4.空・空の心





1965年1月19日

 タンマごに関心のある善人のみなさん、本日の講義は、ここで二回お話ししたことがある内容と関連があります。前にお聞きになったことがある方のために、もう一度復習させていただきます。討論である第一回目は、次の三項がテーマでした。

 第1項 仕事はタンマの実践

 第2項 空っぽの心で働く

 第3項 空の心で働く時に使うべきタンマ集

 しかし結局、一回目の講義は最初のテーマしかお話できませんでした。つまり「仕事はタンマの実践」です。二回目の講義で、残っている二つについて終わらせてしまおうと思いましたが、終わりませんでした。二回目の講義でお話できたのは、「空っぽの心で働く」だけでした。

 しかし「仏教をどう捉えるか」というテーマの中の、空っぽの心で働く、あるいは暮らすという話の内容は、仏教を近回りして捉え、存分に役立てる方法です。三項目はまだ残っている「空の心で働く時使うべきタンマ集」です。だから記憶と理解をもう一度復習してみます。

 「仕事はタンマの実践」は、最高に重要な教えです。任務を正しく遂行することをタンマの実践と捉えてください。そしてタンマの実践のための仕事、仕事のための仕事で、自分のためでも自分の物のためでもありません。

 このように理解できれば、仕事によって利益が得られると同時に、仕事をすること自体がタンマの実践になります。職業上で、あるいは生活、生活全体が向上すると同時に、タンマの面でも発展します。これが初回の講義の要旨です。

 二回目の「空っぽの心で働く」は、タンマは、苦にならずに仕事を成功させるためにあるという意味です。だから仕事を苦なしにする実践規則があります。混乱した心で働けば、世間一般の人は、普通仕事は苦で、楽しいと感じません。心が混乱しているので仕事で十分良い結果が出ません。

 だからコツと呼ぶ、あるいは何と呼んでもいいですが、仕事を苦でなく、十分な結果を得られるようにする方便があります。そしてそれがタンマ、あるいはプラタム、あるいはブッダの望みと呼ばれる物の目的です。

 ブッダがこの世界で大悟されたのは世界の動物を救うためです。どこを救うのかと言えば、苦がないよう、最小限の苦になるよう、そしてまったく苦が無くなるように救います。だから仏教教団員は仏教教団員でない人と違って、当然学習と実践があります。仕事も、タンマの訓練を受けたことがない普通の人の心と違う特別の心で働きます。これが「空っぽの心で働く」という主題です。

 次に空っぽの心の問題はまだたくさん中途になっていて、詳細でないから、あるいは聞く人が理解できないのかもしれません。にいろいろ理解し合えないので、見解が一致しません。だから今回の講義で「空っぽの心」という言葉の意味について良く判断しなければなりません。でないと三番目の話ができないので、初めに「空っぽの心」という言葉の理解について復習させていただきます。

 初めに「空っぽ」または「空っぽの心」という言葉は、知性のある人の話と思ってください。ブッダはこの話を自分で悟って教えられました。すべてを悟って、適度に資質のある動物、つまり何とか理解できる人に教えました。だから私たちは次のように考えることができます。


 宗教と呼ばれるもの、世界の宗教には、少なくとも二つのタイプ、正反対の二種類があります。宗教の一つの種類は信仰に頼り、信じること、他人から聞いて、他人に従って信じ、そして他人を拠り所にします。こういう宗教は世界にたくさんあります。

 もう一つのタイプの宗教は、智慧に頼り、自分を信じ、自分自身で見て、自分を拠り所にします。仏教は後者の部類です。だから仏教の空の話は信じる話ではなく、智慧の話です。

 宗教の二つのタイプについて語れば、つまり信仰による宗教と智慧による宗教について、空について良く理解するために、この機会に、自分を信じ、自分の考えを信じ、自分の物にして、自分に頼ることについてお話したいと思います。そして前の二度の討論で、ククリット先生と理解が一致しない項目である、ククリット先生が、仏教にもドグマを作るべきという項目に関連があります。

 ドグマの問題は、私はククリット先生とすべて正反対の見解があります。だから言及しませんでした。公的に考えを表明しませんでした。正反対に誤解していると思うからです。他の問題は理解が一致することもあり、多少違うこともありますが、それとは違います。

 ドグマの問題は、智慧による宗教である仏教には、ドグマと呼ばれる物、あるいはドグマティックシステムはあってはならないことを、みなさん、知っておくために。理解する物としてお話しします。

 この言葉に関しては、次の例が分かり易いと思います。二十年以上前、タイへ来て仏教に改宗した西洋人にインタビューした記事を本で読んだことがあります。その西洋人に、どうして元の宗教から仏教に改宗したのかと質問したのに対して、その西洋人は、ドグマに飽き飽きしたので元の宗教を捨てて仏教にしたと答えています。

 ドグマと言われる物は、宗教の権力を維持する本部が、批判を許さず信じさせるため、宗教の権力、あるいは決定権によって信じさせ、容認させるために規定した考えです。Settle opinion と言い、結論という意味で、これは固定的で、独占的に設定されます。タンマに関した言葉であるドグマ、あるいはドグマティックという言葉を思い浮かべてください。

 横暴で他人の口を塞ぐ口調、つまり一方的に意見を言う権力はありますが、他の人が同じように発言することはできません。それがドグマです。宗教的なドグマで言えば、教会の権力で一方的に規定し、批判を許しません。だからドグマのある教義は、神でも何でも他人を信じて、他人に依存し、自分の考えがあってはならず、教えられたように見て、教えられたように考える、信仰に凭れ掛かる宗教にしかありません。

 仏教は智慧に凭れ掛かる宗教、自分の知性による宗教なので、カーラーマ経などの教えは、智慧の宗教としてドグマを禁止しています。ブッダも、私を信じてはいけない、と言われています。何と言っているか、どんな理由があるか理解して、真実が見えてから信じれば、それがその人を信じることになります。

 サーリープッタなども、ブッダの面前でそのように言い、ブッダ自身も正しい行動であると非常に喜ばれています。信仰に凭れ掛かる宗教と智慧に凭れ掛かる宗教はこのように違います。だから空の心の話は、真実仏教の本当の要旨で、ドグマの形にすることはできません。みなさん、それが見え、理解でき、自分自身に応用できるまで考えなければなりません。

 私たちは信仰でなく、智慧を使うことで仏教教団員になる心構えがなければなりません。仏教にもサッター(信仰)という言葉はありますが、信じることと違います。意味が違います。一つの意味の信じることとは、ドグマのある宗教で他人が規定し、言い伝えてきたことを信じます。

 仏教では智慧の後で信じなければなりません。自分の智慧で周到に熟慮し、理解してから信じます。まだ理解できないうちは信じる必要はありません。とりあえず払っておき、少しずつ理解が進み、理解したと言えるようになった時に信じます。だからサッターという言葉は、すぐに信じること、あるいは他人を信じることと違いがあります。

 ある仏教教団員、清信士・清信女たちのグループはブッダを信じ、教えを信じ、僧を信じ、カンマを信じ、何でも智慧なしにとりあえず信じますが、そういう項目は決して仏教の教えではありません。

 その人たちは理解していませんが信じるのが好きで、関わるのが好きだから信じます。しかしそのように信じることには、何の利益もありません。その種の人々の精神を閉じ込める籠になってしまい、麻痺させてしまうだけかもしれません。智慧で対処することができないからです。だから仏教の信じることは、信仰による宗教の教義を信じることと違います。

