5.何もしなくても良い





1965年1月14日

 今回は、苦から脱す修行に励むためのアドバイスが欲しいという方がおられましたので、それから始めたいと思います。

 空について話すのは正しく、勤勉の話は難癖をつけることです。滅苦、苦がないことは何もしないことです。しかし聞いて意味が分かりません。これは「何もする必要がない」と分かるように言わなければなりません。人々が聞いたことがあるのは「急いで真面目に勤勉に実践しなさい」です。そのようなのばかり聞きます。

 今初めて聞いて、どちらが好いですか。何もする必要がないのと、いろいろしなければならないのと、どちらが好いですか。これが、私たちの理解が一致しない基本的な問題です。だから何かをしなければならないのと、何もする必要がないのはどう違うか、よく分かりません。

 今日は「何もする必要がない話」をしたいと思います。このように教えられているのは、今私たちは二種類の、二つの理解があると、知らなければなりません。タイのほとんど九十九パーセントの人は、煩悩は常に生じていると理解しています。いつでも苦が生じている、あるいは心は火事のようにてんてこ舞いしているという意味です。これが基本的に煩悩があるという考え方です。タイではこう教えるので、そのように理解しています。

 もう一つは正反対で、基本的に煩悩はありません。基本として煩悩のない空があり、煩悩が生じる時間はほんの少しです。一日一晩に一回か二回。何度もありません。合計しても、煩悩が生じていない空の時間より短く、煩悩が生じていない時間の方が長いです。

 こう話すと、まず初めの段階として「人間は基本的には煩悩がなく、時々煩悩が生じる」と言うのと、「人間は寝ても覚めても、昼も夜も休みなく煩悩がいっぱい詰まっていて、時々、抑圧した時だけ消える。あるいは止まる」と言うのと、どちらの言い分が正しいか、良く分かるまで熟慮しなければなりません。これが一つの言い方です。どちらが正しいでしょうか。

 教えられたこと、あるいは聞かされたことを基準にしないでください。いま心に煩悩がないだろうか、と自問してみます。心に煩悩があると答が出たら、どんな煩悩かを追及します。あるいは煩悩がなければ、心には煩悩がないと理解し、そのように心で感じたことを基準にしてください。

 煩悩があるのは、何らかの刺激がある時です。何もない時は煩悩はありません。だから何かを作らないでください。静かに、何も作らないようにサティを維持します。感情が目・耳・鼻・舌・体、あるいは心を刺激して考えが生れると、煩悩が生じます。それを刺激があったと言います。

 刺激があると、その先は二手に分かれます。一つはサティで常自覚があり、もう一つは常自覚がありません。常自覚があれば、作る(加工する)ことを阻止することができ、形が目に触れ、声が耳に触れても、常自覚があれば反応を防ぐことができます。

 気に入っても、気に入らなくても大丈夫です。しかしその後で欲望に、つまり何らかの望みにしないでください。好きも欲望の一種で、嫌いも欲望の一種です。パーリ語ではそういう意味です。好きなら欲しい、所有したい、なりたいで、嫌いなら叩きたい、殺したい、攻撃したい、逃げ切りたいで、これも「何々したい」と言われます。愚かさで望めばすべて欲望です。

 だから欲望を作ることがあります。サティがぼんやりしなければ作ることはありません。つまり元からある空っぽです。欲望にならないので、取でも、俺、俺の物でもありません。生もなく、老いもなく、死もないので、苦はありません。

 次にサティが薄れれば、あれが欲しい、これが欲しい欲望を作ることがあります。それが自分、生まれる物です。生まれるのは欲望のある自我です。欲望があれば取があります。取があれば臨月の妊婦のように、「有」や「生」が俺を分娩しなければなりません。

 手足をバタバタして大声を出すか、それとも何か他の物か、火に覆われるか。こういうのを俺、俺の物が生じたと言い、大混乱です。ここで混乱というのは煩悩が生じた時です。こうなっていなければ、まだ空があると言います。煩悩はまだ生じていません。だからここで注意するだけです。こうならないように注意すれば、ずっと空でいられます。

 空にするというのは、常自覚をしっかり持つという意味です。ぼんやり何かをしないように良く注意します。この「する」という言葉は、無明、欲望、取ですること、つまり行動する主体である俺、俺の物があります。混乱と言います。だから何か問題を起す目、耳、鼻、舌などを刺激するものがあっても、必ず心の元々の状態を維持しなければなりません。つまり問題にしてはいけません。

 つまり変化させないことです。管理する常自覚があれば、他に何もする必要はありません。元々あるものを維持するだけです。元々ある物とは、基礎である空で、それをしっかり維持します。これは最高に適切で最高に短く、最高に賢く、最高に時間のいらない、何でも最高の方法です。基礎として空がなければなりません。

 混乱しないように注意してください。このように理解したことがある人は、簡単に役立てるために、正しいと見なします。しかしいつでも煩悩があって混乱していると理解しているなら、本当にそうかどうか、もう一度考えてみてください。

 ここで「空」と「混乱」を観察して見ることを知らなければなりません。無明や欲望による考えを「混乱」と言います。無明、欲望、取が介入していれば混乱で、目が形を見、耳が音を聞き、鼻が臭いを嗅いだ時は俺、俺の物があります。

 六処が刺激を受け取った時無明が介入すれば、サティがぼやけます。無明が生じると欲しがらせる義務が強く執着させます。つまり取、そして有が生じ、生が生じ、苦が生じ、これを混乱と呼びます。

