心を空にするには

(ターン・プッタタートの解説の記録)

 

 非常に役に立つ本は、本当のことを言えば、常に変化しています。つまり、ある時はこれがふさわしいですが、高く、あるいは広くしたいと思えば、他の本でなければなりません。更に、時には同時代にもっと良い話があることもありますが、みなさんは関心をもって読みません。それが良くても、非常にふさわしくても、初めは気に入らないこともあります。その気で探したのではなく、その気になって読んだのではないからです。

 それがふさわしい話と知らないので、ごたごたすることがありすぎるので、後になって気づいて、飛びついて読みます。これは「良く観察しなければならない。希望と合わないものも読んで、何十回も復習しなければならない」という意味です。

 あちこち旅行をして心をすっきりさせるのは、確かに効果はありますが、初歩的な解決でしかなく、そのうえ多大な散財と労力を使います。結局、簡単で休まず投資をしなければならないので、不確かな結果しかなく、やはり厄介なことと言えます。

 だから心を空(から)にする必要、あるいは何処にいても、どこへ行く時でも、空を発見する、あるいは自分で心を静める役に立つ方法を準備しておく必要があります。それが仏タンマを学ぶ目的、あるいは身につけた聖財であるタンマがあることです。

 それでは、特に「心の仕事は焦ってはならない」あるいは「急いではならない」ということについて考えてみます。急げば急ぐほど心は働ける状態ではなくなってしまうからです。特に心を空にすること、あるいは心を鎮めることに関しては、固い決心をすればするほど、心は空でなくなります。

 前に話したことがある禅の話のように、ある若者が刀鍛冶に弟子入りすると、師匠から「一人前になるには八年くらい掛かる」と言われます。若者は、非常に勤勉に一所懸命努力したらどのくらいで終わりますかと質問すると、師匠は「三十年」と答えます。若者は、父が高齢でいつ死ぬか分からないので、出来るだけ早く一人前になって、父が死ぬ前に立派な腕を見せてやりたいと説明すると、それなら七十年以上必要だと言われます。若者は仕方なく仕事をしていくと、師匠の方便により、結局二、三年のうちに立派な刀匠になったという話です。

 この話の秘訣は、若者が七十年と聞いた時、すっかり焦りを捨て、渇望のない平常心になり、精神的なものである技術を受け継ぐ無欲な心になれた所にあります。焦りがないので、彼の神経は正常でふさわしく、いろいろな機知が、本人も気づかぬうちに若者を目標へ到達させました。

 みなさんは何を急いでいるのでしょうか。答えは、静かさへ急いでいます。静かさを求めるなら、急がなければならないことはありません。急げば急ぐほど遠くなり、望めば望むほど得難くなり、鎮めようとすればするほど心は乱れます。急がなければ急がないほど早くなり、欲しがらなければ欲しがらないほど得られ、鎮めようとしなければ自然に静まります。これが、心を鎮める正しい急ぎ方です。これと違えば煮えたぎること、暗闇、堂々廻り、心配が増えることです。

 正しく言えば、心を鎮めるより空にする方が簡単です。心を鎮めても自分があれば、うっかりすると心が乱れます。心をすっかり空にしてしまえば、確実に問題は無くなります。それが本当の静かさです。ブッダも『世界を空と見なさい。そうすれば静かになる』(モッカラーチャの話)と言われてますよ。だから空の形で話す方が楽です。

 究極の空は涅槃なので、空について話すのはくだらない話ではありません。空には寿命もなく、大きさもなく、部分に分けることができない一塊のものです。だから寿命があるなら永遠であり、大きさがあるなら無限ですが、それは本当に空なので、寿命があるとか大きさがあると言うことはできません。善の部分とか悪の部分とか、罪や徳、正や負、男や女、益や害などと分けることもできません。すべての対のものはマヤカシにすぎず、本当は空です。

 私たちはこの対の空が見えないから、普遍の空が見えません。空が見えないから、それらの対であるものに実体があると執着します。だから選ぶために可愛いもの憎たらしいものがあり、大混乱させます。何度生まれ変わっても終わりません。これが、自分、あるいは自分のものとして、取で五蘊に執着することです。場合によって体か心のどちらかを休まず混乱させ、焦慮させ、心配させ、駆け回らせます。

