3.まだ誤解していると感じること




タイ仏教協会にて
1975年1月21日

 私は十年以上も仏教協会でお話をしていないので、多少話が長くなってもお許しいただけると思います。今日お話しすることは些細な問題であり、大した内容はありません。しかしタンマの一致した理解を妨げるもの、あるいは私たちタイ仏教界をより一層発展させなければならないというお話をします。

 今日は「まだ誤解していると感じること」と題してお話します。この主題は、まだ見解が一致していないある問題についてだと、みなさん想像されると思います。それともう一つご理解いただきたいのは、この講義は「誰が正しく、誰が間違っている」と指摘するものではないということです。

 そのようなことはする必要がなく、するべきでもありません。しかし何をどう言うかは、言うべきです。あるいは「何が正しいか、何が間違いか」を言うのは、「誰が正しいか、間違いか」を言うより良いです。

 だから私は「まだ誤解していると感じること」、あるいは「今はまだ理解し合えないこと」という題にしました。そして全体の利益ためにこの問題を洗い出すのは、誰にとっても、権利であり義務であると見なさなければいけません。私も全体の利益のために、力を合わせてこの義務を行なわなければならないすべての人の一人です。これが初めに理解し合わなければならないことです。これから話すテーマを、順にお話します。

1 初めに、ロークッタラ(脱世間。第一義諦)レベルの教えを、在家の実践項目として日常的に使えるかどうかです。実にほとんどの人が、涅槃に行くための実践項目と一般人の日常的な実践項目はまったく別と考えています。

 私は「そうではない」と考える立場です。ロークッタラの実践項目にも、家で、在家の日常生活で苦を消滅させる実践項目と同じ物もあり、違うのはレベルと量だけで、教えは本当は一つです。

 例えば三宝であるブッダ(仏)・プラタム(教え)・僧は、涅槃を目指す人も在家として家にいる人も同じです。更に上のレベルの如意足である欲・精進・サティ・智慧などは、したいと思うことを成功させる物ですが、これも同じ教えです。涅槃に行くために実践する人向け、一般人として生活しながら実践する人向けと、調整する必用はありません。

 違うのはレベルと量だけで、意味は全部同じです。よく知られている八正道については、ほとんど説明する必要はありません。八正道は直接涅槃に到達するために作られた道ですが、一般の人も、十分その教えを実践できると、誰もが認めています。

 次はかなり奇妙な話で、例えば直接悟る話である七覚支は、八正道と同じように一般の人の日常で使うことができると理解します。

 例えば「サティ」は全身に神経を行き渡らせるという意味で、「択法」は適切な物を選ぶという意味で、「精進」は実践する時力を集中させるという意味で、「喜」は努力する気力を喜びや満足で養うという意味で、「軽安」はすべてが静まって落ち着くという意味で、「サマーディ」は力を十分に集中させることで、「捨」は、それが最終地点に到達するまで待つことができることです。だから、当然田畑の仕事も、この教えですることができます。


 次は最高に高度な話である空の話、自分がない空っぽの話です。世界より上にいる段階に到達するため、あるいはロークッタラ(脱世間)と言われる話ですが、これも在家のための話です。ブッダもそう言われていることを、これから見て行きます。

 ある在家の人が「永遠に私たちの利益になる話は何でしょうか」と質問すると、ブッダは「空の話。空に関わる話が、すべての在家にとって利益がある話です」と答えられました。詳細はサンユッタニカーヤ(相応部)マハーワーラワックで読むことができます。

 この項目を考えて「ロークッタラの教えを、在家は使うことができない」と発言する理由は何か、考えて見てください。私は十分に使えると思っています。要旨としても、意味としても、教えとしても、レベルと分量以外には、何も違いや修正しなければならない物はありません。

 高度なタンマが在家にふさわしくないとするなら、なぜブッダが在家に深遠なタンマを教えられたか、考えて見てください。これも高度なタンマですが、そういう理由ではなく、在家は火の海、つまり怒りや苦に沈んでいるので、誰よりも火を消し、苦を消滅させたいと望んでいるからです。密林の中にいる人たち(修行僧)には、それほど苦はありません。

 在家の人たちは半端でない苦があるので、苦を滅すことができる物を求めます。苦を滅すことができる物とは、「所帯を構え妻子に囲まれ、香りの良い物を撫でまわしているすべての在家の人の利益になる」とブッダが言われた空の話のように、直接涅槃に到達するために、煩悩欲望を絶滅させるタンマ以外にありません。

 これがみなさんが誤解していて、まだ一部の人は理解できていないと感じる一つ目、あるいは最初の項目です。

2 二項目に、私たちの心は基本的に煩悩がないか、それとも煩悩がいっぱいか、という問題があります。通常人間の心には煩悩がないのか、それともぎっしり詰まっているか、という意味です。短く言えば、心には基本的に煩悩があるのか、それとも基本的に煩悩がないのかです。私は、基本的に心は空であり、煩悩と呼ばれる物は、時々、そして部分的に生じると言う立場です。

 これはブッダの「比丘のみなさん。心は純潔で、憂鬱になるのは、煩悩が訪問者として来るからです」という言葉に依拠しています。訪問者とは「時々家を訪ねて来る人」と、誰でも良く知っています。煩悩は訪問客のように時々来るものなので、客が来なければ憂鬱でない、つまり煩悩がなく、煩悩がない状態という意味です。

 それなら何があるかと言えば、煩悩でない物があります。ボーディ(正覚。菩提。悟りの智慧)、あるいは知性、あるいは常自覚、呼び方は様々です。

 一日一晩、煩悩が生じて、欲望や取を何回生じさせたか、そして一回がどれくらい長かったか、調べて見てください。勝手に推測して決めたり、他人が言うことをそのまま信じないで、一日一晩に、煩悩が何回、一回に何分心を支配し、欲望や取で熱くさせたか、自分自身で調べてみてください。

 ほとんどの時間は欲望がなく、感情(心の内容物)がある時に煩悩が生じ、取が生じて熱くなると気づきます。感情は常にあるのではありません。そして感情が生じると、常に煩悩を生じさせているのでもありません。感情を自分の物と捉えなければ、その感情は煩悩を生じさせず、常自覚があるので、煩悩なしに感情を味わうことができます。だからその日その晩は煩悩で熱いと言うより、むしろ爽快です。

 心に「自分、自分の物」と執着する欲望や煩悩がなければ、このような状態を「空の心」、つまり「俺、俺の物と感じさせる原因である煩悩がない空っぽの心」と呼ぶべきと思います。このように「俺、俺の物」、あるいは「自分、自分の物」がなければ、心に「これが自分」と捉える自分がないので、自我があると言うことはできません。