 常に常自覚があれば、無明が現れる機会はなく、欲望も生じることができません。目が形を見ても、耳が音を聞いても、無明に機会はなく、欲望も生じません。欲望が生じなければ取も生じず、俺、俺の物もありません。これをいつでも空でいると言います。しかし考えたり行動したり、何でも良くできます。だから考えでも望みでも仕事でも、取や俺、俺の物なしにすれば、空の心ですると言います。

 混乱した心は、あれが欲しい、これが欲しい、ああいう取、こういう取で何かをします。これを混乱した心と言います。これは苦です。空の心ですれば、苦はありません。だから今年のニューイヤーカードに「どんな仕事も空の心で働け」と書きましょう。

 良く考えて見てください。こういう意味です。そして「仕事の報酬は全部空にやり、空の飯を僧が食うように食い、そうすればハナから死んでいる」です。ハナからとは初めから。初めから、生じた時、意味が分かった時から。つまり死の前に死んでいます。

 「どんな仕事も空の心で働け」は、心が空の時は、今ここに座っているように空なら、何を考えても、何をしても、立ち上がって何かをしても、空のままでいなさいという意味です。

 何が起こっても、いろんな刺激があっても、今のような空の心で反応してください。怒った心で人と連絡をしないでください。惚れ込んでその人に連絡をしないでください。今のような心で、元々からある空の心でしてください。何かが刺激として入ってきた時に、間に合う常自覚をもってください。

 混乱している時、ぼんやり話し、ぼんやり行動し、ぼんやり何かを考えないでください。心をサマーディにして、常自覚をもたなければなりません。そうでなければ、十数えてから何かをする、昔話の中の子供に敵いません。昔話は、不満を感じたら十数えてから物を言いなさいと教えています。昔のおとぎ話やことわざなどの躾の本の中の、兄弟の下の子はこのように教えられました。

 だから上の子が何か気に入らないことをした時、下の子はじっと座って必死で十まで数え、それから口を開きます。もしその子の心が混乱していれば、十まで数えないうちに心は再び混乱、あるいは怒りになります。「ほら、もう一回、初めから」。そのように頑張って心を普通に戻します。

 十まで数えます。それで怒りは消えますから、怒らずに話すことができます。こういうのを空の心で話すと言います。もし貪り・怒り・迷いなどで話せば、混乱した心で話す、あるいはすると言います。

 次に「どんな仕事も空の心で働け」は、その時欲望と取が混っていないという意味です。空の心で働く時は、俺、俺の物が混じっていません。みなさんがここに座っている時は、空の心に出合い、いつでもこのように空と、良く観察してください。立ってどこかへ何かをしに行って、何かが生じても、そのままの空の心で、いつでも普通にしておいてください。これを「空の心でする」と言います。

 あの人たちは意味をはき違えています。だから書いて非難し、侮辱し、罵倒します。上手に空で働くことができないからです。あの人は正反対の教えだからです。人間は誰でも基本的に混乱した心、煩悩でいっぱいの心があるという教えだからです。

 だから彼は空の心で働くことができません。空の心で働くのが難しく、心を空にするのが難しいのです。基本的に煩悩で混乱しているので、途切れる暇がありません。私たちは反対の教えで、心は基本的に空で、時どき混乱します。

 私たちは「比丘のみなさん。心は澄んで輝いています。しかし時々訪問して来る煩悩ゆえに憂鬱になります」というブッダの言葉を信じます。だから煩悩を訪問者と呼びます。時々、ちょっとだけ私たちの家を訪れる客と同じだからです。そこに住むのでも、寝起きするのでもなく、訪問者です。だから「訪れた煩悩ゆえに憂鬱」と言います。

 心は澄んで輝いています。つまり目・耳・鼻などを通して何かが起こり、サティがぼやけて無明が生じ、無明が欲・取・有・生を作るまでは、煩悩取はないとしてください。この「生」が、俺、俺の物で苦になります。

 これを、我々はそれぞれ違うものを基礎にしていると言います。私たちはいつでも基礎に空があり、良く注意して、今のような空の心で働くようにします。話すにも何をするにも空の心でします。

 人が働く時、サムロー(客を乗せる三輪の自転車)を漕ぎ、舟を漕ぐ時、心をどう空にするかと言えば、こうやって空にしてください。ひたすら舟を漕ぎます。サムローも同じです。疲れる仕事、貧乏人の仕事も、空の心でしなければなりません。ぼんやりしないでください。怒って当り散らし、神経質になり過ぎ、いろいろ考え過ぎて、財産や力のある人を妬めば、混乱した心で働くと言います。

 空の心で働くには、そう考えないでください。空のままで、常自覚を持ったままでいてください。空で働けば仕事は楽しいです。だから鼻歌を歌いながら舟を漕いでいる人を見かけることがあります。そうありたいです。これを、空の心で働くと言います。

 「仕事の結果はすべて空にやる」は、お金や名誉や名声などを手にしたら、自分の物にしないでください。愚かに自分の物と勘違いしないでください。元どおり空の物にしておいてください。自分という考えも一緒に、空の心にやってしまいます。それには体も含めます。俺のない心と体を自分の物と執着せず、全部空にやってしまうという意味です。

 貰った物は何種類でも、どんな物でも、空の物にして仕舞っておきます。金庫にお金をしまっておくにも、空の財産と考えます。そうできなければ「私は執着していない」と考えるようにします。人が何かを自分の物にすることはできないので、空の物です。空に預けておきます。その時空の心があれば、誰の物でもありません。

