7.感情はただ心のイメージ





1989年雨安居

 新人である法友のみなさん。今日の講義は「感情はただ心のイメージ」と題してお話します。初めに知っておかなければならないのは「感情」という言葉です。感情とは何でしょうか。タンマの言葉、仏教の言葉である感情は、心が掴んだ物を意味します。タイ語の「感情を損ねた」「悪い感情」のような意味ではありません。

 英語の Mood 、あるいは Emotion もタイ語と同じで、タンマや仏教のような意味はありません。だからタンマの意味、あるいは仏教の教え独特の意味に関心を持ってください。

 科学でも感情には意味があり、非常に重要です。そして私たちと深い関わりがあります。感情は世界、すべての世界です。世界は形・声・香・味・触・考え以外に何もありません。世界は、この六つの感情で成立しています。人間に関わる面を見れば、人間を支配してしまう物、つまり人間は感情の奴隷と憶えておいてください。すべての動物は感情の奴隷になっています。

 時には別の意味で、六処である目・耳・鼻・舌・体・心の奴隷という言い方をすることもあります。目・耳・鼻・舌・体・心は感情である形・声・臭・味・接触、考えを探し回ります。だから言い方次第で、感情の奴隷とも、根の奴隷とも言えますが、最終的に感情の奴隷であることが明かに見えます。人は毎日、目・耳・鼻・舌・体・心を通して、楽しくて美味な幸福の感情を求めています。

 みなさんが一生懸命勉強して、大学を卒業して、高給取りになるのは、より高い、より高価な感情の奴隷になるためです。他には何もありません。だから感情についてよく知らなければなりません。感情は Passive でもあり、Active でもあります。原因によって作られた物、つまり結果として生じた物、作られた物であると同時に、その後何かを作り出す物に、原因になります。

 これは「すべてのサンカーラ(行)、すべての作られた物は、原因でもあり、結果でもある」という最も重要な教えです。時には結果を生む義務をし、結果が出れば、それがまた原因の義務をして別の物を作ります。これがサンカーラ(作られ作る物。行)です。

 感情にはこの種の意味があります。特に私たちは何かを求めて、結果として美味しい満足が得られれば、それが続いて次の行動を起こさせます。このような状態で原因にもなり、結果にもなります。だから私たちは、気づかずに感情の奴隷になります。しかも終わりもありません。良く知っておいてください。

 以前に五蘊の話と縁起の話の二つをしました。どちらも感情に関係があります。感情がなければ五蘊はありません。内処(目・耳・鼻・舌・体・心)が外処(形・声・臭・味・触・考え)と触れ合って識が生まれます。それが感情です。外処は内処の感情です。それが識を生じさせて、触と呼ぶ感情を感じます。これが形蘊、識蘊、そして触、そして受、受蘊です。

 その受を強く認識すれば想蘊になり、想蘊の威力下に落ち、行蘊になって考え、行動になるまで努力します。感情はこのように五蘊と関わっています。

 縁起との関係では、触れると縁起の順に受が生じ、欲望が生じ、取が生じ、有が生じ、すべての苦が生じます。それがすべて感情の始まりです。縁起の流れが生じて進行します。五蘊の話、縁起の話について良く理解するには、感情について知り、感情について理解しなければならず、繋ぎ合わせれば、どう繋がるかを教えます。

 感情について本当に正しく、すべて揃って知ることができれば、取蘊になって苦が生じないよう、五蘊を管理するのは簡単です。縁起の流れを作って苦にならないように、縁起の流れを管理するのは簡単です。このように利益があります。  しかしそれには、管理する能力を訓練しなければなりません。だから感情を管理し、電光のように素早く感情を追いかける十分なサティ、十分な自覚、十分な智慧を生じさせるために、アーナーパーナサティの練習をします。だから関わりがあります。

