6.心を空にするには





1966年1月8日

 空の話を聞くなら、空の要旨として空について話さなければなりません。時間があまりないので、要旨だけにしますが、理解できれば十分です。

 順に理解しなければならない項目は、私たちが世界と呼ぶ物は、普通の状態は空であり、空と知らなければならないとあります。世界は空と知れば、心も空になります。つまり空っぽの心になり、執着はなく、苦もありません。だから混乱した心は混乱ばかり作り出すので、苦であり混乱した心です。話の要点はそれだけです。

 本当の自然の真実では、世界は空です。心を空と見れば、心は空になるだけで、何にも執着しないので、苦はありません。あるのは真実のままに知る知性だけです。しかし凡人が騙されて「世界は空でない」と見れば、好むのと嫌まないのがあり、それで心は愚かになり、迂闊になり、変化させられて異常に、つまり空でなくなり、混乱した心になるので苦です。話の要旨はこれだけです。

 だから、世界は空と憶えるために繰り返させていただきます。心が混乱しているか空かは、どんな状態の世界を見るかによりけりです。世界を間違って見れば、心も混乱し、世界を正しく見れば、心は本来のままの空なので、苦を感じずに何でもすることができます。これだけで十分です。五分話せば終わります。

 しかし実践は、死ぬまで実践しなければならないかも知れません。できなければ、あるいは十分賢くなければ、つまり心が然るべき空にならなければ、いつでも混乱しています。これが初めの部分の簡単な要旨であり、話全体のテーマでもあります。

 次に空の世界はどのようか、詳しく説明します。「通常世界は空」というのは、どういう意味でしょうか。これは重要な話です。つまりブッダに「どうしたら死の威力の上にいられますか」と尋ねた人がいました。パーリ語では「閻魔大王に私が見えなくするには、どうしたら良いですか」という言い回しで、「どうしたら閻魔大王に掴まらないですか」という意味です。タイ語で言えば「どうすれば死の威力外にいることができますか」です。

 ブッダは「モーカラーチャさん。あなたはサティをもって、いつでも世界を空と見なさい。あなたがそのように世界を空と見れば、閻魔大王にはあなたが見えません」と言いました。こういう主旨です。誰でも世界を空と見ている時は、閻魔大王はその人を捕まえることができません。つまり苦はなく、死に関わる問題はありません。自然に存在する物である死も、「死」あるいは「苦」と感じないので、「死と捉えない」と言います。

 世界を空と見る点が重要です。これは意地悪で無理に「空と見る」と言っているのではありません。それについては問題ありません。死は空になります。人がいなければ苦はありません。体が自然に滅びて死んでも、死と感じたり、苦と感じたりしません。死を捉えないと言います。

 重要なところは、世界を空と見なさい、という点です。この項目は、無理に空と見させる、つまり空である真実を見させるのではありません。ほとんどの人は見方を知らないので見えず、だからわざわざ言葉や原則を作って唱えたり憶えたりします。考えるにも、アーチャンやら誰やらが決めた規則で考えます。それでは見えません。それはわざと見たり、わざと考えることなので利益がありません。だから本当のこと、正しいことでなければなりません。何としても世界を空の物と見れば、苦の問題はなくなります。

 どう見たら世界が空に見えるでしょう。初めに、世界と呼ぶ物は何かを話ぢtrぢまわなければならないかも知れません。「世界はすべての自然」と言うことができれば良いです。すべての、例外なくすべての自然が世界で、パーリ語のタンマという言葉の意味と一致します。パーリ語のタンマという言葉は、何一つ例外のないすべての自然を意味します。

 勉強に役立てるために、この言葉に関わる記憶を復習させていただきます。「タンマ」という言葉も「自然」という言葉も、すべての自然という意味で使うなら、本当の自然について、自然の法則について、自然の法則に従ってしなければならない人間の義務について、そして義務の結果について考えなければなりません。このように四段階になって隠されています。

 本当の自然、気候、形も名もありとあらゆるもの。形とは固体である物質で、眼・耳・鼻・舌・体で知覚できる物を物質と言います。パーリ語では音声も形、芳香も形、つまり物質の部類です。形・声・臭・味・皮膚の接触は全部形です。簡単に見られる物は、大地、樹木、空、山、太陽、月などは物質、形です。これが一つの部類です。

 もう一つの名(抽象物)は心で、考えや感覚を意味します。世界は形と名であり、それ以上何もありません。その上その二つが関わり合わなければ何もありません。心と体、形名が関わり合えば、あれこれ知る働きがあるので、世界が現れます。心は感じる物だからです。心が勝手に感じるだけなら世界は必用ありません。心が働くオフィス、職場のような体があるので、心は知り、考え、思うことができ、世界が現れます。心が感じるからです。

 心が感じなければ、世界はないのと同じです。だから世界と呼ぶ物、形と名は、例外がありません。人間の体の外部の物質も、人間の体も人間の心も、すべてこの言葉に含まれ、世界、あるいは自然であるタンマと呼びます。タム、タンマ、自然としてのタンマが一つの段階であり、世界と呼ぶ物の一部として知らなければならない物です。

 自然には自然の法則があり、これには実体がなく、「世界は無常であり、苦であり、無我である」のように、法則と呼ぶ一つの真実です。これを自然の法則と呼びます。世界、あるいはいろんな物は、原因と縁によって経過する物で、誰も変えることはできません。誰も支配できません。これを自然の法則と言います。つまり原因と縁で経過することが、最も重要な意味です。

 もう一つの恐ろしい法則は、キリもなく変化していて止まらないことです。休まず作り出しているとあまり見えないので、良く見なければなりません。休まず作り出していると見えるように、勤勉に学ばなければなりません。