 考えて見てください。どこかにお金を仕舞っても、金塊を仕舞っても、牛や水牛、田畑があっても、それらは空の財産です。これを「仕事の成果をすべて空にやる」と言います。自分の物として残っている物は何もありません。

 次に食べなければならない、使わなければならないなら、空の物を食べると捉え、財産の所有者である自分はいません。ある物何でも空の物を食べます。こういうのを「空の飯を食う」と言います。意味が分からなければ、髪の毛が山を隠しているので、どうやったって分かりません。

 ちゃんと分かれば簡単なことです。空の飯を僧が食うように食う。出家したことがない人には分かり難いかもしれないので、話して聞かせます。「空の飯を僧が食うように食う」というのは、出家したことがない人は、聞いて意味が分かりません。

 規律で行動する比丘や沙弥は、教えの言葉で「ヤターパッチャヤ、パワタマアーナ、タートゥマッタメヴェータ」と熟慮します。これは重要な教えです。そして「ヤティタ、チーワラ、タトゥパ、プヤチャコー、チャ、プッコロー」と続きます。パーリ語で言うので意味が分かりません。

 タイ語で言えば、「これ、あるいはそれ、あるいはあれは、ただ因と縁によって休まず変化していく自然の元素でしかない。私でなく、私の物でもない。そして「スンニョー」、何もない。自分、あるいは自分の物である物は何もない。「ニッサトー」、動物、人物、自分と捉える部分はない。「ニッチャチウォー」、自分ではない、自我ではない、自分の命ではない。

 言っているのは何でしょう。食べ物のことです。「ピンタパトー タトゥパプンチャコ チャ ブッコロー」そして食べる人も、という意味です。

 もう一度言うと「食べる食事も、その食事を食べる人も、どちらも原因と縁で変化し続けるただの元素でしかない。自分がなく、生き物でも、人物でも、自分でも、私でもない」。彼らはこのように言います。いつでもこのように熟慮しなければならないと言います。

 だから托鉢に出掛ける僧は、まだ食べる時間までは間がありますが、朝鉢を持って托鉢に出掛けたら、一足ごとにこのように熟慮しなければなりません。だから道を間違えたり、人にぶつからないように、少し遠くに視線をやります。そして托鉢している間中、帰って来るまで、ずっとこのように熟慮しています。食べるずっと前から防いでいます。

 ただ食べ物を求めに行くだけで、托鉢も、托鉢する人も、動物ではなく、人間でなく、自分ではないと熟慮しなければなりません。住んでいる所に戻って、食べる前にも同じように熟慮しなければなりません。食べる時にも同じように熟慮します。僧が食べる時はこのように食べます。自分も空、食べている食事も空、自分と捉えるべき意味はありません。僧はこのように食事をします。

 「空の飯を僧が食うように食う」というのは、このように食べるという意味です。食べる物を自分の物と捉えず、空で食べるからです。勤めをするように食べます。つまり自分のない心で食べます。「空の飯を僧が食うように食う」というのは、こういう意味があります。

 在家でもできます。誰かに強制されてするのではなく、このようにすれば快適です。食べることから苦が生じることも、問題が生じることもありません。だから僧だけの話でなく、在家も実践できます。こういうのは心の問題なので、どうやっても良いです。苦がないように、ということにしましょう。

 仕事をする時も空の心でし、仕事の成果をもらった時は空にやり、空の物にしてしまい、食べる時、使う時は空の物を食べ、空の物を使います。これを「いつでも空がある」と言います。いつでも空の心がある人は俺、俺の物がない人です。最後の行「そうすればハナから死んでいる」というのは、そのようにすれば既に死んでいるという意味です。

 空の心で働き、仕事の成果を空にやり、空の飯を食えば、その時自分はいません。これは激しい言葉、死という言葉を使いました。死んでいるという言葉は、まったく自分がないので、初めから死んでしまっていること。だから「そうすればハナから死んでいる」と言います。

 仕事をする時は、初めから死んでいるように空の心で働き、仕事の成果は空にやり、食事をする時も自分はありません。これは「死」という言葉を使い、「すっかり死が済んでいる」とは、自分がなく、最初から終わっています。だから「ハナから死んでいる」と言います。仕事をするのも死んでいるように、仕事の結果を受け取る時も死んでいるように、ご飯を食べるにも死んだようにします。食べる人、する人、使う人である俺、俺の物がないという意味です。空の話であるこの四行の言葉は、強烈に話した強烈な言葉で、最高に断言しています。このようにできれば苦はまったくありません。

 次に、正しく理解できない所にいて、少しも空になれないと理解しているだけです。いつでも煩悩があって混乱していると、初めから誤解してしまったからです。それは新しい勘違いで、無明になってこのように出来なくします。次にいつでも心が混乱している人になり、そして「自分は混乱している人になりたい」とか「混乱に堪える」「苦に堪える」などと、いい加減なことを言い、お金を稼ぐために世界で楽しい事をして、ますます混乱がひどくなります。

 これを仏教の教えから見れば、悪質な誤った見解です。ブッダのタンマは、世界の人の苦をなくすためにあり、苦を受け入れて堪えるため、何かを手に入れるためにあるのではないからです。このタンマは、生きなければならない、働かなければならない、食べなければならない、すべての人の苦を取り除くためにあります。この世界にいる人の苦をなくすという意味です。