 だから、その心は自我のない心で、このような心を「自分という感覚のない心」と呼ぶのがふさわしいですが、「自分という感覚がない心」と呼ぶのは長ったらしいので、短く「空っぽの心」「空の心」と呼びます。空の心、空っぽの心は混乱させる物がない心で、混乱させる物は「自分」という考えです。

 だから空っぽの心に感謝しなければなりません。空の心のお陰で快適でいられ、不眠を初め神経性の病気になることもなく、狂うこともなく、混乱しすぎて自殺しないで済むからです。だから非常に恩がある空っぽの心に感謝するべきです。

 正常で幸福に暮らし、時々訪問者として現れる煩悩と戦う力を与えてくれます。これは非常に重要な問題と言えます。基本的な教えだからです。つまり「心は空か、それとも心は煩悩がぎっしり詰まっていると捉えるか」という基本的な教えです。

 心は基本的に空とする人と、心は基本的に煩悩が詰まっているとする人とでは、タンマの学習と実践の教えがまったく違うので、正しく理解しなければなりません。ブッダの教えの体系は、心は基本的に空か、それとも基本的にぎゅうぎゅう詰めか、あるいは心は基本的に煩悩がないか、それとも基本的に煩悩がいっぱいか、という真実に気づいて正しく理解すれば、ブッダの教えを正しく使うことができます。

 ここで言う、一般の凡人にとっての「空の心」は、「普段生じない煩悩が、生じていない」という意味で、いずれにしても心に煩悩がなければ、当然明かるく純潔で、当然確実に常自覚、あるいは智慧による明るさがにあります。

 阿羅漢の空の心との違いは、阿羅漢は完璧で隙がないので、厳格な空ですが、私たちは完璧なサティがなく、煩悩の訪問を受け入れてしまう隙があるので、そこだけが違います。実践する項目は、サティを完璧にし、煩悩が生じる隙を作らないこと。その二項目とすることができます。


3 三項目は希望、期待、望みは、ほとんどの人が考えているように、全部が煩悩ではありません。ほとんどの人が、希望、期待、望みと名がつけば、すべて欲望煩悩、貪りと理解しています。私はそう考えず、要望や願望には二種類あると考える立場です。

 その希望や望みの根源が智慧や明にあるなら、煩悩、欲望、あるいは貪りのようなものに分類するべきでなく、その希望や望みの根源が無明にあれば、それらの願望や望みは、貪り、欲望、煩悩、あるいはそのようなものとします。

 希望、あるいは志願なども煩悩に聞こえますが、無明による希望でなく、明による希望があることも忘れないでください。だからこの種の希望を煩悩と見るべきではありません。人間はこの希望によって生きられることを、誰も否定しませんが、その希望が明による希望か、無明による希望かとあります。

 疑念、疑いと呼ばれる物も、すべて煩悩と理解しないでください。常自覚や明で、知りたくて疑念を抱くなら、それを疑念とすべきではありません。人は疑わしい物を疑わないではいられません。良い教育を受けた知性があれば、それがどんな物か疑い、知性で知りたいと思います。だからすべてを煩悩として責めるべきではありません。

 明が根源なら煩悩とするべきでなく、その物の名前で呼ぶべきで、あえて煩悩に分類すれば、ブッダの言葉に反すと思います。ブッダの言葉では「煩悩は、その願望の根源が無明である場合」としています。

 あえて煩悩とすればブッダの言葉の誤認で、「あの人は煩悩がある」というような、人間同胞に対する謂れのない非難になり、何か少し求めるのも駄目、稼ぎたいのも駄目になります。

 その人の願望の根源が明なら、私は「その人には煩悩がある」、あるいは「それは煩悩」と見ません。これはブッダの縁起で確認することができます。欲望・取・有・生と呼ばれる物は、発端である無明に根源があります。

 無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ、名形が六処を生じさせ、六処が触を生じさせ、触が受を生じさせ、サティのない人の受は当然欲望を生じさせ、欲は取を生じさせ、取は有を生じさせ、有は生を生じさせます。

 みなさん、縁起の最初に何があるかを見れば、みなさんは必ず、無明があると気づきます。この欲望も、この取も、必ず根源に無明があります。明から始めれば、欲望・取と呼ばれる物はありません。だからブッダの言葉である「根源に無明がない望みは、欲望、あるいは煩悩とするべきではない」という縁起の教えを捉えてください。

 「欲望で欲望を捨てなさい」という一文があっても、これはブッダの言葉ではなく、三蔵の中に一つしかないアーナンダの言葉で、そして言葉の遊びです。普通の言葉で事実通りに言ったのでなく、心を喚起するために言った、言葉の遊びです。

 「欲望で欲望を捨てる」というブッダの言葉はありません。この言葉を聞いた人は、「欲望は欲望を捨てることができる良い物」と理解して執着しますが、それは誤解です。無明から生じた望みなら欲望であり、無明から生じた望みでなければ欲望ではないと、元々の教えを主張させていただきます。

 知性の望みは、知性が求める物であり、それがなければ何もする気にならない、何も学ぶ気にならない、苦を滅したくもならないので、あるべき物です。しかしここで忠告したいのは、望みには、たとえば滅苦の望みでも、涅槃に行きたい望みでも、二種類あることです。

 つまり涅槃に行きたいのも、人に流され、愚かさで、無明でそう願うこともあります。このような涅槃に行きたい願望は、欲望に違いありませんが、正しく十分な常自覚や知性で、涅槃に行きたい、煩悩を滅し、苦を滅したいと望めば、その望みは欲望ではありません。まったく同じ涅槃に行きたい望みも、一部の人のは欲望で、もう一部の人のは欲望ではないと、熟慮して見てください。

 それは根源に無明があるから、あるいは明があるからです。このようにアピタム(深遠なタンマという意味。論蔵のことではない)を学ぶことでも、他人につられて勉強したいなら欲望ですが、明確な知識や理解で、理由があって勉強したいなら、死ぬほど勉強したくても欲望ではありません。

 どうぞ、この項目を良く考えてください。この教えが間違っていれば、みなさんにとってどんなにか厄介でしょう。ブッダは欲望や滅苦に関して非常にたくさん述べられています。そして変化することがない教えですが、私たちが勝手に欲望という言葉の意味をはき違えて「望みは何でも欲望であり煩悩だ」と言います。

