌローダ(満悦)とヴィローダ(攻撃)が揃い、つまりこのように喜びと悲しみを繰り返し、幸福あるいは苦、そして苦でも幸福でもないヴェーダナー(受)を味わいます。そのヴェーダナー(受)に溺れている時は喜んで陶酔して褒めちぎり、そのような時当然ナンディ(喜び)がその少年に生じます。
すべての受のナンディは何でも、それはウパダーナ(取)です。取があるから有があり、有があるから生があり、生があるから老死があります。
これは子供の話で、母の胎内で維持して、生まれるとまだ何も知らず、まだ縁起に関わりません。五欲に関わるようになると喜びと悲しみを知り、そして心に智慧がなく、知識がなく、解脱の話の知識である、苦からの解脱とサティを維持する知識がありません。意味が分からないからです。
次に幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても、五欲の受を味わえば、それはアビナンダティ=非常に陶酔し、アビヴァダティ=いいなぁ! 美味いなぁ!と褒めちぎる、これがアビヴァダティです。それからアッジョサーヤ ティッタティ=その受の味に陶酔し惑溺します。
そのような暮らしは、ナンディと呼ぶ物がその少年の心に生じ、可愛い形を見ると欲しくなり、可愛くない形を見ると妨害します。こういうのはナンディが生じていて、そのナンディは取です。これがここでの縁起の始まりです。だからこの縁起の場合は、子供は五欲の意味を知るほど大きくならなければなりません。そして通常、その子の心には無明があり、解脱の知識がありません。
縁起が生じるには、子供は五欲の話を知るだけ成長しなければなりません。このような物なければならず、そしてタンマの知識、あるいはヴィッチャー(明。知識)がないことがなければなりません。
何らかの受を味わえば、最高に陶酔する状態があり、最高に褒め、最高に惑溺します。子供が大きくなると、結婚するほどの年にならなくても、このような症状があります。子供は五欲の面の感情の話を知り始めるので、縁起はその子の中で始まることができます。
私は、以前はこの話に関して非常に誤解して混乱していたことがあります。今はこのようにハッキリ説明しているブッダバーシタを見つけました。この子も有があり生があります。小さな子供も新しい有があり、生があります。それは母の胎から生まれる有、生ではありません。この幼子が五欲の面の感情に出合う度に、有、生があります。
述べたように死んで棺に入らなくても、毎日、毎月、毎年、幾つもの有、幾つもの生があります。毎日新しい有があり、生があります。身体は死ななくても、このように次々に有があり、生があります。これが縁起の話、男児に生じたばかりの縁起の流れです。
縁起は喜びと悲しみがあり、サティがないから、サティをどのように維持するか知らず、そして滅苦をする物、解脱を知らないから生じると、短くまとめることができます。心にこのような症状がなければなりません。そうすれば縁起があります。そして現生に、今ここにあり、何巡か、何本か、何千巡か知れない縁起が、死ぬまで繋がっています。だから縁起の一巡で三生に跨る説明は、間違いに違いないと見ます。
3 次に縁起の流れ全部が生じるのは、私たちが意識できないくらい早いという、最高に重要な部分になりました。稲光と言う方が良く、ぴかっと閃光が走る、このような電光の一瞬と見ます。その中にいろんな物が十一から十二、順に、私たちに分らないようにあります。
例えば私たちが怒って苦になった途端に、一瞬で怒りと苦になることが完了します。その一瞬に十一の区間があると知りません。無明から行、識、名形、六処、触、受、欲望、取、有、生、十一もの区間が一瞬の中にあります。
私たちの目などを通した感情が「電光」と呼ぶ一瞬で愛や怒りなどになってしまいます。しかしその電光は十一の部分に分けることができます。そうすれば縁起になります。
「世界、世界を生じさせる原因、世界の消滅、世界の消滅に至らせる道は、背丈二メートルの生きている身体の中にある」と、先ほど世界を説明したブッダバーシタがあります。サラーヤタナ相応、ヨーガケミヴァッガ、ローカスッタの中で、ブッダは縁起の意味の世界の発生と世界の消滅を、次のように言われています。
『比丘のみなさん。世界の発生はどのようでしょうか。目と形に依存して眼識が生じ、三つの会合がパッサ(触)で、パッサが縁でヴェーダナー(受)があり、ヴェーダナーが縁でタンハー(欲望)があり、タンハーが縁でウパダーナ(取)があり、ウパダーナが縁でバヴァ(有)があり、バヴァが縁でジャーティ(生)があり、ジャーティが縁で老死、悲しみ嘆き、苦、憂い、悩みがあります。比丘のみなさん。これが世界の発生です』。
このような縁起の発生は至る所にあります。ブッダは「これが世界の発生」と言われています。苦の発生は世界の発生で、内部の六処と外部の六処が触れて識が生じた時に生じたばかりです。
次に無明が行、識、名形、六処を作る時から、「それは二、三、四の区間で加工する」と分けて見られない所が難しいです。電光より早く、幸福、あるいは苦、気分が良い、あるいは気分が悪くなったと受を感じるからです。
世界の消滅の部分も同じです。無明、行、識の消滅は苦の消滅、世界の消滅です。世界の発生、世界の消滅をこのように説かれています。世界の発生、世界の消滅は電光より早いです。だから緻密で特別な関心がなければ、縁起の話を、その中のその電光の間に、十一もの状態があると理解する術はありません。
4 次にバヴァ(有)の話、ジャーティ(生)の話を、「棺に入った時に新たに生まれるのでなく、一日に何生も、何有も生まれる」と、更にハッキリ話します。
今、口の中の食べ物を噛んで呑み込む前に、一口の食べ物を口の中で噛み続けて呑み込むより早く、たったそれだけの間に何回も、何周も有があり、生があることができる、と話したいと思います。口の中で噛んで飲み込むまでを二分、あるいは一分と仮定すると、一分は六十秒で、その六十秒のうち、考えは美味しい話、不味い話に傾きます。あるいは美味しさに関わる他の楽しい考えに夢中になります。
それだけの間に俺、俺の物が生じることができ、呑み込むまで一時だけこのように、一時だけそのように、そして満腹するまで新しい一口を噛み、満腹するまでに数えきれない有と生が生じます。考えるのが得意で、感じるのが得意な人、あるいは感じるのが早く、取り囲む物が多すぎる人は、一食、満腹するまで食べ物を噛む間に、数えきれない有が生じ、生が生じられます。