 たとえば、みなさんがご飯を食べると、ご飯は血肉を作る原因になり、これは結果です。この結果である血肉は、やがて生活や行動をする原因になり、このように続いて、また何らかの結果が出ます。そしてそれがまた原因になり、このように止まることを知りません。この休まず作り出すことを、自然の法則と呼びます。

 三つだけ例を挙げて話すと、無常・苦・無我の法則を自然の法則と呼びます。お互いに原因になり縁になり、そして原因と縁で経過することを、自然の法則と呼びます。それは止まることを知らず、際限なく作り出(加工)します。これも自然の法則と言い、こられは世界という言葉に含まれます。

 一番初めに自然。二番目が自然の法則。次は三番目の「人間は自然の法則に合った行動をしなければならない」義務です。自然にある義務という物がどれほど怖い物か、どんなに重要か考えて見てください。

 食べ物を探さなければならないことから始まって、身体の管理もしなければならず、病気の薬も必要です。生殖もしなければならないし、危険を回避しなければならないし、一生懸命いろんな苦を滅す努力をして、苦を絶滅させなければなりません。これが避けることができない自然での義務です。

 だから誰でも毎日大変な義務があり、世界にあるので、世界の一部と捉えます。身体を管理する義務、生きる義務、その他の義務も含めたさまざまな義務の遂行。この三番目も世界の中にあるので、世界という言葉の一部分です。

 最後は受け取る結果で、受け取るお金や金塊、物や名誉や名声など、何でも世界の物です。気に入ることも気に入らないこともあります。タンマの面で最高の義務を実践すれば、聖向聖果涅槃が得られます。これが自然に得られる結果と言います。大きな教えで見れば、このように四段階になっています。

 もう一度復習すると、自然その物、自然の法則、自然に従ってしなければならない人間の義務、そして人間が自然に従った行為から得る結果、全部を簡単に言えば、世界という一語に含まれます。

 このように広く世界を見れば良く理解できます。次に世界全体を空という角度から見ていきます。自然その物も、自然の法則も、義務やその生じる結果も、空と見てください。

 パーリ(ブッダの言葉である経))であるブッダの言葉の中に、「空とは自分がないこと、そして自分の物がないこと」と明言されています。自分がないこととは、アッター(自我)がないこと。自分の物がないこととは、アッターニヤ(自分の物)がないこと。パーリ語で二語あり、アッターとは自分という意味で、アッタニヤーとは自分の物という意味です。世界全体は自分がなく、自分の物がなく、自分である部分は全くないからです。まだ自分の考えについて、凡人の感覚について言わないで、今は本当の自然について話します。

 自分がないということを見てください。どの部分も自分ではあり得ません。際限なく作り出す自然の法則などによって、流れ続けているので、止まることがなく、絶えず流転している物のようです。心の中の考えは常に流転していて、それが行動に働き掛けるので、次々に行動があり、行動も流転しています。

 次は命や心がない物、石ころ、土塊なども流れています。初めから変化し、初めは無く、それから生じて、変化し、再び無くなり、現れなくなります。こういうのを「このような状態で流転している」と言います。

 だからすべての形の物は、絶えず流れていて、名だけの物も絶えず流れています。まとめれば形の物も名の物も絶えず流れています。自分(あるいはその物)と規定できるほど恒久に確実で変わらない部分はどこにもなく、絶えず流れています。だから自分がないと言います。それらに自分がなければ、誰も自分の物と占有できる部分、あるいは時間はありません。だからもう一度自分の物はありません。自分もなく、自分の物もありません。すべてこのようです。

 私が言ったとおりに憶えるのではなく、明らかに良く理解するために、「自然には自分、自分の物がなく、自然の法則にも自分、自分の物はなく、自然に従った人間の義務にも自分、自分の物はなく、生じる結果にも自分、自分の物はない」とはっきり理解できるようになるまで、自分自身で見なければなりません。

 次に、ここに座っているみなさんの身体を見ていきます。「誰でも身体と心があって考えることができるので自分と考える。だから考えられ、私はしたいようにすることができる」というのは、それが作っ(加工し)ていることと、その人が気づかないからです。

 休まず作り出し、休まず原因と縁によって経過するので、体が生じ、考えが生じ、絶えず流れていき、行動し、行動の結果があります。それは本当には、決して誰かの「自分」ではなく、休まず作られているだけです。身体が心を作り、心は眼、耳、鼻、舌などを通して入ってくる形、声、臭い、味などによって作られ、絶えず作っています。絶えず押しています。生きている人間でも自分はなく、あるのは自然の物の、自然の法則に従った、それらの原因と縁による流れだけです。

 だから人には自分がないと分かります。そして家やお金など、人間が自分の物と考え物も、持ち主と同じ様に絶えず流れています。だから自分はありません。世界中を一つにまとめると、世界は空です。ブッダは世界をこのように見るよう望まれています。「いつでも世界を空と見なさい。そうすれば閻魔大王にはあなたが見えない」と言います。閻魔大王にはあなたが見えないというのは、死の上にいることです。すべての物の上にいるのは、阿羅漢です。

 「この世界は空」というのは、何がないから空なのかは、自分、自分の物がないことと、最初の意味をしっかりと掴みましょう。そして世界という言葉の意味を良く理解し、世界は丸い土の塊と理解しないで、述べたような四段階で理解しなければなりません。つまり自然そのもの、自然の法則、自然に合った義務、義務によって作られた結果。これを一まとめにしたものが世界です。

 世界には自分、自分の物はないので、「本当は空」と結論することができます。世界の一部分である一人一人の人間には、いろんな物を作り出すことができる身体があり心がありますが、どんな状態でしょうか。それは、愚かにしたり賢くしたりする自然の力によってそうなり、ほとんどは愚かな方です。