 感情について十分知らないことが原因で、蘊が生じて取になり、取は苦になります。もう一つの流れで言えば、それが縁起の流れを生じさせて苦になります。知性や自覚があれば、すべての蘊は苦でない蘊になり、その上縁起の流れも生じません。生じることがあっても、途中で止め、制止することができます。苦が生じるまで放置しません。

 だから感情について知ってください。要するに感情は心が引掴んだ物、あるいは心を訪問して来て、心に引掴ませて感情になった物です。あるいは、私たちが美味しくしたがる、楽しくしたがる六処の餌と呼ぶ物です。感情は私たちの主人です。感情は私たちの主人で、私たちは感情の奴隷、六処の奴隷です。

 さて続いて、感情は心が作り上げた概念にすぎず、マヤカシであって本物ではない、ということについてお話します。この言葉は訳しにくい、説明しにくい言葉です。概念というのは新しい言葉 Imagination の訳語として作られた言葉です。概念という言葉は聞いても意味が分かりにくいです。「心の像」では正しくありません。概念は心が作った像。心が働きます。外国語の、特に Imagination という言葉に相当します。

 Imagine は動詞で、 Imagination は名詞です。そしてイマージンされたものが概念と呼ぶものです。感情がイマージンされたものなら、威力があります。宇宙に自然にあるなら、私たちに何もできません。私たちに関われば、心の欲望、煩悩、期待、目的でイメージされるので、心に入れます。

 良く聞いてください。そうでなければ、ただの自然の物である硬い物は、心に入ることはできません。形であれ声であれ、自然の物なので、心には入れません。しかしそれに何らかの価値や意味があり、心がその意味を掴み、そのような意味の心のイメージを作った時、心に侵入することができます。

 固いレンガや石ころや土くれ、あるいは飯塊も、心に入ることはできません。だから意味を捉えて、その意味の像が作られます。形も声も、臭いも味も、触も考えも、すべて価値とか性質と呼ばれる意味があり、味があるので、心でイメージされて名(抽象)の物、あるいは心の問題になります。だから愚かにそれに心の面の意味を持たせなければ、イメージして心の問題にしなければ、それは私たちに何もできません。

 たとえば若者が女性を愛したと仮定して、彼女の体の頭から足の先まで固体、物体であり、どんなことをしても若者の心に入ることはできません。心が女性の意味をイメージすれば名の物(抽象)になり、形の物(具象)でなくなります。心と同じ名の物、心の物になれば、その若者の心の中に入って、思いっきり宿ることができます。

 Imagine という言葉は、その感情の最も重要な意味を捉えて、新たに抽象の物にするという意味です。名の物(抽象物)にならなければ心に入ることはできません。形も声も、臭いも味も、接触も、名の物、心の感情、あるいは概念の形にされなければなりません。

 みなさんは「内処、外処に刺激があると識が生じ、外部の感情である形・声・臭・味・触に触れる」と聞いています。ただ触れるだけでなく、意味を掴んでいます。だから形・声・臭・味・触に抽象である意味が生まれ、そして想がその意味を決定して、想が概念を作り上げ、そしてあなたの心を翻弄します。

 サンニャー(想)という言葉は、タイ語では記憶、あるいは契約という意味ですが、正しくありません。パーリ語の意味を十分伝えていません。パーリ語の意味は、決定することです。何があるか、どうなのか、いずれかに定めることをサンニャーと言います。幸福、不幸、男、女、夫、妻、得、損、勝った、負けた。サンニャーの決定次第です。これが想で、それがどのようか決めます。

 だからすべての概念は、心が決めて名の物に、心に侵入して心を支配することができるように、心の話しにした物です。外部の物質である時は、まだ自然の物質なので、心に入り込むことはできません。砂粒一粒たりとも心に入ることはできません。

 しかしそれを意味にすれば、何らかの意味や価値にすれば入れます。入って何でもできます。形も声も、臭いも味も、触も考えも、心が掴んだ想があると言います。もっと良い言葉を使えば、サンジター、サンジトー。サンジター、決定されます。通常この言葉を使いませんが、私は、マノーサンニャッティという言葉を使うより良いと思います。