この話は、アビサマヤ相応、マハーヴァッガ第四経の中で『比丘のみなさん。ラーガ(貪り)、ナンディ(喜び)、タンハー(欲望)がカヴァリンカーラアーハーラ(ご飯)の中にあれば、ヴィンニャーナ(識)も特に維持し、そのカヴァリンカーラアーハーラの中で成長します。ヴィンニャーナ(識)が特に維持し、そして成長する所はどこでも、ナーマルーパ(名形)の踏み込みは当然そこにあります』と言われています。
意味が分かりますか。深遠すぎて意味が分からないかも知れません。「比丘のみなさん。ラーガ、ナンディ、タンハーがカヴァリンカーラアーハーラの中にあれば、ヴィンニャーナも特に維持し、そのカヴァリンカーラアーハーラの中で成長します」と、もう一度言わせていただきます。
私たちが口の中のご飯を噛んで、貪り、喜び、欲望で美味しいと感じている時、その時識は、ご飯を噛んでいる間維持し、咀嚼の中でも成長しています。それは一口のご飯を噛み潰して呑み込むまでの間に、識を生じさせて、いろんな識にする幾つもの過程があるほど緻密だという意味です。
一度美味しく、一瞬美味しく、別の美味しさ、違う美味しさに変わり、ね、新しい識がどんどん生じます。識が生じれば、その度に名形が作られるという意味です。
心の中に感覚が生じ、識の威力で一時このよう、一時そのように変化する体と心があり、「それはそれの義務をする」と言います。それはそれまで義務をしていませんが、今は識の力で義務が生じ、一口のご飯を噛む間に、識が何回も生じ、名形も何回も生じます。
だからブッダは「どこででも」と言われています。どんなご飯もという意味です。「ヴィンニャーナ(識)が維持し、そして成長する所はどこでも、ナーマルーパ(名形)の踏み出しは当然そこに」つまりそのご飯にあるという意味です。
これは無明・行によって作られた名形は、今噛んでいるご飯に関わって、その度に別の形で生じて感覚が変化するので、一口を呑み込んで食べ終わるまでに、いろんな形の新しい名形を作ることができるという意味です。
パーリの中の厄介な問題はまだあります。「ナーマルーパの踏み込みがどこにあっても、つまりどんなご飯の一口でも、サンカーラの成長は当然そこにある」とあることです。それは繰り返し生じ、繰り返し行である作る威力を生じさせ、あるいは強くし、あるいは増やす結果、強い意業であるカンマになります。
話はまだあり「サンカーラ(行)の成長が当然ある所はどこでも、アーヤティプンババヴァービニッバッティ、つまり次の新しいバヴァに生れることは、当然そこにある」と続いています。座ってご飯を食べて噛んでいる時、そこに行の加工があるので、引き続きそこに新しい有の発生があります。食事が終わらないうちに、そこに新しい有が生じます。次の新しい有の発生がある所に、当然次の生・老・死があります。
この項目を彼らが説明している人語で説明すれば、全部来生、次の生の話になります。しかしパーリのブッダバーシタの文字はそのようにすることを認めません。口の中のご飯を噛んでいる時のナンディ(喜び)、ラーガ(貪り)、タンハー(欲望)が発生することについて話すだけで、何もたくさん話していません。
カヴァリンカーラアーハーラ(段食)、つまり口で噛むご飯である食べ物の話はこのようです。
次にパッサーハーラ(触食)、マノーサンチェタナーハーラ(意志食)、ヴィンニャーナーラ(識触)の三種も同じ教えです。これは更にルーパダンマ(形の物。物質)の側の義務、つまりご飯の塊もこのようであると見せます。
次にナーマダンマ(名の物。抽象)の食べ物、触食、意思食、識食はこれより素早いです。だから心だけで行動するナーマダンマの側の食べ物が新しい有、新しい生を作って生じさせるのは、更に早いです。これがこの経に関して見なければならない事実です。
この規則は、私たちはラーガ(貪り)あるいはナンディ(喜び)、つまりその味の欲情、満足は味わっている時だけ生じることができ、噛むこと、食べることがなければそれは生じられないので、すべての物が生じられるのは、舌で美味しさを感じている時だけとあります。
ラーガ、ナンディがあるのは、食べ物を噛んで、舌で美味しさを感じている時だけです。だから舌に依存するチヴァーハーヴィンニャーナ(舌識)はその食べ物の中で維持し、成長し、長ければ長いほど識は大きく成長します。
これが縁起の意味の識で、行が識を生じさせるというのは、パティサンディヴィンニャーナ(結生識)ではありません。そして人語しか知らず、人語しか話せず、自分があって有を跨ぎ、生を跨ぐと信じる人たちによって、全部パティサンディヴィンニャーナと詐称されています。
しかしもう一度言えば、私が述べた趣旨で縁起の取、有、生を生じさせる義務をする何のヴィンニャーナ(識)も、その識をパティサンディヴィンニャーナ(結生識)と呼ぶことができる、と話すことができます。それは「俺」が生まれることを繋ぐからです。
みなさん、ラーガ(貪り)とナンディ(喜び)が成長したこのような識は、食べ物を噛んでいる時は普通の識で、庶民が話すようなパティサンディヴィンニャーナ(結生識)ではありません。しかし縁起の形の普通の識は、今ここで本当の縁起の意味の有、生を山ほど作ると知ってください。
「ナーマルーパ(名形)が踏み込む」という言葉を使うのは、口の中で今噛んでいる食べ物を美味しいと感じた時、踏み込んだばかりという意味です。名形は名形の義務をここで目いっぱいしたばかりで、彼らが「死んで棺に入ってから生まれる」と言うように、生まれた体と心である名形ではありません。
「サンカーラの成長」と呼ぶ物は、縁起の中のサンカーラ(行)です。つまり体と言葉と心を変化させて強くする物はあり、非常に広くなるという意味です。パーリでは「サンカーラの成長は美味しい食べ物を噛んでいるその時早くなる」と言います。
だからそれは新しい有、新しい生を作ることができ、次々にたくさん、広く新しい「俺」、新しい「俺」になります。これをサンカーラの成長と言います。
このようなら、生老病死に関わる、あるいは何でも俺の問題があります。それはたくさんあり、そして非常に苦なので、次に最後の項目でいわれました。
「比丘のみなさん。アーヤトゥ ジャーティ ジャラー マラナン、当然どこにあっても、私はそれをソーソカン サラチャン アウパーヤーサンと述べます」と言われました。老いの話、死の話の自然に関わる複雑で厄介な問題は、自分の物と執着するので、心を妨害する面倒な問題です。
生老死に関わる問題がどこにあっても、何にあっても、ブッダはそれを「悲しみがあり、埃があり、憂いに満ちている」と言われています。これは、この新しい俺の状態は悲しみに満ち、煩悩に満ち、困難に満ちているという意味です。