 眼、耳、鼻、舌、あるいは皮膚の接触を通して何かが心に入ってくると、これは気に入った、これは気に入らないと、つまりこれは好ましい、満足、これは好ましくない、不満足という物を作り出すからです。これです。心を作り変えて一方を愛させ、もう一方を嫌わせます。

 だから愚かで、惑溺です。真実でも本物でもないのに、自分を作り上げます。これです。嫌いな自分。好きな自分。動物。物。物質。人間。愛する物。愛さない物。これを、明らかに受が生じ、欲望が生じ、取が生じたと言います。

 自分という感覚は当てにならない物ですが、本当にあると感じます。私、俺、こうだ、ああだと、現実に感じるからです。そして心の惑溺の限りに自分の物になります。生まれた時から心が愚かな方へ、溺れる方へ変化させられたからです。

 ずっと胎児のままで、苦楽も善悪も、寒さ暑さなども感じなければ、自分、あるいは自分の物を作ることはあり得ません。しかし生まれた子は成長して感覚が発達するので、これは好ましい、これは好ましくない、これは美味しいなどと感じるように作られます。感覚に合えば好んで愛し、感覚に合わなければ嫌って愛しません。二つの区別が生じて、いろんな物を良い、悪いと判別する感覚が生じます。

 だから良い物を愛し、悪い物を嫌います。本当の感覚はこのようです。何かを良いとして好めば、それを良いと言って好み、そして作ります。外部の環境によってこれは良い、あるいはこれは悪いと理解させられます。それは仮定、あるいは同じように迷っている人たちの理解に従っているだけです。真実は空なので、良いも悪いもなく、空です。

 しかし迷うと、自分の気に入った方を良いと言って好み、自分の期待に添わない方を悪いと見なします。良いも物と悪い物、徳と罪、幸福と苦の二つの理解が生まれ、そして自分、自分の物という感覚もどんどん厚くなります。そして解決しなければならない問題がどんどん増えていきます。この問題が苦です。

 良い方の問題も、どうしたら手に入れられるかという苦になります。悪い方の問題も、排除することができなければ苦になるので、辛いです。しかし原初の感覚である空があれば、あるいは良いも悪いもなければ、何も問題はありません。

 ここでちょっと別の話を挿入させていただきます。みなさんキリスト教、あるいはユダヤ教を軽蔑しないでください。彼らは三千年以上前から、創世記という教典の中で、初めに神が地球を作り、それから地球上に人間であるアダムとイブを作ったと言っています。この作られた人間にはまったく苦がありませんでした。神は人間を快適な楽園に住まわせ、ある木の実を食べてはいけないと禁じました。

 二人はその楽園で幸福に暮らしていましたが、ある日蛇の姿で現れた悪魔にそそのかされ、禁じられた木の実を食べてしまいました。するとアダムとイブが木の茂みに身を隠すという問題が生じました。その木の実を食べると「身をまとう、まとわない」という感覚が生じたからです。その木の実を食べる前は、身をまとうとか纏わないという感覚はなく、その果物を食べると、知恵である感覚が生じ、身をまとうこと、まとっていないことの区別を知り、良いことと悪いこと、女であることと男であることを知りました。だから恥ずかしくなって木の茂みに身を隠しました。

 神がいつものように二人に会いに来ると、その日はどこに行ったのか姿が見えないので、叫んで呼ぶと、二人は茂みから返事をしましたが出てきません。そこで神はどうして出てこないのか尋ねました。彼らが、何も身にまとっていないので、裸なので恥ずかしいと答えると、神はすぐに、二人が禁じていた木の実を食べたと分かりました。

 そこで、今まで(区別を)知らなかったのに、どうして今は知っているのかと聞きました。二人は追い詰められて仕方なく、知恵の木の実を食べたと白状しました。神は、この二人が永遠に苦しむように呪いました。この初めの夫婦が子を産んでも、子孫たちは全員、永遠に苦があります。

 これです。良く考えれば理解できます。男だ、女だ、衣服をまとっている、いない、良い、悪いなどと知る前は、こういうことを知る前は何も問題がありません。人間は快適で、つまり空でした。「これは良い、これは悪い、女だ、男だ、着ている、着ていない」などと知ると、とたんに問題になり、すべて苦です。キリスト教の人も、このような意味は理解できないかもしれません。聖書を持ってきて私たちに信じるように言いますが、私たちは信じません。

 次に私たちは仏教教団員として、タンマ、あるいは自然を広く深く見ます。そう見れば、彼らが言っていることは正しい、ただ人間を基準に話しているだけで、非常に正しいと知ります。意味を読まなければなりません。意味を読まなければ、バカバカしすぎる話しで、信じられないお伽噺です。しかし正しく意味を読み取って、事象を中心に見れば、私たちのと同じで、善悪、徳罪、幸不幸、男女などと捉える前は苦はありませんが、捉えた途端に、瞬時に苦があります。

 だから一日のうちに善・悪、徳・罪、幸・不幸、男・女などと捉えた回数だけ苦があります。誰も助けることはできません。良い悪い、好き嫌いなどと区別するのは愚かなことと分かります。どちらも無視することができれば、騙して愛させる物にも淡々としていられます。騙して嫌わせる物にも平然としていられます。これが元からある空で、二つに区別する物は何もありません。それが「いつでも空」と、真実を知ることです。それは苦でなく、混乱でもありません。