 四聖諦の四項では、欲望は苦を生じさせる原因です。あるいは苦集(苦を生じさせる原因)と呼ばれる物は、必ず無明に根源があります。無明に起因していなければ欲望ではなく、ここで言う苦集でもありません。四聖諦、あるいは四聖諦の教えは、このように非常に重要です。

 欲望について話す時、あるいは欲望という言葉について教えたりアドバイスする時は、より一層注意しなければなりません。教えをはき違えて、すべてを欲望としたらどうなるでしょう。すべての人、あるいは小さな子供や赤ん坊はどうなるでしょう。みんな欲望で腐って悪臭を放ち、一日中一晩中、明るくなる時はなく、煩悩から開放されません。いつでも必ず何らかの願望があるからです。

 今、心には基本的に煩悩がなく、清潔で、快適に静まっていると主張します。人間は、常に煩悩がある訳ではなく、何かの願望も、無明が根源でないものも沢山あるからです。ですからみなさんは見られる人になることもできます。この問題を正しく理解するか誤解するかは、こんなに重要で、人間同朋に対する非常な誹謗中傷になります。

 願望と名がつけばすべて煩悩だと捉えるなら、誰もかもが煩悩で泥だらけになって、見られたものではありません。それで、これは本当でしょうか。ブッダは本当にそう教えたのでしょうか。自然の真実はそうでしょうか。

 煩悩欲望は、いつでも根源に無明、つまり愚かさ、迷いがなければなりません。目・耳・鼻・舌・体を通して何かがあった時、毎回無明とは限らず、時には常自覚があって、明の方、智慧の方、ヤーナ(智)になることもあります。

 触れてくる感情(心が捉えている物という意味)は、常に煩悩を生じさせるために来ると理解しないでください。触れて来る感情は、いつでも煩悩を生じさせるのが目的ではありません。それは受けとる人次第で、常自覚で受け止めれば、触れて来る感情は知識の学習、智慧を増やすので、非常に良いことで、嫌うべきではありません。

 しかし感情が触れた時に常自覚がなければ、無明と言われる物が生じて心を支配するので、サティがぼやけ、その感情から生じる結果は、その感情への執着で害です。

 もう一方は、利益を受け取り、本当の感情が触れるのは、むしろ利益を与えるためですが、私たち人間の愚かさや迷いで、苦で難儀しなければなりません。

 しかしそれでもその後、何度もその感情に触れて苦や困難に出合うと、多少は賢くなります。だから良くなるということです。悪い面ばかり見ないでください。これが、みなさんがまだ誤解していて、タンマの話ができないと感じる三項目です。


4 四項目は、多くの人、あるいはほとんどすべての人が理解しているように、縁起は三つの生(あるいは世)に跨がった話ではありません。

 人が学び、教えている縁起の初めの一部分は過去で、過去世で、返って来て現在になり、前世の結果が現在の原因になり、現世になり、最後の部分は来世で、現世の結果が来世です。

 それは、一連の縁起、あるいは十二の縁支は三世に渡っていて、三世の時間が必用と理解させます。私は「感情を味わう一時の時間しか必要ではない」と考える立場です。

 何らかの感情を味わう時、サティがぼやけたり、サティがないと、その感情を自分の物と捉えて苦が生じる、これを「一つのケースに十二全部が揃っている縁起」と言います。だから一日に何連もの縁起があり得ます。一日だけでも何連もの縁起があり得、たった一連に、三世もの時間は掛かりません。

 これは、三蔵にたくさんあるブッダの言葉で知ることができます。それらのブッダの言葉のどこにも、十二の縁が三世に跨がらなければならないことを暗示する物はないと、本気で調べて見てください。それは後世のアーチャンが勘違いし、そう誤解してそう話したので、この縁起は、誰にも、ほとんど利益がなくなりました。

 ナックタム(僧試験)の三級、二級、一級の教育課程にありますが、理解できず、どんな小さな利益に使うこともできません。解釈がややこしくて、聞くと答えに詰まって混乱します。それらの人々の(良く調べ、実践して検証しない)信じ易さによって、仏教の最も素晴らしい話は不毛になりました。

 私たちに、このような状態の愚かさがなければ、仏教の素晴らしい話、縁起は、非常に私たちに利益があり、日常生活で使うことができ、知って実践することができ、日常生活で結果を得ることができます。

 今は、博物館に収蔵して鑑賞する品物と同じくらい不毛で、教えるのも、オウムか九官鳥のように教えます。一連の縁起は、三界三世の時間が必用と理解したので、何の利益もありません。

 縁起の話は四聖諦と同じ話と理解してください。パーリ(ブッダの言葉である経)アングッタラニカーヤ(増支部)の、ティカニバータなどを調べて見れば、ブッダは完璧な聖諦の話をして縁起にされたと分かります。私たちは、聖諦では簡略に説き、縁起では完璧に説かれたと見ることができます。

 「簡略な聖諦」とは、一般に知られていて聞き慣れている、短く簡略に説かれた物で、「苦とは耐えがたい物であり、苦を生じさせる原因は欲望であり、滅苦は欲望を消滅させることであり、欲望を消滅させる道は八正道である」です。

 そして完全形では、苦諦は同じように説明され、集諦の部分を縁起では二つに分け、滅諦は縁起の全項で説明され、道諦の説明は八正道を説かれ、聖諦と呼ばれています。だから縁起は他でもない、正真正銘の聖諦です。そして縁起は聖諦とまったく同じで、別の物ではないと理解してください。

 この聖諦は、直接使わなければならない物、必ず苦を滅亡させるために直接実践しなければならない物で、来世まで待ちません。苦は今知らなければならない物、今撃退しなければならない物です。過去や未来ではない現在の敵であり、少なくても現世の敵で、過去や未来の敵ではないので、今対処しなければなりません。

 だからこの四聖諦は、現世で完全に対処しなければならない話です。縁起のある部分を過去世に、ある部分を現世に、ある部分を来世に分けないでください。それは愚かで、最高に騙され易い話です。

 このように結果である苦が現世にあって、原因が過去世にあったら、人は滅苦ができません。それでは対処できません。誰かに聞いてみてください。子供でもいいです。結果である苦が現世にあり、原因が過去世にあったら、どうしたら原因をなくすこと、あるいは滅苦ができるか、聞いてみてください。

 現世にある苦の原因の、結果が来世で現れると知ったところで、誰の利益にもなりません。

 それでは「タンマはアガリコ(時を選ば、いつの時代でも結果がでる物)、サンディティコ(実践者自身で見ることができる物)、パッチャッタン(智者が自分で分かる物)」云々という項目に反します。