要するに新しい有、新しい生はたくさんあり、美味しい食べ物を食べている時、一口が噛み終わらない間に数えきれないほどあり、そしてその中にラーガ(貪欲)、タンハー(欲望)、ナンディ(満足)も生じていて、そして行も生じさせる、一回の縁起になる十分な話です。
実践法、あるいは縁起の黄道十二宮と呼ぶ
次は実践法と呼ぶ話になりました。大分時間が過ぎましたが、まだ話が終わりません。そしてもう一度話す機会もありません。それに縁起に関わる実践法の話をすると予定していたので、続けて話さなければなりません。
この広い輪は最高に奇妙で、私は「縁起の黄道十二宮」と呼びます。順観から始まって逆観まで行き、そして滑稽なのは、それが「苦の功徳」を説いて見せる点です。続けて聞いてください。
このブッダバーシタは、滅苦の話を奇妙に話します。ブッダは「私は知った。私は見た。だから私は述べる。もし私が見ず、知らなければ、私はアーサヴァ(漏)の終わりについて話さない」と言われました。漏の終わりは、当然すべての薀の発生と消滅を見て知った時にあります。
漏の終わりを取り上げられ、それは発生と消滅を見て知った時、そして取、つまり形・受・想・行・識の五つによって生じた五蘊の発生と消滅の状態を見て知った時にあります。それはどのようか、どう生じるか、どう消滅するか、その状態を本当に知れば漏の終わりになります。
あるいは漏の終わりはこれを知ることで生じます。これはブッダが「如行はこのことを知ったので述べる」と主張されています。見たことがなく、知らなければ述べません。つまり知らない話、見えないものは絶対に話されません。
漏の終わりが生じれば、心は漏が終わったと知る智を生じさせます。漏の終わりであるダンマの智は解脱がある時にあります。解脱があるのはヴィラーガ(離欲)があるからで、それはは離欲にもたれ掛かり、拠り所である離欲があります。離欲はニッビダー(厭離)に依存しなければならず、厭離はヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)、つまりすべての物を真実のままに見ることに依存しなければなりません。
如実智見はサマーディに依存しなければならず、サマーディは幸福の感覚に依存しなければならず、幸福は軽安、つまり抑制に依存しなければならず、軽安はピーティ(喜悦)に依存しなければならず、喜悦はパモーダヤ(歓喜)に依存しなければならず、歓喜は信仰に依存しなければなりません。そしてこの信仰の部分は、苦に依存しなければなりません。
次に逆戻りして、苦は生に依存しなければならず、生は有に依存しなければならず、有は取に依存しなければならず、取は欲望に依存しなければならず、欲望は受に依存しなければならず、受は触に依存しなければならず、触は六処に依存しなければならず、六処は名形に依存しなければならず、名形は識に依存しなければならず、識は行に依存しなければならず、行は無明に依存しなければなりません。それで終わります。
これは、漏の終わりは信仰に至るまで、述べたような順に、縁である物に依存しなければならないということです。私たちはブッダ・プラタム(教え)・僧に信仰があり、滅苦のための実践に信仰があります。これを信仰があると言います。
次にもう一度逆戻りして、信仰があれば歓喜があり、歓喜があれば喜悦があります。喜悦があれば軽安があり、軽安があれば幸福があり、幸福があれはサマーディがあり、如実智見があり、厭離、離欲、解脱があります。そして解脱があったと知る智があるので漏の終わりがあります。これは、信仰から始まらなければならないということです。
次は、信仰は苦に依存しなければなりません。これは奇妙です。「私たちの信仰は苦に依存して維持できる」と、誰も聞いたことがないと理解します。締め上げる苦がなければ、ブッダを訪ねて駆けて来ません。そうでしょう? ブッダに駆け寄ってブッダを拠り所にし、ブッダに厳格な信仰があるのは、苦に絞り上げられるからです。
だから生活の在り様が「苦は信仰を生じさせる原因」というようになり、苦は最高に醜いヒキガエルの頭の中のダイヤモンドのように善い物になります。苦の中に、私たちをブッダに駆け寄らせて信仰させるダイヤモンドがあります。
このブッダバーシタでは「苦は信仰の基盤」と言われています。そして苦は無明、行、識、名形、つまり縁起から生じるので、「後悔してはいけない、恐れてはいけない、僻んではいけない」と説明して見せているという意味です。
この縁起の話は、私たちが善くすれば、苦は却って信仰の基盤になり、信仰はタンマの方で休まず成長させ、漏の終わりに至らせます。苦をこの角度で見れば、非常に醜いヒキガエルの頭の中にダイヤモンドを見つけるような物です。
しかしここで、醜いので人は怖がってしまい、ヒキガエル、ネズミ、ヤスデ、ミミズ、何でも全部怖がりますが、苦は信仰の縁、信仰が成長する基盤と知れば、有効に使えるという意味です。
さて時間も大分過ぎました。幾つもの話をしたので、録音テープでお浚いする以外に憶えられないと信じますが、縁起の話はどのような利益があるか、まとめてしまいたいと思います。
まとめ
縁起についてのまとめ
世界も、世界を生じさせる原因も、世界の消滅も、すべての世界の消滅に至らせる道も、生起の側と消滅の側の縁起の中の六処で感情を受け取る時にあります。
そしてそのすべては、背丈二メートルばかりの、まだ生きている身体の中にあり、死んだらありません。
縁起の流れは三有、三生に分かれる道はありません。あるいは人語で話されているように有、生を跨ぎません。文字的に、つまりパティッチャという文字で理由がありません。
パティッチャは「依存」という意味ですが、繋がっている種類の依存で途切れません。ここでもう少しパーリを教えると、パティチャは依存という意味で、つまり途切れずに続いています。
例えば太陽があるから地球があり、地球があるから地球の水があり、地球の水があるから水蒸気があり、水蒸気があるから雨雲があり、雨雲があるから雨があり、雨があるから降り、降るから道が濡れ、道が濡れるから滑り、道が滑るからA氏が転倒し、A氏が転倒するから氏の頭が割れ、頭が割れるからA氏は医者へ行き、A氏が医者へ行ったから、医者は治療をし、治療をしたから治った、という例えのようです。