 次はこれも不思議なことですが、周りを囲む物、接触する物が多くなればなるほど、愚かになり、区別して捉えることが多くなります。非常に良い、非常に悪い、あるいはとても幸福、とても苦、何でも「とても」「非常に」になってグルグル回ります。いろんなことがあるので大混乱になって、そして非常に苦になります。一日に何百もの問題があることもあります。混乱。こういう心は愚かになってしまった、元々あった空でなくなってしまったと言います。
 形が目に入ると、バランスを欠き、正常さを失わせるので、必ず一方へ傾いて、好きか嫌いにならなければなりません。耳から入っても同じで、美しい響きか耳障りかで耳に刺激があると、心が愚かなのでバランスを欠いてどちらかへ偏り、波のように、風を受けた水面のように波立ち、好きか嫌いの方へ傾きます。二種類しかありません。対は二種類しかありません。善悪、徳罪、幸不幸、何でも二種類しかありません。一つは好ましく、もう一つは厭わしい。このように二種類に波立ちます。

 心が混乱して空が失われた時、混乱して空が失われた心の中には、何が満ちているのでしょうか。なぜ空でない心と呼ぶのでしょうか。

 「ラーカ、トーサ、モーヘヒ、スンニャター、スンニャトー」という言葉があります。「空というのは、ラーカ(情欲。五欲)、トーサ(瞋恚。怒り)、モーハ(痴)がないから」。そして「空でないというのは、ラーカとトーサと何らかのモーハがあるから」という反対の文章もあります。対である物が私たちを迷わせる善悪、罪と徳などと区別させるので、これは好ましい、これは厭わしいと捉えるからです。

 愛したい気持であるラーカと呼ぶ物が生じた場合、何かを奪わせること、つまり自分に引き寄せることがあります。これがラーカ、つまり自分に引き寄せたい感覚と言います。

 トーサ、あるいはトーダと呼ばれる感覚は、突き放す気持で、これをトーサ又はトーダと言います。ローパ(貪欲)、あるいはラーカなら自分に引き寄せる気持です。自分で抱きしめるのをローパと言い、トーサは正反対で、突き放し、ラーカと正反対の感覚です。

 モーハと呼ばれる物は真っ暗で、迷って、引き寄せたら良いか突き放したら良いか分からないので、疑念で疑惑に満ちて、心配で、強い関心で堂々巡りをしているような状態です。こういうのは、引き寄せるのでも突き放すのでもありません。堂々巡りと言います。これがモーハです。

 ですから形が目に入ってきた時、音が耳に入ってきた時、臭いが鼻に入ってきた時、味が舌から入ってきた時、肌に接触があったとき、その人の心が愚かで迷えば、こういう症状になります。ラーカになることもあり、トーサになることもあり、モーハになることもあり、場合によりけりです。ラーカ、トーサ、モーハが生じれば、五欲と怒りと痴で満ちていると言います。五欲でいっぱいのこともあり、怒りで混乱していることもあり、迷いで混乱していることもあります。空なら、「ラーカ、トーサ、モーハがなければ空」というパーリに従って捉えます。

 五欲、怒り、迷いが生じて空でなくなるのは、時々、しばしば、たまにそうなると、すぐに分かります。形を見た時し、声を聞いた時、臭いを嗅いだ時、味わった時もありますが、時々です。

 五欲や怒りや迷いはそれにふさわしい時に生じ、その物の原因と縁によってしばらく存在し、長いこともあり、それほど長くないことも、ほんの少しのこともあります。これを混乱と呼びます。この間を混乱と呼びます。しかし最終的には、欲と怒りと迷いのない空の状態に戻ります。次に目や耳に刺激があって何か事が起これば、心は再び混乱します。このように入れ替わっています。これを混乱した心と言います。

 本来の心は空であり、心に触れてくる物も空であり、長々と話したように、世界のすべては空なのに、心と身体も含めて、世界はすべて空なのに、その空が何かに触れると水のように波立ち、五欲になり、怒りや迷いになり、その時混乱になり、苦はその時だけそこにあります。心が混乱して波立っている間はそこにあります。だからその苦もついでに空になります。それも同じ空の物です。

 しかしこの種の空の物は現れた反応です。絶え難い苦であり、私たちが堪えられないないので問題が生じます。苦がある時、つまり五欲、怒り、迷いがある時、人間にとって堪え難い問題なので、それを治療する方法を探さなければなりません。知らなければ治療法が分からないので、そのまま、その状態に甘んじています。それが普通の人です。非常に凡人です。

 良い凡人は良い方、高い方の成り行きになるので、我慢しないで、解決の方法を探そうと考えます。ずっと昔、発見するまで探求し続けて解決したのが、ブッダです。ブッダはこのことを、この真実を発見されました。「おおそうだ。こうだ。世界のすべては空だ。何かが触れて自然の一部、つまり心を変化させると、心は波立って五欲や怒りや迷いになり、自分自身を焼きあぶる結果になる」という真実です。

 私たちには方法がなければなりません。五欲や怒りや迷いを生じさせるほど愚かにならないでください。世界はいつでも空であり、何もかも空であると知っています。いつでもこのことにサティがなければなりません。何かが目を刺激してきた時は嘲笑できます。耳を刺激してきた時も嘲笑できます。この笑いは欲しくて笑うのではなく、嬉しくて笑うのでもありません。笑いが違います。タンマは正常で居させてくれます。正常な状態を維持し、本来の空でいさせてくれます。

 ブッダが悟ったのはこの項目です。執着が生じるから苦になるという項目です。五欲の形の執着も、怒りの形の執着も、迷いの形の執着もあります。だから苦を滅すことは執着を滅すことです。そして最良の方法は、それを生じさせないことです。もし生じたらその度に消し、生じないようにします。それが最も正しいです。そうすれば苦から脱す、つまり苦がないと悟りました。執着しないから苦から解脱します。

 次は、どうしたら解脱できるかで、正しい知識で解脱できるので「正しい見解によってすべての苦から解脱できる」と悟りました。正しい見解(サンマーティティ)とは、世界は空なので執着するべきでないという正しい知識です。これが最高に正しい見解です。この正しい見解を、サンマーティティと呼ばない時もあり、時には智慧と呼びます。だから「当然智慧で苦から純潔になれる」という言葉があります。