 それを規定すれば心の結果があり、それをマノーバーヴァ(概念)と言います。呼んでもピンときません。このように使う言葉、マノーサンニャッティは、誰も使おうとしないと思います。

 しかし今、もっと良く理解するために説明します。マンニャナーという言葉を使います。マノーマンニャニャーは概念を作ることです。マンニャナーとは、愚かさで、欲望で、慢で、見で、取で、同じように理解して定めるという意味です。マンニャナーは同じように、何、夫、妻、得、損、負け、勝ちと理解して決めます。マンニャナーと言います。誰も使う人はいません。ここで私の説明をしました。

 次にもっとハッキリさせるなら、マヤーという言葉を使うべきです。このようなのをパーリ語で、マノーマヤーと言います。心で作ったという意味です。マヤーは made of, produce by つまりマヤー マノー。マヤーは心の product という意味です。つまりマノーバーヴァ(概念。イメージ)です。まず概念とは何かを、文字面だけでなく、正しい意味を知りましょう。あまり一致していないからです。

 すべての感情は心の概念にすぎません。概念とは心の像、心が作った像、イメージです。目に現れた形も、心が名(抽象)であるイメージにしなければ、その人の心に入ることはできません。声も同じです。臭いも味も接触も同じです。体の接触は特にそうで、イメージにされなければ心に入って支配することはありません。

 「形・声・臭・味・触、考えの六つは心に侵入して支配する」とブッダが言われています。私には、形・声・臭い・味・触・考えより悪辣に心を支配するものは見えません。しかしそれは、そのまま入ることはできません。どうしたら入れるか、考えてみてください。名(抽象)である形・声・臭・味・触、考えのイメージに作り変えられて心に入り、心を捕え、支配します。

 これらのイメージは、心を支配できる感情です。ルーパダンマ(形の物)、ルーパダートゥ(形界)である物が、アルーパダンマ(無形の物)に、ナーマダートゥ(名界)になればできます。名同士にならなければなりません。

 そうすれば、常にある無明の威力で心を支配することができます。何らかの形を見ると無明がイメージを作ります。声を聞き、臭いを嗅ぎ、何かを味わうとイメージを作ります。だから私たちは愚かです。あるいはイメージに騙されています。

 普通の状態のイメージなら、まだこのように耐えられます。狂いません。しかし程度を越えると、イメージでなくヒステリーになって、病院へ行かなければなりません。七つの村の七つのお寺へ行って聖水を掛けてもらわなければなりません。感情の問題は非常に威力があるので、気をつけてください。それは病気で、世界中が罹っていて、そして私たちを支配します。

 次に支配する状態についてお話します。形・声・臭・味・触、考えの六つ全部を見ていっても良いのですが、一番簡単でハッキリしている触、五番目の感情を見る方が良いです。

 体を刺激するもの、特に異性間の体の接触、男から女へ、女から男への接触、簡単に言えば、世界の重大問題である欲情、あるいは Sex です。愚かに神として崇拝する人もいますが、良く知っている人は悪魔として嫌悪します。しかし愛の神として崇拝する人はたくさんいます。

 「愛の神」という言葉はインドで生まれました。ある時代のある集団が、愛欲を崇め、祭り上げて神にしました。バレンタインの日に赤い花を胸に挿しているバカな人たちは、愛を神として崇拝します。

  異性間の欲情は、心で作り上げられたイメージの極みです。しかし気づきません。それは最高に人を裏切ります。それがイメージにならなければ、性の営みはできません。イメージにならなければ何もできません。男、女、あるいは異性というイメージになって初めて成立します。

 それに本物を使いません。イメージだけです。そうすれば何でもできます。本物による行動でも、つまり体、女と男の体による行為でも、その体はイメージに作り変えられ、名の物である状態があり、女姓のイメージ、男性のイメージがなければならないと知っておくべきです。