こういうのは、切ることはできないでしょう? このように繋がっているという意味で、介入して途切れさせる物は何もありません。それがパティッチャという言葉の意味なので、縁起はこのように依存し合って生じることを意味します。だから三つの有、三つの生に分けることはできません。それは文字面でも三有、三つ生に分ける理由がありません。
分けなければならない理由がないのは、縁起の話は本当の四聖諦の話で、日常生活の中の四聖諦だからです。三生に跨る縁起と言えば私たちにとって何の利益もありません。そしてサンディティコ、アカーリコ、そしてパッチャッタン ヴェディッタッポー ヴィンニューヒ(注)になれません。
註: ダンマの六徳。良く説かれた物であり、実践者が自分で見え、時を選ばず、他人に「来て見て」と言える物であり、導く物であり、自分だけが受け取る物であり、誰も妨害できず、奪うこともできない、という意味。
それに、三有、三生に跨る縁起を掴めば、サーティ ケヴァッタプッタ比丘のような常見になります。
彼が三有、三生に分けるのは、愉しく論争するためで、真実はありません。楽しく縁起を教え、愉しく反論し合い、深遠なら深遠なほど愉しく、そして実践できないので利益は何もありません。それは元のパーリで正しい実践でなければなりません。そして実践でき、管理でき、全部ここに、手が届く範囲になければなりません。
私たちが実践でき、対処できることを意味ばかりです。だから三生に跨る縁起は肉腫であり、癌であり、一般の癌のように治療しても治らないパリヤッティ(三蔵の学習)の肉腫です。
次にその要旨は「感情が触れる度に縁起が生じる」とあります。感情の接触がなければならず、そしてその人は胎児でなく、赤ん坊でなく、考えることを知らない子供でなく、適度に成長して物事を知ることができるまで成長していなければなりません。
そして彼はサティがなく、明がなく、あるのは無明だけで感情に触れ、外部の六処と内部の六処が力を合わせて識を作ります。識が即座に名形を作るのは、名形に変化させるため、あるいは無明で何かをする新しい六処にするためです。その作ることは電光のようで、たくさんなら驚愕するほどです。
「たくさんなら驚愕するほど」という言葉を憶えてください。何かをちらっと見た時驚愕し、何かの声を聞いて驚愕し、あるいは鳥肌立つほどの出来事を見て驚愕するように、それはそれほど最高にアティマハンターラマナ(極大感情)で、驚愕します。
行が驚愕するほど識を作る場合は、その驚愕の刹那に縁起のすべての部分の状態があります。無明が行を作り、行が識を作り、識が名形を作り、名形が六処を作り、その触は驚愕するほど強烈です。驚愕するほど強烈なら、必ずすべてが縁起で正しく並んでいます。
縁起は生じる苦、消滅する苦の事実を説明する話です。苦を提げたり抱えたりして有を跨ぎ、生を跨ぐ、苦の所有者である人の説明ではありません。苦の所有者である人なしに、苦である人は必要なく、苦は生じます。
だからみなさん「縁起は、苦の発生と苦の消滅を説明することを目指し、生じて消滅する苦の所有者である人物を説かない。その上原因と縁の規則を、詳しく利益があるように、世界のどこにもないように説明する話」と見てください。
私が「縁起の話は原因と縁に関わる法則を、世界のどこにも説明できる人がないように説明している話です」と、ブッダに代わって自慢したことがあります!
最後に「私は懺悔をします」と話したいと思います。私もかつては、ブッダの望みに反すような縁起を勉強しました。ナックタム(僧の検定試験)で勉強した頃は仕方なく、それから一年間ナックタムの教師になり、真実と違う縁起を教えました。私は三生に跨る縁起の話を間違って学び、間違って教えたことがあります。
だから今ここで、過去の罪を認め、お詫びを申し上げ、赦しを乞いたいと思います。そして何十年もの間探求する努力をし、このような状態の縁起、自分で管理でき、実践でき、感情が触れた瞬間に正しいサティで防ぐことができる縁起、実践の教えである、利益のある縁起を発見したと主張させていただきます。
どのように実践するのかと問うなら、感情が触れて来た時にサティがあり、苦になる類の行、識、名形、六処を作る無明を生じさせない、と答える以外に答えはありません。いつでも元のままに維持し、サンバヴェーシー(生まれる場所を探している動物。求生)で、生まれない方が苦が生じないのでまだ良いです。
次に、これからは正しい知識を持つよう祝福させていただきます。在家の人たちは家に帰ったら縁起を正しく知り、台所で美味しい食べ物を噛んでいても、有・生が何十、何百も生じられると知ってください。このような縁起の説明をすると、私はタイだけでなく、世界中から大声で非難されます。どこの国でも有を跨ぎ、生を跨ぐ話だけを教えているからです。
空の話、このアビダンマ(最高のダンマという意味)を話すだけで、タイ国内で非難され、タイ中騒がしくなります。この縁起の話をすることは、必ず世界中に響くほど非難されると知っています。しかし私はプッタタート(ブッダの奉公人)として話さなければなりません。
私はブッダのタート(ブッダの奉公人)で、何が何か、何がブッダにとって損失かを知っているので、戦わなければなりません。しなければなりません。だから恐れません。世界中から非難されるだけでなく、宇宙全体に響くほど非難されても恐れません。
有を跨がず、生を跨がない縁起と、有を跨ぎ、生を跨ぐ縁起の話はこのように違います。有・生を跨ぐ縁起は何も利益がなく、実践できず、自慢をするため、自分を知らない哲学者になるためです。
もう一方の実践できる縁起は、ブッダが話しておかれた物です。私たちはそれで滅苦ができ、常見にも辺見にも関わりません。縁起の中に自我・自分はありません。アリヤであり、利益を伴った物であり、利益に満ちた素晴らしい物です。
この長い縁起の話は、ちょっと長く話さなければならない話だということです。そして話すのは一度だけで、もう一度話す機会はないかもしれません。だから大分時間を超過し、一部の人をお煩わせしたことをお詫びさせていただきます。
これで終らせていただきます。
縁起の話の教育に関わる説明の言葉のメモ
縁起の教育は仏教教団員にとって重要な、あるいは必要な話です。パーリの長部、サンギーティヤドゥカンのサンギーティスッタにあるように、知った人、見た人、阿羅漢サンマーサンブッダである人、世尊が良く話された二つのダンマは、
『すべての比丘は、その二つのダンマをサンギーティ(つまり尋問)すべきであり、そのダンマで仲違いすべきではありません。この梵行(宗教)である項目で安定し、長く維持すべきです。その項目はほとんどの大衆にとって、非常に幸福のためになり、世界を援けるため、天人とすべての人間の幸福のためになります。その二つのダンマは何でしょうか。その二つのダンマとは、