 どうぞ、危険を切り抜けるには智慧が、つまり正しい知識が必要という教えを掴んでください。ずるい知恵でなく、純潔な智慧です。安全のためには正しい見解と呼ぶべきです。知恵と呼べば、似通った意味があり、時には手馴れた知恵、つまり狡猾な方に賢い知恵のこともありますが、正しい見解と呼べばジタバタしません。正しい方向の意味だけです 。

 だから智慧という言葉には注意してください。騙すのが上手なことも「知恵がある」と言います。こういう知恵は使い物になりませんが、純粋な智恵なら、つまり正しい見解なら、正しい見解は「世界は空」と真実のままに見ることです。世界は無常であり、苦であり、無我であり、原因と縁があり、その物と呼べる独立した自由な実体はありません。それは原因と縁によってできた物で、そして常に変化し、変転していきます。

 もしそれが断固とした揺るぎない知識であり、性格本性になっているれば、心に触れてくる物が何もないように、塀で囲んでいるように、心はいつでも空です。何が刺激して来ようと、弾き返してしまいます。目から形が、耳から音が入って来ても、弾き返します。こういうのを触だけと言い、感情にはなりません。

 感情にならなければ欲望や執着を作り出しません。つまり自分、自分の物という感覚が生じません。非常に(感情が)濃ければ俺、俺の物を作り出し、非常にイライラします。普通でも俺、俺の物を作り出します。しかし知識、または智慧が完璧で、常に智慧を輝やかせるサティが完璧なら、つまり智慧とサティの両方が完璧なら、タンマ、あるいはプラタムと呼ぶ物があるのと同じ、いつでも空にする物が身についているのと同じです。

 だから阿羅漢の方たちが、普通の人と同じように形を見、声を聞き、臭いを嗅ぎ、味を見、何かに触れても、結果は同じではありません。つまり執着しないで弾き返してしまい、ただ触れるだけです。感情、欲望、執着、有、生を作り出しません。何が来ても受け入れてしまう凡人と違います。俗人は弾き返しません。だからただの触でなく、感情になり、欲望になり、執着になり、有や生になり、そして苦になります。これが混乱であり、苦です。

 述べて来たきたことを聞いて分かり理解できれば、「いつでも人を空にする物はサティ」と、自分自身で気が付くことができます。だからブッダは「モーカラーチャよサティをもって、いつでも世界を空と見なさい」と言われています。

 サティという言葉、この言葉を軽視しないでください。ブッダの言葉に「サティは、どんな場合にも求めるべき物である」とあります。サティはいつでも、どこでも、どんな場面でも、常に望むべき物と、しっかり憶えておきます。

 サティが完璧で正しく十分にあれば、刺激によって心が変化するのを防ぐことができます。目に入っても弾き返し、耳に入っても弾き返します。つまり以前に好きだった物を見ても、サティの働きが間に合えば愛しません。以前に嫌悪や怒りや恨みなどを起こさせた物も、嫌ったり怒ったり恨んだりしません。耳から鼻から舌からの刺激も同じで、五感に関係なく、心だけで考えたことも同じです。

 時には心が自然に考え、ある考えは愛を生じさせ、ある考えは嫌悪を生じさせます。しかしサティがあればそうなりません。考えがいつものように始まっても、サティが気づいて制止させ、軽蔑して追い返します。「また来たか」と言うようです。サティを間に合うように生じさせるだけで十分です。「また愛させに来たな。また嫌わせに来たな」。相手にしないで本来の空を維持します。

 これをサティと言い、どこででも必要です。どこでも欲しいのは、サティが智慧を連れてくるのが間に合うことです。忘れないように譬えれば、智慧は敵を殺す剣か銃のような物で、これが智慧です。サティは素早く使って間に合うことで、剣や銃がどこにあるのか、どこに仕舞ってあるのか分からなければ、間に合うように使うことはできません。これでは武器も役に立ちません。

 だからサティのない智慧は利益がありません。頭の中いっぱいに知識があっても役に立たないので、危険を脱することができません。危険を脱すことができるのは、間に合うように使うサティだけです。しかし時には二つを分けないで一緒に使います。サティはサマーディで、智慧は智慧で、一緒に使います。私はほとんどこのように感じます。

 気づくのが間に合った時、つまり智慧とサティの両方が同時にある時、気づくのがサティで、気がついた物が智慧です。気づくことができた考え、知識、真実など、この部分が智慧です。

 だからサティと智慧は元からある物で、気づくようにする行動が戒で、自分を気づかせるようにすることが戒で、気付くことができるのがサマーティで、考えの中の真実が智慧です。だからこれだけの行動に、戒とサマーティと智慧があります。何も形式めいたものは必要ありません。しかし本当の戒、サマーティ、智慧なので、危険を脱すことができます。

 ブッダは普通の人の質問に対して普通の言葉で答えられています。「いつでも世界を空と見なさい」と言われています。このいつでもというのが、本当にいつでもになるよう注意すれば、それが戒です。何かを心に刻んで管理することを戒と言います。例えば生き物を殺さないよう、財産を盗まないよう、性的に誤った行為をしないように管理することなど、このように管理することを戒と言います。

 自分の心にサティと智慧があるように管理すれば、戒とサマーディと智慧があります。いつでも世界を空と見るために使えば、非常にまとまっていて、最高にふさわしく、最も強力です。何があっても、心が空を失い、欲や怒りや迷いの波が立つことはありません。そして空でないことの結果として、心が怒りやイライラで炙られることもありません。これが空と混乱です。

 要旨はこのようです。このような内容が理解できれば良いと見なします。枝葉の細かいことは後で勉強して増やすこともでき、会話するのも良いです。

 忘れないようにもう一度復習します。世界は元々、自然の状態では空です。世界とは人間が知っているすべての物で、人間自身も含めて世界と呼びます。仕事と仕事の結果も世界という言葉に含まれます。