 タンマがなければ、この世界で生きることは苦にならなければなりません。この世界にタンマがあれば、苦はありません。だからタンマは、苦が多い在家のためにあります。欲望を生じさせないで、取と呼ぶ「俺、俺の物」という感覚が生じないように管理して、苦がなく暮らせるようにします。

 欲望が生じなければ取は生じません。欲望を生じさせないためには、心を空にしておきます。常自覚を今のように、元のままにしておきます。立って何かをし、立って働く時も、心を空にして空の心ですれば、どんな苦もありません。

 する時も、結果を受け取る時も、結果を食べる時も、空の心でします。どの部分も空の心の中にあるということです。昼も夜も、寝ている時も覚めている時も、仕事はふさわしい良い結果になり、苦はまったくありません。これは、自分がないこと自分という感覚を生じさせず、苦がないようにする方便であり、コツです。

 これです。だから先ほど言った、それこそが何もしなくても良いことです。ここのところを、もうちょっと聞いてください。それが何もしなくても良いことです。

 なぜ「何もしない」と言うのかは、する人がいないからです。行動の主体と感じる「自分、自分の物」がなければ、何もできません。空の体と空の心ですれば、しないのと変わりません。何度も読んだことや、聞いたことがある人は「する人がいないようにする」あるいは「歩く人がいないように歩く」あるいは「実践者がないように実践する」というブッダの言葉や、いろんな長老、長老尼の言葉を思い出してください。

 良く聞いてください。実践者がいないようにタンマの実践をします。これが一番の近道です。実践者がいれば「出世したい。優秀になりたい。こうなりたい。ああなりたい。阿羅漢になりたい」になります。こういうのは実践する人がいます。こういう実践者には望みはなく、あるのは混乱ばかりです。もし実践者がなければ、それが空で、すぐに到達します。既に空だからです。これを「何もする必要がない」と言います。

 行動はあっても行動する人はいません。行動すれば仕事は終わりますが、行動する人はいません。あるいは実践という意味の旅は、旅があり到着がありますが、旅する人も到着する人もいません。これらの言葉を憶えてみてください。

 本当は、ほとんどの人が聞いたことがあると思います。しかしすぐに忘れ、すぐに薄れて、一時その話を聞き、一時あの話を聞き、すぐにみんな埃を被って薄れてしまい、何も憶えていません。何も理解できません。

 重要なタンマはどれも、憶えておかなければなりません。いつでも熟慮する教えにして、いつでもそのタンマが見えるようにすれば簡単で、近道で、最短で最速です。そのために「何もない。あるのは空だけ」と恐ろしい言葉、あるいは理解できない言葉を言います。「何もない。あるのは空だけ」。

 ある人たちに言いたいのですが、黄檗希運の本を読んで理解できないのは、空という言葉、あるいは基本的に空であること、あるいは「すべての物の自然な状態は空である」と理解できないからです。だから賢い人たちのことを思い浮かべてください。禅宗とか禅宗でないとか考える必要はありません。

 考えなくてもいいです。いつでもあるのですから。行動がない、何かをする人がいないというのは、行動する人がいなければ行為がないのと同じです。こういうのは深くて厳としています。

 「行動する人はない。しかし行動はある」と半分に分けて言うのは、タイのテーラワーダです。ブッダの言葉風に言えば、「行為だけがあり、行為者はいない」で、禅風に、大乗のように賢く言えば「一切何もない」とすべて切り捨ててしまいます。行動も、行動する人もいません。つまり空です。

 どれも正しいですが、意味をしぼります。はっきり断言すれば、空という意味です。行為者はいません。行動も行動とは呼びません。行為者がなく、ただの動き、あるいはただの動作があるだけです。業(わざ)ではないからです。行為ではありません。折れた木の枝が落ちるのを、行為と呼ぶことはできません。樹木は行為者ではないからです。それはただの純粋な動きでしかありません。

 次に常自覚があればそのようにできます。この手で何をすることもできます。行為の主体である俺、俺のがない、ただの動作にします。正しいのは、何もする必要がないということです。自分がなければ何もする必要はありません。一方の「した仕事」は、純潔な体、純潔な心、純潔な知性、純潔な自然がしたことです。その中には自分、自分の、という考えがありません。俺、俺の物がありません。だから苦はありません。

 ブッダが『取は苦です。俺、俺の物という取がある時に苦があります』と言われているのが理解できます。俺、俺の物という取がなければ、苦は何もありません。俺、俺の物という取がなければ、生も苦ではなく、老いも苦ではなく、死も苦ではありません。

 みなさんはブッダの言葉を聞いても良く理解できず「生は苦、老いは苦、死は苦」と聞くと、何もかも苦と誤解します。ブッダがここで言われているのは、自分が生まれたと捉えている生、自分の老いと捉えている老い、自分の死と捉えている死という意味で、それが苦です。そう捉えなければ苦ではないからです。どの生老死も、ただの動作でしかなく、掌握すれば、生・老・病・死の意味があります。

 ブッダは『生は苦、老いは苦、病は苦、死は苦』と、正しく言われています。しかしブッダが言われている意味は、その中に取がある点に意味があります。これは『苦である取がある五蘊』というブッダの言葉で知ることができます。「取がない五蘊は苦ではない」という意味です。心身が純潔、あるいは空なら苦でなく、心身に俺、俺の物という取があれば、途端に苦になります。