アーヤタナクサラター : アーヤタナ(六処)の話に賢い人であること。
パティッチャサムパバータクサラター : 縁起の話に賢い人であることです』とあります。
これは、縁起の話は私たちが助け合って、自分自身のためにも、宗教のためにも、そして天人と人間のため、そして特にこの話の実践に関した問題が生じ、一致した見解がないことで、述べたように仏教教団員の集団に分裂が生じないために、互いに正しい理解を生じさせる努力をしなければならない物と説明しています。
そのようであるための道はどれでも、私たちはその道から得られるだけ最高の利益を得ます。この講義は分裂の糸口を作る目的でなく、縁起の話を教える先生と弟子から、学校以外で別の形の教育をする人まで、「分裂」を無くすためです。
縁起は仏教の心臓部、あるいは仏教の本物にふさわしい最高に深遠な話です。だから幾つかの問題を生じさせる必要があります。
その問題が戻って来て、例えば仏教教団員がこの話で仏教の本物から利益を得られないなど、宗教にとって危険になります。プラアーナンダが「スガタ様にとって縁起の話は簡単な話、浅い話に見えます」と申し上げた時、ブッダは『アーナンダ。そのように述べてはいけません。アーナンダ。そう述べてはいけません。縁起は深い話で、顔つきは深い話に見えます。
動物の群れは知りません。私が教えるように知りません。縁起を洞察しないので、心は絡まった糸の塊のように、結ばれ合った糸の塊のように、ムンチャ草パバッチャ草のように絡まり合い、サンサーラ(輪廻)、つまり破滅、悪趣、報いを受ける場所から脱せません』とこのように言われました。(アビサマヤサンユッタ、ドゥッカヴァッガ 第十経)。
この項目は、「この話を遊びにしてはならない、知性と力を全部注いで、注意深くこの話を学ばなければならない」と説います。
常見しか知らな一般庶民は、いつでも自分があると考えているので、縁起の話は簡単に理解できる範囲を超えた深い話で、絡まった糸の塊のように頭を悩ます深い哲学の話になりました。そして複数の盲人が象の別々の部分を撫でたように反論し合わなければならなくなります。
しかし阿羅漢にとって、この話は自然の話になります。あるいは名前を知らなくても、掌に載せて観て楽しむ物のように、開かれた科学になります。つまり阿羅漢方はいろんな物を良く知り、その結果何にも執着せず、どの種の感情が触れても欲望、取は生じません。最高に完璧なサティがあるからです。
阿羅漢方は縁起の滅側の方法で完全に苦を消滅させることができますが、縁起の状態の十一の名前を知る必要はありません。その方は縁起の消滅側の方法で苦から脱しますが、その方は誰かに詳しく縁起の話を教えることはできないかも知れません。
あるいは話し方を知らないほどかもしれません。こういうこともあります。それが、サンマーサンブッダが探求する段階、そして一般の人に説明して教える時に知性を使わなければならないほどの縁起の深遠さです。
しかし多くの人が理解するのは非常に難しく、誰にも教えない方に考えや心が傾いたほどです。大悟したばかりの時、(一般人に教えるのは)徒労だと、あるいは苦労に見合う結果がないと見られましたが、最終的に大慈悲の力が、難しい話、深遠な話を教えるため、この世界にいる理解できるかもしれない人のために、苦労に堪えるよう後押ししました。
この項目は、普通の人には理解できない話を、理解できるまで説明しなければならなかったブッダのご苦労を、私たちは見なければなりません。この話についての深遠な事実は、ブッダは大変なご苦労によって宗教を公開されたという点にあります。
つまり同時に二つの言語で話さなければなませんでした。まだ常見が厚い人、「私、私の物」という感覚があり、いつでも強く執着している人に道徳を教えるには人語で話され、そして目の中の埃が少ない人に教えるにはタンマ語で話されたので、パラマッタダンマ(第一義諦)を理解させることができました。
初めの財産を捨てるためにパラマッタダンマを教え、初めの財産である常見から出させました。このように二つの言語です。縁起の話はタンマ語で話さなければならないパラマッタダンマ(第一義諦)の話で、道徳と反対です。そして道徳の話に使う人語で話すには、どんな方法、あるいはどのようにできるでしょうか。人語で話すことはできません。
タンマ語で話すと、聞く人が全部人語で解釈するので、理解できません。あるいは正反対に理解してしまいます。これが縁起の話を教えること関して、最初は「教えない」と、ブッダを挫けさせたほど難しい問題の根源です。
教えられた人もサーティ ケヴァッタプッタ比丘のように、まだ理解できません。現代の私たちも訳が分からないように教え、訳が分からない話し、訳が分からない会話をし、教えの言葉を受け取っても実践できず、実践すればするほど遠くなります。このようです。
道徳を教えられる時は、動物がいて、人物がいて、如行自身もいるように教えなければならりません。徳や善を行うよう教え、死んだら、徳や善が作っておいた結果を受け取ります。パラマッタダンマ(第一義諦)を教えられる時は、動物、人物、如行自身もなく、あるのは依存し合って一時生じる物だけ、いろんな縁起の物が糸のように繋がった縁起と呼ぶ物だけを話されました。
その時「誰」と話す方法がないので、誰も生まれません。あるいは常見のように、誰も死んで古いカンマの結果を受け取らず、断見のように死んで消滅しません。今からは死んで消滅する人がいないからです。中間にいることが縁起の話、あるいはパラマッタダンマ(第一義諦)の中道で、道徳の面にも使える中道である八正道と対です。
通常普通の人は、善の因と縁が変化しない間は、善で安心するために道徳に執着します。原因と縁が変化すると、あるいはそれが不変でないことを現わし、執着で苦になると、道徳だけの知識は拠り所にならないので、高くなった苦の感覚を排除するために、縁起の話のような、パラマッタダンマの話に向きを変えなければなりません。
つまり残っている苦はなく、心は自分があることより、あるいは自分の物、善悪、徳と罪、幸福と苦、それらの物より上にあります。
だから、自分があり、そして生と生が繋がっている種類の縁起の話を教えるのは縁起の教えに反します。あるいは自分という感覚を終わらせるよう、あるいはすべてにおいて自分があるという感覚より上にいるよう教えるブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)の教えに反します。だから縁起の話は、まだ常見に依存しなければならない道徳、あるいは基本として自分がある道徳には一切関わりません。