 直接このような話なら、簡単にできます。後は自然に、自動的に、気づかないうちにイメージが作られ、すべてが整います。心に男性としての、あるいは女性としてのイメージが作られれば、男女の用事ができます。イメージできなければ、失敗すればどうしようもありません。性の用事は成立しません。一方が相手を幽霊だと感じればできません。しかし屍を女、あるいは男と見なすことができれば、それでもできます。だから何とするかは愚かさ次第です。通常異性間の行為は、男、女という意味のある名の物になって、心に入って支配し、それで性の営みが成立します。

 次にどんなに欺瞞するか見てください。異性でない同性に対しても、男、あるいは女としての意味があると感じればできます。だから同性間でも性行為ができます。異性である必要はありません。現代は非常に多いのではないですか。

 もっと凄いのは畜生とできます。変態性欲です。畜生を異性とイメージすれば、人は畜生とも行為ができます。もっと狂えば、まだ亡くなったばかりの死体、まだ腐っていない物を人と、つまり死体を異性とイメージすれば、人は死体と行為することもできます。良く聞いてください、模型人形を作って、それを異性とイメージできれば、人形と行為することもできます。

 それ以上に、抱き枕と呼ぶものと行為する人もいます。抱き枕を抱きしめて寝ているうちに、心がイメージを作り上げてしまこともあります。だから幼い時から抱き枕をさせたり、若い人に抱き枕を使わせるのは、こうした愚かさを助長させます。

 そして憐れなことに、出家者の中にもいます。名前は言いませんが、私があるお寺へ行くと、抱き枕のある寝床を用意してくれました。びっくり仰天しました。何でこうなのでしょう。私は棚の上に仕舞って「抱き枕でもイメージを作るので、私は要らない」と準備した人に分かるようにしました。

 何もなければもっとすごくなり、感覚だけで、いろんな感覚で、夢でも、心の中に強烈に湧き上がる生々しい想像でも、畜生がどこででもするように、体を反らしたりくねらせたりして射精します。

 子供の頃に、牛を飼っている人の手伝いをしたことがあります。朝、牛が体を凭せ掛けてくねらせ、一人で射精しているのを見たことがあります。異性との行為と同じですが、異性はいなくてもできます。象も馬も、牛も水牛もできます。

 みなさんも良く観察して見てください。時には身体を凭せ掛け、くねったりよじったりして、時々自分で行為します。異性や同性や、死体や畜生、人形や抱き枕、体をくねらせることや夢から作られたイメージは、いっぱいです。

 次にイメージがどれほど人間の心を支配しているか、見えるでしょうか。すべての感情はイメージによって作られます。イメージにならなければ何も意味はありません。男と女の肉と肉、体と体でも、相手を死体と理解すれば、その時は何もできません。だから心を高く持ってイメージに騙されないようにすれば、イメージする愚かさはなく、欲情に関した問題もありません。

 これは阿羅漢なのでさて置き、まだ凡人なら目に垢や汚れが厚くついているので、イメージがいっぱいです。本能の感覚の中にあるイメージと呼ぶ物に騙されるので、凡人は貪りや怒りや迷いの問題が生じます。非常に強烈にあります。しかしこのことは、真実を知ってください。本能をは、このようにバカバカしい欲情の状態であると考えないでください。

 本能はただ生殖したいだけです。しかし生殖することは楽しくありません。死ぬほど疲れる面倒なことなので、魅力的で満足できる物を補填しなければ、動物はしたがりません。そこで自然は生殖の前に Sex と呼ばれるもの、あるいは欲情を用意しました。

 生殖 Reproduction, reproduce は欲情ではありません。種族を絶やさないために繁殖したいだけです。生殖が面倒くさいと動物たちが生殖しないので、自然は動物より遥かに上で、生殖の前に Sex、欲情を用意しました。だから人は、sex の意味を手に入れるために生殖を請け負います。

