2.空の話





1960年2月12日

 今から、初めに掲げておいた滅苦の重要性を説明するブッダバーシタ(ブッダの言葉)でお話をさせていただきます。今日は苦を絶滅させた人である阿羅漢を偲ぶ日なので、心で阿羅漢のことを考え、阿羅漢の恩を崇め、自分の心を苦のない空にします。

 そして要旨として、苦の完全な消滅について述べているブッダの言葉は、当然、このような日に心を阿羅漢にしようとする人にとって利益があります。

 だからこれからお話するテーマとして、ブッダの言葉である「空」、つまり何もないことを選びました。内容をしっかり把握するために、みなさんしっかり聞いてください。少なくとも、仏教の非常に難しい話と見なされている空について、あるいは仏教の、同じように最高に高いな阿羅漢について理解してください。

 通常理解は、私の説明の仕方と、みなさんがどれだけ真剣に聞くかに掛かっています。だから普通の話について述べても、これは阿羅漢に関係がないと軽視しないでください。

 昼前に、火には火を消す水が必要なように、凡夫には阿羅漢の話が必要と話したように、火に焼かれていない人は、使い道がないので水を欲しがりませんが、火に焼かれれば非常に水を欲しがります。人間も同じです。凡人なら凡人ほど苦が多いので、阿羅漢が滅苦に使うタンマを欲しがります。だからできるだけ自分の能力にふさわしい、そして自分らしい苦のある人でいてください。

 今日は空、つまり空っぽについてお話しするのは、みなさんが簡単に理解できるかも知れないからです。空というものを理解するのは、何も難しくはありません。空はどう重要か、どうして誰もが好むのかを考えて見てください。

 誰でも空いている時間は好きです。忙しく働く時間は、誰も好まず、仕事のない時間は誰でも好きです。もっと簡単に言えば、妨害する物、混乱させる物がない空っぽの時間は誰でも好きです。誰もが空いている時間を好み、混乱している時間を好まないと言うことができます。

 誰もがこのように空いていることを好むのに、お寺へ説教を聞きに行こうと誘われると「暇がない」「説教を聞く暇がない」「タンマを聞く暇がない」「お寺へ行く暇がない」と答えます。そして自分自身を騙すようになります。空いていることは好きだが暇はない。お寺へ説教を聞きに行く暇はありません。

 しかし森へ草摘みや魚や蟹を獲りに行こうと誘えば、誰でも空いています。空を探すために、涅槃を勉強するためにお寺へ来るよう誘うと、全然空いていません。時間がないと断ります。このように自分を騙すので、愚かさ、迷いに沈んでいて、空いている時間、覚める時間がありません。

 考えてみてください。空の話は、私たちが学ばなければならない一番大切な話です。言い方を変えれば、「究極の空は涅槃である」とブッダの言葉にあるように、空の話は涅槃の話です。涅槃は最高に何もないという意味です。最高に何もなければ、それが涅槃という意味です。

 空でなければ輪廻、あるいは地獄です。時々空っぽになったり、時々空でなくなったりならまだマシで、人間として何とか見られます。だから空について興味を持って、段階的に最高の空、究極の空である涅槃にも興味をもってください。

 もう一つ、述べた空は仏教の本物と知らなければなりません。ブッダが一人の清信士に、重要な要旨がそのまま題目で、『私の言った言葉であるすべての経のどの部分も、非常に深遠な意味があり、世界の上にある空だけで成立している。誰も時に永遠に到達しなさい』と話されています。

 「空について述べた本当のタンマこそ、誰もが必ず、永遠に到達しなければならないもの」という意味です。

 「時に」というのは良い時機にという意味で、「永遠に」というのは、空の中にいられる間だけという意味です。しかし最も重要なのは「如行が言った言葉」というのは、後世の弟子が言った言葉ではありません。これは、仏教の教えには二種類あると知っておかなければなりません。一つは本当のブッダの言葉、つまりブッダ自身が言われた言葉で、本物です。もう一つは後世の弟子が言った言葉です。

 この二つの違いは、ブッダが言われた言葉は空だけに関わり、つまり直接空について述べている物だけで、深遠で、味わい深く、世界を超えています。後世の人たちは空について述べず、聞いた人の心を捕らえる美しい言葉で綴って創作し、聞く人にへつらって「ああするよう、こうするよう」誘う、混乱させる美辞麗句で、空に誘いません。

 どう違うか考えて見てください。ブッダは空に誘っていますが、後世の弟子たちは、混乱へ誘っています。死ぬまでてんてこ舞いして、棺桶に入るまで大騒ぎをしても、混乱が終わることはありません。しかし如行の言葉は、空だけがあります。どう違うか、良く考えて見てください。

 だから私たちは、何もない空についてしか語られなかった、ブッダの言葉の代表である話に興味を持たなければなりません。それはなぜでしょうか。それは、究極の空は涅槃だからです。だからブッダは涅槃について教え、空について教え、混乱については教えられませんでした。

 「ああしなさい、こうしなさい、そうすればこういう結果がある」というのは尽きることのない混乱です。しかし空の話は何もないので静止しています。だから私たちは空を選ぶか、それともてんてこ舞いを選ぶかということに自信を持たなければならないと、自分で考えて見てください。

 混乱し、混乱がどんどん酷くなったらどうなるでしょう。少なくとも憂鬱になり、酷くなれば神経の病気になります。もっと酷くなれば精神病院へ行かなければなりません。心の中が混乱して終りがなければ、精神病院へ行くのは避けられないと、誰でも考えます。これが何もないことてんてこ舞いの違いです。

 空を選ぶか混乱を選ぶか、良く考えてください。ブッダの言葉にも二通りあります。『サンカーラ(作られた物という意味。心身を指すこともある)は非常に苦である』というのは、てんてこ舞いしているからで、どうしてそうなのかは、パーリ語の知識のある人は良く分かります。