いずれにしても縁起の話は二種類あります。間違った説明をした結果、実践できず、あるいは膨れ上がって、そして千年も間違った説明をしてきたのと、もう一つは正しい縁起、あるいはブッダの望みと一致する正しい説明の縁起で、それは今ここで、実践に使うことができ、今ここで結果を得ます。すなわち六処に接触がある時注意して、受に、欲望を作らせません。
そして縁起と呼ばずに一般に実践され、終始満足できる結果を得ている物もあります。関心のある人は、この二種類が混合している時は、ブッダの縁起と一致させるよう注意してください。
ブッダの本当の縁起は、人に善行をさせない、責任を取らせない、あるいは国を愛さない、何でも告発するのが好きな断見ではありません。そして自分自身に迷わせ、国に迷わせ、自分であり、自分の物である何にでも狂ったように迷わせる常見でもありません。
縁起は、たくさん話されているような学習面の膨れ上がった話ではありません。機敏な実践の話で、感覚を管理するサティがあり、六処に接触がある時、技術的な言葉すぎる「縁起」という言葉を使わずに、欲望、取、有・生を生じさせないこともできます。
注意しなければならないのは、仏教の心臓部である縁起の説明が、自分があり、生まれ、あるいは生まれている体の中に常に生じているような心、チェッタブータ、ヴィンニャーナ(魂)などがある教義、アニミズムになるのは、核の時代、宇宙の時代、あるいはピンポンの時代でも、学生、あるいは西洋人に笑われます。
この部分は、厳格にタイ仏教教団員の面目を取り戻してください。人語、あるいは常見の言葉で熱心に道徳を教えるのを、タンマ語、あるいは最高に正しい見解、縁起の知識でパラマッタダンマ(第一義諦)を教えるのと混同せないでください。
縁起の教えで実践するのは、パラマッタダンマの側の中道と見なします。(ニダーナ相応 アーハーラヴァッガ 第五経にある)。同じ経で、ロークッタラ(脱世間)である最高に正しい見解は、縁起の知識の威力で、常見や断見に傾かないディッティと明言されています。
縁起は自分があるのと自分がないのとの、真ん中にある話です。そして「これがあるからこれがあり、これが消滅すればこれが消滅する」という、独自の教えがあります。そしてこの教えが仏教を常見側にも断見側にも落とさず、真ん中にいさせます。良く見て、ブッダでない縁起の話を教えて、ヒンドゥー教かバラモン教になってしまわないでください。
常見がある集団は、縁起と呼ぶことができる物はあり得ません。正反対だからです。常見の形で縁起を教えるのは、縁起の教えを消滅させることです。これが注意しなければならないことです。
パーリ、つまり元々の物であるたくさんの経の中の、ブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)を熟慮して見ると、ハッキリした区別があると見ることができます。まだ常見がなければならない人の道徳の話が一つ。そして常見を消滅させ、断見まで行かないパラマッタダンマの話が一つです。
アッタカター(解説書)の時代になると、至る所に多くの歪みが生じました。第一義諦の話を自分がある常見の形で説明し、この縁起も、いつでもちょっとした機会あれば「死んだら同じ人として再び生まれる自分がある」形で説明しました。あるいは物質の話だけになりました。例えば地獄は、死んだ後の地下の地獄を説明するだけで、もっと恐ろしい、ここにある「縁起の流れの中の地獄」を説明しません。
縁起の受に生じる状態で話しておかれた地獄があると、相変わらず死んだ後地下(の地獄)に連れて行きます。だから縁起の教育では、元のパーリを根拠にしなければなりません。何も調べずアッタカターに身を任さないでください。あるいは清浄道論などの後世に書かれた書物に百パーセント身を委ねないでください。清浄道論の著者は、アッタカター全部の編集者と同一人物と信じられています。
それは独占と同じで、一種類のものしか聞かなくさせます。ブッダがカーラーマスッタで与えた権利を大切にし、行使しなければなりません。そしてマハーパリニッバーナスッタなどで話されておかれたようなマハーパデーサ(四大法経)のスッタンタ側を、益々常見に傾かせる後世に書かれた書物、あるいは説明した本の奴隷にならないよう管理し防衛する道具にします。
しかしマハーパデーサなどが掌中にあれば、私たちは何の利益もないのではなく、山積みされたゴミの中から正しい物だけを吟味して選び出すことができます。本当に選び出すためにブッダが残しておかれた規則で厳密に選別する以外、何の利益もありません。
プラマハーサマナチャオ・プラヤーワチラニャーナワローロート殿下(第十代僧王)のような時代の哲学者は、このよう忠告され、パーリのサンギーティレベルの教典でも、このように調査するよう忠告されています。
そして私は、ずっとあの方の言うことを聞く門弟として振舞います。どんな物、どんな問題でも、マハーパデーサの教えでタンマとヴィナヤ(法と律)、あるいは「スッテー オサーレタッバン ヴィナイェー サンダッセタッバン」と呼ぶ物の大部分の原則と一致しなければ、この場合は聞き間違い、記憶違い、間違った説明、あるいは教え間違いと見なします。
縁起の場合は、常見を排除してしまうため、そして同時に断見まで行きすぎないための大原則があります。だから三生に亘って同じ人物であるような理解をさせる縁起の教え方は、四大法教で受け入れることができません。今印刷している「ブッダヴァチャナによる縁起」という本は、この項目をたくさん検証する助けになります。
縁起に関わる規則は次のようです。
1 有、あるいは生は、解脱の話に知性がない六処に接触がある度にあります。別の言い方をすれば、接触の時に無明しかなければ、縁起に加工します。
2 縁起の言葉には、苦がある、あるいは滅苦する、あるいはサーティ ケヴァッタプッタ比丘の話のように輪廻する「人物、自分、私、彼」はいません。
3 縁起の中には幸福という言葉はありません。あるのは「苦」と「滅苦」という言葉だけです。常見の基盤である幸福を説くことを目指さないからです。「涅槃は最高の幸福」と言うように、道徳を教える利益のために、人語で苦がない状態を幸福と見なして述べる時以外は。