 だから原因のある滅苦は、一つに繋げることでできます。別々の世、別々の有に分ける必用はありません。これは滑稽です。結果が現世にあるのに、原因が過去世にあって、どうすることもできないほど滑稽な話はありません。これが誤解されている縁起の不毛であることです。

 ブッダの言葉を見れば、一本に繋がっていて、一瞬で終わってしまい、苦が、一連の縁起が、一日に幾つも、あるいは何回も生じることができると見えます。

 これに関する詳細は長すぎて、今日のように一日では話せません。今説明していることを、いつか全部お話できると信じています。それに毎日書き溜めれば、いつか本にして読んでいただくこともできます。だから今日はこれだけで、誤解されていることの四項目とします。


5 五番目は、後世の教典、後世の本を鵜呑みに信じて、身命を捧げるように身を預けないでください。後世の教典を鵜呑みに信じて、身を任せないでください。私は、そのようにやたらに信じない一人ですが、人間同胞のほとんどは、後世の教典をすっかり信頼してしまい、原典である教典、あるいは直接三蔵のような、元の、あるいは最初の教典に興味を持ちません。

 「後世の教典を鵜呑みに信じて身を任せてはいけない」と言うのは、一番古い教典である三蔵でも、注意しなければならないからです。良く注意しないと、偽物を混入させて増やしてあるので、後世の教典は言うまでもありません。

 それ以上に「ブッダの口から出た」と三蔵に書いていある言葉でも、注意しなければなりません。ブッダはカーラーマ経にあるように、すぐには信じてはいけないと言われているからです。

 仮にブッダの時代に生まれることができるとして、ブッダに拝謁して、直接目の前でブッダが言われたことでも、「すぐには信じてはいけない。それはどうか、それは本当にそのようか、熟慮して見えたら信じなさい」と言われています。ブッダはこのように強調されました。

 サーリープッタのような弟子たちも同様に強調しました。そしてブッダが面前で話されたタンマを、その場で直接聞いても、すぐに信じないで「本当にそうか、本当にそういう理由があるか」見えるまで熟慮してから信じるよう、確認し合いました。直接ブッダの口から語られた言葉でさえそうなのですから、三蔵はどうでしょうか。そして後世の教典やアッタカターディカー(解説書)はどうでしょうか。

 清浄道論の本、清浄道論教典のような本は、千年して、千年近く道草をしてから書かれ、例えばブッダの言葉であるサマーディバーヴァナー(サマーディを生じさせること)が四種類あることになりました。二種類目のサマーディバーヴァナーは、天眼(千里眼)を得るためのもので、光明想や太陽想などを見なければならず、

 三種類目のサマーディバーヴァナーは、常自覚の完璧さのためで、立ち居振舞を意識し、あるいは行の発生と維持と消滅を見なければならず、四種類目のサマーディバーヴァナーは、煩悩を終りのためのサマーディバーヴァナーで、何としても取がある五蘊を取と切り離して熟慮しなければなりません。清浄道論は、サマーディバーヴァナーをすればこの四種類の功徳が得られるとまで言っています。

 ブッダはそう言われていません。四つに分けて話されただけです。清浄道論が、サマーディバーヴァナーをすればこの四種類の功徳があるというのは、みなさん、聞いて同じに聞こえますか。私は、これは清浄道論の寄り道の話と見なします。

 例えばブッダについて語っている話などに、バラモン教やヒンドゥー教などの話が、大量に混入しています。清浄道論のように後世に書かれた本は、良い部分もたくさんありますが、このように寄り道である部分もあるので、身を任すことなどできません。

 これから話すアビダンマなどは、後の時代にでき、特にアビダンマッタサンカハはもっと後ですが、書いた人の見方が堂々と混入されています。その時代の解説者の知識が、非常にたくさん増補混入されているので、「後世の教典を鵜呑みに信じてはいけない」と言います。多少疑う勇気があるだけでも良いです。

 自分の考えで、すべてのレベルの教典から三蔵まで熟慮検討なさったワチラヤーナワローロッサ殿下の弟子になるだけでいいです。みなさんは、殿下と同じまでする必要はありません。殿下の弟子だけで十分です。

 完璧なブッダの弟子になりたいなら、ブッダの口から出た言葉を聞いてもまだ信じないで、そういう真実と本当に見えるまで考え、それが自分の知識になってから信じるのでなければならないからです。

 だから私は、ちょっと勇気をもって見たらどうですか、とお誘いさせていただきます。つまり後世の教典を信じ切らないこと、これが五項目です。その後の時代の人、あるいは一部の人たちはそれを認めないので、話になりません。会話できません。考えてみてください。これが仏教の法友として、みなさんにお考えいただきたい五項目です。



6.アピタムピドック(論蔵)

 六項では、直接論蔵について判断させていただきます。パーリ三蔵の三番目の論蔵は、ブッダの言葉の形をしていませんが、意義、つまり内容と、一部分はブッダの言葉なので、パーリ論蔵のどの部分が直接ブッダの言葉か、注意深く選ばなければなりません。

 語句である文字、あるいは綴られている言葉で言えば、ブッダの言葉ではありません。ブッダの言葉そのままの形になっていません。論蔵は後の時代に綴られた物です。

 仞利天へ行って説教した話は論蔵にはなく、論蔵の翻訳教典にもありません。私は、論蔵を翻訳した教典にもないと言います。仞利天へ行って説教した話は、ダンマパダ(法句経)のような、ずっと後の時代の本だけにあります。そこで、パーリ三蔵の三つめ、論蔵は新しい物で、仏像と同じ時代に作られたと言うことができます。

 少し仏像について少し述べさせていただくと、ブッダの時代に仏像はありません。ブッダの時代のインドという国は、像を拝まないないくらい賢かったです。

 ブッダの時代の三千年前から偶像崇拝が行なわれていたことが、考古学の研究から分かっていて、モハンチョーダロチェレッターの辺りのインダス川底の発掘で、たくさんの信仰対象の像が出てきたので、その時代のインドでは像を拝んでいたということです。

 ウバニシャットの時代になると、つまりブッダの時代も含まれますが、非常に賢くて、どの宗教も像を拝もうとしませんでした。

 ブッダが亡くなって三百年余り後に、ブッダの歴史を刻んだ石碑が現れましたが、まだ仏像はなく、七、八百年後になって仏教の仏像が現れました。インド国内の石碑の調査をしても、仏歴六百年以前には、石碑の中にもブッダの像はないとが分かり、それ以後にあるだけです。

 しかしブッダの伝記を刻んだ石碑はたくさんあり、ブッダの部分は空になっています。シッタッタ王子が馬に乗っている場面の馬の背の上は、空っぽで何もありません。菩提樹の木の下の石塔も、ただの塔です。

