空を知ってなお苦しみありや

 

 

 

                                     1959年12月12日

 

 暇は、ゆっくり休養することができるので誰でも大好きです。しかしお寺へ行くことでも、説教を聞くことでも、本当の空について勉強することでも、人々を誘うと、生まれてから棺桶に入るまで「暇」がない人にふさわしく、答えはいつも「暇がない」です。

 

 あるのは休みなく回転する石臼のように、絶え間ない妄想ばかり。挽かなければならない穀物がなくても、回転している石臼だからです。私たち人間がそうなってしまっていても、暇には、昔と変わらない最高の価値があります。『究極の暇は涅槃である』という教えがあるからです。

 

 絶えず考えていれば、休む時間はありません。良い考えでも悪い考えでも、それは本当に苦です。人が生まれることは、何かを考えたり感じたりできる点にあります。何も考えられなければ、死んでいるのと、あるいは生まれてこないのと同じです。

 

 だから人が生まれることは考えが生まれることです。一つの考えが終わり、考えによる行動から何らかの結果を受け取れば、それが一回の生、あるいは一生です。

 

 考えはすべて願望の威力で経過します。願望は空を知らない愚かさの威力で経過します。このようでは、どの考えでも苦しまないでいられるはずがありません。『考えが生まれるたびに、常に苦になる』という教えがあるからです。

 

 考えは願望、つまり欲から生まれます。願望は愚かさ、つまり無明から生まれます。愚かさとは空について何も知らないことです。愚かさは「考えたい。したい。話したい」という気持ちにさせます。それが行蘊である考えです。

 

 あるいは、「願望は願望(意欲)によって作られる」とも言います。この「考え」が、苦しめる真犯人です。あるいはそれ自体が非常に苦です。『作るものは非常に苦である』という教えがあるからです。

 

 妄想が苦しいのは、混乱させ、支離滅裂にさせ、鎮静させない、あるいは十分休息させないからです。正常の域を超えれば、(註:葬式の時に)引き出物に本を配るような病院、たとえばスワンプルン病院(チエンマイにある精神病専科の病院)などへ入院させなければなりません。これらの病院は、元どおりに妄想するよう治療するだけで、妄想をすっかり止めさせることはできません。

 

だからまだ空に達しません。空に到達するため、あるいは妄想を終わらせるためには、ブッダの病院へ行かなければなりません。タンマという一語には、病棟も、熟練した医師も、非常に効能のある薬も含まれています。ブッダは、『タンマに帰依し、タンマを拠り所にしなさい。他のものに帰依し拠り所にしてはならない』と言っているからです。

 

 妄想は欲望の花、無明の褒美です。空や休息をもたらすものではないのに、最高に人々の心を捕える魅力です。無明は妄想の根源で、無明は、休むことのない魔法の石臼の製作者です。無明がそのように管理します。まだ無明に勝てなければ、いつでも誰でもスワンプルン病院へ行く望みがあります。

 

あれやこれやを責めないでください。あの人この人、あるいは神様や精霊や星のせいにしないでください。無明がせせら笑います。あの人この人、神々や精霊や星や、その他すべてのものを無明が支配しています。

 

それでも神さまにお願いすれば、無明はすごく太ります。無明が欲望の花を使って騙して、人をスワンプルン病院へ送り込みます。そしてすべての人に出口、つまり空を教えないようにしています。『世界のすべての生き物は、無明の殻の中にいる』という教えがあるように。

 

 無明は妄想の根源です。妄想は人を休ませないので、生じるたびに私たちを苦しめます。苦しみたくなければ、妄想を追放しなければなりません。根源である無明を傷めつけなければなりません。無明のカーテンを火、つまり明の火で燃やしてしまわなければなりません。無明の闇をタンマの光で追放してしまわなければなりません。

 

 タンマの光が照らせば、その分だけ当然妄想は生じません。魔法は消え、石臼は止まり、その後混乱はありません。『静けさの他に幸福はない』という教えがあるように、代って幸福が生じます。

 

 静かさは考えないことから生じます。考えないことは、望まないことから生じます。愛すべきものも憎むべきものも何もないという、本当の知識から生じます。益も害も、すべては同じだけまやかしです。害と益

 