 これも滑稽です。手に入れるセックスは、どれほど特別で素晴らしいか考えてみてください。男女の営みは隠さなければならないほど厭わしいです。その上非常に不潔で、多大なエネルギーを費します。犬だってできます。犬もほんの一瞬、狂って結果を受け取ります。本の一瞬ですが欲情です。

 しかし、人が生殖の賃金として欲情を受け取るくらい、心の面の結果があります。そして騙すイメージを貰って死ぬほど疲れます。一日中働いて、最後に貰うお金は偽札です。いい気味です。一日中働いて、貰う賃金が偽札です。

 ある人から聞いた話があります。その人自身が見た話ではありませんが、事実らしいので聞きました。ある漁師が自分で獲った魚にイメージを作り上げ、死んだメスのエイと性交して、その男も死んでしまったそうです。そのエイは妊娠中で、腹の中にいた胎児の針に刺されて死にました。

 偽札です。死ぬほど働いて偽札を掴まないでください。いい気味か、そうでないか、考えてみてください。このように話しても卑猥な話と見ないでください。イメージとは何かを理解するための話、と見てください。イメージはセックスを作り上げることができ、すべての動物を雇って、生殖をさせます。動物を繁殖させる時、普通では、ほとんどの動物はその気になりません。

 どうぞ感情とは何かを知っておいてください。感情はこのようなイメージです。普通の人で、感情の奴隷でない人がこの世界にいるでしょうか。若い男女がたくさん勉強をするのは、たくさんお金を稼いで、感情の奴隷、六処の奴隷になるためです。これを人類の問題と呼ばずにいられるでしょうか。

 これは人間にとって本当に問題です。世界のすべては感情で、形・声・臭い・味・触が目・耳・鼻・舌・体から感情として入ってきます。丸のまま入れないので、心がイメージに作り変え、心と同じ名の物にします。そうすれば簡単に動物の心に入れます。人間の場合はもうお話しました。畜生も同じです。

 他の人はきっと信じない、支持しないと思いますが、私は植物でも欲情の絶頂感があるはずと信じています。異性間で精子の受け渡しをする時が最高の味です。異性間で精子の受け渡しをする時は、みなそうです。人も畜生もそうで、禁止できません。動物には絶頂感があります。堪え切れないほど感じれば、排出しなければなりません。他に術がなければ夢精します。

 昔、金魚を飼ったことがあります。藻がたくさんあって、メスが卵を孕むと、オスに精液が溜まり、我慢できなくなると、精液を出すために排出しなければなりません。精液を出す時、絶頂感があるからです。だからオスがメスを一日中追いかけ回して、メスが卵を産むと、オスが卵と混ぜるために精液を掛けます。両性にとって絶頂の時で、絶頂感を味わうために、藻の上に横になって休みます。

 畜生もそうです。闘魚もそうです。メスが卵を産むと精液を掛けます。しかし体外で交配しない魚も何種類もあります。メスの胎内に精液を注入する器官があり、体内で交配して、それから稚魚を生みます。魚にも体外で交配するのと、体内で交配するのと、二種類あります。

 しかし感情である絶頂が最高に騙すのは、精液を出す瞬間という原則からは逃れられません。それが最高に欺瞞する感情の意味、欲情の意味です。問題は本能の自然にる至るほど深く、植物も交配をしたい願望がありますが、動けないので運任せです。

 しかし交配する時はいつでも、植物の欲情の絶頂感があります。だから生き物は、生殖という問題から逃れることはできません。自然がしないことを生き物にさせるために、自然は手間賃として欲情を前払いします。

 次に、私たちが太古から信じてきた教え、純潔(禁欲)についてお話したいと思います。異性を気に入って欲情を感じると、遠くで、ただ気に入って心で欲情を感じるだけで、自然が骨髄から透明な精液を分泌し、前立腺に蓄えると信じられています。

 前立腺に溜まった精液が多くなると性の感覚が多くなり、射精したい願望が生まれ、いつかは射精しなければならなくなります。他に術がなければ夢精してしまいます。夢精を嫌う人は異性と営みをする機会を探します。