 サンカーラという言葉は作る(あるいは加工する)という意味です。サンは同時に、カーラは作る、サンカーラは同時に作るという意味で、終わりません。何でも作ります。サンカーラとは作る物、あるいは作られた物という意味です。そしてまた他の物を作るので、空にはなれず、混乱するだけです。

 だから作られた物という意味のサンカーラは、混乱する物という意味です。何かを終りなく続ければ、何かを休まず手を加えていれば、それは混乱であり、空ではないと簡単に知ります。「サンカーラは最高に苦」というのは、休まず混乱している、つまり「休まず作ることは非常に苦」という意味です。

 正反対は、「涅槃は最高の幸福」で、滅尽、あるいは最高に穏やかなこと、あるいは述べたような究極の空は最高の幸福です。あっちは最高に苦で、こっちは最高の幸福です。最高の幸福である物を涅槃と言います。涅槃と呼ばれるものは「究極の空は涅槃」と言われるように、最高に何もありません。だから簡単に、充満は非常に苦であり、空は非常に幸福と言うことができます。

 明らかに見えること、あるいは日常生活で明かに見えるのは、いつでもいっぱい詰まっている時は非常に憂鬱で、空っぽの時は、一時的でも穏やかに落ち着いていることです。混乱していれば苦であり、空っぽなら苦はありません。

 なぜみなさんは空を好まないのでしょうか。お寺へ来るよう誘うのは、空の勉強をして、涅槃の話で空になるためなのに、なぜ「暇がない」と答えるのでしょう。しかし貝や蟹を獲りに行こうと誘うと、どうして暇がたくさんあるんでしょう。

 それは、てんてこ舞いすることに誘うと行く時間があり、本当の空、本当に素晴らしいものに誘うと、来る時間がないという意味です。ほとんどの人は、ブッダの言葉であるタンマを学ぶのは、魚や蟹を獲ることほど、家で仕事をすることほど必要でないと考えているので、だから聞きに来るのを、教えを聞くのを断ります。特に空の話はそうです。

 良く考えてください。大混乱と何もないのと、どちらがどんな利益があるでしょうか。ブッダの言葉を基準にすれば、当然「空こそが仏教の核心」と分かります。仏教の最も高い話であり、涅槃と呼ぶ最高の幸福の話です。

 だからこれは、ブッダの話、ブッダが直接言われた話、ブッダが直接誘っている話です。後の時代のあの人この人の誘い、あの方この方の教えと違います。だから空について適度に話すということです。

 初めに、ブッダはこの空の話を誰に話されたかを考えて見ます。森に住む僧たちだけに話されたのでしょうか。そうではありません。パーリ三蔵の中で、みなさんのような在家の人がブッダに拝謁して、「恒久的な幸福になるタンマを説いてください」と言った時に話されています。

 彼らは「私たち在家の弟子は、子や妻や、花や香や香料に囲まれていますが、恒久的な利益になるタンマを説いてください」と、はっきりと言っています。在家でもこのように望むので、ブッダは、これがブッダの言葉であり、深遠なものであり、世界の上にある物とブッダ自身が捉えられている空の話をなさいました。

 このことから、空の話、何も無いこと、あるいは涅槃の話は、在家向けの話でもあるということが明らかです。森や密林や洞窟や山に行く(念処等をするという意味)僧たちだけの話でなく、家で妻子や夫に囲まれている在家も、空に関する知識が必用とブッダが言っわれています。

 理解できなければ、初めに言った言葉、「最高に涼しさを求める人は、最高に暑い人」という譬えを、もう一度考えて見てください。一番苦がある人は誰でしょう。一般庶民じゃないでしょうか。森や山にいる僧たちは、どこにいる人よりも苦が少ないです。家に居る人たちが一番苦しいので、家に居る人たちが最高に涼しさを求めます。そうすれば正しく、話が合います。

 だから真剣に本物のタンマ、あるいは本物の宗教を探すことを、もう一度考えてください。それは本物であり、直であり、教祖の物である空の話です。混乱することに迷わされないでください。他人の目をごまかすのが得意な人は、いろんなことを考えて、書いて教え、自分の利益のために自分と同じ混乱に誘います。

 空の話は神経の病気になるほど、あるいは個室に収監する病院へ行かなければならないほど混乱している人のためものです。だから神聖な道具に依存する、つまり空を、家にいても神経を病んだり精神病院へ行かなければならないほど、混乱したり苦しまないようにする防具にします。心を空にすることを知りなさい。そうすれば、清潔で明るく穏やかなのは当たり前、疑うべくもありません。あるのは善と美と発展だけです。

 あるいは聖人と言うなら、ここでは聖人にしてください。美しさ、金持ち、出世を生じさせる話にしないでください。それです。酷くなると精神病院へ行かなければならないのは。偉くなる、金持ちになることが病院へ連れて行きます。神経の病気になって、何時までともなく薬を飲まなければなりません。

 空、清潔、明るさ、そして穏やかさの話なら、誰もそうなりません。穏やかに落ち着かせます。その種の病院へ行く必用も、薬を飲む必用もありません。ローグッタラ(脱世間)という最高の薬を飲めるからです。つまりプラタム(ブッダの教え)です。だから怖がるべき物でなく、勇敢に採り入れるべき物です。「空っぽで何もない」と考えないでください。

 それは何もない空っぽではなく、すべてを与える空っぽです。混乱する話はすべてを失ってしまいます。ブッダの空は、人間が得るべき最高の物がすべて得られます。これが興味を持たなければならない物で、関心を持つべき、熟慮しなければならない角度です。私たちは幸福を求めながら混乱や苦を好み、空を嫌うほど愚かです。これは滑稽で、明らかに自分を騙す行為です。