 基礎として智慧に頼る宗教である仏教教団員の信仰は、智慧を使わなければなりません。私も、誰も信じないでください。ブッダも信じないでください。私はあえてこう言います。というのも、ブッダ自身が「あなたはいつでも実践項目について、そして自分を頼る教えについて考えること、思うこと、熟慮すること、理解することに関して自由でいなさい」と言われているからです。

 「自分を頼る」という言葉も同じで、まだ非常に誤解されています。ほとんどの人が「自分は自分自身の拠り所」というブッダの言葉を聞き慣れていると思います。しかし人々はまだ理解していないので、「ブッダに頼り、プラタムに頼り、僧に頼る」と叫びます。

 それは、まだ本当にブッダ・プラタム・僧に到達していないからです。「仏法僧に到達する」とは、自分自身がブッダとプラタムと僧と同じ心を持てるという意味です。ブッダ・プラタム・僧である心があれば、その心は自分自身の拠り所で、これを「自分を頼る」と言います。

 ブッダは私たちに自分自身を頼る道を示されました。ブッダが示された道は、他の人とは比較にならないほど素晴らしい道です。そしてブッダは、自分自身に頼ると言われ、ブッダに頼ることを否定されています。これでブッダの最高の素晴らしさが分かります。

 ブッダは私たちに恩義など何も求めず、ブッダ自身についても熟検討する自由を認められています。そして真実が見えた分だけ自分を信じ、自分で実践した分だけ結果を得、そして自分自身の拠り所になります。

 空っぽの心は信じる必要がないので、信仰を捨ててしまって良いということです。みなさん、決して信じないでください。自由でいてください。しかし知性で、あなたにできる限りの善い判断をするようお願いします。空っぽの心で働くこと、空の心について良く知っていれば、空の心で働くことが出来る、というタンマについてお話しする前に、この言葉についての理解の復習をします。

 空の心について、あるいはこの言葉についての誤解は、いろんな面や角度があるので、必用と思うだけ集めてみます。

 初めに「空の心」「空っぽの心」という言葉の意味です。ここでいう「から」とは、煩悩がないこと、自分、あるいは俺という感覚がないという意味です。激怒すれば俺で、だらだらしていれば私です。「空」というのは、心がないという意味ではなく、心が何も感じないという意味でもありません。心なので知覚や感覚はなけらばなりません。心の自然がそうだからです。

 そこで心が「空っぽ」と感じているか、何やらいろんな物がぎっしり詰まっていて「てんてこ舞い」と感じているか、という問題があります。心が空と感じていれば、心がカラと感じていれば、空の心、空っぽの心と呼びます。

 心がギュウギュウ詰めだったら混乱の心と呼びます。空っぽとは、煩悩がないから空っぽ、私、私の物という執着がないから空っぽという意味です。考えて見てください。心に私という感覚がない時、私はありません。あるのは心だけです。本当かどうか、自分自身で考えて見てください。

 心に「自分」という Concept である感覚がない時は、マヤカシである「自分」というものがないので、残っている心を、空っぽの心、自分がない心と呼びます。自分がある時は、自分という感覚が加わった心と呼びます。つまり自分があります。だから心はカラでなく混乱です。この項目は、「カラというのは、マヤカシにすぎない「自分、自分の物」という感覚を生む原因である煩悩がないこと」と簡単に憶えてください。

 「自分、自分の物」という感覚がない時、たとえばみなさんがここに座って、どんな方面のことを考えても、どのような智慧が生じでも、自分という感覚が生じなければ、みなさんの心には「今自分がない、。空っぽの心」と言います。

 何か刺激する物があって、自分、自分の物、得、損、愛や怒りや嫌悪、恐れ、そういうようなものである煩悩、欲望、取の方向の感覚が生じれば、その時心は自分という取があると言います。こういうのを自分があるので、空でない心と言います。

 心がカラならば、自然に自分という感覚がない空の状態でも、私は「空の心」と呼びます。心に自分という感覚がなければ、「自分」と呼ぶ物はなく、あるのは心だけです。心が何を感じていても構いません。自分を持たないでくださいとお願いするだけです。

 次の問題は、なぜ「空っぽの心」「空の心」という言葉を使うかです。聞いて奇異な感じがします。しかし本当には奇異でなく、教典の中、あるいはブッダの教えに根拠があります。ブッダは三蔵で、空に関して非常にたくさん教えを説かれています。自分で調べて見てください。

 次に心が空を感じている時、あるいは心を縛っていない、「自分、自分の物」と強く捉えない何かが心にあるとき、その時「心は感情として自分がない物がある」と言います。そのような心を呼ぶのに「空っぽ」、あるいは「空の心」と呼ぶ以上に便利な言葉はありません。簡単に空の心と呼ぶ以上に、聞いて便利な良い言葉はありません。他の言葉を使う良い理由がありません。

 「自分」がない、「自分の物」がない時の心を呼ぶのに、どの言葉がふさわしいか、みなさん考えて見てください。自分という感覚がない心、自分の物という感覚がない心。この種の心を呼ぶのに、空の心という言葉より良い言葉は何でしょう。みなさん自身で考える自由とテーマを差し上げます。自分、自分の物という感覚がない時の心を呼ぶのに、「空の心」という言葉以上にふさわしい言葉があるでしょうか。

 だから私は、みなさんが理解する時、簡単に早く理解するために、時間を節約するためにこの言葉を使います。しかし新しい言葉なので、みなさんがびっくりし過ぎて、まだ理解できないかも知れません。これは別の話です。私が一所懸命熟慮した限りでは、こう呼ぶことは、言葉としても意味としても正しく、文字としても意味としても合っていると思います。だから「空の心」と呼びます。

 次は、空、あるいは空の心の出典についてです。これはほとんど問題ありません。私は何度も何度もお話してきました。しかし興味がない人もいるので、もう一度話さなければなりません。

 ある在家の一団がブッダに拝謁し、「私たちにとって恒久的に利益がある話を聞かせてください。私たち在家は所帯をもち、妻子に囲まれ、香水香粉を塗りたくっています。いつまでも私たちのためになる利益のある話を聞かせてください」とお願いしました。

 ブッダは究極のテーマ、「空(スンニャター)」の話をなさいました。

 『如行が話した言葉であるすべてのスッタ(経)は、どれも深遠で味わい深い意味があり、ローグッタラであり空です』。

 これがパーリのままです。

 それらの在家の人たちに「世界を超える話、あるいは世界より上の話である、ブッダが規定した言葉に興味を持ちなさい。それは深遠な話で、内容があり、深い味わいがあり、空の話だけです」という意味の話をされました。

 更に「今後、後の機会に語られる言葉は、非常に響きの美しい言葉で耳に心地良いが、それらは空の話ではない。しかし人々はどんどんその種の言葉を好むようになる。それらの話は、如行の話ではない」と説明されています。

 ブッダは「もしブッダの言葉なら必ず空について述べている」と言われています。他の人が言った言葉は、その人の好みに応じて、美しく、楽しく、あるいは哲学として考える趣きがあるように語り、空について語りません。