 まだ普通の凡夫なら、女性の臭いを嗅いだり、女性が作った料理を食べたり、女性の肌に触れたり、女性のことを考えるだけでも欲情します。欲情する度に精液が分泌され、生殖の際に卵子と結合させるために、精巣で作られた精子と混ぜ合わされます。そうすれば自然が望む生殖になります。

 だからただの普通の人、凡夫がこの問題を避けるのは不可能です。世界全体がこうです。天国も天人の世界も同じです。誹謗する人は、してください。私はこう言います。天国も天人界も同じです。この大問題から逃れられません。非常に重大事です。自然の威力がこのように強制します。人間は誰でも感情の奴隷、自然の奴隷、イメージの奴隷、六処の奴隷です。

 ヨギーの人たちは、何にも欲情しないよう制御できると信じています。何にも欲情しなければ、問題を生じさせるために備蓄しておく液体は、骨髄から分泌されません。しかし制御できなければ、目・耳・鼻・舌・体・心を通して欲情する度に分泌され、いっぱいになれば出なければなりません。阿羅漢にはこれらの問題はありません。欲情することがないので、分泌される物がないからです。

 ヨギーの人たちは常に制御していなければなりません。精液が漏れれば、精進と呼ぶものを焼き滅ぼしてしまうからです。生殖のための精液が漏れてしまったら、それまでの精進は爆発のように、点火されて爆発するガソリンのように吹き飛んでしまいます。

 しかし強い心で純潔を守り、サマーディがあり、バーヴァナー(目標に向かってする努力)があり、分泌しなければ、それを甘露と言います。その甘露が脳や心を養い、気力を養い、神経系統を清涼にします。水を撒いた後の植物のように清々しくなり、点火前のガソリンのようではありません。制御の仕方は、欲情させる物を見たり触れたりした時に、十分な知性と自覚があり、欲情しないことです。

 あなたがアーナーパーナサティの訓練に成功していれば、知性と自覚があり、十分サマーディがあり、目が見、耳が聞き、鼻が嗅ぎ、舌が味わい、肌が触れ、心が勝手に考えた時も、問題はありません。欲情しないので、その物を分泌させて溜めておかないからです。

 こうなれば、煩悩、あるいは目の中の埃が厚い凡夫を脱して、聖人になり、すべての感情は無明と取によって作られた心のイメージにすぎないと、明らかに見ることができます。だから感情を崇拝しないでください。六処を崇拝しないでください。

 死ぬほど疲れるまで働いて、貰う賃金はいつでも偽札です。多少は恥じに感じる方が良いのではないですか。恥じと感じないのは勝手で、慙愧がないのは自由ですが、それでは完全に凡人です。こうした問題から脱すために、完全に凡人であることを少しずつ薄く、軽く、弱くしていくべきです。

 次に感情の奴隷、六処の奴隷である時は、思い通りになれば貪りや煩悩が生じ、思い通りにならなければ怒りが生じ、良く分からない時は痴が生じると見えなければなりません。しかし生まれるのは感覚なので、苦であり、輪廻であり、焦燥です。感情を管理できればそういうことがないので、涅槃の涼しさです。煩悩は生じることができず、火も生じられないので、冷静な涅槃です。

 何が感情を管理する援けになるでしょうか。それは、すべての自然の真実を知る、無常・苦・無我、ダンマディタッタター、ダンマニヤーマター、イダッパチャヤター(縁生)、スンニャター(空)、タターター(真如)、アダンマヤターについて良く知るニャーナ(智)です。アタンマヤターに達すれば保証します。このように愚かな感情は生じないので、イメージを作りません。一般に問題になっている物を何も作りません。

 だから心を鎮めること(サマーディバーヴァナー)に興味を持ってください。挫けないでください。完璧に断てなくても、非常に軽くすることはできます。非常に問題を減らして、非常に苦を減らすことができます。