 このように正しく理解してください。これはブッダが言われた正しい真実ですが、人は理解できません。「五蘊と名がつけばすべて苦」というのはバカです。間違いです。ブッダの言葉を誤解しています。それで動作や行為があると、すべて煩悩と理解します。望みがあればすべて煩悩と見なす、タイの仏教徒の誤解です。仏教が繁栄していると言われるタイでも、これほど誤解があります。

 希望や望みは、無明・欲望・取と関りがなければ、煩悩ではなく、苦もないと理解を正しく改めます。もう一度聞いてください。みなさんの希望や望みは、何をしたいと望んでも構いません。無明・欲望・取に関わらなければ煩悩ではありません。その希望・願み・願いは煩悩ではありません。欲望と呼ばず、取とも呼ばず、そして苦ではありません。

 その望みが無明に関連していれば、その願いは煩悩です。欲望であり取であり、苦です。だから知性で、明で、空の心で望んてください。無明や欲望や取に支配された心で望まないでください。無明・欲望・取のない心、良く訓練された知性で望んでください。こういうのは欲望でも取でもなく、苦ではありません。

 阿羅漢の方々は私たちよりたくさんの仕事ができ、私たちより良い仕事ができ、行動があれば、阿羅漢の方たちはあそこへ行ってあの人に教えたい、ここへ行ってこの人に教えたいと、このように望んでいました。阿羅漢にも願望があり、あれをし、これをし、行ったり来たり、行動がありました。

 しかし阿羅漢の方々は欲望、取、無明のない空の心で行動したように、私たちも少しずつその後を追うよう努力して、阿羅漢のように完璧になれるようにします。

 しかし本物の自然があるので有利です。自然が便宜を計らってくれます。つまり既に空だからです。みなさんは今無明・欲望・取がないので、空と同じで、無明などはまだ作られず、生じていません。この状態を維持するだけで、何を望んでも、何の仕事をすることもできます。

 お金を出して本堂を建てるにも、無明、欲望、取でするのと、無明、煩悩、取のない知性でするのがあり、無明、煩悩、取で寄付すれば苛立ちが燻ります。あれこれ結果を期待するからです。お金持ちになりたい、自分の来世の保証がほしいなど、たくさんあります。だから混乱で頭がいっぱいです。こういうのを無明、煩悩、取で寄付して本堂を建てる、と言います。

 正しく理解して、なぜ本堂を建てるのか知れば、特に人間同胞への光明のため、愚かさから脱すために建立すると知れば、みんなで協力して、タンマを教える場所として建立します。そして光明以外には何も期待しません。このような寄付は、無明、欲望、取による寄付ではありません。述べているような知性による寄付です。つまり、俺、俺の物である何も求めません。

 こういうのを、お金を出して徳を積むにも、正反対の違いがあると言います。人に誘われて寄付をしても、一方は混乱した心でし、もう一方は空の心でする違いがあります。だから何をするにも注意深く、元々ある空の心でするよう心掛けてください。

 みなさんがこうして座っている今、心は空です。良く観察して見てください。立ち上がって寄付をしに行くと、ほら、混乱してしまいます。仕方が間違っているからです。立って寄付をしに行く時でも、空のままでいてください。そうすれば何も害はなく、あるのは苦がないこと、望ましい結果ばかりです。これです。何でも空の心でしてください。既に空だから簡単にできるので、僅かな不注意で心を混乱させないでください。

 次は、非常に問題が多く、目を通じた話があり、耳を通じた話があり、鼻を通自他話があり、六処全部の話があるので、サティをしっかり維持してください。そうすればサティで見守ることに成功します。

 混乱させないようにすれば、心は空でいられます。そしてその静寂を、水の本来の状態と捉えます。何も妨害する物がない時の水は、いつも静かに静まっていて、何か妨害する物があれば波立ち、あるいは沸騰します。

 だから水の本当の自然の状態は空であり、静かであり、輝いていて、何か妨害がある時、無明、欲望、取によって煩悩が生じます。その人のサティがぼんやりするから、波立ち、あるいは沸騰します。だから元の状態が失われてしまいます。ここで元の状態を維持するよう注意をすれば、ただ注意深く見守るだけで、ほとんど何もする必要はありません。

 何も大げさに儀式めいたことをする必要はありません。何もしないだけです。何もする必要がない、と言う方が正しいでしょう。賢い人は嘲笑するように、愚弄するように、慧能の言葉のように「大人しくしていなさい。突飛なことをしてはいけない。何でも奇妙にしてはいけない。なぜって普通では空なのに、何だって混乱させなきゃならないんだ」と教えます。

 注意ぶかく空を維持し、それを断固とした物にすれば、つまり知性が途切れないようにすれば、混乱することはあり得ません。混乱は止まるだけです。それが、人の言うところの「何もする必要がない」です。

 勤勉なら、勤勉にジッとしています。作り出すことに勤勉にならないでください。勤勉にジッとして、勤勉に静かな状態を維持し、勤勉に空の状態を維持します。この言葉を仮に「何もしない」と言います。期待や煩悩、欲望、取ですれば大混乱です。このように教えを知らなければ、自分が何を求めているのか知らないので、間違って混乱を求め、誤解して混乱を求めてしまい、空にはなれません。

 正しく理解して空を求めれば、それはある種の良いこと、正しいことです。次に「自然の状態では心は空である」とあります。これは非常に有利で、大混乱しなくても済みます。これは最良で最短で、最高に賢い実践項目と思います。