 これがいつまでもみんなの利益になる物です。つまり空の話は、永遠に在家の人のためなる利益がある話です。これについて今後問題にするべきではありません。質問も直接在家の物であり、ブッダの答えも直接在家に答えた物だからです。だから空の話は在家の問題ではなく、高度な修行者の問題と理解するべきではありません。それは誤解です。

 空の話は内容、要旨、意味が広いので、すべての段階の人、あらゆる種類の人、在家の人でも使うことができます。それはなぜでしょうか。答えは簡単です。他の話では滅苦ができないからです。空の話以外は滅苦の話でなく、そしてブッダが言われた話ではありません。

 世界から出させる話ではなく、世界に溺れさせる話です。在家は十分世界に溺れているので、在家が何か良い物を欲しがる時は、自分を世界から引き抜く物でなければならないからです。

 だからブッダは、在家の人に空の話をされました。所帯をもち、妻子に囲まれ、香紛を撫でまわしている在家に語るにふさわしいからです。これを、直接の空の話があると言います。

 次は一般の教え、どの項目でも良いですが、すべての物は実体が無い、自分の物、あるいは誰かの物はないと述べた物です。「すべてのタンマは無我である」という文章、あるいは「すべてのタンマは、自分、自分の物、と捉えるべきではない」という文章も、何であれすべての物は、自分、自分の物と捉えるべきではないという説明です。

 それらは空だからです。空は実体がある、誰かの物だ、あるいは空の物だ、と捉えるべきではありません。空と呼ぶ物は本当の自然、あるいはすべての物の真実の状態です。

 すべての物を真実のままに正しく知ることができるまで、関心を持ち続けなければなりません。そうすればすべての物に対して正しく振舞うことができます。もしすべての物への理解が間違っていれば、すべての物に正しい対処ができません。これが人間に関わる、人間の幸不幸に関わるすべての物の要旨です。

 つまりすべての物は実体が無い、空であるという状態です。執着するべき物、あるいは自分、あるいは自分の物と確信しているすべての物には、自分、あるいは自分の物という意味はありません。

 今一般の人は、いつでも何かを、あるいは何かの一部分を自分にし、自分の物にしようと虎視眈々と狙っています。だからすべての物を、真実のままに理解できないので、苦があります。すべての物を理解するには、先ずここのところを勉強しなければなりません。

 つまりすべての物は自分でなく、自分の物でもないので、何かを「自分、自分の物」と理解してはいけない、という所です。しかし、それらの関わりのない物に適切に関わり、行動し、対処すれば勝つことができます。勝つとは、それらと関わることによる苦がないという意味です。

 これを、空に関する知識、あるいは智慧によってすべての物に勝つと言います。これが空の話です。これが引用する根拠となる物です。直接ブッダが言われた言葉です。在家にふさわしいと言われています。自分でこれを知りたい方は、三蔵の経蔵・増支部、マハーワーラワックで見ることができます。

 次の項目はみなさんが誤解していて理解できない問題で、私たちの国タイは、仏教が盛んと言われていますが、タイ仏教教団員の多くは、ブッダの言葉、あるいは教えの真実と違う理解をしています。

 例えば心は基本的に煩悩があると理解していることです。心は基本的に煩悩、「自分、自分の物」という感覚が、常に、一呼吸ごとにあると理解していて、「基本的に煩悩がある」と言います。それを少しずつ削って、引っ掻いて、突っ突いて、剥がして、それで時々ちょっとだけ煩悩がなくなる。こうした理解は正しいでしょうか、間違っているでしょうか。みなさん考えて見てください。

 私は「心は基本的には空っぽで、煩悩はない」と言います。煩悩は時々、そして今生じたばかりです。時々ある小さな問題です。

 人間の心は基本的に空っぽか、それとも煩悩がぎっしり詰まっているか、自分の心を観察して熟慮して見てください。ブッダの言葉を基準にすれば簡単です。しかしすぐ信じさせる教えだ、無理に信じさせると非難されます。あるいはそういったドグマにする必要はありません。しかしブッダの言葉には「比丘のみなさん。心は輝いています。心が憂鬱になるのは、煩悩が訪問客として来るからです」とあります。

 心の自然の状態は輝いているという「輝き」の意味は、明るく澄んでいて、周りに後光が射していて、煩悩も憂鬱もないことです。しかし煩悩が客として訪れる時、訪問者としてくる時、その時だけ憂鬱になります。これは真実でしょうか。ブッダが言われた通りでしょうか。みなさん自分自身の心を観察して見て、そして自分で判断してください。

 これはいろんな問題は理解できるかできないかという、基本的な問題と思います。心は基本的に煩悩があり、混乱しているとするなら、心は基本的にカラであると捉えることと違うからです。心が基本的に空なら、あまりすることはありません。客を家に上げないようにするか、あるいは客が来ても心を曇らせられないように迎えるよう、注意深くするだけです。

 しかし基本的に心に煩悩があると捉えれば、あるいは心は基本的に煩悩とするなら、削ったり、抑えたり、掃いたり、洗ったり、大騒ぎしなければならず、それで多少綺麗になります。ある日、このような苦労をして綺麗にすれば、「大変な負担だ、大変な仕事だ」と非常に苦情がでます。至る所で挫けているように、非常に大変です。

 これは教えが違うだけです。教えはこのように重要です。だからこのように教えを理解して、すっかりこの問題を片付けてしまわなければなりません。

 考えて見てください。心が混乱していたら、愛や怒りや嫌悪、恐れなど、いろんな煩悩で常に憂鬱だったら、基本的に混乱していたら、私たちは今日まで生きて来られなかったでしょう。ここに来て座ることはなかったでしょう。きっと神経の病気になって、精神病になって死んでしまったに違いありません。

 だから空に感謝しましょう。基本的にいつもあることに、非常に感謝しましょう。そして十分な時間存在させてください。それは休息であり、神経の病気にならないよう、精神病になって死ないよう、心を維持することでもあります。だから私たちを危険から回避させてくれ、ここへ来て話を聞くことができるようにしてくれる空に感謝します。みなさん考えて見てください。

 次に知らなければならない基礎は、心の自然がこのように輝いているとはどういう意味か、です。輝きとは、明るく澄みきって体から光が射すことです。これは「まだ煩悩の訪問を受けず、煩悩に支配されていない心は輝いていて、その心は、心という意味で、意、心、識という言葉の意味として完璧」という意味です。

 ダートゥの一種としての意・心という言葉の意味は、それ自体に知る、知ることができる性質があります。しかしそれの真の性質が失われた時は、知ることができません。たとえば無明に支配され煩悩に支配されれば、それは消えてしまい、性質は間違って知る、あるいは知りません。

 心が自由で輝いていれば知る部分があり、次第に進歩してすべてを知り尽くす段階まで発展します。だから他人の言うことを信じなくても、自分の心が空の時は、「明るく澄んで妨害する煩悩がない。それは完璧な常自覚がある心であり、智慧で満ちた完璧な心であり、心の正常な状態として完璧である」と、自分自身で見ることができます。

 心が心の状態として正常なら、知性も完璧で、常自覚も完璧です。心が空っぽですっきりしている時どんな智慧があるか、どんな常自覚があるか、心が混乱すると、どう常自覚が失われ、どう智慧が失われるか、比べて見てください。だから空の心と混乱している心は、同じにはなり得ず、いつでも正反対です。