 世界は空です。なぜ空か、なぜ空と呼ぶかは、その中に「それ。その物」と呼べる物が何もないからです。いつも変転していて、変化していて、あるのは原因と縁だけ、無常と苦と無我だけで、いつでも流れていきます。どこにもそれ自体と呼べる物がないので「世界は空」と言います。「それ自体がない。それの物もない」というのは、それ自体と捉えるべき物がない、それの物と捉えるべき物がないからです。これが空です。

 次に世界の一部分である心が感情によって、つまり世界の一部分である形・声・臭い・味などが触れると、ぶつかり合います。世界の一部分と、世界のもう一部分がぶつかり合います。

 世界の一部分というのは、私たちの身体または心です。世界のもう一部分というのは触れてくる形・声・臭い・味などで、鏡のように静かな水面に風がぶつかるように、いろんな形の波になります。欲と呼ばれる形になり、怒りという形になり、迷いという形になり、これを「空が失われた」と言います。本来の状態が失われてしまい、一時的に新しい状態になります。五欲なら五欲として熱く、怒りなら怒りのように熱く、迷いなら迷いのように熱くなります。

 ブッダは「それが鎮まるまで、すべては火」と言われています。しかしそれが自然に鎮まるまで我慢できません。次々に新しいのが生じるので、際限がなく、お手上げです。海を見てください。次々と風が吹くので、波は際限なく生まれます。心の中がいつもこのようだったら、生き地獄も同然で、堪えられません。だから心を本来の空に戻す方法を探さなければなりません。

 つまり心を元通りの賢さに戻し、世界は空であり、何もそれだ、それのものだと捉えなければ、生じている欲や怒りや迷いも一瞬で消えます。サティが十分あればそれらが再び生じることはありえず、快適です。最高の純潔、最高に澄み切って、最高に穏やかな静寂を受け取ります。この三つがある時は最高に快適で、幸福の中でも最高の幸福で、人間が得るべき最高に素晴らしい物です。

 次に注意していただきたい物が三つあります。非常に危険な敵は次の三つです。つまり食べる話。食べる話には気をつけてください。次は性の話で、そして名誉の話です。分類して見ます。

 食べる話は人間にとって問題が多い大問題で、執着すれば非常に苦があり、執着しなければ苦はなく、解決できます。

 食べる話が終わったら、性の話です。つまり心が形・声・臭・味・触に支配れると非常に難しい問題になります。それらを心に侵入させてしまうと、非常に困った問題になります。十分な知識と智慧があり、触れてきた時に弾き返すことができれば、それらは何でもなく、何も意味はありません。

 次は名誉の話で、人間は時には食べる話より性の話より、名誉の話に迷うことがあります。人により場合によりますが、これも非常に問題になります。あれこれ名誉が傷つくことを恐れて、あるいはあれやこれや名誉を得られないために一晩中眠れないこともあります。

 だからこの三つには気をつけてください。火炎地獄のように炙られます。こう言うのは、食べる話、性の話、名誉の話を避けるべきと言っているのではありません。しかし正常な心でこれらと関わらなければいけないと言っています。五欲や怒りや迷いが生じるほど溺れなければ、これらは小さな道具になり、家来になり、主人にはなりません。この常自覚がある心を空の心と呼び、愛欲、怒り、迷いが空っぽです。

 ご飯を食べる時はこの種の心で食べなければなりません。そうすれば食べることの問題はありません。大食いでなく、口に合わないで困ることもありません。空の心で食べると言います。煩悩のままにすれば、混乱した心で食べることです。それは、美味しいとか美味しくないとか、いろんな人を叱りつけるとか、大食いなどの問題があります。

 性の味わいに関わる話も同じで、常自覚でしなければなりません。ブッダは、人が性と関わらずに居られるとは言われていません。だから普通の範囲にしてください。家庭を持ち、妻や夫のある預流や一来などの聖人も、聖人同士で性的に関わり、常自覚で関係します。貪欲や怒りや迷いがなく、凡人のように激しくありません。だから生き地獄に落ちるような結果はありません。凡人、愚か者、惑溺している人のように心が焼き炙られません。

 だから大きな開きがあります。性と呼ばれる物と関わるなら、心から自分、自分の物という感覚をできる限り少なくして、常自覚で関わらなければなりません。まだ煩悩が消滅していなくても、その時は煩悩がないように、煩悩が生じて働かないように努力し、常自覚で煩悩を管理します。

 名誉や名声の話も同じで、名誉を避けることもできません。どこにでもある普通の物ですが、執着しない常自覚がなければなりません。もし来たら、触れてきたら弾き返すように、あるいは外部にいるように、あるいは世界の人が仮定しているようにしますが、自分の心には入れません。そうすれば名誉と呼ぶ物の問題はなく、苦を生じさせることもありません。

 だから食べる話、性の話、名誉の話に関わるにも、常自覚があれば苦は生じません。食べる話、性の話、名誉の話に気をつけないと、苦を生じさせる原因になります。あるいは最後には苦になります。だから混乱であり、空でなく、生き地獄です。食べる話、性の話、名誉の話を空と見ないからです。食べる話、性の話、名誉の話は、世界という言葉にまとめて、世界のすべての物は空と言いました。

 空ではないと迷えば執着です。食べる話、性の話、名誉の話が触れると、心は欲、怒り、迷いとして波立ちます。これらを空と見ないからです。智慧が十分でないから、あるいはサティが十分でないからです。智慧を引っぱり出すのが間に合わないので、それらを空と思いません。