 考える心は空でない心。空の心は考えない心。空の心は空に達した心。あるいは空の中で瓦解した心です。考えがないので空と一体です。あるのは空だけで、心はありません。心があるなら、空こそが真に心と呼べるものです。それ以外はニセ物の心です。心は「考える」だけではありません。しかし私たちははそれを心と呼び、考えと呼ばなければなりません。

 考えることは空が現れなくし、空に到達できなくさせています。考えるのを止めるだけで、すべてが途端に空になります。精神的にも肉体的にも、つまり具体的にも抽象的にも混乱がなく、イライラがなく、心配がなく、駆け回ることもありません。残っているのは空だけです。述べたようにすべてのものは空なので、空は心と一体になり、このように空、空、空と、苦が消滅することを忘れないでください。

 どうすれば心が空と一体になれるでしょうか。つまり考えないでしょうか。答えは一つしかありません。一番ハッキリしているのは、愚かにも対のものと見たり、対のものがあると考えたり、対である物のどちらか一つの意味に執着し、その結果あれが欲しい、こうしたい、そうなりたい、あるいは、あれは欲しくない、そうしたくない、こうなりたくないというような欲を生じさせないでください。

 常に人の鼻先を引っ張っている対は、善−悪、徳−罪、損−得です。こいつらはすべてマヤカシ、あるいは空だと明らかに見えれば、心は考えるのを止め、考えがなくなって空に到達し、とたんに普遍である空と一体になります。それで誰が心配するでしょうか。誰が駆け回るでしょうか。

 サティがある時はいつでも、見ても対と見ないだけで十分です。欲しい物はなく、行く所もなく、来るものもありません。

 対である物がすべてマヤカシなら、空もすべての物に見ることができます。その空を幾つかの部分に、あるいは物に分けることは絶対にできません。だから対である物や部分は空ではなく、望ましいものでもありません。本当はマヤカシあるいは悪魔です。

 本当の悪魔は、対であるものです。人が言っているようなものではありません。それらの悪魔など何も恐ろしくありません。いつでも私たちの鼻先を引っ張って熱くさせ、駆け回らせる対のものこそ、非常に恐ろしい悪魔です。悪魔も神も同時に瓦解させ、あるいは空にしてしまわなければなりません。

 このように何も対と見なけれれば、あるいは対のものに意味があると見なければ、愛も憎しみも生じません。「欲しい」も「欲しくない」も生じないので、考えも生まれません。あるのは代わりに生じるブッダの知性だけです。つまり空が見え、空に到達し、普遍の空と一体になる知性です。

 この知性で呼吸をし、ご飯を食べ、いろんなことをすれば、苦を知らずに何でもすることができます。しても、意味はしないのと同じだからです。つまり空です。だからブッダは、『究極の空は涅槃である』と強調しています。

 この欺瞞は、すべて自分自身や自分の行動、財産・名誉・妻子など自分のものの中にあり、どこの誰にも負けません。だから被っている帽子を探して歩く人ほど愚かでなければ、自分自身に空を発見することができます。これが髪の毛が山を隠すことです。

 中には「何もかもが空、あるいはマヤカシなら、自分は落っこちてしまい何も掴まるものがない」と言うほど愚かな人がいて、怖くて空について学びません。あるいは何にも執着しない空の実践をしません。

 被っている帽子に気づくように、どうか気づいてください。自分も同じように空なのに、何がそのように落っこちて掴まる物がないのでしょうか。空になってしまえば、空と一体の心しかありません。そしてその後苦は残っていません。これでも不満とは、どこまで愚かに対のものを手に入れ、対のものである身分になって執着するのが好きなのでしょうか。

 本当にあるのは普遍の空だけです。普遍の空だけが本当にあります。それ以外は、マヤカシのマヤカシにすぎません。つまり、本物つまり空を隠すために作られた同じマヤカシである無明のマヤカシです。