 自然では空であり、基礎なら、サティや注意力を磨いてその状態を維持し、その状態が絶対に変わらないようにし、習熟すればまったく途切れなくなり、すべてが空になります。このような空の状態に煩悩はありません。苦もありません。だから、強硬な金言風に言えば、「それこそがブッダであり、空こそがタンマであり、空こそがサンガである」です。

 あるいは本当の心があると仮定すれば、空こそが本当の心です。こう考え、ああ考え、何十にも変わるのは本当の心ではなく、空が本当の心です。だから本当の心という言葉を追加しなければなりません。

 本当の心なら空にし、作り出す心なら、単なる波にすぎません。みなさんがしようと考えているような大混乱は、「ほとんど何もする必要がなく、注意深く空を維持するだけで良い」と見えない心です。勤勉に勉強するなら、これを真面目に勉強して、空の話、空の状態を元どおりに維持することを理解してください。

 ブッダは基本的に煩悩があると言われていないと理解してください。初めに話したように、ブッダは『煩悩は時々来る。通常心は空であり輝いている』と言われています。

 もっと確実な教えにすれば、縁起にしましょう。ブッダは『触、つまり目、耳、鼻などの刺激があれば受(感情)がある』と言われています。触がある時受があり、基本的に受が生じているのではありません。触がある時に生じ無ければなりません。一日二十四時間触がある訳ではなく、空きがあり、触があった時、その時だけ受があり、受がある時だけ、欲望があります。

 もし無明が家主なら、ブッダは無明を発端にしているので、

   無明が行を生じさせ、

   行が識を生じさせ、

   識が色名を生じさせ、

   色名が六処を生じさせ

   六処が触を生じさせ、

   触が受を生じさせ、

   受が欲を生じさせ、

   欲が取を生じさせ、

   取が有を生じさせ、

   有が生を生じさせ、

   生が生老病死、つまり苦を生じさせる。

 これは、受がなければ欲がないという意味です。だから受がない時は欲望も苦もなく、空です。欲望だけが増大して取になり有になるなら、それが生老死の苦になります。いつでもここで触の部分を取ってしまい、受にしないようにします。あるいは受が生じてもサティで欲にしないようにし、明にしてください。無明にしなければ、苦がないということです。

 ここで言う苦がないとは、生・老・病・死・所有できない・損・得などと呼ぶ行動に意味がないという意味です。だから苦がありません。愚かなら、生・老・病・死などは苦を生じさせ、問題を生じさせます。私たちを臆病にさせ、怖がらせ、苦しめます。

 正しい理解があれば、つまり空の心があれば、生・老・病・死・得・損などは、すべてバカらしい物で、苦ではありません。無明から始まれば苦があり、明が根源なら苦はありません。どんな場合にも笑い飛ばせます。得も損も、望ましいことも、望ましくないことも。

 これは『煩悩や、欲望・取は基本的にある物ではない』とブッダが明言されていることを表しています。欲望は受がある時だけ生じます。受も同じです。始終生じているのではなく、触がある時だけ生じます。触は六処が無明の規則で働いた時だけ生じます。触が無明の法則で働かなければ、その六処は六処でなく、意味がなく、不毛です。無明の威力で働く六処は、名形が無明の配下にある時です。

 私たちの心身である名形は、時どき無明に支配され、時どき何にも支配されません。たとえば、今誰でも名形があります。つまり無明の支配を受けない心身があります。それは空です。ぼんやりして無明に支配されると、いつでも、触を生じさせるにふさわしい六処を生じさせる名形があります。苦である種類の受があります。

 それが空であり、無明に支配されていなければ、体と心、あるいは名形は六処、あるいは苦である種類の触を生じさせません。六処があり触が生じても、空の形になり、苦ではありません。だから大丈夫です。嫌わなくてもいいです。

 その先へ移動すると、名形は行、つまり作り出すことの威力から生じます。これらのものは苦がある物、あるいは苦のない物になります。つまり空か空でないかは、行なので、必ず空でないようにします。

 識と呼ばれる物も同じで、この識は、いつどの瞬間にもあるものと理解しないでください。受は六処を通して刺激があった時に生じたばかりです。生涯の識、有を通しての識と呼んでも、六処を通して刺激があった時だけ識の働きをします。

 だから明と無明だけだと見ます。無明があれば空でない方向へ経過し、混乱して苦があります。空は、それ自体を明と見なします。苦がないからです。混乱は愚かなので、無明であり苦です。

 空は天然の賢さなので、苦ではありません。だからこの天然の状態をいつでも維持します。それ以上の物はありません。つまり天然の空、天然の静寂、天然の清潔、天然の純潔、呼び方次第で、いつでも何も作り変えられていない元々の天然の状態にします。行が作り出さなければ空で、行が作れば、作ります。無明が介入するからです。だから正反対の物、常自覚を持ってきます。

 みなさんは賢くて、日に日に智慧が増していることを智慧があると言うように。何かを知る智慧、周到に知る智慧が非常に敏捷で、出来事の発生と同時に働けば、それをサティと呼びます。その知ることができる物を、よく知っている智慧、考えることができる智慧と言います。目や耳などを通して事が発生し、刺激があった時に間に合う、事態に間に合うようなのをサティと呼びます。

 本当には智慧と呼ぶ知識です。それが基礎にあれば、勉強することで増えます。このように思考したり熟慮することを智慧と言います。目が形を見たり、耳が音を聞いたりすると同時に、駈け付けて来て事態に間に合う時だけ、サティがあると言います。このようなサティの義務が終わると、また元の智慧に戻ります。