 それでどうして穏やかさに巡り会えるでしょうか。本当に心の静かさを求めるなら、混乱を避け、空の方を向かなければなりません。しかし何が確実に混乱する物で、何が本当の空かを、良く考えて見る智慧が必要です。間違って「混乱する物」を「空」と見てはいけません。あるいはブッダよりも混乱を崇拝してしまわないでください。

 てんてこ舞いしていて、空を教えるブッダのタンマを聞きにくる時間がない、そういうのを混乱と言います。それでブッダを理解する時間がなく、ブッダの教えを実践する時間がないので、死ぬまで大混乱します。それで人間が得るべき最高の物が得られるでしょうか。あるいはブッダの教えの何が得られるでしょうか。

 自分は仏教教団員で仏法僧に帰依していると言い、口だけです。ただ「私は信仰している。私は得た。私は到達した」と言う以外にも見合った利益があるのに、仏法僧から何も貰わないのですから。

 もしまだそうしているなら、まだ今まで通り混乱しているという意味です。時にはもっと混乱するかもしれません。みなさんは口では仏法僧を信仰していると言いますが、「混乱した心でわざわざその言葉を口にするより、黙っている方が良くはないですか」と言わなければなりません。みなさんが、人を阿羅漢にする空と呼ぶものの恩はどのようか、特に良く考えてくださるよう望みます。

 ブッダの言葉の一文を根拠にすれば、『モッカラーチャよ、いつでも世界を空と見るサティのある人でいなさい。自分という考えを抜き取ることができた時、閻魔大王より上にいる人になります。あなたが世界をそう見れば、閻魔大王にはあなたが見えません』という言葉があります。解説すれば、「いつでもすべての世界を空と見ることができ、「自分、自分の物」という執着を抜き取れる人は、死より上にいる」です。

 ここで言う死とは善が終り、困苦が終わること、つまり生老病死の話の混乱が終わるという意味です。つまり死ななければなりません。体が死んで柩に入ることも死と言います。あるいは心の面が衰弱して低下し、苦だけが重なり、暇や穏やかな時がなければ、それも死と呼びます。死んだ人より苦しい結果で、地獄の動物と同じ苦に耐えなければなりません。つまり苦だけで、常に混乱していて、それは死んだ人以上です。

 だから智慧のある人が、死の上にいるいろんな方法を考えました。その人がブッダに会って死の上にいる方法について尋ねると、ブッダは同じ話、つまり空を与えました。つまりブッダは空の話だけを教えられたという意味です。何でも空の話ですが、いろんな呼び方をしています。

 涅槃と呼んでいるのもあれば、滅苦と呼んでいるのもあり、すべての物の上にいると言うのもありますが、これらはすべて空です。空ならば苦もなく輪廻もなく、生も老も病も死もないからです。だからブッダは「世界を空と見なさい」と言われて、その人に空を渡しました。

 世界という言葉は短い言葉ですが、一語で例外なくすべての物を意味します。この世界も、どの世界も、梵天界も、天人界も、悪魔界も、地獄界も、すべてをひっくるめて世界と呼びます。この世界、あるいはどの世界にある形・声・臭・味・触も、これらも世界と呼びます。

 世界にいる人は、形・声・臭・味・触を味わうことに意味があるからです。もしこの世界に形・声・臭・味・触がなければ、この世界に生まれたがる動物はいません。しかしこの世界には形・声・香・味・触という意味があるので、すべての動物が執着します。

 つまりこの世界あの世界に生まれたい欲望で、特に欲望の餌がたくさんある世界にです。人が一生懸命善行をして天国の宮殿に生まれたがるのは、上等で高級な形・声・臭・味・触が欲しいからです。それもこの世界の物と同じ、天の形・声・臭・味・触で、ただ上等なだけだと知りません。

 これらの形・声・臭・味・触は、空にするでしょうか、混乱させるでしょうか。考えてみてください。この世界の、あるいは自分の家の形・声・臭・味・触は空にするでしょうか、混乱させるでしょうか。どこの形・声・臭・味・触が混乱させないで空にするでしょうか。

 田畑の仕事に耐え、いろんな事をし、あれこれ求め、あれこれ維持するのは、形・声・臭・味・触のためです。天国を望むのも、上等で高級な形・声・臭・味・触のためです。つまり形・声・臭・味・触以外に何もないということです。

 それは空の話か混乱の話か、考えて見てください。天国の形・声・臭・味・触を見ると、宮殿がありお付きの者がいて、あれこれ色々で、それで空の話でしょうか、混乱の話でしょうか。良く考えて見てください。これです、「世界のすべての物は空であると、真実のままに見なさい」というブッダの言葉を理解できます。

 世界を混乱の物と見ないでください。自分が誤解して混乱と考える人は混乱します。しかし真実のままにハッキリ見る知性があれば、それを空にできます。空と見えるよう熟慮すると言うのは、熟慮することを知らず、そう見るように考えなければ、永久にてんてこ舞いの物です。空と見るよう熟慮させるのは「それは一時的な物、私たちを騙す物」と見るよう熟慮させます。

マヤカシ物、あるいは騙す物は人を幸福にするでしょうか、何処にも自分はありません。マヤカシである物は欺瞞する物で、本当の実体はないので、混乱を意味します。混乱には本当の実体はありませんが、本当にある、実体があると思い込みます。

 逃げ水や蜃気楼を見た人が「あれがあった、これがあった」と言うように、欲望や煩悩で呆けている人は、これらの混乱が本当にあると考えるので、空と見ることができません。いつか完璧なサティが身につき、世界を空と見られるようになるまでは。

 これは、自我という考え、つまり自分があるという誤解を取り除くことができ、マヤカシ物、欺瞞する物と見られれば、自分、自分の物という勘違いを抜き取ることができるという意味です。しかし今、みなさんは自分という執着を取り去ることができたでしょうか。