 何かあれば、三宝や法輪やブッダの足跡など、象徴する標がありました。要するに、初期のブッダを記念するものには、ブッダの像はなかったということです。

 仏暦三百年以前は、ブッダの伝記の石碑さえないので、仏像の一部である石の欠片を拾って来て目薬を作ることはできません。ないのですから。その後恐る恐る作り始める段階になり、仏暦六百年から七百年頃には、完璧に作られるようになり、そしてどんどん増えて人気が出て、広まって、升で量って売るほど有り触れた物になりました。

 これは、新しい物は好まれないのでなく、反対に古い物より好まれ、賞賛され、人々に歓迎される、ということを証明しています。今日、ブッダの絵がないブッダの伝記を刻んだ石碑を好む人がいないように、仏暦六、七百年以後に作られた新しい仏像を、造って増やすことばかりです。

 論蔵も同じで、仏暦六、七百年以後に綴られました。私は仏像と同じ時代の物、あるいは同じ時代に生まれた物と捉えています。そして新しく作り出された物は完全で魅力があり、つまり魅惑的な味があり、智慧や学習の糧であり、哲学者が首っ丈になる代物なので、最高に歓迎されたのは当たり前です。これは、仏像が芸術の基盤の地位を維持しているように、疑うまでもありません。

 芸術家は芸術として執着し、本当にタンマに到達していない族にとって、崇拝するのに都合が良いので、非常に好まれたので蔓延し、最後には、仏像がタンマを遮る物になってしまいました。これは、新しい物は古い物よりも、大衆から支持されるという証明です。だから、哲学者が関心を持っているというだけで信じないでください。

 だから「論蔵の内容が滅苦に通じる大きな教えと一致しなければ、新しく書き加えられた物と見なす」と良く考えてください。聖諦のように直接苦を滅す話は、古い教典、つまり経蔵にあるのと何ら変わりません。論理的な面を言葉で説明し、他の宗教、他の教義と競合するために、興味深い新しい考えや感覚を加えた以外には、何も創らなかったということです。

 これも後世の教典を詩にして綴る目的でした。論蔵の「論事」なども、ブッダの時代から何百年も後までの年代に、インドで新しく生まれた様々な邪見を集めた物にすぎません。それでインドの南部地方で新しい教義名をつけた、そういうのもあります。

 哲学として完璧にするために集めたと見ることができます。滅苦の話は何も増やしていないので、滅苦に関しては、何ら必用がないと見なします。聖諦と縁起は、古い元からある教典で述べられているだけでも膨大です。これらに執着するほど誤解しないでください。

 この誤解は、たった二つの言葉から生じます。つまり「アピヴィナヤ」と「アピダンマ」です。この二つの言葉は、ブッダが本当に言われています。それも、しばしば言われています。しかしこのアピヴィナヤ、アピダンマという言葉は、後世に綴られたアピタンマピドック(論蔵)を指しているのではなく、「深遠で詳細で明解に解説された、周到で広く解説されたタンマ」という意味です。

 アピヴィナヤが「あらゆる角度から詳細に分析したヴィナイ(律)」を意味することからも分かります。

 ヴィニカワット教典などは、最高裁判所の判決文のようで、このようにたくさん集めた物がアピヴィナヤになりました。パーティモッカはまだアピヴィナヤとは呼びません。明解で理解し易いからです。細かくて大切なこと、些細でも智慧を注がねばならないことをアピヴィナヤと言います。


7 アピタンマ(究極のタンマ)

 アピタンマと呼ばれる物も同じで、ブッダは、深遠で詳しく事細かに、分かり易く説明しなければならない部分を意図されていました。そしてこのアピヴィナヤやアピダンマを必用な物と見なされず、智慧を磨く物と言及されています。

 だからブッダがしばしば口にされたアピタンマという言葉は、論蔵を指しているのではありません。ブッダが言われたのは、論蔵が生まれるより、三蔵が編まれるより、どんな教典が生まれるよりも前だからです。

 ブッダはタンマ(教え)と律に関ついてしか話されていません。三蔵の中でも、五比丘たちもその律を使ったと述べられています。結集は最高の根拠で、三蔵のパーリ(ブッダの言葉)のレベルにも、論蔵に関する話はなく、語られているのはタンマ(法)と律に関わる話だけです。

 後の時代に論蔵が生まれた時、経蔵、律蔵に続く三番目の蔵になり、後世に書いた物まで「三蔵の結集で作った」としました。これがこの二つの言葉の誤解、つまりアピヴィナヤとアピダンマという言葉を拡大解釈する原因です。

 アピヴィナヤとアピダンマは、新しく規定して増やした物でなく、ただ説明しただけで、別の話ではないと理解するべきです。

 次にアピタンマとはどうあるべきかを考えて見ます。アピタンマ。最高のタンマ、奥深いタンマ、最高のタンマとは、どんな物であるべきでしょうか。

 ブッダは「如行(ブッダの一人称)が言った言葉のすべては深い味があり、世界を越え、空である」と言われています。これはパーリ・サンユッタニカーヤ(相応部)にたくさん見られ、「私の言葉は空の話ばかりで、空でない話、空に関係のない話は如行の言葉ではない」と、ブッダが規定されています。

 学究者のみなさん、サンユッタニカーヤの中にある経群から、ブッダがそう言われている部分を探してみてください。そしてさらに「後の人が美辞麗句で綴った言葉は、空に言及していないので、如行の言葉ではないから信じてはいけません」と、ハッキリ言われています。

 何番の何頁とは教えません。簡単過ぎますから。どうぞ自分で探して見てください。しかし「空に関連のない項目は如行の言葉でなく、深い味わいがなく、世界を超えていない。空に関連があれば如行の言葉であり、奥深く、味わいがあり、世界を超えている」とあります。

 次に空の話、何も要らない空と、善や徳、天国、偉大な心の善などを欲しがる話を考えて見ると、この二つのうち、どちらがアピタンマでしょうか。空で何も要らない話が一つ。そして天国、徳、善など、他にもいろんな物が要るのをもう一つとして、この二つのどちらの方がアピタンマでしょうか。

 私は何も要らない方が、「あれもこれも」と何でも要るよりアピタンマに見えます。哲学者として名声を求めることもです。そうすればブッダが「空に関わる話、直接空の話だけが、奥深く世界を超えた如行の言葉です」と言われたのと一致します。

 横柄で出しゃばっていると捉えないで、こうお話することをお許しください。私が言ったことをそのまま信じないで、ご自身で調べていただくために、仏教教団の友人としてお話しています。これが誤解していると思うことの七番目です。