 だからいつでも様子を伺っているサティがあり、サティがぼんやりしなければ、その時はいつでも空です。サティは空であり、空の物だからです。

 タンマは空です。本当のタンマでなくても空です。それは水が波立つように、無明の働きによって混乱しますが、風が吹き付けているだけで、水には変わりありません。波の形になっているだけです。心も同じです。どちらも同じ心ですが混乱しています。私たちは苦である混乱は要りません。空の方を取ります。

 本当の空なら、自分、自分の物と執着しないでください。空の物は自分、自分の物と執着しません。混乱している物にも自分、自分の物と執着しません。「空にも執着せず、混乱にも執着しない」と言います。そうすれば天然の空のままです。誰も空の所有者はいません。これが仏教の心臓部である教えで、これだけです。ちょっと話すだけで終わります。理解できたか理解できないか、後で考えてみてください。

 「サッペー タンマー アナッター」「サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ」という言葉はここにあり、このような心にあります。すべての物に執着するべきではありません。すべての物は自分がなく、空です。だから他のことを話したり、考えたり、憶えたりして堂々巡りし、時間を浪費しないでください。空の話しだけを考えて学び、憶えるよう努めてください。何かを聞いたら、必空の問題と照合してください。

 三蔵の八万四千項目を正しく理解すれば、空の話になるので、何もかも空の話しに駆け寄り、間違って理解すれば、あちこちに分かれ、地獄・天国、神・梵天、善・悪、誰のよりも良いなどと執着します。それは間違いで、正しく理解すれば、すべて空の話しになるので、私、私の物という取はありません。これを空と言います。

 どの種の心でも、自分、自分の物と執着するべきではありません。心のどんな感情も、自分、自分の物と執着するべきではありません。どんな形も無形も、どれも自分、自分の物と執着するべきではありません。だから空の話は本当のタンマです。あるいは本当のアピタム(アピダンマ。深遠なタンマ)、究極のアピタンマ、最高のアピンマです。あれが欲しい、これが欲しい、ああなりたい、こうなりたい、素晴らしい、という話なら、どんなに解説してもアピタンマでなく、まだ輪廻する話です。

 アピタンマとは最高のタンマ、それ以上に高いものがない至高のタンマです。空は涅槃です。究極の空は涅槃です。空の極致は涅槃です。だから今みなさんは涅槃の味見をしています。心が空っぽの時、みなさんの心が空の時は、一時的な味見の涅槃があります。だからこの空を大切に維持してください。そして完璧な空になるようにしてください。それを完全な涅槃と言います。

 「究極の空は涅槃」というのは、私たちは基本的に空なので、基本的に味見の涅槃があると捉え、大切に維持して、更に安定した物になるようにしてください。そうすればいつか変わることのない完璧な涅槃になります。空が無くならないよう、混乱と入れ替わらないよう注意をするだけです。「俺、俺の物」を作らないで、じっとしている他には何もしなくても良いと言います。

 重要な要旨はこれだけです。これ以上にしないでくだい。どこか分からない部分があれば、質問してくださって結構です。しかし他の話ではなく、この話だけです。



質疑応答

1.静まっている時、心が空になってピーティ(喜悦)が生じたらどうしたら良いでしょうか。

答 : ピーティには二種類あります。自然に生じたピーティなら、それは天然の物です。そのピーティに囚われないでください。それはご飯を食べると満腹を感じ、ご飯を食べないと空腹を感じるように、自然に生じた物で、その空腹や満腹を自分、自分の物と捉えなければ問題はありません。ピーティが生じても笑い飛ばして、生じるままにしておきましょう。

 迷って素晴らしいと捉えれば混乱し、すぐに消えてしまいます。すぐに惜しくなります。すぐに以前と同じように怖くなります。以前と同じように心配になります。何が生じても自分、自分の物と捉えないでください。ピーティも幸福も、すべては有為としましょう。ピーティも有為です。幸福も行、つまり作られた物です。作られた物は一時存在して、そして変化して行く物です。


2.積善について質問します。

答 : 徳を積むこと、徳を積むということは、良く聞いてください。俺、俺の物を増やすためにするのではなく、俺、俺の物を減らすためにします。減らして減らして、取を減らせば、正しい徳になります。取を増やすようなら正しい物ではありません。徳というのは洗う物、洗うべき物で、つまり煩悩を洗う物という意味だからです。煩悩は汚れた物なので洗うべきです。

 その徳が正しければ、煩悩を洗う物で、その徳が間違っていれば、煩悩を集める物で、煩悩を増やします。ある種の煩悩を落として、別の種類の、もっと粘っこい煩悩を増やすかもしれません。だから徳は、何か重みのある物と捉えないで、石鹸か洗剤などのような洗い落とす物と捉えなければなりません。清潔になったら満足してもいいですが、執着しないでください。

 執着すれば汚れた物になるだけです。執着すればまた汚れた物になります。いくら洗ってもキリがありません。だから無関心、あるいは空なら苦がありません。つまり涅槃です。空ですれば却って智慧が生じ、何でもすべて正しくなります。心が空の時は自由で、心が混乱している時は自由でなく、何をしても間違いばかりです。

 全体的に見れば間違いの方が多いです。勉強をするにも空の心でし、仕事も空の心でし、結果を受け取る時も空の心で受け取ります。結果を食べて使う時も空の心でします。聞いて意味が分からなければ、バカみたいな話ですが、正しい意味が分かれば最高に良い話です。