 考え(妄想)はどんな考えも、いま述べたマヤカシです。何だって心を支配している考えに惚れることがあるでしょうか。熱くさせ、混乱させ、心配させ、そして駆け回らされるばかりで、終わりがありません。まだ惚れていたいのなら、空に惚れる方が安全で良いです。究極の空は涅槃なので、本当の空に惚れれば、急いでマヤカシ、つまり対であるすべてのものを捨てて、空と一体になります。

 感情、五蘊、四大種、六処、世界、そして何もかもすべてマヤカシなので、執着するべきではないし、執着する方法もありません。執着があるなら、同じマヤカシに執着しているマヤカシです。「執着するものが何もない。する事が何もない。そしてしたことから受け取る結果もなくなる」と恐れ、そして、掴まる物がないので際限もなく落下すると恐れている人は、どれほど哀れでしょうか。急いで空を知り、空と一体になり、残るのは究極の空、つまり涅槃だけにすれば十分です。

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 円で表した空の図は、その意味を正しく理解しなければなりません。中が空洞の円という意味ではありません。終わりのない物という意味です。終わりのない絵を描きたいと思えば、どう描くかという問題が生まれます。白い紙に線を引いて、一枚では足りないので、紙を継ぎ足しても足りない、と理解できません。そこで考えを変えなければならず、円周を何百、何千、何万回周っても限度がない、終わりがないという意味で、最終的には円で表すことになります。

 だから円で表された空の図を見たら、どの方向にも終わりがない、という意味だと思わなければなりません。丸い線だけに囚われてはいけません。終わりのない円周で、終わりがないことを表しています。

 しかし円の中に何かを書き込んで、それから取り出して空にしたければ、次のような決まりにしなければなりません。

 五蘊ついて言えば、五蘊全部はただの円でなければなりません。そしてただの円、あるいは五蘊全部には、執着させるものが詰まっています。特に善−悪、徳−罪、損−得などの正反対の対のものです。この対のものはぎゅうぎゅう詰めになって、恐ろしいほどひしめき合っています。全部抜き出し、掴み出して空にしてしまえば、残るのは純粋な五蘊だけで、妄想もなく、カンマもなく、カンマの結果を受け取ることもありません。

つまり煩悩もなく、苦もありません。これを空と言います。この空も、終わりがないという意味と同じ円で表します。

 重要なことは、初めに空でない円の空でないことを見て、あらゆる角度から良く理解し、それからそれを壊して、何もない、終わりがない、大きさもない、分けることもできないという意味の、空の円だけにすることです。

 二つの円(左の円はただの円。右の円は対極図)をお見せするのは、これは何の形なのか、空でない円は何故このように描くのか、なぜ目があるのか、なぜ一方は白く、もう一方は黒いのか、なぜ円の中にあるのか、煩悩、カンマ、カンマの報い、縁起の意味はどこにあるのか、まだ他にもいろいろありますが、考えれば考えるほど見え、そして最後には空に、つまりどうしたら左の円になるのか、分からないからです。

次の問に答えることは、この問題を早く良く理解する助けになります。

 1.なぜ純粋な五蘊は空と同じなのか。

 2.どのように純粋な五蘊と普遍の空を一体にすることができるか。

 3.空でない方は、なぜ二つの形、あるいは二匹の生き物でできているのか。

   なぜ一つが白で、もう一つが黒なのか。

   なぜ頭と尾が逆さに組み合っているのか。

   なぜこんなにピッタリと噛み合っているのか。

   なぜ追い駆けっこをしているのか。

   なぜ一部の隙間もなく円に収まっているのか。

   なぜ目があるのか。そしてなぜ目がギラギラしているのか。

 4.一匹が死んだら、もう一匹は生きていられるか。

 5.砂一粒、枯れ葉一枚にもこの二匹がいるなら、その意味は何か。

 6.地獄もこの二匹、極楽も同じこの二匹なのは、どうしてか。

 7.善や名声名誉もこの二匹であり、どうして分けることができないのか。

 8.輪廻や縁起の状態もこの二匹、特に「考えること」はこの二匹の状態である。。どうしたら考えを止めて枯死させ、空にすることができるか。

 9.右の円と比較したとき、左の円には何があるのか。

10.二つの円はどちらも同じだけ終わりがない。ではどこが違うか。

 


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