 次に一般の感情である形・声・臭い・味、そして物質を見ます。目が形に触れた時、その形は心に入ることはできません。だからバラの花は心に入れません。花の香り、バラの花びらの美しさ、あるいは芳香と呼ぶバラの香りでもいいですが、イメージが作られなければなりません。

 バラの美しいイメージがあり、イメージの中にバラの像が生まれ、名(抽象)であるイメージになり、そうすれば心に入って、その人の心を捕えます。形もそうです。臭いもイメージにならなければなりません。声もイメージにならなければなりません。それがまだこの程度の光波では心を捕えることはできません、形の物すぎます。

 名の物であるイメージが完成すればした分だけ、心に入ることができます。声も同じで、まだ音波である時、光もまだ光波である時は、心に入ることはできません。像という言葉を使いますが、この像には特別な意味があります。イメージが作られれば心の話になるので、いつでも心に入ることができます。

 「美味しい」は、舌の神経だけが感じる感覚で、人がそれを美味しいと理解します。美味しさはイメージなので、心に入って心を捉えることができます。形も話しました。声も、臭いも、味も、接触もたくさん話しました。

 次に最後は、心に生じる想念(ダンマーラマナ)ですが、初めから名の物なので難しくありません。しかし心の面の考え、イメージにしなければならないのは同じです。そうすれば心の系統を麻痺させる威力があります。目・耳・鼻・舌・体も同じです。イメージにして名の物にしなければ、支配できるのは神経系統だけです。外部の物は心の中に入り込めません。

 無明、欲望、取がある心が、新たに作り出す反応に注意してください。「いつも」というなら、無明の話の方がいいです。目・耳・鼻・舌・体を通したイメージを作るために、いつでも無明はあります。性に関わる話なら非常に強烈で、性に関わらなければ普通の形、声、臭い、味です。性に関わらない普通の物は、威力が小さいです。

 さて、「感情とは何か」見てください。まとめて言えば、私たちは、愚かな心が欺瞞する夢の世界、偽りの世界、マヤカシの世界にいると言わなければなりません。この真実を知らない人にとって、世界はすべて欺瞞、マヤカシです。

 植物も畜生も、人間も天人も、すべてこのようと捉えてください。私たちは欺瞞の世界、マヤカシの世界にどれだけ住めば良いのか、どう住んだら良いのか、どうするべきか、自分で考えて見てください。

 物質である世界は物質ですが、イメージの世界は心の面なので、心を支配します。目・耳・鼻・舌・体を通して入ってくる各種の感情をイメージにして、パーリ語で「ナンディラーガ(喜貪)」と呼ばれるものを作り出します。非常に威力がある、この名前を憶えておいてください。

 それは愛欲に関わらない、性に関わらないすべての物に生じることができます。つまり陶酔による満足、喜び、恍惚です。ナンディとは陶酔すること。ラーガとは欲しがること、陶酔の力による欲情です。

 大変なことになると知らなければ、感情がイメージを作って心を支配するので、心はナンディラーガで、「愛」やその類の言葉を使うより上です。それより非常に上です。気に入っている宝石、指輪、金銀など。男性も女性も、宝石や指輪、金銀、ダイヤが大好きですが、それはナンディラーガです。

 他にも、良い家長が自分の家族にナンディラーガがあり、家族の誰かが死ぬと非常に苦痛なので、代わりに死ぬことができるのを見ることがあります。ナンディラーガは、本当の物質でも、性の欲情に関わらない物にも生じます。

 性の欲情なら言うまでもなく、最高です。普通の凡夫にとって、何よりも強烈です。どうしましょう。勝たなければなりませんか。それとも降参しますか。降参なら、騙されるのを認め、イメージに騙されるのを許し、イメージに満ちている欺瞞の世界に住むのを許容します。

 イメージの形にならなければ、何の威力もないことを忘れないでください。それが可愛らしく、望ましく、美しくても何でも、それがイメージにならなければ、心を支配しません。それらはいつでも外部にあります。だから心でイメージされた感情に注意してください。非常に心を支配します。