 ブッダが世界を空と見なさいと言われているように、形・声・臭い・味・接触・考えることの六種類は世界です。これはタンマの言葉です。タンマの言葉で世界の物を説明すると、形・声・臭い・味・触・考えることの六種類に分けられます。それが人間が目・耳・鼻・舌・体・心で感じる物で、それが世界で、すべては空です。

 次にどう実践するか問うなら、いくつかの部分に分ける必要があります。つまり正常な時、今のように、あるいは他の時でも、何も妨害する物がない時。みなさん目をやってそれを見てください。空と見るよう熟慮してください。

 ヴィパッサナーという言葉を今は使いたくありません。他の意味に、意味が汚れてしまったからです。だから「それに目をやって見る」という言葉を使います。それに目をやって見ることがヴィパッサナーです。どう「世界は空」と見るのか。世界が空と見えるまで、静かな場所で詳しく深く見ます。これをヴィパッサナーがある、智慧があると言います。そしてこの方面にいつでも習熟するよう、いつでも練習します。

 ここで形を見、音を聞き、臭いを嗅ぎ、味を見た時、述べている智慧、あるいは述べているヴィパッサナーが間に合ったか間に合わなかったか、試します。初めは毎回負けます。遅すぎます。毎回愛したり嫌ったりしてしまいます。そこでサティの訓練と呼ばれる、サティを完璧にするどんな練習方法を用いてでも、サティを鍛えて俊敏にする努力をします。うっかりしないよう、忘れぽくならないよう、サティを増やし、良くします。

 たまにぼんやりしてしまったら、うんと恥ずかしがらせ、うんと怖がらせなければなりません。非常に恥ずかしいと考えます。これを「慙がある」と言います。それは非常に恐ろしいことと考える。これを「愧がある」と言います。慙愧が増えれば増えただけ、ぼんやりしなくなります。

 ぼんやりしない物質的な譬えで、なぜ私たちは歩いていて側溝に落ちないのかと言えば、向う脛の皮が剥けて痛くて懲りているので、側溝に落ちないように歩きます。しかしどうしてこの種の溝に落ちるのでしょう。それは道を歩く時のように良く注意しないからです。だから時々溝に落ちる、つまり愛欲、怒り、迷いが生じます。あるいは、怖さを十分知らないのかもしれません。

 道の真ん中でみっともないことを絶対にしないように、それはとても恥ずかしいことなのに、なぜサティがないことを、もっと恥としないのでしょうか。愛してしまい、憎み、迷い、陶酔する話を、なぜもっと恥と考えないのでしょう。理由は簡単です。怖さが足りないからです。恥ずかしさが足りないからです。そしてこの話への関心が少なすぎるので、他のことにばかり興味があります。だからこの話を考える機会がありません。公正に扱われていません。

 だからこの問題にちょっとは時間と機会を与えます。つまり時間と機会を与えてヴィパッサナーをします。世界に目線を遣り、「世界は空」と、時々十分見ます。そうすれば考えていたように難しくなく、簡単になります。

 それまではタンマを難しい物と見ていました。ほんの少ししか興味をもたないで、大きな利益を得ようとしていました。公正ではありません。お金を稼ぐこととのように、タンマにたくさん興味を持って見てください。それくらい興味があれば、タンマがあることは、お金を稼ぐことと同じくらい簡単になります。お金を稼ぐのと同じように、たくさん手に入ります。だから、どちらがどのような価値があるか、良く計算しなければいけません。

 本当は、ブッダはお金を稼ぐことや世界で暮らすことに苦がないよう望まれています。だからタンマをもって、いつでもタンマで心と生活を管理します。お金を稼ぐ時も、働いた結果を消費する時も、休息する時も、仕事をする時も、世界は空という常自覚が常に管理しています。

 つまりタンマが休みなく管理しています。そうすれば世界の空の部分だけ受け取り、苦はありません。そうしなければ、あまり空でない部分ばかり受け取るので、空でないように変化し、苦になります。うかつに魚を食べれば小骨を食べてしまい、小骨が喉に刺さって苦になります。賢くて十分な常自覚があれば、魚の肉だけを食べて小骨は食べないので、苦は生じません。

 がから「世界は空、心は空」と知っていれば、何もする必要はありません。それらは既に空なのですから。常自覚と正しい知識で、それらを本来の空にしておくよう注意するだけです。職務を行なう時も、とても楽しく苦はありません。貯金があっても、心配や取り越し苦労で眠れないような苦はありません。

 タンマが関われば、すべてに苦はありません。タンマは空です。タンマと呼ぶ物は四種類の自然で、空です。空と呼ぶ物はタンマで、タンマは空、空はタンマです。タンマがあれば空があります。

 このたった一言、本当に一語で真理、あるいはすべての真実を表している一言を忘れないでください。それは「空」です。

 中国の哲学家が本に書いていますが、タイ語にすると「すべての真実を開示するには一言で十分」と言っています。それは「空」たった一語です。考えて見れば、「空はすべての真実」と、究極の真実が見えます。仏教の教えのどの項目も、空という言葉に含まれています。世界を空と見ている人がいれば、当然自分はなく、当然自分の物もありません。心は何も背負っていないので、空っぽの心なので快適です。

 このレベルの人の言葉があります。心がこのレベルになると、「私は世界ではない。しかし世界が私になっている」。聞いて意味が分かりますか。自分で考えてください。私は世界ではない。世界が私になった。後の世界という言葉は、愚か者、凡人が私と仮定したという意味です。お節介にも私になった、私は世界ではないのに。自然は空の物ですが、愚かな人が自然を自分や自分の物にします。

 これが最終的に世界の上にいさせます。「私は世界ではない」とは、世界の上にいますが、愚かな人は私を世界にし、あるいは世界が私を世界にします。これは阿羅漢、あるいは解脱した人の感覚で、世界をこういう視点で見ます。だから世界の上にいいると言います。