 みなさんの家の中は、「俺」と「俺の物」で溢れていると考えて見てください。あれは俺の物、これも俺の物、お金も俺の物、金塊も俺の物、どこへ行っても俺と、俺の物という言葉しか聞こえてきません。その声こそが自我の考え、まだ勘違いがあって、すべての物を「自分、自分の物」と執着しているアッターヌディティ(我随見、有身見)です。

 それでは空にはなりません。まだ「これが自分。これは自分の物」と捉えていれば、対処しなければならず、作らなければならず、片付けなければならず、維持しなければなりません。何より苦しまねばなりません。体で対処し、片付け、維持するのはあまり重要ではありませんが、心が混乱するかどうかという点が重要です。

 体が混乱することを、ブッダは混乱とは呼びませんが、心も一緒に混乱すれば混乱と呼びます。だからその心に対処しなければなりません。身体的なことは重要ではありません。本当の苦、あるいは本当の混乱は心にあります。

 作り上げた物、あるいは作り上げること、あるいはサンカーラと呼ばれるものは心にあります。つまり欲望や煩悩で考える心にあります。それが作り上げた物、あるいはサンカーラです。考えれば作るので、これも同様に作ることです。

 心は作っているので、いつも考えています。いつも何かを心配し、憂慮して、いつも何かを渇望しているのは、いつも気掛りがあるという意味です。常に作っていて空は全然なく、混乱ばかりです。これがアッターヌディッティの結果です。つまり何かを自分、あるいは自分の物と誤解するので、このように混乱しなければなりません。

 自分があれば、苦に支配され、死と呼ぶものに支配されます。しかし自分を消滅させ、払い落としてしまって空にすれば、苦や死は誰も支配できません。自分がないからです。ブッダは『自分という執着を抜き取った者は、死より上にいる人』と言われています。

 世界をこのように空と見ると、死はその人が見えません。つまり死はその人を捕らえることはできません。空になるだからです。その人も世界も空なので、死や閻魔大王も捕まえることができないくらい空、何もないということです。真実の面から言えば、その後は苦に支配される自分が残っていないので、このように自分を空の物にしてしまうことが、すべての苦と死に勝利する道ということです。

 自分を空の物にするには、石臼に入れて粉々にして、それから燃やして煙にしてしまわなければ空にならないという意味ではなく、知性で何かを自分、自分の物と捉えないようにすることを意味します。

 体は体にすぎず。心も心にすぎず。チェッタシカ(心にある物)はただのチェッタシカにすぎず、自分である部分、あるいは自分の物は何もありません。このようなら自分に執着しないので「空がある」、あるいは「五蘊に空を見ると言うことができます。自分を捉えないので、純潔な五蘊です。

 煩悩と欲望と自分への執着がいっぱいの五蘊は、空でない五蘊で、苦に捕まえられる自分、苦に覆われる自分、死に踏み潰される自分があります。空にすることを知らないから、いい気味です。生まれてから死ぬまで、苦と困難しかありません。みなさんは「空、本当に何もないことは涅槃」という、ブッダの言葉で見ることができます。

 涅槃は本当の空です。死からも苦からも逃れられるのは、空になることだけだからです。それが涅槃という意味です。だからブッダはどこででも、空、何もないことを涅槃という意味に、あるいは涅槃の代わりに話されています。空は人を空っぽにして、純潔な五蘊だけにする道具です。その後は自我という考えがないので、苦や死の基盤でなくなります。

 別の機会には「自分がなくなれば、あるいは空が見えれば、あるいは空に満足すれば、心はアーヤタナ(処)を喜ぶ」と言われています。この場合のアーヤタナは涅槃という意味です。つまり私たちは先ず、空を穏やかな幸福と考えなければならず、そうすれば涅槃を喜びます。

 この真実が見えなければ、涅槃に満足できません。涅槃に満足すると言っても、それは口だけで、何か良く知らない物について話すことです。他人が「良い。崇高だ。素晴らしい。最高だ」と言うのを聞いて、真似して欲しがります。涅槃がどんな物か知らないのに、人まねをして涅槃を望む人です。しかしブッダは『空の良さが見えた時、その人は本当に涅槃を喜ぶ』と、つまり正しい意味で好む、と言われています。

 空と混乱はどう違うか、初めからもう一度比較して見てください。まだ迷って混乱しているなら、利益のない涅槃の話はしないでください。心は涅槃のことを好きじゃないんですから。しかし空を好むようになれば、涅槃に満足します。

 正しく空を理解し、正しい意味で空に満足すれば、心も涅槃に満足し、疑うべくもなく涅槃の方向へ流れて行きます。空の良い点を好むようになれば「その人は智慧によって現世で解脱する」とブッダが予言されています。つまり現世で智慧によって解脱(パンヤー ヴィムッティ)した阿羅漢です。

 少なくとも無所有処である「何も欲しくない。なりたくない」という生き方に到達します。無所有処と言うのは、なりたいもの、欲しいものは何一つないという感覚、という意味です。このような感覚で生きるようになれば、苦が支配することはできないと見なします。ブッダも、ブッダ自身も空で暮らしていました。そのようなブッダの空による暮らしを、スンニャターヴィハーラ(空精舎)と言います。

 ブッダはプラアーナンダに「私もほとんどの時間はスンニャターウィハーラにいる」と言われています。スンニャターヴィハーラは、建築された建物ではありませんがヴィハーラ(精舎、お寺)と呼びます。暮らし方という意味です。スンニャターは空という意味で、何もないと感じる暮らし方です。

 何もないことがスンニャターヴィハーラです。ブッダも、ブッダでさえ、スンニャターヴィハーラにおられました。つまり何もない心で、何かを自分、あるいは自分の物と捉えないので、大混乱になることはありません。

 ブッダはあちこちへお出掛けになり、休みなくあの人この人に教えなければならないので、非常に疲れますが、まったく混乱はありませんでした。心に欲望や煩悩がないので、心の混乱はありません。それに心が混乱しないので、体もてんてこ舞いしません。体が普通に動き回るだけで、「混乱」の意味はありません。だからブッダが静かに座られていても、どこかへ向かって歩かれていても、全部スンニャターヴィハーラにいる人と言います。