 心という名にふさわしい本当の心は、空でなければなりません。つまり輝いている心です。しかし訪問客である煩悩に支配されてしまうと、心の性質が失われてしまうので、心と呼ぶべきではありません。それは焦燥に加工させられた物でしかありません。

 心と呼ぶなら「混乱した心」と呼ばなければなりません。元の状態と違い、風に波立てられた水のように波立っていて、静まった水ではありません。空の心は元々の正常な状態で、空で静かで苦がなく、十分なサティと智慧があります。このような教えをしっかり捉えている人たちは、簡単に「心は空、空は心」と言います。

 「空はブッダ、ブッダは空」。これは全部同じです。心が空を感じていれば、当然ブッダの特徴があり、そこで何にでもなれるという意味です。だから心が本物の時、つまり空の時は、空とブッダは同じです。だから「空は心、心は空」です。心が心の自然である空の時、心には正しい意味のタンマがあります。だから「空はタンマ、タンマは空」と言います。

 空は心、心は空。全部同じです。しかし私は、よく考えないで信じるよう、あるいはこれらの教えを信じるよう、お勧めしません。大乗仏教の教え、あるいは原則でもあるので、すぐにそれを受け入れる必要はありません。

 しかし人間とどう関わりがあるか、テーラワーダ仏教とどう関わりがあるかを考えて見てください。まとめれば三派になり、つまり私たちと、テーラワーダと、大乗仏教です。私たちはどんな教えを捉えれば、苦がない利益になるでしょうか。

 特にここでは、心が空の時は常自覚が完璧で、智慧も完璧で、そして心の正常な状態であり、反対に心が混乱している時は、常自覚がなくなり、智慧がなくなり、心の正常な状態ではないという重要な要旨を熟慮していただきたいと思います。

空の心は煩悩に支配されていない心で、本来の正常な状態である知性です。一方混乱している心は、煩悩に支配されている心で、本来の正常な状態が失われて、知性に欠け、常自覚がありません。

 みなさんが比較して見て、空の心はどのようか、述べたような形で知れば、みなさんはきっと、空の心は恐くも愚かでもないと分かります。空の心を、幽霊や虎を怖がるように怖がる人もいます。彼らには理解できないので、恐ろしい物に見えます。彼らには自我があるので、あるいは非常に自我に偏った考えがあるので、空という言葉を聞くとビックリします。

 これは「バラモンたちにサッカーヤ(有身見)を捨ててしまいなさいと言うと、死の時がき来たように恐れる」とブッダが言われている、バラモンと同じです。バラモンたちは有身見を、つまり自我を強く持っているからです。自分は純潔で最高に幸福だと自惚れているので、有身見を捨ててしまいなさいと聞くと、殺されるように感じます。

 時には、空の心、あるいは空という言葉を聞くと、殺されるように感じる人もいます。自分や自分の物が何もないからです。しかし理解できて、空の心はどういうことかを明らかに知れば、その人は恐れなくなります。そして、空の心と呼ぶ物は必用で、いつでも空の状態を維持しなければならないと知ります。

 心を混乱させなければ、いろんなことをしても苦はありません。まったく苦がなく生活することができます。そして、それから発展していく非常に強力な知性になります。だから空を怖がりません。そして空を嫌な話と見ません。空は最高の真実の話だからです。

 次に、人に(反論の載っている雑誌や新聞などを)見せてもらった、教えてもらった反論について考えて見ます。例えば心が空っぽということはあり得ない、心はいつでも何らかの感情(心が捉えている物、意識している物という意味)がなければならないので、感情がないということはあり得ないから、と言います。このような反論は、深遠なタンマを見すぎて目が霞んでしまった人の反論です。

 私は空の心には何も感情(心が捉えている物)がないと言っていません。空の心にも感情はあります。少なくとも何もない状態が感情です。例えば阿羅漢も感情である空の状態があります。あるいは私たちは通常感情がある時、その感情を自分、あるいは自分の物ものと捉えていなければ、「感情である空がある」と言うことができます。しかしその感情を何らかの執着で「自分、自分の物」と捉えれば、「混乱の類の感情がある」と言います。

 私たちは通常、何かの感情に執着しなければ、その感情を意識していても、取がない感情と呼び、その心にも自分の物はありません。心には感情として、取でない物があるので、大丈夫です。形・声・香・味・触の何が感情でも、それを自分としなければ、取のない物が感情としてあると言います。

 略して、空が感情としてある、と言います。これはつまり「空の心は感情(意識している物)がないとは言っていない。心が意識している物が必用なのは当たり前。心が空なら、空があるか、あるいは取のない感情を意識している」と、新たに理解し直すということです。

 中には「空の心、あるいは空の理論、あるいは空の心の実践は、一般庶民や商人が実践することではない」と反論する人がいます。こういう人には、空の心の理論、あるいは実践は、一般庶民や商人にとって尚更必用と言わせていただきます。庶民や商人は苦があり、出家よりも苦があります。森や密林の中で暮らす人よりも苦が多いです。非常に苦がある人は、早く苦をなくす物を手に入れるべきです。

 だからこそブッダは拝謁した在家の人たちに、『いつまでもみんなの利益になる実践項目である、空を使いなさい』と言われて、空について話されました。庶民の苦が多ければ、ほとんどの労働者の苦が多ければ、彼らはその苦を取り除く方法を学ばなければなりません。これが空っぽの心、空の心という言葉の本当の目標です。つまり、今現在苦がある人の苦を取り除くために使うことを目的としています。

 次は「空、あるいは空の心は阿羅漢の話で、煩悩のある凡人の話にすることはできない」という反論です。阿羅漢は執着のない人だが、凡人には必ず取があるので、空にはなれないと言います。これは述べたのと同じ誤解です。つまり、自分、自分の物という考えや取と呼ぶも物は、常時生じている物ではないと、正しく理解し直さなければなりません

 みなさん良く考えて見てください。俺、俺の物と理解すること、そういう感覚、つまり煩悩は、始終生じていません。取でてんてこ舞いしている時間より、執着のない時間の方が長いのです。もし休みなく取で混乱していれば、神経の病気になったり精神病になったりして、死んでしまうだけです。

 取のない自然の空は、阿羅漢の空と同じではありません。阿羅漢の空は、完璧なサティがあるので永久に変わらない空です。厳しい修行者なら、きっと、阿羅漢とは完璧なサティのある人以上ではないということを認めるかもしれません。

 これは三蔵にある規則です。完璧なサティとは、途切れないサティのことで、途切れないとは、煩悩や苦が生じる機会がまったくないという意味です。そのように完璧なサティは完璧な空であり、完璧に関連し合っています。凡人も基本的には空ですが、時々取が割り込んでくるので、常に空になるように取を排除する義務があります。

 だから空の実践項目の教えがあります。空、あるいは空っぽの心という言葉は、タンマの他の項目、例えば忍耐、心を制止すること、あるいはそのようなことを指していません。文字通り常自覚がある時の、煩悩・欲望・取がない空っぽの心という意味です。煩悩・欲望・取が生じるのを放置しません。これは直接理解しなければならないことです。

 空っぽの心で働く、あるいは空っぽの心で働いて何らかの利益を得ることについては、心が混乱していると何をするか、どのようか、心が空っぽの時は何をするか。どう違うか。混乱した心で話す時はどうか、考えて見なければなりません。