8 空

 次は、ブッダの言葉の核心部である空の話、あるいは「空っぽ」について、何とか理解し合える物になるまで、もう少しお話させていただきたいと思います。

 空っぽのことを空(スンニャター)と言います。「空」とは何もない空っぽのことで、何がないのかと言えば、「自分、あるいは自分の物がないこと」と答えなければなりません。パーリ(ブッダの言葉である経)では、「自我がないこと、自我に関わる物がないこと」と明示されています。自我がないとは自分がないこと、自我に関わる物がないことは、自分の物がないことです。

 では「自分、あるいは自分の物」とは何でしょうか。それは何でもなく、ただのマヤカシでしかありません。つまり間違った見解、あるいは無明による勘違いですが、十分な感覚になるので自分ではマヤカシと気づかず、それを本物と思います。

 たとえば「私、私の物」、あるいは「俺、俺の物」という感覚が本当にあると信じてしまい、「私、俺は考えられる。何かをすることができる。何か色々ある」と感じるので、いつでも本当にあると信じます。しかし教えは、そのような感覚を空にするよう望んでいて、そういうのを「自我が空っぽ」と言います。

 「自分の物」と拡大した感覚は、自分があれば自分の物が欲しくなるので、繋がっています。だからその感覚も空にしなければなりませんが、自分の物をなくす方が、自分をなくすより簡単なので、二つ一緒に繋げておきます。自分を無くすことができた人は、自分の物は自然になくなります。自分にくっ付いているからです。  

 次に自分、あるいは自分の物という感覚がない時の心を、空っぽの心と呼びます。空っぽの心に何の感情(心が捉えている物という意味。心の概念)があるのか、と問えば、私は、ほとんどは空が感情としてあると答えます。何も感情がなければ、心はないからです。

 あるいは、空が感情と言うなら、その時の感情は、自分に執着しない物と捉えなければなりません。心にその種の感情が感情としてあれば、「心には空である物が感情としてある」と言わなければなりません。執着のない物が感情なら、どんな空でも「涅槃である感情がある」と言わねばなりません。これを、「心に感情である空がある」と言います。

 涅槃と呼ぶ物は偉大な空で、偉大な空は涅槃だからです。涅槃が感情としてあれば、偉大な空が感情としてあるということです。心に感情として何があるか、言い尽くせないほどたくさんありますが、空っぽの心なら、自分と執着しない物が感情としてあります。このように空っぽの心がある時は、涅槃に到達したように幸福です。

 あるいは小さな涅槃、味見のための涅槃、一時的な涅槃で、サティがぼんやりすれば消えます。だから空と呼ばれる物は、非常に学んで理解しなければならない物です。空についての知識があれば、何かを引っ掴むことはなく、何にも執着しないので、「空っぽの心」です。

 手で掴んでいる物が何もなければ「空っ手」と言います。心も同じで、何も掴んでいる物がなければ、何にも「自分、自分の物」と執着していなければ、それを「空っぽの心」と言います。そして述べたように、徳と利益と功徳があると見なさなければなりません。何も持っていないのですから。

 だから、みなさんが平安に暮らし、ここへ来ることができるのは、空っぽの心のお陰と、もう一度繰り返し忠告させていただきます。心が常に混乱していれば、すぐに神経の病気になって眠れなくなり、頭痛がして、精神分裂になって、死ぬか自殺します。それが空っぽの心の恩恵です。

 そして一日に、そういう時間は最高にたくさんあり、私たちの生活を直接潤しています。どうぞ空っぽの心、つまりこのように空がある物を知ってください。

 阿羅漢の心には断固とした空があり、みなさんたち凡人は断固としてないので、断固とした空になるまで、常に努力しなければなりません。そうなったら、「心が空なら空なだけ、能力も高くなり、苦が少なくなり、仕事が楽しくなる」という、次の真実を探求しなければなりません。

 私は三つだけ見本にしたいと思います。つまり心が空になればなるだけ能力があり、それだけ苦が減り、それだけ仕事が楽しくなります。空っぽの心は、自分、自分の物と執着する物がないので、煩悩がない心、純潔な心で、少なくとも常自覚と周到で繊細な感覚があります。

 そして心の自然では、意、あるいは精神、あるいは心、何とでも呼んでも、どれも「知る」という言葉に因んでいると、誰でも知っています。それの自然がそうなっているので、心を本来の状態にしておけば必ず知ります。

 今心はいじりまわされ、煩悩に支配されているので、憂鬱で暗く、心が本来の状態でないので、知ることができません。だから覆っている物を剥ぎ取って、変化させる物がないように本来の状態に戻せば、少なくとも知ります。

 他のすべての動物のように、それの自然を「何が何か」知れば、必ず苦を嫌い幸福を好むことを知ります。心には知る力があるので、畜生でも植物でも、食餌を求めることと苦を逃れることを知っています。

 だから実践に、それほど力を注ぐ必要はなく「心の本来の状態は空であり、知る力があった。妨害している物をなくすように努めれば、心には知る力がある」という簡単な教えを掴みます。みなさんの実践は、心を妨害している物を取り除くだけで、心は自然に成長する樹木のように、自然に成長発展します。

 心は自然にどんどん知るので、能力が増えます。これを「心が空になればなっただけ、能力が増す」と言います。そして苦は空でないことが原因、混乱していることが原因、欲望や取が原因なので、空になればなっただけ、苦が減ります。そして最高に空なら最高に欲望・取がないので、苦も最高にありません。

 「最高に仕事が楽しい」というのは、「俺、俺の物」があって「俺、俺の物」に取がある人は身勝手なので仕事をしたがらず、おまけに他人より得をしたいので、仕方なく、嫌々働くという意味です。

 たとえば給料を貰うために公務員になり、嫌々働いても楽しくありません。心が空でなく、心が「自分、自分の物」でいっぱいなので、頓着するのは給料の話だけです。心が空っぽの公務員は仕事のために仕事をし、自分、自分の物、欲望、取に頓着しないので、仕事は楽しく、時間を忘れ、夜更けも夜明けも気づかないほど仕事が楽しいです。だから心が空になればなるほど仕事が楽しいと言います。

 だからブッダは、私たちよりたくさんの仕事をしました。ある日ある晩、ブッダはどんなことをしたか、ブッダの伝記を読んで見てください。知られている以上です。中には暗記している人もいます。「ブッパナへー ビンタバータナチャ」、あるいはそのような物によると、仏弟子である阿羅漢の方々も、私たちよりたくさん働いています。