4 自分であるパティサンディヴィンニャーナ(結生識)は、縁起の中になく、縁起の中の識は六識と明言されています。しかしこれらの識を結生識と呼ぶ方策を探せば、できる余地もあります。六つの識が、名形、六処、触、受を生じさせ、縁起の終わりの部分である有と生まで続きます。
しかしブッダはどこでも、パティサンディヴィンニャーナ(結生識)と呼ばれたこと、あるいは説明されたことはありません。私たちがタンマのとおりに識を見るよう望まれたからです。パティサンディヴィンニャーナという言葉は後世の書物に現れたばかりで、間接的に仏教に常見を引き寄せ、仏教を全部喰い尽くしてしまう仏教の寄生虫です。
私たちは普通に六識があり、そしてパティサンディヴィンニャーナ(結生識)という言葉に依存しなくても縁起があります。
5 縁起の輪の中には縁起の物しかありません。つまり他の物に依存して生じ、次に別の物を作り出すために一時現れている物だけです。その作り出すことを縁起と言います。関心を持つべき、あるいは教育すべき言葉は二つだけです。
大きな教えの言葉で「自分を生じさせてはいけない」、あるいは「常見になってはいけない」。そして「何もなくなってしまうほど自分と反対と見る、つまり断見になってもならず、中道と呼ぶ真ん中、つまり縁起にいなさい」です。
6 カンマの話で述べれば、縁起は黒くも白くもないカンマと、黒いカンマ白いカンマの終わりである物をの説明することを目指し、徳と不徳と不動は全部苦の話に仕分けし、この三つより上でなければなりません。そうすれば完璧な滅苦ができます。だから自分という執着の基盤でなく、すべての点で常見ではありません。
7 仏教の教えは、現在のダンマ、あるいは常にサンディティコでなければなりません。縁起の一巡が(普通の人語の意味の)三生もの空間を使うのは、サンディティコ(現在見る)ではありません。縁起の十一の症状はいつでもサンディティコでなければなりません。そうすればブッダが教えられた縁起です。
8 縁起の経はいろんな様式で話され、順観は無明から苦へ向かい、逆観は反対に苦から無明へ向かい、そしてニローダヴァーラ、つまり消滅形もあり、二つの様式で話されています。そしてまだ六処が触れる時に始まり、そして無明の名前を出さずに識、触、受が生じるのもあり、受が苦へ行くのだけを話されたのもあります。
最高に珍しいのは、縁起が欲望まで行っても、サティが生じて欲望を妨害して止めることができ、後戻りして不思議に滅苦になると説いて主張されたように、一本の流れで順観と逆観を一緒に話されました。無明が行を生じさせ、識、名形、欲望まで行って、それから変わって欲望の消滅を話され、取から順に滅苦まで行きます。
縁起の経のすべての様式を一度に見ると、縁起の話は三有、三生の空間、あるいは時間を食う話(普通の人語の意味で)ではないと、明らかに見せることができます。
9 縁起は刹那主義の話で恒常主義ではないので、「生まれる」「ジャーティ」という言葉などは、普通の人の日常の中の一つの縁起の瞬間に生れることを意味します。つまり六処に一度接触がある時に、サティがぼんやりし、貪り、怒り、迷いなどが生じ、その度に「俺」、生が生じるのを、簡単に知ることができます。
現生、来生という言葉を使うのが好きな人は、このように束の間の生と捉えることもできます。まだ真実と一致し、サンディティコであり、恒常主義の言葉で、縁起の言葉でなく、縁起を理解できなくさせる人語の生れる状態(つまり母の胎内から一度出る状態)を(生と)を掴むより利益があります。私たちはどこにあるか知らない来生より、手を伸ばせば届く近さにあり、望みどおりにできる来生を好むべきです。
10 話すための縁起は哲学です。必要がなく、あまり利益がありません。本当の縁起はすべての門(目・耳・鼻・舌・体・心)でアーサヴァ(漏)を生じさせないよう慎重にする教えです。六所に接触がある時、六門にサティがあることで苦を生じさせない実践です。それは完璧な縁起の消滅形で、別の名前で呼んでも、本当は同じ話です。この種の縁起をサンマーパティパダー(正しい道)と呼びます。
すべては実践でき、直接滅苦の利益がある、本当の縁起を知るためにテストする教えです。煩悩ゆえに苦が一度生じれば縁起の一回、あるいは一巡とし、そして二度生まれることがあるに近いです。外部の六処と内部の六処が触れ合った時に無明があれば、識が生じます。これが識、名形、六処の発生です。それまでは眠っていたのでないのと同じです。
この時の識は常見の状態にあるので、パティサンディヴィンニャーナ(結生識)と名付け、触の威力で受が生じれば、直接煩悩が生じたと見なします。つまりもう一度生まれることである有、生を生じさせる欲望、取が生じます。それはアッタヴァードゥパダーナ(我語取)が生じ、生、老、死、嘆き、苦、憂い、悩み、あるいはまとめて「苦である五取薀」と呼ぶ物から生じる、非常に苦しい「俺、俺の物」になります。
要するに縁起の一巡の中に、二度生まれることがあります。しかし死んで棺に入らなくても、死があり、生があります。人語の身体の話は、ブッダが話しておかれた縁起ではありません。
縁起の話は目指された利益、つまりアッターヌディッティ(我見)を除去し、あるいは自分という理解を明かにして「五蘊はああいう、こういう自我」と分類して見せるだけでは足りず、すべての薀は「これがあるからこれがある云々」という教えで縁起の十一の状態が揃ってある時に生じたばかりと、縁起の状態を説明してハッキリ見せなければなりません。
ね、煩悩、カンマ、カンマの報いも無我をハッキリ見せ、あるいは原因と結果もずっと無我と言います。縁起の状態が明らかでなく、「五蘊は無我」と聞いただけなら、相応部カッチャニヤヴァガ、プンナマスッタの中のある比丘の話のように、「発展したみなさん方。五蘊は無我と聞きました。行動した無我であるすべてのカンマは、どのように行動した無我に触れるのですか」と、滑稽な疑問が生じることができます。
これは「薀は無我」と聞いたように、無我の半分を見ることで何とか見えます。しかし結果があるカンマの行動をする時になると、幸福でも苦でも結果を自分の物にし、滑稽な状況を生じさせます。しかし縁起の物の状態に明るさがあれば、この種の迷いは生じられません。
刹那主義である縁起の教えを明らかに理解する人は、述べたような自分がなく、まだこの生、次の生があり、アパーヤである地獄、畜生、餓鬼、阿修羅、人間、天国、バラモン、ブッダ、プラタム、僧まで、縁起の流れの中にいることができます。