 混乱した心には「俺」があり、「俺の物」があります。隠れていることもあり、表面に出ていることもあり、だから人間ではない言葉を話します。空っぽの心には「俺、俺の物」がないので、きれいな人間の言葉を話します。これは私たちにとって必用不可欠です。話をする時には空っぽの心がなければなりません。

 次に、希望について語る時、人は「人生は希望で生きている」と考えます。そうです。しかしその希望は、混乱した心の希望ではなく、空っぽの心の希望であるべきです。空っぽの心は、今まで長々と述べてきたように、知性と常自覚があります。

 だから空っぽの心の希望は、知性の、知識の、智慧の希望です。空っぽの心は、知性で希望し、混乱した心は煩悩や欲望で希望します。ほとんどの人は煩悩や欲望の希望だけで、知性による希望を知りませんが、それもあります。

 だから「無明(無知)で望まず、明(知識)で望む」と新たに理解してしまいましょう。知識で望むことは、当然無知で望むことと違います。知識と無知は、いつでも正反対です。望むなら知識で、智慧で、明で、知性で望んでください。

 これはほとんどタイ中と言って良いくらい蔓延している誤解で、、期待、あるいは望みと言えばすべて欲望煩悩と理解しています。あるいは捉えています。それで望みがあれば何でも、煩悩や欲望で貪欲と言います。これは大きな間違いです。

 これには、知識で望んでいるか、無知で望んでいるかという事実があります。もし無知の威力で望んでいれば、その望みを欲望と呼びます。そしてそれは、欲望は苦の原因とブッダが聖諦で言われているように、苦を生じさせる原因です。

 しかしそこで言う欲望、望みは、無知である無明に根があることを忘れないでください。縁起を唱えてみてください。無明から始まって、行・識・名形(名色)・六処・触・受・欲・取・有・生・苦。この欲望は無明が根源にあります。しかし無明を根源としないで智慧や明を根源とする希望、あるいは願い、煩悩・欲望・苦を生滅させたい願い、望み、このような願望を欲望と呼ぶべきではありません。欲望と呼ぶ人があれば、世界の言葉をまねてそう言うだけで、真実ではありません。

 欲望が明から生じることはなく、かならず無明から生じます。だから貪り、あるいは期待、あるいはそれらの物を良く判断すれば、正しく理解できます。欲望や煩悩でないよう正しく望み、期待します。空の心の望み、空の心の期待、空の心の願いです。

 仕事をする、食事をする、食べ物を探す、何をするにしても、空の心で望む、あるいはするなら、煩悩でも欲望でも貪りでもありません。知識(明)から生じているからです。無知(無明)から生じているなら、苦の原因になる欲望や貪欲です。だから空の心、希望するため、望むため、物事を発展させるために空の心のある人でいてください。これが空の功徳です。


 これから恐ろしい「餓鬼」という言葉について考える功徳を話したいと思います。餓鬼とは、望みや期待が非常に多く、煩悩や欲望で欲しがる所に意味があります。そして少しずつしか欲望が叶いません。その割合を譬えれば、お腹が山くらいの大きさとしたら、口は針の穴くらいです。だからどんなに食べても満足しません。

 現代人はこうではないですか。今の人は、腹は山のようなのに、針の穴くらいの口しかないのではないですか。もしそうなら、現代人はどんどん餓鬼になって行き、神経症がますます増え、精神病が増え、自殺が増えるかもしれません。

 空っぽの心で働かないから、空の心で暮らさないから、ますます腹が山のようになり、口が針の穴のようになります。空の心を知って、空の心で働けば、山くらいの腹、針の穴くらいの口という現象は消えます。こんなに利益があります。

 例えば地獄などの悪趣(進歩発展のない生まれ)と呼ばれる恐ろしい物の、地獄というのは罰を受ける、あるいは欲望によって苦しむという意味で、畜生とは愚かという意味で、餓鬼は渇望、飢餓、そして満足しないという意味で、阿修羅は恐怖という意味です。

 たとえば恐怖、渇望、飢え、愚かさ、罰を受けることなど、こういう人間の敵は、空の心で防ぐことができ、完全に解決できます。つまり空の心は防御と解決の二つの効力があります。述べたような意味の悪趣は生じられません。

 空の心で働き、空の心で生活すれば苦はなく、罰もなく、愚かさも、足るを知らない飢餓も、恐怖も、何もありません。これを「空の心で暮らすことで悪趣と離れる」と言います。国のため、社会のための仕事も「仕事のための仕事」という項目を考えなければなりません。

 空の心で働くのは、仕事のための仕事です。経済的に発展する国は、国民は自分を忘れるくらい強い意思で働かなければなりません。自分を忘れなければ自己中心的なので、騙し合ってばかりで、ガサツで、丁寧でない仕事ばかりです。

 しかし彼らは、仕事をする知性のある心で希望し、求めます。そしてその仕事をする時、自分をすっかり忘れて、仕事があるだけです。目の前にあるのは仕事と知性、つまり空の心です。そして空の心は、原子力やエレクトロニクスや地球からの脱出など、非常に難しいことを発明する不可思議な仕事をします。

 こういう発明をする人は、自分を忘れ、食べることも忘れ、いろんなことを忘れなければなりません。あるのは知性で仕事に没頭することだけです。自分を忘れ、自分の物を忘れ、何もかも忘れています。その時空の心なので、そのような仕事ができます。

 それ以外では、時には身勝手が生じても構いません。しかしその時、仕事をしている時は空っぽの心、自分のない心で働かなければなりません。だからこそ世間一般の人が発見できないような新しいことを発見できます。

 仙人や修行者など、山や密林に住んで哲学を探求する人たち、あるいはタンマを探求し考える人も同じで、自分を忘れるまで探求し、食べることを忘れ、昼夜を忘れ、何週間か、何ヶ月かも忘れるほど探求します。非常に強い意思で、仕事への集中力で、仕事のためだけにするので、俺ではなく、俺の物でもありません。

 国造りに空の心を使う人は、いろんな事を発見することができます。みなさんが「タイ民族は発展しなければならない」と言って非常に望んでいる発展も、物質的な発展、あるいはその人だけの発展で切り抜けることはできないことを忘れないでください。精神の発展、心の発展でなければならず、そうすれば本当に成功します。

 先ず、純潔な人になるために「自分、自分の物」でなく、「自分、自分の物」がない人でいられるように、空の心とはどのようか学ばなければなりません。その人は理想的な仕事のため、あるいは世界の普遍的な道徳の、あるいは仏教の sunmum bonum (最高善)のために働きます。

 仕事のために働き、「自分、自分の物」を割り込ませないで、常自覚だけで働けば仕事は成功します。その仕事の結果はどこへも逃げません。望めば得られ、望まなくても得られます。しかし執着しないので、働いている時も、成功した後も苦はありません。

 これが心の発展です。自分、自分の物の発展ではありません。無理に人や物質を発展させれば、述べたようになりません。それは「目を瞑って蜂を食う」ようになります。これは南部のことわざです。蜂に刺されるので非常に耐え難いです。あるいは「牛の角を押さえつけて草を食わせる」というくらい強制しなければなりません。

 人が忠実にしたいと思わなければ、どんなに強制しても忠実にはなりません。物質だけ発展しても心が発展してないからです。それに人の表面しか発展しません。すべては空の心に依存しなければなりません。空の知識、空の教えに依存すれば成功します。