 その動きには、苦も、飽きることも、くじけて煩わしくなることもありません。その方々は、するべきことをする知性があります。だから阿羅漢がしたいこと、望むことは、空の心がしたいこと、望むことで、絶体にこれらの願望、希望を、貪欲、欲望、取と規定しないでください。

 明や智慧、知識、完璧な常自覚から生じた希望、望みなので、楽しく働くことができます。働くことが楽しくない、仕事嫌いな私たちと違います。

 私たちも、たまに自分に執着するのを忘れて、一時楽しく和やかに働くこともあります。その時も空っぽの心と呼びます。仕事が楽しいので明るく笑い、働きながら明るく笑います。空の心は笑うことができないと誤解しないでください。空の心は歌も歌えます。しかし何にも執着していないので、何でもできる常自覚です。

 だから、異性間の性的感情を味わっている最中でも、常自覚のある心で行動することを原則にし、煩悩、欲望、取で陶酔した心でしないでください。行動として非常に違いがあります。聖人は感情に常自覚で関わりますが、俗人、空の心について知らない愚かな人は、確実に煩悩、欲望による陶酔で関わります。

 だからどちらが苦を増やすか、どちらが苦を減らすか、よく考えるべきです。そして空の心は助けになるかどうか、後で考えてください。これを「すべての人の日常生活に関わる話で、ヒマラヤの空の向こうで話すことでなく、妻子や夫がいる家庭で、常自覚のある心でこうしなさい、欲望や取が混じってはいけません」と話さなければならないことです。

 もう一つ、「欲しがらなければ、欲しがらないほど手に入る」という真実の利益についてお話します。しかし人間はいつでも手に入れたい欲望・取があるので、何も手に入りません。涅槃を手にできません。みなさんは涅槃がほしいという欲望・取があるので、尚できません。

 人につられて無明で涅槃を欲しがるので、欲しがれば欲しがるほど得られなくなり、何としても欲しいと思えば、ますます得難くなります。無知で欲しがるので、その「欲しい」というのが煩悩・欲望なので、更に涅槃から遠のき、欲しがらなければ欲しがらないほど得ます。

 つまり欲しいという欲望・取がなければ得られ、欲望・取がなければ、それ自体が涅槃を得ています。欲しがっていない時、涅槃の味を味わっています。だから「欲しがらないほど得る」と言います。

 次に、最高に欲しがらなければすべてを得られます。最高に欲しがらないとは空の心、空っぽの心という意味で、何も欲しがらなければ、最高にすべてを得ます。その時は一種の涅槃で、苦はまったくありません。これをすべてを得ると言います。

 もっとはっきり言えば、欲望、取がない阿羅漢は、まったく欲しがらない人なので、すべてを得たことを意味します。つまり完璧な涅槃を得ました。このような言葉は、聞いたことがない人にとっては難しいです。しかし最高の真実なので、持ち帰って後で良く考えてください。欲しがらない人ほど手に入れ、最高に欲しがらなければ、空ならすべてを得ます。これが空の利益です。

 無理にもっと混乱すればすべて反対になり、「無知がブッダ」、あるいは「無明が釈迦牟尼」に見えます。その人に無明があれば、釈迦牟尼、あるいはブッダを欲しがり、無明が無くなれば何も欲しがらないからです。

 無明がなくなれば釈迦牟尼もないので、ブッダに関わる何らかの期待、あるいは「何々したい」という気持はありません。何も望まないからです。欲しい物と無明はいつでも一緒にあるので、そういうタイプの人のブッダは無明で、そのタイプの人の無明は釈迦牟尼です。

 この言葉を愚弄、あるいは罵り、あるいは何かと捉えないでください。最高に執着する人にとって、無明がブッダというのは真実です。

 しかし空の心がある時は真実のままに見え、何も欲しがらないので、ブッダも消え、釈迦牟尼も消え、本物のブッダになります。しかし私はそれを「空」と呼びます。本当に空であることが本当のブッダです。あらゆる煩悩、欲望、取がない状態が本当のブッダです。しかし私はブッダと呼ばないで、空と呼びます。

 聞いて意味が分からなければ、後で考えなければなりません。そう見えれば、非常に時間の節約、非常に近道と言えます。人間はいろんな執着する物に関わっていますが、特にブッダはそうだからです。

 そのブッダは、取にすぎないのに、私たちはブッダを捨てようと思わず、考えません。取が厚くなればなるほど、厚い取のブッダがいるので、私は「その種の人にとって、無明が釈迦牟尼」と言います。

 次に取の多い人は、ボーディ(菩提)と煩悩が違って見えます。ボーディとは知識、悟ること、煩悩とは愚かさ、明でない方へ迷うことで、大胆に考えれば、どちらも同じ自然の知識、心の自然の知識と見ることができますが、一方は苦になり、一方は滅苦になります。しかしどちらも心の知識、考え、思いです。

 次に、仮に人間が滅苦だけを欲しがり、苦でない側だけを求めてボーディ(菩提)の側の知識だけを掴み、それ以上の物はないほど煩悩の側の物を嫌悪すれば、それは新たな取を作ることです。以前にはなかったのに、嫌悪が一つ、愛好が一つ、新しい取を作ります。だからその人にとって、その人の煩悩はボーディであり、ボーディは煩悩で、それ以上ではありません。中身はそうです。

 自然では、昼や夜などの小さなことも、惑わされて同じに見えず、反対に見えます。しかしもう一面から見ると、どちらも時間であることが分かります。世界よりずっと上からこの世界を見れば、昼や夜の問題は、マヤカシ物の子供の玩具に見えますが、この世界にいると、昼と夜は絶体的な真実に見え、更に正反対に見えます。人間の知性が囚われているからです。

 だから勇気をもって、煩悩とボディは同じ物、つまりどちらも自然の心の知識、本来の心、元来の心だが、別の物と知っただけと見える系統まで戻らねばなりません。

 どちらも知ることの自然にすぎませんが、偶々一方の知識が人間の欲求と一致すると、「良い、善だ、良い側だ、求めるべき物だ」と決めつけます。それを依怙贔屓と言い、まだ依怙贔屓をしていれば、取があるということです。

 取がなくなれば、煩悩もボーディもどちらも欲しくなく、どちらも払い捨てて心は空っぽになり、そして本当のボーディになり、苦の上にいることができます。

 ここまで来られる人はいるでしょうか。ここまで来れば「煩悩とボーディは同じ物」、あるいは「無明と釈迦牟尼は同じ物」と大声で表明します。これは取を非常に良く知っている人という意味で、その後、取に騙されることはありません。これは、まだ理解できないこととして、持ち帰って熟慮していただきたいことの八番目です。