 しかしここで意図しているのは、何もしなくてもよい暇な時間があったら静かに座って、心の中をより空っぽにすることです。つまり煩悩や欲望や、すべての物をなくします。大悟したことから得た空です。このような空で満たすと、穏やかな幸福になり、体が透き通らせます。

 空が心を安楽にし、体を透き透らせるというのは、サーリープッタに話した経で知ることができます。サーリープッタの皮膚が透きとおって艶が出てきたので、それについて質問した時、ブッダは「それは空です。空で暮らすことが皮膚を透きとおらせます」と観察を勧めました。このような状態の空を、ブッダはマハープリサヴィハーラと呼ばれました。

 マハープリサヴィハーラとは偉人の精舎のことで、偉人の精舎とは、空あるいは何もないことです。何もないこと、あるいは空は偉人の精舎です。この精舎に住むことができれば、何も苦はないので、皮膚が透きとおって艶が出てきます。あるのはいつでも穏やかに静まっていること、清潔、明るさ、静かさだけです。

 心も体も透きとおってくるので、皮膚が澄んで艶が出ます。恒常的に空の中にいるので、スンニャターヴィハーラあるいはマハープリサヴィハーラです。

 しかし実践に関して言えば別の呼び方、「パラマヌッタラ スンニャター」があります。これはニミッタのない集中した心という意味で、三種類の煩悩から抜け出ている澄んだ心、究極の空という意味です。それ以上の物がない空。つまり空以外に何も捉えている物(ニミッタ)がないサマーディで、すべての煩悩から解脱させる空があります。

 こういう状態を、どの時代のどの人たちも、いつでも一番崇高と見なします。この宗教でもどの宗教でも、いつでも必ず「空」を最高の物とします。そしてこの時代もどの時代も、ブッダの時代も現代も、あるいは未来の時代も、すべての物より特別に崇高な物です。

 だから『すべての智者は、涅槃は最高の物と言う』、あるいは『ボロマタム、つまりすべてのタンマより崇高なタンマ』とブッダの言葉にあるように、空を最も崇高な物と見なしします。

 涅槃とは空です。述べたような究極の空のことです。だから空と呼ぶ物が最も崇高な物です。人を穏やかな幸福にし、皮膚を透明に艶やかにする、ブッダでさえ空の中におられるという、心に銘じるべきタンマです。だから誰もが興味をもって学び、理解し、常に生じさせて心の基礎にしなければなりません。空を目指すだけで十分です。

 いろんなことを話す必用はなく、いろんなことを考える必用もなく、いろんなことをする必要もありません。考えるのも、話すのも、するのも空だけ、空でいるだけです。重要なことであり、最高のことであり、すべてがこの中に集約されているからです。そして空でない時は混乱なので苦があるという、私たちに本当に関わる問題です。空になれば、その時快適になります。

 だからはっきり言えることは、幸福でないのは空でないからです。空になれば幸福になります。どうぞこの教えを手掛かりにして、それから本当の空に到達するまで、次々に手掛かりを探していってください。少なくとも「空なら幸福であり、幸福なら空があるから」と信じなくてはなりません。

 次はなぜ空でないのかという問題です。タンマで答えれば、空でないのは混乱しているからです。つまり次々に混乱を作り出していて、休もうとしません。どこで何を作っているのでしょうか。

 私たちは煩悩や欲望で考え、これは私、これは私の物と執着すれば煩悩や欲望があります。こうしたい、ああしたいという渇望があります。渇望で何かをするのはこのように考えるからで、だから空でなくします。

 考えたり作り出したりする欲望煩悩を持たないでください。そうすればすべては空です。身体は何をしていても、考えて作り出さないので、心はすっかり空です。考えるというのは煩悩や欲望で作る(加工する)ことであり、知性で作ることではないと良く理解し、良く憶えておいてください。

 知性が来れば作り出しません。考える身心である必要はありません。空にすることを知っているので、空の方へ変化します。しかし知性が来なければ煩悩と欲望が来るので作ります。混乱になります。だから、空でないのは考えるからなので、煩悩や欲望で考えることを完全に、あるいは可能なかぎり追い出さなければなりません。

 次になぜ考えるのかを考えて見ます。それは対の物に騙されているからです。この対の物は、誰でもどちらかに溺れています。この対を熟慮して見れば、すぐに何が知ります。一番多くの人が迷う対は、善と悪、徳と罪、幸と不幸です。

 みなさんはこれらの対を誤解しているか、あるいは溺れています。この対はたくさんあります。金持ちと貧乏。これも対です。得と損。これも対です。勝者と敗者も対です。得ること、失うことも対です。何もかも対になっています。男性と女性も対で、好きと嫌いも対で、満足と不満足も対です。香しい物と臭い物、響きの良い音と耳障りな音、美しい物と醜い物、これらはすべて対になっています。非常に多くて列挙できません。

 しかしそれは耽溺の基盤であり、考えの基盤です。欲望と煩悩の考えなので、煩悩で渇望します。考えも煩悩で考えます。たとえば醜さを嫌って美しさを愛し、考えは美しくなるような考えになります。

 貧困という言葉を嫌い、金持ちになるような考えになります。当然このように関わります。このように対になっているので、煩悩や欲望で欲しがります。一方しかなく、対になっていなければ考えはありません。考えは自然に止まります。

 しかし、善があれば悪があるように、反対の物が比較させ、悪がなければ善には何も意味はありません。善と比べる悪があるので、善は価値ある物になります。幸福と苦も同じで、比較する苦があるから、幸福は良い物、高価な物になります。

 苦も、比較する幸福がなければ恐ろしい物ではありません。それらは正反対の対であり、どちらか一方を選択させる物なので、結果として一方を愛させます。それが迷いであり、激しい煩悩、欲望です。