 もう一つ「空、あるいは空の心はそれ自体が美しい音楽」、という金言についてお話したいと思います。空っぽの心の時は、生きることは美しい音楽のようです。いつでも心が空っぽの時は、生きることは音楽で、非常に鑑賞するべき物です。心が混乱すれば、生きることは音楽でなくなり、あるのは憂鬱と苛立ちだけ。静かで清潔で明るく穏やかではなく、音楽のような美しさはありません。

 煩悩に支配されない純潔な心は、それ自体が音楽で、清々しくし、それ自体に美しい響きがあります。魂の音楽と呼ぶことも、何と呼ぶこともできます。みなさんが聞いたことがあるような、弾いたり、叩いたり、吹いたりする音楽ではありませんが、意味は同じで、言い表せないほど美しいです。

 だから本当の音楽とは、心が空っぽの時に得られ、聴くことができ、触れられる美しい響き、美しさ、穏やかさ、何かそのようなものです。

 今普及している音楽を思い浮かべると、音楽、あるいは歌、あるいは曲には二種類あると見なければなりません。心が混乱するように煽る音楽もあり、心を穏やかになだめ、静め、空っぽにさせる歌や音楽もあります。自然の要求と一致する本当の音楽は、心を空っぽにさせる音楽です。空っぽに、静かで穏やかにします。

 現代人は静かにする音楽を好まず、心を亡霊や妖怪のように興奮させる、亡霊や妖怪の音楽を好みます。これを「心の混乱を促進させる」と言います。どこでもこのような音楽が好まれているのは、社会の基本として混乱した心が好まれ、空は好まれないという意味です。空の心で暮らすことは好まれません。だから理解が難しく、いくら話しても理解できません。

 昔のお爺さんお婆さんの音楽を考えて見てください。みんな心を空にする、心を落ち着かせ、矯正し感化するものばかりでした。しかし子孫は変態で、心を混乱させる音楽ばかり作ります。こういう問題に関わる物事の判断ができないで、混乱へ向かって突っ走る欧米を好み、それを手本にするからです。

 昔は芝居も、男優だけで演じていたと聞いたことがあります。イギリスのシェークスピアの時代のように、男優だけで演じる芝居です。そういうのが好ましいです。集中させて知識と知性を生じさせます。心を混乱させないで、心を空に促します。後の時代の人の煩悩が、女役は女優が、男役は男優が演じるようにし、どんどん煽情的な演技になっています。

 だから芝居は心を混乱させる物になりました。ノーラーも男優だけで演じていました。ある時代の娯楽の芝居は女優だけで演じていましたが、こういうのも好ましくて、空の方向へ促しました。今時はそうしません。今私たちは煩悩・欲望で何もかも変えてしまいました。これを「混乱した心の方向に歪んで傾いた」と言います。だから心も確実に混乱します。

 最後にみなさんが欲しがる物について熟慮します。それは神通力、あるいは働く力です。空っぽの心の力が一つで、混乱した心の力がもう一つです。心の力はみんな同じと考えないでください。純潔な心の力と混乱した心の力があり、空っぽの心の力はタンマの力、タンマによる力、ブッダによる力です。

 もう一度くり返します。空っぽの心の力はタンマの力、タンマによる力、ブッダによる力です。混乱した心の力は、亡霊や妖怪によるので、同じはずがありません。純潔な心の力は完璧な知性があり、賢く敏捷で、楽しく良い仕事ができます。混乱した心の力は正反対です。

 次に威力と呼ぶ物を神通力と呼ぶなら、神通力は、更に溜めてより強くした物です。それを神通力と言います。混乱した心でなく、空っぽの心が見せる物で、混乱した心が見せる物は、亡霊や妖怪がカッとなってやってしまうような種類の物で、神通力ではありません。利益のある神通力は、空の心が見せる威力でなければなりません。

 阿羅漢が誰にも真似できない神通力を発揮するのも、空の心によるもので、素晴らしく高度な神通力です。次はいろんな噺で聞いたことがある、鬼や悪魔などの凡人ですが、彼らも空の心で神通力を現し、混乱した心ではありません。鬼や悪魔も、神通力を発揮しなければならない時は、心を空にしてサマーディにしなければならず、そうすれば神通力を現すことができます。

 ラーマキエン(インドのラーマヤナと同じ神話)などの本の文章を信じるなら、クムパカンなどの鬼が重傷を負って起き上がれない時、呪文を唱えて体を撫でると、たちまち治ってしまい、立ち上がって戦うことができます。みなさんは、これは「俺、俺の物」と混乱した心でしていると考えるかもしれません。

 しかしそう考えないでください。「重傷で死ぬだろう。もう闘えない」と知れば、俺、俺の物の話ですが、知性で考えれば多くはありません。心の神通力を発揮するには、空の心が必用で、自分を忘れて呪文を唱え、心をサマーディにして空にする儀式をすれば、神通力を発揮して体を撫で、骨折でも何でも治すことができます。

 ですから私は、神通力も空の心でなければ出せないと主張させていただきます。阿羅漢の威力、ブッダの神通力は言うまでもなく、鬼や悪魔の神通力も、空の心でなければ発揮できません。危機を脱す智慧のある人間にふさわしい、タンマのある本当の神通力を期待するには、空の心でする外はないということです。これは、仏教の要旨として新たに理解していただきたい、いろんな角度から見た空の話です。

 「究極の空は涅槃」を忘れないでください。みなさんは、最高の空は涅槃と聞いています。まだ最高の空について話していません。今、仕事をする時に使う空、苦でなく世界で生きるために使う空について話しています。だからこれらの教えを銘記すれば、正しく理解できます。だからいつものように、次のように主張させていただきます。

  農家のみなさん、空っぽの心で働いてください。

  労働者のみなさんも一人残らず、空っぽの心で働いてください。

  子や孫を叩く時も、空っぽの心でしてください。

  法廷で争う時も空っぽの心ですれば、何でも優勢になります。

  誰かを一言叱りつけなければならないような時も、必用なら正しい知性で、空の心で叱ってください。煩悩で混乱した心でしないでください。

 今このように「空の心の話は混乱した人、怒りっぽい人へのブッダからの贈り物」と主張します。この形に興味をもってください。基本的にこうした誤解が非常に多いので、だから理解できません。しかし私は、いつか必ず理解できると信じています。


 残っている時間は、空の心で働く時助けてくれる幾つかのタンマについてお話します。初めに私たちが突き当たる問題は、タイの仏教教団員のほとんどの人が、ロークッタラタム(世俗を超越するタンマ。脱世間法)のような高度な教えは、一般庶民の話、世界の話と厳格に区別するべきと理解しています。人々はそう捉え、そう信じています。

 つまり高度な実践項目あるいはローグッタラタムを、一般庶民のタンマと別にします。一般人の話、世界の人の話ではありません。それは間違いです。どう間違っているか、これから証明してお見せします。本当にはいつでも同じで、違うのは分量とレベルだけです。

 涅槃のため、世界を超えるための教えはどれも、世界にいる人も使わなければなりません。言っているように、苦も同じ、煩悩も同じ、問題も同じだからです。

 三宝、つまりブッダ・プラタム・僧の三宝は、森に住む比丘の物、あるいは世界から脱出するために修行する人の物と区別していません。全部同じ三宝です。どうぞ正しく、真っ直ぐで、真実にと願うだけです。庶民のための三宝も、森に住む比丘のための三宝も、初等の聖人のための三宝もみな同じです。なぜ区別しなければならないでしょうか。