 九番目はそれほどありません。繰り返したいこと、懇願したいことだけです仏教には、鵜呑みに信じることはあり得ません。仏教では、決して何かを鵜呑みに信じないでください。「あの人がそう言うから、私はそう信じる」というように、簡単に信じて身を任すことは、仏教にはありません。無理にそうすれば仏教でなく、仏教の世界にはいません。

 みなさんは自分を信じなければなりません。自分で見て、自分で実践して、自分で結果を得て、他人に頼らず自分を拠り所にするので、他人を信じる必要はありません。述べたように、ブッダの言葉でもすぐには信じてはいけないと理解し、自分の見解になり、明解になり、自分の道理になってから信じます。これを「自分で信じ、自分で見、自分で実践し、自分で結果を得、自分を頼る」と言います。

 だから仏教には「教義」と言われる物はありません。ここで言う教義とは、「ただ鵜呑みに信じるために規定された物」という意味で、信仰を基礎とする宗教には、dogma,settled opinion と呼ばれる物があります。つまり厳格に規定された結論で、確定的な物であり、批判や反論を許しません。

 仏教にはそういう物はあり得ません。たとえばみんなで結集して三蔵の教えを取捨選択して編集し、暗誦するための文章、言葉として規定し、そして断固として信じさせ、ドグマにすること。そういうことはできません。仏教ではありません。敢えてすれば、途端に仏教でなくなります。

 だからどんなに正しい論理的な教義である教えを並べでも、それを強制して信じさせることはできないと言います。

 ブッダはカーラーマ経で「自分の先生が言ったことでも信じてはいけない。教典にあるからといって信じてはいけない」と禁じられています。このように、ブッダ自身の口から出た言葉も信じないと言うほど、はっきり見えています。

 無理にドグマティックな方法をとれば、仏教ではありません。本当の仏教でなく、新しい仏教になり、かけ離れた肉腫の仏教です。

 だからみなさん、アビタンマを学ばないと地獄へ落ちるとか、危機を脱したい人はアビタンマを学ばなければいけないと言う必用はありません。そう言えばドグマになります。彼らが自分自身で見て、そして滅苦が可能な物を掘出すよう教え、そして自分たちも勉強しなければなりません。

 こういうアビタンマ、ああいうアビタンマと言い、勉強しないと地獄へ落ちると言って強制しないでください。そのように間接的なドグマにしないでください。仏教でなくなってしまいます。好く言われている、信じることを強制する言葉はまだ他にもあります。仏教には、仏教界にはあるべきでなはありません。私はそう考えます。これが九番目です。


10

 最後の話は、申し訳ありませんが、個人的なことと捉えないでください。自らプッタタート(ブッダのしもべ)と名乗る人物は、ブッダの足元に生れたすべての埃の中のたった一粒の埃でしかないと言わせていただきます。「生れた」という言葉を使わないと、執着に見えます。

 誰にもその気がなくても、それ自体が発展していくので、私のことをああだこうだ、重要人物になろうとしている、目立とうとしている、注目されようとしている、などと見ないでください。能力の限り己の勤めを果たすために、ブッダの足元に生まれた埃の一粒でしかないと見るべきです。

 だから、私が言ったことを信じる必用はありません。ブッダも信じないように言われているのですから、私が言ったことは、尚更信じないでください。誰が言ったことでも良いので、もし利益があった時のために、どうぞ持ち帰って考えてください、と言うだけです。

 だから話したことは全部、私とは何も関係ありません。「私たちがまだ理解していないこと」という時の「私たち」とは、比丘も比丘尼も清信士、清信女も、すべての仏教教団員という意味です。もしいるなら。

 だから誰かの問題と捉える必用はありません。いろんな抗争は、実践の有り方、あるいは実践の発展の障害になる、あるいは仏教の存続の障害になると考えなければなりません。このような争点は非常に大きな障害に見え、非常な悪に見えます。

 ブッダは「ブッダの教団は、罪や破戒から出るよう、お互いに忠告し合うことによって発展できる」と言われています。何か悪である物があれば、協力し合ってそれを取り除き、そして教え、説明し、話し合いができなければなりません。今私たちは説明して話し合いができません。

 大乗は大乗の考えがあり、テーラワーダはテーラワーダの考えがあり、どちらも取ばかりです。本当の仏教は大乗でもテーラワーダでもありません。もう一度繰り返させていただきます。本当のブッダの仏教は、テーラワーダでも大乗でもありません。

 テーラワーダもまだできたばかりで、テーラワーダであるいろんな物を追加し、大乗もできたばかりで、もっと後にでき、そして大乗であるいろんな物を修正追加しました。しかしどちらも善意でしました。

 争点があるのは、取で「俺、俺の物、あの人、私」になるから協力できません。仏教はしかるべき発展ができません。いろんな教義が生まれるのも、食い違う考え方からで、大乗は何十もの教義に分かれ、テーラワーダも分派して、そしてあれこれ別れて一致団結することができません。まだ誤解していることがあるからです。

 「まだ誤解していること」と言うのは、我慢できるように見えまが、話はそのようではありません。今理解していないと感じることは、どのようにしても理解し合えません。それは更に長くなり、死んで別れる時まで理解できず、どちらの仏教も一緒に沈没するまで、理解することはできません。

 このすべてが、まだ理解できていない、あるいは誤解していると感じるものです。すべては、どちらが正しくどちらが間違っている、誰が正しく誰が間違っている、あるいは私が正しいとか間違っているとか、あるいは他の誰かが正しいとか間違っていると、発言するものではありません。

 初めに申し上げたように、絶対に、誰が正しいとか誰が間違っているとか考えないでください。それは煩悩、欲望、取の話なので、「何が正しいか何が間違いか」と考えてください。

 あるいは何が正しいか、何が間違っているかとも考えないで、ブッダは「何が滅苦か、何が滅苦でないか」と考えるよう望んでおられると考えてください。

 どういう知識、考え、行動、実践が滅苦で、どういう知識、考え、行動、実践は滅苦でないか。対になった正反対の物の中で「述べて来た話はどちらの考えか、どういう行動が滅苦に至るか」と考えます。そうすれば、今日私たちが会ったことから、大きな利益を受け取ることができます。

 だから述べたすべては、持ち帰って後で熟慮していただき、どちらが利益があるか自分で選び、何も残さず、全部、敵対し合うのを止めるようお願いするばかりです。ちょうどよい時間なので、これで終わらせていただきます。




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