 いつか賢さが生じてどちらも求めなくなれば、その時空になり、善も愛さず、悪も嫌いません。意に関さなれば空です。幸福も求めず苦も厭わないで平然としていられれば、寂滅であり、空、あるいは涅槃です。

 しかし本当は幸福でない種類の幸福に溺れれば、すべての世界の幸福という意味ですが、人間界の幸福も、天国の幸福も、梵天界の幸福も、すべては騙す物、苦と対の物であり、涅槃ではありません。

 涅槃である物は、幸福や苦に無関係だから空です。しかし人間はそれも幸福と仮定で呼ぶのが好きです。阿片中毒のように、前々から幸福の中毒になっているからです。何もかも幸福にしてしまい、涅槃は究極の幸福と言うのは、低劣な幸福を捨てて涅槃のレベルの幸福に関心を持たせるようにするためです。この問題に興味を持ったら、空を見つけなければなりません。涅槃とは空の呼び名だからです。

 だから涅槃の段階の幸福は、何かを得たり何かになったりする、みなさんが考えているようなものと理解しないでください。本当の涅槃段階の幸福は、本当の空で、それには対がありません。つまり苦もなく、幸もなく、善もなく、悪もなく、徳もなく、罪もありません。

 善悪や徳や罪があれば輪廻を繰り返し、善人になったり悪人になったりしなければならないので、涅槃になりません。善悪を抜け出し、徳と罪より上、幸福や苦を渇望することより上に行った時、その時空になり涅槃になります。だから涅槃には対の物はありません。

 涅槃に到達した人は、対の物に迷わされる心はなく、対の物より上にいる空です。みなさん、空と呼ばれる物に対があるかどうか、知性で考えて見てください。対の物は決して空でなく、一つの部分として存在する物です。つまり何らかの物になるので、人はそれを善、悪とし、これは短い、これは長い、これは高い、これは低い、これは黒い、これは白いと言います。これらは空ではなく、それらは「部分」です。

 しかしすっかり空になってしまえば、何と対になるでしょう。何かを何かの対にすることはできない、それが空です。だから対の物は混乱にあると見ることができます。空にはありません。空になれば反対の物はありません。対の物は混乱の中にしかありません。考えたくなければ、対である物について熟知しなければなりません。

 良く知らなければ、知らない分だけ考えます。考えている時は空ではありません。空でない時は必ず苦です。だからこれらの対の物は全部、騙して混乱させる物と見なければなりません。空になりたいと望むなら、それらの上にいなければなりません。対と見ないで、すべてを空と見れば望みどおりになります。

 すべての対を一つにまとめることができるかもしれません。一対というのは益と害です。一方は益であり、もう一方は害。この一組で十分です。好まない方を害と捉え、好ましい方を益と捉えるからです。しかしいろんな物には、本当は、何であれすべての物に、いつでも益と害の両方あります。

 自分が最高に愛している物を良く見てください。害である物も同じだけあります。しかし益の面だけを選んで見て、害の面を見ないから愛します。それは益と害の両方があると考えず、良く調べもせず、それ、あるいはその人を愛します。

 例えばこの建物は益があるでしょうか、害があるでしょうか。智慧のある人なら、益と害の両方あると明らかに見えます。益はこれを利用することができ、害は維持などが面倒です。掃除をしたり磨いたり、洗ったり、拭いたり、いろんなことを防いで管理しなければなりません。これが害の部分です。しかしこれ(建物)があるので座ったり寝たりできます。このように益と害の両方があります。

 人は迷って益の部分を愛し、害の部分を嫌うので、上下する苦を味わいます。愛すことも愛すことで疲れ、嫌うことも嫌うことで疲れます。愛も嫌悪も混乱で、静まりではありません。

 この建物より価値のある物、たとえば何百万バーツというお金、百万というお金は益でしょうか害でしょうか。良く考えて見てください。みなさんが正しい方法で、誰にも被害を与えずに百万バーツを手に入れたら、非常に喜んで益とするでしょう。

 しかしそれを手に入れる苦労の害について考えて見てください。百万だけ疲れ無ければなりません。百万手に入れたら、百万疲れます。百万の労力を使わなければ、百万のお金は手に入りません。だから害も百万、益も百万です。しかし私たちは愚かに益の面しか見ないので、この百万のお金は素晴らしいと満足します。

 次に百万のお金を、不正で、つまり誰かを騙して手に入れても、益と害は同じだけあります。百万分の悪で百万のお金を手に入れます。更に愚かなことは、百万の金を手に入れた百万の悪と知らず、この金は素晴らしいと満足します。

 もし親の遺産を百万バーツもらったら、素晴らしく良いことだと思いますか。こう質問するのは、良く考えれば、害は同じ百万あるという意味です。つまり百万分愚かなので働くことを知りません。親の遺産を百万貰わなければならないのは、百万だけ愚かです。

 いい気味です。これが百万の遺産をもらう害です。益は好きなように使えることで、害である百万の愚かさと対になっています。だから益だけの物は何もない、すべては同じだけの害があることが分かります。

 次にみなさんが嫌っている物について考えて見ます。大便などの汚い物は、臭くて厭わしくて煩わしく、害だけだと考える人がいるかもしれません。しかしなぜ、益の部分を見ないのでしょう。その義務にふさわしい利益があります。

 肥料にも使えます。土壌を良くするので、世界のすべての物を正常に循環させることができます。少なくとも排便をすれば、その人は死にません。排便をしなければ死んでしまいます。私たちが一番嫌っている物でも、益と害は同じだけあるということです。

 次にそんなに汚くない物、たとえばここにある小さなゴミは、みなさん害ばかりで益はないと考えるでしょうか。これもそうではありません。ゴミでも当然何らかの益があります。お寺に落ちている一葉の枯れ葉にも、同じだけの益と害があります。害だけ、あるいは益だけと一面しか見ないのは愚かな人です。