 良く知っている如意足(喜び・精進・専心・熟慮)は成就するためのタンマです。この四如意足を一般の人も使わなければならないことは、みなさんも知っています。そして職務を行う時、仕事を成功させるために使うことができることも認められています。

 この四如意足は、涅槃するために実践するのと同じです。涅槃のための如意足とはどういう意味で、何があっても、それを一般の人が使うことも、一般人の仕事に使うこともできます。欲・進・念・慧の四つは、分量が多いか少ないかの違い、あるいはレベルの違いがありますが、中身は同じです。試しに最高のレベルである如意足はどのようか、読んでみてください。

 「比丘のみなさん。その比丘は、当然作る物であるタンマがある如意足に励み、関連するサマーディがあり、歓喜が主で、精進が主で、心が主で、智慧が主で」とその都度このように分け、「このような状況で、私たちの歓喜が干乾びることはなく、止まることはなく、内部に留まることはなく、外に拡散することはない。

 私たちは常に過去と未来の想がある人で、今までそうならこれからもそのように、これからがそうなら、これまでもそのように、下がそうなら上もそのように、上がそうなら下もそのように、昼がそうなら夜もそのように、夜がそうなら昼もそのように対処できる。当然輝く素晴らしい心になるよう、開放され絡みつく物が何もない心になるよう訓練し、このように上達するよう励みなさい」とブッダは言われています。


 聖果に到達するための最高に高い如意足についての講義が始まりました。しかしみなさん、どの文章も、どの言葉も、意味は在家の人が使うのとまったく同じと、熟慮して見てください。

 彼は、歓喜、精進、心などをサマーディの主として、挫けることがなくなるまで、じっと止まることなく、内部に止まることなく、外部に拡散することなく、以前は弱くて、それから勇敢になって、また後で弱くなることがなくなるまで、安定したサマーディの状態の如意足を満たさなければなりません。

 以前そうだったら今もそのように、上がそうなら下もそのように、昼がそうだったら夜もそのようにというのは、「如意足がある人にとっては昼も夜も同じ」という意味です。

 輝いている心、開いた心とは、塞ぐ煩悩がない、絡み付く物がないことです。開いて絡み付く物が何もない心と言われるほど高い言葉でも、みなさんが田んぼや畑仕事をする時に使うことができます。こういう心で働かなければなりません。だからみなさん、如意足のような涅槃に行く高度なタンマも、一般に使えると考えて見てください。


 次は八正道などのタンマです。八項目の正しさは、この中道は、涅槃に到達するための実践項目としてブッダが説かれたものでも、まだ勉強を始めたばかりの人、一般人でも実践できると分かります。八正道など直接涅槃に到達するために実践する項目を、初歩の、最もレベルの低い一般庶民も使えると言うことです。最高に高度な話は空の話で、ブッダはその在家の人たちに、在家にふさわしいとして話されています。

 だから僧のためのタンマ、庶民のタンマ、涅槃に行く人のタンマ、世俗で仕事をしたい人のタンマと区別する考えを止めてしまいます。そのようなバカバカしい考えは止めてしまいます。違うのは表面だけで、中身は同じです。だから私は、涅槃に到達するための実践として欠かすことができないタンマを、働く在家の物、空の心で働かなければならない在家の教えにするために取り挙げました。

 空の心で働く助けになるタンマを、「空の心で働きたい時には、空の心で働く実践項目として七覚支を使いなさい」という題でお話します。中にはビックリする人がいます。七覚支は悟るため、阿羅漢になるための物だからです。なぜ一般庶民の仕事の話として話すのか、聞いてください。

 しかし先ほど例に挙げたいろんなタンマ集は、涅槃に到るレベルのタンマであり、それでも庶民の物ということができることを忘れないでください。この七覚支も同じです。このタンマの意味を広く正しく、そして十分に理解していただくようお願いするだけです。そうすれば四如意足は、涅槃に行く人も家で仕事をする人も、十分使える例を挙げて説明したように、どうしたらそれを庶民の仕事にふさわしく調整できるか分かります。


 次は七覚支で、七覚支と呼ばれる物は、悟りの項目という意味です。つまりどんな種類のどんな場合も、聖向聖果を成功させる道具です。みなさん、ブッダがこのタンマを説かれたのは、どの場合のどんなことも、いろんな物事を聖向聖果として成功させるために説いたと捉えてください。

 どの場合のどんなことでも、というのは、世俗の面でもタンマの面でも、初級でも上級でも「レベルに合わせて正しく使う」と言われるように、要旨を解釈して物事に合わせて使います。

 次に七覚支と呼ぶものを順に見ていきます。初めは「サティ」、七覚支のサティで、本当はサティです。サティ(自覚)とは、自分に関わるすべての物、あるいは知覚できるすべての物を、周到に隈なく知覚することです。これがサティと呼ぶ物の本当の意味で、何がどうなのか最高に注意深く、隈なく知覚します。

 それはどんな状態か、それは何か、何に起因しているのか、何のためか、どんな方法か、自分に関わるすべて、あるいは自分で知覚できるすべてをこのように知覚します。これがしなければならない初めの項目です。

 2項目は「七覚支の択法」といって、これはタンマを選び、何かを選択すること。私たちが選ぶ、私たちが選択することを意味します。自分の問題にふさわしいもの、自分の能力に合っている物、自分の性格に合っている物、病状にふさわしい、自分の苦にふさわしい物を選ぶことを学びます。

 そして、どうしたら最後まで使えるか、あるいは実践できるか、あるいは行動できるか、もう一度判断します。これを七覚支の択法と言います。

 3項目の「七覚支の精進」は、強靭な意志と勇気と忍耐努力で、選んだタンマの行動が常自覚の下にあるようにし、2項めで述べた択法で心が混乱することがないようにします。

 4項目の「七覚支の喜」は、行動に満足がなければならず、楽しさと満足が努力する原動力になります。仕事のための仕事をすれば喜びと満足があります。いつでもこの喜びが、努力する気持を養う力としてあります。絶対に、野望や渇望で煮え立つような「俺、俺の物」を力を育てる力にしないでください。いつでもその行動から生じるタンマである満足、タンマである喜びで潤してしてください。そうすれば精進努力は、涵養水である喜悦で常に安定しています。

 5項目は「七覚支の軽安」と呼ぶ物です。過去のすべての物を、タンマの言葉でタンマサマンキー、あるいは整っていると言われるような状態になるように調整することです。何項目ものタンマがあるので、それらがバラバラではなく、一つに融け合うように調整しなければならないからです。それを、自分が実践しているタンマを調整すると言います。今している仕事も、どんな職業も、良く融合しているので内面の衝撃や外面の衝撃がなく、後退することもありません。

 6項目の「七覚支のサマーディ」は、その仕事、あるいはその行動にあるだけすべての心の力を注がねばなりません。非常に強力で満ち満ちした集中力で、三つの特徴があります。つまりパリスットー、ボリスッタと呼ばれる、純潔で疑いや躊躇いや嫌悪がないこと。そしてサマヒトーは非常に安定していてぐらぐら揺らがず、本当の力、つまり空の心の力によって安定していることです。