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はすべてのものに同じだけあり、すべては同じだけの益と害を含んでいます。半分は黒、半分は白で、太極図のようにぴったりと組み合っています。この対のない物は何もありません。小さな埃の粒子から、草や植物、動物、人間、天人、悪魔、梵天、指輪や金銀などの物質から、名誉や権力や幸福、不幸、徳や罪、善悪に至るまで、すべてこの二つの要素、益と害でできています。

 

益と害のどちらもマヤカシにすぎないなら、すべてのものはマヤカシ、仮のものです。『すべてのものに執着するべきではない』あるいは『何物にも執着することはできない』という教えがあるように。

 

 害と益の対は、二つ一緒にあることで互いに価値が生じる正反対の対を意味します。切り離してしまえばどちらも価値を失って、空っぽになってしまいます。害と呼ばれるものは、益と呼ばれるものがなければ何の意味もなく、益と呼ばれるものは、害と呼ばれるものがなければ何の意味もないので、誰も欲しがりません。

 

  一緒にあればどちらにも価値が生じ、すべての世界を同時に混迷させる毒があります。一方は好きにさせ、もう一方は嫌いにさせ、無明がこの真実を隠すので妄想が生まれます。つまり好きになったり嫌いになったりします。

 

 好きなら手に入れて自分のものにしたいと望み、嫌いなら遠ざけたい、あるいは自分の障害にならないように攻撃したいと思います。欲と名がつけば何欲であろうと、混乱や苛立ち、重圧など、苦であるすべてのものを生じさせます。

 

 あれが欲しい、これが欲しいであろうと、ああなりたい、こうなりたいであろうと、ああなりたくない、こうなりたくないであろうと、すべて同じだけ苦です。欲に勝つことができた時が、『欲がすべてなくなれば、すべての苦に勝つ』という教えにふさわしく苦が終わる時です。

 

 私たちが欲に勝てないのは、枚挙できないほどたくさんある対の価値の、どれか一つに騙されているからです。すべての対の代表は、一番初めの対である益と害です。益と害の一対は、必要に応じていろんな名前の対を生みます。

 

 善と悪、徳と罪、苦と幸福、地獄と極楽、暑いと寒い、短いと長い、高いと低い、往くと来る、上と下、勝ちと負け、正と負、男と女、美しいと醜い、甘いと苦い、芳香と悪臭、つるつるとガサガサ、満足と不満足等々、本当に枚挙に暇がありません。いずれにしても、どの対も初めの対、つまり益と害、あるいは中国の陰と陽に集約することができます。

 

 これらが自分の望みと一致した時には益に見え、望みと一致しない時には害に見えます。その物自体には、益も害も感じません。だからそのもの自体では、益も害もただのマヤカシであり、あるいはそれ自体は空です。

 

 しかし愚かさだけが 、「マヤカシ」あるいは「空」と見えなくします。そしてすべては害や益のある変化しないものに見えてしまいます。だから愛らしく感じ、憎らしく感じ、愚かさの性(サガ)で何らかの願望が生まれます。そして望みどおり「苦の連続」です。

 

 益も害も、いつでもすべてはマヤカシ、つまり空という真実を見てください。そうすれば妄想もなく、苦が生じることもありません。世界を空のものと見なさいと、ブッダが苦に勝つ方法を提示されているように。

 

 村人が額について話しているのを、一人の愚かな人が聞いて、額がどこにあるのか知らないので、あちこち探し歩きました。どこにあるのか人に聞いても、人は嘲笑するばかりでした。ある日偶然、男は鏡の中のその部分を見て、人に聞くとそれが額だと分かったので、その途端に愚かさは消えました。死に物狂いで探し回ったのは、つまりは徒労ということです。

 

 私たちは今、究極の空、つまり涅槃がどこにあるのか知らないので、額を探し回った男以上に必死になって探しています。益も害もマヤカシであり、自分を含めたすべてのものにあるので、すべてのものはマヤカシであり空であるという真実を知れば、自分自身の額に空を発見します。

 

その後その人は、スワンプルン病院へ入院する機会はありません。何をするにも空が見える感覚でするので、その人にあるのは苦を生じさせる類の妄想ではなく、身についたブッダの知性です。その人は、怠ることなく行動した多くの阿羅漢の方々のように、どんな苦を生じさせることもなく、成すべきことを成すことができます。それは、究極の空は涅槃であり、涅槃は究極の幸福だからです。

 

 

 


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