 つまり益と害がない物は何もないということです。そしていろんな物は、ふさわしい使い方をすれば、とたんに益の面が現れます。それは、その物自体に益と害があるからです。だから益のある良い物を、その物の持っている正しい方法で使えば益があります。そしてその物の意味と反対に使えば、とたんに害が現れます。

 例えば大便を正しく使ってご覧なさい。益だけになります。しかし使い方を間違ったり、間違った関わり方をすれば、害だけになります。害になったり益になったりするのは、どちらの面を捉えるかという捉え方次第、人間の愚かさ次第です。

 本来は、どのようにも捉えるべきではありません。害あるいは益と捉えるべきではありません。心を空にすれば、害や益、好きや嫌いが生じるように捉える必用はありません。それが空、あるいは静かささです。

 だからみなさん、世界を空と見られるようになるために、ブッダの知識を使わなければなりません。益だ害だと、どちらか一方を見てはいけません。本来の心、本来の知性は、このように空に見せてくれます。

 あるいは、害が見えたら益も見ます。益が見えたら害も見なければなりません。ちょうど良く相殺すれば空になります。みなさんが箱の中に大事にしまっている良い物も、同じだけの益と害があるとよく見てください。そうすれば愛すことや大事にすること、心配がなくなり、心は空になります。

 しかし一面的に益だけを見ていれば、愛や満足が非常に強くなり、眠れないほど、神経の病気になるほど、最後には精神病院へ入院しなければならないほどになります。それが箱の中に大事に仕舞ってある、益と害、両面ある物です。

 熟慮して見ることを知っていれば、益からも害からも逃れることができ、出合うのは空の物ばかりということです。あるいは益が見えたら害を見なければならないということです。相殺して空の物になるからです。これもそれらの物を空と見る方便です。

 水晶や指輪、ダイヤや宝石、何でも、あるいは、非常に愛し満足している人物や動物、サンカーラも害と益と見なければなりません。そうすれば淡泊になれ、あるいは空になります。そして苦は生じません。

 だから空と見るよう教えています。益や害のある物と見ないでください。空ではなく混乱で、そして苦になります。

 最高に空に見えるようになれば、その時途端に涅槃になります。心が空になっている時、その時心は涅槃になっています。厳格な空なら本物の涅槃で、一時的な空なら一時的な涅槃です。それでも良いです。苦や混乱より良いです。厳格な空を生じさせることができなければ、できるだけ空を生じさせるよう努めます。

次に「空は苦ではない。だから涅槃と呼ぶ」という項目について熟慮して見ます。私たちが信仰している物、たとえばブッダは空であり、プラタムの本質は空であり、僧の本質は空であるというのは、本物のブッダ、本物のタンマ、本物の僧という意味です。

 ほとんどの団体のように、偽のブッダ、偽の法、偽の僧ではありません。あれは本当の仏、法、僧ではないのにそれを信仰するので、偽物に出合えば混乱します。空ではありません。もし本物のブッダ、タンマ、僧に出合えば、空でなければなりません。どこへも行きません。他の物にはなりません。行くのも、なるのも空だけです。なぜブッダの要旨は空と言うのかは、煩悩と欲望が全部消滅し、捉える自分がないからです。

 プラタムが本物のプラタムなら、空であるという意味し、実践から生じた結果であり、正しい実践によって到達する物で、空である物はその人に現れます。

 本当の僧は空の心があります。すべての物を、自分、あるいは自分の物と捉えないからです。僧とは黄衣でも、黄衣を着た身体でもなく、その中の最高の徳行を言います。つまりそれも空ということです。だから本物のブッダ、タンマ、僧は空です。

 みなさんに「自分」という執着が生じたら、他の自分でなく、空を自分と捉えてください。空を自分と仮定します。身体や心やいろんな考えを自分と捉えないで、空である自分を捉えてください。そうすれば苦でない自分です。しかしこれは仮の話しです。

 本当は、空は自分にはなり得ません。つまりブッダ、タンマ、僧、あるいは自分、あるいは本当の心、本当のタンマのようなものは、すべて空です。空でなければ偽物で、偽物は、人を困らせ、苦しめ、逃げられません。

 次に空はどこにあって、どこへ行けば見つかるのかを考えて見ます。これは非常に滑稽な話です。みなさん、空はどこにあるか、良く聞き、良く考え、熟慮してください。空に触れるかどうか、試しに右手を挙げてみてください。手で鼻や額を触って、空に触れるでしょうか。

 みなさん、空はどこにあるのか考えて見てください。熟慮する知性があれば、空はどこにでもあり、自分と呼ぶ物の中にもあると知ります。それはすべての物の中にあり、どうあるのか分からないほど、初めから、元々、私たちの中にあります。そして本当にありますが、見つかりません。

 他人が額(ひたい)の話しをしているのを聞いた馬鹿な人の話のようです。その人は額を見たことがなく、額はあるので、どこへも勉強に行ったり、探しに行く必要はないと知りません。賢ければ手で撫でてみれば、自分の額があるのを知ります。しかし賢くなければ見えません。誰に自分の額が見えるか、考えて見てください。

 しかし鏡に映せばすぐに自分の額が見えます。鏡とはタンマのことです。ブッダがラフラ(ブッダの息子)に、『タンマは真実を知るために映して見る鏡です』と言っています。人々は鏡に映して自分の顔を見ることができます。

 今私たちはブッダの鏡を使わなくなってしまいました。自分自身や友達をあざむく化粧をするために、夢中になって鏡を見るのは、ブッダの鏡はほとんど使わないのに等しいです。タンマの鏡に映して見れば、自分の額に空を発見します。自分の中に空を見つけるという意味です。

 自分の中に苦と無常と無我を見つけ、スンニャター、つまり空、自分の中の何にも執着するべきではないということを見つけます。私たちのどこからどこまで空なので、自分の中に見つけられるのに、それが空と見えません。