 そしてカママニヨーとはしとやかでしなやかで、すべてが働くことにふさわしいです。これを最高にアクティブと言います。以上が七覚支のサマーディという意味です。

 最後の7項目は「七覚支の捨」と言い、無頓着と訳すのも本当です。しかし特別の意味もあり、一つに融け合わせ十分サマーディを注いだ物を、その物の成り行きにすることです。つまり良い状態にした物を、その物の法則にまかせ、その人の様子は無頓着と似ています。

 すべてにおいて調子の良い車を準備すれば、後はただ運転するだけ、ハンドルを握っているだけで、車は終点まで走り続けるように、終点に到着するまで「静かに待てる」ことが最も重要です。現代人は何かを待つことができません。心がイライラして、いつでも煮えたぎってしまい、いろんな場面で方便を使いません。これは大きな妨害です。

 この悟って阿羅漢になるための七項目のタンマを、どうしたら農家の人や労働者が空の心で働く時に使えるか、どうしたら子供たちが勉強して大きくなる時に使えるか、どうしたら少年少女が身を立てる時に使えるかを考えて見てください。

 その人に七覚支の第1項があり、すべての面、すべての角度で注意周到で、七覚支の第2項があり、自分の性格にあった物を知性で選び、言行一致の人であり、力を集めて注ぎ、本当に努力して、その努力する力を維持するだけの賢さがあり、喜びや満足を常にタンマの涵養水にし、努力は力を増す一方で、そしてそれを調整する時が来たら、関係あるもの全部を賢さで調整し、全部のタンマを融け合わせます。

 それは、その人がしているいろんなことが適合しているので、最後まですべての心の力を集中して注ぎます。そしてその人は、完璧な結果が出るまで静かに耐えて待つことができます。これが七覚支の原則です。

 これはまだ生きている人、誰にとっても必用な原則と主張させていただきます。どんな種類のどんなタイプの人も、どんなレベルの人も、まだ所帯を持っている在家も、この教えを使って働けば空の心で働くと言い、その仕事に介入してくる煩悩はありません。畑仕事も田んぼの仕事も、商売も、あるいは子供が勉強を始め、自立するにも、この七項目の教えを示して教えるように努めます。

 次に聖向に到達するためのタンマ、ヴィパッサナー、何らかの念処の実践をする人は、この七項目を使わなければなりません。ブッダも気に入られていて、病気になった時比丘を呼んで、この七項目の名前を言わせました。すると途端に千切って捨てたように病気が治ったという話を、みなさん経で読んだことがあり、何度も何度も聞いたことがあると思います。

 それで重病人に七覚支の七項目を全部聞かせる風俗儀式になりました。それは初めから終わりまでこのように非常に素晴らしいです。だから詳細に学ぶよう努めてください。本当は良く聞いたことがあり、お寺でもどこでも、ナックタム学校でも学ぶタンマ集です。しかしまだ要旨、あるいは本当の意味は掴めていないと信じます。だから有効利用、応用することができません。

 私がこのように強調するのは、この七項目を使うのが空の心で働くために最も良い、最も早い、もっとも簡単な唯一の方法だからです。この七項目のタンマ集は空、あるいは空の心による行為だからです。空の心がある時は、「心が空の時、知性等で、智慧等で完璧である」と述べたように、簡単にこの七項目のタンマがありまます。

 そして空の心自体にある自然のサマーディを体系化し、他人を信じなくても、盲目的な信仰に頼らなくても、いつでも仏教の智慧で明らかに見ることができ、完璧な形で学習を修了することができます。そして七覚支と呼七項目の教えを使えば「空の心で働く人」「空の心で生活する人」と呼ばれます。


 最後に時間がないので、一つだけ復習させていただきます。ローグッタラの教えは世界の仕事にも使えることを忘れないでください。世界にいる人は世界を越えたい人で、苦の固まりの中に溺れていますが、世界を越えたいと願えば、ローグッタラを目指します。

 だからローグッタラの教えは滅苦のため、苦をすべて消滅させる、どんな苦も消滅させる教えで、最も高度なものから、最も初歩のものまですべてを網羅する要旨があります。庶民のタンマとお寺のタンマ、涅槃に行くためのタンマと世界に沈んでいる人のためのタンマと、二つに分類しないでください。

 人々を世界に沈んでいさせるためにブッダが説かれたタンマなどなく、あるのは人を世界より上に引き上げるタンマばかりです。働くのも、自分を世界より上に引き上げる賢さのためにしてください。そして働き方を間違えて苦が生じてしまったら、正しく働くようにする道具であるタンマを使って、働くことが苦でないようにしてください。

 だから自然から与えられた本来の心について学び、良く管理し、良い状態を維持し、発展させなければなりません。そうすればみなさんにとって非常に利益があります。これ以上利益になる物はありません。それに空の心は、如意宝珠のように何にでも使えます。どんな問題もすべて解決できます。だから私はいつものように「空の心で働く」と言わせていただきます。

 もうすぐ新年なので、いつも繰り返している言葉を詩にして、空の心の年末のカードを贈らせていただきたいと思います。

 どんな仕事も空っぽの心で働け

 仕事の報酬は何でも空にやり

 空の飯を僧が食うように食い

 そうすればハナから死んでいる

 これについては、前回も述べましたが、もう一度言います。どんな種類のどんな仕事も空の心で働いてください。そして仕事の報酬が幾らでも、どんなでも、自分の物、俺の物と理解しないでください。自然の空にやってください。そうすれば、それは私たちに噛みつきません。そして仕事の報酬を食べることや、仕事の報酬を使うことを、空の物を食べると言います。

 空の心があれば、空の物を食べることができます。僧が空の物を食べるように、妨害する物は何もありません。

 本当の比丘は「生き物ではない。動物ではない。人物ではない。自分はなく、原因と縁によって絶えず変化している」というパッチャヴェーカ(省察)で、食べる人も、食べる物も、常に「自分ではない、自分の物ではない」と心に銘じています。こういうのを「空の飯を食う」と言います。空の心で、苦がなく食べることができます。

 死は、心が空になり始めた当初から片付いています。しかし迷って愚かに心を混乱させれば、また自我が生じます。混乱した心が治まり、煩悩が静まり、執着がなくなれば心はまた元の空になります。再び自我がなくなるので死にません。死はありません。これは、本当に正しい真実としては、死はずっと前から、元々からあった物ではないと教えています。

 しかし自分の愚かさや迷いでそれらに執着するので、しばしば死が現れます。つまり時々生老病死が生じるので、死の恐怖が問題になります。しかしもし、述べたように空の心で暮らし、空の心で働き、空のご飯を食べれば、死と呼ばれる物は初めから存在しません。その後妨害されることもありません。死ななければならない自分はなく、何かを自分と捉える考えもありません。

 これが「空の心で働けるようになるタンマ」という話の終わりの言葉です。三段階三部を話す計画のすべてが、今日で終わったことになります。今日の講義を役立てようと思っているみなさん、私が言ったことをそのまま信じることなく、熟慮判断するよう望みます。

 仏教の教えに従って自分を信じることができ、緻密に絶妙に熟慮するようお願いするだけです。それが本当の仏教の教えである「自分で分かり、自分で見え、自分で実践し、自分を頼れる」と言われる物になります。

 時間になりましたので、今日の講義を、これで終わらせていただきます。





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