サッチャ相応、パパータヴァッガ、第三経でブッダは、マハーパリラーハ(大焦熱)という名の地獄と言われ、サラーヤタナ相応デーヴァダヴァッガ、第二経の中で、チャパッターヤティカ(六処所属)の地獄などと言われているのは、本当の地獄です。あるいは常見の人たちの地下の地獄より怖いです。
そして次の第三経で天国についてチャパッサーヤティカ天国と言われ、それは常見の人たちの空の上にある天国より本当の天国です。
その受、あるいは苦が恐怖に満ちていれば阿修羅で、死ぬほど空腹なら餓鬼で、愚かなら畜生で、人間のように適度の苦なら人間です。いろんな種類、いろんなレベルの欲情で美味しければいろんなレベルの天国です。そしていろんな種類の形禅定と無形禅定の幸受、あるいは不苦不幸受に満ちていれば、いろんな種類の梵天で、棺に入った時に到達するという物より本物です。
すべては仏教のオッパーティカ(突然生まれる動物)という言葉の意味の解釈が違うからです。
縁起の逆観の流れで、本当のブッダ・プラタム・僧を見つければ、常見の人たちが口先だけで夢中になって唱える三宝よりサンディティコ パッチャッタン ヴェディッタッポー ヴィンニューヒです。現生は縁起が現在をせがみ、来生は縁起が順に次をせがみます。
これも、本当の現生、来生です。母の胎から生まれて棺に入る常見の人たちの生より、ブッダの言葉の縁起でなく、人語、あるいは幼児の言葉で「生」と言う物を数える道具である生より、本当の現生、本当の来生です。
これもブッダの物である縁起と呼ぶ物を教える教育の、最高に良い助けになる物です。後世で勝手なことを言い、現代まで言い伝えている常見のアーチャンたちの物ではありません。
「縁起の言葉、あるいはタンマの最高の言葉は、まだ必ず常見が混じっている普通の庶民の言葉と違う」という事実を理解する助けになる物は、何種類もあります。
たとえば「正しい見解」と呼ぶ物、一般の凡人のために話しておかれた正しい見解は、「この世界、次の世界があり、父母がいて、地獄天国があり、カンマと、カンマを作る人がいて、普通の人が理解し執着する言い回しの、現生と来生でカンマの結果を受け取る人がいる」と明示します。
中程度の正しい見解になると八正道の物として現れているように、このように明示されず、苦と苦の消滅だけを明示します。苦である人がいる、あるいは滅苦をする人がいると明示しません。あるいは認めません。そしてこれも正しい見解と呼びます。
最高の、あるいは本当のロークッタラの正しい見解は、ニダーナ相応のアーハーラヴァッガ、第五経の中ではもっと高くなります。本当の縁起を見る見解で、アッティター(自分があるという見解)に傾かず、ナッティター(自分はないという見解)にも傾きません。
その中間、つまり「これがあるからこれがあり、これがないからこれがない」とある縁起の流れがハッキリ見えるからです。すべては自分でなく、あるいはどんな意味の人物でもなく、地獄天国と述べても道がありません。それ以上に、ここまで見ることを本当の中道と呼びます。あらゆる点で常見にも断見にも傾かないからです。
人語の正しい見解、あるいは縁起の言葉は「自分がある」と言い、タンマ語の正しい見解、あるいは縁起の言葉は「自分がない」と観察して見てください。しかしどちらも仏教の正しい見解です。人語は一般の人に道徳を教えるため、タンマ語は目の中の埃が少ない人に、後で聖人になるためにパラマッタダンマ(第一義諦)を教えるためです。
ブッダは、常にこのように二つの言語で話されました。そして縁起の話は道徳の話でなく、最高のパラマッタダンマの話なので、生を輪廻する自分がなく、一本の縁起で三生の空間、あるいは時間を食う必要はありません。
最後に一本の縁起が三生になる説明する、あるいは教えることを何の目的で批判するのか、熟慮しなければならない問題になりました。
一本で(人語の)三生の場所を取る縁起の教えは、直接でも曖昧でも、ブッダゴーサ師の清浄道論から出ているという理解で一致しています。文字に現れている証拠がある限りでは、このような説明をしている清浄道論ほど古い教典はないからです。私の考察は、本書の三八七頁にあるように、その教典、あるいはその教典を著したと信じられている人に突進します。
しかし正しく言えば、熟慮はブッダゴーサ師の批判ではなく、縁起は仏教の物、ブッダの物なので、私たちは力を合わせて正しい状態の教育と実践のために、つまり利益のためにあるようにしなければなりません。
そして私は、ブッダの目的と違う説明をしていると見える人誰でも、その人の説明に満足しないので、考察の言葉は批判でも何でもなく、カーラーマスッタの教えに反して、私、あるいは誰も信じないで、「それは何か」自分で知り、自分で見るために、もう一度縁起に関わる元のパーリに立ち戻って熟慮していただく理由の説明だけです。
カーラーマスッタの十項で禁じているように、何でも愚かにするのは、絶対に使い物になりません。アビサマヤ相応、マハーヴァッガ、第八経で、これらの問題を判断する道具として言われているように、私たちは「ヤターブータサンマッパンニャー(如実正智慧)」と言われた物を使わなければなりません。
仮に私が本当にブッダゴーサ師の批判を目的とするなら、ブッダゴーサ師の清浄道論は、以前からあったヴィムッティマッガ(解脱道)にいろんな説話と、パリヤッティ(三蔵の学習)の面の分析を上塗りした教典にすぎないという角度で批判します。
話は大きくなり、そして本当の批判ですが、今私は、ブッダがたくさん話しておかれた縁起の話の説明に関心がある誰よりもブッダを愛すみなさんの関心を、もう一度引き寄せたいだけです。
それがどんなに難しく困難でも、すべての動物の利益になるようにと望まれた物を、本当にすべての動物の利益にするために、捧げる以上に捧げるものです。今のように眠らせておいて不毛にするのは、何も利益が生じない状態で、反論するのに良いだけです。
ブッダゴーサ師の説明が、パーリであるすべての経の中のブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)で検証に耐える理由がなければ、カーラーマスッタなどの気力に依存すれば、それです。ブッダタートの木っ端が、サティの力でブッダゴーサ師の丸太を止めます。
誰の笑い種になっても、この解説の冒頭で取り上げて説明したパーリ・サンギーティヤドゥカンのように、仏教の心臓部である縁起の話の教育界に、一度正しさを生じさせてしまうための己の行動に、極めてピーティ(喜悦)パモーダヤ(歓喜)があます。
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