 みなさん、「私」という言葉を良く考えてみてください。ここで言う私とは、いったい何でしょう。冒頭で、空という言葉は正しい理解もあれば間違った理解もあると述べたように、私という言葉も、正しい理解もあれば間違った理解もあり、誤解なら、体や心を自分と思います。

 正しい理解なら、空を自分にします。空を自分にするというのは、空の自分だからです。「私」と呼ぶなら、「私」と仮定した「私」です。だから本当の「私」はいません。あるのは空だけですが、仮に自分と呼んでいます。このように自分を空にしてしまえば、いろんな物は自然に空になり、何もかも空になります。

 『世界を空と見、自分を空と見なさい。そうすれば世界のすべてが空になる』というブッダの教えで実践したいなら、『自分という見方を抜き去らなければならない』とブッダが言われているようにすれば、自分も空になり、世界のすべても空になって、残る苦はありません。

 空になったら、空から落ちるように落ちてしまうと考えるのは、物質である自分を考えるから落ちます。しかし本当の自分を空と見れば、落ちる物はありません。同じ空の物だからです。すべてのタンマは同じように空なので、存在する物も、落ちる物もありません。それが本当の空です。

 掴まる物、繋ぎ止める物がないと言うのは、まだ愚かで恐がる人が言うことです。しかしタンマに到達した人、空に到達した人は、何かに掴まる必用も繋ぎ留める必用もありません。今何に掴まりますか。それなら、今私たちは空に掴まらなければなりません。

 すぐに混乱ばかりになるので、空に繋ぎ止めなくてはなりません。空を捕まえて繋ぎ止めるよう努力して自分を無くせば、苦も消滅し、心が空になり、身体も空になり、何もかも空になるので苦が消滅します。

 本当にある物である空だけだと、はっきり見えます。あるいは本当にあるのは涅槃だけだと言うこともできます。それ以外の物はイカサマとしてあり、騙して対の物に見せ、愛させたり嫌わせたりして混乱させるばかりです。サンカーラであり、作られた物であり、最高に苦です。

 しかしこの真実が見えれば、この世界と言わずどの世界と言わず、自分自身も含めたすべての動物、すべての物が空に見えます。だからすべてが空になり、あるのは涅槃だけで苦はありません。知識として明確に残っているのは、空、あるいは涅槃だけです。体と心は知識として、そして知識と感覚の居場所として残っています。だから苦はありません。

 そのように感じる体と心は、純潔な五蘊と仮定した阿羅漢の体と心です。煩悩と欲望で満ちた、空でないみなさんの五蘊と違います。聖人の蘊は空が増えて行き、煩悩欲望は減っていきます。阿羅漢の蘊はすべて空で、残っている煩悩欲望はありません。だから苦の終焉であり、残っている苦もありません。

 智慧だけがある心と体は、いつでもサティがあると言われるように、当然常に空が見えます。だからいつでも苦はなく、空だけです。それ以上の物はありません。苦がないだけで十分です。何らかの混乱になる幸福を、わざわざ求めることはありません。対の物は、幸福も苦も混乱です。空だけが幸不幸、善悪、徳や罪の上にある物で、阿羅漢だけにある物です。

 今みなさんはここに集まって、阿羅漢を偲ぶ儀式を行ない、ブッダを初め、すべての阿羅漢の方々を「崇拝する。拠り所だ。帰依する」と表明しています。だからみなさんは阿羅漢の心を知り、空以外には何もない阿羅漢のすべてを知らなければなりません。そうすればみなさんも、心をそちらへ傾けていって、最後には苦から解脱することができます。マーカプナナミーに集まった甲斐があります。

 今していることを儀式と言います。儀式だけでは十分ではないので、みなさんは本当にしましょう。だからこの真実を学んで、みなさんが尊敬し拝み、足跡を追う手本としている阿羅漢と同じ結果が得られるまで実践します。

 みなさんがマーカブーチャーを儀式だけに終わらせず、本当に有益にしていただきたいと望みます。空に到達しなければならず、幸・不幸、善・悪、徳・罪、混乱、すべての物の上に、それらの上にいてください。そうすれば残るのは、空、あるいは穏やかさだけです。人間に生まれたにふさわしく、仏教に出合います。仏教教団員であり、ブッダの弟子である人に与えられたのは、述べてきたように空だけです。

 そうすればブッダが本当に与えた物を貰った人と言えます。人間に生まれた機会を無駄にせず、仏教のすべてに出合ったと言われます。『私は空についてしか教えない。すべての苦や世界の上にいれば、世界は空に見え、すべての物は空に見える』というブッダの言葉を心に銘じてください。

 空である人、空に到達した人、空の心を持った人を尊敬し拝むことは、誰にとっても善いこと、人間がかならず得なければならない最高のものを得る良い機会とします。

 そして友達が「空は恐ろしい物ではなく、非常に求めるべき物」と正しく理解できるように、教えてやることも知ります。みなさん誰でも、空という意味であるブッダとプラタムと僧を信仰する威力で、自分の心をより空にすることを知ってください。そうすれば最後には、言わなければならないこと、述べなければならないこと、しなければならないことはありません。見るべき物、得るべき物のすべてを得るからです。

今日の講義は、空とは阿羅漢の要旨と結論します。今日は阿羅漢の日ですから、みなさん、何としても空に到達してください。たとえ少しでも、何としても到達してください。完璧な空でなくても、自分のサティの力にふさわしい空にしてください。

 空について話し、聞いている時のように、適度に空の心がなければなりません。みなさんの心は空か空でないか、どう違うか、家にいる時とここで話しを聞いている時を比べて見てください。これが理解できれば、間違いなく、空の理解が深まります。空について十分な知識をもって帰宅し、そして自分が益々空でいられるよう、管理してください。




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