 「世界の上にいる」という言葉を理解してしまってください。飛行機に乗ってどこかへ行かなくても、どこへも逃げなくても、こうしていても世界の上にいます。心が世界の上にいます。「空」という言葉も理解してしまってください。空というのは、何もないという意味ではなく、何でもあることを認めます。

 四種類の自然の中には、何でもあります。しかし世界が空なのは、それ自体と呼べる物と、それ自体である物が何もないからです。心が空なのは、世界に溺れて欲や怒りや迷いを生じさせないからです。それを空の心と呼びます。世界が空なのは、それ、それの物がないからで、心が空なのは、愛欲、怒り、迷いがないからです。空という言葉はこういう意味です。

 空と言えば何もないという意味は、子供の空です。子供のような考え方、感じ方です。しかし空と見るのは、たくさんあると見るよりはマシです。なぜなら、何もないという意味の空も、真実の一部分には違いないからです。しかし人は敢えてそのように考えようとしません。あれこれあると捉えて、あれを愛し、これを好み、あれを厭いそれを嫌うことに、小さな頃から慣れているからです。

 空と聞くと怖がり、ビックリして怖がり、死を恐れるように恐れます。死を怖がるように空という言葉を怖がるのは、空という言葉を理解できないからです。だからそれっきりこの言葉に興味をなくしてしまいます。止めてしまいます。だからその人は、人間が得るべき最も素晴らしい物を受け取れません。つまり空の話から始まって究極の空、涅槃まで、何が何だか意味が分からないからです。「究極の空は涅槃」というブッダの言葉は、誰でも聞いていますが、理解できません。

 完璧な空は阿羅漢で、完璧でない空はその下の段階の聖人です。みなさん、ちょっと良いレベルの凡人でも、時には空があります。完璧な空ならまったく苦がないので、涅槃です。完璧でない空で、戻ってばかりいれば、低い段階の聖人からレベルの高い凡人まであり、これでも空でないよりは良いです。

 だから混乱の害を見れば、より空を好きになり、より空に満足します。涅槃に満足します。だから反対に混乱を見ることでも良いです。苦を見ても良いです。そうすれば心は自然に空に傾いて行きます。

 ヴィッパッサナーをして苦を見るのでも良いです。あるいは空である涅槃を対象として見ても良く、必要に応じて変えます。これを涅槃、つまり究極の空を知る人と言います。あらかじめ味見をしてから、少しずつ確実にしていきます。

 私たちは、執着させる物がある場所に寝たり座ったりしていると、穏やかさを感じません。清潔でなく、明るくありません。執着させるものがない場所、たとえば海辺、山、森などは、気持を混乱させる物が何もないので、言いようがないほど気持良く感じます。これは、空の話は正しいに違いないをという例え、あるいは証拠です。執着させる元が何もないから空になれます。心を波立たせて愛欲や怒りや迷いにする物が何もないので、私たちは空になり、気持が良いです。

 だから静寂な場所、たとえば森、山、あるいは海などと触れ合うことは良いことです。空の味を見る利益があります。気に入ったらもっと探求を続ければ、気づかないうちに空と呼ぶ物を理解することができます。だから森や海や山へ時々遊びに行くことは良いことです。体の休息だけでなく、それ自体に空を学ぶことができます。あまりに頑固すぎれば、これらの教えを聞くことができません。

 自然はいつでも美しい音楽を奏でているのに、カメやサイには聞こえず、岩や木立はいつでも自然を表現しているのに、カメやサイには聞こえないのと同じです。カメやサイであることを止めるしか解決法はありません。そうすれば石や樹木や海や山がいつでもタンマを説いているのが聞こえます。美しい演奏とは空の話で、いつでも苦はありません。そして別の種類の人間に、誰にも苦のない人になります。

 要するに空自体がブッダ・プラタム・僧です。良く聞いてください。空の中にブッダ・プラタム・僧があります。つまり教える人と、教えられる物と、実践して成功した見本です。だからどこへもブッダ・プラタム・僧を探しに行かなくても、空の中に見つけることができます。

 空は究極の布施です。自分の物、自分として残っている物は何もないので、究極の布施です。そして世界の上にいる戒、世界の上にいるサマーティ、世界の上にいる智慧です。空の力による本当の戒、本当のサマーティ、本当の智慧だからです。

 だから「空」という一語だけで、当然すべての真実を表すことができると言うことができます。目があり、耳があり、心がある人は、興味をもって熟慮し、勉強し、空を良く見てください。スアンモークへ行くなら、映画を見に行くと考えないで、石の言葉を聞きに行くと考えてください。石は喋ります。木も喋ります。小川も喋ります。これらは映画館にある物より良い物です。つまりブッダ・プラタム・僧であり、戒・サマーティ・智慧であり、何ででもある空です。

 あるいはどこかの山へ行っても、どこかの海岸へ行っても、努めれば空の味を味わうことができます。空の傍にいて、空と結婚すれば、すごく早く上達します。老いる前に、人間が得るべき最高に素晴らしい物を手にすることができます。

 その他の職業については絶対に苦があってはならない点を熟慮しなければなりません。もし苦なら、やるだけ無駄です。苦がないようにするには、必ず空を使わなければなりません。生活や仕事に苦がないようにするために、みなさんは空を学ばなければなりません。

 「なぜお金を持つのか」と問うなら、「生活を便利で快適にするため」と答えます。「なぜ快適にするのか」と問うなら、「死なないため、生きるため。人間が得るべき最高に素晴らしい物を得るため」と答えなければなりません。だから空から逃れることはできません。

 だからみなさん、時間がなくなるほど、空の話に関心を寄せる時間がなくなるほど、仕事に夢中にならないでください。そうすれば問題はありません。ここへ来た時のように、「どうしたら空になれますか」と質問しなくても良くなります。




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