 
3.ラジオで空の話しを聞きましたが、よく理解できません。

答 : あと五年か十年すれば空の話が理解できると思います。そのような時役に立つよう話しておきます。ラジオで話しているのも、そのためです。五年か十年すれば人は理解できるようになります。今理解することを期待していません。しかし今理解できる人がいればそれも良いです。後で反論したり、たくさん討論すれば、早く理解できるようになるので、それも良いです。

 だからあの人が反対意見を書いたり喋ったりするのは良いこと、反対に良い結果になります。人々の理解を多少早くします。誰もが無関心なら、あと百年たっても理解できません。保証してもいいです。あと百年しても理解できません。この深遠なタンマは難解です。言葉が十分ないので、どう話したら良いか分からないからです。だから少しずつ話し、いつでも話し、分かるまで話します。

 忘れないでください。ニューイヤーカードには次の言葉を書いてください。

    どんな仕事も空の心で働け

    仕事の結果は何でも、空にやり

    空の飯を僧が食うように食う

    そうすればハナから死んでいる

 空は、髪の毛が山を隠すような物です。ちょっと不注意でも理解できません。正しい手法なら、難解で深遠と言われるタンマも理解できます。ブッダがタンマを解かないと考えられたのは、この話があるからです。


4.空の話は智慧と関係があり、智慧の多い人が理解できるでしょうか。

答 : この話は智慧が多いか少ないかと関係ありません。時には智慧のある人の方が、髪の毛が山を覆い隠してしまいます。智慧のある人の方が髪の毛で山を隠します。しかし髪を除くことができれば他の人より広くなります。智慧の少ない人がタンマを聞いて、早く到達してしまうこともあります。智慧の少ない人はあまり考えないので、智慧の多い人より早く到達することもあります。しかし到達した時は、智慧のある人の方が精通し、より利益になりることをします。


5.心を見るといつも混乱を見るばかりで、空の心を見たことがないと言う人がいますが。

答 : それはまだ見えないからです。混乱している時ばかり感じているので、見えません。混乱していない時は見たことがありません。考え直してください。みなさんが見るのは混乱している時ばかり。それは苦です。空の時間は見えません。本当は一日のうちでも空の時間の方が多いです。


6.空が痴のようになることはありますか。

答 : 自然では、自然の空ではありません。痴は作った時に生じ、貪欲、瞋恚、痴は感情を刺激する物があった時に、無明によって作られます。しかし空は、快適な、明るい、清々しい、すっきりした空には、痴は混入しません。つまり天燃の空です。これはみなさんで考えてください。煩悩は常時生じている物でなく、ほとんどの時は、心に煩悩がないということを。


7.サティがない時は煩悩でいっぱいですか。

答 : もちろんです。サティがなければ煩悩がいっぱいです。しかし自然を思い出してください。煩悩、あるいは空と呼ばれる煩悩でない物は、自然の状態では水のようです。自然は空であり、痴でも何でもありません。空は、俺、俺の物を生じさせる物でない、としましょう。これが基本です。

 取を基本にしたらやってられません。サティは中間にいることができます。考えが取の方に傾けば、そのサティは誤った見解になるので、正しいサティでなければなりません。つまり執着しないで、7誤ったサティか正しいサティかを考え、誤った見解か正しい見解か知らなければなりません。


8.「サティで世界を空と見る」というのは、当然サティと関係あるのでしょうか。

答 : それはサティです。いつでも世界を空と見るのはサティです。これは「世界はそれ自体が空」と言っているのに、「取と見ている」ようなものです。世界は本当には空です。世界を真実のままに空と見てください。世界は空なんですから、みなさんに正しく見ていただきたいだけです。空でなく混乱しているのは煩悩が生じた時だけです。煩悩がない時は空です。

 だから煩悩の刺激がある時、作り出している時だけを見て、息をしている間はいつでも煩悩があると理解しないでください。サティがぼんやりした時だけ作り出されます。刺激があると作り出され、そしてサティがぼやけます。触れる物がなければ心の中では作り出されません。

 心の中は外部のように、一呼吸毎に刺激がある訳ではなく、一呼吸毎に目が形を見、耳が音を聞いているのではありません。時々触れてくる物があるだけです。サティがぼんやりしなければ、何も刺激がないのと同じで、サティがぼんやりすれば、触れてくる物があります。


9.心の面では、どういうのを触れる物と呼ぶのですか。

答 : 心には考えがあります。それは触れることの後から生じます。タンマーロム(心が意識している物)が心に触れると、何らかの感覚が生まれ、それからはっきりした考えになります。だから考えは欲望の後に生じます。望みがあると考え、望みがなければ考えません。有名になりたい等の思いは、考えの元になります。これは感情、あるいは感情の状態という意味です。

 つまり名声が心に触れるので、心はそれを好み、欲しがり、欲望の威力で考え、そこでキリもなく(考えを)作り出します。

 そのように休まず、一呼吸毎に作り出していると、必ず気が狂います。幾らもしないで気が狂います。そして止めるか、死んでしまいます。だから休む時間がたくさん必要です。そうすれば狂わずに済みます。あるいは、休まなければ神経の病気になり、重くなれば狂います。重くなれば死ななければなりません。

 空はみなさんを守ってくれます。命を正常に守ってくれます。これを痴と呼ばないでください。それは空です。知らないうちに空は人間を助けています。神経症にならないよう、気が触れないよう、自殺しないよう守っています。涅槃の特徴があり、小さな、一時的な味見の涅槃が私たちを守っています。





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