 心を管理できれば、イメージは作られません。無明は、イメージを作って騙せません。タンマの最高に素晴らしい功徳はここにあると知ってください。ブッダのものを使うこともできます。ブッダが知って教えたタンマはこれです。この真実は、問題を解決するためにあります。

 私たちはタンマに最高に感謝します。僧はこれを実践する人ですから、敬うべきです。ブッダはこれを発見し教えた人で、僧はこの教えを実践する人で、プラタム(教え)はブッダが教えた素晴らしい最高の真実です。僧はこの規則で実践する人なので、最後にはイメージの欺瞞の威力の外に出ます。

 凡人と聖人の違いはここにあります。一方はイメージの殻の下にいて、もう一方はそこから出て、超えてローグッタラ(出世間)になります。床下(高床式家屋の例えで土間である一階)にいるならローギヤ(世間。俗世)です。どうぞこの、ローグッタラとローギヤの違いを良く見てください。そうすれば心は自然に高い方へ傾いていきます。違いが見えなければ、心は自然に、知らないうちに低い方へ傾きます。

 誰が言っても聞かせても信じない愚かな人たちは、彼らの成り行きで欲望と煩悩と身勝手があります。これらの問題から脱すには、この真実を知らなければなりません。感情の奴隷にならず、六処の奴隷にならず、マヤカシの世界に騙されなければ、「騙されないために、偽りの物が溢れているこの宇宙全体を知っておく」と言います。

 この膨大な全宇宙も、イメージに作り変えられれば心に入ることができます。宇宙も地球も、イメージにされれば楽々と心に入れます。普通ではレンガ一つ、心に入ることはできません。これが自然の秘密で、それは自然の法則です。

 自然に気づいて、自然の法則を知り、自然の法則で正しく実践しなければならない義務を知れば、すべての苦より上にある、苦を生じさせる感情のない、喜ばしい結果に出合い、どの感情も嘲笑できます。

 アダンママヤター(無為。何も作らず、何にも作られない状態)があればあるだけ、非常に盤石になります。他に比較する物がないほど非常に盤石です。アダンママヤターの威力で盤石になります。比較してみてください。二千マイルのヒマラヤは盤石でしょうか。ヒマラヤも地震があれば揺れます。しかしアダンママヤターのある心は、宇宙や地球が揺れても揺らぐことはありません。

 心にはアダンママヤターがあるからです。ヒマラヤにはアダンママヤターがないから揺れます。ヒマラヤ山より揺るがない心になれば、アダンママヤターです。しかし簡単にはできません。念処を十日してアタムマヤターになる方法は、私には見えません。

 しかし「ター」がつく言葉、つまり本当にある自然の真実を、アニッチャター(無常)、ドゥッカター(苦)、アナッター(無我)から順に見ることに関心を持ってください。

 私は元気がありません。昨日、プラサンガラーチャ(国の大サンガの首長)がお出でになった時、立ち上がれませんでした。座ったきり立ち上がれなくて、友達に引っ張ってもらいました。元気がないので、スアンモークの外の行事の監督に行けません。

 元気になったら、このサマーディバーヴァナーの実践が、可能なかぎり十分になることを願って、行事の監督に行ってみます。もうお話する力もありません。これだけで精いっぱいなので、今日はこれで終わらせていただきます。

 まとめると「感情は、何に作った物でも、心が作り上げた空っぽのイメージにすぎない」と知っておかなければなりません。私たちは五蘊が苦の住処にならないように、五蘊を管理することができます。縁起が生じないように管理することもできます。あるいは生じても途中で消してしまえば、苦にならないで済みます。お話したように「すべての感情はただのイメージにすぎない」という最高の真実を知っているからです。

 これで終わらせていただきます。すべての感情はただのイメージと知っているのですから、志願して雇われ、偽札で賃金を貰わないでください。すべての感情はただイメージにすぎません。本物ではありません。




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